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第2章 介護事故に関する調査・統計・先行研究の概観

第1節 はじめに ―― 問題の所在と本章の構成 第2節 介護事故に関する事例調査

第3節 介護事故に関する統計数値 第4節 介護事故に関する先行研究の検討

第1節 はじめに ―― 問題の所在と本章の構成

介護事故の法政策・保険政策についての具体的な検討に先立って、研究対象である介 護事故ないしはより広く介護にかかる事故に関して、既存の調査や文献を概観すること で、現在までの調査・研究の到達点を確認する必要がある。

すなわち本章で行うべきことは、これまでの事例調査や統計数値にあたることで、介 護事故ないし介護にかかる事故に関して、定性的および定量的な観点から全般的な把握 を試みることであり、あわせて法的紛争としての介護事故に関するこれまでの先行研究 を概観して、その意義と残された課題を探ることであり、それらを通じて本論文の研究 目的・意義および研究の視座の意味合いを確認することである。

そこで本章では、まず第2節で介護事故に関してこれまで行われた事例調査について 概観し、続いて第3節では介護事故に関連する統計数値について概観したのち、第4節 では介護事故に関する先行研究について概観する。

なお本章では、先行研究などの文献を多数引用している都合上、注と参考文献は原則 として本文に組み入れた。ただし各文献は本論文末尾の文献リストには掲げた。

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第2節 介護事故に関する事例調査

いわゆる介護事故については、今日ではさまざまな事例調査があらわれている。

それらのなかで代表的なものとして、国民生活センター『介護事故の実態と未然防止 に関する調査研究』(2000年)を挙げることができる。これは諸々の事例調査のなかで も早い段階で公にされたものであり、いちはやく介護事故の定義も行って、その後もし ばしば引用されるものである。ただしこの調査は法的紛争に限定したものではないので、

本論文の概念規定では「介護にかかる事故」についての事例調査ということになる。

また法的紛争としての介護事故の把握を試みたという点で、本論文にとって重要な事 例調査として、福祉サービスに関する事故事例を収集した全国社会福祉協議会(全社協)

の『福祉サービス事故事例集』(2001年)を挙げることができる。

これらについて、順次概観する。

(1)国民生活センター『介護事故の実態と未然防止に関する調査研究』(2000年)

この事例調査の報告書では、1999年9月から2000年1月までの間に、16の施設(特 別養護老人ホームおよび有料老人ホーム)に対する面接調査により、220件の介護事故 を収集し、分類・検討している。また付表として、高齢者の転倒事故に関する調査研究・

文献の一覧を載せている。

ここでは介護事故の定義として、医療事故に関する用語法を参考にして、「介護の提供 過程で利用者に対し何らかの不利益を与えた場合、または与える危険のあった場合」と 概念規定している。その上で収集した220件の事例を、「転倒」「ベッドからの転落」「介 助中の事故によるあざ・出血・やけど等」「原因不明およびその他の骨折・あざ・出血等」

「誤嚥」「異食」「薬の誤配」「無断外出」「入居者同士のトラブル」「物の破損・紛失」「疥 癬等」の11に分類・整理している。この分類のなかでは、「転倒」が64件ともっとも 多くなっている。

この報告書は、みずからを「事実発見の調査」と位置づけ、介護現場で起きている事 故の実態を把握すること自体にひとつの主眼を置いている。このように施設で発生が報 告された事故の特徴をとらえて分類することにより、介護サービスの提供に際して生じ

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ている事故の諸相を明らかにしたことの意義は大きいといえる。

この分類項目をみると、介護事故は、直接的な介護行為のあり方に過誤があったとい うよりは、むしろ日常的な生活場面で、利用者自身の行動に起因して引き起こされたと 思われるものが多いことが分かる。事業者側の直接的な介護行為にかかる過誤の関与が 推測されるのは、分類項目のなかでは「介助中の事故によるあざ・出血・やけど等」、「薬 の誤配」、「物の破損・汚損」の3項目だけであり、この点は、誤診や手術ミスが問題と なる典型的な医療過誤とは対照的だといえる。

しかしこの報告書でも述べられているように、介護事故の範囲やとらえ方は、施設に よってもまちまちであり、事故報告の基準やその内容についても統一的な基準は存在し ない。このことは、介護事故についての全国的な統計数値を得ることが困難であること を示すとともに、介護事故を対象として研究を進めるに際しては、その研究の目的に沿 った形で概念規定を行うことが必要であることを示している。

なお上記の11 の分類の基準については、報告書では明記されていないが、基本的に は事故自体の種類により分類したものと考えられる。第5章・第6章で検討するように、

このような事故の種類の違いは、法的紛争の様相と法的評価のあり方にも影響してくる ものである。

ただし事故の種類といっても、のちに述べるように、事故のプロセスを分解してみる と、横並びで分類するのは難しいところがある。すなわち介護事故の発生について、時 間を追ってみると、(ⅰ)日常的な行動のなかで、(ⅱ)要介護者の行動に不測の事態が 起こり、(ⅲ)それが要介護者の身体や生命を損なう事故につながり、(ⅳ)具体的な損 害が発生する、という4つのプロセスに分解することができる。このなかでは、たとえ ば裁判例で多くみられる「誤嚥」、すなわち食物や水が気管に入ってしまう現象は(ⅱ)

の「不測の事態」にあたり、また「転倒」は(ⅲ)の「事故」にあたる。したがって「誤 嚥」と「転倒」とでは、事故のプロセスにおける位置づけが異なるということができる。

同様に、この調査報告書の他の分類項目についても、「不測の事態」や「事故」、「損害」

を指すものが混在している。これらの点を踏まえた本論文での事故の分類については、

第6章第2節で述べる。

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(2)全社協・福祉サービス事故事例集作成委員会『福祉サービス事故事例集(福祉サ ービスにおける危機管理(リスクマネジメント)に関する調査・研究事業報告書。平成 12年度長寿社会福祉基金助成事業)』(2001年)

この報告書は、公的な全数調査とは異なるが、日本全国を対象として、福祉サービス に関する事故事例の把握を目指したものである。具体的には国内新聞記事検索による事 例収集、国内判例検索による事例収集、保険金支払状況による事故発生状況の分析の3 つが行われている。

このうち国内新聞記事検索による事例の収集によれば、1975年初から2000年末まで の間に477件の事故報道があり、そのうち58%が老人福祉施設で発生したものであった。

さらにその内訳としては「風邪」が51%を占めており、他には食中毒、介護・移動の際 のケガ、感染症、交通事故、殺人傷害などが多くなっている。

国内判例検索による事例収集については、本論文でも第5章・第6章で詳細に扱うこ とになるので、省略する。

保険金支払状況による事故発生状況の分析では、全社協の社会福祉施設総合損害補償 にもとづく2種類の損害保険の保険金支払件数について、1999年度の支払案件が収集さ れている。傷害保険での支払1270件、賠償責任保険での支払254件であるが、そのう ち老人福祉施設での支払いは、傷害保険での969件、賠償責任保険で184件と、大きな ウェイトを占めている。

