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法理論の普遍性について : ジョセフ・ラズの議論 を手がかりとして

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法理論の普遍性について : ジョセフ・ラズの議論 を手がかりとして

著者 濱 真一郎

雑誌名 同志社法學

巻 69

号 8

ページ 3443‑3462

発行年 2018‑03‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000325

(2)

    法理論の普遍性について同志社法学 六九巻八号二七三四四三

――ジョセフ・ラズの議論を手がかりとして――

           

     

はじめに

  英国の法哲学者であるH・L・A・ハートは、自分の法理論について、それは一般的で記述的であるとした。一般的

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    同志社法学 六九巻八号二八法理論の普遍性について三四四四

(general)であるとは、特定の国や法体系の法について研究するのではなく、発展した法体系に共通する特徴を研究するという意味である。記述的(descriptive)とは、そうした特徴を褒めたり批判したりするのではなく、その特徴を価値中立的に説明するという意味である

)(

  自分の法理論は記述的だというハートの主張については、賛否両論の論争が繰り広げられており、その議論状況について筆者も検討したことがある

)(

。本稿では、彼の弟子であるジョセフ・ラズが、法理論は一般的だというハートの主張を受け継いだ上で、さらにハートを超えて、法理論は普遍的(universal)でもあるという主張を行っていることを明らかにしたい。

稿Between Authority and Interpretation

BAI

  法理論が一般的なものだとすると、すなわち各国ないし各法体系の法に共通する特徴を示すものだとすると、それは、各国ないし各法体系の時代ごとの法の違いに左右されることのない、普遍的な理論ということになる。しかし、各国ないし各法体系の時代ごとの法(例えば古代ローマ法や、ヨーロッパ中世の法や、紀元前五世紀の中国の法など)は、むしろ地域限定的(parochial)なものではないか、という疑念が生じるであろう。とすると、法理論も地域限定的なものでしかありえず、それは普遍的な理論ではありえないのではないのか。ラズは、この問題を詳細に検討した上で、法概念は地域限定的であるが、法理論は普遍的である、という結論を提示しようとしている。以下、ラズの議論について検討していこう。

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    法理論の普遍性について同志社法学 六九巻八号二九三四四五 一  ラズの言う「法理論」について   本稿の主題(法理論は普遍的か)に入る前に、まずは本章で、ラズの言う「法理論」がいかなるものかについて確認しておこう。彼は、「法理論(a theory of law )」という用語を狭い意味で、すなわち法の性質(nature of law )について説明する理論という意味で用いている。広い意味での法理論としては、例えば、あるべき法制度を追求するものや、法の個別の領域(所有権、商法、不法行為、契約など)について検討するものがある。彼はこれらの意味での法理論の意義を認めつつも、法理論は普遍的かという問題について検討する際には、狭い意味での法理論を念頭に置いて議論を進めている(BAI, p. 17 )。

  以上で確認したように、ラズの言う(狭い意味での)法理論とは、法の性質について説明する理論のことである。彼によると、法の性質とは、法の必要不可欠の特徴(essential properties )のことである。すなわち、それがなければ法が法でありえなくなるような特徴のことである(BAI, pp. 24-25)。

  なお、ラズは法の性質と法の概念(concept )の関係について、以下の説明を行っている。彼の理解では、ある事物の概念の説明は、その事物の性質についての説明とほぼ同じである。ただし、その二つの説明は別個のものである。さらに、法理論の主たる任務は、法の性質についての説明である。法の概念についての説明は、法の性質についての説明の補助的なものである。すなわち、法の性質についての説明の一部に、人々が法をどのように把握(perceive)しているかについての説明――法の概念を有する人々が生活している国において法はどこに存在しているか、法は人々が有している法概念によって影響を受けるか、という問題についての説明――が位置づけられるのである(BAI, p. 24)。

  さて、ラズは、法の性質について説明する法理論は、法一般についての理論(a theory of law in general)であるだ

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    同志社法学 六九巻八号三〇法理論の普遍性について三四四六

