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日本における自由主義論〗

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日本における自由主義論(1) : 武藤山治の経済的自 由主義を一焦点として

その他のタイトル Some Historical Comments on Liberalism in Japan (1)

著者 市原 亮平

雑誌名 關西大學經済論集

10

6

ページ 561‑594

発行年 1961‑02‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15532

(2)

561 

( li l

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i sm )

とは一体何であるか︑

ではない︒現代における社会思想の両翼にあるファシズムやマルキシズムにつて︑前者があきらかにマルクス

1 1

ンゲルスのといた思想体系をいみし後者がイタリアのムッソリーニもしくはドイツのヒトラーの思想をしめすとみ

る見解にたいしさして異論がさしはさまれぬであろう︒しかし自由主義というばあいそれによって指示される対象

は何であるのか︑いちじるしく不確定であり主観的であり︑とりわけ日本の自由主義のように移植入歓念にたより

翠固な歴史的な伝統が欠如しているばあいには︑浅沼稲次郎氏を刺殺した少年の父のように自らを恣意的に自由主

義者と独断してはばからない︑といった風な生活意識と外来観念との間隙がめだって事態はいつそう難渋さをくわ

えるのである︒つまり中進国日本の自由主義は先進国のように自生かつ翠固なそれの形成もなく︑さりとて後進国

の科学的規定づけはこの語が使用される頻度ほどにはあきらか

ー武藤山治の経済的自由主義を一焦点として

1

日本における自由主義論〗

(3)

日本における自由主義論︵市原︶

のようにそれにたいする激しい違和感もなく、自国の伝統主義・国家主義との対立と融合と被虐の歴史ー~いはば

( 1 )

〜 先進国と後進国の中間色がみられるのである︒ここにおいては概念より出発することはいつそう困難なのであっ

て、何よりも中進国日本の資本主義形成•発展の特殊性とこの基礎過程に対応した自由主義の特徴的形成の具体相

わたくしは本橋で武藤山治なる特異な思想家・実業家・

( 2 )  

政治家のイデオロギーと実践の態様︑何故彼が日本的自由主義者であり何故日本的﹁資本主義の精神﹂の持主であ

その出処進退の葛藤と挫折とをあきらかにしたいとおもう︒.彼の思想と行動との軌跡は日本自由主義の特

質と運動とを何よりもあきらかにしていると信ずるからである︒

さて次に何故いまさら武藤をつうじて日本自由主義に蟷螂の斧をふるうのか︑わたくしの現代的観点ともいうペ

きものをのべてみたい︒わたくしは武藤山治について関心をいだきすでに数年前から十指をこえた論文を発表して

きたが︑もとより粗漏の筆であってそのごの研究により当初の武藤像を若干訂正する必要が生じてきた︒とりわけ

武藤のイデオロギー面についての究明は頗る不充分であった︒武藤の思想の背骨をなしている経済自由主義を照明

する必要を自己の研究歴上痛感するとともに︑これの究明をつうじて反体制思想としての日本自由主義を正当にわ

が国思想史や社会運動史に定置することの重要さに思いいたった︒総じて日本自由主義の従来の評価はそれはファ

シズムと相互移行しうるものないしはそれの一変種ぐらいに考えられ︑反体制運動の対敵の一目標とされたり︑そ

れは所詮特権層・官僚間に消閑かつ鍛念のための自慰物とされたにとどまり︑国民大衆には手のとどかぬ高嶺の花

であってむしろ社会発展を阻む移入思想にすぎないとの批判が提起されたりしてきた︒自由民権運動︑両次の護憲

一時代を劃した大正デモクラシー運動︑反軍の政党連合運動I

を析出することから考察をはじめるのが妥当であろう︒

(4)

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右にみたような日本自由主義の再評価はもちろん現代的観点よりなされるものであり︑過去︑とりわけ戦前の反

体制運動の評価基準・視角の再検討につらなつている︒コミンテルン型の公式的思考・自由主義をファシズムに短

( 4 )  

絡して類推する単線型論理・敗北と転向を合理化する屈折した自由主義観︒こういう反体制運動のインテリ分子・

理論家のあやまった発想が武藤山治観をとおしてかれらの自由主義銀にどのように投影されていたか︑われわれは

それを吟味しなければならない︒大正十三年九月号雑誌﹁新人﹂所収の赤松克麿の﹁日本資本主義発達の特殊性と

無産階級政党﹂を発端とする志賀・・赤松論争︑昭和十一年五月特集の東洋経済新報主催の﹁自由主義とは何か﹂座

花であったとみるのは正当ではあるまい︒ 自由主義は日本に土着する契機をすでに学んでいたこと︑したがつて︑敗戦ごのいわゆる第三開国もたんに占領軍の外からのインバクトに解消し去ることができないことを知るであろう。馬場辰緒・尾崎行雄・田川大吉郎•福沢諭吉・田口卯吉・天野為之・武藤山治・石橋湛山らがいづれも政治的ないし経済的自由主義者として一定の思想と実践との山脈をかたちづくり︑日本自由主義の土壌を形成した積極面を評価することに吝かであってはなるまい︒日本における資本主義発展の特殊性・立憲主義の外見性・超国家主義の強力な風化カ・絶対主義と特権資本との政商型結合・直接間接の資本の保護政策などなどの阻止条件のため自由主義の土着化は多難をきわめ険しかったが︑日本的自由主義者の努力や献身によってそれが戦後開花するまで水流をかたちづくつてきたことまでを否定するの

( 3 )  

