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「対支文化事業」をめぐる日中両国学者の連携 ―中華学芸社の動きを中心に―

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「対支文化事業」をめぐる日中両国学者の連携

―中華学芸社の動きを中心に―

潘 吉玲(早稲田大学大学院博士後期課程満期退学) はじめに 本稿は、1920 年代に日本政府が実施した「対支文化事業」をめぐって日中両国間の政治・外交 関係から距離を置いた日中両国の学者の間に連携があったことについて、日本留学経験者によっ て組織された中華学芸社の動きを中心に解明を試みるものである。 「対支文化事業」は、1923 年に公布された「対支文化事業特別会計法」にもとづき、義和団事 件賠償金を主たる運用資金とし、①中国人留学教育や、②北京人文科学研究所・図書館および上 海自然科学研究所などを主要な事業とするものであった1。 「対支文化事業」に関する代表的先行研究として、阿部洋『「対支文化事業」の研究――戦前期 日中教育文化交流の展開と挫折』が挙げられる。阿部の研究は、「対支文化事業」の成立・展開過 程について、中国教育文化界との対応関係を軸とし、そこに生起する摩擦、相克の具体的状況を 解明しようと試みた。阿部によれば同文化事業は、1923 年 3 月に日本の「単独」事業として発 足し、1924 年 2 月の「汪-出淵協定」締結を経て日中「共同」事業へと発展し、1928 年 5 月の 済南事件を機に中国側の総退出により再び日本の単独事業に後退したという。このように阿部の 研究では、日本の単独事業かそれとも日中共同事業かをめぐって日本政府と中国教育学術界の間 に意見の対立があったことが明らかにされている。しかし、同研究は日本側対中国側という二分 論的な視点にたっており、中国教育学術界と中国政府(北京政府、のち南京国民政府)、日本学界 と外務省との態度を一枚岩に捉えがちである。そのため、日中両国政府の立場と一線を画しなが ら両国の学者の間に見られる連携や、日本外務省の主導下にある共同事業をさらに日中両国政府 から独立した共同事業へと転換させようとする動きを見落としていると言わざるを得ない。 日米両国の対中国文化事業を検討する際に両国からの留学帰国者側に主眼を置くべきであると 指摘したのは、横井和彦・高明珠「民国初期における帰国留学生のパフォーマンスからみた留学 生政策の効果―中国科学社と中華学芸社の比較を中心として」2である。横井らは、中国科学社メ ンバーなど米国留学帰国者が米国の対中国文化事業に対し主体的な役割を果たしたと評価してい る一方、日本の「対支文化事業」は中華学芸社メンバーをはじめとする日本留学帰国者に活躍の 場を与えなかったと捉えている。しかし、もしそうであれば、このような日本の「対支文化事業」 のあり方に対し日本留学帰国者はどのような動きを示したのか、同文化事業に主体的に関わるこ とによってそのあり方を変えようとしなかったのか、第一次資料を用いてその経緯を解明する必 要がある。横井らの研究には、こういった視点が欠落している。 以上のような先行研究の状況を踏まえ、本稿では中華学芸社が「対支文化事業」に関与する具 体的な経緯に焦点をあて、日中両国政府の立場と一線を画しながら両国の学者の間に見られた連 携の側面を解明しようとする。本稿は3 節からなり、第 1 節で中華学芸社が 1916 年に結成され てから 1920 年代前半に至るまでの概況を見た後、同社が「対支文化事業」へ接近していく背景

