文学ゆかりのコーヒーハウス : ドライデンとウィルズ
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(2) 18. 岩切. 正介. ヤードソン や ゴールドスミス、 フィールディンバ、 スモレットなど 市民世界の人々の 姿と道徳を 描く写実的な 小説が誕生した。 これらの文学者の 文学交流は、 コーヒーハウスや 居酒屋に加え、 個人の邸宅や. 別荘、 出版社、 あ るいは共にする 旅や散策などでも 行われ、 文学交流という 点では、. コーヒーハウスはさらにまた 集中性を失うが、 コーヒーハウスが 文学の創造にとって 有力な交流 の場のひとつであ ることには変わりなかった。. また、 コヴェント・ガーデンにはロンドンの. 中心. 的な劇場もあ った関係から、 コヴェント,ガーデンのコーヒーハウスには 俳優もやってきたし、 俳優には自ら 劇作をする者もおり、 コーヒーハウスでの 作家と俳優の 交流は盛んであ った。 そこ には時代を代表する 肖像画家レイノルズなども 顔を見せた。 版画家、 彫刻家、 画家など芸術家も コーヒーハウスに 集まったので、 ロンドンのコーヒーハウスは. 十九世紀初. め. 、 新たに多彩な 賑わいを見せた。. ロマン派 ヮ一ズヮスや コールリッジは 、 主に旅行をし 湖水地方に住んで 自然環境. のなかで文学活動を 行ったので、 都会のロンドンのコーヒーハウスとは. 無縁であ った。 ロマン主. 義の時代を迎えて、 英文学史の主潮流をなす 人々がコーヒーハウスを 離れることになる。 かれら に 続く十九世紀のサッカレー、. ディケンズ、 ハーディ、 テニソン、 ブラウニンバなどにとっても. コーヒーハウスはもう 創造のために 文学仲間と会うところではなくなっていた。 学にとってコーヒーハウスとは、. この時期、 英文. 某作品 に出てくる、 誰が夕食をした、 某が出版の祝いをそこで 口. したなどといった 関係で結ばれる、 いわゆる文学エピソード 的なものに変わってしまう。 ヴィクトリア 期のこうした 関係希薄化の 後、 十九世紀の末にふたたび、. ワイルドやビアズリー. など、 耽美派がカフェ ,ロイヤルで文学・美術の 創造にかかわる 交流をし、 文学コーヒーハウス の 伝統が最後の 光苦を放っことになる。. なお、 十八世紀の初めにスティー ルや アディソンなどが 創刊した新しい 型の新聞「 紙や 「スペク テ イター る. ]. 紙 、 さらに. 十八世紀の初めの 興味あ. [ ガーディアン ]. タ. トラーⅠ. 紙などは、 市民社会が成熟に 向かおうとす. る出来事、 世相、 さまざまな関心事、 道徳、 趣味や作法について、 軽. くエッセ一風に 語る新しい形のジャーナリズムであ んでも話題になるコーヒーハウスの. った。 このエッセ一風のジャーナリズムはな. 盛況から生まれ、 紳士淑女に対して、 放蕩 、 野卑、 享楽あ る. いは暴力に彩られた 王政復古 期 とは違う新しい 教養と洗練された 意見や立場を 提供した。 談話と 討論の世界であ るコーヒーハウスから、 それまでの鈍重でわかりずらい、. ム. 替わって 、 軽い、 滑らかで洗練された 文体が誕生したともいえる。. やたらと凝った 文体に. その散文のもとになったのは. 一世代前に、 コーヒーハウスでさかんに 劇評 詩 評を繰り広げたドライデンが 創り出した近代散文 であ る。 デフォⅠスウィフト、 ジョンソンなども、 この近代散文の 延長線上で、 ジャーナリズ 活動をしてい. 2. く. コヴェント・ガーデン. 文学めかりのコーヒーハウスや. 劇場が集中したのは、 コヴェント・ガーデンであ った。. コヴェント・ガーデンは、 現在のロング・エイカⅠ. 聖 マーティン小路、 ドルアリー・レイン. とストランドなどに 囲まれた地域であ る。 もとはウェストミンスタ 一にあ った 聖 ベーター修道院 0 所領地で、 当初は放牧地として 使われていた。 ヘンリ一八世は 修道院解散 令. (1536年および. 1539 年 ) でこれを取り 上げ、 第一代ベッドフォード 伯爵ジョン・ラッセルに 与えた。 ストラン ド の北側にタウンハウスとして. べッ ドフォード邸を 建て、 その北に当然のごとく 庭園を設けたの. は、 第三代であ った。 1627 年、 営利的な土地開発に 目を付け、 庭園の北にジェントルマン と有.
(3) 文学めかりのコーヒーハウス. 産 の 人 Gentlemen ㎝ dmenof. 19. 仙 Ⅲゆ のための高級住宅群を 建てたのは、 第四代ベッドフォード 伯. 爵であ った。 第四代伯爵は、 イタリア・ルネサンスの 建築様式として 人気の高かったパラディオ 様式を学んで 帰国した イニゴ ・ジョーンズ (1573-1652) を起用した。 中心には、 ほぼ正方形の. 広場が置かれ、 周りに集合住宅が 配された。 正確に言うと、 広場の西側には. 聖 ポール教会を 建て. たので、 三方が住宅群であ った。 完成はチャールズ 一世の御代の 1639 年で、 広場に面する の ) 住宅にはアーケードがつけられ、. 広場はイタリア 風に. ピ アッ. (側. 裏 には各戸それぞれに 馬屋と馬車置き 場と庭がつけられた。. ツァ p 油za と呼ばれたが、 後に、 この ピ アッ ツァ はアーケードを 指す. ようになった。 つぎに直接広場に 面しない地域にも 同様の高層住宅が 建てられて開発計画は 完了 した。 当初は貴族が、 賃料 年 百五十ポンドを 払ってこの流行の 先端をいく高級住宅に 入った。. し. かし、 入居した貴族達は 間もなく、 もっと酉のやはり 高級住宅地として 開発されたセント・ジェ イムズ広場へ 移って行き、 コヴェント・ガーデンは、 おもに富裕市民のすむ 住宅地に変わった。 しかし、 十八世紀の半 は には彼らもほとんど 西へ去り、 かっての高級住宅は、 安 下宿や、 多数の トルコ浴場が 目立つようになった。 下宿にはクラレンドンが「ファニー・ヒル」で. 描いたような. 売春婦が住み、 トルコ浴場で 売春が行われた。 そこでコヴェント・ガーデンを「ヴィーナスの. 広. 場 」と呼んだ者もいる。 1722 年には賭博 場 が二十二軒あ った。 居酒屋、 コーヒーハウス、 劇場 もあ. った。 コヴェント,ガーデンの居酒屋では決闘が 行われることも 珍しくなかった。 兵士を集. める強制徴募隊や 暴漢貴族の一味 モ ホークが 夜 ここを緋桐した。 コヴェント・ガーデンは、 文芸、 演劇から歓楽と 売春、 さらに無法な 暴力と無縁ではない 場所に変わった。 聖 ポール教会前で 開か れる市長や市議会議員の 選挙運動では、 候補者に向かってレンガ や 猫の死体が投げ 付けられた。 それは時代の 風習であ った。 なお、 聖 ポール教会は、 やがて、 「俳優の教会」という だく。 マクベス夫人を 演じて有名な 女優エレン・テリーや 劇作家ウィッチャー. リ. 別名をいた が葬られてい. る。. コヴェント・ガーデンが 居住地として 高級性を失っていくのに 反比例して、 広場で開かれる 市 は 発展した。. はじめの市は 十七世紀中頃 に出現した。 1670 年、 第五代ベッドフォード 伯爵は、. 王政復古のチャールズ 国王から、 コヴェント・ガーデンで、 花、 果物、 根菜、 薬草・葉菜の 市場 を. 開くこと、 商人から使用料を 徴収することの 特許をもらった。 屋台から始まった 市場は、 1678. 年に、 二十二の簡単な 常設店舗になった。 その常設店舗は、 ベッドフォード 邸の塀沿いの 木陰に 、. 地下室付きで 建てられた。 1710 年、 アン女王の時代、 市場は、 まだ高級住宅地の 真ん中にあ 小さな青物市場であ. ったが、. その後ベッドフォード. 邸が取り壊されるとともに、. る. 広場中央近くに. 四十八店舗が 設けられた。 1737 年に、 それまでロンドンで 青物その他を 扱う最大の総合市場であ ったストックス・マ ケット StocksMarket が市長公邸. ( マンションハウス ). 一. 建設のため、 閉鎖移転されたのにともな. い、 コヴェント・ガーデンの 市場における 取引が急増した。 付近住民から 騒音への苦情が 出され. たため、 1748 年、 対処のため店舗が 建て替えられた。. ストックス・マーケットはファリントン 通りへ移転し、 フリート市場と 呼ばれたが、. これも. 1820 年代に閉鎖、 され、 コヴェント・ガーデンの 市場の混雑はますます 収拾しがたいものになり、 1828 年に建て替え 整備され、 以後、 農民、 花売りの 娘 、 果物や魚の呼び 売りなどで賑わう 色彩 豊かな青物市場として、 ロンドンの人々に 親しまれた。 1973 年にこの青物市場は、 ルムズ. ( 旧 バタシ一区。. 現 テムズ河南岸のウォンズワース. 区 ) へ 移転された。. ナイン・エ.
