一
登茲樓以四
兮、聊暇日以銷憂。覽斯宇之
而寡仇。挾 處兮、實顯敞 之 浦兮、倚曲沮之長洲。背
臨皐隰之沃流。北彌陶牧、西接昭丘。 衍之廣陸兮、
雖信美而非吾土兮、曾何足以少留。(茲の樓に登り以て四 實蔽野、黍稷盈疇。
さん。斯の宇の處る け し、
し。寡 たぐひすくな を覽るに、實に顯 の 浦を挾み、曲沮の長洲に倚る。 はさ
皐隰の沃流に臨む。北のかた陶牧に彌り、西のかた昭 わた 衍の
。) )(1 實野を蔽い、黍稷疇に盈つ。信に美しと雖も吾が うね
後の建安年
(一九六年~二二〇年)に活
した「建安七 の部分である。この作品で詠われる 子」の一人、王粲(字は仲宣)の代表作「登樓賦」の第一段
の湖北省) 容は、詩人が荊州(現 頃の憂愁を慰めようとするも、その美しい風景によって、故 樓に登り、眺望する風景の美しさを愛でて、日
である中原から
した土地にいることを思い知らされ、
の思いを一
び②作品の制作された場 ところでこの「登樓賦」については、①制作の年代、およ かき立てられるというものである。
をめぐって、今日の關
び先行論文においても一 書およ 行の 本論ではこのような問題を踏まえつつも、從來必ずしも先 問題がある。 した見解には到っていないという
論文が明確に言
てみたい。それは作品中に詠われている荊州(現在の湖北・ してこなかった問題について考察し
王粲「登樓賦」に見える風土へのまなざし
文學における南北中國の對立軸の出現
谷孝之
湖南一帶)の風土への關心についてである。より
體 作品中に核として には、
かれている土地の風土が、詩人の
ような意義を持っているのかについても考えてみたい。 いるかということである。さらにそれが中國文學史上、どの 思いを媒介するライトモティーフとしてどのように機能して の
二
まずこの作品の①制作の年代、について
べておきたい。
では、「登樓賦」は、王粲が後
を 末期の中國北方の戰亂 け、當時荊州に據っていた群雄の一人、劉表のもとで不 作中において年代推測の手がかりとなる記 を託っていた頃の作とする。
以下の部分である。 は、第二段の 紛濁而
兮、漫逾紀
以迄今。(紛濁に
ひて 漫として紀 し、
を逾ゑ以て今に迄る。) いた
作中の「逾紀=十二年を
ぎる」という記
粲が荊州の劉表のもとに身を寄せたのが初 に從えば、王
である以上、制作年代は建安十一年(二〇五)以後、そして 四年(一九三) 繼いだ劉 建安十三年、曹操が荊州に攻め入り、劉表の後を(二〇八)
を
伏させる以
の期
とするのが
ただしこの見解に對しては である。 (2)
「《登樓賦》測年」(『文學 がある。例えば兪紹初氏の め入り、襄陽にて劉 の制作年代を、賦」建安十三年、曹操が荊州に攻(二〇八) 』二〇〇三年第二期)では、「登樓 を 伏させ、さらに南下して
劉備を當陽で 走する 粲が曹操の 破し、江陵を占領した後の作品、すなわち王 兪氏はその根據として、以下の理由をあげている。 下に加わった直後のこととする。
(a)第三段の「惟日
之逾邁兮、俟河
其未極。冀王
一 之
。(日 兮、假高衢而聘力。懼匏瓜之徒懸兮、畏井渫之莫 の逾邁を惟ひ、河 おも
くは王冀 こひねがは を俟てど其れ未だ極まらず。 ま
の一たび
の部分は、天下統一の事業に貢獻して功業を 」を。匏瓜の徒に懸かるを懼れ、井渫のらう莫きを畏る) らぎ、高衢を假りて力を聘せんこと
という願 !げたい
と、移り行く
"
ではないかという不安が入り交じった複雜な感 の中でその機會を失うの
現したものであり、このような感 #を表
#を
$く
は、劉表のもとにいた時期よりも、天下統一の實現が %況として 中國詩文論叢第二十七集
24
可能だった曹操の
(b) い。 下に加わった時期の方がふさわし いう記 (洛に赴きし陸機に逢ひ、粲家を離れし王粲に見ゆ)」と まみ 信「哀江南賦」には「逢赴洛之陸機、見離家之王 があり、
信はここで江陵から西魏に
句を れてきた梁の人士たちを陸機や王粲に喩えている。對 行さ している
句「赴洛之陸機」の容が、
滅 が
