• 検索結果がありません。

山岳美の導入

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "山岳美の導入"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)19. ハラーと〃ソーによる文学へ. 山岳美の導入. 近. 藤. モンター呈ユ・モデイ︸. これを要するに︑十七世紀の人たちは︑人間が住むに遭した風光を︑人聞の息吹が感じられ︑文化と才能を告げる. くない呼称を与えられていたのである︒. しかし︑モン・ブランは︑白い山という単純だが美しい名前でよばれていたのではなく︽呪われた山︾という有難. の最高峰がはじめてフラγス学の地平線に姿を現わしたわげである︒. 山波が重たり合い︑雲間に達していることを語っている︒その山は︑いうまでもなくモン.ブランであり︑アルプス. スキュデリー嬢は︑その小説﹃アルタメーヌ︑または大シリユス﹄の中で︑シユネーヴの湖を引用し︑平野の彼方に. 名な作家のうち︑スキュデリー嬢︑フラγソア・ド・サール︑ボシュエたどが山のことを筆にのせている︒とくに︑. 十世紀の人々の山に対する軽蔑的な態度や︑山に対する恐怖感は︑文学作品の中に表明されている︒この世紀の著. 会とは︑およそ性格のそぐわないものであった︒. を重んじていた十七世紀の精神は︑自然を愛する感情の発展にふさわしい時代ではなかった︒山は当時の気取った杜. ヴェルサイユ宮殿の幾何学的に配置されたいわゆる﹁フランス風﹂の庭園が代表しているように︑たによりも均斉. 等. ようた場所をしか美しい風光のうちに入れていたかったということができる︒肥沃た田園︑森に取り囲まれた牧場︑. 561. の.

(2) 20. きよらかな水の流れ︑ほほえましき渓谷︑それにもまして︑大理石の泉水で飾られた庭園が彼らの好みに合ったもの. だった︒大自然が思う存分にその美しさを展開する人気のない風光などは想像だにせず︑そうした場所は︑彼らにと っては︑いんうっで︑二目とみられないおそろしい場所であった︒. 現代の旅行者たちを感動させるような光景を︑当時の人々は白眼視し︑一顧だにしなかったのである︒. 十七世紀にかえりみられたかった山は︑十八世紀に入って︑いきたり脚光を浴びることになった︒. 十八世紀こそは︑一般的に定義されているように︽自然の世紀︾であるが︑︑山の自然の世紀︾であったというこ ともできよう︒. 世俗的な都市生活にあきあきした人たちのうちから︑野外生活を欲求する声が湧き起り︑その声は︑高山に向げら. れた︒それは心の叫び声であり︑魂の要求であった︒文学︑旅行︑科学︑すべては山の魅力の影響を蒙った︒今目の 表現を使うならぼ灸高嶺の呼び声︾に惹きよせられたのである︒. フラソスの批評家ガブリエル・カンシュは﹃フランスにおけるハラーのデイ.アルペンの幸運﹄という書物の中 で︑こうした反応の理由を明確に説明している︒彼は書いている︒. ﹁至るところで人々は洗練された杜交生活に倦怠を感じはじめている多くの人々が︑田園生活の愛好者となり︑フ. ランスでは︑貴族階級も次第に田舎の生活に趣味を感じるようになってきた︒大領主や感受性に富んだ貴夫人たち. は︑より多くの自然さと単純さを求めた︒伝統的な牧人物語や優美な牧歌はもはや以前ほど人の心をひかなくなっ. た︒ベルニの枢機郷は︑人工を加えない自然も結構だが︑ただし︑それは妙趣のある甘美なものでなげればならな. い一といっているが︑彼の理解しているような自然描写はすでに魅力を失なってしまった︒このような味げなさ︑永. 遠に若くて微笑をうかべている羊飼︑彼らがとりかわす馬鹿々々しいお世辞︑彼らの上流杜会めいた会話︑こうした. 562.

(3) 21. ものに人々は嘔気を催すのだ﹂. ローマ帝国の不減の思い出があるが︑ス. 別の理想が必要だった︒あらゆる人に受けいれられ︑あらゆる人を受げいれる山が︑そこにあった︒一七七〇年版 のある案内書にはこう読まれる︒﹁ローマにはその富が︑法王庁の光輝が︑. イスには山がある!﹂また︑ある無名の旅行者は︑﹁わたしはアルプスと︑平野の上にそびえる山々の栄光について. ひと言申しあげたい!﹂と書いている︒この﹁アルプスと山々の栄光!﹂という調子はそれまでになかったものであ. る!思想の流れにも異常な変北が生じた︒旅行は︑そのままアルプスの探検となり︑科学は︑特にスイス人の博物学. 者たちの強力な推進のもとに︑大きな躍進をとげることになった︑シヨイヒツェルは書いている︒﹁わたしは︑アリ. ストテレスやエピクロスやデカルトの足下ですごすよりも︑これらの荒れた淋しい山々の中ですごす方に︑喜びと満. 足を感ずる︒︽なずならそこには神々がいるのだから/︾と古い格言にあるが︑それはまったく正しい︒なぜなら山. 々の上では︑人は無限の力︑完全た善意︑神の叡知を︑手につかむようにつかむのだから︒アルプスは自然の驚異を. おさめた博物館のようなものである︒﹂植物︑鉱物︑風向︑雪︑氷河たど︑高山の神秘のヴエールをはぎ取ろうとす るこの科学的精神の飛躍は︑簡単におさまるものではなかった︒. アルブレヒト・フォン・︿ラ﹁の﹃アルプスの山々﹄. 一七三二年︑スイス人︑アルブレヒト・フォン・ハラーの︽ディ・アルペン︾︵U目>■︑向2︶と称する小さな詩. 集が出版された︒この詩集こそは︑文学作品として︑その内容のすべてが山について書かれた最初のものであり︑ス. イス・アルプスの山々に捧げられた讃歌であった︒はじめて︑才能ある詩人が︑山々の美︑その谷︑その氷河︑その. 滝︑その頂きを細部において︑変化のある色あいのもとに︑驚くほど力強い魅力的な筆致で描き出し︑これらの風景. 563.

