著者 柳本 由紀夫
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 47
ページ 95‑115
発行年 1995‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011208
この稿は主に三巻本『応仁記』の成立時期と成立関係とを考察したものである。ここでいう三巻本『応仁記』とは『群書類従』に収録されている『応仁記』のことである。応仁の乱に関係する軍記には、お互いに同一または近似の文を持つ一群の作品がある。応仁記(二巻本)応仁別記応仁記(三巻本、群書類従本)細川勝元記重編応仁記(応仁前記、応仁広記、応仁後記、続応仁後記の四書から成る)である。そして、この五書の関係については、二巻本『応仁記』と『応仁別記』(この両書のあいだには直接的な関係はない)を核にして、三巻本『応仁記』と『細川勝元記』が作られ、また一一一
〈研究ノート〉
はじめに三巻本『応仁記』について(柳本)
三巻本『応仁記」について
巻本『応仁記』を核にして『重編応仁記』(特にその内の『応仁広記巳が作られたとされている。つまり、
に燗鮴洲仁記ⅡⅢ]1,W舵Ⅲ鮴舳批記1V応仁広記
(1)という成立関係である。三巻本『応仁記』は二巻本『応仁記』と『応仁別記』とをもとにして作られたとされながら、三巻本『応仁記』には一一巻本『応仁記』に色濃くみえた野馬台詩(Ⅱ未来記)の視点が痕跡さえも見ることができない。何故、三巻本『応仁記』から野馬台詩の視点が消えたのか。その理由は、一一巻本『応仁記』の成立時期と三巻本『応仁記』の成立時期との間に、相当の年月の経過、時代の変遷があったためではないか。そう考えて、三巻本『応仁記』の成立時期を検討してみた。そして得られた結論は、三巻本「応仁記』の成立時期は、通常考えられていたように室町時代末期の天文・永禄の頃ではなく、江戸時代中期、’七○○年頃以降ではなかったかということだった。柳 本由
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紀
夫
一一一巻本『応仁記』の成立が江戸時代中期頃とすると、従来から言われている一一一巻本『応仁記』の成立関係にも疑問が生じてきた。すなわち『応仁広記』は三巻本『応仁記』を核として作られたとされているが、その見解は妥当だろうかという疑問である。そこで、三巻本『応仁記』と『応仁広記』の関係の如何を考えた。そして、二巻本『応仁記』と『応仁別記』とから作られたのは『応仁広記』であり、三巻本『応仁記』は『応仁広記』を参照にして作られたという結論を得た。つまり、
に燗脈祁仁記ⅡuI1応仁広記-V三巻本応仁記
という成立関係にあるという結論である。一一一巻本『応仁記』に、二巻本『応仁記』にあった野馬台詩の視点が欠落していたのは、三巻本『応仁記』を作るのに準拠した『応仁広記』に野馬台詩の視点がなかったせいでもあったのである。また、こうしたことを検討する過程で気づいたことは、一一一巻本『応仁記』の文章や内容の粗雑さである。『重編応仁記』の「発題」の文中に、当時(Ⅱ宝永三年、’七○六年)の出版事情をう(2)かがわせるような「旧記、宜録と禰する偽書往々又惟多し」という記述がみえるが、三巻本『応仁記」もそうした書物の一つではなかったのか、もしかしたら営利のために性急なつぎはぎ作業で作られた作品ではなかったかlそう考えるようになった。そして、三巻本『応仁記』の史料的価値をいままでのものとは違った視点にたって検討し直す必要があるのではないか、と考えるにいたった。 法政史学第四十七号三巻本『応仁記』は一一巻本『応仁記」と『応仁別記』とを編纂することによって成立したとする見解が現在の通説である。三巻本『応仁記』の成立関係に関しては、初めは問題にされることもなく、ただ成立時期だけが、『群書解題』にあるように、「大乱鎮定の文明五年(’四七三)以後、さほど降らない頃の(3)作」と考えられていた。}」の考えに対し、、水島福太郎氏が、これ(Ⅱ三巻本『応仁記』)の著作年代は本文が文明五年山名・細川両大将の死去で終わるので、たやすく文明六年の著作だという推定論が説かれているが、それは誤りである。応仁の乱直後になんらかの軍記が記され、それが『応仁記』のよりどころとなったことかもしれないが、流布本(類従本)のかたちでできあがったのは天文・永禄以降といえるだろ(4)》つと書いて、成立時期に関して批判を加一えただけでなく、成立関係に関しても、三巻本『応仁記』のもとになる「なんらかの軍記」の存在を示唆した。三巻本『応仁記』の成立関係に関して現在ある通説の考えを提出したのは松林靖明氏のようである。松林氏は『応仁記試稿』において、「応仁記』(Ⅱ三巻本「応仁記』)は次のような成長過程をとったものと思われる。乱後比較的早い時期に原『応仁記』|巻が成立し、それが前田家本に見られるような二巻本に成 二巻本『応仁記』・『応仁別記』。|||巻本『応仁記』 九六
長した。また、|方、原『応仁記』あるいは二巻本『応仁記』とは異なる立場から『応仁別記』が書かれたが、その後二巻本『応仁記』と『応仁別記』を編纂整理することによっ(5)て類従本のような一二巻本『応仁記』が生まれたと述べ、成立関係に関して、三巻本『応仁記』は一一巻本「応仁記』と『応仁別記』とを編纂・整理したものという説を提出した。ただ成立時期に関しては、前田家本下巻の結びの記述も考慮に加えて、永島氏の天文・永禄以降に成立したとする税を妥当なものと首肯している。(6)桜井好郎氏は成立時期に関しては永島氏の見解に従い、『室町軍記における歴史叙述』において、やはり推測ながら、乱後なんらかの軍記が記され、それをよりどころにして文運の開けた天文・永禄以降類従本のかたち(7)ができあがったとする説が穏当であろうかと述べる。そして、成立関係に関しては松林氏の見解を、「存在を確認しがたい原『応仁記』一巻を別にすれば、したがうべき見(8)解である」と評価している。『室町軍記総覧』では「応仁記(三巻本)」の解説で、成立年次・作者とも不詳であるが、『野馬台詩』注解を持つ『応仁記』の二巻本と『応仁別記』の二書を折衷按配して一書にまとめあげたもの。概括的にいえば、本書の巻一・巻二は二巻本『応仁記』の上巻・下巻をそれぞれ軸にして、『応仁別記』の記事を加え、本書の巻三は『応仁別記」を中心に、部分的に二巻本『応仁記』その他の記事を付加して成っ
三巻本『応仁記』について(柳本) 一一三巻本『応仁記』の構成要素として見たときの『応仁別記』と二巻本『応仁記』
『応仁別記』と一一巻本『応仁記』が三巻本『応仁記』を構成するものと考えた時、それらは三巻本『応仁記」にどういう性質を与えるのだろうか。㈹『応仁別記』『応仁別記』を内容的に見た時、目につく特徴は次の点にあ ている。したがって、成立の時期は二巻本「応仁記』・『応(9)仁別記』より後ということになると説明している。一一一巻本『応仁記』が二巻本『応仁記』と『応仁別記』から成っているということをより明確に示すものとして、松林氏の『応仁記試稿』に、二巻本『応仁記』(Ⅱ前田家本)と『応仁別記』と(旧)一二巻本『応仁記』との関係表がのっている。それを資料として掲載する。この表からもわかるように、一一一巻本『応仁記』は、二巻本『応仁記』に記事のあるものに関しては二巻本『応仁記』の記事を中心に構成し、『応仁別記』からの記事は記載事項を豊富にする場合、あるいは二巻本『応仁記』の記事を補足する場合に利用されているようである(一一|巻本『応仁記』の巻一・巻二がこれにあたる)。そして、二巻本『応仁記』の記事が尽きた後の時期に関しては、その記事のほとんどを、『応仁別記』から転写することで得ている(一一|巻本『応仁記』の巻三がこれにあたる)。
