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<書評と紹介> 小口雅史他校注 『一代要記』(1)〜 (3)

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Academic year: 2021

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著者 米田 雄介

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 68

ページ 98‑105

発行年 2007‑09‑30

URL http://hdl.handle.net/10114/10868

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この度、ヨ代要記」が「續神道大系朝儀祭祀編」に収録されて刊行された(財川法人神道大系編纂会刊行)。従来、「一代要記」は明治十九年に「史籍集覧」に活字化して刊行され、その後明治三十三年に「改訂史籍集覧」に収載され公刊されているから、その内容は比較的容易に見ることはⅢ来たが、何分にも「史籍集覧」などに所収の三代要記」の記述について、天皇の略歴などはまだしも、阜爪以下の後宮の人達や大腿以下の補任に関する年ⅡⅡや両職名など何処まで信噸することが出来るのか、甚だ、心許なく、年代記として本書を利川することに濤踏していたのが正直なところであった。しかしこの度、本学文学部の小口雅史教授をはじめ、宮内庁書陵部の小倉慈司、石田実洋の向氏、さらに神道大系編纂会研究員の大塚統子氏らの専門家によって詳細な校訂がなされ、「一代要記』がようやく歴史史料として利用できる道が開かれるようになったのではないかと思われる。その意味では、まずこの校訂に 〈書評と紹介〉小口雅史他校注

三代要記』H~ロ(續神道大系朝儀祭祀編)

米田雄介

はじめに 法政史学第六十八号

当たられた前記四名の方々の労苦に敬意を表すると共に、新しい史料への道を開かれたことに感謝したいと思う。しかしそうはいいながらも、本譜の利用に当たってはまだ検討を要する点もないわけではない。編者達は本書の蹴著な特色を指摘して、本書の史料的価値が決して低くはないことを指摘しておられる(解題三「一代要記の記猟」参照)。恐らく指摘の通りであると思われるが、編者の指摘する史料的価値が高いと思われる本将独nの項Ⅱが、そもそもなにに雄づいているのかが明らかでなく、また類似の事項について、他の併行史料との関連についても、十分に解明されているわけでもない。したがってまだまだ検討を必要とする点は残るかとも皿うが、今般の校訂本の刊行は、従来、なんとなく敬して遠ざけていたものが、必ずしも遠ざけなくてもよいのではないかと思えるようになったのは大きな成果といえよう。そこで、以下、年代記としての本譜にもう少しなじんでもよいのではないか、つまり史料として採川してもよいのではないかとの視点から、本脅の紹介をしたいと思う。ところで私に課せられたのは杵評であるが、この労作を前にとても書評という作業を行うだけの能力も資格もない。もともと本諜の件評を行うように依噸を受けた時点で、ミスキャストであることは誰よりも自分自身が一番承知していた。本書は古代から中世に及ぶもので、全体に捗って読み通すことは能力的に困難である。したがって今回は神代から白河天皇の代までを取り上げることとし、翻刻に当たって加えられた校訂注や説明注の極く一部について、間違いという事ではなく、表現上疑 九八

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二代要記」は、すでに明治十九年に近藤瓶城が活字化して公開したことで広く知られるようになった。ついで明治三十三年に「改訂史籍集覧」が井上頼圀所蔵本をもとに、従来欠如していた部分を補って刊行されている。後者の出版によって、ほぼヨ代要記」の全貌は明らかになったようであった。もっともこれらは、そもそもの原本をもとにして刊行されたのではなく、江戸時代に原本を見た長沢伴雄の書写本をさらに転写したものを基にしたものであるが、多くの研究者が史籍集覧本(改訂版も含め)によって便宜を得たであろうことは想像に難くない。しかし前記のように、史籍集覧本(改訂版も含めて)は江戸時代の写本をもとにしたものであるが、その内容から判断すると、本書はまず鎌倉時代末には成立し、南北朝期に完成していたと考えられる。そして幸いにも京都・東山御文庫に南北朝期の原本そのものが現存しており、本書の成立時期を明らかにしてくれる。まず東山御文庫に所蔵の原本であるが、元は金沢文庫に所蔵されていたもので、東山御文庫本には金沢文庫の印が捺されている。 問と感じたところ、あるいはもう少し詳しく述べて欲しかったところについて、率直に記してご教示を得たいと思う。なお今回一〃的に対象外とした時代、堀河天皇以下の記述については、機会を得て検討することにしたいと思う。さて以下の考察はまず三代要記』とはどのような本なのか、その紹介から始めることにする。