はあやまちである︒とくにいままで過少評価されてきた武藤や石橋湛山︵東洋経済新報社︶の自由主義はミルないし

マンチュスター型のリベラリズムの移植入観念にたよりながらもこれらの思想を支持する一定の階級的組織的基礎

を有していたのであって︵いはば自由主義の﹁実学﹂化︶︑これら外来自由主義が日本に土着しないたんなる観念の仇

(5)

56

談における赤松・戸坂・石橋・清沢論争︑昭和十二年三月号﹁文芸﹂所収の久板栄二郎作﹁北東の風﹂および十二

年十二月号﹁中央公論﹂所収の久板作﹁千万人と雖も我行かん﹂︑これら論争と作品とを系統的かつ時代的に考察

するとき︑それぞれの時点における左右両翼と自由主義者の自由主義観が照明され︑とりわけ自由主義論争の枢軸

に武藤山治が位置づけられていることに重要な意義を認めざるをえないであろう︒田口卯吉が孤独な観念的マンチ

ェスクー流自由主義者として歿してのち︑実業界に基盤をもち政界にも出没した実践派マンチェスクー式自由主義

者武藤の出処進退はまさに独占資本主義段階における日本経済自由主義者の運命を太く象徴していたと考えられる

からである︒そして武藤をふくめて日本自由主義者に再評価の観点をあたえるには反体制思想・運動の一定の反省

・試錬が必要であった︒どのような試錬︑いかなる反省が要請されたのか︒まず日本におけるスクーリン主義思考

が昭和十年に国際的に提起された人民戦線思想の移入によって実質上克服への初歩がふみ出され︑さらに戦後スク

ーリン批判を契機に反体制思想に激動と﹁雪どけ﹂化が生じスクーリン主義の﹁階級対階級﹂という基本矛盾還元

や基底体制還元主義が全面的に吟味にかけられるという歴史の試錬が︒そして労農派的な日本資本主義観と固化し

た公式主義との合体した視点から自由主義否定論をうち出した志賀氏と︑

体制運動内部におけるカメレオンの兆をみせながらも大正デモクラシーにたいする柔軟な観点に立つて自由主義肯

定論を提起した赤松氏との論争を吟味することからはじめよう︒両者の争点はどこに始まるか︑まづ志賀氏の所見

﹁科学的日本主義﹂を標榜してすでに反

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565 

った︒即ち支配階級は全体的に被支配階級に対立するに至った︒

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く程度に応ずる超支配群との分化過程︑彼等を超支配層としての地位から排除する過程よりも︑両者をョリ緊密に結合せしめる

日本の資本主義の発展は被搾取人民大衆の中から︑近代的労働階級︑無産階級を発展せしめた︒資本主義の飛躍的発展であ

った︒殊に最近の帝国主義的資本主義の没落的傾向は︑資本家階級と無産階級の対立を甚だしく尖鋭ならしめると共に︑農民及

びその他の小プルジョア階級の生活を著しく悪化せしめ︑彼等を急激に没落せしめつつある︒かくて支配的階級と被支配階級の

矛盾は最も明確なる形をとり︑支配階級内の相対的対立関係は︑此の絶対的矛盾の発展の前に︑迅速にその重要性を喪失して行

資本主義の発展は国家機関の複雑化である︒その官僚化である︵普通選挙の実施︑市町村会への被支配階級の侵入︑その他

のプルジョア政治機構への参与等は国家機関をして益々官僚的中央集権組織をとらしめる︒︶それは﹃国家が国家を呑む﹄まで

に旭大になる︒即ち官僚は資本主義の発展︑階級闘争の発展に応じて益々増大する︒

軍国主義は帝国主義時代に入れば︑益々そ.の重要性を加える︒各帝国主義国の対立が昂進して︑帝国主義戦争の不可避性が

浪厚になればなる程︑無産階級の対立が強大となり︑植民地人民

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が激烈となればなるほど︑軍閥は資本家階級

にとつて︑不可欠の一大支柱となつて行く︒今日の軍閥は明治初年中年頃の長閥的薩閥的軍閥でない︒資本家階級にとつての軍

政商なる明治的陳套語を以て今日の特権資本家を定義しようとするのは咄ふべきプルジョア的見解である︒政商は本質的変

化を遂げた︒彼等は今日プルジョアとなった︒彼等の手中に生産が集中︑集積され︑大資本が蓄積されればされるほど︑国家の

統制は彼等の掌握するところとなる︒大プルジョアは最も密接に国家と結合して居る︒彼等は国家の名に於て︑人民全体から超

日本における自由主義論︵市原︶ ﹃蕃閥官僚︑軍閥︑政商﹄は今日全然本質的に変化した︒ 過程の方が︑ョリ強力に作用したからである︒

(7)