容も、それに對應して王粲が劉 んだことを指している以上、後句「離家之王粲」の し陸機が晉に出仕しなおした時に「赴洛」詩を詠
から曹操に
る。 て、「登樓賦」を詠んだことを指すと考えるべきであ を變え
だが筆
兪氏は「登樓賦」の は兪氏の見解に贊同しない。まず(a)について、
たいとする願 題を、王粲の天下統一の事業に貢獻し とそれが
しいと考える。しかしこの解釋は、第三段の一部の記 これらの氣持ちは曹操に仕えた直後のものとするのがふさわ げられないことへの不安と見なし、
に だけ
目したもので、部
證
に見た場合決定
な る。それは「登樓賦」のより重 點があ な
題ともいうべき、
への思いというものを輕
はすでに中國北方の大部分を したものだからである。當時曹操 仕えることになれば、故 定しており、もし王粲が彼に のとなっている。兪氏の の中原に歸ることは實現可能なも えるようになった後に作られたとすると、作中の「悲舊 張するように、この賦が曹操に仕
壅 之
兮、涕
而弗禁。(
に壅 せらるるを悲しみ、涕は なみだ
ほしいままに
」のようなちて禁ぜず)
への痛切な感
が えるとは考えにくい。また、兪氏が こり
げる第三段の記
ても、天下統一の事業に貢獻したいとする願 にし 天下への意志がなく、王粲を冷 曹操に仕える時にくのがふさわしいとは言えない。むしろ は、必ずしも を !していた劉表のもとでは志
げることが
"
だからこそ、一
#それへの願
立てられるという見方も充分 をかき せよ、(a)の り立つからである。いずれに 張は根據とするには不十分といえる。
見離家之王粲」の箇 $に(b)についてだが、「哀江南賦」の「逢赴洛之陸機、
%は、對句を
している以上、
二句で對應する容が 後の べられていることは
&
がその對應する容というのは、果たして兪氏の 'いない。だ な「新しい べるよう うか。むしろ二句の 君に仕えるようになったこと」を指すのであろ
&で共
(する容は、故
を離れ
)境の
王粲「登楼賦」に見える風土へのまなざし(住谷)
地に身を置くことになった詩人の境
がしっくりくる。そしてこれらの語は、兪氏が を表していると見る方
赴く」「家を離れる」といった一般 限定した意味に解釋しなくとも、文中でごく素直に「洛陽に べるような ことができ、むしろその方が自然であろう。やはり(b)の な動作として解釋する
張も、決定
以上の理由から、この賦の制作年代については、やはり な根據とはなり得ていない。
に從い建安十一年から十三年までの
あろう。 (3) と考えるのが穩當で
三
に②作品の制作された場について、先行する
てみたい。王粲が「登樓賦」を詠んだ場 を見 か。この問題については、すでに古來幾つかの地が候補に はどこであったの
げられ、現在でもその是非をめぐって議論があるが、以下の三
が な候補地となっている。
[Ⅰ]當陽
:『文
』卷十一「登樓賦」李善
: 之『荊州記』曰:當陽縣 弘
[Ⅱ]江陵 樓、王仲宣登之而作賦。
:同上『文
』五臣
:(劉)良曰:『魏 志』云:王粲、山陽高
侍中。時董卓作亂、仲宣 人。少而聰惠有大才、仕爲
荊州依劉表、
登江陵
樓、因懷歸而此作、
其 危懼之
[Ⅲ]麥 也。
:『水經
』卷三十二:沮水又南逕楚昭王
東對麥 。
(「沮水」是也。)……又南逕麥 、故王仲宣之賦「登樓」云:「西接昭丘」
隅、臨 東、王仲宣登其東南 水而賦之曰:「夾
之
洲」是也。(「 浦、倚曲沮之長 水」)
また
年、秦
文氏の「
開仲宣登樓
史 登樓址 霧―對王粲 考證」(『荊門職業技
〇〇二年一 !學院學報』第十七卷第一期、二
")では、これら
とはやや
#なる
ている。 を提出し
[Ⅳ]
$代の當陽
:筆
%&爲
王粲登 ,
縣 確實是當陽
樓
但是 ,
$代 當陽縣
樓
在今天 ,
荊門市境 ',
與玉陽
(相去甚
)。
以上のように「登樓賦」が制作されたとする場
は に關して
があるが、いずれの
においても、王粲がこの作品で 中國詩文論叢第二十七集
26
詠っているのは、江陵以北、沮水・
ある、という點で共 水以南の地のどこかで している。これら
