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巨文島事件と清国の東北アジア政策

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巨文島事件と清国の東北アジア政策

著者 尹 虎

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 11

ページ 41‑60

発行年 2014‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00022461

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尹  虎

はじめに

 1880 年代、資本主義列強が続々と帝国主義の段階に移行するにつれて、世 界分割をめぐる闘争は一層鋭くなる。資本主義列強に戦略価値のある地域と して認識された東北アジア地域は争奪戦の中心地になっていく。アヘン戦争 における清国の敗北は、清国を半植民地社会に転落させただけでなく、アジ アで支配的存在であった清国を中心とする朝貢体制の崩壊の開始を示唆する ものであった。清国の藩属国であった朝鮮も 1876 年の「江華島条約」によっ て開国を余儀なくされ、日、米、英、独、露などの列強の侵略の対象に転ずる。

一方、宗主権を維持するために、清国も壬午軍乱、甲申事変に関与し、朝鮮 に対する影響力の強化を図っていた。巨文島事件はこのような複雑な国際状 況を背景として起きることになる。

 イギリスの巨文島占領により発生した巨文島事件は英露両国の覇権争いの 情勢を反映し、関係諸国1の利益紛争を象徴的に表した。そして、清国が講じ た東北アジア政策2は巨文島事件の関係諸国に大きな影響を及ぼし、同事件の 解決に極めて重要な役割を果たすことになる。

 本稿は巨文島事件に対する考察を通じ、19 世紀末の東北アジア地域におけ

キーワード:巨文島事件、極東、国際情勢、清英関係、清露関係、英露関係 1 本稿における「関係諸国」の範囲は英、露、清、朝、日である。

巨文島事件と清国の東北アジア政策

2 本稿における「東北アジア」は朝鮮半島と日本、モンゴル、ロシアのシベリア、清 国の満州に相当する地域を指す。そして、「清国の東北アジア政策」は東北アジア 地域の国々との関係、そして、同地域に利益を持っている列強との関係に関わる政 策である。

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る対立と妥協を繰り返す複雑な国際関係を再検討すると同時に、巨文島事件 における清国の東北アジア政策の展開の経緯、そして、巨文島事件後の国際 情勢変化に対する清国の東北アジア政策を明らかにすることを目標とする。

1.巨文島事件の発生と日・露の反応、そして、清への期待

 巨文島事件は 1880 年代における東北アジア地域の国際危機の焦点とも言え るものであった。イギリスの巨文島占領より発生した巨文島事件は東北アジ ア地域諸国の外交政策に大きな影響を及ぼすことになる。

1-1 イギリスの巨文島占領

 19 世紀末、イギリスはヨーロッパから東アジアに至る海上通路を制御し、

アジアに膨大な植民地を持っていた。植民地大国イギリスにとってロシアはア ジアにおける最大の挑戦者であり、危険的な存在であった。ロシアはイギリス 艦隊の威力が及ばない内陸、即ち、アジアに接している長い辺境地域をもとに、

アジアに進出していたのである。特に、クリミア戦争に負けた後、ロシアは対 外進出の重点を中央アジアに移し、アジア地域におけるイギリスとの対立を 深めていった。1885 年 3 月、ロシアはアフガニスタンとの戦争に勝利し、ア フガニスタンの保護権を持っているイギリスに大きな痛手を与えた。

 東北アジア地域においても、ロシアは 1860 年の「中露北京条約」を通じ、

中国のウスリー江東部の「海参威」を獲得する。そして、その名を「東方を統 制する」という意味の「ウラジオストック」に改名し、太平洋艦隊の軍港とし て経営する。ところが、ウラジオストックの周辺海域は一年のうちの 4 か月が 氷結期であり、ロシア海軍の活動を大いに制約していた。太平洋地域でさらな る権益を獲得するために、ロシアはウラジオストックの南方で不凍港を探し、

海軍基地を建設しようとする。そして、1884 年に朝鮮と「朝露修好通商条約」

を締結してから、不凍港に対するロシアの願望はさらに強くなり、永興湾占 領を考慮にいれ、南下政策を急ぐ。ロシアの南下の動きは、東北アジアを勢 力範囲とするイギリスの抵抗を招くようになる、

 イギリスはアフガニスタン危機をきっかけに、アジア地域ですでに大きな

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脅威となったロシアに対し、開戦を想定に入れて、強硬に対応する3。アフガニ スタン危機の主導権を握り、東北アジア地域におけるロシアとの競争で有利 な立場に立つために、イギリスは巨文島占領に着手する。注目すべきは、巨 文島占領の構想が 1885 年の時点で急に立てられたものではなかった点であ る。そもそも、巨文島がポート・ハミルトン(Port Hamilton)と呼ばれたの は、1845 年に同島を測量したイギリス海軍提督ジョーン・ハミルトン(George Hamilton)に因んでおり、1875 年から 1876 年にかけてロシアの朝鮮半島への 南下が噂された際にも、イギリスは巨文島占領を検討したことがあった4。  朝鮮全羅道興陽の南方、済州島の東北に位置する巨文島は朝鮮海峡、対馬 海峡の要衝に位置しており、ロシア艦隊の太平洋進出を封鎖する面において は極めて戦略価値が高い島であった。そして、巨文島は水深が深く、巨大船 の停泊に適している天然の良港でもあった。そのゆえ、イギリスの海軍省は アフガニスタン危機勃発と同時に巨文島占領計画を提出したのである。

 1885 年 4 月 14 日、自由党のグラッドストン(William E. Gladstone)政府は 朝鮮政府に事前通告も協議もなく、極東艦隊司令官ダウエル(W. Dowell)中 将に巨文島占領を命令する。翌日、ダウエルは軍艦三隻を率いて巨文島に向 かい、4 月 23 日には占領の任務を完了する5。このように、英露の対立とアフ ガニスタン危機を背景に、巨文島事件が幕を開けたのである。その後、イギ リスは巨文島に砲台、兵舎などを建設する工事を開始し、占領維持のための 施設を整え、長期占領の姿勢を見せた。

