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ソヴェトの歴史家とロシア帝国主義研究

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(1)

ソ ヴ ェ ト の 歴 史 家 と ロ シ ア 帝 国 主 義 研 究

G・M・エンティーン

T ・ ゴ ー ン ︑ C ︒ カ ー ン

ソ連 歴史 学 界 に おけ るPア 帝 国 主義 論 争

7i

はじめに

序論

1論争の起源

2歴史家の職業の政治化

3歴史学のスターリソ主義的統制

4論争の復活

5最近における意見の対立

6結論

付録ロシア帝国主義(赫・分・ゲフテル)

はじめに

ロシア帝国主義論争は︑相互に関連する三つの基本的な問題

ーーロシア経済における外国資本の役割︑いわゆる国家独占資

本主義の存在︑それにロシアの資本主義発展にあてられた﹁軍 事的封建的帝国主義﹂という用語のレーニソ主義的定義ーを

めぐって行われてきた︒これらの問題を効果的に論ずるために︑

歴史家は︑経済史(技術を含む)︑生産・商業・金融制度の展

開︑それに経済政策の発展を検討しなければならなかった︒歴

史家はまた︑対外関係と知的歴史(レーニンその他の著作)を

検討し︑社会史と交差させて農民や労働者の労働条件や生活条

件を調査研究しなければならなかった︒これらの諸専門分野の

総合によって歴史家が達成しようと望んだことは︑十月革命の

前提条件を解明することであった︒

本研究の目的は︑ソヴェトの歴史著作のスタイルと若干の知

見︑それにソヴェト人の歴史意識の決定要因のいくつかを検討

することである︒そのことはまた︑帝国主義概念︑すなわち政

治と学聞の双方を興奮させ悩ませつづけている概念を︑明確に

することを意味する︒

(2)

商 経 論 叢 第24巻 第1号

72

ソヴェトにおけるロシア帝国主義研究には五つの主要な段階

が認められるが︑そのすべてが政治の展開に対応していた︒第

一部は論争の起源を扱っている︒主なテーマは︑外国資本の投

資がロシア帝国の経済発展に与えた影響の程度匹ついてである︒

この公開の論争は︑新経済政策(ネップ)期である一九二一‑

一九二八年の多元主義を反映していた︒第二部では︑第一次五

か年計画中の一九二八‑一九三二年にスターリソが権力の座に

ついたことにともない︑論争の意義が鋭くなり苛烈さを増した

ことを検討している︒ロシアは独自の自立的帝国主義制度を欠

いていたとする説は︑トロツキー主義者の説であるとされ︑禁

止された︒一九三四年の驚くべき逆転の後︑この同じ理論がも

はやトロツキー主義者の説だとは呼ばれず︑教義となり︑表面

的には盛んになり︑反対はなくなった︒この点は第三部で言及

されている︒﹃全連邦共産党(ボ)史小教程﹄の数ページに書

かれている︑いわゆる半植民地テーゼは︑ロシアの帝国主義的

発展の問題に関するただ一つの可能な結論として︑断定的に定

式化された︒第四部はこう述べている︒スターリンの死につづ

いて起きた論争の復活は︑歴史家が学問的土台に立って研究を

再建しようとしたものである︑と︒第二〇回党大会と第二二回

党大会の余波のなかで︑ロシア帝国主義の諸側面を扱った論文

が再度洪水のごとく現れた︒非スターリソ化は︑半植民地テー

ゼの没落を意味した︒まもなく現れた有力な見解によれぽ︑ロ

シアは︑西ヨーロッパの帝国主義制度と比較していくらか後進

的であるとはいえ︑一個の帝国主義制度をまさに発展させてい たとされる︒一九三〇年代の論争が取り落としていた側面が︑

今や勝利を収めたのである︒第五部は本質的に結語であり︑そ

の後の若干の意見の対立に読者の注意を向けたものである︒ロ

シァ帝国主義の問題は︑もはやソヴェト歴史学において以前と

同様の顕著な地位を占めていない︒結論は簡潔に述べられてい

る︒付録として﹁ソヴェト歴史百科辞典﹂のなかの﹁ロシァ帝

国主義﹂の項目の翻訳を加えた︒それは︑歴史家の知見にたい

するソヴェト人の陳述を提供しており︑また同時に英語圏の読

者に本研究で用いられた第一次資料を例示したものである︒

序 論

ロシア帝国は︑資本主義の発展の最高段階としての帝国主義

を経験したのであろうか︒経験したとすれば︑十月革命はソ連

邦の諸民族を外国帝国主義のくびきから解放した︑と主張でき

るであろうか︒経験しなかったとすれば︑ロシアには社会主義

革命に必要な諸前提が存在した︑と主張できるであろうか︒ロ

シア帝国主義を研究するソヴェトの歴史家はすべて︑この問題

に直面してきた︒狭い専門的な諸研究ですら重い政治的分派を

もつ国で︑ロシア帝国主義の歴史学は︑政治的気候の変化にき

わめて敏感であることを立証してきた︒ロシア帝国主義に関す

る歴史著作は︑マルクス・レーニソ主義の限界内においてのみ

ならず︑所与の時代の政治的現実が課する限界内においても︑

ソヴェトの歴史家たちがどの程度の職業的自由を享受してきた

かということを︑特によく示しているように思う︒

(3)

