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〈近畿の民俗・文化〉やまと・まほろば・甍紀行 ―鬼瓦の銘文からたどる近世瓦屋の成立・展開から終焉まで―第一部

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Academic year: 2021

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はじめに 『 民 俗 文 化 』 誌 上 に 、 北 海 道 か ら 八 重 山 諸 島 ま で の 「 甍 紀 行 」 を 八 回 書 き 続 け た 。 初 め て の 地 域 も 多 く 、 近 世 か ら 近 代 の 瓦 に つ い て の 眼 を 開 か れ る 「 発 見 」 も 何 度 か あ り 、 調 査 そ の も の は 楽 し か っ た が 、 お な じ 思 い を 何 回 か 抱 い た 。 「 半 日、 軒 先 の 瓦 を 眺 め た だ け で、 何 か わ か っ た よ う な こ と を 書 い て い い の だろうか」 こうした申し訳なさがつきまとい、帰ったら奈良の近世以降の屋根をじっく り 観 察 し た い。 そ し て、 あ れ こ れ 分 析 し て み た い と 思 う よ う に な っ た。 し か し、定年までその余裕はなかった。 平成二五年(二〇一三)から地元で始めた調査では、鬼瓦の銘文をおもな対 象とした。その理由はいくつかある。退職後のかたづけも一段落したが、家に 籠ってばかりでは良くない。そこで、花粉の脅威も薄れた五月一日から、夕方 に近くの寺社を自転車で回ることにした。 近所の鬼瓦に銘文があることに気づいたのは、かなり以前のことである。正 月や、年に二回ほど掃除で訪れる桜井市池之内の氏神様、式内稚櫻神社境内の 仮 宮 の 鬼 瓦 に「 文 化 弐 歳( 一 八 〇 五 )  丑 四 月 下 旬   細 工 人   戒 重   瓦 屋   彌 七良」というヘラ書きがあった(図 1 )。 神社のすぐ西の旧家 U 家の鬼瓦にも、年号はないものの「瓦主   戒重   弥七 良( 花 押 )  常 瓦 新 」 や「 カ イ   瓦 屋   常 瓦 新 作 」「 戒 ヤ   常 シ ン 作 」( 図 2 ) 「 横 伊 」 な ど 、 当 時の 私 にと っ ては 暗 号の よ う な 銘 文 が あ る こ と に も 気 づ い た 。 そ こ で 少 し 気 を つ け て 近 所 の 寺 を 巡 る と 、 銘 文 や 刻 印 を 残 す 例 が か な り あ る 。 そ し て 、 う ま く い け ば 、 資 料 と し て ま と ま る か も し れ な い と 思 う よ う に な っ た 。 今 に な っ て 思 う と 、 こ れ が 手 つ か ず の 宝 の 山 だ っ た こ と に な る の で あ る が … 。 小型のデジタルカメラとパソコンのおかげで、重い望遠レンズなしでも銘文 を拡大して読めるようになったのも大きい。最初、あまり期待していなかった 民 家 に も 結 構 残 っ て い る こ と も わ か っ て き た。 村 の 鎮 守 や 寺 に 近 い 草 分 け の 家、旧街道沿いの煙出しや鳥衾のついた家は要注意である。葺き替えた場合で も、家の古さを物語る証人として、大切に残している例が多いのにも驚いた。 そ の 一 方、 池 之 内 の 天 理 教 磐 余 分 教 会 の「 山 田 村   宗 七 」 作 の 鬼 瓦 の よ う

やまと・まほろば・甍紀行

―鬼瓦の銘文からたどる近世瓦屋の成立・展開から終焉まで―第一部

  脇

   

図1 細工人 戒重 瓦屋 彌七良 図2 戒ヤ 常シン作

(2)

し、 鬼 瓦 は 動 産 な の で 改 築 や 移 築 な ど で 当 初 の 建 物 か ら 移 動 し た 鬼 瓦 も あ る。 したがって、分布を検討する際は 聞き取り調査などの 検証が必要である。一九 世紀中頃以降の民家への瓦葺きの普及に伴い、中古の瓦を売買する古物商の存 在も大坂などでは知られている。 なお、銘文は鬼瓦の左右側面に書くことが多く、また数行にわたる場合もあ る。その全文の釈読は銘文集成にゆずり、以下、本文中では向かって右側面の 銘文から始め、改行の場合も一行にまとめ、かつわかりやすいように分ち書き にした。なお鬼瓦の両側面を区別する必要がある場合は、作り手の目線から見 ての左右、つまり向かって右側面( R )、左側面( L )と呼ぶことにした。 調査範囲 (図 4) 初めは自転車で回れる範囲で始めた。銘文を見つけた時のうれしさは何物に も代えがたく、また、ある瓦屋の縄張が広がっていくのを確かめるのも胸が踊 る。ということで、だんだんのめり込み、初めは四〇年来のフィールドである 昔 の 磯 城 郡( 式 上・ 式 下・ 十 市 郡 ) と 高 市 郡 域 を 対 象 と す る つ も り で あ っ た が、 次 々 と 別 の 瓦 屋 や 瓦 師・ 細 工 人 の 存 在 が 判 明 し、 そ れ を 追 い か け て い く と、終わりが見えなくなってしまった。こうなると、もう自転車では回り切れ ない。 夏の奈良盆地を自転車で走るのはつらい。冬もかなり厳しく、秋の陽は釣瓶 落とし。ということで、杉の花粉が少なくなった五月初めから夏までの間が最 適期である。調査には一〇倍程度の双眼鏡とデジタルカメラ、それに一脚式の カ メ ラ ス タ ン ド を つ け れ ば ベ ス ト で あ る。 花 粉 が 怖 い 期 間 は マ ス ク を か け る。 これにくたびれた帽子を被り、死角を避け、ベストアングルを探してどこへで も入り込むわけであるから、何度か不審の目で見られた。年寄りだから怪しま に、 私 が 撮 っ た 写 真 が 遺 影 に な っ た 例 も あ る( 図 3 )。 こ の 鬼 瓦 に 年 号 は な い が、 宝 珠 形 を 陰 刻 す る 紋 様 や 宗 七 の 活 動 時 期 か ら 推 定 す る と、 一 九 世 紀 中 頃 に 民 家 用 に 量 産 さ れ た も の と 思 わ れ る。 こ う し た 例 を み る と、 も っ と 早 く 着 手 す れ ば よ か っ た と 臍 を 噛 む 思 い で あ る。 四 五 年 前 に 桜 井 市 山 田 の 飛 鳥 資 料 館 の 宿 舎 に 住 む よ う に な っ た 頃 な ら、より多くの鬼瓦が残っていたはずである。 さ ら に 残 念 な の は、 昭 和 五 二 年 か ら の 明 日 香 村、 橿 原 市、 桜 井 市、 高 取 町、 天 理 市 内 の 仏 像 の 悉 皆 調 査 で あ る。 こ の 時 は 五 〇 〇 を こ え る 寺 や 無 住 の 会 所 寺、辻堂を巡った(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館一九八三、天理市教育委 員 会 一 九 八 一 )。 今 思 え ば、 こ の 時、 鬼 瓦 の 銘 文 も 記 録 し て お け ば、 よ り 豊 か な情報が残せたはずである。しかし、残念ながら筆者の関心はまだ古代の瓦に 限られていたし、仏像の調査法を習得するのが精一杯で、屋根を見上げるゆと りはなかった。 ということで、すでに失われた鬼瓦の銘文は多く、その総数を知ることはで きない。一方、まだ見落としている資料も多いはずである。したがって、今回 の 報 告 は「 今 回 見 つ け た 銘 文 か ら 言 え ば、 以 下 の 結 論 に な る 」 と か、 「 残 っ て い る 資 料 で は、 こ う い う 傾 向 が 認 め ら れ る 」、 つ ま り「 今 の と こ ろ …」 と い う 断り書きが、常に文頭にあることに留意して読んでいただければと思う。 また銘文は、まだ粘土が軟らかいうちに刻み乾燥後に焼成したものであるか ら、鬼瓦と銘文が同時期のものであることを疑う必要は基本的にはない。ただ 図3 山田村宗七 横大路 ▲ 耳成山 ▲ 畝傍山 ▲ 天香久山天香久山 芝藩 柳本藩柳本藩柳本藩柳本藩柳本藩柳本藩 芝藩 芝藩芝藩 芝藩芝藩芝藩 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍 卍 卍 卍卍 卍卍 卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍卍卍 卍 卍 卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍卍 卍 卍 卍卍 卍 卍 卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍卍 卍 卍 卍 卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍 卍 卍卍 卍 卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍▲ 卍▲ 卍卍 卍卍卍卍 卍 天香久山 卍 天香久山 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍 卍卍卍 卍卍卍 卍 卍 卍 卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 N 0 5000m 卍=寺 =神社 =城・陣屋 =民家 ● =瓦屋 竜田村竜田村竜田村竜田村 神南村神南村神南村神南村 平野村平野村平野村平野村 上里村上里村上里村上里村 下田村下田村下田村下田村 大谷村大谷村大谷村大谷村 弁財天村弁財天村弁財天村弁財天村弁財天村 二階堂村二階堂村二階堂村二階堂村二階堂村二階堂村二階堂村 今里村今里村今里村今里村 八尾村八尾村八尾村八尾村 新町村新町村新町村新町村 田原本村田原本村 卍 田原本村 卍 卍 田原本村 卍 田原本村田原本村田原本村田原本村田原本村田原本村田原本村田原本村 新口村新口村新口村新口村新口村新口村新口村 井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村 阪手村阪手村阪手村阪手村 川原城村川原城村川原城村川原城村川原城村 守目堂村守目堂村守目堂村守目堂村守目堂村 丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村 大安寺村大安寺村大安寺村大安寺村大安寺村 大海村大海村大海村大海村 檜垣村檜垣村檜垣村檜垣村 天理市天理市天理市天理市 大泉村大泉村大泉村大泉村 三輪村三輪村 三輪村 三輪村 三輪村三輪村三輪村三輪村 粟殿村粟殿村粟殿村粟殿村 安倍村安倍村安倍村安倍村 桜井村桜井村桜井村桜井村 十市村十市村十市村十市村 葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村 西之宮村西之宮村西之宮村西之宮村西之宮村 戒重村戒重村 卍 戒重村 卍 戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村 横内村横内村横内村横内村 山田村山田村 卍 山田村 卍 卍 山田村 卍 山田村山田村山田村山田村 八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村 卍 八木村 卍 卍 八木村 卍 卍 八木村 卍 八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村 新町村新町村新町村新町村 小山村小山村 卍 小山村 卍 小山村小山村小山村小山村 奥山村奥山村奥山村奥山村 御坊村御坊村御坊村御坊村 今井村今井村今井村今井村今井村今井村今井村今井村 萱森村萱森村萱森村萱森村 吉隠村吉隠村吉隠村吉隠村 五津村五津村五津村五津村 榛原村榛原村榛原村榛原村 大宇陀村大宇陀村大宇陀村大宇陀村大宇陀村 八井内村八井内村八井内村八井内村八井内村 初瀬村初瀬村初瀬村初瀬村 古市場村古市場村古市場村古市場村古市場村 菟田野村菟田野村菟田野村菟田野村菟田野村 平田村平田村平田村平田村 野口村野口村野口村野口村野口村野口村 土佐村土佐村土佐村土佐村土佐村土佐村 松山村松山村松山村松山村 古瀬村古瀬村古瀬村古瀬村 玉手村玉手村玉手村玉手村 柏原村柏原村柏原村柏原村 原谷村原谷村原谷村原谷村原谷村原谷村原谷村原谷村 吉井村吉井村吉井村吉井村吉井村吉井村吉井村 常門村常門村 卍 常門村常門村常門村常門村常門村 入谷村入谷村入谷村入谷村 久米村久米村久米村久米村 出村出村出村 箸喰村箸喰村箸喰村箸喰村 坊城村坊城村坊城村坊城村 越智村越智村越智村越智村 寺田村寺田村寺田村寺田村 御所村御所村御所村御所村 村井家村井家村井家村井家 今里村今里村 卍 今里村 卍 卍 今里村 卍 今里村今里村今里村今里村 高田村高田村高田村高田村 雲梯村雲梯村雲梯村雲梯村 上品寺村上品寺村上品寺村上品寺村上品寺村 曽我村曽我村曽我村曽我村曽我村曽我村 五井村五井村五井村五井村 高取城高取城高取城高取城 図4 調査範囲と瓦屋の分布

