「明治期紡績業 におけ る労働 条件 と武藤 山治 についての一考 察」 19
明治期紡績業における労働条件 と 武藤山治についての一考察
一 鐘紡 にお ける労働 条件 と武藤 山治の生 い立 ちを通 して一
経営学研究科博士後期課程2年
岡 部 幸 徳
(97302)は じめに
19世紀後半、徳川幕府が倒 れた と同時 に 日本 国は、近代化の一歩 を踏み出 した。大政 奉還、王政復古の大号令、そ して明治政府が誕生 し、官主導 による産業の勃興 を見 るこ ととなる。 紡績業界 は、その後 の明治期 か ら昭和 の始めにかけて 日本経済の代表 とも 言える大産業 に成長 した。 しか しなが ら劣悪 な労働条件 によ り、幼年者や女性 を雇用、
酷使 して成長 した産業であったことも歴史的事実であろ う。 しか しなが ら、すべ ての 紡績業者がその ような最悪の労働環境で労働者 を使用 していたわけではない。 産業化 をた どり始めたばか りの 日本 において も、労働者一人一人に対 して非常 に高い人間性重 視の考 えを信念 として、それを本当に重視 した労働諸条件 を実行 した企業経営者がいた。
その経営者のひとりとして武藤 山治 を取 り上げる。
武藤 山治 は、明治27年 に鐘 ヶ淵紡績 (現 ・鐘紡 (以下、鐘紡)) に入社 、程 な く兵庫 工場支配人 に就任す る。 それ以来、武藤が取締役社長 を退 くまでの昭和5年1月 まで、
鐘紡 にはいわゆる 「労働争議」 は1度 も起 こらなか った。それはなぜ か。
この論文の 目的は、武藤 山治が行 った労働者の労働諸条件 を、一般的紡績企業のそれ と比較検討 し、武藤が なぜ厚遇 な従業員へ の処遇制度 を行 お うと考 え、実行 したか を紹 介 し、鐘紡の経営姿勢 にどの ような影響 を与 えたか を考察す る。
そのため に、 まず第1章 で は、明治期 の職工 の労働 条件や労働環境 を検討 してい く。
そ して第2章 において、鐘紡 における従業員の労働条件 と一般 的紡績企業 における労働 条件 を比較検討す る。 紡績企業の労働諸条件等 は、主 に 『女工哀史』細井和書蔵著t、
『職工事情』農商務省商工局2を用 い、その当時の状況 を把握 してい く。 その上で、第 11925年初版発刊、その内容は、著者である細井 自身が 「職工」 として労働 していた時の工場内の状態や 環境などを観察 し、書籍にまとめたものである。
21903年初版発行、農商務省商工局、1901年に政府が調査 しまとめたものである。 工場労働者問題が社 会的問題 として注 目され始めた明治30年前半の工場労働事情調査書。 日本 における最初の調査報告書 と
もいわれ、この種の ものの古典であろう。 窓意的な内容はな く、当時の労働環境 ・条件等 を明確 に記述 しているものとして評価が高い。
20 研究年報 第5号
3章 において武藤 山治の生 い立 ちをみ ることとす る。 生誕か ら青年期 では、武藤の行 動 を中心 に、青年期 か ら成人期 は鐘紡の経営 を核 とした彼 の行動や体験 を中心 に記述 し てい くことにす る。
そ して、第1章か ら第3章 を踏 まえ、第4章で武藤 の持つ従業員 に関す る考 え方 と企業 に関する考 え方 を、理解 しまとめてみたい。
第1章 紡績 業界 にお ける労働環境 につい て 1労働時間
『職工事情』 に明治33年当時の紡績業 における一般 的な労働 時間が紹介 されている。
「紡績工場 においては昼夜交代 の執業方法 によ り、その労働時 間は11時間 または11時間 辛 (休憩時間を除 く) なるを通例 とす。」 とあ る。 この労働時 間は職工 の年齢 や経験 の 多少 にかかわ らず、同 じ長時間の労働 だった ようである。始業時間及び終業時間は、午 前六時に始 ま り夕方の六時の終業が基本的な就業時間である。 また休憩時間は、規則上 は、食事時間が30分、午前 と午後 にそれぞれ15分ずつの合計1日1時間の取得が主であ ったようだ。 『職工事情』では、その休憩時間について も、請負給 または賃業給 の職 工 は、休憩 をす ることで稼 ぎ高が減 るため休憩 を取 らない ことが多 い と報告 している。
また、 日給者で も製造量が追いつかない場合や、職工 自身が未熟であるため に規定の製 造量 を作 りきれないことなどを理由 として、監督者がその職工 を休 ませ ない場合が頻繁 にあるため 「休憩 時間なる ものは、その名存 してその実 な きもの とい うべ し」 3と明記 している。 この点 について 『女工哀史』 4は、 よ り具体 的 に、休憩 時間がいか に無意 味 な ものであ ったか を指摘 している。 『女工哀史』の著者 ・細井和書蔵 日 く、「一般 女工 はほ とん ど休憩が ない も同様 で、台の掃 除 とか次 の段取 りとかで15分や20分 はた ちまち潰れて しまうか らだ。」 と記 している。続 けて、「大概 な工場 では女工 の休憩室 と い うものが な く」 また 「よしんば別 に広大 な女工の休憩室があって も、大工場 なれば運 転が停 まってか ら出て再 び入場す るだけに15分 くらいは費や さねばな らないか ら、 15分 の休憩 は有名無実であ る
。
」 と明確 に、具体 的に15分の休憩が意味のない時間であるか を指摘 している。 この点か ら、実際 に休憩時間が機能 していなかったことがわかる。2休 日
紡績職工の休業 は、一般的な勤務形態である1週間単位 の昼夜業交代勤務の場合 は、1 月毎4回か ら5回になっていた ようであ る。 その内訳 は、お もに、祝 日、年末年始、
盆 に加 え、起業記念 日、 と定期休業 日といわれる前述の昼夜交代勤務の交代 日が休 日で 3農商務省 F職工事情j1903 (1998年復刻版),岩波文庫p36
4細井和書蔵 r女工哀 史』1925 (1954年復刻版),岩波文庫pp124‑125
「明治期紡績業 における労働 条件 と武藤 山治 についての一考察」 21
あった ようだ5。 しか しなが ら、その実情 は休憩時 間同様 に厳 しい ものであ った。 た とえば定期休業 日には通例昼間12時間、機械の運転 を停止する。今週が昼業であった職 工 は土曜 日の夜業 と日曜 日の昼業 を休み、 日曜 日の夜 か ら業務 に入 る。 今週、夜業部 であった ものは 日曜 日の昼業及 び夜業 を休み月曜 日の朝 か ら昼業 となる。 つ ま り、昼 業か ら夜業 になる ものは土曜の夜 に睡眠 をとり、 日曜の夜業のため に時間を調整す るた め 日曜 日の昼間にい くらかの睡眠 を取 る必要が発生す る。夜業か ら昼業の場合 は、 日曜 の朝か ら寝 ると次の月曜の昼業 に時間調整が必要 となるため、睡眠時間を調整す る必要 が生 じるのである。
『職工事情』が発刊 されてか ら20年後の発刊 である 『女工哀史』で も状況は大 きく変 わっていない ようである。
3夜 業 (深夜業 ・徹夜業 )
労働時間の項 において、夜 間業務が職工 に交替制で課せ られていることは述べ た。そ の実態 について述べてい くことに したい。紡績業の職工 であればその年齢、性別 に関係 な くほ とん どすべ ての職工が夜 間業務 に従事 していた ようである。 職工 の年齢 につい ては後述す る雇用 ・採用の項で詳細記述するが、 ここでは幼い少女 も例外 ではなか った