1-2 巨文島事件に対する日本の認識と清国に対する期待

 巨文島事件は日本を驚かせた。外務卿井上馨もイギリスの巨文島占領につい て「ロシアに朝鮮問題に干渉する絶好の機会を与え、日本近海を列強の争奪 の焦点にさせ、東亜の平和は保障し難くなった」6と評価し、巨文島事件に対す 3 イギリスの駐露大使は戦争を避けられないと明言し、積極的に戦争準備に着手す

る。楊闖編『近代国際関係史綱』中国人民大学出版社、1998 年、255-257 頁。

4 Yur-Bok Lee. West Goes East : Georg von Möllendorf and Great Power Imperialism in Late Yi Korea, University of Hawaii Press, 1988. p.114.

5 林子候『日清戦争前の中日韓関係』玉山書局、1990 年、222 頁。

6 同上。

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る不安感を表した。イギリスの巨文島占領は日本の朝鮮征服と満州進出の計 画を乱すことであった。早くも、1870 年代、日本は「江華条約」、「済物浦条約」、

「天津条約」を通じて通商貿易、駐軍などの特権を獲得し、1880 年代には清国 とともに朝鮮半島の二大勢力になった。そのため、日本は朝鮮における西洋列 強の勢力の拡大に不安感を持っていた。1885 年 5 月 13 日、日本駐朝代理公使 近藤真鋤は朝鮮の金允植に手紙を書き、イギリスの巨文島占領の結果について 説明すると同時に、巨文島占領に反対する公開声明を発表することを求める7。  その後、日本政府は直接巨文島事件に関与し、解決するためには、まだ力 不足である現実を認識し、清政府との妥協の道を選び、清国に巨文島事件の 解決を期待するようになる。1885 年 7 月 2 日、日本の駐華公使榎本武揚は天 津で李鴻章と会い、井上馨が提案した『朝鮮弁法八ヶ条』を伝える8。その中心 内容は清政府が朝鮮の行政に干渉する前に日本の同意を得ること、清の朝鮮 に対する宗主権を認めること、朝鮮を清国と日本の共同の保護下に置くこと などであった。要するに、日本は朝鮮の地位問題(宗主権問題)などを棚上 げし、まず清国に巨文島事件の解決を期待し、清国を建前として、ロシアの 南下を阻止しようとしたのである。そのほか、日本は 1882 年の壬午反乱によっ て清国に抑留されていた大院君を釈放することを清国に助言する9。この提案は 大院君の影響力をもって親露政策を展開している閔妃政権を抑制することと、

閔妃政権と清国の対立を悪化させる意図があったと思われる。

1-3 巨文島事件に対するロシアの反応と清国に対する期待

 イギリスの巨文島占領によって、ロシアの太平洋艦隊は南下の通路を封鎖 され、ウラジオストックに閉じ込められるようになり、いつでも攻撃を受け られる状況に追い込まれた。そして、巨文島事件はロシアの朝鮮や清国の東 北地方への進出計画の変更を余儀なくさせる。そのために、ロシアは巨文島 占領に強い危機感を持って、真剣に対応していく。巨文島事件直後に、ロシ アは特使をソウルに派遣し、清国や日本と同様の朝鮮出兵の権利を求めると 7 台北中央研究院近代史研究所編『清季中日韓関係史料』台北中央研究院近代史研究

所、1972 年、2167 頁。

8 李鴻章『李文忠公 全集(訳署簡稿)』第 17 巻、上海古籍出版社、1921 年、3273 頁。

9 同上。

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ともに、朝鮮国内の反英的雰囲気を利用し、新しい朝露条約を提案する。巨 文島占領が長くなるにつれて、ロシアの不安感は高まり、清朝政府に巨文島 返還をイギリスに促すように繰り替えし要求する。清国が巨文島事件に対し 曖昧な態度を見せると、ロシアは清国に不満を表しながら、「もし、イギリス が巨文島の占領を続ければ、対抗策として、朝鮮の一部を占領する」と脅かし、

圧迫を加える10。ロシアの圧力により、清国も本格的に巨文島事件解決の国際 交渉に着手するようになる。

 英・露間の対立により発生した巨文島事件は東北アジア諸国の権益を影響 するようになり、国際危機に発展する。特に、イギリスの巨文島占領によって、

朝鮮における利益損失を恐れたロシアと日本は、朝鮮の宗主国である清国に イギリスとの交渉を要求し、事件の解決を期待した。このように、巨文島事 件の発生は、清国に大国としての影響力を与える契機となり、東北アジアに おける清国の役割は世界の注目を集めるようになる。

2.巨文島事件における清国の東北アジア政策

 イギリスが巨文島を占領した後、巨文島事件の解決をめぐる関係諸国の二国 間、多国間の交渉が同時に進行するようになり、国際交渉は混沌とした状況 を示した 11。結果として、巨文島事件の国際交渉において清国の東北アジア政 策が主導的な役割を果たすようになる。巨文島事件に対する清国の東北アジ ア政策は対「内」政策(対朝鮮政策)と対外政策(対英、対露、対日政策など)

に分けることができる12。巨文島事件における東北アジア政策、そして、対内 10 王芸生『60 年以来の中国と日本』第 1 巻、三連書店、1979 年、294 頁。

11 関係諸国の二国間、多国間の交渉の中、本稿は清国の交渉政策、東北アジア政策に 重点を置くことにする。そして、清国の対内、対外交渉政策を軸として、巨文島事 件のめぐる国際交渉の主流を把握することを試みる。