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る。|、足利義視(Ⅱ〈「出川殿・淨士寺殿)の動静についての記事が詳しい。二、洛中以外での合戦の記載があり、また応仁元年十月の合戦(この合戦までは二巻本『応仁記』が書き記している)以後の合戦の記事も載っている。三、赤松氏の私軍記といわれるほどに赤松一族の記載が多く、従って、応仁の乱で赤松氏が組した細川勝元に好意的である。四、まさにこのことが別記のゆえんであろうが、同じ事件に関しても二巻本「応仁記』とは違う視点の記事になっている。『応仁別記』の記事が三巻本『応仁記』に取り込まれるということは、上記の特徴が取り込まれることである。一一一巻本『応仁記』は細川勝元びいきであるといわれているが、そのことは三巻本『応仁記』の編纂者が勝元びいきであったということを必ずしも意味しない。『応仁別記』に見られる勝元への好意を単に反映しているだけかもしれないからである。いま一つ、三巻本『応仁記』が『応仁別記』から取り入れたものがある。それは『応仁別記』の文体である。三巻本『応仁記』の巻一・巻二は二巻本『応仁記』と『応仁別記』との合成であるといわれており、巻三はほぼ『応仁別記』からの転写であるが、巻一・巻一一・巻一一一と続けて読んで違和感なくつながるのは、三巻本『応仁記』が『応仁別記』の文体で統一されているからであ 法政史学第四十七号
(Ⅱ)フColl巻本の『応仁記』の文体には語り物口調が垣間見えるが、『応仁別記』の文体は事実記載に重きをおいた風を装って、乾いている。三巻本『応仁記』の編纂者は、『応仁別記』の文体を取り入れることで、三巻本『応仁記』に年代記・実録といった雰囲気を与えたのである。回二巻本『応仁記』二巻本『応仁記』を内容的に見た時、目につく特徴は次の点である。|、野馬台詩の予言にもとづく記事や時代認識がある。二、長文の故事が引用されて、事件を解説する役割をになわされている。三巻本『応仁記』は一一巻本『応仁記』の特徴である前記のことを一つも取り入れなかった。逆に言えば、一一一巻本『応仁記』は二巻本『応仁記』に記載された事実関係のみを取り込んだ。長文の故事はいいとしても、野馬台詩の視点は二巻本『応仁記」を成りたたせる根幹であった。何故、三巻本『応仁記』の編(旧)纂者は野馬台詩の視点を取り入れなかったのであろうか。野馬ムロ詩の視点のかわりに、他のどういう視点に立って、三巻本『応仁記』を編纂整理したのであろうか。こうした疑問が生じてくる。この疑問に答えるために、まず三巻本『応仁記』の成立時期について考察することから始めたい。
三一一一巻本『応仁記』の成立時期について
三巻本『応仁記』の成立時期については、すでに述べたよう
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に、天文・永禄以降という見解が定着している。この見解ははたして妥当だろうか。三巻本「応仁記』の成立時期を考える手掛かりがないわけではない。|つめの手掛かりは、三巻本『応仁記』の本文の後に書かれた(旧)「右應仁記一一一冊流布印本校ムロ了」という文中に見える「流布印本」という言葉である。二つめの手掛かりは、新井白石の『読史余論』にある。三つめの手掛かりは、’一一巻本「応仁記』独自の記事とみられている〈山名入道逝去之事。付漢寳嬰事〉の記事にある。四つ目の手掛かりは、三巻本『応仁記』の編纂者が、編纂にあたって何故野馬台詩的視点を取り入れなかったのか、という疑問を正面から考えることから得られる。以下これらの手掛かりを順に検討したい。Ⅲ手掛かりの検討(其の一)「流布印本」という言葉を手掛かりにする検討は、一一一巻本『応仁記』の成立時期の下限を確定するためである。「流布印本」という言葉の意味は、摺本になって世に広く行きわたっている本ということである。広く行きわたっているといっても限度があるが、入手するのに困難ならば「流布印本」とは言わないだろう。すなわち、この言葉から、塙保己一が『群書類従』の見本版である『今物語』を刊行し、『群書類従』の宣伝を開始した天明六年(’七八六)頃には、三巻本『応仁記」と同じ内容の『応仁
三巻本『応に記』について(柳本) (M)記』が摺本となって世に流布されていたというこし」がわかる(以後、これも三巻本『応仁記』と呼ぶ)。②手掛かりの検討(其の二)新井白石の『読史余論』には、「応仁記にいわく」という形で「応仁記』をもとにした記述がみられる。ここで検討したいことは、白石が参照した『応仁記』が一一巻本か三巻本かということである。白石は「読史余論』を書くにあたって、「当時可能なあらゆる(旧)書物を参考に‐している」と一一一一口われているし、またそれが可能な立場にもあった。もし、二巻本『応仁記』と三巻本『応仁記』の両方が存在するなら、白石は必ずや両書を参考にしたはずである。だが、結論を先に言うと、白石の参考にした『応仁記』は二巻本の方であって、三巻本の方ではなかった。このことの意味することは、白石が『読史余論』を書いた頃には三巻本『応仁記』の存在しなかった可能性が高いということである。白石が『読史余論』を将軍家宣に進講したのが正徳二年(’七一二)の春から夏にかけてである。それより前の、元禄十一年(旧)(’六九八)六月には応仁の乱について進講している。応仁の乱に関する白石の見解がこの頃にはできていたと考えると、白石は元禄十一年頃にはまだ三巻本「応仁記』を目にしていないことになる。つまり、三巻本『応仁記』は一七○○年頃にはまだ成立していない可能性があるということである。二巻本『応仁記』については寛永十年(一六一一一三)版本が残されていることもあり、白
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石の入手の可否については何の問題もない。ところで、白石の参考にした『応仁記』が二巻本『応仁記』であるということの検証は次の方法によった。三巻本『応仁記』は二巻本『応仁記』と『応仁別記』とを中心に編纂されている。つまり、三巻本『応仁記』には『応仁別記』の記事が取り入れられている。そこで、『読史余論』で、「応仁別記』からとして引用されている記事が、三巻本『応仁記』にも取り入れられている記事であるならば、白石は三巻本『応仁記』を参照していないことになる。白石が三巻本『応仁記』を使用しているのならば、そうした記事は『応仁記』からの引用として記載されて、『応仁別記』からの引用としては記載されることはないからである。つまり、『読史余論』で『応仁別記』よりの引用と明示されている記事が三巻本『応仁記』にも記載されていたら、白石の利用した『応仁記』は二巻本『応仁記』であるということである。ここではそうした例を一つだけ引用・記載することで、白石の参考にしたのは二巻本『応仁記』であったことの証拠にかえたい(次の引用文中、『読史余論』の記事で『応仁別記』から引いたと思われる記事には○印、『応仁別記』の記事で三巻本『応仁記』に取り入れられた記事には傍線を引いた。『応仁別記』と三巻本『応仁記』とはほぼ同文であることがわかろう)。『読史余論』oCOCO。。CO。。COOII応仁別記を按ずるに、義視、五月廿五日より義政と一所○COCO○○○○CO○○COにあり。八月廿日細川が屋形に招ず。義政、此事を尋られし○○○。○○○COCOCOCO○○○○○○oに、「御所様には山名を御ひきあれば、此御所を頼入たる」 法政史学第四十七号