(4) 20. 岩切. 正介. このような歴史をたどったコヴェント・ガーデンには 劇場がふたつ 開かれた。 王政復古後の. 1663 年にドルアリー・レイン 王立劇場 TheatreRoyaIDru り. Ⅳ ぬ ne が建てられて 演劇の中心とな. 、 ジョージ二世の 1732 年に王立オペラ 劇場 RoyaIoperaHouse. 劇場」. ( 通称「コヴェント・ガーデン. CoventG 町 denThea 比e) ができた。. 文学・芸術にめかりのコーヒーハウスはこのコヴェント・ガーデンに. 集中した。 文学関係では. ドライデン め かりのウィル ズ の開店が早く、 多彩な顧客で 賑わった べッ ドフォード・コーヒー ハ ウス が悼 尾を飾る。. コヴェント・ガーデンのコーヒーハウスを. 利用した文人才子や 俳優は、 一時にせよ、 近くに 住. (163年40 間、. む者も少なくなかった。 十セ 世紀に住人では、 劇作家・演出家トマス・キリバルー. また 1661-62)、 画家ピーター・リリ 卿 Ⅱ ly (1662-80)、 同じく画家の ゴドブ リ・ネラ. 卿そleIler. (1682-1702項 ) がいろ。 十八世紀の初め 頃 から、 コヴェント・ガーデンは 芸術家と俳優の 間で人 気が高まり、 ジェイムズ・ソーンヒルはここにアカデミー (1722-34) を開いていた。 劇場支配 人 ジョン・リッチは 1743-60 年の間、 ここで暮らした。 チ ヤールズ・マックリンは 1753-5 年、 サ ミュエル・スコットは 1736-47年、 ともに近くの ド. タ. ヴィストック・ロウに 住んでいた。 リチャー. ・ウィルソンは 174 も50 年の間コヴェント・ガーデンに. 死ぬ. 住んだ。 あ のドライデンが 1686 年から. 1700 年まで住んで い たのは、 コヴェント・ガーデン 西隣のソ一 小一で、 ジェ ラ. ド 通り. 43. 番であ った。 文芸と歓楽のコヴェント・ガーデンの. 西にあ るのが、 聖 マーティン小路と ソ 一ホ一で、 この地. 域に住んだ文人や 芸術家、 俳優も少なくない。 ソーホーは、 もと、 狐 狩りの広野であ ったが、 王政復古後、 チ ヤールズ二世が、 ソーホー広場 を中心とする 地域の開発に. 手をつけた。 ソーホー広場は 少なくとも十八世紀当初まで 高級 地 で、. 貴族などが住んでいた。 ソーホーは、 ルイ十四世に. よ. るナントの勅令廃止. (1685) などでフラン. スから移住した ュ グ ノーが 住み着き、 フランス料理店もでき、 ェキゾ ティックな地域となった。 さらに後にはユダヤ 人も含めさまざまな. 外国人が居住した。. 画家レイノルズはこの ソ一 小一に住んだ。 現在のレスター 広場に面する 家であ った。 ジョンソンの「クラブ」. ( 後に「文芸クラブ」. クス・ヘッド』亭はジェラード. 通り. LiteraⅣ Club と改称 ) が開かれた居酒屋『ター. 9 番で、 このクラブは、 1764 年から 1783 年まで、 毎週. 1. 回開. かれ、 当初からの会員の 一人評論家・ 政治家バークは 37 番に住むようになった。 なお、 この居 酒屋と同名のコーヒーハウスは. 多いが、 ジョンソンのクラブが 生まれたのはコーヒーハウスでは. ない0 3. ウィルズ・コーヒーハウス ウィルズ・コーヒーハウス. WilllsCo. 丘eeHouse. はなによりもまずドライデンの. 本拠地となり. 近代英文学の 出発点となった 場所で、 ついでホープ、 さらにエッセ 一風ジャーナリズムの 祖 ステ ィー ル. とも関係が深いコーヒーハウスであ. ウィルズ・コーヒーハウスは. る。. 、 バウ通りⅠ 番 、 ラッセル通りの 北西側、 つまり 両 通りの交わる. 角にあ った。 コヴェント・ガーデンでは、 東 寄りになる。 王政復古 (1660) 直後、 ウィリア 司. ム ・アーウィンが 開いたものとされ、 看板ははじめ 赤牛 で、 次に バラ に変わったらしいが、 はじ. めから バラ であ ったと言われ、 説は分かれている。 店主の名も、 アンウィンだとする 者もいる。.
(5) 文学めかりのコーヒーハウス. 店主のアーウィンは、 賢人ウィル あ. と 客に呼ばれていたが、. 2. なぜか借金がかさみ、 フリート監獄. るいはニューゲイト 監獄へ入れられるのは 免れたが、 負債者の駆込み 寺であ ったホワイト・. ライア一で暮らすことになり、. Ⅰ. フ. しばらくして、 1695 年に 亡 なった。 " 文人才子の店としてみれば、. 1700 年のドライデンの 死がこのコーヒーハウスのひとつの 区切りといえよう。 アディソンが. ウ. ィルズ の向かいにバトンズを 開いて文人才子を 引きさもっていった 1712-13年がもう一つの 区切. りになるであ ろう。 ウィル. ズ の閉店の時期ははっきりしない。. 当時の出版物や 記録から名前が 消. えるのは、 1730 年代であ る。 カニンガム やホ ウィートリは 1749 年「ウィル. ズ. の西側の月の 建物には俳優バリー S.Barげが住んでいた」としている。 ウィル 年2. 0. のあ ったバウ通り ズ. の閉鎖は、 1749. 前になる、 というのが ホゥ ノートリの説であ る。 3,. 店は建物の二階にあ り、 バルコニーがついていた。 多くの客が入れる 23 に 、 壁を取り除き 二 った 26. 室 をつなげ三つのテーブルを 置いていた。 多くのコーヒーハウスがそうであ 味と職業、 話題で好みのテーブルについた。. に、. 客は興. 客種は姉つに 分けられるという。 それぞれ、 謹厳 ク. ラブ GraVeCIub 、 文人クラブⅦ 町 Oub 、 野次馬に、たまぜ ) クラブ ぬbble と呼ばれた。 謹厳ク 」. ラブは、 真面目で勤勉な 政治家たちの 集まりで、 彼らは議事堂で 活躍した後、 毎夕ここへやって きて「政治家の. 雑炊」を平らげた。 文人クラブはドライデンを 中心にした文人たちの 集まりであ. った。 ごたまぜクラブといわれた 客種は、 その他の一般 客 で、 新参者、 ふりの 客 、 外国人など 雑 多な 集団であ った。 このごたまぜクラブを 作りその中心にいたのがスワン で 頓才の人であ った。 スワン船長は、. あ. るウィッ. ト. が別のウィッ. まぜクラブの 王位を継ぐ者といって 祝ったといつ 。 の 政治家たち、. 4. ト. 船長で、 有名な賭博. 師. に見事な一発を 返すと、 ごた. ウィル ズ で客種がお. ょ. そこの. ょう. に、 貴顕. 文人たち、 烏合の衆、 と三種王様に 別れて歓談するようになったのは、 681 年 Ⅰ. ころからだという。 ,,. マッカ. イ. が 、 『イギリスの 旅行』の初版 (1714) で「観劇の後、 上流社会の人々は 余所よりこ. こを 晶 肩にしてやってきて. 人の姿が見られる。 かれらは気さくに 自由に話す、 うに」 ( 要約 ). 歓談したりする。 青や赤の勲章の 紐や有名. 深夜までピケットをしたり あ. たかも爵位や 身分は家に置いてきたかのよ. と紹介しているのは、 ドライデン死後の 姿であ る。. マコーレイは 1685 年のウィル "衛兵詰所のようだ。. ズ の様子を次のように. ㈲. 描いている。 「…煙草の煙でむ. せ 返り、 警. ここほど喫煙の 絶えないところも 珍しい。 " 多彩な人物にお 目にかかれる 点. では、 この有名なコーヒーハウスが 一番だ。 ". 」. ". ウィル ズ はドライデンと 盛衰をともにしたといえるであ の 偉大な集合所にしたのはドライデン」といっている。. ドライデンがいつからウィル. ズ を使 6. ろう。 ポープも「ウィル ズ を当代文人 8,. 26 になったかは. よ. くわからない。 ドライデンがロンド. ンヘ 出てきたのは、 1657 年であ る。 少なくとも、 ウィル ズ で機知あ る談論をしているドライデ. ンの姿をはじめて 記録しているのは、 ピープスの日記. (1663-4年 2. 月 3 日). であ る。 ㈲「今晩、 家. 内を迎えに行く 途中、 コヴェント・ガーデンの 有名なコーヒーハウスに 初めて寄った。 詩人ドラ イデン. ( ケンブリッジでの. 知り合い. ). しており、 俳優ハリス、 それから我が. とロンドンの 文人才子たち allthe㎡は of ぬ etoWnl が勢揃い ヵ. レッジ出のフール 氏がいた。 時間の余裕がなくて 残俳だ. った。 また来てみるとおもしろいだろう。 ここの談論は、 機知あ ふれ楽しいものと 見受けられた。 時間も遅かったので、 みんな引き上げる. 頃 合いであ. ドライデンがここを 毎日使うようになったのは、. った。. ・‥」. 王政復古の 1660 年からだという 説もあ るが、.