ろうか、という問いを提起している。すなわち、法理論は、どの時代や場所の法についても必然的に真である(必ず適用できる)(necessarily true)のか、という問いを提起している(BAI, p. 18)。彼は、この問いに肯定的に答えることによって、法一般についての理論が可能であり、その意味での法理論は普遍的であるという主張を行うことになる。

  なお、ラズは、法の一般理論(general theories of law)という表現を用いることもある。この表現で意味される法理論は、法の多様な二重性(dualities)について適切に取り扱おうとする。法は、権力と道徳、安定性と変化、体系的整合性と個別事例への不偏的感覚、等々の二重性が組み合わさったものである。こうした法の二重性は、法理論に対して、以下の二つの問いに答えるよう求めている。第一は、法理論において共通に用いられている諸概念は、法の二重性を説明するのに適しているだろうか、という問いである。第二は、法の二重性は、法の機能(activities)および法(the law)にどのような影響を与えているのだろうか、という問いである(BAI, p. 1)。なお、ラズは、(以上の二つの問いに答えようとする)法の一般理論は、特定の法体系がどのように理解されているかには関心を寄せないと述べている(BAI, p. 3 )。すなわち、彼の言う法の一般理論は、特定の法体系(フランスの法体系や日本の法体系など)が人々によってどのように理解されているかではなく、様々な時代や場所の法体系に共通して生じる先述の二つの問いに、関心を寄せるのである。

  以上での検討を踏まえて、本稿では、ラズの言う(狭い意味での)「法理論」が、「法一般についての理論」および「法の一般理論」と同義であると捉えることとする。

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    法理論の普遍性について同志社法学 六九巻八号三一三四四七 二  法理論の普遍性への疑念 1  法概念の地域限定性   本章では、法理論の普遍性に対する二つの疑念について、ラズがどのような反論をしているかを検討する。第一の疑念は、もしも法概念が地域限定的なもの(近(現)代西洋のもの)であるとしたら、法概念を有する社会で発展した法理論もまた地域限定的ということになるから、法理論は普遍的ではないのではないか、というものである。第二の疑念は、もしも法概念を有さない社会に法が存在しえないとすれば、そうした社会には法理論を適用できない(なぜなら法理論の対象である法がないので)ことになるから、法理論は普遍的ではないのではないか、というものである。まずは第一の疑念から見ていこう。

  法理論(法一般についての理論)は普遍的であるかという見解に対しては、以下の疑念が提示されている。すなわち、われわれは、われわれの 00000法概念(our concept of law)によって摘出(picked out)される制度の性質について研究しているが、この事実は、その研究を普遍的というよりも地域限定的なものにするのではないか、という疑念である(BAI, pp. 31-32)。

  ラズの言うわれわれの 00000法概念とは何か。彼によると、われわれが、法概念なるもの 0000the concept of law )について語るときに、実はわれわれは、われわれの 00000法概念について語っている。法概念は時とともに変化するし、異なる文化は異なる法の諸概念を有する。とすると、単一の法概念(one concept of law)が存在するというわけではないのではないか。われわれが法概念なるもの 0000について言及するときに、われわれは単に、われわれの 00000法概念のことを意味しているのではないか。もしもそうだとすると、法理論の研究の射程は、われわれの 00000法概念に対応していると思われる法の性質

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    同志社法学 六九巻八号三二法理論の普遍性について三四四八

に限定されるという点において、その研究は、いわゆる法の性質――先述のように、ラズの言う「法の性質」とは、それがなければ法が法ではありえなくなる「法の必要不可欠な特徴」のことである――にかんする普遍的な研究というよりは、われわれの文化の一側面にかんする地域限定的な研究ということになるのではないか(BAI, p. 32)。

  ラズはこの疑念に対して、われわれの法概念は地域限定的であるけれども、われわれの法概念を有する社会で発展した法理論は地域限定的ではなく普遍的であると論じることになる。

