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幕末期の学政改革に関する一考察 : 佐賀藩を中心として

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Academic year: 2021

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(1)幕末期の学政改革に関する一考察 一佐賀藩を中心としてEducational. Reform. in the. Case. -A. Former. Study. of Saga. 木. 鈴. Half. 博. their. practice to. order. first. the. half. political. cope. reforms. the. with. and economic important most. political the forced to. the. clansmen・. the丘rst. reform. was. presented. In The. the. second. The. (1). the. in. courses. of the. clan-conducted. school. was. completion. both. of. energy. of all. reforms.. strengthen. process. of. enlarged. One. were. moral. education. adults. 12. Were. reform. Newly,. repleted.. 6 years. (from. pupils. (above. learnlng. educational. and. for. was. the. clan.. to. Dormitories,. years). attached. to. the. to. cultivate. clan_. conducted The. (2). loyalty,. tbe. (3). school. important most. the. and military strength of the for the educational reform.. the. were. to. proposed. the wealth blue print. in the school・ provided for ll), and the other was adolescence and a medical school, and a school for Western two. of. The. the thoughts studied of educational famous Confucianists and the leader of " Kanken Opinion (A Written on Education). studied following:. author. reform. of. one. thesis. it he. of the. of the. i一l. reform spirit of loyality. concentrating. of these. was. clans.. Thus. by. into. put. of the. improve. basis. typical. reform. of the to foster. training・ clan,. was. Gakusei. and. to. the. chapter,. scale. in. clan. part. clans. economic repletion, internal with crisis. and. schools,. intended. powerful and. educational the. on. military. one. ". lord,. intending. formed. contents. main. His. countries. their. was. most. military. circumstances,. of the. author. the. the. reforms. in Saga. who. to. clan-conducted. was. the. Koga,. training. and military Later his oplnlOn. their. reform. in Japan,. these. strengthen. of the clan. to his feudal. reform. political. to. sehool一. RY. view Western. of political. attend. chapter,. Kokudo. of. In. power. and economic Educational. military In. policies and. the. from. aggression. in Japan. 雄(HirooSuzuEI)辛. century. with. situation・ to. idle clansmen feudal lords,. 19th. the. of. Century. Clan-eondueted. SUMMA In. 19th. the. The. aI一d to. school. to appointed itary system.. School. (4). way. The. ing. was. attendance. clall to. military. authorities. strengthen. compe】1ed was. talents. military. of Education). from. every. positively. power. and Educational those of. it would. stabilized. encouraged. Tbough the contents of the the other clans in many points, only time powers the the leading at. *教育学教室(°ept.. not. to. was. lead. them. arts.. authorities recommended importallt posts, altbougb. livelihood clansman's in the school. result. (5). clan_.smen. of education. master. clans. to. to. the. clan. be contary. he. would. of Western industry・. which succeeded Restoration・ And this. Saga. this. obtain. learning. cultivate Refor皿in the. the. feudal. Under. clansman・. unless. to. government to. clan in their. intend.. common. reforms. totalitarianistic. system,. satisfactory. science were. be. hered-. to. became education.

(2) 幕末期の字数改革をこ関する-考察 which 1-(-.A. made. the! people. obedient. to. the. demand. of. the. nation. 15. succeeded. in the. education. 1(・〉・.・Ll.. e・r;l. ltl(L IT(一ij… ヽtll)jしLし,ir'.こIrしt・r. 序. 幕末男那こおいて,幕府・勝藩で行なわれた政治改革では,財政改革とならんで字数改革 が塞要なものとなっている.冗費緯少,余窮人員の整理などの倹約政策を主たる内容とし. た財政改革と入線青嵐鼠俗匡正,入線捷拳などを主とする学政改革とは藩政改革の二大 支柱をなすあのであり,しかも両者は緊密をこ関連せしめられていて,その雨着の統-始な 成功があって鎮めて藩政改革が成功したといえるものであったoそれゆえにこそ,当時の 諸藩をま逼迫せる藩財政の窮乏の中から,藩校の新設や拡蚤,学科の増設,教官の増員など 藩校経数の飛躍的増加を認めて;藩校教育の意欲的な改革に乗り出したのである.をの終 菜,`藩の藩士子弟会員に入学義務を課する願度がたてられ,文武教場ほ併置され,儒学, 韓学,算学,洋学などの諸学科も増設されたoかつ初等教育壊閑や医学鎗などが併設され て,ここをこ一大綜合学園が創設されたのであるo これがやがてほ設立者の主観的意図と捻 療網孫に,それ自体の歴史的な筏寮喜を演ずることをこなり,教育兜上の封建教育が近代教育 へと移行する場合におをナる,上からの近代化の一つの塑をなして行くことをこなるのである。 本論文は,こうした幕末期の学敦改革を最も典型的に実施した-ケ-スである佐賀藩の 場合を中心にして考察しようとするものであるo論文の構成は,まず第一節でほ学政改革 の理論的指導者であった古窯蜜堂の学敦改革論をとりあをデて綾討し,つぎをこ第二欝で学敦 改革の契施過程を考究し,最後に結語として,幕末期の学政教革の全体としての特質を考 察し,近代への展望を試みることにするo l.古賀敷堂の学放牧革論 者賀穀堂(名ほ無かさし)ほ,安永6年(1777),寛政期の大儒者賀清風の長子として 坂井筑山らにも 生れたo長じて後,上帝して父の家塾をこ入り,級,紫野粟LL],羅藩二常軌 学んだ。成業の後,帰国して弘道館教翰となり,文イヒ3年29才の時,教授に披浸されたo その後,御番方附役,長崎仕組方附役などを歴任する-方,学館兼任として14年間藩校 教育をこカを尽したoその間,敦盛三藻熟した藩士の数捻穣範て多く,その中から後の藩政改 革を推進した改革派藩士が生れたのであるo文政2年,使手貞丸の樽役となり,その樽育 に尽力したo後に改革の中心となり,名君の誉の高かv7た11代藩主直正(関取)ほ,こ の度曳であるo蜜正結末錬元年17才で襲封し,やがて藩政の大改革に着手するが,穀堂 ほ年寄相談役(天保元年)としてつねをこ署償如こあって,若き藩主を穏佐し,助言するなど 強い影響を与え,他方では改革派藩士の理論獅旨導にも当った.佐賀帝の帝政改革の基本 的な考え方執. 穀堂の改革思想に魚う勉が大きいo彼の著した「学致管見」ほ,彼が弘道. 館教授に任禽きれた折(文化畠年). 「寺小湊弼前」1}と辞された衰微せる藩校を改革するた. 捌こ藩主斉直に上申した意見賓であり, 「済急封事」は,直正が襲封した翌年(天保2年), 藩政改革の方途書こついて論じたものであるo この二籍ほ,ともに穀望の学政教畢諭のもつ.

(3) 16. 鈴. 木. 博. 雄. とも整備されたものであり,且つ藩政改革についても言及しているので,以下,この二つ を中心に穀堂の思想を考察してみよう. 「学政管見」は,藩校の教育目的,方法,内容,に関するものから人材撰抜制度などの 学政上の意見,さらに風俗匡正の方策など治政全般に亘るものをも含む28項目に及ぶ学. 政改革論である。まず冒頭に弘道館創立当時の事情をとりあげて藩校教育の目的を明確に せんとしている。すなわち,藩校の創設は「唯読書講釈文武芸等稽古スルコトノミニ非ス 実二国家有用ノ人才ヲトリタテー統ノ風俗ヲ正クシ御政事ノ根本トナルべキ」2'ものを養 成するという意図に発したものであると述べ,この. (1)国家有用の人材を育成すること (2). -藩の風俗を匡正すること こそ,藩政の中心的課題でもあるとするのである。それゆえに,藩校教育は「高下貴賎二 限ラス」3),全藩士を対象とする全市的なものと考えられ,その目的とする国家有用の人材 育成は,人材撰挙制度の確立によって,藩の人事行政と密接に結びつくべきものとする。 これらはいずれも創立当時に定められたものであるが,穀堂は,学政改革を論ずるに当っ ても,まずこの原則的な考え方を明示して,それを前提として学政改革論を展開せんと意 図したのであるo. この意味では,穀堂の学政改革論も本質的には藩校創立当時の精神-の-. 復帰を目指す復古的意見であり,崩壊に瀕する幕藩体制の強化・再編を意図してなされた 天明期から寛政期にかけての封建反動的学政改革の思想と大きく隔るものではない。彼ほ, (1)国家有用の人 この立場に立って,まず藩校衰微の原因をつぎの二点にもとめている。 材の育成という本来の目的が忘れられて, 「記詞詞章二流レヤスク」4)と指摘されるように, 学問の形式化が目立って来たこと。. (2)藩校内の有用の人材を擾挙する制度が崩れて来た. こと。このため「他ノ役方に選挙アリテモ格別学問ノ功コレナク」5)という結果になり, それが藩士の目には「学館ノ御試ミモマツ御手数バカリノコトニテ格別我身ノ出世ニモナ ラヌコり6)と見えて来たのである。こうした藩校の衰微を克服する方策としては,何よ りもまず「御家中トシテ-決テ学問七子-叶ワヌト云厳法」7)を立てることが「学政ノ大. 肝要」8)であるとする。そして,その具体的方法は,まず全藩士を藩校に教学させる出席 強制制度をとることであるという。すなわち「全体学館ノ義,御国中ノ人不残教導スル場 処」たることを明確にして「御家中不残学館出席致スコト」9)を令し,さらに出席したも のには,. 「ソノ勤怠ノ儀学館卜阻内ニテクワシク相シラペソノウヱ名書ヲ以請役所-相. 違」10)するという厳重な考課制度をとることを提議している。ここには,創立当時の入学. 勧奨からさらに選んで全藩士の入学義務制が意図されている訳である。この点は,幕末に おける諸藩の学政改革論に共通する特質であり,たとえば佐倉藩の学政改革の基調となっ た天保4年の「文武芸術之制」でも,始めて全藩士の子弟の入学を学齢8才を以て義務づ けている。またそれよりやや遅れた天保8年,松代藩の学政改革を論じた佐久間象山の 「学政意見書」にも,全藩士の入学義務制を論じている。この外,天保12年に長州藩の学 政改革を提案した村田清風の「辛丑改制建議」には,全藩士の教育を徹底させるという立 場から,藩校に通学することの困難な在郷の藩士に対してすら,文武稽古場を建て,教官.