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を検討する。中華学芸社メンバーは「対支文化事業」の日本単独事業から日中共同事業への転換 に協力した一方で、次第に外務省と意見が明確に対立するようになった。第2 節は双方の対立の 経緯と争点を再検討する。第3 節では、同文化事業の上海分科委員会において、鄭貞文ら中華学 芸社メンバーと日本の学者新城新蔵との間に連携が生まれ、新城は非政府間の「東亜学術研究会 議」を構想したことを明らかにする。資料については、外務省記録だけでなく、中華学芸社の機 関誌『学芸』や、新城新蔵が残した資料群『新城文庫』3、日中双方の「対支文化事業」に関する 論説を多く掲載した『北京週報』も用いる。なお、本論文で使用する非政府間という用語につい て説明しておこう。国際という場合に各国の政府を主体とするニュアンスが強い。それに対し、 本論文では、日中両国政府の立場と一線を画した、日中両国の学者や民間の学界が国境を越えて 提携することを強調するために、非政府間という用語を使用する。 1.中華学芸社の概況(1916 年-1920 年代前半) 中華学芸社の前身である「丙辰学社」は、1916 年 12 月に東京帝国大学や、東北帝国大学、東 京高等工業学校などで学ぶ中国人留学生47 名によって、「社員の出身地域を問わず、党派の意見 に拘らず、専ら真理の研究、学術の昌明、知識の交換」を趣旨として東京で結成された。同社結 成の背景には、辛亥革命での経験から、彼ら学歴エリートが関心を政治運動から距離を置き、自 らの道を学術救国に求めたことにあった4 丙辰学社は、1920 年に本部を中国国内(上海)に移転し、1923 年 6 月に名称を中華学芸社に 改め、1920 年代前半に中国の代表的な学術団体に成長していた(以下、丙辰学社時代も含めて、 中華学芸社の名前で統一的に用いる)。同社の主たる事業として、学芸大学の創設とともに出版事 業が挙げられる5。同社は、商務印書館から出版・刊行面でのサポートを得、同印書館や北京大学 に勤務する多くのメンバーが携わり、機関誌『学芸』や、『学芸叢書』、『学芸匯刊』の出版に努め ていた6。また、鄭貞文ら同社メンバーは、近代的な学問を中国に定着させるために、研究機関を 整備して学術研究事業を展開することが急務であると主張し、教育学術界で大きな共感を呼ん だ7。しかし、学術研究事業の展開は資金面で困難を極め、ここに中華学芸社など教育学術界は諸 外国の対中国文化事業にコミットしようとした。 中華学芸社メンバーが「対支文化事業」へ接近していくもう一つの背景は、教育学術界におけ る日米両国留学経験者の競合であった。日本留学経験者が優勢であった教育学術界では、1920 年代初頭になると、米国の対中国文化事業の支援を受けた米国留学経験者の影響力が著しくクロ ーズアップされるようになった8。それは代表的な教育学術団体・機関の状況からもうかがえる。 代表的学術団体として、中華学芸社とある種のライバル関係にあるのが、米国留学経験者によっ て組織された中国科学社である。同社は1914 年 6 月にコーネル大学で結成され、1918 年に本部 を中国国内(南京)に移転した。1922 年に南京に生物研究所を設立し、同研究所は 1926 年から 米国の第二次義和団事件賠償金返還事業から給付を受け、中国の代表的な民間の研究機関に成長 した9。このように中国科学社メンバーの存在が目立った代表的な教育機関・団体として北京大学 と中華教育改進社10の場合を見ておこう。北京大学は、1910 年代後半以降、教授に陳啓修や陳大 斉など中華学芸社メンバーの一部も招いたが、学長代理の蒋夢麟や新文化運動の代表人物である

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胡適など、同じ時期に赴任した米国留学経験者の存在がより目立った11。また、1922 年に設立さ れた中華教育改進社は、総幹事の陶行知がコロンビア大学ティーチャーズカレッジ出身であるよ うに、中堅メンバーには米国留学出身者が多かった12。このような教育学術界の状況のもと、中 華学芸社は日本の「対支文化事業」へ接近していく。 2.非政府間日中共同事業としての「対支文化事業」の要望――外務省との意見対立 1)日中共同事業への転換と中華学芸社の協力 前述のとおり、1923 年 3 月に「対支文化事業」が日本側の単独事業として発足した。それを 受け、同月に朱念祖が中国教育部から派遣されて日本に渡った。朱は主として中華学芸社や中華 教育改進社と連携して日本側と協議に当たろうとした13。4 月に中華学芸社メンバーでもある朱 は、同社東京事務所幹事劉文芸、龔学遂らとともに共同記者会見を開いた14。会見後、劉と龔は 外務省を訪問し、書面をもって「対支文化事業」の事業内容と運営方法に関する意見を表明した。 その意見は、中華学芸社が日本留学経験者によって組織された学術団体として、日中「両国文化 的提携と東洋文明の発達に対しては常に力を竭さんと欲する」という姿勢を表明したうえで、図 書館や学術研究所を設立すること、それを運営するために米国の義和団事件賠償金返還に倣い、 両国共同の委員会を組織すること、委員は政府関係者ではなく教育学術団体から選出すること、 というものであった15 中華学芸社メンバーが以上のような意見をもったのは、日本政府に「対支文化事業」を対中国 政策に利用させないためであると同時に、北京政府の同文化事業への介入も警戒したからである。 彼らの考え方は、同年7-8 月に外務省岡部長景事務官らが中国の文化施設視察を行った際により 明確に伝えられた。同社北京事務所は8 月 2 日に岡部らのために歓迎会を開催し意見交換の場を 設けた。北京事務所幹事で北京法政専門学校教務長の王兆栄は、歓迎の挨拶をした後、「文化事業 の為めには支那官憲の意見よりも民間の意見に重きを置いて頂きたく、若し官憲に重きを置かば、 政治外交方面に利用せらるるの虞あり」と主張した。また、北京高等師範学校長を経験し教育部 参事である鄧萃英は「対支文化事業」が活動内容に関する方針を定めた後、両国の学者からなる 理事会を組織し、それに運営を一任するよう提言した16。鄧が後に「対支文化事業」に関する日 中両国間の協議に協力することとなることは後述する。 このような「対支文化事業」に関する中華学芸社メンバーの主張は、北京大学など他の教育学 術団体・機関も共有するものであった17。それを受け岡部らは、中国教育学術界の一致した意見 として、事業内容と日中共同という形式を受け入れるべきであると外務省に報告した18。同年末 汪栄宝駐日公使と出淵勝次外務省亜細亜局長との間で協議を行うこととなり、汪を補佐したのが 前述の朱念祖である。翌1924 年 2 月に「汪-出淵協定」が結ばれ、文化事業実施のため両国か ら委員を選出し評議会を構成すること、北京に人文科学研究所・図書館、上海に自然科学研究所 を設立運営することが合意された19 「汪-出淵協定」の成立を受け中華学芸社は、事業内容を評価した一方、同協定の条項に盛り 込まれていない共同経営組織の人選問題に対し、北京大学の「対支文化事業」意見書を引用しな がら「純粋の学者を選定すべきであり、官僚や政客、政客のような学者」を排除すべきであると