  ラズによると、われわれの文化と他の文化は異なる諸概念を有している。異なる諸概念としては、法の概念だけでなく、統治、宗教、部族などの諸概念も含まれる。さて、他の文化は、法の異なる諸概念 000(different concepts of law)を有しているわけだが、ラズによると、それらの諸概念は、われわれの法概念と関連しているがゆえに法の 00概念(concepts of law)だということになる。関連の仕方として最も一般的なのは以下の二つである。すなわち、類似(Xの法概念は、われわれが法だと考えるものと全く同じではないがとてもよく似た社会制度についての概念である)および共通の起源(われわれの法概念は中世の法概念から発展した)である。注意すべきなのは、支配的なのはわれわれの法概念であるという点である。すなわち、他の文化の諸概念は、それらがわれわれの法概念としかるべき仕方で関連する限りにおいて、法概念なのである(BAI, p. 32 )。

  ラズによると、われわれが研究しているのは、法概念によって指し示される制度の性質である。こうした制度は、われわれの社会だけでなく、他の社会にも見出されるに違いない。よって、法の概念 00は地域限定的である(すべての社会が法の概念を有するわけではない)。それに対して、われわれの研究は、あらゆる場所に存する法の性質 00を探究するという点において、普遍的であるとされる(BAI, p. 32 )。

  なお、法理論(われわれの研究)は普遍的であるというラズの主張に対しては、以下の反論が予想される。すなわち、

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    法理論の普遍性について同志社法学 六九巻八号三三三四四九 もしも法理論が、われわれの法概念(近代西洋のそれ)を前提として、その法概念が指し示す近代西洋の制度の性質のみを研究対象とするならば、法理論は普遍的であると言えるだろう。しかし、法理論は、アステカ、中世ヨーロッパ、ローマ帝国、紀元前五世紀の中国などの法については、研究対象から除外している。よって、その法理論は地域限定的なのであって、普遍的ではない(BAI, pp. 32-33 )。

  ラズによれば、以上の反論は、われわれの法概念についての誤った理解に依拠している。われわれの法概念は過去二、三世紀にわたって変化してきているので、その法概念はより包括的なものに、すなわちそれほど地域限定的ではないものになっている。歴史と世界についてのわれわれの知識、関心、相互関係が拡大するにつれて、われわれの法概念はより包括的なものへと発展しているのである

。ただし、ラズは以下の危険性も認識している。以上の傾向は、他の社会へのわれわれの関心だけでなく、われわれ自身およびわれわれの社会への関心とも対応している。われわれが、われわれ自身およびわれわれの社会において中心的と思われる諸特徴に注目し、それらが他の社会には欠けていると考えることで、これまで以上に地域限定的な概念が構築されてしまうかもしれない――という危険性である(BAI, p. 33)。

2  法は法概念なしで存在しうるか   続いて、法理論の普遍性に対する第二の疑念について検討する。それは、もしも法概念を有さない社会に法が存在しえないとすれば、そうした社会には法理論を適用できない(なぜなら法理論の対象である法がないので)ことになるから、法理論は普遍的ではないのではないか、という疑念である。ラズはこの疑念にどのように答えるのであろうか。

  ラズはまず、いかなる法概念も有さない社会についての議論と、われわれの法概念を有さない社会についての議論を区別する。前者は、いかなる法概念も有さない社会には法は存在しえない、という議論である。これは逆に言えば、何

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    同志社法学 六九巻八号三四法理論の普遍性について三四五〇

らかの法概念(「われわれの法概念」とは異なる法概念)を有する社会は、(われわれが有するのと同じような)法制度および法実践を有することができる、という議論である(BAI, pp. 36-37)。

  後者はより急進的である。それは、われわれの法概念を有する社会だけが、法制度および法実践を有することができる、という議論である。この急進的な議論が説得力を有するためには、われわれの法概念を有さない社会は、法体系や、われわれの法概念でいうところの法制度を有さない、ということを示さねばならない。しかし、これは事例を示すことによって容易に反論できる。例えば、紀元前四世紀のエジプト社会は、われわれの法概念を有さなかったが、われわれの法概念が法的とみなすような制度を有していた、ということが示されるならば、この議論は反駁されるのである(BAI, p. 37)。