書評と紹介 三代要記」とは 江戸時代の延宝年間に、水戸藩の「大日本史」編纂事業の一環として、史官が金沢文庫で本書を発見、その内容から徳川光圀は本書を後西天皇に献上し、東山御文庫本として現在に至っている。しかしこの原本は完本ではなく、薗部(神代から反正天皇まで)が欠落しているのである。ところが光圀による同本の献上から間もなく、その欠落部分がMじく金沢文庫で発見され、その部分は後西天皇の後を承けた霊元天皇に献上され、天皇は皇子の有栖川職仁親王に贈られたらしい。爾来その欠落部分は同宮家に伝わり、宮家断絶後はその祭祀を継承した高松宮家に保管され、現在、脚立歴史民俗博物館に収められている。二代要記」の原本の発見の経緯については今江廣道氏の.代要記についてl東山御文庫本を中心としてl」(「書陵部紀要」一二および「「一代要記について」補遺l高松宮御所蔵本の紹介l」(「R本歴史」二六二)に詳しいが、さらに本書の第一分冊のW頭の「解題ニヨ代要記」の構成とその成立と伝来」並びに第二分冊の「解題(統)四写本」に、原本発見の経緯が要領よく記されている。さて本書の内容は、神代に始まり、花園天皇に至る歴代天皇の略歴、事績などを簡略であるが記載している。もっとも神代以下反正天皇に至る間の記述には、欠落があり、また一部の天皇の項についても断簡であったりと、不完全であるが、允恭天皇以後の歴代天皇については、天皇の略歴を始め、后妃や大臣、皇子女などがほぼ完全に記載されている。本書の成立時期を伺わせるのは、後半部分の後宇多天皇と後伏見天皇の項において、それぞれの天皇を「今上」と記しているこ

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とである。このことは本書が「今上」と記された後宇多天皇のときにまず作られたが完成せず、後伏見天皇のときにも追記がおこなわれたらしく、後伏見天皇にも「今上」と記している。しかしそれでも完成しなかったのか、花園天皇を「当今」と記している。このように後宇多天皇から花園天皇にかけて、それぞれの天皇を「現天皇」としていることは、競初に「今上」と記した後宇多天皇のときに、|応完成したが、その後、後伏見天皇を「今上」と記していることから、後伏見天皇時代に書き継いでいることが分かる。何様のことは花園天皇を「当今」と称しているのは、まさにその時代においても書き継ぎがなされていたことになる。そして本書の末尾が花剛犬皇であることは、「当今」と記された花園天皇の時代に本書が完成したことになる。つぎに本書は年代記の一種であるが、皇統譜でもある。犬皇毎に漢風諭号、略歴、事績が記されているほか、天皇名の横に中国の歴代皇帝の溢号が必ず記されているが、太上天皇、皇太子、後宮、斎院・斎宮など、皇統に係わる人々のことをまず記し、次いで在位中に任用された摂政・関白、太政大臣以下大臣、左右近衛大将、大中納言、検非違使別当、参議、蔵人頭などの主要官職に補任されている人々の任官・解官時期が記され、さらに皇子女の略歴などが列記されている。このような記述を通じて、我々は当該時代の問題、朝廷内外の動静を垣間見ることが出来る。また本書が皇統譜としての役割を持っているのは、記述内容もさることながら、皇位継承者を系線で結んでいるところにも窺えよう。しかし江戸時代の写本の中には系線を省略しているものがあ 法政史学第六十八号

