• 検索結果がありません。

第4章 探究と思考

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "第4章 探究と思考"

Copied!
42
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

第4章 探究と思考

本章では、デューイの探究および思考に関する論述からは、探究の過程における思惟の 展開を「段階」(steps)化することはできないことを論証する。具体的には、『思考の方 法』(1933 年改訂版)で述べられている「反省的思惟の五つの段階あるいは局面」(five phases, or aspects, of reflective thought)を、探究の過程において思惟が展開する

「段階」としては把握できないことを論証する。すなわち、デューイは、知性的な思考に ついて論じることにおいて、近代西欧における認識論哲学が追求してきたような、普遍的 な規則を思考に対して先験的に設定し、思考を合理的に統制しようと意図してはいなかっ たことを明らかにする。その上で、それらが現実的には探究において、自分の思考の展開 過程を反省するための観点として使用されており、そのように反省することを通じて、そ れぞれが探究における思惟の「側面、あるいは局面」として浮かび上がってくることを明 らかにする。

デューイにとって、探究(inquiry)とは、直面している状況から問題の発生を認知し、

状況の有する特質を詳細に明確化し、その状況に対して適切かつ効果的な問題解決のため の行動の方法、すなわち指導観念を考案する活動である。探究によって指導観念を考案し、

それに基づいて実験的に行動を導くことにより、問題解決の確実性を高めることができる。

このような探究において、知性的な思考は、意味の認知・使用の優秀な能力として示され る。前章で論述したように、思考は、具体的な状況に応じて、また具体的な目的に向けて、

概念を参照し、そこに構造化されている意味をコードとして、状況と観念との間をジグザ グ的に往復する。そのようにして、一方において、直面する状況の有する特質を詳細に明 確化し、他方において、それに対して適切で効果的な指導観念を確実性の高いものに考案 する。デューイの論述に基づけば、探究とは、個々の状況の有する具体的な特質に即して 行われる。その特殊な状況を、思考が適切かつ効果的に取り扱い、確実性を持って経験を 導く活動に知性が示される。

このようにして、デューイの思考論を、近代西欧の認識論哲学が追求してきた思考の枠 組みで捉えることが誤りであること、また、デューイが近代合理主義の色彩の強い思考に 替わるものとして、知性的な思考について、どのようにその可能性を論じたのかを明らか にする。

第1節では、デューイが『思考の方法』(1933 年改訂版)で述べている「反省的思惟の 五つの側面あるいは局面」めぐって、これまでの研究において提起されてきた論点を検討 する。その上で、「五つの側面あるいは局面」が、探究の過程で見られる、思考によるそ れぞれに特質的な意味の認知・使用の方法であることを、デューイの論述を分析すること

(2)

に基づいて明らかにする。それにより、「五つの側面あるいは局面」が、探究の過程がた どる「段階」ではないことを論証する。

第2節では、『思考の方法』(1910 年初版)、『民主主義と教育』、『論理学』におる、

『思考の方法』(1933 年改訂版)の「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」と対応する ような論述を取り上げて比較・検討する。そして、当初の『思考の方法』(初版)では、反 省的経験における思惟の展開過程の「段階」化が試みられていたように見えること、しか し、しだいに、デューイが生命体と環境との知性的な再統一という観点から、探究に示さ れる知性的な思考の特質の分析に重点を移していくにつれて、「段階」化ができないこと を明確に主張するようになっていることを明らかにする。

第3節では、「五つの側面あるいは局面」を、探究において反省的思惟がたどる「段階」、

すなわち、思考の従う手続きとして捉えることが不可能であるという論証に基づいて、さ らにデューイの反省的思考の意義についての論述を手がかりにして、それらが探究の過程 における意味の認知・使用を点検・確認するための、いわばそれまでの思惟の展開を反省 するための観点であること、そして、それらを観点として思惟の展開過程を反省すること により、それらが探究における思惟の「側面、あるいは局面」として浮かび上がってくる ことを明らかにする。

このようにして、本章では、探究における思惟が、問題の発生から解決に向けて、直線 的に、一方通行的に、「段階」をたどって展開されるのでないことを明らかにする。また、

思惟の展開を「段階」化することによって、思考を合理的に統制することは不可能である ことを明らかにする。そのようにして、デューイの思考論では、知性的に思考がなされる ために、普遍的な規則を先験的に設定して思考を合理的に統制することは、構造的に不可 能であること、つまり、探究の過程を「段階」化することによって、誰でも誤りなく探究 を行うことができるとは想定されていないことを論証する。このことを通じて、探究にお ける思惟の展開が、直面している状況の有する特質と、思考者に時間的に形成されている 能力との相関によって規定され、それの限界内で進行することを明らかにする。このよう な点で、デューイが思惟の展開について包括的に把握し、状況の詳細化と指導観念の現実 化・確実化、行動の可能性、思考者の能力などを、具体的な思惟の展開において一元的、

連続的に関連づけていることを明らかにする。

(3)

第1節 「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」の意味

はじめに

デューイは、『論理学:探究の論理』で、「『思惟』(thought)は『探究』(inquiry)と 同義であって、その意味は探究について見出されることによって決定される」と述べてい る(1)。探究、すなわち問題解決をめざして展開される知的活動では、前節で論じたように、

多様な観念が示唆されて、その観念の意味が慎重に反省される。また、思考は、観察、推 理、推論において、概念を参照して、状況と観念との間を活発に往復する。そのように多 様な意味が組織的に認知・使用されて、観念の内容が変化し、状況と対応するものとして 明確になる。探究の過程を通じて、思考の内容である思惟は、思考によって連続的に変化 していく。反省的思惟(reflective thought)とは、意図した結果を生み出すという目的の もと、意味の認知に注意を十分に払い、また意味を効果的に使用し、自らの思考を意識的 に統制して、そのように最大限の反省がなされて展開された思惟である。探究とは、状況 の有する特質を明確化するとともに、解決に向けて示唆された行動の方法についての観念 を考案して、そのように反省的に思惟を展開させることにより、確実性のある指導観念の 完成へと連続的に変化させていく知的活動である。この点で、探究とは、意味の認知・使 用に対する反省が、最大限に要求される活動である。

本節では、デューイの探究、あるいは反省的思惟についての論述に基づき、探究の場面 における思考を分析し、デューイが『思考の方法』(1933 年改訂版)において述べてい る「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」(five phases, or aspects, of reflective thought)の意味について検討・考察する。それにより、「五つの側面あるいは局面」が、

探究における意味の認知・使用の行われ方の分類であることを明らかにする(2)。 「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」について、デューイは、『思考の方法』

(1933 年改訂版)において、固定的な「段階」(steps)として捉えるべきではないと論じて いる。しかし、「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」が「段階」でないならば、それ をどのようなものとして捉えるべきかについて、デューイは、明確には論じていない。こ のため、これまでの研究においても、後に検討するように、「反省的思惟の五つの側面あ るいは局面」に基づいて、ヘルバルト派の五段階教授のような学習過程の定式化を試みる べきではないという指摘がなされるにとどまっている。