  ラズによると、前者の穏健な議論(いかなる法概念も有さない社会には法は存在しえない)についても、おそらく誤りである(BAI, p. 37)。以下では、いかなる法概念も有さない社会にも法は存在する、という彼の見解を見ていこう。

  いかなる法概念も有さない社会にも法は存在するとは、どういうことだろうか。それは、人々がその社会の法を法と考えないということを意味するであろう。われわれが法を有しており、われわれがそれを法と考えている、というのは事実である。とすると、法体系を有する社会がそれを法体系と認識しないということは、ありえないのではないか。ラズは、それがありうると主張することになる(BAI, p. 38)。

  ラズが強調したいのは、法理論においては、地域限定的なものと普遍的なもののあいだに緊張が存在している、ということである。すなわち、法理論は地域限定的でありかつ普遍的である、ということである。彼によると、一方で、法理論は地域限定的である。なぜならそれは、地方(local )の概念、すなわち近代西洋文明の産物である法概念によって指し示された制度を説明することを目指すからである。他方で、法理論は普遍的である。なぜならそれは、もしかし

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    法理論の普遍性について同志社法学 六九巻八号三五三四五一 たら法でありうるかもしれないものであれば、いつでもどこでも、適用されるからである(BAI, p. 38)。

  ラズはこのことを、神権的なユダヤ共同体の例をあげることによって説明している。長くなるが引用しておこう。

ユダヤの宗教的ルールおよび実践は、豊かで多様である。それらのルールおよび実践は、それらの発展の初期段階で、独立しているユダヤ共同体を統制していたし、近年に至るまで、世界の多くの地域のユダヤ共同体における生活の多くの側面を統制していた。神権的なユダヤ共同体がどこに存在したとしても、あるいはどこに存在しようとも、それらの共同体は法に、すなわちユダヤ宗教法に服するだろう。しかし、法概念はユダヤ教の不可欠の要素ではないので、そうした共同体が過去に存在した場所では、そうした共同体が存在したのは、構成員が法概念を有さない社会であることがしばしばであった。ユダヤ教の思想と教義には、法以上のものもの(much more than

law)が存在する。その思想と教義には、われわれには法と倫理と宗教の包括的体系に見えるようなものが存在する。その包括的な体系は、重なり合っているが――われわれの目からすると――個別の諸領域から構成されている。古代の正統派ユダヤ人にとって、ユダヤ教の教義には、われわれの法と倫理の概念が指し示す区別は存在しなかった。しかし、疑いようもなく、神権的なユダヤ共同体は法体系 000をまさに有していた。たとえ、そうした共同体が法概念を有していなかった――あるいは(他の文化から法概念を学んでいない)共同体が法概念を有していなかった――としてもである。(BAI, p. 40. 強調は引用者)

  引用文の最後の部分で言及されている、神権的なユダヤ共同体の法体系 000においては、おそらく法と倫理と宗教が未分化で渾然一体となっていると思われるが、われわれがその法体系を、われわれの法概念の存する文化において発展した

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    同志社法学 六九巻八号三六法理論の普遍性について三四五二

法理論によって分析すれば、法と倫理と宗教を区別した上で、法を取り出して、法の性質について説明することができるであろう。ラズは、この意味において、われわれの法概念を有する社会で発展した法理論(それは「法一般についての理論」および「法の一般理論」と同義である)は普遍的であると主張しているように思われる。

三  法理論は普遍的か   以上で確認したように、ラズの理解では、法概念は地域限定的であるが、法理論はそうではない。法理論は、法概念を有する文化でのみ発展するけれども、それはすべての法体系(法概念を有さない社会で確立している法体系も含む)に当てはまる。よって、法理論は普遍的である。