56b 

即ち帝国主義時代に入っては︑

﹃然らば我国の既成政党が︑何が故に無主義不貞操 日本における自由主義論︵市原︶

測余利潤を獲得する︒帝国主義時代に於て︑.この傾向は益々急速に進行する︒

日本に於て軍閥が他国以上に重要性を帯びるのは︑その封建的国家主義的発生のみではない︒今日に於ては︑レーニンの指摘せ

るが如き理由が遥かに重大である︒

一切の封建的起源の

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をも包含して︑支配階級が全然一個の有機的構成物となる

のである︒そして︑赤松氏とは全然異る意味に於て︑金融王︑官僚︑軍閥の三位一体が完成されるのである︒かくの如く︑本質

的変化を遂げたものに対して︑我国の支配階級は蕃閥官僚︑軍閥︑政商の寄合世帯であるという定義を下す赤松氏の小プルジョ

ア的偏見は︑帝国主義の本質に関する認識不足︑従つて誤謬と相侯つて︑科学的日本主義の体系を殆んど救い難い破産に陥れて

居る︒以下︑吾々はそれが如何に致命的打撃であるかを検するであろう︒

﹃我国今日の諸政党は情実因縁を中心として割拠した政権争奪群である︒﹄

の政権争奪群であるかと言えば︑彼等は蕃閥官僚の朋党的政争の政党化したものであって︑何等階級層の利害を代表したもので

︵﹁我国賓本主義発達の特殊性﹂︶即ち︑赤松氏によれど︑現在の諸政党は利権屋の集合であり︑職業的

政治家の徒党であつて︑階級層から遊離したものである︒こういう定義は今日の諸政党を批評したものとしては全然当つて居な

い︒先にも指摘したように︑今日の日本の支配階級は一個の全体に融合されたものであつて︑諸政党は全体として彼等の利益を

代表するものである︒その表面的なる政権争奪の激烈さを以て︑諸政党の間の分離差違を本質的のものとなすことは出来ない︒

此の不正確なる定義の結果は︑かの実業同志会なる新政党が利権政治を攻撃し︑職業政治家を軋弾し︑マンチェスター式の独自

の政綱を掲げr其の廊清を叫んで名乗り出たことは︑たとえ其れが有産階級的政党であり︑且つ大した将来を有せざるものとは

言え︑既成政界に対し一脈の清新味を投ずる所以であると実業同志会に暗黙の讃美をおくることとなつてあらわれた︒果して実

業同志会は赤松氏の讃美に価いしたか?昨年の総選挙の結果︑実業同志会もその腐敗程度に於いて既成政党に劣らざることを示

(8)

5,(>7 

たが︑遂に確立されなかった︒そこで赤松氏の結論はこうなのだ︒ ﹃併し一方に於て社会主義運動も頭を拾げて来た︒そして﹃欧州大戦後の思想並びに

経済界の動揺につれて︑次第に活澄の歩調を取って来た︒そして一時思想界を風靡した自由主義を圧倒して︑だんだん知識階級

や労働階級の間に浸潤して行った︒﹄

即ち我国には戦闘的プルジョアジーが存在しなかったから︑自由主義の時代が実現されず︑一時大正四︑五年頃ものになりかけ

﹃日本の無産政党に就いて最も考慮すべきことは︑未だ自由主義の確立されざる我国の政治形態に於て︑無産政党が直ちに自由

主義を飛躍して︑直ちに社会主義に達せんとする錯誤に陥らざることである﹄

即ち自由主義プルジョアジーによって確立されることが出来なかったが故に︑彼の屍骸を離れて超階級的幽霊となり︑自己の実

現を無産政党に強要し︑.﹃さもなければ︑.無産政党は或る時期に於で︑また方向転換を行うに至るであろう﹄とおどしつけるの

日本にぷける自由主義論︵市原︶ 陣を張つて封建的頑迷思想に挑戦した︒﹄ 印象せしめんがための魂胆に他ならない.o

﹃自由主義は戦闘的プルジョア階級の指導精神である︒

したではないか?そして同会の首領武藤山治氏の社長たる鏡紡は︑今年の上海及び青島に於ける大罷業によって︑最も大規模に

支那の労働者を搾取して居る帝国主義的資本家なることを︑日本の労働者階級にハッキリ印象せしめたではないか?帝国主義的

資本家たる彼が自由主義的資本家コプデン︑プライトを以て任ずることの如何に時代錯誤であるかは極めて明白なことである︒

吾々は実業同志会によって︑﹃一脈の清新味﹄の代りに︑プルジョアジーの腐敗に嘔吐を催さしめられるのである︒⁝⁝

赤松氏が︑およそ封建的勢力︑既成政党に対して反対なりと認められるものなら︑実業同志会であろうと︑英国の立憲政治であ

ろうと︑委細構わず︑事実或は非事実を引証される所以のものは︑実のところ︑日本の無産階級に﹃自由主義の効用性﹄を強く

﹃ところが﹃我国には戦闘的プルジョア階級の発達を許さない我国に於

て︑自由主義の運動が猛烈に火蓋を切ったのは欧州大戦後である︒大正四五年頃から︑自由主義の学者思想家等は︑精細なる論

(9)

日本主義の理論ー赤松氏の理論的根拠﹂︶.

義﹂にたいして︑赤松氏はどのように応酬したのであるか︑次にみよう︒

し乍ら︑自由主義は資本主義が比較的に平和的発展をなしつつあった時代のプルジョア・イデオロギーである︒故に一度び資本

主義が帝国主義的段階に到達すれば︑それは時代精神としては︑﹃むかし良かりし日の夢﹄と化して了うのである°殊に我国に

( 5 )  

於ては資本主義の正常的発展はなかった︒従って︑自由主義は︑日本に於ては︑遂に︑一のお伽噺に止まる︒﹂

ここで述べられている志賀氏の日本国家・社会・資本主義観は以外にも﹁講座派﹂的解釈ではなくて﹁労農派﹂

的解釈であり︑旧軍閥・官僚ははいまも本質上プルジ.ョア的に変質したのであって自由主義も歴史的生命をおえ一 のメルヘンと化しさったとされている︒赤松氏によってこれから到来する自由主義の化身としてひきあいに出され た武藤山治は時代錯誤の帝国主義資本家であると否定されてしまつている︒こういう志賀氏の﹁帝国主義的経済主