ソ連 歴 史学 界 にお け る ロシ ア帝 国 主義 論 争

73

本研究は︑ソヴェトのロシア帝国主義研究の知的特徴および

実際的決定要因︑とりわけ政治のインパクトに関心をもってい

る︒われわれの考えによれば︑この問題のどちらの側面も︑同

時に他の側面を研究しないことには︑理解できないのである︒

この点で本研究は︑今日やっとアカデミーの一学科となった

﹁知識社会学﹂の練習問題として考えることができる︒﹁知識社

会学﹂には社会科学全体を指導しうる方法論の地位が与えられ

る場合もあるが︑ここではたんに特殊テーマー歴史学の決定

要因としての政治ー‑の枠組として用いられる︒事実ソヴェト

歴史学の全研究は︑このテーマの諸側面を取り扱っており︑抽

象的にではあるがしばしば問題を提起してきている︒政治と歴

史学という二つの変数のあいだの関係を示す公式が探求されて

いる︒正確なポートレートが︑学問と政治の中間のスナップ

が︑要求されている︒われわれの意図は別のものである︒すな

わち︑できるだけ特殊的であり独自的であろうとつとめた︒政

治と学問のあいだの相互作用を少なくともいくつかの関連する

文脈に置くことができることを望んでおり︑かくして学問にお

ける政治の存在だけでなく︑学問における政治の存在の程度と

限界をも示そうと望んでいる︒

本研究の著者にとって︑帝国主義という用語は︑ある民族

(人民の主権をもつグループ)の他民族にたいする支配を意味

する︒それは︑一つの行動形式として︑数あるなかで権力の不

平等な状況にたいする唯一可能な返答である︒それは︑ソヴェ

トの著述家i彼らの仕事をわれわれは研究するーが用いて いる定義とは異なる定義であるが︑十分に広いものであり︑彼

らの定義を包括している︒われわれの理解によれば︑ヨーロッ

パ帝国主義の研究には︑二つの主要な伝統もしくは学派がある︒

第一の伝統はレーユソが支持しており︑経済的帝国主義の理論

を生みだした︒それは︑物質的利益が帝国主義的冒険の起爆剤

になったと主張する︒いま一つの伝統は社会学的展望に起源を

もち︑ジョセフ・シュソペーターが最大の代表者で︑支配のテ

ーマを強調している︒

経済的帝国主義の理論家は︑古典派経済学に根拠をもつ基礎

的諸前提を用いて︑一九世紀末から二〇世紀初めの外延的植民

(1)地化を説明しようとした︒一定市場における利潤率の低下とい

う概念︑通常もっぱらマルクス経済学と結びついている概念︑

それはリカードの著作に起源をもっており︑リカードの後継者

でマルクスと同時代のジョン・スチュアート・ミルの体系のな

かで著名な地位を占めていた︒この理論は︑南アフリカにおけ

るジェームソンの襲撃のさいの激烈な反動と結びついて︑(収

益性の低下を相殺するための)資本輸出は近代帝国主義の主根

であったとする﹂・A・ホブソンのテーゼ(一九〇二年)の主

要な源泉になった︒このテーゼは︑社会民主主義者のヒルファ

ディング︑特にローザ・ルクセンブルクによって彫琢され︑さ

らに装飾され︑ついでレーニンによって大規模に通俗化された︒

レーニソにとって資本輸出は︑社会の一部が好むたんなる政策

ではなく︑成熟した資本主義の欲求から不可避的にでてくる制

度化された実践であった︒そしてたった一つの帰結‑社会主

(4)

商 経 論 叢 第24巻 第1号

74

(3)義革命liが可能になったのである︒

本研究の著者は︑経済的帝国主義の理論には強さと欠陥があ

る︑と考えている︒きわめて多くの異なった場所でのきわめて

多くの異なった行動形態を単一の原因で説明する努力は︑われ

われの性分にあわない︒しかも論争の現段階までに︑この理論

は経験的感覚に照らして欠陥があることが明らかになった︒国

家指導者‑ー彼らの政策が植民地獲得を導いたーの諸動機の

説明は︑資本の実際の流れの研究と同様に︑ホブソンやレー二(4)ンの主張を確証していない︒この理論は︑ある点で二〇世紀の

政治の下に横たわる神話になっており︑別の点で西側の支配に

たいする非難のきまり文句になっている︒

この理論は︑概して十分であるとみなされるにもかかわらず︑

資本主義の不均等発展に関するレーニソの定理の系と結びつい

て︑やはり第一次世界大戦の勃発について挑戦的な説明を提供

している︒皮肉なことに︑K・カゥッキーの理論定式は︑レー

ニンによって乱暴にはねつけられたにもかかわらず︑主として

その﹁超帝国主義﹂概念のゆえに︑今日関心がいだかれてい

(5)る︒多国籍企業の時代において︑超帝国主義‑国際的競争者

のありうべき協力︑特定国家との結合をたち切った経営エリー

トの支配1は︑証明はされていないが︑有望な仮説であるだ

けでなく︑先見の明のある仮説でもある︒

帝国主義研究の第二の主要な接近方法︑すなわち社会学的展

望は︑理論的基礎として経済的行動よりもむしろ階級関係を使

用する︒その主なしるしは︑帝国主義という用語で定義される 多様な行動形態を分類し︑帝国主義のより初期の諸実例との連

続性を強調して︑一つの要因による説明を避けようとする努力

である︒

シュソペーターの分析は︑社会学的なエリート研究に基礎を

おいている︒パレート︑モスカ︑ミッチェルズの諸著作はこの

伝統の中核をなすが︑マックス・ウェーバーは支配の諸形態の

(6)研究のなかで︑この展望を具体化している︒シュソペーターは(訳)一九一九年に帝国主義に関する論稿を発表したが︑このとき彼

はレーニソの著作を知らなかったようである︒彼は︑帝国主義

を隔世遺伝だと考えた︒近代帝国主義は︑商業が支配する世界

で︑自身の理論的基礎をみつけだそうとする軍人階級の努力か

ら生まれた︒ヨーロッパの貴族政治は︑純粋軍事活動欲求およ

びカリスマ的エトスの土台の上に樹立されていたが︑時代錯誤

的なものになっていた︒シュソペーター理論の重要な系によれ

ば︑帝国主義は資本主義の合理的エトスとは無関係であり︑そ

れにたいして有害ですらある︒H・アーレソトもまた︑権力関

係を分析するこの伝統の内部で活動した︒彼女は︑帝国主義の

大衆構成要素を強調し︑大衆と資本家との同盟iそれは資本(7)主義の破壊を導く11を主張したのである︒

今日の帝国主義の理論は︑シュソペーターやレーニソのもの

と比べて︑狭い焦点のものになる傾きがある︒どのような帝国

主義的政策あるいはエピソードについても︑一群の文献が存在

し︑それらは対抗する政治的傾向と種々な学問的分科を表現し

ている︒一般化の努力はまた︑その傾向において経験的なもの

(5)

