松沢弘陽著「日本社会主義の思想」
著者 高橋 彦博
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会労働研究
巻 20
号 3・4
ページ 65‑87
発行年 1974‑03‑20
URL http://doi.org/10.15002/00006688
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《書評》 松沢弘陽若『日本社会主義の思想』
ける、以上のような、マルクス主義の機朧分析的一而性を補う方向性をもつ新しい視座と力法による試圦としてつづけられてきたものであった。少なくとも杁は、松沢氏の滞作『Ⅱ本社会主毅の思想』を、以上のような研究励向の中起位価づけて受けとめたいと思う。ところで、丸山氏の超国家主義のイデオwギーに側する分斫は八天皇制ファシズム論Vを八Ⅱ木ソァシズム論vと希釈して
、、、、、、とらえ、マルクス主施的機柵分析の冊帖門川を川光点として評価
、、するのではなく、マルクス主義的機櫛分析の否定の上に戦後の新しい政治学の確立を試ゑる志向性を含むものであった。井上昭九・宇佐美誠次郎『危機におけるⅡ木溢水主義の椛造』C九五一年)が「天皇制は、職樅としてば…・・・絶対主義が勝ち、機能としてはファシズムが勝った存在である」としていたように、八天皇制ファシズム論Vこそ日本のファシズムに関するマルクス主義的分析の帰結点であるとともに、その八天皇制フ了シズム論Vにおいては、機櫛分析を補う視座として機能分析の
六五
高橘彦博
惑評松沢弘陽藩『日本社会主義の思想』
方法が新しく示されていたのである。だが、丸山氏などによる
、、八日木ファシズム論Vは八天皇制ファシズム論Vを補うものとしてではなく、むしろ、マルクス主義的機構分析との一定の姫、、薩を強調するあまり、むしろ、マルクス主義的機柵分析の否定
、者として自己を位舩づける力向眺を強く示していたというのが私の把狐である。松沢氏の今回の蒋作に接するにあたって、私がなによりも注目すべき問題点と考えるのは、かつての八天皇制ファシズム論Vと八Ⅱ木ファシズム論Vとの関係のⅢ題を、松沢氏は、私にあらためて脈秘させてくれるか否かであり、松沢氏における日本社会主義迦動の思想史的分析がこのような川麺にどのような解答を与えているであろうかということである。だが、その解鱒を見いだすためには、ひとまず、松沢氏の、叙祷な、透徹した、行間に思想的絡剛の跡の惨承出ている、赫右の論理突証の世界に入らなければならない。
二、明治社会主義論
叫治社会主栽というとぎ、われわれはそれを什川洲によって代表させてきた。幸徳秋水が論じられるときも、旧派鉄二が問題にされるときも、片山満との比較によって、あるいは片山満との関係づけによってその位幟が確定されてきたといえる。片山澱の労働純合への期待や都市社会主義への幻想が、いかなる過概を経てマルクス主義国家論に媒介された天皇制絶対主義椛力の認識へ進化するか、そこに伺木におけるマルクス主義の発 一ハーハ
腿の歴史があり、日本における労働迎励と社会主義巡鋤の逆すじがある、というのが大力の場合のいわゆる迎動史のとらえ方であったと思う。そのような片山満に代表させるこれまでの叫治社会主獲論に対し、松沢氏による明治社会主義誌はどのような新しい側題点を提起しているのであろうか。松沢氏は、川泊の社会主維新が「破川的なひろがり」をもつ存在であったことを指摘している(六頁)。この指摘がまず簸嬰であろう。皿治の社会主義者の多椴性の認識と、その多様性の解凹が、戒ちに切論の社会主雅巡励の分裂の原因を川らかにする作莱に結びつくからである。しかし、多様性の根源的解明への過紐は長い。長い過程を短絡させる意味で、方法論から入ることにしたい。松沢氏は、川端の社会主雑満の敢刷枇造を解明するさいに、その力法諭的視点が社会主雅渚のハキャリァVに注Ⅱするものであることを明示している(二頁)。運動史において指導者へのハキャリァVへの注側は当然な方法といえるかもしれない。理解の仕方によってば、八キャリアV概念を叩なる維雌としてではなく、むしろ行動様式に近い八三こ○三一{CVを意味するものととらえることができるのであろうが、松沢氏の掛合瞼あくまで経歴という意味のハキャリァVになっている。松沢氏煙比較的伽単な八キャリアVの分析によって、多様なⅢ浴の社会主雑満を、「前世代」「小心世代」「後世代」の三肘に分解して見せている。この三厩において「中心世代」とされている
のは徳富麓花、高野扉太郎、木下尚江、堺利彦、剛岡微震など である。さらに松沢氏は、この「中心世代」の特徴を「幼少年
期に自由民権論の影辨を強く受けた」点に求めている(一六瓦で松沢氏によれば「幼少年期に、巾民権通勤を紙駁した『明沿の子供』世代こそ、後にも几るように、社会主義を『しっかりと抱いて鵬た』『中心人物』の主力を供給した」とされているのである(五瓦)。今Ⅱ、われわれは、七○年代におけるⅡ木の畝新統一戦線を雁難する視野をもち、その視座から、日本における半世紀余の社会運動の膝史をふりかえるわけである。その際、なによりも側につくのは、近代史の端緒の時期における自由民権迎動の存在であり、自由民権運動とその後の社会運動の連続性の問題ではなかろうか。たとえば、一九二○年代における前衛党の結成も、今日では、「自由民権運動以来の革命的民主主義的伝統の、、八、、、正しい継承者」としてなされたものである}」とが実践運動の場において確認されるにいたっているのであるs日本共廉党の
五○年』参照。この視点感〃Ⅱ木共産党の四○年〃〃Ⅲ木共
産党の四五年〃では明確にされていなかった)。結党時から「人民主樅」をめざしていた伝統をもつ前衛党の存在によってはじめて、今Ⅱ、七○年代の球新統一戦線への歴馳が肌らかにきれているといえる。その意味からも、明治の社会主義渚とn
m民権迎動とのかかわりを巡究する視点の今日的意義は大きく松沢氏の問題提起のもつ意味は政要といえよう。書評松沢弘陽箸『日本社会主義の思想』 ところで、松沢氏が、明治の社会主義者の重層椛造を解明する方法論として明らかにしているのは指導者のハキャリアvへの注旧であった。政桁史なり運動史への思想史的接近の糾導観念としてのキャリアはいかなる意味内容をもつものなのであろうか。たとえば、思想史的方法を意味する分析川共としてわれわれは八[3日何。(月[命月月。Vなる概念を知っている。八淋拠枠組Vとしようが八関係づけの枠Vとしようが、それはいわば、集団ないし個人の行動の背溌にあるものであり、状況への対応を目ざす価値意識とでもいうべきものであった。のちに見るように、松沢氏同身、六○年代初頭において、日本政治史への思想史的接近の方法論として、一度は八準拠枠組Vの視点を確立していたのである。また、ゑるべき思想史的接近の業紙をいくつか辿って承れば、たとえばかつて佐藤誠三郎氏と三谷太一郎氏が、ともに八引照基準Vなる濟導観念によりつつ、あるいは川路聖護論を展開し、あるいは原敬・田中義一論の形による転換期政治過狸の分析を試ゑた例があった(藤原一ほか細『近代Ⅱ木の政治指導』一九六五年参照)。松沢氏のハキャリァV概念は思想史の方法の八準拠枠組V概念といかなる関係に立つものなのであろうか。Ⅱ本の政淵史への思想史的接近についていえば、八螂拠枠組V概念のつぎに注Hされたのはおなじく栂熱観念としての八樅力衝動Vであった。八権力衝動Vとは八螂拠枠組Vの政沿史一般への一つの具体化の試承にほかならなかった。八柿力衝