具体的には、次の点について論述する。

① デューイは、「探究」についてどのような知的活動として捉えていたのか。

(4)

② 従来の研究において、「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」をめぐっては、ど のように考察がなされ、どのように理解されているか。

③ 『思考の方法』(1933 年改訂版)における「反省的思惟の五つの側面あるいは局 面」は、探究の過程に見られる、思考による意味の認知・使用のどのような行われ方 なのか。

④ 「五つの側面の前後関係は固定していない」という、デューイによる補足的な説明 を、どのように理解することができるか。

このようにして、本節では、「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」が、探究におい て知性的に思考するために、その過程に設定される思惟の「段階」ではないことを明らか にする。すなわち、デューイの論述からは、そのような「段階」を、思考が知性的である ために従うべき普遍的な規則として、個々の探究に対して先験的に設定できないこと、ま た、デューイは、探究に対するそのような合理的な統制をめざしてはいないことを論証す る。

1.デューイの探究についての捉え方

本節で取り上げるデューイの著作において、「探究」という用語が使用されるのは、

『論理学:探究の論理』(1938 年)においてである。『思考の方法』(1910 年初版)と『民 主主義と教育』(1916 年)では、「反省的経験」(reflective experience)という用語が使 用され、『思考の方法』(1933 年改訂版)では「反省的思惟」(reflective thought)という 用語が使用されている。しかし、デューイの一貫した関心の焦点は、意図した結果を生み 出すという活動の目的を意識し、その実現のために、直面している状況から意味を注意深 く認知し、また観念の考案において意味を意図的に使用するという、実験的な思考の方法 にあった。自己の意味の認知・使用に対して反省的であり、そのように自己統制的な意味 の認知・使用の方法の究明に関心の焦点があった。デューイは、人間は、自己の思考に対 して、また、展開してきた自己の思惟に対して反省的であることによって、確実性をもっ て経験を導くことが可能であると論じている。デューイは、そのような思考が知性的であ ると考えた。

ここでは、デューイのいう探究を、本研究におけるこれまでの論述に基づいて、問題の 存在している状況の有する特質を詳細に明確化し、問題解決に対して適切かつ効果的な指 導観念を考案する知的活動と捉える。したがって、探究とは、展開された自己の思惟にお ける思考に対して、最大限の反省が行われる活動といえる。探究の過程で展開された思惟 には、示唆とそれに対する反省が、自覚的、組織的な意味の認知・使用として示されなけ ればならないからである。

デューイは、『論理学』において、探究を次のように定義している。

(5)

「探究とは、統制あるいは導かれた転換である。すなわち、そのようにして不確かな状 況を十分に確定された状況に、当初の諸要素を統一されたまとまりある全体に変換して

しまうまでに、状況を構成している特徴や関係を転換することである(3)。」

この引用では、探究が次の二つの要点から構成されていることが示されている。

① 「不確かな状況」(indeterminate situation)を「確定された状況」(determinate situation)へと「転換」すること。

② 「統制あるいは導かれた転換」(controlled or directed transformation) である こと。

デューイは、探究が開始されるための先行条件として、「不確かな状況」が存在すると 述べている。デューイによれば、「不確かな状況」とは、「かき乱されて困った、曖昧な あるいは混乱した、真直に、明確に秩序付けることのできない状況」である(4)。ある場面 に直面して、そこに見られる諸要素について、意図した結果を生み出すために有効である ような相互の関連や連続を見出すことができない、あるいは諸要素が相互に対立している と認知された状況(situation)である。

デューイが『思考の方法』(1933 年改訂版)で使用している、前章でも使用した、散歩 者が丸木を橋として掛けて渡る事例を手がかりに、このことについて説明する(5)。 この事例において、直面している状況に見られる要素である小川の川幅は、跳び越える ことはできないことを意味している。小川の川幅からは、跳び越えることを試みれば靴や 衣服を濡らすという観念が示唆される。そして、このことからは、さらに、身体が冷たく 感じられることや風邪をひくという観念が連続して示唆される。そのような事態が連続し て発生するという危険性を意味している。しかし、正規の道まで戻り、橋のある地点を通 ることは、時間がかかることを意味している。そのことは、予定の時刻までに散歩から戻 ることができないという観念を示唆する。

したがって、この事例においては、状況を構成する諸要素は、そのまま歩み続けられな い事態であること、また、同時に、小川を越えて歩み続ける必要があるという事態である ことを意味する。状況における構成要素からは、両立しない複数の観念が示唆される。こ のような点で、予定した時刻までに散歩を終了するという、望んでいる結果を生み出すこ とに妨害が生じたといえる。散歩者は、「予定の時刻までに戻るために小川を越えてその 先に進みたいが、靴や衣服が濡れてしまうので進むことができない」という、「かき乱さ れて困った、曖昧なあるいは混乱した、真直ぐに、明確に秩序付けることができない状 況」に立たされたのである。

このような状況に直面していることの認知、つまり、その人が、その状況における諸要 素を、そのように不統一や対立として理解することによって、その状況は、探究が開始さ れるための先行条件となる。そして、その人が、そのような「不確かな状況を十分に確定 された状況」に転換させようと決意することによって、探究は開始される。

(6)

この事例で、散歩者は、前章でも分析したが、次のようにして状況を転換させている。

散歩者は周囲を見回して、一本の倒木の丸木を発見する。そして、それを小川に「橋と して架けて渡る」という行動の方法についての観念が示唆される。この示唆された観念を、

解決のための指導観念として仮採用し、その実行可能性と有効性について検討し始める。

丸木は川幅に架けるだけの長さがあるか、人がその上を歩くのに耐えられる強固さと安定 性があるか、小川まで自分一人の力で運ぶことができるかなど、推論により点検を必要と する事項が提示される。そして、観察を行なって与件を収集して事実を確定し、それに基 づいて指導観念の現実性と確実性について確認する。その結果、丸木を「橋として架けて 渡る」という指導観念は現実的に実行可能であり、しかも確実に有効性のある方法である と判断される。そして、実際に橋として小川に架けてその上を渡るという行動が実行され る。それにより意図したように、靴や衣服を濡らすことなく小川の向こう側に進むという 結果、そして、予定していた時刻までに散歩から戻るという結果を、連続して両立させて 生み出すことができた。