(4) 幕末期の学政改革に関する一考察. 17. を配属せしむべきであると論じている。別荘 罰註1)佐倉薄の「文武芸術乏儲」でをまトー,諸士以上の男子次男三男に至迄8才に相成蘇はゞ最 寄読書倍古所え差出,読者芋添乳筋等啓行数させ可く軌15才に相成尿結ば,学校え差 出申す可く察o 15才以下にても望の者をま,学校え差出鏡餅芋次乳但8才に相成祭に鉄 泉寄蕃古舞え差出供艶支配顔大目付え相違す可く鰐」11)とある。 2)佐久間叡1岬「学毅意見書」でをま,. サシタチ. 卓フエソ. オ. メ. ミニサーク. 「一輝家中務立絵^,御目見終之無差鼠 25才以下家督無役嫡子次男三男不残一所紅塵め修業為銀」12)とある。. 8才以上. 3)村田清風の「宰丑改巷悼義」には「御家顔中追々在郷住宅被差免唯今之人数千人余も有之 贋然処遠在山奥之処之自分之勝手に在住仕贋者も有之文武之諸芸も不得仕御奉公之覚′匝も 不相調次男削こ付,以来は在住之場所定被仰付某所々え文武之諾稽古場建詞被仰付修甫料を も被付置在住之面々御奉公之覚悟相調贋掛こ被仰付庶猶叉文武之芸師其卿こ無之俵はゝ御 城下より御人差を以在住被仰付」1a)とあるo. しかし,入学を義審づをナ,厳重な考課制度を設をナても,そうした棒力的な強儲によるの みでは,藩校は一時的に盛況になるとしても,またすぐに人心から潜れて衰勢に陥ること は折らかであるoそこで,そうした法的湊潮の制度と対応して,藩士の白発的な宛学心を 栄職するような鶴度が設をナられる必要があるo 「ソノ内意深クスダンテ幕畳ナルモノハ下 賎トテモ学問ノ方ニテ解トリ立アルべシ然レバ衝家中トシテ-コノ以後役方術付ラル′レモ ノハカナラス学問致シタル老バカ7)こ荷ナリ学閥致サヌ老-樟応ノ器量コレアリテそ発以 テ僻見合セアリテ封レソノ人を学問ヲ致テヨl}衛摺ヒアルコトニナラ-誠二人々仕官ノ情 探キ者ナレ-学問七子バ筏方-相叶ワヌほコトヲシリテ上下一統俄ニキソヒ蔚ムペキコ ト巨艮前ノコけラン」1"とか「唯今重キ役々-本ヨリ学問イタシ道理二相違シタルキノヨ 1)衛周ヒコレアリソノ外ノ御供啓御蔵津口静香構口香道口番は拝街道の検問警衛役のこと 筆者註)ナドニイタルマデ皆炭文武出精ノ人ヨリ御用ヒアルトキ-一人トシテ文武二心カ ケサjレモノハアルマシ」15きというように人材撰挙御慶を確立することほ,こうした藩士の 告発約学習を図る意味からも重視されなをチれぽならないものであるとするoこのように人. 材擾扱労ミ各平に行なわれ,たとえ下層藩士と韓も,有寵の人材ほ破格の抜擢がなされる道 が確立されれば人々ほ競って学問に拭精して,藩校も白ら隆盛に向うものと考えるのであ るoこのように,学政改革において藩校教育と人材授挙とを簡密約に関連せしめるといラ 方式を最初に粥確に打ち出したのほ,宝暦年問の熊本滞の学政教草においてであるが,天 保期以降にほ多くの渚藩がこの方式を跨襲している。たとえば佐倉藩では「才能擾挙之聞」 が間愛されているし捌註1),山口藩,彦根藩,館林藩,松本藩などの諸藩でも明確に規 定されている(別註2)0 別註1佐倉藩の「才能撰挙之軌については,拙稿「寛政期の学政改革と臣僚養成」 大学教育紀要No・ 別註2. (横浜国立. 3)を参照。. 山口藩では, ト渚土梧古出精の内文学-思案生ノ科二当り武芸-目録以上三相成候面々且々御役被召 仕贋人物選挙任教育上可贋贋間猶叉其器二当.)御詮養被仰付贋様奉存供」. (嘉永2年3月25.

(5) 18. 鈴. 日奉窺贋事) (日本教育史資料. 木 二. 博. 雄. 684頁). という意見が学校当局より提出され,これが聞き届けられている。 彦根藩では, 嘉永3年12月2日の井伊直弼の令する改革10ケ条の中で,つぎのように達している。 「一家中之者共家格之通り諸事専ラ古風ヲ守り文武忠孝之道忽諸二不存礼儀廉恥ヲ旨トシ テ土之本意ヲ不失儀可為専一候若シ抜群之英士タルニ於テ-重ク召仕不依家柄武役ヲモ可申 ●. 付供急度可致励精贋」 (傍点は筆者)日本敦青史資料. -. ●. ●. ●. 397頁.. 館林藩では, 家督跡式ノ儀二付改正ノ廉達吉(文久2年壬戊4月)の中で,つぎのように達している。 「文武. 内一流中伝相済供者-可被召出段去ル申年被仰出侯処向後文武ノ内長進且身分慣. 方宜敷者御撰ノ上可被召出供事」. (日本教育史資料. 松本藩の天保11年子12月11日惣教ヨリ達の中では,. -. 594頁)0. 「心得宜敷出精流儀之綻師範之教. を守り芸術一際様子宜敷者左之人数目当を以て人別撰可中間侯」. (日本教育史資料. -. 頁)と述べている。. しかし,この藩校の成績を基準とした人材撰抜制度は,それまでの世襲的任用制度を否. 定し,封建体制の基幹たる身分的階層秩序を脅かす可能性をつねに含んでいる。それゆえ に,人材旗挙制度の確立は,封建体制の再編,強化を意図する藩政改革の目的とは明らか に矛盾するものであり,既に天明一寛政期の学政改革の際にもこの矛盾が露呈され,その 結果,身分的階層秩序を守るために人材旗挙制度を骨抜きにせざるを得なくなり,そのた めに,藩政改革も不徹底に終り,藩校も衰微に向ったのである。この矛盾は根本的には封 建社会の体制的矛盾に通ずるものであるが,封建権力にとっては,この矛盾を何らかの形. で解決することによってのみ,さらに大きな体制的矛盾のあらわれである幕藩体制の危機 的状況を克服し得るとする認識がある。そして,その唯一の方法は,上層藩士の動学を督 励して,その層から有用の人材を輩出させることである。すなわち,全藩士に対する学問 奨励は,解体化の徽侯を示しつつあった家臣団の再編,強化のために是非ともとられなけ. ればならない施策であり,人材撰挙制度も藩士の側から学習意欲を起させて学問奨励政策 を実質的に効果あらしめるために必要なるものであるが,それはあくまでも中・下士層に 人材撰挙による栄職への登用の道を可能性として与えて置く程度のものであり,現実の人 材珪挙による役職任用は,やはり身分秩序の枠を乱さない範囲で行なわれることが望まし いと考えるのである。そ・のためには,上土層が,上土層なるがゆえに役職に任用されるの ではなく,表向きは有能なる人材なるがゆえに人材撰挙制度によって任用されて行くとい う形が最もふさわしい訳である。しかし,これによって身分秩序が保持され,藩校の繁栄 は維持されたとしても,役職に任用された上土が実質的に有用の人材でなければ藩政の運 用に大きな障育となることはいうまでもない。そこから,上土層の学問奨励は,形式的に も実質的にも極めて重視されるに至る。穀堂も,上土層の安逸,退嬰的な生酒態度に対し ては,「大禄ノ面々-先祖ノ勲功二相対セラレ格別ノ罪ナケレバ代々知行切栄相続セズト云 コトナシ. シカルニソノ身ニ-曽テ功モナク徳モナクシティタゾラニ大禄ヲ-ムコト何ト. 510.