本書は東山御文庫本をもとにした校訂本である。そもそもヨ代要記」がどこまで歴史的史料として利用に堪えられるものか、前節でも触れたように、史料としての信愚性がどれだけあるか、 る。本書は数多くある年代記の一つではあるが、本書がどのような目的で編纂されたか、その意図は明確でない。前記のように、本書には原本が伝わっているから、本書編纂の目的を考察することは不可能ではないとの期待がある。しかし今のところまだその目的は明確でなく、それを探る手掛かりもまだ明らかでない。たとえば本書が誰の手によって作成されているのかが分かれば、何らかの手掛かりが得られるかも知れないが、現在までのところ作者未詳である。しかし本書の校訂担当者は、第一分冊の「解題」の中で、本書の特徴をいくつか指摘し、本書の史料上の価値について、従前、疑問とされているものが、本書の記述によって解決のヒントを与えてくれていると述べて、本書の史料的価値について見直すべきであると提言している。たとえば全般的特徴として、天皇の事蹟を紹介する箇所に、一年毎に僅かの記事を挙げているが、僧侶の動静や僧位の制定など仏教関係記事が殆ど毎条見えること、慧星などの天体関係、朔且冬至関係などの記事が比較的丁寧に記載されている。これらをたぐって行くと、本書の編纂者や編纂の意図などがある程度窺えるかも知れない。

二校訂について ’○○

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不安が少なくなかった。臂え我々が三代要記」の原本を前にしても、それぞれの記述が実際にどこまで信用できるか、全面的に依拠できないとしても、一つの説として眼前の三代要記」が参考史料の一つになりうるものかという不安があった。しかし今般の校訂本の出現によって、本記の記載に全面的な信をおくことは祷踏するとしても、参考史料として使用することが出来るのではないかと考えられるようになった。編者の注記は詳細で丁寧である。もともと本書は原本をもとにした翻刻であるから、底本と諸本を比較して文字の異同を示すということはほとんど考えられないと思われる。しかし校訂者は底本だからといってそれに安易に依拠するのでなく、厳密に内容を検討して時には後代の写本と対比したり、あるいは内容から判断して、別の書物、たとえば「公卿補任」を参考に、記述の正確を期して注記している。そのような校訂注のうち、数字や文字の誤りなど明らかに訂正すべきものがあれば、訂正するべき文字の右脇に亀甲で括っているが、他の記録などを検討して説明を要する注記の場合は、当該箇所の横に小さくアラビヤ数字を注記し、各天皇の項の末尾に一括して説明を加えている。その説明は頗る丁寧である。さて本記は神代から南北朝期に及ぶことから、校訂に当たって参考とする文献も多岐に亘る。中には「古事記」や「日本書紀」によって、校訂している部分もある。その場合、必ずしも史実として訂正することは出来ず、それらの史書に記されている説を示しているに止まり、校訂内容にあまり信懸性があると思わないが、

書評と紹介 問題を考える上でいろいろのヒントを与えてくれることから、何に依拠しても信懸性がないから校訂しても仕方がないのではなく、本記と「古事記」や「日本書紀」と対比することで、これまで気付かなかった問題に気付かせられることがある。しかし「続U本紀」以下の五国史をはじめ、奈良時代以降、時代が降るに従って確実性の増す文献に基づく校訂は、丁寧である。とくにその点で注Ⅱしたいのは、皇位継承のあり方を考えるときに問題になるのは天皇が第何番Ⅱの皇子であったのか、母は一体誰か、時代が降ると確実性は高くなるとはいえ、本記が対象とする時代は依然として暖昧なところがある。それらについて他の文献を博捜し、問題点を指摘している。それによってすべてが解決したとしているわけではなく、むしろその判断は読者に委ねられている。同じことが摂政・関白以下、大臣・近衛大将・納言・検非違使別当・参議・蔵人頭などの官歴についても言える。たしかに官歴の調査は難しく、私などもこれまで「公卿補任」や「職事補任」などに依存して考えてきたことがあるが、本書では、「公卿補任」や「職事補任」などの記載だからといって、全面的に信用するのではなく、これらと比較しながら、丁寧に相違点を指摘している。「続日本紀」以下の五国史はもとより、「日本紀略」「本朝世紀」「類聚国史」「帝王編年記」「尊卑分脈」「本朝皇胤紹運録」などの諸本を参照しながら、摂政関白以下の人々の記載事項について、各条といっていいほど検討して問題点を指摘している。このように本書は極めて堅実に注意深く校訂を行っているが、