直面している状況において発見した倒木の丸木から、「橋として架けて渡る」という観 念が示唆され、「橋」という概念を参照してその観念の意味を明確にし、状況の諸要素を

「橋」の概念を枠組みとして再構成している。それにより、「小川を越えて進みたいが、

靴や衣服を濡らしたくない」という、この状況における不統一や対立は、丸木を「橋とし て架けて渡る」という指導観念の適用により解消される。それまでの不確定な状況は、

「靴や衣服を濡らすことなく、小川を越えて散歩を続けることができる」というように、

新たな意味的な性質のもとで「統一された全体」に、つまり、「確定された状況」に転換 されたのである。

このようにして、危惧された好ましくない結果が生じることを避け、同時に、意図した 結果を生み出すことがでるように、状況の転換が行われたのである。つまり、探究とは、

意図した結果へと確実性をもって経験を導くことができるように、状況における構成要素 相互の間の連続や関連、すなわち意味的な性質を転換することなのである。

以上のように、デューイのいう探究とは、直面している状況における諸要素から示唆さ れる事態が相互に対立しており、そのままでは好ましくない結果が生じる、あるいは、意 図した結果を生み出すことのできないと予想される「不確かな状況」において、その不統 一や対立を解消し、不利益を避ける、あるいは好ましい結果を生み出し得るように、直面 している状況の有する特質を詳細に明確化しつつ、それに適切かつ効果的な指導観念を考 案する知的活動である。そのようにして、確実性をもって経験を導くことができる「十分 に確定された状況」へと、「統制あるいは導かれた転換」を行なう活動である(6)。

2.「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」をめぐる論点

(7)

デューイの『思考の方法』(1933 年改訂版)における「反省的思惟の五つの側面ある いは局面」についての論述に基づいて、一般的には、探究の過程には、五つの思惟の「段 階」があると考えられる傾向があった(7)。もっとも、デューイ自身も、当初、『思考の方 法』(1910 年初版)では、「反省的経験」(reflective experience)における「思考の過 程」(the process of thinking)には、「五つの論理的に明瞭な段階」(five logically distinct steps)が存在すると述べていた。なお、この部分は、1933 年の改訂版において は削除されている(8)

はたして、デューイは、探究において反省的思惟が展開される過程 について、それを「段階」化して捉えようとしていたのだろうか。なお、一方で、デュー イは、『思考の方法』(改訂版)では、反省的思惟の「五つの側面の連続関連(sequence) は固定(fixed)されない」と、固定的な「段階」として捉えることを否定する補足説明を 加えている(9)。

しかし、この「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」をめぐっては、伝統的には探究 の時間的な展開過程として理解され、デューイの著作全体から、探究の過程におけるどの ような「側面あるいは局面」を見出すことができるかが問題とされてきた。例えば、セイ ア(Thayer,H.S.)は「ⅰ.不確定状況、ⅱ.問題設定、ⅲ.問題解決策の確定、ⅳ.推論、ⅴ.

実験」を、ガイガー(Geiger,G.R.)は「ⅰ.不確定状況、ⅱ.問題設定、ⅲ.仮説、ⅳ.演繹、

ⅴ.立証」を、ニッセン(Niessen,L.)は「ⅰ.不確定状況、ⅱ.問題設定、ⅲ.観念、ⅳ.推 論、ⅴ.事実」を、オコンナー(O’ConnerJ.)は「ⅰ.不確定状況、ⅱ.問題設定、ⅲ.観察と 観念の機能的協調、ⅳ.探究の結果:統一された状況」を見出すことができると述べてい る(10)。特にガイガーの捉え方に見られるように、これらの研究では、デューイの探究に おける思考についての論述から、思考の従うべき普遍的な規則を読み取ろうとする試みが なされている。つまり、デューイの探究論についてのこれらの検討や考察には、『思考の 方法』(改訂版)や『論理学』の出版された直後から、アメリカにおいて論理実証主義の新 たな展開が開始されたということに照らせば、普遍的な思考の規則に従った探究という、

実証主義的な科学的探究についての観念が強く影響していると見ることができるだろう。

「五つの側面あるいは局面」を、成功した探究からデューイが反省的に抽出した、普遍的 な規則であるとみなす考え方を指摘することができる。

このような傾向は、バーンスタインの初期の著作にも残存している。バーンスタインは

「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」を、「その後の探究を方向付けていく指導原理 (leading principle)」として理解すべきことを主張している(11)。バーンスタインによれ ば、「五つの側面あるいは局面」は、固定的なあらかじめ前提とされているものとしてで はなく、その後の探究によって修正される可能性を含むものではあるが、確実性をもって 経験を導き得た探究から抽出された「指導原理」として理解できるのである。同じように、

杉浦美朗も、「五つの側面あるいは局面」は、「仮のものないし暫定的なもの」として理 解されるべきではあるが、探究の過程を「時間的に順序付ける」ことによって「定式化」

(8)

する試みであると述べている(12)。両者は、「段階」がそれぞれの探究に先立って絶対的 に設定されているものではなく、探究を仮設的、暫定的に「方向付ける指導原理」である と捉え、探究を通じて修正され得るものとは述べている。つまり、探究を実験的に導くた めに、探究の過程に仮に設定された見通しと見なしている。しかし、このようなバーンス タインや杉浦(美)に代表される理解は、固定的なものではなく、仮のものとして捉えるも のではあるものの、なお「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」を、探究の時間的な過 程における「段階」として見なす立場といえる。この点で、やはりデューイの探究につい ての論述から、探究における思考を合理的に統制するための規則を見出そうとする立場と いうことができる。

他方、牧野宇一郎は、「探究の諸相とか諸要素とかいうものは必ずしも諸段階ではな い」と述べている(13)。前章で引用したように、牧野によれば、デューイの論述から公式 化できるものは、「観察→推断→推論→推断→観察」という、「探究の諸操作の協働の仕 方」である(14)。そして、牧野は、観察と推断という思考が探究を駆動し、それによって、

その後に「問題的場面、問題の形成、仮説の形成、仮説のテスト、問題の解消、問題の解 決」という「諸相」が、探究の過程に出現すると論じている(15)。牧野によれば、操作が なされることにより諸相が見えてくるのである。だから、探究の過程を諸相によって定式 化することは、「諸操作の協働」を固定的なものにしてしまう。現実の探究における諸操作 が、柔軟に協同的に展開されることを制約することになる。このような点で、牧野は探究 の過程の「段階」化の非現実性を指摘している。しかし、前章で論じたように、牧野は

「諸操作の協働」が概念を参照して行われるというように論じてはいない。このため、そ のような「諸操作の協働」によって、状況の明確化と観念の確実化が相関的に、同時進行 的に遂げられていくというように、探究の過程について解明してはいない。このように探 究の過程について解明することにより、「段階」化は非現実的であるどころか、不可能であ ることを明らかにすることができる。

探究の過程に固定的な「段階」を先行的に設定できないことは、天野正輝によっても指 摘されている。天野は、「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」を探究の過程における

「段階」として捉えることが、学習過程の定式化の試みとして行われたこと、また、その 背景に、ヘルバルト派の形式的教授段階説の影響が強く存在していたことを指摘している

(16)。同様に、佐々木俊介も、「私はデューイ理論の悲劇は、段階を嫌ってとり出された はずの諸局面が、そのまま段階として受け取られた悲劇だと思う」と述べ、その背景とし て、やはりヘルバルト派の五段階教授法以来の教授段階論追求の伝統の存在を指摘してい る(17)。このような傾向は、アメリカにおいては、『民主主義と教育』が刊行された直後 にも見られた。例えば、ホーン(Horne,Herman H.)は、『民主主義と教育』でデューイ が示している「反省的経験の一般的性格」を、ヘルバルト派の五段階教授法と対応させて、