といってお きたい。
何故 また何 時、紡績業 において昼夜業が開始 されたのか。 その理 由 を 『職工事情』
では、ある紡績会社 の社長 の説 をもって説明 している。 「明治16年会社創業 の ころは1 日営業時間12時間で昼業のみであったが、製品の売れ行 きが非常 に良か ったので、明治 17年 に増産のために夜業 を始めた。それ以来次 々 と設立 した工場群では昼夜業 を行 うこ とが原則 となった
。
」 6と書 き記 している。 この話 をうけて 『職工事情』の執筆者 は深夜 業時 における職工の精神 的 ・肉体 的の負担 を問題 と考 えた。 そ して三つの具体 的な生 理学上の学説7を挙 げた上で、徹夜業が衛生上有害 な ものである と判断 し、深夜業の継 続 を今一度再考 したは うがいい とい う指摘 を している。また、深夜業の経営上の弊害 も同時 に指摘 されている。それは深夜業が非常 に過酉告で あるために職工の欠勤が多い。 そのため工場の操業 に必要 な最低 人数 に達 さず、昼業 か らそのまま夜業 を行 わせ ることが頻繁 に起 こ り、結果的に36時間労働 を強いることが あった ようである。 この ような点が、いわゆる女工の 「重労働 による病死」 などに代 表 される処遇の悪 さを象徴す る点であると 『職工事情』 は指摘 している。
5農商務省 r職工事情j1903 (1998年復刻版),岩波文庫,pp40‑41
6農商務省 r職工事情』,1903,岩波文庫,pp42‑43 また、r女工哀史lではこの会社の実名 を挙げて同 様に説明をしている。
7①昼間の睡眠は夜間 と同 じだけの効果的な睡眠は得 られないこと ②夜間は昼間に比べて精神的な疲労 を感 じやすいこと (勤夜間は病気に侵 されやすい等 を詳 しい理由を添 えて具体的解説 を加 えている。
22 研究年報 第5号
4雇用 ・採用及び賃金
では、職工 として採用 され工場労働 していたのは、 どの ような人々であったか。 明 治33年調査 によれば、その総数 はお よそ7万人程度8であった。 またその翌年 (明治34 午)に関西地区の16工場のみ を調査対象 した調査結果が 『職工事情』に記載 されている。
その調査結果か ら職工の年齢 ・男女比率 などの傾 向を窺い知 ることがで きる。
年齢 10歳未満 14歳未満 20歳未満 20歳以上 合計
男工 7 298 1006 4057 5368
女工 9 2200 8045 9090 19344 計 16 2498 9051 13147 24712
(
「職工男女別お よび年齢別調べ」明治34年農商務省調べ) ちなみ に、男女比率 は男性21.7%に対 し、女性78.3%である。 この表か らもわかるよ うに、当時の職工の35%強が20歳 に満 たない職工 であ った ことが理解 で きる。 また10 歳か ら14歳 に満 たない、今で言 う義務教育 も終 わっていない少年 ・少女が実際 に当時、工場労働者 として勤務 していたことが記録 されている。彼 らの ような職工が労働者 とし て働 いていたことは、 この調査対象 の関西地域特有の傾 向ではない ことが 『職工事情
』
掲載の他 の調査 か らも把握で きる。 明治32年6月の 「東京紡績会社」職工調べ によれ ば、満14歳 までの男女職工 の比率 は15.3%、で もっ とも幼い職工 は男性が12歳4ケ月、
女性が11歳6ケ月 とい う記録が残 っている9。 この ような傾 向か ら、『職工事情』 にお いては、14歳以下の幼者が1割か ら2割は常時含 まれていることになると報告 している。
さて、 この ような労働者構成であったわけだが、賃金 は どの ような状況だったのであろ うか。 一般 的 には賃金形態 は2種類 あ った。前述 の労働 時 間の項 で も一部触 れたが、
基本的 には 「日給」 と 「賃業給」 に分 け られる。 日給 は毎 日定額 を支給す る賃金形態 で、現在 の 日給 とい う概念 と変 わ りない。 賃業給 は、各職工 の生産の結果 によって定 め られている賃金 で、いわゆる 「請負若 しくは歩合給」 と考 えて よいであろ う
。
『職工事情』 に関西16工場 における 日給労働者 と賃業給労働者の比率 をあ らわ した調査結果10
があるので参考 まで に下記表 に記載 してお く。 また平均賃金額 は、男工が平均30銭、
女工の平均 は20銭 ほ どであったようだ。
日給労働者 賃業労働者 計
男工 4780 1244 6024
女工 6295 14910 21205 計 11075 16154 27229
(「職工男女別お よび年齢別調べ」明治34年農商務省調べ)
「明治期紡績業 におけ る労働 条件 と武藤 山治 につ いての一考察」 23
5衛生 ・疾病等への対応等及び その他 の労働条件
労働条件等 に関する主な項 目に関 してここまで記述 してきた。労働時間、休 日、賃金、
職工の年齢、性別構成 など労働者 に関する状況が把握で きた と考 える。 ここでは多 くの 労働者 を取 り巻 く工場内の環境及 び労働者のための福利制度等 を概観 してい くことにす る。 上記 までの労働条件か ら非常 に厳 しい環境での労働 を強い られていたことを察する ことが出来た。 そ して、その結果多 くの職工が怪我や疾病 にかか り、結果 として障害が 残った り、死亡 した例が多 くあったようである。
まずは、工場の衛生状態であるが、『職工事情』の報告 によれば、「紡績職工疾病の多 数は呼吸器病、消化器病、眼病、関節病、生殖器病 などが少な くない」 と記述 している。
この報告者はその要因について、工場内の労働環境 を非常 に良 く理解 した上でその理由 を推察、詳 しく記述 しているのでここに紹介 したい。
「終 日器械 と共に働作するため、十分 な連動 をしな くて も体 には良いであろ うと誤解 をしているものが多い。 しか し、身体の運動 は清潔な空気 中において し、かつ精神 の作用が伴 なうものでなければむ しろ害のある ものであろう。」
「彼 らは終 日同一の器械の側 に立 って極めて単調、無味 な作業 に従事 し業務上、
精神 を慰めるもの もな く、過度の労働、なかんず く徹夜業のような生理 に反す る仕事 をして、 しか も休 日休憩時間が少な く食後直ちに働 き始めるので、消化 器病 を起 こして、栄養不 良になる ものが多い。加 えて、 ものす ごい量の屑綿塵 境が飛散 して も操業上の理由で通風 をさせ ない為 に、窓や扉 は密閉 して、他 に 換気装置 も設置せず にいるので、空気が甚だ しく不潔になる。 その他、温度湿 度の関係 によって身体 を著 しく害することもあ り、 特 に徹夜業は一層の害 を加
え感冒や呼吸器病 を起 こす。
それが極 まると、肺病や肋膜炎 を引 き起 こ して しまう。 また、塵境 を含んだ空 気、温度、光線等の関係で眼病 に罷 るものが多 く、終 日の立業 は関節病 を起 こ
し、女子生殖器病 にかか り不妊の原因 となることもある
。
」 llこの記述内容が当時の状況 をよくあ らわ し殆 ど違 わない とすれば、その労働環境 はや は り劣悪であったと認識 してよいようである。 また同時に、職工 自身の労働衛生 に関す る知識や注意力 も相当程度低かった12ようだ。
次 に、このような状態 を解決するためにとられた多 くの対処方法や社 内保障制度 を概 8農商務省 『職工事情』,1903,岩波文庫,p19