六七
謝評松沢弘腸著『日木社会主雑の思想』
鋤Vとは、たとえばマイネプヶのいうクラートスであり、肛接的にはG・リッターの『樵力の悪魔性』からの援用による分析鰯念であった。萩原廷寿氏によって陸奥宗光が「権力と理念を総ぷ政論技術の視点」においてとらえられ、三谷太一郎氏によって原敬が「課題(ザッ○への献身」においてとらえられたとき、それらのキイ・リードは柳川二郎氏が羅末維新の雌命家の八樅力衡助Vとして折定した「正気論」に対応するものとして位極づけられている(神島二郎編『権力の思想』一九六五年、参照)。そして、松沢氏も、この八権力衡吻Vの凋灘観念によって伊藤Ⅳ文における「イン。ハースナルなザハリッヒな態度」を川り当てているのであった(同上譜、参照)。松沢氏は、今回の耕作において例沿の社会主義満の八樅力衝動Vとして「立志」を拙定し、「立志」によって「天地の公逝」や「民権の大義」といった普遍主義的な理念への志向性と、同時に存在する「蚊い国家関心」とを巧承に説明している。だが一力でハキャリァVを川越にし、他力で八椛力街吻Vを川皿にするその複眼的な視点の柵造は明らかにされているとはいえない。さらに松沢氏は、明治の社会主義の理論構造を「進化」の韮木発想において解明しているのであるが(五○頁)、「進化」論的発想を川題にするイデオ、ギー分析の視点と「立志」の潜在的志向性を剛麺にするより深胴な次元における思考分析の視点との紅象合わせ力も、明文として、あるいは行Ⅲにおいて、何等かの形で説明されているとはいえない。これらの点に、あ 六八
えていえば方法論的不川快さが残る。もっとも、方法論的不明快さというのは私の読糸の浅さのゆえであり、松沢氏嶢明論の社会主義渚の多様性を肌らかにするため、多様な諸側耐に照叫をあてる必要上、多様な方法を組躯合わせて使川したのであったかもしれない。そうであるとすれば、松沢氏において、方法論ば埖一の視点として確立されていてそこから対象の特徴的な側而が論理的に轆然と引き川されるという柵成が採川されているのではなく、まず、対象の特性認識についての仮説設定があり、その仮説を立証するため対象に適合的な方法が松沢氏の雅木的な力法論的川巡愈識の砿化形態として梁川ざれ駆使されるという椛成が採川されていることになる。それにもせよ、松沢氏は、明端の社会主雅を社会主義務の作倣においてとらえ、まずハキャリァvによる分賦を行ない、つ
ぎにその社会主義渚迷に共通する「進化」論的社会主義の理論
水準を明らかにした。さらに松沢氏は、「社会問題」認識から社会主雄理論への転換過侃におけ為佃人主雑的典索の欠雅化を
指摘し、「早発的な阿際的『正統病』」(五三瓦)の発生を指摘している。それとともに、「立志」にまつわる「利益」の追求から出発しながら、その「利益」が日本の早熟街本主義における特脆性への収飲や、迦動の一部におけるアナーキーな収束へ
の方向をとるのではなく、いかにして「公的」秩序へ収束する方向をとるにいたるかがとくに主要な側心対象として追究ざれ
分折されている。明桁の社会韮汲新の耽肘的な柵近にもかかわらず》明治の社会主維満に尖皿する「進化」論的社会主雄があり、その「進化」論的社会主義が「欧米社会主義の一般理論の翻案」的な色彩の濃いものであったとして、問題なのは「これが理解・受溶され行動に具体化される過程にば、彼らの育まれた日本の思想的文化的伝統さらに彼らの『時代の精神』によって規定されたより逃肘的な川狗の発想や思考様式…が働き、そこにこの『尖端』・部分とより拙川的な『魂』の川のズレの川翅が生じる可能仙がある」(派六瓦)という点であった。ここで術摘されている「ズレの川舶」は、肌に爽川と荻川との川の「ズレ」を意味するだけではなく、「『魂』の次元」における多様桃をも意味しこの「ズレの問題」が明沿の社会主義が大きく分裂せざるをえない要因であったとされているのである。ここでようやく、脳沢氏によって肌沿社会主義の多様性の根源的解明がなされているのである。平氏社を論じ、幸徳秋水を論じ、汁川淋を論じるとき、松沢氏は、既成の明沿社会主義鮒や幸徳諭・叶川論に対してば一締だに与えていない。これまでの研究成果が史料として利川されることはあっても論究過程の要因として位置づけられていみ例はまったく見受けられない。そこに松沢氏の視点と方法についての自負をうかがうことができるし、またそれだけの成果をわれわれとしても確認できる。たとえば幸徳と片山が対比されて論じられ、その対比は一般的な把掘でありながら、幸徳と片山
桝祁松沢弘鵬著『Ⅱ木社会主雑の思想』 における「独川的な魂」の刎扶がこれまでの巡動史的把蝿をこえる思想史的深化を示すものとなっている。朋胎社会主義における議会主義と武技行動主義への分化の根底にあるのは伯木対象として「原姑化した儒教」をもつ「志士仁人」的社会主義であった(六○頁)。幸徳は「志士仁人」的社会主義者の代表的人物であった。これに対し、特異なのは片山である。片山も「志士に人」をいわないわけではなかったが、片山の「川畑の飛洲」をなしたのは弓弥伽』の観念」であった(七六瓦)。什川における労働券社会への志向が、片山の勿仙満紐繊紬と椰巾社会主義論を生承だしていゐのであった。とくに都市社会主雅論において、什山が国家と都市を峻別する視点をもっていた点が評価されなくてはならないとされている(八九頁)。片山の都市社会主義論への注目はほかにもなされている例が無いわけではないが、それは都市化現象に対応する現代マルクス主義の視点からする那市社会主競論抑評価としてであって、松沢氏の吻合におけるような、多元的発川を秘めた社会主毅の班絢枇築に対する評価という視点からではないことに波意しておく必要がある。こうして、呪治社会主義における多圃椛造ば、「立志」に伴う「利益」が「進化」論的社会主義の理論枠組の中で、いかにして、一方ではアナーキーの方向へ、他方では「公」的秩序の力向へ収欽されていったかという問題点において鮮明されあ。そこに肌桁社会主義の多川柵造における「ズレのⅢ題」を兇い
くしユノソ
謝評松沢弘陽著『Ⅱ木社会主義の思想』
だすことができるのであった。さらに、明浴社会主義の分裂の結末の主要囚を発見することができるのであった。一言つけ加えれば、幸徳の「自己利益追求のアナーキー収束」に片山の弓都市的公共の糀神』の次元」を対比させることに成功した松沢氏の方法論は、あえていえば八準拠枠組Vを柵導観念とする方法論を志向するものではあったが、突際には八権力衝鋤V概念の使川とか、イデオ戸ギー分析の痕跡に、思想史の方法としての不明快性、ないし多岐性を感じさせるものであった。そして、松沢氏の明治社会主獲論は六○年代後半の作品であり、したがって六○年代前半の他の論稿の方法論との時系列的述側が川題にされるべきであるが、以下ではその点を無視し、あく童で今回の耕作漣おける章別側迎における方法論の推移を問題にしていくことにしたい。