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’第一分冊(神代1円融天皇)「古事記」「日本書紀」が対象となる時代については、これらの書物の他に依拠するべき確かな史料がないので、比較検討することが出来ず、ここで特に取り上げるべきものはない。そこでまず第一分冊については、八世紀初頭の文武天皇以降、十世紀後半の円融天皇までを対象に気付いたところを取り上げてみよう。 それでも尋ねてみたいと思う問題がないわけではない。それらの多くは編者にとっては愚問であろうが、疑問と思うところを率直に述べてご教示を得たいと思う。

九一頁孝謙天皇の項に、「高野姫、諒阿閑、聖武女、母皇太后光明子、不比等二女也」とあるが、「二女」は「三女」の誤りであるから、本来ならここに注記が必要となろう。もとより校訂者はそのことは承知しており、聖武天皇の項の後宮のところで「皇后藤原氏」の本性に「天平元’八月立之、不比等六女、光明皇后是也」(八三頁)とあり、「六女」に注記して「孝謙天皇項及び編年記は二女、正しくは三女か」(八七頁)と記している。したがってすでに聖武天皇の項で注記しているから、改めて取り上げなくても良いとのことかも知れないが、それなら聖武天皇の後宮の項を参照ぐらいの注記は必要であろう。なおいうまでもないが、光明皇后は、正倉院蔵の「楽毅論」の奥書に、「藤三娘」と署名している。 三若干の疑問点 法政史学第六十八号

一○○頁淡路廃帝(淳仁天皇)の項の参議藤原恵美眞光(実は真先)の箇所に「母房前女正□位衣比娘」とあり、注記して「□を長澤本は二とするが、補任は正三位表比良姫」としている(一○二頁)。位階でいえばこの通りであるが、「表比良姫」は「続日本紀」や正倉院宝物の献物牌から「藤原朝臣哀比良女」のことであるから、そこまでの指摘も必要ではないか。因みに衰比良女は恵美朝臣坤勝の室である。一一三頁光仁天皇の項の参議藤濱足の箇所に宝亀六年に正四位上であった由を記したあと、「陸奥出羽按察使鎮守将軍勲三等二月壬辰於任卒囚月一一一日贈従三位」とあり、注記によると、「」の中は大伴駿河麿の記事が混入したとされる二一七頁)。そのこと自体はよいようであるが、大伴駿河暦が卒去したのは「公卿補任」は宝亀七年の項に「於任所三月壬辰H莞」とあり、「続日本紀」によると宝亀七年七月壬辰のこととする。何れにしる宝亀七年であるからその旨の注記は必要であろう。一二一頁桓武天皇の項の御事績の延暦十六年の箇所に「菅原眞人等撰続日本紀」とあるが、その注記に菅原眞道の誤りもしくは眞と人の間に「道秋篠安」の川文字脱とされる(一三一一頁)。確かに菅原眞人はあり得ないが、菅原真道もあり得ない。恐らく菅野真道の誤りであろう。一三八頁平城天皇の項の後宮の箇所に、大宅内親王について、「同一一一’五月癸酉、妃、四品」とあり、注記して「同一一一’五月癸酉l後紀によればこれ以前に四品・妃となっており、この日職を辞した」と記している二四二頁)。しかし後紀には、癸酉ではな

