岡山大学経済学会雑誌
3 0 ( 2 ) , 1 9 9 8 ,8 7 ‑1 2 7
ザクセ ンの森鴎外 補遺
松 尾 展 成
日 次
(1) 初めに
(2)鴎外の ドイツ人面談者 (3) 引用文献 目録
( 1 ) 初 め に
ザ クセン留学中の 『日記』には,鴎外が会 って
(1),話を した ,あるいは,請 演を聴いた り,芝居を見た,とい うザ クセ ン在住 ドイツ人が,数多 く記載 さ れている.すなわち,それ らの人 々の姓が,原語を付けて記 され ,多 くの場 合には地位 も,一部の人に関 しては名 も記 されている.本稿 は,これ らの人 物の姓名 と地位を確認 し,あるいは,追加 ・修正 しようとす る試みである, ただ し,夫人 と子供 ,ザ クセ ンに居住 しない ドイツ人
(2),お よび,ドイツ人以 外 の外国人は除いた .
まず ,各人の姓を , 『日記』の表記に従 って五十音順に,配列 し,一連番号 を付けた.ヰ,ヱ,ヲはィ,エ,オ と見な し,濁音 ・半濁音は無視 し,フ ォ ンは姓か ら除外 した.例外的に名のみのベル タについては,便宜上 ,ベルク の項を立て,王妃については,カ ローラの項を立てた .『日記』 の明治 1 7 年 1 0 月 2 2 日は ,1 7 /1 0 / 2 2 と表記 した .日付 の前 の地名 は ,出会 った場所 を示 し, ドレースデ ン市は
Dr,ライブツィヒ市は
Lpと略記 した .日付の後に, 具体的な事項を さらに追加 した場合 もある.来 日したベル ツ,シ ョイべ とナ
ウマンに関す るい くらか詳 しい事実は,松尾 1 9 9 8 ( ら ) に譲 った .鴎外が接触 し
‑8 7 一
た 日本人の うち
,3月以上ザ クセ ンに滞在 した人は,松尾
1998(a.
)に含 まれ る であろ う.
『日記』に名あるいは地位が記 されていない場合には,可能なか ぎ り追加 した.追加 された名が ,それほ ど一般的でない場合 ,お よび ,J u l . をユー リウ スと私が推定 した場合には,原語を併記 した .ただ し,Ca r lの ように
,Eと発音 され る
Cは,特記 しなか った .兵科 ( 歩兵 ,騎兵な ど)に よる軍人の階 級 の区別は省略 した.『日記』に記 された姓 ,名あるいは地位が疑わ しい場合 には,私の想定を追記 した.鴎外の翻訳 「 鳴呼ヰル‑ル ム,ロオ ト逝 きぬ」
は , 「ロオ ト逝 きぬ」と略記 し,ザ クセン州立 ライブツィヒ文書館付属 ドイツ 系譜学セ ンターは系譜学セ ンター,同セ ンター所蔵 のライブツィヒ市警察登 録簿
(Polizeimeldebucher.この文書は
181 1 年に始 ま り,名称変更後
1951年 に終わ る)は
PMと略記 した .
ザ クセ ン軍医の階級 (アルフ ァベ ット順)は次の ように訳 出 した .
Assistenzarzt1.Klasse‑二等軍医,同
2.Kl . ‑三等軍医 ,
Generalarzt1.Kl . ‑軍医監 ,同
2.Kl . ‑軍医監補 ,
Oberstabsarzt1.K
1 . ‑‑等軍医正 ,同
2.Kl . ‑二等軍医正 ,
Stabsarztニー等軍医 .
ザ クセ ン王国陸軍省 とザ クセ ン (ドイツ帝国陸軍第1
2)軍団 (後備軍 ・予 備軍は省略)の構成 は,ほぼ次の とお りである
(3).部隊の番号はまずザ クセ ン軍団の番号 ,( )内に ドイ ツ帝国陸軍の番号を,部隊の後の ( )内は司 令部所在地あるいは駐屯地お よび部隊の小区分を示 している.騎兵師団や工 兵大隊の ように,ザ クセン軍団では唯一の,したが って,番号のない部隊 も 存在 した .本稿本文ではザ クセ ン軍団の師団 ・旅団番号 , ドイツ帝国陸軍部 隊番号 と駐屯地は省略 した .
(Ⅰ)ザ クセン王国陸軍省
陸軍大臣,陸軍参事官 ,陸軍大臣副官
第 1 部 ( 司令 ・技術事項担当)
ザクセンの森鴎外
311第
2部 ( 法務事項担当) 第
3部 ( 経理事項担当) 陸軍参謀部 ( 戦節部 ,技術部)
侍従武官衛成軍 (ドレースデ ソお よびケ一二ヒシュタイ ン要塞) 軍人養成機関 ( 士官学校な ど)
軍医部 (ドレースデ ソとライブツィヒの陸軍病院を含む) 高等軍法会議
陸軍刑務所 (ドレースデ ンお よびケ‑ニヒシュタイ ン) 砲弾 ・兵軸部
被服部
糧食管理部
(Ⅰ)ザ クセン (ドイツ第12)軍団
( 1 ) 総司令部 (ドレースデ ソ)
総司令官 ,陸軍参謀部長 ( 陸軍省),戦術部参謀 ( 同省),総司令官副官 ( 2 ) 歩兵
第
1( 第2
3)歩兵師団 (ドレースデ ン.2旅 団 と
1猟兵大隊) 第
1( 第45
)歩兵旅 団 (ドレースデ ソ.3連隊)
第 1近衛 ( 第
100)歩兵連隊 (ドレースデ ン.3大隊,1
2中隊) 第
2近衛 ( 第
101)歩兵連隊 (ドレースデ ン.
3大隊,1
2中隊)
( 第1
08)狙撃兵連隊 (ドレ‑スデ ソ. 3大隊
,12中隊) 第
2( 第
46)歩兵旅 団 ( 司令部は ドレースデ ソ.
2連隊)
第
3( 第1
02)歩兵連隊 (ツィッタウ. 3大隊
,12中隊) 第
4( 第1
03)歩兵連隊 (バ ウツェソ. 3 大隊
,12中隊) 第
2( 第1
3)猟兵大隊 (ドレースデ ン.4中隊)
第
2( 第24
)歩兵師団 (ライブツィヒ.2族 団 と
1猟兵大隊) 第
3( 第47
)歩兵旅 団 (司令部はライブツィヒ.
3連隊)
‑
89‑第
5( 第1
04)歩兵連隊 (ケムニ ッツ.3大隊,1
2中隊)
第
6( 第1
05)歩兵連隊 (シュ トラ‑スブル ク.3大隊
,12中隊) 第
9( 第1
33)歩兵連隊 (ツゲィッカウ. 3大隊,1
2中隊) 第
4( 第48
)歩兵旅団 (ライブツィヒ. 3連隊)
第
7( 第1
06)歩兵連隊 (ライブツィヒ. 3大隊,1
2中隊) 第
8( 第1
07 )歩兵連隊 (ライブツィヒ. 3 大隊,1
2中隊) 第1
0(第1
34)歩兵連隊 (ライブツィヒ. 3大隊
,12中隊) 第
1( 第1
2)猟兵大隊 (フライベル ク.4中隊)
(3)
騎兵
騎兵師団 (ドレースデ ソ. 2 旅団)
第
1( 第23
)騎兵旅団 (ドレースデ ン. 3連隊) 近衛騎兵連隊 (ドレースデ ン.
5中隊)
第 1 ( 第 1 8 ) 軽騎兵連隊 (グローセソ‑イ ン. 5 中隊) 第
1( 第
17)槍騎兵連隊 (オーシャッツ.
5中隊) 第
2( 第24
)騎兵旅団 (司令部は ドレースデ ソ.
3連隊)
騎銃兵連隊 ( ボルナ.
5中隊 , うち第
3,第
5の
2中隊 はペ ‑ガ ウ)
第
2( 第
19)軽騎兵連隊 (グ リマ.5中隊 , うち第
2,第
4の
2中 隊は ラウジ ック)
第 2 ( 第 1 8 ) 槍騎兵連隊 (ロホ リッツ. 5 中隊 , うち第 3 ,第 4 の
2中隊はガイ ト‑イ ソ)
(4)
砲兵
( 第1
2)砲兵旅団 (ドレースデ ソ.3連 隊
, 1工兵大隊 と 1輯重兵大 隊)
第
1( 第
12)野戦砲兵連隊 (ドレースデ ン.3大隊
,12中隊 , うち第
3大隊 ,すなわち,第
7・第8中隊 ,第 1・第
2騎馬中隊の
4中
隊は リーザ)
ザクセンの森鴎外
313第 2 ( 第 2 8 ) 野戦砲兵連隊 ( 司令部 は ドレースデ ン. 2 大 隊 ,8 中 隊 , うち第
1大隊 ,すなわち,第 1‑第
4の
4中隊は ピルナ,第
2大隊 ′すなわち′第
5‑第
8の
4中隊はフライベル ク)
( 第 1 2 ) 徒歩砲兵連隊 (メ ッツ. 2 大隊 ,8 中隊) ( 第 1 2 ) 工兵大隊 (ドレースデ ン. 4 中隊) ( 第 1 2 ) 輔重兵大隊 (ドレースデン. 2 中隊)
本稿に よって,まず ,ライブツィヒ大学医学部の 「 ホフマン」衛生学教投 は 「ウソデル リヒ」内科教授の娘婿であることが証 明された .次に , 「ドヨオ ベ ン」城主 「ビュ ロウ」家の家族構成 ( 城主夫妻 , 「 イイダ」と姉弟たちの名 と生没年 ,配偶者の氏名 ・地位 ,子供),お よび , 「 陸軍卿」 あるいは 「 兵部 卿 」 「ファブ リイス」伯爵 の家族構成が明 らか に された . この結果 と して ,
「ビュ ロウ」家は
,『 文づかひ』の記述 と異な って , 「ファブ リイス」家 と姻 戚関係にないことが実証 された.さらに,黒衣の女性 「 ルチ ウス」の名 ,坐 地 ・生年 ,没地 ・没年 ,出身校 ・職業が,ほぼ解 明された .もちろん,確認 できなか った人物 ,あるいは,人間関係 ( 例 えば , 「 代言人ヰル ケ」が婚約者
「 ベル ク」と結婚 したか どうか),さらに,十分には明らかにできなか った事 項 ( 例えば,教師 「 イル グネル」の担当語学科 目)も少な くな
い (4).今後 にお けるこれ らの事項の究明を ,拙論への批判を含めて,期待 したい,
本稿の作成に当た って,貴重な教示を与えられた ,ザ クセン州立中央文書 鰭 ,ザ クセン州立 ライブツィヒ文書館 ,同付属 ドイツ系譜学 センター,ライ ブツィヒ大学文書館 , ドレースデ ソ市立文書館 ,ライブツィヒ市立文書館 , グ リマ市立文書館 ,ツィッタウ市立文書館 ,ツィッタウ市ル ター派教会文書 鰭 ,ザ クセン州立図書館 ,ライブツィヒ大学図書館 ,ライブツィヒ音楽演劇 大学図書館 ,ライブツィヒ市史博物館などのザ クセンの諸機関 ,また ,驚嘆 すべ き調査能力でもって私の質問に迅速に回答 された ,テ ユービングソ大学 図書館 ,バイエル ン州立図書館 ,ヴユルテンベル ク州立 シュ トゥッ トガル ト 図書館 ,マールブル クの ドイツ貴族資料館な どの旧西 ドイ ツの諸機関 ,その
‑9 1 ‑
他 ,当該箇所に記載 した諸機関,さらに
,Duden1 9 7 4 に収録 されていない固 有名詞の発音を教示 された ミヒャ‑ル ・ラウック助教授 ,最後に,文献の収 集に配慮 された岡山大学経済学部資料室に対 して,心か ら感謝す る.