9同書,p23
10農商務省 『職工事情』,1903,岩波文庫, pl12表 より転記
11農商務省 『職工事情』,1903,岩波文庫pp140‑141か らの抜粋である。本論文の掲載の際に筆者が現 代語訳 をした。
12農商務省 r職工事情』,1903,岩波文庫,pp157‑158参照
24 研究年報 第5号
観 してみたい。 まず、医療 については、工場 内に病室 を設けるところが少 なか らずあっ たようである。 しか し現実 は、資格 をもった医師や看護婦が常駐 している工場 は少 な く、
多 くの場合 には開業医や病院 と契約 を し、通常 は看護知識のない老人に看護 さる程度 の もの と 『職工事情』は記述 している。
また、業務上の負傷が生 じた場合 には一般職工で もほ とん どの工場で無料の治療 を受 けさせている。業務上死亡の場合 には、多 くの場合 には50円程度 をその遺族 に支払 う場 合が ほ とん どであった ようだ。 前述で紹介 した ように、職工 の1日の賃金が、男性で 30銭、女性で20銭のころなので、約180日分の賃金程度の一時金であった と解釈で きる。
こういった職工の疾病負傷、死亡 のための保険制度 を、明治27年 に大阪の紡績業者が 連合 して保険会社 を立 ち上 げたことがあった。 しか しわずか1年で廃業 になった との記 録がある。廃業の原因は残念 なが らわか らない。 しか し、前述の ような労働環境か ら推 察す る と、頻繁 に疾病者、死亡者が発生す る可能性が低 くない ことか ら保険金の支払が 多額 とな り、保険制度 (保険規則) として成 り立 たなか った可能性が高い‑3。 この保険 制度が な くなってか ら、紡績業では一部 を除いた、多 くの工場でその ような制度 は機能
していなかった ようである。
第2章 鐘紡 の労働環境 と保 障制度 につい て
ここまで、明治期 における紡績業界の職工 を取 り巻 く労働条件、労働環境、保障制度 等 を概観 して きた。 当時の工場労働 が非常 に厳 しい ものであ った ことが推察で きる。
しか しなが ら、 この ような労働環境 をすべ ての紡績業界の経営者が行 っていたわけでは ないこともまた事実である。 幾人かの紡績業経営者 は非人間的な労働環境での工場内 労働 を少 しで も人間的な環境 に置 き換 えたい と考 えていた。 その幾人かの経営者の1 人に、鐘紡の武藤山治がいる。山治は、鐘紡の創業者ではない。 しか し、武藤 山治が職 工 に施 した多 くの社 内制度 は、間違いな く明治期 の紡績業界の職工処遇制度 ・つ ま り従 業員の処遇制度 としてはこの時期 を代表するであろう人間味あふれる手厚 い処遇制度で あった。
第 1章の最後で、職工の疾病等保険制度が 1年で廃止 さjlたことを紹介 した。「その後、
一部 を除いた、多 くの工場では保険制度的な ものは機能 しなかった」 とも記述 した。そ の前述の 「一部 を除いた」工場のなかの一つが、実 は武藤の鐘紡である。 その内容 を 前述の明治期 における紡績業のそれ と比較検証 してい く。
しか し、留意 しな くてはな らない点がい くつかある。 この論文 を執筆 している現在 と 比較 した場合 には、山治の制度 は相対的に低 い条件 に見 えて しまうこと。 ここでの視点 は、あ くまで明治期の紡績業の職工処遇 と比較 して どうなのか とい うことであ り、また、
山治の制度の先進性 を明確 にす るため現在の社会保険各法 との比較 もお こなう。 しか し、
13
r
職工事情』のpp180‑185に、その保険会社保険規則が掲載 されている。詳細内容 はそち らを参照 さ れたい。「明治期紡績業 における労働 条件 と武藤 山治 についての一考察」 25
社会保障制度のあ り方や 日本的経営 に代表 される社 内人事制度の現在の崩壊状況 を受け ての 「基盤案」 として、相 当であったか どうか とい う評価 を問 うていない ことはあ らか
じめ言及 してお きたい。
また、前述の一般的紡績業界の状況で触 れていない部分 は、山治の行 った処遇制度 と 比較が必要 となった場合 に適宜補足説明 を加 えてい くことしたい。
1.鐘紡共済組合 につい て
まずは、鐘紡共済組合 についてである。職工 の生活は、 どの程度の保障が されていた のか。その厚薄で職工 の労働 に対す る意欲 も相当に変わって くる。前述の ように賃業給 が職工の6割 を占める状況では、身体が健康 であることが特 に重要 になって くる。 もし、
健康 を害 し床 に伏せれば労働時間が減少、賃金 に も影響 して くるであろう。 また、 こ の 「鐘紡共済組合」の制度が鐘紡の諸制度の中心であ り、その後の政府の 「健康保険法」
制定のたた き台的役割 となることか ら、 まず この制度 を検証す ることが安 当であると考 え、 ここか ら始めてい きたい。
「鐘紡共済組合制度」 は、明治38年6月に設置 された。山治 によるとその きっかけは、
明治30年 ごろの不況時には利益が少 な く、 自分が思 うことの半分 もで きなかった時期 に
「何 とか して従業員相互扶助 の制度 を設 け、従業員の生活 をい くらかで も安定 したい と 常々考 えていた
。
」 14ことがその原点 と記述 している。 つ ま り約8年 間何 らかの制度 を 構築 したい と考 え、試行錯誤 を繰 り返 していた といえるようである。 その裏づ け とし て、景気が回復 し、利益が安定 して きた明治35年 ごろか ら徐 々に山治のアイデアによる 諸制度が施行 されるようになっている。 直接 の きっかけは、 山治が知 り合い15か ら ド イツクル ップ製鋼会社の職工 に関す る設備調査書 を手 に入れたことである。 その内容 が 日ごろか らの 自分の考 えを具現化す るフレームワークに成 りうることがわか り制度化 に踏み きったとい うことの ようである。 以下 にその内容 を上げる。鐘紡共済組合定款大要 (現代語解釈)16
保険料
被雇用者 :毎月給料 の100分の3を保険料 として拠 出。
会社側 :拠出総額の2分の 1以上の補助 を出 し、基金 (共済組合) を設立。
1、 本組合 は組合の人々が、病気 に罷 りまたは負傷 し、 もしくは死亡 し、 または、老衰 のため働 くことがで きず に退職 し、 または規定の勤続年限に達 した時 は、それぞれ 14「私の身の上話 :武藤山治
」r
人物で読む日本経済史 第4巻』1998(1934年の復刻版),ゆまに書房 15揮野贋史は r恐慌 を生 き抜いた男 評伝 ・武藤山冶』のなかで、その知 り合いは、上司である朝吹英二 であったと記述 している。16武藤山治,前掲書,pp223‑227か ら筆者が現代語 に訳 した。
26 研究年報 第5号
定め られた救済 を しまたは、年金 を給付する。
2、 本組合の うち、給料が高額 になる人は保険料 を多 く出す ことになるが、救済 を受け る事 は逆 に少 ない。つ ま り、給料が少額 な人は少額の保険料 を払 うことで、手厚 い 待遇 を受けることにな ります。
3、 組合員が病気にかかったときは、会社の医師または会社が信用する医師の診断書 を 添 えて、申出ればその4日目か ら以降、 日給額の半 日分 を支給する。