  さて、ラズによると、彼のこの結論には以下の批判がある。すなわち、概念は特定の文化のなかで特定の時点に登場したという事実は、相対主義、ポスト・モダニズム、自文化中心主義などの急進的な哲学的テーゼを裏づけるものとみなされてきた。とくに、異文化を理解することの原理的な不可能性や、異文化を完全には理解できないことを示すものとして、捉えられてきた。しかしながら、ラズに言わせれば、概念は、その概念を有する文化の現象にしか当てはまらないというわけではない。例えば、「生活水準」という観念(notion)について考えてみよう。ヨーロッパ中世にはその観念はなかったが、われわれは、バラ戦争が当時の生活水準に与えた影響について検討することができる。当時の人々がその観念を有していなかったとしても、そして自分たちの生活水準を計測する仕方を知らなかったとしても、当時の人々は一定の生活水準を享受していたであろう。このことはそれ以外の多くの経済学上の観念についても同じである(BAI, pp. 41-42)。

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    法理論の普遍性について同志社法学 六九巻八号三七三四五三   ただし、特定の概念は異なる。例えば贈り物は、それがそのようなものだと理解する人々がいないと、贈り物とは言えない。ルールも同様である。ルールがルールだと分かっている人々がいないと、ルールは人々の行為を導くことができないのである。なお、ラズがここで強調するのは、人々は法的ルールに導かれるために、そのルールが法的ルールであることを知っている必要はない、ということである(BAI, p. 42 )。

  筆者の理解では、ラズがここで言いたいのは、法概念が存在しない社会においても、人々は法的ルールに従うことができるということである。すなわち、人々は法的ルールがルールであると分かっているのであれば、そのルールが法的ルールであると知っていなくても、その法的ルールに従うことができるのである。

  さて、ラズは次に、異文化について理解するためにはどうすればよいか、という問題について検討する。彼によれば、われわれは異文化を理解することができる。すなわち、われわれは、自分たちの文化を知っており、理解している。よって、われわれは、異文化をわれわれの文化に関連づけることによって、その異文化を理解することができる。ラズはこのことを説明するために言語の例を出す。フランス語を母語(第一言語)とする人は、英語について知っていなくても、フランス語を完全に習得している。それに対して、フランス語を外国語(第二言語)として学んでいる、英語を母語とする人々は、フランス語の単語が英語で何を意味するかを知ることなしに、フランス語を理解することはできない(BAI, p. 44 )。

  ラズによると、ここには、フランス語の知識と英語の知識のあいだの非対称性がある。英語を母語とする人のフランス語を自由に使いこなす能力が、極めて高いレベルに到達したら、その人の英語の理解も深まったと言うことができる。ただし、通常の、フランス語を学んでいる英語を母語とする人々は、言語の性質にまでは考えが至らないので、そうした便益(外国語を学ぶことで自分の母語の理解も深まるような便益)を享受しない。フランス語を英語に翻訳する能力

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    同志社法学 六九巻八号三八法理論の普遍性について三四五四

が高まっても、英語の能力に影響が生じるわけではない。この非対称性を、ラズは理解一般の「経路依存性」と呼ぶ。われわれは新しいことを、既に知っていることと関連づけることで理解する。時には、新しく知ったり理解したことが、われわれが既に知っていたことについての理解を深めたり改良したりするが、それは常に起こることではない(BAI,

pp. 44-45)。

  なお、もちろんラズは以下のことに気づいている。すなわち、理解の経路依存性は、われわれの視点(近代西洋的視点)から異文化を理解するという点で、異文化を歪めたりその一部しか捕らえなかったりすることがある。さらに、われわれの異文化理解は、異文化の構成員たちの自己理解とは異なっている。よって、経路依存的な理解は、完全には客観的ではないし、完璧なものでもない(BAI, p. 45)。

  とはいえやはり、母語を習得した後に、外国語を完全に習得するのは困難である(もちろん原理的には、そして現実的にも、コンラッドやナボコフといった人々の存在が示しているように、外国語を完全に習得することは可能であるが)。よって、外国語を習得するために、人はそれを自分の母語に関連づける必要がある。それに対して、その人が学んでいる外国語を母語とする人には、その必要はない(BAI, p. 45)。