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再び要望した20。同社が中国側委員の候補に想定したのは各教育学術団体・機関の代表であり、 たとえば、同社総幹事で商務印書館編訳所理化学部長の鄭貞文や、北京大学「日本対支文化事業」 研究委員会委員長の陳大斉などである21。 2)非政府間共同文化事業への転換企図――共同運営組織の外務省からの独立をめぐって 「汪-出淵協定」の締結によって、「対支文化事業」は日中共同事業の体裁をとるようになった。 しかしその後、共同運営組織の外務省からの独立を要求する中国教育学術界と、同文化事業の実 権を握り続ける外務省との間に対立がむしろ深まった。当時日本政府は同文化事業を管轄するた めに外務省に「対支文化事業事務局」22を設けている。それに対し中国教育学術界は、同文化事 業が日本外務省の管轄下にある限り、設立されるべき共同運営組織が結局外務省の付属機関にな ってしまうのではないかと、次第に疑念を深めた23。中華学芸社を含め、代表的な教育学術団体・ 機関が会合して共同宣言を発表したのは、1924 年 4 月 23 日のことである。この共同宣言は、同 文化事業が外務省の管轄下に置かれている日本政府の「官弁」事業であること、中国側の団体や 個人がそれに参加する場合、日本政府の協力者として中国国内の糾弾を受ける恐れがあると指摘 し、日中両国から学者を出し合って両国政府から独立した共同理事会を組織し、これに義和団事 件賠償金による文化事業に関する一切の事務を企画、決定および管理させることを要求した24。 このように中国教育学術界は、「対支文化事業」に対する日中両国政府の政治的・外交的思惑を 排除するために、日中共同経営組織の人選問題に加え、同組織の日本外務省からの独立を重視す るようになった。この主張に対し、中国通のジャーナリストである小村俊三郎のように理解を示 す日本人有識者もいた。小村は「対支文化事業」の経営団体として日中共同の財団法人を設立し、 日本政府が同文化事業の5 年間の経費を一括でそれに委託すべしと提議した25。しかし外務省は、 中国側の各団体・機構を日本側に協力的な「日本派」・「排日派」・「米国派」に分け、それらを互 いに牽制させることによって対応し得ると判断した。本来「日本派」の中華学芸社が共同宣言に 参加したことについては、同文化事業を独占しようとする野心を満足し得なかったためであると 見ていた26 その後日本政府は、中国教育学術界の意見に対応するより、北京政府との交渉に力を入れ、1925 年3 月に朝岡健事務官を北京に派遣した。それを受け、中華教育改進社をはじめとする各教育団 体・機構は、日本政府が中国教育学術界と協議すべきだと要求し、「対支文化事業」反対へと態度 を硬化させた27。一方、鄧萃英が教育総長代理として朝岡に対応するなど、中華学芸社メンバー は日本政府との協議に一定程度協力した28。 鄧と朝岡が協議を重ねた結果、1925 年 5 月 4 日に芳澤謙吉公使と沈瑞麟外交総長との間で公 文が交換された。いわゆる「沈-芳澤交換公文」である。それにもとづき、日中共同で「東方文 化事業総委員会」(以下、総委員会と略す)と、北京と上海の研究所事業の運営にあたる分科委員 会を組織することとなった。総委員会委員に指名されたのは、日本側は7 名で、服部宇之吉ら学 者5 名とともに、漢口総領事その他を歴任した瀬川浅之進、公使館参事官堀義貴の外務省関係者 2 名も含まれていた。一方、中国側は 11 名であったが、中華教育改進社や北京大学の代表者はい ずれも参加しなかった29。11 名のうち、3 名が中華学芸社メンバーであり、鄧萃英、鄭貞文と同