この報告書では、これらの保険金支払件数を、「受傷原因別」に、以下の12に分類し ている。すなわち火傷、器具損壊、誤飲、誤嚥、衝突接触、溺水、転倒、転落、無断外 出、盗難、暴力、その他の12分類である。これらの受傷原因別発生状況をみると、「転 倒」が圧倒的に多く、7割近くを占めており、「衝突・接触」と「転落」がそれぞれ1割 程度となっている。

なおこの12の分類は、前述した国民生活センターによる11の分類とかなり共通して いる。すなわちこの集計は、基本的には事故の種類をもとに12に分類したものであり、

両者の分類項目を比較すると、国民生活センターの報告書では「薬の誤配」、「疥癬等」

があるのに対して、こちらの報告書ではそれらが独立の分類項目としてはなく、他方「溺 水」が独立の分類項目とされている。

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このほかに報告書では、「福祉サービス提供にかかる事故に関する緊急アンケート」の 結果が分析されている。この部分については、吉村尚也「福祉サービスにおける危機管 理の状況」『ふれあいケア』2002-2(2002年)21-24頁でも簡単に紹介されている。

この全社協の調査のうち、国内新聞記事検索による事例の収集については、当然、重 大であるものや事件性を帯びたものだけが報道されるわけなので、次節で検討するよう な事故の統計的数値を示しているものではない。また国内判例検索による事例収集につ いては、本論文でも第5章・第6章で裁判例を扱うが、全社協の調査は公表された裁判 例を収集したものなので、本論文の検討対象と大きく異なるわけではない。

この調査でとくに注目されるのは、保険金支払状況による事故発生状況の分析である。

これは全社協が運営している保険制度の統計を分析したものであり、この保険制度のも とでの保険金支払だけが対象であるが、この種の保険に関する統計自体がほとんど公開 されていないことから、貴重な資料だといえる。

そのなかで前述したように、事業者側に法的責任があることを前提に支払われる賠償 責任保険の保険金支払件数が、老人福祉施設に関して年間200件近くあることが注目さ れる。賠償責任保険の保険金が年間200件近く支払われたということは、事業者側が自 発的に過失を認めて賠償に応じるケースも含めて、何らかの意味で事業者側の法的責任 が問題となった法的紛争が、この規模で発生していたことを示している。

また傷害保険の支払件数が、老人福祉施設で1000件近くに及ぶのは、傷害保険は事 業者側の過失がなくても支払われることから当然ともいえるが、これが賠償責任保険の 支払件数の5倍の規模であることは、介護にかかる事故であっても法的紛争にはならな かったものや、法的紛争となっても事業者側の責任が認められなかったものが多数あっ たことを推測させる。

以上からすると、のちに第4章で見るように本論文の概念規定に合致する介護事故の 裁判例として収集し得たものは 14 件にとどまるものの、裁判とならないまでも事業者 側の法的責任が問題となった介護事故や、さらには法的紛争ともならなかった介護にか かる事故が、「日常的」といえる規模で発生していることが分かる。すなわち裁判例とし て収集し得た14 件はいわば氷山の一角であり、介護事故はより集団的な事象であると いうことができる。

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なお上記の2つの調査報告書以外にも、介護にかかる事故に関する事例調査や報告書 が多数公にされている。単独で出版された調査報告としては、シルバーサービス振興会

『介護サービス「苦情・事故事例活用研修」対応 事故防止・事故対応の手引』(法研、

2003 年)、民間病院問題研究所『介護事故: その予防と解決法を探る』(日本医療企画、

2000年)、ヘルスケア総合政策研究所編『介護の現実と再構築 : 介護事故・医療行為・

介護現場の真相を踏まえて : より良き介護の未来を求めて』(日本医療企画、2002年)

などがある。

またこれら以外に個別の実証研究・実践レポートや実務書等があり、たとえば国立国 会図書館の検索によれば、題名に「介護事故」を含むもののとして検索される文献だけ で、和図書が17冊、雑誌記事が98件表示される(2007年10月アクセス)。そのうち 96件が2000年以降の文献である。

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第3節 介護事故に関する統計数値

本節では、介護事故ないしは介護にかかる事故が、およそどのくらいの規模で発生し ているかについて、統計数値から定量的な把握を試みる。

本論文では法的紛争としての介護事故を研究対象としているが、介護にかかる事故が、

すべて法的紛争となるわけではないし、またそれらがすべて裁判にまで至るわけではな い。しかし法的紛争に限定した数値や、公刊されないものを含めた判例数を全数調査か ら統計数値として把握するのは困難である。

そのなかでは、まだしも法的紛争に限定しない、介護にかかる事故の統計数値につい ては、全数調査からの推計が可能である。とくに死亡事故については他のトラブル類型 と比べて、統計的把握のための手がかりを拾うことができる。介護事故では死亡以外の 事案も多いものの、死亡事故は、まさに取り返しがつかないものとして重要であろう。

そこで全数調査である厚生労働省の『人口動態統計』の統計数値をみることで、介護に かかる事故についての把握を試みる。

平成18年度の『人口動態統計』によれば、年間の死亡総件数は1,084,450件であり、

それらがすべて詳細な分類のもとに分けられている。このうち「不慮の事故」といわれ

るものが 38,270 件であるが、そのもっとも大きなウェイトを占めるのが交通事故の

9,048件である。それ以外に、「転倒・転落」、「不慮の窒息」、「溺水・溺死」等の、介護

にかかる事故に関係する原因がある。このうち「不慮の窒息」は、誤飲・誤嚥によるも のが大部分だと推測される。もちろん「不慮の事故」にはこれら以外にも、たとえば「毒 グモとの接触」、「無理ながんばり」等々、介護とは関係のない分類項目が多数挙げられ ている。

これらをさらに死亡場所別に分けたものを、介護にかかる事故に関連しそうないくつ かの項目についてみると、もっとも数が多いのは「不慮の窒息」9,187件で、「転倒・転

落」6,601件がこれに続く。そしてこの内訳を見ると、「不慮の窒息」については、病院

が7,568件、診療所が142件、介護老人保健施設が108件、老人ホームが234件、自 宅が953件、その他が182件となっており、「転倒・転落」については、病院が5,459 件、診療所が135件、介護老人保健施設が29件、老人ホームが55件、自宅が400件、

その他が523件となっている。

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これらが公的な全数調査統計のなかで、介護にかかる事故の発生総数に関して手がか りとなる数値だといえる。統計数値をみると、「転倒・転落」および「不慮の窒息」のい ずれの原因についても、死亡場所としては病院・診療書が圧倒的に多いものの、毎年2 ケタ~3ケタの死亡数が、介護老人保健施設や老人ホームで発生していることが分かる。

