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<論 説 >
昭和戦前期石川県マルサ ン織物工業組合傘下の機業経営
‑九三織物会社 と松崎機業場 を事例 として‑
松 村 敏
目 次
はじめに
1.マルサン織物工業組合と岸加八郎
2.
九三織物会社( 1 9 2 3‑43
年)3.
松崎機業場( 1 )
松崎機業場とマルサン織物工業組合( 1 93 4‑41
年)( 2)
解合( 3 )
その後の松崎機業場( 1 9 42
年〜) おわ りには じめに
本稿 は,石川県鹿島郡鳥屋町の九三織物株式会社 と能美郡根上町の合名会社松崎機業場 を事例 として1
,1930
年代 に同県で発展 した産元組織 マルサ ン織物工業組合 (以下,マルサ ン組合 と略 す)の傘下機業場経営 を分析 し,それを通 じてマルサ ン組合 における産地問屋 と傘下機業家 間の 取引のあ り方,すなわちマルサ ン組合内の取引実態の解 明を試み, この産元組織 の発展 ・存続 ・ 衰退要因をさ ぐることを課題 とす る。工業組合 とは,重要輸 出品工業組合 法
( 1925
年)お よびその改正 に よる工 業 組合 法( 1931
午) に基 き,中小工業者の協 同事業や検査事業 に加 えて統制事業 (生産統制 ・販売統制) をも行うことを目的 として大正末期か ら昭和戦前期 に展 開 した組織である。す なわち工業組合 は,中小 工業者 (製造業者)の協 同組合 と統制組織 の性格 をあわせ もつ ものであ った。 しか しその統制 は,工業者が生産規模等,多様 な性格 をもつ限 り,必然的に各工業者 の利害 に反す る面 をもって 統制 は貫徹 しに くく,工業者間の組合 内外 での利害対立 は少 な くなかった ことが知 られている2。
一方,中小工業者 を構成員 とし,問屋 資本 の介入排 除 を 目的 としていた工業組合 も,実際 に は,問屋商人が製造業 を兼営 して工業組合 に加入す る事例 も決 して少 な くな く, これは上記の工 業組合内部の利害対立 に拍車 をかけていた ようである3。
本稿で とりあげるマルサ ン組合 は結束力が強 く,顕著 な活動 を行 う優 良組合 として当時か らよ く知 られた工業組合 の一つであるが4,戦後 の化繊産業史研 究 においては,その積極 的な活動 の 要因 として,メ ンバー として主導 した有力 問屋 の強力 な リー ダー シ ップを指摘 している5。 しか
6( )
商 経 論 叢 第4 7
巻第1
号( 2 0 1 1 . 9 )
しいかに有力問屋 の強力 なリーダーシップがあって も,それだけでは組合員の個別利害 を克服 し て統制事業 を円滑 に運営することは困難だった と思われる。本稿 はマルサ ン組合が当時 「斯界 に 於 ける最 も模範的な工業組合
」 6
として評価 された要 因 として,組合 内部 の取 引形態 に着 目した い。 またマルサ ン組合 は,従来,石川県絹人絹織物業史研究 において再三言及 されて きたが, じ つはす ぐ述べ るように,組合傘下の機業家 は,組合 または有力 問屋 の もとでの賃織 を行 っていた のか否か,その実態 も必ず しも明 らかではないのである。 まずマルサ ン組合 の概要か ら説明 しよう 。
明治 中期以降急速 に発展 した福井 ・石川 を中心 とす る北 陸輸 出絹織物業 は
,1 9 1 0
年代 にそれ までの主力製品であった羽二重が生産の ピー クを迎 え,1 9 2 0
年代 には富士絹製織 な どに転換 し てゆ き, さ らに1 9 3 0
年代 には人絹織物‑急速 に転換 してい った。その過程 で,マ ルサ ン組合 は,1 9 2 4
年 に金沢 の産地織物 問屋 たる岸加八郎 (合名会社岸商店代表社員) と同 じく松 島栄吉 (‑村商事㈱専務)が主導 して設立 されたマルサ ン富士絹組合 を前 身 として,1 9 3 0
年 に設立 され た7。マルサ ン富士絹組合 は,1 9 2 0
年恐慌 によって岸 ・‑村 の九三織物会社‑ の債権焦 げ付 きを 契機 に同社 を両問屋 の傘下 に収め, これに富士絹 を製織せ しめた ところ良好 な結果 を示 したた め, さらに関係工場 をまとめ,品質統一 をめ ざ して発足 した ものである8。 この ようにマルサ ン 富士絹組合 は,いわば意図せ ざる偶然か ら設立 された ものであ り,法的根拠 をもつ同業組合で も 工業組合 で もな く,任意のカルテル組織 であったが,結束力 は強 く,マ ルサ ン富士絹M
Aの登 録商標 を使用 し,原料絹紡糸の共同購入 と製品共同販売,製品の統一価格協定 な どを実施 して発 展 した。そ して さ らに人絹織物 の製織 を開始 し,1 9 3 0
年 に工業組合 として再組織 されたのであ る。 したが って工業組合 としてのマルサ ン組合 は輸出入絹織物 と輸出富士絹の製造業者 を構成員 としたが, もともとマルサ ン富士絹組合設立当初か ら,岸加八郎や松 島栄吉 は機業場 も同時に経 営す るに至 っていたため,彼 らは機業場経営者 としてマルサ ン組合 の理事長 ・専務理事 に就任 し た。そ してこの組合 は,マルサ ン富士絹組合以来,岸商店 と‑村商事 の両原糸織物問屋 を機関店 として,原料糸購入 と製品織物販売 をこの機関店 を通 じた共同購入 ・共同販売 とす る制度 を組織 化 の根幹 としているな ど,実質的に問屋主導の工業組合 であった9。マルサ ン組合 は,機屋 と産 地問屋が一体化 し,人絹糸メーカーや富士絹原料の絹紡糸メー カーである大企業か ら織物生産者 が身を守 るための産地組織 (産元組織) を標梼 していたのである。明治期 において金沢市 を中心 とした石川県では相対的に規模 の大 きい絹織物製造機業家が輩 出 し,羽二重市場が順調 に発展 し ている段 階では, これ ら高い品質評価 を受 けていた大規模機業家 は 自らの判 断 とリス ク負担 で マーケテ イングを行 って利益 を追求す ることが合理的な選択であったが,羽二重市場が動揺 し織 物市場 に不確実性が高 まって機業家が品種転換 に迫 られて くると,その ような市場対応の判断は 有力織物商な どに委任す るマルサ ン組合 の ような中間組織 に参加 した方が取引 コス トの節約 をも た らして有利 とな り,中小機業家 とともに大規模機業家 もマルサ ン組合 に参加す るものが増 えて ゆ き,マルサ ン組合 は発展 していった もの と考 え られる10。昭和戦前期石川県マルサ ン織物工業組合傘下の機業経営
61
こうしたマルサ ン組合の発展 は, さらに羽二重生産か ら人絹織物生産‑ の転換 において福井県 と石川県では大 きく異 なった産地構造が形成 されてい く原動力 となった とも評価 されている。す なわち福井県 では,蝶理 な ど県外商社 の大量進 出がみ られ,原糸 メー カー ・総合商社 (三井物 産)の傘下 に入 った地場商社 の発展 (さらに戦後合繊化 における系列下へ) とい う道 をた どった のに対 して,石川県ではマルサ ン組合が県外商社 の大量進 出を阻止 した。それはさらに戦後 の合 繊化 における産元方式 に帰結 していった11。ところで,マルサ ン組合 内の取引や昭和戦前期 の石川県の人絹機屋 と問屋 の取引 については, 従来,次の ような指摘がなされている。
まず
,
『新修根上町史』通史編( 19 95
年) には,本稿 の分析対象 であるマルサ ン組合傘下 の松・崎機業場 について,当時同機業場の経営 に携 わった一人である松崎茂夫か らの ヒアリング
( 1992
午) をもとに,昭和期 に入 ると,
「自己資金で原糸 を購入 して製 品 を販売す る従来の 自立 した経 営が大 きく後退 し,代 わって金沢市の岸商店 ・‑村商事 な ど産元商社 との委託契約 による 『賃織 り』が行 われ るようになった」 とある12。 また北陸銀行 『創業百年史』 (1 978
年) に も,戦前期 石川県の人絹織物業 について,岸商店な どの産元商社 の発展 を述べつつ,昭和期 に入 って羽咋 ・ 鹿 島両郡 など能登地方で機業家が急増 した ことを指摘 し,