三、大正期労働述動の意識分析
一九一○年代Qようやく階級として形成されつつある日木の労働者階級の意識枇造の分析について、松沢氏は実に見本な手法を見せている。友愛会の総同盟への松化・戦馴化と前衛党の結成という図式的な把握で祇括されてきた大正デモクラシー状況における労働述吻であったが、その労働迦動の意識面における実態について、松沢氏は赤裸といえるほど内面的な分析を試ゑている。松沢氏庭よれば、一九一○年代の日本の労働渚階級の意識の 七○
世界の内実とは、「成功」熱であり、「温愉」への飢えであり、「自己卑下」であった。したがって、労働者の迎吻は、「川世主義」と「自覚と修鍵」を主内容とするものとなっていた二二九頁)。このような愈識状態にある労働者に対する社会主義、、理論の注入は、鰯動によっての蕊可能であった。社会主稚理論の擁込梁のトレーガーである「学校出の社会主義者」の「先駆」性を支える意識内溶も、「強烈な樅力街吻」であり「先物囲い的なエリーティズム」であったので、「怖緒から艇めた、言莱を自覚して使い、相手である労働譜との間に確尖なコミュニヶーシ劃ソを作り出すという主体性」は乏しかったのである(一五九瓦)。社会主義理論の注入はプ戸.ハガソダとして行なわれ、ラディヵリズムとしてのサンジカリズムを帰結したのであった。労働迦助の、この衝動主義的段階からの脱却を「理論」と「組織」によって企てるものこそ、マルクス主銭にほかならなかったC七五瓦)。松沢氏の、一九一○年代の労働者意識論は明確な方法論的自覚をもってなされている。松沢氏の方法論は、T・・ハースンズやR・マートンによるものであり、一意でいえばシメテム論である。松沢氏の大正川労働巡動の分析は、思想史的接近ではありながら先のⅢ満社会主鞭論と異なり、システム論的方法を採川し、八準拠枠組V設定の視点は必ずしも明確なものではない。松沢氏が榊築したシステム論的モデルとは、体制の価値体系が
韮軸に据えられ、その下属的価値体系の統合が社会に遍在する
不満の分布図に対応する形で展側されるとするものであって、明らかに一元的なものである。このシステムから、労働者の意識構造が「業縦原理」「身分原理」「共同体的価値体系」「都市的価値体系」の諸側面で浮彫にされたのであった。以下に、松沢
、、、氏の、木懇においては数少ない、方法論的川題意識を思わず吐麓したと受け取れる部分を紹介しておきたい。松沢氏のシステム論への価斜を充分に示す一節になっていると思われる。
「小論では体制統合という場における労働満の位脱と、その体制統合からの離脱とを考えるにあたって次のような仮説をたてている。すなわちの体制の価値体系の内容と存在形態、⑪その下層的価値体系の統合が、㈹体制の諸社会層にわたる社会的不満の分布配M1各社会周での不満の質と相対的な強さ、㈹不満に対する反応搬式、nそれに対する効果的なW統合力式を条件づけると券え、小鯛では、のとして梁縦脱班(「成功」〕身分原理1余体志向(「全体」のために「無私献身】及び価値体系のあいまい性、⑪として共同体的価仙体系と産業Ⅱ都市的価価体系の慢性的葛藤、に注側する。このような視角をとることによって、一般的に見られる、国民維済の再生魔櫛造における施業労働の位慨から面ちに体制統合に躯けるプ減レタリァートの政治的位随をも導く力法の制約を補えると考えるからである。」(一三九瓦)
杵評松沢弘賜鵜『Ⅱ木社会主義の思想』 松沢氏のシステム論的力法論において間題なのは、飾一に、そのシステムが体制的価値体系を基軸とする一元的なものとなっている点にある。なぜ、切論社会主義論において確認されたような、木社会主義の將遍的価値への献身という志向性がもう一木の対抗軸として設定されることがなかったのであろうか。鉱二に、跡一の点と側述するが、労働者の意識椛造の把握が、全体としてルサソティマソを近視する問題意識に撒かれている点である。労働満的脚覚、椛利意識の芽生えなどはな繊細旅のインデックスとして設定されることがない。その納采、松沢氏による一九一○年代のⅡ木の〃伽満のイメージは全体として、、、、卑屈であり狸雑である。松沢氏はそれが実怖であったというかもしれないが、松沢氏の意詞調査の蕊調としてのルサソティマソ麺視の棚題意識はやはり検討されるべきであると思う。M・ウェーバーがいうように、ル・サソティマンについての脂摘は雌力的な川題設定ではあったが、それですべての「神漉論」を解くことはできないのである。鍬三に、松沢氏の労働新意識の詞査力法の川越性は、マルクス主義との関係が不鮮明な点にある。松沢氏は、システム論的方法論を明示したとき、この方法によって「阿民綴済の再生産榊造における産業労働の位侭から広ちに体制統合におけるプロ
、、、レクリァートの政沿的位悩を導く力法の制約を補える」との考えを述べた(上記引川、傍点引川渚)。ところが、松沢氏は、ほとんど何時に、八階級闘争史的接近Vと八椛造Ⅱ機能的接
七一
撫評松沢弘陽著『Ⅱ木社会主義の思想』
近vとの対比において、「両者の一元的な『統巨やそれによる対象把握が可能であると考えそれを意図するものではない」としているのである(二四頁)。「補える」としながら「統一不可」というのは、明らかな矛盾ではなかろうか。ちな象に、松沢氏のいう八階級闘争史的接近Vというのは、一九一○年代の動向について「この時期の天皇制体制の雁史を『階級対立の腱朋』『荻本的矛隅の激化』などの『秤観法則』が『批徹』する過繩としてとらえ、この立場から労働巡鋤・社会主義思想の政治的意義を向く評価しようとする」ものである。また、八臓造Ⅱ機能的接近Vとは、「内部からの変赫がついに不可能であった天皇制体制の現実の帰結を直視して、体制統合が閉じた過礎として完緒するメカニズムを拙き川そうとし、労働運動や社会主義思想をもそのような場においてとらえようと誠ゑる。したがって労働迦吻についても、主としてそれが体制のカルチュァに溶洞され、また体制統合の政簸に意搬の内而までを把握される過蝿が注Ⅱされ、その政沿的意鍍の評価はより低くならざるをえない」とするものであったC○六頁)。この部分も、松沢氏が方法論を方法論として論述した部分の一つになっている。そして、松沢氏によれば、八階級闘争史的接近vの場合、研究史の成果として「説得力不足」であり、その原因ば「接近の視角と力法」にあるとされているのであった(同上)。松沢氏が採川している方法が八榊造Ⅱ機能的接近Vであることはいう 七二
までもない。八構造Ⅱ機能的接近Vの把握の中には、システム論、八準拠枠組V論等、イデオロギー分析と機構分析のもつ限界性を超克する意阿の方法論がすべて含まれているといえよう。そうであるとすれば、松沢氏は、システム論的方法がマルクス主義的方法の「制約を補える」とした見解をなぜ一貸させないのであろうか。わが国における八構造Ⅱ機能的接近Vは充