ソ連 歴 史 学 界 に おけ る ロシア帝 国 主 義論 争

?5

であるように思われる︒すなわち︑帝国主義の諸モデルは︑多

様な目標︑方法︑活動勢力の観点から︑帝国主義の付帯物を区

(8)別し分類しようとしている︒

マルクス・レ!ニソ主義は︑かりにマルクス主義自体はそう

でないにしても︑人間の歴史を単一の発展過程だと主張してい

る︒この過程は︑いわゆる社会経済構成の指示された一つのシ

リーズー原始共産制︑奴隷制社会︑封建制︑資本主義︑共産

主義1の開示である︒この過程の原動力は闘争である︒とり

わけある構成から他の構成への移行において︑革命的過程は長

期にわたる発展過程を完成させる︒それぞれの社会経済構成に

は固有の多様な段階および亜段階がある︒たとえば︑社会主義

は︑共産主義の初期の発達していない段階であり︑帝国主義は︑

資本主義の最高かつ最後の段階であり︑プロレタリァ社会主義

革命に直接につながる︒レーニンはどのように正確に帝国主義

を定義したのか︑レーニソの区別だてはどのように厳密にロシ

ア帝国の発展とロシア革命自体に適用されるのか︑それは議論

の余地を残す問題である︒本研究は多分に︑まさにこれらの問

題についてのソヴェトの歴史家の理解力の発展に関係している︒

ロシァ帝国主義を研究してきたソヴェトの歴史家にとって︑

レーニンの著作は︑ある点で刺激剤であり︑別の点で重荷であ

る︒レーニソの著作の意義はきわめて明白なので︑ソヴェトの

歴史家はレーニソの帝国主義理論を基礎的展望として受け継い

できたという事実が見のがされがちである︒ソヴェトの歴史家

によるレーニソの理論の彫琢およびロシア史への適用は︑優先 的無批判的受容にもとついている︒経験的知見にもとつく︑理

論の前提のいかなる修正も︑著作から判断するかぎり︑ソヴェ

トの歴史家の経験にはないことである︒公平な評価をしようと

する歴史家は︑レーニソの理論に批判的な著作への制限された

接近という問題に直面する︒彼らは︑対抗する諸理論をもっと

も粗野なかたちで受け入れる︒かくしてレーニンの帝国主義理

論はほぼ︑ソヴェトの歴史家の知的組織のはめ込み式構成要素

になっており︑ソヴェトの歴史家を多分を偏向に追いやってい

るのである︒

レーニンの帝国主義理論は︑今日の世界において︑重要な知

的力になっている︒すなわち︑一定の諸特徴がレーニソの帝国

主義理論を推薦しており︑有力な政治的力にもしている︒自分

はマルクス・レーニソ主義者ではないと考えている人も︑また

反共主義者であると思われている人も︑レーニンの帝国主義理

論の影響を受けている︒しかしその力がどのようなものであろ

うと︑論破できないことはない︒レーニソの理論の欠点は︑そ

れを︑現代と︑﹁帝国主義の黄金時代﹂としての第一次世界大

戦前ヨーロッパとの両方に適用することの困難さである︒この

点についてはレーニソも特記しているところである︒資本の国

際的流れのごとき基本的論点について︑レ!ニソが誤っていた

(9)ことは今や明白である︒いくっかの目的にとっては有益な分析

用具であるにもかかわらず︑この理論はソヴェトの歴史家を不

利な立場においている︒というのは︑ソヴェトの歴史家はこの

理論の基本的諸命題もしくは基本的諸命題の諸前提に違反でき

(6)

商 経 論 叢 第24巻 第1号 76

ないからである︒

レーニソの主張1ー世界史における現代は資本主義から社会

主義への移行に支配されているーについて考えてみよう︒帝

国主義は︑資本主義の最高かつ最後の段階を意味する︒その伝

統がどのようなものであろうと︑この段階に到達した社会は必

然的に不自由の増大する社会である︒しかも︑プロレタリアー

ト執権に帰着する革命を経由してこの段階をのりこえる社会は︑

必然的に自由の増大する社会である︒こうしてこの理論は︑資

本主義と社会主義の差異に大きな力点をおく︒自由および抑圧

は︑ほぼもっぱら社会の所有様式と相関するのである︒経済的

搾取は︑あらゆる抑圧の根源とみなされる︒無法︑腐敗︑官僚

制の形態での超合理主義は︑抑圧の重要な原因とはみなされず︑

せいぜい経済的撹乱に由来する抑圧の形態とみなされる︒資本

主義国家と社会主義国家は︑かくして二分法にもとついて比較

される︒

この考えに影響された歴史家は︑観察できる行動に照らして

国家を比較することが困難になる︒権力組織︑コミュニケーシ

ョソ組織1ー確立されたものーー︑それに国際政治における国

家の実際的行動は︑生産様式もしくはその法的反映と考えられ

ているものにたいして︑すなわち所有制度にたいして︑重要性

では第二義的とみなされる︒歴史家は︑国家をその根本的性格

あるいは内的本質にもとついて比較する︒この本質と一致しな

いような︑観察し計測すら可能な特質は︑一時的で付随的なの

である︒政治当局がこのような考えに好意を示して︑その採用 を歴史家にせまる理由は明白であろう︒

このような歪曲があるため︑帝国主義についてのレーニン主

義的歴史学の全体が神話づくりの訓練である︑と論ずるものも

いる︒われわれはこのような主張を支持しないが︑その代わり

に︑レーニソの理論は二十世紀の経験に調和しない一九世紀の

若干のありふれた感情を聖化したものである︑と考える︒

レーニソの歴史を執筆するという行為は︑レーニソの歴史理

論と同様に︑ソヴェトの帝国主義研究に影響を与えてぎた︒ロ

シァを世界史の図式に収めようとする試みは︑過去の若干の特

徴に注意を向けさせたが︑他の特徴を無視させることになって

しまった︒形成途上の新しい世界に寄与すると思われる進歩的

特徴は︑最大の注目を受けた︒進歩的とはみなされない個人お

よび集団の態度や執政は︑しばしば無視された︒それらは︑多

分に過去の実体を構成し︑階級闘争のマトリックスを形成して

いたにもかかわらず︑理論の予告によれば︑それらは将来消滅

してしまうのである︒だからそれらを広範囲に研究する価値は

なかったのである︒歴史の科学は︑将来の転形のため以外の︑

過去のための過去の研究には賛成しない︒歴史を非人格化する

傾向が生まれた︒

ソヴェトの歴史家の著作を消費するさまざまな公衆にとって︑

このことはとくに有害であった︒自分たちの民族的過去につい

ての理解や認識が︑抽象的な接近方法によって線引きされてし

まう︒そのために︑ロシア革命のような大ぎな事件の原因のう

ちのあるものは︑少なくとも今でも生命があるのに︑おおい隠

(7)

ソ連 歴 史学 界 に お け るRシ ア帝 国 主義 論 争

77

されてしまうのである︒ソヴェトの歴史家たちの帝国主義論争

で全員の意見が一致したのは︑ボリシェヴィキの敵対者は︑君

主制主義者であろうと︑自由主義者であろうと︑社会主義者で

あろうと︑反動である︑という点であった︒ロシァのブルジョ

アジーやブルジ蹴アジーを代表すると考えられる諸政党が専制

政治に反対した程度に関しては︑意見の相違がある︒しかし次

の点では全員の意見が一致した︒﹁ブルジョァ﹂反対派はもっ

ぱら経済的帝国主義の目標に基礎づけられており︑その目標は︑

愛国とか自由への熱望1いかなる意味でも経済的利益追及の

自由とは別のものーと共通するものをなんらもたなかったの

である︑と︒この点でソヴェトの歴史家は︑革命的反対派の漫

画を創作してきたのである︒なぜなら︑彼らが描いた革命的反

対派の集団や個人の画像は歴史資料の尋問に耐えられないし︑

大部分の歴史資料はまだ調査されていないからである︒動機や

抱負は帝国主義のモデルから演繹されており︑実際の資料から

推論されていないのである︒

二種類の主要な第一次資料がこの研究に用いられている︒歴

史家自身の活動の結果である諸文書には︑ロシア帝国主義史の

公刊著作のほかに︑報告書︑記録︑回想録︑政治当局の法令︑

またときにはゴシップさえもが含まれている︒これらの資料は︑

主として︑研究者のロシァ帝国主義研究の有機的で知的な文脈

の改造を促進するために用いられている︒この種の公刊資料の

ほぼすべてが︑今日著述家にとって利用可能になっている︒十

年前と比べて現在はソヴェトの歴史家の職業の変化しつつある 状況を知り︑その対立者の配置を識別することがいっそう可能

になった︒ソヴェトの国境が制限付きとはいえ開放されたので︑

研究者は︑ソヴェト社会を直接に知り︑文書で組み立てられた

モデルを現実と比較することが可能になった︒しかしながら︑

最近数十年の前進にもかかわらず︑多くの重要資料が利用不可

能である︒それらの資料は︑外国の研究者が利用でぎないだけ

でなく︑おそらくソヴェトの歴史家もまた利用できないでいる︒

スターリソ︑ジダーノフ︑キーロフがだした歴史叙述について

の命令の後で行われた公式もしくは非公式の歴史家の討論資料

(10)は︑その一例である︒それらの資料は利用できないだけでなく︑

また当時討論に積極的にかかわった長老歴史家に質問すること

も困難である︒すなわち︑今やソヴェト歴史家の展開の主要な

諸段階を再構成できるにもかかわらず︑深く踏みこんで変化の

メカニズムをつきとめることは︑まだきわめて困難なのであ

る︒

この研究にとって二番目に重要な第一次資料は︑条約︑法令︑

とりわけ政治当局が歴史家にあてたメッセージと推定される文

書を含む政治文書類である︒それらのうちで最も重要なものは︑

スターリソの各種の指令︑一九五六年の第二〇回党大会におけ

るフルシチョフの選択的なスターリン否定︹報告︺であるが︑

それらには多くの版があり︑容易に利用できる︒同様に︑研究

に関係するこの種のもので入手することや見つけだすことがは

るかに困難なものは︑これらの主要資料に付随する通達文書で

ある︒それらには︑共産党中央委員会書記局のもろもろの委員

(8)