「これは,大正末期か らの産元商社 の 地位の向上 によって,賃織業の経営が容易 とな り8台機屋化 を促進せ しめた結果 とみ られる」 と されてい る13。 さ らに 日本銀行金沢支店 「石川県下二於 ケル機業合 同二就 テ」 (1 9 41
年3
月) に も14,1 9 41
年初頭 頃の状況 として,
「県下主要機業地 ノ実情 ヲ観 ルニ多 クハ 問屋 ガ機業 ヲ兼営 シ,中小機業家 ヲ其 ノ傘下二収 メ,原糸 ノ配給 ヨリ製品ノ販売二重 ル迄殆 ン ド生殺与奪 ノ権 ヲ振 り居 レリ」 とし, (能登 を含む)金沢地方について,
「マルサ ン工組員二在 リテモ資力大ナルー, 二問屋筋 ノ傘下ニアリテ賃織 ヲナシ,原糸並二製品ノ受渡代金決済ハ給テ定期的二帳尻 ヲ以テ之 ヲ行 ヒ,又賃金支払資金等迄モ之 ヲ問屋 二仰 ギ居ル有様ニテ,当地中小機業家ハ殆 ン ド問屋 ノ支 配下ニアル状態ナ リ」 と記 されている。す なわち,昭和期 に入 る頃か ら,マルサ ン組合 の機 関店たる岸商店 ・‑村商事 を中心 とした産 元問屋 の もとで機業家の賃織が普及 していったことを指摘 しているのである。
これに対 して石井寛治 は,19
65
年 頃の岸商事株式会社 での ヒア リング調査 に よ り,明治〜大 正 前期 まで の石 川県 絹織 物業 で は,原料 ・羽二重価 格 の変 動 リス ク は機 業 家 が負 って い た が,192 0
年恐慌以後,
「委託商が危険負担 をし,機業家 はたんに仕事 だけをす る ようになる」 こ とが一般化 していった と述べている15。 これは もちろんマルサ ン富士絹組合やマルサ ン織物工業 組合傘下の機業家 と委託商たる岸 ・‑村 との取引 を含 んだ指摘 と思われ, また この取引形態 は賃 織 とも読めそ うであるが,石井 はこれを賃織 とは記 していない。また,山願精一 『マルサ ン織物工業組合史』 によれば,機業家 は原料購入 と製品販売 を組合 に 委託す るとしているか ら,機業家 はただ織 るだけで実質 は賃織 に近そ うであるが,組合 自身は組 合員の機業家か ら原料購入手数料や製品販売手数料 を徴収す るだけで リスク負担 をせず, リスク
6 2
商 経 論 叢 第47
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号( 2
011. 9 )
を負担 す るの は機業豪側 なのか問屋 側 なのか判然 とせ ず, したが って実 質 的 に賃織 とみ て よいか は判 断 し難 い。
この よ うに,マ ルサ ン組 合 で は傘 下機 業家 は機 関店 の産 元 問屋 た る岸 ・‑村 の も とで賃 織 を 行 って いた とい うイメー ジが流布 され てい る ものの,マ ルサ ン組合 内の取 引実態 はい ま一 つ はっ き りしないo この点 は岸 商店 や‑村 商事側 の資料 に よって も取 引形態 が判 明す るはず であ るが, これ ら機 関店側 の経営 資料 は未発見 の ため,本稿 で は主 と して傘 下機 業場側 の資料 か ら迫 ってみ たい。
まず ,マ ルサ ン組合傘 下機 業場 の生 産動 向や取 引形 態 , お よび岸加 八郎 の所 得 額 の推移 な どを 刊 行 資料 か ら探 ってみ よう。
1
.マルサ ン織物工業組合 と岸加八郎マ ルサ ン組合 の取 扱製 品は,基 本 的 に輸 出向の人絹織 物 と富士絹 のみで あ り,傘 下機 業場 の生 産推 移 をみ る と (表 1),当初 富士 絹 が圧 倒 的 に多 か った もの の,人絹織 物 生 産 も急 速 に増 加 し て,早 くも
1934
年 には生 産額 ・生 産量 と も富 士 絹 を上 回 り,以後 そ れ を圧 倒 して い る。 また富 士 絹 の石 川県検査 高 中のマ ルサ ン組合 生 産量 は, 1932‑ 35
年 に5‑ 6
割 台 を占め て い る (た だ し 後 述 の よ うにマ ルサ ン組 合 傘 下 機 業 場 は一 部 富 山県所 在 の もの もあ る)。 そ して 『石 川 県 絹 業 史』 に よれ ば, 1936
年 頃 には,石 川県 の富士 絹 生 産者 は, 日本 絹織 会 社 以外 は 「殆 どマ ルサ ン 組合 員」 とさえい われてい る1 6
。 人絹織 物 につ い て も, 1936
年 の デー タでみ る と,石 川県 輸 出入 絹 織 物 生 産 量 は2,928
千 疋 , 同朝 鮮 移 出 人 絹 織 物 生 産 量80
千 疋 , 同 内 地 向 人 絹 織 物 生 産 量2,167
千疋 ,計5,176
千疋 であ り,マ ルサ ン織 物組合 人絹織 物 生 産量 は1,976
千 疋 だ った か ら,表
1
マルサン織物工業組合傘下の生産年次 (誓聖霊) 人絹織物 交織織物マルサン組合生産額
( 1 ) (
千 円) 富士絹マルサン組合生産量人絹織物 交織織物(2)(千疋) 富士絹石川県検査 高(千疋)(3)1 930 2, 001 51 3 41 4 1 87 5 79
31 7, 035 1, 6 80 6 09
32 7, 300 2, 02 7 6 03
33 5, 931 4, 136 31 8 31 0 471
3 4 4, 1 23 9, 778 232 71 0 411
35 2, 5 88 1 2, 731 11 2 1, 35 8 1 95 36 1, 921 21, 7 40 1 06 1, 9 76 88 37 706 1 8, 41 0 80 2, 9 81
3 8 525 15, 5 93 40 3,11 8 39 1, 761 * 1 7, 81 2 98 * 2, 821
40 29 8 9, 421 11, 496
01, 1 49 62 8
出所 :
( 1 )
『石川県絹業史j3 9 6 ‑3 9 7
頁,r
マルサン織物工業組合史j2 3 2
頁。前者の資料は1 9 3 2 ‑3 6
年は富士絹,後者は1 9 3 0 ‑ 4 1
年とも絹,1 9 3 5
年 (富士絹2 , 0 9 9
千円)以外は 同一数値。( 2 ) r
石川県絹業史』3 9 6 ‑3 9 7
頁,
『マルサン織物工業組合史』1 1 5
頁。( 3 )
F石川県絹業史』1 4 8 ‑1 5 1
頁。注 :*は交織を含む。
昭和戦前期石川県マ ルサ ン織物工業組合傘 下 の機業経営
6 3
表2
金 沢地方の機 業場数( 1 941
年)織機数規模 金沢地方 うちマルサ ン戸 数 B/A 金沢地方 うちマ ルサ ン織機 数 B/A A 組合傘下B (%) A 組合傘下B (%)
1 0 0
台以上41 2 8 6 8. 3 7, 2 8 4 5, 0 0 3 6 8. 7 1 0 0
台未満3 03 1 49 49. 2 9, 2 9 5 3, 9 2 4 42. 2
出所 :日銀金沢支店 「石川県下二於ケル機業合同二就 テ
」( 1 9 4 1
年3
月) (F日本金融史資料』昭和続編,附録第3
巻,1 9 8 8
年,所収)1 1 8
頁。注 :「金沢地方」は石川郡以東,能登 を含 む と推定。
表
3
マル サ ン織物工業組合所属工場( 1 9 3 6
年 )(1)郡市\織機 台数
1 0
台未満1 0‑1 9
台2 0‑49
台5 0‑9 9
台1 0 0‑1 9 9
台2 0 0‑2 9 9
台3 0 0‑4 0 0
台 計鹿 島郡
6 2 4 33 1 4 8 5 1 91
羽咋郡
1 2 5 2 4 1 4
河北郡
2 1 2 1 6
鳳至郡
1 1
金沢市
1 5 4 2 1 2
石 川郡
1 2 4 1 8
能美郡
8 7 8 2 1 2 6
江沼郡
1 1 1 3
富 山県
1 1 4 1 7
出所 :Fマルサ ン織物工業組合史
11 7 1 ‑1 8 4
頁 よ り作成O単純 に計算す る と,マルサ ンの シェアは
38.2%
,約4
割 に,輸 出入絹織物 で は67.5%
,約7
割 に上 った17。1941
年頃の機業場数では (表2)
,石川県下金沢付近以東で は,戸数 ・織機数 ともマルサ ン組 合 は過半 を占めてお り,織機数100
台以上の大規模層 においては3
分の2
程度 とよ り高いシェア を示 していた。地域 的には,1930
年代半 ば頃のデー タをみ る と (表3)
