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形象と解釈 : ガダマーの言語思想

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Academic year: 2022

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形象と解釈 : ガダマーの言語思想

著者 嵩原 英喜

URL http://hdl.handle.net/10236/10026

(2)

学 位 の 専 攻 分 野 の 名 称 学 位 記 番 号 学位授与の要件 学位授与年月日 学 位 論 文 題 目

論 文 審 査 委 員 (主査)

(副査)

嵩 原 英 喜

形象と解釈

 ―ガダマーの言語思想―

博 士(哲 学)

甲文第113号(文部科学省への報告番号甲第406号) 学位規則第4条第1項該当

2012年3月2日

嶺   秀 樹 米 虫 正 巳 加 藤 哲 弘

教 授 教 授 教 授

論 文 内 容 の 要 旨        

 本研究は、ハンス=ゲオルク・ガダマーの言語思想を軸に、哲学的解釈学の新たな可能性を示そうとする ものである。特に、「理解されうる存在は言語である」という彼の言語論の中心テーゼに焦点を定め、ガダマー の解釈学の様々な位相を貫く言語の思弁的構造に光を当てることによって、ガダマーにおける言語概念が「形 象」(Bild)として形成されていることを解明しようとするものである。本論文は、 序章および第一部、 第二 部、第三部の三つの部分、終章から成り立っている。

 まず序章では、ガダマー解釈学の主題が本来言語論にあることを提示し、言語論が主著『真理と方法』の みならず、その後の彼の思索において重要な位置を占めていることを明らかにしている。従来のガダマー研 究では、彼の解釈学を歴史論から論じる傾向が強く、言語論はどちらかというと二次的なものとして扱われ ていた。しかし、歴史論はガダマーの長年の思索における一段階にすぎず、体系的観点から見れば、彼の思 索の土台は芸術論にあり、その上に歴史論が組み立てられ、最終的に言語論として結実することは、主著の 構成に見られるとおりである。

 第一部では、ガダマーの言語概念を浮き彫りにすることが試みられる。まず第一章においてガダマーの言 語思想史批判が取り上げられる。ガダマーはプラトンやフンボルトにおける言語の道具主義的理解を「言語 忘却」や「形式主義」として批判しているが、こうした批判の根底にあるのがガダマーの形象としての言語 理解である。続いて第二章では、ガダマーの芸術論における遊戯(遊び)論や作品論をたどり、言語が単な る記号や象徴ではなく、それ自身において意味内容を形成する「形象」であることが確認される。最後に第 三章において、G・ベームの形象解釈学やヘーゲルの思弁的命題の思想を引き合いに出すことによって、ガ ダマーの言語論を形象論として示すことが可能である所以が示される。ガダマーの言語概念は、形象の論理 ともいうべき自己指示的な思弁的構造を備えており、人間の解釈学的経験を支えるものである。

 第二部では、言語の思弁的構造を掘り下げるべく、それがより顕在的となる「対話」や「解釈学的循環」

という解釈の遂行の諸相が取り上げられる。まず第四章では、「解釈学的対話」がテクストに対して形象と して向き合うこと、そして解釈それ自身も形象的な振る舞いをすることが示される。「対話」はガダマー哲 学の代名詞のように見なされているが、こうした形象的振る舞いをする「対話」こそが有限な人間存在のか なった超越のあり方なのである。続いて第五章において、ともすれば批判を浴びやすいガダマーの古典概念 が取り上げられる。特に D・イェーニッヒのガダマー批判に対してガダマーを弁護することを通して、ガ

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ダマーの古典概念の真意が解き明かされる。彼の古典概念は、決して歴史的・様式史的カテゴリーではなく、

解釈の遂行そのもののカテゴリー、すなわち作用史的カテゴリーである。最後に第六章において、解釈学的 循環の議論を通して、解釈の言語性格が形象的であることが示される。ガダマーが取り上げる「解釈学的循 環」は、従来の解釈学的循環の理解のような部分と全体の循環ではなく、ハイデッガーの循環の規定に即し た存在論的原理である。ガダマーは、「完全性の先行把握」を通した「超越的な意味期待」の内に、循環の 積極的な可能性を見ているのである。