商 経 論 叢 第24巻 第1号

78

会が主催した各種の会議︑上記の委員会がだした諸指令が含ま

れている︒それらにはまた︑金連邦科学アカデミー歴史部門の

各種レベル︑大学その他の高等教育機関の歴史学部の各種レベ

ルで機能している党ビュローの活動が含まれている︒この種の

第一次資料に接近することは︑いつであろうと予見しうる将来

にありえそうもない︒

豊富な第二次資料は︑今日の著述家にとって有益であり︑啓

発的である︒われわれの研究は︑ロシア帝国主義史学の最初の

研究ではない︒史学研究は︑帝国主義研究そのものとほぼ一致

している︒一九二七年初めに︑当時のソヴェトの指導的なマル

クス主義歴史家瓢・H・ボクロフスキーは︑討論を再検討して︑

(11)ソヴェト社会科学の発展の文脈のなかに討論をおこうとした︒

K・H・タルノフスキーー‑A・丑・シードロフの弟子で現在

ソ連邦史研究所の所員ll・は︑﹁ソヴェトのロシア帝国主義史(12)学﹂という長大論文を発表した︒タルノフスキーの研究は︑ロ

シア帝国主義研究についての多数の所説を含む一連のソヴェト

史学の一般的議論から出発して︑一般的議論に帰着している︒

タルノフスキーの史学研究はかなり限定的なものなので︑今

日の研究を正当化するためには︑若干の説明が必要である︒第

一に︑タルノブキーの研究は今や古くさくなっている︒第二に︑

われわれの研究の焦点は彼の焦点と異なる︒われわれはタルノ

フスキーのように︑詳細かつ包括的な説明をしょうとは考えて

いない︒しかし政治と学問との関係について︑タルノフスキー

とは多少異なった問題をたてている︒最後に︑タルノフスキー は歴史過程の本質について︑とくにソヴェト史について︑若干

の仮説をたてているが︑これについてわれわれは彼と意見を共

有しない︒彼の仮定によれば︑社会主義によりいっそう接近す

る社会を背景に討論がなされていたのであるから︑討論は不可

避的に真理によりいっそう接近したのである︒また彼はこう仮

定している︒﹁ロシア帝国主義の問題の⁝⁝研究の歴史は︑同

時に︑帝国主義のレーニソ主義的学説︑ロシアの歴史的発展に(13)関するレーニソ主義的概念︑の明確化の歴史である﹂︒反対に

われわれは︑人間は過去から学ぶのと同じくらい過去を忘れが

ちである︑と仮定している︒われわれの結論にいわれもなく影

響するような別の仮定をわれわれがしたのかどうかは︑読者が

判断すべきことであろう︒

1論争の起源

破滅的な国内戦の後︑科学および学問を含めて︑社会の正常

な諸活動が再開したのは一九二一年のことである︒共産党は︑

広範囲にわたる転換の道にのりだした︒この転換を生みだした

ものは︑党の指導者および各派閥のあいだの多面的な闘争であ

る︒一九一=ー一九二八年のネップの時代の文化政策は︑﹁共

産主義建設に非共産主義者の手﹂を用いるという努力︑すなわ

ち政治的には伝統的イソテリゲンチアを孤立させる一方で︑彼

らの技能を助長し利用するという努力︑を特徴にしていた︒国

家は既成の学者や科学者に新しい世代を訓練させようとする一

方で︑前者の世界観に後者が汚染されないようにした︒歴史学

(9)

ソ連歴 史 学 界 に おけ る 招シ ア帝 国主 義論 争

79

をはじめ︑あらゆる専門職に分裂が生じた︒マルクス主義者の

陣営は︑国家が支持する組織や出版手段をもっていたが︑科学

アカデ︑︑︑!をはじめ伝統ある学術機関で優勢な非マルクス主義

的歴史家と対立した︒マルクス主義歴史家は︑すべての問題に

ついて方針をつくりあげるべく努力したが︑非共産主義者利用

の政策を危険にさらさないため︑自分たちの方針を非共産主義

者に押しつけることはためらった︒誘惑と脅迫で︑共産党は既

成イソテリゲンチアをマルクス主義の旗の下にできるだけ結集

しようとした︒

(1)ロシア帝国主義研究は︑国内戦の最中に現れはじめた︒しか

し︑学派の形成がはじまり︑活発な論争が盛んになったのは︑

ネップの時期である︒主な論争点は︑外国資本がロシアの経済

発展に与えた影響の程度であった︒論争の舞台は︑赤色教授研

究所‑当時の党知識人の指導的教育セソタ!ーのボクロフ

ス キ ー の ゼ ︑ミ ナ ー ル で あ っ た ︒ ボ ク ロ フ ス キ ー は ︑ 弟 子 の ひ と

り で あ る H . H ・ ヴ ァ ナ ー ク の 見 解 を 支 持 し た ︒ ヴ ァ ナ ー ク の

考えは︑ポζフスキ占身の︒シア中解釈に感化されてい壌

ヴァナークは︑ボクロフスキーにならってロシァ経済における

外国資本の重要性を強調し︑ロシア経済は原始的で︑前資本主

義的な発展状態にあった︑と述べた︒それは︑まわりまわって︑

ロシア帝国主義は旧式の領土略奪型であることを意味した︒ロ

シア帝国主義は︑資本投下のような巧妙な支配方法とは対照的

に︑主として無差別の国境拡大を特徴としていたが︑資本主義 の最新形態と結びついてもいたのである︒

ヴァナークとヴァナークの支持者であるC・π・ローニソ︑

刀.H・クリッマン︑瓢・ゴリマンは︑ロシア資本主義は実際

には外国の支配を受けていたとする見解のために︑非国民化論

者儀8践o鵠欝︒崩雪Φ器月蓉器自器↓o℃甑︺として知られるよう

になった︒シードロフとシードロフの同僚グラノフスキーは︑

国民化論者冨轡δ舜一山器冨︹蕊長o器霞ω鷲8匡︺として知られ︑

彼らは︑ロシアは一九一七年以前に自立的金融資本主義段階に

到達していた︑という見解をもっていた︒この二つの学派の論

争は一九二五年にはじまり︑一九二七年までに大量の論争文献

を生みだした︒ヴァナークは︑次の二つの主要な主張をした︒

第一に︑ロシア資本主義は一九〇五年革命後にやっとその発展

の独占段階に入った︒第二に︑金融資本主義i企業間の競争

が金融機関の規制に屈服するという発展段階1は︑ロシアで

は第一次世界大戦の前夜に存在していたにもかかわらず︑それ

(3)は︑西ヨーロッパの銀行資本に支配されていた︒

これらの見解が長いこと不問に付されたままであることはな

かった︒国民化論者のシードロフとグラノフスキーは︑ロシア

の経済発展における外国資本の存在を承認したが︑その意義を

最小限に評価した︒彼らの主張によれば︑大規模な外国投資に

(4)もかかわらず︑ロシア金融資本は独立に存在したのである︒一

九二七年から一九三二年まで︑論議はまさにこの線にそって展

開された︒論争は︑一九二八年のコミソテルソ第六回大会を転

換点として︑二つの異なった時期に明確に区分できる︒第一期

(10)