ては、すでに從來、作品中で の是非をめぐっ 記 係から、さまざまな議論がなされている。だが、文學作品の 寫されている地名との位置關 や 寫において、實際の
故これら 映されるとは限らないのは、ごく常識なことである。それ 景や地理が必ずしも正確に反 制作場 根據は見あたらないと考える。ここではとりあえず、あえて の是非については、私見では決定ともいえる を特定せず、「登樓賦」の中で
南は江陵から、北は沮水・ かれている土地は、
水一帶のまでのどこかという
度に留めておくことにする (4)。
四
第三
で べたように、「登樓賦」が
しては、南は江陵から、北は沮水・ いている土地に關 るのが 水のあたりにあると見 當然、そこに居を 根據地としていたのは、それよりも北の襄陽であり、王粲も る。それは、當時王粲が身を寄せていた群雄の一人、劉表が 當である。しかしその場合、一つ奇妙な問題が生じ
實際、『文 えていたと考えるのが自然だからである。
』李善
に引用される劉宋の
弘之『荊州記』 にも、以下のような記
がある。
弘之『荊州記』曰:襄陽
誄云:振冠南嶽、(曹植) 里方山、山北際河水、山下有王仲宣(王粲)宅。故東阿王 西南有徐元直宅。其西北八 纓 川。集本
或爲
、
( 也。
弘之の『荊州記』に曰く、「襄陽
故有り。に東阿王の誄に云ふ『冠を南嶽に振るひ、纓を 其の西北八里に方山あり、山北は河水に際し、山下に王仲宣の宅 の西南に徐元直の宅有り。
川に
ぐ』と。『集』本『
』を或ひは『
』と爲るは つく
り也。」) (5)
このような記
劉表の事跡を見る限り、王粲が居を や『三國志』等の史書に見える王粲および
付 だが、それにもかかわらず、「登樓賦」の作中では、襄陽 あったと見ていいだろう。 えていたのは、襄陽で の土地の
寫は く見られない。それどころか、
第一段で列 の
されている「
( らかな
」「陶牧りくねった沮水)(陶朱公こと范蠡の 水)」「曲沮(曲が 王の陵 」「昭丘)(楚の昭 る土地である。第二段の「憑軒檻以遙 )」など、詠われているのはいずれも襄陽より南にあ
兮、向北風而開襟。
原
而極目兮、敝
荊
山
之
高
岑
(軒檻に憑りて以て遙かに
み、
王粲「登楼賦」に見える風土へのまなざし(住谷)
北風に向かひて襟を開く。
原 に敝はる)」の記 くして目を極むれば、荊山の高岑 山を北に も、第一段と同樣に、襄陽より南にある荊 むという
寫が見られ、詩人が「登樓賦」の
それならば、どうして王粲は「登樓賦」の に襄陽以南の土地を想定しているのは明らかである。 臺 の地に設定したのかという疑問が當然 臺を襄陽以南
きよう。故より
く
した土地という點では、長らく
條件は當てはまり、理屈から言えば、ここを 居していた襄陽でも 臺に を
題とした作品を詠ったとしても、何ら不
實際には、この「登樓賦」という作品では襄陽付 合はない。しかし
一切 の風景は
寫されていない。
に身を置いている風土と、作品中に 妙な分裂が生じている。それはとりもなおさず、王粲が實際 かれているはずの風土に關して奇
裂にほかならない。王粲は かれている風土との分 風土ではなく、それより南方の風土を 學作品として表現する際、なぜ實際に身を置いている襄陽の の思いを「登樓賦」という文
「登樓賦」この理由として眞っ先に考えられるのは。の 下にそのことについて考えてみたい。 んだのだろうか。以 (6)
臺として想定されている土地の
史 な來 樓賦」の であろう。「登
臺である江陵から當陽あたりまでの湖北省南部一 帶は、ちょうど戰國時代の楚の國が
原を中心とした傳統 重なる地域であり、またそこは、『楚辭』という「北方の中 を置いた郢と(江陵)
中國の世界とは
た文學作品」がかつて作られた場 質な風土を背景にし
でもある。繰り
であろう。だが「登樓賦」という文學作品で るが、王粲が實際に身を置いていた土地は、おそらくは襄陽 しにな り南方の楚の地域を く土地を、よ 臺として設定すれば、讀
という古典 は『楚辭』
された文學作品を
そしてそこから中國北方とまったく 想することが容易となり、
なる風土という
メージを喚 いイ
