マルクス主義国家論批判
大
谷 恵
教
マルクス主義国家論批判 1
目次
序 説 国家の起源と本質
第一章 マルクス主義の人間観
第二章 マルクス主義の階級ならびに階級闘争史観
第三章 マルクス主義の国家観
1 現実の国家・政治権力観
2 ﹁プロレタリアートの独裁国家論﹂と﹁国家死滅論﹂
3 批 判
第四章 スターリンの修正国家論
第五章 スターリン主義の帝国主義とその存続
1 ﹁資本主義四囲の解消﹂と﹁社会主義四囲による改変一
一赤色世界帝国主義一
2 依然として存続する赤色世界帝国主義
序説 国家の起源と本質 の意味
69国家の起源に関しては︑神の意思や契約に求める説︵帝王神権説︑祭政一致の神話︑神学的国家論など︶︑自然法 −
2
にもとつく人間の契約に求める説︵契約説の国家論︶︑あるいは征服や階級的搾取に求める説︵征服説︑マルクス主
義的国家論︶など︑種々様々な説があるが︑それらの説はすべて歴史的実証が不可能である︒
国家の起源は︑故矢部貞治博士が主張するように︑これを人間共同生活そのものの内的要求に求めるのが正しい︒
ロビンソン・クルーソ!が孤島において孤独では暮しえず︑聖書をもって上陸し︑聖書を通しての神との対話
の中に生を求めたこと︑小島を飼ってそれを愛したこと︑フライデイを発見したときの大いなる喜びやかれとの共同
生活などの話や︑アリストテレスの﹁人間は国的動物である﹂という有名な言を引き合いに出すまでもなく︑そもそ
も人間は孤独と孤立との中に生存しうるものではない︒かならず人と人との共同生活の中でこそ︑はじめて生存しう
るものである︒その共同生活はまた︑その規律統制のためのなんらかの統制秩序なくしては︑不可能である︒ 国 共同生活体を織りなす人間各人は︑﹁人智は神でも野獣でもない﹂︵アリストテレス︶︑﹁人間は天使にもあらず︑神
にもあ皇矧﹂︵パスカル︶・おたくしの胸には・山めあ・二つの魂が住んでいて︑それが互いに別れ奈・ている︒一
つは激しい愛欲に燃え︑からみつく官能で現世にしがみつく︒もう一つは無理にも塵の世を逃れて︑気高い先人たち の霊へと昇ってい徹﹂︵ゲーテ︶と先人たちがいみじくも喝破しているように︑二律背反的な二元的性情の持ち主な わのであ勧︒すなわち︑現実の生身の人間は︑故矢部貞治博士が指摘しているように︑﹁霊と肉︑理想と現実︑連帯と
闘争︑進歩と保守︑社会と個人︑客観と主観︑権威と自由︑知性と本能︑理想と欲望﹂などの相剋の中に生存してい 圖るのである︒
こうした人間の織りなす共同生活体の中には︑なんらかの分化︑対立︑抗争が生じることは必然的であり︑ここに
共同生活が成立して秩序づけられた平和と安全の中に人間が生存しうるためには︑統制秩序が不可欠となる︒
この共同生活の統制秩序こそ︑国家の本質的要素なのである︒共同生活から国家に発展していく過程においては︑
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マルクス主義国家論批判 3
定住︑階級の発生とその対立︑征服︑経済的搾取関係︑財産や身分の世襲制︑法と刑罰の確立︑あるいは組織的権力
の整備とかの諸要因が︑きわめて大きな役割と意味をもつであろうことは否定できない︒
だが︑それにもかかわらず︑共同生活統制組織としての国家そのものの本質的崩芽は︑二律背反的な二元的性情の
持ち圭である人間の共同生活がなんらの形で存在したと同時に︑すでに存在していたものと考えざるをえない︒この 團音心味において︑ラスキがいうように︑﹁国家はつくられたものではなくて︑成長してきた﹂ものなのである︒ ルソー
が論じているように︑神のみがその唯一の源泉であるところの一切の正義をもちうるほどに︑われわれ人間が完全で ㈹あるならば︑政治も法律も︑したがって国家も不要であろう︒また︑原始社会や︑トーテムやタブーなどによる原始
宗教的秩序などでこと足りて︑分化や対立や抗争がないところのF・テンニースのいわゆる共同体︵︵甲Φ昌PΦ一昌ωOげ四州什︶
であるならば︑政治とか権力とかの要素はほとんど表面化せず︑したがってまた国家という形も明らかな姿では存在
しなかったであろう︒
しかしながら︑われわれ人間は神のように完全ではなくて︑二律背反的な二元的性情の持ち主であり︑いやしくも
いささかなりとも分化や対立や抗争が存在し︑秩序を乱すものがあったかぎりでは︑それがたとえ萌芽的素朴的な形
態であったにせよ︑すでに共同生活の統制組織が存在したであろうことは︑これを否定しえない︒なかんづく︑原始
的部族と部族とが接触し︑いつ闘争にはいらざるをえないかもわからないような状態においては︑かりに部族そのも
のの中には分化や対立や抗争がなかったり︑あるいは此二戸であったりしても︑外敵に対する防衛ないし闘争態勢を整
備する必要から︑必然的に指揮命令と服従の組織が生じざるをえない︒
これらの諸要因が結合して︑共同生活の統制秩序がより高度の明確な形と体裁をととのえ︑人間と地域の相当の拡
がりをもって組織されたものが︑故矢部博士が圭平するように︑国家なのであって︑共同生活から国家への発展は︑
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前述のラスキの言からも容易に理解しうるように︑根本においては一つの連続的な発展にほかならない︒それらの個
々の要因や契機のみをとらえて︑それ以前には国家や政治が存在せず︑それ以降にのみそれらが存在するというふう
に論断することは不可能である︒したがって︑これも故矢部博士が強調しているように︑征服や経済的搾取や階級の
契機の有無のみで国家の存否を一義的に論じることは︑正しくないのである︒
その意味で︑国家もその権力や法秩序も人間が必要とし︑人間がそれを共同生活のためにつくりだしたものなので
ある︒いわば︑それらは人間の歴史の必然的な所産なのである︒国家は人間の性情と無関係に︑あるいは人間の性情
に反して成立しているのではなくて︑まさしく人間の本性︑すなわち既述のような神ならぬ二律背反的な二元的性情
そのものがそれを要求しているのである︒
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第一章 マルクス主義の人間観
それでは︑マルクス主義はいかなる人問観を有しているのであろうか︒
マルクス主義の創始者マルクスは︑ヘーゲル哲学の影響がきわめて強かった当時のドイツ哲学の中で哲学を研究
し︑ヘーゲル以後のドイツ哲学と対決︑批判︑破壊することによって︑その思想を発展させていったが︑﹃経済学.