商 経 論 叢 第24巻 第1号 SO

には︑論争は主として歴史雑誌や専門論文で行われた︒第六回

大会後︑舞台は第一回全連邦マルクス主義歴史家会議(一九二

八年一二月二八日ー一九二九年一月四日)の大討論の場に移さ

れた︒議論が第一段階から第二段階に移るにつれて︑政治的含

みがますます感知されるようになり︑それはいっそう直接に歴

史家と衝突するようになった︒

最初は非国民化論者が舞台を支配した︒ヴァナークは︑﹃世

界戦争前夜のロシアにおける金融資本﹄のなかで︑ロシアにお

ける金融資本の形成過程と︑この過程で外国資本が果たした役

割を検討した︒彼の結論によれば︑ロシア独占資本の初期の発

展は国際銀行資本に依存しており︑第一次世界大戦晦夜にこの

資本は実際にロシア産業資本の全体系をほぼ独占したのであ一っ

た︒﹁国際銀行資本は︑ロシアの株式商業諸根行を通して︑ロシ

(5)アの産業を国際銀行資本に従属させた﹂︒こうしてヴァナーク

は︑従属冒o抽.寓器匿Φ︺理論を定式化したのである︒その主

張によれば︑ロシアは自立的な金融資本制度をもたなかった︒

この従属概念は︑非国民化論者の議論全体の土台になったので

ある︒

一年後にでたローニソの﹃外国資本とロシアの諸銀行﹄は︑

従属概念をさらに発展させた︒ローニソはこう述べている︒銀

行は︑資本主義の発展において︑とりわけ資本主義の独占段階

において︑主要な役割を果たした︑と︒他の資本主義国では︑

銀行と産業とが対等のパートナーとして融合︹oB日冨鎚器︺

したのに対して︑ロシアでは銀行制度の独占化は︑銀行資本の 支配骨o自o誉冨o︺と産業の従属をもたらした︒しかし︑資本

主義の急速な発展は国内蓄積の成長を追い越していたので︑そ

こでロシアの銀行制度の発展は主として外国資本に基礎をおい

た︒ローニソの考えによれば︑産業の銀行への従属およびロシ

アの銀行の外国資本への依存というこれら二つの並行的な発展

は︑一九〇六ー一九一三年の時期1この時期に国内蓄積はま

すます重要になったlIに︑頂点に達したのである︒それはロ

シアの銀行制度の独占化を導いたので︑外国資本はおのずとロ

シア国民経済の管制高地の一つを確保することができた︒ロシ

アの産業の銀行への従属の結果︑ロシア独占資本主義はヨーロ(6)ッパ金融資本の勢力圏内に落ちたのである︒

ローニソの論稿と同じように重要であったのは︑同書に寄せ

られたクリッマソの簡潔な序文である︒おそらくクリツマソの

短評が簡潔であったので︑その後国民化論者は気軽にクリツマ

ソを引用するようになった︒クリッマソは︑老練のマルクス主

義経済学者であり︑一九一七年以前にすでにボリシェヴィキに

加入していた︒彼は赤色教授研究所で自分のゼミナールを主宰

した︒彼は︑ローニソの銀行独占体の研究から︑ロシア金融資

本制度の不在という結論を下した︒彼の議論によれば︑ロシア

における銀行と産業独占体との融合は︑外国資本と外国資本と

の融合を基礎に発生したのである︒﹁要するに︑ロシア金融資

本制度の代わりに︑ロシアの国土には︑フラソス・ドイッ・イ

ギリスという三つの強力な金融資本制度があった﹂︒クリツマ

ソは議論を一歩前進させて︑ロシアにおける国家独占資本主義

(11)

ソ連 歴 史 学 界 に おけ る ロシ ア帝 国主 義論 争 81

の可能性そのものを︑すなわち︑一方における銀行資本および

産業資本と他方におけるツァーリズム政治機構との融合の可能

性そのものを︑否定した︒彼は次の二つの理由を提示した︒外

国金融資本の政治的パートナーは外国政府を巻きこんでいた︒

このような融合は合同の当事者の類似する社会的出自を前提に

していた︑と︒ツァーリズムは︑基本的には︑資本主義的政治

ではなく︑封建的地主的政治であった︒したがって独占資本主

義とツァーリズムとの関係は︑融合であるはずがなく︑ロシア

の地主的政治の独占資本主義への一方的従属であった︒この論

議の含意は︑ロシァ金融資本だけでなく︑ツァーリズムもまた

(7)西ヨーロッパ帝国主義に従属している︑という点にあった︒

この結論を明らかにしたのは瓢・ゴリマンである︒彼の議論

によれば︑ロシア帝国主義は︑外国資本との関係では﹁子﹂

︹知o占Φ℃臣邸︺の地位を占めており︑ロシアは︑西ヨーロッパ帝

国主義列強との関係では﹁半植民地﹂の地位を占めていたので

(8)ある︒こうしてゴリマンの著作は︑﹁非国民化︹鴛器長o蕾早

国紹量己﹂という考えをその論理的結論にしていた︒すなわち︑.切リマソは︑ロシァ帝国主義およびロシア・ツァーリズムの半

植民地的本質を肯定したのである︒ボクロフスキーは︑第一次

世界大戦におけるロシアの役割についての研究で︑﹁非国民化

論者﹂に賛成である︑と述べた︒彼はこう論じている︒ロシア

にとって戦争は帝国主義戦争であったが︑だがイギリスやドイ

ツにとってと同一の意味での帝国主義戦争ではなかった︑と︒

十月革命当時に一般的に容認されていた考えは︑ロシアは月な みの資本主義的意味での帝国主義である︑と彼は述ぺている︒

もしそうでないとしたら︑社会主義革命は不可能だからであ

る︒しかし今やポクロフスキーは︑自分の見解を︑ヴァナーク︑

ローニソ︑クリツマンの研究によって基礎づけ︑﹁ロシア帝国

主義﹂は引胴符つきでなければならない︑という結論をだした

のである︒﹁ロシア帝国主義﹂は︑﹁純粋﹂な意味では︑すなわ

ち資本主義の高度に発達した形態と結びついた意味では︑帝国

主義でなかった︒ボクロフスキーの指摘によれば︑レーニソは

こういうふうに引用符を用いたし︑またロシァ帝国主義に言及

したさいには﹁軍事的封建的﹂という修飾語を用いたのであ

る︒﹁ロシアにとって一九一四年の大戦は︑"軍事的封建的帝国

主義"(商業的封建的政府の対外政策)から︑資本主義的独占

の時代としての帝国主義(金融資本の対外政策)への移行をし

るしずけた﹂︒かくしてロシアは︑一九一七年の二月後は︑一

九一四年のロシアよりも帝国主義的であったが︑戦前よりも自

(9)立的ではなくなっていた︒

ボクロフスキーの論文には︑論争の激化につれて大いに注目

をあびる二つの提言が含まれていた︒第一に彼は︑レーニンの

﹁軍事的封建的帝国主義﹂の概念を導入した︒この語句の適切

なレーエン主義的定義は何であったのか︒第二に彼の議論は︑

政治的含みを伝達した︒社会主義革命が可能であるためには引

用符のないロシア帝国主義が存在しなければならない︑と慣習

的に仮定されてきたとするボクロフスキーの主張は︑とげのあ

る問題を提起した︒ロシアにおける社会主義革命の前提は何で

(12)