学習活動の過程に、「ⅰ活動(activity)、ⅱ問題(problem)、ⅲデータ(data)、ⅳ仮説

(9)

(hypothesis)、ⅴテストすること(testing)」の「五段階」(five steps)を設定している

(18)。しかし、天野も佐々木も、なぜ「段階」として捉えることができないのかについて、

思考の構造やシステムを解明することに基づいて論じてはいない。すなわち、本研究で論 じるように、示唆と反省との不可分の連続や、概念が参照の標準とされることによる、状 況の明確化と観念の確実化の相関的な同時進行など、知性的な思考の構造やシステムを解 明することに基づいて説明してはいない。

『思考の方法』(1910 年版、1933 年改訂版)は、教師たちに学習活動における思考指導 の原理を提供することを意図して著されたものである。しかし、ヘルバルト派の影響が強 く残っていた時代状況において、デューイの論述は、教授段階論追求の文脈において、五 段階教授法とすり合わされて受容されたといえる。また、その後のアメリカにおける論理 実証主義の展開のもと、デューイの探究についての論述は、合理的な思考の方法、特にそ のために思考が従うべき普遍的な規則を追求するという文脈において検討され、そのよう な考え方との整合化が試みられたといえる。これまでの論述で明らかにしたように、デュ ーイは、近代西欧の認識論哲学の伝統に基づく、近代合理主義の色彩の強い思考の否定の 上に、知性的な思考の方法を明確にすることを試みた。したがって、「反省的思惟の五つ の側面あるいは局面」とは何かについても、そのような観点から、デューイの思考論を構 造的に把握することに基づいて、分析・検討されなければならない。

では、「固定的」なものではなく、たとえ仮の暫定的なものであっても、「反省的思惟 の五つの側面あるいは局面」を、探究の時間的な過程における「段階」として捉えるとい う見解を否定するならば、それはどのようなものとして捉えることができるのか。以下、

デューイが探究論において追求したテーマは、思考が従うべき普遍的な規則ではなかった という観点から、デューイの論述の検討を進める。

3.「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」についてのデューイの説明、およびそれに 対する検討

デューイは、『思考の方法』(1933 年改訂版)において、「混乱した、紛糾した、雑 然たる事態」である「前反省的」(pre-reflective)な状態と、「明快な、統一的な、解明 された事態」である「後反省的」(post-reflective)な状態、すなわち反省が行われる前 と後との「中間」(in between)には、「思考の諸状態」(states of thinking)として、次 のような「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」があることを指摘している。

「(1) 示唆、すなわち、そこにおいて精神は可能な解決に向けて飛躍すること。

(2) 感じられた(直接的に経験された)困難あるいは疑惑を知的に整理し、解決さ れるべき問題、すなわち答えが探されなければならない疑問とすること。

(3) 示唆を指導観念、すなわち仮説として次々に使用すること。すなわち事実につ

(10)

いての素材を集めて観察や他の働きを開始し、導くこと。

(4) 一つの観念や仮定(supposition)として、観念や仮定を精神的に工夫して作り上 げること。(「推論」(reasoning)であるが、「推理」(inference) の一部であっ て、全部を意味するものではない。)

(5) 仮説を実際のあるいは想像上での行動によって検証すること(19)。」

以下、それぞれの「側面あるいは局面」についてのデューイの説明を検討し、これらを

「段階」として捉えることの問題点を指摘する。

(1) 「示唆」(suggestion)

デューイは、次のように述べている。

「われわれが『一つの穴』に陥ったとき、何を行なうべきかについての『観念』が生じ る。この観念は直接の行為の代理である。観念は代行者である。ある行為の予行的態度 であり、劇の一種のリハーサルである(20)。」

これは、行なうべき行動についての観念が示唆される「側面あるいは局面」である。

ここから、示唆された観念は、解決に向けての行動の方法についてのものであると、一 般的には理解されている。そして、示唆された観念に基づいて、仮説が設定されると理解 されている。しかし、探究の過程において示唆される観念は、解決のための仮説となるよ うな、その探究を振り返ったときに、結果として指導観念として採用された行動の方法だ けではない。前章の事例のように、「夕立」など、直面している状況の次に、続いて発生 する可能性の高い事態についての観念も示唆される。すなわち、解決のための行動の方法 についての観念の示唆だけではなく、その前提として、直面している状況がどのような事 態であるのかを明確にする観念の示唆も得られている。探究の過程では、これらの示唆の ほかにも、多様な示唆がさまざまな場面で繰り返し発生する。デューイが思考の本質とし て述べているように、思惟とは観念が連続的に示唆される過程である。特定の「段階」に おいてだけ、観念が示唆されるのではない。

先の散歩者の事例でいえば、散歩者が進路に小川を発見したとき、例えば、次のような 観念が連続して示唆される。

① 小川を跳び越える。

② 小川の河幅は広く、跳び越えることを試みると失敗し、小川に落ちて靴や衣服が濡 れる。(そして、冷たい思いをして風邪をひくかもしれない。)

③ 引き返したら時間が掛かり、予定の時刻までに戻ることができなくなる。

④ 近くにある倒木の丸木を橋として架けて渡る。

このように、探究の過程において示唆される観念は、④のような解決に向けての行動の 方法を示すものだけではない。もちろん、①の示唆された観念が指導観念として採用され、

実行可能なものと判断された場合、②以下の観念が示唆されることはない。逆にいえば、

(11)

①の示唆された行動の方法について反省され、指導観念として採用しても実行不可能であ ると判断されることによって、つまり、推論と観察を通じて状況の有する特質が明確にさ れ、そこから②のような観念が示唆さられることによって、③や④のような観念が連続的 に示唆されるのである。

そして、②と③は、ともに好ましくない結果についての観念である。それぞれの観念の 有する意味について反省して明確にし、相互の観念を対立として意識することにより、問 題が成立する。つまり、②と③のそれぞれの観念を、十分に「直接の行為の代理」として 働かせたからこそ、②と③の観念を相互に対立するものとして明確に意識できるのである。

このことも反省によって可能となる。

したがって、④の観念が示唆されたとき、それが解決に向けての行動についての観念と して、対立を解消し得る仮説として位置付けられるためには、すでにいくつもの示唆が得 られ、示唆された観念に対する反省が積み重ねられているのである。

また、示唆は、前章で明らかにしてように、自動的に発生するものであり、ある特定の 場面である特定の示唆が発生するように、事前に完全に統制することはできない。当人の 知的努力により、発生が容易になるように習慣化できるだけである。示唆の発生を「段 階」として事前に設定することはできない。

確かに示唆が発生しなければ思惟は展開されない。しかし、このように、探究の過程で は、さまざまな場面で多様な観念が示唆される。したがって、「(1) 示唆」は、探究の 過程における思惟の展開を振り返り、どの場面で、どのような観念が示唆されたのか、そ して、それぞれの観念の意味について、どのように明確にしたのかを反省する必要性の指 摘として読むことができる。

(2) 「知的整理」(intellectualization)