(6) 22. 岩切. 正介. ドライデンの 伝記を書いたマローンによれば、 それは、 王制復古から 十四年ほどたった 1674 年 であ る。 ⑥ドライデンは 午前中は自宅で 仕事をし二時頃 に正餐をとり、 それからウィル ズ にやっ 且re であ った。 田 このコ. てきた。 ドライデンの 定席は、 夏がバルコニⅠ冬は 暖炉のそば bythe. ーヒーハウスで、 ドライデンは、 仲間を相手に 毎晩、 詩、 作詩、 劇および関連の 話題を論じた。 あ. るいは人間と 書物といってもよい。. ドライデンの 見解が述べられると、 取り巻き連中は 心中は. ともかく、 私の意見と同じ、 と唱和したという。 かってエリザベス 朝のべ ン ・ジョンソン. (1527?-1637) が居酒屋『マイタⅡ亭に 君臨したことがよく 引き合いに出される。. ,,) ドライデ. 、ノは 手紙をここで 書き、 また手紙を受け 取って読み、 トンソンのような 出版業者との 交渉. えば 695) やべタ 一トンのような 俳優との演技の 打ち合わせ (1684) もここですませた. 0. Ⅰ. 一トンはこの 時ドライデン 作の『バラナダの 征服. コ. (1670) を演じることになっていた. ( たと. ベタ. 演出家. 0. の トマス・キリバルーともここで 会い、 自分の最新作を 話し合った。 ③. 4. ドライデンとその 文学. ドライデン JohnD. 卍 den. (1631-1700) は、 清教徒の准男爵の 子に生まれた。 イギリス中部にあ. る州 ノーサンプトンシャのオールドウィニクル. 村であ る。 父が死んだとき 年収六十ポンドほどの. 所領地が残されたという。 親類には商人が 多く、 またクロムウェル 支持者が多かった。 ト. 回. ウエス. ミンスター学校を 経て、 ケンブリッジ 大学に学び、 1657 年頃 クロムウェル 政権 下のロンドン. に 落ち着き、. 「インバランド、 スコットランド、 およびアイルランド 護民官、 故オリヴァー 閣下. の逝去を悼む 詩. 」. (1659) を発表した。. 王政復古に際しては、 「アストリーア 帰る一聖なるチャールズ 二世陛下のよろこばしき 帰国と 王政回復を讃える 詩 「. 」. (1660) を書き、 続いて「聖なる 国王陛下に捧ぐ. 一 戴冠式賛歌」. アヌス ・ミラビリス、 すなわち驚異の 年、 1666 年。 ルーパート王子殿下とアルビマール. (1661)、 公爵閣. 下の指揮の下に 戦われたオランダとの 海戦の経過とさまざまなる 戦果について 語る歴史詩。 あ わ せて ロンドンの大火をも. 描く」. (1667) を書いた。. 出発はこのように 政治や社会の 出来事に題材を 取った詩であ ったが、 やがて叙事詩を 除き、 斤. 情詩、 劇、 批評など文学のあ らゆる分野を 手掛けて文壇の 第一人者となり、 十セ 世紀後半の文学 に揺るぎなき. 規範を示したばかりでなく、 次の世紀の文学にも 大きな影響を 残した。. 上の詩に見られるよ. う. に、 クロムウェルを 請 えておきながら、 王政復古を迎えるとチャールズ. 二世を讃える、 という姿勢は 変節というしかないであ ろうが、 後の『演劇論 J (1688) の言葉が あ. るいはドライデンの 元々の立場であ ったのかも知れない。 「内戦のおそ. ろ べき混乱と、. 二十年. にわたって政権 が学問の敵に 委ねられたという 事実が、詩神を王国の 廃嘘の下に埋めたとはいえ、. われわれの幸福の 復元とともに、 蘇った詩神がその 頭をもたげ、 その上に重く 積もった塵芥をす でに払い落としてしまった」. (村上至孝. 訳)。. ドライデンにとって、 1660 年の王政復古は、 文化の破壊者であ る清教徒たちが 去り、 ふたた び学問、 文芸、 演劇が回復するとともに、 幸福も回復した 時代であ り、 自分の活躍できる 時代が 戻って来たのだ、 というのであ ろう。 ドライデンの 作詩の目的は、 直接間接に、 チャールズ二世、 次いで、 ジェ ィ ムズ二世の政治を 助けることにあ った。 ドライデンの 時代の文学者にとっては、. 王を支持するかしないかの 二者択一の立場しかなく、. 中立はあ り得なかったという 状況も考える. べきかも知れない。 政治に当たる 政治家たちはもちろんのこと、. これは、 文学、 文筆活動をする.
(7) 23. 文学めかりのコーヒーハウス. 者にとっても 変わらない時代の 基本状況であ った。 1688 年に栄光革命が 起こり、 王権 は崩れ去 る。 ドライデンはこの 時は節を曲げてはいない。 と 安定、. ドライデンが 胸底で希求していたものは、. 平和. 変わらないものであ ったのかもしれない。 その時、 もっとも好んだ 文芸に専心できるか. らであ る。 ドライデンを 文学界の第一人者にしたのは、. 劇作であ った。. 劇壇の状況はおよそ 次のようなものであ った。 かって 1642 年、 イギリスでは 議会派によって 劇場閉鎖金が 出され、 王政復古まで 十八年間続いた。 とはいえ、 その間、 規制は徹底はされず、 演劇はロンドンの 肉市覚で続けられた。 貴族の邸 館 で行われこともあ ったし、 またコックピット 座 (1658)、 レッドブル 座. ( ジョン・ローズ. 1659 か ) など劇場も開設され、 そこで上演された。. コックピット 座を開いたのは、 かっての王立劇場の 支配人であ ったサー・ウィリアム・. ダ ヴィ. ナントで、 1639 年に王から新劇場を 開く許可をもらっていたのを 根拠に、 1658 年、 ドルアリ ー・レインに 一座を開いた。 そこで上演されたのは、 『ペル一におけるスペイン 人の残虐』 や 『フランシス・ドレイク 棚物吉 き. 』. (1659) などであ る。 そして王政復古後、. から劇団創設の 特許を貰い、 1661 年に、 リンカンズ・インのポルトガル. (1658). ダ ヴィナントは. 王. 通りに新劇場を 開設し 、. ついでソールズベリー・コートの 劇場に移った。 音楽劇中心で、 通称「歌劇場」. theopera と呼. ばれた。 ジェー クスピアなど 古典の翻案を 多く上演した。 王政復古後に 劇団創設の特許を. 得た者に、 もうひとりトマス・キリバルー. (1612-83)がいた。. キリグルーはチャールズ 一世の宮廷の 小姓で、 チャールズ二世の 友達であ った。 キリグルーは 「国王一座」. Klng,sCompany. を率いて、 1663 年まであ ちこちで上演した 後、 1663 年に、 コヴェン. ト・ガーデンのドルアリー・レインに. 建てられたドルアリ・レイン 王立劇場 Thea 比eRoyalDru Ⅳ. ぬ ne へ 落ち着き、 自作を上演した。 内容が王政復古の 快楽追求の風潮をよく. 映し、 不道徳であ. るために人気を 博したとい. かってのエリザベス 朝と ジェームズ一世の 宮廷では仮面劇が 盛んであ った。 これは仮装剣でも あ. り、 はなやかな衣装、 舞踏、 音楽を楽しみ、 比較的短く、 見世物. ( ぺージェント ). わせ持っていた。 内乱からクロムウェルの 時代の経て、 王政復古の時代になると、 ら 初夏にかけての. 季節、 貴族の邸 館. ( タウンハウス ). の性格も合. とりわけ 冬か. での社交や、 劇場へ出掛けての 観劇が貴族. の日常となった。 ふたたび日の 目をみることになった 王政復古期の 演劇では、 フランス 劇 に モリエール. ). の翻案が愛好され 流行した。 王をはじめ王党派の 貴族 達が フランスに亡命. ( とく し、. そ. の雌伏の間、 フランス別に 親しんだためといわれる。 それと並んで、 喜劇、 悲劇、 悲喜劇、 英雄 劇 、 そしてオペラが 上演された。 シェークスピア 劇の人気も根強かった。 チャールズ二世の 特許 を 得て開かれた. 二つの劇場の 舞台がたえず. 作品を求めた。. ドライデンの 最初の喜劇が 上演されたのは、 1663 年であ った。 ついでドライデンは 1664 年の 英雄 剣 『インディオの 女王. 団. で名声を確立した。 この時代ではドライデンが 英雄劇の唯一の 成功. 者であ ったといわれる。 英雄剣とは、 超人的な主人公を 設定し、 誇張した情念と 偉大の行為を 織 り合わせ、 かつ雄弁を披露する。 大 当たりをとりドライデンを 人気絶頂へ押し 上げたのは ナダ の攻略 J (1672 年刊行 ) で、 英雄劇の傑作とされる。. まり宮廷詩人を 拝命し、. あ. 旺. グラ. ドライデンは 1670 年に、 桂冠詩人、 つ. わせて、 王室修史官にもなった。 ともに年金で 報われた。 ドライデン. はこうして体制側の、 そして時代のもっとも 有名な作家になったが、 物静かで、 引きこもりがち で、 全体として喧嘩をさけ 攻撃にも超然としていたと. 言われる。 劇壇人の争いは 避けろなかった.