なお,本稿末尾の引用文献 目録は,前稿 「 ザ クセンの森鴎外」 と本稿に引 用 された文献の 目録である.ザ クセン史の研究に携わる者 として私は,今後 のザ クセン留学時代鴎外伝研究に,以下の
3点,すなわち,第
1,一般的で ない固有名詞に対する ドイツ語原綴の付記 ,第
2,引用文献の正確な記載 , 第
3,著作発表の際の綿密な校正 ,を要望 したい.
(注)
(1)鴎外は ドレースデ ンの宮城や陸軍大臣ファブ リス伯爵邸 に招待 され て いない , と主 張す る中井説はすでに紹介 した .もしそれが証 明され ると,その時の 『日記』に記 され た人物 は,すべて除外 されなければな らないわけである.それ らの人物 の中で,本稿の 実証か ら見て,やや奇異な人物 を挙げてみる.詳細は各人 の項 を参照 され た い .第1 に.陸軍大臣邸の夜会出席者 (「単なる人名の羅列に過 ぎない」‑ 中井)の うち,「政 道 局のプラニッツvonderPlanitz」は,駅助手であ って,「世に聞 こえた る人 々」 とは 言えないであろ う.退役中将ベル ン‑ル ト・ユー ドラ一 ・フ ォン ・デ ア ・プ ラ‑ニ ッ ツ,あるいは,当時の陸軍参謀部長 (大佐) であ り,1891年か ら陸軍大臣 (中将)\とな るカルル ・バ ウル ・フ ォン ・デア ・プ ラ‑ニ ッツは別 人 で あ る .「外交 官 7 1)イ ゼ ソ Friesenは嘗て書を著 して膚堂往事の秘策を説 き,ウヨルマンWoermannは世界知名の 困書鮒 に長た り」,とあるが ,まず ,ヴ ェル マ ンは ツゲ ィンガ ‑宮殿絵 画館 の館長 で あって,図書館長ではない.次に,当時の外務省官吏 フ リーゼ ソ男爵には著作 はない.
1866年か ら大蔵大臣 と外務大臣を兼任 して,内閣を主導 した リヒ ャル ト ・フ ォン ・7 .)‑ゼ ソ男爵は,1876年に退任 して ,ザ クセ ン政治史第一級の資料 と見な され る 『回想 録』を出版 したが,1884年に没 していた .「モ ソツ将軍GeneralGrafYonMontsは猶嬰 蝶 として舎破嵩の往事を談ぜ り」,との文章 について,モ ンベ中将はいるが ,陸軍 大将 モ ソツ伯爵はザ クセ ンばか りでな く, ドイツ全体に もいない.モソベ中将の父 (少佐) はナポ レオン戦争に参加 しているけれ ども,すでに没 してお り,1821年生 まれのモ ンベ 中将の最初の実戦参加は,1849年 の ドレースデ ン (三月革命末期 の 「五月騒乱」鋲圧) であった.第2に,1月13日の宮城の舞踏会に出席 した 「貴顕」として,「シヨンベル ヒ の公子・・‑・PrinzClemensSchoenberg」が挙げ られているが ,この名前の貴族 の存在を 私は実証できなか った .
(2)以下 の ドイツ人は,ザ クセン時代の 『日記』に記載 されているが ,ザ クセン在住では ない.
ザ クセ ンの森 鴎外 315
(a)キル ヒホツフ(Kirchhoff;Dr18/12/12,植民地論を講演).『ドイツ帝国の保護領』
DieSchutzgebietedesdeutschen Reichs, £um Gebrauch beim Schulunterricht dargestellt,Halle1893(GV,Bd.75(1983),S.300)の著者で,‑ レ大学教授のアル
フ レー ト・キル ヒホ7.
(b)グル ウベ (軍撃雑誌 の記者 ,一等軍嘗 Grube;ベル リーン19/2/19).彼 はザ クセ ンの軍医ではない.Vgl.SHB 1886/87,S494‑495;Rangliste1885,S241‑248. (C)ゲェダンパ ウエル ([解剖学者]Gegenbauer,Lp18/2/17,著書購入).『人体解剖
学 教 科 書』LehrbuchderAnatomiedesMenschen,Leipzig 1883 (GV,Bd44 (1982),S317)の著者 カルル ・グーダンパ ウア(Gegenbau工)・彼はザ クセン科学 ア カデ ミーの数学 ・物理学部門外国会員 (‑イデルベル ク市在住) で あ った .SHB, 1892/93,S610.ただ し,彼 はSHBにお いて も1890/91年版 (S.603)まで は Gegenbauerと綴 られていた.
(d)‑アヱル ラン ド,アンナ (AnnaHaverland;Dr18/10/16,朗読合).王立ベル 1)‑
ソ劇場所属の女優で ,詩人のアナ ・‑‑ファーラン ト テ ユー ビングン大学図書館回 答 .
(3)SHB 1886/87,S461‑493;Rangliste1885,S 1‑98.
(4)前稿に関 して,以下を修正 ・追記 したい.
(a)p93,下か ら18行 目 (荏 (4)) の 「‑ ドムソ ト」を 「‑ トムソ ト」に改め る.
(b)p.93,下か ら4行 目(注 (4))の 「借行社」の後 に以下を追加す る.(「pオ ト逝 き ぬ」 では 「公飴合場」).
(C)p.97,荏 (20)の 「これは同 じ」か ら最後 までを削除 し,以下に変更す る.金子 1997は,鴎外 の秋季軍事演習参加に関す る陸軍大臣の許可証 が ,ザ クセン陸軍省文書 の中に最近発見 された と,報告 している.そ こに示 され る写真 に よれ ば , この文書 は,ザ クセ ン国王の東謡の下にファブ リスが署名 した もの と考え られ る.軍医学講習 への参加許可証は どの ような ものであったのであろ うか .『日記』,18/8/29の記事 と 整合す るのであろ うか .これ らについて,金子幸代氏の詳論 を待 ちた い .なお ,金 子1997の文章 の うち,「120年ぶ り」は112年ぶ り,「ザ クセ ン軍司令官であるフ ァブ リ ス伯爵」は ,ザ クセ ン陸軍大臣であるファブ リス伯爵
,
「八月二十 日付けの書簡」は,8月19日署名,20日発送 の文書 ,の誤植である.ザ クセ ン軍団総司令官は王弟 ゲオル クであった ,ザ クセ ン国王に よってそれぞれ独 自に任命 され る,陸軍大臣 と軍団総司 令官 との権限の相互関係については,シュ ミッ ト1995,p12を参照 .とくに,軍事事 項におけ る国王 の命令は陸軍大臣のみに よって作成 された .
(d)p.100, 2行 目の 「狙撃兵」を 「猟兵」 に改め る.
(e)p101,6行 目の 「武器庫」 を 「中央兵器庫」 に改める.
(f)p103,注 (3)の最後 に以下を追加す る.さらに,武智 1998,p.38の地 図を参 照 .
(g)p104,荏 (14)の最後 に以下を追加す る.さらに ,武智 1998,p.42を参照 , (h)p105,荏 (27)‑の追加 .「ロオ ト逝 きぬ」では,陸軍特BFJ地区は 「軍市 (ミリテ
‑ルスタツり」 と訳 されている.
‑93‑
(i)p.105,注 (28)‑の追加 .『椋鳥通信』,p.360に,「ドレスデソに新議事堂が立つ.
Braeter,Rothの二人が立てる」,との記事 (1910年12月1日発行)がある.しか し, カルル ・ロー トと‑ トムソ ト・プ レーターの設計によって1910年 に完成 したのは , ドレースデン市の新市庁舎であった.新 しい邦議会議事堂はバ ウル ・ヴァロ ト(Wa1‑ lot)の設計に よって1907年に落成 していた.Stimme11994,S.250,335.
(j)p.105,荏 (30),16行 目の 「に あ った , と考 え られ る.」 を,「に あ った . Stimme11994,S37,51;F6rster1994,S.365;シュミット1995,p.128.中央兵器 庫の後身 としての陸軍省砲弾 ・兵姑部がこれである.」に改める.
(k)p.105,注(36)について,第1に,「これは」の前に次の文章を追加する.『椋鳥通 信』,p.191に ドレスデ ソの宮廷オペラ劇場 (とSemper)が言及 され てい る.第2 に,この注の最後に,以下の文章を追加す る.『椋鳥通信』,p.834に,「ドレスデンの OstraalleeにKoerlig】jchesSchauspie】hausが新果せ られた.これ までの宮廷劇場は 個人の手に移る」,との記述 (1913年10月5日垂)がある.「これまでの宮廷劇場」と は劇場前広場の宮廷劇場ではな く,アルベル ト劇場のことである.Stimme11994, S.38,366‑367.
(1)p.106,注 (41)‑の追加 .「pオ ト逝 きぬ」 では 「市療院」 とされている.
(m)p106,注 (43)の 「工業大学」の後に,次の語句を追加する.(「ロオ ト逝 きぬ」で は 「高等工学校」).
(n)p.113,江 (8)の 「物見塔は」の前に,次の文章を追加する.1746年に物見琴の時 計が新 しくされ,毎時に,また,15分毎に時を告げることになった .Muller1995, S23.『文づかひ』の最後の場面で 「ほがらかに鳴」 る時計が,これであろ う.
( 2 ) 鴎外の ドイツ人面談老
(1) アウセ ン ドル フ (主婦 Aussendorf;Dr19/1/1).18/10/14記 載 の伶 院 大街 GrosseBruedergasse[修道士路13番地] の 「レンネル酒店 RestaurantRenner」 (レナ‑料理店) の店主 が ,ク 1)ステ ィア ン ・エル ンス ト ・カルル ・ア ウセ ン ド ル フであ った .AdreL3buchvonDresden1886,S.ll.なお,18/ll/25記載 の 「ア ウセ ン ドル フ食店 RestaurantAussendorf」,19/1/1記載 の 「大付院街 の ア ウセ ン ドル フ旗亭」 は存在 しない . ドレースデ ソ市立文書館 回答 .
(2)アルベル ト (国王 Albert;グ リムマ市 18/9/6,Dr19/1/1, 1/12).ザ ク セ ン軍 団総 司令官 とな った後 で即位 した アルベル ト (在位1873‑1902)につ い て は ,シ ュ ミッ ト1995,pp.38,40,61‑62,145を参殿 .彼 に因む アルベル テ ィヌム 宮殿 と陸軍特別地 区 ,アルベル トシ ュタ ッ トについては ,す でに言及 した .武智 1998,p51を参照 (ただ し,上段6行 目の 「183年 国王」は1873年 国王 ,の誤植 で ある.さらに,p.30,上段 10行 目の 「儲邦 」 は連 邦,p.36,上 段2行 目の 「軍 監」は軍 医藍,p.41,18‑19行 目の 「チ ェル ニイ」はチエル リイ ニィ,p.43,5行
ザ クセ ンの森鴎外 317
日の 「食計官」 は会計官 ,の誤植 である).