(3)

横大路 ▲ 耳成山 ▲ 畝傍山 ▲ 天香久山天香久山 芝藩 柳本藩柳本藩柳本藩柳本藩柳本藩柳本藩 芝藩 芝藩芝藩 芝藩芝藩芝藩 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍 卍 卍 卍卍 卍卍 卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍卍卍 卍 卍 卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍卍 卍 卍 卍卍 卍 卍 卍 卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍卍 卍 卍 卍 卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍 卍 卍卍 卍 卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍▲ 卍▲ 卍卍 卍卍卍卍 卍 天香久山 卍 天香久山 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍 卍卍卍 卍卍卍 卍 卍 卍 卍 卍卍卍 卍卍 卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍 卍卍卍 卍卍 N 0 5000m 卍=寺 =神社 =城・陣屋 =民家 ● =瓦屋 竜田村竜田村竜田村竜田村 神南村神南村神南村神南村 平野村平野村平野村平野村 上里村上里村上里村上里村 下田村下田村下田村下田村 大谷村大谷村大谷村大谷村 弁財天村弁財天村弁財天村弁財天村弁財天村 二階堂村二階堂村二階堂村二階堂村二階堂村二階堂村二階堂村 今里村今里村今里村今里村 八尾村八尾村八尾村八尾村 新町村新町村新町村新町村 田原本村田原本村 卍 田原本村 卍 卍 田原本村 卍 田原本村田原本村田原本村田原本村田原本村田原本村田原本村田原本村 新口村新口村新口村新口村新口村新口村新口村 井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村井戸堂村 阪手村阪手村阪手村阪手村 川原城村川原城村川原城村川原城村川原城村 守目堂村守目堂村守目堂村守目堂村守目堂村 丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村丹波市村 大安寺村大安寺村大安寺村大安寺村大安寺村 大海村大海村大海村大海村 檜垣村檜垣村檜垣村檜垣村 天理市天理市天理市天理市 大泉村大泉村大泉村大泉村 三輪村三輪村 三輪村 三輪村 三輪村三輪村三輪村三輪村 粟殿村粟殿村粟殿村粟殿村 安倍村安倍村安倍村安倍村 桜井村桜井村桜井村桜井村 十市村十市村十市村十市村 葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村葛本村 西之宮村西之宮村西之宮村西之宮村西之宮村 戒重村戒重村 卍 戒重村 卍 戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村戒重村 横内村横内村横内村横内村 山田村山田村 卍 山田村 卍 卍 山田村 卍 山田村山田村山田村山田村 八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村 卍 八木村 卍 卍 八木村 卍 卍 八木村 卍 八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村八木村 新町村新町村新町村新町村 小山村小山村 卍 小山村 卍 小山村小山村小山村小山村 奥山村奥山村奥山村奥山村 御坊村御坊村御坊村御坊村 今井村今井村今井村今井村今井村今井村今井村今井村 萱森村萱森村萱森村萱森村 吉隠村吉隠村吉隠村吉隠村 五津村五津村五津村五津村 榛原村榛原村榛原村榛原村 大宇陀村大宇陀村大宇陀村大宇陀村大宇陀村 八井内村八井内村八井内村八井内村八井内村 初瀬村初瀬村初瀬村初瀬村 古市場村古市場村古市場村古市場村古市場村 菟田野村菟田野村菟田野村菟田野村菟田野村 平田村平田村平田村平田村 野口村野口村野口村野口村野口村野口村 土佐村土佐村土佐村土佐村土佐村土佐村 松山村松山村松山村松山村 古瀬村古瀬村古瀬村古瀬村 玉手村玉手村玉手村玉手村 柏原村柏原村柏原村柏原村 原谷村原谷村原谷村原谷村原谷村原谷村原谷村原谷村 吉井村吉井村吉井村吉井村吉井村吉井村吉井村 常門村常門村 卍 常門村常門村常門村常門村常門村 入谷村入谷村入谷村入谷村 久米村久米村久米村久米村 出村出村出村 箸喰村箸喰村箸喰村箸喰村 坊城村坊城村坊城村坊城村 越智村越智村越智村越智村 寺田村寺田村寺田村寺田村 御所村御所村御所村御所村 村井家村井家村井家村井家 今里村今里村 卍 今里村 卍 卍 今里村 卍 今里村今里村今里村今里村 高田村高田村高田村高田村 雲梯村雲梯村雲梯村雲梯村 上品寺村上品寺村上品寺村上品寺村上品寺村 曽我村曽我村曽我村曽我村曽我村曽我村 五井村五井村五井村五井村 高取城高取城高取城高取城 図4 調査範囲と瓦屋の分布

