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相互理解とは別な仕方で : ガーダマーとハイデガーの解釈学

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Academic year: 2021

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(1)Title. 相互理解とは別な仕方で : ガーダマーとハイデガーの解釈学. Author(s). 後藤, 嘉也. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 52(2): *1-16. Issue Date. 2002-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/728. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 人文科学 ・社会科学編)第五十二巻 第二号 平成十四年二月 北海道教育大学紀要 (. 相 互 理解 と は別 な 仕方 で. 嘉. 也. よう やく、 魂と し て立ち現 れる。 もしも人 間 が自 らを理解す る ことが でき る. の よ う に、 外 部 の何 も のか に働 き か け ら れ て感 応 し 、 そ し てそ れ を 記 憶 し て. 「 篤」) と歌 った。 私 の魂 は、 自発的 な力 をも たな い場 であ る楽 器 憶す る」 (. 私 の魂) は記 私 の魂)と いふ こと は言 へな い:::しかも ( 伊東静雄 は、 「(. デガ ーは、初期 フライブ ルク時 代 (一九 二三年夏学期 ま で) から 『存 在 と時. この交 互限定 の骨組 みをなす のは、解釈学 的循 環と いう構造 であ る。 ハイ. ても 縁 な き ま ま にと ど ま り、 他 が な け れ ば 私 は い つま でも 私 に気 づ か な い。. 解 し同時 に目を理解す る こと に帰着 す る。私 が いなければ他 は何 も のにと っ. 事 象 をめぐ って) 他 を 理 せよ、 積 極的 に寓意を取 り出 そうとす る にせ よ、 (. 1 1・ - ー ー-ガ ー ダ マ ー と ハイ デ ガ ー の解 釈 学 1. 藤. 北海道教育大学函館校倫理学研究室. 後. しあ い、合意す る ことが解釈学 であ る。 テク ストと いう他 を読 む技術 と いう. と す れ ば 、 そ れ は、 他 な るも の に出 会 う こと 、 あ る いは む し ろ他 な るも の の. 間』 (一九 二七年)期 にかけ て、 ほぼ 一貫 し て解釈 学 の立 場 を と り 11 そ の. はじ めに. 呼 び か け に応 じ る こと に よ って であ る。 私 の外 部 にあ って私 と は 異 質 な或 る. 内実 は変 動 す るが 11、 解釈学的循 環を説 いた。 無前 提 の知 など あ り えず、. 原形 に則 し ていいかえれば、解釈学 は、字義 を忠 実 に蔚分 けし ようとす る に. も の に見 ら れ 、 逆 に私 も そ れ を 見 る こと に よ って、 私 は、 そ れ が 語 る う と す. 理解 が成立す る には理解す る側 の何 らか の前提 ・先入見 が必要 であ り、 この. 事 が解釈学 であ る。 あ る いは、 他 な るも のが話題 にし ている事象 が直接 には. を獲得す る。自他 が規定 しあう なか で私が他 と自 らとを知 ると いう この出来. 私 の魂) の つぶやきも別様 にな る。 それゆえ、 私 は相 互作用 によ って知 て (. しかし、同じ手 が触 れ ても楽器がちがえば音が変わる。私 のありよう によ っ. イ デ ガ ー のも と にも イ デ ア界 にも 存 在 し な い。. る者 によ って別 な か た ち を と る。 永 遠 不 変 の真 の ハイ デ ガ ー は ど こ にも 、 ハ. 解 にも、 理解す る側 の先入見 が反映 せざ るを えな い。 ハイ デガ ー像 は受容 す. 的 循 環 の大 要 であ る。 これ にし た が え ば 、 ハイ デ ガ ー そ の ひ と に つい て の 理. 前提 は理解 な いし解釈 の結果 にも変容 しながら回帰 す ると いう のが、 解 釈学. ( 1). る何 ご とかを、 ま た他 な るも のや私 が何 であ るかを教 えられる。. 他な るも の自身 や私 ではな い場合 には、 その事象 に ついて自他 が相互 に理解.

(3) . . 也 後 藤 嘉. ど と は 対 照 的 に、 ガ ー ダ マ ー は 、 若 き ハイ デ ガ ー の事 実 性 の解 釈 学 に も 、. が 、 彼 の解 釈 学 で さ え ハイ デガ ーを 満 足 さ せ な か った 。 学 友 レー ヴ ィ ット な. た フ ィ ンク と 並 ん で) 最 も 忠 実 な 弟 子 であ り つづ け た の は ガ ー ダ マー であ る. れ た 学 生 た ち の な か で、 (フ ラ イ プ ル ク で フ ッサ ー ルと ハイ デ ガ ー に師 事 し. 初期 フライブ ルク時代 や マールブ ルク時代 (一九 二八年夏学期 ま で) の優. いて部分が 理解 され、部 分 の理解 にも とづ い て全体 が捉 えられ る。 これが、. 全体 を、 ひ いては物語全体を読ま なけ れば ならな い。全体 の先 取 り にもとづ. たとえば まらうど は蕪 で姫宮 は大 君 であ る のを知 る) には総角 の巻 解す る (. 宮 いとむ つかしと おぼす」 と いう文章を読 ま なければならな いが、 これを理. 暮 れ ゆく に、客人 は帰り給 はず。 姫 小 さ い全体 を理解 す る には そ のなか の 「. 総角 の巻を 理解す る には五十 四帖を読 まなければ ならな い。総角 の巻と いう. 古代弁論術 が注目 し近代 解釈学 が受 け ついだ全体 と部分 の循 環 であ る。. 転 回」 ( 前期 から後期 への へ 存在 と時間〉 と いう問題 設定 にも、 いわ ゆ る 「 移行) 以後 の思索 にも、 反旗 を翻 す ことなく多 くを学び、 存在論 とし ての哲. 部を なす。 全体 と部分 の循 環は、読者 が先 入見 をも ってテク ストと自分 と の. この循環 は、視 界を広 げ て言 えば、読 む者 と テク スト のあ いだ の循 環 の 一. 右 のよう な解釈学 それ自 身 の性格 から由来す る。. と 二度目 に読 んだとき で違 って見 え る のは、初 回と 二回目 のあ いだ に大 なり. 学的解釈学を展開した にもかかわらず。 しかし、師を喜ば せな いこの展開 は、 解 釈学的 循環 の構造 はまた、真 理がしばしば隠 され ていると いう ことを伴 う。先 入見 は、自 己 や他 者 を含 め事象 をあら わ にす るととも に隠 しもす るか. 小 なり時間 が たち、全体 や部分を 一度す でに読 んだ ことや そ の他 のさまざ ま. あ いだ を 行 き つ戻 り つす る こと だ か ら であ る 。 テ ク スト が 最 初 に読 ん だ と き. ら であ る。 こ の こと は ハイ デ ガ ーも ガ ーダ マーも 十 分 に意 識 し て い た 。. 存在 す ること、 なか でも人間と いう存在す るも の ( 存在者) が存在す る こと. 描 き 出 し た り、 バ ラ ン ス シ ー ト を 作 成 し た り す る こと では な い。 ね ら い は、. る こと の思索と存 在論 へ転換 し た解釈学と に つい て、 二 つの正確 な全体像を. であ る。 それ は、 両者 の解 釈学 に ついて、あ る いは解釈学 を放棄 し た存在す. 非 -)主 題 に接近す る師弟 の解釈学と、 対話を交わす こと す る ことと いう (. 味 で) は、 隠 され ている ことと桔 抗 す る隠 れな さとし て真 理を捉 え、 存在. が つね に特定 の視座 に立ち、特定 の視線方向 で、特定 の視 界 のなか でお こな. 年) では、 「 解釈 学的状 況 の告知」 を お こな った。 解釈学 的状 況 と は、 解 釈. 「アリ スト テ レスの現象学 的解 釈」 (いわ ゆ る 「ナート ルプ報告 」、 一九 二二. なく てはならな い。 ハイ デガ ーは この解釈学 的循 環を積極的 に意 味づ け る。. か い、また事象 から先 行理解 の修 正 に戻 るのを繰 り返す循 環 の経路 を たどら. 先 入見 は理解 の結果 のな か に回帰す る。先行 理解 な いし先入見 から事 象 に向. こ う し て、 そ の つど 何 ら か の先 入 見 が あ って は じ め て理 解 が 可 能 にな り、. な経験を へたため に、 読 む側 の先 取 りが変化 した こと によ る。. をめ ぐ る解釈学 の可能性 を望 み見 ること にあ る。 と りわけ、 ガ ーダ マー解釈. われ ると いう事態 を指す。 より成熟 した 『存 在 と時 間』 では、解 釈 学的状 況. 本 稿 の主題 な いし非 ・主題 ( 主題化 しよう とし ても たえず逃 れ ると いう意. 学 が自 他 の相 互 理 解 な いし 相 互 現 前 を 到 達 し が た い、 し か し 到 達 す べき. は予め の構 造 とし て語ら れ る。解釈 は、解釈 されるも のを何 らか の仕 方 で予. テ ロ ス. 究 極 目 標 と し て い る 点 を 明 る み に出 し 、 さ ら に こ の テ ロス に疑 問 符 を 打 つこ. めもち、 それ に予 め特定 の視点 から、 何らか の予備的 な概 念的把 握 をたずさ. も解釈学的循 環を積極的 に継承 し、伝統 への帰 属 には ハイ デガ ー以上 に強 い. この解釈学的状況を規定 す る大き い要素 は歴史的伝統 であ る。 ガ ーダ マー. ば先行 理解 ( 先入見 な いし予め の判断) であ る。. え て接近 し てはじめ て成立す ると いう のが、 予 め の構造、 より具体 的 に いえ. と にあ る。. 一 解釈学 的 循環 ーー あらかじめ失 われた自 己 へ 源氏物語五十 四帖全体を理解す るには総角 の巻を読 まなければ ならな いが、.