-1人「出川殿ハ。五月廿五日ヨリ室町殿一一御一所一一御座有ケ 一○○
oCO○○CO。。○○CO○○○とばかり答ふ。廿一一日に、義視より使して、「|所におはさ。○○CO。。。。○○。。。○CO○○○○○○oむ事は、勝元由‐し支る故に延引のよしなれば、等閑なき事、OoCOCOCOCOCOCO○○COCOCOCO肝要也。たL其御所に」と義政より仰られしかど、廿一二日に。○○COCOCOo(、)戌刻ばかり御所を出て伊勢に下られし、と見一えたり。『応仁別記』11△「出川御所ハ始五月廿五日ヨリ室町御所二御座アリケルガ。世上漠々トアル間還御ナル。細川勝元屋形へ御成アレト被し申ケレバ。八月廿日御成アラントシケル一一。(略)御所様ノ御事。山名ヲ御ヒイキアレバ。此御所ヲ頼入タルト被し申計ニテ其日モ暮ニケリ。廿二日一色伊豫守ヲ以・御一所二御参ノ事。勝元依二相與|御延引ノ由御申有。御返事ニハ。無二等閑一事肝要也。唯其御所一一トコマゴマ成りシ御返事也(旧)シカドモ。同廿一一一日戌ノ刻二御所ヲ御出アリ。三巻本『応仁記』
様ノ御事山名ヲ御晶負アレバ。此御所一一卜被レ申計ニテ分明
閑一思食ノ間。唯其御所一一可し有一一御座一ノ由御返事ナリシ 可レ有虚二依二相支申一御延引ノ由言上有パ。更一一無二等
カドモ。トカクアシカリナント思食ケルニャ。同廿三日戌刻 卜被し申ケレパ。八月廿日御成アラントシケルニ(略)御所
一一御所ヲ御出アリ。0手掛かりの検討(其の三) ノ事モナク。其日ハクレーーケリ。廿二日一色ヲ以御一所参 j力漠々卜間還御ナレ細川勝元〆へ御成アレ
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三巻本『応仁記』巻一一一の最終章〈山名入道逝去之事。付漢賓嬰事〉は三巻本『応仁記』の編纂者があらたに追加した部分である。この章の最終部分に、「山名死シテ五十日過ザル一一。勝元天年ヲ不し終シテ逝スル事。天ノナス所也。兵書日。兵者凶器也。争ハ逆徳也。徳ヲ修セズシテ威ヲ以人一一勝タントスレバ。天亦其(”)晩ヲ奪う事。誠ナル哉」という文がある。ここで検討の対象とするのは、この文の「兵書日」以下の部分である。『兵者凶器也。事ハ逆徳也」という言葉は『尉線子』武議篇の言葉である。だから、ここでいう兵書とは『尉線子』のことである。普通なら「尉線子日」という形で書くべきところを「兵書日」ですませている。このことは『尉線子』が兵書として一般化していること、それだけでなく、読み手の方も兵書と言えば『尉線子』もその中に含まれるぐらいは知っていることを想像させる。そういう時代は一体いつ頃のことだろうか。中国で、宋の元豊年間(一○七八’一○八五)に、武学において学習すべきものとして六鞘・孫子・司馬法・黄石公三略・尉線子・唐太宗李衛公問対の七書が武経七書と定められた。武経七書の注釈は明代になって多くなった。日本においては、室町時代に(釦)武経七書が広く研究された形跡はないという。慶長十一年(’六○六)に『武経七書』が木活版で刊行された。このことからもわかるように、七書の研究が広まったのは江戸時代になってからのようだ。ためしに、『国書総目録」(岩波書店)の尉績子のところ(〃)を見ると、尉績子諺解③林羅山
三巻本『応仁記』について(柳本) 尉線子諺義(武経七書諺義のうち)尉練子国字解②谷鬼谷(近世漢学者著述目録大成による)尉線子評判⑮慶安四版尉線子秀詮③田村政謙⑥慶応二序尉績子略説③伊藤鳳山(近世漢学者著述目録大成による)と書いてある。いずれも江戸時代以後の研究書である。一六○○年代も中半になると軍法や兵学が流行する。右にあげ(、)た本の.つち、『尉線子諺義』を書いたのは山鹿素行であるが、そ(型)の山鹿素行について書かれた文に、「『配所残筆』別には、〈世上に軍法者多候共、……〉ということばがひかれているが、素行の(お)在世当時には軍法・兵学が流行していた」とみ》える。『尉線子』が兵書という言葉で通用するようになったのはこの頃からではなかったか。また、この頃の軍法や兵学は、「単なる戦闘の技術から、その兵学を成り立たせている哲学や武士の日常的なあり方(士法)(妬)に、しだいにその重点をうつし」たものになっていた。いわば儒学的な視点から研究される軍法や兵学であった。三巻本『応仁記』が「兵者凶器也。串ハ逆徳也」という句をうけて、「徳ヲ修セズシテ威ヲ以人一一勝タントスレバ。天亦其晩ヲ奪う事。誠ナル哉」という感想を述べているが、これは儒学臭が強い。『尉績子』での「兵者凶器也」の言葉は、「武器は不吉な道具であり、争いは望ましからぬ行為であり、軍人は人を殺すのが使命である。したがって、武力に訴えるのは、万やむを得ぬ場合の手段で(幻)なければならない」という文脈で使われており、争は逆徳l徳
一
○
一
を修せず云々という論の運びとは全く異質のものだった。結論はこうである。三巻本『応仁記』の「兵書日」以下の記述は、その文面からみても内容からみても、一六○○年代中半以降ならば時代との違和感を覚えずに記述できる。すなわち、三巻本『応仁記』は一六○○年代中半以降なら存在しても不思議はない。側手掛かりの検討(其の四)三巻本『応仁記』から、一一巻本『応仁記』に色濃くあった野馬台詩・百王思想に基づく記述が全く欠落してしまったということの検討に移る。三巻本『応仁記』が一一巻本『応仁記』と『応仁別記』とを編纂したものと考えたとしても、この編纂を単に二書をよせ集めたものと考えてはならない。そこには当然に編纂者の視点が存在する。編纂作業とは編纂者の視点に立った歴史の書き直し作業である。三巻本『応仁記』の編纂がどういう視点に立っていたかをここで明言することはできないが、少なくても野馬台詩の視点が欠落していることだけはわかる。二巻本『応仁記』の野馬台詩的視点に立った記述が、三巻本『応仁記』には何一つ取り入れられなかったからである。何故この視点が三巻本『応仁記』の編纂者から消えたのか。|番ありうる可能性は、編纂者の生きていた時代から、世の中を野馬台詩で認識するという視点が失われてしまったからである。人は時代の子である。時代が野馬台詩的認識のもとにある時、その認識から逃れるのは容易ではない。しかし、時代がその認識を失ったならば、人も簡単にその認識を失ってしまう。 法政史学第四十七号
