『菅家文草』の詩体と脚韻
著者 谷口 孝介
雑誌名 同志社国文学
号 33
ページ 41‑50
発行年 1990‑03
権利 同志社大学国文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005044
﹃菅家文草﹄の詩体と脚韻
谷 口 孝 介
はじめに
平安時代前期︑ことに承和期以降の文学史を考えるうえで︑﹃白
氏文集﹄の影響を抜きにして考えるわけにはいかないだろう︒その
影響は︑たんに語辞の面に限定されるばかりではなく︑発想法や自
然の見取り方︑延いては詩歌の思想性の問題にまで及ぶ︒つまり
﹃白氏文集﹄の受容により︑日本の文学史はより豊饒な表現性を獲
得したといえよう︒
しかしながら︑日本漢詩に関していえば︑以上のことを十分に認
識しつつもなお︑トリヴィアルな印象ではあるが︑﹃白氏文集﹄と
の歴然たる差異が感じられるのである︒それは彼此の力量や状況の
差のみに起因するとは思われない︒そこには力量や状況にもまして
詩人の個性に関する問題が存するのではなかろうか︒
﹃菅家文草﹄の詩体と脚韻 日本漢詩の研究においては︑詩語を中心とした題材・素材の研究︑比嚥を中心としたレトリックの研究が進められてきた︒しかし︑詩人の個性を探究する方法には︑場合によってはそれらの研究以上に重要なものといえる︑形式と韻律の研究が考えられる︒韻律とリズムの根源性は歌詩作晶の表現機能を内面から支えている︒ことに漢詩の場合は︑詩体・脚韻・声律などのさまざまな規則が設けられていることは周知のことである︒詩人は自己の表現意欲を満たす詩型を選び︑作詩していった︒その結果︑﹁李絶杜律﹂論でいうような︑その詩人にとって最も重要な詩型が浮かび上がってくるのである︒決して詩の形式は形式として外在するものではなく︑その詩人の内面と密接に結ばれているものなのである︒ このような関心のもとで︑﹃菅家文草﹄・﹃菅家後集﹄に収める菅原道真の歌詩作晶の詩体と脚韻とを調査し︑若干の考察を加えてみ 四一
﹃菅家文草﹄の詩体と脚韻
たのが本稿である︒ある詩人の研究においてはその歌詩作品を繋年
に配列して考察する仕方がよくとられるが︑それは詩人の展開を観
るのには適切だが︑歌詩作品全体の個性は十分に看取しえない︒そ
れに対して詩人の独自の形式を浮かび上がらせることによって︑歌
詩作品全体から詩人の個性が見出されるのではないだろうか︒デー
タの精細な読みとりはいまだ不完全な段階ではあるが︑もって私の
﹃菅家文草﹄論の前提としたい︒
﹃菅家文草﹄歌詩作品を詩体から分類した﹁分体表﹂︵表1︶と︑
各詩体の巻毎の分布数を示した表ーとを掲出する︒なお﹃菅家文
草﹄の歌詩作品は川口久雄氏校注﹃日本古典文学大系72 菅家文草
菅家後集﹄︵岩波書店︑一九六六年︒以下︑この書を大系本と略称
する︶で設定された作品番号によって示すこととする︒
ヰ辞耕︵巌H︶
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春家文草﹄の詩体と脚韻 表1
巻一二三四五六後集
十一言口
互言古詩O11111501
t言古詩O3OO1026
笹言古詩OO1OOOO1 五言律詩0142416 711357
五言排律91161O191
七言律詩92342224243141脆2
七言排律24!314161
互言絶句4O1O1O39
七言絶句62139153030271
781
計 08
071
0639499364195
なお︑川口氏校注大系本では総歌詩数を五一四首と数えている︒
右の表ーとの五首の差は︑次の二点によっている︒
一︑﹁八月十五夕︑待月︒○c︒@﹂について︑大系本は︑定格聯章の
五更転として一首とするが︑詩体としては七言絶句︑五首とする方
が適当である︒
一︑﹁余近叙詩情怨一篇︑呈菅十一著作郎︒長句二首︑偶然見訓︒
更依本韻︑重答以謝︒Hお﹂について︑大系本は︑二章一首の体裁
をとっているが︑これは七言律詩︑二首とした︒
この二点により五首の差異が生ずるのであるが︑大系本において
四一一一
︐菅家文草﹄の詩体と脚韻
設定された作品番号は便宜上︑変更しないこととし︑たとえば﹁一