たとえば介護老人保健施設と老人ホームの死亡数を合計すると、「不慮の窒息」が 342 件、「転倒・転落」が84件、あわせて426件に及ぶ。

これらからすると、高齢者施設では平均すれば毎日1件以上、このような「転倒・転 落」ないし「不慮の窒息」という不慮の事故が起きていることになる。もちろんこれら のすべてが介護にかかる事故だとはいえず、たとえば高齢者施設のなかであっても、自 宅等で過ごしている場合と同じように歩行し、あるいは食事をしている過程で不慮の事 故が起きる場合もあり得る。しかし誤嚥による不慮の窒息にせよ、転倒や転落にせよ、

もし当該施設において、介護職員等がきちんと見守っていたり、付き添っていたりすれ ば、事故を回避できる可能性はあったというケースは少なくないだろう。すなわち後述 するように、介護にかかる事故かどうかの外延は不明確であるため、施設内で起きた不 慮の事故であれば、少なくとも法的紛争となる可能性を持っているということができる。

加えて統計数値の見方については、以下の点に留意を要する。

第一に、死亡場所の特定方法に関して、統計は死亡届から集計しているため、最終的 に「死亡時」という意味では当然病院や診療所が多くなる。高齢者施設での事故により、

病院に搬送され、病院で死亡したという場合には、介護老人保健施設や老人ホームでの 死亡数には集計されない。他方、自宅での不慮の事故による死亡数も、病院に次いで多 い点にも注意を要する。

第二に、介護にかかる事故による死因としては、「転倒・転落」ないし「不慮の窒息」

以外にも、「不慮の溺死・溺水」や「その他の不慮の事故」が考えられるし、そもそも高 齢者施設内での「不慮の事故」は、介護のあり方に関係している可能性がある。さらに は「自殺」「他殺」なども介護のあり方と関係することがあろう。「感染症」も、そもそ も「不慮の事故」とは別のカテゴリーに分類されている。

第三に、事故といえば「不慮の事故」に分類されるのが普通のように思えるものの、

必ずしもそうとは限らない。とくに直接の死因からすれば病死に分類される場合でも、

間接的に介護事故が介在している場合は考えられる。たとえば高齢者においては、転倒・

骨折をきっかけとして入院し、入院中に肺炎を引き起こして死亡に至るというのは一般

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的な経路のひとつであり、裁判例でもその点の因果関係等をめぐって争われることがあ る。第5章・第6章で扱う⑤事案、⑬事案がこれにあたる。

付言すれば「不慮の事故」という概念自体、必ずしも自明ではなく、たとえば民間保 険における傷害保険の約款では「急激かつ偶発的な外来の事故」と表現されているが、

これをめぐる紛争事例はきわめて多い。保険法の概説書においても、傷害保険について はこの部分の解釈論にもっとも多くの頁をあてるのが通例である。疾病による死亡との 区分に関して、たとえば入浴中の心臓発作による溺死などについては判例・学説も分か れている(山下友信『保険法』(有斐閣、2005年)481-482頁)。本研究のテーマに近い 領域での裁判事例としては、簡易保険と傷害保険の支払をめぐって、認知症患者の誤嚥 による死亡が、病死か不慮の事故死かが争われた大阪地裁平成18年11月29日判決(『判 例タイムズ』1237号304頁以下)がある(第6章〔参考裁判例-4〕参照)。

しかもこの人口動態統計では、あくまで死亡原因の振り分けなので、「不慮の事故」と いっても事故自体の区分ではないことにも注意する必要がある。

第四に、前述したとおりこれらはあくまで死亡統計であり、たとえば重傷の統計数等 は把握することができない。裁判となっている介護事故だけを見ても、死亡事案が多い ものの、それ以外の障害を残した事案、骨折の事案等も少なくない。たとえば第5章・

第6章で扱う⑤事案・⑦事案・⑧事案・⑨事案・⑪事案がこれにあたる。

これらからすると、高齢者施設においては「転倒・転落」ないし「不慮の窒息」によ る死亡事故だけでも平均すれば毎日1件以上発生しているが、法的紛争としての介護事 故に発展し得るような「介護にかかる事故」は、これに限らずさらに大きな規模で発生 している可能性が強い。後述するように、第4章で収集し得た裁判例は14 件にとどま るものの、そのように裁判にまで至るのはいわば氷山の一角であり、法的紛争としての 介護事故に発展し得るような「介護にかかる事故」は、より日常的に発生していること が推測される。

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第4節 介護事故に関する先行研究の検討

(1)これまでの先行研究の分類

本節では法的紛争としての介護事故に関するこれまでの先行研究を、その研究目的に 即して分類し、代表的な研究を挙げてその到達点を探るとともに、先行研究で残されて いる課題を、本論文の基本的視座との関係で整理する。文献は、2007年12月までに収 集しえたものを対象とした。

先行研究は、以下で述べるとおり、何を明らかにしようとしているのかという研究の 観点によっていくつかに分類することができる。ひとつの論稿のなかで複数の研究の観 点を有している場合があるため、複数の分類にまたがるものもあるが、ここでは以下の 5つに分類した。すなわち、①判例研究からのアプローチ、②リスクマネジメントの観 点からのアプローチ、③福祉契約論からのアプローチ、④政策的ないしは制度的なアプ ローチ、⑤その他 の5つである。

第一の判例研究からのアプローチは、具体的な裁判事例に即して、法解釈論的に規範 的解決方向を明らかにしようとするものである。第二のリスクマネジメントの観点から のアプローチは、裁判事例を題材としつつ、介護現場において事故を回避し、あるいは 事故が法的紛争となるのを回避する方策を明らかにしようとするものである。第三の福 祉契約論からのアプローチは、福祉契約全般に適用すべき法理を明らかにしようとする なかで、介護事故についても扱うものである。第四の政策的ないしは制度的なアプロー チは、介護事故への政策的・制度的な対応方向を明らかにしようとするものである。第 五はこれら以外のものである。

なお保険論ないし保険政策という観点から、介護事故をテーマとして扱った先行研究 は、現時点ではあらわれていないと思われる。ただし賠償責任保険に関する文献は、本 論文での検討に際して適宜参照する。

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(2)分類ごとの検討

① 判例研究からのアプローチ

第一の判例研究からのアプローチとしては、個別の判例評釈もあるが、ここでは複数 の裁判例を対象とした総合的な研究業績を取り上げる。なお第6章の裁判例の検討にお いては、個別の判例評釈も適宜参照する。

判例研究からのアプローチの代表的な先行研究としては、菊池馨実「高齢者介護事故 をめぐる裁判例の総合的検討(1-2)」『賃金と社会保障』1427-1428号(2006年)を挙げ ることができる。この論稿は、2000年以降、介護事故の裁判例が公刊され始めた時期か らいち早く介護事故に注目し、またその裁判例を積極的に紹介してきた菊池馨実教授に よる総合的な検討であり、他の先行研究と比べてももっとも包括的に裁判例を検討対象 としているものである。