商 経 論 叢 第24巻 第1号

82

あったのか︒

ボクロフスキーは︑半植民地テーゼを擁護したにもかかわら

ず︑非国民化論者の結論に批判的なシードロフやグラノフスキ(10)1の研究の公刊を推進した︒シードロフは︑第一次世界大戦直

前および最中のロシア経済の状態を検討し︑戦前の二五年間に

ロシア経済は産業資本主義に特有な自由競争から独占資本主義

へ発展した︑という結論を下した︒戦前の産業的高揚(一九〇

九‑一九一四年)の時期に︑ロシアは発展の最高段階としての

帝国主義に到達した︑のである︒シードロフは︑外国資本の意

義を否定せず︑ロシアにおける独占資本主義の形成は外国資本

なしでは不可能であった︑と述べている︒しかしシードロフは︑

非国民化論者︑とりわけヴァナークと対照的に︑経済のうちの

外国資本の量は決定的要困ではなかった︑と主張する︒反対に︑

ロシア経済と外国資本とのあいだの関係の性格こそが︑ロシア(11)における外国資本の実際的意義を決定したのである︒

シードロフの主張によれば︑資本主義はロシアでも西ヨ!ロ

ッパでも本質的に同一であって︑相違はまったく量的なもので

ある︒彼の考えによれぽ︑ロシアの銀行のフラソス帝国主義お

よびドイッ帝国主義への従属は︑戦争に先だつ四‑五年のあい

だにはじまった︒なおまた︑この事実からロシアの﹁植民地的﹂

あるいは﹁半植民地的﹂地位をうんぬんする結論を引きだすべ

きではない︒なぜなら︑戦争自体はロシァの銀行制度の西ヨー

ロッパ資本からの経済的解放を促したからである︒しかし︑戦

争は同時に︑ロシアが負債を負っていた結果として︑帝国主義 同盟諸国へのロシアの従属を助長した︒シードロフの議論には︑

暗黙のうちに︑十月革命が西ヨーロッパ帝国主義への従属の脅

(12)威からロシアを救いだした︑という考えがあった︒それにもか

かわらず︑シードロフは︑非国民化論者が明確に述べている半

植民地テーゼの承認を拒否し︑外国資本とロシアの銀行・産業

との関係の性格は︑むしろその特殊な重圧以上に︑ロシア経済

における外国資本の意義を決めるさいに決定的要因になる︑と

主張した︒この点は国民化論者全員の仮説となった︒

一九二七年に発表された二つの論文で︑グラノフスキ!は︑

外国資本に従属していないロシア金融制度に関する考えを仕上

げた︒グラノフスキーは︑ロシアの独占資本主義制度における

外国資本の役割を検討するためには︑時期区分の問題が特別に

重要である︑とみなした︒ヴァナークの目シア金融資本発展の

図式は︑一九〇五年後の時期1この時期に︑おそらく外国銀

行資本はロシアの銀行制度を従属させたーに︑金融資本制度

の形成を設定していた︒グラノフスキーは︑ロシアは一八九〇

年代末に︑すなわち仮定的な従属の発生以前に︑金融資本段階

に入ったと考えたので︑ヴァナークの図式を拒否した︒グラノ

フスキーはまた︑金融資本の発展に関するローニソの見解を論

駁した︒なぜなら︑ローニソは︑金融資本主義の諸関係は一八

九〇年代末にごく限られた勢力圏だけに影響を与えた︑とした

からである︒グラノフスキーの主張によれば︑金融資本主義的

発展への移行は一九〇〇年代の最初の十年の末の産業的高揚の

時期に起こったのである︒したがってロシア工業の主要諸部門

(13)

ソ連 歴 史学 界 に おけ る 胃シ ア帝 国 主義 論 争

83

は︑露日戦争︹日露戦争︺以前にすでに金融資本主義的﹁変質﹂

(13)︹口①◎①勺O渓篭月Φ鵠麟①︺過程にあったのである︒

第二論文でグラノフスキーは︑ロシアの経済制度における外

国資本の役割を直接に扱った︒グラノフスキーは︑ロシアの独

占資本主義は外国資本の急激な流入と並行して発展したことを

認めるが︑外国資本の役割のより広義の理解の必要性を強調し︑

構成諸要素ーそれらの要素によってロシア金融資本主義制度

'14)は建設されたーー・の力学に焦点をあてたのである︒

グラノフスキーの議論によれば︑外国銀行は︑ロシアの諸銀

行の従属をねらう代わりに︑ロシアの諸銀行によるロシアの産

業企業への融資に参加することをねらい︑こうしてロシアへの

資本輸出にロシァの銀行機関を利用したのである︒銀行の産業

政策は︑国の経済状態の広範な知識1ーー外国銀行がもっていな

い知識にもとついて展開されたので︑また外国資本は一八

九〇年代から産業への融資を行ってきた銀行にだけ参加したの

で︑外国がロシアの諸銀行の産業政策に命令することなどあり

(15)そうもなかった︒

さらに︑ロシアには金融資本制度が存在しなかったという説

は︑その他の事実と矛盾した︒たとえば︑グラノフスキーの指

摘によれば︑ロシアへの資本輸出国との貿易関係は︑経済的独

立を失った国に典型的な貿易関係ではまったくなかった︒資本

輸出において大きな役割を果たした国は︑財貨に関して岡じ役

割を果たさなかった︒かくしてロシアの外国貿易には︑半植民

16)地テーゼを支持するものは少しもなかったのである︒ 最後に︑グラノフスキーはこう議論した︒戦前の帝国主義列

強間の関係についてのレーニンの分析は︑ロシア帝国主義が英

仏帝国主義と同一でないことを指摘している︑と︒彼によれば︑

レーニソは二つの闘争を指摘したという︒一つは独英のあいだ

の闘争︑いま一つは独露のあいだの闘争であり︑露独のあいだ

の闘争は︑露英のあいだの闘争と同様に︑重要でなかったり重

要であったりした︒ロシアの目標は︑ヨーロッパでは英仏の援

助をえてドイッから強奪し︑アジアでは独日の援助をえてイギ

リスから強奪することであった︒いいかえれば︑ロシアは︑ド

イツとトルコについて自己の目標を遂行するために︑英仏との

(17)同盟を利用したのである︒

非国民化論者の第三の主な反対者であるギンヂソもまた︑一

九二七年にこの論争に参加した︒ギソヂソの主張によれば︑非

国民化論者は︑レーニソの帝国主義理論ではなく︑ヒルファデ

ィソグの帝国主義理論を支持していることになる︒ギソヂソは︑

産業の銀行への従属は金融資本の形成から生じたと結論するヴ

(18)アナークとローニンの両者を鋭く批判した︒ギンヂソの見解に

よれば︑従属ではなく融合が︑産業の銀行に対する関係を特徴

づけたのである︒ギソヂソはゴリマソの著書の書評で﹁子﹂理

論に異議を唱え︑ロシァの銀行を外国銀行の子会社として性格

づけることは銀行史を誤って説明することになる︑と論じた︒

それは︑一九〇八年から一九=二年に国内蓄積が増大したとい

う一般に承認された事実と一致しない︒ギソヂソはまた︑冒シ

ア金融資本とヨ!ロッパ全主要国の金融資本制度との密接な交

(14)