一九﹂は﹁一一九︵一︶﹂︑﹁一一九︵二︶﹂と複数化しておいた︒
さらに詩体の分類において︑意見を異にするものもある︒たとえ
ば︑次のようなものである︒
﹁舟行五事︒80﹂は︑大系本の目次には﹁五言排律︑五首﹂と記
されているが︑その冒頭一聯の平灰配置は次のようである︒
○ ● 一株磯上松︑
峻脚磯歎重︒︵○は平字︑●は灰字を示す︶
以下︑一々挙げないが︑律句を構成しない聯がまま存する︒そのう
え︑ 難レ遭二斑爾匠↓材随不レ為レ容︒
の聯や︑ 我将レ知二実不↓試螂二米三升↓
の聯のように︑対句を構成しないものも見受けられる︒板本などで
はこの作品を︑とくに章を分かたずに書していることも考え合わせ
て︑本稿では︑上平二冬︑上平一東︑上平八斉︑下平十一尤︑下平
十蒸と換韻する五言古詩︑一首とみておく︒
﹁寄白菊︒四十韻︒N8﹂は︑大系本の目次︑頭注ともに﹁五言古
調﹂としているが︑この作品は前例とは逆に︑反法・粘法ともに近
体詩法にかなっており︑各聯対句をなしている︒よってこれは五言 四四
排律とすべきである︒ ○ 以上のようなことで︑大系本・解説に掲載されている表の数値と
は異なってくることを断っておく︒
さて︑掲出した分体表を概観しておくと︑圧倒的に近体詩が多く︑
古体詩はわずか十七首に過ぎない︒その近体詩の中でも七言律詩︑
七言絶句が多く︑五言律詩はそれに次ぐ︒五言絶句の少ないのも特
徴の一っである︒排律では︑通常作例のほとんどみられない︑七言
排律が五言絶句を上回っており︑注意を要する︒﹃白氏文集﹄では
三十七の作例をみる小律の類は︑一首もみられない︒また︑厳密に
いうと詩体の問題ではなく︑様式の問題なのであるが︑中唐の詩人
に多くの作例をみる楽府体や歌行体の作品も︑道真の歌詩作品には
みられない︒
以上の概観によって知りえることは︑五言よりも七言の方が多い
という︑中唐の一般的な傾向は示しながらも︑七言律詩が七言絶句
よりも多いという初唐の傾向をも持っているということである︒ま
た︑古体詩が中唐の詩人に比して断然少ないことは︑十分に留意し
ておかなければならない︒
二
各詩体の問題点をみてお一﹂う︒
﹃菅家文草﹄の歌詩作品中︑質量ともに優れているのは七言律詩
である︒総歌詩数の約四割がこの詩体に属する︒ちなみに花房英樹
氏﹃白氏文集の批判的研究﹄︵朋友書店︑一九七四年再版︶の分体
表によって計出してみると︑﹃白氏文集﹄では︑総歌詩数︑二八二
四首に対して︑七言律詩は五六六首︑約二割に過ぎない︒この歌詩
数は五言古詩︑七言絶句に次いで三番目に位置する︒元来︑七言律
詩は他の近体詩に比して︑遅れて成立したものである︒高木正一氏
によると︑初唐の景竜年間︵七〇七−七一〇︶に中宗の宮廷におい
て︑李幡︑杜奮言︑宋之問︑沈性期︑張説ら宮廷詩人たちが︑宴席
のうえで︑制に応えて作したのが︑近体詩としての七言律詩の完成 だといわれている︒晴れの場を成立の基盤として持っているために︑
その詩風もおのずから五言律詩の端整さに︑華麗な性格が加わって
くる︒﹃菅家文草﹄の歌詩作晶において︑七律の比率が白居易はじ
め中唐の詩人たちに比して︑断然高いということは︑道真が根本に
おいては︑初唐の詩人と等しく侍宴応制の宮廷詩人であることを証
しているといえよう︒彼自身︑﹁詩臣膳霧言二行楽一﹂︵〇二七の五
句目︶︑﹁長断三詩臣作二外臣一﹂.︵三二四の八句目︶と自己を﹁詩臣﹂
と規定しているのである︒
その七律によって詠まれる題材はさまざまであるが︑様式として
は早春内宴や九日重陽宴の折りの侍宴応制詩が群を抜いて多い︒巻