(3)ヰイサ ン ド (法官Wiesandの娘 ;DT19/2/12,少将 シウ 1)との舞踏合).父は 下記 (4)の人物 であろ う,
(4)ヰサ ン ト (ゲ 1)ヒツラア トGerichtsratWisand;Dr18/12/14).邦高等裁判所参 事官 (Oberlandesgerichtsrat)バ ウル ・アル フ レー ト ヴィ二 ザ ソ ト(Alfr・Wi三一 sand)博士 .SHB 1886/87,S.161.
(5)イル グネル (英語の師Ferdinandllgner;Lp17/10/24‑18/10/6).PM文書に よれば ,冒‑ ン ・フェルデ ィナン ド・イル グナーは1851年 (月 日省略 .原 則 と し て ,以下同 じ) にプ ロイセ ン王国ザ クセン州 トルガ ウ郡 ラングソライ ヒ ェソバ ヅ
‑ (Langenreichenbach)村で生 まれ ,英国 ロン ドンに行 き,アイル ラン ド・アー モー (Armogh)郡 デ リー ・コソシ ュ(DerryConsh)出身 の ア ン (1857年 生 ま れ ,旧姓 マ ッキテ リックMcKitterick)と,1875年 に ロン ドンで結婚 した .1880年 に息子チ ャールズ (カルルではない) が ロン ドンで生 まれた .ロン ドンでの職業 が不明であるJ.F.イル グナ‑は,一家3人 で1883年に ライ ブツィヒに来 て,酒屋 の営業許可証 を取得 し
,
「1889年か らは語学教師」 と記載 されている.なお ,彼 と 彼 の家族 の没年 は不明である.PM 170.S.12b.‑ AdreL3buchvonLeipzigに おいては,彼 は1886年 までは記載 され てお らず,1888年 版,S,167では ,上記 PM文書 の記事 よ りも早 く,すでに語学教師 とな ってい る.以上 の経歴か ら見て , 彼 は一般的には,すなわち,ドイ ツ人に対 しては英語教師であろ う.しか し,彼が 外国人 ,とくに鴎外に対 して何語を教 えたかを ,私は確定で きない.英 語 ではなく, ドイツ語の教師 との主張 (中井 1996,pp.208‑213)はすでに紹介 した . (6)ヰル ケ (衛生司令部三等軍撃 GeorgWilke;Dr18/10/25か ら19/3/7まで しば
しば).第4歩兵連隊第3大隊 の三 等軍 医 で ,軍 医部 出 向中 (kommandiertzur Sanitatsdirektion)の ゲ オ ル ク tア レクサ ン ダ ー ・ヴ ィル ケ博 士 .Rangliste 1885,S.10,32,248.Vgl.SHB 1886/87,S.495.なお ,金子 1992,p.43を参 照.
(7)ヰル ケ (代言人Wilke;Dr18/10/25,19/3/2,3/7). ドレースデ ソ地方裁 判所担当弁護士 ゴッ トライ ヒ ・‑‑ヴァル ト(Ew.)・ア一 ドル フ ・ヴ ィル ケ博 士 .SHB1886/87,S.207.ドレースデ ン市立文書館の回答 に よれば,1945年 以前 の同市の婚姻登錠文書が現存 しないので,彼がベル タと結婚 した ことは ,立証 で きない.また ,彼 は1882年か ら1911年 までのAdreL3buchvonDresdenに記載 され ているが,1912年 には彼 の未亡人の記載 もない. したが って ,彼が結婚 していた とすれば,彼 の夫人は1912年 にすでに死亡 していた .そのために,彼 の夫人 の名 がベル タか どうかは ,不 明である.なお,金子 1992,p.43を参照 .
(8)ウユル ツ レル (第8歩兵聯隊一等軍撃 Wuerzler;Lp18/1/18か ら9/30まで し ば しば).第ヱ歩兵連隊第2大隊 ・大隊医の一等軍医で ,ライブツィヒ大学衛生学 研究所 出向中 (Z.Z.hygienischeslnstitutzuLeipzig)のフ リー ドリヒ ・ヴィク ト ル ・ヴユツラー博士 .Rangliste1885,S.41,245.Vgl.SHB1884/85,S,479.彼 はUniLeip1885,S.30では衛生学研究所第二助手である.ただ し,SHB 1886/
‑95‑
87,S.495では第2近衛歩兵連隊の一等軍医 とな ってい る.川上 1984,p.35で も, 第7歩兵連隊所属 とされている.彼が ライブツィヒで鴎外を直接指導 した , と武 智 1997,p.31は推定 している.さらに,金子 1984,pp.54‑55を参照 (p.55,下 段7行 目の 「WurzlerFrdr.」 はWurzler,Frdr叫の誤植 である).
(9)ウヨルマ ン (国書鮒長Woermann;Dr19/1/ll).教授 カルル ・ヴェルマ ン博士 は ,図書館長ではな く, ツゲ ィソガ ‑宮殿 に あ る絵 画館 の館長 であ った .SHB 1886/87,S.146.なお ,日本宮殿にある王立 図書館 の上級司書は,教授 ・枢密宮廷 参事官エル ンス ト・フェルステマン (F6rstemann)博 士 で あ り,館長 は空席 で あ った .SHB 1886/87,S.147.『椋 鳥 通 信 』,pp.130,201で は,Karl Woermannは 「ドレスデ ソ画廊の長官」 と記 されている.
(10)ウル リヒ (女優Ulrich;Dr18/10/12).1859年か ら ドレースデ ソ宮廷劇場専属 と な った女優パ ウ リ‑ネ .ウル 1)ヒ.Eisenberg1903,S.1057‑1058.彼女は 『椋鳥 通信』,p.49に言及 されている.
(ll) ウソデル リヒ (ホフマ ン師の姑Wunderlich;Lp18/3/7).ヴソダー リヒとい う姓 は,しば しば見 られ る姓 である.SHB1854,S.404の人名索引を見 ると,ヴソ ダー リヒは5人い るが ,博士は一人だけである.それは ライブツィヒ大学 医学 部 臨床学教授 ,枢密医務参事官 ,臨床研究所所長 のカルル ・アウダス ト・ヴ ンダ ー リヒであった (SHB 1854,S.298).SHB 1886/87,S.742では16人が記載 されて いるが,もちろんヴソダー リヒ教 授 は いな い .そ こで,PM文書 の フ ラ ンツ ・ ホ‑フマ ン教授 の関連箇所を見 る.PM 167,S.73で ,フラ ンツ ・ア 一 ドル フ ・ ホ‑フマ ンFranzAdolphHofmann(ホフマ ンHoffmannではない.念 のため) は,市民 ,医学博士 ,大学教授,1843年 ミュソヒェソ生 まれであ り,彼 の妻 は ア ガーテ (Agathe)・シャル ロッテ ・エ リーゼ,旧姓 ヴ ンダ ー リヒ,1852年1月 22日ライブツィヒ生 まれ ,と判 明す る.PM 113,S.207‑207bでは,エ リーゼ ・
シャル ロッテ ・アガ‑テ ・ヴソダー リヒ(1852年1月22日ライブツィヒ生 まれ) は,カルル ・アウグス ト.ライ ンホル ト.ヴソダー リヒ (医学博士 ,枢 密 医務参 事官 ,教授 ,家屋所有者,1815年 ヴユルテ ンベル クのズル ツSulz生 まれ)と夫人 ゾフ ィー (旧姓 グメ‑ 1)‑ソ Gmelin,1820年 テ ユービングソ生 まれ)の間の第4 子 ,次女であ り,参考欄 に 「医博 ,教授 フランツ ・ア一 ドル フ ・ホーフマ ンに嫁 す 」 とあ る .た だ し, こ こで は ,母 親 お よび 姉 と同 じ よ うに , 女 性 形 の Wunderlichinで記載 されてお り,ク リスチ ャン ・ネームの順序 も上記PM 167と 一部異なる.さらに,PM 251,S.1に よれば,ヴソダー リヒ教授は1877年 に没 し (死亡地 は , ここに特 記 され て いな いか ら, ライ ブ ツ ィ ヒで あ る),夫 人 ゾ フ ィー ・ヴンダー リヒは ,スイスのボーデ ン湖畔 ク ロイ ツ リンダソ Kreuzlingen 村で1885年3月3日に没 した .以上の事実か ら見て,『日記』,18/3/7,「ホフマ
ン師の姑 ウソデル リヒ氏の枢 を送 る」 の死者 は,ヴソダー リヒ教授の未 亡 人 で あ る.夫人の遺体は ,馬車あるいは鉄道で ライブツィヒに運 ばれたのであろ う.
(12)‑ヱルス (原語表記な し ;Dr18/12/12,19/1/21,ロオ トあるいは ミユル レル と同席).下記 (13)の軍医であろ う.
ザ クセンの森鴎外 319
(13)ェヱルス (一等軍啓 Ewers;Dr19/2/14,3/6).狙撃兵連隊第2大隊 ・大隊 医 の一等 軍 医‑ イ ソ リヒ ・ア ウ ダス ト ・ル ー トヴ ィ ヒ ・ユ ダ ァ‑ ス博 士 . Rangliste1885,S.47,244.Vgl.SHB 1886/87,S,494.
(14)‑ルヰ ツツ (舞師Wilhelm Jerwitz;Dr19/2/15).主役舞踏家 (Balletmstr.) ヴィル‑ル ム ・フ リー ドリヒ ・エ ー ドゥアル ト ・イ ェル ヴ ィ ッツ.AdreL3buch vonDresden1886,S.214;ドレースデ ン市立文書館回答 .
(15)オイ レ (楽 人Eule;Dr19/2/15).音楽 家 カルル ・エ ー ミール ・オイ レ.
AdreLSbuchYonDresden1886,S.92.
(16)ヲオル (寡婦 FrauWohl;Lp17/10/23,18/12/28).ゾフィー ・ヴォ‑ル .金 子 1984,p.45;川 上 1984,pp.29130を参 照 .彼 女 の夫 は,AdreL3buchvon Leipzig1880,S.338で取次商人 (Kaufmann,Kommissionsgeschaft)となってい
るエー ドゥアル ト・ヴ ォ‑ルであろ う.そ の時 の彼 の住所 は1884年 の未亡 人 ゾ フィーのそれ と同 じ (タール街1番地)であ った .
(17) オステン (俳優vondenOsten;Dr19/1/ll).1880年か ら ドレースデ ソ宮廷劇 場専属俳優 であ った エ ー ミール ・フ ォン ・デ ア (deと)・オス テ ン・Eisenberg 1903,S.739.
(18)オツ トオ ・ペ‑テルス(FrauLouiseOtto‑Peters,Lp18/9/28,猫逸婦人合).
作家 ・編集者ルイ‑ゼ ・オ ッ トー‑ベータースは,テ ユー ビンゲソ大学 図書 館 に よれば ,旧姓をオ ッ トーと言い,夫は作家 アウグス ト・ベ ータースであ った .川 上 1984,p.32;金子 1992,pp.309‑310を参照 .