12 清国の巨文島事件に対する交渉政策を対「内」政策と対外政策に分け、対内政策と 対外政策の相互影響を重視しながら、清国の交渉政策の全体像を検討する方法は中 国の学界において今まで注目されていなかった方法である。中国の関連研究の多く には、巨文島事件をめぐる国際交渉を考察する際、大国間の交渉だけを重視し、朝 鮮の当事件における役割を無視する傾向がある。ところが、朝鮮は清国に依頼しな がらも、巨文島事件の解決をために独自の外交策を展開していた。そして、その独 自の外交策は往々として列強の影響力を借りて、清国を排除しようとする政策とし て現れたのである。そのために、巨文島事件に対する清国の交渉政策の本質を把握 するためには、清国の対朝鮮政策と対列強政策を同時に重視する必要があると思わ れる。

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交渉と対外交渉を通じて、清国は朝鮮の宗主国としての権威と利益を確保で きたのである。

 対「内」政策において、清国の交渉政策は宗主国としての主導的地位を保証 すると同時に、朝鮮の「引俄反清」、「斥華自主」の動きを引き止める内容が主 であった。そもそも、朝鮮政府は列強の侵略に対し、そして、清国の干渉政策 に対し、複雑な感情を持っていた。このような複雑な感情は巨文島事件にお いて「親清派」、「自主派」、「親露派」の衝突、そして、不安定な政策の展開と して現れる。注目すべきは、朝鮮のイギリスの巨文島占領に対する政策は決し て統一したものではなかった点である。巨文島事件における朝鮮政府の対策 には少なくとも三つの構想があった。一つ目は、清国に外交交渉をすべて任せ、

清国の指示に従う「親清派」の意見であり、二つ目は、列国に仲裁を依頼する ことを主張する「自主派」の考えであり、三つ目は、ロシアに接近することで、

イギリスの巨文島占領に対抗しようとする「親露派」の観点であった13。そして、

朝鮮半島をめぐる国際情勢の変化とともに、違う時期に異なる巨文島事件に 対する解決策が主流を占めるようになったのである。ところが、巨文島事件 の解決方法には異論があったとしても、イギリスの巨文島占領に対して朝鮮 政界は基本的に反対の立場をとった。そして、5 月 20 日、朝鮮政府は朝鮮駐 在イギリス領事代行のカールズ(W. R. Carles)に対し、「巨文島は朝鮮領であり、

占領意図を放棄し、艦隊の即時撤退を期待する」と抗議する14

 李鴻章は巨文島事件の解決において、朝鮮国内における清国の利益を損な う動きを抑制し、外交の主導権を確保するために、朝鮮をより強力に「管理」

することを決意し、「親露派」の外務協辦メレンドルフを解任し、日本の提案 を受け入れ、大院君を帰国させる。また、10 月には袁世凱に「朝鮮総理交渉 13 「親露派」の代表的な人物は李鴻章が外務協辦として派遣したドイツ人のメレンド ルフ(Gerog von Möllendorf)であった。1885 年 2 月甲申政変の謝罪吏の一人と して日本に渡り、巨文島事件の発生時に日本に滞在していたメレンドルフはイギリ スの巨文島占領を知った後、ロシア駐日公使ダヴィドフと接触し、ロシア武官によ る日中軍撤退後の朝鮮軍の訓練と朝鮮の保護を依頼し、その見返りとして巨文島の 支配を認め、「第一次朝露密約事件」が発生する。ロシアも教官団の招聘には応じ ることを検討し、駐日公使館書記官のシュペイエルを漢城に派遣したが、朝鮮政府 内の「親清派」の異論や清国の圧力により、密約は成立しなかった。

14 小林隆夫「イギリスの巨文島占領(1885)と対中日政策」、『愛知学院大学人間文化 研究所紀要』第 20 号、2005 年、281 頁。

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通商事宜」の地位を与え、朝鮮政府を「管理・監督」するように命じる。赴 任後の袁世凱は積極的に朝鮮の内政・外交に関与していく。

 清国の宗主権を強化する政策に対し、朝鮮政府内の「親清派」、一部の「自 主派」は清国の指導を受け入れて協調するようになるが、「親露派」と一部の

「自主派」はイギリスの巨文島占領が長引いて解決されない一方、清国の影響 力が強くなる国内状況に不満を持ち、「引俄反清」、「斥華自主」の政策を講じ るようになる。1886 年 8 月、朝鮮政府内の「親露派」は在漢城ロシア代理公 使ウェーバー(Karl Ivanovich Weber)に宛てて、朝鮮が第三国との紛争に陥っ た際に、ロシアに軍事的保護(軍艦の派遣)を求める秘密書を送り、朝鮮と清 国の関係をさらに複雑にさせる(第二次露朝密約事件)。朝鮮政府内の「親清 派」閔泳翊が袁世凱に密告することで知られるようになったこの事件は清国の 反発を招くようになる。清国は軍隊の派遣と高宗の廃位の計画まで立てるが、

列国の反対を恐れた李鴻章の説得の下、最終的には過激な行動を自制し、「親 露派」の排除に尽力する。

 要するに、巨文島事件において、清国は朝鮮政府に対するコントロールを 強化すると同時に、「親清派」を養成して「自主派」と「親露派」の影響力を 除去することで、対「内」政策における指導力を確保したのである。

 一方、巨文島事件における清国の対外政策は、事件発生当初の英露競争に 関与しない方針から、朝鮮半島における英露の相互疑惑を解消し、矛盾を緩 和させる方策に転換し、朝鮮半島における利益の確保を目指すことになる。

 巨文島事件が勃発した初期の頃、清国はイギリスの巨文島占領はロシアと の紛争によるものであり、朝鮮と清国を標的としたものでないので、朝鮮と 清国にはそれほど悪い影響はないと思っていた15。そのため、清国は朝鮮政府 にイギリス海軍の巨文島における暫定的な占住を認めるという意見を伝え16、 4 月 27 日には駐英公使曾紀澤を通じて、「イギリスの巨文島占領が一時的なも のであり、清国の権利及び利益を損しない限り、巨文島占領には反対する意