﹃菅家文草﹄の詩体と脚韻 五︑六には特に多く︑なかでも巻六では七律十三首中︑十首までもが侍宴応制詩である︒また︑七律の頷聯︑頸聯の対句の多くが﹃和漢朗詠集﹄に採られていることからも知れるように︑華麗な佳句がことに多い︒この詩風はこの後︑菅原文時︵菅三品︶らによって受け継がれ︑﹃本朝麗藻﹄の詩人たちにもこれを範とする作品が多く 存する︒ 七律の作法として︑﹁七言律︑平叙易二於径直一雛鐘失二之桃巧一比二五言一更難﹂︵清︑沈徳潜﹃唐詩別裁﹄凡例︶といわれているが︑道真の七律は今日の目からみると︑やや﹁雛鐘失之桃巧﹂の気味はあるものの︑対句の巧みさに一つの特徴を持っており︑この艶麗椅摩は日本漢詩の独自の達成であるといえよう︒ 七律でみた性格はより顕著に排律においてもみられる︒五言排律が巻一に多いことは︑この詩体が唐代の科挙の進士科における試律︑試帖詩としてあったことによる︒つまり道真も進士科に応ずるために排律の作詩の訓練をしたためである︒排律において注意すべきことは七言排律の作例の多いことである︒松浦友久氏によると︑﹁五万首に近い現存の唐詩のなかで︑七言排律の例は︑ほんの数首しかない︒それはおそらく︑技術的な困難さというよりも︑律体の七一冒句が︑しかも対句の形で多数排列されるのでは︑あまりに壮麗︑荘重に過ぎて︑拝情感覚の自然な流れが阻害されてしまうからであろ 四五
﹁菅家文草−の詩体と脚韻
う︒現存の資料からいうかぎり︑七言排律は︑独立した様式として @扱いにくい状態にある﹂というのが唐詩一般の状況なのである︒道
真の七言排律十六首の内︑六首︵〇六七︑一四四︑三五四︑四三四︑
四三八︑四四九︶までもが応制詩であることは︑七律について述べ
た性格をいっそう押し進めたものであることを証している︒また︑
一一七︑二一九︑三〇一︑五〇四の作例は題材と詩体とがそぐわず︑
きらびやか過ぎる印象を与える︒五排にっいてもいえることだが
︵〇七五︑二九二︶︑古詩体によって詠われてしかるべき題材が排律
によって詠われる傾向をみせる︒このことは︑古体詩の項で述べる
古体詩の詠出の困難と七律でみられた対句の様式美への志向を物語
っているものである︒﹁叙意︒一百韻︒おト﹂をはじめとして︑四十
句以上に及ぶ長排律が八首あることは︑盛唐から中唐にかけての潮
流の影響であろう︒
五言絶句がわずか九首であることは︑七言排律が多いことの裏返
しの現象と考えられる︒五絶の︑事象を点綴することによって言外
に意を表す象徴的技法は︑如上の華麗な表現とはあい入れないもの
だからである︒
三
古体詩が中唐の詩人に比して︑断然にすくないのは︑日本漢詩の 四六
一般的傾向である︒大野実之助氏が﹁古体は押韻以外に特に厳格な
規約はなく︑自由に表現し得るようであるけれども︑自由なるが故
に︵中略︶其処には限りない深さが要求される︒この意味において 古体は近体より詩の世界においては程度の高いもの﹂であるという
のだから︑一応は彼此の力量の差ゆえと理解されよう︒さらに古体
詩は︑作者に内在化されている思想を言語に密着した形で表現する @のに適し︑白居易にあっては︑﹁詩道の文学﹂とさえいわれるので
あるから︑その古体詩の僅少は︑力量の有無はさることながら︑日
本漢詩人の思想性の薄弱に︑より多くよるものといえる︒
しかし道真の場合︑注意を要することは︑大宰府請居時代に七首
の古体詩が詠ぜられていることである︒なかでも﹁読楽天北窓三友
詩︒ミベ﹂︑﹁突奥州藤使君︒お3︑﹁夜雨︒8◎﹂などは対句もほと
んど姿を消し︑思うところを直叙したものになっている︒﹁自二従
勅使駆将去一︑父子一時五処離﹂︵四七七の四十一・四十二句目︶
などのように散文に近づいた表現も目立ってくる︒吉川幸次郎氏が
道真の歌詩を評して︑﹁老人がくどくどもの室言っているようなと ¢ころがある﹂というもの︑けだしこのような箇所かと思われる︒
それでは大宰府時代の古体詩の増加にはどのような意味があるの
であろうか︒おそらく︑消極的には侍宴応制詩を作る必要がなくな
ったからであろう︒在京当時の道真は自己を﹁詩臣﹂と規定してい
たことは先にみたが︑この自己規定により︑彼の﹁詩言志﹂の志向
はかなり隠微なかたちにならざるを得なかった︒っまり屏風詩や侍
宴応制詩の様式をとって微意を述べていたのである︒しかし大宰府
に来て﹁詩臣﹂の自己規定が無意味になると︑制約がなくなり︑
﹁言志﹂にとって最も適当な詩体である古体詩で自己の憤情を述べ
たのではないだろうか︒このようにみてくると︑道真における古体
詩の僅少は彼の力量の無さによるものではなく︑むしろ彼の自己規
定によるものと考えられるのである︒
近体詩の中で最ものびやかで︑軽快なリズムを持っ七言絶句が︑