(4) . 相互理解とは別な仕方で. 「 盤 とな ると いう丸山員 男 の指摘 ( 歴史 意識 の 『古層』」) も、 与 えられたも. 傾向 ) があ り、 これがときどき の外来 思想 の受容 や歴史的変動 への対処 の基. ( 刻 々の 「いま」 を中心 とす る 一方向 的 な進行 にお い て世 界を とら え る精神. えようと ー ー 天照大神 たち に敗 れ る、 と いう運命 を描きと っていた ( 「 神神 。 また、 日本人 の歴史意識 の古層 に 「つぎ つぎ になりゆく いきほ ひ」 の微 笑」 ). 荘 や仏陀 が そう であ った よう に天 主教 のデ ウ スも ーー 信徒数 がどれ ほど増. し て受け取られ るとき にさえ 日本 風 に変容 され る。 芥川龍之介 は、 孔孟、老. さ い に つね に 一種 の フ ィ ル タ ー と し て作 用 す る。 外 来 文 化 は、 そ れ が物 神 化. 伝統 とし て存在す る こと は否定 しがた い。 そ の伝統 は、外来文化 を摂取す る. 界 に存在す るかどうかは不確 か であ る。 しかし、何 らか の日本人的 なも のが. 典 型的 日本人 や 日本人 そ のも のが 日本領土 の内外 やイデ アールなも のの世. 排 除 す る こと に よ って、 事 象 そ のも のを 浮 か び 上 が ら せ な け れ ば な ら な い。. (いや、先 入見 はす べて歴史 的 なも の であ るか ら、 歴史 的 なも のを) 一挙 に. あら ゆる先 入見 の効力停止 が学 を構築す る第 一歩 であ る。歴史的 な も のをも. をも って事象 を与 える現象学 は無前提 の厳密 な学 でなければなら な か った。. あ ら た な 理 解 に つな が る。 少 な く と も 中 期 の フ ッサ ー ル に と って は 、 明 証 性. か ら の移 行 と し て生 じ る。. ば、真 理 は非 -真 理から分 け る ことが できず、非 -真 理と の桔抗、 非 ー真 理. 〔 真〕 の意味 ”隠 さ れ な いも のと し て現 に そ こ に存 在 す る こと 。」 言 い換 え れ. 隠 さ れ て いな い こと ) と し て解 し て いた 。 「〔ア リ ス ト テ レ ス の〕g 品 評. デガ ーは判断と事象と の合致とし てではなく、 」き 婆 Q ( dbとの き 0 票 口信 書. て可能 にな る。真 理を意味す るギ リ シ ャ語 の 蔓 き 婆 R を 、 若 い頃 か ら ハイ. をす べて捨象す る のではなく隠 され てき た歴史 に帰属し反 逆す る こと によ っ. のを消化す る側 の無意識 の構 えが消化 の結果 に影響す ることを洞察し ている。. それ ゆえ、精神 の所産をす べてたんな る歴史 的形成物 とし て相対化 す るデ ィ. アク セ ントを 置 く 。. 以上 の事 情 は、 日本 人研究者 が それぞれ に西洋哲学 を研究 す るさ いにも、 研. ルタイ の歴史 主義 と世界観哲学 は、自然科学的認識 を絶対化 し て論 理法則 を. い る と き 、 六 の目 は け っし て見 え な い。 ( 或 る面 を ) 見 る こと は ( 別 の面 を ). の知 と は 異 な り 、 理 解 でき な い部 分 が つね に伴 う。 さ い こ ろ の 一の目 を 見 て. 相関 的 にお こなわれ るか ら、 理解 には、時間 を こえ て遍 く現前し現在す る神. こ のよう に、 理解 は つね に歴史 o伝統 によ って規定 された解釈学的状況 と. フ ッサ ー ル現 象 学 の な か に 「ロ マ ン主 義 」 を 見 出 し た ( 口Q>-のーぬ疑 )。 フ ッ. の は 理 性 の媒 介 が 欠 如 し て い る と いう 理 由 に よ る。 と こ ろ が 、 ハイ デ ガ ー は. ル哲 学 であ った ( 「 厳密 な学 とし ての哲 学」)。 ロマン主 義 と特徴 づ け られ る. も 、 デ ィ ル タ イ歴 史 主 義 を 準 備 し た の は ロ マ ン主 義 哲 学 の 一つであ る ヘーゲ. さえ思考 の自然法 則と みなす自然主義 とならん で、現象学 の敵 であ る。 しか. こ の真 理 観 は、 事 象 そ のも の に い た る こと を 格 率 と す る 現 象 学 に つい て の. ( 3). 究 者 自 身 が ど こま で自 覚 し て い る か にか か わ り な く 当 て は ま る であ ろ う 。. 見 な い こと であ り 、 聞 く こと は 聞 か な い こと であ る。 〈 存 在 と時 間 〉 と いう. ととも に、歴史 によ って規定 され ている。見 えな い側面を 照らし出した源氏. を 当 て る そ の見 方 、 聞 き 方 は、 そ れ が 別 の側 面 を 見 な い こと 、 聞 か な い こと. い る が 、 し か し現 在 に は 非 .現 在 が つき ま と う 。 或 る側 面 に スポ ット ライ ト. にあら ぬ こと であ る。存在す る こと は暗黙 のうち に現在を中心 に考 えられ て. の面 が ) 現 前 ・現 在 し な い こと であ り 、 い ま 目 の前 にあ る こと は いま 目 の前. 問題 設定を考慮 し て書 き改 め れば、 ( 或 る面 が) 現前 o現在す る こと は ( 別. と ハイ デ ガ ー によ る両 者 の徹 底 を あ げ て い る が 、 そ のガ ーダ マーも 、 魚 の ェ. な源泉 とし て フ ッサー ルの現象学的 記述 と デ ィルタイ の歴史的地 平 の広 が り. デガ ー用語 で表せば恒常的現前性 と いう伝統的存在 理解 が そこに作 動 し てい る。 ガ ーダ マーの主 著 『真 理 と方法』 (一九六 〇年) は、 自 ら の三 つの主要. で拳銃 を撃 つにひとし い。永遠 な真 理と いう歴史的先入見が、 あ る いは ハイ. き ると信 じ るから であ る。歴史を無視 し て事象 を直指 しようとす る のは闇夜. サールは、歴史的沈殿を 一挙 にさら い出 し て事 象 そ のも のに 一直線 に到達 で. ( 2). 物語 の斬新 な読解 は、解 釈学的状 況 の歴史的新し さ によ って、 つまり、歴史.

(5) . . 嘉 也 藤 後. レ メ ント が 水 であ る よ う に解 釈 学 の エ レ メ ン ト が 歴 史 であ る と いう デ ィ ルタ. ト テ レ スを 語 る こと は自 己 を 語 る こと であ り 、 自 己 を 語 る こと は アリ スト テ. 合将来) と いう解釈学的循 環 の二 つの極 を切 り離 す ことは でき な い。 アリ ス. 事象を記述す るとは歴史 を かえり み ること であり、 それ はまた、 記述 し て. QQミ 歴史 と真 理 の絶対的 媒介」 ( イや ハイデガ ー の認識 を共有 し ている。 「 そうだとす れば、 事象 そ のも の へ向 かう現象学 と、 理解 の循 環 のうち で歴. いる自分自身をあらわ にす る こと であ る。他 なるも のだ け でなく自 己も隠 さ. レ スを 語 る こと であ る。. 史 と対話す る解釈学 と は 一つに重なり、現象学 は歴史性 に裏打ち された学 に. れ ている。 この現象学 な いし解釈学 は、自分 の視角 から、 隠蔽 の伝統 お よび. ーー濯 ご を 思 考 し た 点 で、 ヘー ゲ ルは称 揚 さ れ る。. な る。 青 年 ハイ デ ガ ー が 書 か ず に終 わ った 幻 の著 作 は 「アリ ス ト テ レ ス の現. とを後押し し ている のは、歴史 をあ ら ため て反復し隠 された可能性 を浮 かび. ( 4). 現状 と格闘す るよう要求 す る。 それゆえ、 解釈学的循 環 のなか に跳 び こむ こ. 題 され ていた。 これは、実際 に書 かれ た草稿 や話 された講義 のタイ ト ルでも. 再)発 見す ると い 上 が ら せ る こと に よ って、 あ ら か じ め 忘 れ ら れ た 自 己 を (. g 日 宿さH 象 学 的 解 釈 (ャ碁 ロoBのbog吸のo 豊誓おg ロ N口 吉 信 ざけ色のめ)」 と. あ る。 この表題を構成す る三 つの主要語 は 一体 のも のとし て読 む ことが でき. う物 語 であ る。少 なくとも いま はそう言 う ことが でき る。. い る。 アリ ス ト テ レ スを 現 象 学 的 に解 釈 す る と は、 アリ ス ト テ レ スを 現 象 学. 人文 科学 ・社 会科 学) の真 理と自 然 う書 名 から、 ガ ーダ マーを、精神科学 (. 解釈 され るも のは最も広 い意味 での テク スト であ る。 『真 理と方 法 』 と い. 二 解釈学 の存在論的転換 ー ー 存在 するも のが存在 する こと へ. よ う 。 アリ ス ト テ レ スと 現 象 学 と 解 釈 は 三 に し て 一であ り 、 ど れ も 哲 学 の同. 自 ら を 示 す も の) と し て、 学 は ギ リ シ ャ (. 義 語 であ る。 初 期 フ ライ ブ ル ク 時 代 以 来 、 現 象 学 (ャけ伽g - 日のロ良o呪の の現 象 と は ギ リ シ ャ語 の sRhぶ た㈲≦. 者と し て、 すなわち、 隠 れたさま にあ る事象 が自 らを示す よう に仕向 け る者. 科学 の方法 とを並立 させ、精神科学 の独自性 を擁護す る著者 と解 し てはなら. 語 る こと、 見 させ る こと) とし て解 釈 され て 語 の さ さ れな いし 忍 高 さ (. と し て、 し か も そ のさ い師 プ ラ ト ン に い た るギ リ シ ャ哲 学 史 と 対 決 す る 解 釈. な い。 解釈学 の普遍性と いう彼 の主張 から分 かるよう に、 哲学 的解釈学 が相. 解釈学的現象学は、近代主観性が宇宙外から備敵する神 のように世界を認識. 学者 とし て、解釈す ると いう こと であ る。 そし て、 この歴史的解釈 はあ くま. そ う であ る か ぎ り 、 或 る人 々 の よ う に、 ハイ デガ ー解 釈 学 を 現 存 在 な い し. 世 界 と の交渉 の打 ち す る営 みを、世界 のただなか における理解作 用 の変様 (. 精神 な いし生 の所 手 にす る のは、狭義 の文献 にとどまらず、歴史的形成物 (. 事実性 ・事実的生 の解釈学と特徴づ け、 ガ ーダ マー解釈学 を歴史的 テク スト. 切 りと いう欠如態)とし て位置づ けた。自然 科学 が前提す る認識 論、真 理論. たとえば生、 で可能 性を汲 み取 ると いう視座 からお こなわれ、事象 そ のも の (. な いし歴史 と いう テク ストの解釈学 と性格 づ け て両者 を区別す る のは、 必ず. によれば、 主観 ( ま た科学者共同体 の超主観) が主 観 から ま ったく独立 に存. 産 ) や、 さ ら に は 自 然 と いう テ ク ス ト でも あ った。 こ れ は 、 ハイ デ ガ ー の解. しも十分 ではな い。現存在自身を 理解す る こと は現存在がおかれた伝統 を理. 在す る客観 そのも のを認識 し、主観 の判断 と客観 とが合致 す れば、真 な る客. た と え ば 存 在 す る こと ) へ向 か う こと と 別 の こと で は な い。 事 象 そ のも のが. 解す る こと であ り、過去 のテク ストを 理解す る こと は自己を理解 す る ことだ. 観的 認識 が成立 し た こと にな るが、 し かし そうした主 観 な いし超主観 は、世. ある いは後期 フ ッサールの生活世 界 の現象学) の継承 であ る。 釈学的現象学 (. 的 他 者 ) と いう テ ク ス ト と 自 か ら であ る。 ど ち ら も 、 事 象 を め ぐ って歴 史 (. 界 のただ なか に存在 し ているから こそ、客観的 認識 に精励す ることが でき る。. 歴史 の刻印を受 け ているから であ る。. 己 と が 対 話 す る こと であ る。 テ ク ス ト と 自 己 、 過 去 と 現 在 (ハイ デ ガ ー の場. ^ ” !.