(8) 24. 岩切. し、. なによりまた、 王党派. ( 旧教派、. 正介. のちのト一. リ. 一派 ) と反 王党派. (新教派、. のちのホイッ グ. 派 ) の対立を背景とする 争いがあ って、 ドライデンは 攻撃にさらされた。 反 王党派 ( ホイッ グ 派 ) の 劇作家トマス・シャドウェルなどはその. 旗頭であ った。 ドライデンもかれを 槍玉にした風刺 詩. (1678年 ) を作って応酬したこともあ る。 時代は、 政治と教会についての 調刺詩 であ ふれていた。 散文のパンフでも、 両陣営の言葉による 合戦が続けられた。 「アフロ. サムとア キトフェル」. (1681) は、 チャールズ二世後継者をめぐる. 争いを背景にした. 政治 調刺詩 で、 聖書の物語に 仮託して、 チャールズ二世の 庶子モンマス 公爵をアフロ サム に、 ホ イッ グ 派のシャフツベリーを ア キトフェルに 見立てた作品であ る。 ドライデンは チ ヤールズ二世 の 意を受け、 旧教の王 弟 ヨーク 公 (後のジェームズ 二世 ) の王位継承が 有利になるようにこの 課. 刺 詩を書いた。 すぐ評判になり、 よく売れたと. レ. Ⅰ. つ. 。. 英文学者村上至孝の 説明に依拠して 語ると 瑚一 アキトフェル. ( シャフ. ツ ベリ伯爵 ) の陰謀はデイヴィッ. 挫折して、 まずはお家のめでたしで 終わり、 デイヴィッ. ド ( チャールズ二世 ). ド の宣言でこの. の奮闘によって. 詩も完結するが、 国王 こ. そ 国家に絶対必要な 心柱であ るという一句は 千釣の重みを 持っ。. 王 とは国家の公けの 柱であ り、 国民の重みを 支えるために 生まれたものなのだ。 もし若いサムソンが 不遜にもその 柱を揺さぶる 詔命を受けたというのなら サムソンは国家もろとも 滅びるがよい。 (村上至孝 訳 ) 1, 954,956 行 ドライデンは 政治的危機を 心配して筆を 取った。 実際の事 T ィ. は 四年後. ( モンマス公の. 反乱 ) が起こるの. (1685) で、 旧教のジェイムズ 二世が即位した 時であ る。 モンマス公は 亡命先のオラン. ダ から南菜に上陸し、. 自分こそ真正のジェイムズ 二世だと宣言し、 プロテスタントの 信仰の自由. を擁護することを 表明したが、 国王 軍 に破れ、 処刑された。 この作品の人物や 話の筋は、 旧約聖書によっている。 思想や表現はサルステイウス ウェルギリウス. (前. (前. 86-35)、. 7 ひ19) 、 その他のローマ 詩人により、 ローマの古典が 血肉になっている 典型. 的な新古典主義の 作品であ る。 ドライデンの 風刺の精髄がもっとも 盛られ、 そしてまた、 天下国家を思う 義憤の熱情が 全編に ほとばしる傑作となった。 たとえばジムライ. ( モンマス派のバッキンガム. この連中の第一列にジムライが あ. 公 ) の性格描写などはじつに 見事であ る。. 立っていた。. まりに千変万化するので. 一人でなく全人類の 縮図のようだった。 意見は固執しいつも 間違っている。 発作的に何でもなるが、. どれにも長く 留まらない。. 月が地球を一回りする 間に 薬屋、 ヴァイオリ 、ノ 弾き、 政治家、 道化になる。 ついで女、 絵 、 詩歌、 酒に夢中になる。.
(9) 25. 文学めかりのコーヒーハウス. 他 に頭のなかで 消えてしまった 千万の酔狂があ る。 いつも何か新しいものを 望んだり楽しんだりして 毎時毎時を過ごせる 幸 多き狂人 一 以上が村上氏の. ょ。. (村上至孝. 訳 ) 1, 544-554行。. 著作に依拠した 説明であ る。. ドライデンの 劇には『バラナダの 攻略』の他に、 尊敬し訪問したこともあ るミルトンの『楽園 喪失』. (1667) を改作したオペラ『人間の 純心と堕罪』 (1674)、 シェークスピアの 改作『あ らし、. 、 魔法の島』 (1667L、 『至上の恋』. ( シェークスピアの『ア. ト. とク. レオパトラ』の 翻案 ). 別題. (1677) があ り、 オペラ『アーサー 王 、. 別題、. された。 他に『ドン・セバスチャン』. (1690L、 悲劇『スパルタの 英雄クレオ. あ. ブリトンの英雄』はパーセルの 音楽で上演 (1691) メ ネス』. (1692). も. る。 二十年間に二十を 越える劇作品を 書いた。 ドライデンには 多くの劇評があ り、 その劇評は機知と 理知をそなえ、 綿密で誠実な 観察と考察. のすばらしい 成果であ るとされる。 これらの劇評は 自作の序としてつけられたもので、 単独で発 表されたのは、. 『演劇毒ぬ J. (1688) だけであ る。 r 演劇論 ] は、 シェイクスピア、 ベン・ジョン. ソ. ン 、 フレッチャ一などエリザベス 朝の劇作家を 扱い、 劇の押韻の是非、 フランスの劇作家なども. 論じている。 清教徒革命とは 文化と学問の 破壊、 王政復古はその 回復という見解が 示されている のは、 この『演劇論』であ る。 カトリックの 王 ジェームズ二世の 王位継承に際してドライデンはカトリックに. 改宗、 Ⅰ 688 年. の 栄光革命によって、 ドライデンが 守りそのために 戦った王政が 倒れる。 ドライデンは 節を曲げ. ず 、 桂冠詩人の地位と 年金を失った。 ドライデンはこの 節目に、 演劇からやや 遠ざかり、 プルタルコス、 オウィディウス、 ウェル ギ リウス (1697L、 ホラティウス、 テオクリ トスの翻訳、 をし、 二人の息子と ユウエ ナリス とぺルシ. ウス・フラツクスの 訳、 (1697) も完成させた。 この翻訳の序文として. 名 評論といわれる『. 訊 刺の. 原型と発達に 関する議論』を 付した。 チョーサ一の 自由な改作とボッカチオの 翻訳からなる『 古 今物語集』 (1699) も出した。 ドライデンの 詩には、 政治風刺 詩 の 他に 、. シ. 「アフロ. サムとア キトフェル」. ャフソ ベリ一弾劾や 共和制批判を 述べた「メダル」. サドウェル とセ トルを 謝 した「マック・フレック / と 約一一三部作形式に. 、ンリア祝祭日の. 歌」. よる. 詩. 」. ウ」. ( 一部は. 1681 、 二部は 1682). (1682L、 ドライデン攻撃の 急先鋒. (1682)、 信仰問題を扱った 寓話 詩 「雄鹿. (1687) があ る。 この四編の代表作の 他に 、 二つの 野 情詩「 聖セ. (1687)、 「アレキサンダーと 祝宴、 別題 、 音楽の力」 (1697). もあ る。. なお、. 雄鹿とはローマ 教会、 豹 とは英国国教会であ る。 これらの詩作品にもドライデン 自身の詩 評 がつ けられている。 ドライデンの 英文学史上の 功績は、 とりわけ散文にあ るようだ。 十セ 世紀後半に今日と 変わら ない散文を生みだしたところから、. 近代英語散文の 父といわれる。 虚飾的修辞がなく、 簡潔で、. 論理が整然とし、 思想が滑らかに 流れ、 平明で明 断 であ るため、 後の散文を書く 者すべて、 つま り. 、 ドライデン以後の 文学者、 批評家、 随筆家、 回顧録作者、 科学者、 思想家、 説教者、 さらに. 政治家などすべてが、 模範とし目指す 文体となった。 次世代のジャーナリストであ るスティー ル や アディソンが 使う散文の模範もすでにドライデンが. 用意したものであ った。 ドライデンの 散文.