哲学草稿﹄︵一八四九年?︶から﹃ドイツ・イデオロギー﹄︵マルクス・エンゲルス共著︑一八四五一六年︶あたりま
でのいわゆる﹁初期マルクス時代﹂までは︑当時のドイツ哲学の影響下にあった︒したがって︑この頃までは︑資本
主義の発展にともな・て生じた労働者の悲惨な窮境からの救出一・︑←ニズムーによって︑強く動機づけられ
ていた︒とくに﹃草稿﹄においては︑ヘーゲルやフォイエルバッハなどの影響を強く受けていて︑ヘーゲルの用語で
ある〃自己疎外︵ω①一げωけΦ⇒け︷﹃①5Pα9コゆq︶︑疎外︵含量彰彰ぴ・︶あるいは外化〃︵国昌感信のω①・ロ昌・︑︶塗.しの概念が
5 マルクス主義国家論批判
思考の中軸になっていた︒
この﹁初期マルクス﹂時代におけるヒューマニ.スムがその後のマルクス主義の思想の中にも一貫して流れているか
否かという問題に関しては︑学会においていまもなお論争の一つの大きな的となっているが︑﹃神聖家族﹄︵↓八四五
年︶や前記の﹃ドイツ・イデオロギー﹄にいたって︑依然としてヒューマニズム的観点から思考しつつも︑漸次ヘー
ゲル的あるいはフォイエルバッハ的思考からいわゆる科学的共産主義的思考への移行がみられ︑とくに後者において
はそれが明白に現われはじめ︑唯物史観を展開している︒
しかしながら︑マルクスがヘーゲルやフォイエルバッハ的思考一当時のドイツ哲学の影響 から抜け出して︑
マルクス独自の完全な共産主義の立場に立ってその主張を展開しはじめたと一般に理解されているのは︑﹃共産党宣
言﹄︵マルクス・エンゲルス共著︑一八四八年︶である︒普通マルクス主義といわれる場合には︑これ以降の思想と
実践活動に重点がおかれている︒
さて︑このようなマルクスとその協力者エンゲルスを中心にしたマルクス圭義者たちは︑次のような人間観と史観
を展開している︒
まず第↓に︑かれらは人間の徹底的世俗化と唯物史観を主張している︒
﹃ドイツ・イデオロギー﹄の中で︑天上から地上へ降りてくるヘーゲル的な当時のドイツ哲学を倒立させて︑地上か
ら天上に昇るというマルクスーエンゲルスは︑﹁人間相互の間には一つの唯物論的なつながりがあって︑これは欲望
と生産の様式とによって制約され︑そして人間そのものと同じくらいふるい﹂と述べて︑﹁意識︵じUΦ♂<¢ωの什ωΦ一昌︶が生 圃活︵いΦσΦ昌︶を規定するのではなくて︑生活が意識を規定する﹂と主張している︒
・このような唯物史観は﹃経済学批判序言﹄︵マルクス︑一八五九年︶にいって︑以下のように定式化されるのであ
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る︒
﹁人間は︑かれらの生活の社会的生産において︑↓定の︑必然的な︑かれらの意思から独立した諸関係の中にはい
る︒すなわち︑これらの諸関係は人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応するものである︒これらの生産関係
の総体は︑社会の経済的構造を形成する︒これが現実的な基礎であって︑この基礎の上に一つの法律的︑および政治
的上部構造がそびえ立ち︑またこの基礎に対応して一定の社会的意識諸形態が存在するのである︒物質的生産様式
は︑社会的︑政治的︑精神的な生活過程一般を制約する︒人間の意識がかれらの存在を規定するのではなくて︑それ 圖とは正反対に︑かれらの社会的存在がかれらの意識を規定するのである︒﹂
このいわゆる上部構造・下部構造論に関しては︑次のような致命的欠陥が存在する︒
ωすでに拙著において指摘したように︑生産関係は人間関係の中の一つにすぎなく︑しかもるの人間関係の最奥部に
は人間それ自体についての根源的問題︵q壱δ三①ヨ︶が厳然として横たわっていることを︑マルクス†義者たちは忘 ㈲れている︒人間それ自体および人間関係は︑決して経済的一元論で対象化しきれぬものである︒
②マルクス主義が︑白竹保存本能と無限の欲望の飽くことなき追求等々の︑中世までの..ωo冨h乙①ω︑.一ただ信仰
のみ一的束縛から脱却して︑世俗化された近世以降の伝統的基盤の上に立ちながら︑しかもその世俗化の段階をさ
らに一歩進めて︑マルクス主義以前まで存在したところのイギリス的経験哲学が維持し続けてきたところの道徳哲
学︵夕霞巴℃置一〇ωo℃身︶をも排して︑歴史の規定囚を人間にではなくて︑物質的基礎︑生産様式︑生産関係に求め
たことは︑人間が生れながらにしてもつ主体性︑自律性︑自発性︑創意︑理想︑叡知︑良心︑個性︑向上性の否定を
意味し︑徹底した世俗化と物質主義の推進となる︵この徹底した世俗化と唯物主義が︑たとえば﹃共産党宣﹄におい
てどのように展開されているかは︑イギリスの歴史哲学者クリストファー・ドーソの言を例証しつつ︑拙著において
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マルクス主義国家論批判 7
岡示しておいた︶︒
第二に︑マルクスらの徹底的世俗化思想は︑伝統的宗教の批判と否定の形をとって︑現われる︒この典型的なマル
クスの著書が︑かれの唯物論と共産主義への決定的な移行を示す一つの重要な里程標といわれている﹃ヘーゲル法哲
学批判序説﹄︵一八四三年︶である︒
かれは﹁ドイツにとっての宗教の批判は本質的にすでに終っている︒だが︑宗教の批判は一切の批判の前提であ
る﹂という冒頭の書き出しではじめ︑﹁人間が宗教をつくるのであって︑宗教が人間をつくるのではない﹂︑﹁人間と
は人間の世界のことであり︑国家︑社会のことである︒この国家︑この社会が転倒した世界意識がある宗教をうみ出
すのである︒というわけは︑この国家︑社会が転倒した世界であるからである﹂︑﹁宗教が人間存在を空想的に表現す
るのは︑人間存在が真の現実性をもっていないからである︒だから︑宗教に対する闘争は︑間接的には︑宗教を精神
的香料とするこの世界に対する闘争である﹂と述べ︑﹁宗教上の不幸は︑ 一つには現実の不幸の表現であり︑ 一つに
は現実に対する抗議である︒宗教は悩めるもののタメ息であり︑無情な世界の心情であるとともに︑精神なき状態の
精神﹂である﹂と圭張した後︑かのあまりにも有名な﹁宗教は民衆の阿片である﹂という言をはき︑﹁宗教の批判は︑
人間は人間にとって最高の存在であるという教義に帰着する﹂と断じている︒
このような﹁宗教阿片説﹂を説くマルクスは︑民衆が現実的幸福を要求することを求め︑普遍的人間の存
在を主張し︑その解放を叫び︑普遍的人間の解放の担い手としてプロレタリアートを発見するにいたる︒そして︑こ
の﹃ヘーゲル法哲学批判序説﹄では︑まだ﹁初期マルクス時代﹂のヒューマニズムが思考の中心の座を占めていた
が︑いわゆるマルクス主義時代に移行するにいって︑その影響はまったく薄れかつ喪失していったのである︒
・ここで問題になるのは︑現実の不幸および現実の幸福とはなにか︑宗教への入信の動機は現実的あるいは
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物質的不幸のみか︑精神的不幸ぱ物質的不幸にのみ由来するのか︑人間の精神にはその固有の諸問題は存在しないの