、、生史的に見ても、八附級川争史的接近Vを補うものとして位随づけられるべきものではなかったであろうか。さらに一言すれば、松沢氏は、「迎動が窓飢的な文諜溢料を溶易に残さない点、また残された文書には現実に機能した思想内容が現れにくい点、ほかならぬこの点に労働運動のⅡ本的特質の一つがあり、そのことが研究を制約すると考えられる」と述べているC○八頁)。そもそも、「文惑主義」とは、「非人間化」を特徴とする而僚制化に付随する形式的合理化の手段であったはずである。その文灘に「思想内群」が磯られていないということがどうして「Ⅱ木的特蘭」になるのであろうか。九山奥列氏は、n本の政沿の体猛を、「くうの政沿」という含意の無形のコミュニケーションに求め、研究者より政沿部記者の力が実情に詳しい、とした。それはそのとおりであろう。しかし、丸山氏のその指摘には、「市民的自由のないところに政治学はありえない」とする研究上の制約を強調する意識があり、そこでは、市民社会的状況の欠落が政治学不在の理巾として弁明されていた。九山氏のこの考えは、与えられた、山がなけれ
ぱ政治学はありえないとする発想であり、社会科学の批判科学としての性格はなぜか無視されることになる。そして、松沢氏の日本社会主義運動の「特質」の指摘と研究上の「制約」についての考え方の披歴も、丸山氏のものとまったく同質のものとなっているのである。しかし、日本の政治の体質が日本の政治の構造的分析を不可能とし、思想史的接近の有効性がそこに立証されるとするのであれば、今日の近代史・現代史に関する史料発掘状況は、そのような思想史的有効性を土台から濁すものとなっているといえよう。日本政治史への思想史的接近の出発点はともかく、その意義は、そのように伽雌に腿えさせられてよいものではなかったはずである。松沢氏の大祓期労働迎吻の意織分析の方法論は、システム論にほかならなかった。川添社会主競迎鋤の分析に几せた八準拠枠組Vへの志向はどこへ洲えたのであろうか。そもそも、松沢氏膳おいて、方法論としてのシステム論の採川は、方法論としての八準拠枠組v論といかなる関係におかれているのであろうか。その点を明らかにするためにも次の「Ⅱ本マルクス主義運動」の分析に入っていく必要がある。松沢氏はへ日木のコミューーストの思想構造の解明の方法論としても、システム論を採用しているのである。
四、日本社会主義の特質
松沢氏の今回の著作の圧巻部分住「日本マルクス主義運動」
書評松沢弘腸著『日本社会主義の思想』 の思想構造を解明した部分であるといえよう。松沢氏における
、、、、問題意識は、あくまで「日本社会主義」であり「日本マルクス主義」であった。”マルクス主義における思想と集団〃なる論稿は、六○月代の当初に発表されたときすでに、n本的「理論と実践の銃ごなる論理に思い切った分析のメスを入れ、そのことによって日木的コミューーストの特質を浮彫にしたものとして、われわれ(すなわち松沢氏のいう八磯級闘争史的接近Vの方法論を孫川するしのたち)に衝撃を与えた問題提起であった。「Ⅲ木マルクス主義巡勤」は、社会改良主義派(右翼社会民主主義派)や小川派における弓鍬Ⅲ気』的な災川表象」や「不
、、、、、、、安定な柵悠的一体化」を生糸川す非介皿眺の対価をなす〈Ⅱ理的
、な、ただし「班論伯仰」の叫想櫛造を背跳とする集団のダイナミクスとして特徴づけられている。「Ⅱ水マルクス主義迎励」には、社会改典派や中岡派には見ることのできない「盗意的主観から独立した社会認識の辨遍的な理論」があった(一八九頁)。その点が、「n本マルクス主義運動」における「集団統合と思想との機能的関連」の特徴点であったとされている。ところで、「社会認識の普遍的な理論」は、主体に癒若し特殊な人間関係の象において伝達可能な「体験知」や「苦労」とちがって、「容観化されてメディアにのり、思想の生糸手、持ち主を離れて自由に流通し、学習によって習得されることが可
、、、能」であった。それは、その意味で合理的なものであった。し
七三
宙評杁沢弘陽署『Ⅱ本社会主義の思想』
たがって、マルクス主簸は「商庇の忠誠を喚起し符る思想」であるとともに「窓観的に伝述可能な存在形態」をとっており、その結果、ヨ組織』の拡延能力」は絶大であったと松沢氏はいう。ここから、これまでの通史的記述には見ることのできなかった伏のような鋭い分析結果がもたらされることになる。すなちわ、まず、「Ⅱ木マルクス主維巡励」において「激しい卵腿のため成叺の流動率が商く、回一時点での巡動乳役者数は少ない」にもかかわらず、「新しく参加する新が不断に総いて『組、、、、、、、、、、、、、微』の純紘仙を保証し、延べ参加人側敗は意外の多数にのぼる」卒尖の折摘である。次に、「岐問の監視制度と楓悩的労務糯理とを誇った-そのため運動の他のグループには侵入不能だったI飛幹経営」に対しても、「日木マルクス主義運動」のも
、、、、つ「思想の伝播能力」の強さは、「そシ」で働く労働岩が思想の受癖力をもつ限りこの思想の影梛刀が投入することは阻止できない」のであり、その意味での「思想怨化」がしばしば「支配満川を恐怖」させたという珈突の折抽であるC九○’一九一瓦、仇戚引川我。風はここで、汁Ⅲ浴が一九一八年、亡命中のアメリカから非合法に『平民』紙を発行したとき、その節一六号の英文欄で文字どおりポルシェヴイズムの8.冨昶一・扇な性俗を論じていた事例を思い出さずにはいられない)。それにもかかわらず、「Ⅲ木マルクス主義巡動」においては「百・ハーセソト主渡」に兄られる「Ⅲ論主義的佃向」の存在が歴然としていた、と松沢氏はいう。松沢氏は西欧・合衆側共産 七四
党の大衆的前衛党の櫛造について、「コミソテルソが成立してから、人足戦線戦術を孫川するまでの期間の入党岩では、党の党外大衆なげのメディアに接触して、飼動のレベルで表現された党目的を認知した者は九七%にのぼっている」事実を瓶視する(この覗尖は○・造目・ロ県目、』ご;{いくgヨミミミ.ご蟹・に拠っている)。松沢瓜はいう。「この数値から予想されるように、共娠党への参加は必ずしもマルクス主義の理解・承認↓入党という内而の過秘を辿るものではなく、マルクス主義への忠誠や、共産党が示す政沿Ⅱ標への動磯以外の何6のかが誘凶となっている。」つまり、松沢氏によれば、「前衛政党が『大衆化』するため」には、前衛性を「譲歩」して「在来のカルチュァに妥協」する必要が生じ、そこに前衛党における「顕孜と悔教の分化と使いわけ」が生じるのであったC九二’一九三瓦)。大衆的前術兇についてのこの柵摘は、今Ⅲ的愈味をもつ指摘であるといえよう。とくに松沢氏が折摘している、大衆的前衛党が帰結する「複数のマルクス主義」が、「巡助内部での政治折郡の多元性がもたらす不利は、脂灘の一元化・組織の序列化が災現した場合に生じることが予想される航魔を帆殺して余りあった」と判断する組織路線の方向に結びついている点など、「n本マルクス主義運動」の七○年代における追究課皿になっているといえよう。だが、戦前のⅡ木共産党の場合、「梼教」がそのまま「顕教」化していた。「党の正式ないし実質上の機側紙は、理論の伝達