では、野馬台詩的認識に立った視点が失われるのはいつ頃か。それは野馬台詩的時代認識を内側から支えていた百王思想が意義を失った時である。百王思想とは、百王による統治が終わると王法仏法が共に滅尽する乱世に落ち入るという思想で、この思想の活力源は眼前の乱世であった。逆に言えば、世の混乱が収拾し、しかもその状態が続いて、世の中は安定したという時代認識を人々が持つようになれば、百王思想は活力を失って風化してしまう。そしてその時、野馬台詩的時代認識も過去のものとなる。人々が時代は安定したという認識を持つのはいつか。それは、江戸時代に入り、徳川支配体制がある程度続いてからだと思う。「江戸時代に学問が興隆すると、百王思想の入りこむ隙はなく(”)なった」と一一一旨われるが、学問の興隆よりはむしろ時代の安定の方が重要であろう。世の太平は、軍学や兵学を実学から士法に変えたように、時代を認識する視点も変えたのである。新井白石は『読史余論』で、義政の治世を批判しているくだり(鯛)に、「無道はこれ、猿犬の前表なるものなり」という文を『応仁記』から引用して載せている。この文はそれ以前の引用文にひきずられてまぎれ込んだものであるとしても、白石が野馬台詩的認識から完全には脱却していないことを示している。以上のことを考えあわせると、三巻本『応仁記』から野馬台詩的視点が欠落したのは、この本が江戸時代に入って世の中が安定してから編纂されたからであると考えられる。しかもこの本の編纂者は、白石にさえ残っていた野馬台詩の痕跡を完全に払拭しているのだから、三巻本『応仁記』は白石が『読史余論』を進講し
○
た時よりもさらに時代が下がってから編纂されたのではないかと推測させる。⑤成立時期の検討から得た結論これまでに検討してきたことから次の結論を得る。一一一巻本『応仁記』は江戸時代、それも新井白石が『読史余論』を進講した頃以後、すなわち一七○○年頃以後に成立した。これは通常三巻本『応仁記』が成立したと思われている室町時代末期の天文・永禄よりは百年以上も後であり、二巻本『応仁記』の成立時期と比べるならば二百年以上も後である。
三巻本『応仁記』の成立時期についての検討を終え、同時に、三巻本『応仁記』の編纂者がその編纂にあたって何故野馬台詩的視点を取り入れなかったか、という疑問についても考えた。これからは三巻本『応仁記』編纂の視点は何かという問題を考えたい。ここで、資料にのせた一一巻本『応仁記』・『応仁別記』・三巻本『応仁記』の関係表を、備考欄に着目して見てほしい。備考欄に○印がついているのは、二巻本『応仁記』や『応仁別記』に見えない記事が記述されていることを示している。〈近江越前軍之事〉や〈山名入道逝去之事〉の章のように全文が二書以外の記事でできているものの他にも、かなりの章で二書以外の記事が認められることがわかる。こうした記事は三巻本『応仁記』独自の記事とみられてきた。三巻本『応仁記』が一一巻本『応仁記』と『応仁別 四一一巻本『応仁記』・『応仁別記』・’一|巻本『応仁記』(再論)
三巻本『応仁記』について(柳本) 記』とを編纂整理したものであるという考えに立つかぎり、編纂にあたって独自の記事が入ることは編纂作業上当然のこと、逆に少しぐらいは独自な記事が入らない方がおかしいからである。しかし、次の事実に気がついた時、これらの記事が本当に三巻本『応仁記』独自の記事なのかどうかに疑問が生じた。資料にのせた三書の関係表で、章立てになっている〈近江越前軍之事〉と〈山名入道逝去之事〉の二章を除いて、関係表の備考欄に印のついた記事、すなわち「畠山義就をめぐる山名の計略」、「成身院光宣ら政長方につく」、「勝元、政長に落ちることを指示」、「主上内裏へ還幸」のいずれの記事も『応仁広記』(これは『重編応仁記』を構成する一編である)にその記載がみられる。そればかりではない。|章が二巻本『応仁記』と『応仁別記』の両方の記事を構成して成立したと思える章の、その記事の並び方も『応仁広記』の記事の並び方とほとんど一致しているのである。『室町軍記総覧』は『重編応仁記」について「宝永年間二七(卯)○一二-’七一一)、小林正甫の作」と述べ、それを構成する『応仁広記」については、「応仁広記は応仁の乱の顛末を描いたもので全五巻(中略)『三巻本応仁記』を核に多くの資料で整えたものである。巻五の最後には『応仁記』の『野馬台詩』の注解と序(釦)が置かれている点も注目される」と書いている。三巻本『応仁記』の成立時期を天文・永禄以降という見解をとるかぎり、天文・永禄と宝永という年号の順序にしたがって、この『室町軍記総覧』の解説のように考えざるをえない。そして、三巻本『応仁記』の記事で、二巻本「応仁記』や『応仁別記』の
○=
記事と重ならないものはやはり三巻本『応仁記』独自の記事であり、「応仁広記』は三巻本『応仁記』を核に整えたものであるから、『応仁広記』と三巻本『応仁記』の記事の並び方も一致して当然であるということになろう。だが、前の節で検討したように、三巻本『応仁記』の成立時期を一七○○年頃以降だとすると、『応仁広記』が宝永年間二七(犯)○一’’’一|)に成立したとされていることとを考えあわせて、一一一巻本『応仁記』と『応仁広記』との関係は、必ずしも『室町軍記総覧』で言うような『応仁広記』が三巻本『応仁記』を参照にしたという関係ばかりが成りたつわけではない。三巻本『応仁記』が『応仁広記』を参照にしたという関係も成りたちうる。そして、この後者の関係が成立するならば、三巻本「応仁記」が一一巻本『応仁記』と『応仁別記』とを編纂整理して成立したという考えは修正されなければならないし、三巻本『応仁記』独自の記事と見られていた記事も『応仁広記』を引き写したにすぎないということになる。そこで、次に、三巻本『応仁記』が『応仁広記」を参照にしたのか、それとも『応仁広記』が三巻本『応仁記』を参照にしたのか、という問題を考える。三巻本『応仁記』の編纂の視点について考えるためには、この問題に解決を与えておかねばならないからである。
五三巻本『応仁記』と『応仁広記』
三巻本『応仁記』と『応仁広記』の、どちらがどちらを参照し 法政史学第四十七号
たのかをはっきりと示すものはない。したがって、両者の関係は推量するしかない。両書の関係を推量する手立ては二つ考えられる。一つは、『重編応仁記』白応仁広記』はその一編である)に「発題」と題した前書が付いているので、それを検討してみることである。もう一つは、両書の同主旨の内容の文を比較しながら検討することであ
る。Ⅲ「発題」の検討『重編応仁記』の「発題」には、その筆記の目的が、応仁の乱前より永禄の初めにいたるまでの「戦国の最中」の公方家のことを知ることであり、そのためにはいろいろな書物を参照した、と書いてある。何故そうした目的を持ったのか。「干し期近世の倭者文章を荘り理義を巧み、利口に時勢を作り成して、旧記宜録と櫓する偽書(”)往々又惟多し」。そうした信用するにたりないものが世の中に流布している。「凡そ古を好んで旧記を見んと欲する人は、只宜録を好んで事實を執り、疑しき事を閥て臆度の説を用ふくからず。是れ旧記を讃の用心也。抑應仁丁亥の乱よりして室町家衰庵し、天下戦國と成る事百二十餘年、本朝未曾有の乱世にて、古記、旧文、諸家の書籍、或は焼失或は紛失、幾萬秩共無二限量一悉く減(狐)却して、僅残る者只百分の一を存す」。そのせいもあって、応仁の乱前後より永禄の初めまでの戦国の時期については公方家のことは知りがたい(永禄以降については信長記、天正記へ太閤記をはじめとして多数の旧記がある)。そこで、その時期のことを記 一○四