,同組合傘下機業場 はご くわずか富 山県所在 の もの もあるが,規模 にかかわ らず 口能登 の鹿 島郡が他郡市 を圧倒 してお り,続いて小松 町周辺の能美郡, さらに羽咋郡,金沢市 となってお り,口能登や加賀平野 を中心 とした農村所在の機業場が主体 だったのであ り,織機数200
台以上の大規模工場 も少 な くない。創業年 については
,1930
年代 に入 ってか ら創業 した ものが7
割 を占め, また織機 数100
台以上 の大規模層 の方が小規模機業家 よ り創業が古 い傾 向が幾分 ある (表4)
。ただ し, この創 業年 は1936
年の調査時点における経営形態のそれであ り1 8
,実質はさらに古 い創業の経営 も少 な くない はずであるが,それに して もこれは昭和期 に入 り鹿 島 ・羽咋両郡 な ど能登地方で零細機業家が急 増 したことを指摘 した,北陸銀行 『創業百年史』の上記の記述 を裏付 けるもの となっている。次 に
,1930
年代半 ば頃のマルサ ン組合 をは じめ とす る石川県絹人絹織物業 における取引形態 を 『石川県絹業史』 に依拠 して説明す る19。まず人絹糸取引については特約店制があ り,原糸 メーカーは特約店のみに販売す ることになっ ていたZO。石川県内の人絹特約店組合加盟店 は,岸 ・‑村 ・新名 ・安井の
4
店のみであ り,準特6 4
商 経 論 叢 第47
巻第1
号( 2
011. 9 )
表
4
マルサ ン織物工業組合所属工場( 1 9 3 6
年)(2) 郡市\創業年‑1 9 09 1 91 0‑1 9 1 9 2 0‑2 9 1 9 3 0‑
計鹿 島郡
1 6( 5 ) 2 0
(4)6 4 ( 5 ) 91( 1 4)
羽咋郡1
(1
)1 3 ( 3 ) 1 4 ( 4 )
河北郡1( 1 ) 5 ( 2 ) 6 ( 3 )
鳳至郡
1 1
金沢市
1 1 3
(1
)7
(1
)1 2 ( 2 )
石川郡
1 1 6 8
能美郡
1 3
(1
)3 1 8 26
(1)江沼郡
2
(1
)1 3
(1
)富 山県
1 1 1 4
(1
)7 ( 1 )
出所 :前表 と同 じ。
注 :1)能美郡計 と総計 には不明 1を含 む。
2 )(
) は織機1 0 0
台以上工場。約店 (本店が特約店) には,西野 (本店福井)・蝶理 (本店京都)があった。そのほかに特約店 でない人絹糸取扱業者十数名があ り, こjtらは金沢 ない し福井の特約店か ら原糸 を購入 した。
マルサ ン組合傘下機業場 と機関店たる岸商店 ・‑村商事 との人絹糸取引は,すべてを 「売 りの 買方法」,すなわち (岸 ・‑村が)「織物 を買約走すると同時に原料 を売却す る取引法」 によるも のが多い とされる。 この場合,原料代金支払い方法 は, (1)受渡 と同時に現金で支払 う
, ( 2 )原
料先貸 (掛),のいずれかである。 (2 )
の場合 は,供給 された原料 で生産 した織物 を商店 に持参 し,織物代金 との差額 を決済する。 したがって,この 「売 りの買方法」 は, じつは明治期以来の 金沢 を中心 とす る石川県羽二重の機業家 と委託商 との生糸 ・織物取引 とほ とん ど同 じなのであ る21。富士絹の原料である絹紡糸の取引 も,マルサ ン組合 関係 はまった く同一であ り,原料代金 支払い方法は, 1930
年代半ば頃,上記の( 1)
と(2 )
がほぼ半々ずつ とされている。マルサ ン組合以外 の機業家の人絹糸取引は,この 「売 りの買方法」のほかに
,
「振 りの買」方 法 (織物の買約定な くして購入する取引)があ り,この場合の原料代金支払い方法は,原料受渡 と同時に現金で支払 うのである。マルサ ン組合以外の絹紡糸消費者 は (前述のようにほとんど存 在 しないのであるが),岸商店 または大阪 ・両毛地方の特約店か ら購入 していた (絹紡糸の特約 店は石川県では岸商店のみであ り,その他の取扱商は‑村商事のみであった)。全体 として,人絹糸取引は, この頃 「売 りの買方法」が最 も多 く,支払い方法の (1)現金 と
( 2 )掛 は,約半々の割合 とされる。 したが って,マルサ ン組合以外 の機業場 で も 「
売 りの買方 法」はかな り行われていたはずである。なお生糸取引は,かつて地方製糸家が金沢の生糸問屋 に販売委託す る方法が主であったが, こ れは減少 し,金沢生糸問屋が地方生糸問屋か ら買付 け,機業家 は金沢生糸問屋か ら現金取引で購 入するという。小規模機業家は織物兼生糸問屋 に織物販売 を委託す ると同時に原料生糸 を購入す る。 したがってこれ も明治期以来の委託商 との取引に近いが,問屋が 自ら生糸 を買付 け,危険負 担する点で,かつての委託商 と異なるといえよう。
昭和戦前期石川県マルサ ン織物工業組合傘下の機業経営
65
以上,
「売 りの買方法」 とくにその( 2 )
は賃織 に近いが,問屋が原料 と製品の価格変動 リスクを 負担 しない限 り,賃織 で も問屋制前貸で もない22。いずれ も原料 を購入 して所有権 が移動す る し,価格変動 リスクをどち らが どの程度負担するかは,機業家 と問屋 との約定が どのようなもの かによるであろう。いずれにしてもマルサ ン組合の機関店 と傘下機業家 との取引は,人絹織物 も富士絹 も 「売 りの 買方法」であ り
,
「約定生産主義」 とされている。 また輸 出入絹織物の,岸 ・‑村 と輸 出港商人との取引 も,約定によるのであ り,振売はほとんどないという。
これに対 し,この時期 に急速に生産が増加 した朝鮮 向け移出織物 (原糸は,生糸 と人絹糸)の 主産地 は小松地方であ り,その間屋 と小機業家の取引形態 は,内地織物 と同様 に大部分 は 「相 付」 と呼ばれるもので,問屋か ら供給 された原糸 により製織 し,問屋 は織物工賃のみ支払 う方法 である。すなわち問屋制前貸による賃織である。ただ しこれは小松・地方の場合であ り,県内で も 金沢 ・大聖寺 ・津幡では 「相付」はない とい う。「相付」以外 の取引方法 としては 「売 りの買方 法」などとされてお り,やは り 「相付」 と 「売 りの買方法」 は明確 に区別 されている。
全体 として
,1 9 3 0
年代半ば頃にはスポ ッ ト的な振売の取引はかな り少 な く, とくに織物生産 は問屋か らの約定の ものが大部分 ということがいえるが,マルサ ン組合 において原料 ・織物価格 の変動 リスクを負 っていたのは機業家か機関店かははっきりしない。た とえば1 9 2 9
年 に深刻 な 富士絹不況 に立ち至 り,岸加八郎 らが富士絹組合 の人絹織物へ の転換 を試みた際 には,「( 1 9 2 9
年1
1月か ら)組合員の全織機の二割 に,強制的に人絹 を織 らせた。・‑岸氏 らはその とき,組合 資金 をあげて補助金に振 り替えた。それで損失 を保証 して,強制製織 をや らせたのである」 とさ れてお り23,初めて富士絹組合傘下機業家 に人絹織物生産 を行わせ る場合 には損失保証 とい う誘 因を与えていたが, これ も岸 ら問屋が全面的に損失 リスクを負担するものだったか十分明 らかで はない し, また 「損失保証」 と価格変動 リスクの引 き受けは同 じで もない。そこでこれ らの点を 探 る一助 として,岸加八郎の所得額の推移 を検討 してみ よう。表
5
は,1 9 2 8
年以 降,翌年5
月 に 『北国新 聞』に公表 され た金 沢市 高額所 得者 の うち生糸 商 ・織物商 ・機業家 など繊維関係者 を抜 き出 して表示 した ものである24。 これをみ ると,2 8
年以 降,大規模機業家清水竹次郎 (お よびそれを継承 した清水善次郎)がほぼ安定 して最上位層 に現 れるほか,
「羽二重」商 ・ 「生糸」商や大規模機業家が並ぶ25。商人では安井音吉や1 9 3 2
年 まで の高坂三松 な どのように比較的安定 した所得 を示 している者 もいるが,岸加八郎 についてみ る と,1 9 3 2
年に大幅に所得 を増加 した後,3 3
年 に大 きく減少 させ,3 4
年以降再 び大 きく増加 させ ていった。1 9 3 3
年の所得額 を掲載 し解説 した 『北国新 聞』の記事 によれば,金沢市 では 「概 し て羽二重,機業,羅紗,網商等の躍進は 目覚 ましい」( 1 9 3 4
年5
月2 6