を役割とする『マルクス主義』や『党迷設渚』だけではなく、一見大衆的煽動紙ふうのものまで、その紙而には、むしろ先に見た欧米の共産党の場合には密教レベルに属する、長大で水準の高い原理論とそこから半ば演鐸的に展開される個々の戦術行動の指令が福湊」しているのである二九四頁)。この理由はなぜか。また、このことのもつ意味はどのようなものか。松沢氏は、その点を福本イズムの解明に求め、「理論と実践の銃この抓木イズム的把蝿を解川し、「共箙主義↓共嘘党組織↓党脂灘潴という『受肉の弁証法』の完成」に戦前の脚本共施党の思想構造の特質を見出している。マルクス主義における「理論と実践の統巨の論理構造は「認識と政策決定の技術論」であるとされているが、私もその
、、、、、、、とおりであると思う。と一」ろで、稲本イズムにおいては(戦前、、、、、、、、、、の日木のマルクス主義と一員っても同じである。なぜなら、松沢氏は「全過秘を通じて、楠木個人の政給的生命如何にかかわら
ず抓木イズム的思考は一微して『理論』と『組織』のあり方を
規定し続けている」としているのであるから。一九九瓦〕「皿論における認識命題と逝徳命題との一体化」がなされていた。マルクス主義は「単なる『社会科学』や『労働運動の理論と綱鎮』(レーニ乙という認識論・技術知」としてではなく、「厳しい実践倫理として受容」され、認識命題に道徳命題性が与えられ、その論理桃造が「理論と突践の続こ論にほかならなかった。「科学的社会主義」が「n山の王国」と結びつけられる書評松沢弘腸箸『日木社会主義の思想』 とき、「歴史主義の遊徳論」によって媒介されるのではなく、科学は、直接無媒介に信仰の「面ゴス」に化するという「n本マルクス主義の『不幸な運命』(加藤正ピがあったのである(二○七頁)。松沢氏が挙げている典型的一事例と、それに関する松沢氏のコメントを紹介しておきたい。
9ルクスⅡレーーーズムを研究するに当って我上学究の徒を未完成のまま実践にかりたてるものは皿論と実践の弁証法的統一に側する学説である。マルキシズムは……批判的に理解し実践的に立証する..…・琉命的理論なくして革命的行動は有り得ないという命題は(1,本では)マルクスⅡレーーーズムに依って武菱せる人間にあっては(l理論は)革命的行動に依って発展させられるものであると云ふ風に解釈ざるに至り、『理論から実践へ』の〆阿1ガンは『実践から実践へ』と云ふ〆匝Iガンに苑腿するに至った。この理論こそ肢も多くのインテリゲンチャ1をして革命的行動にかり立てているものであると恩ふ到合左傾学生生徒の手記』第三郷、珈例七九。木書二○八頁。括弧内松沢氏)
「つまり日本の『理論と実践の統一』論においては、真理は既に教典の中に与えられている。したがって、真理を把握するために学習は必要ではあるが、それの糸では不十分であり、理論内容を尖賎することが不可欠だと主張されるけれど
七五
こうして理論による組織化は述成されたが、その「組織」とは、信仰の「ロゴス」と化した理論の実体化であり、その意味で「紅繊」は日木共産党を代称する固有名詞として使われた。Ⅱ木的な「理論と突践の統この論皿は、「知らんがた必に傭ぜん」を生家だすとともに「教会の外に救いたし」の状況をもたらした(二二一一頁)。党且の盗絡要件としての「百・ハーセント主義」は、裏返していえば党員の「百.ハーセソト」の「把握の重視」にほかならず、「共産主義↓共産党組織↓共産党指導譜」という「受肉の弁証法」の成立をもたらした。いいかえれば、これは「。枚瑠』化において欧米の共産党に一歩先んじた」ことを意味した。だが、その「一枚岩」の成立過紐につい 書評松沢弘陽著『日本社会主義の思想』
も、この場介突践が必要とされるのは、学習した理論の検証やそこにはない新しい真理の発見のためではない。……真理は学習した教典の中に存在するがその『木質』的精髄は『インテリ的』『客観主義的』た学習の象ではとうていえられない。それを『体得』するためには、理論内容の真理性を信じて疑わず、『碓信をもって』『先づ尖賎する』ことが必要不可欠であり、実践という行為を通じての蕊この真理を『身を以て……体現』しうるというのである。先に述べた理論の『ロ
、、、、、、ゴス化』の指摘にならって一」の命題の構造を『知らんがため
、、、に信ず』に緬似しても必ずしも失当ではないであろう。」(一一○九瓦、併点引川粉) 七六
て、松沢氏は、「家父災主義」「小火主義」「権威主義」等の「側の心性一般」の指摘にとどまることなく、「マルクス主義『理論』の機能様式」としての「人間の『理論』へのかかわり方」の問題を提起しているのである(二一四頁)。日木の共産党が.枚岩」化で欧米の共産党に一歩先んじた結果、n本の共産党は「その代価を支払わればならなかった」と松沢氏はいう。その「代価」とは何か?松沢氏は「前衛政党の崩壊」であったとしている。松沢氏によれば「前衛政党の崩壊は必ずしも、権力の弾圧それ自体、『極左偏向』による『大衆からの孤立』それn体だけから生じたのではなかった」のである(二二七瓦)。「ザハリヒな権限の序列にかわって人柵的川仙序列が、群観主義的な机織全体のⅡ標に対する忠誠にかわって、直属上級者の意志に対する無限定の忠誠が現われる」ような前衛政党は、「強固な全人格的結合の連鎖」にほかならず、「盟約共同体」とでも呼ばれるべきものであった。「服約共同体」としての前衛政党において「政箙の災施l修正l新しい政雄決定という、政簸と汎尖状況とのフィード・バックあるいは政簸の術嚥性」は成立しなかった。また、「この前術政党の場合、政簸の実施過径では組織の抱く政雛のヴィジ翼ソを状況におしつけるの象で、政簸の実際の効果を点検することを通じて状況を学習し、孜簸を修正する能力を欠いている」のであった(二一九、二二六、二二七頁)。これはまさに前衛党の機能喪失であり川喚現象にほかならなかった。松沢氏の前衛党自己崩壊
論は、結果述任の倫理による前衛党の戦争澁征追究の視点よりさらに即物的な視点からする、機能喪失と構造的内部崩壊の必然性の指摘であるだけに、前衛党にとってきわめて深刻な問題提起として受け収められるべき内溶をもっていると理解すべきである。そして、ここでまた、松沢氏の力法論を問題にすれば「共産主義↓共産党組織↓党指灘者」という「受肉の弁証法」の脂摘は、一つの肌硴な凶式の提示であり、その愈味で戦前の日本共産党の行吻様式をシステム化してとらえたものと凡紋すことができる。しかし、水釆のマルクス主義における「理論と実践の
、、統一」の論理がもつ「認識と政策決定の技術論」としての均衡