デューイによれば、「知的整理」とは、先に引用したような「かき乱されて困った、曖 昧なあるいは混乱した、真直ぐに、明確に秩序付けることができない状況」を整理し、

「困難が何であるのか、どこに困難が隠されているのか」、問題が何であるのかを明確に する「側面あるいは局面」である(21)。デューイによれば、探究には、「全体的事態の中 でたんなる感情的性質を帯びているにすぎないことに、『知的整理を加える』過程」(22)

が必要なのである。

例えば、小川が跳び越えることのできない幅であり、両岸も滑りやすいなどの状況にお ける要素から、跳び越えようとすれば靴や衣服を濡らすという観念が示唆され、また、そ れに続く観察から、上流と下流を見渡しても、跳び越えることのできそうな地点がないと いう事実が判明する。しかも、現在の時刻と、これまでに歩いた時間という要素からは、

来た道を引き返すのであれば、予定した時刻までに帰り着くことができないという結果が 意味される。まさに状況は、小川を跳び越したいが不可能であり、戻りたいが時間がかか

(12)

るという、混乱し、錯綜した事態として意識される。

このような事態を整理し、それを「小川を跳び越えることは不可能である」「引き返す だけの時間がない」というように、それぞれの行動の方法から、いずれも回避したい結果 が生じると意識することにより、問題が明確になるのである。そのような困難点の明確化 に基づいて、「靴や衣服を濡らすことなく、小川の向こう側へ進む」という、この状況を 転換させる目的が設定され、それによって、「靴や衣服を濡らすことなく、小川の向こう 側へ進むことができる行動の方法を考案する」という課題が設定される。そして、そこか ら、直面する状況において適切かつ効果的な行動の方法の考案が開始される。

デューイは、次のように述べている。

「よく設定された疑問は半分答えが出されているという格言は、その通りである。実際 に、われわれはまさに問題が何であるのかが、同時に抜け出す方法を発見し、解決に達 することを伴うというように知っている。問題と解決は完全に同時に現われるのである

(23)。」

どのような行動がなぜできないのか、また、どのような結果を、どのような条件で生み 出すことが望ましいのかというように、直面している状況について「知的に整理」し、問 題を設定することにより、目的や課題が明確になる。どのような状況に転換することが解 決なのか、また、そこに到るために、どのような困難を解決することが必要なのかが明確 になる。問題が設定されることにより、探究の方向性と到達点が明確になる。

ただし、「知的整理」は、問題の設定によって終了するのではない。解決のための行動 についての観念が示唆され、それを指導観念として採用した場合、その確実性や現実性を 検討するために、観察によって、また推論の指示によって、状況についての事実を多く集 めなければならない。そのようにして、状況の有する意味はより詳細なものとなり、状況 についての「知的整理」が進められる。次の「指導観念、すなわち仮説」と「推論するこ と」で論じられている内容を踏まえるならば、状況についての「知的整理」は、探究の過 程において、前章で明らかにしたように、指導観念の現実化・確実化と交互に相関して、

同時進行的に、表裏一体で継続的に進められるのである。

大きくいえば、「知的整理」には、直面している状況がどのような事態であるかを示唆 された観念に基づいて明確化する場面と、示唆された指導観念に基づいて、その状況が示 唆された行動の方法を適用することの適切な状況であるかを明確化する場面がある。また、

「示唆」で述べたように、概念を参照して指導観念と状況との対応を確認していく過程で 生じる、下位の問題を解決する過程においても多様な「知的整理」は、必要に応じて繰り 返し行われている。したがって、「知的整理」は、探究の特定の「段階」においてだけ行 われるのではない。それが行われる「段階」を事前に設定することはできない。

ここから、「知的整理」は、探究の過程における思惟の展開を振り返り、意味をどのよ うに認知・使用して、直面している状況の有する特質を、どのように詳細に明確化したの

(13)

かを反省する必要性の指摘として読むことができる。

(3) 「指導観念、すなわち仮説」(the guiding idea, hypothesis)

デューイによれば、問題の解決に向けて示唆された観念のうち、適切性と有効性が最も 高いと判断された観念が、「指導観念、すなわち仮説」として採用される。これは指導観 念が、意図した結果を生み出すことに対する確実性が高いものへと、また、実行可能であ るという点で現実性が高いものへと考案されていく「側面あるいは局面」である。

デューイは、指導観念の役割について、次のように述べている。

「彼はその示唆を指導観念、すなわち作業仮説として取り扱い、その方法に導かれて多 くの観察を行ない、さらに多くの事実を集め、そのようにして新しい材料が、仮説が求

めているものであるかどうかを確かめる(24)。」

例えば、散歩の進路に小川を発見したとき、とりあえず「跳び越える」という観念を指 導観念として、その観念が示す行動が可能であるかを検討する。そして、いくつかの地点 の川幅や岸の状態について観察する。それにより、「跳び越えること」が可能であること を意味する事実や不可能であることを意味する事実を収集する。また、丸木を「橋として 架けて渡る」という指導観念であれば、小川まで持ち運ぶことができるか、自分が乗って も折れないか、小川の川幅よりも長いか、安定性はあるかなどについて、適切性と有効性 を検討するために必要とされる与件が、観察を通じて収集される。そして、指導観念の実 行の可能性を示す事実、あるいは、不可能性を示す事実として意味づけられ、状況の有す る特質を明確化する。指導観念は、そのような事実によって明確にされた状況の特質に基 づいて、適切性や有効性について検討される。その上で、目的を達成するための行動の方 法としての採用の適否が判断される。

このように指導観念については、その内容とする行動の方法に関して、目的の実現に対 するその現実性や確実性を確認するという必要性から、必要な「観察」が行われ、必要な 与件が集めなければならない。つまり、指導観念に基づいて、実際の直接の行動を思考に おいてリハーサルして、確認しなければならない事実を明らかにし、推論によってそのた めの観察を指示するのである。このようにして解決のための行動の方法は、より確実性の 高いものとなる。したがって、指導観念に関して重要なことは、それが示唆されることや 示唆された時点なのではない。指導観念として使用されることにより、概念を参照して意 味をコードとして推論を行い、状況の有する特質を多くの事実に基づいて詳細に明確化す る点にある。そのことにより、その指導観念としての現実性や確実性を支持しない事実が 明確になることもある。しかし、そのように状況の有する特質が詳細に明確化されること により、その支持しない事実をどのように克服するかという点で、指導観念の備えるべき 条件が明らかになり、克服する方法を明確にすることにより、指導観念は確実性と現実性 の高いものに修正される(25)。このようにして、探究の過程において、繰り返し述べるよう

(14)

に、指導観念を確実性の高いものに考案していくことは、状況の有する特質の明確化と交 互的に相関して、同時進行的に、表裏一体となって継続されるのである。探究のある「段 階」で指導観念が得られる、すなわち仮説が設定されるのではなく、指導観念は状況の明 確化と相関的に同時進行的に、探究の過程を通じてしだいに考案されていくのである。

「指導観念、すなわち仮説」は、探究の過程における思惟の展開を振り返り、どのよう に意味を認知・使用して、示唆された行動についての観念を、どのように適切で効果的な、