15 原文:暫據此備俄,與朝鮮,中國皆無損。吳晗『朝鮮李朝實錄中的中國史料』第 17 卷、

中华书局、1980 年、52 頁。

16 原文:茲因應防不測,我國業準本國水師將大朝鮮國以南之小島,英名哈米頓者,暫 行居守。李鴻章、前掲書、3264 頁。

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図はない」という立場を明らかにした17。さらに、清国はイギリスと「朝鮮政 府へ巨文島から通例交付するはずの税収をイギリスがかわって支払い、また 中国に対しても、その税収分より朝鮮が貢納として中国に納める分を支払う」

などの内容で構成された巨文島占領に関する英中協定案の交渉に着手する18。  清国はイギリスの巨文島占領を契機として、ロシアと対決するという緊急事 態に見舞われたイギリスに清国の朝鮮に対する宗主権を認めさせると同時に、

イギリスの力を借りてロシアを圧迫する計画を持っていたからだと思われる。

当時、ロシアは清露の国境に大量の軍隊を集結していたばかりでなく、モンゴ ル貴族の反乱を煽る政策を講じ、清国の北方地域の安全を脅かしていたので、

清国はロシアに不安感を抱いていた。

 事実上、ロシアの南下を念頭においた英清両国の同盟に関する交渉は、1885 年 4 月から行われていた李鴻章とイギリスの天津駐在公使バイロン・ブレナン

(Byron Brenan)との間の会議において、すでに開始されていた。ブレナンと の交渉の際、李鴻章は率直に「英露戦争が起きたら、イギリスはどの国と連盟 を考えているのか」とブレナンに質問し、ブレナン公使は英清同盟を考慮に入 れていると答え、両国の同盟に関する交渉は一定の成果を収めていた。その後、

李鴻章はイギリス側の代表である郵政司のダン(a telegraph agent Dun)と 天津で英中同盟に関して引き続き協議を進めていく19

 イギリスと清国の接近はロシアを不安感に包んだ。ロシアはイギリスの巨文 島占領と英清同盟の結成の可能性に危機感を持って、深刻に受け止める。イ ギリスと清国の接近に対する対抗策として、ロシア駐華公使ポポフ(Sergey Popov)は清国政府に対し、もし、清国がイギリスの占領を許容するならば、

ロシアも朝鮮の一部を占領するはずだと宣言し、清国に強硬に対応する20。  清露関係が緊張していたとはいえ、清国はロシアとの対決を望んではいな

17 原文:貴國占領該島 , 系一時佔領,如貴國議定決不損害敝邦權利及利益 , 則敝國亦 無抗拒之意。王芸生编前掲書第一巻、249 頁。

18 同上、276 頁。顧廷龍編『李鴻章全集(信函五)』第 33 卷、安徽省教育出版社、2008 年、

503 頁。

19 E. V. G. Kiernan. British Diplomacy in China, Cambridge University Press, 1939, p.189.

20 王芸生、前掲書、第 1 巻、249 頁。

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かった。イギリスと接近したのも、清国が「夷を以て夷を制す」政策を講じ、

ロシアとイギリスの勢力の均衡を図るためであって、決してイギリスとともに ロシアと開戦する目的ではなかったと思われる。ロシアの強硬な態度は、再 び李鴻章に巨文島事件の複雑性を認識させる。清国は朝鮮での宗主権と利益 を確保する前提の下、イギリスとの感情を害しないと同時に、ロシアの要求 も満足させなければならない政策上のディレンマ(dilemma)に陥ったのであ る。事態の悪化を憂慮した清国は慌ただしくイギリスに撤退を促す政策に転 ずるようになる。

 巨文島事件の現地状況を詳しく把握するために、李鴻章は北洋艦隊の提督丁 汝昌を朝鮮に派遣する。そして、丁汝昌は朝鮮国王に対し、いかなる状況にお いてもイギリスへの巨文島租借は行わないよう警告すると同時に、香港の例 を挙げ、租借は占有に繋がると朝鮮国王を説得する21。その後、丁汝昌は軍艦「超 勇号」、「揚威号」を率いて、直接巨文島駐屯のイギリス海軍の軍官と長崎の海 軍提督と交渉するが、満足する結果を得ることはできなかった。

 帰国した丁汝昌より、イギリス海軍がすでに巨文島において工事を進め、

島の要塞化が行われているという状況を把握した清国はイギリスによる巨文 島の占有を恐れ、イギリスに対する外交交渉を急ぐ。1885 年 5 月 6 日、曾紀 澤はイギリス政府に照会し、イギリスが巨文島を租借することに同意すれば、

他国も同様の条件で朝鮮に別の場所の租借を要求するだろうと解釈しながら、

イギリスの撤去を求めた22。その後も、清国は何回も外交ルートを利用して巨 文島からの早期撤退をイギリスに求めたが、イギリス側からの積極的な対応 はなかった。

 巨文島問題を巡る英中交渉が停滞に陥っている間、国際情勢は大きな転換 を迎えていた。1885 年 5 月から、アフガニスタンにおける英露の対立に緩和 の様子が現れ始め、9 月にはロンドンでロシアとアフガニスタンによる辺境問 題に関する議定書が締結される23。事態の変遷に伴い、10 月 13 日、清国政府は 再度正式にイギリスに対して、アフガニスタンにおけるロシアとの問題が解

21 劉盛男「巨文島事件と中朝宗藩関係」『韓国研究論集』第 4 号、2010 年、32 頁。

22 台北中央研究院近代史研究所、前掲書、2116 頁。

23 楊闖編、前掲書、257 頁。

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決した以上、イギリスが占領状態を終わらせるべきだと主張することになる。