(6) . 相互理解とは別な仕方で. 然科学者 にと って必須 の先入見 であ る。 これ が自然科学 の解釈学的状況 の 一. ガ リ レイ によ る自然 の数学化) は、 自 たと えば、 近代自然科学 の概念装置 (. み世 界 であ り 、 :::言 語 は自 ら のう ち に世 界 を 提 示 す る こと にお い て の み 言. ( □泣の蜜巳 は 言 語 的 に組 織 さ れ て い る 。 「世 界 は 言 語 と な る こと に お い て の. のな か では じ め て ーー 言 語的 解 釈 と し て ーー 遂 行 さ れ る。 世 界 の存 在. ( 5). 端 であ る。. 。 ガ ーダ マーの存在論 が、 世界 の存 在 と いう たー強調 は引 用者) 語 であ る」 (. (や は り 師 にし た が い つ つ独 自 の道 を 歩 ん だ フ ィ ンクと こ の点 でも 類 似 し た ). こ の最 広 義 にお け る テ ク スト は、 世 界 と いう 名 で呼 ぶ こと が でき る。 ま た、. あらゆる存在 す るも のが存在す る こと、存在 す るさまと いう意味 で存在 と名. 仕方 で ハイ デガ ー存在論 を別様 に反復 し ている にし ても、 解釈学 の存在 論的. 転換 と いう基調 は変わらな い。解釈 と は世 界 と存在 をめぐ る自他 の対 話 であ. づ け る ことも でき る。 解釈学 は世界 な いし存在を解釈す る。 と は いえ、若き ハイデガ ーの事実性 の解釈学 が解釈す る のは世界 ではなく、 各種 夏 学期講義 のテー マは、 『存在 と時間』 にお け るよう な普遍的 存在論 (. 美 学 ・感 性 す る 近 代 美 学 は、 お お む ね カ ント の よ う に文 字 ど お り >⑦洋 の立丙 (. この転換 は両者 の芸術 論 のなか にも み てと れ る。 主観 ・客 観関係 を前提 と. る。. 各様 の存在 者 が 一般 に存在す ると いう こと の意味 の究明) ではなく、事実性. 論) とし て、感性 によ って受容す る主観 の側 か ら芸術を捉 え る。 だ が、人間. 事 実性 な いし現存在 の生 であ る。 「存在論」 と いう表題 を掲 げ た 一九 二三年. 名著げ- の自 己解 釈 であ り、 「現 存在 が自 己自身 に対 し て目覚 め ている こと (. 芸術作品 の語 りかけと これ に対す る人 間 の呼 応 と いう仕方 で生 じ る出 来事 が. は享受す る主観 であ る以前 に、す でに芸術経験 のなか へ投げ入 れられ ている。. あ る。 し か し 、 こ の自 己 発 見 の物 語 は ナ ルキ ッソ ス の寓 話 では な い。 早 く も. 第 一次的 であり、主観 -客観 の分裂 はそれを分析 す るとき に現れ る派生態 に. 国Q>①夢 ー9 であ った 。 解 釈 さ れ る べき テ ク ス ト は 自 ら の存 在 で の豊ロヒ (. 現存在 は世 界 の内 に存在す る こととし て理解 され ており、自 ら の存在を それ. 存在者 の真 理 の生 起 」 であ すぎ な い。芸術作品 は、 ハイデガ ーにと っては 「. 転 回」 のさ なか に執 筆 され、 講 演 された 『芸 術 作品 の根 源 』 いわ ゆ る 「. とし てではなく世界 な いしも の のあ りさまを反映 させ て理解す る隠蔽 の存在 す る。主著 の概念 でいえば、現存在 と理論的科学的 な客体存在 と周囲世 界 の. 存在者 の真理の作品化 旨〒 (一九三五/三六年) によれば、芸術 の本質は 「. 存 在 の出 来 事 」 であ る。 り、 ガ ーダ マー にと って は 「. 存在者 の道 具存在 と いう三種類 の存在 の区別を明確 にす ると いう難問 が課せ. 圏Qb帆ー馨 )、 「存 在 者 を そ の存 在 に お い て開 老 母 き 蜜ご ( 名 賓封あ 豊Nの〒 Q空-. 論史を解体 す る ことが要請 され ていた。歴史 や世界 は現存在 の事実性を構成. られ る。 こ こには解釈学 を存在論、 とりわけ普遍的存在論 へ招く道し る べが. N e であ る。 存在 者 が存在者 とし て隠 され て いな い く こと、 真 理 の生起」 (. ( 6). あ る。自己 の存在 の理解 と、 人間 ではな い存在者 の存在 の、 さら には存在す. 暗 い森 のな か の明き地) と隠 しと の根源的 こととし ての真 理は、 明 るむ場 (. と 人 間 と の相 互 帰 属 にお い て思 考 し て い る。. 理を作品 へともたらす こと」 と いう両義性 にお いて、 つまり存在 な いし真理. 人 間 が〕 真 真 理が 〔 人 間 を介 し て自 らを〕/ 〔 質 を真 理 の次元 で、 それも、 「. 的体験を考察 す る のでも客観的 な美 そ のも のを論 じ る のでもなく、 芸術 の本. の根源的闘争 とし ての真 理が生起す る。 ハイ デガ 1は美学 のよう に主観 の美. 闘争 であり、芸術作品 が 一つの世界 を建立 し大地を呈示す る こと によ ってこ. リヒトゥング. る こと 一般 の理 解 と は相 即 す る。. 転回」 後 の ハイ ガ ーダ マー解釈学 も存在論 への方向転 換 を宣 し ている。 「 ) と述 べていた の ①” 圏0>①ー① デ ガ ー が 「言 語 は 存 在 す る こ と の家 であ る」 ( QQ名- に応 じ て、 ガ ーダ マーは 「理解 されう る存在 は言語 であ る」 ( vSe と語 る。 言語 は理解 や意 思疎 通 のたんな る道 具 ではなく、 テク ストと理解 す る者、他者 と自己 のあ いだ で事 象をめぐ る対 話が遂行 され る普遍的媒体 であ る。 音が空 気と いう媒質 のなか ではじめ て音 でありう るよう に、 理解 は言語.