﹁僕は先ず問題の主要点たる﹃我国無産階級運動に於ける自由主義の可能性﹄に就いて志賀君に答えよう︒我国の資本主義が帝

国主義化して居ることは疑ない︒.此の帝国主義的資本主義が自由主義的資本主義に逆転し能はざることにも異論はない︑姦まで

は志賀君と僕とは議論が一致する︒然らば我国の社会形態は︑如何なる意味に於ても自由主義発達の余地なしと断定することが

出来るであろうか︒僕は出来ないと信ずる︒我国の資本主義は自由主義の黄金時代を経過せずして帝国主義化した︒故に我国の

政治形態や国民思想の中には︑伝統的なる反動主義的要素が多分に残留して居る︒然るに最近我国の支配階級は︑.欧州大戦後に

一方に於て治安維持法の如き弾圧的なる砲塁を築くと共に︑他方に於て普通選挙︑

社会立法の如き或る程度の自由主義政策を以て緩衝地帯を設けんとしつつある︒言うまでもなく自由主義は資本主義のイデオロ

ギーである︒我国の支配階級は帝国主義化した経済組織の紡衛のために︑取って置きの政治的自由主義を持ち出して︑無産階級 於ける無産階級の急激なる拾頭に備えるため︑ ﹃飛躍﹄すべからざる必然的段階になり済して居るのであるc

(10)

569 

ある︒すなはちいう︒

賀批判を次のように提示する︒ の進撃を緩和せんとしつつある︒滋に於て私は﹃我国に自由主義発達の余地あり﹂というのである﹂

ここには大正デモクラシー時代を背景とした日本自由主義についてのほぼあやまりのない指摘がある︒ついで志

﹁自由主義が比較的に平和的発展をなしつつあった時代のプルジョア・イデオロギーであるとばかり解釈するのは︑原則的解釈

であって︑未だ一知半解の書生論たるを免れない︒既に述べたるが如く︑現在我国の如く︑支配階級が無産階級の進撃を緩和す

るために︑自由主義的政策の実施を余儀なくされつつある現状を何んと見るのであるか︒変則的に発達した資本主義国家に於て

は︑既に帝国主義時代に入れりと雖も︑政治形態の自由化の可能如何の問題は︑支配階級に取っても︑志賀君のいうように﹃一

のお伽噺﹄どころか︑重要なる当面の問題である︒例えば最近普選が実施されたにしても︑支配階級は之れによって出来る限り

階級闘争を緩和せんとし︑無産階級は之を利用して出来るだけ自己の戦線を充実し拡大しようとするであろう︒即ち普通選挙と

いう政治的自由主義政策は︑我国の階級闘争に大きな波紋を描かしめつつあるのではないか︒然り自由主義は現下日本に於て︑

志賀君のいうように﹃時代精神としては︑むかし良かりし日の夢﹄では断じてない︒今日眼前に提出された活きた問題である︒

志賀君の自由主義の解釈は︑正常的帝国主義国家には当てはまるが︑我国の如き特殊的帝国主義国家には当てはまらない︒即ち

( 6 )  

志賀君の議論は直訳的劃一主義である﹂

赤松氏のばあい日本自由主義はすでにあたえられた否定物ではなく︑まさに向後たたかいとるべき肯定物なので

( 7 )  

ある︒ところでこの二段階説は山川均氏のかの﹁方向転換﹂論の具体化として提起されているのに注意する必要が

﹃日本の資本主義発達の特殊性と無産階級政党﹄という論文の中に次の如く書いた︒

(11)

日本における自由主義論︵市原︶

慮すべきは︑未だ自由主義の確立されざる我国の政治形態に於て︑無産政党が自由主義を飛躍して︑直ちに社会主義に達せんと

する錯誤に陥らざることである︒さもなければ︑無産政党は或る時期に於て︑また方向転換を行うに至るであろう︒無産政党が

社会主義政党なるは明かである︒併し其の政網には可成り自由主義の要素を含まねばならぬ︒一方に軍閥官僚政商官僚的政党と

戦い︑他方に軍国主義に育まれた大衆を啓蒙して行くには︑自由主義の効用性が相当に存すると言わねばならぬ︒﹄

僕は日本社会逼動の発展段階として︑自由主義獲得の効用性を認むるものである︒そして我国無産階級戦線の現状から見れば︑

自由主義的利益を可及的に獲得することが当面に於ける我々の任務であり︑それがまた我国無産階級の進展の必然的段階である

と信ずる︒今日一切の自由主義政策を棄て︑最後の目標に向つて直進する程に無産階級の戦闘用意が整い︑また資本主義制度が

断末魔に瀕して居るとは思われない︒かつて五︑六年以前に於て︑我国の社会運動は一切の自由主義政策を否認した︒議会政策

を否認し︑国際労働機関を否認し︑一切の社会立法を否認した︒総同盟罷工︑工場占領︑労農革命等以外の穏健なる政策を口に

することは︑それは社会運動の戦闘分子の忌避する所であった︒欧州大戦後の高潮に達した世界的階級闘争の気運が︑我国無産

階級の中堅分子をして︑其の思想的水準を急激に高騰せしめたためであったp然るに其の結果はどうであったか︒無産階級の前

衛分子が革命的一本網子で以て行けると思ったのが︑問屋はそう安くは卸ろさなかった︒労働争議は至るところ惨敗し︑多くの

戦闘的組合は破壊され︑労働総同盟の如きは多くの大鉱山大工場に於ける地盤を失った︒社会主義者の大同団結たる社会主義同

盟は官憲の高圧によって一蹴された︒そして気位ばかり高くなった少数なる社会運動者は︑まだ自由主義の洗礼さえも受けざる

( 8 )  

無産大衆より孤立してしまったのである︒哉に於て方向転換論が叫ばれて来た︒﹄大衆への新しい標語が生れて来た﹂

山川の無産階級運動が方向転換をして大衆のなかにはいりこみ異る思想や組織とも必要なかぎり手を握ろうという 統一戦線の提唱を赤松は︑自由主義がなお歴史的使命をおえていずそれと軍閥・官僚との対立が激化していた当年の