日) とす る一方で,
「小松 町の縮緬問屋 は何れ も高価 なる原料の手持品多数に上 りたるためその値下 りに伴 ひ数万円の欠損 を蒙 りたる向あ り」 (同年5
月2 7
日) としているように26,この年,機業家 は好調だったが,原 料価格変動 を負担 した織物問屋 は所得 を大 きく減 らしている。岸 もこの年に所得額 を大 きく減 ら6 6
商 経 論 叢 第47巻第1号 (2011.9)し て い る の は , 原 料 糸 ・織 物 の 価 格 変 動 リ ス ク の 負 担 を し て い た た め で あ ろ う 。 金 沢 の 繊 維 問 屋 の 中 で , 少 な く と も 岸 商 店 に つ い て は か つ て の 委 託 商 と は 取 引 の あ り 方 を 大 き く変 化 さ せ て い た と 推 定 さ れ る の で あ る 。 そ こ で , 次 に 機 業 経 営 か ら 手 掛 り を 得 る た め に , 九 三 織 物 の 場 合 を 検 討 し よ う。
表
5
金 沢 の 生 糸 ・人 絹 糸 ・織 物 商 ・機 業 家 の 所 得 (単位 :円)1928年 1929年 1930年
氏名 職種 順位 所得額 氏名 職種 順位 所得額 氏名 職種 順位 所得額
清水竹次郎 機業 3 50,000清水竹次郎 機業 3 51,130 清水竹次郎 機業 3 52,730 羽 田富吉 羽二重 5 32,050 羽 田富吉 羽二重 7 25,790 高坂三松 生糸高 19 18,120 大西文次郎 機業 22 13,490 岸加八郎 生糸商 32 13,060 本多政樹 重役 26 12,680
越 沢粂吉本多 政樹大西文次郎 機業会社重役機業 404834 1l1l,2,2,034701520 高坂 三松 生糸 31 ll,230
1931年 1932年 1933年
氏名 職種 順位 所得額 氏名 職種 順位 所得額 氏名 職種 順位 所得額
清水竹 次郎 機業 3 48,780岸加八郎 生糸 1 100,710 清水善次郎 機業 5 37,240 岸加八郎 生糸 12 17,930清水善次郎 機業 3 47,860 本多政樹 機業 6 36,950 安井音吉 羽二重 20 14,640 安井昔吉 羽二重 5 38,520 安井音吉 羽二重 8 30,450 高坂三松 羽二重 32 10,480 岸書次 株主 ll 24,750岸加八郎 生糸 10 29,470 本多政樹 機業 12 24,660 東与三郎 機業 12 28,100 藤沢加三郎 生糸 15 22,800 川崎常三郎 羽二重 15 24,000
大西文次郎 川崎常三郎 東与三郎 高坂三松
新 名弥三吉 羽二重生糸機業機業羽二重 1273572800 111119,0,9,5,5,562076877300000 大谷弥幽 機業 22 20,500
1934年 1935年 1936年
氏名 職種 順位 所得額 氏名 職種 Jq頁位 所得額 氏名 職種 順位 所得額
岸加八郎 生糸 1 68,900岸加八郎 生糸 3 60,000岸加八郎 羽二重 1 107,000
清水 善次郎本多政樹 安井昔吉
東与三郎 本多政樹 配当 9 25,000 新名弥三吉東与三郎安井昔書藤沢加 三郎清水善次郎本多政樹 機業会社生糸機業機業生糸 1221588077 41,22345,18,9,2,6,000000050000000000
出所 :『北 国新 聞』翌年5月25日または5月26Ei。
注 :1)「順位」 は金沢市 内所得額順位。 「職種」 は資料 の まま。
2)岸喜次 ・藤沢加三郎 は,岸商店 ・岸加八郎の実弟。
3)1935年 の清水善次郎以下 は所得額等不 明。
4)1933年 に押野屋 久兵衛 (糸商)ll,070円があ るが,蚊帳商 なので略 した。その他 ,呉服 ・魚網 な ども略 した。
5)1936年 の安井青書 ・東与三郎 ・清水善次郎 は 1万 円台。
6)川崎常三郎 はマルサ ン組合員 で,工場 は1930年 に金沢市 か ら河北郡宇 ノ気村 に移転 (r組合 史日 石川県絹業史j
)
.昭和戦前期石川県マルサ ン織物工業組合傘下の機業経営
67
2.九三織物会社 (1923‑43年)
丸三織物株 式会社 とは,1
92 0
年恐慌 に よ り大 きな打撃 を蒙 り,債権者岸 商店 ・‑村 商事 が再 建 して,富士絹 を試織 させ て成功 し,マルサ ン組合 の名称 の 由来 となった機 業場 であ る。 同社 は,1919年1 2
月,鹿 島郡鳥屋 町の第三織物会社 を継承̲して設立 さjtた27。 しか し創 立早 々1 920
年恐慌 に巻 き込 まれ,負債 を残 して一旦事業 を中止 した。 「三万 円の資本金 の ところに三十万 円 の借 財 が 出来 た。岸,‑村 は債権 者 の一員 と して,そ の復 興 に着 手 す る こ と ゝなっ た」 とさ れ,1922
年9
月に富士絹製織 を開始 した。同社 の株 主 をみ る と (表6 ),1 925
年 には‑村 商事 ・ 岸商店 と続 いたが, まもな く岸商店 または岸加八郎が筆頭株 主 となってい る。1936
年 の織 機 数 は23 4
台であ り,マルサ ン組合 の中では大規模 な機業場 の一つであった28。同社 の財務 諸 表 をみ る と,少 な くとも
1 5
期 以 降 は 「製織 勘 定」が示 され,借 方 に 「繰越 商 品」
「今期買入高」が,貸方 には 「今期売上高」
「後期繰越 高」,その差額 として 「製織益 金」が 計上 されてお り,原料 を買 い取 り,製品 を販売 していたのである。す なわち賃織 を していたので はない。15
期以前 について も,資産 の項 目に 「絹紡糸有 高」や 「製 品現在 高」が計上 され ており
,15
期以降 と同様 だったはずである。同社 の経営動向 を簡単 に観察す ると (表
7 ) ,8 ‑1 7
期 の 「当期純益」 は連年赤字 を計上 してい るが, じつ は当期欠損額 を超 える固定資産や不 良債権 の償却 をほぼ連年行 っていたのであ り (支 出項 目の 「固定 ・不 良債権償却」欄 お よび表8
を参照),岸 ・‑村 ,そ してマルサ ン富士絹組合 の傘下 に入 って同社 の実質 の経営 は明確 に好転 していた。そ して1 9
期 に減 資 を行 って,以後 は 連年 プラスの 「当期純益」 を計上す る ようになる。基本 的 に15
期 を除いて営業利益 がマ イナス の期 はないのである。絹織物市況が悪い期 を含 めて,なぜ ほ とん どの期 において安定的 ともいえ るような経営成績 を上 げ得 ていたのであろ うか。以下 に述べ るように,同社 と機 関店 との取引の表
6
九三織物株 式会社 の株主1925年1月 1926年1月 1929年 2月 1941年7月
株主名 住所 備 考 持株数 株主名 持株数 株主名 持株数 株主名 持株数
‑村商事株式会社 石川県// l 九三織物会社取締役九三織物会社社長 2,385 合名会社岸商店 2,390 岸加八郎 596 岸加八郎 938
合名会社岸商店 1,200 中村亀次郎 1,045中村亀次郎 363荒野権四郎 468
中村亀次郎 富山県石川県////ク//ノケ/〟/// 760 荒野権四郎 850荒野権四郎 316藤沢加三郎 279
橘 林太郎 500‑村商事株式会社 505 岸喜次 233 岸喜久雄 279
荒野権四郎 450 橘 林太郎 500藤沢加三郎 233 出雲伝二 270
浜野太三郎 九三織物会社取締役 450 浜野太三郎 450橘 林太郎 166 中村常也 216
笹川嘉助 九三織物会社取締役 350 笹川嘉助 380浜野太三郎 150笹川嘉三八 200
吉田長作 元横浜織物商岡部商店支配人 300 吉田長作 300 出雲伝二 142 浜野文吉 180
稲葉久次郎 九三織物会社監査役 240 岸加市 150 笹川嘉助 100 上田邦吉 175
橋 本美津 200 岸加八郎 150 笹川嘉三八 100九三共栄会 156
稲葉作次郎岸加市 岸商店経営者 152000 稲葉久次郎出雲伝二 113400九三共栄会出相愛太郎 18900笹川次三郎丹後安太郎 11.2020
出所:同社 『株主名簿』。
注:岸加市・藤沢加三郎・岸喜久雄は,それぞれ岸加八郎の父・実弟・甥。
6 8