(10) 26. 岩切. 正介. では、 劇評、 演劇論が好例だが、 白眉は『古今物語集』の 序文だといわれる。 イギリスでは、 1664 年、 王立学士院に. よ. り英語改革委員会が 設けられたが、. あ. の「日記』で 有名な農政学者 ィ. 一 ヴリンと並んで、 ドライデンも 委員を務めた。. ただ、 近代散文の創出がドライデンひとりの 目 漱石が『文学評論』で 指摘している。. 力. で成し遂げられたものでな い ことは、 古くは 夏. ケンブリッジ 版 『イギリス文学史』. R.C.チャーチル補筆 1970/ 研究社 1977) でもそれは指摘されている。 ッ トソン 肚 chbishopJohn 皿 lotson. 十セ 世紀の後半にティロ. (163件94) などの新しい 説教が起こり、 新散文の創出に 大き. く寄与したのだという。 ティロットソンから 受けた刺激はドライデンみずからが バロウ 1s田cBarrow. (G.サンプソン著、. 認めている。. (1630-77) は古典古書の 引用の多い韻文の 説教をやめ、 はじめて散文を 用. いた説教をした。 それまでの韻文の 説教は、 引用が多いばかりでなく、 脇道にそれたり、 挿入を 多用し、 さまざまな論証で 飾り立てるスタイルのものであ った。 サンダーソン Robert. Saunderson (orSanderson) (1587 Ⅰ 663) 、 サウス RobertSouth (1634-1716)、 キャラ ミ (Be両町打 n) Calamy (1642-86)も神学界に名を 揚げた人々で、 散文を使って 斬新な説教を 行っ た。 このような人々のなかでとりわけ 優れていたのが、 ティロットソンであ った。 散文による 分 かりやすい説教が. 主流になったのは、 ひとつに書き 言葉から話し 言葉への転換があ る。 自然科学. の勃興もあ る。 感動を与えるよりも、 正確に事実を 伝え理性的に 議論するためには 散文が適して いる。 読者人口が増え、 古典古書をあ まり知らない 人々に理解してもらうには、 やはり易しい 散. 文がいい。 難しい引用やかび 臭い書籍を振り 回しては理解してもらえない。 韻文から散文への 転 換 はやはりフランスが 半世紀ほど先行した。 イギリスでの 転換にフランスの 動向が影響を 与えた のであ る。 ㈹. ドライデンは、 評論や物語等では 散文を使ったが、 詩や 劇などの文学作品では 韻文を使った。 十八世紀に韻律法は、 八音節の英雄 カ プレット (英雄 対韻句 また二行連句 ) であ った。 中世にチ ョーサーが採用したもので、 ドライデンはこれに 熟達し、 完壁な技法を 示し、 詩から 劇 まであ ら ゆゆ 6 作品分野で使った。 ただ、 「驚異の年」は 四行 詩 で書かれ、 これと異なる。 カプレットは 次の世代のポープも 使っている。 ドライデンが 文学で取り組んだ 主題は、 現実社会の根本問題であ った。 ドライデンは 当時の典 型的な英国人といわれ、 その作品は 、 新しい文学趣向を 確立し、 英文学百年の 動向を示し、 その 胚 種を宿すもの、 と言われる。 川. このようなドライデンが 毎日午後から 座っていたのが、 コヴェント・ガーデンのウィル った 、 ということを 改めて、 確認しておきたい。 この間およそ. 四. ズ であ. 0 年に近い。 ドライデンは 文壇. の大御所、 英国学士院の 会員であ り、 まわりに若い 有能な作家が 集まった。 出版業者、 翻訳家、 俳優. ( かれの芝居を. 演じた ) 、 英国学士院の 会員ともウィル ズ で会った。 "). ちなみに、 よき英詩人になるにはどうすればよいか、. ドライデンが 語っている. (1685) のは、. つ ぎのような事であ る。. 英語の特質と 微妙を知る必要があ る。 そのために、 まず一般教養が. 欠かせない。 多くの読書が. 必要であ る。 次にすぐれた 英国詩人の作品の 咀 哺が 必要で、 これを我が物とするよう 学ぶことで あ. る。 また、 人間と風俗 MenmdM. ㎝ ners を知る、 つまり英国人とその 習慣、 風俗、 振る舞い. 方 、 考え方を知ることが 大事であ る。 態度の自由も 欠かせない。 最良の男女との 会話も必要であ る。 とくに女性との 会話は不可欠であ る。 学問の過程でつもる 錆をおとすことも 心がけなくては.
(11) 文学めかりのコーヒーハウス. ならない。 それには、 外国旅行で磨くのがよい。. 27. とりわけ、 フランスの批評家や 宮廷、 またイタ. リアの国際的文化社会に 触れるのがよい。 以上が要点であ る。 ただ、 ドライデン本人には、 外国旅行、 外国文化の直接体験はなかっ ノて, jL@IO. 5. Ⅰ. 田. ウィル ズ の文人クラブ ウィル ズ には、 親しい仲間と 時折の訪問者がいたが、 お ょそ 名を挙げれば、 次の通りで、 当時. のイギリス文壇の 顔ぶれがほぼ 揃ってしまう。 スウィフト、 ポープ、 アデイソン、 スティール、 ウィッチャーリ、 コングリーヴ、 デニス、 サ ザン、 ガース、 プライアⅠヴァンブラ、 サ ヴィジ、 シバニワード、 フィリップス、 パーネル、. ティケル、 アーバスナット、 ピープス、 ヒューズ、 ブラックモア、 その他多数で、 影響力の大き さが伺える。 文人クラブ WI 町 CIub とはいうが、 規約もなく特別な 義務もなく、 行儀よく振る 舞 えば だれでも仲間となれた。. デフォーはウィル. 潮. ズ の仲間ではなかった。. 活躍しており、 長編小説. 下. デフォーははじめ 政治・経済・ 宗教の建策や 評論で. ロビンソン・クルーソー. ユ. の執筆など本格的な 作家活動を始めるのは、. 五八歳 (1719) という晩年になってからであ る。 2" デフォーがコーヒーハウスを 訪れるのは、 政 治 党派の現状や 多数の者の政治願望などを 直に知る必要があ る時などに限られており、 文学活動 のために訪れることはなかった。. デフォ一の自伝的資料は 少ないが、 コーヒーハウスやクラブに. 腰を据えるのを 好まず、 劇場、 舞踏 場 、 トランプなども 嫌いで、 文学仲間や社交界の 外側に いた らしい。 アウトサイダ 一だったともいえる。 デフォーは、 時代の観察者であ ったのに、 なぜかコ ーヒーハウスには 関心が薄く、 数百におよぶ 社会,経済・政治の評論や 改善案でもコーヒーハウ ス はまったく取り 上げられていないという。 材. スウィフトは 学友コンバリーヴによってウィル. ズ の文人クラブに. 紹介されたが、 仲間とはなら. なかった。 崇拝や追従はスウィフトの ,性格ではなかった。スウィフトがアイルランドからロンド ン ヘ 出てきたとき、. ウィルズ、 バトンズ、 スミルナの他に、 シティのコーヒーハウスを 利用した. が 、 もっともよく 利用したのはセント・ジェイムズ・コーヒーハウスであ. った。 ㈲この頃 、 スウ. ィフトは政治の 志を抱いており、 下宿も政治の 中心に近いところに 置いていたからでる。 ポープはスウィフトと 違い、 文学の帝王ドライデンに 認められることを 願っていた。 ポープは. 進んでこの世界へ 入ってきた。 それがいつのことか、 また紹介者が 誰であ ったかは正確には 分か らない。 本人の言葉では「十二歳の 時、 私はドライデンと 会った く覚えている。 当時、 すっかり尊敬し 仰ぎ見ていたので. よ. (見た ) 。. ドライデンの 顔はよ. く観察したからだ」. ( スペンスに語る ). だが、 場所は述べられていない。 騰 十二歳の時とは、 ドライデ "ノが 亡くなる 午 (1700) であ る。 他方で、 「私は不幸にもドライデ "ノを 知りそこなった。 もっと早く生まれていれば、 を 知り、. 学んだだろう」. 自分はウイッチャー. リ. (1704 年ウイッチヤ. 一リ. への手紙. と言っている。 ポープはスペンスに、. ). に犬ころのようについて 歩いていた、 語っている。 このウィッチャー. ポープをウィル ズ の文学界へ導きいれたのかもしれない。. リ. が. また、 ジョンソンによれば、 ポープは. 十七歳 (1705) で自ら文学を 論ずる資格あ りとして、 ウィル そくしかるべき. ドライデン. ズ. に出入りし始め、 早熟なのでさっ. 位置を占めた、 となる。 さらに、 ウォウガンは「ポープを 神童としてウィル. 連れて行きドライデンに 紹介した」という。 他に、 紹介者はクロムウエル. (あ. ズに. のクロムウエルの.