(19)フォ ン ・オ ヨオル (大尉 vonOehr;マツ‑ル ソ村 18/8/27,ネル‑ ウ市 8/
31).この姓 の軍人はいない (Vgl.Rangliste1885,S.406;SHB 1886/87,S.
675)ので ,第7歩兵連隊 (第2・大隊)第6中隊 ・中隊長 の大尉 ク レー メ ンス ・ ローベル ト アン トーン ・マ 1)‑ア ・アルベル ト フ ォン .エ ーア (0堅)男爵
(Rangliste1885,S.39,173.Vg.SHB 1886/87,S.485)の ことであろ う.
(20)カル ヒ (Karg;Dr18/10/5,「カシノ」で講演).第10歩兵連隊第3大隊の二等 軍 医 カルル ・‑ル マ ン ・カル ク博 士 (Rangliste1885,S.53,246.Vgl.SHB 1886/87,S.495)の ことであろ う.
(21) カローラ (ザ クセ ン王妃 ;Dr19/1/1,1/31).ス ウェーデ ンの名門貴族 ヴァ ザ (Wasa)家 出身 の王妃 カ ロー ラ (カ ロ 1)‑ネ) につ い ては , シ ュ ミ ッ ト 1995,pp.6ト62,154を参照 . ドレースデ ソ大公園のカ ローラ池については,すで に言及 した .
(22)グラウべ (Graube;Dr19/1/18,ヰル ケ,トイ‑ルな どと同席).82,84,86年 の軍 医 には いない .Vgl.SHB 1882/83,S.473‑475;SHB 1884/85,S.477‑
479;SHB1886/87,S.494‑495.第2槍 騎 兵連 隊第2大隊 ・大 隊長 の大尉 7‑
ゴ ・ル ー トヴィヒ ・グラウベ (Rangliste1885,S.66,212)の ことであろ うか .級 者はAdreLSbuchvonDresden1886/87,S,140では待命少佐である.
(23)グ リイ マ ン妓 (Frl.Gliemann;Dr19/2/28,軍 営正 チ イ グ レル の宴 骨 ).
Adre13buchYonDresden1886に,Gliemann姓 の人物 はいるが ,この令妹を特定
‑97‑
で きない.1882,84,86年 の軍医に この姓 の人物はいない,Vgl.SHB 1882/83, S.473‑475;SHB1884/85,S.477‑479:SHB1886/87,S.494‑495.この姓の人物 は1885年 の軍人に もいない.VgLRangliste1885,S.396.
(24)ク リイ ソ (軍撃正Klien;Dr18/12/2). ドレースデ ソ陸軍病院 ・院長 (ドレ一 スデ ソ駐屯軍 ・軍医長お よび第 1歩兵師団 ・師団医を兼 任),一等軍 医正 ‑ル マ ン ・モー▲リッツ ・ク リーン博士 .Rangliste1885,S.10,241.Vgl.SHB 1886/ 87,S.494.彼 は,「ロオ ト逝 きぬ」において,ロー トの葬儀 の際に弔辞を述べた と され る 「賂腎 ク1)イソ」であ り,この時には ,官職 はそのままで ,階級が軍医監補 に昇任 していた .SHB 1892/93,S.658.
(25)ク リイ ソ (陸軍病院長 ,原語な し ;Dr19/3/7).上記 (24)の軍医であろ う.
(26)グ レエフ‑ (Graefe;Dr19/1/6,ヰル ケ と同席).磯重兵大隊の二等軍医 7‑
ゴ ・エー ドゥアル ト・エー ミール ・グレーフ ェ博士(Rangliste1885,S.76,246;
SHB 1886/87,S.495)の ことであろ う.
(27) ク レツチ ユマ ン (化 学 士 KTetSChmann;Lp18/1/ll).不 明 .UniLeip 1884/85,S.Ⅸ,74;UbiLeip1885,S.X,72‑73;UniLeip1885/86,S.X, 74‑75には,大学 関係者 と して ,また , 自然 科学 を学 ぶ学 生 と して ,さ らに , AdreL3buchvonLeipzig1884,1885に も ,化 学 者 と し て,Kretschmann, Kretzschmannは記載 されていない.
(28)グ レツチユマソ妹 (Frl.Gretschmann;Lp18/6/10,フォオゲル夫人 と同席).
不 明 .
(29)ゲオル グ王 (司令長官PrinzGeorg;Dr18/5/12,グ リムマ市 9/6).「ロオ ト 逝 きぬ」では司令婿官 ゲオル グ王殿下 .王弟 のザ クセ ン公 で ,後 に国王 (在位 1902‑04)とな ったゲオル クについては,シュ ミッ7.1995,p.44を参照 .当時は ザ クセ ン軍団総司令官 ,大将 であった.Rangliste1885,S.15;SHB 1886,S, 476.さらに,武智 1998,p.50を参照 .
(30)コクチ ウス (眼科教授 Coccius;Lp18/4/29,6/ll).ライブツィヒ大学眼科 教授 ,枢密医務参事官エル ンス ト ア一 ドル フ ・コクチ ウス博 士 .SHB 1886/ 87,S.511;UniLeip1885,S.8.
(31) ゴル ドシュ ミッ ト(HenrietteGoldschmidt;Lp18/9/29,猪 逸婦 人合).金 子 1996,pp.280‑281(p280,下段21行 目の 「‑ ン リニ ッ ト」は‑ ソ リニ ッテ,の 誤植 である) とチ ュービングソ大学図書館に よれば ,女子職業教育に尽 力 した‑
ソ 1)ニ ッテ ・ゴル T.シュ ミッ ト.彼女につ いては 『椋鳥通信』,p.616に も言及 が ある.ユダヤ教律法学者 の未亡人 (川上 1984,p.32)であるか否かを,私は確認 できなか った.
(32)シユ ウ .)ヒ (牌 軍 Schurich;Dr18/5/12).この姓 の軍 人 は いな い (Vgl. Rangliste1885,S412;SHB1886/87,S.710)ので,下記 (33)の少将 の ことで
あろ う.
(33)シユ ウ リヒ (少洛 Schurig;Dr19/2/12).陸軍省第3部部長 ,陸軍参事官 ヨ‑
ソ ・カルル ・アウグス ト・シ ュー 1)ヒ少将 .Rangliste1885,S.1,128‑129;
ザ クセ ンの森鴎外 321
SHB 1886/87,S.461.
(34)シユ ツチエ ソマイステル (撃師Schuetzenmeister・,Dr18/12/14).ドレースデ ソ の医学博 士 カルル ・テ ‑オ ドール ・フ ェル デ ィナ ン ド ・シ ュ ッツ ェソマ イ ス ター.AdreL3buchvonDresden1886,S.453.
(35)シュ ミッ ト(Schmidt;Lp18/6/ll,コクチ ウス教授 な どと同席).ライブツィ ヒの大学街にある外科研究所 (Chirurgisch‑poliklinischeslnstitut)所長 ,枢密医務 参事官 ,助教授ベ ノ (Benno)・ゴ ッ トロープ ・シ ュ ミッ ト博 士 (SHB 1886/ 87,S.512;UniLeip1885,S.9)の ことであろ う.医学部名誉教授 ・ザ クセン軍 団軍医部随員 (SHB 1892/93,S.560,658)の彼 の名が,「ロオ ト逝 きぬ」では, B工竺nO と表記 されている.
(36)シュ ミッ ト (大挙助手ArnoldSchmidt;Lp18/6/27).アル ノル ト・シュ ミッ Tl博士は AdreL3buchvonLeipzig1884,S.292では市 立病 院助 手 で あ る.Uni Leip1885,S.28には ,臨床研究所 (リービヒ街 の市立病院に あ る)の外科(chir. Abtheil.)助手 シ ュ ミッ ト(A.Schmidt)博士 とあ り,UniLeip1885/86には記載 がない (Vgl.S.Ⅶ).
(37)シュ ミッ ト(Frl.AugustaSchmidt;Lp18/9/29,濁逸婦人曾).テ ユー ビンゲ ソ大学図書館に よれば女教師 ・作家 アウグステ (August里).シ ュ ミッ ト さ ら に,川上 1984,p.32(私立女学校 の経営者) ;金子 1992,p.313;金子 1996, p.280(上段6行 目と下段3行 目の 「アウグス ト」はアウグスタあるいはアウブス テ,の誤植である)を参照 .
(38)シュ ミッ ト (大学助手HeinrichSchmidt;Lp18/6/27).‑ イ ソ リヒ ・オス ヴァル ト・シュ ミッ ft博士は AdreL3buchYonLeipzig1884,S.294では市立病院 助手 である.UniLeip1885,S.28では,臨床研究所 (リー ビヒ街 の市立病院にあ る) の内科 (ned.Abtheil.) 助手 シ ュ ミッ ト (H.Schmidt)博 士 とあ り,Uni Leip1885/86には記載がない (Vgl.S.Ⅶ).
(39)シユライデ ソ未亡人 (植物学士の夫人FrauSchleiden;Lp18/5/3,5/7, 9/29).夫の植物学者はマテ ィーアス ・ヤー コプ ・シュライデ ソで,ザ クセ ン科 学 アカデ ミーの数学 ・物理学部門外国会員 (ヴィ‑スパ ーデ ン市在住)であった . SHB 1880/81,S.443.バイエル ン州立 図書館に よれば,彼 は1854年 に , ライ ブ
ツィヒの法律家 マ‑ レツ ォル (Marezoll)の娘 テ レ‑ゼ と再婚 し,1881年 に没 し た .AdreL5buchvonLeipzig1884,S.290では ,教授未亡人 テ レーゼr(Ther.) ・ シュライデ ソとなっている.
(40)シユ ワアべ (虚子FrlSchwabe,・Lp18/5/3,5/7, トッ トマ ンの招待).不 明 .
(41) シユ ワイ ンゲル (洛軍 vonSchweingel;Dr19/1/ll).砲兵炭 団 ・旅 団長 オ ッ トー ・フ ォン ・シュヴ ァイ ソゲル少将 (Rangliste1885,S.20,128‑129;SHB 1886/87,S.479)のことであろ う.
(42)シ ヨイベ (BothoScheube;Lp17/12/15,18/2/17,2/27).ライブツィヒ大 学 医学 部 内科講 師 ボ ー ト ・シ ョイべ博士 .SHB 1884/85,S.496;UniLeip
‑99‑
1884/85,S.10(UniLeip1885には記載 が な い .VgLS・Ⅶ).さ らに ,金 子 1984,p.53を参 照 (同 ペ ー ジ下 段13行 目の 「ScheubeBotho」 は Scheube, Botho,の誤植である).
(43)シヨオンプ ロオ ト (中尉Schoenbrot;Dr18/12/8,12/19,19/1/1).工兵大 隊第4中隊の7 1)‑ ド1)ヒ ・リヒャル ト・シ ェーンブ ロー ト(Schonbro些)中尉
(Rangliste1885,S.75,236)の ことであろ う.
(44)シヨソベル ヒ公子 (Prin∑ClemensSchoenberg;Dr19/1/13,宮城 の舞踏合).
