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[巻頭論考]英宣教師ベッテルハイムの琉球観: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

[巻頭論考]英宣教師ベッテルハイムの琉球観

Author(s)

照屋, 善彦

Citation

琉球王国評定所文書, 7: 6-30

Issue Date

1991-03-26

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/19230

Rights

浦添市立図書館

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め ベッテルハイム ( 図。吋ロ釦﹃門同﹄ O V ロ 切 巾 円 丹 市 5 2 B W

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は 英 宣 教 師 で 、 一 八四六年(尚育十二年)沖縄に来て、 八年余那覇に滞在してキリスト教を布教し 一 八五四年(尚泰七年)退去した。当時の幕藩体制下でのキリスト教禁 令政策で、彼の布教は予期した成果を挙げることができなか っ た 。 しかし彼は王府による迫害に耐えて、 八年以上も 家族と共に那覇に留ま っ た 。 そ の 問 、 ベ ッ テルハイムが琉球王国末期の那覇で見聞したことは、比較文化的テ 1 マ と して重要である。 来島前 ベ ッ テ ル ハ イムは英国の先人達がっ く りあげた琉球に関するある種のイメージを持 っ ていたが、その琉球観 は来島後王国の現実に接して大きく変化した。そこで本稿では、英国人で宣教師である ベ ッ テ ル ハ イムが観察した琉 球王国末期の政治体制、対外関係、社会階層 、 経済状態、庶民の日常生活についてふれながら、来島前と那覇滞在中 の彼の琉球観を検討したい。そのことによ っ て 、 まず琉球側の資料では十分解明できない彼の言動を理解する手がか り を 提 供 し 、 さらに﹁西洋 の 衝撃﹂といわれる十九世紀中葉の西力東漸の際、 一 般の西洋人がも っ ていた東洋人に対 する姿勢を認識することができるものと考える。

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一 、 来 島 前 の ベ ッ テ ル ハ イ ム の 琉 球 観 の 形 成 ) l ( 十九世紀前半の英人の琉球観 ベッテルハイムの琉球観を見る前に当時のイギリス人が持っていた琉球に関する情報とその情報に基づいて形成さ れた琉球観について述べてみたい。十六 ・ 十七世紀のウィリアム H アダムス時代の漠然とした情報はここでは触れな い で 、 イギリスの産業革命後にアジアの海域へ多数の般船を派遣した十八世紀末からの詳細かっ正確な琉球に関する 情報と琉球観について検討することにする。 十九世紀イギリス人の琉球に関する主要な情報源に、次のような文献がある。 ( l ) 軍のプロ 1 トン鑑長の﹃訪琉記﹄、 ( 2 ) 二 冊 の 来 航 記 、 一七九七年に琉球へ来航した英国海 一八一六年来島し人口に謄突したパジル H ホ ールとジョン H マクラウドが著した ( 3 ) 一八一八年来 航 の ブラザース号に同乗していたウィリアム H エディスの手記や、 ( 4 ) ッサム号で沖縄島を訪れたビ l チ│艦長の航海記、 ( 5 ) ( 6 ) 布教したギュツラフの記録などである。 一八二八年英艦ブロ 一八三二年と一八三七年の二度も来島したドイツ生まれで中国で いずれの記録も、英国人で沖縄を訪れた者は中国 ・ 朝鮮 ・ 日 本などのアジアの諸国で経験したことないような地元 住民との友好的な接触をしていることを-記している。琉球を訪れた英人は、まず寄港を拒否されなかったこと、住民 は穏やかな態度で異国人と接触していること、外国人が必要とする水 ・ 薪のみならず食糧をも供給してくれること、 巻 頭 論 考 とくに鶏 ・ 卵 ・ 豚 ・ 牛なども供給してくれることは当時の沖縄の近隣諸国では余り例がない。その上、これらの提供 物品への金銭の支払を一切受け取らないのには 一様に異国人は驚きを隠さない。琉球側としては、異国人との摩擦 を極力回避し、 できるだけ早めに琉球から退去してもらうため無償で提供したこと、 さらに船舶の必要とするものに 七

(4)

ノ¥ 対する代金を受け取ることは、 国禁である中国以外との貿易行為に発展する可能性があるためであった。 このような特異な琉球側の事情による異国人対策のための苦肉の策だということを知らない異国人は、 一種の神話 を作りあげた。すなわち琉球人は、異国人に対し常に友好的であり、武器もなく平和的に暮らし、その立居振る舞い においてまことに礼儀正しく誠実で、 ユーモアのセンスがあ っ て明るく、その上すべてにおいて寛大であるというイ メ lジが形成された。こうして琉球は世界における﹃最後の楽園﹄だとする神話が、十八世紀末から十九世紀初期に かけてヨーロッパ文壇を風擁したロマ ン テ ィ シズムの 潮流に乗 っ て 喧伝され、広くアジアの海域で活動していたイギ リスおよび欧米の船員たちの聞に定着していた。 (2) 琉球伝道会の創設者クリフォードの琉球観 ベッテルハイムを琉球に派遣したのはイギリスの小さい伝道会である。この英海軍軍人琉球伝道会 ( F g n y o o Z 雪 印 ︼ 冨

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、以後琉球伝道 会と略記す) は、英国海軍の退役大尉であるクリフォード ( 国 内 号 巾 ユ ﹄ o y ロ わ ロ ぼ O 吋 門 y n -、 話 。 ー -∞ 印 印 ) によって一八四三年設立された。 クリフォードは一八一六年パジル H ホlルと共に、琉球 を訪れ島民と親しく交歓した経験を持つ。琉球滞在中に彼は琉球語を採録し、 ホールの著者﹃朝鮮・琉球航海記﹄に 載せている。 クリフォードが琉球伝道会を設立した理由は、彼らの沖縄島滞在の四十日余の問、島民が二隻の英艦が必要とする 日用物資を十分に提供したばかりか、英側の費用支払いを受け付けなか っ た こ とに対して心が痛んだためである。英 人からのお礼を受け取ろうともしない琉球人への返礼を如何なる形ですべきか、 クリフォードは長いこと頭を悩まし たようである。その解答が、琉球人への返礼としては形あるもの物質的なものを琉球人がかたくなに辞退したので、 目に見えない精神的なものにすべきだということになった。すなわちキリスト教を返礼とすることにした。クリフォl

