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株井戸の研究

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(1)

I

はじめに

 地下水の過剰汲み上げは、今や世界的な社会 問題である(

Wada

et.al., 2010

)。たとえばアジア では、東京と大阪を皮切りに、タイのバンコク、イ ンドネシアのジャカルタというように、経済成長に 合わせて繰り返し問題が生じている。地下水の過 剰汲み上げは、時として地盤沈下を引き起こす。そ れは既存のインフラストラクチャへの被害、洪水 被害の拡大など複合災害につながるため、地下水 の過剰利用の防止・軽減策は防災の面からみて も極めて重要である(

Jago-on

et.al., 2009

)。  この地下水の過剰汲み上げ問題が、東京や大 阪よりもはるか前に、濃尾平野のいわゆる輪中地 域で生じていたことはほとんど知られていない。輪 中とは水防上の利害を共有する地域社会であり、 特に洪水防御を目的に集落および農地の周囲に 堤防をめぐらすという外形的特徴を備えたもので ある(伊藤・青木

1987

18-19

)。そこでは遅くとも

1800

年代初頭から半ばにかけて、自噴井を用い た灌漑が急速に発達した。それは水の安定利用 に寄与したが、他方で同一輪中の低地に農業排 水を集める結果となり、輪中内部で排水をめぐる 争いをもたらした。この輪中内部の排水問題解決 のために創出された制度が株井戸である。一般に 株とは「営業をなす特権」(宮本

1977: 59

)あるいは 「収益の源泉」(石井

1971: 523

)を指す言葉であ ることから、株井戸とは「特別に採掘を認められた 井戸」を意味する語句と解釈できる。  株井戸は排水問題の解決策と見なされているも のの、その根底には地下水の過剰利用という課題 が横たわっている。この意味で株井戸は我が国の 地下水管理制度の先駆けといえる。地下水の過剰 汲み上げに対しては絶対的な回答はなく、事例の 収集とそれに基づく不断の政策改善が必要である。

株井戸

研究

コモンズ論からの再構成

論文 遠藤崇浩 Takahiro Endo 大阪府立大学現代システム科学域 / 准教授

(2)

そこで本研究では主にコモンズ論の知見を用いて 株井戸を再検討し、その機能を明確化することを 目的とする。

II

先行研究の紹介

 株井戸の研究は主に

1930

年代から

1960

年代 にかけて行われた。まず別技(

1932

)、中澤・秋山・ 山田(

1936

)が輪中研究の一部として株井戸に言 及した。続いて内野(

1933

)、櫻井(

1934

)、伊藤 (

1935

)が株井戸そのものに焦点を当てた研究を 行った。特に片野(

1941

)、森(

1964

)、松原(

1968

) は、とりわけ高須輪中および福束輪中の株井戸に ついて、古文書に散見される数値データを用いて、 その生成から消滅までの過程を綿密に再現してい る。この他、輪中地帯の市町村誌においても株井 戸が取り上げられている。特に海津町、平田町、輪 之内町の町史は株井戸の紹介に多くの枚数を割 いており、また岐阜県史の史料集にも株井戸に関 する文書が記載されている。この他、安藤(

1975

)、 丸山(

1982

)、伊藤・青木(

1987

)、伊藤(

2002

)、鵜 飼(

2006

)、久保田(

2008

)なども株井戸について 言及しているが、それらは

1960

年代までの研究の 枠を超えるものではない。最後にこうした歴史分析 とは別に、株井戸から現代の地下水管理政策への 教訓を引き出す研究も現れている(

Endo, 201

)。  清水(

2014

)は株井戸を既に十分究明された テーマとしているが果たしてそうか。確かにこれら の既存研究は株井戸の歴史を詳らかにする点で 大いに貢献するものであり、本稿もまたこれらの研 究に依存している。しかしながら、その力点は株井 戸の成立過程の解明にあり、株井戸に含まれるど の要素がどのようなプロセスを経て、地下水の濫 用防止に寄与したかという制度分析の視点が欠 けていた。  後に詳しく述べるように、株井戸は地下水利用者 が外部からの強制に頼ることなく、自治の形で編み 出した制度である。この特徴に注目すると、近年の コモンズ論の知見は株井戸の研究に有用な視座 を提供する。コモンズ論の中心課題は、水、動植物、 大気といった共有資源全般について、その濫用を 防ぐ制度の構成要素を明らかにすることである (

Dietz

et.al., 2002:1

)。とりわけそれは天然資源 の管理について国有化でも私有化でもない第三の 方式─住民自治─の有効性とその限界に注目す る。この分析枠組みを株井戸の考察に適用した研 究はない。本研究の目的は、コモンズ論の知見を 用いて株井戸の機能を明確化することである。  またこの試みは株井戸の機能を明確化させるだ けでなく、コモンズ論それ自体にも有益な効果が ある。従来のコモンズ論は制度自体に注目するあ まり、その制度が依拠している社会的、物理的、技 術的背景を十分に分析に取り入れてこなかったと される(

Agrawal 2002: 5-5; Stern

et.al., 2002:



)。コモンズ論の視点から株井戸を分析するこ とは、それらの要素が共有資源管理制度の設計 に与える影響を考察する上で有効な材料を提供 するであろう。

III

株井戸制度

 株井戸は木曽川・揖斐川・長良川の三川合流 地域における輪中地帯で生まれた慣行である。輪 中地帯は現在でも存在しており、その大きさは東 西約

40km

、南北約

50km

に逆三角形 の形で広 がっており、その面積は約

1800km

2及ぶ(伊藤

2001: 3

)。株井戸は高須、福束、下笠といった輪中 で存在したとされる(片野

1941: 56

)。本稿ではそ のうち一次史料が多く残存している高須輪中に注 目する(図

1

)。

(3)

 高須輪中の住民は洪水対策という水問題に直 面していたとはいえ、干ばつ時には灌漑用水の確 保に苦労した。この問題への対応策として、遅くと も

1800

年代初頭には掘抜き井戸が活用されてい た(森

1964: 918

、松原

1968: 494

)。高須輪中はき わめて緩やかながら、北高南低の地形をしている (図

2

)。井戸は自噴井であり、高須輪中内部のうち 比較的高地にあった北部(上郷)に数多く掘られ た。だが、その地形のため自噴した地下水はやが て排水となり、比較的低地の南部(下郷)に集中し た。輪中地帯では上流からの土砂流出により河床 上昇が進み、いわゆる天井川が形成された。この ため川底が輪中内部の土地よりも高く、排水が極 めて困難だった(別技

1932: 248-249,

片野

1941:

55-56

)。従って、上郷での井戸数が増えるにつれて、 ただでさえ低湿地で水はけの悪い下郷にさらに水 がたまり、水稲栽培への悪影響が生じた(松原

1968: 491

)。つまり高須輪中の住民は、洪水とい う外部からの脅威に対しては共通の利益で結ば れていたが、井戸の設置と排水という内部の水問 題においては利害対立を抱えていた(中澤・秋山・ 山田

1936: 390

)。  この対立は①井戸数の制限、②井戸採掘の有 料化、③有料化収益を原資とした湛水被害者へ の経済補償を柱とした制度により緩和された。井 戸数の制限は湛水被害の原因である地下水噴出 量を制限するための措置である。上郷の井戸数は 限定され、その制限範囲内で地下水を利用せざる を得なくなった。さらに上郷側は井戸の数に応じ てお金を下郷側に支払い、下郷はその収入を元手 に排水樋門の強化を行った。ただし井戸の採掘 課金は

1

回限りで再徴収しないのが原則だった。 だが新規井戸を掘削する場合は、新たに課金を支 払わねばならず、それもまた排水樋門の強化に用 いられた(中澤・秋山・山田

1936: 390-391;

松原

1968: 501;

伊藤・青木

1987: 188-192

)。 図1 1870年頃の輪中分布図 (南濃町史編纂委員会(1978)付録地図を基に作成) 図2 高須輪中における等高線 (海津市教育委員会(2009)を基に作成)

(4)

 こうした仕組みは江戸時代末期から徐々に発達 し、明治期に入り「株井戸」と呼ばれるに至った。 理論的に整理すれば、株井戸は地下水採取に伴う 外部不経済の内部化を目的とした制度といえる。 地下水採取に伴う外部不経済といえば地下水位の 低下がその典型例だが、株井戸の場合、外部不経 済が自噴井による湛水被害という形態を取ってい たことが大きな特徴となっている(

Endo, 201

)。 なお私見の限り、高須輪中関連の文書に「株井戸」 という単語が現れるのは明治

9

1876

)年

7

月の「抜 井戸定約之證」(木曽荘川沿革調書第

14

巻「水利 上に付ての制限及約束」および森

1964: 940-942

所収)以降である。従って正確には江戸時代に作 られたしくみは「株井戸」と呼ぶことはできないが、 本稿では煩雑を避け、かつ、その連続性を重視す る立場から、「株井戸」という語句は江戸時代のし くみも内包するものとしたい。

IV

株井戸の形成プロセス

 株井戸は上郷と下郷が交渉を通じて自発的に 創出した制度である。ここでは主に森(

1964

)と松 原(

1968

)を参考にしつつ、その形成プロセスを、 井戸の現況調査、「見試し」による管理、ルール作 りに分けて説明する(表

1

)。 4-1. 井戸の現況調査  上郷で井戸が増加した直接のきっかけは嘉永

5

6

1852

1853

)年に発生した干ばつだった。排 水の増加に悩んだ下郷は、徳川幕府の出先機関 であり、当時輪中地帯で治水の任にあたっていた 笠松堤方役所へ被害を訴え、上郷の井戸を採り 潰すよう要求を行った(嘉永

7

1854

)年

2

月高須 輪中掘抜井増方之分皆潰嘆願書(平田町

1984:

579

所収))。当時の幕府の基本姿勢は、外川の治 水には介入したが、内水の問題は地域に解決を委 ねるというものだった(海津町

1970a: 47

)。特に株 井戸をめぐる上下郷の対立は輪中内部の団結に 亀裂を生じさせ、外水防御にも影響する心配が あった。そのため幕府は株井戸と外水防御は輪中 内の最重要事項として扱い、何か施策を行う場合 は、輪中内の全村の同意を得るという慎重な方法 が採られた(松原

1968: 502

)。排水をめぐる利害 対立が政府介入ではなく当事者間の私的交渉に 委ねられた背景にはこうした幕府の基本姿勢が あった。 和暦(年) 西暦(年) 出来事 嘉永5∼6 1852∼53 高須輪中、干ばつに見舞われる 嘉永7 (安政元) 1854 井戸数調査 〃 〃 上下郷の間で井戸の取り締まりと3ヶ年の見様しに関する合意 万延元 1860 井戸への番号付け、下郷での樋門設置に関する合意 文久元 1861 番号付き井戸数が388本となる 明治9 1876 井戸数の上限が806本に引き上げられる 明治16 1883 井戸数が1,421本に増やされる 明治36∼ 1903∼ 排水施設の近代化に伴い株井戸が徐々に消滅 (文久元(1861)年12月御料私領村々元井戸分水兼潰井取調書上帳; 木曽荘川沿革調書第14巻水利上に付ての制 限及約束; 片野1941; 森1964; 松原1968を基に作成) 1 株井戸の形成プロセス

(5)

 しかしながら笠松堤方役所は全く問題に関与 しなかったわけではない。同役所は下郷の訴えを 受け、現況把握のため上郷に井戸の数を調査する よう命じた。嘉永

7

1854

)年

6

月に調査が行われ たが、それによると井戸総数は

529

本であり、その うち

472

本が利用可能なもの、残り

57

本が使用不 能なものだった。また利用可能な井戸のうち

56

% (

263

本)が飲用目的のものであり、残り

44

%(

209

本)が灌漑用だった(なお嘉永

7

年は後に安政元 年と改元されたが、改元年号についてはこれより 表記を略す)。当時の井戸の分布図は図

3

に示す 通りである。(嘉永

7

1854

)年

6

月高須輪中掘抜井 水害有無見様等仰渡請書(森

1964: 920-924;

平 田町

1984: 580-591

所収))。 4-2. 「見試し」による管理  次に上下郷の間で井戸の取り締まりと

3

ヶ年の 見様(みためし)に関する合意がなされた。前者は 田場(灌漑用井戸)について、夏は「留め水」とする ことを内容とするものである。夏場は河川の水量 が増加し水圧が高いため、その時期の自噴量は冬 場のそれを大きく上回っていたという(松尾

1993

74

)。この規定は井戸利用の期間を制限すること で排水被害の軽減を図るものだった。また後者は、

3

年の見様期間を設定し、規約の遵守および被害 の有無を検討したうえで、井戸の存廃を決定する という取り決めを指す。つまり早急に結論を出す のではなく、一定の観察期間をおいて結論を出す ことで上下郷双方が合意した。このような環境変 動による不確実性を前提に、その時点で実施可能 な手立てを行い、その結果を検証していくことで問 題解決を図る手法は「見試し」と称される。現代の 言 葉 で い え ば、 順 応 型 管 理(

adaptive

management

)の手法ともいえよう(『水土を拓く』 編集委員会・社団法人農業農 村工学会

2009:

147

)。そしてさらに関係者の代表者(惣代)を決 定し、年に

2

回会合を開き、その結果を笠松役所 へ報告することも合意された。すなわち嘉永

7

年合 意は私的交渉のプラットフォームを設けたものと いえる(嘉永

7

1854

)年

11

月出水願書および安政

2

1855

)年

2

月留水願書(森

1964: 924-925

所収))。 4-3. ルール作り  こうした交渉を経て、万延元(

1860

)年に上郷と 下郷の間で井戸利用に関するルールが合意され た。それには以下のような項目が含まれていた。

a.

井戸に番号杭をつける。

b.

掘抜井戸をもつ上郷の村々の負担で下郷に排 水樋門を設置する。

c.

上郷の村々は井戸の増掘ならびに浚渫を勝手 に行ってはならない。 図3 嘉永7(1854)年6月時点における井戸分布 (嘉永7(1854)年6月高須輪中掘抜井水害有無見様等仰渡請書 (森1964: 920-924; 平田町1984: 580-591所収)を基に作成

(6)

d.

井戸の利用を止めている間に日照りが生じた場 合、上郷の村々は下郷の村々と申し合わせの上、 井戸利用について役所からの指示を仰ぐ。

e.

許可なく井戸の増堀ならびに浚渫を行った場合、 井戸の持ち主およびその村は罰金として

10

両支 払う。そのうち

5

両は(違法採掘を)訴え出た者 に支払い、残り

5

両は排水施設の修復に使う。

f.