(6) 幕末期の学政改革百こ関する一考察. 19. そ患-ス平日ノ碁シモ無用ノ奪り多ク貧窮二相ナルコトを手前ノ不了簡ヨリサシヲコルコ トアリ 叉問ニ′、裁身勝手ノ鬼議ヲ立枚方ナドかb:ギテ-t=ズトそ知行太身ナレ′、ワガ家ヲ ヨタ富シテ安楽二身ヲ暮スコトヲ-カ')文武ノ道ヲモ打ステテヒタスラ貨殖/コトノミニ 心ヲ民スモノアリ-・ケヤウノ入二浄ヲソノママ下シヲカル/レコト栄二甚可渚コトナジ書・ -コレニテ大家ノ人情讃弓ナルコトジルべシ」16きと厳しく教濁したが,しかし,その上層藩 士の貴簡就任を全面約をこ否定するほどの進歩性をもっていた訳ではないから,結鼠上土 の数学の奨磨を藩主に求めることになる8. 「上ヲ学フ下ナレ-何事を. 額上ヨジ密事泰ヲ サシイダサレ子バ行届ザルコト多シ--衡親額二講習ヲ夜食ナトほコト不意ニアレハ尊 貴ノÅ々こそ大二励ミコレアルべキナリ 大夫己下番頭琴ニモケヤクノ義折々コレアリ# キコトナジ」17). こうした封建的身分秩序と人材療放と祁日の矛盾を解決する道としてとられた上士に対 する数学奨励ほ,佐賀藩のみならず・学政改革を断行した済藩にも共通するものであっ氏. 鹿児島藩をま,佐賀藩の飼を挙をデて上土教育の遜寮を達しているしく別荘1)勉の渚藩でも上 土の数学を奨節する布達を出しているo上土の教育奨療法として一般的に行なわれたのは, 教学日数を申,下士よりも多く規定することや課業基準を高くする方法であるo佐賀藩の 場合をま憲永4年盲こ文武家業法を窪妙たがその中で絃上土と申,下士を粥瞭に区射して蔑業 を課している(後出)o水戸藩,福井乳会津乳などでも,この文武譲葉法の申で,上土 の教育を特に霊視している(別註2)0 飼註1鹿児島藩が学故改革に積極的に着手した家政3年の布達の中に,上土の教育をこついてつぎ のように述べているo. 「中二そ大身ノ面竣成老人学ノ期こイタ7)適造土館へ出席儀典学局ノ. 賞翫}、自然}澄ニテ儲豪}功十分ニ-詞菜衆道理且-賢帝ノ者ノ学友ニテJ、斉*ノ睦エヒト ・:(/ク飲往々重職ヲモ授ケ公私ノ大審可委任者典ふ僕勉切窟)功芝敦萩テ-接磯応変ノ処置′、 車二及-ス公風句ノ礼式ヨ')姶メ国々ノ形勢人情常態ニウトク井蛙ノ見識エテ-心得遼ノ儀 そ可有之幾-. I. ・隣境監後監菌等--門支族ノ家鶴等家来再三Å7=7達平士道歴ノ姿ニテ随意工 文武修行ノヨシュ俵恩讐∴軽為敷嬢二者察得共国家ヲ大事二考俵得ノ、至極ノ良法二侯・ -. く鹿児島薄 安致三辰三月十日の逢し 別註2. 日本教育史資料三. 284貰). 淡戸藩の課業法は天保12年をこ布達されている軌その大要絃つぎのようであるo -,布衣以上並に300石以上の当主塊子結 審衣以上並をこ300石鎚上の次男三男姥. 1ナ月15. 日詰. 1ケ月12. 日詰. -,物頭並に150石以上の当主嫡子ほ 物頭並に150石以上の次男以下は. 1ケ月12. 日詰. 1ケ月10. 日詰. -,藩士以上の当主嬢子をま 諸士以上の次男以下は. 1ケ月10. 日詰. -,諸士以下被召出以上の当主,砕柱 (「東郷全盛」常陸帯101-lO2云). 1ケ月8日鼓 勝手次発. 福井藩の課業日割寄(安政4年9月5日達)は, -,定座番以上麓300石以上の当主,子弟は1ケ月計こ25日詰. 学問10. 武芸15. 日 日. ・」.

(7) 20. 鈴. 木. 博. 雄 内5日は軍. 一,. 300石以下150石以上の当主,子弟は. ぁ報告諾o 制の梧古. -,. 150石以下新香以上の当主,子如. 晶報告表5. となっている。. 内5日は軍 制の梧古. (日本教育史資料二15頁). 会津藩の場合は,課業の基準によって小菅詰の免否を定めている。小普請を免れるものは,. つぎの課業の基準に達したものである。 家緑満500石以上 学問一等,苦学一等,兵学三厩返講済み,弓馬槍刀及大砲の内一芸 ゆるし. 許を得しもの 学問二等,苦学二等,兵学同上,武芸同上. 家緑500石未満300石以上. 家緑300石未満新番組々外之士以上 学問三等,苦学同上,兵学一編返講済み,武芸同上 但し苦学上等に進み,学問,兵学ともに定格に至りしものは槍術中位又は刀術老功に進み. しものは小普請料を免ぜらる。 ゆるし. 独礼以下月割以上. 学問一等,苦学上等,ト部神道講習免許,算術許,弓術許,槍術中位, 刀術許,居合術許,柔術許,砲術大小筒許,体挫術許,右の内,その, -あらば免ぜらる。. なお学問の一等より四等までは,つぎの基準で定められている。 学問四等. 入門の初等で,孝経,大学,論語,中庸,春秋,小学,詩経,書経,礼記,易 経,童子訓の素読を完了したもの。. 学問三等. 四書(朱註を併読),小学(本誌を併読),春秋左氏伝の独看が出来るもの。. 学問二等. 四書(同上),小学(同上),礼記集註,豪求,十八史略の内容の解釈が出来る・ もの。. 学問一等. 四書二(同上),近思録,二程治教録,伊洛三子伝心録,玉山講義附銀,詩集象 註,書経集註,礼記集註,周易本義,春秋胡氏伝,春秋左氏伝,国語,史記, 前漢書,後漢書の解釈の出来るもの。. なお武芸の等級は各流により多少の差異はあるが,大凡つぎのようであるo 初. 心. 入門の初めである。. 害. 伝. これを中位,老功の二つに分ける場合もある。. 許(ゆるし)武芸の免許の実力を示す。 印. 可. 武芸の等寂の最高級である.. (「会津藩教育考」. 29頁及190頁). これを見ると,上土に課せられた課業がいかに過大なものであるかが理解されよう。. 全藩士を教育の対象とする穀堂の藩校教育論は,その教育目標も藩士として共通の資質 -「息直廉潔」18)の資質-を養成することに置いている.すなわち,藩校教育の目的た る国家有用の人材の養成とは,何よりもまず忠直廉潔の藩士の養成でなければならない。 これは,商業資本と結托して巨利を煮る不良重臣や私慾のた桝こ過大な貢粗を増徴する汚 吏,生活の窮乏から来る内職その他による藩士生酒の額廃,とくに下層藩士の「タタ勘定 達者ニシテマヅ我身ノ上ヲカセグ老多ク往々町人ノ見識ノヤウナルコトニテ改細ノ利益ニ ノミ目ヲ付ル」19)というような士風の悪化などの封建体制の内部からの崩壊の徴供が弥漫.

(8) 幕末期の学政改革に関する一考察. 21. していることに対する応急の対策として,藩士の理想像が粥確をこ打ち出される必要があっ たからである.元来,封建社会におをナる臣僚は,その封建的特質のた桝こいかに学問,読 芸が上達し,才能識見の覆れた人物であっても,封建的主従関係の核心である忠誠心の薄 いものは問題にされない.つまり知識技術よりも,封建的主従関係の基本前提である人格 健に最大の価値を置くから,国家有用の人材というのも第--義的にほかかる忠誠心の浮き 人物を指すのである。そして,この忠誠心ほ,記南詞章に流れた形式的学問ではなく,真 剣に自己形成のた捌こ精進する実際的な態度で学問をすること-実学-によってのみ. 育成されるとするo. すなわち,. 「惣テ学問ノ枢要ナルトコロ-芸術(この場合ぼ弓馬剣槍. 孔容軍法などの武芸や知識をいう一筆者註)ノ上ニアラズ道理ヲキワメ是非ヲ弁シテ必ス 我身ヲ儀ルヨリ国家天下ヲ治ルニアラザレ-実子学問ノ益アルコトヲミス」20)と述べてい るのであるo. しかるに,現状ほ「番頭侍ヨ1)芋粥槍(士分の最下層のもの一筆者註)足軽二至リテ銘 々官ノ高下禄ノ多少-アL,トモ-向道理ノ穿整ヲセズシテ生ノ侭ニテ御奉公ヲスル」21)育 様であって,そのため藩士の道徳的品性の陶冶に欠をナるところがあるというo こうした弊 風を改めて,. 「如何二生質器量ノ人ナ1)トキ何レニ仁義忠孝ノ道-学問コレアルベキコト. 打シレタルコトナ1)」22)というように藩校教育ほ,全藩士に共通に要求される忠誠心の養 成を目的とすべきであると述べている。. したがって,藩校教育は忠誠心の養成という全藩士に共通して要求される-般教育的な るものを内容とし,学者養成のような専門教育に偏したり,少数-1)-トのための教育に 泊ることは戒められるo藩校内での学派的差別や流儀の異同の問題も,すべてこの観点か ら解消されるべきものと考えられる。佐賀藩では,藩校創設時に,後に寛政異学の禁の折 に中心人物の一人となった古賀栴旦によって,異学派を駆逐して朱子学を正学と定めた経 薄から,儒学内での学派的異同は問題にはならなかったが,武芸の面では各流派問のあつ れきが絶えなかったo殻堂は涜派ごとに異を立てる傾向について「講師家二稽古スル者面々ノ志次第ニテ何涜何涜ナトト立分レテスルコトナレドを学館ノコト-御国申ヲー目二 見テソノ内二取訳差別スルコト-ナク解然大公ニシテウチ入レザルト云コトナキヤウニイ タシ-・別二流義ヲ立テ門弟ナトニナルコト-自然トアルマシキナ1)」23)と批判しているo その際,その理由として,藩校は「御国中ヲ一目二見テ」とあるように,. -藩の公的な学 校であるという注目すべき考えを打ち出している。すなわも,あらゆる階層の藩士の共通 の教育の場としての藩校は,文においても,武においても,全藩士に共通に必要とされる 基礎的一般的教育が施されるところであるという公的性格がかなり明碇にされて来た訳で :・',:. こうした息直廉撫の士をつくるという道徳教育とともに葉恩武士の伝統をもつ佐盤蕃で 紘,自藩の歴史的伝統や慣習放熱こ関する知識を与える歴史教育が必要であるとされるo 「何レ御穎二生レテ-御国初ヨリ今日マテニ至ルコト不残可知コトナリ. --御国ノ審蹟サ テ叉シリテ差支ユヌ靭手数等-成丈韓学(佐賀藩に関する勉強を指す一撃老註)ヲスべキ コトナリ」皇4)と述べているとおりであるo. しかも,この歴史教育は佐賀藩の歴史にとどま.