この論稿では、事故を「誤嚥」、「転倒・骨折等」、「脱出・転落」、「入所者の緊急時に おける対応」に類型化したうえで、詳細に各判例を分析している。そこでは福祉現場の 実態も視野に入れつつ、制度的契約論などの最近の民法理論との関係も検討されており、

第三の分類としてあげる福祉契約論にも論及している。

またこの論稿では、個々の判例の検討を受けて「高齢者介護事故と損害賠償責任」と いう形で総合的な検討も行われている。ただしそこでの議論の中心は、介護事故の法的 責任を追及する場合の法的構成についてであり、具体的には債務不履行か不法行為かの 選択、また安全配慮義務構成の位置づけ等である。

さらに安全配慮義務等の水準の高度化が、現実の介護水準との乖離を招くおそれがあ ることから、政策論としては、資格制度・配置人員などの改善がなされるべきであめ旨 を指摘しており、あわせて保険者の責任、行政責任にも論及している。

ただしこの論稿の中心は、あくまで各判例に対する法解釈論な分析・検討である。上 記のとおり、判例に対する総合的な分析も行われているが、その内容は、責任追及の際 の法的構成をめぐる法解釈論的な分析が中心であり、より具体的な、注意義務の内容・

水準の判断基準については、今後の検討課題として位置づけるにとどまっている。また これらの法解釈論とは区別する形で、上記のように政策論にも言及しているが、これも

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問題提起にとどまっている。

この論稿以外の、判例研究からのアプローチによる先行研究においても、具体的な注 意義務の内容・水準の判断基準に立ち入って判例を総合的・横断的に検討したり、裁判 にならない事例も視野に入れつつ介護事故全体に対する法的評価のあり方を考察したも のや、政策的な角度から本格的な検討に踏み込むものは見当たらない。

本論文の視座からすると、このような個々の判例に対する法解釈論的な分析・検討は 引き続き行われる必要があるが、それらとは別に、ひとつにはたまたま裁判例としてあ らわれた事案を束ねるだけではなく、判例を総合的に検討し、さらには裁判にまで至ら ない事案を含めて、介護事故全体の特性・独自性を把握したうえで、その法的評価のあ り方を考察する必要があり、またもうひとつには法解釈論にとどまらず、現行の制度的 要因を所与のものとしない形での政策的・制度的な検討を行っていく必要があるものと 考えられる。

このほか、複数の介護事故裁判例をもとに分析した論稿としては、菊池馨実「高齢者 介護事故をめぐる裁判例の総合的検討(1-2)」『賃金と社会保障』1427-1428号(2006年)

に先行して執筆された、同じ著者による菊池馨実「介護事故関連裁判判例から見たリス クマネジメント」増田雅暢・菊池馨実編著『介護リスクマネジメント』(旬報社、2003 年)所収、福祉契約論に関して挙げる品田充儀「福祉契約と契約当事者―介護事故にお ける損害賠償の法理―」新井誠・秋元美世・本沢巳代子編著「福祉契約と利用者の権利 擁護」(日本加除出版、2006年)所収のほか、以下のものが挙げられる。

やはり早い時期から介護事故に取り組んでいた論者による検討として、烏野猛「介護 事故裁判からみた介護職員の行為準則--医療事故・介護事故争訟をめぐる争点を手がか りにして」『滋賀文化短期大学研究紀要』12 65-83頁(2002年)、烏野猛「高齢者施設 における介護事故裁判からみた社会福祉の課題」『21世紀における社会保障とその周辺 領域』(法律文化社、2003年)所収がある。なお烏野猛「最近の社会保障・社会福祉判 例からみた特徴と争点」『賃金と社会保障』1377号4-11頁(2004年)は、介護事故に 限らず、福祉領域に関連する判例を広く収集している。

そのほか、複数の判決を横断的に検討したものとして、野崎和義「介護事故と過失の

認定--高齢者施設における介護事故判例を素材として」『九州看護福祉大学紀要』6(1)

(2004年)21-30頁、片山由美「施設における介護事故の法的課題への一考察」『法政

論叢』Vol.40, No.2 36-49頁(2004年)等がある。

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実務家によるものとしては、小嶋正『社会福祉施設における事故責任と対策』(東京 都社会福祉協議会、2001年)、本文のリスクマネジメントの観点からのアプローチにお いても挙げた高野範城・青木佳史編『介護事故とリスクマネジメント』等がある。

② リスクマネジメントの観点からのアプローチ

第二に、リスクマネジメントの観点からのアプローチがある。この法的紛争としての 介護事故に対するリスクマネジメントについては、主に実務的な領域で、いわば介護現 場での必要に迫られて多くの検討が行われている。

この領域ではとくに複数の出版物があらわれていることが注目される。増田雅暢・菊 池馨実編著『介護リスクマネジメント』(旬報社、2003年)、高野範城・青木佳史編『介 護事故とリスクマネジメント』(あけび書房、2004年)、渡辺信英編『福祉リスクマネジ メント』(南窓社、2006年)の3冊である。

ただしこのうち第一の増田雅暢・菊池馨実編著『介護リスクマネジメント』(旬報社、

2003年)は、学識者を中心とした研究会をベースとしたものであるが、内容的には別の 分類に含まれるべき論稿も含まれている。すなわち同書第7章の菊池馨実「介護事故関 連裁判判例から見たリスクマネジメント」は、すでに取り上げたとおり判例研究からの アプローチに分類されるものであり、また同書第3章として本論文第8章の原型である 長沼建一郎「賠償責任保険と介護リスクマネジメント」も収められているが、これは介 護事故の損害をカバーする保険の仕組みについて述べたものである。

第二の高野範城・青木佳史編『介護事故とリスクマネジメント』(あけび書房、2004 年)は、実務家によるものであり、また第三の渡辺信英編『福祉リスクマネジメント』

(南窓社、2006年)は、学識者と実務家双方によるものであり、ともに法的な観点から 裁判例を素材としつつ、介護現場でのリスクマネジメントの観点から、事故の発生を回 避し、あるいは事故が法的紛争となるのを回避する方策を明らかにしようとしたもので ある。裁判例を素材とした検討という意味では、第一に挙げた判例研究からのアプロー チとも重なる部分があるが、その目的が法解釈論的な検討ではなく、書名に示されてい るように介護現場におけるリスクマネジメントにあることから、第一のアプローチとは 異なるものである。

介護事故の裁判例は、介護現場に大きな影響を与えることがある。裁判の判決を通じ

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て、事故に際して法的責任を問われる介護のあり方が個別に明らかになるからである。