利用禁止時期に井戸を使った者については、そ の井戸を潰す。さらに罰金として、井戸の持ち主 およびその村は

5

両支払う。そのうち

2

両は(違反 利用)を訴え出た者に支払い、残りの

3

両は排水 施設の修復に用いる。 (万延元(

1860

)年

12

月高須輪中掘抜井戸上 郷・下郷村々取極証文(海津町

1970b:

780-784

所収)

;

万延元(

1860

)年

12

月高須輪中 村 々 掘抜井一 件請書( 平田町

1984:

597-600

所収)

;

万延元(

1860

)年

12

月高須輪中 掘抜井規定書( 岐阜県

1969: 1117-1119

所 収)

V

考察

─コモンズ論からの再検討 5-1. 設計原理  この章では株井戸の機能をコモンズ論の知見 を用いて再整理してみたい。コモンズ論の中心課 題は、共有資源の濫用を防ぐ制度の構成要素を 抽出することにある。これまで構成要素について は様々な研究がなされているが(

Agrawal, 2002

)、 ここではその代表例の一つであるオストロムが提 唱する設計原理(

Design principles

)を手がかり に分析を進めたい(

Ostrom 1990: 90

)。  オストロムは様々な事例研究を通じて、利用者 主体による持続的な共有資源管理制度に共通す る要素を仮説的に提唱した。これが設計原理と呼 ばれるものである。それは

i

)明確に定義された境 界、

ii

)地域固有の条件に対応した規則、

iii

)集合 的意思決定のしくみ、

iv

)監視体制、

v

)違反者に 対する段階的な制裁、

vi

)紛争解決のしくみ、

vii

) 自治を行う最低限の権利保障、

viii

)統一性のあ る階層的な資源管理体制(入れ子構造)の

8

項目 からなる。 5-2. 設計原理と株井戸  驚くべきことにこれらの要素は、最後の「統一性 のある階層的な資源管理体制(入れ子構造)」を 除いて、すべて株井戸に明確に観察される(表

2

)。  入れ子構造はたとえば広範囲に渡る灌漑水路 など大規模な共有資源の管理に関係するものであ る(

Ostrom 1990: 189

)。株井戸は高須・福束・下 笠といった輪中に存在したが、井戸はそれぞれの 輪中内部で自己完結的に管理されており、輪中間 項目 設計原理 株井戸 i 明確に定義された境界 → 河川によって近隣の陸地から切り離されている輪中地形 ii 地域固有の条件に対応した規則 → 低湿地・洪水常襲地帯における排水問題への解決策 iii 集合的意思決定のしくみ → 惣代同士による年2回の会合 iv 監視体制 → 井戸番号制(万延元(1860)年ルール条項a) → 密告奨励金(万延元(1860)年ルール条項e,f) v 違反者に対する段階的な制裁 → 違反井戸に対する懲罰(万延元(1860)年ルール条項e,f) vi 紛争解決のしくみ → 上郷から下郷への経済補償(万延元(1860)年ルール条項b) vii 自治を行う最低限の権利保障 → 幕府および藩政府による非干渉主義 viii 統一性のある階層的な資源管理体制 (入れ子構造) → 該当なし 2 設計原理と株井戸の対応表

(7)

をまたぐ上位機関は私見の限り存在しない。つま り株井戸の場合、各輪中を小単位とする階層的な 管理構造は存在しないことから、入れ子構造とい う要素は該当なしと考えられる。(ただし各輪中内 部で階層的な管理構造が存在した可能性がある が、史料未入手のため、この点については今後の 課題としたい。)  では入れ子構造以外の要素はどうか。まず株井 戸は高須輪中という四方を河川に囲まれた明確な 境界がある場所で創設された(設計原理・項目

i

)。 またそれは輪中という低湿地・洪水常襲地帯で、 地下水採取に伴う過剰排水という地域特有の課 題に対応したものである(設計原理・項目

ii

)。当 時の幕府および藩政府は輪中内部の水問題を地 域に解決を委ねる姿勢を持っていたため、井戸規 制は当事者同士の交渉に委ねられ(設計原理・項 目

vii

)、上郷と下郷の惣代は定期的に会合を持ち ながら制度の運営にあたった(設計原理・項目

iii

)。 また万延元(

1860

)年ルールの条項

b

で規定され たように、上郷は下郷の被害軽減のための財政支 援を行った。これは地下水汲み上げによる外部不 経済を内部化するための措置で、上郷と下郷の利 害対立を緩和するねらいがあったといえる(設計原 理・項目

vi

)。  万延元(

1860

)年に制定されたルールのなかで も、

a.

井戸に番号杭をつける、

b.

掘抜井戸をもつ 上郷の村々の負担で下郷に排水樋門を設置する、

c.

上郷の村々は井戸の増掘ならびに浚渫を勝手 に行ってはならない、

d.