支配勢力の内部矛盾に適用し︑自由主義者もまた統一戦線の一翼をにないうると確信したのであった︒︵ここ・から志賀

10

 

(12)

571 

氏らによって赤松の﹁リペッ化﹂という非難が生れてきた︶︒実業同志会や革新クラプなどこの期にあらわれた中間政党

は赤松の解釈によると反封建の協同戦線の一翼にはいりうると考えられたのである︒

﹁志賀君は︑僕が﹃日本の支配階級は︑蕃閥官僚︑軍閥︑政商等の寄合世帯である﹄といったのに対して︑僕の定義が今日の日

本の支配階級を指示したものとしては︑全然不正確なりとし︑次の如く言って居る︒

﹃支配階級と被支配階級の矛盾は最も明確なる形をとり︑支配階級内の相対的な対立関係︑此の絶対的矛盾の前に︑迅速に其の

重要性を喪失して行った︒﹄即ち支配階級は全体的の被支配階級に対立するに至った︒

今日日本の社会に於て︑就中階級闘争の最も統一化される政治舞台に於て︑支配階級と被支配階級とが明確なる形を取って対陣

し︑支配階級は内部的抗争をやめて︑︑全体として被支配階級に対立して居るだろうか︒僕はそう考えぬ︒志賀君の解釈は︑日本

の現実を甚しく歪曲した見方である︒僕は︑日本現下の被支配階級の実力が︑未だ支配階級と再々対峙するまでに発達して居な

いと考える︒両階級の急迫せる絶対的対立が︑支配階級の内部的対立関係をして悉く其の重要性を失わしめるまでには︑尚お相

当の距離がある︒現に昨年の春護憲三派なるプルジョア勢力は︑貴族官僚の伝統勢力を向うに廻し﹃特権階級打破﹄を標語とし

て大なる内部的抗争を演じたではないか︒然らば志賀君は︑昨年の護憲運動を打ち切りとして︑支配階級は内部的対立関係をや

め渾然と融合して無産階級に対峙して来たというのであるか︑そんな馬鹿な話があるものではない︒僕は支配階級の内部的抗争

は︑まだ続くと見て居る︒今日支配階級は︑一切の内部抗争をやめてしまう程に︑無産階級の勢力に対して︑切実なる脅威を感

じて居ない︒治安維持法にしたところが︑無産階級の勢力の漸次的成長に対する威嚇であつて︑急迫した対陣関係に於て放たれ

( 9 )  

た砲弾ではない︒そして同法の制定に就いては︑実業同志会を始め一部のプルジョア勢力は之れに反対して居る﹂

赤松氏は志賀氏の支配階級の内部対立と自由主義者の当面の相対的進歩性をみとめない見解を方向転換論以前の

﹁治国平天下論﹂と批判しており︑かくてひきあいに出された武藤や実業同志会は彼によって共同戦線の一翼をに

日本における自由主義論︵市原︶

(13)

の人々までもつよい影響下においこんだのであり︑

ないうるものとして弁護されなければならない。赤松氏のこのような「講座派」的な日本資本主義•国家論に拠つ

た自由主義銀は彼のその後の政治ー思想的浮浪化の故をもつて一概に否定し去るのはただしくないであろう︒赤松

関を支配する政商資本家に対して反抗意識を有し︑かなり鮮明なる自由主義を掲げて政界に乗り出した政党であって︑新しい支

配階級内部の抗争分子だからである︒いうまでもなく実業同志会は一個の資本党である︒併し彼が自由主義を標榜する限り︑即

ち治安維持法撤廃︑軍備縮少其他社会政策を主張する限りに於て︑無産党は暫時にもせよ彼と提携し得る場合のあることが予期

出来る︒それを︑武藤山治氏が紡績資本家なるの故を以て︑如何なる場合に於ても︑自由主義政党を絶対に敵視し蛇蝸視し排撃

せねばならぬと主張するのは︑未だ方向転換以前の稚気と空ら威張りとを脱せざるものであつて︑複雑多難なる日本無産階級政

治戦術につき共に語るに足らざるものである︒志賀君の主張の如く﹃日本に強固なる無産階級前衛分子あり︑世界の資本主義は

たくれもなく︑鮮明なるマルクス主義の旗織を公然醗して突進すぺきだといったような議論は︑一掬の空虚な痛快味をもたらす

( 1 0 )  

ほか何事にも値せざるところの下宿屋楼上の治国平天下論と大差なきものである﹂

われわれが虚心に﹁正統病﹂から免れて当年のこの論争を吟味するとき︑赤松氏の日本自由主義論に積極性をみ

資本の﹁政商﹂性もまた否み︑ とめざるをえない︒志賀氏は日本資本主義の帝国主義化の故をもつて︑軍閥・官僚の相対的独自性をみとめず金融

﹁階級対階級﹂の絶対主義ー﹁基底体制還元﹂という固化した発想におちこんでい

る︒こういう発想が戦後の志賀・神山論争時に志賀氏の﹁天皇制ファシズム﹂論となつて再版され︑旧講座派系統

氏の武藤・実業同志会論をみよう︒

「昭和史」の筆者遠山茂樹・今井清一•藤原彰氏らもまたこの

(14)

873 

例外者ではなかった︒昭和三0年に﹁昭和史﹂初版が出てから多くの批判がこの著に集中され︑

史﹂論争が生れたことは記憶にあたらしいが︑批判の一要点も﹁天皇制ファシズム﹂論が志賀氏の提言いらいもっ

( 1 1 )  