現実性と確実性のある仮説へと考案したのかを反省する必要性の指摘として読むことがで きる。

(4) 「推論すること(狭義における)」(reasoning) 推論について、デューイは次のように述べている。

「推論することは、知識を拡大することを促進する。なぜならば、同時に、それはすで に知られていることに、また知識を伝え合い、知識を公共的な、開かれた資材とするた めに存在する便利な方法に依存している(26)。」

推論とは、概念を参照し、それを構成している意味をコードとして使用して、状況の有 する特質を明確化する、あるいは、指導観念の現実性と確実性を高める「側面あるいは局 面」である。この点については、すでに第3章第2節において、『論理学』においてデュ ーイがさらに詳しく説明した論点にしたがって説明した。また、推理、推論、観察が、探 究の過程で、状況の有する特質の明確化と指導観念の現実化・確実化を、交互的に相関し て、同時進行的に、表裏一体で進めていることを、第3章2節に続いて、前述の(2)と (3)においても明らかにした。

例えば、倒木の丸木を橋として小川に架けることについては、人がその上を歩いても折 れないだけの強度が必要とされる。このため丸木についての観察を通じて、あるいはその 場で実際に乗ってみるという実験を通じて、その丸木が「人が乗っても折れないだけの強 度がある」という事実を明らかにしなければならない。したがって、そのためには、例え ば、「橋はそれを渡る人の重量を支えることができるだけの強度がなければならない」と いうような、「橋」の概念を構成する一般化された意味、すなわち知識が使用される。そ して、それをコードとして、「丸木に十分な強度がなければ人が乗ると折れる」というよ うに推論され、観察や実験により丸木の強度に関する事実を明らかにすることが指示され る。そして、その指示に基づいて、丸木の太さや材質などが観察され、また足で蹴る、そ の場で乗るなどの実験が行われる。その結果、「その丸木は、人が乗っても折れないだけ の強度はありそうだ」と判断される。このような推論から観察を導き、事実を明らかにし て判断を下すという一連の思考は、探究の過程において繰り返し行われている(27)。状況 の有する特質の詳細な明確化は、概念を参照の標準として、対応する概念の現実化・確実 化と相関的に同時進行的に、探究の過程を通じてしだいに進められていくのである。

(15)

「推論すること」は、探究の過程における思惟の展開を振り返り、どのような概念を参 照し、どのような意味をコードとして、状況と観念との間で思考をどのように往復させた かを反省する必要性の指摘として読むことができる。

(5)(実際の、あるいは想像上での)「行動による仮説の検証」(testing the hypothesis by action)

デューイは、次のように述べている。

「完結させる側面は、具体的な行動によるある種の検証であり、このことが推測された 観念について実験的な確証(experimental corroboration) すなわち証明(verification) を与えるのである(28)。」

指導観念とは、確実性の高い「仮説的あるいは条件的な」行動の方法である。このため、

実際の「行動によって」(by action)、確実性をもって経験を導き得たか、意図した好ま しい結果を生み出すことに成功したかが検証(test)されなければならない。問題解決は、

意図した結果を現実に生み出すことを目的とし、探究は、そのための行動の方法について 考案することを課題として行なわれる。だから、考案された行動の方法に基づいて実際に 行動し、意図した結果が現実において生み出されるのでなければ問題は解決されない。ま た、探究の課題は達成されたとはいえない。

つまり、指導観念に従って実際の行動を導き、意図した結果が得られたならば、その探 究における意味の認知・使用の方法は適切かつ効果的であったと証明される。すなわち、

その探究では、知性的な思考によって思惟が展開させたといえる。しかし、デューイは、

「真の思考をする人は、彼の成功から学ぶのとまったく同様に、彼の失敗からも学ぶ」と 述べている(29)。つまり、意図した結果を不十分にしか、あるいは全く生み出すことがで きなかった場合でも、人は、どのように意味の認知・使用の方法が不適切であったのかを 点検することができる。すなわち、もう一度、状況の有する特質を詳細に観察し、その状 況と指導観念との対応について反省する。それにより、改めて、意図した結果を生み出す ための意味の認知・使用の方法を明らかにする。また、失敗に導くような不適切な意味の 認知・使用の方法を明らかにする。そのように思惟をどのように展開したのか反省を行う ことにより、新たな知識が増大する。デューイにとって、このように失敗から学ぶことも 知性的な思考によるのである。

したがって、「実際の行動による仮説の検証」によって探究が終了するわけではない。

結果を検証して、意図した結果がどの程度まで十分に生み出されたかを明確にすることが 重要である。不十分な点が明確になることにより、探究の過程における思考は再点検され、

意味の認知・使用の方法は、その状況に対してより適切なものに修正される。むしろ、こ のようにして探究を継続させることに、知性は示される。また、その思惟は反省的思惟と

(16)

して水準が高いものになる。このような点で、「行動による検証」を探究の過程における 最終「段階」と位置づけることはできない。

また、「想像上での行動による検証」は、探究の途中においても繰り返し行われる。例 えば、散歩者の事例において、散歩者は「小川を跳び越える」という行動を想像上で行っ ている。そこから跳び越えることができずに、その後、靴や衣服が濡れて歩くという観念 が示唆されている。また、丸木を「橋として架けて渡る」という行動も想像上で行われて いる。それによって、実際にその上に乗って強度や安定性を確かめることの必要性が示唆 され、そのための実験が指示されている。このように「想像上での行動による検証」とは、

その指導観念を実行した場合、実行の過程において、また結果としてどのような諸事態が 帰結されるかについて熟慮する思考である。そのような帰結の予想は、必要とされる多様 な意味をコードとして使用しての推論に基づいて行われる。そうであるならば、このこと は、探究の過程におけるあらゆる場面において行われている。

したがって、「行動による検証」は、第一に、結果における目的の達成の程度を評価し、

探究の過程における思惟の展開を振り返り、そこにおける意味の認知・使用の方法を反省 する必要性の指摘として、第二に、指導観念を実施した場合に予想される諸帰結について、

多様な意味をコードとして使用して熟慮する必要性の指摘として読むことができる。

このように、探究の過程を通じて、「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」は、それ ぞれ、知性的な思考というべき、優秀な意味の認知・使用の方法として、さまざまな場面 で繰り返し、あるいは継続的に、あるいは同時進行的に見ることができる。つまり、「側 面、あるいは局面」とは、展開された思惟を反省的に分析することにより明らかになる、

思考の五つの種類の知性的な機能の分類なのである。だから、繰り返し、継続的に、同時 進行的に見られるのであり、順序に従って「段階」的に見ることはできないのである。思 惟はそのような思考の機能が絡み合って展開される。このような点で、「五つの側面ある いは局面」は、反省的思惟が展開される思惟の「段階」と見なすことはできない。したが って、また、探究の過程を「段階」化して、それらの機能をそこに位置づけることもでき ない。