井戸の利用を止めている 間に日照りが生じた場合でも、上郷は勝手に井戸 を利用してはならず役所からの指示を仰ぐ、という 項目は株井戸の重要な骨格部分である。これは我 が国における地下水採取許可制度の先駆的事例 と位置付けられる。  またこのルールによって井戸数に何らかの上限 が加えられたと推察できる。その根拠は番号制の 導入である。上限を想定しない単なる許可制の場 合、許可を受けた井戸かどうかがわかる印が必要 となるが、それは特に番号である必要はない。次に このルール前後の井戸数の変化である。前に述べ た通り、嘉永

7

1854

)年

6

月に行われた調査では 利用可能な井戸は

472

本だった。番号付けが義務 化された翌年、すなわち文久元(

1861

)年の調査 によると、番号とその所有者名が付与された井戸 の数は

388

本だった。この両調査の対象地はほぼ 一致している。従って、利用可能な井戸の数が

472

本から

388

本へと大幅に減少しており、井戸数に 何らかの制限がかけられたことが推測できる。こう したことから地下水がもはやオープンアクセスでは なくなったことがわかる。  オストロムによれば、共有資源管理の最大の課 題は、外部からの強制をなくしていかにルール違 反を監視・抑制するかという点にある(

Ostrom

1990: 93-100

)。一説によれば、下郷の村々はそれ ぞれ井戸見廻り人を拠出しあって監視活動を行っ たという(海津町

1970a, 48

)。下郷の住民にとって 上郷の違反井戸の監視および摘発は、排水被害 の減少につながる点で公共財の提供に等しい。し かし自ら行わなくとも、他の村が監視を行ってくれ ればその利益に便乗できるので、どの村も監視活 動を他の村任せにするフリーライダーになる恐れ がある。  この視点に立つとき、井戸番号制および密告報 奨金といった仕組み(万延元(

1860

)年ルール条 項

a, e, f

)は、この監視活動をめぐるフリーライダー 問題の解決策であったと考えられる。井戸に番号 をつけることは井戸数を制限する機能と同時に、 違反井戸の監視費用を削減する機能をもつ。なぜ なら番号のない井戸、番号が重複している井戸は

(8)

即座に違反井戸と判別できるためである。さらに 密告報奨金の存在は監視活動にともなう私的利 益を拡大させることを通じて、自発的な公共財供 給を促した工夫と位置付けられる。しかもその支 払いを上郷の負担にしたことで報奨金を誰が出す のかという費用負担問題も同時に解決している (設計原理・項目

iv

)。  言うまでもなくこうした監視活動は、違反者への 罰則と合わさって初めて効果をもつ。株井戸制度 の下では井戸の廃止および罰金という罰則が導入 された(万延(

1860

)年ルール条項

e, f

)。それは違 反した本人だけでなく村にも支払いを求めるなど 連帯責任を定めている。これは上郷自身にも内部 の違反者を監視・摘発する誘因を与える機能も併 せ持っていたと推察できる。また罰金の重さに違 いがあることは段階的な制裁が導入されていたこ とを示唆している。下郷が井戸の利用方法に関す る違反よりも、井戸の無許可掘削および浚渫に重 い罰金を科していることは、後者がより重大な排 水被害をもたらすと認識されていたためであろう。 (設計原理・項目

v

)。  またこの罰金の金額に一定の合理性があること を指摘しておきたい。万延元(

1860

)年の取り決め で掘抜井戸をもつ上郷の村々の負担で下郷に排 水施設を整備することになった(条項

b

)。翌年の 文久元(

1861

)年井戸調査とほぼ同時に作成され た掘抜井戸出金取調帳によれば、ごく一部の村の 記録が欠けているものの、上郷の村々は保有する 井戸の数に応じて拠出金を負担したことが読み取 れる。ここから井戸一本あたりの負担金を割り出 すと、村によって差異はあるものの、平均で

0.94

両 となる(図

4

)。それは言うなれば、井戸価格あるい は地下水利用料に他ならず、ここからも地下水がも はや誰でもタダで利用できる資源から、プラスの 価格をもつ資源に転化したことがわかる。罰金が 井戸設置に対する抑止力を持つには、この地下水 利用料以上の金額に設定される必要があるが、無 許可掘削・浚渫の罰金(

10

両)および利用時期違 反の罰金(

5

両)という金額はその条件を十分に満 たしている。  以上のように株井戸はオストロムの提唱する設 計原理に沿った構造になっているものの完全に井 戸規制に成功したわけではない。万延元(

1860

) 年のルールが成立してから

13

年後の明治(

6

1873

) 年の高須輪中掘抜井戸箇所改帳によると、実際に 使われている井戸総数は

406

本だった。つまり差 し引き

18

本の違反井戸があったことになる。なお この反則井戸に関しては下郷の申し出により取り つぶしの措置が取られた。だが明治

9

1876

)年に 作成された新古掘抜井取調書にはいくつかの村 で再び違反井戸が採掘されたことが記録されてい る。これより井戸利用のルールが作られた後も地 下水に対する潜在的な需要は根強く残り、それが 違反井戸を生む素地になっていたと考えられる(森

1964

937-938

、松原

1968

498

)。 5-3. 社会的および技術的要素が株井戸に与え た影響  このように設計原理は株井戸の機能を明確化 図4 文久元(1861)年における井戸価格 (文久元(1861)年掘抜井戸出金取調帳を基に作成)

(9)

する有益な分析枠組みであるが、それだけでは説 明が十分でない部分もある。一つは株井戸が設置 された社会的・物理的背景の影響であり、もう一 つは技術的要素である。  そもそも輪中が発達した理由として以下の