ている旧コミンテルン型思考型式にあったことはわたくしじしん別稿で述べたとおりである︒したがつて

史﹂批判者が多かれ少なかれ赤松氏の大正十三︑四年時における自由主義論ー統一戦線論にちかい地点から発言し

たことは首肯できる︒たとえば久野収氏は﹁満洲事変当時︑革命的情勢は成熟しておらなかったから戦争をふせぐ

可能な道は、天皇制との対決にあるのではなく、独占資本、政治的には浜口雄幸•井上準之助のライン、思想的に

も天皇機関説的自由主義者をもふくめた反軍部の統一戦線をしくべきであった﹂と述べており︑また松田道雄氏は

労農党という労働者・農民の協同戦線が党﹁一枚岩﹂論や﹁正統病﹂者の批判にあって解散された経緯にふれ反軍

( 1 2 )  

的人民戦線の提起がなかったことを批判している︒

つぎにわたくしは昭和十一︑二年時に時点をおろして当年における国家社会主義者赤松氏︑自由主義者石橋湛山

( 1 3 )  

と長谷川如是閑•清沢冽氏、唯物弁証法論者戸坂潤氏の武藤をふくめた日本自由主義者論を検討し、あわせて続稿

では批判的

1

人民戦線的リアリズムを具体化した久坂栄二郎氏の武藤の自由主義の苦悶︑孤立をえがいた二作品に1

日本資本主義・思想史上における自由主義・経済自由主義の再吟味に供したい︒

( 1 )

河合栄治郎氏は日本の自由主義を考察するばあい︑イギリス︑ロシアのそれらと対比して型的に類別し﹁中問型﹂とし た︒すなわち日本はドイツと同じく﹁中間国家﹂にぞくし自由主義も﹁中間国家﹂にぞくし自由主義も﹁中間型﹂の特徴 をもち︑イギリス型さらに旧ロツア型の中間地帯に位置した︑とされた︵﹁改革原理としての自由主義﹂﹁自由主義の擁

護﹂所収一三四ページ以下︶

(2

)

﹁資本主義の精神﹂といったばあい︑わたくしは労農派

1

1土屋喬雄氏流の歴史学派

1

1プレンターノ的解釈に立つていわ

日本における自由主義論︵市原︶ いわゆる

(15)

日本における自由主義論︵市原︶

ば無概念的に使っているのではない︒わたくしはプレンクーノが﹁資本家精神﹂KapitalicherGeist使

),Geist<der

Ka

pi

ta

li

sm

us

主義精神起源論﹂解釈に立脚して使っている︵大塚久雄氏﹁資本主義精神起源論に関する二つの立湯﹂経済学論集︑九ノ

四︑参照︶

(3

) あたらしい観点から石橋︑したがつて東洋経済新報のリペラリズムを分析した力作として長幸男﹁石橋湛山論﹂︵思想

.(4)公式マルクス主義の単線型思考についての批判は久野収•藤田省三氏ら「思想の科学」派の人々の論文にいたるところ 0︑十一月号︶がある︒

にみられるが︑丸山真男氏はこれを﹁正統病﹂disease

o f  orthodoxyや﹁基底体制還元主義﹂とむすびつけてもっとも体

系だった検討をくわえておられる︵﹁現代政浩の思想と行動﹂下三二五ページ以下︒︶

( 5 )

大正十四年六月号﹁マルクス主義﹂三二

l

(6

) 大正十四年七月号﹁マルクス主義﹂三三

l六ページ0

(7

) 日本大正期の反体制運動がインテリ中心の移植入観念性を脱皮して土着するためのさいしよの反省と提言とが山川均の

﹁無産階級運動の方向転換﹂︵大正十一年﹁前衛﹂七・八月合併号所収︶であったことは︑こんにち常識である︵同志社 大学﹁キリスト教社会問題研究﹂第二号﹁山川均特集﹂参照︶︒この方向転換論は

K.1の大正十年決定になる統一戦線

の提起の線に沿つており︑これが真に批判的に吟味され理論的に体系化されたならばスクーリン主義の克服はいちはやく 緒についたであろう︒また山川の転換論を体系だって考察したものとして信夫清三郎﹁大正デモクラツー史

I l ﹂第七章

﹁無産階級運動の方向転換﹂がある︒渡部徹氏の﹁日本労働運動史分推の方法論﹂社会労働研究十二号は山川の転換論が

もつ欠陥ー労働組合運動と社会主義運動との混線化を衝いて鋭い︒

( 8 )

﹁マルクス主義﹂大正十四年七月号三六l

(9

)

同右五五l六ページ

( 1 0 )

念のため赤松克麿氏の略歴を左にしめすと︒

︵一八九四年・ーニ・四l一九五五・︱ニ・一三︑明治二七年ー昭和三0

年 ︶ 社会運動家︑山口県に生れる︒明治時代︑西本願寺革新派として活躍した連城の孫︑.社会運動家常子︑五百麿はその弟

(16)

575 

妹︑第三高等学校から一九一九年︵大正八年︶東京大学政治科卒業︑吉野作造門下の俊オで︑その女婿となる︒東大在学 中新人会を創立し︑卒業後日本労働総同盟幹部となり︑調査部長等に就任した︒二ニ年日本共産党創立に参加したが︑第 一次共産党事件で転向し︑日本的マルクス主義を唱え︑総同盟右派の理論的代表者となり︑多面的に活動した︒三四年総 同盟に政治部が新設されるや︑初代部長となり︑無産政党組織運動に大きな役割を果した︒二五年逓友同志会会長︑二六