(7) . . 嘉 也 後 藤. 界 のう ち に譲 ら れ大 地 に属 し て い ると 言 う 。 ま た、 ギ リ シ ャの神 殿 はギ リ シ ャ. 存在者 の存在) とし て語 られ ている こと に気づく。 よく知 ら 存在す る こと (. こうし てみると、存在 す ると いう言葉 は二人 のどちら にお い ても存在者 が. 世界 の存在 であ り同時 に自己 の存在 でもあ る。 遊戯 と いう芸術 の経験 にお い. 民族 の世界 を集約 す る。嵐 や昼 の光、 天空 の広 がり、 夜 の闇を出現 させ る。. れ ているとおり、 『存 在 と時間』 が存在 者 の存在 の意味 を追 求 し よう とし た. たとえば、農婦 の古靴 を描 いたゴ ッホ の絵 には農 婦 の世 界が、 したが って. も のには姿 を、人 間 には自 ら への視界を与 え、 神を現前 させ る。 神殿 はギ リ. のに対 し て、 いわゆ る後期 ハイ デガ ーは、存 在者 の存在 と存在 それ自身 ( 存. ただ しガ ーダ マーは、 『芸 術 ては世 界 の存在 と私 の存在 が とも に変容 す る (. シャ民族 の世 界を ( 模 写す る の ではなく)開 き、打 ち建 てている。 それはし. 在 す る こと と し て の存 在 す る こと ) と を 厳 し く 区 別 し た 。 と こ ろ が 、 こ の点. 存在者 の真 理 が生成 し ている。畑 の畝 間を辛 抱強 く歩 く姿 や風 の吹き渡 るさ. か し 、 神 殿 が 岩 の上 に、 大 地 に立 つこと に よ っては じ め て可 能 であ る。 現 前. で 『芸術 作品 の根源』 は統 一を欠 く。 「 存在者 の存在」 な いし 「存 在者 を そ. 作品 の根 源』 によせた見事 な解説を除 けば、芸術 におけ る非 -真 理 の側 面を. す るとは暗 が りと いう根底 から出現す る こと であ り、 ハイ デガ ーが大地 と呼. 存在者 とし ての存在者 の真 理」 と いう 『存 在と時 間』 の存在 にお いて」 や 「. まが、 そし て土 の湿 りや大地 のもたらす無言 の恵 みが、糧 を得 る こと の心配. ぶ のは この暗 い根底 であ る。岩 は神殿 の照 り映 え る岩 とし ては世 界 に属し、. と似 た水 準 の表現 はもち ろん の こと、 「存在 者 の真 理」 と い った言 い回し さ. 前 面 に出 さ な い。 こ の点 は 記 憶 し てお き た い)。. 一方 で自 らが由来 す る場所 とし ての大地 を指 し示す。或 る民族 の歴史的 運命. え あ る。 それ ゆ え ビ ー メ ルが 、 「存 在 者 の隠 れ な さ 、 す な わ ち 存 在 」 ( 国Qbぴー. や死 を前 にし た憂慮 が現 れ ている。 それゆえ ハイデガ ーは、古靴 は農婦 の世. のさまざま な行路 が開 か れる場 とし ての世界 とたえず身 を閉ざしかくまうも. 8) と いう言葉 に目を留め て、存在者 の真理 から存在 の真 理 への移行 を この. 品化」 にお い てと同様 に、 ここでも 「 存在 の( 碗患口も」 と いう語形 は 「存在. 感じ とな る。 ハイ デガ ー の 「 ち現 れ、 「存在 のあら たな出来 事」 ( 真 理 の作. 忌 め m凪g ) であ る」 (QQ名 -ーー務 )。 一幅 の絵 は見 ら れ る た び にあ ら た に立. な す 。 「芸 術 作 品 の特 殊 な 現 在 は 、 存 在 の提 示 ( NロH- ○P詰宿- おロ1 閃0日日g. てか たちづ くられ る。作 品 の受容 は、 作品 つまり遊戯 と いう出来事 の 一部を. は私 たちが作品 の語 りか け に応 じ る ー ー 理解 す る ・ ーー‘こと によ ってはじめ. な い。 気づ いたとき私 たち はす でにそ の遊戯 に引き込まれ ており、逆 に遊戯. とらな い。 芸術作品 の存在様式 は遊戯 ( 尊 ぶ-遊動) であ り、 そ こに主客 は. ガ ーダ マーも、 主観 が対象と し ての芸術作 品を享受す ると いう主客 図式を. 自 己を捜す作業 は、自他を問わず存在者 の存在 の ( 再) 発見 へ導 かれ る。. 実 であ ろうとす るが ゆえ に、存在論 な いし存在 の思索 に転換 す る。失 わ れた. れ に援 用 し て い る の は、 そ の証 し であ る。 解 釈 学 は、 も の な い し 存 在 者 に忠. る と こ ろ、 も の は存 在 し な いだ ろ う 」 と いう ゲ オ ルゲ の詩 句 を 二 人 が そ れ ぞ. す る こと であり、 存在者 を存 在者 たら しめ ている事象 であ る。 「言葉 が砕 け. 界 に打ち返すも のであ る ことを示唆 し ている。存在す ると は、存 在者 が存在. え ば 農 婦 の靴 、 ギ リ シ ャ の海 、 そ し て人 間 自 身 に、 つま り は 広 い意 味 で の世. を存在 させ る当 の事象 であ り、 ハイデガ ーの思索 があくま で存在者 に、 たと. だが ひるがえせば、 この暖昧 さは、移 行後 の境位 にお いても、存在 が存在者. 論文 のなか に読 み取 り、 この論文 の過渡的性格を指 摘 した のは的 確 であ る。. ^ 7). のと し て の大 地 は、 対 立 し あ い な が ら 互 いを 必 要 と し て い る。. が 〔 自 らを人 間 に提示す る〕」 と いう主格 と 「 存在を 〔 人間が提示す る〕 」と いう目的格 (この文法 用語自身 が主客関係を前提 し ている こと は無視 しよう) の両義 性を も つ。 この両義 性 は存在論 が広 い意味 で解釈学 であ る こと、 つま り テ ク ス ト と の相 互 作 用 であ る こと に関 連 す る。 ま た 、 こ こ で い う 存 在 は、.

(8) . 相互理解とは別な仕方で. ざ け て いた も の であ る。 と は い え 、 こ の こと だ け を も って彼 ら を 近 代 以 後 の. 側 から撤 回要求 を突 き つけられ る。 たしか に存在論 への転換 は この要求 に耳 を傾 け ていたし、先 入見 は事象 に即応 し て訂正されなければならなか った。. ま で自 ら の地平 にお いて主体的 にかち と ろうとす る解釈学 の試 みは、事 象 の. ぎ り 、 隠 れ な き さ ま に変 わ る こと は な い か ら であ る。 真 理 な い し 存 在 を あ く. 阻 ま れ る であ ろ う 。 隠 さ れ た も の は、 そ れ が 自 ら を あ ら わ にす る の でな い か. をむ き出 し にす る懸命 の努力 は、 それ が人間 の力業 であ る以上、或 る限界 に. に出 し 覆 いを 剥 ぎ 取 る こと が でき る よ う に思 わ れ る。 し か し 、 覆 わ れ た も の. の総 合 に つと め る か ぎ り、 少 な く と も 理 念 の上 で は 、 隠 れ た さ ま か ら 明 る み. とす れば、 私 たちが解釈学的状況を反省 し、視座を移動し てさまざ まな側面. 側面を見 る こと が別 の側面 を見 な いことだと いう意味 で隠 され ている ことだ. そ のも の か ど う か 、 と 問 い質 す こと が でき る。 な る ほ ど 、 非 -真 理 と は 或 る. 存在論と な った解釈学 に向 か って、人 間 の視座 から理解 され る存在 が存在. 存在 への近づき方 は急旋回し ている。 現存在 は、 理解 し解 釈す る に先 立 って. 投 げ ) に よ って投 げ ら れ た も のと し て の現 -存 在 の 「う ち に」 あ る 。」 い ま. 所 に次 の よ う に書 き 込 む。 「だ が こ の理 解 作 用 は 聞 く こと と し て。 これ は け っ. 在す る こと の真相 は隠 されたま ま であ る。 のち に著者 は自 ら の書 物 の この箇. 的循 環から逃 れ ることが でき な い。 だが、 現存在 の視角 から見 るだ け では存. N た)。 存在 す ることはど こま でも現存在 の存在 理解 と相関的 であ り、 解釈学. なも のが含 まれる存在者 の理解作 用 のうち にしか、 「 存在 し」 な い」 ( 出ぬ>N. あ ら わ に し よ う と つと め て い た。 「存 在 は :::、 そ の存 在 に存 在 理 解 の よ う. 『存在と時 間』 は、 現存在 な いし人 間 の有限 な視座 から存在と いう事象 を. ら れ 、 ガ ーダ マー は こ の根 拠 づ け を 受 容 し な が ら循 環 を 解 釈 し な お し て い る。. す る様 子を垣 間見 た い。 ハイ デガ ーにお いては循 環 は転回 によ って根拠づ け. れ にお いて解釈学的循 環が まず事象 から の呼び かけ に従うと いう仕方 に変容. 三 循 環と転 回 ーー 自他 の非 対称性 へ. しかし そう であればなお さら、 理解 され る存在 は自 らを示す存在 とは異 な る. ま ず 存 在 す る こと のう ち へと投 げ 出 さ れ て い る。 存 在 す る こと が あ って (な. 非哲学者と近代 の哲学者 に分類す るのは性 急 にすぎ る。 この節 では、 それぞ. であ ろう。 そ のとき、存在経験 の記述 は解釈学的循 環 の枠内 にとどま る こと. いし与 えられ て) はじめ て存在 の理解 が可能 になる。 乳児 の哨語 や笑 顔 に接. し て、 「存 在 」 は 「主 観 的 に」 の み あ る と いう こと では な い。 (〔 存 在 に よ る〕. が で き な い か も し れ な い。. す るとき、 頑なな大人 でさえ柔 か い視 線 を送 るよう に、 見 る こと は声 やまな. れ る 。 これ が い わ ゆ る 「転 回 」 であ る。 と こ ろ が ガ ーダ マー は、 そ のす が た. 言 い方 さ え 、 お そ ら く は そ れ ら が 人 間 の ロゴ ス に準 拠 す る が ゆ え に、 放 棄 さ. べき事象 にな る。 これと並行 し て、存 在論、形而上 学、 さら には哲学 と いう. それ とし ては採用 しなくな る。 人間 によ って理解 され解釈 され る存在 ではな く、 さしあ たりた いてい隠 された仕方 で人 間 に語 りかける存在 が彼 の接近す. を 拒 み つづ け る であ ろ う 。 循 環 と い う 語 は こ の回 路 を 言 い表 す の に ふ さ わ し. いう行程をとらなければ ならず、 しかも事象 は私 の理解を こえ てお り、顕現. 環 の経路 は、順序 をたがえ ている。事 象 から現存在 へ、 現存在か ら事 象 へと. 他者 oテク スト) へ、 そ し て事 象 か ら 先 行 理 解 の修 正 へと い う終 わ り な き 循. そうだとす ると、先行 理解 な いし先 入見 から事象 ( ま たは これと 不可分 な. この点 で二人 の哲学者 は見 るから に対 照的 であ る。 ハイ デガ ーは解釈学を. を間近 で見 ていた にもかかわらず、解釈学的循環をはじめ、存在論、哲学等 々. る循 環などあらゆる循 環や回帰 が究極 のも のと みな され るが、本当 は エアア. ざ し に対す る反応 であ る。. 「転 回」 後 の ハイ デガ ーが形而上学 の言葉 と し て こばむ多く の術語 を手放 さ 作用史的意識 と いうかたち では ず、 むし ろ意 図し て前面 に押 し出す。意識 (. 国活 茜巳 の) のう ち で現 成 す る転 回 が そ れ ら の隠 さ れ た 根 拠 だ 、 と イグ ニス (. く な い。 そ こ で ハイ デ ガ ー は謎 め い た 覚 え 書 を 残 し て い る。 理 解 作 用 に お け. あ る が) と い う 語 に い た って は 、 ハイ デガ ー が 初 期 フラ イ ブ ル ク時 代 か ら 遠. 7十.