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る さ と の 一 つ で も あ る。 六 世 紀 末 か ら 八 世 紀 初 め ま で の 瓦 は、 こ の「 ま ほ ろ ば 」 と 呼 ば れ た 三 山 地 域 の 寺 院 や 宮 殿 を 飾 る た め に 作 ら れ 発 展 し た。 本 稿 で は、そのおなじ地域における近世の瓦生産の歴史を、鬼瓦や留蓋・鯱に刻まれ たおよそ五一〇例の紀年銘やその他の銘文、それに軒桟瓦などに残る刻印を手 がかりに、できるだけ数値化した資料を根拠に考えることにしたい。 江戸時代の支配区分 今 回 の 調 査 範 囲 は 大 名 の 一 円 支 配 地 で は な く、 高 取 藩( 二 万 五 千 石・ 八 六 村 )・ 郡 山 藩( 一 五 万 一 千 石、 二 一 六 村、 う ち 式 下・ 十 市 郡 内 四 七 村 )・ 津 藩 (二七万九五〇石、大和国内に一三四村) ・久居藩(五万八七〇〇石、大和国内 に二八村) ・戒重藩(のち芝村藩、一万石、大和国内に二三村) ・柳本藩(一万 石、 三 一 村 )・ 田 原 本 陣 屋( 一 万 石、 十 一 村 ) 領 の 他 に、 寺 社 領 や 幕 府 領・ 旗 本 領 が 錯 綜 し た 地 域 で あ る こ と が 特 徴 で あ る。 な か に は 十 市 郡 膳 夫 村 の よ う に、 旗 本 領 二 家 と 幕 府 領・ 寺 領 に 細 分 さ れ た い わ ゆ る「 相 給 村 」 も か な り あ る。 さ ら に、 膳 夫 村 も そ の 例 に な る が 支 配 者 の 変 化 が 何 回 か あ っ た 村 も 多 い。 したがって、近世都市である大坂や堺のように「瓦屋仲間」などの株仲間は成 立 し に く い 状 況 に あ っ た 可 能 性 が 高 い( 嶋 谷 一 九 九 九 )。 堺 な ど で 多 数 み ら れ る長方形で居住地と姓名を記した刻印が、あまり見つからないのもそうした事 情を物語っているのかもしれない。もちろん、基本的には屋根を見上げての調 査であるから限界があり、史料の調査も未着手なので今後の課題としたい。 この地域の近世史について筆者は門外漢であるが、各地に多数残る庄屋など の屋敷から受けるのは、余裕のある農家も多かったのではないかという印象で ある。それに加え、他地域にくらべ、奈良盆地は天災や戦災の被害も少なかっ た。こうしたいくつかの要因が幸いして多数の寺社や民家が残り、結果として れなかったのかもしれないが、若ければ警察に通報マチガイなしである。 調査は最終的な分析の精度を考えると空白地帯を作らない悉皆調査が望まし い。さらに理想をいえば奈良盆地全体を俯瞰できればいいのだが、いつまでも 続けるわけにもいかない。そこで四回歩いた大和郡山市の城下町の例や、奈良 県下の建造物関係の修理報告書(参考文献参照) 、『法隆寺の至寶   瓦』編の研 究 成 果( 法 隆 寺 昭 和 資 財 帳 編 集 委 員 会 一 九 九 二 )、 田 原 本 町 内 の 鬼 瓦 を 収 集 し た 中 西 秀 和 さ ん や( 中 西 二 〇 〇 八 )、 奈 良 県 下 の 銘 文 を 集 め た 芦 田 淳 一 さ ん の 一 覧 表( 芦 田 二 〇 〇 三・ 二 〇 一 七 )、 そ れ に 寺 農 織 苑 さ ん の 生 駒 郡 の 調 査 成 果 ( 寺 農 二 〇 一 八 ) を 参 照 し な が ら、 一 旦 区 切 り を つ け る こ と に し た。 ま た こ う した調査の先達ともいえる小林章男さんの研究(小林一九八一・一九八二・一 九九一)や、中尾正治・高橋美久二さんの京都府における研究(中尾・高橋一 九七六、中尾一九九三)にも多く学んだことを明記しておきたい。 現 時 点 で の 調 査 範 囲 を 現 在 の 行 政 区 分 で い え ば、 桜 井 市・ 橿 原 市・ 明 日 香 村・高取町のほぼ全域と、隣接する天理市・田原本町・大和高田市・御所市の 一 部 を 含 む 地 域 と な り、 畝 傍・ 耳 成・ 香 久 の 大 和 三 山、 加 え て 東 に 三 輪 山 や、 音羽山から多武峯・高取山へと続く山々、西に二上山や葛城山・金剛山の山並 み を 遠 く 望 む 範 囲 と な る。 こ の 範 囲 を 本 稿 で は 三 山 地 域 と 呼 ぶ こ と に し た い。 そしてここには、古代に遡る横大路(初瀬街道・伊勢街道)と、南北に等間隔 に 走 る 上 ツ 道( 上 街 道 )、 中 ツ 道、 下 ツ 道( 中 街 道 ) が 町 と 村 を 結 び、 初 瀬 川 ↓大和川、寺川、米川、飛鳥川、高取川、曽我川、葛城川、高田川も一部流通 に 利 用 さ れ、 そ の 中 に、 お よ そ 五 〇 の 瓦 屋 の 存 在 が 明 ら か に な っ た の で あ る ( 図 4 )。 な お 比 較 検 討 の た め、 奈 良 市、 宇 陀 市 の 大 宇 陀 町、 大 淀 町、 五 條 市、 葛城市、香芝市、広陵町、王寺町の一部を踏査した成果も参考とした。 三輪山や大和三山を望む地域は、古代の王宮が営まれた地域であり、瓦のふ い た 瓦 葺 き が 勝 手 次 第 と な り、 そ の 後 し だ い に 民 家 へ 瓦 葺 き が 普 及 す る と い う、その実像が今回の調査で明らかになったのである。   鬼瓦とはなにか   鬼板・鬼瓦という名称 ま ず『 広 辞 苑 』 で 鬼 板 を 引 く と、 「 鬼 瓦 の 代 り に 用 い る 木 製 の 棟 飾 り。 銅 板 で包むこともある」とあり、弘前城天守のように本瓦葺きを銅板で模した屋根 の、瓦製以外の「鬼瓦」は鬼瓦と呼べないというのが編集者の理解のようであ る。しかし、鬼瓦は鬼板とも呼ばれたのである。今回見出した、大和高田市常 光寺の貞享四年(一六八七)銘をもつ鬼瓦に「高田常光寺鬼板八枚内   十市郡 田 原 本 瓦 屋 八 兵 衛 作 之 」 と い う 銘 文 が あ り、 江 戸 時 代 の 瓦 師 の 中 に は 瓦 製 の 鬼 瓦 を「 鬼 板 」 と 呼 ぶ 場 合 も あ っ た こ と が わ か る ( 図 5 )。 ま た 鬼 瓦 を 専 門 に 作 る 職 人 の こ と を 今 は「 鬼 師 」 と い う が、 昔 は「 鬼 板 師 」 と 呼 ん だ こ と が 知 ら れ て い る( 長 野 市 立 博 物 館 一 九 九 八、 高 原 二 〇 一 〇 )。 な お 鬼 瓦 に つ い て は、 貞 治 二 年( 一 三 六 三 ) 銘 を も つ 生 駒 市 長 弓 寺 本 堂 の 鬼 瓦 に「 モ コ シ ノ オ モ オ ニ 」 と あ る の が 今 の 鬼瓦も多数残ったのであろう。まことに絶好のフィールドに筆者は住んでいた ことになる。 瓦工たちの生きた証し 今回集めた銘文は、文末の年表にも明らかなように、江戸時代初期から昭和 二〇年代までに、五〇ばかりの村の瓦屋で汗を流した一〇〇人をこえる瓦工た ちの生きた証しである。その中には、常門村の新兵衛のように九〇例以上の銘 文 を 残 し た 腕 自 慢 の 瓦 師 や、 鳥 屋 村 住 人 の 藤 田 佐 介 や「 南 都   細 工 人   米 川 」 と名乗り、各地を渡り歩いた細工人の存在も明らかになった。歩き始めた頃に は 思 い も し な か っ た こ と で あ る が、 彼 ら の 残 し た 文 字 を た ど る こ と に よ っ て、 今まで顧みられることのなかった奈良盆地南半における近世瓦屋の成立から展 開、そして終焉に至る歴史の一端がおぼろげながら見えてきたのである。 近世瓦屋の成立は、それまで寺院、宮殿・官衙、さらに城郭に限定されてき た 瓦 の 使 用 が、 初 め て 民 家 に 及 ん だ と い う 点 が 一 つ の 指 標 に な る。 京 都・ 大 坂・ 伏 見・ 堺 な ど の 富 裕 な 商 家 の 土 蔵 か ら 始 ま り、 や が て 主 屋 に 及 ん だ こ と が、初期の「洛中洛外図屏風」や発掘成果から解明されつつある(大脇二〇一 三) 。こうした都市に続いて、寺内町である今井町(制度上、正しくは今井村。 田原本町や三輪町などもおなじ)から、三山地域の定期市や街道筋に発展した 三輪村や田原本村・高田村・御所村の町家へ、そしてやがては近在の純農村へ も 瓦 葺 き で 煙 出 し を も つ 主 屋 が 普 及 し た こ と が 今 回 明 ら か に な っ た の で あ る。 また、それに先立ち、中世から続く諸宗派の寺院に加えて、寺請制度で確立し た村内の檀那寺も、しだいに瓦葺きに変わっていったことが図 4 と年表、さら に 年 表 を 図 化 し た 図 49‐ 1・ 2・ 3か ら 想 定 で き る。 享 保 五 年( 一 七 二 〇 ) に、土蔵造り、塗屋、瓦屋根の普及などの政令が出され、それまで禁止されて 図5 大和高田市常光寺 鬼板八枚之内