、、機能はそ》」では見失われる。「理論」の信仰の「ロゴス化」と、「組織」の偶像化は「受肉の弁証法」を内実とする日本的「理論と実践の統この論理に「政餓と塊災状況」とのフィード・バック機能を与えることばなかったのである。松沢氏は、戦前のⅡ木共施党に均衡機脂を喪失したシステムを几ることによって前衛党の自己川壊の内部的要因を鋭く扶り出したのであった。ところで、松沢氏の以上のような意味におけるシステム論的方法の問題点というべき点は、松沢氏におけるシステムとしてのモデル設定の背後に潜む研究者の問題意識としての八準拠枠組Vの存在である。八受肉の弁証法Vが生染川される価値意識の状況が松沢氏によっていかに把蝿されているかではなく、受
謝評松沢弘陽著『n本社会主義の思想』
げらに拠るルlおるの党のもシそい現究あ肉 さな対枠・ていか解にuと、〆のる実者つの せいす組私らてが肌対上しとテ際・解個た弁 て。るVのれ八IMjはしのても」、、そ明人の証 いあ実は談てl]わ、てよ’:「すば研のののか法 たえ感、象い的れ松恥う認る一究構た八をを だそ的五、かる合な沢部なさとつ渚図め準こりI くう反○、らか理け氏を私れ、ののはの拠こら
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「一」と新しく述べる迄もなく、この『命令絶対服従』の『民主災権制』組繊では、すべての政簸は、どこか『上の力』の
七七
「こうして祓接に接触する少数新の側に生じた、那突認識の不一致や突行の上での過訊に対する不満が、相手は、染M全休に対し、史にマルクス主毅の旭組そのものに対し、奥切っているのではないかという疑念を悲き起し、それぞれに、n己の忠誠と硴統性とを砿侭するメソパーの間の疑心賊児が述釧反応的に雄川の全体に伝搬する。姫川を支える『班論』のモラリズム化の極……弧い擬雄力は洲慨して梁川は実質上胸、、、、、、、、、、、、、、、壌状態となる。それは『スターリン体制』終焉前夜の各国共
、、、、、、産党の『総点検』にあるいはさらに中世教会末期の異端審問にも通じる、教義への忠誠によって結合され、『組織の教義』へのコンブオーミテイの強化によって維持される集団に侍方の病理の末期症状といえよう。」(二二九五、勝点引川者) 撫梛松沢弘陽著『川本社会主戦の思想』
『えらい人』によって決定され、Ⅵ接の上級者を通じてかえられるものとして存在する。そしてザハリヒな組織規律からして命令が受容されるのではなく、『えらい人』が真理の『体現』者であって(党『はまちがうはずがない』というのは党員、さらにシソ.〈の間にひろがった確信だった)、命令に服従するという行為それ、身が『プⅥレクリァ道徳』として価値を持つのだから、命令に対する受沸皮はきわめて商い。」(二二○瓦。これは小なる戦前の共施党についての分断的記述であったであろうか?I引川満) 七八
ここには剛らかな五○年代共産党に対する批判意識を読糸と
、、、ろ)」とができる。戦前の日本共産党の不能なシステムの解明は、五○年代共産党への批判を八準拠枠組Vとするものであった点をここで確認しておきたい。なぜその確認が必要か。承は松沢氏による「受肉の弁証法」の論理展開に藤田省三氏による「受肉の弁証法」の論理を対応させて承る必要を感じる。藤川氏は「維新の輸神」を、併珊的価倣への献身と、迦励における敗北にもかかわらず将珊的価倣が社会へ浸潤していく「受肉」の過腿に見いだした。その上で藤川氏は「維新の柵抑」の継氷渚をⅡ木の政沿史の上で桃蝋する姿勢を示したのであるs維新の糀神』一九六七年、参照)。松沢氏も、「Ⅱ木マルクス主義迦励」に蒋氾的価仙への接近としての「社会科学」他を見いだしていたC八九画)。それにもかかわらず、Ⅱ木のマルクス主毅渚の粁遮的価仇への献身鳶評価する間脳意識は松沢氏において八地拠枠机Vとされることがなかった。松沢氏における戦
、、、前のⅡ木共廠党の不能なシメ》プムの解明は、あくまで、Ⅱ木の
、、、マルクス主義新の右り微に対する突き放した批判意識というあ
、る個性的な、それだけに一面的な川題意識を八準拠枠組Vとすることにより成り立つものであった。松沢氏に対しては、藤田氏との比較において、その一面的な問題意識性をはっきりと指摘できるように思う。松沢氏は、戦前のⅡ木共産党のもつ特徴を不能なシステムにおいてとらえた。それはまことに鋭い分析であった。松沢氏
は、さらに、その不能なシステムを沸きⅢすⅡ木のコミュニストの八準拠枠組Vを明確にすべきであった。シメテム論と八準拠枠組Vの論理構造からいってそれは当然なされるぺき作業であった。あるいはM・ウェーバーにおける理念皿とニーストの論理巡閲からいってそういえるのである。しかし、松沢氏は、「Ⅲ木マルクス主義運動」のエートスの間脳については、「これをすべての真理を『道』1存在にして当為-と意識する日本の原哲学の呪縛の結果と考えても大過はないだろう」(二○七瓦)という狐度にしか分析していないのである。そして「Ⅲ木社会主義辿吻」の八耶拠枠紅Vのかわりに示したのが(というより露呈させたのが)松沢氏自身の、すなわち分析満、身の戦後・スクーリニズム段階における、あるいは日本の五○年代における家父長的共産党への厳しい批判意識であった。しかも、松沢氏において、研究者仙人の八地拠枠組Vとそこから他玖川された枇逝桃測としてのシステムはそれなりに一つの世界を作りあげて光紡してしまい、研究譜仙人の八耶拠枠組Vが検証されるチャネルは見いだされないままに終っている。松沢氏における八日的合理性Vはそのまま八整合合理性Vに転化される価向性を示しているといえるのである。
五、日本における民主社会主義の潮流
n本の労働運動へQ木格的な思想史的接近の鎧初の記念すぺき業縦として、しかもその論稿が発表されて以来今日に至る
撚評松沢弘陽著『Ⅱ木社会主義の思想』 まで、容易に乗り越えることを許さない砿永をもった業縦として、労働運動史なり現代史なりを専攻するものにとって注Ⅱされてきた松沢氏の論稿が一九六○年に発表された〃天息制体制における労働通勤リーダーシップの諸頬型〃であった。この論脇はついに未完成のまま木謝の”Ⅱ木の労働組合主毅〃を柵成している。松沢氏の側題提起は、一見、これまで評価されることのなかったⅡ木労働迎動の右派部分、とくに両足末広によって代表される右翼社会民主主毅満の湘流、その桁導醜念としての「伽全なる労働紐合主維」を商く評価するものでああかに受け取れる論述を伴っている。たとえば松沢氏はいう。。仙全な労働組合主義』と社会民主主義を標初する指郡満たちは、自己のおかれた立場を、八方から包川され、しかも組織の内部にもそれと通じかねない異分子をかかえた孤立の状況として意識したのであった。このような、己認識は、少なくとも、マルクス主雄のがわの彼らに対する『タラ幹』『労仙汀僚』といったイメージとは、かなりずれていることが川らかである。……マルクス主義は、労働巡動新が求めるもののうちの何ものかを几ぬいてそれを実現することができず、逆に司古労人』タイプの指導者達は、マルクス主義がとらえなかったものをとらえることによって、ラディカルまでをふくめた組織化に成功するのである。……この過程を指滋老が支配胴の『飴と鞭』に脅え懐柔され、『直接的買収』と『取引』して『大衆を売渡す』過繩として否定しさること、それは彼ら『ダラ幹』に『本質的』た知的