か︑人間を野獣的な感性的動物とのみ↓方的にとらえて︑ヤスパースが主張しているような人間の有する超越的な
るものへのかかわり︵じuΦN轟磐h目冨昌ωNΦ巳Φ嵩︶を全然無視するのか︑人間は自律的︑自足的なのか︑またその
自律性と自足性とはなにを意味するのか︑等々の問題である︒筆者には︑マルクスたちがこれらの諸問題に完全に答
えている︑とは思われない︒また︑かれらの理論においては︑ 普遍的人間のみがきわめて部分的に︑かつ単に抽
象的に︑しかも不完全にしか取り扱われておらず︑その結果真の意味における普遍的人間︑さらに突込んで実
存的︑ 個別的な人間の人格概念が存在しないのも︑大問題である︒かれらはまったく抽象的な普遍的な
いし集団的なもののみを追求したといえよう︒ここに︑マルクスらがヨーロッパ大陸の人間であって︑大陸的概念
から脱しきれなかったこと︑あるいは当時の学会およびヘーゲルらの影響から最後まで脱しきれなかったことなどの
一断面をみることができる︒さらに︑民主圭義の立場からみて︑マルクスの右のような宗教観から帰結されるかれの
最大にしてかつ決定的な欠陥は︑神ないし超越者への敬度に対する侮蔑から結果するところの自己神格化であ
り︑ 傲慢である︒自己神格化と傲慢な人間の世界には︑民主主義成立の余地が全然存在しないことを銘記すべき
である︒ 第三には︑以上のような人間観からの当然の帰結としてのマルクス主義の侮蔑的人間観である︒
レーニンは﹃なにをなすべき?﹄︵一九〇二年︶の全篇を通して︑大衆ないし労働老は社会主義的意識をもたぬゆ
え︑その革命的前衛の党である共産党によって指導されるべきものであると述べて︑共産党の一党独裁を強調し
・れは︑・・シズ・の統領であ・た・・ソリ⊥示﹁大衆は自由を欲せず・ただパンとサーカスを欲す禰﹂と公言
響
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マルクス主義国家論批判 9
⑳してファシスト党の一党独裁を主張実施し︑またナチズムの指導者ヒットラーが大衆を﹁自然の一コ口︵国ヨω葺︒閃
く︒ロ2簿霞︶にすぎないと愚弄して︑﹁指導者原理﹂︵戸口ξ窪−勺同ぎN首︶を説いて揮らず︑文字通りのナチの独裁をし
いたのと︑同様である︒
人間性に対する侮蔑者は︑かならずや絶対主義者︑専制主義者︑そして独裁者なのである︒このような侮蔑的人間
観は︑決してとるべきでない︒それは人間が生れながらにしてもつ前述のようなもろもろの特徴と可能性を否定し︑
そして究極的には人間人格そのものを抹殺するにいたるからである︒大衆は決して永遠に愚弄され侮蔑されるべきも
のではない︒たしかにかれらには通常は受動的︑消極的な性格が顕著にみられるが︑しかし長期にわたってよくみれ
ば︑かれらは相当に鋭い感受性を有していて︑愚昧で無責任なヒトリヨガリの圧政や暴政に永久に甘んじるほど︑そ
れほど決して愚かではない︒歴史はこのことをよく物語っている︒﹁民の声は天の声﹂とすらいわれることがしばし
ばあることは︑周知の通りである︒
人間性における諸可能性 理性的側面iが豪も認められないところには︑民生主義や民圭政治は決して成立し
えないのである︒
第二章 マルクク主義の階級ならびに階級闘争史観
マルクス主義の階級ならびに階級闘争史観は︑既述の人間観および後述する国家観と密接不可分な関係にある︒
﹃ドイツ・イデオロギー﹄は労働の分割とそれにもとつく私的所有とによって︑階級と国家をうみ出してい
くプロセスを相当詳細に描写しているが︑しかしこのプロセスをもっとも簡潔に︑要約的に︑かつ結論的に述べてい
るのが︑﹃家族︑私的所有および国家の起源﹄︵一八八四年︶の序文の冒頭におけるエンゲルスの言である︒
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そこにおいて︑かれは︑種族紐帯にもとつく旧い社会は︑生産性の増大︑私的所有︑富の懸隔︑新たに発展した社
会的諸階級などの新しい社会的諸要素によって︑崩壊することを余儀なくされ︑そしてそれに代って新しい近代国家
が出現し︑その中で﹁従来のすべての書かれた歴史がその内容とするところの︑階級対立と階級闘争とがいまや自由 訓に展開されるのである﹂と︑主張している︒
マルクスたちがこの階級対立と階級闘争とをいかに重視したかは︑﹃共産党宣言﹄が﹁今日までのあらゆる社会の ⑳歴史は︑階級闘争の歴史である﹂︵∪陣①O①ωoぽ︒ぽΦ寡暮ぼωげΦ二αq①=OΦωΦ房︒冨坤蓉9①O①ω〇三〇洋①く︒旨閑ごω−
ω窪理髪鳳窪︶という有名な﹁階級闘争史観﹂で書きはじめられていることをもっても︑充分に理解しうることは周
知の通りである︒
ところで︑階級にはいろいろあるが︑マルクスーエンゲルスは︑次のように述べて︑中産階級は没落してプロレタ
リア化していくという︑いわゆる中産階級没落論を主張している︒
﹁これまでの下層の中産階級︵畠一Φ 貯一①一コΦづ ソ﹄一山叶①一ω叶昌昌血㊦︶︑すなわち小工業者︑商人および金利生活者︑手工業者お
よび農民︑これらすべての階級はプロレタリア階級に転落する︒それは︑あるいはかれらの小資本が大工業の経営に
は足りないで︑もっと大きな資本との競争に負けるからであり︑あるいはかれらの熟練が新しい生産様式によって価 ㈱﹁値を奪われるからである︒こうして︑プロレタリア階級は人口のあらゆる階級から補充される︒﹂
このように︑資本主義の発達とともに中産階級が漸次に消滅して︑﹁われわれの時代︑すなわちブルジ︒ア階級の
時代は階級対立︵囚一器ω窪σq①σq①づ絡訂①︶を単純化﹂し︑﹁全社会は︑敵対する二大陣営︵N芝虫αq同︒ゆΦ胤①ぎ臼一〇げ①いpひq興︶︑
互いに直接に対立する二大階級︵N≦巴αq8こ︒ρ①清里巳興α一お蓉αq①ひq①繋げ臼ω霧げΦ昌α①内冨ωω窪︶ーブルジ︒ア階級 図とプロレタリア階級に︑だんだん分れていく﹂のである︒
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マルクス主義国家論批判 11
この二大階級の対立に関して︑マルクスは﹃神聖家族﹄の中で次のように述べている︒
﹁プロレタリア階級と富ぱ反対物である︒これらのものぱ︑このようなものとして一つの全体を形成している︒これ
らは私的所有の世界の二つの形態である︒この二つのものが対立において受けいれる一定の地位が問題である︒これ
らを全体の二つの側面として説明することだけでは十分ではない︒
私的所有は︑私的所有として︑富として自分自身と同時にその対立物であるプロレタリア階級を存在させておかざ
るをえない︒それは対立の肯定的側面であり︑自分自身に満足した私的所有である︒
プロレタリア階級は︑それとは反対に︑プロレタリア階級として︑自分自身と同時に︑かれをプロレタリア階級に
し︑かれを制約する対立物を︑すなわち私的所有を廃絶せざるをえない︒それは対立の否定的側面であり︑それにお
ける不安であり︑廃止された︑また廃止されつつある私的所有である︒
所有階級とプロレタリア階級は︑同じ人間的自己疎外を呈示している︒だが︑前者は︑この自己疎外の中におい
て︑幸せと保証を感じており︑疎外をかれみずからの力として知っており︑また疎外の中に人間的生存の外見をもっ