商 経 論 叢 第47
巻第1
号 (2011.9)表
7
九三織期 年(8年度末1月.月)盟 芸芸芸 積立金 借入金負 芸引芸 仮受金 未払金債 霊越翌 土地 建物 機械器具 銀行当座 製品勘定 原料有高 売掛金資 産 8 1923.2‑8 250,000 2,000 83,381 35,299 27,125 301 △186,843 59,930 108,280 ‑ 18,440 19,616 2,043 9 23.8‑翌1 250,000 2,000 83,067 63,067 27,467 2,897 △186,286 59,930 101,105 ‑ 28,832 39,684 2,043 10 24.2‑8 250,000 2,000 81,881 60,652 33,315 1,933 △192,934 59,930 87,075 ‑ 20,410 55,764 2,043 ll 24.8‑翌1 250,000 2,000 65,081 41,228 53,198 4,074 △197,160 59,930 77,955 ‑ 28,875 41,972 2,043
12 25.2‑8 欠 欠
13 25.8‑翌1 250,000 2,000 13,063 38,176 70,295 2,381 ∠ゝ200,515 38,778 49,100 ‑ 15,240 57,310 14 26.2‑8 250,000 2,000 10,000 11,797 71,209 2,600 △211,051 38,778 39,342 △1,892 9,650 40,767 15 26.8‑翌1 250,000 2,000 10,000 35,37571,334 1,000 △213,862 38,778 39,342 △3,109 68,035 16 27.2‑8 250,000 2,00010,000 △15,49477,987 ‑ △219,307 35,778 36,192 △115 21,373 17 27.8‑翌1 250,000 2,000 ‑ 7,290 79,872 1,500 △224,367 29,830 34,278 △1,201 19,918 26,972
18 28.2‑8 欠 欠
19 28.8‑翌1 108,900 2,000 ‑ △14,702 ‑ 2,000 1,902 26,350 29,802 △1,245 38,828 芸嘉嘉 20 29.2‑8 108,900 2,250 ‑ 5,146 ‑ 2,000 692 25,320 29,349 56 49,975 5,995 21 29.8‑翌1 108,900 2,500 欝 ‑ 1,500 1,658 24,290 28,089 941 46,680 6,464 22 30.2‑8 108,900 2,750 ‑ 34,912 ‑ 1,500 540 24,290 30,089 183 75,243
23 30.8‑翌1 108,900 2,900 ‑ 4,432 490 26,490 31,889 1,088 39,686
24 31.2‑8 108,900 3,050 ‑ 16,440富男霊 31 25,490 31,389 2,213 41,115 マルサン織物工業組合 25 31.8‑翌1 108,900 3,250 42,000 32,889 ‑ 4,632 292 24,490 30,389 2,821 88,722 25,939 26 32.2‑8 108,900 3,450 42,000 25,364 ‑ 2,397 442 23,735 29,389 4,448 83,458 21,439 27 32.8‑翌1 108,900 3,650 42,000 △11,563 ‑ 1,369 651 22,735 32,729 707 60,013 21,439 28 33.2‑8 108,900 3,900 42,000 62,064 ‑ ‑ 432 22,426 32,965 4,501 108,196 19,944 29 33.8‑12 108,900 4,150 42,000 44,868 ‑ 6,530 353 21,552 32,363 2,971 105,990 21,229 30 34.1‑6 108,900 4,400 46,000 91,28110,000 ‑ 364 21,950 35,781 423 157,455 20,586
31
37 3347..77‑‑1122 150,150 4,650 25,000 8,966 1,186 34,578 50,475 △3,946 89,671 20,586
欠 欠
150,150 7,300 20,000 48,009 666 6,667 33,851 70,779 △474 76,118 18,461 38 38.1‑6 150,150 7,600 20,000 29,792 584 6,929 33,851 70,803 △11,203 77,486 14,524 39 38.7‑12 150,150 7,900 20,000 11,285 776 6,929 33,001 67,003 3,266 65,267 14,524 40 39.1‑6 150,150 8,550 50,000 69,328 1,899 7,223 32,001 64,003 △13,053 179,575 13,946 41 39.7‑翌6 165,000 9,200100,000 109,434 ‑ ‑ 2,924 7,223 29,501 59,603 △20,292 311,240 13,351 42 40.7‑翌6 198,00011,000 ‑ 46,631 ‑ ‑ 5,343 7,223 25,031 47,723 △5,613 179,724 12,737 43 41.7‑翌6 198,000 13,000 ‑ 102,014 ‑ ‑ 6,159 7,223 30,081 42,223 △7,420 243,471 12,105 44 42.7‑%6 198,000 16,000 ‑ 147,726 ‑ ‑ 10,593 7,223 32,881 45,823 23,943 216,393
出所 :同社 訂営業報告書j各期。
注 :「固定償 却」 は売却損 失金 を含 む。 「利子」 は,8‑11期 「利子 ・割 引料」,13‑14期 「利 息 ・手 数料
」 。
「精 練 染 色 費」 は15期「精練運賃手数料
」 。
「製織勘定」 には この他 「繰越 商 品」 が あ る。 「借 入金」 の25‑30期 は 「加 州銀 行借 入 金」 。
「銀 行 当座」 の 41期 は 「中越銀行 当座」,42‑43期 は中越銀行 ・能和銀行,44期 は両銀行 の差 し引 き,45期 は北 陸銀行 。昭和戦前期石 川県マ ルサ ン織 物工業組合傘下 の機業経営
69
物㈱ の主要勘定 (単位 :円)
製 織 勘 定 支 出 当期純益 (配 当年率%)
現金 売上高 買入高 益 金 給料 工賃 慧色芸 賃織 利子 慧 謡
109 49,918 17,693 ‑ 7,419 5,327 557 ‑ 172 49,012 ll,667 7,231 ‑ 6,393 5,997 △6,648 ‑ 2,828 54,508 12,670 11,834 ‑ 6,032 12,816 △4,226 ‑
355
483 55,309 13,126 ‑ 5,404 8,035 △2,224 ‑
欠 欠 欠
53,327 9,621 ‑ 8,486 43,216 ∠ゝ10,536 ‑ 18 55,379 7,117 ‑ 4,378 8,545 △2,811 ‑ 911 395,539 377,404 35,752 7,922 ‑ 2,981 △5,444 ‑ 15 450,435 344,908 58,865 17,531 9,211 ‑ 3,058 12,018 △5,060 ‑
192
窪票差 墓誌妄 語 雲 22 547,463 504,083 68,897 23,320 13,934 70 10,191 △1,103 ‑
欠 欠 欠
593,658 535,397 64,954 20,637 9,670 ‑ ‑ 2,390 4,400 8 2 984,531 903,461 92,217 36,281 18,198 ‑ ‑ 2,390 5,765 8 6,344 ‑ 227 440,958 381,575 56,087 4,524 15,781 7,947 ‑ ‑ 2,390 3,682 8 328 11,764 1,191 170 449,358 418,545 59,375 21,276 9,119 ‑ 283 2,435 4