すものを尋ね、「予於レ是此の數十部の中よりして要用を披ひ取り、寅事を撰り出し、其疑しきを閾き年序に従て其の類次を分ち、集めて一部の書を述し、遍に旧記の名を不し除、字を加えて(妬)重編應仁記と號す」。そして「発題」の文中に、本朝歴代の旧記として『応仁記』の名をあげ、そのほか『重編応仁記』をまとめるにあたって尋ね見た「武家の旧記には寛正記を始として、蜷川親元が日記、異本應仁記、長享年後兵飢記、所々御成次第、御人數帳、御元服記、穴(犯)太記、十五巻記、皆公方家の事を述ぶ」と記して、『異本応仁記』の名をあげている。すなわち、「発題」には『応仁記』と『異本応仁記』という二冊の書名が掲げられている。『応仁広記』の総目録(Ⅱ目次)を見ると、巻第五に〈偶鼠草案井序〉という一章が置かれている。この章は二巻本『応仁記』の序およびそれに続く始めの部分と同文である。このことは『重編応仁記』の作者が二巻本『応仁記』を参照していたということを示している。「発題」にいう『応仁記』とは、多分、二巻本『応仁記』のことと思われる。では、「発題」に言う『異本応仁記』とはいかなる内容のものか。『重編応仁記』執筆の目的が公方家のことを知ることにあったということを考えると、これは『応仁別記』のことだと思われる。『応仁別記』の特徴を書いたところでも述べたが、『応仁別記』には公方家(義視も公方家である)についての記述が多いからである。
三巻本『応仁記』について(柳本) 『異本応仁記』が三巻本「応仁記』である可能性はないか。『重編応仁記』の作者の、すでに引用した旧記を取り扱うときの態度を考えるなら、その可能性は少ないと思う。『異本応仁記』が三巻本『応仁記』のことであるとするならば、作者は、その旧記を扱う態度から推量するに、三巻本『応仁記」の記事で一一巻本『応仁記』には見えない記事についてはその虚実をざっとでも確かめる作業をしたはずである。そうした作業の過程で、作者が『応仁別記』の存在を知ることはさほどむずかしいことではない(新井白石は日記に入手した書物の名前を書いているが、その中に『応仁別記』の名前も見ることができる)。そうした場合、この作者は『応仁別記』に該当する書物の名前も尋ね見た武家の旧記のリストの中に書いただろう。つまり、このリストの中に、応仁記の名をつけた旧記が『異本応仁記」の一冊だけでなくもう一冊書かれたはずだ。こう考えれば、『異本応仁記』は三巻本『応仁記』ではなく、『応仁別記』でなければならない。以上から、『重編応仁記』の作者は二巻本『応仁記』と『応仁別記』とを目にしていたことはわかる。だからといって三巻本『応仁記』を見ていないという保証はない。作者は三巻本『応仁記』を見たが、それを見たということを書きたくなかったかもしれないからだ。だがこうした考えは次の事実によって根拠の弱いものになる。もし、『重編応仁記』の作者が、『応仁広記』を書くにあたって、通常いわれているように三巻本『応仁記』を骨子にしたのなら、作者は何故一一一巻本『応仁記』の巻三にあるく洛中大僥之事〉の章を骨子として取り入れなかったのか。しかも、骨子
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として取り入れなかっただけでなく、〈洛中大僥之事〉のもとの形である二巻本『応仁記』の文を、そのままの形で『応仁広記』巻第五に付録のような扱いで〈堰鼠草案井序〉と題して載せたのか。『応仁広記』が三巻本『応仁記』を骨子として書かれたと考えるかぎり、このことを説明するのは容易ではない。しかし、逆に、三巻本『応仁記』が『応仁広記』を参照にしたと考えるならば、この事実にも説明を与えることができる。すなわち、『応仁広記』で付録扱いされていたく値鼠草案井序〉から京都の焼けた描写の記事を切りとり、つなぎあわせて一章となし、三巻本『応仁記』の当該箇所に〈洛中大僥之事〉として入れた、と。(〈洛中大僥之事〉に関しては後で述べるが、三巻本『応仁記』のこの記事の扱いは誤っており、「応仁広記』の付録扱いの方が正しい処理である)。こうして、あくまで推量ではあるが、三巻本『応仁記』が『応仁広記』を参照にしたと考える方が、その逆であると考えるより(”)も納得がいくのである。②両書の文章の比較による検討以下に、記事の出典が二巻本『応仁記」による〈例1〉・〈例2〉と、『応仁別記』を記事の出典とする〈例3〉とを示す。①〈例1〉二巻本『応仁記』lさて元綱が足弱共は、丹波を指して落行けば、跡間ふ者(犯)もなかりしに、此六郎に近付きし僧のありけるが、。…:『応仁広記』 法政史学第四十七号
’抑そ安富元綱ガ残兵等皆丹波路へ落行キ討死ヲ遂シ面々ノ死骸ヲ治ムルモノナカリシ一一常二細川六郎ニ近付クル|人(卵)ノ禅僧来テ死骸ドモ取納メ…:・三巻本「応仁記』l元綱ガ手ノ者ドモ丹波へ落行.死骸ヲ治ル人モナカリシ(㈹)二。六郎ニ近付シ禅僧来テ死骸ドモトリ治メ。:.…右の例で、二巻本『応仁記』では「此六郎に近付きし僧のありけるが」と書かれている部分が、『応仁広記』では「常一一細川六郎ニ近付クル|人ノ禅僧来テ」と書かれていて、来たのは見も知らずの僧ではなく、常に六郎に近づいていた僧だとの説明を加えている。だが、三巻本『応仁記』では「六郎ニ近付シ禅僧来テ」と書いてある。この文はよく読むと意味不明である。この意味不明は、三巻本『応仁記』が一一巻本『応仁記』と『応仁別記』との折衷に失敗した結果であると思われる。に陰に腰障FIllo此対郎口同判別劃u僧ありけるが
+「応に広記』常二細川六郎ニ近付クル|人ノ禅僧来一プ
ーー葱本『応仁記」一
六郎二近付シ禅僧来テ(↑意味不明瞭)o〈例2〉二巻本『応仁記』l此六郎十六歳を一期として、やみやみと討たれければ、(い)惜しまぬ人}」そなかりけれ。『応仁広記』 ’○六
(枢)11-六郎今年十六歳宴ニオシキ若武者トソ云ケル三巻本『応仁記』(い)‐11今年ハ六郎殿十六歳卜聞エシ。右の例で、二巻本『応仁記』と『応仁広記』とは同じ主旨の文である。だが、三巻本『応仁記』は「今年ハ六郎殿十六歳卜聞エシ」と書いて終わっており、あたかも『応仁広記」からその前の部分だけをとったかたちとなっている。三巻本『応仁記』のこの文は、確かにこれでも意味は通じるが、前後の内容にてらしてみるならば唐突な文である。いずれにしろ、この例での文の参照の流れは、二巻本『応仁記』↓『応仁広記』↓一一一巻本『応仁記』となっているように思われる。o〈例3〉『応仁別記』l美作国ハ山名修理大夫政情ノ伯父也.掃部頭在国シテ堅固二居ラレケレバ。一同一一打明度ハ恩へドモ。先京都へ可二(“)罷上一ノ由急々アリケレバ。先閣一ア上洛トゾ間シ。『応仁広記』l美作ハ山名修理大夫政情ノ領国ニテ伯父掃部頭在国堅固也是ヘモ攻入テ打平ケクク恩ヒケレトモ京ノ軍近々也卜傳へ(帽)聞一ナ作州ヲ打捨馳上リヌ三巻本『応仁記』l美作ハ山名修理大夫政情ノ伯父掃部頭在国シテ堅固一一居ケレバ。切入度思へドモ。京都へ急ナリヶレバ。先閣テ上洛(“)ス。