(4) によって︑拝情的な感情が高まってきた︒ニュアンスに対するこれほどの感覚と︑これほどの感受性をもって︑アル. プスの自然を描き出したものはまだなかった︒この詩集は︑ほどたく仏訳されて︑熱狂的に迎えられた︒. ﹁椴の樹脂を含んだかぐわしい︑清らか在風が︑毒気を追い払い︑閨房の空気に長い間圧迫されている胸を晴れ晴. れとさせるかのようであった︒人々は︑この大気と︑森の香気を胸一杯に吸いこんだ︒それは無感覚になった鼻孔に. とってさえ︑白粉や香水の臭いよりもぐっと快いものであった︒人々はスイスに熱中するようになった︒それは青天 の震震であった﹂と︑G・カンシ.一は述べている︒. アルブレヒト・7オソ・ハラーは︑一七〇八年︑スイスのベルソに生れた︒古い貴族の家柄で︑父親は文学に深い 教養のある弁護士だった︒. ハラーは︑幼い時から天才的た才能を現わし︑九才の時には︑ラテソ語︑ギリシャ語︑ヘブライ語を使いこなし︑. 見事た詩をいくつも書いたと言われる︒その後︑彼はドイツのチュビンゲン大学に入り︑さらにオラソダのライデソ. ﹁一七二八年の春︑バーゼルで︑ はじみて私は植物に興味をもつようになった︒その頃︑ 私は︑医学の慈奥を極め. の握大な著書の序文で書いている︒. 植物学に凝っていて︑アルプスの山登りに熱中していた︒ハラー自身︑そのいきさつを︑スイスの植物にかんする彼. 一七三〇年に︑ハラーは故郷のベルンにもどってきた︒そこで医者とたるのが︑彼の運命だった︒ところが︑彼は. のもとで︑ひたすら植物学を研究する好奇心に燃えた青年であった︒. 大学に移って︑医学博士の称号を得た︒さらに︑彼はフランスのパリ大学に入り︑当時の有名な植物学者ジュシゥー. 勿. 554.

(5) 23. ようと決心していた︒部屋に閑じこもって読書にふげる生活も︑嫌いではなかった︒しかし︑そのまま勉強をつづ. けてゆくと︑自分の健康がまもなく堪えられなくたるだろうということは認めないわげにはいかなかった︒そこ. で・私は健康維持の方法を色々考えたあげく︑最上の方法として︑植物を研究することを思いついた︒植物を研究. すれぱ一どうしても野外に出なけれぱならないからだ︒野外に出て自然の大気に触れれぽ︑私の弱まった健康も︑一. 挙に持ちなおすことだろう︒そういうわげで︑私はバーゼルの近郊を歩きまわるようになった︑﹂. この頃から一七三六年にかげて︑毎年ハラーは旅に出て︑スイス中を歩きまわった︒彼の語るところによると︑ジ. ェラ山脈からアルプス山脈へ︑ライン河からレマン湖へと歩きまわった︒彼は︑その思い出の中で︑これらの探検行. の魅力と︑一歩一歩︑眼前に展開してゆく大自然の美Lさとを︑形容たっぷりな文章で綾述している︒それにして. も・一介の植物学者が︑これらのアルプス探検の途上で出会った困難さを想像Lてみれぱ︑そうした楽しみも︑結構 高いものについていることがわかる︒彼は書いている︒. ﹁スイスでは︑植物学者たるものも︑非常な努力を払わなけれぱたらたい︒アルプスの山々に彼は登らなげれぱな. らないのだ︒見上げるようた絶壁をやっとよじ登ったと思うと︑今度は︑それ以上の危険を冒して︑その断崖を下り. てこなけれぼたらない︒頂上では︑身も凍るようた寒さだが︑谷に下りると︑暑さのために息もつまるほどだ︒見. 渡すかぎり人影もなく︑道などあったためしがない︒わずかな霧が出ても︑旅人は方角を失なってしまうし︑時に. は一命を失なってしまうこともある︒むろん快適な生活などはのぞめない︒パンもなげれぱ︑ベツトもない︒⁝. とはいうものの︑こうした苦しみには︑すぱらしい償いがある︒見よ︑淡白華麗なあの大自然の姿を︒永遠に融.

(6) 566. げぬあの氷のかがやき︒万年雪をいただいた岩々のある白いピラミヅト︒ほの暗い谷問では︑渦巻く急滞が幾百も. の滝とたってほとばしっている︒湖のあの銀色の光︒人跡末踏のこの奥地では︑わずかに韓る小鳥の鳴き声も︑い. つそうあたりの静げさを深めるばかり⁝−こうしたものの︑すべてが相集まって︑心を揺り動かさずにはいられな. い壮麗な世界を形づくっているのだ︒その世界のことを︑人々は︑ちよつと説明できないような強い懐しさで思い. 出し︑夢中になって︑ふたたびそこにもどっていこうと努力する︒どんな大旅行でも︑この旅にくらべれぱ︑まる で単調なるものに思われてくる﹂︵一七三一年︶. デイ・アルペン この若き植物学者は︑山々へのこうLた愛情と熱狂とにとらわれたあげく︑一七三二年に﹃アルプスの山々﹄︵−︶庁. ら欲するままに︑その欲望をことごとく満た﹂てみるがよい︒その時汝らに︑その豊かな生活のさなかにあって貧. によって眠りをいざない︑蜘臥の音によって起き出でよ︒山々の危険を取り除け︒全土を公園に変えよ︒汝らは自. え︑岩々をコリント風に刻み︑大理石に豪華な絨毯を敷き︑エメラルドの盃で真珠のごとき露を飲め︒妙なる調べ. ﹁人々よ︑汝らの生活を改めようと試みよ︒芸術の美と自然の賜とを利用してみよ︒汝らの花壇に噴水をしつら. かを︑次に引用Lてみよう︒. がり︑絵画的で色彩豊かな美しい詩句とたった︒これらの有名ではあるが︑今ではほとんど知られていない詩の幾っ. の牧歌の模倣にすぎないといえた︒しかし︑ハラーがひとたび草花や山々を歌い出すと︑個性的な空想力の翼はひろ. な詩だった︒詩のテーマは︑素朴な生活と︑自然道徳とを讃美することにあった︒その意味では︑ギリシャやローマ. ≧七g︶という詩を書いた︒この作品は︑当時流行していた詩と同じように︑隷景的な詩というより︑むしろ道徳的. 肌.

(7) 25. しく︑それらの財宝にかこまれながら︑ なお惨めであることに気づくだろう・⁝・・﹂. 詩はたおもこんなふうに︑道徳的で陳腐な主題をながながと展開してゆく︒それは︑この世紀のポーブや︑ヴォル. テールらの教訓詩とまったく同じような調子だ︒それからハラーは︑やっとスイスにたどりつく︒. ﹁自然の子らよ︑汝らは︑今なおかの黄金時代に生きているのだ︒だが︑それは黄金時代とはいうものの︑詩人た. ちが空想したあの華麗な時代ではない︒人々が労働のように喜びを見出し︑貧しさのうちに幸福を見出すような世 界に︑どうして外面的な華々しさを求めることができようか︒. 空低く垂れこめる雲には雷鳴がとどろき︑地上には一面に霜が下りる︒冬は長く︑春の来るのは遅い︒冷たい谷. は永遠の氷に閑ざされている︒しかし︑汝らの生活の純粋さがそれらすべてのものを︑すばらしいものに作り変え てしまう︒自然の厳しささえもが汝らの幸福を強めてゆく⁝−. ここでは︑人々が神をも恐れぬ俄慢さから︑あの身分的た差別をつくりだし︑人問の美徳を抑えつげて悪徳をさ. かえさせるようたこともたい︒ここでは︑退屈のために気むずかしくたった人々が︑時問の長さを持てあますよう. たこともない︒誰しもが節度ある自由な生活を送り︑人々には︑同じように満足と︑休息と︑労苦とが分ちあたえ. られている︒不平をいだいた人々が︑運命の神を呪ったりするようなこともない︒人々は食べ︑眼り︑愛し合い︑ そして神に感謝を捧げるのだ﹂. ハラーは︑つづいて農民たちの楽しみを次々に列挙する︒舞踏︑狩猟︑相撲など−⁝そして彼は︑田園生活の絵巻. をくりひろげる︒農民たちの四季折々の労働や︑長い冬の問のさまざまな気晴しを歌う︒冬の夜になると︑農民たち. 567.