年日本農民総同盟主事となり︑二八︵昭和三三︶0

両年の総選挙に宮城県より立候補し落選した︒三

0年片山哲のあとの

'社会民衆党書記長となったが︑翌年満州事変を契機に国家社会主義へ右旋回を主張して敗れ︑三二年脱党して日本国家社

会党を作ったが︑やがて日本主義を唱えて離反し︑日本革新党によった︒三七年北海道より代議士当選︑四

0年大政翼賛

会部長に就任した︐かれの経歴をみてもわかるように︑変身の早さでカメレオツとあだ名された︒第二次大戦後追放され

以来社会的活動なし︒

(11) 

( 1 2 )

 

﹁マルクス主義﹂大正十四年七月号五八l九ページ︒

﹁昭和史﹂論争の紹介とわたくしの批判点は﹁昭和史論争の回顧と展望﹂

しくのぺた︒

( 1 3 )

松田道雄﹁現代史の診断﹂三五ページ︒

(14)

日本自由主義論をもっとも体系立てたのは河合栄治郎氏であったが︑そのばあい必要だったのは自由主義の三型国家の 設定による型把握であった︒私の日本自由主義論は先進︑中進︑後進の型認識を基礎にしている︒後進国が自由主義を受 容する社会ー経済的基盤をもたなかったことは︑たとえば中国の例によってあきらかであろう︵石峻・任継愈・朱伯嵐共 編﹁中国近代思想史﹂大隅訳参照︶︒魯迅の有名な﹁水に落ちた犬を打て﹂(‑九二五年︶は徹底した反自由主義の宣言 であって階級共調・中庸主義とともに自由主義を決定的に斥けているのである︒﹁小雑感﹂︵一九二七年︶にも

J. s.

ミルヘの冷たい諷刺がみられる︵竹内好編﹁魯迅評論集﹂八八ページ︶︒日本の自由主義がその一極にであれ受容の基盤

をもったことと銘く対比される︒

日本における自由主義論.︵市原︶

︵﹁現代の歴史﹂一九六一年二月号︶にくわ

(17)

日本における自由主義論︵市原︶

大正デモクラシーから昭和七年犬養政友会内閣にいたるいわゆる政党政治の時代は政治的にも観念的にも︑自由

主義ーデモクラシーが自生的に確立しうる可能性をもつていたと考えられる︒政党政治は大正期のはげしい民衆の

デモクラシー運動を踏台にして絶対主義勢力︵特権的軍部・枢密院・貴族院・元老重臣勢力など︶に譲歩をもとめ﹁値切

り買い﹂してえた﹁事実上の慣習﹂にすぎなく︑明治憲法では行政権が天皇にぞくし︑内閣は憲法上の機関ではな

<勅令たる﹁内閣官制﹂でやつとその地位を認められた天皇の﹁輔弼﹂機関にすぎず︑国務大臣の任免も天皇の信

任いかんにかかつていて議会に責任を負う必要をもたなかったので︑超然内閣・官僚内閣や軍閥内閣の出現は違憲

でないはもちろんまったく合憲的であった︒また絶対主義の頭部である天皇じしんや熱烈な絶対主義者山県有朋歿

後のただ一人のこされた﹁最後の元老﹂西園寺老公じしんもはや専制君主や固柄な元老としては行動せずむしろ立

憲的に進退したので旧来の絶対主義機構は部分的にプルジョア立憲主義的に変容してきたのは否めないにせよ︑明

治憲法にバック・アップされた﹁憲法の番人﹂たる枢密院や統帥権の独立・軍部大臣武官制を守りつづけてきた﹁

独立せる軍部﹂の厳存は︑真の政党政治の確立︑したがつて独占プルジョアジーヘの権力ヘゲモニーの移行をかた<

阻んでいた︒しかしこの政党政治の時期に大正デモクラシー運動の歴史的遺産としての政治的思想的経済的自由主

義が日本資本主義の基礎上にはじめて全面的に定着の可能性をしめしたことは無視することはできない︒そもそも

日本の自由主義の政治運動は三つの段階を経て発展していた︒第一の段階は明治一0年代の自由民権運動であり︑

第二の段階は明治三0年代から四0年代にかけての普通選挙運動と土地復権運動であり︑第三の段階は大正中期か

二 ︑

一 六

(18)

577 

一 七

ら後期にかけてのデモクラシー運動であった︒この段階におよんで﹁新民主主義﹂を目標とした統一戦線が提起さ

れ︑この期に政商

1

1特権ブルジョア主導の既成政党にももちろん軍閥・官僚内閣にもあきたらず政界に進出した自

由主義政党ーやブルジョア・インテリを社会的支柱とした犬養・尾崎•島田ら政治的自由主義党(革新クラプ)と

紡績大資本をバックに中小の実業プルジョアを社会的基盤にしてのり出した武藤中心の経済自由主義党︵実業同志

会︶までまきこんだ同盟が考えられてしかるべきであった︒じじつコミニストの﹁革新クラブ﹂との協同戦線が考

( 1 5 )  

えられたりしたが︑こういう柔軟な着想は大正デモクラシー時代いご通則となつてしまった社会主義者の生硬な教

条によって埋没されてしまった︒方向転換論の提言者山川均は﹁労農派﹂的日本資本主義・国家観に立ち原敬内閣

時権力にはブルジョアジーに移行したとみ︑したがつて農民の反封建エネルギーや都市の自由主義層を同一陣営に

結集する理論を欠いており︑あやまったこの一段階説が徹底的に普選運動や大正デモクラシーに背を向けさせるこ

( 1 6 )  

また﹁労農派﹂的発想から公式どおり自由主義と対決した志賀氏を︑方向転換論を﹁講座派﹂的視点から具体化

( 1 7 )  