4、 工女で、妊娠 中または産後働 くことが出来ない場合 には、会社の医師 または会社の 信用する医師の証明によって、ある期 間の扶助料 を与 えることがある。
5、 病気扶助料 は3ケ月間給付す る規定であるが、5ヶ年以上本組合 に加入 している人 にはその期 間を5ケ月に延長す る。
6、 職務上、負傷 した場合 は組合の費用で療養 をさせ又、負傷の全治 まで給料の全額 を 給付する。
7、 負傷 のため、終身、重度障害者 とな り退社する場合 には相 当の救済金 を与 える。
8、 負傷全癒の後 に、会社の業務 に復帰従事する ものには、在職年金 を支給する。
9、 男性で滞 10年間、女性で満5年間勤続 しているときには在職年金 を支給す る。
10、 男性で満15年、女性 で滞 10年 間勤続 している ときには退社 した後で も、その後15 年間は年金 を支給す る。
11、 男性で5年以上勤続 し、年齢滴 50歳 に達 している もの、 また、女性で満3年以上勤 続 し年齢満45歳 に達 している時 に、病気 のために働 くことが 出来ず、退社す る と
きは、滴 5年間年金 を与 える。 ただ し、 この場合 には会社 の医師の証明 を要す る。
12、 全 ての年金額 は、男性 の場合 はその当時の給料1年分 の100分 の15(例 :1ケ月20 円の給料 の場合 には、年俸240円、 この100分 の15で36円が年金額 となる)、女性 は同上100分 の10を最低額 とする。 規則で定め られた年限以上1年経過す るごと に100分の 1増加 し、毎年6月お よび12月の2回に分 けて支給す る。
13、 女性 で勤続5年以上の もので、今後6ケ月間保険料 を払 い込 む ときには年金 として 当時の給料1年分 の100分の5を受 ける特典がある。 また、勤続2年以上 の ものは、
今後2年間、同6ケ月以上の ものは今後3年間保険料 を払い込 む ときには前記の年金 を受けることがで きる。
14、 男女職工以外 の使用人で、 これ まで会社 に勤続10年以上の ものは、今後2年間、7 年以上の ものは今後3年間、5年以上の ものは今後4年 間2年以上 の ものは今後5年 間、2年未満の ものは今後6年間保険料 を払い込 む ときには年金 として当時の給料1 年分の100分の7.5を受 けることが出来 る。
15、 上記 のほか、特別の事情 により組合員の一家が非情 に困難 な状況 に落 ちいった場合 には、相当の救済 をすることがある。
16、 本組合で、救済 をするほか、会社 はこれ まで通 り会社の費用で救済 をす る。
17、 今後 は病気又 は不幸等 の場合 には十分の救済 を受 け られ、安心 して業務 に従事する
「明治期紡績業における労働条件と武藤山治についての一考察」 27
ことが出来 る。
18、 本組合 は明治38年6月1日か ら実施す る。
19、 これ までみな さんか ら預 か っていた 「保信金」 は、5月限 りで廃止 し、6月か らは 支払 の必要はない。 なお、 これ まで預 けてあ る分 については、年率10%の利息 を 付 け会社が預か り、従来 どお り満期時 に払い戻す。
20、 以上、本組合の大要 を抜粋 したが、詳細 は各支店委員 にお尋 ね下 さい。
鐘紡共済組合本部 これは 『私 の身の上話』の中に掲載 されている 「鐘紡共済組合定款大要」 の全文であ る。 この共済組合施行規則の特筆すべ き点 をあげる と、
①療養費が申出より4日目に支給 される。
②産前産後の女工 に手当が支給 される。
③業務上の負傷 に関 しては、全額、療養費が共済組合か らも支給 される。
④在社 中年金が支給 される。
⑤条件付 であるが、退職者年金が支給 される。
の5点が挙げ られ よう。
2.鐘紡共済組合定款 大綱 と現行 ・社 会保 障関連 法 の相違点
この5点 については、平成12年現在 の健康保険法、雇用保険法、労働者災害補償保険 法、厚生年金法、育児介護休業法等 と比較 した場合で もそれ と同等 の処遇 であることを 鑑み評価 した。特 に、「療養費の4日目の支給」 とい う点は、恐 らくはこの 「共済組合定 款」 の規則がその まま現在 ・健康保険法 に残 る形 となった ものであろ う。 また、(∋の 産前産後の女工‑の手当は、現行法では 「産前産後休暇」 について、 また雇用保険法か らの手当支給 は法制化 されているが、その事業主 による直接 の賃金保証 はい まだに、雇 用保険法上、義務化 されていない。 この点 を考 えれば、非常 に先進的であった といえ
よう。
以下 に、共済組合定款大綱 と現行法の比較 を一覧表 に した。
大綱 条文 条文概 要 現行 法概 要 現行 法
第 1、2条 目的条文
第3条 4日目以降、 日給半 日分支給 傷 病手 当金 .日給6割 健 康保 険法45条
第4条 妊産婦 ‑ の休 業補償給付 育児休業 基本給付 金月給3割 雇用保 険法61条 の4 第5条 目的条文 的内容
28 研 究年報 第5号
第7条 業務上障害時退職一時金支給 障害補償‑一時金 労災保険法15条2項 第8条 業務上負傷療養復帰在職年金 障害基礎 .厚生年金 厚生 .国民年金 第9条 在職年金支給
第10条 長期勤務者退職年金 老齢年金各制度等 被用者年金各法
第11条 疾病時退職年金 厚生,国民年金等
第12条 男性年金額及び支給規則 被用者年金各法
第13条 女性年金額及 び支給規則 被用者年金各法
第14条 年金支給規則 被用者年金各法
第15条 従業員被扶養者救済 健康保険法他
第16条 共済組合 と企業本体分離
ちなみに山治は、明治35年 に、乳児 を保育する女工 を対象 とした ̲「乳児保育所」 を工 場 内 に設置 してい る17。 また、現行 の被用者年金各法 と比較 した場合 に、支給額 こそ 微 々たる ものであるが、明治の当時 に実質上の終身年金 (上記第12条参照)及 び在社 中 年金 などが年金制度 に盛 り込 まれていたことは非常 に驚か される。
また、本大綱の第15条 には、従業員の家族 に対す る何 らかの救済 を行 うことが出来 る 条文が織 り込 まれている。従業員の被扶養者 に対す る条文 は 『職工事情』 に掲載 されて いる他の3社 の傷病保険規則 には、盛 り込 まれていない18ものである。
しか しなが ら、 ここで一つ確認 しておかねばな らないのは、 これ ら年金や被扶養者へ の救済条項 などが実際 に機能 していたのか とい う点である。 これについては、山治の著 書の中にエ ピソー ドがあるので、紹介する。
「私 は豊前の中津‑遊説 に参 りました時、土地の有力者が私のため歓迎の宴 会 を開いて くれ ま した。その席上で、わた しの非常 に感 じま したことは、私が 一々杯 を頂 きにまわ ります と、出席者の中に3,4名今度の整理で退職せ る中津 支店員がお りま して心か ら私 に向か って会社の優遇 について感謝す る旨、挨拶 せ られたの を聞いて、私 は非常 に喜 びにたえませ んで した
。
」 19と記述 している。 山治 を歓迎 したこの酒席 は、 1人何 円 とい う参加費用 を徴収 して行 わ れた ものである。 この点か ら、わ ざわざ社交辞令 を山治 にい うために実費で参加す る とい うことはないであろ うか ら、元 ・中津支店員の感謝の弁 はある程度信頼 で きる とい えよう。 この ように、「共済組合の制度」 を概観 してみたが、現時点で も鐘紡 の行 って 17武藤山治