  ラズは以上で、外国語を習得するにはそれを母語に関連づけねばならない、という議論を行ってきた。彼は、母語に照らして外国語を習得することを、われわれの法概念に照らして(われわれの法概念を有さない)異文化を理解することの類推として、提示しているのである。以下で、彼の議論を見ていこう。

  ラズによると、法概念を有する文化に生きるわれわれは、その文化で発展した法理論を用いて、法概念を有さない文化に存在している法体系について、分析することができる。この意味において、法理論は普遍的である。すなわち、法理論――優れた法理論――は、あらゆる時代と場所に存在する法にかんして、その性質について説明する。法概念(わ

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    法理論の普遍性について同志社法学 六九巻八号三九三四五五 れわれの法概念)が地域限定的で、すべての人々や文化によっては共有されていないとしても、このことは法理論の客観性と普遍性には影響しないものとされる(BAI, p. 46 )。

  なお、ラズは、異文化を完全に理解するためは、その文化の構成員自身が、その文化の概念、実践、制度をどのように理解しているかについて、われわれが理解する必要があることを認めている。よって、(異文化ではなく、法概念を有するわれわれの文化で発展した)法理論の客観性には限界がある。とはいえ、われわれは、自分たちの概念を使用することで、誠実かつ共感的な想像力をもって、異文化を(不十分ではあるけれども)理解することができる。ラズは、もしもわれわれがそうした資源(概念)をもっているとしたら、法概念はそうした概念の一つであるとしている(先述のように、彼はそのことを、神権的なユダヤ共同体の事例を使って説明しようと試みていた)。すなわち、法概念は、文化超越的な概念の一つである。それは、法概念を有さない社会に存在する制度をも取り出す概念なのである(BAI, p. 46)。

おわりに

  以上、本稿では、法理論は一般的であるというハートの見解を念頭に置きつつ、法理論は普遍的であるというラズの議論について検討を行った。

  ラズは、自分の言う「法理論」は、「法一般についての理論」および「法の一般理論」と同義であるとしているので、法理論は一般的であるというハートの見解を受け継いでいる。ラズはさらに、ハートを超えて、法理論は普遍的でもある、すなわち、法理論はいつどこに存在する法にも当てはまる、ということを示そうと試みている。

(15)

    同志社法学 六九巻八号四〇法理論の普遍性について三四五六

  最後に、現代法理論の文脈

)(

において、ラズの議論を手がかりとして、ハートおよびロナルド・ドゥオーキンが法理論の普遍性をどのように理解しているかについて、整理しておこう。

  ラズは、法理論の普遍性を擁護している。それに対して、法理論は地域限定的であるという理解をする論者もいる。ラズによると、その傑出した例はドゥオーキンである。ドゥオーキンは当初から、自分の理論が、アメリカおよび英国の理論であるとみなしていた。もちろん、彼の法理論は他の社会にもあてはまるだろう。しかし、彼は自分の理論が普遍的あるという野心的な主張はしていない。彼はむしろ控えめな主張をしているが、それは彼が、法概念は法実践の一部であると考えている

)(

からである。すなわち、ラズによると、ドゥオーキンは以下のように主張している。裁判所は時として、法の性質および領域にかんする問題ついて検討する必要に直面することがある。裁判所は、こうした問題に答える際に哲学理論に言及する。重要なのは、裁判所が哲学者と同じ企てに従事しているという点である。裁判所が下す複数の結論は、互いに相反する哲学的結論である。もしも複数の裁判所が意見を異にするなら、一つの意見は正しくて、他の意見は誤りということになる(BAI, pp. 33-34 )。