(9) 22. 鈴. 木. 博. 雄. らず,日本そのものの歴史まで拡大され,「日本ノ学-古今ノ制度サテ叉歴朝ノ事大抵学問. スべシ」25'といわれるに至る。そして「日本上代ヨリノ典故制度治乱ノ事蹟等ヲ考-シ ル」26)た糾こ「和学」科の新設を提案しているoこうした佐賀藩や日本に関する歴史教育 の強調には,「惣テ御国(佐賀藩のこと一筆老註)ニ居テ御国ノ事ヲシラズ日本二生レテ日 本ノ事ヲ知ス今ノ世二居テ今ノ事ヲシラス只唐ノ事古ノ事ノミシルヤウナルコト学者ノ大 癖ナリ」27)と述べているように,当時の学問の観念的傾向に対する彼らしい批判がひそん. でいるo彼が強調する実学とほ,このように日用常行に直接御こ立つ実践的な学問態度を 指すのであるo藩財政の極端な逼迫の中に哨吟する佐賀藩の窮状を具さに体験している穀 堂にとっては,美しき彼岸の理想よりも-歩でも現実に存在する窮乏のどろ沼からほい出 せる具体策の方がはるかに価値のあるものと考えられたのであろう。. 「農政水利山沢ノ事 ナト学校-チ-空論ニナリ安ケレドモ右ノヤウナル事二達スル人アラ---随分志シァル. 老-稽古スべキナリ」28)という主張は,こうした実学的思想に発している。しかも,天保. 3年御備立(軍事係一筆老註)御山方(殖産興業係一筆老註)の二局に有用の人材を挨抜 したが,その折の達しに御山方について「性得右等の事業を好み自分も種々試験致して, 成功を楽しむ人柄」抑を授抜する基準として掛ヂていることが,この穀堂の農政水利山沢 などの研究の奨励と符節を合しているのである。. 洋学に対しても穀堂は既に当時の儒学者のように徒らに固隈守旧の態度をとるのではな く,よく洋学の本質を理解しており,. 「蛮学モ当時江戸上方ソノ外流行スルコトニテ都ニ テハ好奇怪ヤウノ人ナドモケヤウノ事ヲスルユヱ世上≡り異人トミナシ只ナグサミコトト 相唱ルナリ. 学者ナトヨリモコレヲソシリテ異端邪説トスルコトアレドモ全クサニアラ ズ」30'と俗説を否定するとともに「就中西洋欝国-天文地理器物外科等ノコト-唐土万韓 ヨリモクワシク諸人ノシル処ニシテコノ外治国ノ制度等ニモ色々面白キコトアリテ経済ノ. 助ケニモ相ナルべキナリ」31'として洋学に対してほぼ妥当な評価を示している.この穀堂. の洋学に対する積極的な理解こそ,後に諸藩に先駆けて蘭学を振興した藩主直正に大きな 影響を与えているのであるoこれを同時代の松平定信が別註に掲げたような洋学に対する 保守的態度を示しているのに比較するとき,穀堂が空理を弄ぶ凡庸の朱子学者ではなく, 広い視野と深い洞察を兼備した独白な思想家であることが理解されよう。 別註「蛮国のもじよむ事は,ふるきことにはあらざりけりoちかきころ払. いともてあそぶこと. となりしにや。ある人のいひしは,蛮吉の和解などみたるが,ここにてそうなきと思ふことは つまびらかにして,ここぞと思ふ事いとあらし,おしなべていへば,えうなきことぞおはかめ. る。いまの世,もはらくすしのふみをよみて,もろもろのやまひをいやさんとするものもあり ぬべしo人もめづらしきにはかたぶくならひなれば,たのむものも出できにけらし。もしひた すらになりもてゆかば,あやふきことにこそとひともいふなり○いかにとなれば-・億吉の二. 部三部,師もなく・末書註釈もなく,ただひと通りよみ得しものの,にはかに済生の術なさん としても,信じがたくやあらんoまして風土もたが-れば,革も木もわが国とはおなじからず。. うまれ得し人もまたたがひぬべし。さるにおぼろ捌こよみて得て,似よりたる草木とりて,風 土たがひして,ひとにあた-んとするはいかにかあらん。」. (「花月掌紋」. 「日本随筆大成」第三期第一巻410頁).

(10) 幕末期の学政改革に関する一考察. 23. しかし,単に患直廉潔の士であり,歴史的知識や広い視野を持つことだけではなく,そ うした全藩士に共通する潰質才蔵の外に衆に優れた個人の個性的賃質も適材適所の人材槙 抜をするための必要なものである。彼ほ「人二才不才能不能アリテ此二長シテモ彼二短ナ ルコトアリ大二達シテ小二不得手アリ. アルヒ-一芸ニキキテを大道ニウトキモノアT). コレヲー概二乗備セヨト云テモ中々シュべカラサルコトニテ・-何レ今使フ者-ソノ得手 得手ノトコロヲ用ヒテヤクニ立ルガ肝要ノコト」33)と述べて,藩校教育は文武兼備という ような商い理想像を追うよりも,息直廉潔という共通の贋質の養成と個人の個性的能力の 伸長という平易で具体的な目標を持つことに留むべきであるとしている。なぜなら,藩校 教育の対象となる藩士の大部分のものは,文武兼備というような異常な能力を持たない凡 庸のものであり8a',藩校に動学しても,国家のことを考えずにただ自己の名利に心を奪わ れるのが常である34).それゆえに,全市士を対象とする藩校教育では,そうした平凡な人 間-これを彼は中人85)と呼んでいる-を基準としてその教育方法を考えなければなら ないのであるo. これは一番のすべての人間を組織化し,その持てるエネルギ-のすべてを 結集して富国強兵の突を挙げようとする改革の狙いから考えて,棲めて現実に即した意見 であるといえようo藩校教育において,全藩的規模の教育の場合は当然こうした中人を基 準とすることが現実的であるにもかかわらず,他の諸藩の多くの藩校教育論は,やぼり理 想的観念的に洩れて文武兼備の理想像を目標としているものが多いのであるo. ここにも穀 堂の現実的な思考態度が窺われるのであるが,このように鍍の場合は,すべての所論が彼 の広汎で確実な現実認識と豊富な体験の上に展開されており,それだ桝こ問題の核心を舶 碇に把え得ていることが多いのであるo. 人材撰抜をこよって藩陵の人材が役職に登用される道が確立されると,藩校教育の目的で ある国家有用の人材の養成とは換言すれば国家有用の臣僚の養成ということになる.しか も藩政の榛構が複雑化するにつれて,行政官としての政治的行政的知論が多く要求される. ようになり,また事務処理上の書記的能力も必要になって来る.それゆえに,藩撃で一般 教育としていかに仁義忠孝を教えても,それのみでは国家有用の臣僚をつくり得ないので あるo. 「人才撰挙ノ節何レモ廉直朗智ノ人斗ニナリタルトモ今日ノワザ合ニトリテ鈍キコ. トアレバ人々大二望ヲ失ヒ白然卜学問ヲサミスルコトニナジュクべシ」86'というようをこ, 臣僚としての能力も十分に養成される必要があるoそこでこの臣僚に要求される行政的事 務的能力を藩校教育の申でどのように養成するかという問題が出て来るo. しかし,穀堂は, 「役内ノ審-手数外二色々勘 弁劉シゴト(洞察力,判断力と習熟牲一筆老註)アルコトナレ-役ノ内ノ籍古卜云テ-致シ 臣僚としての行政的事務的能力の養成の必要を認めつつも,. ガタキ」37)ものであるから,藩校で一般的に教えることの出来なも、性質のものであるとす る。窓た改革により藩の行政機構を簡略化すれば「大鮫自分ノ勘弁ニテ柏トトナワル」88' ものであるとしているo事務勉繋上の能力-たとえば文案作製の能力についても,「漢文 ナトヨ1)クラブレ-イト易キコトニテ-・今茂人トテそ発テ案文等ヲサシ立倍古スルコ> ニテ-ナケレドそ平生若付書簡ティノモノニ心ヲ摺ユレ-白然卜上手ニナ/レコトトミュタ 1)」39)と述べて習熟しさえすれば特に難かしいもので経ないから,藩校で特にとりたてて.