道真においては︑古体詩の欠を補っていたように思われる︒唐詩に
おいては離別詩が︑多く七絶で詠われていることからも︑この詩体 @が﹁掃情性の直接的表示を第一義とする題材﹂に適していることが
わかる︒道真においても離別詩は多くこの詩体で詠われている︒た
とえば︑巻三の一八五︑一八六︑一八七の三首は︑仁和二年︑道真
が讃州刺史として赴任するに際しての三っの異なる饒席での詠であ
るが︑それぞれ﹁悲﹂︑﹁恨﹂︑﹁妬﹂の文字に当時の彼の心情が直裁
に映し出されている︒
その七絶の制作時期をみると︑ある偏りがあることが知られる︒
つまり︑巻六︑後集においては七絶が七律を上回っているのである︒ このことをもって川口氏は道真の﹁創作力の衰弱を物語る﹂という
﹃菅家文草﹄の詩体と脚韻 が︑別の見方もできる︒この時期の七絶にはたんにそうとだけいってすませないものがあるからである︒当時の道真は大勉言から右大臣へと顕官への道を歩んでいたのであるが︑それに対して周囲の風当たりも激しくなり︑処世にも相当気を使わざるを得ない状況であ
った︒そうした状況を踏まえて︑七絶の作例をみると︑
況復詩人非二俗物↓
夜深年暮泣相看︒︵対残菊︑待寒月︒おH︶
笑レ松噺レ竹独寒身︑
看是梅花絶不レ隣︒︵賦殿前梅花︑応太皇制︒畠N︶
若不二皇恩相勧見↓
毎レ春空混満庭沙︒︵春夕︑移坐遊花下︑応制︒畠岬︶
のように︑当時の彼の心情が吐露された詩句を見出すことができる︒
さらに七絶の連作である﹁近院山水障子詩︒六首︒まN〜きべ﹂がた
んなる題画詩ではなく︑画中の人物に託した︑道真自身の詠懐詩で @あることは︑すでに後藤昭雄氏の指摘するところである︒晩年の道
真が応制詩を七絶で制作したのは︑もはや七律という詩体では収ま
りきれない心情を︑秤情に適したこの七絶の詩体を用いることで︑
表出したからではなかろうか︒
最後に︑五言律詩について簡略に触れておく︒この詩体で目立つ
ことは即興的な連作が多いということと︑巻一︑二の比較的若年の
四七
﹃菅家文草﹄の詩体と脚韻
ころの侍宴応制詩とである︒いずれにしても後年の七律の完成を用
意する前段階のものといえよう︒また別に閑適詩もこの端整な詩体
によって詠まれることが多い︒
四
﹃菅家文草﹄歌詩作品の脚韻の調査の結果を次に脚韻表として掲
出する︒体裁は花房英樹氏︑前川幸雄氏﹃元損研究﹄︵彙文堂︑一
九七七年︶の脚韻表に倣い︑平水韻の韻目番号によって示す︒
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四九
﹃菅家文草﹄の詩体と脚韻
﹃菅家文草﹄歌詩作品の脚韻の特質についてはいずれ稿を改めて
述べたいが︑ここでは要点のみを掲げておく︒
一︑中唐の元和詩体の影響をうけた次韻詩がみられること︒
二︑﹃広韻﹄の韻目による上平声五支・六脂・七之韻及び上平声
二十文・二十一欣韻の箇所において︑﹁広韻﹄の同用の規定が @ あてはまらず︑盛中唐の詩人の傾向と一致していること︒
以上のほかにも︑ほとんど破格の用韻が存しないことから︑逆に一
見踏み落としているかに思えるもの︵表中でm印を付した︶の韻字
を訂することもできる︒ @@ 五〇
七五年︶︑二〇七頁︒
後藤昭雄氏﹃平安朝漢文学論考﹄︵妾楓土︑一九八一年︶︑二一〇頁以
下︒ 中国の事例については︑小川環樹氏﹃中国語学研究﹂︵創文社︑一九
七七年︶︑八七頁以下参照︒
注O
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ゆ 川口氏校注︑前掲書︑四六頁︒ 高木正一氏﹁景竜の宮廷詩壇と七言律詩の形成﹂﹃立命館文学﹄二二四号︑一九六四年︒ 川口久雄氏﹃絵解きの世界−敦燈からの影﹄︵明治書院︑一九八一年︶︑二九九頁以下︒ 松浦友久氏﹃中国詩選 三﹄︵杜会思想社︑一九七二年︶︑一七六頁︒ 大野実之助氏﹁表現形式から観た道真の詩﹂﹃東洋文学研究﹄一〇号︑
一九六二年︒
花房英樹氏﹃白居易研究﹄︵世界思想社︑一九七一年︶︑⁝二二頁以下︒
吉川幸次郎氏﹃中国文学史﹄︵岩波書店︑一九七四年︶︑一八○頁︒
松浦氏︑前掲書︑八○頁︒
川口久雄氏﹃三訂平安朝日本漢文学史の研究 上﹄︵明治書院︑一九