 第三部では、本論文の主題であるガダマー言語論の中心テーゼを解明することによって、ガダマーの主張 する「解釈学の普遍性テーゼ」が擁護される。まず第七章において、ガダマーの「理解されうる存在は言語 である」というテーゼが謎である所以が説明され、このテーゼについての従来の解釈がいかに問題をはらむ ものかが示される。このテーゼを真に理解するためには、予断を排除し、あくまで主著の議論を内在的に解 明しなければならない。このテーゼ自身が形象的=思弁的構造をもっていること、それとともにガダマーの 言語概念が最大の外延を獲得していることを踏まえて初めて、「解釈学の普遍性テーゼ」の真意を掴まえる ことができるのである。次に第八章において、「解釈学の普遍性のテーゼ」の内実を確認しつつ、ガダマー が言語の普遍性の根拠を「美と光の形而上学」に求めていることが明らかにされる。彼の言語論が形象論で あることは、美論を通して解明されるのであり、言語性格の有する普遍性もそこから追求すべきことなので ある。

 終章では、ガダマーの言語論の哲学的可能性として二つの点が指摘される。一つは、ガダマーが言語使用 の出来事的性格に着眼していることから、彼の言語論を「言語起源論」として読むことができることであ る。もう一つは、彼の哲学的解釈学が、形象としての言語の議論を通して有限な人間存在の固有性を解明す る人間存在論となる可能性である。言語を形象として捉えることは、言語の純粋性や透明性を疑うことであ ると共に、言語の有限性ゆえの開放性を実現することでもある。言語は媒体として不透明であり有限である が、この有限性に徹することによってのみ、言語の開かれた可能性も見えてくる。ガダマーの思索は、歴史 的経験の有限性のみならず言語経験の有限性を解明することによって、人間の世界経験における「有限性の 軌跡」を跡づける哲学的解釈学となっているのである。

論 文 審 査 結 果 の 要 旨

 本論文の研究対象であるガダマー(1900 〜 2002)はハイデッガーから大きな影響を受け、解釈学を従来 の単なるテクスト理解の方法論や精神科学の基礎づけとしてではなく、人間の世界経験の基礎的構造を解明 する哲学的解釈学として確立した20世紀ドイツの代表的哲学者である。ガダマーはシュライエルマッヒャー やディルタイなどのドイツ解釈学の伝統を受け継ぐと共に、彼らと批判的に対決し、解釈学の軌道を認識論 的問題から存在論的問題へと大きく転換した。ガダマーの主著の標題『真理と方法』は解釈学のこうした「存 在論的転回」をよく特徴づけるものとなっている。『真理と方法』は三つの部分から構成されており、第一 部においては芸術論、第二部においては歴史論、そして第三部においては言語論が展開されている。これま でのガダマー研究では、主として第一部の芸術論や第二部の歴史論に重点が置かれ、第三部の言語論に光が 当てられることは稀であった。それは、ガダマー哲学の体系的解釈を標榜している J・ウォーンキの『ガダマー の世界』にもっともよく現れている。彼女の研究でももっぱら芸術と歴史が論じられるのみで、言語の体系 的意義はもちろんのこと、ガダマーの哲学的解釈学における言語論の位置づけさえもほとんど考慮されてい ないのである。こうした傾向は、そもそも自然科学との対比のもとで精神科学の基礎づけを試みた新カント 派やディルタイの解釈学から脱皮することによって、自らの基盤を築き上げようとしたガダマー自身の哲学 的解釈学の構想に由来すると思われるが、嵩原氏のガダマー論は、従来のガダマー研究の傾向に補正を加え、

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言語論を軸に彼の哲学的解釈学の意義を発掘しようとしている。それは、ガダマーの主著における言語論が 芸術論や歴史論と並ぶ単なる一部門に過ぎないものではなく、解釈学の普遍性要求に対応する主要課題であ ると考えられるからである。芸術経験や歴史理解の根底にある言語のあり方に光を当ててこそ 、 解釈学の存 在論的転回の意味が明らかになる。こうした根本洞察をもとにして、嵩原氏は理解や解釈における言語の働 きについて粘り強い論究を積み重ね、思弁的構造をもった「形象」としての言語概念を彫琢していく。本論 文は、400字詰めの原稿用紙に換算して600枚にわたる大部の論攷であるが、読者を途中で飽きさせない読み ごたえのあるガダマー論となっている。

 本論文の特記すべき点をいくつか具体的に紹介すると、第一に、理解や解釈における「言語」の本来のあ り方を、存在と現出が一体となって絶えず意味を生成していく「形象」概念に求めたことである。形象と解 釈学的反省の連関は、ガダマーの弟子であり、今日の形象論の代表者である G・ベームが主題として採り上 げた問題であるが、嵩原氏はこうしたベームの形象論を手がかりとして、「遊び」や「対話」、「解釈学的循環」