裁判事案から得られる教訓等を、介護現場で活かしていくという姿勢が重要であること はいうまでもない。

ただしリスクマネジメントという場合、「訴訟にならないように」という事業者側の防 衛的な観点に重点が置かれることがある。たとえば伊藤周平『改革提言 介護保険』(大 月書店、2004年)153頁は、「介護リスクマネジメントについては、現在までのところ 介護事業者の側からの介護事故回避策という性格が強く、要介護者の権利保障の観点が 希薄である」と指摘している。

もっとも逆に訴訟の回避ではなく、リスクマネジメントにより事故の発生自体を防 ぐ・減らすということを目指すとすれば、介護現場においては事故の「根絶」は現実的 に難しい中では、いかなる水準に事故防止の目標を置くのかが問題となりえよう。

またこのリスクマネジメントの観点からのアプローチに分類される先行研究にしばし ば見られる特徴は、個々の介護事故裁判の結果が、介護職員の行為規範と関係付けられ、

そこから介護職員の行為準則を導き出そうとしている点である。

確かにかつてのいわゆる褥瘡裁判(名古屋地裁昭和59年2月23日判決(『医療過誤 判例百選』〔第2版〕122頁以下))のように、単独で介護現場に大きな影響を与えた下 級審判例もある。また最近でも、個々の裁判例が介護現場に注目されているのも事実で ある。しかし現段階で、介護事故の個々の裁判例からいきなり一般的な判例法理や、介 護職員の行為準則を導き出そうとするのは以下のとおり無理があるように思われる。

たとえば犬飼健郎「法律実務家から見た介護施設における介護事故」渡辺信英編『福 祉リスクマネジメント』(南窓社、2006年)所収218頁では、「法的な責任を負わなけ ればならないような事故をなくすための対策についての考え」(213頁)として、転倒に かかる裁判例である福岡地裁平成15年8月27日判決(『判例時報』1843号133頁以下。

第5章・第6章で⑧事案として検討する)に関して、「・・・構造上そのような事故の起き る危険性がある場合には、施設職員はそれを利用する高齢者の動静から一寸たりとも目 を離さないで見守らなければならないという緊張感をもって職務に従事し、施設として 高度の安全配慮義務を尽くさなければならない」「本件では・・・高齢者から目を離した間 の事故であるが、職員の気持ちに緩みがあったと言わざるを得ない」としている。しか しこれらは少なくとも表現をそのまま受け取る限りでは、些か精神論的であり、「法的な 責任を負わなければならないような事故をなくすための対策」として介護の現場でその

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まま実行に移せるような内容とは思われない。

また高野範城・青木佳史編『介護事故とリスクマネジメント』(あけび書房、2004年)

35頁〔近藤厚志執筆〕は、転倒・転落事故におけるリスクマネジメントについて、「裁 判例から読み取れるリスクマネジメントの基本は、・・・とりわけ、事故前の近接した時間 帯における事故の兆候を重視して、事故発生の具体的危険性を『感じ取る』ということ である」としている。しかしいつが「事故前の近接した時間帯」なのか、普通はなかな か分からないのであり、少なくともこの点を強調することが、そのまま介護の現場での

「リスクマネジメントの基本」となりうるか、疑問がある。

あるいは同書46-47頁〔野村祥子執筆〕は、無断外出(徘徊)事故におけるリスクマ ネジメントについて、「・・・施設側として注意すべきことは、要介護者に特に普段と変わ った様子が見られるときは、怠らず目をくばり、注意を払って対応すべき、ということ である。」「一方で、裁判例からは、要介護者に普段と変わった様子が見られず、一般的 に身体的・精神的な機能低下があるのみという状態では、施設側としても常時監視すべ き義務までは不要である、ということも読みとれる。この両者のバランスが、施設側で 判断すべき重要なポイントとなろう」とする。正当な指摘ではあろうが、一般論として は、裁判例の分析をまつまでもなくそのように考えられようし、逆に施設側が具体的な リスクマネジメント対応を講ずるに際して、「この両者のバランスが、施設側で判断すべ き重要なポイント」だ認識とすることが、何らかの具体的・実効的な手がかりとなるの かどうかは疑問である。

より一般的に、個々の裁判例から行為規範にかかる抽象的なルールを導出する手法に 対しては、以下の疑問がある。

すなわち第一に、これまでの裁判例は下級審裁判であり、少なくともその法律構成が それ自体で大きな先例的意義を持つとは限らない。また第5章以下でみるとおり、控訴 された結果、判断が変更されたものや、和解で決着しているものも少なくない。

とくに地裁レベルでは、裁判官による判断の違いも大きいはずである。たまたま件数 が少ないため、1件1件が重視されてしまうものの、将来的にそれが先例的価値を持ち 続けるかどうかは予断を許さない。たとえば医療過誤裁判を考えれば、下級審の裁判例 1件1件をこれほど重視していられない状況になっている。

第二に、裁判における事案の判断においては、その個別の妥当性が重視される。した がってそこから反対解釈的にルールを導き出すことは、適切でない場合がある。

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たとえばある水準の注意義務を果たした場合、それでも過失を免れないとの司法判断 が出されたとしても、それでは逆にどの程度の水準の注意義務を尽くせば過失とならな いかは、その判決だけからは分からないはずである。いいかえれば「その」注意義務水 準では過失があるといえるかどうかという以上のことは、その判決から導き出されるル ールとしては語れないはずである。

そして第三に、そもそも裁判は、事後的、回顧的な法的評価であり、これと事前に求 められる行為規範とは、少なくとも完全に一致しなければならないというものではない はずである。事後的な判断においては、たとえば第1章で言及した法政策学や「法と経 済学」の考え方からは、効率性の観点、いわゆる最安価事故回避者の考え方に依拠して 費用負担の在処が決められることもある。そこでは事前の行為規範としては必ずしも当 事者に要求するのが困難な水準の行為を基準として、事後的には当事者が法的責任を負 うものと評価されることがある。このような点は、とりわけ医療過誤訴訟や医療水準論 をめぐっても指摘されてきたものであるが、不法行為法全般について、この政策的観点 を強調するものとして、内田貴『民法Ⅱ』(東京大学出版会、1997年)322頁がある。

第四に、のちに第6章でみるとおり、各判決ではきわめて微細な事実認定によって事 案の評価が行われることが少なくない。たとえば介護従事者が転倒事案に際して「どの くらいの間、利用者から目を離していたか」、また誤嚥事案に際して「食材をどのくらい の大きさに切り分けたか」などが事業者側の責任の有無の決め手となることがある。類 似の状況のもとで発生した事案であっても、このような細かい事実認定によって結果が 左右される以上、ひとつの裁判の結果から、他の類似する裁判の結果を事前に予測する のは困難である。いいかえれば個々の裁判例から、「このように振舞えば、裁判になって も過失にはならないはずだ」という介護現場の行為規範を導き出したとしても、実際に 裁判になればそれとは異なる結果が出されることも十分あり得る。