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社の名誉社員で北京法政大学学長の江庸である。彼らは総委員会を成立させるうえで、日中双方 の学者委員同士の連携によって、同委員会を外務省から独立させることを企図した。 1925 年 10 月に北京で総委員会第 1 回総会および章程審議会が開催された。その際中国側委員 の中心となったのは、江、鄧と鄭の3 委員であった30。彼らの主張は『晨報』に掲載された論説 「中日文化事業委員に告ぐ」に示された。同論説は日本側委員に対して、外務省に対し明確に総 委員会の権限を主張すること、総委員会を財団法人として独立させ、外務省から文化事業の経費 を収受することを要望した31。一方外務省は、総委員会の権限問題について瀨川と堀の両委員に 対応させ、日本側の学者委員に専ら専門に関することを議論するよう要請した32。日本側委員の 行動はその要請に協力するようなものであったため、中国側委員の目には日本側委員が日本外務 省の立場を代弁するかのように映った33。 このように、外務省から総委員会を独立させようとする中華学芸社メンバーの企図は日本側の 学者から協力を得なかった。しかし、上海自然科学研究所の設置・運営にあたる上海分科委員会 では、日中両国の学者が連携して非政府間組織の設置を構想したのである。 3.上海における「対支文化事業」をめぐる日中両国学者の連携 1)上海自然科学研究所の設立準備と鄭貞文 「沈-芳澤交換公文」にもとづき、1925 年 7-8 月に上海分科委員会の委員が選任された。両国 委員の顔ぶれは表1 のとおりである。中国側委員 10 名のうち、中華学芸社メンバーは鄭貞文、 文元模、厳智鐘らの6 名であり、中国科学社メンバーは秦汾と胡敦復の 2 名であった。日本側は 10 名で、学者委員 8 名とともに日本政府関係者 2 名も含まれていた34。中華学芸社メンバーには 日本側の学者委員と師弟関係にあった者があり、たとえば、日本側委員片山正夫は鄭貞文の東北 帝国大学時代の指導教官であった35。 表1 「対支文化事業」上海分科委員会日中両国委員の顔ぶれ 学科分野 中国側委員 職位 出身学校 日本側委員 職位 化学 鄭貞文 商務印書館編訳所理化学部長 東北帝国大学 片山正夫 東京帝国大学教授 物理 文元模 北京師範大学数理系主任 東京帝国大学 新城新蔵 京都帝国大学教授 地質 章鴻釗 北京大学教授 東京帝国大学 山崎直方 東京帝国大学教授 朱家驊 北京大学教授 ベルリン大学 生薬 余厳 開業医 大阪医学専門学校 慶松勝左衛門 東京帝国大学教授 病理 厳智鐘 北京伝染病研究所長 東京帝国大学 入沢達吉 侍医頭、東京帝国大学 名誉教授 伍連徳 北満防疫処長兼総医官 ケンブリッジ大学 細菌 謝応瑞 開業医 英国に留学、学校名不明 林春雄 東京帝国大学教授 生物 岸上鎌吉 東京帝国大学教授 秦汾 教育部参事 ハーバード大学 大河内正敏 理化学研究所所長 胡敦復 東南大学学長 コーネル大学 矢田七太郎 上海総領事 瀬川浅之進 総委員会委員・前漢口 副総領事 (注:瀬川浅之進はまもなく総委員会委員で東亜同文会理事の大内暢三と交代した。 秦汾、胡敦復の専門である数学と、大河内正敏の専門である工学は、上海分科委員会・上海自然研究所の学科に含まれて いない。生物学科の中国側委員は任命されていない。 出所:『中華学芸社社員録』(1924 年 6 月調査)、前掲 JACAR、Ref.B05015169200、(第 42-43 画像)「分割 1」にもとづき、 作成36

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中華学芸社メンバーのなかでも総幹事鄭貞文は、日本側委員と連携しながら上海自然科学研究 所事業を積極的に推し進めようとした。上海分科委員会第1 回総会の開会に先立ち、1926 年 10 月に鄭は総委員会での経験を踏まえ、上海分科委員会規程や研究所組織大綱について、日中双方 の委員が予め下相談する必要があると外務省文化事業部に伝えた。11 月初め、鄭は東京で開かれ る総委員会第2 回総会の出席を兼ねて渡日した37 同月 29 日に開かれた同委員会日本側委員打合会で、鄭が作成した研究所組織大綱案が配付さ れた。鄭の提案は、研究所の目的方針並びに組織と人事、の2 項目からなる。まず研究所の方針 について、「自然科学研究所は純粋学理を研究することを目的とし(中略)」、「中国人の自然科学 研究能力を増進せしめ、以て支那自然科学の発展を図る」と提示している。次に組織と人事につ いては、所長の下に理学と医学の2 部門を設け、所長が研究員の選任を行うこと、研究以外の行 政事務を処理するために総務処を設け、処長1 名は中国人から所長が選任することとした38。1925 年 7-8 月に外務省が作成した「東方文化上海研究所規程案」原案39と比べ、鄭の大綱案の特徴は 次の二つである。一つは、中国人の研究能力の増進を強調したことである。もう一つは、総委員 会での経験を踏まえ、外務省が常務委員・理事に瀬川浅之進のような外務省関係者を置くことに よって経理と人事の実権を掌握しようとすることへの警戒である。 上海分科委員会第1 回総会は、1926 年 12 月に上海で開かれ、「上海自然科学研究所組織大綱」 が議決された。しかし、閉会直後、秦と胡の両委員は中国側の要求が貫徹していないとし、辞職 声明を発表した。この行動の背景には、日中共同委員会が日本外務省から独立した学術事業機関 となるべきことを要求した、中国科学社をはじめとする上海方面の各教育学術団体の「対支文化 事業」反対運動があった。中国科学社は、上海分科委員会第1 回総会開会の日に第 1 次宣言を、 また総会の閉会を受けて中華教育改進社、江蘇教育会などと共同宣言を発表した40。このとき教 育学術界の反対運動に乗じて「対支文化事業」に介入しようとしたのが、国民党である。1926 年7 月に広東国民政府が全国統一を目指して北伐戦争を開始し、その勢力圏が急速に拡大して上 海地域に及んできた。こうしたなか、同年 12 月に国民党上海市党部が同文化事業反対宣言を発 表し、各教育学術団体・機構の反対運動に呼応しながら日中共同委員会が実際は日本外務省の附 属機関であると断定した41。 こうして上海分科委員会の研究事業に積極的に関与してきた鄭貞文ら中華学芸社メンバーは次 第に孤立するようになった。4 月に南京国民政府が成立すると、5 月に鄭は、政治情勢が大きく 変動するなか自分たちが上海分科委員会事業に積極的に関与するのが困難で、強いてこれを行え ば「却テ南京政府ヲシテ文化事業ニ容喙ノ端ヲ開カシメ、延テハ我々身辺ノ危険ヲモ感スルニ至 ルへク」と、矢田七太郎上海総領事・上海分科委員会委員に伝えた42。このように鄭ら中華学芸 社メンバーは、南京国民政府に介入の口実を与えないために、上海における「対支文化事業」の 進行に一旦慎重な姿勢を示すようになった。 2)新城新蔵の「東亜学術研究会議」構想 日本側委員のうち、中華学芸社メンバーの考え方に理解を示したのは新城新蔵であった。中国 古代天文学の研究に取り組んでいた新城は、中華学芸社メンバーをはじめとする中国教育学術界