フ ォン ・シェーンベル ク (YonSchonberg)家はザ クセ ンの名門貴族 ではあるが , prinzの称号で呼ばれ るような高位貴族ではなか った .SHB1886/87,S.705の人 名索引 (勲章受章者を含む)のフ ォン ・シェーンベル クの項 で,K (C)の付 く人 物 に,ク レーメンスの名の者は当時いなか った .Vgl.SHB 1886/87,S.13,136, 259,288,484.少将 K.F.Ch.は カスバルであ り,名の挙げ られてない2人 の う ち,大尉 はバ ウル ・エー レンライ ヒであ り,大佐はノ、ンス ・ルー トヴィ ヒで あ っ た .Verlohren1910,S.467‑468.また ,ザ クセ ンの高位貴族 フ ォン ・シェーンZ ル ク(Schonb里rg)家 の一族 には,現役軍人9人に限れば ,ク レーメ ンス ・フ ォ ン ・シ ェー ンブル クは 当時 いなか った .Rangliste1885,S.176,190,191, 206,221(ただ し, 2人 の少尉 の名 は不 明で あ る.S.94).さ らに,Verlohren 1910,S.467‑469に も該 当者が記載 されていない.高位貴族 フ ォン ・シ ェー ンブル
ク家一族には当時,1881年 にアル ブ レヒ ト勲章 (大十字) を授与 された リヒ ャル ト ク レーメンス (Rich.Clem.)・フ ォン ・シェーンブル クエグラウヒャウ伯 爵 (SH古1886/87,S.37),侍従武官長で中将のゲオル ク ・フ ォン ・シ ェーンブル ク
‑ヴァルデ ソブル ク公子 (SHB1886/87,S,464;Rangliste1885,S.3),お よ び ,騎銃兵連隊第1中隊の少尉 オ ッ トー ・フ ォン ・シェーンブル ク‑ヴ ァル デ ソ ブル ク公子 (Rangliste1885,S.59.Vgl.SHB 1886/87,S.489)がいた . (45)シル (一等軍撃 Schill;Dr18/10/14).狙撃兵連隊第3大隊 ・大隊医の一等軍医
ェル ソス ト ・ゲオル ク ・シル 博 士 .Rangliste1885,S.47,245.Vgl.SHB 1886/87,S.495.彼 は 「ロオ ト逝 きぬ」の原著者 である.この追悼文を書いた時に は ,工 兵大 隊 の一 等軍 医 (「ロオ ト逝 きぬ」 では 「本部啓」)で あ った .SHB 1892/93,S.659.シル姓 の軍医は他にいない.Vgl.SHB 1892/93,S.658‑660.
(46)ズス ドル フ(Sussdorf;Dr18/12/5,腎学舎で同席).ドレースデ ソ士官学校 の 一等軍医‑ルマン ・カルル ・ユー リウス ・ズス ドル フ博 士 (Rangliste1885,S.
6,244.Vgl.SHB 1886/87,S.466,494)の ことであろ う.
(47)スッツ ドニツツ嬢 (新聞 "Fuer'sHaus"の編集長Frl.YonStudnitz;Dr19/1 /ll).テ ユー ビング ソ大学図書館 に よれ ば ク ラー ラ ・フ ォン ・シ ュ トゥ ドニ ッ
ツ.1882年 創 刊 の彼 女 の週 刊誌 の名 は,FurlsHaus.PraktischesWochenblatt furalleHausfrauenであった .Jessen1977,S.567.
(48)ズツツ レ‑ブ (法 学士 Sutzleb;Dr18/12/14,ヰル ケ と同席).不 明 .彼 は AdreLSbuchvonDresden1886に記載 されていない.
(49)ステツ‑ル (軍嘗正Stecher;Dr18/10/14,ll/10,12/5な ど).第2近衛歩兵
ザ クセ ンの森鴎外 323
連隊 ・連隊医の二等軍 医正 クル ト シ ュテ ヒャー博士.Rangliste1885,S.26, 243.Vgl.SHB 1886/87,S.494.
(50)スネ ッ トゲル (マ ッヘル ソ城主 PaulSnetger;マ ツ‑ル ン村 18/8/27)・三三 ネ トガ‑家S垂netgerの当主 は1901年 に もェ‑ ドゥアル トで,1914年 にはバ ウル とな っていた (Hofmann1901,S,248;Hofmann1914,S,291).バ ウルの相続 は 1903年 であ った .また ,バ ウル の娘 はアグネスだけなので
,
「エ リーゼ ・スネ ッ ト ゲル」 は ,バ ウルの姉妹 も しくは叔母 であ ろ う, と川 上 1977(a),p.14;川 上 1977(b),pp.129‑130は推定 している.藤井 1988,pp.149‑150を も参照 .バ ウル の 妻 であ る,Buschoeveden男爵家 出身 のHildegard(川上 1977(a),p.14お よび同氏 か らの私 信 ) と彼 女 の 父 は ,バ イ エル ン州 立 図書 館 に よれ ば , ドイ ツ貴 族 譜 Gothaに記載 され ていな いか ら, ドイ ツの貴族 (下級貴族 ・男爵 ・伯爵) で は な い .また, Buschoeveden家 は ,ス トックホル ム大学 図書館 とチ ェコ国立 図書館 に よれ ば ,北欧 の貴族 (王妃 カ ロー ラは上記 の よ うにス ウ ェーデ ン出身) で も, チ ェコの貴族 で もない .系譜学 セ ンターに よれば ,シ ュネ トガ一家 に関す る資 料 は きわ めて乏 しい .ゴ ッ トフ リー ド ・ヴ ィル ‑ル ム ・デ ィ トリヒ (Ditrich)・ シ ュネ トガー (1770年 ヴ ェス トフ ァー レン ・イザ ‑ ロー ン市近郊 ダイ リン クホ ‑ フ ェソ Deilinghofen村生 まれ,1861年 マ ッ‑ル ンで投)は1806年 に リンデナ ウ伯 爵か らマ ッ‑ル ソ城 を取得 した .彼 の子 で ,騎 士農場 マ ッ‑ル ソを相続 した ヴ ィ ル‑ル ム(1799年 ライ ブ ツ ィヒ生 まれ,1873年 マ ッ‑ル ソで没)は アグネス(旧姓‑ ニ ソクHennig,1803年 ザ クセ ン南部 プ ラウェ ソタール Blauenthal村生 まれ , 1888年 マ ッ‑ル ソで没)と結婚 し,13人 の子供 を持 った .その中では ,義 父の事業 を引 き継 いで ,‑マー ロイ ブス ドル フHammerleubsdorf(正 し くはザ クセ ン南部 ロイブス ドル フ村 の一 部LeubsdorferHammer.Blaschke1957,S.297)の工場主 とな ったテ‑オ ド‑ア (1828年 マ ッ‑ル ソ生 まれ,1911年 に も存命) だ け が知 ら れ てい る.後者 はザ クセ ン南部 エ ーデ ラーソ Oederan市 の名誉市民 で ,ザ クセ ン 国王か ら1901年 に アル ブ レヒ ト勲章 (第‑等騎士) を授与 された紡蹟工 場 所 有 者 であ る.Vgl.SHB1912,S.27(SHB1913,S.27,613には記載 され ていない .死 亡 したのであろ う).マ ッ‑ル ソ村 のル ター派教会か らの回答 に よれ ば ,エ ー ドゥ アル ト ・シ ュネ トガ‑の妻 は レオポルデ ィーネ (旧姓 カ ー ピ ッチ ュKabitzsch, 1902年没) であ り,娘 と してエ リーザ ベ71 (MinnaElisabeth,1843年 生 まれ , 1896年没)がいた .‑ リーザベ トは少将 カルル ・ツ ェソカー(Zenker)に嫁 いだ . カルル ・ア ウダス ト ・ツ ェソカーは,Verlohren1910(Vgl.S.573)に ,そ して , バイエル ン州立 図書館 に よれ ば,DeutschesGeschlechterbuchderburgerlichen Familienに も,記載 され ていない .彼 は,SHB 1886/87,S.492(Vgl,Rangliste 1885,S.71)に よれ ば ,第2野戦砲兵連隊 の連隊長 ・大佐 であ った .人名索 引 と照 合すれ ば ,彼 は1871年 に聖 ‑ イ ン リヒ軍 人 勲 章 (騎 士 ) を受 賞 して い る .SHB 1886/87,S.8,743.彼 は,Rangliste1885,S.130‑131に よれば,1830年ザ クセ ン東部 ノイザ ル ツ ァ市 近 郊 生 まれ で,1880年 に大 佐 に任 命 され た .彼 はSHB 1888/89,S.8には聖 ‑イ ン リヒ軍人勲章 (騎士)の受賞者 (1871年)で , ドレ一
一 101一
スデ ソ在住 の待命少将 として記載 されているが,SHB1890/91,S.8には記載 が ない.死亡 したのであろ う.‑ なお,シュネ トガ一家は,1945年に追放 され るま で,騎士農場 マ ッ‑ル ンの所有者であった .Heydick1993,S.44,
(51) ゼル レ (一等軍等 Selle;Dr18/10/15).第2近衛歩兵連隊第2大隊 ・大隊医の 一等軍医フ リー ドリヒ ・ヴィル‑ル ム ・ゼ レ博士,Rangliste1885,S.26,244.
Vgl.SHB1886/87,S.494.
(52)チイグ レル (軍営正Ziegler;Dr19/
1
/ll,2/28).近衛騎兵連隊 ・連隊医の一 等軍医正 カルル ・モー リッツ ・ツィ‑グラー博士 .Rangliste1885,S.57,242.Vgl.SHB 1886/87,S.494.
(53)チイ ラック (小間物商Thierack,お よび,ビルナBirnaか ら来た親族 の娘 オル
‑7 01ga;ムツチェ ンMutzen市 18/9/7,9/ll,9/12).前者 はム ッチ ェソ (Mutz至垂en)市 の商人バ ウル ・テ ィーラック.同市住民課 回答 .後者 オル‑は不 明 .た だ し,Birnaとい う集 落 は ザ ク セ ンに は存 在 し な い .Vg
l .
Blaschke 1957,S.8* .
(54)フォン ・チエル リイニイ (少将 vonCerrinidiMonteVarchi;ブ リヨオゼ ソ 村 18/8/29).第4歩兵旅 団 ・旅 団長 ア ン トー ン ・マ 1)‑ ア .フ ォン ・ツ ェル リー二 ・デ ィ ・モ ソテ ・ヴァルキ少将,Rangliste1885,S.18,128‑129.Vgl.SHB 1886/87,S.478.
(55)チムメル (軍醤正Zimmer;グ リムマ市18/9/6,LP9/13‑14な ど).帯lo歩 兵連隊 ・連隊医の一等軍医正 マテ ー ウス (Matthaus)・カルル ・ア ウダス ト ・
ツィマ‑博士 .Rangliste1885,S.53,242.彼 は,SHB1886/87,S.494では ライ ブツィヒ陸軍病院 ・院長 で あ る .なお,『日記』,18/9/6の記事 に,Doehler, Zimmerの他に軍撃正7人 とあ るが,85年 に一等 軍 医正 は12人 いた .Rangliste 1885,S.24ト242;SHB 1886/87,S.494.なお,武智 1998,p,32,蓑 3を参照 . (56)ヂヤ コモ (女優Frl.Diacomo;Dr19/1/ll).1879年か ら ドレースデ ン宮廷劇場
に出演 した女優 アウグステ ・デ ィアコ‑∠ (Diaco里0).Eisenberg1903,S・197‑
198.