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ドは、真実の宗教であると西洋人が誇るキリスト教を異教徒の琉球人に紹介し、その教えの恩恵を広く琉球にもたら すことで返礼となると確信したのである。 琉球伝道会の設置の直前の起こ っ たもう一つの事件が、琉球は﹃最後の楽園﹄であるという神話を一層確固たるも の に し た 。 一 八 四

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年(尚育六 、道光 二

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)

、 ア ヘ ン 戦争の最中、 イギリスの紛送船インディアン H オ l ク号が沖縄 島北谷海岸で座礁難破した。その際、北谷の住民は六十七名の船員のために二軒の家を特別に作 っ て 住 ま わ せ 、 四 十 六日もの間十分な水食糧を与え 、その上船員らが中国に帰還できるよ うにと読谷の渡具知の浜で建造した百トン程の ( 7 ) 船まで提供して くれた。インディアン H オ ー ク号以前に、琉球近海で遭 難した英国船は、 一七九七年(尚温三 、嘉慶 二)宮古の 池間島北の八重干瀬で座礁沈没した英艦 プロピィデンス号(.フロ ー ト ン 鑑長 ) である。同艦は幸いにも僚 艦をともな っていたので、宮古島 民から食糧などの援助をえて無事中国へ引き上げることができた。 し か し 、 インデ 争 ( ア ヘ ン 戦争 ) ィ ア ン H オ l ク号の場合は、事情が全然異なる。同船は琉球が四百五十年以上も宗主国として進貢してきた中国と戦 ( 8 ) している英国船であることである。当時、琉球人もこの戦争の勃発については知っていたのに、 し、 わば宗主国清朝の敵であるイギリス人を四十日余も保護したからである。さらに、島民は薩摩が派遣した数百人の武 ( 9 ) 装集団からこの遭難者を庇い、英人と薩摩兵の武力衝突を旨く回避させることができた。インディアンHオーク号の 乗組員に対する北谷での村人の行為を、後にイギリスの関係者はイエスが隣人愛のたとえ話にした﹁善きサマリ ( 叩 ) ア人﹂に比すべき類稀なる美談として絶賛している。 巻 頭 論 考 インディアンHオ l ク号事件は、琉球伝道会設立へ向けてのクリフォードの決意を固めさせたようである。会の設 立趣意書の中で、彼は琉球に宣教師を派遣する理由について次のように述べている。 九

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時折、﹁伝道活動が必要な地域が大変沢山ある時に、

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なぜ琉球島に伝道会を設置するのだろう﹂という疑問が これまでありました。勿論、神の福音は総ての人に説かれなければなりません。しかし、 イギリス人には琉球に 対して感謝しなければいけないということがあること、 送ってお礼をすべき特別な義務があるという事実から、 それ放にイギリスのキリスト教徒は琉球人に神の福音を ( 日 ) 目をそらしてはいけないのです。 (3) 着任前のベッテルハイムの琉球観 クリフォードの当初の計画は宣教師一人に医者一人計二名を琉球に送る予定だった。宣教師のほかに医者を送るの は、発達した西洋医学の恩恵をキリスト教伝道と抱き合わせることで、宣教の効果を挙げることを狙っていた。中国 では後にベッテルハイムの友人となる米宣教医のピ l タ l H パ l ヵーが、広東住民をキリスト教に引きつけることに 成功していた。琉球伝道会は、前述のように一八四三年に設立され、 その基金を一般から募集した私設の伝道会であ った。一八四五年には宣教師を一人派遣できる資金が集まり、人選の結果ベッテルハイムが選ばれた。彼は家族(妻 ・ 長女) を伴って一八四五年末英国を出発した。東洋への航海中に男子が生まれ、家族は四名になる。 英国を出発にあたってクリフォードはベッテルハイムに訓令書を与え、その中で赴任地琉球でのベッテルハイムの 行動の指針を明示している。すなわち﹁︹琉球に︺上陸を許されたら、貴下は直ち国王に会うこと。当委員会は、貴 下の慎重さと能力を大いに信頼している。そして貴下が︹琉球で︺、﹃鳩の素直さと蛇の賢さ﹄︹新約聖書マタイ伝川 ( 門 川 ) 章 同節 ︺を 、併せも って行動するように希望する﹂。この訓令書の精神をベッテルハイムは沖縄で 、王府の役人との 対応によく適用して役人を悩ませるようになる。 またクリフォードは、同訓令 での次のように琉球の日中両属関係について述べ 、慎重な行動をとるよ うに指示し

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た 。 当委員会が現在予想する︹琉球における伝道における︺最大の困難は、琉球が中国と日本の双方に進貢してい ることに由来する問題である。中国皇帝はキリスト教の布教を禁止する勅令を既に廃止したが、琉球は英国の商 業のために開港されてないということ、それで︹琉球における伝道に対して︺中国側からの反対はないと思うが、 ( ) 日本の執勘な嫉妬の行動にでつくわすことになるかも知れないことを忘れてはいけない。 ベッテルハイム一家は 四か月の洋上生活の後、 一八四六年一月二十二 日香港に到着した。 一家は香港で沖 縄への 便船を求めて二か月以上も滞在した。香港滞在中に彼は中国語の学習をはじめ、沖縄での布教に必要な準備をした。 香港や広東は当時、 アジアの諸地域 ・ 諸民族に関する情報を収集するに便利な場所だった。広東(広州市) はアヘン 戦争前から中国と西洋諸国との貿易の中心地であり多くの商人やキリスト教宣教師がいた。またアヘン戦争の結果イ ギリス領となった香港は、 ベッテルハイムが属する英国のアジアにおける貿易 、 外交、宣教のための一大拠点だった か ら で あ る 。 なによりも香港付近にいた欧米の宣教師仲間に知己を得たことは、ベッテルハイムにとって幸いだった。広東で宣 教と医療に従事していた米人のピl タ 1 H パ l カ i や、聖書の漢訳をやっていたメドハlストとプリッヂマンにも会 巻 頭 論 考 っている。後のベッテルハイムの 翻訳事業に役立つ資料を彼らから得ることができた。また前述のギュ ツラフは 、聖 奮の和訳の先駆者であり、ベッテルハイムは彼の和訳を参考にした。何よりもギュツラフとパ 1 カ 1 が一八三七年の モリソン号事件の際の琉球訪問は、ベッテルハイムにとって任地にかんする貴重な情報となった。ギュツラフとパ l