ている︒後者は︑この疎外において廃棄されたと感じ︑その中にかれの無力と非人間的生存の現実性をみている︒そ
れは︑ヘーゲルの表現を用いれば︑背徳における背徳に対する反逆であり︑かれらの人間的本性と︑卒直な︑断固と
したまた包括的な否定が本性であるかれらの生活境遇との矛盾によって︑必然的に︑それに駆りたてられるところの
反逆である︒
したがって︑対立の内部においては︑私的所有者は保守党であり︑プロレタリア階級は破壊党である︒前者から対
立保持の行動が生じ︑後者から対立絶滅の行動が生じてくる︒﹂
右のように︑破壊党であり︑対立絶滅の行動をとるプロ.レタリア階級は︑資本霊義の発達とともにいよいよ貧窮
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働︵養︒Φ自島婁無していき・それらの傾向をますます強化していき・ついには〃内乱︵じ・碁・産・α・︶や
公然たる革命︵O龍①旨Φ 勾①<O一自け一〇昌︶によるブルジョア階級の強力的崩壊を通じて︵α霞︒げαΦ昌ひqΦ≦巴富p皇霊 朗ωε旨︶︑かれらの支配を打ちたてようとするにいたるのである︒
以上のようなマルクス主義の階級観および階級闘争史観にふれるとき︑容易に次のような批判を下しえよう︒
第一に︑ 中産階級没落論は歴史に徴するとき︑大きな錯誤であって︑中産階級は没落するどころか︑ホワイ
ト・カラーおよびブルー・カラーを含めた中産階級は︑その数において非常に増大しつつある︒
第二に︑ プロレタリアート貧窮化論も同様に間違いであり︑依然たるいわゆる底辺層の存在にもかかわら
ず︑勤労者は全般的には中産階級化しつつあるというのが︑現状である︒
第三に︑右の理由から︑ついには保守党であるブルジ︒ア階級と破壊党であるプロレタリア階級の二大陣営ないし
二大階級に分れて直接に対立するというマルクス圭義の主張は︑幻想にすぎず︑イデオロギーの域を出ない︒
第四に︑マルクス主義者たちは︑前述のように﹁今日までのあらゆる社会の歴史は︑階級闘争の歴史である﹂と階
級闘争史観を強調する︒歴史や政治を動かす要因として︑階級がきわめて重要であることは否定しえないが︑しかし
階級のみがそれらの絶対的要因だということは正しくない︒そもそもの階級発生因は生活共同体の発展にともなう統
制秩序のための権力の要請ならびに機能の必然的分化に存するのであって︑階級対立といってもそこにはおのずから
一定のバランスが保たれているのである︒それゆえ︑階級が絶対的に対立︑分裂するならば︑その基盤である生活秩
序そのものが瓦壊するにいたる︒換言すれば︑故矢部博士が指摘されているように︑階級の対立そのものがその底に
共通の基盤をもち︑相互に他によって存立しているのであって︑そこに階級が対立しても絶対的には分裂しえない理
由がある︒
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さらに︑階級の発生因は右に述べたようなものであるゆえ︑
な誤謬であって︑かりに経済的搾取関係が消滅したとしても︑
ない︒ 階級の発生因を↓義的に経済的要因に帰するのは大ぎ政.治を動かす要因としての階級が消滅するとは思われ
第三章 マルクス主義の国家観
マルクス主義国家論批判 13
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現実の国家・政治権力観
前章で指摘したような絶対的階級闘争史観から︑マルクス主義の現実の国家および政治権力に対する見解は︑必然
的に次のようなものになっていく︒ .闘﹁近代国家権力は︑単に︑全ブルジ︒ア階級の共通の事務を司る委員会にすぎない︒﹂︵﹃共産党宣言﹄︒∪一Φヨ︒α①巨
ω§露Φ語犀翼妻;ぎぎωω島島α興σq§§ω︒冨窪魯窪Ω①ω︒匿h8畠興αq弩N2じd︒霞晩8凶ω語ωω①<Φ暑巴叶①︶
﹁本来の意味での政治権力は︑他の階級を抑圧するための↓階級の組織された権力である︒﹂︵﹃共産党宣言﹄︒∪一①
娼目白︒ぎΩ①≦聾巨①凶ぴqΦ自陣魯2Q︒ぎ口唇象Φo同σQ鋤巻絡答①ΩΦ芝聾Φ匿Φ同窓器ω⑩N霞d葺Φ二三︒ざづoq①冒①﹁
潜巳Φヨ︶ 剛﹁国家は特殊な権力組織であり︑ある階級を抑圧するための暴力組織である︒﹂︵レーニン﹃国家と革命﹄︒ ﹁o転封−
℃自︒σ○Φ臼ぴ089国︒℃ヨ=臨ω貰話︒雪P①3ぴ︒鷲盤=ω貴話=︒︒e富蚤皆笛口︒髭・・需=話ス畏︒8−自9雪碧︒鋤・︶
2
﹁プロレタリアートの独裁国家論﹂と﹁国家死滅論﹂
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以上のような現実の国家・権力観から︑マルクス主義は﹁国家死滅﹂の方向に向うのであるが︑いきなり直接にそ
れには向わず︑その中間に︑﹃ゴータ綱領批判﹄でマルクスが﹁資本主義社会と共産主義社会との問には︑前者から
後者への革命的転化の時期が横たわっている︒それは︑また政治上の過渡期に相応する︒この過渡期の国家は︑プロ 幽レタリア階級の革命的独裁以外のなにものでもありえない﹂と主張しているように︑ プロレタリア階級の独裁と
いう過渡的段階が存在する︒すなわち︑レーニンが﹃国家と革命﹄において﹇︐それでは︑いかなる階級をプロレタリ
アートは抑圧しなければならないのか? それはいうまでもなく︑搾取階級すなわちブルジョアジーのみである︒勤
労者には︑搾取者の抵抗を抑圧するためにのみ国家が必要なのだ︒しかし︑この抑圧を指導し︑それを実行に移すこ
とができるのは︑徹底的に革命的な唯一の階級としてのプロレタリアートのみであり︑ブルジ︒アジーに対する闘争
において︑ブルジ︒アジーを完全に更迭するために︑あらゆる勤労被搾取者を団結させる能力のある唯一の階級とし 幽てのプロレタリアートのみである﹂と述べているように︑国家を一時プロレタリア階級の手中に奪取掌握し︑国家権
力を利用して敵であるブルジ︒ア階級を絶滅廃止し︑生産手段を公有にし︑その後に国家そのものを死滅させる
というのである︒同じくこれについて︑エンゲルスは次のように主張している︒
﹁プロレタリア階級は国家権力を掌握して︑まず生産手段を国有にする︒だが︑それとともに︑プロレタリア階級は
プロレタリア階級としてのそれ自身を廃絶︵壁爵①σΦ昌︶させ︑それとともに一切の階級対立を廃絶させ︑同時にま
た︑国家としての国家を廃絶させる︒⁝⁝抑圧すべきなんらの社会階級も存在しなくなるや︑階級支配ならびに従来
の生産上の無政府に由来するすべての生存競争が廃止される︒それとともに︑これから生じるもろもろの衝突や庫主
が除去されるやいなや︑もはや特殊の抑圧的権力である国家を必要とするところのなにものも存在しないようにな
る︒現実において︑国家を全社会の代表とさせているところの最初の行為︑すなわち社会の名において行なう生産手
182
マルクス主義国家論批判
段の占有は︑同時にまた国家が国家としてなすところの最後の独自的行為である︒社会関係に関する国家権力の干渉
は︑一つの部門から他の部門へと次々に不用となり︑ついには自然に寝入ってしまう︒人に対する統治に代って︑事