,r
私の身の上話j1934年,(1998年復刻版 ゆまに書房)p22018農商務省 F職工事情J,1903,岩波文庫,pp161‑174、pp1781185 19武藤山治,前掲書,p237
「明治期紡績業における労働条件と武藤山治についての一考察」 29 いたこの制度が現行 の社会保険関連法のそれ と比較 した場合 に も、先進的で当時 として 厚遇 な制度 を導入 していたことが理解で きた と思 う。
3.その他 の制度 について
武藤 山治は他 に も多 くの施設や制度 を導入 している。前述 の 「共済組合
」
「乳児保育 所」のほか、「社 内報」 を発行、社員の意見やアイデ ィアを公募す る 「注意箱」、職工が 安 く買い物 をするための 「日用品引換所」 を設置 した。 また、一般の紡績業 においては、職工の寄宿舎 における食事 は、外部業者への委託が主であ ったが、山治 は外注す る と、
その業者が高額のマージ ンを取 るために、貧 しい食事 になる とい う理 由で、鐘紡の 自前 準備 による食事 に した とい う。その例 として、職工 のための食事 について、 「沢庵」 に いたるまで 自ら試食 し、おい しい と納得 で きる もの を準備 させた。 また、職工 の 「寄 宿舎」 での待遇 について もその こだわ りは変 わ らない。職工の使 う寝具の長 さや枕 の1 っ も、 自分が実際に横 になって、試用 し最 もよ く眠れる もの を採用 した とい う20。
ここまでの事例 は、武藤 自身が 自分の施策 を紹介 した り、武藤 の研究 を した研究者が 紹介 を した事例であるが、 ここで細井が 『女工哀史』の中で鐘紡 を肯定 した事例 を紹介 したい。細井が 自ら対立す る経営側 の武藤 を誉 める、若 しくは批判 を与 えていない とい うことはそれな りに、武藤の行為 を評価 で きるであろ う。
① 女工 に対する電話の取次 ぎ21
⑦ 工場内における休憩設備 とその環境22
③ 高砂、茅 ヶ崎保養院の設立23
等が上げ られている。 これ らの山治の行為が、広 く当時の紡績業界 に知れ渡 り、その 労働環境が他 の工場 に比較 し優 良であ ったことか ら、「グ レー ド鐘紡」 24とよばれていた
ようである。
4 まとめ
武藤 山治は、明治時代 の紡績業界 において多 くの他 の企業 と比較 して、非常 仁子優 良な 職工への処遇制度 を自らの考 えによ り導入 を していった。 「共済組合の アイデ ィア」 に おいては、それ 自体 は ドイツか らの ものであったが、その フ レームワークに山治が魂 を 吹 き込み、共済組合発足か ら政府の健康保険法が施行 されるまでの間、その制度 と規則 は鐘紡 にフイッ トす るようにつ くられ、実質的 にその機能 を十分発揮 していた。 また、
その他制度 も、その制度の根底 には、職工 の人間性 を保持又 は高めるとい う意図 を容易 20揮野鹿 史 r恐慌 を生 き抜 いた男 評伝 ・武藤 山冶j1998,新潮社p55
21細井和書歳
,
F女工哀史』,1925,pp52‑53 22細井和書蔵,
F女工哀史』,1925,pp124‑12523細井和書蔵
,
F女工哀史』,1925,p372 24細井和書蔵,r
女工哀史』,1925,pp52I5330 研究年報 第5号
に感 じさせ る ものであったことは理解で きよう。
明治期 にあって、職工 の一人一人 を大切 に しようとす る民主主義的な考 え方 を してい た武藤 山治は、 どの ような人物であったのか を知 ることが、 これ ら制度の本来的な意味 を理解す る 1つの方法であろう。
第3章 武藤 山冶 の生 い立 ち 1 生誕 か ら青年期
① 少年 時代
武藤 山治 は江戸時代 の末期、 1867年 (慶応3年) に岐阜県海津郡の佐久 間家の長男 に 生 まれた。 生家 はその土地の庄屋で、比較的裕福 な環境 で生 まれた ようである。 し か し姓が 「佐久 間」 ではな く、「武藤」 となっている。 山治 は後述す る米 国留学か ら 戻 ってす ぐに、佐久間姓か ら武藤姓 を名乗 ることになる。 これは明治時代 に入 ってか ら の徴兵制度が関連 しているようである。 ある家の主人が60歳以上で跡取 りがいない家 を継 げば徴兵 されない とい う決 ま りが明治の ころにあった。その条件 に山治 を該当 させ るために父 ・国三郎が、武藤嘉兵衛 とい う旧下級武士の家 に養子 に出 し、15円払 って養 子 としての親子 の縁 を切 った25。 こうす ることで、国三郎 は山治 を結果的 に兵隊 に出
な くて もすむことに したようである。
少年時代の山治は、あ ま り手のかか らぬ子 だった ようである。母親 ・たねは、山治 に ついて 「子供 の ころか ら不実 なことので きぬ性質」 で、「長男 とい うことで、他 の兄弟 よ り小遣 い銭 を余計 に与 える と、『私 だけ余分 に頂戴す ることはいけませ ん。兄弟み な 平等 に して くだ さい』 といったことを思い出す
。
」 26と語 った との記述がある。少年が この ような 「平等」 とい う考 えをもち、論 じるようになった要因 として、父の 存在が少 なか らず影響 しているようである。 山治の父 ・国三郎 は、大変 な読書家27で 自由民権運動 に共鳴 し、その後、国会開設運動 にも加 わ り、 自らも第5回衆議 院議員選 挙で当選、衆議 院議貞 となった。 実家 もその ような環境であるか ら幾度 とな く、 自由 民権運動志士の議論 の場 となった ようである
。
「平等」
「自由」 とい うことについて、山 治少年が どれだけ理解 していたかはわか らない。 しか し真剣 に 「平等」
「自由」 を語 り議論す る父の姿 は、確実 にその後の山治の人格形成 に少 なか らぬ影響 を与 えたことは 想像で きよう。(彰 慶応義塾 時代
明治13年、14歳 (滞 13歳)の ときに、国三郎 に連 れ られて上京す る。 そ して福沢 諭吉のいる慶応義塾の幼稚舎 にまず入学する。 この慶応義塾での教育があ らゆる面で、
25津野贋史 『恐慌 を生 き抜いた男 評伝 ・武藤山冶』1998,新潮社p17 26津野寮史,前掲書,pp17‑18
27山治がその著書 F私の身の上話』の中で、父 .国三郎の読書好 きを 「朝か ら夜遅 くまで散歩す る時間 のほかは本 を手か ら離 したことがあ りませんで した。」 と記述 している。同書p15
「明 治期 紡績 業 にお け る労働 条件 と武藤 山治 につい ての一考 察」 31
その後の山治の将来 に影響 を与 える こととなる。 山治は、福沢諭吉の教 えのなかで も
「独立 自尊」 をもっ とも心 に とめていた ようであ る。 と くにそれは山治のその後の鐘 紡での経営 にも現れるが、彼 は 「自分の興 した事業 の尻拭いは 自分 です ること」 28と信 じ、「窮地 に陥れば 自分 の経営責任 を棚 に上 げ、政府 の援助、救済 を求め る経済人は非 難」 29した。
つ ま り、 これ らの考 え方が どの ような影響 によ り山治の中で形成 され うるのか を考 え た場合 には、「独立 自尊」 の福沢諭吉 の教 え と 「自由民権運動」 の志士 としての父 ・国 三郎の教 え若 しくは、佐久間家の家庭環境が山治の人格形成期 である幼少期 の思考基盤 に大 きな影響 を与 えた といえるようである。 また、山治は慶応義塾の教 えで、福沢諭 吉 を始 め と した 「先生」 の地位 にあ る人 に対 して も 「先生」 とは呼 ばず、「福 沢 さん」