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と交流が深かった43。新城は、同社メンバーの考えを踏まえ、日中両国学界の連携を図り、共同 研究事業推進の素地をつくるために、両国政府から独立した「東亜学術研究会議」を構想した。 新城は、上海分科委員会厳智鐘委員長にあてた1927 年 3 月 8 日付の書簡のなかで、同分科委 員会の研究事業をめぐって中国側委員が中国の政治的状況や教育学術界の反対を顧慮することを 諒察し、それを打開する方法として、両国政府から距離を置き日中両国の学者から構成される連 合組織を提議して、次のように述べた。 官憲以外に政治や経理等の俗務以外に、超然たる純学者より成る中日連合の研究学会を組織 することを提案致したいと存じます、斯の如き学会を機関として中日両国学者が互に腹蔵な き意見を交換し、相提携して東亜の学術的研究に従ふことを致しましたならば、東方文化事 業の如きも自らこれによりて指導せらるることになるでありませう44 具体的な方法は、日本の学術研究会議の支援の下で中国の学術研究会議を組織すること、両者 が協同連携して「東亜学術研究会議」を構成すること、汎太平洋学術会議の例に倣い、日本と中 国で交互に研究会議を開くことである45。 このような構想にもとづき、新城は上海分科委員会の日中両国の委員に働きかけた。新城はま ず、日本側委員で日本学術研究会議の中心人物である山崎直方に相談した。しかし、山崎の反応 は必ずしも積極的ではなかった。山崎は、新城にあてた1927 年 2 月 21 日付の返信のなかで、「対 支文化事業」の日中共同委員会のような「官立、公立等の或る権威ある機関ですら旨まく(ママ) 行かぬ のに、純私立の国交的学術団体が支那人相手に如何程進行するや」と疑問を呈している。また、 実際の進め方として、予算の確保や中国側との相談による具体的な事業内容の確立が必要である と記している46。 山崎の意見を受け、新城は、上海分科委員会中国側委員の多数が在住した北京に赴いた。1927 年4 月 7 日に北京師範大学で上海分科委員会委員の文元模や同大学学長で新城の教え子47である 張貽恵に会った48。中国側の新聞は、「組織東亜学術研究会議 日本物理名家新城新蔵提議」とい う題で報道し、張らも新城新蔵の提議に賛成したと伝えている49。当時北京でも北京政府と南京 国民政府が対峙するなか政治的な混乱を極めていた。日本に戻った新城は『文藝春秋』に「乱世 と学者」を寄稿し、中国側との共同研究事業を契機に「乱世に於ける学者の立ち場」について深 く考えさせられるようになったと述べ、「支那の学者に向かつて如何なる意見を呈し得るであらう か。(中略)無理やりに協同研究に引張り込むのが果して私のとるべき道であらうか」と自問し た50 結局、新城新蔵の「東亜学術研究会議」構想は実現しなかった。その背景には「田中外交」に よる日中関係の悪化があった。1927 年 5 月、日本政府は第 1 次山東出兵を行い、7 月に対中国政 策を策定するために「東方会議」を開いた。同会議最終日の7 日に外務省文化事業部は、会議に 出席するために帰国した矢田七太郎上海総領事から意見を聴取したうえ、日本側単独で自然科学 関係の研究を行うことを決定したのである51。さらに1928 年 5 月に済南事件が勃発すると、そ れを機に総委員会の中国側委員は総辞任を宣言せざるを得なかった。上海分科委員会の文元模委