物の管理と生産過程の指導とが現われてくる︒国家は撤廃︵鋤σωo冨睦Φ昌︶されるのではなくて︑それは自然に死滅す 図る︵①憎 ω什一居σけ 鋤σ︶のである︒﹂
すなわち︑プロレタリア階級の独裁という過渡的段階を経て︑﹁階級の消滅とともに︑国家もまた必然的に消滅
する︒生産を生産者の自由かつ平等な連合体︵﹀ωωoN㌶島︒コ︶の上に新たに組織する社会は︑全国家機関を︑正にそ 岡のあるべきところへ移すであろう︒すなわち︑紡車および青銅の斧と並べて︑古物博物館へ﹂移して︑ここについに 岡﹁各個人の自由な発展が︑すべての人々の自由な発展にとって条件である﹂ような連合体︑﹁各人は︑その能力に応
り ぱじて︵働き︶︑各人はその欲求に応じて︵享受する︶﹂ような状態へ︑﹁必然の王国から自由の王国への人類の飛躍﹂
をなすのである︒
約言すれば︑生産手段を公有・国有化すれば︑人口の圧倒的大部分を占めるプロレタリア階級の︑さらには全人類
の物質的欲望が満足せしめられ︑それにともなって階級も国家もともに消滅し︑その瞬間に︑それまで外的︑物質的
条件によって規定︑支配されてきた人類は︑一変して正反対に︑その意思によって外的︑物質的条件や環境を規定・
支配しうるようになるというのである︒量的変化はある一定の段階に達すると︑液体が気体に変質するように︑質的
変化をきたし︑全く異質的なものになるというのである︒
3 批 判
15@︑以上のようなマルクス主義の現実の国家・権力観︑プロレタリアート独裁国家論︑国家死滅論には多大な疑義があ 鵬
16
って︑承服することができず︑批判ならびに反対せざるをえない︒
まず第一に︑その階級抑圧と搾取としての国家観である︒
現実の国家が階級量質.配と搾取の手段として用いられる傾向があることは︑すでにみたように否定しえないが︑国
家にはむしろ階級的支配と搾取の防止あるいは緩和の機能の側面もあることを認めざるをえない︒自由放任的資本主
義を︑十九世紀後半以降漸次国家統制の枠内に包括し︑社会立法や社会政策や︑さらには社会主義的政策が採用され
るにいたったのは︑なんといっても多くの弊害をうみ出した自由放任的資本主義を法的に統制し︑階級的対立を少く
とも緩和するためであることは否定しえないところである︒
また︑二十世紀︑とりわけ第二次世界大戦後︑世界大的な資本主義の変貌と民主化の波が押し寄せて︑福
祉国家が広く普及しているが︑これが単に階級対立の緩和という消極的側面のみならず︑超階級的な機能をも営むと
いう積極的側面をも大いに有していることは周知の通りである︒国家機構の全部が一階級のみで独占されるというわ
けではない︒それは多.面的な機能を行なっているのである︒
第二に︑マルクス主義の現実の政治権力観であるが︑これを一方的に他の階級抑圧のための一階級の組織された権
力ないし暴力とみなすことは︑根本的な過ちである︒
政治権力は︑本質的には︑二律背支配な性情の持ち主である人間が織りなす共同生活体の統制秩序維持のための必
然的要請として生じたものであって︑決して人間の性情と無関係に生じたものではない︒
そして︑民主主義国家ならびに福祉国家においてぱ︑この政治権力が前述のような積極的機能の遂行のために用い
られていることも周知の通りである︒
また︑政治権力は︑民主国家においては民主的な手続きによって正当性と合法性とを与えられた﹁公権力﹂であっ
184
マルクス主義国家論批判 17
て︑通常は法的に支配された社会心理的な支配力をいうが︑それで不充分な場合においてのみ︑すなわち最後の極限
状況においてのみ物理的強制力として現われるととを銘記すべきである︒
なお︑政治権力なき世界は︑彼岸の世界においてのみ可能であることも︑忘れてはならない︒
第三に︑プロレタリアートの革命的独裁国家論であるが︑それはたとい過渡的なものとはいえ︑やはり巨大な権力
国家である︒マルクス主義者たちは︑そればブルジ︒ア階級の廃絶と同時に古物博物館入りするというが︑これは承
服できない︒
かれはプロレタリアートの独裁はただ過渡的というのみであり︑これに加えるにエール大学教授ロバート・ダール
が正しくも指摘しているように︑どのようにしてかついつ完全な共産忠義の最終段階が達成されるかということに関 圃してきわめてアイマイであって︑e合法的委任︑⇔目的の明確な限定︵外敵防衛︑内乱などの非常事態︶︑⇔任期の
厳格な制限︵最大限六ケ月︶︑四あくまでも一時的な例外状態で︑なるべくはやく廃止しなけれぽならない︵六ケ月
以内でも︑非常事態が解除された場合は︑可及的速かに独裁を廃さなければならない︶︑という制約をともなった古
代ローマのいわゆる古典的独裁あるいはカール・シュミットの受任独裁︵H︶凶Φ 犀ObP円P一〇〇ω斜同一ωOげΦ 一︶一閃け帥け仁門︶
や主権独裁︵一︶一Φ ωO口くΦH餌昌⑦ H︶一筆叶凶梓口﹁︶などとは違って︑交字通りの絶対的な専制的独裁である︒これには︑次
のような致命的諸欠陥が附随する︒
ω形式的には︑だれの︑いかなる集団の︑独裁であろうとも︑近代の独裁は前述のように絶対的な専制的独裁であっ
て︑究極的には一人の人間の独裁に到達するのが︑独裁の冷酷な論理であり︑またその実際でもある︒マルクス圭義
においては︑形式的にはプロレタリアートの独裁であり︑さらにはプロレタリアートの前衛である共産党の一党独
裁であるが︑究極的実質的には共産党の最高指導者の一人の独裁である︒
185
9
18
独裁体制は強力と恐怖 軍事力と秘密警察i一の政治的装置によって自己を維持し続け︑これが失われ
るや崩壊せざるをえない︒また︑独裁政治は侮蔑判人間度の上に成立し︑独裁者は自己以外に信頼すべき人をもたず︑本
質的に孤独であり︑他者を常に潜在的敵対者とみなす︒それゆえ︑独裁者自身も恐怖と不安によって常に脅か
されるので︑独裁制はその手綱をしめようとも︑ゆるめようとはしない︒かりにゆるめるとしても︑それは独裁体制が
充分に安定したときか︑ぎわめて制限された範囲内かである︒このことは︑ソ連の﹁雪解け政策 イデオロギー的引
き緊め政策﹂︑中共の﹁百家奏鳴一整風運動−文化大革命﹂をみただけでも︑容易に理解しうるところである︒
さらに︑独裁者の周辺には独裁体制によって恩恵を受けるもろもろの受益者集団が輩出し︑それらはみずからの地
位保全のために体制をますます強化安定させていく︒
このような結果︑マルクス主義たちがいうようには︑プロレタリアートの独裁はそう簡単に消滅するとは思われな
い︒いな︑後述するように︑全世界をかれらの支配下においてもなお無期限に存続するものと思われる︒近代におけ
る歴史が︑独裁政治の崩壊は内部崩壊によるものではなくて︑戦争︑それも敗戦によるものであることを物語ってい
ることは︑この一つの良き証左である︒
吻強力と恐怖による独裁政治は社会およびその構成員を硬直させるゆえ︑自由を根絶して︑救済の対象であるプロレ
タリアートを必然的に正反対に人格なき奴隷階級の境遇に駆りたてるというパラドックス︑ディレンマないしアイロ
ニーに到達すると同時に︑国家︑社会を限りなく内容の貧しいものにしていく︒
圖マルクス主義においては︑前述のように︑一方においてはきわめて激しく厳しい敵対的な絶対的階級対立を説きな