(9) . . 嘉. 也. 解 釈 学 か ら そ の根 拠 への こ の帰 還 にガ ーダ マー は た し か に同 行 し な い。 彼. を使 うとすれば、循環から転回 への 「 転 回」とし て理解 しなければ ならな い。. 耳 を閉ざし た派生 態 であ る。立場 の転換 とし ての 「 転 回」 は、も し この言葉. へと い う 相 互 の根 拠 づ け の ひと つのか た ち 、 存 在 す る こと に よ る根 拠 づ け に. 解釈学的循 環な るも のも、存在す る ことから人 間 へ、人間 から存在す る こと. で は な い。 芸 術 作 品 にお け る真 理 の生 起 が そ れ を 示 し て い た 。 し た が って、. 生 起 、 す な わ ち エ ア アイ グ ニス に お け る転 回 ぬ き に そ れ 自 身 と し てあ る わ け. が第 一次的 だと いう意味 であくま で非対称 であ る。両者 は、 この相互帰属 の. ( ) を獲得 す る ( 採 囚吊 の 聾 し。 こ の相 互 性 は 、 存 在 す る こと に よ る根 拠 づ け. アアイグ ニスが出来 す るな か で、 存在 と人 間 は それ ぞれ自 ら に固有 のも の. に応じ て現 1存在 が存在 す る ことを根拠 づけ ると いう出来事 であ る。 この エ. アイグ ニス) が そ れ 自 身 のう ち で現 -存 在 (な いし 人 間 ) を 根 拠 づ け、 これ. 称 であ る。 エア アイ グ ニ ス のう ち な る転 回 と は、 存 在 す る こと (な いし エ ア. ( 国の>段 ー6 ご 。 エ ア ア イ グ ニ スと は 存 在 そ のも の の真 理 に与 え ら れ た 名. 事 であ る」 金ーじ。. ね に、 そうし た独自 に存在 す ると誤認 され ている二 つの地 平 が融 合す る出来. であ る)。 あ る い は む し ろ た だ ひ と つの地 平 し か 存 在 し な い。 「理 解 作 用 は つ. は私 たちがす でにそのなか に引き込ま れ てお り、 また私 たち ととも に動 く場. 地平と の出来事 であり、 そこでは過去地平 と現在地 平が ひと つに溶 け合 う (. を受 け つつこれ に応 え てそ の歴史的 現実 を理解 し ようとす る。 理解 は作 用史. 作用史 的意識と名 づけられ る。 作 用史的意識 は、歴史的 現実 から の規定 作 用. 態巴。 この相互関係 (ハイ デガ ーのいう転 回) の意 識 は たえず媒介 しあう」(. 理解 す る者 の〕 現在 が 「 理解 され る〕 過去 と 〔 伝承 の歴史的生起 のなか で、 〔. ひるがえ って、 理解 され ることと無関係 な伝統自体 な るも のも存在 し な い。. じ る こと に よ って は じ め て経 験 可 能 に な る。 理 解 は主 観 性 の働 き で は な いし 、. 器ご と ころ にあ る。 精神科学 の対象 や伝統 の内 実 は、 そ のあと でこれ に応. QQ名 -” 自分 が伝 承 によ って語 りかけられ る のを見 る」 ( 作 用 の根本前提 は 「. にも かかわ らず、 この哲 学的解釈学 は循 環から転回 への 「 転回」 に慎重 な考. 解釈学 の綱要」 と いう副題 それ自身 が、師 への異議申 し立 てであ った。 それ. は解釈 学 と そ の循 環 のうち にとど ま る。 『真 理と方法』 に付 され た 「 哲学的. 在 の歴史 と伝統 とが言葉 とし てだけ でなく実質 の上 でどれ ほどち が っている. 人 の言葉 に語 りかけられ、 す でに魅惑 され、 な いし は弾き返 され ている。存. 来事 のうち に巻 き込 まれ ている。詩 に つい て判断 を下 す以前 に、 私 たち は詩. 芸術作品 の経験 が教 えた よう に、主観 が客観 を認識す る の ではなく人 間 は出. にせよ、構図上 の類似 は明瞭 であ る。哲学的解釈学 が身をお いている循 環は、. 生 起 し て い る。 あ る い は存 在 と は こう し た 存 在 の歴 史 的 生 起 ( の竺口の篭 め 日o 戸 o. きた哲学 の歴史 は、 この運命と人 間 の応 答 とし て、 いいかえれば転 回とし て. 人 間 に贈 った 歴 史 的 運 命 ( Qomo EO 閃) だ と い う 。 存 在 す る こ と を 忘 却 し て. 在 だ けを表 象 し て存在 そ のも のを思考 しな い西洋 の歴史 は、存在 それ自身 が. ば対等 でもあ るか のよう に幸運 にも溶 け合 う ことが でき る。存在史 的省 察が. 的 であ るとし ても、 過去 と現在 と は世 界 の存在 と いう主題 を前 にし て、 いわ. を隠 し つづけ る。作 用史 の出来事 にお いては、 伝統 から の規定作 用 が第 一次. と はは っき り非対称 であ り、人間 はあ ま り に非 力 であ る。 存在 す る こと は身. し か し 一方 で、 強 勢 のあ り か は異 な って い る。 転 回 に お い て は事 象 と 人 間. 他 から の要求 に応 えようとし てお こなわれ る循 環 であ る。. も の こと であ る。 ハイ デ ガ ー は こ の歴 史 を 追 想 す る。 ガ ーダ マー解 釈 学 は、 什. 撤 回 した解釈学 など の用語をガ ーダ マーが意 図 し て堅持 す る のは、 この違 い. によ ろう。 それ ゆえ両者 は、存在 にかか わ る相 互理解 な いし相 互現前 の可能. 存在 の歴史 を世界 の存在を めぐ る伝統 ・歴史 に、追想を伝統 の理解 に変奏 し た。 理解 は それが伝統 に帰属す るがゆえ に成立す る。精神科学 におけ る理解. ハイ デガ ー にお いて 「 存在 の歴史」 と いう格好をと った。人間 が存在者 の存. 存在 す る ことと人間 の思考 と の非対称 な相 互帰属 は、 一九 三〇年代後半 の. 慮 を 払 って い る。. そ のか ぎ り で は、 ガ ーダ マー解 釈 学 も 主 観 性 哲 学 か ら の脱 却 を 図 って い る。. 藤 後.