‑ 3,561 2,445 166 307,358 229,058 42,742 3,244 8,245 3,313 76 2,000 2,486 5 吉富望 3,049 2,116 167 293,304 244,549 50,184 4,126 10,430 3,574 ‑ ‑ 2,000 3,255 5 1,449 3,713 989 582 208,464 213,350 42,720 3,736 7,694 2,995 ‑ 1,334 2,000 3,145 5
‑ 6,155 176 149 302,160 246,103 50,792 4,865 10,501 7,161 ‑ 2,210 2,000 3,049 5
‑ 3,816 △3,644 928 351,725 264,728 63,551 4,825 12,033 5,472 ‑ 1,450 2,500 5,4‑76 10
‑ 8,674 8,884 3,103 388,612 366,526 70,269 4,365 13,428 7,642 ‑ 2,164 2,500 5,615 10
‑ 14,234 1,103 590 329,907 272,803 54,896 3,004 8,751 5,975 ‑ 490 2,000 4,386 7.5 橋本工場 17,856 845 102 381,470 359,209 73,725 4,595 20,14211,873 ‑ 1,086 2,000 6,816 10 2,404 ‑ 531 457,170 310,731 78,656 5,609 25,402 6,643 ‑ 864 2,000 9,523 9.9
得意先
勘定 欠 欠 欠
‑ 20,430 84 374,636 327,067 66,962 1,425 19,083 3,565 10,275 809 3,518 4.4
‑ 16,308 ‑ 177 339,089 274,017 66,440 1,014 17,810 4,606 8,702 511 4,586 5.1
‑ 10,395 33 467,945 362,062 93,663 1,270 20,566 2,816 18,810 649 4,500 7,838
‑ 4,235 ‑ 367 647,404 634,061 127,651 1,779 25,472 4,503 26,371 2,924 4,500 ll,934 12
‑ △7,867 ‑ 415 一 342,537 5,362 51,341 37,638 79,565 6,211 20,000 22,918
‑△10,669 ‑ 392 1,390,148 842,806 415,825 5,797 46,125 11,154 103,534 5,869 16,500 35,615 20 4‑14 ‑ 220 1,060,279 692,676 470,462 7,318 56,379 6,428 127,120 1,149 8,000 55,194 24
‑ 33,104 ‑ 336 960,843 518,481 490,291ll,496 53,419 26,119 117,340 5,957 8,GOO 39,286
7 0
商 経 論 叢 第47
巻第1
号( 2011. 9)
表
8
九三織物(秩)の償却期 内訳 金額 (円) 備考
8 9
1 0
不良債権償却固定償却///
ノ/
/ク/・′12, 5, 5, 816 99 3 27 7
売却損失金l l 1 2 13
//1 4 16
//1
//7 1 8
1 9 39, 8, 7, 3, 035 45 32 982 7 4
売却損失金 固定償却//不 良債権償却
8,5 6, 5, 450 568 45
固定償却8, 391
不 良債権償却1, 800
固定償却//6, 2, 351 390
計1 22, 335
出所 :同社 F営業報告書』第 19期。
注 :*第
1 3
期の債務容赦受金2 4, 0 7 3
円及 び第3 ‑5
回の払 込金で償却。あ り方は明確 にはわか らないが,機業家が価格変動 による損失 を極力蒙 らない ように同社の原料 購入 と織物販売 を短期で繋 ぐ 「売 りの買方法」だった ようである。 しか し15期 に欠損 を計上 し た ように機 関店 は完全 には原料織物の価格 変動 の リス クを引 き受 けていたわけで はない らし
い 290
以下,各期の動向の うち 『営業報告書』によって比較的重要 と思われる部分 をかいつ まんで紹 ママ 介す ると,まず
8
期 は,マルサ ン富士絹組合結成 間もな くの期であ り,
「前期二引続 き不二絹製 織 二従事 シ」,原料 ・製 品に多大の変動があったが,機器 の償却 を してかつ損失 を免 れた という 。
9
期は,関東大震災により富士絹は意外の活況 を呈 し,相当の好成績 をあげた とい う。 しか し 不要機械 の売却による評価損 を計上 してお り,繰越欠損及び現在の時価 と大なる懸隔ある固定資 産の計上は有利でないので,一 日も早 く減資をしたい としている。 こうした事情 は1 0・1
1期 にも述べ られている。
1 3
期 は,前期以来一般絹織物不況のため富士絹生産が激増 し,このため富士絹売 りさば きが 困難になった とい う。 この場合,同社 は岸商店 ・‑村商事 と 「売 りの買方法」で取引 していたは ずであ り,注文減 となったわけであろう。 この期の 『営業報告書』によれば,尋常のや り方では 共倒れになるので,郡内及び金沢 を中心 とす る数工場 に勧誘 して,
「マルサ ンミルス」の 「生産 団体」 を組織 し,生産量 を確保 して製品原料の統一 を図るべ きとし,要す るに大量生産 してブラ ンド構築 を行い (総運転台数約1
千台,産額15
万疋),極力宣伝 した ところ,全 国の富士絹の2
割 とな り,同一マークとして 日本第 1位 を占め,神戸市場の標準物 とされ,各産地‑の相場報告 はマルサ ン製品を以てするような地位 を得た という。ただ し前述のように,マルサ ン富士絹MA昭和戦前期石川県マルサ ン織物工業組合傘下の機業経営
〃
ブラン ドの登録 によ り品位統一 と向上 を図ったのは19 23
年1 0
月 と考 え られ,同社 の営業報告書 はこの期か ら活字印刷 として様式 を一新 してお り, この くだ りは1
年ほ ど前か らの経緯 を記述 し ているもの と思われる。 この期 はまた, フル操業 したが収益が少 なかったのは競争が激 しかった か らという。 これは市場の状況によって,岸 ・‑村 との 「売 りの買方法」 における契約のあ り方 を変更 していたことを窺 わせ る。1
3期 には,1920
年恐慌 による‑村 ・岸‑の債務返済の時期が最早4,5
年 に迫 ったので,両店 と交渉 して現金1
万2, 900
円を返済 し,残 り2万3, 41 4
円は全部容赦免除 して もらい多大の恩恵 を受けた とい う。実際 この期 に借入金が大幅 に減少 している。 しか し創立以来6
年半 に固定資産 が 「腐朽磨滅」 し, まだ1
回 も償却 していなかったが (これは事実 と異 なる),今 回2
割の減価 償却 をし, このため繰越欠損 はます ます加重 した としている。1 5
期 は,富士絹価格 が下落 し,原料 を大量 に持 っている業者 は打撃 を蒙 った。 しか し同社 は 相場変動で利益 を得 る戦略はな く,先約 に応 じてその都度原料買い当て している。 したがって今 回の ような相場暴落の損害 はない とい う。 とはいえ富士絹 も一般絹織物不況 に巻 き込 まれ,欠損 が生 じている。 この期の欠損 は固定償却 によるものではない。す なわち 「売 りの買方法」で も欠 損の場合があった。 この場合,同社 は価格変動 リス クを多かれ少 なかれ負 っていた と思 われ る が,注文減の影響 も考 え られる。 しか しこの ような営業損失が生 じていたの は, この期 のみで あった。1 7