に目睹する「生」の光景よりも、古典の中で熟 ナマ することが可能になる。當時の文人には、現實
された の方が、はるかにリアルで、信 念 する江 た。王粲はそのことを良く理解していたために、自らが流寓 するに足る確實なものであっ (襄陽)の風土を寫生
に直敍するのではなく、熟 實際に自らが そのように考えれば、王粲が「登樓賦」を詠むにあたって、 された『楚辭』の風土に重ね合わせたのである。 (7)
ら當陽一帶の地域を 居した襄陽ではなく、より南方である江陵か り、中國北方とは 臺に想定したのもうなずけよう。つま
なる風土への
た、流離の 和感によってもたらされ きや
の思いを表現しようとするには、王粲 中國詩文論叢第二十七集
28
が實際に居
していた襄陽という土地の風土を寫生
に いていた襄陽という土地は文學 するだけでは不十分だったということである。王粲が身を置 寫
イメージが未だ
らず、『楚辭』の文學作品が持つ、「傳統 熟してお
中國の世界とは
質の長江中流域の風土」というイメージを借りることでしか、中國北方とは完
に 方の楚の できなかったのである。言い換えれば、襄陽よりもさらに南 質な風土というものを表現することが という中國北方と が置かれた長江中流域の風土、すなわち『楚辭』
風土への想を利用することによって初めて、 なる世界を背景にした文學作品を育んだ
身を置くことからもたらされる流離の 質な風土に きや
らかに詠いあげることが可能になったということである。 の思いを高
五
に王粲の「登樓賦」が、江陵や當陽一帶という長江中流域の風土を 臺として詠ったことには、文學史まず な意味があるといえるか。この點について考えてみたい。 にどのよう 意しなければならないのは、王粲と
似した境
よって作られ、一見すると「登樓賦」と共 に する
た文學作品が、王粲以 素を持っ
にも存在するということである。こ こではそのような例として、
の賈誼の「弔屈原文」と後 比較することで、「登樓賦」の特 の班彪の「北征賦」を取り上げ、これらと「登樓賦」とを
最初に取り上げる を明らかにしたい。
に流されたという境 身でありながら、讒言により長沙王の太傅として長江中流域 の賈誼は、王粲同樣に中國北方の出 序文に「誼爲長沙王太傅、 をもつ。さらに「弔屈原文」は、その
以謫去、意不自得、
爲賦以弔屈原。(誼は長沙王の太傅と爲り、 渡湘水、
意自ら得ず、湘水を渡るに に以て謫去せられ、
るように、長沙での三年 」とあび、賦を爲り以て屈原を弔ふ) つくとむら
の流謫の時期に書かれ、その
は、流謫された自らの不 容
を『楚辭』の作
身にこと寄せて詠ったものである。作品に詠われている「 とされる屈原の
境の地をさすらい、經世濟民の志と才能を
の きながらも、そ みが叶えられずにいる」という
以北という にも見えており、また寓居した長沙という地も、(長江以南と 素は、王粲の「登樓賦」
江中流域に位置している等、王粲の作品と共 いはあるものの)王粲が逗留した襄陽と同じく長
する
素を
げることができる。だが、このような共
する
と「弔屈原文」との 素を持ちながらも、「登樓賦」
には大きな相
がある。まず第一に
王粲「登楼賦」に見える風土へのまなざし(住谷)
に見える「
境への
和感とそれに觸發された
が後 の思い」
「弔屈原文」での にはまったく見られないという點である。
放逐、作離騷賦。其 題は、序文の「屈原、楚賢臣也。被讒 自投汨羅而死。誼 篇曰、已矣哉。國無人兮、莫我知也。
もて放逐せられ、離騷の賦を作る。其の 傷之、因自喩(屈原、楚の賢臣なり。讒
國に人無く、我を知る莫し」と。に自ら汨羅に投じて死す。誼 篇に曰く、「已ぬる哉。
ひて之を傷み、因りて自らを喩ふ)」の言
くまで流謫された自身の不 にあるように、あ が正當に の思いであり、才能を持つ人物 價されないことに對する
一方の「登樓賦」は、作品中の隨 懣である。
から、
里と
ているという詩人の悲愴な思いがにじみ出ている。その され 體 な箇
として、「憑軒檻以遙
兮、向北風而開襟。
原
而極目兮、敝荊山之高岑。路逶
而修迥兮、川
悲舊 漾而濟深。
之壅