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カーなどから情報をもとにして、ベッテルハイムは次のような報告を琉球伝道会に送った。 私は自信をも っ て次のように報告できます。すなわち私の琉球滞在に対して住民の側からの反対などいささか も心配ありません。わずか六か月前ですが ヨーロッパ人が︹沖縄︺島を調査しましたが、住民から大層な歓待 をうけたそうです。 ー中略│住民はこのヨーロッパ人に対して島に留まるように懇願したが、この訪問者が去る にあた っ て失望したということです。この情報と同様に喜ばしいことは 、 現在琉球人は中国にだけ進貢しており、 日本人のあの苛立たしい支配から全く自由であるとのことであります。このように 、 私共が最も恐れていて幾つ かの障害は、総てではないにしても、我が神がすでに取り除き給うたのです。中国では、勅令によって住民に信 仰の完全な自由があります。中国の唯一の支配下にある琉球では信仰の自由があり、喜ばしき神の福音に対して ( は ) 門戸が聞かれています。 このよ う に彼は琉球が日本への従属から解放されているという不正確な情報を得て、来るべき沖縄での布教に対す る明るい展望を述べている。彼の耳には、通りすがりの琉球への訪問者にはわからない当時の琉球がおかれていた厳 しい政治の現実に関する情報が入っていなか っ たのである。香港を出発する前に、 ベッテルハイムは沖縄でのパラ色 の伝道計画を立てた。沖縄での布教に従事するのと平行して、 ベ ッ テルハイムは病院を開設し、洋式の学校を設立し、 ( 日 ) 聖書の翻訳をしたいと考えていた。沖縄住民が友好的であることは幾多の欧米人が実証しているし、琉球王府も厳し い日本の支配を受けてないので、自由な宣教ができるものと大いに胸を躍らせていた。そのため、上陸後の王府の彼 に対する過酷な対応で期待を大きく裏切られて苦悩することになる。

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一八四六年四月一回目、ベッテルハイム一家は家庭教師剛のジェ l ムズ嬢と香港で雇った中国語通訳の劉友干を伴い、 米船籍スターリング号で沖縄向け香港を発 っ た 。 二 、 琉 球 滞 在 中 の ベ ッ テ ル ハ イ ム の 琉 球 観 の 変 化 ) l ( 最後の楽園のイメージの崩壊 スターリング号は 一八四六年四月三十日(尚育十九年、道光二六年四月五日)那覇港沖に到着した。任地を目前 にしたベッテルハイムの胸は躍った。その時の感激を彼は日記に、﹁﹃町が見える !﹄と の知らせを、私はまさしく聞 いた。心が何と打ち震えることよ!神の栄光のための熱情が、私の全肢体をゆるがしているからなのか。主よ、十字 ( ) 架への献身的奉仕以外に、私の心が向かぬようお導きください﹂と記している。また遠くに見える沖縄島の第一印象 を、﹁大琉球のようすは、 まるで絵のようだ。丘は樹木で覆われ、素晴らしく青々とした︹丘の︺斜面は海まで届き、 ( ) まるで神の園のようだ﹂と描写している。 自に映るすべてが、 前述の伝道会のクリフォードからベッテルハイムへの訓令書によれば、﹁︹琉球に︺上陸を許されたら、貴下は直ち に国王に会うこと﹂であったし、ベッテルハイムは琉球国王が彼を港で出迎えてくれるものと期待していた。西洋世 界では中世以来、聖職者は高い社会的な身分を与えられて尊敬されていたし、幼少の頃から俊才の誉れ高いベッテル ハイムは西洋文明を代表しているという自信があった。東洋の発展途上国である琉球に世界の宗教の中で最も優れた 巻 頭 論 考 キリスト教を導入し、 また西洋文明の成果の数 4 を紹介する文明の教師として振る舞う気概に満ち溢れていたのだっ た。しかし、現実は厳しく王府の役人の冷たい退島の要請に出会う。 医者の名目で来島したと告げるベッテルハイムに対して、 王府の役人はスターリング号に乗って退去するように要 一 三

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請 し た 。 一 回 しかし二年前から仏宣教師フォルカlドが泊村の聖現寺に逗留していることを知ったベッテルハイムは、 五 月一日上陸を強行したので、役人はベッテルハイム一家を一時的に那覇港に隣接する臨海寺に収容する。役人の執助 な退去の要請を、 クリフォードの訓令書にある﹁鳩の素直さと蛇の賢さ﹂政策に従って、 ぬらりくらりとかわした。 その内に翌五月二日、偶然にもフランス船が入港しフォルカlドの後任者となるカトリック宣教師のル H テュルデュ 神父が来島し 王府は二隻の異国船の対応で忙殺される。 スターリング号はその翌日三日にベッテルハイム一家を島 に残したまま出帆してしまう。万事窮した役人は、同月七日ベッテルハイム一家を波之上にある護国寺へ移した。以 後 八 年 余 、 一家は同寺に逗留することになる。﹁鳩の素直さと 蛇の賢さ﹂政策の成功である。 しかし王府もベッテル ハイムも負けなかった。不法入国した英仏 両国の宣教師を、波之上と泊村の 二か所に 離して住まわせて相互 の接 触を 難し くした上で、それぞれの寺を厳重に監視 体制下において異国人を軟禁状態にした。護国寺の前後に番所を設け筑 佐事が常時詰め一家の行動を監視するとともに、住民の寺への出入りを一切禁じた。 一家の外 出の際には常に案内人 と称して筑佐官苧が尾行し、住民との接 触を極力禁止した。王府は食料と日用品を無料で提供し、 また一家が必要とす る男性の傭人を派遣して一家を身近で監視させることをした。このような状況下でベッテルハイムは行動の自由を全 く失う。こうしてベッテルハイムが琉球伝道に託した楽しい夢の計画は、琉球の厳しい政治体 制と特異な文化状況の 前で無残にも砕けていくのである。 ベッテルハイムは、 八年余沖縄で布教にたいする燃えるような信念と不屈の精神で頑張った。次に述べる彼の琉球 観は、迫害に耐えて苦闘した血の惨むような生活の中から形成されたものであることを理解しなければならない。