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い た 瓦 葺 き が 勝 手 次 第 と な り、 そ の 後 し だ い に 民 家 へ 瓦 葺 き が 普 及 す る と い う、その実像が今回の調査で明らかになったのである。   鬼瓦とはなにか   鬼板・鬼瓦という名称 ま ず『 広 辞 苑 』 で 鬼 板 を 引 く と、 「 鬼 瓦 の 代 り に 用 い る 木 製 の 棟 飾 り。 銅 板 で包むこともある」とあり、弘前城天守のように本瓦葺きを銅板で模した屋根 の、瓦製以外の「鬼瓦」は鬼瓦と呼べないというのが編集者の理解のようであ る。しかし、鬼瓦は鬼板とも呼ばれたのである。今回見出した、大和高田市常 光寺の貞享四年(一六八七)銘をもつ鬼瓦に「高田常光寺鬼板八枚内   十市郡 田 原 本 瓦 屋 八 兵 衛 作 之 」 と い う 銘 文 が あ り、 江 戸 時 代 の 瓦 師 の 中 に は 瓦 製 の 鬼 瓦 を「 鬼 板 」 と 呼 ぶ 場 合 も あ っ た こ と が わ か る ( 図 5 )。 ま た 鬼 瓦 を 専 門 に 作 る 職 人 の こ と を 今 は「 鬼 師 」 と い う が、 昔 は「 鬼 板 師 」 と 呼 ん だ こ と が 知 ら れ て い る( 長 野 市 立 博 物 館 一 九 九 八、 高 原 二 〇 一 〇 )。 な お 鬼 瓦 に つ い て は、 貞 治 二 年( 一 三 六 三 ) 銘 を も つ 生 駒 市 長 弓 寺 本 堂 の 鬼 瓦 に「 モ コ シ ノ オ モ オ ニ 」 と あ る の が 今 の 鬼瓦も多数残ったのであろう。まことに絶好のフィールドに筆者は住んでいた ことになる。 瓦工たちの生きた証し 今回集めた銘文は、文末の年表にも明らかなように、江戸時代初期から昭和 二〇年代までに、五〇ばかりの村の瓦屋で汗を流した一〇〇人をこえる瓦工た ちの生きた証しである。その中には、常門村の新兵衛のように九〇例以上の銘 文 を 残 し た 腕 自 慢 の 瓦 師 や、 鳥 屋 村 住 人 の 藤 田 佐 介 や「 南 都   細 工 人   米 川 」 と名乗り、各地を渡り歩いた細工人の存在も明らかになった。歩き始めた頃に は 思 い も し な か っ た こ と で あ る が、 彼 ら の 残 し た 文 字 を た ど る こ と に よ っ て、 今まで顧みられることのなかった奈良盆地南半における近世瓦屋の成立から展 開、そして終焉に至る歴史の一端がおぼろげながら見えてきたのである。 近世瓦屋の成立は、それまで寺院、宮殿・官衙、さらに城郭に限定されてき た 瓦 の 使 用 が、 初 め て 民 家 に 及 ん だ と い う 点 が 一 つ の 指 標 に な る。 京 都・ 大 坂・ 伏 見・ 堺 な ど の 富 裕 な 商 家 の 土 蔵 か ら 始 ま り、 や が て 主 屋 に 及 ん だ こ と が、初期の「洛中洛外図屏風」や発掘成果から解明されつつある(大脇二〇一 三) 。こうした都市に続いて、寺内町である今井町(制度上、正しくは今井村。 田原本町や三輪町などもおなじ)から、三山地域の定期市や街道筋に発展した 三輪村や田原本村・高田村・御所村の町家へ、そしてやがては近在の純農村へ も 瓦 葺 き で 煙 出 し を も つ 主 屋 が 普 及 し た こ と が 今 回 明 ら か に な っ た の で あ る。 また、それに先立ち、中世から続く諸宗派の寺院に加えて、寺請制度で確立し た村内の檀那寺も、しだいに瓦葺きに変わっていったことが図 4 と年表、さら に 年 表 を 図 化 し た 図 49‐ 1・ 2・ 3か ら 想 定 で き る。 享 保 五 年( 一 七 二 〇 ) に、土蔵造り、塗屋、瓦屋根の普及などの政令が出され、それまで禁止されて 図5 大和高田市常光寺 鬼板八枚之内