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く、癸未とある。一六二頁淳和天皇の項の賀茂斎院の「有智内親王」について、一般には有智子内親王とあり、「続日本後紀」承和十四年十月戊午に有智子内親王として莞伝が見える。したがって有智子内親王とするべきではないか。一七二頁仁明天皇の項の事績の承和九lの箇所に橘逸勢の配流および死去のことを記すが、「元渤海国人依健峯事也」とある。配流が伴健岑の事件によるのは問題ないが、「元渤海国人」とはどのような意味か、教えてもらえると有難い。一九五頁清和天皇の項の御事績の貞観六年正月一日の箇所に、清和天皇の元服を取り上げ、続いて慈覚大師の入滅を記すが、この記述によると大師の入滅は、同日つまり正月一日のように受け止められるが、「三代実録」によると、慈覚大師の入滅は正月十四日となる。その点では注記が必要になろう。つづいて僧綱位の制定時期を三月十四日の後に記すが、「三代実録』によると、この年二月十六日のこととする。さらに三月廿六日に法印大和尚位を空海に贈っているが、同じく『二代実録」によると、空海とともに最澄もこの僧位を贈られており、その点にも注記が必要であろう。二一○頁陽成天皇の項の摂政の箇所に、右大臣藤原基経に摂政の詔が下されたとするところに、「貞観十八’十一月廿九日先帝詔、摂行太子政」とあるが、「摂行太子政」の「太子」は「三代実録』を見るまでもなく「天子」の誤りである。引きつづき「同(元慶)四’十一月八日改摂政為関白、同十二

書評と紹介 月十円日任太政大臣」とあるが、基経が摂政を改めて関白となったのは誤りである。陽成天皇朝に基経が関白になったとする説はあるが、その事実はない。また基経が太政大臣に補任されたのは「十四日」ではなく「十二月四日」である。したがってこれらには注記が必要であろう。二一七頁光孝天皇の項の関白の箇所に、元慶八’六月廿五日条に藤原基経が「聴座行政」とあり、注記があって「廿五日聴座l補任は六日聴著驍座」と記している(二二一一一頁)。三代要記」に「聴座行政」と記すが、「公卿補任」には、「六月六日聴著驍座行政」とあり、「三代実録」は前日の五日に、後の関白に相当する「奏上奏下百官総己」の詔が下されている。多少くどくとも内容上、重要な意味を持っているので、「三代実録」の記事にも配慮がいるのではないか。つづく仁和元’二月条について「聴勅節會不列群臣直昇殿」とあるが、「公卿補任」にほぼ同文を引く。ただ補任は「勅」の位置を「聰」の上に置いており、本来そうあるべきであろうから、注記が必要であろう。二二七頁宇多天皇の項の関白の箇所に、藤原基経が寛平元年十一月に葦車に乗ったまま宮中にはいるのを聴す勅が下されているが、基経は『公卿補任』や「大鏡裏書』によると、寛平元年十月に腰輿に乗って宮中に出入りを許されたとあり、『大日本史料」(同年十月十九日条)も基経の賛車は誤りとする。また「寛平二’十月公寝」とあるが分かり難く、「寝疾」とでも注記してもらえたら有難い。

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2第二分冊(花山天皇~順徳天皇)一頁花山犬皇の項の御事績の箇所に、「寛和二年七Ⅱ十三Ⅱ、南都衆徒参集八省、依大和守頼親罪科也」とある。編者は「七月十三日以下の記事は寛弘三年の誤りか」と注記し、さらに「頼親l寛弘三年であれば頼信の誤り」とされる(五頁)。本記が寛弘三年州時のことを記しているとすると、時の人和守は源頼親で、彼はその年七月十二Ⅱに興福寺衆徒等から停任を求められているからS御堂関白記」)、大和守は原文通り源頼親でよい。なお頼信は永承元年当時、河内守で、頼親の兄に当たる。八頁一条天皇の御事績の箇所の正暦元年卜一月の「朔且冬至」について、編者は注記して「他書に見えず」と記している(二四貝)。事実、この前後の朔Ⅲ|冬至は天延二年(九七四)、Ⅸ暦四年(九九三)であるから、他書に見えないのは当然で、正勝元年とすること日体が誤りである。一二頁一条天皇の項の関白の箇所に内大臣道隆について、長徳元年二月Ⅱ六Hに道隆が病により関円の辞任を申し出ると、三川Ⅱ几Ⅱに「宣旨、関、病間、宮中雑事、先諮内大原伊川川奏行」と内大臣藤原伊周に内覧を仰せているが、「奏行」とは古文書学的に見ても「奉行」の誤りであろう。なお同じことが、内覧として藤原道長のことが見えるが、道長が内覧宣旨を下されたときも「奏行」と記しているが、「奉行」の誤りであるS朝野群載」巻第七)。二六頁一条天皇の項の注州に引川する補任の異本(滴内臓書陵 法政史学第六十八号