(10) . 相互理解とは別な仕方で. この間 の消息 を たずね る のは第五節 の課題 である。次節 では、 いささか迂回. 性 や真 理と非 -真 理 の交 錯 に ついても、相異 なる様相を呈 さず には いな い。. これ は、 「死 にかかわ る存在」 と いう人 間 の有限 な存在 の時 間的究 明 を普 遍. 的現前性 の哲学とし て批判 し、 むし ろ前者 を後者 にも とづ かせよう とし た。. 道 具的存在者 と の交 渉 に、 賢慮 は実存 にあた る) の上位 に置く伝統 を、恒常. プロネーシス. 最高 の存在様式 だと され ているから であ る。 しかし、 死す べきも の の賢慮 に. き な い。 不 死 な る神 々 のご と く 理 論 的 観 想 に生 き る こと こ そ、 人 間 に と って. テオ ー リ ア. る ほ ど 、 ア リ スト テ レ ス に お い ても 知 恵 が 賢 慮 に優 位 し て い る こと は 否 定 で. 真理と方法〉 と いう問題設定 にも通 じ る。 な 第 二節 でふれたガ ーダ マー の 〈. 的存在論 の基礎 に据 え る 『存在と時間』 の見取り図 と同じ であ るだけ でなく、. し 、 アリ ス ト テ レ ス の 賢 慮 に関 す る 一対 の解 釈 を 照 ら し 合 わ せ て そ の準 備 を 整 え た い。. 四 瞬 間と適 用 ーー いま ここ で真 の共同性 へ 自 己 の存 在 と いう テ ク スト を 読 む た め にも 、 世 界 の存 在 や 過 去 の テ ク スト. こと から、 解釈学 は実践 す る ことから分 ける ことが できな い。 恒常的 現前性. 仕方 をあら ため るよう指 図す る こと であ る。 したが って、存在論 は存在す る. と ころ で、対 話的省察 が自他 のあ りさまを示すとは、同時 に、自他 の存在 の. 可 能 であ る に せ よ 、 他 な る も の の呼 び か け に耳 を 澄 ま す こと か ら は じ ま る。. 批判す る ことも、 かばう ことも、 見守 る ことも でき る。 三角 形 は何 のぶれも. る性向 が賢慮 であ る。行為 もも ちろん別様 でありう る。或 るとき或 る ひとを. ような ことが自分が よく生 き る ことに と ってよくか つ有益 かを適切 に思慮す. 材料 などはさまざま でありう る。 賢藤 によ って人間 は行為 す る。 一般 にど の. 技術 によ って人間 はも のを制作す る。 帆船 を作 るとき、 その形 や大 き さ、. ついての論究 は反復す べき可能 性をふく ん でいる。. と い う 存 在 理 念 の解 体 は、 いま こ こ でど の よ う に行 為 し 、 存 在 す る か と いう. なく永遠 不変 に目同的 なも の 命 Qg ひ葛 じ であ ろうが、自分 がど う行為 す. など他 なるも のと の対話 が必要 であ る。 その対話 は、私 の先入見 なし には不. 問 いに結び ついている。 それを明 らか にす るのは賢慮 の問題系 であ る。 わけ. べき か に ついては永遠 不変 の正解 はなく、 そ の つど思慮 し て決定す る ほか は. ヘクシス. ても、自他 の対称性 に傾 くガ ーダ マー の場合、解釈学 は連帯を目指す実践 と. な い。 それ は、源氏物 語 に数 かぎりなく登場 す る 「あ はれ」 と いう言 葉 を そ. の つど の文 脈 のな か でど の よ う に理 解 す べき か と い う こと に何 ほ ど か 似 て い. ( 9). な る。 本 節 で は そ れ を 見 た い。 ア リ スト テ レ スは 、 『ニ コ マ コ ス倫 理 学 』 第 六 巻 にお い て、 人 間 の心 が あ. アリ ス ト テ レ ス に よ れ ば 、 賢 慮 は、 そ の原 理 が 別 の仕 方 であ り う る 部 分 に. アルケー. らわ にす る (事 竜 冬 空 ヒ 真理を明 らか にす る)仕方とし て五 つの種類 を挙 ピステーメー プロ ネーシス ソピ ア ヌー ス テクネー エ げ ている。 技 術、 学 知 、賢慮、 知恵、直 観 がそれ であ る。 心 のうち ロゴ ス. か か わ る も の のう ち でも 、 た ん な る臆 見 と は 異 な り忘 却 と いう こと が な い。. よう。. 永遠不変 の 端緒 ・始 源) が別 な仕方 ではあ りえな い ( をも つ部分 は、原理 (. よき生き方) を忘れな い賢慮 と いう このあ り方 は、 若 き ハイ お のれ の存在 (. 合体 ( Q①シ であ る こと を 意 識 し て の こと であ る。 自 己 の存 在 に た え ず か か. の統. ら の叙 述 は 、 こと に ハイ デ ガ ー存 在 論 にと ってき わ め て重 要 な 意 味 を も つ。. わり、 自 ら の存在 の忘 却を そ の つど破棄 す るあ りさま が、 『存在 と 時 間』 の. 名 済め①己 は お そ ら く 、 Qのモ済mg と い う 語 が 8 信 三の誓 お と 同 様 、 知 る (. の こ と で あ った ( QQ名 ①ーき o)。 これ. し・ーテ f ー. 必然的 な) も のを考察 す る部分と、 別 な仕方 でありう るも のを考 察す る部分. デ ガ ー に と って は良 心 ( Q①≦済め①己. アルケー. と に分 かれ、学知 と知恵 は前者 に、技術 と賢慮 は後者 に属す る。 ( 8). 詳 細 は 別 稿 に ゆ だ ね 、 こ こ で は 私 の断 案 を 示 す にと ど め る。 ハイ デ ガ ー は、. 本来的)実存、 つま り、現存在 が何らか の仕方 で 良心 であり、広 く いえば (. 肇 》eの眠 別 の仕方 であ る こと ( 審 ぞ ) が可能 かどうかを基準 とす る これ. 技術は 前者 ( 学知は主著における客体的存在者の認識 に相当する)を後者 (.

(11) . . 有 のあ り方 であ る。 知恵 ( お よび学知) が つね に自同性 のうち で現在 し つづ. と語 られ ている。賢慮 な いし実 存 は特定 の時を生 き る人間と いう存在者 に固. い ては、 人 間自 身 の現 存在 にか かわ る こと が問題 であ る」 ( 国ぬかー 仰 慕鎖). か で、福音解釈 は福音 と いう テク ストを説教 のなか でど のよう に適 用す るか. とはす でにし て適 用す る こと であ る。 法解釈 は法 と いう テク ストを判決 のな. あ る。 解 釈 が 終 わ った のち に そ の成 果 が 適 用 さ れ る の で は な い。 解 釈 す る こ. ガ ーダ マー解釈学 にお い て、 適用 は理解作 用な いし解釈 と 一体 の出来事 で. り重視 され る伝統 を、自然科学的方法 が精神科 学を制約 し てき たと いう意味. け る存在者 ( 恒常的 現前性 と いう存在様式 のも の) の考察 であ る のに対 し て、. と いう こと から切 り離 されえな い。法 それ自体 や聖書 それ自体 を歴史学的 に. か か わ り う る、 し か も つね に か か わ っ て い る 自 ら の存 在 そ れ 自 身 であ る 。. 賢 慮 は 、 「RM 感 覚 〕 と し て、 眼 差 す こ と ( Qもご9 ぬ 〔 巴 行丙 Qのmb口篭 め) であ. 正しく復元し、 過去 と合致す る こと は重要 ではな い。 それをガ ーダ マーは次. で理解 し、 そし て転 倒し ようとす る。 この転倒 は、賢慮を現在 の状況 への適. る。 そ の つど の具体的 なも のを、具体的 なも のとし て つね に別 の仕方 で存在. の よ う に説 明 す る。 「テ ク ス ト は :・ :・ そ れ ぞ れ の瞬 間 にお い て、 す な わ ち そ. 「この存在者 〔 現存在〕 にと っては、 そ の存在 〔 実存〕 にお い てこの存在 そ. し う る も のを 眼 差 す 瞬 間 ( >長 の口占ロo 丙) で あ る 」 ( ー窯 )。 そ れ は ま た 、 賢. れぞれ の具体的 な状 況 にお いて、 あ らた に、 そし て別 な仕方 で理解 され なけ. 用とし て解釈 し反復す る こと によ ってお こなわれ る (それ がど こま で徹底 し. 慮 が普 遍 と なら ん で個 別 をも知 らなけれ ば なら な いと いう こと、 す なわち. れ ば な ら な い。 理 解 す る こと は こ こ で は つね にす で に適 用 す る こと であ る」. れ自身 にか かわ る こと が問 題 であ る」 ( 出QP国 益) と いう主著 の言葉 を先. 「いま こ こ で決断 す る行 為す る者 の状況 にた えず目 を向 け て」 ( 品等 いなけ. ( QQ名 -vの 耳)。 解 釈学的循 環は、 過去 と現 在 のあ いだ に、 つま り 「 共通 の. て い る か に つい て は 次 節 で問 わ れ る)。. れ ば な ら な いと い う こと であ る。. 取 りし て、 『ソピ ステ ス講義 』 (一九 二四/ 二五年 夏学期) では、 「賢慮 にお. 也. に発掘 す ると いう意味 で反復す ること であ る。もち ろん解釈学的循環があり、. 概 念) で読 み直 す こと であ る。 同 一的 に繰 り返す の ではなく可能 性を あらた. 間 〉 と い う 問 い は、 ア リ ス ト テ レ スを キ ルケ ゴ ー ル の目 ( 瞬 間 や実 存 と い う. と時 間 と いう視 点 から区別 され ている。 こ こから分 か るよう に、 〈 存 在 と時. ニ種類 ( な いし三種類) のあ らわ にす る作 用から、 そし て永遠 ( 無時間性). こう し て二種類 の存在 ( 制作 と賢慮 の対象を区別すれば三種類 の存在) は. 解釈が ハイ デガ ー の解釈学的現象学と アリ ストテ レス解 釈 にどれ ほど多 くを. せ る と い う こと に よ って規 定 さ れ て い る」 ( 鞄 ご 。 こう し た 適 用 概 念 と 賢 慮. が成就 された適 用を含 み、与 えられた状況 の直接性 にお い て自 ら の知 を働 か. る 。 「ア リ ス ト テ レ ス の い う 自 己 知 〔 のおけ* 済め呂 賢 慮 〕 は ま さ し く 、 そ れ. 張 関 係 」 金ー も と な る。 そ し て適 用 は ア リ ス ト テ レ ス の賢 慮 に結 び つけ ら れ. 〔 た と え ば 判 決 を 下 す こ と 、 ア リ ス ト テ レ ス の個 別 〕 の あ い だ に成 立 す る 緊. 事象 〔 たとえば法律、 アリ スト テ レスのいう普遍〕 の自 同性 と変 化 す る状 況. ア レ ー テ ウ エイ ン. そ れ は 、 キ ルケ ゴ ー ル の キ リ ス ト教 的 実 存 の思 索 を アリ ス ト テ レ ス の存 在 論. 負 って い る か は、 も は や 明 白 であ る。. 解釈学的循 環は、 ハイ デガ ーにお い ては将 来 を先取 りし過去を 反復 し つつ. 実存的 -実存論的問 いとし て賢慮を理解 し、知恵 に優先 させる ハイデガ ーを、. 状 況を眼差 す瞬 間 とし て、 つまり いま ここ でど のよう に存在す るかと いう. 意図 は、理論 と実践 の二分法を維持し たうえ で関係を逆転す る こと にはな い。. 賢慮 に対す る知恵 の優位を解体す ると いう点 から察知 され るよう に、彼 ら の. 在 と の地 平融合 と いうかたち で現在 の状況 な いし瞬間 にお い て適 用 され る。. 現在 の状 況を眼差 す瞬間 にお いて時間化 し、 ガ ーダ マーにあ っては過去 と現. ガ ーダ マーは解釈 学的哲学 の次 元 で反復す る。 ガ ーダ マーも、知 恵 が賢慮 よ. 存在 を論じ る水準 でと いう ハイ フンで結 ばれ た循 環 の関係 にあ る。. オ ン ト ロー ギ ッシ ュ. 味 であ り、 両者 は主 著 の概 念 でいえば実存的 ・実存論的、存在者 の水 準 で 1. オ ンテ ィ ッシ ュ. の目 で反復 す ること でもあ る。 存在論 か実存 の思索 かと いう 二者択 一は無意. ま なざ. 嘉 藤 後.