と読 んでいた と記述 し、その点 を 「師弟 間に階級 的な観念 を作 らず、親密 な温情 にあふ れていた」 と感想 を述べ、「文部省 の手 よ り教育 を解放す ることな どは、国民の人格 を 高め、その 自治精神発揚す る上 は もっ とも必要 な改革」で 「英国流の人格教育 を範 とす べ きである」 30とい う 「自由主義者」 として自らの考 えを述べ ている点 は非常 に興味深 い。 これ らの点か ら人々は 「自由
」
「平等」 であるべ きとい う考 えが、山治の思考基 盤の根底 に常 にあった と考 えることもで きるであろう。③ 米国留学
明治17年 に慶応義塾 を卒業 した山治は、同 じ慶応義塾の同級生の和 田豊治氏 と桑原虎 治氏両名 とともに、翌年米国へ留学 をす る。 山治 は、米国で彼 の人格形成 において非 常 に重要な期 間であった といえるさまざまな経験 を した。 実 は もともと山治は、父の 影響 もあって米国ではな く英国のオ ックス フォー ド大学への留学 を少年時代 か ら夢 とし て きた31。 しか し、実際 には米 国へ の、それ も正規 の大学‑ の留学 ではな く、学費、
生活費 を稼 ぎなが らのいわゆる苦学生 として渡米 をせ ざるを得 なか った。 その理 由は、
明治14年 松方正義が 「不換紙幣整理」 を行 った、いわゆる 「松方デフレ」 による資産 の圧縮が背景 にあった。山治はこのことを 「私 の人生 に‑大変化が起 こ り、学校 を出た ら直 ちに英国‑留学 して文学 を学 びたい と思 っていた望みは絶 えて、米国へ苦学生 とし て参 ることとなった」 32と書 き記 し、その無念 さを以下の ようにあ らわ している。「幸運
とか不運 とかい う言葉がで きたのは、 この変化 を言い表すためにで きた言葉である と思 います
。
」 33と記 している。 また、同様 に彼 の著書 『私 の身の上話』では、「は しが き」
に9ページ分 を割 いているが、その うちの6ページ半 を 「松方 デ フレ」 がいか に農民 に 28「私の身の上話 :武藤 山治
」
F人物で読む 日本経済史 第4巻」1998(1934年の復刻版),ゆまに書房 29滞野贋史,前掲書,pp20‑2130武藤 山治 r私の身の上話」1934年,(1998年復刻版 ゆまに書房)pp20‑21 31武藤山治,前掲書
32武藤山治,前掲書,p2 33武藤 山治,前掲書,p2
32 研 究年報 第5号
とって厳 しく、その政策が愚かな ものであ ったか をデー タを用 い解 き明か している。 自 らの 「将来の望み」 を 「不運」 に も絶たれた時の無念 さは非常 に強か った もの と思われ る。
さて米国での留学時 に、山治は 自ら 「苦学生」 と書いているとお り非常 に厳 しい境遇 で3年間を過 ご した。 ここか らはその状況 を見てい くことにす る。
米国へ は 「city of Tokio」号 とい う2000トンクラスの汽船で向かった。 同船 は、
非常 に 「古いポロ船」 34で、船室の等級 は3つ に分かれていた。 山治の乗 った最下等 の待遇 は、「実 にお話 にな らぬ酷 い もので、最下の薄暗い処 に蚕棚 の ように寝床が幾重 にも釣 ってあ り、、、一種 の臭気耐 えがたい ものがあった」 と記述 してある。 途 中ひど い船酔 いに悩 まされなが らの厳 しい体調 とこの ような厳 しい船室環境で約20日間の船旅 の末、米国のサ ンフランシス コに到着す る。
サ ンフランシス コでは、当地の新 聞社主のジヤコブ氏の計 らいで、 まもな く菓巻煙草 製造所 で見習い職工 と して働 き始める。 この ときの様子 を山治 は、「ミルやスペ ンサ ーな どの政治哲学 ともい うべ き高 尚なる学問 した我 々3人が、今米国に来て煙草工場の 見習い職工 となったのですか ら、なんだか高い ところか ら突 き落 とされた ような気持 ち が した」 と述懐 している。朝か ら夕方 まで煙草製造の見習 をやっていたのでは英語 を習 得す ることがで きない と考 え、程 な く、製造所 を辞める。 その後 は、 しば らく皿洗い や、庭 の水撒 き等 のアルバ イ トを したが、い よいよ金 も尽 きた ときにはホテルの窓ガラ ス拭 きや大掃除の手伝 いな どの 「デイ ・ワーク」つ ま り 「日雇 い」 の仕事 を して学校へ 通 った。
(彰 パ シフ ィック大学寄宿舎給仕 時代 と森 氏
その後、サ ンノゼのパ シフィック大学 にある7,80人ほ どの寄宿舎の給仕 を しなが ら 同大学 に通 うようになる。 しか しなが ら、 ここで も非常 に厳 しい毎 日だった ようだ。
また、 この大学で知 り合 い、寝食 ・苦労 をともにす る学友 となる森氏 とも出会 うが、悲 しい別れ を経験することになる。
まずは山治の寄宿舎給仕 としての毎 日のスケジュールを紹介 しよう。
一 日のスケジュール
毎朝6時 食堂‑出てテーブルの備 え付 け (起床 は当然5時ごろとなろ う) 7時か ら8時 寄宿生達の給仕
8時‑9時 片付 け と昼食のためのテーブルの準備 それか ら学校へ
34武藤山治,前掲書, p30
「明治期紡績業 におけ る労働 条件 と武藤 山治 についての一考察」 33
11時半 ごろ 学校か ら戻 って昼食の給仕、
片付 け と夕食のテーブル を用意 して学校へ 夕方5時 寄宿舎 に戻 り夕食の給仕、その後片付 け 夜 の8時半か ら9時 ごろに給仕 のすべてが終了
彼 は、 この毎 日のつ らさを次の ように吐露 している。 「給仕 と言 うとなんで もない ようですが、7,80人の学生の給仕 をす ることですか ら一度 にた くさんのカ ップや皿 を 運ばねばならず、あちらか らも、 こち らか らも用事 を言い付 かる、殊 に男女学生入 り込 みで食堂は5つ、6つの大 テーブルに、学校 の男女 の先生や寄宿舎の監督が一人づつ首席 を占め、片側 に男の学生が片側 には女学生が向かい合 わせ に座 っているか ら給仕 には相 当に気骨が折れ、夜仕事 を終わって部屋 に帰 る とが っか りして しまい ます
。
」 35と言 って いる。この ような毎 日の繰 り返 しで、翌 日の学科 の予習 を夜11時 ぐらいまでで終 えて寝 て し まうと書いている。 彼 自身、英語 を読 む とい うことに関 しては 日本 にいた当時か ら相 当に高 い レベルの英書 をよみ こな していた ようで、「大学の予科 の教科書 ぐらいはわけ がない」 36といっていることか ら山治の英語 の読解力能力 は高 い ものであったことがわ かる。
前述 したが山治の寄宿舎での学友 に、森 とい う三重県出身の 日本人がいた。 森氏 は、
山治 よ りも以前か ら同大学 に給仕 として働 いていた。 彼 も山治同様 に給仕 を しなが ら 同大学 に通学 していた。森氏 と山治は、山治が寄宿舎の給仕 として雇 われてか ら、同室 とな り、仕事 の段取 りなどもすべ て森氏か ら教 わった。恐 らくは山治 にとって仕事 の面 で も、勉強の面 で も励 まされる ものがあ ったであろ う。森氏 もまた、「苦学生」であっ たようだ。 三重県の元士族の家柄 であるが、両親 は貧乏で 「僅 かばか りの財産のすべ てを森氏の洋行費 に当てて くれた」とい うことを山治 は森氏か ら聞いた と記述 している。