(8) 26. は炎をかこんで︑楽しい本を読んだり︑音楽に打ち興じたりする︒老人たちはそこで︑戦争や︑旅や︑ 古い伝説の物 語を青年たちに話して聞かせる︒. それから︑︿ラーは︑新しい春を迎えたアルプスの山々の雄大な姿を︑心をこめて歌い上げる︒. ﹁春にたって︑太陽の光が岩山の頂きを染め︑目の前の濃い霧が晴れ上がると︑山々の頂きの彼方に︑それを見る. たびに息を呑むような不思議な光景が姿を現わす︒そこでは大自然が︑人々の魂を悦惚とさせるようなありとあ. らゆる輝かしい魅力をそなえている︒軽やかな雲の透明な水蒸気を通して︑一瞬のうちに︑そこに一つの完壁な世. 界が展開するのだ︒その舞台の果てに︑いくつかの村がちらほらと見える︒果てもたい地平線の彼方に目を凝らす と︑気も遠くなって︑目を開げてはいられないほどだ︒. 重畳として︑聲え立つ山々や︑湖や︑岩の形はくっきりと見えるが︑それらのものの色合いは︑遠くなるにつれ. て︑次第に薄くなってゆく︒はるか彼方には︑雪をいただいた高峰が夢のように光っている︒より近くの山々は︑. くらい森におおわれている︒真近に見える高原は︑ゆるやかな斜面をなしていて︑無数の羊が草を食っている︒羊. が鳴き声を上げると︑それが遠くの谷にのどかに木魂する︒彼方︑谷の底には︑一つの湖が鏡のような水をたた. え︑小波に降りそそぐ日光をゆらめくように反射している︒近くには︑緑の絨毯を敷きつめた谷が口を開き︑遠く. なるにつれて狭まっている︒その谷の向うには︑草木もない岩山がぬっと聾え立っていて︑切り立つたよう注瞼し. い山腹を見せている︒その岩山は水晶のような万年雪をいただいた尖端を空高く突き出し︑太陽の光を一杯に浴び てキラキラと反射している︒. そうした厳しい岩山のすぐ近くには︑青青とした広い高原がひろがっていて︑そのなだらかな斜面には︑実り豊. 568.

(9) 27. かな小麦の穂波が光り︑その向うでは無数の羊の群れが草を喰っている︒岩山と高原との問には︑狭い谷があるだ. げで︑谷の蔭はいつもひんやりとしている︒そして︑谷の向う側とこちら側とでは︑こんなにも極端に気温が違っ ているのだ︒. 切り立つたような山の峰の問から︑すさまじい急流が滝のように流れて落ちている︒沸き立つように泡立った流. れは岩の彼方に矢のような早さで流れ去る︒滝のあたりの飛沫は灰色の霧となって︑いつまでもそのあたりに雲の. ように立ちこめている︒これらの霧の上には虻がかかり︑下流の谷は乾く間もなく濡れそぽっている︒旅人は幾筋. もの急流が空に向って流れこみ︑雲の合間から姿を見せ︑ふたたび雲の中に姿を消すのを見て荘然とする︒L. ハラーは︑山で咲く花々の美しさに触れると︑俄然︑植物学者としての特色を発揮する︒. ﹁山々には︑永遠に緑の絨毯が敷きつめられ︑その上には虻の刺繍がしてある︒. 品のよいりんどうの花が︑地を這う平民のような植物の繁みの上に︑誇らかにその頭をもたげている︒繁みに咲. いている青い花々の群は︑軍旗のようなりんどうの花の下に整列し︑恭しく頭を垂れている︒キラキラと金色に光. っているりんどうの貴族的な花は︑茎の上にすっくと立っている︒濃緑の縞を浮き上らせた穣れのたい葉は︑濡れ. たダイヤモγドのかがやきだ︒ここでは︑自然がこよなき正義の法に従っている︒ここでは︑徳は︑その美しき釣 合い︑美しい肉体が︑さらに美しい魂を所有しているのだ!﹂. ハラーは・さらに薔薇の花を歌う︒薔薇の花は︑﹁緋色の絨毯で岩々をおおっている﹂︒それからアヴアンソンの流. 569.

(10) 28. 域で発見した岩塩鉱を歌う︒. ﹁とぎれとぎれの森の中を︑泡立ち渦巻きながら流れるアヴァンソンのほとり︑岩々の下に岩塩が秘められてい. る︒山のくぼんだ深い盆地の底に︑この神秘な海が隠されている︒しかし︑その神秘な海の水は︑強固な岩を蝕. み︑岩々の裂け目からにじみ出て︑自然の賜として︑われわれの前に流れ出ようとしている︒この大自然の贈物︑. この地方最大の宝は︑われわれの必要に応じようとして姿を現わしているのだ﹂. この岩塩鉱は︑ベルン州にあった︒そして︑ハラーは︑将来︑自分がその採掘を監督する身になろうなどとは︑夢 にも考えてはいなかった︒. ハヲーは︑ふたたびその中心的なテーマにもどってくる︒つまり︑財産も︑権力も︑野心も︑幸福を保証すること はできないという例のテーマだ︒. 彼らは労働と貧困のさなかにあって︑心は満ち足りているのだ︒そして︑. ﹁予の言を信じよ︒かの輝げる星も︑何の幸福をももたらしはしないし︑真珠の首飾りも魂を富ましはしたい︒人 々に軽んじられているかの農民たちよ!. ラーよ︑. 愛情をこめてスイスの人々に話しかげる︒. かの農民たちを見て︑自然は程よい恵みをもたらし︑われわれは自然によってのみ幸福になるという事実をさとれ﹂. いよいよ詩の終りになると︑. ノ、. 570.