以上からすれば、介護事故の裁判例を題材として、介護現場の事故防止策に活かして いくこと自体は否定されるべきではないが、裁判があくまで個別事案での事後的・回顧 的な法的評価であることを踏まえれば、それら個々の裁判の結果を、ただちに一般的な 施設や介護従事者の行為規範と結びつけることには慎重であるべきだろう。むしろ他の 諸判例や介護事故全体との関係を測りつつ、現行制度のもとではただちに受け止めきれ ない部分も含めて各事案を位置づけていくことで、今後の政策的・制度的な対応方向を 模索していく必要があるものと考えられる。

(17)

その他、リスクマネジメントの観点からの論稿としては、法律研究者によるものに限 ってみても、関川芳孝「介護事故とリスクマネジメント」西村健一郎ほか編『下井隆史 先生古稀記念 新時代の労働契約法理論』(2003年、信山社)所収、西田和弘「介護を 巡る事故・紛争事例と利用者の権利擁護・権利救済」『鹿児島大学法学論集別冊「超高齢 社会と介護保険・成年後見」』(2003年)、平田厚『社会福祉法人・福祉施設のための実 践・リスクマネジメント』(全国社会福祉協議会、2002年)、菅原好秀「介護サービスに おける転倒事故と福祉リスクマネジメント」『東北福祉大学研究紀要』30巻119-133頁

(2006年)、菅原好秀「介護サービスにおけるリスクマネジメント-介護事故判例の視 点から-」日本リスクマネジメント学会『危険と管理-自然災害とリスクマネジメント』

RM双書第24集会報第36号(2005年)所収等がある。

とくに1つの論稿のなかで、裁判例の法解釈論的な検討を行った上でリスクマネジメ ントについて論じるものが少なくないため、分類に際しては第一の判例研究からのアプ ローチによる研究業績との振り分けが困難なものもあるが、各論稿の主たる目的という 角度で分類を行った。

なお介護リスクマネジメント関係自体については、法律研究者によるもの以外に、実 務家によるものなどを含め、文献は多数に及ぶ。

③ 福祉契約論からのアプローチ

第三はいわゆる福祉契約論からのアプローチがあり、近時、多くの研究業績があらわ れている。

とくに第44回社会保障学会大会(2003年)で、「福祉契約と契約」をテーマに諸報 告がなされ、『社会保障法』19号(2004年)にその報告内容が収録されている。また新 井誠・秋元美世・本沢巳代子編著『福祉契約と利用者の権利擁護』(日本加序出版、2006 年)には、この社会保障法学会報告を中心とした13 の論稿が集められており、そのな かで介護事故にも焦点を当てた論稿として、品田充儀「福祉契約と契約当事者―介護事 故における損害賠償の法理―」があるほか、本論文第8章の原型となる長沼建一郎「福 祉契約の履行プロセスにおける人身損害と事業者側の責任―介護事故と賠償責任保険の 関係を中心に―」も収められている。

この福祉契約論からのアプローチについては、そのような問題設定自体の評価を含め

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て、近時議論が極めて盛んであるが、そこでの介護事故の位置づけはやや独立的であり、

その契約論自体との対峙関係が明確ではないように思われる。介護事故の問題について は、免責条項を除いて通常は介護サービスを提供する契約の条項自体には反映していな いため、正面から福祉契約論のなかに位置づけづらい面がある。そのため福祉契約論の 法理を明らかにするための検討内容が、介護事故の法的評価にどのように影響してくる かが必ずしも明らかではない。

介護事故と契約論とが直接重なってくるのは、ひとつには当事者の専門性にかかる観 点であり、もうひとつは債務の本旨にかかる観点であろう。

第一に、福祉契約論において、介護事故について言及される場合は、契約当事者であ る介護事業者が、その専門性から、高い注意義務を負うと説明されることが多い。その 説明自体には異論は少ないものと思われるが、その検討内容が、具体的な介護事故にお ける注意義務の認定に資するかどうかは明らかではない。たとえば専門性といっても、

一般人の場合と比べてどの程度注意義務が高くなるのか、具体的な介護従事者(役職や 経験年数等)によって異なるのか、施設運営や人員配置は関係するのか等々が明らかで はなく、専門性という中間概念を持ち出すことが、介護事故に際して法的評価の具体的 な指針となりうるかどうか、疑問がある。

この点、菊池馨実「社会保障法の私法化?」『法学教室』252号(2001年)123頁で は、契約履行過程における事故の際の損害賠償責任について、福祉・介護職の専門職性 が十分確立されていない中で、いわゆる専門家の責任をめぐる議論がどこまで妥当し得 るかが問題となることを指摘している。いいかえれば当事者の専門性を持ち出すことだ けでは、必ずしも事案の解決の決め手にはならないということではないか。

また前掲・品田充儀「福祉契約と契約当事者―介護事故における損害賠償の法理―」

新井誠・秋元美世・本沢巳代子編著『福祉契約と利用者の権利擁護』(日本加除出版、

2006年)所収172 頁は、「介護福祉士についてみた場合、・・・一般人と異なる「専門的 見地」といえるものがどの程度存在するかは疑問である」としたうえで、「もっとも、介 護サービスの利用者は、資格の有無に関わらず、対価を得てサービスを提供している以 上その従事者が一定の専門性を持っており、安全性は確保されているという期待を抱く のは当然であろう」としており、専門性の問題が一律に割り切れないことを示している。

もしそうだとすると、「専門性」という中間概念に依拠せずに、介護事故に対する法的 評価を行う方策がさらに模索される必要があろう。

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第二に、介護サービスを提供する契約において、利用者の生命・身体の安全を確保す ることが、債務の本旨に位置づけられるかどうかが議論になっている。

この点は、介護サービスの提供が、いわゆる手段債務なのか、結果債務なのかとも関 連して論じられる。もしも生命・身体の安全を確保すること自体が、結果債務の本旨と して位置づけられるのであれば、事故を起こしたこと自体で、債務不履行を構成するか らである。

この点について、前掲・品田充儀「福祉契約と契約当事者―介護事故における損害賠 償の法理―」新井誠・秋元美世・本沢巳代子編著『福祉契約と利用者の権利擁護』(日本 加除出版、2006年)所収171頁は、「介護保険サービスについても結果を期待されるこ とは稀であり、基本的には同様に手段債務と考えるべきであろう」「骨折しやすい高齢者 がデイサービスセンターに行って骨折などすることなく安全に帰ってくるという結果の 達成は、対価的給付内容として確実性が高く結果債務であるといえるかは疑問である」