山治 は、森氏の両親の話 として、「内職 に煙草 を刻 んだ りして 日々の暮 らしの足 しに し て、一 日も早 く森君の学校 を卒業 して帰朝す るの を待 っている」 37と聞いた ことも書 き 残 している。 山治の場合、日本では裕福 な環境であったわけであるが、森氏の場合 には、
日本の両親の期待 を文字通 り一身に背負 っての留学 だ ったわけである。 しか しなが ら、
森氏 は英語が達者 とい うわけではな く、パ シフィック大学へ来て初めて勉強 した らしい。
当然 山治 よりも毎 日の学習 に非常 に時間がかかっていた ようである。そ して、恐 ら くは このことが、森氏の身の上 に不幸が襲 うことになる大 きな原 因 となったであろう。
森氏 の勉強の様子 を山治 は記述 している。「森君 は 日本であ ま り英書 を読 んだ こ とが 35武藤山治,
36武藤山治, 37武藤山治,
901344ppp
書書書掲掲掲前前前
34 研究年報 第5号
な く、 この学校‑来てか ら勉強す るのであ りますか ら、私 よ り一倍骨折 り私が夜半過 ぎ 目を醒 ま してみる と、森君 は依然 として燈火 に勉強 を続 けているの を見 てほ とほ と感心 しま した
。
」 と書 いている。毎 日、上記 のスケジュール をこな し、その後、深夜遅 くま で勉強す る毎 日を続 けていたことがわかる。 そ して、ある日森氏 は気分が優 れず、サ ンフランシス コの病院へ行 くが、入院 して1,2週 間 もしない うちに死亡 して しまうの である。 その突然の学友の死 に山治は、「森君 と永い間いっ しょに働 き起臥 を共 に し、同君か ら、 しみ じみ唯森君一人 を頼 りに して待 っている貧 しい両親の話 を聞か されてい た私 には.‥年老いた両親の悲嘆 は如何 ばか りと思 うと実 に言 うに言 われぬ一種悲痛の感 に打 たれ ま した。38」 と語 っている。 外 国生活で、お互いに支 えあっていたであろう 友人の突然の死 に遭い、その悲 しみは計 り知れないであろう。
森氏の死 とい う事件 は、のちに 「温情主義」 を推 し進める鐘紡での職工厚遇 と深夜業 操業の継続 とい う一見対立す る2つの事柄が並立 しうる山治の経験 的理 由の一つ となる のではないだろうか。
(9 醤油店販 売主任
森氏の死後、 しば らくして山治は、ある人か らの誘いで米国における醤油販売主任 を 任 されることになる。山治が経営の実務 を体験 したのはこの ときが事実上最初 となるで あろ う。 結果 は、発売当初 は非常 に好調で、注文 に応 じきれないほ どであった らしい が、1箇月ほ どで まった く売 れな くなった。 山治は経営者 に命ぜ られその原 因を取引 先か らお得意先 まで聞いて まわった。 す ると、米国人は醤油の入れ物が とて も美的で (日本か ら取 り寄せ た万古焼 の桧 に日の出に鶴 を濃厚 な色彩 で描 き出 した三角形 の瓶39)
その瓶 を手 に入れた くて、購 入 していた とい うことが判明 した。結局、醤油その ものの 販売 は失敗 し、経営者 は山治 に後始末 を任せ帰国。 山治 も帳簿等一切 を取 りまとめ, 遅れて 日本 に帰国 した。3年ぶ りの帰国である。
(参 米国留学 で山治が得 た こ と
山治 にとって、 この米 国留学 は非常 に大事 な経験 をすることとなった。当初の希望 と は違 う国である米国で、それ までの裕福 な生活 とはかけ離れた、つ らいが、新鮮 な、貴 重 な毎 日を送 ったようである。 父 ・国三郎 と慶応義塾の福沢諭吉か ら教 わった 「自由
」
「平等」 とい う考 え方 を米 国 とい う異国の地で実体験 す る。 山治は、米 国での 自ら経 験 か ら他 人 には常 にや さ しく接す ることが非常 に重要である とい うことを確信 す る40。
そ して、彼 は 「思いや りとい うことは、 自分で一度苦 しい境遇 に立たねば、そ う感 じな い もの」 とその著書 F私 の身の上話』の中で記述す る。 米国での苦学生の体験 は、山 38武藤山治,
39武藤山治, 40武藤山治,
220455ppp
書書書掲掲掲前前前
「明治期紡績業 における労働条件 と武藤 山治 についての一考察」 35
治に 「思いや り」 とい う非常 に大切 なことを学ばせた ようである。
山治の滞在 した、1885年か ら1887年 ころの米国は奴隷解放が なされ、表面的には人種 差別がない ことになっていたころで、鉄鋼王 カーネギーなどが中心的役割 とな り、産業 発展真 っ盛 りの ころ と思われる。
2.
青年期 か ら鐘 紡支配 人 まで明治20年、米国か ら帰国 した。 日本 は不況の真 っ只 中、就職難である。 しか しな が ら、 山治 はアイデア を持 っていた。 日本 で は じめて、 「広告代 理店」 を開店 させ る (醤油販売 を米国で手が けた とき、その店 に新 聞広告 の取次人が頻繁 に来店 していたの が ヒン トとなった)。 また、その後 も新 聞記者 、通訳 な ど行 い生計 を立 てていたが、
明治26年 に山治は、人生 における一大転換期 を迎 える。
① 三井銀行 入行 、実業界 の厳父 ・中上川彦 次郎 との 出会 い
当時、三井銀行 は三井財 閥の再編成 に向かっての転換期 の最 中にあった。 このころ三 井財 閥の中心 に位置す るのは、現在 の さ くら銀行 の前 身 ・三井銀行 と大手商社 の三井物 産であった。 三井銀行 を預かる中上川彦次郎 は,武藤の慶応義塾の先輩 にあたる。い わゆる 「三田出身の福沢人脈」であるが、実は中上川 にとっての福沢諭吉 は叔父 にあた る。 中上川彦次郎 は、安政元年 (1854年)豊前 (大分県) 中津藩の藩士、中上川才蔵 の長男 として生 まれている。 母の娩 (えん)は、福沢諭吉 の4つ年上の実の姉である。
諭吉 はこの甥 っ子 を、非常 にかわいが った。学問 において も非常 に優秀 な素養 を持 ち、
諭吉 も彦次郎 を手元 に置 き、薫陶 を与 えた。 明治7年 には彦次郎 を英国 に留学 まで さ せている。帰国後、留学 中に知 り合 った井上馨が工部卿 に就任。彼の推薦で工部省 に入 省するが、明治14年の政変で大隈重信 とともに福沢人脈 のほ とん どが追 われる。 中上川 もその官吏 の1人 と して官界 を追 われることとなったが
4 1
、結果的 に官界追放があった か らこそ、山治は中上川 と出会 うことになる。 井上馨 との縁 でその後、中上川は三井 銀行 の実質上の責任者の地位 につ く。そ して、す ぐに彼 は、不 良債権の処理 を始め、そ れ と同時 に次代 の三井 を担 うべ き人材 を多 く集め始める。その人材 の一人が山治だった。しか しなが ら、中上川が特別 に山治 を選 んだのではない。 中上川が集めた人材 は、大半 が20歳代 か ら30歳代 (山治 は当時、26歳)で、慶応義塾 の出身であった。 なぜ この人 選条件 となったかは正確 なことはわか らないが、彼が諭吉 の甥で、三 田出身であること が大 きく影響 していることは間違いない。
