新島襄が帰国するにつき演説をしたラットランドの 教会と教会史
著者 松村 七五郎
雑誌名 新島研究
号 107
ページ 145‑148
発行年 2016‑02‑29
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015601
コラム
新島襄が帰国するにつき演説をした ラットランドの教会と教会史
松 村 七五郎
前々号第105号に於いて『新島研究』編集委員会が「同志社でAmherst を『アーモスト』と表記する事になった経緯」と題してコラムに「新島襄の 同志社では今日までほぼ一貫して『アーモスト』としてきました。」と発表 されたのを記憶している。
Amherstの日本語表記のこととは異なるが、同志社全体の出版物、同志社
校友会のHPでの「同志社設立案内」に、音声、映像入りの校友会員案内、
又2013年の一年間放映されたNHK大河ドラマ「八重の桜」第33回目の番 組画面での字幕紹介等多くの広報、案内媒体に於いて、新島襄が帰国少し 前、アメリカ・ラットランドの教会で同志社設立の発端となる基金要請の嘆 願のスピーチを行った教会を紹介しているが、どういう訳か全てに於いてそ の教会を『グレイス教会』と紹介されている事に疑問を感じる。
これは私が過去数度、この教会を訪ね、そこで1988年に創立200年を記 念して発行された『This Far By Faith』(信仰によって、これ迄)と題した114 ページの教会史を頂き、そこに教会の歴史として記されていることに因るも のである。
教会史『This Far By Faith』は
History of Grace Congregational United Church of Christ 1788−1988 というサブタイトルを持ち、最初のページは
HISTORY OF THE EAST PARISH CONGREGATIONAL CHURCH of Rutland, Vermont
(Now known as Grace Congregational United Church of Christ)
For where two or three are gathered in my Name, there am I in the midst of them
Mathew 18 : 20
とマタイ伝18章20の言葉を引用して200年前の教会名と教会史が書かれた 1988年の教会名を括弧書きで「現在、グレイス会衆派合同キリスト教会と して知られている」と紹介している。そこでは、1874年10月9日の新島の アピール演説の時点に於いて、正式の教会名はEast Parish Congregational Church of Rutland(ラットランド東地区会衆派教会)であった。短く言って Congregational Church of Rutland, VT(ラットランド会衆派教会、教会史 p.1)で、現在同志社で紹介されている『グレイス教会』Grace Congregational United Church of Christに変わったのはつい最近の1969年2月で、同ページ 58では In February, 1969, at the annual meeting, our name changed from Congregational Church of Rutland, Vermont, Incorporated to Grace Congregational United Church of Christ と記されている。
従って『グレイス』を敢えて使われるのなら『現グレイス教会』と表示さ れるか、当時の教会名を使うのなら、単に『ラットランド会衆派教会』と記 述されるのが望ましいと考える。
また大河ドラマの画面では『アメリカ・グレイス教会』と字幕紹介がなさ れたが、これではアメリカの何処の教会なのか、又どの教派の教会なのか解 らない。長老派、メソジスト、福音派等でも「グレイス教会」と名乗ってい る教会がある事から、強いて言えば『現アメリカ・ラットランド・グレイス 教会』などの具体的な字幕紹介が必要だったと考える。Amherstについての 同志社内での日本語表記の統一化と同じく、教会史に基づいた正しい教会名 の使用も『新島研究』編集委員会が決め、それによって文書、映像等での正 しい案内表示を積極的に働きかけられる事を望むものである。それでなけれ ば、いつ迄も間違った教会名が一人歩きすることになる。
この教会史は200年の歴史をカバーするものとして発行されたものである
が、教会史を読む限り、教会には1874年10月9日の出来事は記録として遺 されていなかったようだ。
しかし、新島は大学設立の始末(明治16年4月)に於いて帰国後学校設 立の為の寄金援助要請をラットランドで行った事とその時の状況を記してお り、又その場面の新島自身の記憶による直接の言葉がArthur Sherburne Hardy
(新島の養父Alpheus Hardyの三男)による Life and Letters of Joseph Hardy
Neesima 1)に引用されている。同志社では忘れられかけている出来事であ
る。故オーティス・ケーリ教授によると、100年後の1974年11月、たまた ま通りかかったラットランドの町で見つけ訪ねた2)所がその教会で、面会し た牧師は歴史的エピソード等何一つ知らなかったようでびっくりしたとい う。後日帰国したケーリ教授に1874年10月15日付けの Rutland Weekly
Herald (毎週木曜日発行の週刊新聞)が送られてきた。それは前週10月8
日(木)と特に最終日9日(金)の総会の模様、第三者である観察者(記 者)による新島の挨拶と突然の基金援助を求める姿等を映像のように報じる 記事であった。教会はその出来事を知ることになり、教会史に改めて書き入 れている。
教会史はそれとは別に1890年7月27日、その半年前に永眠した新島を追 悼する祈祷会 Japanese Sunday (同p.29)がこの教会で開かれ、当時同志 社を中退してアンドーヴァー神学校で学んでいた村井知至が朝・夕の説教を 行い、その説教壇に新島の肖像画写真が置かれていた事も記している。この 肖像画写真は教会員(作者不明)が制作したものが当日教会に寄贈されたも ので、その後、誰知ることもなく倉庫に眠った状態で保管されていた。それ を訪ねたケーリ教授が見つけ出したとのこと3)。1890年と言えばこの肖像画 写真はAmherst大学Johnson Chapelにある新島の肖像画写真(1901年制作)
より古いものになる。同志社はラットランドの教会からその肖像画写真の寄 贈を受け、それに応えて、代わってレプリカが送られ、訪問時お願いすれば 見せて頂ける。又同志社には寄贈されたオリジナルが何処かに保管されてい るか、何処かの部屋に掲げられている筈である。
注