そして、李鴻章はイギリスに対し、巨文島事件によって、清国と列強、特に ロシアとの関係は望ましくない状況になっており、今後とも不安定な情勢が 続けば、清英関係も損なわれかねないと警告する。

 アフガニスタンを巡る英露間の緊張が緩和され、清国からの巨文島返還の 要求を繰り返している現状に鑑みて、イギリスも朝鮮問題において譲歩の意 図を表し始めた。1886 年 4 月 14 日、イギリスは清国に撤退の前提条件として、

巨文島がロシアやその他の国によって占領されないこと、イギリスの巨文島放 棄後、ロシアによる水興湾占領を阻止することなどの要求を提出することに なる24。そもそも、イギリスもいつまで巨文島を占拠するかという問題を抱え ており、政府内でその解決策について議論していた。巨文島占領の直後、イギ リス政府は、清国に対し、占領が「一時的」であると告げる一方、各部門に巨 文島占領の価値について意見を求める。イギリス海軍省は政府の要求に従い、

1885 年秋から 1886 年夏にかけて巨文島占領に関する一連の現地調査を行うが、

その結果、巨文島は軍事的資源も乏しく、気候的、地理的にも占有に適して ないという結論を得ることなり、その結果を直ちに内閣に報告する25。そして、

貿易省も巨文島占領が周辺地域との通商拡大に寄与できないだけでなく、領有 して自由港化しても恩恵が列強に奪われるので、費用ばかりかかり、イギリ スにとっては負担になるとして、巨文島占有に消極的な見解を示していた26。 政府内で巨文島長期占領に対する反対の声が上がっていたにもかかわらずイ ギリスの巨文島占領が長引いたのは、朝鮮情勢に対する不安感とロシアの南 下に対する警戒心がイギリスの巨文島返還を困難にさせたからであった。

 イギリスの悩みを感じ取った李鴻章は、1886 年 2 月からロシアとの交渉 に全力を尽くす27。紆余曲折を経て、清国の対露外交は一定の成果を収める 24 白新良編『中朝関係通史』世界知識出版社、2002 年、432 頁。

25 小林隆夫、前掲論文。31 頁。

26 同上。

27 二度目の朝露密約事件の際(1886 年 8 月)、朝鮮政府がロシア代理公使ウェーバー に宛てて、ロシアに軍事的保護(軍艦の派遣)を求める旨の密函(秘密書簡)を送っ たことについて、ロシア外務省は密函の受領は認めていた。しかし、清国はロシア と「密約事件」について議論することを避け、直接肝心な問題―巨文島事件の解決 に関する交渉を展開する。

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ことになる。8 月に、ロシアの北京公使代行ラディジェンスキー(Nikolai F.

Ladyzhenskii)は李鴻章に電報を発し、ロシアはイギリスの撤退後に巨文島を 占領する計画がないことを伝えた28。8 月下旬より、ラディジェンスキーは李鴻 章の要請に応じて、天津に赴き、朝鮮問題についての討議にはいった。交渉 において、ロシア側はイギリス撤退後に巨文島を占領しないことと、水興湾 占領の野心がないことを清国に保証した。交渉は確実な覚書交換までには至 らなかったが、李鴻章はロシアの南下の意図はイギリスが恐れるほど積極的 なものではないことに気づくようになる29

 清国はロシアとの交渉過程をイギリスの天津領事ブレナンに伝達していた。

そして、清露交渉の成果を保証した上で、清国はこのような保証を得た以上、

イギリスも占領を終わらせるべきだと要求するようになる。しかし、イギリス はラディジェンスキーの口頭で述べた内容を清国が覚書の形で記録し、手交す ることを求めた。そこで、清国の総理衙門はロシアからの公式文書を確保する ために交渉を続ける。10 月 11 日、清国はロシアから「清露両国が朝鮮領土の 不可侵及び現状の不変更を誓い合う」という協定書の調印を獲得し、10 月 30 日にイギリスへ送付する30。そして、イギリスの撤退に十分な保証を与えた後、

清国はイギリスに巨文島の返還を繰り返し催促する。

 1886 年 12 月 24 日、イギリスは清国と朝鮮に巨文島から撤退の政府決定を 伝え、1887 年 2 月 27 日には、巨文島から国旗を降ろし、約 2 年間の占領を終 わらせ、軍艦を引き上げる31。このようにして、巨文島事件は武力衝突なしで、

解決を迎える。

 注目すべきところは、巨文島事件の解決を巡る清国の東北アジア政策におい て、「夷を以て夷を制す」方針が重要な役割を果たしていた点である。巨文島 事件の解決は、清政府、特に李鴻章が推進した「夷を以て夷を制す」方針の 成功作ともいえるものであった。そもそも、1870 年代から日・露両国の朝鮮

28 茹科夫編『極東国際関係史論(上)』世界知識出版社、1959 年、94 頁。

29 台北中央研究院近代史研究所、前掲書、2167 頁。

30 蔡連『近代中露関係』文海出版社、1990 年、76 頁。台北中央研究院近代史研究所 前掲書、2267 頁。

31 3 月 1 日、イギリス朝鮮駐在の総領事はイギリス海軍の撤退が完成したことを伝え る(台北中央研究院近代史研究所前掲書、2261 頁)。

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への侵略がエスカレートしていくにつれて、清国は「夷を以て夷を制す」戦略 を展開し、朝鮮の全面開放を通じ、欧米列強の勢力を取り入れることで、列強 の間の矛盾を利用して、朝鮮における利益を確保しようとしたのである32。主 に、清国は「夷を以て夷を制す」方針を打ち出し、イギリス、アメリカの影 響力をもってロシアの侵略野心を抑制し、ロシアの影響力をもって日本勢力 の朝鮮への浸透を制約しようとした。そして、巨文島事件においても清国は