(12) 28. 岩切. 遠縁の文人. ). 正介. とする説もあ る。 ポープがウィル ズ を利用していたのは、 1713 年頃 までであ った. ようだ。 「以双のように、 われわれは静かにすわり、 日. (1713 年 10 月 17. 批評し、 コーヒーを飲む」. カリル 宛 手紙 ) 。 ウィル ズ でポープはたばこの 煙のただなかに 座り、 手紙の授受し 、 認めもし. た。 たばこの匂 いは ポープに頭痛を 起こさせた。 強健でな い ポープには深夜に 及ぶことも多 いコ 一. ヒーハウス生活を 長くは続けられなかったようだ。. クロムウエルに 手紙で「ロンドンから 田舎. へ、 ウィル ズ からウィンザ 一の森へ」河岸を 変えた、 と述べている。 ,,). アディソンはオックスフォードのクイーンズ. の作品を送り、. 学寮にいた頃 にロンドンのドライデンにいくつか. 劇 『カト一』の 草稿も見てもらい 判断を求めていた。 いつ実際にウィル ズ の文人. クラブに加わったかは 不明だが、 ドライデンの 死ぬ 1700 年ょ れる。 26)アディソンは 、 バトンズ ヘ 移って (1712) 後も、. 『. り. 前であ ることは資料で 確かめら. タ トラー』組や『スペク テ イター』. 紙の執筆者として 古巣の取材もした。 スティー ル は、 1700 年より前からウィル ズ の一員で、 ドライデ ノと 、 ブラックモアとの 間の論 手 にも加わった。 その当時のスティー ル は、 近衛連隊の将官であ った。 スティー ル は、 1708 年、 『宗教の振興と 礼儀作法の改良の 計画』を出版する 前にウイルズの. て 賛同を受けている。 やがてジャーナリストとして. 活躍するスティー ル は、 文字どおりコーヒー. ハウス才子となり、 ロンドンの多くのコーヒーハウスに 繋がりの深さでは、. ウィル ズ よりセント. スティー ル は 1709 年『. タ トター』. 文人達に示し、 読んでもらっ. 出入りし全般の 事情に. よ. く通じていたが、. イムズ・コーヒーハウスやバトンズであ. った。 27,. 紙 第 1 号 4 月 8 日付けの記事で「ドライデン 氏がいた頃 とは. 大変な様変わりであ る。 当時は 、 客の誰もが、 詩文、 エピバラム、 風刺を手にしていたものだ。 表現の妙、 文体の優雅といった 問題を論じあ っていた。 現在は違う。 いま客の手にあ るのはトラ ンプの 札 ばかりであ る。 学 あ る人々が論ずるの 勝負の勘所のみ」と 述べている。 棚. 同号 4. 月. 12 日付けの記事でスティー ル は 、. 『. タ. トラー』紙の 紙面構成の枠組みを 読者に示した。. 「色恋い、 娯楽、 催し物に関するすべての 記事はホワイツ・チョコレートハウスよりとする 欄に まとめ、 文学関係の記事はウィル. ズ よりとする欄にまとめ、 学術関係の記事はバリーシャンより. の欄に収め、 内外ニュース 記事はセント・ジェイムズよりとする の 記事は 、 我がアパートメントより、. 欄に書くことにする。 それ以外. とする」,9,。 これは取材源を 述べているのではなく、 今で. 言う政治面、 経済面、 社会面、 文芸面、 スポーツ面など 紙面構成の説明であ る。 スティー ル の 趣. 向は 、 ロンドンの代表的な 四つのコーヒーハウスの 話柄にあ やかろうとしたものであ った。 した虚構のもとでスティー ル は、 1709 年 4. 月 7. 日から 1710 年 12 月 31 日の間、. 『. タ. こう. トラー』紙に. ゃ. ィルズ よりとする欄の 記事を六十ほど 書いた。 『. タ トラー』. 15 号 (1709 年 5. 月. 14. 日). は「以双なら、 芝居を見たあ と、 我々はここに 座って. 芝居をあ れこれ論じ楽しい 時を過ごしたものだ。 しかし、 今、 楽しみは違うものになった」と. 伝. える。 これは事実であ ろう。 ⑥ ウィッチャーリ. (1640 頃 -1717) とドライデ ノは 、 親密な関係にあ った。 ドライデンは、 ウィ チ. ャ一リを 「親愛なる 友 」と呼び、 「愛している」と 語り、 モ イル宛の手紙. ). 「あ の 肱掛 椅子を譲ってよい」. といっているほどであ る。 他方、 ウィチャー. リ. も、 ドライデンを「尊敬してい. た 友 」と語り、 私の記 ,ほがなくなっても、 彼への思い出は 残る、 と述べている。 リ. (1695 年. 甜. ウィッチヤ 一. にとってウィル ズ はお気に入りのコーヒーハウスであ った。 ここで彼は 1704 年に、 当時の習. 慣に従い、 長い詩の原稿を 仲間に示し、 意見を尋ねた。 ウィッチャー. リ. は仲間の批判の 続出に意.
(13) 文学めかりのコーヒーハウス. 29. 気 阻喪したが、 原稿は直さず、 仲間の批判を 載せた序をつけて 出版した。 ". ウィリアム・ウィッチャー. リ. は、 もともとフランスで 教育を受け、 フランス劇を 見て育った 劇. 作家であ った。 ただ、 劇作の期間は 短く、 処女作が 1671 年、 最終 作 でかつ最高の 傑作、 喜劇 『正直者』は 1676 年の作であ る。 ドライデンにもっとも 2 く迎えられ、 親しんだ女人がコンバリーヴであ ニ 一歳でロンドン ヘ 出、 足繁く酒場とコーヒーハウスに. った。 かれは 1691 年、. 通った。 ドライデンとはお ょそ 十年をと. もに過ごした。 サザンをドライデンに 紹介した。 このサザンがコングリーヴと 並ぶドライデン 最 側近と い えた。 コングリーヴは 、 他に、 モイ ルと 仲がよかった。 ," コングリーヴの 作品目には、 喜. 劇. 『二枚舌』. (1693) があ り、 ドルアリー・レインで 上演され、 風俗喜劇『浮世の 習い』 (1700). は、 リンカンズ・イン・フィールズの 劇場で上演された。 ウィル ズ でサザンはいつもドライデンの. ンに目をかけられていた。. 左側にすわった。 コングリーヴとともに 特にドライデ. ドライデンはかれの 作品に序や結びを 書いてやった。 ちなみに別に 序. や 結びをつけるのは 当時の習慣であ った。 内容は一種の 解説であ った。 サザンは逆にドライデン. から『クレオ. メ. ネス』の 査 読や最終幕の 執筆を依頼された。 ただ、 サザンはコーヒーハウスに 向. いていなかった。 コーヒーハウスはうるさく 虚栄に満ちており、 そのような場所で 文学の時事間 題や基本問題を 縦横に論じるのは 苦手であ った。 コーヒーハウスで 無意味に時間を 費やすかわり に 家で仕事をしそこで 友と 語らうことを 好んだ。 ". 建築家で庭園も 手がけた多才のヴァンブラ. (1664-1726) は、 『堕落、 別 題 、 美徳 危し. 』. (1698). という喜劇で 成功し劇作家としての 名声もあ った。 風俗喜劇を作り 出したのは、 ジョージ・エサリッジ 卿 (1634?-1691) で、 1676 年の『伊達男 フォプリンバ・フラッター. 卿 』はその傑作であ る。 リチャード・セドリー 卿 (1639?-1701). の. 喜劇も上演された。 なお、 ファーカー (167も 1767) には、 いずれも当世風俗喜劇であ る『 酒と倒 (1698)、 官. 』. 『徴兵. (1705)、 『しやれ者の 策略』 (1706) があ る。 ファーカーはアイルランド 生まれの軍人であ. っ. た。 オトウェイはドライデンに 次ぐ悲劇作家であ った。 この二人はウィル ズ の文人クラブの 一員 ではなかったが、 十五編の劇を 書いた女流作家 べ一ン 夫人はウィル ズ に出入りした。 『な子機』 (1687). 文人にウィル. の前書きで べ一ン 夫人は述べている。 「…この芝居の. ズ で思い切りけなされました。. どすばらしい 喜劇は初めてだとおっしゃ. つ. 初演が終わった 夜、 あ る. その方は私のお 友達で、 前に読まれたとき、 これ ば たのに」。 ",. " 高く評価し、 その影響を受け、 ドライデ ノ " デニスは学識の 深い批評家であ った。 ドライデ ノを. と似た文学観を 抱いていた。 ウィル ズ に出入りする 前からウィッチャー. リと. 文通をしていた。. 1685 年頃 、 ウィル ズ の文人クラブに 加 った。 ドライデンとはケンブリッジのトリニティ. 学寮の. 同窓なのですぐに 親しくなった。 深く広い学識に 基づいて、 当時論争の自りとなったさまざまな 文. 学問題を扱うことができた。. ドライデン、 ウィッチャーリ、 コングリーヴなど 文人クラブの 面々. と交わした書簡集からは、 ウィル ズ で論じられた 文学と芸術の 問題、 当代作家や古典作家の 話 な どの一端が伺えるという。 甜 ドライデンはデニスを「ピンダルス ローより 上 」と評価していた。. 風 オードの名手の 一人」で「ペ. フランスの ぺ ロ ーは 、 いわゆる新旧論争の 火元となった 作家で、. 古典作家より 現代作家のほうが 優れている主張した。 フランスでそれに 味方をした者はフォント ネルなどで、 ウェリギリウス や ホメロスなど 古典作家のほうが 優れているとこれに 反 3 才したのが.