(12) . 相互理解とは別な仕方で. この二分法 は、 ハイデガ ー解釈 にお いて存在論 か実存 の思索か の 一方を選び、. であり つづけ る後者を とく に吟味 し てみよう。. この相違 は、皮相 な現実 から深 い根源 へと立 ち帰 る終末 論的切 迫 と、 現実 と. る懸念を師 と共有 しながら、 万人 の自由 と いう近代民主主義 の理念 を確信 し QQ名心” ている。 「 真 の連帯、真 の共同性を :::実現 しなければ ならな い」 ( 鴬色。端的 鞄も。「 実 践と は連帯 のうち で態度 をと り行為す る こと であ る」 (. 主義 に対す る疑 いを捨 てなか った のに反 し て、彼 は、科学技術 の支 配 に対 す. 学だ と いう のが彼 の理解 であ る。 しかも、第 二次大戦後も ハイデガ ーが民主. いま ここにおけ る実践を、 つま り適 用をあく ま で強調す る。解釈学 は実践哲. て、 最 後 の神 が い つの日 か 到 来 す る のを 待 ち 望 ん だ の に対 し 、 ガ ーダ マー は、. 瞬間 における決断 に自ら裏切られた ハイデガ ーが、ギリ シャの始源 に立ち返 っ. 一方 ガ ー ダ マー は 『真 理 と 方 法 』 以 後 さ ら に実 践 を 重 視 す る よ う にな る。. とす る決意 は影を ひそめ る。. お よび自民族) であ ろう 践 の倫 理か らも身 を引 く。 いま ここで本来 の自 己 (. ドイ ツ民族〕 固有 の歴史的 課題 の最内奥 の て絶頂 を き わめ る。 「われ われ 〔 ::・ 国の>① 必然性 を意 味 す る、 ・ わ れわれ の現存在 の変容」 ( のー口) に向 か っ て、彼 は決 断 した。 しかし それ は失敗 に終 わ り、 そ ののち彼 は実践 からも実. 解す る者 には伝統 に由来 す る先入見が、 つまり事象 に関す るあら たな 理解 を. ま れ る、 と い う 。 ガ ーダ マー は真 理 を 実 存 カ テゴ リ ー に は し な い。 彼 は、 理. えられ る事柄 であり、 企き 幹 登 の核 心 には き もご ( 自 らを隠 す こと) が含. 動 向 とし て考 え直 さ れ る。 も っと あと の時 期 には、 存 在 と思考 の相 互 帰 属. 相 関 的 であ った が 、 いわ ゆ る 「転 回 」 に よ って隠 れ る こと は 存 在 そ れ 自 身 の. 時間』期 にお いては実 存 カ テゴ リ ー ( 現存在 の存在 性格) であり、 現存 在 と. 比重 が次第 に大 きくなると いう経過を たど った。真 理と非 1真 理 は 『存在 と. れ ば な ら な い。 ハイ デガ ー の場 合 、 こ の緊 張 は非 ・真 理 な い し 隠 れ る こ と の. おお いをはぎ、隠 れ るも のを露出 しようとす る。真 理と非 1真 理 の等根 源性 に、 あ る いは隠 れ ることと あらわ にな る ことと の緊張関係 に目を凝 ら さなけ. は隠 れ る こと を 好 む 。 そ う ヘラク レイ ト スは 語 った 。 哲 学 は覆 わ れ た も の の. 覆 わ れ た も の であ ら わ にな ら な いも の は な い。 そ う イ エ スは 告 げ た 。 自 然. の対 話を忘れな い悠揚 せ まら ぬ平衡感覚 と の対 照 でも あ る。次 に、 解 釈学者. ガ ーダ マー解釈 に対 し て解釈学 理論 か実践哲 学 か の二者択 一を迫 る誤り であ る。 理論 は それ自身 一種 の実践 であ る。. にいえば、 解 釈学 はそれ自身 にお いて自由と連帯 の実 現を要請す る。思う に. 生 み出す先入見 と それを阻害す る先入見 が つきまと っており、 これ が テク ス. 瞬間 にお い て状 況を開 示す る自己投企 は、 ハイデガ ーのナチ ス関与 にお い. この こと は、 解釈学 が弁 証法 な いし対話法 ・問答法 であ りその原 理が地平融. トの理解を可能 にす ると いう考 え方 で、真 理と非 -真 理 の相麹 を はら んだ存. 積極 的 に学 ぶ自身 の解釈学 が存在忘却 の歴史 から ラデ ィカ ルな帰結 を引 き出. 解釈学者 の道 は、 こうし て分かれ る。 ガ ーダ マーは、 伝統 に帰属 し伝統 から. なか で真 理 に到達 でき るかもしれな いと いう希望が彼を支 え ている。 あ たか. え る ほ か は な いと いう 、 一種 の諦 念 は な い。 む し ろ、 地 平 融 合 な い し 対 話 の. た だ し ガ ー ダ マー に は、 非 1真 理 が 支 配 し 、 い っと も し れ な い将 来 に そ な. ( 捗. ( 転 回 ) は隠 さ れ て いな い こと と し て の 重 き ◎豪 な い し 明 る む 場 にお い て与. リヒトゥング. 五 相 互理解 と いう奇蹟 ? ー ー 肯定弁 証法 とば別 の仕方 へ. 合 であ ると いう自他対称的 な図柄 と 一体 であ る。. す ハイデガ ーを納得 させ な いことを認 めながら、 そうした預言者 や説教者 の. もカ ント倫理学 にお い て、意志 が道徳法 則と完全 に 一致す る最上善 は現世 で. 在と人間 の相互帰属を受 け入れた。. 役 割 だ け で は な く 、 「いま こ こ でお こな い う る こと 、 可 能 な こと 、 正 し い こ. は不可能 であ り無限 な進行 のうち にのみ見出 されう ると いう理由 で、 死 後 の. 呼び かけ に応え て実践 し自ら存在す る こと の重要 さを見据 え ていた二人 の. と に対 す る感覚」 ( QQヨ ド 宏遠し も必要 だ、と いう穏 やかな批判 を加 える。. u.