3

点 が挙げられる。まず同地域が三川の合流する洪水 常襲地域であった。次に徳川幕府が木曽川の東 部に広がる天領の保護、および軍事上の目的から、 長さ

50km

におよぶ連続堤防(御囲堤)を築き、そ の結果、木曽川の西部に洪水が集中することに なった(図

1

参照)。そして最後に三川合流部分が 多数の藩によって分割統治されており、有効な治 水政策が実施されなかった。これを背景に洪水 が集中することになった木曽川の西部では、水害 対策として居住地および農地を連続した堤防に よって四方を囲むという自衛策が取られた。これ が輪中である(別技

1932: 234, 248-250;

中澤・ 秋山・山田

1936:15-16

)。当時の政府が輪中内部 の水問題を地域に解決を委ねる姿勢を持ってい たことが、自助的な制度作りを進めたことは既に 指摘した通りだが、その背景には、洪水常襲地帯 という物理的特性と政治的な理由に端を発する 治水制度の不備があった。これまでのコモンズ論 ではこうした社会的・物理的な背景はあまり注目 されなかったが(

Agrawal 2002: 56-57

)、株井戸 は社会的・物理的な要素が制度創出に作用する 場合があることを示している。  次に技術的要素も株井戸に大きな影響を与え た。ここで言う技術的要素とは取水技術並びに排 水技術の未熟さである。当時の輪中では河川から の取水が著しく制限されていた。なぜなら河川か らの取水口は洪水時に決壊場所に転化しやすく、 取水口の拡大は輪中全体にとって危険だったた めである(岡村

1936: 55

)。自噴井の掘削はその代 替策であったが、今度はその排水を輪中外に排水 する技術がなかったことから株井戸が創成された。  その後も、取水技術が発展しなかったため、上 郷で井戸需要は潜在的に存在し続けた。そのため 明治

9

1876

)年の干ばつをきっかけに多くの違反 井戸が掘られ、上郷と下郷の対立が再燃した(森

1964

938-939

)。この時の争論については次の ような妥協案により和解が成立した。まず下郷は 上郷内の井戸数の上限を

806

本に引き上げること を認める。その代わり、上郷内で新規井戸掘削を 認められた村々は資金を拠出し、下郷内に新たに 三間樋門を建設する。またこの際、隠し井戸への 制裁が強化され、それが発見された場合は、村の 全ての井戸を廃止するという連帯責任制を導入す ることが改めて確認された(明治

9

1876

)年

7

月抜 井戸定約之證(木曽荘川沿革調書第

14

巻「水利 上に付ての制限及約束」および森

1964: 940-942

所収))。明治

16

1883

)年には、

806

本と定められ た井戸は

421

本に再整理され、さらなる排水樋門 強化に向けて

1,000

本の株増しが提案された。こ の結果、明治

18

1885

)年には井戸総数が

1,421

本となった(森

1964: 942-945;

松原

1968:

499-500

(図)

5

)。 0 200 400 600 800 1000 1200 1400 1600 1854 1861 1873 1876 1885 年 井戸本数(破損のため利用不能な井戸も含む) 図5 高須輪中における井戸本数の変化 (文久元(1861)年12月御料私領村々元井戸分水兼潰井取調書 上帳; 木曽荘川沿革調書第14巻水利上に付ての制限及約束; 森 1964; 松原1968)を基に作成

(10)

 先述のように、株井戸の骨子は井戸の数の制限 と上郷 から下郷 へ の 経済補償 である。明治

16

1883

)年の取り決めは、前者を緩和する一方で、 後者を強化したものである。株井戸の機能が排水 による外部不経済の内部化にある点を考えると、 制度の内容はいくらか変化したとはいえ、その機 能は維持されていたと評価できる。  他方、排水技術はより明快な影響を与えた。

1903

年以降、高須輪中に機械排水機が設置され るようになり、下郷の排水が以前に比べて容易に 行えるようになった。このため上郷からの排水被 害は著しく軽減され井戸の制限を行う必要がなく なった。これにより株井戸は自然消滅するに至っ た。この動きは排水事業の財政制度の変化によっ ても後押しされた。先述のように、輪中内の水問 題においては、当時の幕府・藩政府は不干渉の基 本姿勢を取っており、そのため排水は輪中内の 村々の自己負担で行われていた。しかし明治維新 のため政治体制が一変すると、排水事業について 政府からの補助金が得られるようになり、それが 結果的に株井戸の終焉をもたらした。従って、株井 戸は近代的な排水ポンプがない技術的な制約の 中で編み出された仕組みといえる( 松原

1968:

501;