など、ガダマーの言語論の諸相を解き明かしている。「形象」の問題は、言語論のみならず、芸術作品や芸 術経験の重要な契機に関わる問題でもあり、また、イデア論に基づくプラトンの言語論やフンボルトの言語 哲学の形式主義に対するガダマーの批判の真意を解明する鍵ともなっている。芸術表現と密接に関連する形 象概念にこそガダマーの言語論ひいては彼の哲学的解釈学の核心が見いだされるという氏の主張は、これま でのガダマー研究に一石を投じるものであり、今後議論を深めるべき重要な観点を提供している。

 本論の第二の特色は、ガダマー解釈学の中心テーゼ「理解されうる存在は言語である。」に焦点を定め、「た だその一点に向けて 、 彼の哲学の成果を明らかにしよう」としていることである。このテーゼはガダマーの 哲学的解釈学が論じられる場合に必ずといってよいほど言及される有名なものであるが、その真意はこれま で必ずしも十分に明らかにされてこなかった。嵩原氏はこのテーゼのもつ「思弁的構造」に着眼し、ヘーゲ ルの弁証法的思索とも絡めつつ解釈学の普遍性要求の意義を解明し、ガダマーの言語論の哲学的射程を測る ことに成功している。

 本論の第三の特色は、ガダマーの哲学的解釈学が試みてきた数々の論争、例えばハーバマスやデリダとの 論争を取り上げ、ともすれば旗色の悪かったガダマーの立場に立って「合意」と「意思疎通」の解釈学的意 味を解明し、ガダマーの「解釈学の普遍性の要求」をそれなりにうまく弁護できていることである。ハーバ マスにせよデリダにせよ、ガダマーに対して説得力のある批判を投げかけているのであるが、嵩原氏は、彼 らの批判を受け止め、彼らとの議論を通じて自らの思索を深めていくガダマーの姿勢に哲学的解釈学の開か れた可能性を見ており、言語的媒体の不透明性・有限性に徹することによってこそ「普遍的な言語概念」、「普 遍的な形象概念」について語ることができる所以を、説得力をもって示している。

 以上のごとく、本論文はガダマーの言語論を軸にして、彼の哲学的解釈学の意義を明らかにしようとした ものだが、いくつかの疑問点がないわけではない。一つは、ガダマーの思索に密着しすぎた結果、これまで ガダマーに向けられた数々の批判―たとえば「テクストと解釈」をめぐるハーバマスやデリダの批判、古典 概念をめぐるイェーニッヒの批判など、ガダマーに対する批判としてのみならず、芸術経験や歴史理解、テ クスト論、コミュニケーション論に関わる哲学全体に対して非常にインパクトのある問題提起―を簡単に退 け、ガダマーを過度に擁護している印象を与えることである。ガダマーの立場からもう少し距離をとり、彼 のロゴス中心主義(ないしヘーゲル主義)への否定しがたい傾向に目をつぶらず、批判的に考察することも 必要であったと思われる。

 もう一つの疑問は、氏がガダマーの言語論・芸術論を取り上げる際に、彼の言語概念、芸術概念そのもの のもつ限界を十分に考慮していないことである。ガダマーがモデルとしている芸術や言語作品が特定の時代 背景をもったものであること、また芸術・歴史・言語に関わる彼の解釈理論自身が歴史的に規定されている ことは、ガダマー自身の理論からしても当然のことである。現代の芸術の状況は変化し、作品概念は変貌し

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ている。嵩原氏としては、自らの解釈学的状況を反省することによって、ガダマーの芸術作品理解の根底に ある芸術の聖域化の傾向に批判のメスを入れ、現在の芸術状況を考慮しつつ、ガダマーの解釈理論の射程を 批判的に測定する試みがあってもよかったのではないか。

 しかし、以上のような問題点は残るものの、本論文は表現論の観点からガダマーの芸術論や言語論を論じ た重厚かつ優れた研究となっており、これまで軽視されてきたガダマーの哲学的解釈学における言語思想の 核心を取り出した貴重な試みであることには違いがない。

 当審査委員会は、さる2月10日に提出論文についての公開発表会および試問を行い、これらと上記の論文 審査結果から、本論文の著者嵩原英喜氏が課程博士(哲学)の学位を授与されるに足る十分な資格を有する ものと判断したことをここに報告する。

参照

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