商 経 論 叢 第24巻 第1号

84

流を強調した︒ロシア金融資本は諸外国と独特に結合していた

ので︑ロシア金融資本と他国の金融資本制度との関係は︑検討

(19)の必要があった︒この点で︑外国資本を一枚岩とみるよりも︑

諸外国の制度を区別することは︑国民化論者のその後の著作で

さらに展開されたのである︒

ソヴェトの歴史家は︑一九二七年までに︑ロシア帝国主義研

究において二つの主要な見解を述べていた︒非国民化論者も国

民化論者も︑意見の完全な一致をみることはなかった︒議論は︑

より広くより深くなっていった︒諸事実が引きつづき蓄積され

るにつれて︑歴史家は︑研究の原則とか︑軍事的封建的帝国主

義のごとき重要用語の定義とかに︑ますます関心を示すように

なった︒両者が︑レーニソの著作を引用する機会が増加した︒

一九二五‑一九二七年の論争は︑まだ十分に政治的含意から自

由であったが︑しかし︑まもなく論争はより苛烈かつ政治的な

ものになっていった︒

2

歴 史 家 の 職 業 の 政 治 化

一九二八年および一九二九年という年は︑ソヴヱトの歴史に

おいて大きな変わり目となり︑節一次五か年計画をともなう上

からの革命の年となった︒ネップの破壊︑それは農業の集団化

と高いテソポの工業化の開始だけでなく︑社会全体の変化と中

央計画とを整合させる努力とにいきついた︒トロツキー︑ジノ

ヴィエフ︑カーメネフが率いる左翼反対派は︑一九二七年まで

に敗北していた︒この革命をはじめるにあたって︑スターリソ は︑ブハーリソが率いるいわゆる右翼反対派を打ち負かした︒

スターリソは︑策をろうしてブハーリソを打倒するさいに︑右

派を︑国内の﹁ブルジョア分子﹂と外国の帝国主義派の意識的

もしくは無意識的手先として中傷する戦法を使用した︒この戦

法の直接の結末は︑共産主義建設に非共産主義老の手を借りる

政策の没落であった︒非マルクス主義の学者は︑罵倒され︑学

術資料への接近を拒否され︑場合によっては逮捕された︒マル

クス主義者の陣営では︑さまざまな専門職業を指導する党中央

委員会の指令書を︑どの派閥が入手するかを決める激しい闘争

がつづいた︒歴史学では︑レーニソの選んだ指導者ポクロフス

キーが︑自分の旧弟子を何人か含む派閥からの攻撃にさらされ

た︒この派を指導したのは︑党問題に広い経験を有する半学者

のE・瓢・ヤロスラフスキーであった︒ロシア帝国主義論争は︑

歴史家の職業において︑権力の問題になったのである︒

非国民化論者の半植民地テーゼは︑一国社会主義理論に合致

する反トロツキー理論だと考えられていた︒それは︑二つのセ

ヅトになった概念のあいだのなんらかの論理的関係からではな

く︑ボクロフスキーがヴァナークの仕事を保証したという事情

から生まれた︒ソヴェトの正統マルクス主義の代弁者としての

ボクロフスキーの身分証明書は︑一九二〇年代初めにボクロフ

スキーとトロツキーとのあいだでたたかわされたロシア史論争

(1)で装飾されていた︒しかし︑こうした状況は︑一九二八年に共

産主義イソタナショナル第六回大会で新綱領が採択されたこと

(15)

ソ連 歴 史 学 界 に おけ る ロシ ア帝 国 主 義 論 争

85

(2)で変化しはじめた︒この重要文書は︑スターリソおよびブハ!

リソと(トロッキーに率いられる)左翼反対派との闘争の痕跡︑

さらにスターリソとブハーリソとの現れはじめた闘争の痕跡を

もっていた︒ロシア帝国主義の研究は︑これらの政治闘争に深

い影響をうけた︒

コ︑ミンテルソの大会はまた︑中国における革命の影響をうけ

た︒一九二七年に中国の共産主義者が国民党に打ち負かされた

ことと︑両者の公然たる分裂は︑かつてスターリソが支持した

同盟の維持をはばんだ︒共産主義者の蜂起.が失敗したことは︑

近い将来における社会主義革命の成功の可能性を終結させた︒

スターリソの理論的展望によれば︑中国革命はまだブルジョア

民主主義段階にあった︒中国革命は封建制の残津と外国帝国主

義の制度とを一掃できるが︑プロレタリァ社会主義革命に﹁成

長転化﹂することはできない︒それゆえ共産党の任務は︑反乱

(3)ではなく︑党の団結と大衆の教育であった︒

ヨ!ロッパのファシズムの成長は︑同じくコミソテルソ大会

の活動を制約した︒ヨーロヅパでは社会主義革命が切迫してい

る︑と大会は決議し︑政治的努力は社会民主主義諸政党の影響

力を縮めることに向けられるべきである︑と主張した︒社会フ

ァシズムとは︑社会民主主義すなわちヨーロッパ各地でファシ

ズムの主な防波堤をなしていた運動を名ざして使われた名称で

ある︒かくして当時の諸事件は︑コ︑ミソテルソに︑社会主義革

(4)命の成功を期待しうる諸条件の再検討を命じたのである︒

大会で採択された綱領は︑社会内部の資本主義の発展度と祉 会主義のための﹁成熟﹂︹巷窪9亭︺度とにもとつく次の社会

分類を含んでいた︒

一最高の資本主義発展を違成している諸国

二中位の資本主義の水準を達成しているロシアのような

諸国

三資本主義がほとんどないかまったくない植民地・半植

民地諸国

植民地・半植民地諸国は︑自立的な社会主義建設の土台を欠い

ている︒これらの国ではプロレタリアート執権は︑ブルジョア

民主主義革命から社会主義革命への成長転化という長期にわた

る期間の後に︑はじめて可能になり︑成功をおさめる社会主義

建設は︑すでに革命に勝利した諸国の直接の支援があって︑は

じめて可能になる︒対照的に︑中位の水準の資本主義発展を有

する国は︑農業に半封建的諸関係の重要な残澤をまだ保持して

いるにもかかわらず︑勝利をおさめる社会主義建設に十分な工

業をもっている︒これらの国では︑ブルジョァ民主主義革命か

(5)ら社会主義革命への多少とも急速な成長転化が可能である︒

明らかに︑一九一七年以前のロシアは︑第二類‑中位の水

準の資本主義発展を達成した社会1ーに属していた︒ロシアは

第三類に属したと主張することは︑ソヴェト連邦はあまりにも

後進的であるので独力では社会主義を建設できないという結論

を支持することによって︑トロツキー派の製粉所に穀物をだし

たのだと非難されるおそれがあった︒半植地テーゼに固執する

ことは︑ロシアに社会主義の諸前提が存在したか否かを問題に

(16)