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(2) 沖縄の風土 ベッテルハイムは当初、彼の前に来島したパジル H ホ│ルなどと悶様に沖縄の風土を﹁神の園﹂として絶賛した。 しかし実際に彼が沖縄に住み医者の立場から冷徹な目で風土を観察してみると、人間の生活環境としては余り高く評 価しな くなる。すなわち、沖縄は﹁高温多湿で台風も多く 、夏期の暑 気は重苦しく無気力と眠気をもたらし、家具 ・ 衣類・貯蔵物も湿っぽくなり、 いつもじとじとしている。手術器具もすぐに錆びてしまう。七年間の経験から、私は ( 同日 ) この気候が健康に悪い影響を及ぼしていると思わざるをえない﹂と記している。 (3) 沖縄の政治と社会制度 世界における民主主義の本場である英国から来た ベッテルハイムは 、前近代的な琉球社会に対して厳しい批判の矢 を 向 け た 。 一 握りの特権身分の土族が庶民の上に君臨して専制政治を行ない、人民の信仰の自由をはじめとする基本 的人権を奪 っていたからである。ベッテルハイムに 布教を許さない王府の政策への鋭い批判は、同時に疎外されてい る庶民への同情とともに彼の琉球観の中核になっている。 彼の沖縄滞在中に記された膨大な日記には、来島直後から政府の悪政と庶民の悲惨さが記されている。たとえば 、 来島の初年の一八四六年十一月二日(道光二六年九月十四日)、寺詰めの役人から住民の悲惨な状況を聞かされて、 政府を厳しく非難している。 巻 頭 論 考 今日、︹琉球人の︺付添人が、当地の貧民は時々冬に不幸で惨めな状況になるという話しをしてくれた。貧民 は食べ物や着物がなくなり、路上でしばしば死ぬとのことである。死ぬ前に顔全体が、時には体中が腫れ上がる。 一 五

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作物が不作の時には、 いつもそのようになる。勿論、 一 六 国王は穀物倉庫を開けてくれるが、この災難をとても救う ことはできない。私は付添人に対して、このようなことは全て王府の失政に原因があること、それを避けるには

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貿易や他の内政面の良策をとれば、少ない人口なら飢笹にたいして備えることができると話した。 住民の生活状況について一八四八年(道光二八)英国の関係者に報告した文のなかで、彼は﹁人々の主食は芋で、 米は庶民の手の届かぬ高級な食料品である。蜜柑が僅かにあるだけで、果物は殆どない。那覇 ・ 首里以外は、集落と 七人の子供をも っ ている家族は少なく、 いえば単なる小屋の集まりである。惨めそうな部落には、家畜らしいものは殆どいない。死亡率は出生率と同じで、 ( ) たいていは二・三人である。皮膚病が蔓延し、精神病患者も多い﹂と述べて いる。医者としてこのような惨めな住民の生活を観察した彼の記録は、沖縄の医学史研究の分野でも貴重な資料であ る。結論として彼は琉球王府の悪政が住民の無知と貧困を生み出し、これが住民の聞に多くの皮膚病・眼病・性病・ ( 幻 ) 瀬病・精神病の患者をだしていると批判している。この ベ ッ テルハイムの観察と、三十年前に四十日間滞在して島人 と親しく交歓した パジル H ホ l ルの観察とを比較することは興味あることである。 ホールは琉球滞在中、﹁貧困ない し、窮迫しているらしい何物も見ず、不具者も見ず天然痘にか与 っ た痕跡をもっ若干の人々を除いては、疾患の徴候 ( 幻 ) を持つものはいない﹂と述べているからである。 (4) 奴隷に等しい琉球の下層民 ベッテルハ イムは来島後の 一 年余、筑佐事に つ き まとわれながらも比較的自由に那覇・泊・首里の町を歩き回るこ とができた。そして琉球人の社 会 生活に つ い てある程度の知識を得ることができた。当時の琉球王国の封建制の下で

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の下層民にいち早く注目し、その虐げられた待遇に痛く同情している。 一 八四六年十一月六日(道光二六年九月十八 日 )、彼は日記に、﹁:現在下層階層には最も厳格なカ l ス卜︹身分 ︺ 制が強制されている。付添人たちは、このよう ( 幻 ) な秩序が変えられることを強く希望している﹂と記している。 一 八四六年十二月六日 ( 道光 二 六年十月十八日 ) 、街頭伝道の途中、役人によ っ て人民が追い立てられているのを 見て、﹁︹私は︺当地に奴隷制があることを今や確信している。奉公人はいるが、非常に少ない。人口の大部分は公差 (公共の奉公人)と言 っ ているが、言葉で誤魔化している。・:この人達は黒人奴隷同様に惨めだ。彼らは確かに奴隷 ( μ ) だ。そして王府も彼らをそのような者として使 っ ている﹂と論評している。基本的人権の伸長が著しい英国と比較す ると、琉球の下層民は当時世界の各地に存在した奴隷と似た取り扱いを受けていたのだろう。 琉球の下層民については、英国教会の香港ヴィクトリア教区 ジ ョ ー ジ H スミス監督の見聞もある。 ス ミ スは英艦レ ナ l ド号(クロクラフト艇長 ) で 一 八 五