今般、「続神道大系朝儀祭祀編」に収録されたヨ代要記」は東山御文庫本の原本を基にして翻刻し、三冊本として公刊されたものである。しかし評背の能力不足もあって、三冊すべてについ 部所蔵異本公卿補任)は、正しくは(宮内魔書陵部所蔵中右記部類裏書異本公卿補任)ではあるまいか。一一八頁三条犬皇の頂の御事績の箇所に長和八年五月一Ⅱ条が引かれているが、「公卿巳下水¥装束」とあるのは「公卿已下水干装束」の誤りであろう。旱と千は通じ用いられるかも知れないが、水羊と水干は明らかに意味を異にするから注記がいるのではないか。三六頁後一条天皇の項の御鋼績の筒所、「萬壽元’七月十WⅡ」の「四」の右脇に「一一一イ」とし、注記して「十川、’十一一一日が正しい」とするが(四川頁)、わざわざ注記するまでもなく、「Ⅲ」に「三」と傍注するだけでよいのではなかろうか。M様の例は少なくない。五六貝後冷泉天皇の項の関nの箇所、左大臣縢原頼通について、「治牌三lIⅡ五Ⅱ庚戊行幸宇治平等院、勅Ⅱ、前太政大臣名、雛為君臣義如父母」とあるが、「前太政大臣名、雛為君臣」の読点は、「前太政大臣、名雌為君臣」の方がよくないだろうか。七八頁白河天皇の項の関nの筒所、左大腿師資が内覧行ご川を蒙ったとき、「先綱左大胞呵令奏行荷」は一二画の「奏行」とⅢじく「奉行」の誤りであるS朝野群載」巻第七)。

むすびにかえて 一○四

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て校訂の後を辿ることが出来なかった。とくに本稿の冒頭で述べたように、私自身、院政期以降の校訂について、具体的な問題点を折摘することが出来ない。正直に申告すると、院政期以降は私自身の能力の限界を超えているからである。しかし折角与えられたチャンスに改めて挑戦してみたい気持ちがないでもないので、今回は、神代から白河天皇の代までを取り上げたが、引き続き堀河天皇以下の記述についても検討を加え、将来、首尾一貫としたものにしたいと願っている。本書の校訂肴並びに関係の諸氏に心からお詫び申し上げるとともに、改めて将来を期して、ひとまず欄筆としたい。〔菊版HⅡ二○○五年八月刊一一一四四頁、口Ⅱ二○○六年十月刊、三二一一一頁、日Ⅱ二○○六年十川刊、一一一○二頁会員以外には製作費実費負担〈各冊一八○○○円〉にて神道大系編纂会にて頒布〕

書評と紹介 本書は、平成九年二九九七)に法政大学史学科通信教育課程を卒業し、何十三年に仏教大学通信制大学院修士課程を修了した三好昭一郎氏が、平成十八年四月に、自身の喜寿を記念して、「喜寿記念日本史論集」(モウラニ○○六年)として一一一部にまとめた成果の内の一部である。本書は、三部作の第二部に相当し、第一部は、「近世地方都市成立史の研究」、第三部は、「阿波郷士史研究の半世紀」として刊行されている。三好昭一郎氏は、本齊の「自序」に、徳島の盆踊りについて、歴史的に研究してみようと考えるようになったのは、昭和五十六年(一九八二の地方史研究協議会の松山大会における報告準備をしたことからで、四半世紀も以前のことになると記しておられる。本書は、いずれも平成十二年から同十六年の五年間に学会誌や研究紀要などに発表した論文のほか、卒業論文の一部と新柵を加えたもので構成されているので、著者の最も新しい論文集となっている。これらは徳島城下町に展開された盆踊りと、藩による盆踊規制に関して研究した成果を中心としながら、盆踊りの舞台である徳島城下町の成立過程と構造的特質に迫るものである。以下、本書の内容を紹介していきたいが、何分筆者は、徳島に 三好昭一郎著

「徳島城下町民間藝能史論』

(喜壽記念日本史論集第一一部)

一○五 木村涼

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