海津町

1984:184

)。

VI

結論

 本稿の目的は、輪中にかつて存在していた株井 戸制度の機能をコモンズ論の知見を用いて明ら かにすることだった。株井戸とは井戸掘削に伴う排 水問題を解決するため、輪中住民が自生的に編 み出した制度である。本稿では高須輪中における 株井戸の機能を分析する手がかりとして、オストロ ムの提唱する設計原理を用いた。株井戸は設計原 理に含まれる諸要素をほぼ全て満たしており、特 に井戸の番号付け、密告報奨金、隠し井戸発覚時 の連帯責任制といった項目を組み込むことにより、 排水に絡む外部不経済を外部からの強制に頼る ことなく内部化する機能を維持したと考えられる。 ただし違反井戸の出現が完全に抑止されたわけ ではなく、その都度、後追いの摘発が繰り返され た。また設計原理を株井戸に適用するこの試みは、 既存のコモンズ論の分析枠組みの改善にも寄与 する。従来の設計原理には社会的・技術的要素 が含まれていないが、株井戸の事例はそれらの要 素もまた制度形成に大きな影響を及ぼしている可 能性を示唆している。  そもそも地下水が過剰に利用される大きな原因 は、地下水に対する所有権の不明確さにある。だ が技術的な理由から広範囲にわたる地下水に対し て明確な所有権を設定することは難しい。輪中住 民が直面した問題とは、潜在的あるいは既存の地 下水利用者が多数存在し、しかも技術的制約が ある中で、いかに利用者数・利用量・利用技術を 制限し、それをどのように制度的に担保していくの かという課題である。これは地盤沈下や地下水汚 染といった、すぐれて現代的な地下水問題にも共 通する問題構造であり、株井戸は百数十年の時を 越えて今なお多くの教訓を与える事例といえよう。 【付記】  本研究を行うにあたり「公益財団法人旭硝子 財団平成

25

年度人文・社会科学系研究奨励プロ グラム(採択課題名:株井戸制度の研究−現代の 地下水管理政策の改善に向けて−)」および「科学 研究費助成事業(学術研究助成基金助成金)(挑 戦的萌芽研究 平成

26

年度∼

28

年度)(課題名: 株井戸の研究−輪中における革新的な地下水管 理制度−)(課題番号

26550101

)」の資金を活用 した。ここに記して感謝する。

(11)

 本稿は

2013

6

月に開かれた国際コモンズ学 会第

14

回世界大会(北富士大会)での報告論文 (

Endo Takahiro.

2013

.

The Kabu-ido

System: I n novations i n a n I nd ig enou s

Groundwater Management Institution.

Paper

presented at 14

th

Global Conference of the

International Association for the Study of the

Commons

を加筆修正したものである。  本論文で引用した株井戸一次史料は全て岐阜 県立歴史資料館にて閲覧可能である。特に美濃 郡代笠松陣屋堤方役所文書所収の『「高須輪中 堀抜井一件」一式』および『木曽荘川流域沿革調 書』を活用した。 参考文献 ⦿安藤萬壽男(1975『輪中─その展開と) 構造─』古今書院。 ⦿石井良助(1971『日本法制史概説』創文社。) ⦿伊藤信(1935)「美濃國に於ける輪中と株井戸に就て」『経済 誌研究』第14巻第2号、59-63。 ⦿伊藤安男・青木伸好(1987『輪中』学生社。) ⦿伊藤安男(2001)「輪中地域とその特質」『輪中と治水』(岐阜 県博物館編)、2-7。 ⦿伊藤安男(2002)「悪水をめぐる対立と慣行」『木曽川文庫 KISSO』(国土交通省中部地方整備局木曽川下流工事事 務所)第43号、9-10。 ⦿鵜飼愛香(2006)「近世後期美濃国福束・高須輪中におけ る水防をめぐる村落間結合」『地理学報告』第102号、16-32。 ⦿内野健夫(1933)「福束輪中に於ける株井戸に就いて」『地理 教育研究』(大垣地理学会)第1輯、29-32。 ⦿岡村精次(1936)「岐阜県美濃国西郡福束輪中に於ける用 排水史」『鳥取農学会報』第6巻第1号、53-64。 ⦿海津市教育委員会(2009『伸) びゆく輪中』。 ⦿海津町(1970a『海津町史) 民俗編』。 ⦿海津町(1970b『海津町史) 史料編二』。 ⦿海津町(1984『海津町史) 通史編(下)』。 ⦿片野温(1941)「福束、高須両輪中に於ける株井戸制」『濃飛 文化』(岐阜県郷土文化史調査会)第一輯、47-77。 ⦿久保田稔(2008)『川と生きる 長良川・揖斐川ものがたり』 風媒社。 ⦿岐阜県(1969『岐阜県史) 史料編近世五』。 ⦿櫻井一郎(1934『福束輪中) に於ける株井戸に就て(大垣図』 書館蔵景星閣文書)。 ⦿清水進(2014)「福束輪中と株井戸」『輪之内学研究』第3号、 2-10。 ⦿『水土を拓く』編集委員会・社団法人農業農村工学会(2009) 『水土を拓く知の連環』農山漁村文化協会。 ⦿中澤辨次郎・秋山桓士・山田淸(1936)『輪中聚落地誌』日 本農村問題研究所。 ⦿南濃町史編纂委員会(1978『南濃町史) 通史編』。 ⦿平田町(1984『平田町史) 史料編』。 ⦿別技篤彦(1932)「西濃平野に於ける輪中の地理学的研究」 『地理論叢』(京都帝国大学地理学教室)第一輯、 230-282。 ⦿松尾國松(1993)『濃尾に於ける輪中の史的研究』(増補改 訂版)大衆書房。 ⦿松原義継(1968)「高須輪中における株井戸の歴史地理的 考察」『地理学評論』第41巻第8号、491-504。 ⦿丸山幸太郎(1982)『幕藩制解体過程の農村─近世美濃の 農業と水の問題─』大衆書房。 ⦿宮本又次(1977『株仲間) の研究(宮本又次著作集第一巻)』 講談社。 ⦿森義一(1964『平田町史) 下巻』。 ⦿嘉永7(1854)年2月高須輪中掘抜井増方之分皆潰嘆願書 ⦿嘉永7(1854)年6月高須輪中掘抜井水害有無見様等仰渡 請書 ⦿嘉永7(1854)年11月出水願書 ⦿安政2(1855)年2月留水願書 ⦿万延元(1860)年12月高須輪中掘抜井戸上郷・下郷村々取 極証文 ⦿万延元(1860)年12月高須輪中村々掘抜井一件請書 ⦿万延元(1860)年12月高須輪中掘抜井規定書 ⦿文久元(1861)年12月掘抜井戸出金取調帳 ⦿文久元(1861)年12月御料私領村々元井分水兼潰井取調 書上帳 ⦿明治6(1873)年10月高須輪中掘抜井戸箇所改帳