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新 堂 廃 寺、 奈 良 県 只 塚 廃 寺 の 隅 木 蓋 瓦 の 鬼 面 紋( 奈 良 県 二 〇 〇 三 )、 七 世 紀 末 か ら 八 世 紀 初 め と 思 わ れ る 滋 賀 県 小 八 木 廃 寺 例( 近 藤 一 九 七 六、 山 本 一 九 七 九)のような舌を出した鬼面紋鬼瓦などの先駆的な例が現れ、八世紀の初めに なって平城宮や大宰府で鬼面が主役として登場するようになる。これらの鬼面 紋鬼瓦は、辟邪や火伏せ、つまり鬼の霊力によって宮殿や寺院を災難や火災か ら守り防ぐという役目が任されるようになったと思われる。また平城宮出土の 鳳凰紋を飾る例などは、吉祥紋様のさきがけと考えられる。こうした古代の鬼 瓦は木製の型=范を利用して作るが、平安時代末から鎌倉時代初めにかけてし だいに手作りの鬼瓦があらわれるようになり、鎌倉時代後期以降はすべて手作 りとなる(山本一九九八) 。 さらに近世になると、庶民が除災招福、開運を願って鬼面紋以外の宝尽くし の紋様を採用し、またさまざまな神様や生き物に屋根に登っていただくように なった。中国から東南アジアにかけては竜を主役とする棟飾りが盛んに用いら れ、神々や仙人も多数登場する。しかし、日本ほど、多種多様なキャラクター が屋根とそこに住む人々を守っている国はないのではないだろうか。   鬼瓦と獅子口 鬼 瓦 と お な じ 役 目 を も つ 瓦 に「 獅 子 口 」、 あ る い は「 経 の 巻( 経 巻 を 飾 る 台 に似ていることから生まれた名) 」と呼ぶ瓦がある(図 6 )。軒丸瓦とおなじ形 の も の を 箱 形 の 頂 部 に 三 つ 置 き( 経 の 巻 )、 正 面 と 側 面 に 各 一 個 の 軒 丸 瓦 の 紋 様部分を置く。正面と側面には、平瓦を山形にあらわし、これを綾筋あるいは シ メ 筋 と 呼 ぶ が、 こ れ は 当 初、 平 瓦 や 軒 丸 瓦 を 組 み 合 わ せ て 棟 端 を 風 雨 か ら 守った時代の痕跡器官(ルジメント)に他ならないことは、考古学を少しでも 齧った人はわかるはずである。 ところ最古の例である(小林一九八一) 。 『 広 辞 苑 』 に は、 鬼 瓦 に つ い て「 屋 根 の 棟 の 両 端 に 用 い る 鬼 の 面 に か た ど っ た瓦。また同様の所に用いるのは鬼の面がなくてもいう」とあり、本稿ではこ の 柔 軟 な 定 義 に し た が い、 鬼 面 以 外 の も の も 鬼 瓦 に 統 一 し た い。 そ う し な い と、恵比寿瓦や大黒天瓦などの無数の名称が生まれ、やがて乗鶴仙人瓦とか二 匹鯛瓦など、それだけでは何が何だかわからなくなり、また収拾がつかなくな るからである。 鬼 瓦 に は、 こ の よ う に 鬼 以 外 の 主 役 が た く さ ん い る。 そ こ で、 「 棟 端 飾 板 ( 藤 沢 一 夫 )」 や「 棟 端 飾 瓦( 木 村 捷 三 郎 )」 と い う 名 称 も 考 案 さ れ た。 建 物 の 雨仕舞という観点から、大棟や隅棟、降り棟の端を風雨から守り、かつ装飾の 役目を任された瓦という意味である。風雨から守るためだけなら、漆喰で塗り 固めるだけでもいいし、板で蓋をするだけでも間に合う。古代の出土例の中に は、 浜 松 市 篠 し の ん ば 場 瓦 窯 の よ う な 無 紋 の 鬼 瓦 や( 武 田 二 〇 一 三 )、 桜 井 市 山 田 寺 出 土例のように、平瓦を打ち欠いて鬼瓦の形にしたものもあって(奈良文化財研 究 所 二 〇 〇 二 )、 そ れ で も 役 に 立 っ た こ と が わ か る。 さ ら に 史 料 か ら は 木 製 の 鬼瓦の存在も知れる。 しかし、こういった鬼瓦はごく少数派であり、大多数の瓦製の鬼瓦は、さま ざまな紋様や鬼面を立体的に飾る。飛鳥時代初期の鬼瓦には、今のところ最古 と思われる複数の蓮華紋を並べる斑鳩寺(六一〇年頃創建)例や、ひとつの蓮 華紋を大きく飾る奥山廃寺や、豊浦寺のものと思われる平吉遺跡出土例(六二 〇〜六三〇年代)など、軒丸瓦とおなじ紋様を飾ったものが多く、これを鬼板 と呼ぶ研究者もいるが、後世の鬼瓦のように、その紋様に何か独特の意味が込 められたものではないらしい。 やがて、七世紀中頃から後半にかけての鬼面紋軒丸瓦の系譜に連なる大阪府 県城の北西にある「梳粧楼」遺跡出土の前漢例(図 10、駒井一九五四、谷二〇 一 八 ) や、 同 四 川 省 雅 安 市 の 後 漢 代 の 樊 敏 墓 の 石 闕( 図 11・ 12、 大 脇 二 〇 〇 八、以下、組合せ式棟端飾り瓦と呼ぶ)や、後漢代の墓出土の陶屋の棟端にみ られる、複数の軒丸瓦を重ね、まわりを漆喰で塗り固めたと思われる構造を参 考 に す る と、 同 様 の も の が 飛 鳥 寺 な ど に 用 い ら れ た 可 能 性 が あ る。 と す れ ば、 いわゆる獅子口の濫觴は前漢代まで遡り、飛鳥寺など、まだ鬼瓦が発見されて いないわが国の古代寺院の屋根にも、こうした組み合わせ式の棟端飾り瓦が存 在したかもしれないのである。 さて、こうした想定が成り立つとすれば、鴟尾以外の東アジアの瓦葺き建築 の棟端を塞ぐ装置としては、次の二つの大きな系統が存在したことになる。 ① 前漢代まで遡る組合せ式棟端飾り瓦から、わが国の組合せ式獅子口へ、さら に一体式獅子口へと連なる系統。 ② 北魏代に遡ると思われる、棟端の形に合わせた一体式の瓦製品であるいわゆ る鬼瓦の系統。 「 梳 粧 楼 」 遺 跡 の 雲 紋 円 瓦 当 は、 そ の 丸 瓦 部 を 幅 狭 く か つ 短 く 切 断 し、 さ ら に 凸 面 に ヘ ラ で 斜 格 子 状 の 沈 線 を 刻 む( 図 10)。 こ の 沈 線 は、 漆 喰 の 食 い 付 き をよくするための工夫と考えられ、この瓦当が棟端を飾るために作られたこと は 明 ら か で あ る。 し た が っ て、 「 梳 粧 楼 」 遺 跡 出 土 の 雲 紋 円 瓦 当 は、 こ う し た 棟端飾り瓦を使った屋根が少なくとも前漢代まで遡ることを証明する貴重な資 料といえよう。同遺跡からは、こうした沈線を刻んだ丸瓦部の破片が複数出土 しているという事実も、こうした想定の正しさを裏付けている。 なお、その後の発展を物語る資料として、中国河北省磁県講武城鎮の窯跡か ら出土した五胡十六国時代の趙代(三一九〜三五一年)の一体式の棟端飾り瓦 がある。これは「大趙萬歳」の四字を表す大小の瓦当三個を二段に重ねたもの 最 初 に 棟 端 を 漆 喰 で 固 め る だ け で も い い と 書 い た が、 こ う し た 形 か ら 推 定 す る と、 獅 子 口 の 古 い 形 は、 桧 皮 葺 き や こ け ら 葺 き の 棟 を 瓦 積 み に し た 場 合 に 棟 端 を 飾 る 瓦 で、 軒 丸 瓦 や 平 瓦 な ど を 棟 端 の 形 に 合 わ せ て 組 み 合 わ せ、 漆 喰 で 固 め て 作 っ た も の か ら 始 ま っ た と 思 わ れ る( 以 下、 組 合 せ 式 獅 子 口 と 呼 ぶ )。 獅 子 口 は 語 呂 合 わ せ の 感 が 強 い「 紫 宸 口 」 や、 「 御 所 棟 鬼 瓦 」 と 呼 ばれることもある。 ところで、わが国の瓦の歴史の劈頭を飾る飛鳥寺(五八八年建設開始)跡の 発掘では、創建期の鴟尾は出土したものの鬼瓦は未発見である。飛鳥寺には三 金堂と講堂があり、中門や南門、西門も調査されているが、その降り棟や隅棟 の端をいかにして塞いでいたのか今のところ謎である。飛鳥寺以外では、先に 述べた斑鳩寺や奥山廃寺・平吉遺跡で古式の鬼瓦が出土しているが、川原寺・ 本薬師寺など、かなり広い面積を調査したにもかかわらず、鬼瓦が未発見とい う例も多い。   二つの系統 以下は、わが国ではまだ出土資料がなく想像にすぎないが、中国河北省邯鄲 図6 橿原市今井町順明寺表門の獅子口