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年十月三日 ( 道光三

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年八月二八日)、那覇に来て六日間滞在した。 ス スは次のように観察している。 社会の最下層の者は、お l ば ん 。 。 ー

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︹方言で一番最後の人々という意味か︺、すなわち公共の奴隷であり、 彼らには如何なる市民の権利も個人的自由もなく、 土大夫︹土族︺の命令と指図に無条件に従 っ ている。この恐 怖と横暴な政府の抑圧 から解放され 、彼 ら本来の親切心と温厚さのある心の弾みを取り戻せるようになれば、琉 巻 頭 論 考 球人は英米の若いキリスト教の熱烈な宣教師の力強い呼び掛けに応えるような広大な活動範囲を提供するだ ( お ) ろ う 。 七

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スミスは琉球滞在中、波之上のベッテルハイム宅に泊ま っ た。滞在中に、 一 八 スミスが見聞した沖縄の社会報告は輿味 あるものである。 しかしスミスの沖縄滞在が短期だ っ たため、その内容は多分にベッテルハイムからの情報が主たる ものであ っ たことが、下層民に関するスミスとベッテルハイムの見解が酷似していることから容易に想像できる。琉 球の下層民に関しては、ベッテルハイムの琉球滞在中に来島した英国のペリl提督の日本遠征記中の記述もスミスと 同じ見聞である。それでペリl一行も、 やはりベッテルハイムからの下層民に関する情報に基づいて叙述しているも のと思われる。ペリ l 提督の日本遠征記の中で、﹁人民の最も低い階級は公の奴隷(オーバン)で構成され、 ( お ) ん 吋 は公民権も個人の自由もない。そして文人達︹士族︺の 一 寸した指図にも従わねばならない﹂とスミスと同じ内容 ﹂ の 人 のことを記しているからである。さらに ペ リーは琉球の下層民について、﹁私は大分、世界をみてきた。また、色ん吋 メ キ シ コの、あの悲惨な、借金代わりの奴隷を除外するのでなければ、こ ( 幻 ) れら琉球の惨めな奴隷共が苦しんでいるように思われる程の明白な悲惨事を、私は曾って見たことがない﹂と日記に の状況の野蛮な生活も観察した。 しかし 記している。 (5) 琉球の女性 ベ ッ テルハイムや ペ リーの来島した十九世紀中葉より以前から、異国船が寄港する際、 王府は女性が外人の目に触 れ な い よ う に厳重に住民に指 示 し た 。 したが っ て、外人が琉球滞在中に目撃した女性は老婆か幼女だけであ っ た。そ れで外人が見た琉球の成人女性は老人だけだ っ たので、琉球の女性は男性に比して好ましい評価を受けず、醜い魔法 使いの老婆的な叙述にな っ ているのが普通である。しかし、 たまたま畑や市場で働いている女性を遠くから見聞した 外国人は、琉球における女性の地位の低さに 一 様に衝撃を受けている。 ベ ッ テルハイムもその点で例外ではない。

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そもそも琉球にキリスト教を伝道する目的の 一 つに、琉球女性の地位改善があった。琉球伝道会設立の趣意書の中 一 八 四

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年 ( 道光二

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年 ) の イ ン ディア ン リ オ l ク号の乗組員の報告にそのことが記されている。 彼ら︹イ ン ディアン日オ l ク号の船員達 ︺ が生活した地方︹北谷 ︺ は、英国と同じように濯木の列︹生垣︺で 地所が整然と区分され、高度に耕作されていた様子であ っ た。それに立派な橋や排水渠などもあ っ た。彼らが偶 然見た女性は、最も悲惨であ っ たようだ つ た 。 仕事といえば労力を要するもので、彼女らはよく取り扱われてい ないのではないかと気になる。そこで考えてみると、どれ程文明が進歩しようと、 またいか程その異教徒の性格 が温順で親切心があろうとも、キリスト教、それもキリスト教だけが常に女性の地位を向上させ、人間の堕落︹を 神から︺言い渡された人間の災禍を取り除くのである。このような理由から、恵まれている英国のより幸せな婦 ( 犯 ) とくに海軍々人の妻や娘たちが、この琉球伝道会のため努力されんことをお奨めする次第である。 人 た ち 、 一 八 五

O

年 、 ベッテルハイム家に数日間逗留した英国教会のス ミ ス監督も、ベッテルハイムからの情報に基づき、 琉球の女性について、﹁当地の女性は 一 般的に野蛮な状態に置かれている。肉体労働を自分ができる以上に強いられ るのに 、 家族の中で彼女に割り当てられた地位にたいしては伺の報いもない。女性は男性の前では絶対食事をしない ( 鈎 ) し、男性はこの野蛮な生活でのあらゆる残忍な虐待行為を女性に施しているのだ﹂と琉球伝道会に報告している。 巻 頭 論 考 (6) 琉球人の民族性 一七九七年(尚温三 ) の ブ ロ l トン艦長以来十九世紀中葉までの欧米人が観察した琉球人の民族性は、前述のよう 一 九