三巻本『応仁記』について(柳本) 右の例では三巻本『応仁記』の粗雑さが目につく。「京都へ急ナリケレパ」とあるが、何が急なのかわからなく、意味不明瞭である。この意味不明瞭さは『応仁別記』の「先京都へ可二罷上一ノ由急々アリケレパ」という記事を無造作に短縮したからだ。これに対し、「応仁広記』で「京ノ軍近々也卜傳へ間テ作州ヲ打捨馳上リヌ」と書かれた文は、主旨としては『応仁別記』と同じ、しかも内容からいうと『京ノ軍近々也卜傳へ間テ」という『応仁別記』とは別の情報も入っている。『応仁広記」と三巻本『応仁記』とを比べてみると、一一一巻本『応仁記』の記事は粗雑・意味不明瞭であるのに対し、『応仁広記』の文は首尾一貫している。三巻本『応仁記』の粗雑さは既成の文を切り継ぎしたことによって生じている。このことは〈例1〉・〈例2〉でも見られた態度だ。その結果、三巻本『応仁記』には二巻本『応仁記』または『応仁別記』と『応仁広記』とのはざまに立ったとしか思えない意味不明瞭な箇所や唐突な箇所が散見されることになる。こうした三巻本『応仁記』の姿勢からうける印象から判断するに、一一一巻本『応仁記』の作者は二巻本『応仁記』や『応仁別記』にはない独自の記事を調べてあちこちにつけ加えることができるとはとても思えないのである。0検討により得た結論右に検討してきたことから、三巻本『応仁記』が『応仁広記』を参照したと推測する。すなわち、三巻本『応仁記』は二巻本『応仁記』・『応仁別記』・『応仁広記』の一一一書から構成された。ただ、’一一巻本『応仁
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記』の文の出来方から考えるならば、二巻本『応仁記』と『応仁別記』の両者に共通する時期の記述については(つまり応仁元年十月合戦までの記述については)三巻本『応仁記』は構成を『応仁広記』に借り、文はできるかぎり二巻本『応仁記』や『応仁別記』を参照して作成したと思われる。そして二巻本『応仁記』の記事が終わった後の時期(Ⅱ応仁元年十月合戦以降)については、三巻本『応仁記』の編纂者は『応仁広記』からも離れ、ただ『応仁別記』を転写することに終始した。三巻本『応仁記』の巻一一一のはじめに、応仁の乱と直接かかわりを持たないと思われる〈赤松家傳之事井神璽御事〉の章が置かれているのも、その記事が『応仁別記』には応仁元年十月合戦よりも後に書かれていたため、三巻本『応仁記』の編纂者が深く考えずに『応仁別記』をただ転写したことから生じたことなのであ(仰)る。
二巻本『応仁記』・『応仁別記』・「応仁広記』から三巻本『応仁記』を構成・編纂した編纂者の視点はどこにあったのか。三巻本『応仁記』の編纂者はその巻三に、『応仁別記』にはない〈洛中大僥之事〉、〈近江越前軍ノ事〉、〈山名入道逝去之事〉の三章をあらたにつけ加えた。このうち、〈山名入道逝去之事〉の章は特に注目される。なぜなら、この章は三巻本『応仁記』の最後に置かれ、その結果、応仁の乱の記述はその原因、その展開、 六三巻本『応仁記』の編纂者の視点l〈山名入道逝去之事〉 法政史学第四十七号
その結末と一つのまとまりを持つことができたからである。そして応仁の乱の記述に完結をもたらせていることが三巻本『応仁記』の他の書には見られない特徴なのである。すなわち、〈山名入道逝去之事〉で応仁の乱に結末を与えたことの中に、三巻本『応仁記』の編纂者の視点が示されている。応仁の乱の結末をいつにするかは応仁の乱に対する見方を示すものとなる。たとえば文明九年に結末を見るとすると、それは応仁の乱を洛中の戦闘状況に重きを置いて見る見方となろう。三巻本『応仁記』の編纂者は細川勝元・山名宗全の死に応仁の乱の結末を見た。しかも応仁の乱を両氏の私闘とみなす視点に立っていた。なぜなら、この編纂者は両者の死に関連して漢の魏其侯賓嬰と武安侯田紛の故事を持ってきているからである。「魏其はまことに時勢の推移を知らず、灌夫は無学で不遜であり、この両者が助けあって禍をひきおこしたのである。武安は尊貴の身をたのんで権勢を好み、酒林献酬のことで恨みをもち、両賢人をおとし入れた。哀しいことではないか。怒りをひとにうつして、わが命もまたのびず、衆人に推重されないで、ついに悪評(妃)をこうむった.哀しいことではないか」lこう司馬遷に批評された魏其と武安は私的な争いゆえに命をなくした。そして三巻本『応仁記』の編纂者は魏其に宗全を、武安に勝元を擬して、宗全も勝元もこれと同じであるといいたいのである。三巻本『応仁記』の編纂者の応仁の乱を見る視点が、宗全と勝元の私闘と見る視点になってしまったのは何故だろうか。それは編纂者が安定した時代から乱世を見ていたために、応仁の乱の頃 一○八
は時代そのものが変動の渦中にあったという視点を失ってしまっていたからだ。三巻本『応仁記』が編纂された江戸時代中期に、乱といったら、それは徳川家支配という安定した基盤の上に立って起きた御家騒動的な乱であった。だから、時代全体が動揺していた乱世というものを想像することができなくなっていたのであ
る。二巻本『応仁記』の作者は時代の動乱の中から乱を見た。乱を山名・細川二雄の争いとみたのは時代を認識するためでもあった。しかし三巻本『応仁記』の編纂者は安定の中から乱を見た。そのため、二巻本『応仁記』では時代を見る視点でもあった二雄の争いが、三巻本『応仁記』の編纂者には文字どおり一一雄の争いと見えたのである。その結果、乱を二雄を使って解説するしかできなかった。それが、「兵者凶器也。争ハ逆徳也」という教訓的・儒学的な解説であった。ただ、ここで編纂者の勝元と宗全に対する態度をみると、勝元により批判的であるのに気づく。宗全の七十歳の死には精力のつきた死であると述べるが、勝元の四十四歳の死については、「血(ぬ)気二誇り事ヲナスモノ。|方果ヌレバ必ズ死ヌル」といい、さらに、「徳ヲ修セズシテ威ヲ以人一一勝タントスレバ。天亦其晩ヲ奪う事。誠ナル哉」と評しているからである。三巻本『応仁記』は細川勝元に好意的であると一般には考えられているが、それは三(卯)巻本『応仁記』が参照した『応仁別記」や『応仁広記』が勝一元に好意的であったのを反映しているにすぎない。
三巻本『応仁記』について(柳本) 『重編応仁記』は「発題」にもあるように、「年序に従って其類次を分」けたために年代記的作品となった。この『重編応仁記』(ここではその一編をなす『応仁広記』)に準拠した三巻本『応仁記』もそれを反映して、記事はだいたい年代順に並んでいる。巻三の〈洛中大僥之事〉の章は、その記事中に特に年月が記されていないが、三巻本『応仁記』の年代記的な構成を考えれば、その前後の章の記事の年月から〈洛中大僥之事〉の年月を推量させる仕組みとなっている。すなわち、〈洛中大僥之事〉は〈今出川殿御上洛之事〉と〈義視西陣へ御出之事〉の両章の記事にはさまれており、前者の記事は応仁元年八月から応仁二年十月の間の記事、後者の記事は応仁二年十一月から応仁一一一年(文明元年)五月の間の記事であるから、〈洛中大僥之事〉の記事はだいたい応(別)仁二年末頃の状況を叙述していると受けとることができる。だが、〈洛中大僥之事〉の記事に日付を特定することは適当でない。この記事は本来日付をつけることができない記事だからである。何故日付を付けられない記事なのか。その理由は、〈洛中大僥之事〉の記事が、二巻本『応仁記』上巻の全文六十頁のうち十二頁を占める京の昔日の回顧の叙述を抜粋してつなぎあわせた記事だからである(ただ、三巻本『応仁記』の編纂者は二巻本『応仁記』の文ではなく、これと全く同文である『応仁広記』巻第五〈堰鼠草案井序〉の文を使って抜粋。 七一一一巻本『応仁記』の編纂で生じた誤りl〈洛中大嶢之事〉