4.『思考の方法』(1933 年改訂版)におけるデューイの補足説明

デューイは『思考の方法』(1933 年改訂版)において、「反省的思惟の五つの側面ある いは局面」について説明した後に、前述のように、「反省的思惟の五つの側面の前後関連 (sequence)は固定していない」として、次のような補足説明を加えている。

「われわれが注目してきた思惟の五つの側面、終着点、機能は、相互に固定的な秩序に したがって連続しているのではない。それとは反対に、実際に考える際にはそれぞれの

(17)

段階は、示唆の形成を完成させ、その先導的な観念や指導的な仮説への転換を促進する ようなことをする。また問題の探索や確定を促進するようなことをする。観念のそれぞ れの改良は、新しい事実や材料を生み出すような新しい観察へと導き、すでに手近にあ る事実の相互関係を知力がさらに正確に判断することを助ける。仮説の練り上げは、問 題が確定され、適切な仮説がやってくるまで待ちはしない。それはどんな中間的な時期 においてもやってくる。そしてすでに考察したように、何らかの具体的な明白な検証は 最終的である必要はなく、その検証の結果として生じるものにしたがって、新しい観察 や新しい示唆へと導いてゆくかもしれない(30)。」

また、反省的思惟の「一側面は拡大されるかもしれない」として、次のような補足説明 を加えている。

「複雑な場合において、五つの側面のいくつかは非常に広い範囲に及ぶために、それら は一定の下位側面をそれらの中に含み込んでいる。この場合、あまり目立たない機能が 一部として見なされるか、あるいは明確な側面として数え上げられるかは曖昧である。

五つという数に特に秘密はない(31)。」

前者の説明においては、「五つの側面あるいは局面」が必ずしも順番に現われるのでは ないことが、後者の説明においては、「五つの側面あるいは局面」のすべてが明確に、あ るいは並列して現われるのではないことが述べられている。デューイは、これらの「側面 あるいは局面」が、相互に「折り重なっている」ことや、ある側面が「急いで通り過ぎら れる」ことや、繰り返し現われたりすることを指摘している。

このことは、前述の「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」に関するデューイの説明 についての検討からも明らかである。ここから、次の点を指摘することができる。

第一に、倒木の丸木を「橋として架けて渡る」という、解決のための行動についての観 念が示唆されるのは、「跳び越えることができない」というように、直面している状況につ いて十分な「知的整理」がなされた後である。いわば状況の有する特質がある程度まで詳 細に明確化され、問題が設定された後でなければ、そのような示唆を得ることはできない。

第二に、一つの探究の過程において示唆される観念の内容は多様であり、また示唆は探 究の過程のあらゆる場面において得られる。

第三に、指導観念となる示唆が得られ、指導観念の現実性と確実性を点検し、状況の有 する意味が詳細になるにつれて、さらに「知的整理」もなされていく。そして問題とその 解決のための課題が、より具体的な形式において設定し直される。

第四に、指導観念を仮説として用いて、観察を行ない、事実を収集し、その指導観念を 現実性と確実性の高いものに考案していく過程で、推理と推論が行われる。つまり、観察 から推理がなされ概念が参照される。そしてその概念に含まれている別の意味をコードと して使用し推論がなされ、観察や実験が指示される。そして事実が収集されて、状況の

「知的整理」がなされる。このように指導観念の現実性と確実性を高めることと、状況が

(18)

「知的整理」されてその有する特質が明確化されることは、交互的に相関しつつ、同時進 行的に、表裏一体となって進む関係にある。

第五に、「実際の行動による検証」によって探究が完了するとは限らない。また、「想 像上の行動による仮説の検証」は、探究の過程のあらゆる場面でなされている。「想像上 の行動による検証」がなされることに伴って、示唆が得られ、推理、推論、観察が行なわ れて、さらに多くの事実が明らかになる。

このように「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」は、探究の過程がたどる「固定的 な段階」として捉えることはできない。それぞれの「側面あるいは局面」は「急いで通り 過ぎられ」たり、一つの探究のあらゆる場面で繰り返し、また同時に現われたりするので ある。

まとめ

『思考の方法』(1933 年改訂版)におけるデューイの論述を分析・検討するかぎり、

探究の過程を「段階」化して、実際の探究に先立って、仮設的にではあったとしても、そ の過程に思惟の「段階」を割り当てることはできない。探究の過程では、示唆と反省の連続 が繰り返されて思惟が展開される。すなわち、思考が、状況と観念との間を、概念を参照 して意味をコードとして推理、推論、観察というように往復し、一方で、状況の有する特 質を詳細に明確なものにし、他方で、観念をより適切で効果的なものに、その現実性と確 実性を高めていく。むしろ、「反省的思惟の五つの側面あるいは局面」を観点として、探 究の過程において思惟を展開させた思考を分析することにより、第3章第2節で論じたの と同じように、探究では、思考が状況と観念との間で概念を参照しつつ、推理、推論、観 察というようにしてジグザグ的に往復し、交互的に相関しつつ、同時進行的に、表裏一体 となって、それぞれの明確化と現実化・確実化を進めていることが明らかになる。「五つ の側面あるいは局面」は、探究の過程において思惟を展開させる思考について、このよう な知性的な特質を浮き彫りにしている。探究が行われる具体的な状況の有する特質は、そ れぞれに独自的であり完全には同一ではありえない。また、探究を行う主体がそれぞれに 所有している概念、あるいはそれぞれの意味の認知・使用の能力の水準も異なる。このた め、そのような条件の相違に、探究の過程において思惟を展開する思考の知性的な水準は 依存している。探究の過程に「段階」を設定することによって、思考の知性的な水準を、

このような条件の相違にもかかわらず、同一に揃えることはできない。つまり、探究が行 われる個々の状況や探究を行う主体の個々の思考の能力を無視し、それらから普遍的な規 則を思考に対して先験的に設定し、合理的に統制することはできない。

したがって、「五つの側面あるいは局面」を、探究の過程において、知性的な思考がた どる手続き的な「段階」として捉えることはできない。そのようにして、探究の過程にお

(19)

ける思惟の展開を、普遍的な規則に従って、思考者の能力にかかわりなく共通に導くこと はできない。このように、デューイの論述を分析することにより、思考を合理的に統制し 得る普遍的な規則を、探究に対して設定することはできないことが明らかになる。デュー イの探究とそこにおける思考についての論述は、デューイが近代合理主義の色彩の強い思 考についての観念を否定し、それに取って替わる知性的な思考の方法を追求したという観 点に立って、読まれなければならない。

(20)

第2節 反省的経験あるいは探究の過程についてのデューイ の分析の変化

はじめに

『思考の方法』(1933 年改訂版)において、デューイは「反省的思惟の五つの側面あ るいは局面」について論述しながらも、それを探究の過程における「固定的な段階」とし て捉えることは否定している。また、これまでの分析・検討からも明らかなように、たと え仮のものであっても、それを「段階」として探究の過程に設定することはできない。で は、反省的な思惟の展開と知性的な思考について、デューイは、他の著作において、どの ように分析し、論述しているのだろうか。