(11) 29. ﹁それにしても幸福な民よ︑汝らのもとでは︑腹黒き輩が横暴を極めるということもない︒自然は︑汝らの前にそ. の全容を惜し気もなくさらし︑さまざまの素朴な幸福をもたらし︑かの厭うべき快楽をもたらすこともない⁝⁝. 幸いなるかな︑汝らのごときもの︒汝らは︑祖先より受げ継いだ土地を︑手塩にかげた牛とともに耕作する︒汝. らは純粋の羊毛を身にまとい︑頭には花飾をかぶり︑心満ち足りて一休みしては︑新鮮な牛乳に喉を鳴らす︒汝ら. が︑やわらかき草の上でしばしの午睡をむさぽれぼ︑西風はそよぎ︑滝の冷気がひんやりとただよってくる︒泡立. つ海のすさまじい波音が︑汝らの平和た眠りを防げることなく︑近くの天幕から戦いの刺臥が聞こえてくるという. こともない︒汝らは已が運命に満ち足りて︑さらに運命を切り開こうと焦躁することもない︒天の神さえも︑汝ら の幸福をより完壁なものにすることはできないだろう﹂. ハラーの﹃アルプスの山々﹄とは︑このような詩である︒. たしかにハラーはその詩の中で︑農民や山男の生活を美化しすぎているということはできる︒それに︑それらのあ. まりにも牧歌的た描写は︑﹃ウィリアムニアル﹄におけるシラーの力強い描写にはおよびもつかない︒しかし︑ハ. ラーは︑その時たった二十四才だったこと︑それに彼は︑ひたすらヴェルギゥスやテオクリトスたどという古典の影. 響下にあったのだという事実と忘れてはならない︒重要なことは︑ハラーがアルプスの山々に魅了され︑アルプスの. 大自然が旅人たちに与える歓喜をはじめて表現したということなのだ︒そういう点では︑ハラーのねらった目的は一. 応達せられ︑この詩は︑当時非常な成功をおさめた︒一七三二年以後︑ハラーが死ぬまで︑この作品は三十回︑版を 重ねられ︑数ケ国語に訳されている︒. 一七三七年︑ハラーはゲヅチンゲン大学に招璃され︑解剖学と植物学とを講義した︒一七五三年に︑彼はふたたび. 571.

(12) 30. 故郷ベルンにもどってきた︒故郷の一貴族として︑公職につくこととなったのである︒ハラーは︑幾度かヴォー地方. の岩塩鉱を監督する任務を帯びて︑一七五八年から一七六四年にかげて岩塩鉱の採掘を指揮した︒その結果︑ロシェ. と工−グルとにかわるがわる住むことになり︑その問に︑それらの土地をとりまいている山々で︑彼は植物学の研究 をつづけた︒. しかしハラーは︑一人で山に登るようなことは︑もうしなくなっていた︒彼自身の云うところによれぱ﹁林務官﹂. の一グループを組織し︑それに科学の情熱をこめた︒そのグループの中から︑現在ベヅクスに記念品が保存されてい るトーマスのような︑すぐれた植物学者が何人か出ている︒. そうした岩塩鉱の近くで︑ハラーはド・ソーシュールに出会ったのだった︒まだひどく若かったド・ソーシュール. は︑この偉大な学者を訪れた時の事情を︑魅力にみちた文章で書き残している︒その文章を引用してみよう︒. ﹁一七六四年に︑私はくラーのもとを訪れた︒その時ハラーは︑ロシュの岩塩鉱の監督をしていた︒﹂かし私は︑. その二︑三年前から︑すでにハラーとは交渉を持っていた︒幾度か彼のもとを訪れてもいた︒そのたぴに︑彼は私. を親切に迎えてくれた︒それにしても︑今度の訪問は︑ことさらに彼を喜ぱせたらしかった︒彼自身のいうところ. によると︑彼は誰かに会って︑彼の研究していた間題について語り合いたいと︑しきりに思っていたところだった︒. ハラーは私の顔を見ると︑自分の仕事をことごとく中絶した︒おかげで私は︑滞在していた一週問というもの︑. 引きつづき彼と色々話し合うことができた︒その時︑私は二十四才だった︒そして︑︿ラーのようなすぱらしい男. に︑その時まで出合ったことはなかった︒その後にも︑ほとんど出会ったことはない︒この偉大な人間が私に呼び. おこしたのは︑讃嘆とか敬意とかいう程度のものでたく︑ほとんど崇拝に近い感情だった︒彼の思想には︑何とい. 5フ2.

(13) 31. う多様さと︑豊かさと︑深さと︑かがやきとがあるのだろう! ノ 彼の会話は︑火のように熱して︑相手を眩惑し疲れさせるが︑同時にまた︑他の場合には︑愛情に満ちた深い情. 熱が相手の心を暖め︑相手の心を彼の高さにまで高めもする︒彼が自分の優越を感じたとしても︵どうLて︑彼が. それを意識しないでいることがあろうか︶彼はすこしも相手の自尊心を傷つげたりはしない︒彼は相手の反論を忍. 耐強く聞き︑その疑問を一つ一つ解きほぐしてゆく︒彼が断乎たる強い口調になるのは︑話が良俗や宗教を傷つけ るようた間題に触れた場合だけなのだ︒. この一週問の滞在は︑私の魂に︑生涯︑消しがたい思い出を残した︒︿ラーとの会話は︑私の心に︑学間と︑善 なるものと︑誠美なるものへの︑無限の情熱を吹きこんでくれた︒. 夜にたると︑昼の問に彼が云ったことを一人瞑想して︑ノートをとつた︒. ︵ソーシュル︑﹃アルプスの旅﹄︶. 私は心から別れを惜んで︑彼のもとを去った︒われわれの交際は︑彼の余りにも短い生涯の終りまでつづいた﹂. アルブレヒト・フォン・ハラーは︑一七七七年に死んだ︒. ハラーは︑フラソスのビュフォンや︑スウエーデンのリンネや︑スイスのボンネたどと共に︑十八世紀のもつとも. 薯名な自然科学者の一人に数えられている︒ハラーの一生は︑勤勉そのものだった︒彼は︑解剖学︑医学︑植物学な. どにわたって雇大な記録を残している︒詩も書いているし︑道徳的で寓意的な小説まで書いている︒ハラーは︑百科. 全書の幾章かを書き︑同時代のあらゆる著名な学者たちと長い文通を取りかわしていた︒彼の全著作を合わせれば︑. 二百冊を下らないだろうと言われている︒. それにしても︑その中で後世に残るものは︑詩篇﹃アルプスの山々﹄だげたのではあるまいか︒この劃期的な詩. 3 7 5.