「夷を以て夷を制す」方針をもって、イギリスとロシアの対立、そして、日本 の清国に対する要求と譲歩を総括的に利用し、巨文島からのイギリスの撤退 を導いただけでなく、列強の方から朝鮮における宗主権の承認を獲得した。「力 を借りる国」と「対抗する国」が時期と対策によって異なるが、「夷を以て夷 を制す」という政策手段は変わることがなかったのである。

 巨文島事件を通じて、宗主権強化の目的を達成した清国は、その後の時期 においても、朝鮮の内政、外交、経済などの行政に対する関与を強めていく。

1885 年から 1892 年までの間、清国からインチョン、元山、釜山などの港の経 由で朝鮮に輸出された清国製品の量は約 33 万ドルから 205 万ドルに増加し、

清国の朝鮮に対する経済面における影響力が一層強まる33。ところが、巨文島 事件の発生とともに展開された宗主権を強化する政策は清国に対する朝鮮国 内の不満を向上させ、却って、列強の朝鮮への進出に有利な条件を形成する ことになる。

3.巨文島事件の影響と清国の東北アジア政策

 巨文島事件は国際交渉だけを通じて解決を迎え、1880 年代の東北アジアの 国際秩序にはそれほど大きな影響を直ちに及ぼすことがなかったと思われる。

しかしながら、巨文島事件を近代東北アジアの国際政治史の脈絡において時代 の発展の視点から考える限り、巨文島事件は関係諸国が新世紀に向けて、戦 略変更を実施するきっかけになった事件であり、特に 19 世紀末から 20 世紀初

32 1882 年 5 月に締結された「米韓条約」は「夷を以て夷を制す」戦略を良く表した ものであった。

33 劉盛男、前掲論文、30 頁を参照。

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頭の極東地域の情勢発展、国際秩序の転換に大きな影響を及ぼした重要な出 来事であったことがわかる。清国も東北アジアの政治情勢の大きな変化に対 応するために、新たな東北アジア政策を展開していくようになる。

3-1 巨文島事件後、露・日の極東政策の変化と清国の対応

 巨文島事件を機にロシアは戦略の重心を東北アジア地域に移行し、朝鮮半島 に対する勢力拡大を大いに強化した。ロシアはイギリスの侵略を防ぐという 口実で朝鮮の軍隊の訓練に関与するなど、朝鮮の保護者の役割を果たそうと した。そして、同地域における競争で優位に立つためにロシアは一連の戦略 調整を行うことになる。上述したように、イギリスの巨文島占領はロシアの 太平洋艦隊が日本海内に封鎖されやすいという弱点を浮き出し、ロシアを戦 略的守勢に追い込んだ。このような不利な局面を打破するために、ロシアは 1887 年から海軍の力を主に依存してきた東北アジアの旧来の防衛戦略をヨー ロッパとアジアを貫通するシベリア鉄道を建設し、陸軍と海軍の両方面の力 をあわせて戦略目的を達成する新戦略に変更する34

 1887 年 6 月 18 日、サンクトペテルブルクで開催された政府会議で、参加者 一同は、「国家の戦略利益のために、ヨーロッパと極東地域の間に交通施設を 建設すること」で合意する。次の日、ロシア皇帝アレクサンドル二世はその計 画を承認し、交通大臣にシベリア鉄道の製図作業を命令する35。その後、ロシ アはニコライ二世を首席とするシベリア鉄道管理委員会を組織し、フランスよ り 2%の金利で 5 億フランの鉄道建設費用を借りて、1891 年 3 月 31 日から本 格的に鉄道の建設に着手する。シベリア鉄道の建設によって、ロシアは東北ア ジア地域において強力な艦隊を維持することができ、ヨーロッパとアジアで 予想外の事態が生じた時に、太平洋での商業活動をコントロールしやすくなっ た。

 その他、ロシアは東北アジア地域への移民計画を立てて、1887 年から海軍 部指揮の下、毎年ドニエプル川から 2000 人のコサック人を東北アジア地域に 移住させる。そして、移住させた住民に対し、政府は土地、家畜、道具など 34 張鉄民編、前掲書、94 頁。

35 蔡連、前掲書、85 頁。

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を分配することで、移住民の定着を助けた 36。このような東北アジア地域への 移民政策は当地域におけるロシアの影響力をさらに強化させる結果に繋がる。

 1888 年 5 月 8 に開催されたロシア政府の特別会議で、参加者たちは数年間 の極東重視戦略の経験に基づいて、「朝鮮は極東においてわが国の政治的利益 を集中的に反映する地域であり、満州辺境と隣接しているため、我が国の重要 な戦略拠点になりうる」という結論を出すに至る37。巨文島事件以降に実施さ れた「シベリア鉄道の建設」と「東北アジア地域への移民政策」などの新戦略は、

ロシアの朝鮮と満州への進出に基盤を作りあげる役割を果たしたのである。

 一方、巨文島事件後、日本も積極的に戦略調整を行う。巨文島事件は日本に

「今後、朝鮮半島の支配を巡る紛争がますます激しくなっていく」という認識 を持たせる。そして、シベリア鉄道の建設とロシアの南下政策は日本の不安 感と危機意識を刺激する。当時、日本の有名な政論家大石正巳は「日本国の 寿命はシベリア鉄道の延長とともに、短縮する」と警告していた38。山県有朋 首相も「シベリア鉄道の完成日は朝鮮に問題が多発する日であり、東洋の大 変が生じる日である。朝鮮が独立を維持できるかできないかは、我が国の利 害も直接繋がることであろう」39と認識していた。