がら︑他方において階級の消滅を主張しているが︑これははなはだ疑問である︒激しい絶対的な階級対立の中から 闘は︑倫理的社会主義者やベルジャエフやその他の諸家によって指摘されているように︑ 憎悪と残忍の哲学と
186
マルクス主義国家論批判 19
情緒のみしか生じないゆえ︑階級の消滅というような空想的世界が生じるとは思われない︒
第四に︑マルクス主義者たちは﹁各個人の自由な発展が︑すべての人々の自由な発展にとっての条件であるような
一つの結合﹂を予想し︑無政府主義的な﹁自由な結合﹂の出現を主張するが︑次のような諸理由でそのようなものが
実際に可能だとは考えられえない︒
ωかれらは︑国家死滅後︑﹁生産者の白由かつ平等な連合体の基礎の上に生産を新たに組織する社会﹂が建設される
というのであるが︑その社会をなんと名付けようとも︑ 一つの組織体である以上︑統制秩序は免れえない︒それゆ
え︑それは実は新しい国家以外のなにものでもない︒
②その新しい社会の任務は﹁事物の管理﹂と﹁生産過程の指導﹂であるというのだが︑これは統制秩序と計画
化一政治権力 を意味する︒だが︑計画化には左のような諸弊害がともなう︒
ωマルクス主義の計画化︵コき§σq︶は︑自由放任主義に反対して︑計画化の絶対化すなわち全体計画化︵目9巴︐
O冨巨づσq︶を意味し︑それはまた︑ヤスパースが指摘しているように︑必然的に一つの全体知︵↓oけ巴惹ωω①口︶に
立脚せざるをえないであろう︒そして︑全体計画化に先立って決着をつけなければならない問題は︑真の全体把 國握 ︵↓o琶壁欝ω§αq︶︑全体に関する知︵芝一ωωΦづαΦωO餌嵩①昌︶が存在するか否かという問題である︒
しかしながら︑その本質において不完全な有限的存在者であり︑有限知︵Φ口α一一〇ゴΦω ぐぐ日ωωΦ昌︶にもとづいて有限的
目的︵①口α一一〇げΦ N≦①O閃Φ︶のみしか追求しえないわれわれ人間にとって︑全体としての世界に関するいかなる意思や
認識も︑これを獲得することは不可能である︒ましてや︑未来を含めたそれをやである︒それを獲得しうると主張す
ることは︑とりもなおさず﹁自己を神となす﹂︵雪P蝉OげΦづ ω凶Oげ NObP ΩO響けΦ︶ことであり︑傲慢・不遜もはなはだしい
といわざるをえない︒人間がもつこの本質的な限界を超えて︑計画化を絶対化・強行しようとするとき︑これもヤス
187
20
パースが主張するように︑マルクス主義はこの絶対性︵諺ぴωo冨昏︒詳︶のゆえに狂信的︵貯づ垂下︒プ︶となり︑歴
史の現実を溶解して一つの型に鋳込むために︑実際には歴史的形成の目標を見失い︑現実から遊離したもの︵自器
q芽︒コすΦ8︶が生じ︑具体的な要請は抽象的かつ絶対的なものに転化して︑その全体知は一元論的な全体主義 幽的世界観に︑その理念︵固①①︶はイデオ三管; ︵冠Φ90ひq諮︶ に変質して︑エール大学教授F・M・ワトキンスが
指摘しているように︑のユトーピア的性格︑⇔単純化のクセ︑臼極端な楽観主義という特徴的な性格を帯びるように 圏なる︒そして︑この実現しえないものに対する完全実現の要請は︑強制︵N≦9︒昌αq︶の途を歩んで︑ ついに奴隷 触制 ︵ω一く一鋤くΦHΦ一︶に陥っていくのである︒
このように︑全体計画化は破壊的なものに堕さざるをえない︒
㈲計画化一全体計画化は技術によって顕著な成功を収められるゆえ︑ヤスパースが述べているように︑その内部に
おいて気づかぬ間にテクノクラシーへの道が始まる︒しかし︑テクノクラシーはむしろ決定的な水平化︵2ぞΦ≡Φワ 綱ロ昌σq︶︑麻痺︵冒警ヨきσq︶︑奴隷化︵<興ω巨①<自コぴq︶を意味する︒
の大きな人間集団がその事業を整然と行なう場合︑相当な統制と官僚制とそのための強力な権力を必要としてきたこ
とは︑歴史上明らかなところである︒とくに︑高度に技術化し専門化し複雑化した現代国家においては︑計画化︑と
りわけ全体計画化はきわめて強い統制秩序と政治権力と膨大な数にのぼる専門家や技術者を擁する大官僚制を必然的
に必要とする︒
◎マルクス主義は形式的には生産管理や指導や計画化への全人民の参加とそれによる富の分配︵例えば︑一九六一年
十月目ソ連共産党第二十二回大会の ﹁全人民国家論﹂︒︒プロレタリアートの独裁国家は全人民の国家に変り︑今口の
ソ連国家は全人民の利益と意思を表現するという意のもの︒︶などを主張しているが︑それにはリップマンが指摘して
188
マルクス主義国家論批判 21
㈹いるように︑人民はすべて有能で神か天使のごときものだという錯覚が潜んでいる︒このような説はためにする
偽購の辞であり︑実際は前述のような侮蔑的人間観の上にたって︑独裁者およびそれをとりまく幹部や官僚の統制と
指導と決定が行なわれるのである︒
㈲マルクス主義者たちは︑自由な無政府霊義的結合である新しい社会において︑﹁各人は︑その能力に応じて︵働き︶︑
各人は︑その欲求に応じて︵享受する︶﹂というが︑能力に応じて働かない違反者をどう取り扱うのであろうか︒か
れらは人間社会の秩序を犯す原因をすべて一元的に経済的要因に帰している点︑大きな過ちを犯している︒
労働義務違反者を強制するためにも︑階級対立や搾取関係の新しい発生を恒久的に防止するためにも︑また経済的
要因以外の性的欲望︑宗教的熱狂︑嫉妬心︑名誉心︑権力欲︑あるいはその他の諸欲望や動機から生じる秩序の侵犯
に対しても︑強制秩序を欠くことはできないであろう︒
第五に︑マルクス主義の経済は︑その全過程が一つの巨大な中央機関の全体的計画化の下に運営され︑万人の欲求
と意見が鉄の規律と強制の下に一つの意思に統一されることによってのみ可能と考えられるのに︑その政治理論が一
切の強制を拒斥する無政府主義だというのは︑根本的な大矛盾である︒
第六に︑マルクス主義がいう無政府主義的な﹁自由な結合﹂の新しい組織も︑決して無秩序を意味するものではな
く︑また指導や秩序や権威を否定するものでもなく︑ただそれらへの服従が完全に各人の自由意思によるということ
すなわちそれは強制秩序ではなくて自然秩序ということであろう︒
すでにみたように︑エンゲルス自身﹁必然の王国から自由の王国に入る﹂といっているが︑故矢部博士が指摘して
いるように︑因果律の支配する自然秩序において︑人間が﹁自然の土人﹂となって﹁自由の王国﹂に入りうるのは︑ ㈲いかなる理由をもってなのか︒また︑マルクス主義者たちは唯物史観において︑既述のように﹁人間の意識がかれら
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22
の存在を規定するのではなくて︑それとは逆に︑かれらの社会的存在がかれらの意識を規定するのである﹂といっ
て︑人間の主体性ないし自律性を全く拒否しているが︑なにをもって一瞬にして人間の主体性や自律性を完全に
もつにいたるというのか︒
これらの根拠は全く薄弱︑支.離滅裂︑ナンセンスというほかない︒
以上のように︑マルクス主義がいうところの独裁や階級や国家の消滅も︑自由な王国の出現も︑一つの夢物語りあ
るいは﹁千年至福説﹂にすぎない︒
マルクス主義のこのような主張は︑自然を善とし国家を悪とする自然法的あるいは功利主義的なパラドックスにも