(14) 32. は︑その時代に新しい感情をめざめさせ︑アルプスの大自然に対して︑人々の目を開かせ︑山岳文学の最初の動向に. 否むことのできないほどの影を響およぼした︒ハラーのこの詩は︑ルソーのロマンティックな散文の先駆をなすもの. といえよう︒その後︑ルソーがレマγ湖の美しい自然を文学の世界に引き入れたように︑ハラーは︑アルプスの大自 然を︑はじめて文学の世界に引き入れたのである︒. 自然美の伝導者ジャン・ジャック・ルソー. アルベール.ドーザは︑その著﹃自然感情とその芸術的表現﹄の中で﹁自然感情の歴史は︑二つの大きな時代に分. げることができよう︒つまり︑それはルソー以前と︑ルソー以後である﹂と述べている︒自然風景の描写は︑ルソー. 以前の小説にも︑たまにはみられはしたが︑自然風景が小説の中の大きな要素となり︑重要な役割を演じるようにな ったのは︑ルソーにはじまっていることは︑文学史家の一致した意見である︒. ルソーは︑どのような態度で白然に接していたのだろうか? この点については︑桑原武夫氏の明快な次の一文を引用しておこう︒. ﹁ルソーの夢想的性格は︑彼の自然に対する態度をも規定している︒文学のうちに自然をたんなる点景としてでな. く︑愛情をもって眺め︑描くことは彼の創造したところだが︑彼の風景は真の︽自然描写︾というよりは︑むしろ. ︽自然感情︾と呼ぶにふさわしいものであったことは︑注意しておかねぼたらたい︒彼の自然風景は︑行動の場な. いし対象としてではなく︑つねに夢想の場として現われている︒ルソーが自然を愛したのは︑過度に人工的な上流. 社会への反感と単純生活への好みとに結びついているが︑げっきよく人々から離れて︑自然風景の中で夢みる︑し. かもつねに人生を夢みるためなのである︒したがって彼は人跡全くたえた氷河と岩だけの高山の非人問的な風景そ. 574.

(15) 33. のものを好むのではなかった︒サン・プルーは山にも登る︒しかし彼がそこに満足するのは︑山では一一冥想が何と. もいえぬ大きな崇高な性格をおびる︾からであって︑要するに夢想に平地とは異なったヴァリエーシ目ンが与えら. れるからであって︑自然を冷静に観察しまたこれを征服するためではない︒したがってルソーの自然風景は全体的. な場として︑一挙に捉えられているのであって︑そこには細部釣な︑また正確な観察というものは極めて乏しい︒. その風景はだから一種の︽痒箒匝︑ψ昌二つまり内的風景と通じている︒たんなる外的自然ではなく︑情緒的自然な のである﹂︵ルソー研究︑岩波書店︶. 以上の引用によってルソーの態度を知った上で︑彼の作品﹃ジェリー︑または新エロイーズ︒アルプスの麓の小さ. な町に住む二人の恋人の手紙﹄の中で︑自然がどのように表現されているかということを見ていくことにする︒. ﹁自然美の一つの代表である山岳の美しさを発見し︑これを世人に知らせたのはルソーの功積であり︑彼は万年雪. の山嶺が蒼空にそびえ立っているスイスの美しい風景を描きだし︑アルプスのもつ壮大な美を人々に教えた︒彼によ. って︑人々は山を見る眼を開けられたのだ﹂といったルソーに対する讃辞が︑山岳文学を扱った大概の書物に書かれ ているが︑それは︑果たしてどの程度のものであったろうか?. 十八世紀初頭に至るまで︑減多に描かれたことのなかった風景描写への道を開いたのは︑誰かにジャン.ジャヅク.. ルソーだった︒一七六一年﹃新エロイーズ﹄が発表され︑未曾有の大成功を博し︑この小説によって︑山のすぱらし. さが認識され︑当時の時流である感情主義のバツクのもとに︑山が︑文学の中で扱われるようになったのである︒も. っともこの夫作﹃新工ロイーズ﹄において︑山は単に背景として描かれているにすぎないというのが正しい見方であ ろう︒. 575.

(16) 拠. だが︑この小説を読んで︑人々は山の存在に気づいた︒この作品の中には︑アルプスについてのすばらしい表現が. みえ︑この物語の展開の背景となっているレマン湖の描写とともに︑山の精神のようなものが作中に描き出されてい. る︒たとえば︑﹃新工ロイーズ﹄第一部︑書簡二十三のサン・プルーが恋人ジュリーに宛てた南スイスのブァレー旅. 行の記述の中には︑このスイスの谷で︑ルソーが感じとった印象が巧みに描かれている︒. だが︑そこに描かれた風景には︑なんら色彩描写が見られず︑一種の冷やかさのようなものがつきまとい︑月光の. 山々と思わせる︒ルソーの作品では︑色彩に関する語彙はとぽしく︑この点ではベルナルダン・ド・サンピェールの 作品の方がはるかに豊富である︒. ヴァレー地方の自然には︑あまり荒凍としたところがたい︒書簡二十三をみると︑そこには一つの明確な意図がみ. られる︒つまり︑ルソーは︑ヴァレー地方の自然に︑一つの合理的な形象を見出したのだ︒そこでは︑緩慢な地質学. 上の変遷︑つまり︑偶然のままに打ちまかされたものは一つもない︒自然は︑まるで自らを芸術作品みたいに陶治. し︑種々︑巧妙な対照を配置してくれる︒したがって︑ヴァレー地方の自然は︑芸術家を悦ぱせ︑哲学者を啓蒙Lて くれるのだと彼は力説している︒. ﹁東の方には︑春の花々︑南の方には︑秋の果実︑北の方には︑冬の氷河﹂というふうな対照で︒. このように︑あまり荒涼とLていない風景は︑内的な平安につながる背い悦惚へと︑魂を誘う︒﹃新エロイーズ﹄ 書簡二十三には︑次のように書かれている︒. ﹁空気が清く澄みきっている高山では︑下界にいるときよりも︑呼吸が楽になり︑身体が軽くなり︑精神が落ちつ. いてくるということは︑すべての人が︑はっきり観察しているといえないにしても︑感じてはいる印象です︒高山. では︑快楽の激しさは低まり︑情熱はおだやかたものになります︒そこでの冥想は︑まわりの事物の大きさとつり. 576.