 巨文島事件を通じて、国力の不足を痛感した日本はロシアの南下に対抗す るために、軍事力の上昇に尽力する政策を打ち出すようになる。1885 年に国 家予算の 25%であった軍事予算は 1892 年になると 41%に増加する。特に、日 本は膨大な海軍の拡充計画を立て、大量の軍事予算を投入する。1885 年 5 月、

川村純義海軍大将はイギリスの巨文島占領とロシアの南下に対応するために 釜山港の絶影島を租借する必要があるという意見を提出し、政府の同意を得 る。日本は迅速に行動し、1886 年 1 月に絶影島を強制租借し、海軍の石炭庫 を建設する40。そして、対馬島の防衛を強化し、1886 年には呉、佐世保の二つ の軍港を建設する。財政難の下、日本はわざわざ 1887 年に海軍公債まで発行し、

造船や戦艦購入の計画を実行させる。日清戦争の前に、日本はすでに一流海 36 同、82 頁。

37 戚其章編『中日戦争、中国近代史資料』第 9 册、中華書局、1994 年、430 頁。

38 王瑛『晩清史研究』吉林大学出版社、1983 年、122 頁。

39 同、127 頁。

40 劉盛男、前掲論文、31 頁。

(16)

軍強国となっていた。その他、日本は大陸での作戦を考慮内にいれ、1885 年 には陸軍内に「監軍」を設置し、1888 年には陸軍に「師、団編制」を導入す ることで軍隊の拡充を図る。巨文島事件は日本が軍事力発展を優先する政策 をとるようになるきっかけとなったのである。その結果、日本は東北アジア で大規模な戦争を行える力を持つようになり、軍事力の上昇を実現した日本 は早速朝鮮への進出に拍車を掛けていく。

 巨文島事件後、東北アジア地域にはロシアと日本という二つの軍事勢力が急 速に台頭しただけでなく、日・露両国の矛盾も激化するようになる。このよ うな東北アジアにおける国際情勢の下、清国は再び「夷を以て夷を制す」方 針をもって、ロシアの力を借りて日本を牽制する政策を展開する。1860 年代 に、清国には日本と連合し、西洋の侵略に対抗しようとする雰囲気があった。

しかしながら、「台湾事件」と「琉球事件」、そして、朝鮮に対する日本の侵 略政策は清国に日本の野心を認識させ、日本との連合への期待を薄くさせた。

その上、清国の外交を主導した李鴻章は親露的傾向をもっている人物であり、

清国の「連露、制日」という政策の確立に大きな役割を果たしたのである。また、

巨文島事件後、ロシアの東北アジアでの力の上昇は親露感情を持っている清 国内の勢力に期待感と依頼感を与える結果を生み、清国の新たな東北アジア 政策への転換を加速化させるのであった。

3-2 イギリスの東北アジア政策の変化と清国の対応

 巨文島事件はイギリスの外交政策にも多大な影響を与える。巨文島事件以 降、ロシアの戦略の重心が東北アジア地域に移行するにつれて、イギリスは「ロ シアとの対抗は長くなるはずだ」という認識を持つようになる。シベリア鉄道 の完成により、東北アジア地域におけるロシアの実力はますます増し、イギリ スの当地域での優位が揺るがされる状況を招くようになる。ロシアに対抗し、

極東での利益を確保するために、イギリスは東北アジア地域で同盟国を探し 始める。清仏戦争で現れた中国の軍事力はイギリスの注目を集め、「清国は神 がイギリスに与えた仲間であり、この同盟は人類の大半を連携させる」という 雰囲気がイギリス国内では整っていたので 41、イギリスは交渉の最初の段階に 41 張鉄民編、前掲書、72 頁。

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おいて中国との同盟関係を考えていた。ところが、清政府が重んじていたのは

「夷を以て夷を制す」という政策であって、ロシアとフランスなど列強との関 係に傷つくことを恐れていた。清国の曖昧な態度と清英同盟に対する迷いが、

逆に日英同盟の実現を可能にさせたのである42

 日本は巨文島事件をきっかけに、積極的に対英外交を展開し、また、ロシア の南下を阻止する点で目標を一致させる。イギリスも日本に対する抑制政策を 止め、東北アジア地域における日本の役割の拡大を支持するようなり、ロシ アを仮想敵国とした日英共同の利益関係は急速に確立されていく。イギリス は日本と 1893 年に「日英新条約」を、翌年には「日英通商航海条約」を締結 し、1902 年に同盟関係を実現する。同盟関係を結ぶ際、日英両国は東北アジ ア地域における双方の既存利益を承認し、清国と朝鮮における日英両国の「特 殊な利益」が脅威にさらされ、また、清国と朝鮮の国内で「騒ぎ」が起き侵 害が生じる時、両国は介入する権利を持ち、他国の攻撃を受けたときにはお 互いに軍事援助を与えるなどの内容で合意を得たのである。

 イギリスと日本の接近に対して、清国はその脅威を十分に認識していなかっ た。日英同盟はロシアに対抗するための軍事同盟であり、朝鮮と清国を侵略 するための道具でもあった。巨文島事件後に展開された東北アジアにおいて 対日外交を重視し、日本との同盟関係を確立するイギリスの政策は、朝鮮と 清国に対する日本の侵略の野望を強化させる。一方、日本に対抗するために、

清国はさらにロシアとへの依存度を高める親露の政策傾向はイギリスの不満 を招くようになる。日清戦争の前夜、イギリスは「南下する日本はイギリス人 の敵、北上する日本人はイギリスの友達」という方針を持ち出し43、日本に朝 鮮、満州に進出する勇気を与え、東北アジアの政治情勢の変化を加速化させる。