(12)

⦿明治9(1876)年7月新古掘抜井取調書 ⦿明治9(1876)年7月抜井戸約定之證

⦿木曽荘川沿革調書第14巻「水利上に付ての制限及約束」 ⦿ Agrawal, A. (2002). “Common resources and

institu-tional sustainability,” in The drama of the commons,

ed-ited by Elinor Ostrom, Thomas Dietz, Nives Dolsak, Paul C. Stern, Susan Stonich and Elke U. Weber, (Washington D.C.: National Academy Press): 1-85. ⦿ Diez, T., et al., (2002). “The drama of the commons,” in

The drama of the commons, edited by Elinor Ostrom,

Thomas Dietz, Nives Dolsak, Paul C. Stern, Susan Stonich and Elke U. Weber, (Washington D.C.: Na-tional Academy Press): 3-35.

⦿ Jago-on, K. A. B., et al., (2009). “Urbanization and subsurface-environmental issues: an attempt at DPSIR model application in Asian cities”, Science of the total environment, (9): 3089-310.

⦿ Ostrom, E. (1990). Governing the commons, the evolu-tion of instituevolu-tions for collective acevolu-tion, (New York: Cambridge University Press).

⦿ Stern, P. C. et al., (2002)“. Knowledge and questions af-ter 15 years research,” in The drama of the commons,

ed-ited by Elinor Ostrom, Thomas Dietz, Nives Dolsak, Paul C. Stern, Susan Stonich and Elke U. Weber, (Washington D.C.: National Academy Press): 5-89. ⦿ Endo, T. (201). “The Kabu-ido system: implications

for current groundwater management policy,” in Groundwater as a key for adaptation to changing cli-mate and society, edited by Makoto Taniguchi and Tet-suya Hiyama, (Tokyo: Springer Japan): 129-11. ⦿ Wada, Y. et al., (2010)“Global depletion of

(13)

The Kabu-ido System Revisited

An Application of the Commons Study

Takahiro Endo

The purpose of this paper is to describe the

function of “Kabu-ido," a groundwater

manage-ment system used in the Tokai region of Japan

from the late 19th to the early 20th century.

The implications of Kabu-ido for the commons

study will also be discussed. The southern part

of the Noubi Plain in the Tokai region is a low

lying area composed of a large delta that is

sub-ject to severe flooding. Local residents in the

region developed a unique system, later known

as the ring-levee system (Waju in Japanese), to

manage the problem of flooding. However,

ar-ea residents sometimes faced severe water

shortages in years when precipitation was low.

To address these occasional water shortages,

ir-rigation by artesian wells was expanded rapidly

in the ring-levee area from the early to

mid-19th century. Although the development of

artesian well systems greatly stabilized the

wa-ter supply within the ring-levees, it led to the

accumulation of drainage water in the lower

part of the area. Consequently, Kabu-ido was

developed to address the conflicts related to

drainage within the ring-levee systems.

Kabu-ido was established as early as the 1850s and

remained in use until around 1903 to solve

drainage problems and provide a method for

regulating uncoordinated groundwater

pump-ing. In Japanese, the word “kabu" denotes

“privilege to do a business" and “ido" means

“well," thus “Kabu-ido" can be interpreted as

meaning “privileged well" or “special right to

dig wells." Accordingly, a study of Kabu-ido

and its development can provide useful lessons

for current groundwater management systems.

Although previous studies have clarified

Kabu-ido, they have only focused on its history and

have not considered the institutional aspects of

this practice. Therefore, this study was

con-ducted to investigate Kabu-ido from the

viewpoint of the commons study.

Keywords: groundwater, externalities, design

principles, institution

(14)

参照

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