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に高い評価を受けていた。しかしこれらの欧米人の琉球滞在の期聞がせいぜい数日から数十日の短期間であったため、 琉球人を観察するに十分な時間的余裕がなく表面的に観察したという感じがする。ところが一八四四年(尚育十) の フランスの宣教 師 フォルカ l ドの来島 以後は、英仏の宣教師たちは 二年以上も滞在するようになり琉球人の民族性に ついても詳細な 観察がなされたと思われる 。 ベッテルハイムの口からの直接の 発 言ではないが 、 ベッテルハイムの琉球人 観をかなり濃厚に反映した報告をした の が 、英国教 会のスミス監督である。彼は 、﹁当地の上層階級は表向き の作法は 、礼儀 正しく洗練されてはいるが、 中国の同階級の者の聞によく見られるような詐欺と不誠実の悪徳を身につけている。庶民も虚言、ぺてん、盗みの罪 ( 初 ) にふけり 、嘆かわしい限り である。罪を犯した者も 恥かしさを伺も感じ ないようである﹂という厳しい琉球人批判を 展開している。 ベッテルハイムの琉球人の民族性にかんする 興味ある具体的な見解は、 一八五四年二月(尚泰七年 、威豊田年正月 ) 来島したロゾア鐙パルラダ号に同乗していたロシアの箸名な小説家ゴンチャロ l フとベッテルハイムとの会見記の中 にいきいきと述べられている。ゴンチャロ l フがしきりに琉球人を褒めるのに対して、 ベッテルハイムは必死になっ て反論している。二人の対談の中から、ベッテルハイムが発言した個所だけを取り出してみる。 ﹁︹琉球人は外人にたいして、︺びくびくしているんですよ。だから愛想がいいんだ。あなたがたやアメリカ人 たちが大きな力を携えて現れたとき、 日本人が急に愛想がよくなったとしたら、琉球人たちは愛想よくするより ほかないじゃありませんか。この島にいるのは六万人から八万人にすぎないんですからね!﹂、﹁︹琉球人には︺ 確かに素朴なところがある﹂、﹁でも︹琉球人が︺慎み深いなどとはいえたもんじゃない。大酒飲みですからね﹂、

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﹁︹琉球人は︺賭事をするんですよ・:﹂、﹁乞食でさえ・:板切れとか、木っ端を使ってやるんです。そしてすって んてんになるんですからねえ﹂、﹁連中︹琉球人︺がおとなしいなんてとんでもない﹂、﹁ついこの間も連中に・宣 教師が殴られました。・:︹殴られた宣教師は︺私です。﹂、﹁今では、 ようになりました。:すると住民は今や平身低頭です。無学な、 キリスト教国の船がたえずここへ立ち寄る ( 幻 ) い や ら し い 、 粗 暴 な 連 中 で す : ・ ﹂ 琉球をキリスト教化したいというベッテルハイムの期待を、 八年間の那覇滞在中、 王府の役人はことどとく打ち砕 き、王府の指示に従って住民もまた容易に改宗しないので、彼は苛立ち琉球人に対する不満をこのようにぶちまけた の で あ ろ う 。 (7) 琉球の土着信仰 キリスト教の宣教師としては、当然のことながら彼は沖縄の土着信仰を厳しく批判した。特に偶像崇拝と祖先崇拝 に我慢ができなかった。 ユ ダ ヤ H キリスト教という厳格な一神教の世界で育ち、 さらに偶像崇拝の罪を犯して何度も エホパの神に罰を受けたユダヤ人の子孫であるベッテルハイムにとって、 一神教は生得的なもので絶対に妥協できな いものだった。その彼が いきなり琉球という多神教の世界に飛び込んできて悪戦苦闘する。 ベッテルハイムは来島後十日目の日曜日 一八四六年五月十日 (道光二六年四月十五日) 、護国寺で安息日の祈り 巻 頭 論 考 を夫人と二人でやる。その後、数人の琉球人が護国寺で仏像を拝んでいるのを目撃した。来島直後であり彼の琉球語 が通じたのかどうか知らないが、彼は早速木や石でできた偶像を崇拝することの愚かさを説く。しかしその住民は仏 ( 犯 ) 像を拝むことは彼らの風俗だとして取り合わなかったという。偶像崇拝を住民の頭から追い払うため、彼は折りにふ

(18)

れて仏像を入荷の前で愚弄してみせた。翌四七年二月二十八日(道光二七年正月十四日) 二 一 一 の午後、彼は那覇の二か所 で街頭伝道した。とある寺院の真向かいにある大きな市場で熱心な 聴 衆の前で説教をした。 仏 像 の 神 性を否定した後 その仏像に寺から出て来てベッテルハイムに対して反撃するようお願いしてみよと言うと 、 ( ね ) 人々は驚いた様子だ っ たという。そして聴衆は皆身動きもせずじ っ としていたと記している。仏像を拝む住民を 、 彼 で彼は聴衆に向か っ て 、 はその後も度々非難した。 彼は仏像だけでなく各家庭で拝んでいる竃の神 ( 火の神 ) ゃ 、 祖先崇拝も懸命になって改めさせようとした。そし て、彼の説得に耳を傾けない住民の信 仰 生活について 、 ﹁総ての家でガンス ︹元祖、仏壇︺にも 、 新鮮なお供えをす る。考えるに 、 儒教国における人々の偶像崇拝の習慣を少しでも変えようとするならば 、 異常な程の努力を 傾 け 、 ( M ) た宣教師への神とキリスト教徒の助力をえたとしても、少なくとも五十年はかかるだろう﹂と嘆息する。 ま しかし、それでも ベッテルハ イムは懸命にな っ て 、彼に好意を持つ隣人に祖先崇拝の愚を諭すのだった。 一八五一年九月七日︹尚泰四年、威豊元年八月十二日︺、安息日 、 近所にいる老人を尋ねたらあらん限りの丁 重さもって迎えてくれた。その老人に説教と聖書の朗読をしてやった。 キリストを信じるには 、 ガンス︹祖先崇 拝 ︺を 保持したままでは絶対に許されないとい うことは 、初めて信者になる者にと っ て 最大の試練となる。祖先 を崇拝することは罪を犯すことになると住民に告げることは、彼らを非常に失望させることになる。老人は彼自 身多くの欠点を持つ人間だと告白しているが、その彼を彼の息子が神と呼ぶことを望んでいるのか。そうなると、 老衰して力がないことに触れないにしても、あなたは何という罪深い神になるのでしょうよ。私達︹ ベ夫 婦︺は ( お ) その老人と長い時間、素晴らしく実りある講話と朗読の集会を持った。