(17) 35. あいを保とうとするかのように︑何かわからぬ崇高で偉大な性格と︑どこにもとげとげしいものや官能的なものを. 含まない︑静かな甘美さを帯びるのです︒人々のすみかの上の方へ登って行くとき︑人はいやしい地上的な感情を. 下へ置き忘れてLまい︑清浄界へ近づいて行くにつれて︑魂はその世界のかわることのない純粋さにしみわたって. いくかのようです︒そこにいると︑人には憂うつたところのたい厳粛な気持︑怠惰なところのたい平静な気持にひ. たり︑ただ︑自分が存在していること︑自分がものを考えていることだけで満足するのです︒いっもは︑その尖. った針で私たちを苦しめる激しすぎる欲望は静まって︑心の底には︑軽い†美な感動だけが残るのです︒このよう. にして︑幸福な風土は︑よそならば人に苦痛を与える情熱を︑人問の幸福に役立つようにさせるのです︒こうした. ところに長く滞在していれぱ︑どんなに激しい心の動揺も︑気の病いでも︑きっと治ってしまうでしように︑健. 康によく効き目のある山の空気にひたることが︑医学上︑道徳上の妙薬とされていたいことは︑驚くべきことで すL. したがって︑こんな環境に育った山国の人々は︑必然的に︑高原から︑精神的影響をうげるというのだ︒ルソーの. 感情的社会学によると︑ヴァレー地方の人々は︑旧約の最古の時代︑人間が無垢で幸福な生活を送っていたという黄. 金の時代の国に住み︑周囲の自然そのままに︑原始人の清純さ︑高貴さを保っているということになる︒. さらに﹃新エロイーズ﹄には︑アルプスの山々以外に︑レマン湖の風景が詳述されている︒. 第一部・書簡二十六の︑サγ・プルーが恋人ジュリーとの身分ちがいの結婚をあきらめ︑冬のムイユリの絶壁で絶. 望する劇的シーンは︑第二部・書簡二十七に︑二人の恋が母親に知れたことを︑ジェリーが恋人につげる悲しい破局 の書簡をすでは暗示Lている︒. 一方ジュリーが︑ロシア貴族︑グォルマiル氏の妻となってから住むレマン湖の北岸ヴォー地方の湖畔は︑静か. 577.

(18) 36. で︑ほほえましい筆致で描かれている︒湖の風景こそ︑ルソーが心から愛したものだったのである︒. ﹃織悔録﹄の多. くのぺージには︑彼が︑おそらくヴァレンス夫人を思い出しつつ抱いたレマン湖への憧撮が力強くのべられている︒ ﹃餓悔録﹄︑四章に︑. ﹁世の趣味あり︑感情豊かな人々にすすめたい︒ヴォーへ行き︑その土地を見︑その風景を賞し︑舟を湖上に浮か. べて︑自然が︑この美わしき土地を︑ジ壬リーのため︑クレール︵ジ一一リーの女友だち︑サン.プルーとジ呈リー. の恋の仲立ちをつとめた︶のため︑サン・プルーのために作らざりしや否やを思え﹂と︒. LかL︑ルソーは︑レマγ湖をすぱらしい筆で書いたが︑アルプスの描写は決してすぐれているとは云えない︒ど. う最辰目に見ても︑第一部・書簡二十三のヴアレー地方の山の描写は︑真実の姿を伝えているとは感じられない︒ル. ソーは︑アルプスをよく知らず︑愛Lてもいたかった︒彼は︑モγテスキューのように︑アルブスには無関心だっ. た︒ヴヴェの湖畔に滞在中︑彼はダソ・デユ・ミディを眺めたはずだが︑作品中に︑その名前すらあげておらず︑ま. た︑サレーブの山の名すらあげていない︒一度も実際の登山をしたことがないルソーの作品には一定の地域のはっき りした描写が含まれていないのは当然である︒. 彼は︑また︑イタリアからシンプロン峠を越えて戻る途中︑マジ亘ル湖の小島︑ポルメロ島を賞揚しているが︵餓. 悔録︑一部︑七章に﹁⁝⁝また︑いろいろ見物をした︒なかにもポルメロ島の見物なぞは︑ここに書いておく値打が あろうと思う﹂とある︶︑モンテ・ローザを眺めようとすら考えなかった︒. ルソiは︑一七三三年︑上サヴォアのクルーズで一カ月をすごしている︒そこは︑サランシュ山魂のすぐそばで︑毛. ン・ブランの運峰が聾えているのが見えるところだが︑モン・ブランの光景は︑ヌーヴェル.エロイーズ第四部書簡. 七の作老の自註にある目没の光景位にしか描かれていない︒︵書簡七は︑サン.プルーが親友エドワード卿に当てた︑. 578.

(19) 37. ジュリーとの有名た湖畔遣蓬の描写だが︑その自註に﹁これらの山々は非常に高く︑目没後も半時間は︑陽で輝いて. いる︒白い頂きの上に︑陽光は美しい薔薇色を形づくり︑非常に遠くからでも眺められる︑﹂とある︶この自註で は︑めずらLくルソーは色彩描写を試みている︒. だが︑彼は︑モγ・ス昌や︑ベルγ・アルプスの山々については一行も書いていない︒. すると﹃織悔録﹄の有名な数行を引用Lて︑︵一部・四章には﹁平坦な土地は︑いくら他の美しさがあっても︑私. には︑美﹂い土地のような思われなかった︒谷川や︑岩や︑椴の木や︑暗い森や︑登るにも下るにも骨の折れるけわ. しい山路や・胆をひやさせるような断崖がなければならない﹂とある︒︶駁論を試みる人があるだろう︒. だが︑ルソーが惹かれたのは︑シヤγベリ附近の山であり︑いくらかは荒涼としたところがあるかも知れたいが︑. 絵のように美Lい︑アルプスの緑の裾山だった︒峨々たる︑壮大た︑ほんとうのアルプスの重たりを︑ルソーは眺め たにちがいないが︑少なくとも興味を覚えなかったのである︒. 前述した繊悔録の四章においても︑彼が描こうとしたのは︑山ではなく︑むしろ水だったのだろう︒彼が︑レシエ. ルという断崖からのぞきこむ描写において︑同じ四章に﹁レシェルという断崖から遠からぬところに︑シャイユとよ. ぶ岩を切り通した道路の下に︑何十万年かかって︑その河底を穿つたら﹂い小さな河が轟々と渦をまいて流れてい. る︒⁝⁝私は︑下をのぞいて見て︑快く眩曄を感じることができた⁝⁝﹂と書いているが︑実際︑彼は山の瞼しさで なく︑奔流の流れる勢いに惹きつげられたのだ︒. ルソーは・非情なまでに瞼岨で︑蛾々とした高山を好まなかつた︒真の高山の姿を愛してもいたかったし︑理解し. ようともしたかったようである︒山を旅行しても︑アルプスの自分の気にいった風景しか認めようとLなかった︒彼. の社会学と︑どうLようもない工申コイズムが︑アルプスの風景の神体に近づくために︑余りに大きな障壁となったの. 579.