さて、山治は三井銀行 に入 り、東京本店抵当係 に数 ヶ月間勤務す る。 この ころにはす でに、現在 もあるいわゆる 「官僚 的な」雰囲気が三井銀行 に広が っていたようだ42。
② 三井銀行 での思 い 出 41浮野贋 丸 前掲書,pp27‑29
42武藤山治 T私の身の上話j,1934年,pp76180参照
36 研究年報 第5号
三井銀行 での思い出は、あ ま り多 くはない と山治 も語 っているが、その後 の彼 の考 え の基本の 1つ となる経験 をするo 銀行が貸 し金の担保 として押 えた土地が、結局抵 当 流 れ となる話 は今 も昔 もよ くある。 山治は、三田にある大 きな広場 (育種場 といった いた らしい)が、抵当流れの土地の中にあることを知 った。 その周辺 は人家が多 くあ ったが、その広場 自体 は、だれ も家 を建てて住 む もの もな く荒れ果てていた。
その荒れ果てた原 因は、人気 もな く物寂 しい と考 え、その広場 に道路 を通 し、其の交 差点 に、他 の抵 当流れ となった古家 を移 し、安 く貸 した ところなん と、3年 ほ どで多 く の人が住 むようになったのである。 この ことを彼 は、「人であろ うが事業であろうが、
見棄て られている中に少 し手伝 ってやれば良 くなるものがあるか ら、見込みのある もの は親切 に世話 を してやることが必要だ」 と言 っている。 この点 も鐘紡 における繊維事 業の立 ち上 げ期、不況期での操業の継続や人材育成等労働者への厚遇へつ なが る ものが あるように思 う。
③ 鐘紡に入 る
明治27年、28歳の ときに鐘紡‑配転 となる。 当時の鐘紡は、表向 きは独立の株式会 社 であったが、当時三井銀行 の中上川 に経営 を委任 されていた。 中上川は、若い山治
にその兵庫新工場設立 ・操業 を任せ たのである。
山治の鐘紡での30余年 にわたる実業界での生活が始 まる。彼 はその30余年 を 「失敗」
「努力
」
「幸運」の三つの言葉で言い表す に尽 きると表現 した。山治が、兵庫工場の任 にあたるに、当時の専務取締役 で、中上川の 「女房役」 と言 わ れた朝吹英二43氏 につれ られ、関西紡績会社 に一緒 に挨拶 にまわる。 それほ どに、鐘 紡の兵庫進出は憤重 な ものであった ようだ。 その理由は、東京の鐘紡工場の外観が一 因であった ようである。 山治 日 く、「明治維新前後 までは東京の人々は 自らを江戸 っ 子 と称 して派手好み、万事地味 な上方人 を上方賛六 といって、何事 も上方 をけなす癖が あ り」、 また、当時の鐘紡 の東京第‑工場 は 「江戸気質の重役連 の意 向は、 なるべ くハ イカラな もの を建 てたい とい うことで.‥英国式工場 を建 てた。 また事務所 も西洋式2 階建 ての立派 な建 て物 を建造 した。」 とい う背景か ら建築 された ものであ り、 これ ら工 場 ・事務所 を見て関西紡績業者の人々は、「三井の道楽工場」 とか、「紡績大学校」 とい って排捻 していた。 これだけが、原因ではないが山治は、兵庫工場の支配人 として懸 命 に働 いたようである。 特 に明治30年の義和団事件の影響 による不況時 には、「私 は1 年365日、 1日も会社 を休 まず、働 きま した。3,4年後 に会社 の財政が立 ち直 り、 日曜
日だけ休み ことに した。」 とい う不眠不休で働 いた記述がある。
43中津藩の出身で、当地で15代続 く庄屋の生 まれ。国学 を学び、尊皇壊夷の志士であった。明治3年 ごろ に福沢諭吉のボデ ィガー ドを務めるが、実は諭吉 を暗殺 しようとしていたことは有名である。 また、諭吉 自らの説得により、それをやめるのはもとよ り諭吉に震擦。その教 え請 うところとなった。
44武藤 山治,前掲書, p126
「明治期紡績業 におけ る労働 条件 と武藤 山治 についての一考察」 37
この ような背景 を抱 えての関西進 出であったわけで、 自然 とその対応 は、慎重 にな ら ざるを得 ない。 それに もかかわ らず、工場の操業が始 まると重大 な事件が起 こって し まう。 これは紡績業界 に とって も、三井 にとって も、山治 に とって も、非常 に重大 な 問題 となる。
④ 中央 同盟会 との紛争 事件
明治24年 ごろ、大阪の紡績会社 問に中央 同盟会 とい う業界の組織がで きていた。 こ の会の 目的は、表向 きには各会社 間の職工 の争奪 を防 ぐため とされていたが、実際の と ころは一度A社 に雇用 された らそれ以降、他社 はその職工 を雇 ってほな らない とい う申 し合わせ を したために組織 された会であった。 この事実 を山治は、経営者側 なが ら労 働者側の立場で、その細かな理 由を解説 した44上で 「職工側か らみる と非常 なる不利 な 立場」 と言 う表現で、牽制 を与 えている。 同会 はその設立の ころか ら東京の鐘紡 に入 会 をす る よ うに勧 誘 を していたが 、遠 隔地 とい うこ とと、三井 の 中上川 と、朝 吹 は、
「職工問題 について進歩的思想の持 ち主45」 であったこともあ り加入 しなかった。 この ころ、その中上川の考 え方 を具現化 した職工の具体 的養成法 を山治は兵庫工場の立 ち上 げ時 にお こなっている。 「中央 同盟会 との紛争 を避 けるために、兵庫工場 に使用す る 職工養成のため多額の費用 を費や し、遥 かに東京工場 にまで見習いに送 った」 といって いる。 また、その時雇用 された職工 の数 は1305人、その養成 に費や した費用 は5万 1230円90銭 と記述 している。 ちなみに、その ころの一般紡績会社 における職工の給金 は、男工が月平均30銭、女工が月平均20銭程度46であることか ら考 えると非常 に多額の 費用 を投入 していたことは理解で きる。 この ような積極 的な職工の養成が、結果的に 問題 を引 き起 こ した。 山治 自身 も、部分的には認めていることだが、当時、鐘紡兵庫 工場構 内に新 たに建築 中の広大 な寄宿舎、 また、食堂、賄所等の職工の優遇設備等 を聞 いて、近隣の既存の紡績工場か ら職工が移動 したのである。 この ことを中央 同盟会が 大問題 と騒 ぎ大事件 となった。 山治の言い分では、鐘紡工場の職工 に引 き抜 き工作や、
嫌が らせ をした。 また、山治に怪我 を負 わせた ものに懸賞金 を与 える旨情報 を流すなどと いうこともあったようである。 この騒 ぎは、結局2ケ月間ほど継続 し、仲裁役 に福沢諭 吉の斡旋か ら三菱 ・岩崎弥の助 (当時、 日本銀行総裁) を立てた。 その結果、同盟会側 は、一部会則の改定 をし、また鐘紡は同会に加入 をすることで騒 ぎの終結 を見 る。山治は、
この点 を 「爾来、職工 に対する紡績会社の待遇は全然面 目を改め、 日と月 とともに職工の 利益幸福 を増進するに至 りましたこと我が、紡績界のため誠 に喜ぶべ きこと47」 と述懐 し ている。具体的には どの ような、会則 を改め させ たのか、津野氏 によれば(∋会社 の職工
45武藤山治,前掲書, p127,中上川 ・朝吹の考え方は、「当時の大阪の紡績会社の過酷な職工の取 り扱 い方 を非 とし、鐘紡では職工 を優遇すべ し」 との意見を硬 くもっていた と山治は記述 してお り、この考え 方が、鐘紡 における山治の職工に対する処遇の基礎的考え方 となる。
46農商務省