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ベッテルハ イムの琉球滞在中、護国寺には常時数人の通事が詰めていた。彼らは ベッテルハイムに 日本語や漢文を 教えるために王府が派遣したのだが、彼は通事を聖書の翻訳のため利用した。琉球の知識人である彼らとベッテルハ イムは何度も琉球の政治や文化について議論している。彼は通事達をキリスト教に改宗しようと説得するのだが、﹁一 人の通事が今日は っ きりと、もし彼らが一つの神しか持たないならば、満足できないと公言した。各人がそれぞれ神 ( お ) を持つことでも っ と安心できるという﹂と多神教の琉球人の興味ある宗教観を披涯してみせている。彼は、住民がお 墓参りをするのを極度に嫌ってお墓参りの現場を目撃すると彼らに死者を拝む愚を諭し真の神を拝むことを勧めた。 そして時には、彼の勧告を無視する人達を無理やりに解散させるなどの実力行使もや っ たようだ。次がその一例であ る 一 八 五 二 年 一 月四日 ︹ 尚泰五年 、 威豊弐年十一月十四日 ︺、墓で五 ・ 六人の夫人がわめき声 を立てていて、私 達︹ベ夫妻︺は遠くで立ち止ま っ た。間もなく私達が近づくのを知 っ て静かにな っ た。本当は泣いているのでは なく、習慣で交互にわめいていたのだ。私は彼らに近 づ き、このような不作法なわめき声を穏やかに諭した。ま あ た る 線 と 香 抗 を 議 た し(く た37の 。)も 諌 め て 死者は彼らがやる歓待を知ることないし、死者を拝むことはこの世で最も邪悪な罪で 巻 頭 論 考 琉球伝道会からモlトン牧師が後任者として来島した一八五四年(尚泰七、威豊田)、ベッテルハイムは離島前の 五か月間布教の現場指導をした。 モ 1 トンの伝道会への報告にも、﹁︹護国寺の近くの墓地で 、 七名の婦人がわめいて いた。︺彼らの習慣は 、 かわるがわる死者に哀悼の意を表したり 、 食事したり、 たばこを吸 っ たりする。ベッテルハ

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二 四 イム医師は彼らに止めるように命じ追い払った。他の墓地でも泣き女の仲間に会ったが、彼らも医師から手厳しく叱 ( 犯 ) られた﹂とベッテルハイムが住民のお墓参りを諭す場面を記している。 彼はしばしば仏僧とにらみ合い厳しく仏教を批判し、住民にたいしてはその偶像崇拝を非難し、さらに祖先崇拝に 伴う墓参の愚を諭すことを常に心懸けた。宗教家でなかったホ 1 ル一行が沖縄の土着信仰をそれ程気にしなかった態 度とは対照的である。住民の精神面に踏み込んで偶像崇拝と祖先崇拝を攻撃するベッテルハイムのやり方は、布教方 法としては余り有効的ではなく、多くの住民の反発を招いたのではないだろうか。 (8) 琉球の対外関係 これまで見てきたように、ベッテルハイムは八年間折りある度ごとに、惨めな住民の状態に同情して 、 王府批判を した。来島前の香港滞在中に彼は、薩摩の琉球支配はなくなっているという不正確な情報をもって沖縄に赴任した。 それで彼に加えられた迫害の数々を王府が指示したものと考え、 王府に厳しい批判の矢を向けた。すなわち、琉球の 役人を﹁嘘吐きで怠け者﹂と酷評している。 王府の背後にあって、 ( ぬ ) うに指示している薩摩の存在をはっきり認識し、琉球人に同情するようになる。 しかし二年後には、 ベッテルハイムを迫害するよ 一 八 五

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来島したスミス監督は、琉球伝道会にベッテルハイムのこの見解を次のように報 告 し て い る 。 この国の政治体制は、 日本に直接従属する士太夫 ( 土族 ) 階級が統治する極悪の寡頭政治である。彼らは保護 が必要な時に、中国ではなく日本に求める。 しかし琉球人は、中国の影響で琉球が独立王国の権威を持 っ ている

(21)

という伝統があると言っている。︹琉球が︺中国の従属国である証拠として、新しく王になった者はすべて、中 国の高官から正式の冊封をうける。この高官は 、 福州から特に派遣されて来るし、 さらにその都市へ琉球から隔 年毎に進貢船が派遣される。︹琉球にいる︺兵士や守備隊は日本人だし、中国と日本との聞の貿易の一部は、琉 球を通過する。このように疑うべからざる諸々の事実から、琉球は名目的には中国に従属しているが、実際には 日本の支配下にあると結論を下せる。琉球王府と王府の指示を受けた人民がベッテルハイム博士に対して隔意を

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戸 もったり距離をおいたりしているやり方は、総ての外国人に対して日本政府がと っ ている政策一般と合致する。 ベッテルハイムは琉球の対外関係に関して重要な情報を提供した。すなわち、琉 ( 引 ) 球は日本の属国であり、武器をもった薩摩の守備隊がいることなどをペリーに知らせている。さらにペリ l の﹃遠征 ペリー提督の日本遠征の際にも、 記﹄中にある当地の琉球にいる薩摩人と中国人についての次のような情報も、ベッテルハイムが教えたのであろう。 ﹁ 琉 球 に は 、 日本人が多数見受けられる。そして彼らは土着民と同様に、何ら妨害されずにあちこち俳佃している。 彼らは琉球人と雑婚し、 土 地 を耕し、那覇に家を建てている。 つまり 、 彼らは全く打ち寛いているように思われる。 石を投げられ 、 辱められている認ベッテルハ しかし支那人は他の外国人と全く同様 、 追跡され 、 探偵をつけられ 、 イ ム は 、 ペリーや一八五四年(尚泰七 、 威登四)来島したロシアのゴンチャロ l フに、琉球の貿易について次のよう な情報を提供している。﹁琉球の貿易は、全く日本と行われる。:日本は毎年四百五十噸級のジヤンク船を三十隻乃 巻 頭 論 考 行くだけである。 至四十隻を琉球に派遣しているのに 、 ・ (琉球から)支那へは、進貢物を運ぶといわれる只一隻のジヤンク船が支那に しかし只の一隻の支那船も那覇に入港することは許されないぜ ベッテルハイムは那覇港へ出入りする船を間近に観察できる波之上に住んでいた。それで琉球の役人が教えなくて 二 五