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員は、新城にあてた同年5 月 18 日付の返信のなかで、中国側委員の「非常に苦しい立場」につ いて次のように訴えた。 今度之済南事件は御仰つた通り我々の文化事業に非常な打撃であります。数年以来御国の学 者と我国の知識階級の一部分の人々が両国の将来進んでは東亜民族之将来といふ高遠なる見 地から見て、両国民の親睦を図る為可なり努力しましたが、それによつて築かれた基礎が未 だ固まらない時、一朝にして両国の軍閥に破壊されてしまふとは、実に痛心すべき事である と存じます。殊に平日日本を自国の如く愛し及ばずながら、機会の有る毎に学生に日本学者 の真摯な態度と日本国民の奮闘的精神を伝へ彼等に日本学者を模範とせよ日本国民を兄弟と 思へよと教へて来ました私の如き者に取つては、今度の事件から引起された青年学生の悲憤 を見ると、名状すべからざる煩悶と苦痛を感ぜざるを得られません52 このように中華学芸社メンバーと新城新蔵のような日中両国の学者は、両国間の政治・外交関 係から一定の距離を置きながら、「対支文化事業」をめぐって連携の努力をし、日中文化交流に貢 献しようとした。それだけに、済南事件という日中両国間の軍事衝突によって知識階級の予備軍 である学生の対日感情が悪化したことに、文元模のような中華学芸社メンバーは言葉で表現でき ないほどの煩悶と苦痛を感じたのであろう。 おわりに 以上、中華学芸社が「対支文化事業」に関与する具体的な経緯を検討した。同社メンバーは、 日中両国政府の政治的な介入に対し、「対支文化事業」の独立を訴え続けた。そのため、同文化事 業が発足当時の日本側単独事業から日中共同事業へ転換することに協力した同社メンバーは、さ らにそれを非政府間の共同事業へと転換させようとし、同文化事業の実権を握り続ける外務省と 意見が明確に対立した。一方、中華学芸社メンバーと日本の学者の間には同文化事業の上海分科 委員会において提携が見られた。同社総幹事鄭貞文は、同分科委員会の事業である上海自然科学 研究所の組織大綱を作成し、外務省の介入を防止しながら同研究所事業を積極的に推し進めよう とした。また日本側委員の新城新蔵は、中華学芸社メンバーの考えを踏まえ、日中両国の学界の 連携を図り共同研究事業推進の素地をつくるために、外務省から独立した「東亜学術研究会議」 を構想した。結局は、中華学芸社メンバーと新城新蔵の構想は、「国民革命」と「田中外交」によ る日中両国間の衝突、まさに政治・外交的問題によって一旦頓挫した。 とはいえ、日中文化交流の面における日中両国学者の提携は次の世代に引き継がれたのである。 その例として、羅宗洛らいわば中華学芸社第2 世代が台北帝国大学の接収に関与したことが挙げ られる。羅らは上海自然科学研究所研究員の養成を1 つの目的とする「特選留学生」学費補給制 度(1924-40 年)のもとで育成された。日中戦争終了直後の 1945 年に、国民政府教育部(部長 朱家驊)から「台湾区教育復員補導委員会」委員として台湾に派遣された。当時国民政府教育部 の教育復員政策は、日本側に対し必ずしも友好的ではなかった。こうしたなか羅らは、台北帝国 大学時代に蓄積された専門知識・研究を台湾大学に引き継がせることに貢献し、残留した日本人

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教授に対しても寛大であった53。 (注) 1 阿部洋『「対支文化事業」の研究――戦前期日中教育文化交流の展開と挫折』、汲古書院、2004 年、「緒論」ⅰ頁を参照。 2 横井和彦・高明珠「民国初期における帰国留学生のパフォーマンスからみた留学生政策効果 中国科学社と中華学芸社の比較を中心として」(上)、783-820 頁。同志社大学経済学会『経済 学論叢』66 巻 4 号(2015 年 3 月)、同(下)、67 巻 1 号(2015 年 7 月)、139-214 頁。 3 新城新蔵(1873 年-1938 年)京都帝国大学の教授、同総長、「対支文化事業」上海分科委員会 委員、同上海自然科学研究所長を歴任。専門は宇宙物理学。『新城文庫』:京都大学宇宙物理学 教室所蔵。新城のメモや中国側との書簡が残されている。 4 「附録:中華学芸社沿革小史」、『学芸』百号記念増刊(1933 年 12 月)、1 頁。拙稿「中華学芸 社の設立――革命から学術救国へ」、早稲田大学アジア太平洋研究科『アジア太平洋研究科論 集』27(2014 年 3 月)、783-820 頁を参照。 5 前掲「附録:中華学芸社沿革小史」、1-5 頁。山崎百治「中華学芸社について」、『滬友』第 29 号(1926 年 2 月)、13-15 頁。 6 鄭貞文「我所知道的商務印書館編訳所」、中国人民政治協商会議全国委員会文史資料編輯委員 会編集『文史資料選輯 第 18 巻第 53 輯』、中国文史出版社、2011 年、138 頁。 7 鄭貞文「学術界的新要求」、『学芸』第 2 巻第 3 号(1920 年 6 月)。都懐尭「通訊」、『学芸』第 2 巻第 7 号(1920 年 10 月)。鄭の論説は、『東方雑誌』や『民国日報』に転載され、1920 年 8 月の中国科学社年次大会で同社社長任鴻雋が行った講演や、同年9 月の北京大学の始業式で胡 適が行った講演のなかでも引用された。 8 阿部洋『中国近代学校史研究――清末における近代学校制度の成立過程』、福村出版、1993 年、 244-251 頁を参照。 9 張剣『科学社団在近代中国的命運――以中国科学社為中心』、山東教育出版社、2005 年、12-18、 48、197-205 頁。 10 もう一つの代表的な教育団体である全国教育会連合会については、今井航『中国近代における 六・三・三制の導入過程』、九州大学出版会、2010 年、288 頁を参照。 11 『原名丙辰学社 中華学芸社社員録第一期』(1923 年)。極東生「文化事業と支那の党争」、『北 京週報』第101 号(1924 年 2 月 17 日)、196-197 頁。 12 章開沅・唐文権『平凡的神聖 陶行知』、華中師範大学出版社、2013 年、113-121 頁。 13 「江西館歓迎服部大会紀 朱念祖報告赴日接洽経過」、『申報』(1924 年 4 月 10 日)。 14 「対支文化事業と支那側の希望 朱念祖氏と丙辰学社」、『東京朝日新聞』(1923 年 4 月 14 日)。 15 JACAR アジア歴史資料センターRef.B05015310600、(第 2-6 画像)「5.丙辰学社ヨリ文化事 業費使途ニ関シ申出ノ件 自大正十二年四月」(H-4-2-0-7_001)外務省外交史料館。旧体字を 新字体に変換した。以下、同。以下、アジア歴史研究センター、外務省外交史料館を省略。 16 岡部長景「視察報告草稿」、『岡部長景日記』、尚友倶楽部、1993 年、545-547 頁。