期 は,一般絹織物 は相場が安定 し輸 出 ・内地 とも概 して順調 であったが,富士絹 は原料 の 絹紡糸割高 により,採算不利であったが,
「マルサ ン団体」の結合 は固 く,その産額 は全 国富士 絹輸 出高の3
割 を占め,依然 として標準品をな していた とい う。19
期 には,減資 を断行 して繰越欠損 を補填 し,軽少 の配当 を行 った。公称資本金 は16
万5
千 円 としている。 この期 には,マルサ ンM
A富士絹 は,全 国輸 出絹織物総額 の1 0
分 の 1を占めた とい う。21
期 には,期初 に富士絹の不採算が著 しく 「我 団体」 (マルサ ン富士絹組合) は1ケ月半休業
した30。主たる輸 出先の豪州の不景気が著 しく,内地で も金輸 出解禁断行声 明によって物価 は下 落 し,同社創立以来の一大危機 とい う。1ケ月5
千疋 の生産能力 を何 に転換す るか慎重 に審議 し た上,人絹平織物 に転 じることとし, これを一気吋成 に断行 し,全機台の4
分の3
をこれに転換 した とい う。 これは1 92 9
年1
1月か らのマルサ ン富士絹組合が 「組合資金 を挙 げて補助金 に振替 え」て,組合員の全織機の 2割 に強制的に人絹 を織 らせ た人絹織物‑ の転換 の ことである31。九 三織物 は富士絹組合時代か ら常 にマルサ ン組合 の中核 的存在 だったため,
『営業報告書』の記述 は組合の活動 と滞然一体 となっている。翌30
年 にかけて,生産品は数 ヶ月の うちに3
割暴落 し たが, しか し平素手持 ち商品の評価 を最低位 に見積 もっていたため,資産状態 には影響 なかった とい う。富士絹組合か らの補助金が重要だった ことは容易 に想像で きる。22
期 も続いて,不景気 の中で,富士絹以外 に人絹紋織 ・朱子織 あ るいは内地織物 な ど多様 な7 2
商 経 論 叢 第4 7
巻第1
号 (2011. 9)
製品を生産す る経営 に逆戻 りして,これに要する新規器械購入 ・模様替 えに相 当資金 を要 した。
23
期 は,マルサ ン富士絹組合か らマルサ ン織物工業組合へ の組織替 え した ことが記 され,24
期 には,岸加八郎の講演要 旨が掲載 されている。2 7
期 には,輸 出は好調で, と くに人絹 は昂騰 し,内地 も活況であるが,同社 は投機 的思惑 を 置かず に経営す るため何 ら目ほ しい利益 はない とい う。 こうした点は2 8
期 にも記 され,
「売 りの 買方法」 による安定的な経営が継続 しているようである。ただ し2 8
期 には,数年来製織 して き た富士絹は期末 に至 って極度の採算難に陥 り,富士絹製織 は暫 く最小 限度 に止めた とい う。 しか し30
期 には,全機台の6
割 まで富士絹 に転機 し能率 をモ ッ トーに極力増産に努めた。1 9 3 4
年後期 の31
期 は,人絹界 は漸 く活況 を呈 し,全力 を人絹織物 に傾注 すべ く,寄宿舎新 諺,撚糸部拡張 な どを行 い,期末 には全機台人絹織物 に転織 して,予想 の成績 を収めた とい う。1 93 7
年7
月か らの37
期 は,
「支那事変」の拡大 によ り人絹業界 の不 況 は拡大 し,休業が続 出 した。マルサ ン組合 は1 2
月一斉休業 を断行 した。39
期 は,団体 リンク制 は調整不 円滑 で,協定糸の配給 は遅延 し, このため当社 は操業 に苦労 した とい う記述がある。40
期以降,営業の概況の記載 はな くなる。43期か ら賃織 に出すだけで な く,賃織 も引 き受けている。全体 として,機 関店の もとでの賃織的な経営であるはず なのに,賃織 的な操業でない ような記 述 も多 く,価格変動等 を気 に している。「売 りの買方法」の もとで,極力投機 的にな らない よう な経営 に努めていた ものの,欠損 を計上 した期が皆無でないことか ら窺 われるように,価格変動 リスクがある程度はあった もの と推測 される。 しか し松崎機業場 の例では,マルサ ン組合の もと での取引には (さらにマルサ ン組合外 での取引 に も), よ り巧妙 な取引の仕組みがあった ことが わかる。そこで次 にその分析 に移 ろう。
3.
松崎機業場(1)松崎機業場 とマルサン織物工業組合
( 1 934‑41
年)松崎機業場 は,1
899
年 に松 崎次郎八 を代表者 として創業 され,1922
年創立のマルサ ン富士絹 組合 に当初か ら参加 した。 さらに1 9 30
年 にマルサ ン織物工業組合が組織 されてか ら1 9 42
年の解 散 まで組合員であ り,かつ経営者松崎清作 は‑貢 して組合の7
人の理事 の1
人であった。 また松 崎機業場 はマルサ ン組合傘下 において最大規模 の機業場であった。1936
年,マルサ ン織物工業 組合傘下1 68
工場 (織機 台数8, 879
台) の中で,松 崎機 業場 (織 機 数366
台)が最大 の機 業場 だったのである32。松崎機業場の経営資料 としては,第二次大戟前 については,合名会社松崎機業場 『昭和九年度 以降 決算書類綴』 (以下
,
『決算書類綴』 と略す)があるのみなので33,1 93 4
年 頃以降 しか詳 し いデー タによる分析 はで きない。そ こで まず初 めに,創業か ら1 93 4
年頃 までの経営概要 につい て述べてお きたい。昭和戦前期石川県マルサ ン織物工業組合傘下の機業経営 73
根上町の位置す る能美郡 は,石川県輸 出羽二重発祥 の地であ り, また根上村 (お よび根上町) は明治期以降近年 にいたるまで,能美郡の代表的な織物生産地であった。神立春樹 も 『明治期農 村織物業の展 開』 (東京大学出版会
,1 9 7 4
年) において,石川県の代 表的農村織物業地 として同 村 の事例 を簡単 にふれている34。それによれば,松崎機業場 は,1 9 1 9
年 当時,職工数7
2名,梶 上町で第 2の規模 であ り, また同年 3月,松 崎第二工場 (代表者,松 崎清作)が創 設 され3 5
, さらに
1 9 2 3
年1
月に合名会社 に組織替 え した。合名会社松崎機業場 の代表社員 は桧崎清作( 1 9 4 3
年1
月 まで)であった。おそ らく1 9 2 3
年の合名会社化 は松崎 次郎八 と松崎清作 の事業が合体 し た もの と思われる36。また
,
『組合史』 に記 されてい る松 崎清作 の履歴 に よれ ば37,根 上村 の農家 に1 8 8 2
年 に生 ま れ,生家 は1 9 1 3
年の戸数割で9 5 8
人中1 1 4 ‑1 2 5
位 であったか ら38,上層 とはいえ,最上層農家 ではない。高等科卒後農業 に従事 したが, 日露戦 に出征 し,負傷 内還,帰郷 した。 このため農業 従事不能 とな り,1 8 9 9
年 に父が始めた手織機1 0
台の機業場 を継承 し,経営難の近隣の機業場 も 譲 り受けて 「創業」 した とされる。創業 に当た り,投機 をしないことを誓 った とされ,事実,機 業場経営 は第一次大戦勃発以来恐慌の波 を潜 り抜 け, さしたる損害 も受 けず,事業 を拡張 して き た とい う。そ して近隣の若年女性 の就業先 として名声 を獲得 し,
「松崎機業場 に勤務す る と言ふ 事が,近隣子女の憧憶の的 となった」 とされている39。マルサ ン富士絹組合 が人絹織物 に転換す る際には,人絹織物 を試織 していた桧崎清作が,実地の経験か ら,岸加八郎 と松・島栄吉 に 「人絹 織物成功疑 ひな し」 と進言 した とい う。 こうした経緯か ら桧崎機業場 は,当然マルサ ン織物工業 組合の有力 メ ンバー となった。以下,マルサ ン組合 との取引関係 を中心 に,同社 の経営の特徴 を簡単 に述べ よう。
1 9 3 5
年 度以 降,同社 は一度 も赤 字決算 が ない とい う安 定 的 な経 営 を継 続 して いた (表9 ‑ 1 0 )
。 また同社 の仕入先 ・販売先 をみ ると (表1 1 ‑1 2 )
,‑村商事 が最大 の取引先 であ るが,マ ルサ ン機関店たる岸商店や‑村商事の専属 ではない。すなわち,村 田与三助商店 とも継続的に大 量取引 を行 っていたようであ り,かつ‑村商事 に対す る場合 と同様 な品 目を村 田 とも取引 してお り, したが って村 田とも輸出向織物 とその原糸取引 を行 っているはずである40。村 田はマルサ ン 組合 の機 関店ではない。 じつは,マルサ ン織物工業組合 の定款 に よれば,輸 出向織物 の原料購 入 ・製品販売 は組合 に委託するとい う条項があ り (第5 2