(57)フォ ン ・テルスキイ (少渚 vonTschirsky;Lp18/9/13).第2歩兵師団 ・師団 長 の中将 ア一 ドル フ ・レオポル 7日 フォン ・チルスキー ・ウソ ト・ベ ーダ ソ ドル フ (Bogendorff) の ことであろ う.Rangliste1885,S.17,1261127.Vgl.SHB 1886/87,S.478.
(58)ツアップフ (警鋭瞭 Zapf;Dr19/1/ll).内務省警務参事官 カルル ・フ ォル ク マル ・ツァプフ (Volkm・Zapf互)博士 (SHB1886/87,S・406)の ことであろ う.
(59)デ ツケン (婿軍vondenDecken;Dr19/1/ll).第1歩兵旅団 ・旋 団長 ギーデ オ ン (Gideon) ・カル ル ・ア ウ ダ ス ト ・フ ォ ン ・デ ソ ・デ ッケ ン少 将 . Rangliste1885,S.16,126‑127.Vgl.SHB 1886/87,S.477.
(60)tイ‑ル (陸軍省Teucher,・Dr19/1/ll).陸軍省第2部A(法規担 当) の長 (文官),枢密陸軍参事官 カルル ・グスタフ ・ローベル ト・tイ ヒ ャー (Ranglis‑ te1885,S・1・Vgl・SHB 1886/87,S,461) の ことで卒ろ うI
ザ クセ ンの森鴎外 325
(61) トイ‑ル (Teucher;Dr19/1/18,ヰル ケと同席).上記 (60)の陸軍参事官で あろ う.
(62)トッ トマン (音禦家 AlbertTottmann;Lp18/4/18,5/3,5/7).アルベ ル ト・トッ トマ ンは,ザ クセ ン国王か ら1875年 にアル ブ レヒ ト勲章 (第‑等騎士) を,バイエル ンか らは音楽教授 の称号を授与 された ,ライブツィヒの教 師 (ザ ク セン国籍) であった .SHB 1886/87,S.44.さらに,川上 1984,pp.3ト32を参 照 .
(63)ドヨオ レル (軍 警正 Doehler;グ リムマ市 18/9/6).Rangliste1885,S.
38,242では,第6歩 兵 連隊 ・連 隊 医 の一 等軍 医正 ‑ イ ソ リヒ ・アル ベル ト ・ フ ェー リクス ・デーラー博士 .なお,SHB1886/87,S.494では,第10歩兵連隊の 一等軍医正 .
(64)トヨプ レル (Toebler;Dr18/12/14,工学校 で講演). ドレースデ ソ工業専門学 校 の実験物 理学 教授 ,枢 密宮廷参 事官 テ ‑l ラ一 (Aug・Toe旦1er)博 士 (SHB 1886/87,S.526)の ことであろ う.彼 の名は ,ドレースデ ソ工業大学文書館の回答 に よれば,アウグス ト・ヨーゼフ ・イ グナーツであ った .『椋 鳥通信 』,p.689の
「AugustlgnazTopler(理学)」 である.
(65)トレンク レル (一年志願啓 Trenkler;Dr18/12/6).下記(66)の軍医の ことで あろ う.
(66)トレンク レル (三等 軍等 .原語表 記 な し:Dr18/12/15).Rangliste1985 (VglS.414) ;SHB 1886/87 (Vgl.S.725)に は な い .2年 後 に は,SHB 1888/89,S.517に よれ ば ,徒歩砲 兵 連隊 に二 等軍 医 カルル ・ヴ ィル ‑ ル ム
(Wilh.)・トレンクラー博士がいた .
(67) ナ ウマン(Naumann;Dr19/3/6,地学協合 で演説).もとお雇 い外 国人エ トム ソ ト・ナ ウマ ン.
(68)ナ ウソ ドル フ (中佐vonNaundorff;Dr19/2/14).フ ォン ・ナ ウン ドル フ中佐 はいない (Vgl.Rangliste1885,S.406)か ら, ドレースデ ソ陸軍刑務所 ・所長 , 待命中佐 アウグス ト ・ユー リウス ・ナ ウソ ドル フ博士 (Rangliste1885,S.
ll
. Vgl.SHB 1886/87,S.469)の ことであろ う.(69)ニイ デル ミユル レル夫 人 (FrauNiedermueller;Lp18/4/18, 9/29,12/
24125).アナ ・ニーダー ミュラー (金子 1984,p.56;川上 1984,p.31).別 記 (93)「フォオゲル」夫人 と同 じ建物に住む ニーダ ー ミュラー家 は,Adre13buch vonLeipzig1884,S.522では ,ライブツィヒのニコライ学校上級教師 E.H.ニー ダー ミュラー博士,1885年版,S.543では,未亡人A.ニ‑ダ‑ ミュラーとなって いる.PM文書で見 る と,夫 は名 をエル ンス ト ・‑ イ ソ 1)とと言 い (Vgl.SHB 1882/83,S.511),84年 に没 した .彼 の妻 アナは,「フォオゲル」夫人の第7子 とし て1854年 に 生 まれ た .PMlll,S72b‑73;PM 201,S.7.「高 等 学 校 Nikolaischule」 は 『椋 鳥通信』,p.720で言及 されている.
(70)ニ コライ (濠備少尉AssessorNikolai;ムツチエ ソ市 18/9/4.なお,18/8/
29参照).「試補」 の該当者 は ライブツィヒ区裁判所試 補 フ ラ ンツ ・ノ、イ ソ リヒ
‑103‑
(Heinr.)・ニ コライ.SHB1886/87,S.173.なお,Rangliste1885,S.85に ,ラ イブツィヒの後備軍歩兵第7連隊少尉 としてニ コライ (名は不 明)が記載 され て いる.
(71) ニコライ (原語表記な し ;Lp18/12/25).上記(70)の区裁判所試補 であろ う.
(72)ニ コライ (軍撃正Nikolai;Dr18/12/13,12/18).第2猟兵連隊 ・連隊医の二等 軍医正 ヴ ィク トル ・7‑ ゴ ・アタナ‑ジウス ・ニコライ博 士 .Rangliste1885, S.55,243.なお,SHB 1886/87,S.494では,第 1野戦砲兵連隊の二等軍医正 . (73)ネ‑ルゼ ソ (剖教法教授Neelsen;Dr18/10/13,12/5).ドレースデ ソ市立病 院解 剖室長 ,教授 フ リー ドリヒ ・カル ル ・ア 一 ドル フ ・ネ ール ゼ ソ博 士 . Adre8buchYonDresden1886,S.34
1 .
(74)ノッチ ツツ ・ワルヰ ツツ (大臣VonNottitz‑Wallwitz;Dr19/1/ll).1866年か ら91年 まで の 内務大 臣 (一 時期 は外務大 臣 を兼任) ‑ル マ ン ・フ ォン ・ノ̲三 テ ィッツ(Nogitz)‑ヴァル ヴ ィッツについては,シュ ミッ ト1995,p.140を参 照.
(75)ノ、アダン (工学校Hagen;Dr18/12/7,電気燈 に関す る講演).ドレースデ ソ工 業 専 門学校応用物 理学 ・電気 工学 ・助教授 エル ンス ト ‑ 、‑ ゲ ン博 士 (SHB
1886/87,S.525)の ことであろ う.
(76)‑ アゼ (軍嘗)夫人 (原語表記な し ;Dr18/12/13).夫は第4歩兵連 隊第2大 隊 ・大隊医の一等軍医 フ リー ド1)ヒ(Friedr.) ・モ‑ 1)ッツ ・‑‑ゼ (Haase)悼 士 (Rangliste1885,S.32,245.Vgl.SHB1886/87,S.495)であろ う.
(77)バ アゼル (Frl.Basel;マツ‑ル ソ村 18/8/27,マツ‑ル ソ城主の知人).不明.
(78)バ アメル (一等軍腎 .原語表記な し:Dr19/3/6).これに相当す る軍医はいな い (Vgl.Rangliste1885,S.241‑248;SHB 1886/87,S.494‑495)ので ,下記
(82)の一等軍撃 「パル メル」 Balmerの ことであろ う.
(79)‑イ ドレン (大学助手Heidlen;Lp18/6/27).UniLeip1885,S,28に臨床研 究所 (リービヒ街 の市立 病院 に あ る) の 内科 (med.Abtheil.) 助手 とあ って , UniLeip1885/86にない (Vgl・S・Ⅸ)‑イ ドレン (H旦idlen)博 士 の ことであ ろ う.AdreLSbuchvonLeipzig1884には記載がない.ライブツィヒ大学文書館の回 答に よれば,彼 の名は リヒァル トであった .
(80)‑ィ ./〜([建築家]Heyn,ADr18/12/7).ドレースデ ン工業専門学校建築学 ・設 計学教授 ,建設参事官 ヨ‑ ソ(Job.)・エー ドゥアル ト・)レー ドル フ(Rud.)・‑
イソ (SHB 1886/87,S.525)の ことであろ う.
(81)バル トネル未亡人 (FrauDr.Baltner;Dr18/10/13).金子 1992,pp.4ト43に よれば ,医学博士 の未亡人‑ 1)‑ゼ ・バヱ トラ‑ (Ba里tler).ザ クセ ン州立中央文 書館お よびザ クセ ン州立 図書館に よれば,アナ ・ドロテーア ・‑ 1)‑ゼ ・バ ウ ト
ラ‑ (AnnaDorotheaEliseBautler,GattineinesDr.med.)は AdreL3buchvon Dresden1876に初 めて ,そ して最初か ら医師の未亡人 として,記載 されて い る.
したが って,彼女の夫の名を知 ることは困難 である.当初 の住所 はマイ セ ン小路 (KleineMeiL3nergasse) 2番地 であったが,78年 に修道院路に移転 した .ライブ
ザ クセ ンの森鴎外 327
ツィヒ大学文書館に よればバ ウ トラ‑博士は,同大学で学 んだ学生では ない . ラ イブツィヒで学位 を取得 したか どうかは,不明である.
(82)パル メル (一等軍営 Balmer;Dr18/ll/19,12/13).軍医部勤務の一等軍医 ヨ‑
ソ ・‑イ ソ リヒ ・パルマー博士 .Rangliste1885,S.10,245.Vgl.SHB 1886/ 87,S.495.
(83)ビイデル マ ン (男爵 ,少尉 BaronYonBiedermann;マ ツ‑ル ソ村 18/8/
27, ドヨオペ ソ村 9/5).第7歩兵連隊第2大隊副官 の少尉 ゴシ ロ(Gossilo) ・ ダス タフ ・ヴ ォルデ マ ル ・フ ォン ・ビー ダ ーマ ン男 爵 (Freiherr)・Rangliste 1885,S.40,198.
(84)フォ ン ・ビュ ロウ (ドヨオベ ンDoeben城 主 vonBuelow ;デヂ ツ ツ村 18/ 8/31, ドヨオベ ン村 9/5).騎士農場デーベ ンの当時の所有者 オ ッ トー ・フ ォ ン ・ゴ二三 ウ (B亘些些)紘,まず,『ザ クセン国政便覧』(SHB)で見 ると,『文づ かひ』に記 され る伯爵 で早まな く(『日記』では単にフォ ン ・ビュ ロオ氏),下級貴族 であ り,1870年か ら93年 まで,ライブツィヒ旧県 の騎士農場所有者か ら選 出 され た上院議員 であった .SHB1870,S.118;SHB1892/93S.185.「旧県」について は,シュ ミッ ト1995,p.123を参照 .オ ットーは1887年にザ クセン国王か らアル ブ レヒ ト勲章 (第‑等騎士) を授与 された.SHB 1892/93,S.52.オ ッ トー ・フ ォ ン ・ベ‑ラウとその家族 ,お よび,同家が陸軍大臣ファブ リス伯爵家 と親族 では ない こと,については,川上 1977(a),pp,18,21‑27を参照 .