兮、涕
而弗禁。」のような風景
尼父之在陳兮、有歸歟之歎 寫や、「昔 。鍾儀幽而楚奏兮、
吟。人 顯而越 同於懷土兮、豈窮
而
「歸らんか」の歎 心。(昔尼父の陳に在りて、
有り、鍾儀幽はれて楚奏し、 とら
人す。 顯れて越吟 あらは
の土を懷かしむに同じ、豈に窮
して心を
のような去の事例との 」にせんや)
!比などをすぐに列
"することがで の きるし、作中でも大きな分量を占めている。だが「弔屈原文」
題である「懷才不
うと、作 」や「經世濟民」の思いの方はとい の憂愁の
#因として確かに存在するが、作品
において、第三段の「惟日 $體
%之逾邁兮、俟河
&其未極。冀王 '之一 兮、假高衢而聘力。懼匏瓜之徒懸兮、畏井渫之莫
の部分に現れるにぎず、分量 (」
に見ても、「
原同樣、君側に侍した氣 ている。さらに言えば、賈誼の場合は、自らがなぞらえた屈 (8) いを綴った部分に比べて遙かに少なく目立たないものとなっ 」への思 驗こそが、懷才不 に反して、讒言を蒙って流謫されたのであり、その挫折の體 )の高官でありながら、自らの意志
の思いの正統
れば、またその江 れに對し、王粲の場合は、そのような意味での高官でもなけ な根據となっている。こ
*+ ,も、戰亂に
自らの意志によるものであった。懷才不 い立てられたとはいえ、
二第により重 同日に談ずることは出來ないのである。 の思いを、賈誼と
#な相
としては、そうした
介するライトモティーフともいうべき「風土の の思いを媒 いから來る 境への
賈誼の「弔屈原文」では、 和感」の有無である。
實は、作中ではわずかに序文の 境の地に流謫されたという事 -頭「誼爲長沙
.
太傅王、 .
以 中國詩文論叢第二十七集 30
謫去
」に
に、 べられているにすぎず、その上「登樓賦」のよう 境の土地に關する
體 な の文學作品には、風土を軸に南北を對比 見られない。こうした事實からは、賈誼自身またはこの時代 寫というものはまったく
に理解するという
點は熟していなかったといえる。
た するに、賈誼の生き の時代、中國北方の世界にのみ文明(文
・政治)が
在していた
の覺醒が十分に 況の中では、風土の多樣性・多元性について 一方、王粲の「登樓賦」では、「挾 む段階にはなかったのである。
之 之長洲……」のような風景の 浦兮、倚曲沮 寫が、
體 にかつ
のとして實感できるよう列 眞のも されている。讀み手はこれを
して、詩人の
いている
境への
される 和感やそれによって媒介
の思いが、作品
體を奏でる
賈誼「弔屈原文」の兩 とに氣づかされるであろう。このように、王粲「登樓賦」と となっているこ は、いずれも辭賦の型式を
似たような境 用し、
下で書かれた作品でありながら、「風土の
い對する
容には、大きな相 和感の有無」という點で、作品で詠われている
が生じているのである。
!に班彪の「北征賦」を見てみたい。こちらは李善の題下
"によると、「流別論曰、更始時、班彪
#$涼州、發長安、 至安定、作北征賦。(『流別論』に曰く、「更始(
%)の時、班彪
$を涼州に
とあり、作 #け、長安を發し、安定に至り、『北征賦』を作る」と)」 の班彪が王莽末期以來の戰亂を
#け、涼州に
#
$したときに作られた作品である。「戰亂によって
里を
&
われた」という點では、境
に共樓賦」 品中には、先に取り上げた賈誼の「弔屈原文」以上に、「登 は王粲とよく似ている。また作 する 素が見られる。例えば、「登
'隧而遙
兮、聊須臾以婆娑。(
'隧に登りて遙かに
「常に似ている上、 」の部分は、王粲の「登樓賦」での歌い出しと非て婆娑せん) み、聊か須臾もて以 (高 )而
*覽、
莽蕩、迥千里而無家。風 山谷之嵯峨。野蕭條以 +發以漂遙兮、谷水灌以揚波……
,
子
悲其故
,
心愴
-以傷懷。撫長劍而
.息
泣漣 ,
(高 /而霑衣。
)に (りて のぼ
*覽し、山谷の嵯峨たるを
て莽蕩たり、迥か千里にして家無し。風 はる む。野は蕭條として以 水灌ぎて以て波を揚ぐ…… +發して以て漂遙し、谷 ,子其の故
を悲しみ、心愴