して批判した赤松氏も︑その安易な状況追従のため一路国家社会主義へのみちを歩んでいった︒総じて反体制思想

・運動は方向転換の真意を生かし大正デモクラシー運動時から組織

1

1実体化した自由主義と手を握ることなく反軍

協同戦線は編まれず︑満洲事変を契機とする本格的な絶対主義反動に各個撃破され敗北していった︒既成政党の下

部機構になっていた実業組合組織をうばいとり中小実業ブルジョアを支柱として政界に進出した武藤の実業同志会

も二大政党に挟撃され︑統制・保護政策を待望する他の産業プルジョアから見離され︑経済自由主義の旗織をおろ

( 1 8 )  

して昭和七年に解散してしまった︒

(19)

0

小プルジョア政党革新クラプは第四九議会で二九名に当選者が減ったため政友会に合流し︑革新党も第五五特別

議会で清瀬一郎が党籍離脱したため解散し︑鶴見祐輔が主宰し新自由主義を標榜した明政会も政友会に同調し有名

( 1 9 )  

無実となって解体した︒また大恐慌下にあつて商工党左派として独自の政治進出をこころみた共和一新党・全日本

商工党・帝国中産聯合同盟などは軍備の徹底的縮少をスローガンとしたり反独占の旗轍を鮮明にしたりした立党の

( 2 0 )  

主旨を貫徹しえぬまま昭和七︑八年前後に姿を没してしまった︒

昭和六年秋の満洲事変の開始と軍部の失地回復︵いわゆる国内ファッツョ体制の強化︶とは統制経済・国家独占資本

主義体制への基礎過程の一歩前進とあい呼応して都市中小ブルジョアジーの独自の組織ー政党活動を否定し去つ

たと考えてよかろう︒日本の自由主義わけて実業同志会に表示された経済自由主義は大体この時を劃期に組織的

( .2 1 )  

実体的基礎を喪失したと考えてよい︒この期以後も既政政党や西園寺老公に象徴される微温かつ特権的な自由主義

はなお残照を放つていた︒これら特権的自由主義陣営は無為に政党政治を復活させる希望図をうち捨てたのではな

かった︒昭和八年になると斎藤中間内閣が窮乏に呻ぐ農村救済のために実施してきた救農村対策がかなり効果をあ

らわし︑生糸の値上り等もくわわって農業恐慌はやや好転し農村事情も鎮静しいわゆる﹁非常時ー反動小康時代﹂

がやつてきたところへ︑九年度予算の編成をめぐつていままで救農主のようにふるまつてきた軍部が軍事予算のた

めに農民のための予算を大幅に食ったため︑その反農民的本質が暴露され﹁軍民離間﹂が叫ばれはじめた︒いまま

で反財閥の嵐を避けて﹁財閥の転向﹂工作に狂奔していた旧財閥プルジョアジーはこの情勢を利用して二大政党が

大同団結して政党政治の昔にかえすよう︑昭和八年暮れからいわゆる﹁政党連合運動﹂をおこすこととなった︒だ

が絶対主義天皇制の強度の保護・育成をうけて生長し︑その軍事力の独占︑はてしない領土の独占︑もしくは他民

一 八

(20)

ll  7 

ず ︑ 家の政商グロー︒フ﹁番町会﹂を使って自らの政党連合工作を代行させるのであるが︑

一 九

族中国その他を掠奪する特別の便宜の独占によって補佐し代行されてきた旧財閥ブルジョアジーはこの際にのぞん

でも﹁政党と財閥も圧迫されていまして︑この儘ぐづぐづしていると三井も潰されてしまう﹂と危惧した池田成彬

( 2 2 )  

の言にしめされたように卑屈であった︒かれらは三井系財界世話役であった郷誠之助の率いる二︑三流の独占資本

このもくろみが大疑獄事件﹁

帝人事件﹂の突発により連合運動の政治面ならびに資金面の担当者が多数検挙収容されてしまい︑もろくもついえ

去ると●既成政党を最終的に見捨て内閣顧問︑調査機関をつうじて直接絶対主義ーとくに軍部勢力と接触をはじめ

る︒旧財閥ブルジョアジーが政党への資金援助をやめ政党政治の時代にできた強い結合関係を解いた経験について

は︑たとえば池田成彬は﹁合名が政治に関係したことはないですね︒ただ私の入る前迄は総選挙の時は選挙費を取

られたということはあったようです︒これもそういう金ですから帳面にのせるわけではないし︑記録が残ってある

わけでなし⁝私が合名へ行ってから一ぺん総選挙があった︒⁝ところが十一年の選挙の時には御承知の通り財閥と

政黒との関係で非常に世の中がうるさくなっていた︒どうしても政党に金を出しておつては駄目だ︒

 

年の選挙の時には政党からいろいろ運動にきたが私は絶対に出さなかった︒政友会も民政党もきたがこれにも出さ

(23)

2 4)  

一切政党には出さなかった﹂と述べている︒このようにして︑昭和十二年二月に発足した﹁軍財協力政策﹂

の担い手結城蔵相とかれの要請で就いた日銀総裁池田成彬とのコンビ財政にいたって︑

はできあがった︒ いわゆる﹁軍財抱合﹂体制

﹁軍・民一体﹂から﹁軍書民離間﹂へ︑さらに﹁軍・財抱合﹂へ︒いまや﹁転向﹂を完了し準戦

時経済が要求する軍需産業の主導的な担当者となってのりだしてきた旧財閥ブルジョアジーは︑絶対主義勢力︑と

.くに軍部とふたたび緊密なブロック関係にはいったわけであり︑あとは設定された軌道上を轟々とすすめばよかつ

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