(14) 30. 岩切. 正介. ボワローやラシーヌであ った。 ドライデ 、ノは 現代作家のほうが 優れているという ペロ 一の主張に 賛成であ った。 ただ、 フランス作家かイギリス 作家か、 という優劣論では、 ドライデンはイギリ ス 作家が優れているとした。. デニスはドライデンの 死後に起こったドライデン. 批判に対してドラ. イデンを擁護した。 ポープの名声が 上がることに 対抗したのは、 ドライデンの 影が薄くなること を 警戒したためだったのかもしれないともいわれる。. 医者・作家のガースにとってドライデンは. から学ぶことができるものすべてを ィ. 文学の師であ り、 文学の才能あ る青年がドライデン. 学んだといわれる。 ガースはドライデンを 深く尊敬し、. デ シ の死後も感謝の 気持ちを忘れなかった。. 弔辞を読んだ。. 3,). ドラ. ドライデンの 葬儀ではラテン 語で書いた感銘深い. 謝. 文人クラブには、 ウォルター・モ ノル などの学者もいた。 モ ノル はオックスフォードの 出身で、 政治家にもなった。 筋金入りのホイッ グ で、 ウィル ズ では常連中の 常連であ った。 文学も好み、 翻訳も出版した。 ドライデンは、. モイ. ライデンの他にとくにコンバリーヴと モ ノル が文人クラブにやってきた. ル の広い学識と 的確な判断をほめていた。 モ ノル はこのド. 仲がよかった。 コングリーヴから モイル に宛てた手紙には、. 当初の事情が 記されている。 「君がウィル ズ に来たいとのこと。. 我々は大歓迎。 謹厳クラブの 親分からごたまぜクラブの 小者まで。 みんな君のことを 考えたりし ゃ べったりしている。. ぜひとも 来 きたまえ。 全員歓迎」. ( 要約 ) 。. ,。) 文人クラブには、 控訴裁判所. 長官のマーリ、 主席司祭のロッキ ァ 、 ファウンテーン 卿 、 ウォウガン卿もいたし、 ポープの友人. で伊達のクロムウェル、 俳優のべ の 挿話を語っている。. 「. タ. 一トンなども 数えられる。 ロッキ ァ はドライデ、ノ との出会い. 十セ歳 (1685) でロンドン ヘ 出た。 ときどきウィル ズ に潜り人んだ。. ょうど二度目のとき、 ドライデンが 最新作「マック・フレック 雄 対句で書かれた 最初の風刺 詩 で、 その分自負あ. ノウ. ち. 」について語った。 これは 英. り、 とおっしやる。 自分はそこで 勇を奮って口. を切った。 『でも、 初めてではない』。 そしていくつかの 例を挙げた。 ドライデンは 、 「そうだ。 忘れていた ] といった」。 。0)ヘンリー・クロムウェルは、 イギリス革命を 成し遂げたオリヴァ. ー・クロムウェルの 遠縁で、 ウィル ズ の大物すべて、 とくにデニス、 ウィッチャーリ、 ポープ. と. 親しく、 ドライデンの 嗅ぎたばこを 一つまみもらうという 栄誉にも再姉あ づかった。 機会詩を書 き、. オ. ヴィディウ. ス. の翻訳をした。 女性関係も賑やかであ った。 かれの時間は、 女性 達 、 文学、. 観劇、 批評、 週刊誌、 コーヒ一の吟味、 ブラジル産の 嗅ぎたばこの 吟味などに 費 された。 ポープ よ. り三十歳も年上であ ったが、 仲が. の 多くはドルアリー・レーン. よ. く、 ポープからたくさんの 手紙をもらっている。 その手紙. 近くのハンブルトン 未亡人のコーヒーハウスに 届けられた。 叫かれ. はここの常連でもあ った。 42)のちに身を持ち 崩してコーヒーハウスを 去るティドカムは、 クロム ウェル. と. ポープの友人であ った。 ウィル ズ には劇作家のチャールズ・ジョンソン、. 者トンソン ウィル. や. リントッ. ト. 大物の出版業. の顔も見られた。 ドライデンの 作品の出版を 引き受けていたトンソンは 、. ズ の常連達の作品を. 出版した。 鋤. サミュエル・ピープスは、 日記によれば、 1663 年から 68 年までウィル ズ に足を運んでいる。 ドライデンはあ る時やってきたピープスに「わが 先生」なる尊称を 奉ったという。 ピープスが 通 った 回数ではマイルズが 一番多い。 何ただ、 日記などを見る 限り、 ピープスの足はコーヒーハウ ス より居酒屋に 向かう方が多かったように 見受けられる。 セドリはエサリッジの 後継者ともいえる 喜劇作家であ. たが、 セドリがウィル. ズ の常連であ. った。. ったかどうかはわからない。. このセドリ と ドライデは親しかっ. ドレイデンは「われわれはすば.
(15) 31. 文学めかりのコーヒーハウス. らしい. タ べを幾度もすごした。. 話は堅すぎず. かった」と述べている。 喜劇『本当の ドライデン. と 中心とするこの. 寡婦』. 軽すぎず満足いくもので、 啓発されるところが (1678) をこのセドリに 捧げている。 。". 文人クラブでは 何が話さ ね たか。 デニスの書簡 集. 除き、 具体的な記録はほとんどないが、. 大き. 話題は無尽だったものと. ( 前出 ). などを. 思われる。 ドライデンの 新作や. 仲間の新作。 新刊書。 文学の基本に 関わる問題、 個人的な問題。 古典文学と近代文学、 とくに ぺ ロ. 一の提出した 新旧論争はイギリスでも 格好の話題であ った。 姐 上に載せ、 吟味し、 意見を言い. 合う。 ここでの議論は、 今日の新聞・ 雑誌の役割をはたしていた。. ドライデンは 自作について 言. われたことを 序に盛り込んだ。 異論、 異議はさまざまな 文学論に生かされた。 それを綴った 彼の 散文はイギリスの 近代文の模範となった。 総じてここの 対話は、 文学趣味の確立と 洗練に役立っ たといえよう。 コングリーヴによれば、. ドライデンは 誰も認める帝王であ ったが、 近づくのは容易で、. ドライ. デンは、 気軽に自分の 考えや知識を 伝え、 また同時に仲間に 語らせ、 自作への批評に 耳を傾けた 大 であ ったという。 。6. 6. 椰 楡の紋様. (椰 楡の描くウィルズ ). 皮肉や椰 楡 、 批判もまた真実を 語ってくれる 貴重なものであ る。 エドワード,ウォードが『ロンドン探索』 (169も1700 、 合本 1703) で描写するウィル. ズ の現代. 詩人、 当時のいわゆる 文人才子たちの 姿もそのひとつであ る。 二階へ いく 。 全室に、 小難しいことにはだんまりを. 極め込む大勢の 人 (mo ㎡ ngcrowdof. pMosop Ⅲ calmuts) 。 かきわけて向こう 端の三、 四人の上等なウィッ. ト. のところへ行って. み. る。. ローマの詩人、 現代の詩人を 順にあ ら捜しをし、 けなす。 それで学識を 誇示する。 彼らは、. いくらかの学識、 貧弱な判断力、 劣悪な才気、 思い上がり、 たっぷりの意地悪の 合成切。 本 人の業績でなく、 他人の失敗や 欠点で名を売る 輩 。 知識を得るより 欠点を探すために 読む。 意味より綴りや 句読点を重視。 大袈裟な抑揚、 気取った口調で 読む。 説明でかえって 難しく する。 話しは迷路のように 始まり終わりも 分からない。 不明な言葉で 煙にまく。 本来の批評 とは筋違い。 ローマ時代の 批評は、 歴史家、 詩人、 哲学者などの 著作のよき点を 一般の人に 伝えるのが役目だったものだ。 だった。 他の卓にドライデン. あ. らゆる学問の 真実 姓と 有用性を世間に 示すことがその 役目. と 若い取り巻き。. たばこを一つまみもらえる. 二流のしゃれ 者と才子。 かれらはドライデンの 嗅ぎ. 名誉にあ づかれば、 詩神の霊感を 得て詩が書けると 思っている。. ときには、 自作を披露しあ う。 題材、 詩想、 韻律ともすばらしいとの 思い人れだが、 重症の 憂麓症 の 者 すら大笑いするようなおかしな. 代物。 ". ただ、 皮肉屋のウォードにとってドライデンは 別格であ. る0. ドライデンの 葬列をチャンスリ. 一 ・レイン・エンドに 立って見たことが 記されており、 ドライデンを、 偉大な学者の 一人、 最た る. 模範の劇詩人、 英雄詩の最良の 書き手で、 英国文学史上随一の 人物だと称えている。. 「学識は. 深く広い、 詩想、は崇高、 想像力は力強い、 才気は無双」で、 「ピンダロス、 ホメロス、 ウェリ ギ.