とづいている︒その意味では︑故矢部博士が指摘しているように︑A・メンツェルがいうようにマルクス主義もまた 姻一つの﹁蔽われたる自然法思想﹂の一表現である︒また︑その人間観といい︑社会観といい︑国家観といい︑近世以
降の近代的原子説︑自然法説︑功利⊥ヒ義︑啓蒙思想︑合理主義︑無政府主義を︑特殊マルクス主義的に極端に押し進
めたものといえる︒
第四章 スターリンの修正国家論
いずれにせよ︑マルクス主義の国家観は︑理論的にも実際的にも致命的欠陥を有しているといわざるをえない︒それ
はザインとゾルレンとの関係を無視して︑幻想的かつ主観的な価値判断を行なっているとしかいいえない︒このような
国家論は厳しい現実.の前に崩壊せざるをえない︒事実︑スターリンにいたって崩壊し︑修正を余儀なくせしめられた︒
すなわち︑一九二七年十一月五日の外国新聞記者との会見において︑新聞記者たちからの﹁ソ連は革命が成功して
階級支.配がなくなったのに︑何故ゲー・ぺ一・ウーが存在するのか﹂という質問に対して︑スターリンは﹁国家内の
190
マルクス主義国家論批判 23
敵は︑厄介なことには︑外国資本家の手先になっている︒外国の資本主義国家がわれわれを包囲している︒われわれ
はこの手先と戦わなけれぽならない﹂と答えた︒
さらに︑一九三九年三月十日の第十八回ソ連邦共産党大会において︑﹁党中央委員会事務経過報告﹂の名の下に︑
スターリンは演説を行ない︑その中でマルクスーーレーニン主義の国家論を修正して︑次のように述べている︒
O国家死滅論者に対する警告
一国家およびその諸機関のもつ
意義と役割に対する過少評価に対する警告1
﹁われわれの中には︑二︑三理論上の問題につき充分な明確さを欠くものがあることもまた︑わが宣伝およびイデオ
ロギー事務の欠陥中に数えられるべきである︒余は一般国家に関する問題︑とくにわが社会主義国家およびソヴィエ
ット・インテリゲンチャに関する問題を指しているのである︒
﹃わが国においては絶滅され︑国内にはすでに敵対階級なく︑弾圧すべきものはなくなった︒このようであるなら
ぽ︑すでに国家の必要がなく︑国家は死滅すべきである! 何故われわれはわが社会圭義国家の死滅を助成しないの
か︑何故われわれは国家と縁を切ろうとしないのか︑今やこの国家の残倖をすべてはるか遠くへ投げ捨てるべきとき
ではないか?﹄という質問を往々にして受ける︒
あるいはまた︑﹃わが国においては搾取階級はすでに繊滅され︑社会主義は根本において建設され︑われわれは共
産主義に向って進みつつあるが︑国家に関するマルクス主義の教説は︑共産⊥土義下においてはいかなる国家も存在す
べきでないといっている︒しかるに︑何故われわれはわが社会主義国家の死滅を助成しないのか︑国家は今や古代博
物館に引き渡すべきときではないか!﹄と問うものがある︒
191
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これらの質問は︑その提起者たちがマルクスおよびエンゲルスの国家に関する教説の個々の定則を忠実に暗記して
いることを立証するものである︒しかしそれは︑同時にかれらがこの教説の本質を理解せず︑この教説の個々の定則
がいかなる歴史的条件の下において作成されたものであるかを弁えず︑就中現在の国勢情勢を理解せず︑資本主義四
囲およびこれより生ずる社会主義国家に対する危険性を見落していることを立証しているものである︒このような質
問を通じて︑われわれは︑資本主義四囲の事実の過少評価を透視しうるばかりではない︒このような質問を通じて透
視できるのは︑わが国へのスパイ︑殺人および害毒分子を送りこみ︑わが国に対する軍事的侵略の機を窺っているブ
ルジ︒ア諸国ならびにその機関の役割および価値の過少評価︑ならびに社会主義の国を外部よりの侵略より防護する
のに必要なわが社会主義国家およびその軍事︑刑罰︑諜報︑各機関の役割および意義の過少評価である︒L
⇔マルクス主義クラシックの修正の必要
﹁われわれの時代より四十五年も五十五年も距っているマルクス圭義のクラシックに対し︑遠い将来において各個の
国に起こる歴史のあらゆる場合を予想することを求めるようなことは︑不可能である︒⁝.・今日のマルクス主義者︑
レーニン主義者に対しては︑かれらがマルクス主義の個々の定則を暗記するにとどまらず︑マルクス主義の心髄を探
求し︑わが国における二十年の社会主義国家の存在の経験を考慮することを学び︑かれらがまたこの経験に依拠し︑
マルクス主義の本質から出発してマルクス主義の個々の一般的定則を具体化し︑これをさらに精密ならしめかつ改良
すべきことを求めうることができなければならないし︑また求めなければならない︒﹂
白国家の三機能一階級抑圧︑国防︑経済組織的・文化教育的任務一の強調
スターリンは国家本来の機能は階級抑圧と国防の二つであることを︑次のように強調している︒
﹁国家は社会の敵対的階級への分裂の上に発生したものであり︑被搾取多数を搾取少数の覇絆の下に保持するために
192
マルクス主義国家論批判 25
発生したものである︒国家権力の用具は主として軍隊︑刑罰機関および監獄に集中されているものである︒二つの重
要機関が国家の行動を定めている︒すなわち︑その内部的機能︵主要機能︶は被搾取多数を制圧するためであり︑そ
の外部的機能︵主要ならざる機能︶は︑他国家の領土の犠牲において自己の支配階級の領地を拡張し︑または他国よ
り侵略に対して自国領土を防衛するためである︒これは奴隷経済制度および封建制度の当時のことであった︒これは
また資本主義の下における状況である︒﹂
これに続いて︑スターリンはソ連がその時までに二つの重要な段階を経てきており︑今や第三段階に入り︑第三の
新しい機能 国家諸機関の経済組織的および文化教育的事業が1発生しはじめたとして︑左のように生黙した︒
﹁さらに︑そこにはまた第三の機能があった︒それはわが国家諸機関の経済組織的および文化的事業であって︑新し
社会主義経済の萌芽を発達せしめ︑人々を社会圭義精神にしたがって再教育することを目的としたものであった︒し
かしこの新しい機能は︑この期間中には顕著な発達を齎らさなかった︒﹂
四﹁資本圭義四囲の解消﹂と﹁社会生義四囲による改変﹂までのソ連国家の必要の強調
右に述べたように︑スターリンにいたって︑マルクスレーニン主義の国家論が修正されて︑国家は三つの機能をも
つにいたった︒それでは国家はいつまで必要であり︑いつ消滅するかという問題が生じる︒これについて︑スターリ
ンは次のように士⊥張した︒
﹁資本主義四囲が解消しない限り︑そして外部からの軍事侵略が絶滅しない限り︑存続するであろう︒しかもわが国
家の形態は︑国内情勢および対外情勢の異変に対応してさらに変更されるべきことは当然の理である︒いな︑もし資
本主義四囲が解消され︑社会主義四囲によってこれが改変されるならば︑それは存続しないで死滅するであろう︒
社会主義国家に関する問題は以上の通りである︒﹂
193
26
第五章 スターリン主義の帝国主義とその存続
194 1
﹁資本主義四囲の解消﹂と﹁社会主義四国による改変﹂
1赤色世界帝国主義一
の意味前章で述べたスターリンの主張には︑重大な問題がある︒それは最後の部分で述べられている﹁資本主義四囲の