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県城の北西にある「梳粧楼」遺跡出土の前漢例(図 10、駒井一九五四、谷二〇 一 八 ) や、 同 四 川 省 雅 安 市 の 後 漢 代 の 樊 敏 墓 の 石 闕( 図 11・ 12、 大 脇 二 〇 〇 八、以下、組合せ式棟端飾り瓦と呼ぶ)や、後漢代の墓出土の陶屋の棟端にみ られる、複数の軒丸瓦を重ね、まわりを漆喰で塗り固めたと思われる構造を参 考 に す る と、 同 様 の も の が 飛 鳥 寺 な ど に 用 い ら れ た 可 能 性 が あ る。 と す れ ば、 いわゆる獅子口の濫觴は前漢代まで遡り、飛鳥寺など、まだ鬼瓦が発見されて いないわが国の古代寺院の屋根にも、こうした組み合わせ式の棟端飾り瓦が存 在したかもしれないのである。 さて、こうした想定が成り立つとすれば、鴟尾以外の東アジアの瓦葺き建築 の棟端を塞ぐ装置としては、次の二つの大きな系統が存在したことになる。 ① 前漢代まで遡る組合せ式棟端飾り瓦から、わが国の組合せ式獅子口へ、さら に一体式獅子口へと連なる系統。 ② 北魏代に遡ると思われる、棟端の形に合わせた一体式の瓦製品であるいわゆ る鬼瓦の系統。 「 梳 粧 楼 」 遺 跡 の 雲 紋 円 瓦 当 は、 そ の 丸 瓦 部 を 幅 狭 く か つ 短 く 切 断 し、 さ ら に 凸 面 に ヘ ラ で 斜 格 子 状 の 沈 線 を 刻 む( 図 10)。 こ の 沈 線 は、 漆 喰 の 食 い 付 き をよくするための工夫と考えられ、この瓦当が棟端を飾るために作られたこと は 明 ら か で あ る。 し た が っ て、 「 梳 粧 楼 」 遺 跡 出 土 の 雲 紋 円 瓦 当 は、 こ う し た 棟端飾り瓦を使った屋根が少なくとも前漢代まで遡ることを証明する貴重な資 料といえよう。同遺跡からは、こうした沈線を刻んだ丸瓦部の破片が複数出土 しているという事実も、こうした想定の正しさを裏付けている。 なお、その後の発展を物語る資料として、中国河北省磁県講武城鎮の窯跡か ら出土した五胡十六国時代の趙代(三一九〜三五一年)の一体式の棟端飾り瓦 がある。これは「大趙萬歳」の四字を表す大小の瓦当三個を二段に重ねたもの 最 初 に 棟 端 を 漆 喰 で 固 め る だ け で も い い と 書 い た が、 こ う し た 形 か ら 推 定 す る と、 獅 子 口 の 古 い 形 は、 桧 皮 葺 き や こ け ら 葺 き の 棟 を 瓦 積 み に し た 場 合 に 棟 端 を 飾 る 瓦 で、 軒 丸 瓦 や 平 瓦 な ど を 棟 端 の 形 に 合 わ せ て 組 み 合 わ せ、 漆 喰 で 固 め て 作 っ た も の か ら 始 ま っ た と 思 わ れ る( 以 下、 組 合 せ 式 獅 子 口 と 呼 ぶ )。 獅 子 口 は 語 呂 合 わ せ の 感 が 強 い「 紫 宸 口 」 や、 「 御 所 棟 鬼 瓦 」 と 呼 ばれることもある。 ところで、わが国の瓦の歴史の劈頭を飾る飛鳥寺(五八八年建設開始)跡の 発掘では、創建期の鴟尾は出土したものの鬼瓦は未発見である。飛鳥寺には三 金堂と講堂があり、中門や南門、西門も調査されているが、その降り棟や隅棟 の端をいかにして塞いでいたのか今のところ謎である。飛鳥寺以外では、先に 述べた斑鳩寺や奥山廃寺・平吉遺跡で古式の鬼瓦が出土しているが、川原寺・ 本薬師寺など、かなり広い面積を調査したにもかかわらず、鬼瓦が未発見とい う例も多い。   二つの系統 以下は、わが国ではまだ出土資料がなく想像にすぎないが、中国河北省邯鄲 図6 橿原市今井町順明寺表門の獅子口

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図8 同左大棟端 図7 対馬国分寺表門の大棟側面 図9 対馬市厳原町の民家大棟端 図10 前漢代の組合せ式棟端飾り瓦 図11 後漢代石闕の大棟 浄 土 真 宗 の 寺 に 主 と し て 用 い ら れ、 門徒、すなわち真宗の信者が多い北 陸地方から北の日本海沿いの民家に 普及している。ちなみに、琉球の民 家の屋根を飾る「シーサー」も、瓦 片を漆喰で固め造形したもので、瓦 屋が屋根葺きのお礼に作ったものか ら始まり、やがて一体の瓦製品とし て今見るような獅子の形に変化した のである。 獅子口が、一体の瓦製品として作 られるようになったのがいつごろか で あ る( 図 13   井 内 二 〇 一 二 )。 先 の 定 義 に 従 え ば、 こ れ も 鬼 瓦 と い う こ と に なる。なお両側面に九つほどみえる段は、鴟尾側面の正段とおなじ熨斗瓦積み の痕跡(ルジメント)であろう。 韓半島やわが国では、古代に遡る①の実例は未発見であるが、筆者が「対馬 甍紀行」で紹介した、対馬国分寺や厳原町の民家に今も残る軒丸瓦を積み重ね た例は、その末裔ともいえる資料になるのであろう(図 7 ・ 8 ・ 9 、大脇二〇 〇 八 )。 図 14は、 以 上 の 資 料 を 下 敷 き に し、 試 み に 飛 鳥 寺 の 組 合 せ 式 棟 端 飾 り 瓦を推定復元したものである。近い将来、どこかで漆喰が付着した軒丸瓦が発 見されることを期待したい。   厨子と絵画に古い例がある 組合せ式獅子口の古い例は、葺き替えの際に壊さざるをえないので残ってい ない。一体式獅子口の古い例としては宇治市の国宝宇治上神社本殿の内殿(年 輪年代一〇六〇年)や、法隆寺の聖霊院の厨子大棟(図 15   鈴木一九七二)な ど、建物内に安置された小建造物の屋根にのる木製のものがあり、それらから 姿 を 偲 ぶ に す ぎ な い。 聖 霊 院 例 は、 そ の 創 建 時 期 で あ る 保 安 二 年( 一 一 二 一 ) の製作とされている。 絵画例を探すと「伴大納言絵詞」や「年中行事絵巻」に十二世紀後半の例が あ る( 角 川 書 店 編 集 部 一 九 六 一、 一 九 六 八 )。 こ う し た 例 か ら み る と、 古 式 の 獅子口の起源は少なくとも平安時代中期まで遡りそうである。ただし、以上四 例も厳密にいえば一体式獅子口であるとは断定できない。今後は、漆喰が付着 した軒丸瓦や平瓦の存在から、組合せ式棟端飾り瓦や組合せ式獅子口の古い実 例の存在を証明する必要がある。 一体式獅子口は、檜皮葺やこけら葺きの神社や宮殿建築、あるいは瓦葺きの 図15 法隆寺聖霊院厨子の木製獅子口 図16 御所市円照寺境内の獅子口 図17 同上、巨大な獅子口、天保15年(1844)

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浄 土 真 宗 の 寺 に 主 と し て 用 い ら れ、 門徒、すなわち真宗の信者が多い北 陸地方から北の日本海沿いの民家に 普及している。ちなみに、琉球の民 家の屋根を飾る「シーサー」も、瓦 片を漆喰で固め造形したもので、瓦 屋が屋根葺きのお礼に作ったものか ら始まり、やがて一体の瓦製品とし て今見るような獅子の形に変化した のである。 獅子口が、一体の瓦製品として作 られるようになったのがいつごろか で あ る( 図 13   井 内 二 〇 一 二 )。 先 の 定 義 に 従 え ば、 こ れ も 鬼 瓦 と い う こ と に なる。なお両側面に九つほどみえる段は、鴟尾側面の正段とおなじ熨斗瓦積み の痕跡(ルジメント)であろう。 韓半島やわが国では、古代に遡る①の実例は未発見であるが、筆者が「対馬 甍紀行」で紹介した、対馬国分寺や厳原町の民家に今も残る軒丸瓦を積み重ね た例は、その末裔ともいえる資料になるのであろう(図 7 ・ 8 ・ 9 、大脇二〇 〇 八 )。 図 14は、 以 上 の 資 料 を 下 敷 き に し、 試 み に 飛 鳥 寺 の 組 合 せ 式 棟 端 飾 り 瓦を推定復元したものである。近い将来、どこかで漆喰が付着した軒丸瓦が発 見されることを期待したい。   厨子と絵画に古い例がある 組合せ式獅子口の古い例は、葺き替えの際に壊さざるをえないので残ってい ない。一体式獅子口の古い例としては宇治市の国宝宇治上神社本殿の内殿(年 輪年代一〇六〇年)や、法隆寺の聖霊院の厨子大棟(図 15   鈴木一九七二)な ど、建物内に安置された小建造物の屋根にのる木製のものがあり、それらから 姿 を 偲 ぶ に す ぎ な い。 聖 霊 院 例 は、 そ の 創 建 時 期 で あ る 保 安 二 年( 一 一 二 一 ) の製作とされている。 絵画例を探すと「伴大納言絵詞」や「年中行事絵巻」に十二世紀後半の例が あ る( 角 川 書 店 編 集 部 一 九 六 一、 一 九 六 八 )。 こ う し た 例 か ら み る と、 古 式 の 獅子口の起源は少なくとも平安時代中期まで遡りそうである。ただし、以上四 例も厳密にいえば一体式獅子口であるとは断定できない。今後は、漆喰が付着 した軒丸瓦や平瓦の存在から、組合せ式棟端飾り瓦や組合せ式獅子口の古い実 例の存在を証明する必要がある。 一体式獅子口は、檜皮葺やこけら葺きの神社や宮殿建築、あるいは瓦葺きの 図15 法隆寺聖霊院厨子の木製獅子口 図16 御所市円照寺境内の獅子口 図17 同上、巨大な獅子口、天保15年(1844)