て以て懷を傷ましむ)」では、高きに登って遙かを おもひ -とし 見える風景 んだ先に 寫、
境をさすらう
0人の孤獨感と
などが綴られており、「登樓賦」との の思い より一 1似性は「弔屈原文」
2顯 だが「北征賦」にもやはり「登樓賦」とは大きな相 3といえよう。 (9)
點が
王粲「登楼賦」に見える風土へのまなざし(住谷)
存在する。それは「弔屈原文」と同樣、「
詠われる作 る關心」というものが存在しないことである。「北征賦」に なる風土に對す の の思いや
きは、
いられた
という に は、なるほど作 因するものである。また、そこに見える蕭條たる風景
して の孤獨と寄る邊なさを暗示する心象風景と も、班彪が き出されている。だが結局のところ、安定という土地 て「 つの土地の風土はほぼ同質のものといっていいだろう。從っ れてきた長安と同じく中國北方に位置して、二 なる風土に對する關心」などというものは、そもそも が こりようがないのである。それにもかかわらず、「北征賦」
圍の目睹の光景に
感性を示すのは、風土の
るのではなく、自らの行客という非日常 質性によ な境 たはずの風土(中國北方)にも が、見慣れ これに對して王粲の「登樓賦」はどうであろう。まず、作 べきなのである。 に反應した結果と理解す の境
についていえば、
にも べているように、作
荊州逗留はすでに十數年の長きに の
んでおり、彼が
の く流離
というものは、班彪のような
いられた
らされた によってもた や、
ない。それは荊州という故 人としての寄る邊なさから來るものでは
と なる風土を持つ土地への
和感から來るものである。そのことは、第一段の「雖信美而非吾土
では故 兮、曾何足以少留」の文からも明らかであろう。ここ
と
なる風土への
のとして提示されている。作品中で「覽斯宇之 和感が、はっきり自覺されたも
處兮、實顯
敞
而寡仇
」として
寫される美しい風景が、かえって
くこの「風土への 思いをかき立ててしまうという結果をもたらすのは、まさし の 和感」への自覺によって、初めて
るからにほかならない ( 立す 原文」や班彪「北征賦」のように、作 このように見てくると、王粲の「登樓賦」は、賈誼「弔屈 。 )
の境
や修辭の上で
似する先行作品を持ちながらも、「風土の
いからくる
和感」を自覺することによって、それまでの文學作品にない、新しい表現領域を開拓した作品といえる。先行作品との
は實は限定されたものであり、むしろその大きな 似 質性が
明したことによって、この「登樓賦」の文學史に占める獨自の新しさが確
されるのである。
*この場合、なぜ王粲の「登樓賦」に至って、風土性というものが文學
たのかという疑問が生まれよう。これはおそらく後 な題材として意識されることが可能になっ
末 中國詩文論叢第二十七集
32
の 巾の亂と、その後の群雄
據の戰亂によって中原が 廢し、王粲ら多くの中國北方の士人たちが南方に
したことに直接の理由があると考えられる。さらにこの時代、
はなく、後 先であった南方の地は、すでに未開の僻地で 生活を營みうる の南方開發によって、それなりに安定した た ( 線(フロンティア)にまで長してい る條件がそろって初めて、王粲ら文人は、中國北方とは 。このように生活の場として長く逗留することができ )
く うものを意識することが可能になった。それまでの傳統 質の、獨立した對立軸として中國南方の風土とい な 方とは の地は、ここに至って初めて、中原を中心とする中國北 念では、「中國」という文明の域外であった南方 質でありながらも、「中國」の世界を
もう一つの極を形したのである。 する
最後に結論を
べる。王粲は「登樓賦」の中で、作
際に寄寓していた襄陽の風景を が實 らに南の江陵から當陽までの湖北省南部一帶の風景を くのではなく、それよりさ
とで、「中國北方とは くこ を取り なる南方の楚の地」というイメージ んだ。そのことによって「登樓賦」は、「
質な風 土に對する
識をモティーフとして、作 和感」への自覺という、それまでになかった意
の や流離の