そして、イギリスの黙認の下で、日清戦争が勃発する。

42 日清戦争前の清国の「夷を以て夷を制す」方針は、列強間の勢力均衡を目指す政策 であり、決して一国との同盟をもって敵対国に対抗する政戦略ではなかった。その ために、清国はイギリスとの同盟に消極的あった。そして、清国がより注目したの は、ロシアの力をもって、日本の朝鮮への侵略を抑制する「連露、制日」という政 策であった。ところが、日清戦争での敗北と日本の満州地域への進出という状況に 面した清国は、1896 年に「清露密約」を締結し、ロシアとの同盟をもって、日本 に対抗する新たな違う内容の「夷を以て夷を制す」政策を展開するようになる。

43 戚其章編、前掲書、431 頁。

(18)

 上述のように、巨文島事件後にも、清国が重視して展開した「夷を以て夷 を制す」を主とする東北アジア政策、列強各国の勢力を利用し、目的を達成 することを手段としていたので、結局、自国の力を頼りにする政策の展開を 妨げるようになる。清政府は列強の間の対立を重視するあまり、列強の「朝 鮮への進出」と「植民地確保」などの面における利益の一致性を無視するに至っ た。特に、清国はロシアの東北アジアに対する政策の侵略性を把握できなかっ たのである。

 日清戦争の直前、「夷を以て夷を制す」方針を頼りにした清国は西洋列国に 日清紛争の仲介を願い、ロシアに清国とともに日本に対抗することを希望し た。しかしながら、ロシアは日清間の対立を利用し、満州地方でのさらなる 権益の確保を図っており44、自力で日本に対抗するための力の養うことを怠っ ていた清国は日本の挑戦に応じ、敗北を喫する。その際、ロシアは清国の危 急につけこんで打撃を加え、1896 年の「中露密約」と 1900 年の「義和団事件」

を通じ、満州全域を手に入れる。

 巨文島事件をきっかけに展開されるようになったシベリア鉄道の建設とロ シアの南下政策、日本の軍事大国化政策、イギリスの連盟政策は、東北アジ アの政治情勢、ひいては同地域の国際秩序に大きな変化をもたらすことになっ た。そして、朝鮮に進出し、利益を確保する日露両国戦略の展開は、東北アジ ア地域の矛盾を一層表面化させ、直接日清戦争、日露戦争の勃発の要因となっ た。また、1880 年代には一定の効果を上げた清国の「夷を以て夷を制す」戦略は、

1890 年代に入ると東北アジアにおける政治情勢の変化に対応することができ なくなり、結果的には、清国を不利な状況に追いこむことになったのである。

おわりに

 巨文島事件は英露間の覇権争いの結果であり、東北アジアにおける列強の 新しい利益紛争の開始を予言するものでもあった。巨文島事件において、清、

露、英などの諸国は朝鮮の利益を無視し、自国の戦略のために、朝鮮を利用 しようとした。巨文島事件の発生とともに、朝鮮は極東において国際矛盾が 44 戚其章編、前掲書、234 頁。

(19)

最も集中し、国際関係が一番複雑な地域となっていた。巨文島事件において、

イギリスは巨文島を拠点に、ロシアの南下を牽制しようとし、ロシアはイギリ スを巨文島から撤退させることで、東北アジアへの進出の障害を取り除こう とした。一方、清政府はイギリスの巨文島占領を受け入れることで、自国の 利益を犠牲し、朝鮮に対するロシアの野心を抑制しようとしたが、ロシアの 圧力が強くなるにつれて、英露の矛盾を緩和させることで、朝鮮半島におけ る宗主権を保つ政策を展開するようになる。そして、日本は清国と妥協する ことで、清国を建前にロシアの南下を阻止しようとした。巨文島事件は武力 衝突なしで解決されたが、その後、朝鮮をめぐる各国の矛盾はさらに激化する。

ロシア、日本、イギリスなどの列強は朝鮮に対する野心を放棄することがなく、

朝鮮は極東の国際紛争の渦へ放り込まれていき、日清戦争、日露戦争を迎え るようになったのである。

 巨文島事件は東北アジアの政治史における重要な転換点であった。巨文島事 件をきっかけに、清、英、露、日は次々と東北アジア戦略に対する調整を行い、

東北アジア政局には新たな変化が現れる。例えば、ロシアはシベリア鉄道の建 設を原動力として東北アジアへ進出を強化し、イギリスは同盟国を求めるよう になり、日本はイギリスの支持を確保すると同時に、軍需力の上昇を目指す 政策を開始する。清国は朝鮮に対する宗主権を強化し、列強の侵略野心を無 視したまま、「夷を以て夷を制す」方針に依存する政策を展開する。このよう な関連諸国の政策転向は東北アジアにおける紛争の勃発を促しただけでなく、

19 世紀末から 20 世紀初頭に至る同地域の政治情勢の流れに直接影響するよう になり、東北アジアの政局における新たな政治情勢を生みだしたのである。

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<ABSTRACT>

Port Hamilton Incident and the Qing’s Northeast Asia policy

Hu Y

IN The Port Hamilton incident is the result of a struggle for supremacy between Russia and the UK. It is also an indication that a new interest competition between the powers is going to start in Northeast Asia. As the wake of the incident, Qing, British, Russian and Japan respectively made adjustment on the Far East strategy, The Northeast Asian political situation appeared the new changes. Therefore, the Port Hamilton incident can be called an important turning point in the political history of Northeast Asia.

This paper will analysis the Port Hamilton incident to re-examine the complex international relations in Northeast Asia at the end of the 19th century, and review the historical development of the Qing's Northeast Asia policy to the Port Hamilton incident. At the same time this paper will also clarify the Qing's policy coordination on Northeast Asia policy which caused by the changes of international situation after the Port Hamilton incident.

Keywords: The Port Hamilton incident, Northeast Asia policy, Qing-British relations, Qing-Russia relations, UK-Russia relations

参照

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O'Leary, Chistopher J.(2005) , Current Policy Themes for Unemployment Insurance in the United States, Keum, Jaeho ed., Employment Insurance and Public Employment Services

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