(20) 580. だ︒しかも彼は︑決してその障壁を越えようとはしなかった︒ルソーにとって︑山は﹁未開の重まの自然と︑開化さ. れた自然のすぱらしい混じり合い﹂︵新エロイーズ︑一部・書簡二十三︶だったのだ︒. また︑彼は﹃孤独なる散歩者の夢想﹄のなかで︑. ﹁スイスは︑いうならぼ一つの大都市でしかない︒広くて長い数々の街路は︑山で切断され︑その問に森が散在し. ている︒そして︑まぼらに孤立して建てられてある家をつないでいるのは︑英国風の庭園のようなロマンチツクな 自然にほかならない﹂ と書いているo. 果たして︑しばしぼ議論されるよ. したがって︑山を︑谷と谷の間の障壁にすざないと考えるルソーのアルプス観は︑﹃孤独なる散歩者の夢想﹂を書 いた晩年まで変わらなかったことになる︒. それなら︑﹃新エロイーズ﹂の舞台に︑ルソーはなぜアルプスを選んだのか〜. それはジユネーブの学老連︑特に﹃スイスの幾つかの地方に関する書簡﹄の中で︑アルプスの自然の中で得られる. だが︑ルソーが山を背景として扱ったのには︑もう一つ別の影響があると考えられる︒. ネーヴの浮薄な都会生活と比較している︒︵﹃新エロイーズ﹂第二部・書簡二十一︶. る攻撃を散文に置きかえたものに過ぎず︑ルソーは︑ヴブレー地方の住民の愉悦や豊かた生活を︑パリーや︑ジュ. れを道徳的に都市と対立させた︒書簡二十三のサン・プルーの言葉は︑事実︑︿ラーの文化杜会の腐敗︑堕落に対す. ︿ラーは︑その著﹃アルプスの山々﹂でアルプス地方の物産︑風習︑地況が︑いかに優越しているかを語って︑こ. らく影響があるだろう︒ルソーとハラーのテーマが同じであることは明らかだ︒. うに︑一部.書簡二十三のヴアレー地方の描写に︑アルブレヒト・フォン・ハラーの影響があるのだろうか? おそ. 鎚.

(21) 鎚. 心の平安を語っているドリュヅク兄弟の影響があげられよう︒サン・プルーの書簡の半ぼ学門的な調子は︑当時の山 の専門書の文体を思わせずにはおかたい︒. ともかく︑彼らが︑. ルソーは︑ムイユリを発見し﹃新エロイーズ﹄の舞台を設定した一七五四年の旅行で︑ドリェヅク兄弟と同行して. いる︒この時︑彼らから︑アルプスのすばらしい魅力について話を聞いたのではなかろうか?. シャモニに旅行するという話をきいたことは確かだ︒その後︑ルソーは﹃百科辞典﹂のために︑彼らに︑シャモニに. 特に︑第一部・書簡十七の湖畔造蓬のなかで︑. っいての報告を頼んでいる点からみて︑そヲ思われる︒﹃新エロイーズ﹄のなかにある︽氷河︾は︑彼らの話からヒ ントを得たのではないだろうか?. ﹁僕たちの立っている背後には︑近より難い岩々の達らなりがあり︑そのむこうに︑氷河︵それは絶えず増大する. 氷の堆積で︑開闘以来︑覆われています︶が重なっています︒⁝⁝﹂とあるのは︑ドリュック兄弟の借用ではなか ろうか?. ﹃新工ロイーズ﹄の根幹にある矛盾の一つは︑︸﹂の小説は︑一見︑アルプスの風景に対して激しい熱狂を示してい. るようであるが︑考察を進めてみると︑実際は︑著者のルソーが︑全然︑真のアルプスに関心がないということがわ かる︒. ただ︑当時の世論は︑この徴妙な問題にきがつかないで︑ジュリーの祖国であるスイスをあがめはじめたのだっ. た︒ルソーは感情豊かな人々の心に涙をあふれさせた︒そして︑云うならば︑それは︑スイスの美しさをたたえる涙 だったのだ︒. レマン湖は︑多くの感傷的な人々の巡礼の中心地となった︒その路筋は二つあった︒一つは︑レマン湖畔をムイユ. リ︑クラーレンスと巡ったあと︑ルエシュかシオン︵ヴァレー地方︶を通ってジャン︑ミ狭谷を越え︑ベルン.アルプ. 581.

(22) 582. スの方に行く路︒その道からは︑ルツェルγ︑バーゼル︑シャフ︿ゼンの方に行く者もある・もう一つの道は︑レマ ン湖畔遣蓬のあと︑フォルクラ峠を越え︑サヴォアのシャモニ至る道だった︒. だが︑多くの才智に富める人々は︑ルソーの感傷的た旅行の道筋をそのままたどったのだった︒. ルソーや︑ゲスナーの田園詩を愛した十八世紀の著述家︑ジャγリ夫人の﹃十八世紀についての覚え書﹄をみる. と︑彼女もローザンヌヘの旅行の途次︑ムイユリの厳を見物するのを欠かさなかったことがわかる︒また︑ルソーの. 足跡をたどったものにプヅフレがいる︒彼は︑﹃母への書簡﹄のなかで︑スイスの客あしらいのよさを賞め︑それを︑ 古代ゴールの民の素朴さに比較している︒. ルソーの﹃新エロイーズ﹄第一部書簡二十三で︑ブァレー人のことを﹁旅行を通じて︑びた一文もお金を払う機会. がなかったほど︑この地方の人々の無欲は徽底していました﹂とあるの同じと思想だろう︒. また︑ブヅフレの同じ母親への書簡のなかで﹁⁝⁝サヴォアの岸辺には︑自然の最も忌むべきものが拡がってい. る﹂とあるのは﹃新エロイーズ﹄の第四部・書簡十七の︑﹁⁝・−貧しい眺めしか提供してくれぬシャンブレー地方. ︵上サブォア︶をさしながら︑僕は︑人民の富と幸福に対する二つの政治の異なった成果を︑彼女︵ジニリー︶に︑. はっきり教えてやりました﹂という一節とい文句こそちがえ︑自由の国スイスと︑十八世紀︑ルイ王朝︑絶対君主制 下のサヴォアを比較した同じ思想の現われである︒. 一方︑サブラソ伯爵夫人も︑また︑数年後︑スイス継走を企て︑アルプスや︑ルツェルン湖に対する激しい情熱を. た最初の接吻の場に︑﹁⁝⁝森の中に入ると⁝⁝僕の手はふる−⁝すぱらしい戦懐︑君の薔薇色の唇が︑僕の雇の上. ジュリーの発見した森の茂み︑︵﹃新ヱロイーズ﹄第一部・書簡十四のブォーでのサン・プルーとジュリーの有名. 書簡集の中に書い て い る ︒. 40.