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17 周張両教授「対支文化事業と北京大学」、『北京週報』第102 号(1924 年 2 月 24 日)、226-229 頁。北京大学は、陳大斉を委員長とする「日本対支文化事業」研究委員会を組織し、1923 年 7 月に「北京大学関于日本対支文化事業第一次意見書」を発表した。 18 JACAR、Ref.B05015000600、(第 14-15 画像)「1.文化事業部関係 自大正十二年 至昭和四 年 (3)岡部事務官支那出張文化事業意見 大正十二年」(H-0-0-0-1_001)。 19 JACAR、Ref.B05015169200、(第 19-24 画像)「分割 1」(H-3-1-0-1_4)。 20 「社報 中華学芸社第二次関於日本対華文化事業之意見」、『学芸』第5 巻第 9 号(1924 年 2 月)、 5-6 頁。 21 前掲 JACAR、Ref.B05015310600、(第 5-6 画像)「5.丙辰学社ヨリ文化事業費使途ニ関シ申 出ノ件 自大正十二年四月」、前掲周張両教授「対支文化事業と北京大学」から推測される。 22 1923 年 5 月に公布した「対支文化事業事務局官制」にもとづき設置された。1924 年 12 月に アジア局に隷属する「文化事業部」となった。JACAR、Ref.B05015169400、(第2-3 画像)「分 割3」(H-3-1-0-1_4)。 23 朱経農「対於『対支文化事業』之懐疑」、『申報』(1924 年 4 月 10 日)、「社論·關於日本對華文 化事業之懷疑説」、『順天日報』(1924 年 4 月 15 日)。 24 「教育界消息 教育学術団体対于日本対華文化事業之宣言及輿論界之観察」、『教育雑誌』第 16 巻第6 号(1924 年 6 月)。 25 小村俊三郎「対支文化事業に就て」、『北京週報』第 107 号(1924 年 4 月 6 日)、7 頁。 26 JACAR、Ref. B05015187900、(第 44-46 画像)「分割 2」(H-3-2-0-2_1_002)。 27 「対支文化事業に対する支那側の誤解」、『支那時報』第 2 期第 5 号(1925 年 5 月)。 28 また、鄭貞文らは自然科学研究関係の中国側委員候補者の物色について外務省に協力した。 JACA、Ref.B05015187500、(第 38 画像)「1.大正十三年上海委員会組織附上海自然科学研 究所設置関係 (1)上海委員会組織/分割 1」(H-3-2-0-2_1_001)。 29 前掲 JACAR、Ref.B05015169200、(第 27-34 画像)「分割 1」。中華教育改進社の代表として 選定された熊希齢が就任しなかった。前掲JACAR、Ref.B05015169400、(第4 画像)「分割3」。 30 JACAR、Ref.B05015165700、(第 59-60 画像)「1.第一回総会 大正十四年十月 分割 1」 (H-3-1-0-1_2_001)。 31 勉(劉勉己)「告『中日文化事業委員』」、『晨報』(1925 年 10 月 16 日)。『晨報』編集の劉は中 華学芸社メンバーであり、鄭貞文らと同じ福建省の出身である。外務省側は『晨報』の同じ日 の論説「中国委員在中日文化委員総会中不争権限争個人地位」が鄭の投稿であると見ている。 前掲JACAR、Ref.B05015169200、(第 75 画像)「分割 1」。 32 JACAR、Ref.B05015165200、(第 51-52 画像)「分割 1」(H-3-1-0-1_1)。 33 JACAR、Ref.B05015165300、(第 76 画像)「分割 2」(H-3-1-0-1_1)。 34 前掲 JACAR、Ref.B05015169200、(第 42-43 画像)「分割 1」。 35 JACAR、Ref.B05015187800、(第 12 画像)「分割 1」(H-3-2-0-2_1_002)。また、山崎直方は 章鴻釗の東京帝国大学時代の地質学科の教授で、章は山崎から厚遇を受けたと述べている。章 鴻釗『六六自述』、武漢地質学院出版社出版、1987 年、22 頁。