七九
書評松沢弘陽箸『Ⅱ本社会主義の思想』
無能力、道徳的低劣のゆえだとすることだけでは問題の意味の十分な解明はできないであろう。」(二四八’二四九頁)これは、いわゆるイデオwギー批判的な迎勤史接近の方法についての揃烈な批判である。ところで、Ⅱ木労働運動における右翼的潮流の評価は、松沢氏以外にも、たとえば渡部徹氏などによってなされてきたことはよく知られているとおりである。しかし、松沢氏の評価の力法と渡部氏の評価の力法との間には多少の違いがあるように思われる。渡部氏は戦前の総同盟を評価する場合、評価する立場自体を「健全なる隊働組合主義」にはじめから埋没させてしまっていたのであるが(この点については、拙稿〃「実践的労働瓢合主義」の形成〃『社会労働研究』第一九巻一・二号参照〕松沢氏の場合は一応は「健全なる労働組合主義」を一つの思惟微式として突き放して評価し、何時に見据えていく姿勢を失っていない。したがって、結論としてば、松沢氏の「健全なる労働組合主義」論は、内在化の方法による、それだけにもっとも辛辣な、批判の要素を含む評価となっているのである。さらに松沢氏の場合、日本の労働運動の右派的潮流の評価の視点として、雌に西尾末広的右翼社民(「現災主義巻」たち)を視野におさめるだけではなく、蝋山政近・猜水正近など、民主社会主義の理念の提唱者(松沢氏のいう「人格的自由主義の系譜をひくもの」たち)をも視野におさめている点に特徴がある。未完のお論文〃天皇制体制下における労働運動リーダーシ 八○
ヅプの諸類型〃は「共同研究・転向」における民主社会主義論によって補完されているのである。ただし、内容的には、未完の詔論文は未完のまま、民主社会主義論に示される安易な価値意識の縢呈に短絡されていると凡るぺざであるかもしれない(この点、後述)。したがって、以下においては、松沢氏による右翼社民的潮流の分析と民主社会主義的潮流の分析とを、松沢氏が同一の視点から述究しているものとして把握し、その分冊結果と方法論の展開状況についてコメントすることにするが、両者の分析に含まれる一一ユァソスにも注Ⅱすることにしたい。耐尼末広に代表されるⅡ木のお典礼会凡主主義の忠考様式を、松沢氏は卑俗な「維験主義」にほかならない「現実主義」としてとらえている。Ⅱ木的「現実主義」についての松沢氏の論証内群は、いまさら紹介する必要のないほどよく知られているものと思われるが、簡単に要約しておこう。松沢氏によれば、マルクス主義の認識論の特徴は「演緯的な発想の傾向がいちじるしかった」ものとされている。それはそのとおりであろう。松沢氏は、マルクス主義の認識論が「未来↓現在の滅鐸」であるとともに「大状況の厭念↓小状況の概念の淡鐸」であることを折摘した上で、その滅練的な論理が「多分に価値づけの方向でもあった」点に問題点を認めている(二五二’二五三頁)。そこから日本的「理論と実践の統この論理が生まれてくることを松沢氏がⅢ題にしているのであったことは先に見たとおりである。松沢氏によれば、日本の右翼社会民主主義者の
思考槻式で評価すぺきメリットとなっているのは、このようなマルクス主義者の演鐸論に対し「経験的現実主義」を対置した点にあるのであった。松沢氏はいう。司経験的呪尖主義者』の語紮の小で肢も賦繁に川いられ、かつ蛾も多義的なのは体験という涛葉である」(二五五瓦)「『苦労人』の『炎ぎ体験の叡郷』は彼らが『プルジ餌ワ教汀と五十歩百歩の範鴫畑一主義』と非難したマルクス主義者の知誠lそれは『教秘』による『理論闘争』Ⅱ『階級意識注入』の所産であったIに幾つかの面で優っていた。」(二五七瓦)だが、Ⅱ水の「現災主維」は「締験韮雑」と呼ぶにはあまりにも卑併なものでしかなかった。第一次分裂直後の日本労働組合総同肌の教育方針は「理論は労働者の経験と判断を整餓し合
、、、、、、、理化する婆共に過ぎない」としていたのである(俳点引川者)。西尾末広は「如何なる理論も経験に依って修正され得るものであり、理論は鰍虹しなければならぬが理論を間定せしむるのは危険である」と練り返し弧洲していたのである。そこで松沢氏はいう。Ⅱ本の「現実主義」は、理論を「要具」としてしか位置づけず、理論を「要具」として採用するか否かは「体験知」に適合するか否かによって決定され、「限られた『経験』をこえる班論の固有の意味」に気づくことばなかった、と(二六一瓦)。プラグマティズムにおける「近共主義」においてさえ、デューイの「探究の理論」の場合として松沢氏は検討しているので
書評松沢弘陽箸『日本社会主義の思想』 あるが、そこには「共体的・個性的・実在的な判断と抽象的。、L、、、、、、普遍的・非実在的な理論との間に存在する緊張関係が強調さ、れ、相互の連続的な移行は否定される」(併点引川渚)のであった。松沢氏はこう確認した上で「われわれの『紙験主義者』の場合は、これはむしろ逆である」といい、西尾末広などの思考槻式に特徴的なのは「理論の粁週化抽映性を狭い体験知の中にいわば融解し、理論の規範性を杣き去ることであった」と結論している(二七○頁)。日本の右翼社会民主主義の思考様式の
、、、、、、、、、、特徴は、理性的なるものの拒否にあったとされているのである。砿要な指摘と思われるのは、この卑俗な「経験主義」としての「塊突主義」的思考搬式が、単に西尾末広のような右翼社会民主主義者の場合に見られるだけではなく、「左翼同険主義」への反動としての「日常要求主義」「身のまわり主義」というようなコミュニストの迦動を支える思考棟式にも共通して存在しているとしている松沢鵬の発筒内容である。「わが岡の大衆通勤の歴史を通観すると、『極左主義』『教条主義』『官僚主義』の病理が冗進する時、その対策として『日常要求』『自分の川翅』l『災蝋〒『体験』-『大衆』・『職場』・『現場』等の観念を強調する思想が繰返し笠場する。それは公式の政簸や教義のレペルでは多くはマルクス主毅をとり、労働紐介主義・社会民主主義に立脚するという理由で、総同盟的な述動を批判する
、、、、、、、、、、、、、、、、が、それにあかかわら十、思惟様式のレペルでは総同盟と同じ
八一
書評松沢弘陽著『日本社会主義の思想』
、、、、、、、、、、タイプを蹄製していると考えられる物介が多い。……戦後は迦動の対簸における概左主義とならんで組織の巨大化Ⅱ有侭制化という新しい問題が発生した結果、その対簸としてもここにのぺるような思想傾向が生じる機会は更にふえたと思われる。例を引くまでもないが、『Ⅱ術要求主雑輿『突感韮雑陸『職場主義堂『大衆線路』などとよばれる運動の中にはわれわれが剛題とする思想傾向が見られることが多い。」(二五○’二五一頁、防点引川満。)ここでも、松沢氏の峨後のⅡ木共旅党に対する共休的批判の問題意識が「Ⅱ本マルクス主義巡動」批判の原点になっている形跡を見ることができるのであるが、それ以上に、この場合には、渡部徹氏におけるような右翼社会民主主義的潮流に対する自己投入的打定的評川の姿鋤とは災なった、あくまで、「Ⅱ水社会主義」の思想的特徴を追究するという松沢氏の思考的営為