(23) 41. を覆い︑僕は君を抱きしめたのです﹂とある︶は︑そこを見物にきた人々の踵でふみあらされ︑ムイユリの絶壁︵﹃新. エロィズ﹄第一部.書簡二十六で︑サン・プルーは︑そこで︑恋人ジエリーとの恋を絶望し︑瑳嘆する︒D.モルネ. はムイユリは・ジュネーネブ湖畔︑ジュリーのいるヴヴェの対岸で︑ルソーは一七五四年︑ドリユツク兄弟と共に訪. れていると書いている︶は︑ルソーの名所めぐりの人々のための補装工事でたくなってしまった︒だがマイヤーが︑. その﹃スイス旅行記﹄のたかで︑﹁もし諸君が︑自分自身の心情を味わいたいと思ったら︑クラーレンスに行き給え﹂. とすすめ︑ブリヅソも﹁ジュリーの国﹂を知ることに喜びを感じたように︑﹃新エロイーズ﹄の思い出だげは生き残 ったのだ︒. かくて︑新しい旅行のやり方がきまった︒. 皆は︑新しい見事な筆つきで︑谷や氷河を描くことに夢中にたり︑こぞって﹁ジユリーの恋人があんたにもよくそ. の愉悦を描いている﹂風景のすばらしさを感じるために︑シヤ毛二に旅行するようにすすめている︵ベラγジユの. また︑ルソーの牧歌的田園詩︵﹃新エロイーズ﹄第五部・書簡七︑ぶどう橋みのシーン︶に描かれたスイスは︑実. ﹃旅行談﹄︽一七 八 七 年 ︾ ︶ ︒. 杜会に対する嫌悪を感じはじめた人々の実際上の亡命先となり︑人々は︑己が精神的疲労の救済を求めて︑アルブス の谷の住民の素朴た生活を憧れるようにたった︒. 四囲を山にかこまれたスイスの自然は︑フランスの秩序と平衡への古典的な理想とは合致しなかったが︑山国の人. たちの風習は・古代スパルタやローマの人々の風習と一致しているように思われた︒きびしい山国スイスの禁欲と自. 由の精神こそ︑古代が理想としていたものであり︑十八世紀末の革命家たちも︑その理想を亀鑑としていたのであ るo. 583.

(24) 蜴. 世俗の塵にまみれていない︑孤立した村を探そうとする旅行者でスイスは一杯になった︒かくて︑スイスヘの旅行 は年々盛んになり︑青年たちは︑学業を終えると︑すぐスイスに殺到した︒. スイス旅行のできない人々は︑もっと手近な山に行ってルソーを偲んだ︒アベ.コイエは︑その﹃イタリア.オラ. ンダ紀行﹄のなかで︑一日で行げるフランス・プロヅアγス地方のモン・スニで︑山嶺の﹁美をまじえた恐怖﹂を分. 析し︑サダォアのモーリァン山脈やノヴアレーズ山脈でも﹁ひとは長生きをし︑風習は悪に染まっていない﹂と断言 している︒. また︑ドーフィネにアルプスの美しさを求めようとした人々もいた︒ロージニ・デ.グランジャン夫人は︑ブリア. ンソンからグルノーブルの道をたどり︑荒涼とした口五7附近の谷を内心嬢いつつも︑ルソi的文学教養の上から︑. これを賞揚せずにはいられず︑結局︑山頂の悪口をいい︑谷を﹁黄金時代のすぽらしい住み家﹂とすることで妥協を 試みている︒. ついで︑南フラγスのヴォージュが発見され︑ギベールは︑バロン・ダルザスで﹁この世の涯﹂を見ようとし︑ジ. ロマ呈鉱脈に真のアルプスをしのぽうとした︒同じくサンブラγス夫人はバロγ・ダルザスに登頂して︑日の出を拝 み︑﹁孤独な夢想者の散歩﹂をしたとその書簡集のなかで書いている︒. こうLたルソーの影響は︑さらに大きくなって︑ピレネーにまで及ぶようになり︑後年︑ラモソ.ド.カルボニ エールのような人が出るようになった︒. ルソーはまさに新しい一時代を創造した︒彼はその著書によって︑当時まで知られずに軽蔑されていた風光の荘厳. な美しさの真価を認めさせ︑これを感嘆させるように当時の人々を導いたのであった︒このため︑ある登山家は︑ル ソiを﹃アルプスのクリストフ・コロンブス﹄と呼んでいる︒. 584.

(25) 43. 確かにルソーの影響によって︑山は文学作品の中にも︑談話の中にも語られ︑庭園の中にさえも表現され︑フラン. スの庭園では︑︽自然の崇高な恐怖︾を再現しようと努めるようにたったが︑ルソーが世に知らせたのはうるわしい. 湖であり︑おだやかな山々であって︑白雪をいただくアルブスの古同嶺ではなかった事実を忘れてはならない・一部の. 人たちが云うように﹁ルソーはアルプスに対する趣味を創設した﹂という見解は︑行きすぎのように思われる︒. イギリスの名登山家フレヅシュフィールドも︑その著﹃H・B・ド・ソーシュール﹄の中で﹁ルソーは︑高山から. はいつも︑ほど遠いところにあって︑彼の愛情は中級山岳の眺めに限られている︒美しい自然に対する彼の愛着は︑. 政治的な感情に由来するものであって︑彼は当時の人々の頽廃した状態を打破し︑美しい風光がもたらす高尚で純粋 た趣向に導こうとしたのである﹂と述べている︒. ルソーは荒涼とした自然を人に説いたことはない︒アルプス的寂蓼は︑彼にとってたんら魅力はなかったのだ︒ル. ソーをよろこぱすには︑ジュラのつつましい山頂や︑シャンベリー渓谷のうるわLい山水で十分であったろう︒サン. ト・ブーヴなどもこの説を採用して︑ルソーは︑湖水や︑ほほえましい山小屋や︑果樹園などのスイスの半面しか知. らなかったと主張し︑真の高山を発見した功労をド・ソーシュールにあたえている︒. しかし︑アルプスを発見しなかったことでルソーを責めるのは︑これまたいきすぎであろう︒彼は自然に対する趣. 味の偉大な先駆者として後世に残る人であり︑ルソーが山の感情を文学の世界に導入L︑これを普及する上で大きな 貢献をなしたことは高く評価されるべきである︒. 585.

(26)

参照

関連したドキュメント

 体育授業では,その球技特性からも,実践者である学生の反応が①「興味をもち,積極

大浜先生曰く、私が初めてスマイルクラブに来たのは保育園年長の頃だ

私は昨年まで、中学校の体育教諭でバレーボール部の顧問を務めていま

・沢山いいたい。まず情報アクセス。医者は私の言葉がわからなくても大丈夫だが、私の言

死がどうして苦しみを軽減し得るのか私には謎である。安楽死によって苦

モノーは一八六七年一 0 月から翌年の六月までの二学期を︑ ドイツで過ごした︒ ドイツに留学することは︑

⑥同じように︑私的契約の権利は︑市民の自由の少なざる ⑤ 

真竹は約 120 年ごとに一斉に花を咲かせ、枯れてしまう そうです。昭和 40 年代にこの開花があり、必要な量の竹