(22)

一 一 六 も、彼は琉球の対外関係についてかなり的確な判断をすることができたのであろう。 お わ り ベッテルハ イムの琉球観は、退島の直前ロシアの作家ゴ ン チ ャ ロlフに話したパジル H ホール評に端的に表現され ている。ベッテルハイムは、自分の前に置いてあるホlルの﹃航海記﹄を脇にのけながら、﹁この本には、 ( 川判 ) て本当のことはありません。真相とは正反対のことばかり℃す!﹂と結論をくだしたという。 一 言 だ っ 若いころ医者を職業に選んだベッテルハイムは、本来が理性的・合理的な正確の持ち主であったといえる。彼の性 格には情緒的なところが少なく、彼の残した資料の中に人文関係についての記述が著しく少ない。彼の記述の中に風 景を愛でることは沖縄到着の第一日目だけの感激だけで、その後は彼の日記や報告文の中にこの類の記述を見つける ことは難しい。さらに彼には琉球の文化を評価する姿勢がみられず、十九世紀の西洋人一般にみられる西洋文明の優 越感(西洋人至上主義)が随所にみられる。とくに当時のイギリス人とフランス人には西洋における文明の先進国と いう自負心があり、文明の進んだ西洋人が遅れた琉球人を指導しなければいけないという姿勢があった。 ︹ 註 ︺ ( l ) 当 日

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(23)

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( N) Basi1 Hall, Account of A Voyage of Discovery

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Island, London, 1818.1終~輯区, r 寄進 ・ 哲議後援媛回~' 司図書話料世, 1-ばく{く社。;]ohn M'Leod, Narr

-ative of A Voyage in His Majes

LateShip Alceste,

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the Yellow Sea aloηg thecoastof Corea, and through its numerous hitherto undiscoveredislands,

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theIsland of Lewchew, London, 1817.-+く隣組咲 伝, r ト弐ギ κ1ト司F 逼;駄目j'宮跡襟鰍'堕~♀社。 品 情 緒 咽 岡 仙 柑

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(噌) W.F. Beechey

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Polar Expeditions, performedinHis Majesty's Ship Blossom in the years 1825, 26, 27, 28.Vo1s. I,I!,

London

1831.+<鑑似 1

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l'¥n "令-Hjt>桜塚田j'総│仰l!11S'1長与J長叶。

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薬Jrキ~~む E 長<~総 11 蜘'甑~!嘩... 1~同乞・同乞争〈経籍眠薬, 1111(K~固11 川jm(。

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(ヨ) J.J.B. Bowman

"Lossof the Indian Oak

"

The Nautical Magazine and Naval Chronicle, lor1841,

London; Chinese Repositoη, vol.X (Jan. -Dec. 1840) , Canton; Loochoo Nava1 Mission, ed.,“Visit

to the Loochoo Is1ands in 1840," The Claims

0

1

Loo Choo on British Hospitali,り' 5thed., London, c.

1850.~何仰座長。

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)

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ed.

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1

the Instruction Given lor the Guidance

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Dr. Bettelheim, by the Committee

0

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the L M,N Sept. 1

1845

pp. 1-2

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)

Ibid., p.3. (ヱ) The Claims

0

1

Loo Chω, sec. entit1ed“To the Subscribers"'" April 13, 1846,pp. 1-3. (巴) Ibid., sec. entit1ed“To the Subscribers'ー"May 8, 1846, pp.5一7. (ヨ) Entry of Apri130, 1846, Diary of Bernard J. Bettelheim, Copied Diary(1846-54) , in possession of the Church Missionary Society

London

Micrograph copy. Hereafter cited as Copied Diary. (こ) Entry of Apri130

1846

ibid.

(ヨ) Frederic J. Farre, ed.,“Medicine in Lewchew. Introduction of Vaccination," The Medical Times

and

G

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ette: A Joumal

0

1

Medical Science(London) , v.VIII(Ju1y 2 to Dec.31, 1853), pp 136-37.

(~) Entry of Nov.2

1846

Copied Diary pp.95~98.

(25)

1848, London, p. 4.

(~) Entry of Nov. 2, 1846, DiaryofDr.Bernard John Bettelheim, copied from theOriginaldiaries

loanedby his descendants. Copied by E.R. B叫1,April, 1926.Hereaftercited as Diary ofBettelheim. (~) Hall, ibid. (燃機 ~ 1 出,

i

十く緑俊樹援鍵同J'11 1 Iく1m(O) (~) Entryof Nov.2, 1846, DiaryofBettelheim. (~) Entry of Dec.6, 1846, ibid. (お) LNM, Re

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choo Misson, lor theyears1851and 1852, pp.10一12. (お) ~~話料信組, w友恒.(=-一軍区制支援指 E 同』後~制蜘|町盟毘同 O社,

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平岡。 (お) Jjg:何仰, 11川同1m(。 (罰) LNM, ed.,“Visit to the Loochoo Islandsin 1840,"The Claims 01 Loo-Choo onBritish Hostitaliか, 5thed.,London, c. 1850, No. 1.軍属「ャ入 1ト T ト λ= うて一、、 njr>~患縁者己主主:Æ~飯事 J' Wキ=?~4I1E似』草取 11 蜘' 認IICiiU

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1m(。 (g]) LNM. ed., Retortlortheyears1851and 1852, pp.10-12. (毘) Ibid. 伽 哨 担 桶 国 岡 山 榊 (お) 憧断窓 ..mIll田~馬,

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難援組J'縫記判制lil:虫'盟長田〈社'同同岡-l 山同〈阿。 (~) Entry of May 10, 1846, Copied Diary. (沼) Entry of Feb.28,1847, Diary of Bettelheim. (認) LNM, ed., Extracts from tne Journal of the Society'sMissionary, Dr. Bettelheim, 1850-52, Lon -11

(26)

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頁 。

参照

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