、、、、、、の厳しさを認めることができるであろう。それにしても、こ》」で軌柵しなければならないのは、卑俗な「維験主義」としての「呪災主義」をも、Ⅱ水社会主義の川刈的特徴として松沢氏が指摘するのであれば、松沢氏の鋭利な分析は、その「現実主
、、義」的思惟様式の存在の指摘にとどまる》」となく、八様式Vを支えるエートスの領域にまで拡大されるべきであったことである。だが、なぜか、松沢氏の分析はエートスの傾城にまで深化させられることはなく、八様式vの確定でとどまっている。先に、日本的「理論と実践の統一」という不能なシステムの指摘 八二
の場合にも、松沢応は、そのシステムを生糸だす思想的拙盤とでもいうべき八汕拠枠組Vの川題賦域には深く立ち入らないでいる事実を問題にしたが、ここでも同様な松沢氏の方法論を見いだすことができるわけである。さらにいえば、先の場合も、今回の勘合も、松沢氏が示している(というより開鼎さ牡ている)のは、戦後の、とくに五○年代の日本共産党への「体験知」的に語られる批判意識である。松沢氏は「日本の労働組合主義」として「現実主義」の潮流をとらえ、川本における力拠社会氏兆兆雑将たちの川想櫛逝を明らかにしようとした。その際、松沢氏は、節一に折灘満の「知性の構造」、第二に「運動への献身を義務づける価値意識」、鋪三に「災川椛造の特質」を分析するという力法論を示した(二五○瓦)。しかし、松沢氏の分例は飾一の段階でとどまり跡二の段階へ進んでいない。松沢氏における八地拠枠組Vの方法論的問題意識の存在をここで確認できるが、かの名論文の未完の事実が示すものは、尖は松沢氏における八準拠枠紐Vレペルヘの分枅の深化の未然性であつのである。松沢氏の力法論的剛題意識について、あえて大胆にいえば、こういえよう。松沢氏は、五○年代共産党への批判を原点とする側題意識で、明治社会主繼の素朴さにあこがれ、大派期労働巡動のルサソティマソ的嬰凶にⅡをおおい、昭和初期マルクス主義の実態に呵支ともいえる批判をあびせかける。その松沢氏は、日本のコミューーストの思考様式に対する一つの現実的重味
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瞥;!;灘戦鰯雛鱗鯨蕊
的格と通てる派11後繼え分雑つか、るか礼の汗る に的えず鮒も部木のなな折批たら可マつ民で価司 は日ぱる一の分社部りいの判と与現ルた的あは現 全111鮴の11上との会分民・〆のいえ尖〃゜立つあ尖成側の打機的調和をⅡ折す「同家的自由主義」としてとらえられている(二九三頁)。第二世代に凪するとされている猪木正道や社会思想研究会の人びとは、同じく大正期の人格的、由主義に端を発する「人冊.n川の帆念」を特徴としているが、ただし「自由の観念」の意味内容についてはそれほど「つきつめた検討」はなされていないとされている(三六六頁)。そして松沢氏は、これらのⅢ木の民主社会主義新たちに、「Ⅱ木、山主渡の嫡子」としての「自負」があることを認めているとともに、「状況把抵のリアリズム」と「社会技術を麺視する」姿勢とを認め、「現災主義」の思考機式に脳するもの、との規定を与えている(二九○頁)。松沢氏は、これらの向山主義満たちの思考梯式を側翅にして
も、いるのであるが、鮒一世代にも館二世代にも共通するのは転向
、、経験であるとしている。蝋川政近について、松沢氏は戦前転向とともに戦後転向を脂摘している。蝋山には転向現象のサイクルが兄られるほどであるとされている(三四二面)。猯木正逝について、松沢氏は河合栄治郎的「思想原理の同一性の固守」への志向がありながら、災は「総力戦経済論から戦後の戦闘的社会砥主主義論への移行」があった本突を指摘している(三五七頁)。さらに、民主社会主義の場合、松沢氏によって「糀神の硬直」が、あるいは「モラリズム的・政沿主簸的な硬応傾向」が共通する思考様式であり転向の原因であったとされている。蝋山政近の場合は、「緊張の激化が、精神を唖放させて、現実
八三
啓評松沢弘陽箸『n本社会主義の思想』
的であることを求める勢力の結架、かえって現災の流れに溺れそれを追認させるに至り、ここに転向が生じた」とされている(三四四瓦)。猪木正逆の場合は、「こうして窓図せずその向党もない特異な転向は一つには、間定観念によって現実をとらえ進路を定めた結果だった。自己のイメージと状況とのフィード・パックへの志向および能力の抗しさは、激しい政沿的緊投の状況の中におかれた河合を中心とした小グループに、戦闘的自由主義が生まれたときから負わされた重荷だった」とされている(三七六瓦)。その上で、松沢氏は、民主社会主義により知的で柔軟な、山主義を求めるのであるが、ここで側題なのは、松沢氏の以上のような分析と要諦の妥当性の問題よりも、民主社会主鑑にあくまで何かを求めてやまない松沢氏の価値意識の露塾ではなかろうか。松沢氏は、Ⅱ水のマルクス主義に対しては見せることのなかった脱皮の要諦を(唯一の例外としてば、松沢氏の日本共産主銭者剛に対する高い評価があった。二三七面)、Ⅱ木の災主主雑調たちに対しては次のように秋柧的に行なっているのである。
「民主社会主流満の、山・人桁の理念といい、また現代阿家・現代資木主義の特賀の認識といい、社会主義の再定義といい、その多くは適切であり、また新しい論点を先取りしたものも少なくない。」(三七六瓦) 八四
「Ⅲまず、人枯・自由の主張を一義的な政餓・イデオ向ギーの体系に突体化するのでもまた、それを特定政治勢力のための組織象徴として棚作するのでもなく、人間を状況における、山な行動主体として成熟させ、またそのために、自由主義を行動科学の次元にまで展開する必要があろう。……引凱hlII 主義の政治岨皮の一つの特倣は、政淌よりも政沿以外の価仇を充溢することに力を注ぐとともに禰力の役諜からそれを守ろうとするところにあると言えよう。……それならば、直接の政粭的効果の打鰍をこえて、守るに値する典の意味のアカデミーの仙界、無倣の隣人愛の酬業などに、より多くの力を注ぐことが、マルクス主義の病理を『克服』するにはより方
、、、、、、効なのではないか。③そしてさらに並興なのは》」うした鮒神
、、、、、、▽、、、、、、、、、、、、、、態度を全ての立賜に竹し承なく分け与える声」とではないか。それが実行される時こそ、たとえ、山という一一両紫が誘られること少なくなり、民主社会主義を標扮する集団は消えても、n川の思想、そして新しい社会主義は社会にゑちわたって将来にわたる生命を独得するのではなかろうか。思想櫛進上『木衝的』に暴力的と考えられたマルクス主義に対しても、『だまされ』『利川される』可能性を計算した上で、それを回避し、ないし被害を最少にとどめる配噸をもって大胆に接触するならば、民主社会主義者にとって思いもかけぬ変化がマルクス主義に生じることもありうるだろう。」(三七六’一一一七八頁、併点引川者。)