(11) 24. 鈴. 木. 博. 雄. 教える必要はないという。ただ藩士の方では,つねにそうしたものに対しても準備する心 が必要であると述べ,「学館ニチモ案文ナト梧古ノ心持ニテ何レモ習熟スルヤウニ致スべキ ナリ,但学館ニ-案文等不得手ナルモ半ナレ-白身二出来ズシテ人二教ルコト-叶ワヌ何 レ面々ヨリ功者ノ人二尋子学フべキコトニテ振ニヨツテ-案文ノ上手ナド学館ニマイツテ. 敬-ラルルコトモヨカルべシ」40)としている。 この外,穀堂は音楽科の設置,遊学制度の拡充,医学館の附設などについても述べてい るが,ここでほ省略する。. さて以上は藩校教育についての改革論であったが,穀堂は藩校教育の成否はそれをとり まく社会環境の影響如何によることの大きいことを強調して,藩校教育の改革と同時に藩の風俗匡正が行なわれなければならないとする。すなわち, 利分ヲ貧ル」弊風や,. 「侍ヒトシテ金銀ヲカシ付. 「平生町人鋲主卜心ヤスク相ナリ町人ノ栄耀ナルコトヲ羨ミテソノ. マ子ヲスル」41'堕落した士風, 「侍ノ借銀スルニモ武士ノ意気地」32'を喪失してしまった卑 屈な藩士の増加, 「淫乱放逸酒狂暴惑一博突」43'などの須廃的風潮のあることなどを指摘し て,. 「コノー件学館ノ致シ事ニテ-ナケレドモ矢二風俗ノ盛衰ニカカリテケヤウノ事-学. 館ノ数-カリニテ俄二改り難キコトナレ-何トソ速ニソノ御吟味コレアリタキ義ナリ」44'. 「鮎罰ノ義-学館ヨリ存スベキコトニアラサレドモケヤウノモノ安閑トシテ大二学問ノサ マタゲトナルナリ」45'と述べて,この匡正を強く訴えている。そこには,. -藩の学政改革 キこは藩校教育の改革などの教育内部の改革,充実と社会の風俗匡正のための政策(教化) とが同時に強力に推進されることが必要であるとするいわゆる学政一致(または政教一致). の思想が存在するのである。. 以上は穀堂の「学政管見」を中心にして学政改革論を考察したのであるが,つぎにこれ よりやや後れて上害された「済急封事」について触れてみよう。 「済急封事」の内容は大 別して, (1)封建的身分秩序の慣例を打破してまでも破格的な人材撰抜を断行すること。 (2)香修顔廃の弊風を匡正して勤倹の風俗を醸成する. 物を育成する.. (3)文武を奨励して積極果断の人 (4)無制限な商品流通,とくに他国商品の流通が奪移の風を助長し,藩財. 政や藩士生活を逼迫させている原因であるから,これを禁止して国産品を奨励するこキ。 に分けることが出来るが,基本的には「学政管見」の思想と変っていない。ただ「済急封 事」が改革の綱領のような性格をもつものであるだ桝こ,より具体的現実的であることが 特徴である。以下その要点を彼の所論に即して考察してみよう。まず冒頭では,藩主直正 入部後一年を経るにも拘らず改革の成果が挙っていないことにふれて,. 「改正の功最早見. ゆべきに,一年を越えたるも大草の雲寛を望みて漸く至るも-点の雨下らざるが如きは残 念の至りなり」46'と苦言を呈し,その原因は「卿大夫始め要職に居るもの」47)が,. 「治国の. 大理に疎く,従来の宿習にて簿書期会をのみ当務と心得,小吏の見識にて事済む様に存 じ」48'ている凡庸さにあると嘆じ,それゆえに第一に「着座以下の役々は格別の人物を採 用相成たく」49'という破格の人材撰抜の断行が要望される。世襲制の慣行によりかかつて いるのみで,. 「只員に備はりて建明なく,世に従うて浮沈する位の人は差繰り(罷免を意. 味する一筆者註)また勤に及ばざる」50'ようにしても有用の人材を挙用すべきであると極.

(12) 碁末期の草薮改革ぎこ関する一考察. √ヽ. -I. ∠Ja. 諭している。時に藩主直正の側近となる「御償憾,内外監督,櫛小姓頭等ほ人物を精選」川 することを轟言しているoこれらの役磯絃後述するようをこ,藩主夜正の嶺弓近から改革派が 生まれ,そこから藩政改革の主導権がとられたという事発があるように,改革派にとって, 自らがよって立つ飽盤ともいうべき極めて孟夏な役職であるから,特に重視している訳で あるo審窯,天保13年をこぼ,この観望の意見が実現され,藩校寄宿生より俊才32入を ′こま。:Lのま. 撰み, 4人づつ線番にしで屯問詰(藩主側近)を禽じているB 風俗匡正についてはまず「当滞上下の弊風は遊惰と蜜惨とのこなり」52'とその問題点な 稽摂して, 「之を改むるは勤倹のこ盲こ若くほなし」58)と述べているo また藩中の因循姑息磁忌の売鼠が改革を妨げていることをとりあげ,これが宥周な人 材の擢用を不可能にし,また藩士の間に「只人の気を窺うて少しも忌諸に触れぬようにと. あみ心懸」54)シナるような退嬰的気風を生じさせているという。このため佐賀藩士揺-故に 視野が狭く頑迷孝員介であるという共通の丸底を持っているとしてつぎのように述べても、るo 「不学にして自己の才馴寺み,人に益を求むる心なく,大理に療く,只今白の手数故にて 何番も済む様に恩ひ,己を修め人を治むるの攻究なく,間には士鑑周法を聞覚え,天下の 事ほこれ妄こて済むと存じ,又は『菓怒』一巻をこて尊慮る様に存じ,茶界槍療等の-/]、鼓を 仕覚えてJ山地を就すなど言ひ,聖賢の道は外国の審上古の審にて,今当園の審をま同様にな らぬとの下心あり,之に加ふるをこ無性の素質にて教習を凝ひ,四書だ捌こても攻究する能 ほず,歳事は一審一芸にて足ると存じ,真澄武備をこは棄て廉く,額韓初の畿争もしみじみ 覚えぬ程にて一生を送るもの十の八九誠に妓壊しき限りなり 中興の事業出来かぬるも亦 宜なり」55ラ こうした熟まれる藩士像を是正して改革の務落着となるような肴摺の入線を育成するた めには,. 「学問を蕊んぜられ,艇令武芸一偏のものも道理をこ抵くては済まぬといふ環」56,な. る学問噂盃の観念を藩士の心底に徹せしむることであるとする.また「以後初T'宮戟に禽 ぜらるるもの絃,文武出清の*をこ男ijして心底宜しく,行状正しく,才力あるものより額周 ひあ」57'るような人材凍抜制度を励行することも必要であるとするo つぎをこ藩財政の窮迫,藩士の生活の困窮という経済的な閑適をとりあをヂているが,彼の 場合をこぼ,この謂潜も-藩の蜜移浮薄の艶俗をこ原因があると論じているoしたがって,疑ら に「献金討議等をこ只様下を磨りて金を出さする」58'ことは「甚しき拙謀にて,それにては治 国の策は絶えて蝕し」59'と断じ,故は著移浮薄の風俗の原因となっている他国産の馨移品の. 浅通を禁止すべきであるとしているoこれは,商品経済の全国的発展をこ伴い,陶器以外首こ 聴に洩通経済に有刺な特産物を持たなv、条約な佐賀蕃にあっては,涜通経済の発展ほその まま藩財政及び藩士の生活をこ大きな脅威を屯たらすことをこなった。しかも腐敗せる藩の盈 臣らが商業漂本と蘇托して藩士の生酒困窮を顧みず,ただ商業鷹本に有利な経済政策をす すめて待ったた桝こ一層象境地状況を招来したのであるoこうした藩と藩士の生活を窮乏 をこ悔しÅれている涜通経済の発展を防止し,藩財政および藩士の主格を封建的な自給自足 凝済の上に引き戻せた糾こをま,まず飽韓産の商品の涜逮を禁止し,ぞの代りに国産品を奨 慶することが指沸されるoさらに財政改革の面でもま金,借金書こ依存せず!. 「義レÅ儲レ出」.