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手 は、 こ う し た 絵 柄 の 鬼 瓦 を 日 頃 作 っ て い た 細 工 人 だ っ た の で あ ろ う。 彼 は 「 打 出 の 小 槌 だ け で な く、 な ん で も う ま く 作 れ る ぞ 」 と 自 慢 し た か っ た の か も しれない。 では、こうした吉祥紋様の鬼瓦は、いつから作られるようになったのだろう か。 中世は、鬼面を飾る鬼瓦の全盛時代であった。ところが、戦国時代になって 城 郭 建 築 が 発 展 す る と、 あ ら た に 家 紋 や 𠮷 祥 紋 な 𠮷 が 𠮷 𠮷 𠮷 れ る よ う に な る。 𠮷 らに江戸時代に民家にも瓦葺きがしだいに普及するようになると、また転機 を 迎 え た。 隣 近 所 を 睨 み つ け る 鬼 瓦 が 嫌 わ れ た の で あ る( 宮 田 一 九 九 九 )。 も ちろん、江戸時代初期の民家の屋根には鬼面を表す鬼瓦を置く例がある。また 寺 院 周 辺 の 民 家 に は、 鬼 に 睨 ま れ る こ と に よ っ て 災 難 が 及 ぶ こ と を 避 け る た め に「 鍾 馗 」 の 像 を置いて睨み返す例も多い。 何 か 災 難 が 起 き る と、 近 所 の 鬼 瓦 の せ い に 𠮷 れ る こ と も あ っ た の だ ろ う。 そ こ で 災 厄 を 連 想 𠮷 せ る 恐 い 鬼 に か わ っ て、 幸 運 を も た ら す と 信 じ ら れ て い た 吉 祥 紋 様 の 鬼 瓦 が 登 場 す る よ う に な っ た。 如 意 宝 珠 と 打 出 の 小 槌、 恵 比 寿 と 大 黒 天、 分 銅 や 金 囊 な 𠮷 の 組 み 合 わ せ な 𠮷 、 商 売 繁 盛、 家 運 隆 盛 を 祈 る 絵 柄 が もはっきりしない。江戸時代の獅子口は、箱型の本体に、別に作った巴紋軒丸 瓦や、唐草紋を表す軒平瓦の紋様部分を接合し、紋様の隙間には漆喰の食い付 きをよくするために、櫛状工具による「かきやぶり」で表面に傷をつけて作っ た も の が 多 い( 図 16)。 ま た 大 棟 の 獅 子 口 は そ の 両 裾 に 本 体 と は 別 作 り の 脚 部 (足元・鰭とよぶ研究者もある)がつく (図 17)。 今回の調査でも、多くの真宗寺院で獅子口を見た。しかし、困ったことに獅 子口の場合は、側面にも瓦当を飾り、また漆喰を塗る必要があるので、銘文は 頂部の「経の巻」の名のもとになった、三つの経巻形の間の平坦面に刻むこと が 多 い。 し た が っ て、 屋 根 上 の 獅 子 口 の 銘 文 を 下 か ら 読 む こ と は 不 可 能 で あ る。が、幸いなことにいくつか境内に保存 𠮷 れている例があり、それらによっ て貴重な資料を追加することができた。真宗寺院の獅子口には見栄えが良い大 型のものが多く、また寺の歴史の古 𠮷 を示す格好の景物として 境内 に飾る例が 多 い の で あ る( 図 17)。 た だ し、 ま だ 屋 根 に あ っ て 読 め な い 例 も 多 く、 あ と は 梯子を掛けるかドローンを飛ばすしかない。なお、江戸時代における獅子口の 変遷については、第二部でふれることにしたい。   庶民が好んだ鬼瓦の図案   吉祥紋様 二〇一四年の六月に、桜井市金屋の古い民家の大棟東端から今にも落ちそう な 鬼 瓦 に 出 会 っ た。 銘 は な い も の の 江 戸 時 代 後 期 の も の で、 打 出 の 小 槌( 福 槌・宝槌)を飾る。 𠮷 らによく見ると、両脚部にヘラ描きで吉祥紋様の「宝尽 く し 」 を 散 り ば め て い る こ と が わ か っ た( 図 18・ 19)。 向 か っ て 左 上 か ら、 宝 ほう 鑰 やく (鍵) 、鯛、 丁子、金 囊( 宝袋・ 巾着) 、右側に隠れ笠、隠れ蓑、宝珠、丁子 を巧みに描く。屋根にあればほとん 𠮷 見えない絵だが、左側の丁子の蕾の部分 は、竹管状の工具を押しており、いい加減な落書きではない。この鬼瓦の作り 図18 宝尽しの絵を散りばめた鬼瓦 次 々 と 屋 根 に 登 場 し た。 江 戸 時 代 の 瓦 屋 に は、 こ う し た 吉 祥 紋 様 の 図 案 集 が あって、それから鬼瓦やさまざまな道具瓦(役瓦)が作られ、また家内安全・ 悪疫退散などを祈って、それまでにない新商品が現在に至るまで工夫されてい る。以下、今回出会った吉祥紋様やその他様々な鬼瓦たちを紹介する。なかに は瓦工の遊び心や洒落・駄洒落までが伝わる製品もある。 七 福 神   恵 比 寿・ 大 黒 天( 両 者 が 並 ぶ 例 も あ る )・ 弁 財 天・ 布 袋・ 福 禄 寿・ 鹿 と 寿 老 人( 鹿 ろく と 禄 が 通 じ る )・ 宝 塔 を 捧 げ 持 つ 毘 沙 門 天、 乗 鶴 仙 人( 中 国 の 仙人、王子喬と費長房の逸話) 、亀にのる神像(浦島太郎) 、鯉にのる女、邪鬼 を踏む四天王像、達磨、福助人形、般若、おかめ、能面、狂言面、鍾馗、太公 望、 鳥 を 抱 く 老 人、 烏 天 狗、 風 神、 太 鼓 の 撥( 雷 神 の も つ 撥、 雷 よ け )、 鬼 退 治 す る 源 頼 光、 宝 船、 猫、 唐 獅 子、 唐 獅 子 牡 丹、 竹 に 虎、 鶴・ 亀、 熨 斗、 末 広、 宝 珠( 一 つ と 三 つ )、 分 銅、 宝 巻、 松 竹 梅、 橘、 桃、 菊 水、 扇、 波、 竜、 雲、 鳳 凰、 蝶、 花、 花 鳥、 鯉、 海 老、 虎、 兎、 馬、 猿、 三 猿、 三 階 松 に 猿、 鶏、 猫、 ム カ デ、 蛇、 文 字「 龍 」「 寿 」「 福 」「 萬 歳 」「 京 」「 酒 」「 水 」「 休 」 「卍」 、梵字、 「急々如律令」 「十種神宝」などがあり、さらに増えるであろう。 なお、大棟の両端にセットで飾る代表例としては、恵比寿と大黒天像、宝珠 と小槌、角樽と酒甕(酒蔵) 、角樽に宝珠、鍵に小槌、鍵に丁子などがある。 以下代表的な例と、いくつかの珍しい鬼瓦についてみてみよう。 寿   橿 原 市 今 井 町 の 重 要 文 化 財 豊 田 家 の 寛 文 二 年( 一 六 六 二 ) 頃とみられる恵比寿と大黒天が古い例になる(図 20   奈良県教育委員会一九七 六) 。今回の調査で見出した、文化三年(一八〇六)から昭和六年(一九三一) までの一五例の紀年銘を持つ例がその後の変化を知る資料になる。はじめは第 二 部 で 紹 介 す る 蟇 股 形 鬼 瓦 の 紋 様 面 に、 小 型 の 全 身 像 を あ ら わ す。 文 化 三 年 ( 一 八 〇 六 ) 例 は ふ く ら ん だ 袴 に 裃 姿 で、 全 身 が 大 き く あ ら わ さ れ る よ う に な 図19 鬼瓦に描かれた宝尽しの絵(縮尺1:2.5)