とする。

他方、第一の判例研究からのアプローチの箇所で挙げた菊池馨実「高齢者介護事故を めぐる裁判例の総合的検討(2)」『賃金と社会保障』1428号(2006年)53頁は、前述し たように総合的検討に際して福祉契約論にも触れており、「高齢者介護の場合、入院患者 に対する医師・病院の義務と同様、一般的抽象的には、生命・健康等の安全への配慮自 体が契約目的となっていると見る余地がある」「仮にこのように解し得るとすると、高齢 者介護施設・事業者の負うべき債務を結果債務と手段債務のいずれとみるにせよ、利用 者の安全を配慮する義務は給付義務そのものであるから、労災事故や学校事故で用いら れる『安全配慮義務』と当然に同様の法的性格を有するものとして論じることが適切か 否かについては、今後さらに慎重な検討を必要とする」としており、若干ニュアンスを 異にする。

関連して介護サービスを提供する契約が、典型契約のいずれに分類されるかが議論さ れることがある。一部のサービス種類について、請負や無名契約ととらえる見解もある が、学説の多くは委任契約だと解している。ここでもし委任契約だと解すれば、「仕事の 完成」を目的とするものではないという意味で、手段債務的な構成に近づくことが考え られよう。

これらからすると、介護事故に対する法的評価を行うためには、その背景にある当事 者間の法的関係である介護サービス契約の内容を掘り下げて理解するとともに、これと

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事故にかかる法的責任との関係を考察することが必要となろう。

以上からすると、福祉契約にかかる法理と介護事故の法的評価の関係については、な お検討する余地があるように思われる。もちろん一方の極には、事故をもっぱら不法行 為法の中でとらえて、契約法理とはまったく別の問題として処理することも可能である。

しかし介護事故が、無関係な当事者間で突発的に発生するものではなく、一定の法制度 的な背景のもとで、介護サービス契約の当事者同士の間で発生するものであることから すれば、その介護サービス契約との関係を具体的に踏まえつつ、介護事故への法的評価 を考察していくことが、今後の課題となってくるものと考えられる。

その他、福祉契約論についての論稿としては、以下のものがある。

介護事故への言及の有無に関わらず、いわゆる福祉契約論自体については、早くから 問題提起をした、額田洋一「福祉契約論序説」『正義と自由』52巻7号14-21頁(2001 年)、秋元美世「福祉契約の特質と課題」『週刊社会保障』2214号20-23頁(2002年)

のほか、原田大樹「福祉契約の行政法学的分析」『法政研究』69-4 765-806 頁(2003 年)、山田晋「福祉契約論についての社会法的瞥見」『明治学院論叢』713 号67-121 頁

(2004年)等がある。

ほかに契約という角度からの研究で、介護事故についても言及するものとして、共同 研究の成果をまとめた石橋敏郎・田中孝明・河谷はるみ「介護保険実施後の最重要課題: 介護サービス契約、サービスの質の保障について--熊本県の実態調査を踏まえて」『アド ミニストレーション』10(1・2) 47-129頁(2003年)がある。

さらに消費者契約法の適用という観点から検討したものに、卯辰昇「消費者契約法の 適用に関する序論的考察--介護サービス契約、金融リスク商品契約を中心として」『安田 総研クォータリー』通号 33号24-55頁(2000年)があるが、介護事故についてはほと んど触れられていない。

また海外の紹介を中心とした岩村正彦編『福祉サービス契約の法的研究』(信山社、

2007年)がある。ただし第1章で触れたとおり、介護事故の問題は断片的にしか扱われ ていない。

なお本論文の筆者自身によるものとして、長沼建一郎「準市場における福祉関係と契 約観」『日本福祉大学社会福祉論集』106 号105-114頁(2002年)、岸田宏司・長沼建 一郎「民間シルバーサービスと消費者保護問題――在宅介護サービスを中心として」『ニ ッセイ基礎研所報』vol2 53-80 頁(1997年)、長沼建一郎「介護サービス契約のあり

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方に関する一試論」『21世紀の社会保障改革に向けた視点 : ニッセイ基礎研究所創立10 周年記念論文集』83-130頁(1998年)がある。また介護サービス契約における免責条 項については、本論文第8章の原型となる長沼建一郎「福祉契約の履行プロセスにおけ る人身損害と事業者側の責任」新井誠・秋元美世・本沢巳代子編著『福祉契約と利用者 の権利擁護』(日本加除出版、2006年)所収において検討を行った。

④ 政策的・制度的なアプローチ

第四に、政策的・制度的なアプローチがある。ただしこれらは介護事故についての断 片的な形での論及に止まっている。

そのなかでも本論文の政策的な問題関心から重要なものとして、伊藤周平『改革提言 介護保険』(青木書店、2004年)と、丸山絵美子「サービスと消費者の安全」内閣府(国 民生活局)委託調査『消費者の安全のあり方に関する研究会』報告書(商亊法務研究会、

2003年)第2章「わが国における安全法制の現状分析と展望」第2節がある。なお後者 の論稿をベースとした解説文として、丸山絵美子「サービス関連事故の現状と防止・救 済の在り方」『国民生活』33-7(2003年)14-17頁がある。このほか「判例研究からの アプローチ」や「リスクマネジメントの観点からのアプローチ」で挙げた文献のなかで も、断片的な形では政策的・制度的な内容に言及されることも少なくない。

上記のうち、伊藤周平『改革提言 介護保険』(青木書店、2004年)は、介護保険制 度全般を批判的に検討した研究書であるが、介護事故については小項目を立てて検討し ている。

同書136頁以下では、介護事故の侵害法益からして介護従事者には相応な注意義務が 要求されるものの、事故の背景には人員体制や制度上の不備があることを指摘し、その なかでことさらに過重な注意義務や責任を介護従事者に負わせれば、サービス提供を萎 縮させるなど、マイナス面が大きいとする。そして介護従事者に注意義務や責任は、制 度的な不備や待遇の劣悪さなどを理由に軽減されるものではないが、具体的な法的基準 の確立とともに、制度的な整備や政策的配慮が不可欠だと指摘している。具体的には介 護従事者の労働条件の改善、人員基準の引き上げなどを提言している。

あわせて同書221頁では、介護事故に対する公的責任の後退を批判し、介護報酬の矛 盾・現場へのしわ寄せを指摘し、公的責任の明確化を主張している。さらにそのために、

(22)

最低基準違反にかかる訴訟による質のコントロール等を提言している。

これらの方向性自体には、ほとんど異論を挟む余地がないものと思われる。ただ今後、

「介護従事者の労働条件の改善、人員基準の引き上げなど」の実現を図っていくための 論拠と方策、またその間「介護従事者に注意義務や責任は、制度的な不備や待遇の劣悪 さなどを理由に軽減されるものではない」とされることに伴う「現場へのしわ寄せ」を 踏まえた「具体的な法的基準の確立」を明らかにしていくことが課題となろう。その際 には、介護サービスの提供の枠組みである介護保険制度との関係について、より立ち入 って検討する必要が生じてくるものと考えられる。