(13) . . 嘉. 也 後 藤. 合 と は異 なり、 現実 にあ る のは不調和 や樫鋳、葛藤 であ る。 しかし以下 で見. れ て い る。 も ち ろ ん 、 予 定 さ れ た 調 和 が 刻 々実 現 し て い る ラ イ プ ニ ッ ツの場. が相手 と自 らを発見す る調和 は、 たんな る理念的 なも のとし てであれ予定 さ. ま ったき融 合 によ って事象 そ のも のがあらわ にな る事態、 問答 のうち で自他. も っと楽観的 に実 現可能 な テ ロスが想定 され ている。過去地平と現在地平 の. 魂 が 要 請 さ れ て い た よ う に、 実 現 し が た い テ ロ スが 、 あ る い は カ ント よ り も. 奇蹟 が対話 と解釈 の運動 のテ ロスであ る。. QQミ ド 像 )。 こ の 垣 根 を こ え て理 解 し あ え る と いう 奇 蹟 が :::存 在 す る 」 (. た言語をも っている にもかかわらず個人 と個人、 民族 と民族、時 代 と時代 の. 言 語 な る も のと 同 じ く 幻 想 であ ろ う。 だ が 、 彼 に よ れ ば 、 「私 た ち は み な違 っ. であ っても、 二人 の言語 は別 の言語 であ る。 そも そも共 通語 な るも のは普遍. 言語 は相異 な る。 日本語と 日本語、 あ る いは日本 語 のなか の共通 語と共 通語. の答 え であ るととも に他 者自身 への問 いでもあ る。問 いと答 え のこの往復 は. る 問 い か け であ る。 私 は そ の言 葉 に答 え る。 他 者 にと って は、 そ れ は私 か ら. ルであ る。 他者 ( 人 間 に限定 されな い) が私 に語 りかける。 それ は私 に対す. 問 いかけ に対す る答 え であ る。 問 いと答え の対話 な いし循 環が解釈学 のモデ. 答 であ り、 問 い に対 す る 答 え であ る。 そ し て テ ク ス ト自 身 、 事 象 に つい て の. も のを 指 向 し てお こな わ れ る テ ク ス ト の解 釈 は 、 テ ク スト の語 り か け への応. ガ ーダ マーにと っては、 問 いと答 え の弁証法 が解 釈 の弁 証法 に先 んじ てお QQ名 r やぶ)。事 象 そ の り、 歴史的生起 と し ての理解作用を規定 し ている (. い る。 そ の歩 み は、 ア ド ル ノが 批 判 的 に い う 肯 定 弁 証 法 の道 程 であ る。. テ ロスをめがけ ての終 わりなき相互接近 が、哲学的 解釈学 であ る。 こと によ. と であ る。激 し い攻撃 であ るよりも対話、事象 に ついての完全 な合意 と いう. でしかな い。対決 す ることも 帰属 であ る以上、批 判 す る こと は同時 に学 ぶ こ. て排除 し てゼ ロから始め る啓蒙 主義 も、歴史 の破壊 も、伝統 への帰属 の変様. これ に対 し てガ ー ダ マー は 穏 和 さ を 失 わ な い。 彼 に と って は 、 先 入 見 を す べ. う語 は姿 を消すが、哲学 の歴史 は い っそう徹底的 に存在忘却 の歴史 とな る。. 転 回」 以後 「解体」 と い ハイ デガ ーの解釈学 であ り対話 であ る。 いわ ゆる 「. とあ る。壊す こと によ って つく り、解体 し ながら可能性を掬 い上 げ る のが、. oB 解 釈学 と は解体 だ ー」 ( 国Q>E ーー 史 の解 体 にあ った。 或 る手控 え には 「. の違 い にも反映 す る。『存 在 と時 間』期 を ふくめ若 き ハイ デガ ー の課題 は歴. こう し た他 な る も のと の予 定 調 和 は、 歴 史 を 反 復 す る さ い の ハイ デガ ーと. 終 わ る こと が な く 、 対 話 のな か で そ の つど あ ら た な 意 味 が生 ま れ る。 し た が っ. る と、 相 互 理 解 と いう こ の奇 蹟 は いま こ こ に立 ち 現 れ て い る のか も し れ な い。. るよう に、 この矛盾 と対立 は い つか止揚 され肯定 に転 じる ことが確信 され て. ゐ試) と特徴づ け て この往復 運動 は、 「意味 の生起 の完 結不 可能 な開放性」 (. なぜ なら、 地平が融合す るとき、自他 のずれ は消 え ているか ら であ る。 将来. に比重 がか か る ハイ デガ ーとちが って現在 お よび直 接性 と いう語 が いた ると. られ る。 最終 解決 は、事 実 の上 でも 理念 の上 でもあ りえな い。 だ か ら と い って こ の対 話 は決 裂 に終 わ る こと も な い。 ガ ーダ マー に よ れ ば 、. 「 対話 が成功す ると、 パー 対話 のなか で共通 の言語がはじめ て獲得 され る」。「. い る の では な い か 、 と いう 疑 念 にお び や か さ れ る こ と は な い。 む し ろ、 私 の. ガ ーダ マーは、 他者 の他者 性を、 つまり私 に現前 しな いあ りさまを逸 し て. こ ろ に現 れ る の は そ のた め であ ろ う 。 いま や 自 他 は 現 前 し あ い、 相 互 の異 質. ト ナ ーたち は互 いを あ ら た な共 同 へと結 び つけ る事 象 の真 理 に行 き着 く」. 先入見 が他者 によ ってただ され、変更 を迫 られ るから こそ、 相 互理解 が生 じ. 事 象 に関し て意見 の 一致 を見 ようと、互 いが いわば腹蔵 なく打ち明けあう真. 務ぬ)。解釈学 的 循 環 は こう し て自由 と連帯 のなか に導 かれ、 幸福 な調和 が (. る。 パ ー ト ナ ー は 私 と は ま った く 別 の人 物 であ り 、 私 は先 入 見 に よ って狭 く. 性 は廃棄 され ている。. 成立す る。対 話を始 め たとき にす でにこの調和 は予定 され ていた。相互 理解. 限定 され ている ことを私が知 っている以上、 私 は自 ら の先 入見 の暴力 を抑 止. 事象 に関す る相互 理解」 が生 じ、 塾 な姿勢 や善意 を もち つづ け るかぎ り、 「. を目指 さな い対話 は対 話 ではな いから であ る。 な るほど、 他者 の言語 と私 の. 2 1.

(14) . 相互理解とは別な仕方で. され る。 ハイデガ ー の真理と非 ’真理あ る いは現前と非 -現前 の交錯 はまた、. あ るよう に、自他 は互 いの異質性 を保存 し つつ和解、融和 し て止揚 され総合. ま で調和 を予定 され ているよう に、 あ る いは弁証法 がほとんどす べてそう で. す る こと が でき る。 ラ イ プ ニ ッ ツの モ ナ ド が それ ぞ れ の独 自 性 を 失 わ な い ま. すぎな い。 だ が、 そも そも友人 は身近 な人物 ではな い。 友人 は、 私自身 と同. Se。 友人 と いう他者 とか かわ る のは、 自己 を知 るため の手段 に であ る」 (. あ る のは、 自分自身を認識す るよりも身近 な人 を認識す る ほうが容 易 だから. 他 な る も の へ送 り 返 さ れ る。 「ア リ スト テ レ スが 言 う に は 、 友 人 が 本 質 的 で. 在す る過去地平 や現在地 平 などなく、存在す る のは両者 が融合す る唯 一の地. ちをも と るが、 この両極性 は媒介 され総合 され る。 それど ころか、 独立 に存. の実現 へ向 け て歩 む対話 の目的論 は、 他者 の、 ひいては自 己 の非 ‘現前 を、. 釈学 の限界 を教 え る。 いま ここ で解釈 し行為 す る こと によ って自由 と共 同性. ガ ーダ マー) 解 友人 と いう他者 を私自身 に現前 させ ると いう この志向 は、 (. じく私 から遠 い文字 どお り の他者 であ る。失 われた自 己を手 にす るため に、. 平だ けだとす れば、他者性 そ のも のを保証し ようとす る のは事象 そ のも の へ. すなわち存 在す るも のが現前 せず に存在す ると いう ことを忘却 し、 おお い隠. oo) と いう か た QQ名 -ーm ガ ー ダ マー に お い て 「親 密 さ と 疎 遠 さ の両 極 性 L (. と いう格率 に反す るかも しれな い。唯 一の地 平 のなか に身 をおく こと は、自. し て い る。. おわり に. 分 の尺 度を他者 に押 し つけ る こと でも、 そ の逆 でも なく、 「自分自身 の特殊 巴o) 性だ け でなく他者 の特殊 性をも克 服す るより高次 な 一般性 への上 昇L ( を意味 す るから であ る。事象 そ のも のを前 にす るとき、自己 よりも他者を優. の神 が単独 で永遠 の自己現前 (つね に自己 が自 己 に十全 に現前す ること) で. QQ名 一 △富 強 調 は 引 用 者 ) と 断 じ る 。 つま り 、 ア リ ス ト テ レ ス 近づ く」 (. 私 たち は持続す る現在 に 定 の終 極を見越 し てガ ーダ マーは、友愛 のうち で 「. す べても他者 に現前 し、他者も非 ‐真 理から真 理 へと移行 す る。 この交互限. 者 のす べてが私 に現前し、非 -真 理 の覆 いは残 らず はぎと られ る。逆 に私 の. こうし て、解釈学循 環 のなか に取 り込まれ た他者 は、私 にと って他な るも 。 のではな い。否定 性 は、私 に対す る否定 は止揚 され、肯定性 に転化す る 他. ( 予 定 調 和 ) か ら 、 し た が ってま た ハー バ ー マ ス の コミ ュ ニケ ー シ ョ ン行 為. イ デ オ ロギ ー批 判 の矢 面 に立 た さ れ た にも か か わ ら ず. QQ名 ーーN家 )、 ハー バ ー マ スな ど に よ る と いう啓蒙 主義 の先入見をあばき (. れた自 己を見出す と いう奇蹟。 ガ ーダ マー解釈学 は、先 入見 一般 に反 対す る. 自他 が相 異 なるも のであ りながら合意 を形成 し、 現在 しあ い、 こう し て失 わ. 他 なるも のと対話す る無限 の歩 み。 いま ここにおけ る実 践と不可分 な仕方 で、. 先す る理由 はな い。. あ るよう に、私 と友人 と は、少 なくとも理念上 は互 いに対 し て包 み隠 さずす. の理 論 か ら 、 見 か け ほ ど 離 れ て は いな い。 相 互 理 解 と い う プ ロ ・グ ラ ム は あ 。 、 ま り にも 正 し い。 ハイ デ ガ ー の政 治 的 挫 折 に てら せ ば な お さ ら 正 し い と. 事象 そのも のに影 の部分を残 さず照明を当 てる べく、他 な るも のを解釈 し、. 。 べ てを さ ら け 出 し つづ け る こと が でき る。 い ま や賢 慮 は知 恵 に近 づ く む し. たち)、 もすれば、伝統 の支 配 に屈 し て真 の共同性 の理念を喪失 しがち な私 (. 。 だ が 、 理 解 す る こと ( 8日宵 の口号 ①) は 包 含 す る こと であ る 異 他 な る も. や は り 正 し い。. 、 ゆく いき ほ ひ) に捧 さ す と いう か た ち に変 形 し が ち な 私 (たち ) に と っても. 、 啓 蒙 の プ ロ ・グ ラ ム. ろ知 恵 の額落態 になる。賢慮 に対 す る知恵 の優位 が、 つま りは恒常的現前性. そ し て、 い ま こ こ にお け る適 用 の重 視 さ え そ の つど の流 れ (つぎ つぎ にな り. ( n). と い う 存 在 理 念 が ガ ーダ マー を な お も 呪 縛 し て い る。. それ ど ころか、 この持 続的 な相互現前 は自 己現前 に帰着 す る。 なぜ なら、 他者を知 るのは自 己を知 るためだから であ る。自 己 の自 己 に対す る遠 さ、非 -現前 の自覚 は、 この遠 さを近 さ に、非 ,現前を現前 に解消す るため に、異.

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