  以上で確認したように、裁判所は時として法の性質についての理論的な議論に従事する。ラズによるとこれは正しい(一九六〇年代に、英連邦の諸国では、クーデターの正統性にかんする複数の判決が出された。その際、裁判所は理論的な論争に従事していたのである)。ラズが重視するのは以下の点である。すなわち、ドゥオーキンによれば、法と法哲学は、自己反省的な同じ実践の一部をなしている。アメリカの法哲学はアメリカ法の一部なのである。これはどのようなことか。アメリカの大学で学ぶ財産法は、イタリアの大学で学ぶ財産法と関連しているが、両者は基本的に異なっている。アメリカの大学で学ぶ法哲学も、イタリアの大学で学ぶ法哲学と関連しているが、両者は基本的には異なっている。要するに、財産法にかんする一つの理論は、アメリカには当てはまるが、イタリアには当てはまらない。法の性

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    法理論の普遍性について同志社法学 六九巻八号四一三四五七 質にかんする一つの理論も、アメリカには当てはまるが、イタリアには当てはまらない。一つの理論が両国に当てはまるとしたら、それは単なる偶然でしかない。結局、ドゥオーキンにとって、法理論は必然的に地域限定的なのである(BAI, pp. 34-35)。

  さて、ラズによると、法の存在は、法概念の存在を前提としない。それは、いかなる法概念の存在をも前提としていないのである(BAI, p. 38)。ラズはこのことを、ハートとドゥオーキンの理解を対比させながら説明している。

  ハートの用語を用いるなら、法体系が存在するためには、ある国において、少なくとも住民の一部が、法への「内的視点

」を有しており、内的視点から法を法とみなしたり、あるいは自分たちの行為を指導するものとして法を受容したりしていることが、必要である。ラズによると、ハートは以下のように主張する点で正しい。すなわち、法の存在が人々に知られていて、通常は、法の存在が人々の生において特定の役割を果たしている、というのが法の性質なのである、と。なお、ラズはここで、「通常は」と述べている。なぜなら、人々が法を無視するのは可能だし、法の存在を気にしないことも可能だからある。ただし、それは通常とは異なる状況である(BAI, p. 38)。

  さて、重要なのは以下の点である。すなわち、法的ルールを知っていることは、それをルールとして認識しているということなのか、それとも法的 00ルールとして認識しているということなのか。言い換えれば、法によって統治されている政治共同体の構成員であるために、人々は法概念を有する必要があるのか。ラズによると、ハートの想定では(そしてハートは正しいのだが)、われわれの文化では、全員が法概念を獲得することができるし、ほとんどの人々が法概念をしっかりと把握している(BAI, p. 39)。

  ただし、ラズによると、法概念の保有は、われわれが法によって統治されている政治共同体で生きているという事実とは、論理的には無関係である。われわれは、自然状態に生きていても法概念を有することができるかもしれない。自

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    同志社法学 六九巻八号四二法理論の普遍性について三四五八

然状態に生きるわれわれは、法概念を用いることによって、自分たちが生きている法のない社会(自然状態)と、法体系の下にある他国の置かれている状況の違いを、理解することができるだろう。結局、ラズの理解を踏まえるならば、ハートは、法によって統治されている社会に生きるために、われわれは法概念を認識する必要がある、という見解にはコミットしていなかったことになる(BAI, p. 39)。

  なお、ドゥオーキンの法理論は、ある社会において法概念が認識されていることが、その社会で法が存在するために必要不可欠であるとする。彼にとって、法は解釈的実践である。この実践は、法実務や法解釈の性質を認識している社会――したがって法概念を有している社会――のみに存在するのである。ラズによると、この点にかんしてはドゥオーキンよりもハートの議論(ラズの理解を踏まえたそれ)の方が正しい。なぜなら、ハートの議論では、法概念がある特定の社会で知られていることが、その社会が法によって統治されるための前提条件にはならないからである(BAI, pp.