ドイツ貴族資料館 の教 示 に基 づ い て,Gotha,Adel,A,Jg.1902,S.70‑71;
Gotha,NeueAufl.,Adel,A,Bd.6,S3ト33,お よび ,同 じ叢書 の関連個所 を見 ると,14世紀北 ドイ ツ ・ボ ンメル ソに起 こった下級貴族 フ ォン ・べ ‑ ロー (Yon Below)家 の うち,‑こンク(Henning,1410年 に没)が一系統 の祖 とな った .‑ニ
ソクの孫 の孫 アムブ ロージウス (1550年に没)はザ クセ ンに移 った .そのために, アムプ ロ.‑ジウスの子 ライ ヒャル ト(Reichard,1598年 に没) は,ザ クセ ン南部 ヴェソシェソ ドル フWunschendorf村 の 「‑ル」 とされている.「‑ル」は騎士農 場所有者 の意味であろ う.ライ ヒャル トの孫‑ ソス ・ク リス トフ (1676年 に没) は ,フ ォン ・べ ‑ ラ ウ (vonB6hlau)に改姓 した (Vgl.Verlohren 1910,S.
119).‑ ンス ・ク リス トフの曽孫 アン トーン(AntonSigismundJustin,1757‑
1827)は ,ザ クセ ン‑ コープル ク公国の狩猟官 (Ldjagerm.)で,グ リマ市近郊の デ ーベ ン村 ,ノ、ウ ビ ッツHaubitz村 な どの 「‑ル」 で あ った .ア ン トー ンは 1779年 に,デーベ ンの 「‑ル」 であるク リス トフ ・エー レンライ ヒ ・フ ォン ・ア ル ニム (Arnim)の娘 ,マ リー ・シャル ロッテ (デーベ ンの 「女 ‑ル」.1758年 デーベ ン生 まれ,1819年デ ーベ ンで投 .Gotha,Adel,A,Jg.1903,S.38)と結婚 した (なお,アン トーンよ りも6代遡 った ,上 記 ア ンブ ロー ジ ウスが フ ォン ・ ベー ロー家 の女性を妻 としているが ,それ以後 の当主 の妻はフ ォン ・ベ ‑ ロー家 出身ではない).アン トー ンの子 フランツ ・ク リス トフ ・エー レンライ ヒ (Franz ChristophEhrenreich,1781年バイェル ソ北部 メソヒレ‑デソ Monchroden村 生 まれ,1836年デーベ ンで没) はザ クセ ンの大尉 で,デーベ ンと‑ ウビッツの 「‑
‑ 1 0 5 ‑
ル」であった .オ ッ トーの父であ る彼 は,1810年 に母 と同姓 同名 の女性 (1794年 プ ラニクPlanik[所在地不 明 .ザ クセ ン南西部 プ ラ‑ニ ッツPlanitz村 の誤植 か も し れ ない]生 まれ,1840年 デ ーペ ソで没)を妻 とした .しか し,この女性 の名 につ い ては ,ル イ‑ゼ ・カ ロ リーネ (ザ クセ ンの貴族 で ,プラーニ ッツ村 な どの 「ヘル」 であ るカルル ・ク リス トフ ・フ ォン ・アル ニ ムの娘,1794年 メルゼ ブル ク市 生 ま れ,1840年 デーベ ンで没)は ,フランツ ・ダスタフ (?) ・エー レンライ ヒ ・フ ォ ン ・ベ ーラウと1810年 に結婚 した ,とい う,Gotha,Adel,A,Jg.1903,S.39の記 .述 が正 しいであろ う.Verlohren1910,S.120は ,この女性 の名 を プラーニ ッツ村
の カ ロ リーネ ・ル イ ‑ゼ ・フ ォン ・アル ニム としてい る.
オ ッ ト‑ (1820年ザ クセ ン西部 ‑ル チ ャウOelzschau村 生 まれ,1893年 ドレー スデ ソで没) はザ クセ ン上院議員 で ,デ ーペ ソと‑ ウビ ッツの 「‑ル」 で あ った (彼 の軍歴 は記録 され ていない .Vgl.Verlohren1910,S.120).オ ッ ヤーは1850年 に ,ザ クセ ンの貴族 ア ウス ・デ ム ・ヴ ィソケル (ausdemWinckel)家 の アマー リ
‑ (AugusteAmalie,1828年 グ リマ市近郊 ロイチ ュRoitzsch村生 まれ,1903年 グ リマ市 で没) と結婚 した .アマ ー リ‑の父は ,ロイチ ュ村 な どの 「‑ル」で ,‑ ッ セ ソ選帝侯 国の大尉 ヴ ィル‑ル ム(FriedrichWilhelm Georgausdem Winckel, 1771年 テ ユー リンデン ・グライ ツ市近郊 ツ ェ‑ ドリッツZedlitz村生 まれ,1860 年 グ リマ市 で没)であ った .Gotha,Adel,A,Jg.1905,S.878.ここまでの当主 の 夫人はすべて貴族 であ った .
オ ッ トー とアマ ‑ リ‑の間の子供 は ,以下 の 1男8女 であ った (『日記』には , オ ッ トーの 「七女」 の うち,5人
,
「マ リア」,
「イイダ」,
「トオニイ」,
「ア ンナ」,「‑ レエネ」の名前が記 され
,
「一女‑‑‑英名 を失す」,さらに ,一女 は 「己 に少佐 某 に嫁 せ り」, とされてい る.長 男は記 され ていない).(a)長女 マル ガ レーテ (Luise[あ るいはLouise]Margarete,1851年 デ ーペ ソ生 まれ,1903年 ドレースデ ソで没).彼女 は1877年 に ,ザ クセ ンの軍 人 で ‑ ノー フ ァーの貴族 コソスタ ンテ ィー ン ・フ ォン ・‑ ニ ソ ク‑ オ カ ロル (Hoenning‑
0'carroll,1841年 ニーダーザ クセ ン ・ヒル デス‑イ ム市近郊ベ T.マルBettmar 村生 まれ,1925年 ドレースデ ソで没) と結婚 した .1902年 に ドレース デ ソに居 住 してお り,夫 は当時 ,退役 中将 であ った .なお,Verlohren1910,S.283に よ れば,1883年 (Rangliste1885,S.155では1881年)か ら87年 まで少佐,98年 に中 将 とな った コソス タンテ ィー ン ・フ リー ドリヒ ・ア ウダス ト ・フ ォン ・‑ ニ ソ ク‑ オ カ ロル 男 爵 (ベ トマ ル 村 生 まれ ) の妻 は,vonBolau(マ マ)auf Dobenであ る. コソス タンテ ィーンとマル ガ レーテ の間 の子供 は ,退 役 大尉
(al) ダーニエ ール (HenningCarlDaniel,1881年 ザ クセツ 西 部 ラ ウジ ック Lausick市 生 まれ,1945年 ザ クセ ン西 部 ロス ヴ ァイ ソ市 近 郊 ゲ ル ス ドル フ Gersdorf村 で没) だけであ る.(al) ダーニエールは1923年 にル イ ーゼ ・フ ォ ン ・ベ ‑ラウ (1897年 デ ーベ ン生 まれ,1929年 ゲル ス ドル フ村 で没) と結 婚 し た .この女性 は ダーニエールに とって ,母 の弟 カルル の次女 (i2)であ る.ダー ニエールは1931年 には ,イ レ‑ネ ・フ ォン ・ノス テ ィ ッツ‑ ヴ ァル ヴ ィ ッツ
ザ クセ ンの森鴎外 329
(IreneSabinevonNostitz‑Wallwitz,1902年 ドレースデ ソ生 まれ,1977年 カ ッ セル市近郊 ヴ ォル フ‑ ーゲソ Wolfhagen村 で投) と再婚 し,1934年 にゲル ス ド ル フ村 に居住 していた .‑ コソス タンテ ィー ンとマル ガ レーテの孫 ,す なわ ち,(al) ダーニエ ールの子 は2人い る.(iZ)ルイ ‑ゼ との間の (ala)上級 内 務参事官 カルル ・オ ッ トー (Constantin CarlOtto,1925年 ザ クセ ン東 部 ,(ウ ツ ェソ市 近 郊 タ イ ヒ ニ ッ ツTeichnitz村 生 まれ ) と , イ レ‑ ネ との 間 の (alb)I)リ(Lillilrene,1934年 ドレース デ ソ生 まれ) で あ る .(ala)カル ル ・オ ッ トーは1958年 に ク リステ ィ7 ‑ネ ・フ ォン .バ ー ト(Christanevon Baath,1934年 メ ック レンブル クの グ ロース‑ シ ュメ レンSchmollen村生 まれ , 1971年 フランクフル ト ・アム ・マイ ソ西方 ケ‑メルKemel村 で没) と結婚 し, 1975年 にはガブ リエ ー レ ・フ ォン .ブ ロック(GabrielevonBlock,1936年 ポツ ダム市 生 まれ) と再婿 した .(alb)リリは1959年 に農学士 フ リー ドリヒ ・フ ォ ン ・プ ッ トラル (Friedrich[Fritz]yonButtlar,1935年 カ ッセル 市 生 まれ , 1978年 ギ ーセ ソ市 で没) と結婚 した .Gotha,Adel,B,Jg.1934,S.214‑215:
Schicksalsbuch1994,S.182.‑ したが って,『日記』に,「己に少佐某 に嫁せ り」, と記 され てい る 「一 女」 は ,このマル ガ レーテで あ る.
(b)次女 ア ン トーニ‑ (AntonieAmalie,1852年 デ ‑ベ ン生 まれ).彼 女 は未 婚 で,1902年 には グ リマ市 に居住 していた .Gotha,NeueAuflリAdel,A,Bd.6に は記載 がない .‑ 森 1996,p.286に よれば,1936年 に (グ 7)マ市 で‑ 川上 1977(a),p.24)捜 した . これが 『日記』 の 「1,オ エイ」 で あ る.
(C)三女 エ リ‑ザべ ト(KlaraElisabeth,1854年 デ ーベ ン生 まれ,1925年 マイセ ン 市近郊 ポー レンツPolenz村 で没).彼女 は1886年 に ,ザ クセ ンの軍 人 で貴 族 (ポ ー レン ツ村 の 「‑ ル」)の クル ト ・フ ォ ン ・ トレー ブ ラ ‑ リンデ ナ ウ (‖ans拡urtHermannYonTrebra‑Lindenau,1846年ザ クセ ン南部 シ ュネーベ ル ク市 生 まれ,1925年 ポー レンツ村 で没) と結婚 した .彼 女 は1902年 に は ポ ー レンツ村 に居住 してお り,夫 は当時 ,退役少佐 であ った .なお,1884年 に少佐 で 退役 した クル トの妻 は,YonBohlauaufDobenであ り,クル トは騎 士農場 ポー レンツの所 有者 である.Verlohren1910,S.513;Hofmann1901,S.250.クル トとェ リーザ べ トの間の子供 は2人 いた .(cl) 長 女 エ リーザ べ ト(Elisabeth Felicie,1887年 グ リマ市近郊 ゼ ‑ リン クシ ュテ ッ トSeelingstadt村 生 まれ , 1973年 ゲ ッテ ィ ンゲ ン市 で投 ) は独 身 で あ った .(C2)長 男 フ リー ドリ ヒ (HansKurtFriedrich,1890年 ポー レンツ村生 まれ,1942年 の居住地 も同 じ.