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36 前掲阿部洋『「対支文化事業」の研究』、507-510 頁を参照。 37 JACAR、Ref.B05015187600、(第 64-66 画像)「1.大正十三年上海委員会組織附上海自然科 学研究所設置関係(1)上海委員会組織/分割 2」(H-3-2-0-2_1_001)。原文の一部では丁文江 としているが、鄭貞文の誤りである。 38 「上海委員会の議題(案)」(1926.11.29 打ち合わせ会に提出)、『新城(新蔵)文庫』、(付箋番 号、1-148-5)。 39 JACAR、Ref.B05015167500、(第34 画像)「2.第二回打合会 大正十四年七月」(H-3-1-0-1_3)。 40 「教育界消息 所謂『東方文化事業』之失敗与反抗」、『教育雑誌』、第 19 巻第 1 号(1927 年 1 月)、2-3 頁。「教育界消息 七零八落之東方文化事業」、『教育雑誌』、第 19 巻第 2 号(1927 年 2 月)、1-2 頁。 41 前掲「教育界消息 所謂『東方文化事業』之失敗与反抗」、3-4 頁。 42 JACAR、Ref.B05015181700、(第 101 画像)「1.昭和元年十二月上海委員会第一回委員会決 議事項実施 分割 1」(H-3-2-0-1_8)。 43 新城の研究論文の翻訳は、『学芸』に連載された後、『中国上古天文』(『学芸匯刊』38、1936 年)として中華学芸社から出版されている。 44 JACAR、Ref.B05015180600、(第19-22 画像)「2.支那ニ於ケル重力磁力及経緯度ノ測定(新 城新藏博士)」(H-3-2-0-1_7_001)。 45 新城の 1927 年のメモ帳、『新城文庫』、(付箋番号、4-22)。 46 来簡[封書]山崎直方、消印 S2.2.27、『新城文庫』(付箋番号 1-123)。 47 新城新蔵「北支文化工作私観(上)―中国人の手で大学を開け」、『東京朝日新聞』(1937 年 11 月23 日)。張は京都帝国大学物理学科を卒業した。 48 新城は北京大学や燕京大学、清華大学も訪問した。前掲新城の 1927 年のメモ帳。 49 「組織東亜学術研究会議 日本物理名家新城新蔵提議」、『益世報』(1927 年 4 月 15 日)。 50 新城新蔵「乱世と学者」、『文藝春秋』(1927 年 8 月号)、16 頁。 51 JACAR、Ref.B05015181800、(第 30-31 画像)「1.昭和元年十二月上海委員会第一回委員会 決議事項実施 分割 2」(H-3-2-0-1_8)。 52 前掲 JACAR、Ref.B05015180600、(第 50-52 画像)「2.支那ニ於ケル重力磁力及経緯度ノ測 定(新城新藏博士)」。 53 詳細は拙稿「『特選留学生』学費補給制度(1924-1940 年)に関する研究」(早稲田大学地域・ 地域間研究機構『次世代論集』3 号(2018 年 3 月)、31-54 頁)を参照。

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Collaboration Between Japanese and Chinese scholars on “The

Japanese Cultural Project for China”: A Focus on the Movement of

the Arts and Science Society of China

PAN Jiling (Completed Ph.D. program without a Ph.D degree, University of Waseda) Abstract:

This paper focuses on the concrete involvement of the Arts and Science Society of China in “The Japanese Cultural Project for China” implemented by the Japanese government in the 1920s. The paper aims to clarify that Japanese and Chinese scholars, who kept their distance from political and diplomatic relations between the two countries, collaborated together on the cultural project above mentioned.

The Arts and Science Society of China was inaugurated in 1916 by Chinese students who were studying in Japan and were keeping their distance from political activities. Members of the society also continued to appeal for the independence of “The Japanese Cultural Project for China” from the political interventions of both the Japanese and the Chinese governments, thereby clashing with the Japanese Ministry of Foreign Affairs, which continued to hold the real power over the cultural project. On the other hand, there was collaboration between the members of the society and Japanese scholars on “The Shanghai Natural Science Institute,” which was one of the core projects of “The Japanese Cultural Project for China.” Based on the ideas of Zheng Zhenwen and other members of the Arts and Science society of China, Shinzo Shinshiro developed a plan regarding the “East Asia Academic Research Council,” independent of the Japanese Ministry of Foreign Affairs, in order to establish a basis for the promotion of joint research projects and to coordinate academic groups in Japan and China.

The plan drawn up by the members of the Arts and Science Society of China and Shinzo Shinjo was brought to a halt due to the “National Revolution” and “Tanaka Diplomacy,” which were the political and diplomatic conflicts between Japan and China. However, such collaboration between Japanese and Chinese scholars in terms of cultural exchange passed on to the next generation. The involvement of Luo Zongluo and other members of the second generation of the society, in the requisition of Taipei Imperial University, is a typical example of the continuity of such cultural collaboration from one generation to the next.

Key Words:

The Arts and Science Society of China, “The Japanese Cultural Project for China”, Zheng Zhenwen, Shinjo Shinzo, East Asia Academic Research Council

参照

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