という、中國文學史上畫期 きを表現する あくまで「傳統 に『楚辭』に代表される南方の風土は、從來の文學意識では、 な作品となったのである。さら 初めて中國文明圈の中に取り かったが、この「登樓賦」によって、これら南方の風土は、 中國とは別の世界」としか見なされていな
まれ、從來の文學
方という、新たな文學 心であった中國北方に對し、その對立軸ともいうべき中國南 風土の中 ある。 風土を形することにもなったので
【
(1)『文 】
』卷十一より。以下、李善
五臣 については胡克家本を、
については四部叢刊初
『六臣註文
(2)『三國志』本傳の記事によると、王粲は十七 』を底本とする。
は初 のもとに身を寄せたとあり、王粲の生年から考えて、その年 の時に劉表
(3)この賦の制作年代を完 四年(一九三)ということになる。
後 に劉表寄寓時のものとするのは、
する制作場
の問題と關
が必 して考えた場合、一定の留保 つての荊州時代を回想して作ったという場合も、可能性は低 であろう。後年曹操に仕えるようになった王粲が、か
王粲「登楼賦」に見える風土へのまなざし(住谷)
いながらも考えられるからである。ただし、假に實際の制作時期がそうだったとしても、「登樓賦」には、
いうものが の思いと 粲が實感していたものであるのは しがたく存在しており、それは劉表寄寓時に王
(4)なお筆 いないだろう。
自身は、「登樓賦」で
際の制作場と同じであるとする必 寫されている土地が、實 このことについては第四 はないと考えている。
で後
(5)『文 する。
』卷五十六收の曹子建(植)「王仲宣誄」李善
(6)これについては、十數年の荊州逗留時期に、王粲が一時 り。 よ
に襄陽を離れて江陵や當陽のあたりに身を置くことがあり、偶々そのような
寓居していたはずの襄陽ではなく、なぜそのような短期 考えられなくはない。だが假にそうだとしても、王粲が普段 況で「登樓賦」が書かれたという可能性も
の 行で經
したに
(7)言い換えるならば、王粲が生きた後 ができなかったのかという疑問は殘るであろう。 ぎない場でしか「登樓賦」を詠むこと
實際に目にしている風景を に至っていなかった、とも言えよう。中國文學史において、 が實際に目睹する風景を文學作品の中で寫生するような段階 末においては、詩人 體 に寫生するという
實に生まれるのは、おそらく劉宋の謝靈 況が確
(8)もちろん「登樓賦」と「弔屈原文」において、 なければならないであろう。 の山水詩まで待た
の有無 という相
が生じているのは、兩
の 境に寓居した時
王粲は十數年 が、
まり(『史記』『 という長きに渡ったのに對し、賈誼は三年あ 書』本傳より)という比較
短い期
で
わっているという點や、作られた時期も、王粲が荊州寓居のかなり遲い段階であるのに對し、賈誼は流謫されてそれほど
(9)王粲の「登樓賦」と班彪の「北征賦」の自然 いえよう。 もない頃に作られたという點が作用しているのも大きいと
寫に關する
似性については、すでに伊
とその傳統』創文 正文「王粲詩論」(『建安詩人
( 、二〇〇二年)の中で指摘されている。
哀詩」第二首でも、 10)「登樓賦」と同じく、王粲の荊州寓居の時代を詠った「七
頭で「荊蠻非我
何爲久滯淫、
蠻は我が 。(荊
はり「登樓賦」同樣に、 に非ず、何爲れぞ久しく滯淫せん)」とあり、や
たらされる 境の風土に長く身を置くことでも
( れている。 和感というものが、自覺されたものとして表さ 裴松之が 11)王粲が逗留した荊州について言えば、『三國志』劉表傳で、
に引用する王粲の『
雄記』に「州界羣寇
表乃開立學官、 盡、
求儒士。使毋
之後定。(州界の羣寇 !・宋忠等撰五經章句、謂 に盡き、表乃ち學官を開立し、
く儒士を求む。毋
め、之を『後定』と謂ふ)」とあり、逗留する學 !・宋忠らをして『五經章句』を撰せし
ちが、學問を營めるほどの文 ・文人た
"
土壤までもが形
#されてい 中國詩文論叢第二十七集
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たことがうかがえる。
王粲「登楼賦」に見える風土へのまなざし(住谷)