本節では、『思考の方法』(1910 年初版)、『民主主義と教育』(1916 年)、『論理 学』(1937 年)における、「反省的経験」、あるいは「探究」に示される知性的な思考 に関する論述部分を取り上げる。そして、それぞれの論述を比較することにより、デュー イの分析がどのように変化しているのかを明らかにする。そのようにして、当初の著作で は、「反省的経験」における思考が分析され、それにもとづいて「段階」化が試みられて いると読み取れる記述が見られるものの、しだいに、「反省的思惟」、あるいは「探究」

に示される、知性的な思考の特質の分析に重点が移されていくことを明らかにする。

具体的には次の点について論述する。

① 「反省的経験」、あるいは「探究」に示される知性的な思考についてのデューイの 分析、およびその方法についての論述は、『思考の方法』(初版)から、『民主主義と 教育』、『論理学』へと、どのように変化しているか。

② そのような変化は、探究や思考に対するデューイのどのような把握の深まりによる ものか。また、デューイは、「五つの側面あるいは局面」を『思考の方法』(1933 年改 訂版)では、どのようなものとして捉えようとしていたか。

このようにして、デューイが、探究や思考についての自然主義的な把握を深めるにつれ て、また、具体的に展開された現実の思惟の分析を出発点とするという、思考に関する研 究方法を確立するにつれて、「段階」という色彩がしだいに薄れていくことを明らかにす る。

1.中期の著作におけるデューイの分析

(21)

『思考の方法』(1910 年初版)、および『民主主義と教育』(1916 年)では、確実性をもっ て問題解決へと導くことの成功した活動に対して、デューイは、「反省的経験」という語 を当てている。『思考の方法』(1910 年初版)は、改訂版と比較して、教師たちに向けて 学習指導の方法を論じるという性格がきわめて強い。したがって、確実性を持って問題解 決へと導くことの成功した知的活動を分析し、そこから子どもたちに問題解決の活動を経 験として構成させるための思考の方法を明らかにし、それに基づいて学習指導の方法を提 起することがめざされている。また、『民主主義と教育』では、問題解決に成功した経験 における思考が分析され、その性質が明らかにされている。

(1) 『思考の方法』(1910 年初版)

『思考の方法』(1910 年初版)において、デューイは、「反省的経験」(reflective experience)の具体例に基づいて「思考の過程」(the process of thinking)を分析し、そ こには、次のような「五つの論理的に明瞭な段階」(five logically distinctive steps) があると指摘している。

「(ⅰ)困難の感得 (a felt difficulty)

(ⅱ)困難の捜索と確定 (its location and definition)

(ⅲ)可能性のある解決策の示唆 (suggestion of possible solution)

(ⅳ)推論による示唆の関連性の発展 (development by reasoning of the bearings of the suggestion)

(ⅴ)示唆を受け入れるか拒否するかに導くなおいっそうの観察と実験、すなわち信じ るか、信じないかについての結論 (further observation and experiment

leading to its acceptance or rejection; that is the conclusion of belief or disbelief)(1)。」

この論述に基づくならば、『思考の方法』(初版)では、デューイは、探究における

「反省的経験」の過程が、(ⅰ)~(ⅴ)の相互に論理的に性格の異なる区別可能な「段階」

を、時間的経過とともに順次たどると述べていると理解できる。もちろん、ここにおいて デューイが、「反省的経験」における思考の過程を字義通り「段階」化することを試み、

それによって思考に対する一定の規則を設定することを意図したのかは不明である。しか し、ヘルバルト主義の潮流に中、生徒の思考を「反省的経験」とするために、授業過程に 設定する「段階」として受け取ることのできる論述であったといえよう。

(2) 『民主主義と教育』(1916 年)における論述

『民主主義と教育』において、デューイは、「反省的経験の一般的性格」(the general features of a reflective experience)として、次の五点を指摘している。

「(ⅰ)完全な性格がまだ決定されていない不完全な状況に巻き込まれたという事実に基

(22)

づく困惑、混乱、疑惑 (perplexity, confusion, doubt)

(ⅱ)推測的予測 (a conjectural anticipation)-確実な結果を生み出す傾向は、与 えられた諸要素によると考えて、それらの試験的な解釈をすること。

(ⅲ)取り掛かっている問題を確定し明確にするような、達成のために考慮すべきすべ ての点についての注意深い調査、試験、検査、探索、分析)(a careful survey examination, inspection, exploration,analysis)

(ⅳ)広い範囲の事実と一致させるために、試験的な仮説をさらに正確で一貫性のある ものにする必然的な精緻化(a consequent elaboration of the tentative

hypothesis)

(ⅵ)考案された仮説を当面している現在の状態に適用させる行動計画として、とりあ えず立脚してみること (taking one stand upon the projected hypothesis as a plan of action)、すなわち期待した結果を生み出すために明確に何かをすること、

それによって仮説を検証すること(2)。」

ここにおいて、デューイは、「反省的経験を試行錯誤的水準から明瞭に区別するのは、

第三段階と第四段階の広さと精密さである」と述べている(3)。

しかし、なお、「段階」(steps)という用語を使用し、これらの五点について、「反省 的経験」が、探究の時間的経過においてたどる「段階」であると理解できる記述を残して いる。そして、『思考の方法』(初版)の各点と比較すると、(ⅰ)は『思考の方法』(初 版)における「(ⅰ)困難の感得」と対応し、(ⅱ)は「(ⅱ)困難の捜索と確定」と対応し、

(ⅴ)は、「探究」の最終段階における、「(ⅴ)信じるか、信じないかについての結論」

と対応する。

他方、デューイは、上の引用で述べているように、特に(ⅲ)と(ⅳ)を、「反省的経験」

における特別な思考として重視している。すなわち、デューイは、これらの「段階」を他 の「段階」から、探究の過程におけるたんなる時間的な順番という観点からだけで区別し ているのではないといえる。デューイは、(ⅲ)と(ⅳ)の「段階」は、「試行錯誤法」など 非反省的な方法から、「反省的経験」における思考の優秀性によって「明瞭に区別」でき ると述べている。

このように『民主主義と教育』においては、「反省的経験」に見られる思考について、

なお「段階」という記述が用いられているものの、『思考の方法』(初版)と比較して、

「試行錯誤法」から「明瞭に区別」される思考の性質が、五つの中に混在的に示されてい る。

『思考の方法』(1910 年初版)では、教師たちが、子どもたちによる問題解決の経験と して授業過程を構成できるように、その論拠となる思考についての論理を提起することが めざされていた。しかし、『民主主義と教育』では、経験について、特に問題解決による

参照

関連したドキュメント

 福沢が一つの価値物を絶対化させないのは、イギリス経験論的な思考によって いるからだ (7) 。たとえばイギリス人たちの自由観を見ると、そこにあるのは liber-

都市計画法第 17

38  例えば、 2011

これらの先行研究はアイデアスケッチを実施 する際の思考について着目しており,アイデア

層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑

討することに意義があると思われる︒ 具体的措置を考えておく必要があると思う︒

個人は,その社会生活関係において自己の自由意思にもとづいて契約をす

(注)