解消﹂と﹁社会主義四囲による改変﹂の意味である︒
まず第一に︑﹁資本主義四囲の解消﹂であるが︑ソ連−今日的にいえば共産主義国一を除く世界各国をすべて
資本主義国とみなしてよいかということには︑多大の疑義がある︒いな︑むしろ筆者は反対である︒
ソ連をはじめ共産主義諸国は︑他の諸国を一括して資本主義国と呼び捨ててきたことは周知の通りである︒これに
したがえば︑かつての全体主義国家であったナチス・ドイツおよびファシスト・イタリアは労働党治下のイギリスや
民主的社会主義政党治下のイギリスや民主的社会主義政党治下の北欧諸国と全く同一ということになる︒このような
見方は真理と真実に反する︒
政治学的観点より国家を分類するときは︑資本圭義国か社会主義国ないし共産主義国かと分類するよりも︑民主主
義国と全体主義国に分類するのが正しい︒
さらに︑前述のように︑現代の民主国家や福祉国家は︑社会立法や︑社会政策や︑さては社会主義的政策までをも
採用し︑経済面においては昔日の資本主義から脱皮し︑共産圭義者がいうような自由放任的資本秘義の面影はなく︑
混合経済であり︑﹁自由な社会圭義経済﹂あるいは﹁社会的な自由経済﹂とも呼ばれるべきものである︒
マルクス主義国家論批判 27
また︑自由で民主的な国家においては︑人間人格が重視され︑人間がもつ創意︑工夫︑理想︑良心︑向上心︑主体
性などが生かされて︑無限に向上発展していく可能性が内蔵されているが︑これに反して全体主義国家においては︑
絶対的な専制主義的独裁の下に前述の人間のもつ諸可能性は封殺されて︑人格なき奴隷状態へと人々は駆りたてられ
る︒共産主義国家はこの後者に属することは︑論をまたない︒
いずれにせよ︑スターリンのいう﹇︑資本主義四囲の解消﹂とは︑ソ連およびその衛星諸国以外の世界のあらゆる国
家の解消・消滅を重し︑それらの一切の国々が解消・消滅してはじめてソ連が消滅するというのである︒
第二に︑﹁社会主義四囲による改変﹂であるが︑マルクス主義者にとっては︑ マルクス主義ロ共産主義以外には真
の﹁社会圭義﹂は存在しない︒
それゆえ︑﹁資本主義四国が解消され︑社会主義四囲によってこれが改変される﹂というとぎ︑ソ連共産党の指導
の下に世界各国が共産党に主導権を握られて︑等しく共産主義国家化することを意味する︒すなわち︑スターリン
は︑世界各国がソ連によって共産圭義化されて︑その統一の下に屈服するまでは︑ソ連にとって国家は必要だ︑とい
うのである︒
このような論は赤色帝国主義︑いな帝国主義以外のなにものでもない︒
マルクス主義者たちによれぽ︑先進資本主義諸国は帝国主義者だという︒ レーニンは﹃帝国主義﹄の中で︑﹁帝国
屯義とは︑独占と金融資本との支配が成立し︑資本の輸出が顕著な意義を獲得し︑国際トラストによる世界の分割が
はじまり︑最大の資本主義諸国による地球上の全領土の分割が完了した︑というような発展段階における資本主義で 圓ある﹂と規定しているが︑筆者が機会あるごとに強調しているように︑このような帝国主義概念は一種の経済的な概 圃念であって︑十九世紀末期にはよく適合したものであるが︑今日ではもはや役に立たない時代遅れの偏見である︒
195
28
︑現今では︑帝国主義とは︑これも筆者がしばしば指摘しているように︑﹁武力経済力文化力等々を問わず︑とにか
くなんらかの力をもって他国を侵略し征服しようとする欲求一それは対内的には絶対的な国家高義︵個人や少数民
族の自由の無視︑支配層に対する盲目的絶対服従の強制︶の形をとり︑対外的には固有の帝国主義︵他国︑他民族の ⑪独立の無視︑自己民族の優越・万能主義など︶の形をとってあらわれる﹂とか︑あるいはジョン・ストレイテの定義
するように︑﹁ある民族︑国民︑国家1これをなんと称してもかまわない一が他のある民族︑国民︑国家を征服 鋤し︑しかるのち︑これに支配をおしつける過程﹂と規定すべきものである︒
また︑今日のマルクス主義者自身も︑必ずしもレーニンの規定通りに﹁帝国主義﹂を用いているとは限らず︑﹁侵
略生義﹂︑﹁植民地主義﹂︑﹁軍国主義﹂︑﹁戦争勢力﹂などと同義語に使用している場合も多い︒
右のような正統的な帝国主義概念によれば︑スターリンの主張はまさしく帝国主義的主張であり︑ソ連は帝国主義
国家といわざるをえない︒
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依然として存続する赤色世界帝国生義
このスターリンの帝国主義は以上のように理論的に証明されうるのみならず︑実際的にも証明されうる︒その例を
挙げれば枚挙するにいとまがないが︑ごく最近の歴史にいくつかの例を求めるならば︑第二次世界大戦末期における
日ソ中立条約のソ連による一方的破棄と同国の日本攻撃と北方領土の略奪︑第二次世界大戦後の東欧諸国の衛星国化
と軍事駐留︑いわゆる分裂国家の北側への滲透などを挙げることができる︒
このスターリンの帝国主義は︑スターリン死後もその後継者たちによって依然として引き継がれて今日にいたって
いる︒すなわち︑フルシチョフは一九五六年二月のソ連共産党第二〇回大会において︑スターリン批判︑二つの
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マルクス主義国家論批判 29
体制の平和共存の可能性︑社会主義への移行の民族的な道︑一連の資本主義諸国における社会主義革命への平
和的発展の可能性などを報告承認したが︑その僅か八ケ月直後の同年十月のハンガリー動乱への武力介入と幼少児
をも含めたハンガリー市民の大虐殺︑イスラエル・アラブ連合戦争の際におけるイスラエル国家を認めないアラブ連
合に対する支持と︑その戦争を利用しての積年の宿願であった地中海へのソ連艦遂の進出︑アフリカ・中近東.東南
アジアへの勢力圏拡大︑昨年八月のチェコ侵略とソ連軍の無期限駐留とチニコ共産党保守派へのテコ入れと︑秘密警
察による弾圧などは︑この良き多くの証左である︒
右のような一連の帝国主義的実例において︑筆者がいくたびも主張してきたように︑マルキシズムにおいて︑民族
や国家がいわれるのは︑世界大的な共産圭義革命遂行のための戦略︑戦術論においてであって︑民族意識や国家意識
利用の範囲を出ないことはいうまでもないことであり︑それは決して民族や国家そのもの独自の価値を認めようとす 鰯るものではないということが︑理解しうる︒
すなわち︑帝国主義はソ連のみならず︑その他共産主義諸国について同様にあてはまるのである︒例を中共にとれ
ぽアジア・アフリカにおける革命工作︑その典型的な例としての先年のインドネシア共産党への武器供与と革命工
作︑領土問題をめぐる中・印紛争︑および文化大革命時の中共駐在外国公館員や外国人に対する不法な暴力的行為と
造反外交などは︑その立派な実例である︒
われわれは︑社会主義国家即平和勢力でなくて︑社会主義国家もまた大いに帝国毛蚕的勢力でありうることを︑銘
記すべきである︒
(1)註
矢部貞治﹃政治学﹄︑昭和二十四年︑一圧OI一五一頁︒
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