(13) 26. 鈴. 木. 博. 雄. という原則に立って財政収支の構造的改革をなすべきであるとする.つまり藩の収入源で ある基本的貢阻を中心として,これを超える支出面の冗費を肖り滅することで均衡をとるo この支出面の節約には著惨遊惰の弊風の匡正が最も効果的であるとする。文武の奨励,坐 藩士の入学義務制の実施などは,こうした風俗匡正の意味からも有力な施策と考えられた のである。. 以上は穀堂の「済急封事」にあらわれた意見の大要であるが,先の「学政管見」と併せ て穀堂の学政改革論を絶括すると,大略つぎのようになろう。. (1). -藩の富国強兵の観点から全藩士の入学義務制を考え,これによって封建体制の弛 緩とともにあらわれて来た家臣団の解体を防止し,それらを組織的に再編することで 全藩的エネルギーを統合して藩権力の強化に資することを意図したことo. (2)藩校教育の目標を(イ)有用なる臣僚の養成,. (ロ)財政改革の基礎となる風俗匡. 正(-)洋学の導入,武芸梧古場の充実による軍事力の増強などの諸点に焦点づけて 実効のあるものとしたこと。. (3)人材接抜制度を提案して封建的世襲制の弊害を匡正するとともに,藩政改革派をこ の制度を通して藩政の要職に送り,藩政改革を成功させることを考えたこと。 (4)学政改革を藩政改革との密接な関連において考ネ,広く藩政改革全般への見通しの 下に学政改革論を展開したこと。 これらの特質をもつ穀堂の学政改革論は,幕末期以降,急速に絶対主義への傾斜を見せ て来る西南諸大藩の歴史的進展に即応した学政改革論の一つの典型的なるものということ ができよう。しかも彼の場合,多くの空想的観念的学政改革論とは違って,その学政改革 論がそのまま改革の青写真となったのであって,この意味において大きな歴史的意義をも つものということが出来るのである. 2.学政改革の進展. 学政改革が本格的に実施されるのは,天保末年,多年の節約政策の結果,藩財政が立ち 直り,漸く前途に希望をもつことが可能となったときからであり,天保11年の藩校弘道 館の改築拡張がその契機となっている。本節では,この学政改革の進展の跡を辿って考察 することを主題としているが,これに入る前に一応佐賀藩の藩政改革の全体的概括を試み, 学政改革が藩政改革の中で占める意義を明らかにしておきたい。 幕末期における佐賀藩の藩政改革は,主として藩の赤字財政の立て直しのための質素倹 約政策や家臣団の解体化の防止策としての文武奨励,人材旗抜制度などをとった天保期と 積極的な殖産興業政策の実施と西洋軍事科学の移入による軍事力強化を図った嘉永,弘化 以後の時期との二段階に区別することが出来る。天保期においては累年の借財政策の結果 として藩財政の危機的状況に陥り,もはや姑息な借金政策で現実を糊塗することは許され なくなり,そのため,冗費節約,著移禁止などの質素倹約政策をとるとともに,藩政機構 の簡略化による人員整理を断行せざるを得なかった。直正は入部直後,徹底した粗衣粗食 の倹約令の励行を申し渡すとともに,職制の簡略化につとめ,天保6年藩政改革派の藩政.

(14) 養護斉の学毅改革をこ窮する一考察. 掌歴と同時に. 27. 420. ▲余人書このぼる冗員の大削減を断行したoこれは役職をこある藩士総数の 113をこ相当する亀ので,いかに大晦の人員整理が実施されたかが理解出来よう。労u註 -_. ]∴∴1. 、・-、い.-1。ミ. 「大乱. ∴-さ∴、●'J.・.・,こニ-_.. J・::lL 丁:一・, ∴・二,.I//∵'/I.、.;:,. ::. ';:"i. ・、∴.、:一二∴∴. 沙こ汰冗官-可レ快 同僚田中杢佑,督長阪井弥兵衛,亦以二老藤一. 沙汰減宅o一挙痩. 難事, 1日来所レ軌 天錫有二密議--,七日滅二名内朝官-,凡百六十五入,琴柱之弊衣二其中一, 怨江戸三傍,及三城,十互之内額不レ与,可レ見二笈官之多一也-・九日,贋薮i-a会議,外賓 減参政三^,同風習二人--十-日,内外減′凱 別註2. 璽二百徒--,凡四五百人,極快事」60). 佐賀藩の階層結大略つぎのようであるo. ・7家恕驚門および家老で執政の家私 -:. I. ・-二メ二二.∴. ・.I-. :.∴.=--:.∴-. _∴. ・5綴1188入京壷義芝是忘警ti粘るo 手明槍 チ. 22組888人讃蒜慧欝蒜監豪・&豆学芸雷雲oLl. ヤワ. 行. 薪港行 渚職人,大工棟梁. 人人人人人. 小道具組 支配足軽. 1. 080鉱oO樹 61312. 大砲親. 5. 組経線鮭. 軽. 00 人人 超越 3 Aェ6. 24. 64ウ〟1. 弓 親 鉄砲巌. 5ウ】. 歩. ャキ. 鍛治,費霊琶,敬Å,坊主等. こうした徹底した繁藤政策の励行によって,天保7年に至って,本藩,江戸藩邸とも改 革究遮後,姶鋳て年間の財政収支が黒字となり,その後,次第をこ好転して待ったのであるo しかし,無能のものや冗員の陶汰ほその後もしばしば行なわれ, は不得己乳. 「自然此己後不心得の人. 御基線(罷免をさす一筆老註)にも相成」61)(天保9年の人員婁埋の折の達し). という身分秩序の階層飴差男uを鯵正して慧でも不正臣僚や冗員の淘汰をする決意を哀して いる。. -方家臣団の解体の原因の-つである藩士の鯖禅的額療を防止することをこついては,藩 綾教育の姦充につと冷,経済的窮乏を救うためをこぼ,倹約令のめ待とÅ材登用の遷を発い たo天保3年には御僚方,御山方の二局に藩校から有頗の人財を旗放して任合し,同6年 には改革派藩士が藩の薮哉を占めるに萱り,中・下士層をこ有利な藩政改革が推速されて待 ったoたとえば改革以前をま教練によって差別のあった蔽栄率を天採8年より同率をこ賦課す ることを速めたが,その括巣は上土腰をこ不利, * ・下士層をこ絃有事!lなものであった捌註)。.

(15) 28. 鈴. 木. 博. 雄. 献米制度の内容62). \_、賦課率. 天保8年以前. 高\-\\. E 天保8年以後 動体とも 分. 佐賀藩では, の家格。. 1000石以上は一門家老. 300石以上が着座の家格で上土 30. 石以上が中土層. 1000石以上. 4.5. 層をつくっており,. 300石-1000石. 3.61. をなしている。したがって藩士の大多数. 200石-. 300石. 3.15. を占める中・下士層のものは,この献米. 150石-. 200石. 2.69. 制度の影響は極めて少ないのである。. 100石-. 150石. 2.25. 50石-. 100石. 1.8. この家中献米制度は,その総額が藩財政の総収入の30. %に相当するほどの大きいもの. であり,献栄を差し引かれた藩士の俸禄は極めて少額となり,それをもっては全く生計が 成り驚いものであった.とくに献米率が従前の休みのものと同率になったことは,勤務の. 多い上土層には実質的には献米率の引き上げとなった訳である。こうした家中献米制度に よる藩士収入の減少は,他方において役職米給与制度によって補充される仕組みになって いる。すなわち役職米の給与額を増額して別註のような制度を設けキのである(別荘). 役職米制度の大略63) (要職についてのみ列挙した). これによれば,都万,代官関係の役職米が比較的多く増額されているが,この郡方,代 官関係の役職は,中・下士層の藩士から旗任されるものであるから,結局は中・下士層の 中の有為の人材を優遇する道を制度的に講じたものといえる。この献米制度と役職米制度 とを併せて考えて見るに,これらの制度の実施によって,藩士は,身分の高下にかかわり なく,役職につき,役米を給与される身分になって始めて生活の安定が可能となるのであ る.上土層と錐も従前のように世襲的に役職につくことは因襲であり,且つ役職につかず に無役のままでは,献米制度のた釧こ経済的に差し支えるということになり,是が非でも 役職に登用されるべく努めなければならなくなる。中・下士層の場合は一層深刻で,多く の同僚の中から撰技されて役職に就かなければ生酒の安定は得られないのである。しかも..

(16) 纂末期の学政改革をこ関する一考察. 29. 役職への任f削ま,藩校の成績によって,有為の人材を撰抜任用する制度をとっているから, 必然的に藩校勤学に努めなければならなくなって来る訳であるo このように,財政改革と 学政改革とが,藩士の最大の関心事である俸禄の増減を媒介にして見事に結合せしめられ ているのであって,. 「御家中トシテ-決テ学問七子-叶ワヌト云厳法」を立てるべしとす. る穀堂の主張がここに見事に結実しているのである(別註). 罰註. この点については後年弘道館に入学した大隈重信が「園藩の少年子弟は皆な弘道館に入りて, 其の裁定通りに朱子学を惨め試験に及第して家録を全敬する志を起さざるを得ざらしめたり。 藩校に入りて聯科に及第せざれば,家緑を務ぜらるのみならず,赤仕途をこ就く罷わずと為すは, 是れ明清の豊科及第法よりも厳醸なるものなり」8i)と述懐しているo. 以上は藩財政の支出面を肖u滅し,家臣団の解体を防止するための藩庁内の哉勘改革や人 員整理について述べたのであるが,これと同時に貢艶色担の主体である白営農が農村の階 層分化の進行とともに解体して行く憤向を防止し,小作農へ転落したものを再び白営農に 育成するた糾こ,まず天保5年,農村の階層分化の原因となっている鄭せ-の商業旗本の 浸透を禁じ,桑濠分離を決定する。天保13年に娃宛う10ケ年間の加地子潜予令(未納 ']、作料の支払停止令一撃貴誌)を出し,. (これは嘉永4年をこはさらに10ケ年を延長して. いる)豪借財の奉fl子支払を15ケ年間停止することを合しているoまた弘化元年にほ農村 をこおシナる商行為を厳禁する布令を出しているoこれらの政策ほ,いずれも農村を浸蝕して 待った商業旗本や豪農の商業梁本化の億抱に対する強い抑圧政策であるが,これら絃穀堂 の「済急対審」にあらわれた意見の具体化と見ることが出来ようo 貢鼠色担の主体である自営畏め育成を最も画期的な彩で実施したの紘,いわゆる均摂政 栄(落着土地の農民への分給政策)であるoこれほまず富永5年,凪山代官所内の薄着亀 に実施され,文久元年にほ全歳入鞄に実施された。 以上が藩政改革の第一段階である天保期の諸改革の大略であるが,絵約数策の徹底によ って藩財政の立ち定りに見通しのついた天保末期からほ,陶器や石炭を*心とする殖産興 業政策を推進し外国貿易にも参加するようになるoすなわち,弘化2年国産方の拓渠,寡 永2年,山方より国産方の分離独立などゑミそれであるoまた外圧の影響や国内数局の混迷 才ヒなどから積擾約に軍事力の強化をこ腐心し,そのために経洋式軍事科学を移入し,浮弐欠 器の装常,製造に蒼手する。弘化2年にほ畿時軍隊顧問の成立,嘉森元年の洋式壕銃の採 乳案永3年にほ銃砲の新隊を編成し,また大砲鋳造場を設置して反射炉を設をナたo寡永 5年に捻韓産方に精錬所を設シナ,科学技術の研究をなさし軌ついで家政4年には手銃要 道方を設置して洋式礁械を装置し,洋墾船を欝久して海軍歌詞方を設をテる.空5年にほ造 船機械を購入しているし,さらに文久元年になると三重浄に汽缶繋造所を設けているo玖 上が第二段階の改革の大略である。 さて以上のような第一段階から第二段階をも含めて藩政改革のすべてを推逢して行った 主体的努力ほ,天保6年に部日姑息的な重臣門閥の藩政支配を併して白らが藩政の架橋を 翠挺した中・下士層の中から輩出した改革派藩士たちであったoその多くほ,穀堂に薫陶.