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編集した)。二巻本『応仁記』の成立は文明五年以降であるから、この京の回顧の叙述も文明五年以降に書かれた。従って、二巻本『応仁記』の作者が回顧を呼びおこすきっかけとなった眼前の光景は文明五年以降の光景であった。そして、眼前の光景と比較して京の昔日を回顧し叙述しているのだから、その回顧には日付などどうでもいいのである。「七百餘歳の花の洛、今何ぞ犬戎の境となるや。これに就て近代、予が見及ぶ所、京白川へかけて、二十萬軒の人家、皆郊野となりぬる事をば先ず措いて、佛閣僧坊、大家大仁の旧迩、悉く絶え果てて、名をさえ残さざること、歎かはしく存ずるまま、閑居(塊)のいとまに、略して其の一一一を挙げ、以て後の君子を待つ」lこれでもわかるように、二巻本『応仁記』の作者は京都の昔日を回顧して記録にとどめたいだけなのである。〈洛中大僥之事〉では、「花洛ハ員一一名一一負う平安城ナリシoCOo(副)二・不し量應仁ノ兵乱二依一ナ。今赤土ト成ニケリ」と、いま眼前に生じた事実であるかのような書き方をしている。しかし、同じ部分が二巻本『応仁記』では、「……故に九重莞を並べ、萬国筐を棒ぐ。江の南北、湖の東西、虚として朝せずといふこと無し。眞に名に負ふ平安城なりしに、量らざりき、應仁の兵乱に依りCOCoo(別)て、今赤土とならんとは。:…」と書かれていて、乱によって焼かれる前の、「高宮雲に聟え、複道空に行く。五歩に一槙、十歩に一闇、出入騒人の墨客、心を留めざるはなかりけり」という情景を描くための導入の役割をふりあてられているにすぎない。三巻本『応仁記』でも「高宮……」以下の部分がそっくり引き写され 法政史学第四十七号
ているが、その前の文を「赤土トナリニケリ」と書き改めたために、「高宮……」以下の部分は何のために記述されたかわからない意味不明瞭なものとなっている。こうした意味不明瞭は、二巻本『応仁記』では回顧するために記載した災害を、三巻本「応仁記』では眼前進行中の事実であるかのように書いたために、昔日をしのんで記述した文がすべて浮きあがってしまったことによって生じたのである。そうした意味では、極言すれば、〈洛中大僥之事〉全文が意味不明瞭である。もう一つ例を述べる、〈洛中大僥之事〉に、「二條殿ノ御事ハ騒山ノ昔シヲ眞似。温泉臨。華清宮。四季二絶セヌ詠アリ。初大名(弱)ノ家ヅクリ。・・・…」という文がある。この文からは一一条殿がどういう情況なのかは何一つわからない。それも当然で、二巻本『応仁記』では「……詠アリ」と「大名ノ家ツクリ」との間に、「四季一一絶セヌ詠アリ」の言葉をうけた春夏秋冬の饗宴の様子を書いた部分、さらにはそれに続けて、「この殿の跡をし見れば、賎が屋を御池の上に造りかけ、不淨を流す有様は、古の金谷園の詩に顯す。当時歌舞地、不説草離々、今日歌舞識、満園秋露垂。之を和していふ、當時二條地、不説糞離々、今日一一條識、園満展尿(髄)垂。淺猿しノー」という文が書かれている。〈洛中大僥之事〉ではこれが落ちている。この文をも加味してはじめて二條殿の記述が完成するのであり、二巻本「応仁記』を書いた時点で二條殿の情況が荒廃のきわみにあることが、昔のみやびな描写と対照されて見えてくるしかけになっている。〈洛中大僥之事〉の章が応仁二年頃に挿入されているからと
 ̄
○
いって、それが応仁二年頃の情況とは無関係であることは以上の(印)ことでわかるだろう。年表を見れば、応仁二年以後でも、文明一一年、六年、七年、八年、九年と寺社等の焼けた記事が見える。二巻本『応仁記』の作者の眼前にある焼け跡は応仁二年以降に焼けた部分も含まれているのである。二巻本『応仁記』の作者は京の昔日を回顧するにあたり、眼前の京の荒廃が「応仁の兵乱によりて」もたらされたと記述した。それを三巻本『応仁記』の編纂者は応仁二年のところに組み込んだために、「応仁の兵乱」という言葉の意味が、京の荒廃をもたらした兵乱という意味から、応仁元年から二年にかけての兵乱という意味に変わってしまった。三巻本『応仁記』の編纂者は、この回顧記事を何故応仁二年に組み込むというまちがいをしてしまったのか。それは、この編纂者が参照した『応仁広記』の〈偶鼠草案井序〉の章が、年代記的な流れからはずされて、巻第五として付録のような形で掲載されていたからである(すでに述べたが、〈洛中大僥之事〉は〈堰鼠草案井序〉を換骨奪胎してつくったものである)。三巻本『応仁記』の編纂者は〈堰鼠草案井序〉の内容に京が焼けたことが書かれていたので、京の焼けた事実をなんとか三巻本『応仁記』に組み入れようと考えたのだが、〈堰鼠草案井序〉の章は付録扱いだからいつの時期かはっきりしないし、中を読んでみても時期がはっきりとかかれていない。そこで、だいたいこの頃だろうと考えて、応仁二年頃に組み入れたのだ。そして、まちがったのであ(卵)(卵)る。
三巻本『応仁記』について(柳本) 註(1)古典遺産の会編『室町軍記総覧』(明治書院)、’○|頁。(2)「重編応仁記」『北条九代記・重編応仁記』(続国民文庫)、三四○頁。(3)『群書解題4』、’九頁。(4)永島福太郎『応仁の乱』(至文堂)、’七頁。(5)松林靖明『応仁記試稿」『古典遺産』二○号、八七頁。(6)「応仁の乱の軍記では『文正記』(文正元年述作、文亀二年の書写識語がある)のように古い述作だということを示すものが多いが、文運の開けた天文ごろから述作されはじめたのが妥当だろう」。永島『応仁の乱』一七頁。(7)桜井好郎「室町軍記における歴史叙述」『名古屋大学日本史論集上』(吉川弘文館)、四四七頁。(8)桜井「室町軍記における歴史叙述」四四八頁。(9)『室町軍記総覧』一○九頁。(田)松林「応仁記試稿」九一~九四頁。(Ⅱ)杉本圭三郎『応仁の乱』叙述の視点」『軍記と物語』昭和四九年十月号。(旧)この節および次の第三節では、三巻本『応仁記』が二巻本『応仁記』と『応仁別記』から編纂・整理されて成立したという考えに立って話を進める。第四節以降ではこれと違う考えを述べるつもりでいる。(旧)「応仁記」『群書類従加』四一九頁。(M)大田南畝『|言一話』には『群書類従』四百八拾巻の目録とその宣伝文がのっている。この目録では合戦三五巻となっている。現在の『群書類従』の合戦は三一巻(そして『応仁記』はその一巻で
法政史学第四十七号 ある)であることを考えると、合戦三五巻の中に『応仁記』は当然入っていただろうと思う。『日本随筆大成別巻一言一話l』’○四~一○五頁○(旧)桑原武夫「日本の百科全書家新井白石」『日本の名著新井白石』(中央公論社)、二七頁。(旧)新井白石の日記の元禄十一年六月の記述の中に、「六日、(略)東山殿時代之事、井御識之儀被仰付」、「九日(略)応仁乱申上ル」とある。(Ⅳ)「読史余論」『新井n石日本思想大系弱』(岩波書店)、三九二~三九三頁。(旧)「応仁別記」『群書類従加』四八六頁。(旧)「応仁記」一一一八八~三八九頁○(卯)「応仁記」四一九頁。(別)藤堂明保監修、細川一敏訳『中国の古典3孫子・呉子』(学習研究社)の二四~二五園に、「日本人の『孫子』研究で最古のものは吉備真備が唐に留学して『孫子』を学んだという『統日本紀』の記録である。室町時代にはまだ多数の人々か研究するには至らなかった。『孫子』・『典子』が鼠も研究されたのは江戸時代である」と書かれている。(犯)書名以外は必要なことろのみ記城した。箸は箸編者、成は成立年代。(羽)寛文十三年(一六七三)成立。(別)山鹿素行箸、延宝三年(一六七五)成立。(妬)田原嗣郎「山鹿素行と士道」『日本の名著山鹿素行』(中央公論社)、六九頁。(朗)田原「山鹿素行と士道」六九頁。 (町)「尉練子」『中国の思想、孫子・呉干』(徳間書店)、二五九頁。(邪)大森志郎「中世末世観としての百王思想」『日本文化史論考』(創文社)、一三○頁。(羽)「読史余論」三九六頁。(卯)『室町軍記総覧』二六頁。(別)同、二六~一一七頁。(犯)『重編応仁記』の序の日付が宝永丙戌年となっている。この年は宝永三年(一七○三)である。(羽)「重編応仁記」三四○頁。(狐)同、三四一頁。(胴)同、三四二頁。(肥)同、三四二頁。(碗)三巻本『応仁記』が二巻本『応仁記』と『応仁別記』からできているとした時に、何故この二冊からだったのかを説明するのは容易ではない。しかし、『応仁広記』が何故この二冊だったのかということに関してなら、作者が公方家の動勢に着目していたからと考えて説明がつく。こうしたことも三巻本『応仁記』が『応仁広記』を参照にしたという考えに有利に働こう。(肥)『応仁記』(日本歴史文庫)、一○九頁。(羽)「応仁広記」(史籍集覧)、五五七頁。(佃)「応仁記」三九二頁。(肌)『応仁記』二○頁。(妃)「応仁広記」五五八頁。(岨)「応仁記」三九二頁○(似)「応仁別記」四八三頁。 一一一
三巻本『応仁記』について(柳本) (㈹)「応仁広記」五三八頁。(妬)「応仁記」三七六頁。(W)『応仁前記』(これは『重編応仁記』を構成する一編である)の巻之下に、付記のような形で、〈赤松家盛衰次第〉と題する一章が掲載されている。これは三巻本『応仁記』の〈赤松家博之事井神璽之御事〉と同じ内容の記事である。三巻本『応仁記』の編纂者の粗雑さはこんなところにもあらわれている。(妃)小竹文夫・小竹武夫訳、世界文学大系『史記列伝篇』(筑摩書房)、二七八頁。(岨)「応仁記」四一六頁○(卯)『室町軍記総覧』の『応仁記(三巻本)』の解説文に、その目立った傾向として、ヨ勝元ハ無双ノ案者ノ謀有大将ナレバ』などに見られる細川勝元びいきの辞句」と書かれている。三巻本『応仁記』が『応仁広記』を参照にしていると見られる現在、この傾向は『応仁広記』の持っている傾向と考えなければならないだろう。(別)佐々木銀彌『日本の歴史旧室町幕府』(小学館)では、応仁元年十月の相国寺をめぐる合戦を記述した後に、「公家や武家の屋敬、民家はもちろん、北野神社・仁和寺・天竜寺・東寺など由緒ある大社寺の多くはつぎつぎと焼失してしまった。『応仁記』は、みるも無残に荒廃した都のありさまを詠んだ、飯尾彦六左衛門尉のつぎのような有名な歌を放せている。
アカルヲ見テモ落ルナミタハまことに、花の都は、この歌のように荒涼とした焼土と化してしまったのである」(二一二頁)と書き、続いて、「節操なき戦い」と題して、「応仁二年の秋・・…・」と次の節を書きはじめている。 汝ヤシル都ハ野辺ノタ雲雀 (記)『応仁記』六~七頁。(詔)「応仁記」四○九頁。(別)『応仁記』七頁。(弱)「応仁記」四一○頁○(邪)『応仁記』’○頁。(印)『日本の歴史別巻5』(中央公論社)(兇)〈洛中大僥之事〉が応仁二年のところに配置されているために、この節のしめくくりに置かれた飯尾彦六衛門尉の「汝ヤシル都ハ野邊ノタ雲雀アカルヲ見テモ落ルナミタハ」の歌も応仁二年頃に、応仁元年・二年と続いた厳しい戦いが終ってすぐに作られたように思われているが、二巻本『応仁記』ではこの歌が京の昔日の回顧のしめくくりとして置かれていることや、この歌には感傷はあっても戦塵の気配が感じられないことなどから、応仁二年よりももっと後になって、散発的に戦いはおこなわれているが戦争そのものは膠着状態になってから作られた歌であると考えた方がよいように思われる。(的)〈洛中大僥之事〉は回顧的な記事であるため、年代記的な記述とは異なる性質を持っている。『応仁広記』では年代記的記述をとったために、こうした回顧的記事は本文に組み込めず、付録のような扱いをするしかなかった。そして、それが正しい処理でもあった。
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資料一一巻本『応仁記』・『応仁別記』・三巻本『応仁記』の関係表松林靖明氏作成「応仁紀試稿」『古典遺産』二○号、九一~三頁表中()の中は類従本による章段名、()の下に○印のあるものはその章段のほとんど全部が採られたものであることを示し、備考の欄に○印のあるものは、類従本固有の記事または章段であることを示す。
〔巻ご(乱前御晴之事)応仁の乱の原因・義政批判寛政六年九月の流星天狗の落文中庸の説(熊谷訴状之事)熊谷某、義政を諌め罪を受く義政、義視を還俗せしむ(若君誕生之事)義尚誕生す富子山名を頼る(武術家騒動之事付屋山之事)斯波家内証のいきさつ斯波義敏、伊勢守に頼る義敏出仕許され義廉勘当さる山名怒り合戦に倣う垣屋等宗全を諌む「義敏ハ二見ノ浦ノ」の落首「空蝉ノウッッナキ世一一」の落首「世ノ中ハ皆歌読一三の落首 法政史学第四十七号
類従木応仁記
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再び義廉赦免せらる「組置シ竹ノカノ」の落首義政・義視不和義政義視和解し、洛中静鑑畠山義就を巡る山名の計略畠山家内証義就許され上洛す「右衛門佐イタタク物」の落着政長出仕停止さる(義就政長闘乱之事)政長合戦の用意山名細川同心の人々細川方合戦の用意「春クレハ又打カヘス」の落着(御霊合戦之事)義就手勢を配置す細川教春、勝元に進言政長、作戦をたてる成身院光宣ら政長方につく政長御霊森に陣取る宗全・主上上皇を室町殿へ移す両軍合戦、政長不利勝元、政長に藩ちることを指示政長落つ、世人の勝元評「フル具足伍両マデ」の落着「細川ノ水無瀬ヲ」の落着「無性ナル竹ヲ」の落着天下静鑑、軍勢引き上ぐ主上内裏へ還幸
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四
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〔巻一一〕(勝元方蜂起之羽)山名方戦勝による舎侈山名方出仕の華美のさま右馬頭人道勝元に進言勝元戦闘準備、京童の潮り「ウテナクパャメャ」の落着勝元、軍勢の看到を付す勝元方の武将各地へ攻め入る勝元方実相院正実坊を攻む「円頓者実相院ヲ」の落着宗全方、軍勢の着到を付す(所々合戦之事)五月二十六日、勝元方大勝宗全朝倉の活躍に感悦(一条大宮猜熊合戦之蝋)一条大宮で赤松勢大沼耀革堂百万遍焼け上る(井鳥野合戦之事)(焼亡之事)(三宝院責落事)(岩倉合戦之蝋)(室町事行幸之螂)(今出川殿勢州下向之事)(相国寺炎上之事)山名、細川の拠点相国寺を攻む松田次郎左衛門討死赤松一族の活躍(蓮池合戦付政長武勇之事)一宮人道勝梅、勝元を激励す富子、勝元に戦況を問う
三巻本『応仁記』について(柳本)
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政長、相国寺を攻む秋庭豊前守の笑話〔巻三〕(赤松家伝之事井神璽之御事)(但州合戦之事)(醍醐山科合戦之事(舟岡山合戦之事)(相国寺塔炎上之事)(後花苑院崩御之事)(今出川殿御上洛之事)(洛中大焼之事)(義視西陣へ御出之事付五壇法之事)二条殿御最後之事)(近江越前軍之事)(山崎天王寺軍之事)(山名人道逝去之事付漢賓嬰事)
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