条),定款違反 は3
千 円以下の過怠金が 科せ られ る とされてい るが,
「特別 ノ事 由ア リテ理事会 ノ承.認 ヲ得 タルモ ノハ此 ノ限 リニ在 ラ ス」 とい う例外規定があ り41,マルサ ン組合 の中心 メ ンバ ーの松崎が組合 に内密 に他 と大規模 な 取引 を継続的に行 った とは考 え られず,松崎 はマルサ ン傘下の大規模 な有力 メ ンバ ーだったた め,やや例外 的に組合理事会の了解 の もとで独 自の取引 を行 っていた もの と思われる。村 田は人絹特約店でない。前述 の ように
,1 9 3 5
年5
月か ら人絹連合会 と全 国人絹特約店組合 連合会の問で,排他 的取引協定が実施 され,特約店でない人絹取扱商 は,直接人絹連合会加盟の 大手 メーカーか ら人絹糸 を購入 で きな くなった。 しか した とえば1 9 3 5
年度の松崎 の村 田か らの表9松崎機業場の主要勘定 年度末(翌年1月)負俳資産計納金積立金借入金即胎設定.,Tm金未払金髭霊議益翌土地建物賃貸雛仕掛品舘売掛金
鷺
醍現金報 1935192,00061,634.1,4.24.1822,999123,29823,5646,204.80,507143,95447,74510,35314.,4.2051,41622,334.3,56713,3724.05,104. 36192,000100,00042,4317,8291823,00011521,1366,20479,212123,50324,90513,12744,74735,3558,53396017,250367,760 37200,000100,00028,72311,0151872,50021,2514,5285,82079,239126,50234,68216,04335,00226,2488,66830615,372370,277 38200,000100,00010,00019,21711,8281872,0449,50729,4305,82082,900124,48218,03918,97066,01629,3457,8462,59515,375387,380 39200,000102,00040,93627,04118212,04411,87068,718別途横立金200,000102,00020,0002231872,04447,38822,797‑村勘定200,000107,00025,00018,6461914,87717,58698,3605,82072,006102,78982,02218,728117,06527,1955,85233428,654466,785405,82066,75692,84940,47024..98Ll47,52930,82226,2211,33059,092454,164 415,82060,86284,53648,17321,16799,16065,9075134,30472,802529,270 4.24.3200,000112,00045,00040,48518618,94728,5895,82061,75987,036168,40645,94589,70922,004‑69,0491,45062,187650,0064.75,94.3536,958 借入金村l卦助走 200,000112,00045,00065,00019640,13613,5705,82061,759107,76716,04891,58839,6983,69375,812 4445200,000112,00045,000147,50017623,4069,0721,814.3,460143,222229108,166
銀行貸越特殊預金仮払金 出所:合名会社松崎機業場r昭和九年度以降決算岱類綴J。 往:1935年の当期利益金は1934・35年利益金。
74 卦 帝 雛 難 事 47僻事 )% (20tt.9)
昭和戦前期石川県マルサン織物工業組合傘下の機業経営
7 5
表10松崎機業場の損益 (単位 :円)年度
(2
月 〜翌
1
月) 雲上真利 宗 貢 益雑収入 芸人驚 営業雑費 製造諸費損 失 岩益翌 計1 935 5
71, 630 4, 6 02 1, 755 476, 328 5 4,1 32 99, 59 4 7, 5 05 667, 629
36 5 82, 92 4 4, 735 4, 83 2 41 0, 5 82 61, 22 0 95, 421 21, 136 6 02, 49 8 3 7 67 4, 9 02 1, 8 43 3, 06 8 55 0, 827 41, 7 81 91, 773 4, 5 28 13 8, 083 38 6 83,11 2 1, 970 6, 1 8 4 5 78, 237 3 0,1 02 91, 72 0 29, 43 0 795, 2 09 39 742, 2 71 775
11, 21 7 593, 1 79 5 8, 56 5 116, 6 41 6 8, 71 8 9 72,1 9 8 40 804,1 96 4, 207 9, 708 463, 421 9, 727 1 51, 316 22, 79 7 93 7, 555 41 79 7, 2 43 5, 435 3, 661 5 66, 1 23 3 8, 705 205, 599 9 8, 36 0 1, 05 4, 92 0
42
家賃収入5 85, 26, 733 5 47 7, 5, 0 20 44 4 2 4, 3, 6 070 09 491, 46 4 1 02, 41 9 2 41, 012 28, 5 89 951, 76 0
43 1 3, 5 70 75, 089
44 1 38 41 8 3, 1 49 9, 072 1 38, 700 45
ll, 751 2, 079 65, 151 7 4, 26 4
出所 :表9と同 じ。注 :
1 9 3 6
年の 「原料買入高」は 「当期製品売上原価」。1 9 4 5
年の当期利益金は清算剰余金。人絹糸 は,旭 ・東洋紡 ・倉敷 といった人絹連合会加盟 メーカーの糸であった。 これは協定が守 ら れていた とすれば,村 田商店 は,金沢 の特約店 ない し福井方面か ら購入 した はず であ る42。す な わち仲 間取引 を行 っていた。松 崎が村 田か らこれ らメー カーの人絹糸 を購入す ることは,一つ迂 回的な購入 になるので割高 にな りそ うであるが,松崎が村 田か らの購入 を継続 した ことは,福井 方面 を含 めた特約店 間の激 しい人絹糸販売競争の もとで,村 田か らの購入 は‑村 と比 して と くに 割高 とい うわけではな く,人絹糸価格 の変動 の激 しさも加 わって,大規模織物業者 た る松崎 はよ
り有利で安定的な原糸調達 をめ ざすために,購入先 を複数化 した もの と考 え られ る。
じつ は,マルサ ン組合傘下の有力機業場がマルサ ン機 関店の専属 的ではないのは,た とえば丹 後徳蔵 ・安太郎の経営 になる上村機業㈱ (鹿 島郡能登部 町) も同様 であった。 この経営 はマルサ ン富士絹組合以来のマルサ ン組合 の主要 メ ンバ ーであ り,丹後徳蔵 ・安太郎 はマルサ ン富士絹組 合理事 に就任 していたが43,富士絹お よび人絹織物 も岸 ・‑村 には委託せず,独 自の商標 で 自力 販売 していた。す なわち戦後,丹後徳蔵 は次の ように記 している。
マルサ ン組合 の構想 には私 も賛意 を示 していたのであるが,生産者 団体 に岸,‑村 が機 関店 とし共存す ることは私 には割 り切 れない ものがあ り,その後 はマルサ ン組合 の幹部であった が私 の ところだけは箱 々違っ た行 き方 を してい た。従 っ て製 品の販売 はMAマ ー クが岸 ,
‑村 の所有権 であったため,MAではな く飽 くまで㊤ マー クで私 の個人の立場 で販売 した。
幸 い㊤ のマー クは当時相 当の信用力 を持っていたので売れ行 きは好調 を極 めた。
丹後 はマルサ ン織物工業組合 に も創立当初 か ら理事 となっていたが,人絹織物 もマルサ ン組合 の動 きとは別 に