また「公的責任の明確化」については、同書のほかにも、公法的規制への違背を介護 事故の法的責任の論拠につなげようとする論者は少なくないが、何らかの公法的規制へ の違背があったからといって、たとえばその事業主体の私法的行為をすべて無効にする のが妥当とは思われないことからすると、公法的規制への違背と事故に際しての法的責 任との関係が明らかにならない限り、裁判での有効な争点とはなりにくい。また介護事 業者や介護従事者を相手取った介護事故の民事裁判において、公的責任を取り上げるこ と自体にも法技術的な困難を伴うことから、これまでの介護事故の裁判例でも、公的責 任を直接の争点としたものはあらわれていない。本論文としては、介護事故の裁判例の 検討を通じて政策的対応に向けた示唆を探るなかで、法政策的・保険政策的な観点から の公的責任のあり方を明らかにしていくことが課題となろう。

また丸山絵美子「サービスと消費者の安全」内閣府(国民生活局)委託調査『消費者 の安全のあり方に関する研究会』報告書(商亊法務研究会、2003年)所収は、共同研究 の中で、サービス契約の安全性について取り扱っているものだが、その中で介護事故裁 判についても素材として取り上げられている。

これは私法的な検討を出発点にしたアプローチといえる。ただし法解釈論から踏み込 んで、サービス関連の事故について、無過失責任導入や、基金創設等による制度的対応 の可能性が探られている点で、注目に値する。しかしこの論稿では幅広くサービスの安 全性を念頭においており、介護サービスの固有性には論及されていない。また内容的に も、いくつかの政策的な可能性と、それぞれの問題点が指摘されているに止まり、保険 スキームによる損失分散についての具体的な検討にまでは踏み込んでいない。

この論稿において提起されている、無過失責任から保険による損失分散にいたる一連 の議論は、自動車事故や、最近の医療過誤でも問題となる論点である。したがってこれ

(23)

らの隣接領域を視野に入れつつ、保険政策の観点を正面に据えて、介護事故への制度的 対応のあり方を具体的に検討していくことが本論文の課題となろう。

⑤ その他

その他、社会保障法などの概説書でも、近時、介護事故への言及がなされるようにな っている。たとえば西村健一郎『社会保障法』(有斐閣、2003年)313-314頁、山口浩 一郎・小島晴洋『高齢者法』(有斐閣、2002年)193-197頁などのほか、介護関係の文 献などの中でも、介護事故について言及されることは少なくない。たとえば今野順夫「福 祉サービスの担い手と法的諸問題」『講座社会保障法 第3巻 社会福祉サービス法』(法 律文化社、2001年)284頁では、介護事故の法的責任という小項目が設けられている。

また実務書では多数があるが、法律的な検討を中心にしたものとして、平田厚『高齢 者福祉サービス事業者のためのQ&A苦情・トラブル・事故の法律相談』(清文社、2007 年)があり、高齢者福祉サービス契約の問題とともに、介護事故の問題にも大きなスペ ースを当てている。

さらにいわゆるルポルタージュであるが、介護事故裁判をテーマとするものとして、

横田一『介護が裁かれるとき』(岩波書店、2007年)がある。これは新聞記者である著 者が、自身の親の介護事故とその後の裁判の体験をもとにしつつ、幅広く介護事故と裁 判の事例も収集し、関係者へのインタビューも行いながら構成した文献である。このほ かルポルタージュとしては、大高智子「老人保健施設の介護事故を追って」『賃金と社会 保障』1280号(2000年)4-9頁などがある。

なお介護事故に限らず、隣接する医療事故領域や、広く安全政策という意味では多数 の重要な文献があるが、具体的な検討箇所でそれぞれ言及することとする。

(3)小括

以上をまとめると、第一に、法的紛争としての介護事故に関する先行研究は、その論 稿の主たる目的から、判例研究からのアプローチ、リスクマネジメントの観点からのア プローチ、福祉契約論からのアプローチ、制度的・政策的なアプローチ、その他の文献 に分類することができ、それぞれについて多数の論稿がある。

(24)

第二に、このうち判例研究からのアプローチにおいては、介護事故にかかわる法解釈 論的な論点が摘出され、規範的な解決方向が検討されている。他方、それら個別の事案 を束ねるだけではなく、これまでの裁判例を総合的に検討して、裁判にならない事例も 視野に入れつつ介護事故全体に対する具体的な法的評価のあり方を考察することは、今 後の課題として残されている。

第三に、リスクマネジメントの観点からのアプローチにおいては、介護事故の裁判例 を介護現場の事故防止策に活かしていくことが志向されている。しかし裁判があくまで 個別事案での事後的・回顧的な法的評価であることを踏まえれば、それら個々の裁判の 結果をただちに一般的な介護事業者や介護従事者の行為規範と結びつけることには慎重 であるべきであり、むしろ他の諸判例や裁判にならない事案との関係も測りつつ、各裁 判例を位置づけていくことで、今後の政策的・制度的な対応方向を模索していく必要が あるものと考えられる。

第四に、いわゆる福祉契約論の検討のなかでも、介護事故の問題が扱われることも多 いが、その扱いはやや独立的であり、福祉契約論と介護事故への法的評価との関係につ いては必ずしも検討が深められていない。介護事故が、無関係な当事者間で突発的に発 生するものではなく、介護サービス契約の当事者同士の間で発生するものであることか らすれば、その介護サービス契約との関係を具体的に踏まえつつ、介護事故への具体的 な法的評価のあり方を考察していく必要があるものと考えられる。

第五に、介護事故に対する制度的・政策的な検討については、やや断片的なものにと どまっており、本格的な検討は行われていない。とくに政策的・制度的な観点を踏まえ て、介護事故に対する法的評価のあり方を明らかにしていくためには、介護サービスの 提供の枠組みである介護保険制度との関係について、より立ち入って検討する必要があ るものと考えられる。また事故の損害をカバーする保険スキームとの関係については、

その位置づけの重要性が認識されつつも、本格的な検討の俎上に載せられていないこと から、交通事故等の隣接領域を視野に入れつつ、保険政策の観点を正面に据えて、介護 事故への制度的対応のあり方を具体的に検討していく必要があるものと考えられる。

第六に以上からすると、これまでの研究アプローチの推進が引き続き求められるとと もに、これらとは異なる角度からの研究も必要ではないかと考えられる。すなわち上記 で第二から第五の点として述べてきた課題に正面から取り組む形で、個別の裁判事例の 検討にとどまらずに介護事故全体を念頭に置きつつ、これまでの裁判例を総合的に検討

(25)

し、介護事故に対する法的評価のあり方を明らかにするとともに、それらを前提として、

事故の損害を分散するための保険スキームや、介護サービス提供の枠組みである介護保 険制度との関係も含めた形で、今後の制度的・政策的な対応方向を明らかにする必要性 である。これらを踏まえての本論文での基本的な研究の視座については、第1章第4節 で述べたとおりである。

以上を踏まえて、まず第3章では介護事故の発生にかかわる法的・制度的な関係につ いて検討する。

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