(16) 32. 岩切. 正介. リウスがいる 遥かな 境国 に行ったのだ」と 語っている。. スウィフトははやばやと 顔を背けた。. 「ウィル ズ. 穏). での文学談義とは、 自分が聞いたなかでもっ. とも低劣な会話であ る。 つまらない作品を 種に会話をする。. ちっ. ぼけなことをもったいぶった. 身. 振りで、 さも人間の高貴な 活動であ るかのように、 王国の運命が 自分達のかかっているかのよう に 語る。 学生達はそれが 人の生き方、 文学、 文学批評だなどと 思ってしまう。 学生は下らないこ. とで頭を一杯にし、 自分のやっている 法律や哲学など 学問を軽蔑する 気持ちになって 引き上げて 行く」. ( 「会話について」要約. という。. ). 卸. 「詩によせる. 狂想曲」. (1733) では、 こう皮肉っている。. 「詩を出版したら 翌日は必ずウィル ズヘ 行って、 人目につかず 座って批評を 聞くようにも 連中が. 着をバカ愚かと 言い、 君の考えを低級で 取るに足らないと 言っても、 黙っていて まなくてならない」. 搬 。 取り巻きばかりでなく、 スウィフトにとってドライデンも. ロ の唾を飲み込. 好ましくない。. ドライデンとは、 スウィフトが 蔑み哀れむ人間であ る。 スウィフトには、 若い頃 ドライデンに 言われた「詩人になれないぞ」。Cous ㎞ Sw 五 , you ㎡ l1 neVe. 「. beaPoet,. という言葉が 忘れられなかったのかもしれない。. "). ウィル ズ で君の詩が読み 上げられる. 卓の主席にはバットス * が陣取り. 肘掛け椅子に 寄りかかり 断定調で判断を 下す 取り巻きのウィッ 神託でも. う. ト. たちは. けるかのような 神妙な様子. バットスはロンドンに 指令を出す. この詩は崇めよ、 * バットス. :. あ の詩はけ. なせ 、. と. ( 三浦 謙訳 ). ギリシャ神話。 ヘルメスがアポロの 牛を盗むのを 見、 それを漏らさないように 約束するが、 破ったため石に 変えられた百姓. X,情詩や風刺物語誌に 優れたマシュー・プライアー. 余. (1664-1721)と友人のチャールズ・モン. タギュ もウィル ズ の文人達を潮った。 「そこには、 坊さん、 しゃれ者、 詩人がいて、 コーヒーや 茶を畷. り、 愚にもつかない 奇妙な推論や 理由づけを展開する。 ドライデンがフランスのコルネイ. ユやラ パンから借りた 詩学の法則を 語ると、 足下の者共は、 ドライデンのいうことはいっも 間違. いがない、 その通りと崇めるのだ」②. ( 共作「都会と. 田舎ねずみの. 話」. (1688)要約。 この作品目. 体が ドライデ 、ノの 「雄鹿 と豹 」の戯作であ った ) 。. 当時もっとも 当たりをとった 戯作、 バッキンガム 公の『舞台稽古』 (1672) でも、 ウィル ズ の 文人たちが 椰楡 されている。 がなにか言うとすぐ. 「ウィル. ズ の詩人達は 、 空っぽの頭でウィル. ズ. にやってくる。 誰か. 拾い上げて我がものとする。 自分の脳みそは 使わない。 ホ をみて、 セネカや. ホラティウスなどの 言ったこと、 それから人々が 彼らについて 考えていたことが 分かると、 二つ 三 つ 言葉や句を省き、 かわりに自分の 言葉を入れる、 するとたちまち 詩が出来上がるのだ」 約)。. 瑚. (要.
(17) 文学めかりのコーヒーハウス. 33. ドライデンへの 攻撃は文学以覚の 分野でも見られた。 カーライル司教は 1686 年、 それから 87 年、 ドライデンの 宗教やスチュアート 王朝に関する 立場を非難した。. 甜. ポープによれば、 ドライデンは 宮廷の貴族文人と 長い付き合いがあ ったという。 彼らは酒好き で、 好色な 詩と 喜劇を書き、 宮廷からコーヒーハウス ヘ 行ったり来たりする 陽気な一群であ った。 バッキンガム 公 、. ドーセット. ィ白. 、 シドニー 卿 、 エサリッジ 卿 ( 前出 ) 、 ロチェスター 伯などで、. 放蕩 、 ,快楽、 機知を楽しむ 点で共通していた。 1679 年、 マルグレイヴ 伯 ( ドライデンの 庇護者 ) が 匿名で書いた『 諏刺 評論』をドライデンが 書いたのだと 誤解し、 自分およびポーツマス 公爵夫 人が 噺笑 されたとして、 三人のならず 者を雇ってドライデンの 帰路を襲わせたのは、 このうちの ロチェスター 伯であ る。 " はじめドライデ "ノ とは仲が良かったのに、. ドライデ ノ " ばかりが劇作で. (1733). 成功し名声が 上がるのを妬んでのことだという。 " ただ、 ヴォルテールは『哲学書簡』 で、 ロチェスター 伯をほめ 、 長い「人間に 対する風刺 詩 バッキンガム 公. ( ホイッ. 」. (1675) をたくみに翻訳紹介している。. グ 派 ) は、 ウィル ズ で毎日ドライデンを 攻撃した時期があ ったという。. ドライデンから、 おどけ者でいかさま 師 、 といわれたからであ った。 喜劇『舞台稽古』の 作中に ドライデンを 登場させ、 登場人物のひとりに 向かって「自分がウィッ. ト. 達のコーヒーハウス ヘ行. くのは、 剰 窃の術を磨くためであ る」と言わせている。 5,. 医者で作家のブラックモア 卿もドライデンを 攻撃したので 有名であ る。 ブラックモアは 諸方の コーヒーハウスをよく 利用し『アーサー 皇子』十拳 (1695) の大部分をコーヒーハウスで 書いた。 ドライデンとの 仲ははじめ良かったが、 ト. を 楓す. 』. あ. るときドライデンに 批判されたことを 怨んで『ウィッ. (1699) を書いた。 ウィル ズ の文壇潰しが 目論まれており、 これほどウィル. たちを怒らせたものはないという。. ブラックモアは「ウィル. ズ. ズ. の文人. は粗野と不信心の 場で、 疫病の始. まったところ」と 断じた。 ドライデン、 ガース、 スティール、 セドリがそれぞれ 反論を書いた。 この争いは、 ドライデンの 死で終わるが、 トム・ブラウンの 音頭取りで、 ブラックモアへの 反撃. の意味を込めて、 ドライデンを 称える追悼エピバラム 集が出された。 名を連ねた人々は、 ガース、 スティール、 セドリ、 モイル、 デニスの 他 多数に上った。 " 7. ジュリアンの 商売繁盛. ところで、 ウィル. ズ. を根城にパンプレットの 複写販売という 商売を行い、 非常に繁盛もし、. ろ 儲けもする、 といったことをした 人物がいた。 もと雑貨商のジュリアンという. ぼ. 人物であ った。. 1679 年に出版物検閲条例が 廃止されると、 ロンドンにパンフレット 類がどっと出た。 イギリス が 許諾、 攻撃、 暴露文書の最盛期を 迎えたといえる。 もともとウィル. ズ. には以前からあ らゆ 6 種. 類のパンフレット 類が揃い、 多くのひとがこれを 読みに来ていた。 1679 年を境に他の 有名な 一. コ. ヒーハウスにもパンフレット 類があ ふれた。 印刷されず、 コーヒーハウスで 原稿のまま人の 手. った。 当時は、 ひそかに建物の 扉から外の路上にパンフレットを 落として おくと、 拾った者が読んだので、 この手を使う 者もいた。 許諾パンフの 氾濫を早くも 1679 年に を渡っていくものもあ. ジョーンズという 裁判官が嘆いている。 「支配者への 攻撃がこれほど 野放しで、 法に従って権. 力. 、 る 者への攻撃、 誹 誇の文書とうめさが 野放図に撒き 散らされた時代はかってない」. を 持って. レ. ( 要約 ) 。. ジュリアンはウィル. ズ. に仕事場を構え、 「ミューズ達の 秘書」という 看板を掲げ、 また. 宣伝した。 スキャシダル 文書をひそかに 彼に渡すと、 よく広まった。 ジュリアンの 悪名はよほど のものであ ったらしく、 かれについて 多くの 訊刺文 が残されているという。 彼はあ る許諾文書の.
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