(17) 30. 鈴. 木. 博. 雄. され,長じて藩校に関係し,また藩主側近とな-て,それまでの因循姑息的藩政に凱、批 判を持っていたものであったoいま,これら改革派の内,とくに藩校と密接な関係を有し ていた有力者を挙げればつぎのようである。 古. 賀. 穀. 堂. 藩校教諭,徒士頭らを経て進物役兼藩校教授(文化3年)となる。その 後御番方附役,長崎仕組方附役などを歴任し,天保元年,年寄相談役と なる。改革派の指導者。. 牟田口藤右ヱ門. 藩校に入学し,豪養舎生,内生寮生を経て藩校指南役となり,ついで教 諭となる。. (文化元年)その後,近習兼侍講を経て御側頭(天保6年)と. なり,学館教授役を兼ねo後に大目付(弘化3年)になる。安政2年, 74才で殺す. 井内伝右ヱ門. 藩校指南役(文化元年)を経て同教諭(文化7年)となる。上府して昌 平校に入り,同舎長となるo帰国後,藩校助教(天保元年),ついで侍 講,小姓頭,藩校教授を歴任して参政(天保6年)となる。後に番頭 (天保10年)に進む。弘化3年,. 63才穀 藩校に入学し・長じて藩校指南役より近習兼侍読となり奥小姓兼教諭に. 永山十兵衛. 至る(天保6年)その後,例日付を経て御側頭(天保11年)に至り, 藩校助教を兼ね。弘化2年44才で殻す. 原. 弼. 田. 藩校教諭(天保11年)を経て同助教(嘉永6年)に進み,側役兼任, 後に参政に至る。明治12年68才で殻す.. 吉村. 幹. 斎藩校に入学し,長じて藩校指南役を経て同教諭となり,上府して昌平校 舎長となるo帰国後藩校教諭を経て助教兼什役となる。弘化4年59才 で殺す。. 福. 島. 文. 蔵. 藩校に入り,長じて藩校指南役となり,上府して昌平校に入り,舎長と なる。. (天保10年)帰国後,藩校教諭(天保12年)となり,後に徒士. 頭に進み,世子侍読を兼ぬ(安政中).文久3年63才で穀す。 三. 好. 紀. 沿. 革校に入り,長じて藩校指南役(文政12年)となり,その後江戸藩邸学 問所明善堂を管す。. (天保10年),帰国して組頭となり教諭を兼ぬ. (孤 化2年),さらに進んで監察に進み教諭を兼ぬ○ (嘉永5年)安改元年. 51才で穀す。. 以上掲げた改革派の履歴を見ただけでも理解出来るように,改革派藩士の多くは藩校に おいて穀堂の薫陶を受けて育ち,成人後は自らも藩校に関係することが多かったから,学 政改革を藩政改革の中心として強力に推進して行くことに熱情を抱いていたのである.た とえば・. 「井内南涯の主義とする所は・家中の士に文武の業を奨励して士気を励まし,以. て英数打壊の鍋島元気を鼓舞振作するにあり」65)と伝えられているが如きは,これを示す ものといえようo穀堂は,白分が薫陶した改革派藩士が藩政の実権を掌挺した天保6年の 翌年,未だ藩政改革の成果を見ることなく穀したが,彼の素志は藩主直正をはじめこれら 改革派の藩士らによってその後着々と実現されて行ったのである。.

(18) 幕末期の学政改革に関する一考察. 31. 以上は佐賀藩の幕末期をこおをナる藩政改革の大略を概観し,その担い手となった改革派に ついて考察したのであるが,つぎにこれらの人々によって実施された学政改革の過程につ いて考察を進めよう。. 藩校弘道館は天明元年,八代藩主治茂の時,穀堂の父古賀精旦が中心になって創設され たo当時の藩校の規模は,篤信局(内生寮),拡充局(外生寮),敬信局(豪養舎)の三局 を設仇. そこでそれぞれ定語学乱通学生(17才以上),童生(16才以下)を教授し, 別に武芸倍古の長尾を設けたo朱子学を正科とし,毎月二回の内試と-回の会試があり, その成績を名簿に記録し,その名簿より人材旗抜をする制度であったo藩校経費ほ250石 で藩校の規模としては当時の渚藩の藩校と比して少しも遜色のないものであった。穀堂の 「学政管見」にも「御建立ノ勧-▲出席人雲霞ノ如ク館内ニモ入切ラヌ位ナリシ由」と伝え ている。しかし古賀清里の昌平校教授就任や好学の藩主治茂の死去などによって中心を失 った藩校は,その後次第に衰退し,加うるに藩財政の逼迫による緊縮政策の影響を受けて 藩校経費も170石に削減された(文化初年)。毅堂が教授に任ぜられた文化初年はこうし た藩校の最も衰微を極めた時であったo披がこれを憂いて「学政管見」を上害したが,そ の趣旨は嘉納されたが,財政上の理由から,すぐに採用されるまでには至らなかったoし かし,穀堂の努力もあって,次第に藩校教育に関して藩政当局者も関心を払うようになり, 文化11年6月には,人材旗挙に関して藩主の諮問が乱文化12年には,三藩士が学館謹 話を愈ぜられた。文政2年に至ると,全藩士に対し,弘道館への出席奨励の訓令が出され るo. このようにして,藩校振興のた糾こ徐々に気運が高まって来たのであるが,文政10. 年3月にほ,家督相続の際には,文武の倍古の有無および進歩の藻度,相伝免許の有無, 学館出席度数などをこより審査して未熟なものには小普藁科を課すことを達したoこれによ って藩校に教学することが藩士をことって切実な問題となって采た訳であり,これがために 藩士の藩校観は一変したというほどであったo天保元年,十一代藩主改正が蓑封するに及 んで,この政策ほ一層朗毅な酵をとって来たo一枚ほ天保元年三月佐賀に初入国したが,直 ちに長崎に赴き幕府より禽ぜられている長峰警備の状況を視察し,そこより帰国すると間 もなく,五月二日,親ら弘道館をこ臨んで数学する生徒を上下の朗なく悉く引見し,学館頚. 入ら書こ対して絃「学館の儀一放出席改て不能串爵生家立の義忠孝の志欝文武蒋磨御国用相 立県入才出来贋様専可心懸旨」66'を述べて激廃し,それ以後ほとんど毎月一対も欠かすこ となく弘道館に施療したoまたその外にも額会と称して誇生を集めて経書会読の会を開い たりしたo翌2年をこぼ文武の鐙古を奨廃するために,. 「以来新Eiこ役義串付侯老は,符状淀. しくして文武蒋磨察老を吟味せし妙援挙すべく侯」67〉という人材旗按儲度を窮らかにした。 同3年には,この趣旨に員uり,鞠山方,御衝立方の二局をこ有用の人材を鎮鼓して任周したo ついで天保5年にほ文武の試験濁度,出席競私選学境窪,などが整席された。その要点 をま大略つぎのとおりである。 1・会読(正式の能力認定試験)紘,諸道填で相伝熟達しているものの申より,格労組精 のものを撰んで,文武ともに毎年試験をする。 2・文武の締家ほ,病後なるべく合同薄青をするようを与するoまた新規の軒家が願い出る.