商 経 論 叢 第24巻 第1号

8s

することを意味した︒こうしてコミソテルソの新綱領は︑ヴァ

ナークとボクロフスキーの論敵に弾薬を与えたのである︑国民

化論者とりわけグラノフスキーは︑国民化論者の反対者に対し

てす早くこの点を攻めたてた︒

政治は︑さしあたり別の流儀で帝国主義研究に衝突した︒ブ

ハーリソと右翼反対派に対するスターリソの勝利は︑すべての

学問分野および芸術分野に変化をもたらした︒一九二九年末に

スターリンは︑いわゆる理論の実践に対する遅れに関して公然

(6)と文句をつけた︒その結果︑理論だけでなく︑しばしば﹁理論

戦線﹂と呼ばれている分野の指導的人物の地位にも変化が生じ

た︒歴史の戦線には︑ボクロフスキーの反対派の連合がつくら

れはじめた︒エメリヤソ・ヤロスラフスキーが反対派の非公式

指導者として登場した︒ヤロスラフスキーの﹁学派﹂には︑シ

ードロフをはじめボク戸フスキーのかつての最も有能な弟子た

ちと︑赤色教授研究所の党支部の首脳であるH・H・ミンッが

含まれていた︒彼らは︑国民化論者の見地に賛成し︑論争では

(7)国民化論者を支持した︒

ロシア帝国主義論争の次の局面の舞台装置は︑第一回全連邦

マルクス主義歴史家会議であり︑この会議には約四〇〇人の学

者︑教員︑宣伝者が集まり︑モスクワにおいて一九二八年一二

(8)月二八日から一九二九年一月四日まで行われた︒この会議は︑

ソヴェト連邦における非マルクス主義歴史学に反対するキャソ

ペーソと符合した︒非マルクス主義の学者は︑他の﹁ブルジョ

ア専門家﹂︑中程度の富農︑クラークと同じく︑国際帝国主義 の反ソ陰謀に加担している︑と誹諺された︒この会議は︑マル

クス主義歴史学の成熟を確認するものだとみなされた︒同会議

の直後に︑大部分の非マルクス主義的学術団体はなくなり︑科

学アカデ︑ミー自身も共産党当局の支配下におかれた︒

ロシァ帝国主義史はこの会議の主要テーマであった︒ヴァナ

ークとボクロフスキーは︑この論題を扱った論文を配布した︒

ボクロフスキーの同僚でヨーロッパ史の指導的なマルクス主義

専門家H・赫・ルゥキンは︑西側帝国主義に関する論文を配布

した︒このテーマは︑討論においても目立った地位を占めた︒

ヴァナークとボクロフスキーの見解に対する反対が明白になっ

た︒ボクロフスキーはこう述べている︒

同志の皆さん︑ヴァナーク同志の報告で触れられている問

題は︑大きな緊急性をかちえており︑大変な論争を引きお

こしました︒なぜならこの問題は︑いっそう一般的な問題

の糸口だからです︒自立した﹁自前の﹂帝国主義があった

だろうか︒ロシアは自立的な帝国主義政策を実行しただろ

うか︒これと関連して︹どのように︺十月革命をとらえる

べきなのか︒問題の本質は︑大戦と十月革命へのロシアの

参加です︒現在議論している特殊な問題に決して限定され

(9)ないのです︒

ロシアをコンスタソチノープルに向かわせたのは︑ロシァの

土地貴族の物質的利益だけではなかった︒﹁ロシアとドイツの

額をともにたたく﹂というイギリスの狙いもあった︒﹁ある種

の人々が心理的要因として言っていること1外交関係のもつ

(17)

ソ連 歴史 学 界 に お け る ロシ ア帝 国主 義 論 争

87

れ全体llをとりあげるならば︑ロシァを﹁つりあげる﹂餌と

(10)して海峡が用いられたことが分かるであろう﹂︒それは︑一九

一〇年から大戦の勃発までを貫く﹁赤い糸﹂であった︒ロシア

をけしかけ海峡入手のために戦わせようとしたのはグレイとミ(訳注)ルラソであったが︑他方ウィルヘルムH世は︑イギリスとの同

盟を破棄する報酬としてニコライに海峡を約束したのである︒

ボクロフスキーもヴァナークも︑批判者にいくらか譲歩して︑

二〇世紀の第二の十年におけるロシアの独立はロシアの銀行に

占める外国資本の量では計りえないことに同意した︒ポクロフ

スキーはこう論じた︒この問題は︑黒海の海峡の獲得をめざす

ロシアの衝動の動機を説明することで明らかにできる︑と︒商

人資本のこの古い目標は︑帝国主義の近代的形態の一例だと考

えるぺきではない︒もしそう考えるならば︑一貫性を保つため

に︑ニコライー世やエカテリ1ナπ世ですら帝国主義者である︑

といわなければならない︒帝国主義の近代的諸形態は︑ペルシ

アおよび極東におけるロシアの政策に影響を与えた︒ニコライ

やエカテリーナは海峡に無関心であったし︑あまりにも未熟で

弱かったので民族政策を打ちだせなかったのである︒

この会議におけるヴァナークの報告はまた︑統計的方法に対

する批判の拡大を反映していた︒ヴァナークの主張によれば︑

ロシア金融資本の性格は︑たんに統計資料によって研究される

だけでなく︑社会経済制度全体1そのなかでロシア金融資本

は発達したーーとの関連で︑研究されなければならない︒この

制度全体に基礎をおく専制政治と農奴主‑地主︹壱窃9↓薫零 口o竃Φ長葵︺の支配は枠組であり︑この枠組のなかでロシア資

本主義の発展は研究されなければならない︒ヴァナークが支配

的な地主階級の利益を強調したことは︑外国金融資本との関係

におけるロシアの地位についての彼自身の見解を修正し︑十月

革命の役割について彼自身の評価を下したという両方の点で︑

意味がある︒ヴァナークの議論によれば︑農奴主‑地主が支配

的地位を維持しているかぎり︑ロシアが外国金融資本の植民地

に転化することを語るのは不可能であった︒﹁ロシアがフラン

ス金融資本の植民地になったとする主張は︑植民地形態以外の

(11)他の従属形態を否定するのとおなじくらいばかげている﹂︒こ

うしてヴァナークは︑ロシァの植民地的地位を否定するととも

に︑引きつづきロシアには金融資本の国民的体系は存在しなか

った︑と主張した︒外国金融資本制度の内部における国内の金

融資本要素の成長は︑地主の政治的支配と結びついて︑ロシア

資本主義制度の矛盾をはなはだしく強めた︒これらの矛盾は︑

革命的方法による解決を要求した︒こうしてヴァナークは︑自

分のロシア帝国主義分析のなかで︑十月革命に割り当てられた

(12)役割を暗に示したのである︒

ヴァナーク報告は︑広範な批判を呼びおこした︒その後の討

論は︑主として次の二つの問題をめぐって行われた︒一つは︑

ロシアにおける外国資本の研究における適切な方法論的接近の

問題であり︑いま一つは︑ヴァナークの図式とレーニソ主義的

ロシァ帝国主義の理解との照応の問題である︒ギソヂソは︑ヴ

ァナークの方法論を攻撃して︑ヴァナークはまだ統計的方法を

参照