39-40)。

  以上で、ラズの理解を手がかりとして、ハートおよびドゥオーキンの考えを整理した。以下では、本稿の本論で検討したラズの考えも踏まえて、法理論の普遍性にかんするこの三者の考えを再確認しておこう。

  ハートおよびラズによると、法の存在は、法概念の存在を前提としない。よって、法概念が存在しない社会にも、法は存在することができる。したがって、法理論(われわれの法概念を有する社会で発展した法理論)は、法概念の存在しない社会にも適用することができるので、普遍的である(ただし、本稿の「はじめに」で確認したように、ハート自身は、発展した法体系に共通する特徴を研究しようとしている)。

  それに対して、ドゥオーキンは当初から、自分の理論を、アメリカおよび英国の理論であるとみなしていた。もちろん、彼の法理論は他の社会にもあてはまるだろう。しかし、彼は自分の理論が普遍的であるという野心的な主張はして

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    法理論の普遍性について同志社法学 六九巻八号四三三四五九 いない。彼にとって、法理論は必然的に地域限定的なのであって、普遍的ではないのである。さらに、ドゥオーキンにおいては、ある社会において法概念が認識されていることが、その社会で法が存在するために必要不可欠である。よって、法概念が存在しない社会には、法も存在しないことになるから、その社会に法理論を当てはめることができないので、法理論は普遍的ではないことになる。

  さて、近年、英国の法哲学者であるウィリアム・トワイニングは、ハート、ドゥオーキンおよびラズの法理論は国家法を念頭に置いているので狭すぎる、という指摘を行っている。トワイニング自身は、国家法だけでなく、非国家法も念頭に置くという意味で一般的な「一般法理学(general jurisprudence)」の確立を目指している

。これは、ハートが、特定の国や法体系の法について研究するのではなく、発展した法体系に共通する特徴を研究するという意味での一般的な法理論を提示しようとしていたのとは、目指す方向が違っているように思われる。

  なお、ラズにかんしては、彼はハートの一般的な法理論を継承しつつも、われわれの法概念を有する社会だけでなく、われわれの法概念を有さない社会や、いかなる法概念も有さない社会にも適用できるような、普遍的な法理論の可能性について論じている。ラズのこうした議論は、われわれの法概念だけでなく、それとは異なる法の諸概念が存在すると考える点において、法概念 000の多元性を認めるであろう

。ただし、彼が法 0の多元性を認めるかについては、彼が法の性質――それがなければ法が法でありえなくなる「法の必要不可欠な特徴」――が存在すると考えている点(BAI, pp. 24- 25)に鑑みると、容易には結論を出せないように思われる ((

。なお、ラズは本質主義的な議論はしていない――彼は、「法の性質なるもの」は存在しないという結論を認めるか、あるいは本質主義の誤りにコミットするか、という二分法的な議論の仕方は誤っているとする(BAI, p. 32)――。ラズは、確固とした哲学的慣例に基づいて、「法の性質」という用語および、それと類似する「法の必要不可欠な特徴」という用語を、法(体系)が法であるために保有すべき特徴とし

(19)

    同志社法学 六九巻八号四四法理論の普遍性について三四六〇

て用いているのである(BAI, p. 25)。

  以上で確認したように、ラズは法概念の多元性を認めるであろう。さらに、彼は、われわれの法概念を有する社会で発展した法理論の普遍性を説くけれども、われわれの法概念とは異なる法の諸概念の存在を認めるので、それらの法の諸概念を有する社会(ないし何らかの共同体)において新たな法理論――それを近年提唱されている「法多元主義(legal pluralism) ((

」と呼ぶかは別としても――が発展する可能性を認めるように感じられる。ただし、ラズ自身が以上について具体的なことを述べていないこともあり、本稿では、最終的な結論の提示は差し控えたい。ともあれ、「法理論は普遍的である」というラズの見解は、法理論の方法論について考える上でたいへん示唆的であり、参照に値すると思われる。

  」『「『 The Concept of Law, third edition , pp. 239-240. H. L. A. Hart, ‘Postscript’, in H. L. A. Hart, Oxford: Oxford University Press, 2012) 

〕』- 六

- 三

) 』(

Joseph Raz, Between Authority and Interpretation: On the Theory of Law and Practical ReasonOxford University Press, 2009.) 

)。 ) 

)。 )、 』()、)、 ) 』( , ch. 1. Ronald Dworkin, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1986s EmpireLaw’訳『) 

参照

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