1973年 に ミュソヒェソ近郊 ウンクーヴァイルバ ッ‑ Unterweilbachで没 .退役 大 尉 ) は,1921年 に シ ャル ロ ッテ ・ウ ‑ リ ヒ (CharlotteAgnesMartha Uhlich,1903年ザ クセ ン西南部 グ レーザ Glosa村 生 まれ,1983年 に ヴ ィ‑ス パ ーデ ソ市居 住 ) と結 婚 した .‑ クル トと‑ 1)‑ザ べ トの孫 ,す なわ ち , (C2)フ 1)‑ ドリヒの子 は 以下 の5人 で あ る .(C2a)ヨア ヒム (HansKurt Joachim,1925年ザ クセ ン北部 ゲル ツ ェソWurzen市生 まれ)は,1961年 に ク レ ス ・フ ォン ・ク レッセ ソシ ュタイ ン(KreL3V.Kressenstein)男爵家 のイ ソグ リ
ー107‑
ト(Ingrid,1935年 ミュソヒェソ生 まれ) と結解 し,1983年 には ウソターヴ ァイ ルバ ッ‑城 で農業 を営 んでいた .(C2b)7‑ベル タ (MariaHubertaElisabeth, 1927年 ゲル ツェソ市生 まれ) は,1963年 に建築家 ヨーゼ フ ・ヴ ォル フ (1909年 ボ ン市 に近 いジー クブル クSiegburg市生 まれ,1964年 同市 で没 ) と結 婚 し, 1973年 に織 物 商 人 デ ィー タ 一 ・‑ル シ ュテ ンパ ッ‑ (DieterHalstenbach, 1923年 グ ッパ ータール市生 まれ) と再婚 し,1983年 にデ ュ ッセル ドル フ市 近 郊 カールス トKaarst村 に住 ん で いた .(C2C)マ ンフ レーt (Ha̲nsChristoph Manfred,1928年 ゲル ツ ェソ市生 まれ)は技術者 で,1966年 に カタ 1)‑ ソ ・ク 1) ステ ィア ンス (KatharinChristians,1939年 ‑ ソブル ク生 まれ) と結 婚 し, 1983年 に カナダ ・ヴ ァソクーヴ ァ‑市 に住 んでいた .(C2d)ライ ンヒル ト(Fe‑ 1icieBrigitteReinhild,1930年 ポー レンツ村生 まれ)は,1958年 に経済学博士 ‑ ル トムー 7,・シ ュル ツ ェ(HartmutSchulze,1930年 エル フル 7.市生 まれ) と結 婚 し,1983年 に ヴ ィースパ ーデ ソ市 に住 んでいた .(C2e)‑ ソス‑‑ イ ン リヒ (Hans‑HeinrichEberhard,1936年 ポー レンツ村生 まれ)は木材商人 で,1967年 に オテ ィ‑ 1)ェ (テ ィ レ) .ローマイ ア(Ottilie[Tile]Lohmeyer,1938年ザ ク セ ン西南部 ケムニ ッツ市生 まれ) と結 婚 し,1983年 に l)ユーネ ブル ク市 近 郊 ゼ ‑フ ェタールSeevetal村 に住 んでいた .‑ クル ttと‑ 1)‑ザベ トの孫 (男 系)の子 を見 る と,(C2a)ヨア ヒムの子供 は,(C2al) フベル トウス (Hubertus Friedrich‑Wilhelm Konstantin,1965年 生 ま れ ) と,(C2a2)ク レー メ ン ス
(C1emensKurtHans‑Christoph,1968年生 まれ)の2人 (いずれ も ミュンヒェ ソ生 まれ) で あ る .(C2C)マ ン フ レー トの 子 供 は,(C2cl)カ ラ (Cara Kristina,1967年 生 まれ),(C2C2)シ ャル ロ ッテ(CharlotteDorothea,1967年 生
まれ) と,(C2C3)マ クシ ミー リア‑ソ (MaximilianGeorg,1969年 生 まれ)の 3人 (すべて ヴ ァソクーヴ ァ‑市生 まれ)である.(C2e)‑ ソス‑‑イ ン リヒの 子 供 は,(C2el) ア レ ク サ ン ダ ー (CurtAlexander,1968年 生 まれ ) と ,
(C2e2)フ リ ドヨフ(FridtjofArne,1970年 生 まれ)の2人 (いずれ も西 アフ リ カ ・コー トジボアールのア ビジ ャ ン市 生 まれ ) で あ る .Gotha,Adel,A,Jg.
1942,S.523‑524;Gotha,NeueAufl.,Adel,A,Bd.17,S.471‑472, (d)四女 アナ(AnnaFranziska,1855年 デーベ ン生 まれ,1939年 グ リマ市 で没).
彼女は末姫 で,1902年 には グ リマ市 に居住 していた .川上 1977(a),p.25を参 照 .
(e)五女 マ l)‑ (SophieMarie,1857年 デ ーベ ン生 まれ).彼 女 は1891年 に ,‑
ノ ー フ ァー の貴 族 で プ ロイ セ ンの軍 人 ヴ ォル デ マル ・フ ォン ・グル ーベ ン (WoldemarKarlEngelbertFriedrichyonGruben,1842年 ‑ ンブル ク近郊 ‑ ヒ ト‑ ウゼソ Hechthausen村 生 まれ) と結 女昏した .1901年 に‑ ノーフ ァー市 に居 住 してお り,夫 は当時 ,プ ロイセ ンの退役大佐 であ った.Gotha,Adel,A,Jg.
1901,S.332.系譜学 セ ンタ ーに よれ ば,1901年 以後 の ヴ ォル デ マル ・フ ォ ン ・グル ーベ ンとその家族 につ いては ,記録 がない .
(f)六女‑ル タ (HerthaMeta,1859年 デ ーベ ン生 まれ,1931年 ドレー ス デ ソで
ザ クセ ンの森鴎外 331
没).「一 女・・・・‑其名 を失す」,とされた彼 女は,1885年 に‑ ノーフ ァーの貴族 で ザ クセ ンの軍 人 ギ ュソ タ一 ・フ ォン ・デ ア ・シ ュー レ ン ブ ル ク (Gunther FranzWernerWilhelm BodoYonderSchulenburg)伯爵 (1859年 ニーダーザ ク セ ンの‑ ‑ レンHehlen村生 まれ,1935年 ドレースデ ソで没 ,ザ クセ ン退 役 中 棉 ) と結 婚 し,1902年 に ライ ブ ツ ィ ヒに 居 住 して い た . な お,Verlohren 1910,S.476に よれ ば,1886年 まで少尉 であ り,1910年 に大 佐 とな った ギ ュソ タ 一 ・フ ォン ・デ ア ・シ ュー レソブル ク‑‑ ‑ レン (Hehlen)の 妻 は von BohlauaufDobenで ある .SHB1914,S.452では彼 は伯 爵 ,少将 で ある.ギ ュ
ソタ‑ と‑ル タの間 の子 供 は 以下 の3人 で あ る .(fl) 長 女 ユ ー リ‑ (Julie Hertha,1887年ザ クセ ン西部 ラウジ ヅク市 生 まれ) は,1907年 にザ クセ ンの貴 族 で軍人 ‑ ソス ・フ ォン ・レ‑マー (HansRudolfKarlvonR6mer,1877年 マ イセ ン市近郊 レー ト‑イソ Lothain村生 まれ,1917年 ロシア領西 ドグ ィナ河畔 ヤー コブシ ュタ ッ7,Jakobstadta.d.Dunaで戦死 ,大尉 .Gotha,NeueAufl., Adel,B,Bd.1,S.364.なお,1909年 に中尉 とな ったHansRudolfKarlvon Romerの妻 は,GrafinYonSchulenburgである.Verlohren1910,S.439)と 結婚 し,1942年 ドレースデ ンに居住 していた .(f2)次女 ゲル トル ー ト(Gerト rudHeleneLuise,1888年 ライ ブツ ィヒ生 まれ)は,1912年 にザ クセ ンの貴族 で ゲ ッテ ィンゲ ン大学美術史教授 のゲオル ク ・フ ィッ トゥ‑ム ・フ ォン ・エ ヅク シ ュテ ッ ト(BertoldGeorgVitzthum vonEckstadt)伯爵 (1880年 ドレースデ ソ近 郊 オ‑,i‑ レースニ ッツOberlosfSsnitz村生 まれ,1945年 グ ッテ ィンゲ ソ 市 で没) と結嬉 し,1942年 ゲ ッテ ィンゲ ン市 に居 住 して い た .(f3)長 男 ア ヒャーツ (AchatzGunther,1891年 グ リマ市生 まれ,1932年 ライ ブ ツ ィ ヒで 投 ,退役大尉) は,1924年 アネ リーゼ ・シ ュタイ ガ ー (Annelieseverw.Rei‑ chardtgeb.Steiger,1891年 ドレースデ ソ近郊 ロイテ ヴ ィ ッツLeutewitz村生 漢 れ,1942年 にザ クセ ン中部 コス ヴ ィヒCoswig市 に居住)と結婚 したが ,実子 は いない .Gotha,Graf,A,Jg1942,S.483;Gotha,NeueAufl.,Graf,Bd.10, S.472.‑‑ ギ ュ ンク ー と‑ ル タの孫 を見 る と, まず ,(rl) 長 女 ユ ー リ‑
(1954年 に バ ーデ ソの フ ライ ブル ク市 に居 住 ) の子 供 は 次 の4人 で あ る . (fla)ユ ッタ (JuttaCharlotte,1908年 ケムニ ッツ市生 まれ) 紘,1907年 に退 役少佐 エーバ ー‑ル ト ・クル ー‑ ッフ ァー (EberhardKruhoffer,1888年 エル ザ スの 1)エ ツツェルノ、ウゼソ Lutzelhausen[1)ユツ ェル ーズLutzelhouse]村 生 まれ) と結婚 し,1954年 に メ ック レンブル クの ゴル トベル ク市近郊 デ ィー ス テ ローDiestelow村 に居住 していた .(flb) アス タ (AstaHerthaMargareth‑
e,1909年 ケムニ ッツ市生 まれ)は ,農業者 コソゾラ‑テ ィ ・フ ォン ・‑イ リゲ ソブル ソ‑バ ウホ ‑フ (PeterMariaConsolatiYonundzuHeiligenbrunnund Bauhof)伯爵 (1910年 チ ェコス ログ ァキアのプ レロウツPrelouc村生 まれ) と 1938年 に結顛昏し,1954年 にイ タ リア ・トレン ト州 セ レニ ヤーノSeregnano村 に 居住 していた .(rlc)エ リーザベ ト(ElisabethJulie,1912年 ‑ ノーフ ァー市生 まれ)は ,独身 で,1946年 レー ト‑イ ソ村 で没 した .(fld)ヨプス ト‑ ク リス ト
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