(19) 32. 木. 鈴. 博. 雄. 時ほ,試験をして技細入物ともに相当の者でなシナれば任命しない。. 3.文武の若者のために触発に遊学を志駁するもの経,目録,免状,楯伝などを得たもの について技傾学識を試験し,平素の勤学状態を調査した上で許可されるo帰国後も技傭 学識を試験し,格罰に昇進したことが歴然たるものにほ褒葉がある。 4.文武の出席度数を目下讃査させているが,欠席の多盲、ものにほ告があり,ホ身貧窮の 中から努力しているものや特別をこ出精の老には褒美の沙汰があることo (従来ほ数年毎であった。)その折の銃弾,鉛などの費用. 5.騎射の会試を毎年することo は助力されること.. 6・砲術ほ武芸同様会読,内訳を隔年にすること(監禁墓警瓢 7.御親炉以下着座までの上層藩士は一層文武の倍古に出精すべきこと。中でも文学を主 として研究すべきこと68)o. 天保6年にほ,. 5凡. 佐賀城二の丸の焼失を契横に直正の父斉家の藩政への儲射を耕し. て直正の親裁制を確立し,同時にそれまで藩政の要職にあった重臣門閥層に代って,改革 浜藩士が挙って要聴についたoすなわち, 鍋. 島. 安. 房. 井内伝右ヱ門 、:二 .:IL㌻'l::: ,;・:I:. 執政就任 参政就任. 御年寄相談役 :. 牟EE3口藩右ヱ門. ::-::‥● ::. 永山十兵衛. 奥御小姓. 中村彦之丞. 相続方相談役. しかし至6月,これらの要職をこつもうた改革常春士の内,穀堂ほ学館教授,牟田口托教導 方,永山は学館教諭を,それぞれ兼任することになるo これほそれ窓で藩校の中心であった 改革派藩士が挙って藩の要職について,藩校を抜け出したた捌こ,改革派の本拠というべ き藩校に入線が乏しくなり,藩校教育をこ支障を来すことを憂いたた吟であるo. しかも,徳 らが兼任する紡鼠結果的にほ蕃致と学政の有壊的連契を一層緊密にし,その後の学政教 革の突施上に大きな助けとなったのである。 天床6年4月,家老着座のような上土層にも藩校に教学するようにという達しがあり, 同6月にほ着座の家柄の藩士50名に2ケ年間の密接定詰を禽じているo. これは前述のよ うに,上土層が藩政の実権を振る家柄であるだ桝こ,その中から有用の人材を輩出せしめ. ようとする藩主の意図を示すものであるo. またこの年,従来の学校経費に70石を増加し. て240石としたo学校経費については,創設以来,薄財政の感化とともに影響を受をナて肖rj 滅されたりする場合が多かったのであるが,その時代別変遷を見ると,つぎの頁の表のよ うであるo. 藩政改革に着手してから5年,漸く藩財政をこも立ち直りの見通しのついた天栄11年に は藩校弘道館の拡張建築が着手された。すなわち北堀端の東西4町,南北半町会の林地を 開拓し,高さ3丈余, 5間に20問の大広間をもつ大講堂を設け,その外,武芸者流の試 合場,内生案(寄宿生の校舎),外生寮(義学生の勉強する綾舎),飼,鎗,柔藩衝の捨古墳,.

(20) 33. 毒液期の学政改革軒こ関する-考察 学校経費時代別変遷襲. ぎ学校堅慧 石高. 年. -ii巨. 冬. 石 150. 天保11年. 天明元年 (創設時) 天明5年. 2 20. 文イヒ2年. 17 5. ・∴一に2JL-.. 文政4年. 17 1. 覇永元年. 天採元年. 13 0. 〝. 3年. 17 0. #. 6年. 190. 〝. 9年. ー9 0. #. g. 註1.制,%-・上は天保6年より240石iこなったが,. 至学校慧雷 釆際は財政難のためをこ190石しか支給され 石 '・・.j^= 鋲貫250. 1連年. 3年. 変改2年 ・. 4年. ∃ 700呈. 600. r-. 00. なかったらしい。天保11年より1000石と なった場合も同様である。. 2.天蘇11年軒こは正銀24貰経弘道館増築の費 頗と見られるが,これは米をこ換算すると,. 6 50. 380石余に相当するから,天陳14年の600. 6 50. 石とされているのと見合せて,この時から,. 6 50. 600石程度のことが考えられても、たのであ ろう。. 素養舎 くか学校)を設置しており,をの規模は量目鎗に教倍する広大なものであったo. なお. 劇凝として和学療,兵学寮を設をナ,後をこ蘭学案も掛設されたo学館経費もそれまでの終4. 倍である1000石をこ増額されたoなおこの藩校拡求工事をこついては,藩士の少壮子弟抵自 ら請うて土砂木石の軍務などの労夜をこ従事したといわれ,その際をこ彼らが両刀を常にして 労役に従事したので,侍日雇と称したということであるo. この-大綜合学園の完成をもつ. て学敦改革はいよいよ本格的妄こ推透されることをこなるo天保12年をこは,文武不心掛の藩 士に労し,長病の入をこ准じて英静より拭釆を課することを達したo. この結果,これ以後ほ. 文武不心拭の敦をもって出来を課せられる亀のほ全くなくなったということであるo. また. この年,文武出終審の他国遊学が突現したo天保13年をこほ,内外南郷か姓,賓院啓をとなして爾/l、建と改私 共数を域じ,別に学館内生寮の寄宿生より俊才32入を撰み,. 4. Åずつ輪番で屯問藩(たまりのま浩一藩主償近)を禽じた。これ経教望の「済急対審」で 経験されていたことの農林すとであるが,少壮有為野俊秀を藩主傑近において政治上行政上 の鰐軽の契際的体験を番えて将来有能の臣僚となるべく敦潜約調練を施すことを意図した ものであるo. なおこの年にぼ人材捷鼓に際して基準となる武芸の修行程度を各階層毎につぎのよう首与 信、'・∴, 侍. 渓. 上. 鎗褒の内-蔚托是非とも練熟すること.叉,弓馬凌衛柔衛居合永練などぼ 余力があれぼ穫肯することo. 芋. 粥. 歩. 新 足. 歩. 鎗. 槍顧を濃に倍音すること。をの蝕も余力甲あり碑第橋台することo. 行. 逸衝を蓋芸として寮肯し,その上腐蔚も心率ミをテること。. 行. 弓術を薮芸として倍音し,その上東筋を′eJ餅ナることo. 軽. 其組々の主菜に練熟し,鹿術を心がをナる与とo. 歩行足軽Il、道具の老中間琴供方帝撃衆者. 療菊菜衛ネ練などを心がをナるこ,と$9'o. /. この武芸の修行基準ほ,戦時のとき紅各階層によって翠斗畷琴が異なるのセ,:それに適 する武芸の習熟を要求しているものであるo. この武芸の修行基準紅ついで,さらに文武にわたってその基準を折襟にしたのが,嘉永.

(21) 34. 鈴. 木. 博. 雄. 4年の文武課業法の制定である。つぎにその要点を紹介しよう。 (1)着座以下30石以上 文学の独看,武芸の免状 30石以下芋粥鎗まで. 文学の出精昇達,武芸の目録. 但し両免状を持つもの若しくは一家を立つべき人物(一芸に優れた専門家)は,この規 定から外される. 註1・. 30石以上は組頭となる上土の家柄であり,. 30石以下は中・下士層の家柄である。. 2・文学の修行階梯は,藩士が16才以上になると内生案に寄宿して文武の業を専修するが, 最初は武芸の入門に匹敵する段階で初入という。この段階では,寄宿費は自費でまかなわれ なければならない。この段階より進境して成績の挙ったことが認められると茶代(又は菜代) (二食分銭6文の副食費)が給される。江藤新平がこの茶代支給を受けて居った折,貧困の ため飯米の納入を延滞していたところ,賄方から食事の停止を申し渡されたが,江藤は平気 な顔で,我輩は茶代を給せられて居るから飯は食ふことが出来ぬかも知れぬが,副食物は食 う権利があるといって,食卓に就き,他人の残飯を貰って平常通りに食事をして賄方を呆れ させたという逸話は,この制度に由来している訳であるo なお学力が上達したことが認められると,出精昇達の免許を受け,食費の半分が給される。 これほ,武芸における目録相伝に匹敵する.さらに上達して独力で読書を理会し得ることが 認められると独看の免許が与-られ,全食費が支給される。これを定語と称し,学校にて後 輩の誘拒指導に当ることも出来るo武芸の免許相伝に匹敵する.. (2)この文武課業法は25才までに成就することを要求されており,これを成就しない 者は,本人ならばその給禄を相続米渡り(家族が生酒するだけの飯米を与える)とな し,嫡子の場合は督励しても見込みのないものは廃嫡にされる。 (3)文武の課業のどちらか一方しか達成できない場合は出米は半高になるo (4)文武の課業を成就しても,. 40才以下の人で役職についていないにもかかわらず,. 勤学を怠り勝ちの者には出米を命ぜられる。 (5)文武の課業が達成されない間は何事によらず役職に就くことはできないo (6)文武の課業を成就しても役職に就くのは26才よりである。 (7). 25才までの嫡子,部屋住のもので文武ともに怠惰のものは別に処罰される。. (8). 36才以上40才までのものは,向う6年間のうちに課業のうち一事(文か武のどち らかを)成就すること。成就できないものには出米は半高となる70)0. この文武課業法の制定によって,藩士は否応なしに文武の倍古に励まざるを得なくなっ た訳で,改革派の意図する全藩士の入学義務制は実現され,全藩士の教育が藩権力によっ て掌握されることになったのであるo この結果,藩校が盛況を極めるようになったのは当 然であるが,しかしあまりに厳格な課業を課したた桝こ, 「偏に課程を遂贋迄の梧古の様 相成却て軽薄の風に相移侯て不叶」71)という批判が生れるに至ったo. すなわち,課業の成. 就だけを目的とした文武の借古が多くなり,課業の認定を受けるのに孜々とするものがあ らわれて来たのである。このため,この文武課業法は9年後の安政6年に廃止している。 なお廃止の主なる理由としては当時の急激な時勢の変転下では,すでに.9年前の課業法が.

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