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次 々 と 屋 根 に 登 場 し た。 江 戸 時 代 の 瓦 屋 に は、 こ う し た 吉 祥 紋 様 の 図 案 集 が あって、それから鬼瓦やさまざまな道具瓦(役瓦)が作られ、また家内安全・ 悪疫退散などを祈って、それまでにない新商品が現在に至るまで工夫されてい る。以下、今回出会った吉祥紋様やその他様々な鬼瓦たちを紹介する。なかに は瓦工の遊び心や洒落・駄洒落までが伝わる製品もある。 七 福 神   恵 比 寿・ 大 黒 天( 両 者 が 並 ぶ 例 も あ る )・ 弁 財 天・ 布 袋・ 福 禄 寿・ 鹿 と 寿 老 人( 鹿 ろく と 禄 が 通 じ る )・ 宝 塔 を 捧 げ 持 つ 毘 沙 門 天、 乗 鶴 仙 人( 中 国 の 仙人、王子喬と費長房の逸話) 、亀にのる神像(浦島太郎) 、鯉にのる女、邪鬼 を踏む四天王像、達磨、福助人形、般若、おかめ、能面、狂言面、鍾馗、太公 望、 鳥 を 抱 く 老 人、 烏 天 狗、 風 神、 太 鼓 の 撥( 雷 神 の も つ 撥、 雷 よ け )、 鬼 退 治 す る 源 頼 光、 宝 船、 猫、 唐 獅 子、 唐 獅 子 牡 丹、 竹 に 虎、 鶴・ 亀、 熨 斗、 末 広、 宝 珠( 一 つ と 三 つ )、 分 銅、 宝 巻、 松 竹 梅、 橘、 桃、 菊 水、 扇、 波、 竜、 雲、 鳳 凰、 蝶、 花、 花 鳥、 鯉、 海 老、 虎、 兎、 馬、 猿、 三 猿、 三 階 松 に 猿、 鶏、 猫、 ム カ デ、 蛇、 文 字「 龍 」「 寿 」「 福 」「 萬 歳 」「 京 」「 酒 」「 水 」「 休 」 「卍」 、梵字、 「急々如律令」 「十種神宝」などがあり、さらに増えるであろう。 なお、大棟の両端にセットで飾る代表例としては、恵比寿と大黒天像、宝珠 と小槌、角樽と酒甕(酒蔵) 、角樽に宝珠、鍵に小槌、鍵に丁子などがある。 以下代表的な例と、いくつかの珍しい鬼瓦についてみてみよう。 寿   橿 原 市 今 井 町 の 重 要 文 化 財 豊 田 家 の 寛 文 二 年( 一 六 六 二 ) 頃とみられる恵比寿と大黒天が古い例になる(図 20   奈良県教育委員会一九七 六) 。今回の調査で見出した、文化三年(一八〇六)から昭和六年(一九三一) までの一五例の紀年銘を持つ例がその後の変化を知る資料になる。はじめは第 二 部 で 紹 介 す る 蟇 股 形 鬼 瓦 の 紋 様 面 に、 小 型 の 全 身 像 を あ ら わ す。 文 化 三 年 ( 一 八 〇 六 ) 例 は ふ く ら ん だ 袴 に 裃 姿 で、 全 身 が 大 き く あ ら わ さ れ る よ う に な 図19 鬼瓦に描かれた宝尽しの絵(縮尺1:2.5)

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この大根の打っ違いである。大根は聖天様の大好物という。大黒天の好物とい う地域もある。 隠れ笠・隠れ蓑   両者ともに、危険な事物から姿を隠し、身を守ってくれると 信じられていた(図 18・ 19)。隠れ笠は市女笠をあらわしたものが多い。 「保元 物 語 」 で は、 遠 流 に 処 せ ら れ た 源 為 朝 が「 鬼 島 」 に 着 い た 時、 鬼 達 が「 隠 蓑、 隠笠、ウカビ履、シヅム履などを持っていた」と話す場面があり、鬼達がかつ て「 笠 や 蓑 を か ぶ っ て 身 を 隠 し て い た 」 と 信 じ ら れ て い た こ と が わ か る。 な お、橿原市今井町の重要文化財森田家の鬼瓦の笠と蓑は、鬼が隠れており、鬼 面紋鬼瓦とおなじ役割を果したと説明されている。 波に兎   波に兎(波乗り兎)は「火伏せ」の効果があると信じられた。兎は月 で 餅 を 搗 く( 図 25)。 月 は 陰 の 象 徴 で、 太 陽 の 陽 と 対 置 さ れ 水 と 縁 が あ り、 波 に 乗 っ た 兎 は 火 伏 の た め の せ ら れ た( 図 24)。 子 兎 を 肩 車 し た 例 や、 つ が い ら し き 例 も あ る の で、 子 孫 繁 栄 の 願 い も 込 め ら れ た か。 た だ し、 耳 が 折 れ や す く、遠目にはわかりにくい場合もある。鬼瓦以外の塀の端の飾り瓦などにもよ く使われており、江戸時代の火事装束や蔵印などにも使用されたという(今橋 二 〇 一 三 )。 な お 図 25の 珍 し い 留 蓋 は、 同 時 製 作 の 鬼 瓦 の 銘 文 か ら、 天 明 七 年 ( 一 七 八 七 ) に 十 市 郡 新 口 村 の 瓦 工 槌 屋 伝 兵 衛 が 作 っ た も の で あ る こ と が わ か る。図 24は無銘であるが、波を透かし彫りの手法であらわすので、一九世紀前 半以降のものであろう。   波だけを表す鬼瓦で、その多くは鯱とセットになる。つまり、鯱は波の上 で跳ねていることになる。   竜 は 雲 を 呼 び、 雨 を 降 ら せ る と い う こ と で 火 伏 と 雨 乞 い の た め。 図 26は、 本稿終盤に登場する腕自慢の瓦師常門村新兵衛の自信作で、珠をつかむ三本の 爪までよく残っている。 る( 図 21)。 天 保 九 年( 一 八 三 八 ) 頃 か ら、 立 姿 が は っ き り す る よ う に な り、 文久二年(一八六二)頃からは鯛が大きくなる。明治以降はしだいに画一的な 表現になり、最後は型作りとなって造形としてのおもしろさを失う。 金囊(宝袋、巾着)   ずばり商売繁盛、財運、金運などの象徴。 如意宝珠   願い事を意のままに叶えてくれるという。一つを表すもの、三つ表 すもの、宝珠の下に波をあらわし、幸運が波に乗っておとずれる様をあらわし た も の も あ る。 道 後 温 泉 の 本 館( 明 治 二 七 年・ 一 八 九 四、 重 文 ) の 屋 根 に は、 みごとな波乗り宝珠の鬼瓦が多数飾られている。波乗り鯛もある。 鑰( )  桜 井 市 茅 原 の 民 家 の 蔵。 向 か っ て 右 側 面 に「 文 化 九( 一 八 一 二 )  申八月吉日   三輪瓦屋   佐平治」の銘文がある。 二匹鯛・懸鯛   鯛はめでたい縁起のよい魚である。そこで、正月に干鯛や塩鯛 二匹を腹合わせにして荒縄で結び、神棚やかまどの上に飾った。魚佩にそっく り の こ の 図 案 が、 袱 紗( 「 袱 紗   紺 繻 子 地 鯛 模 様 」 江 戸 時 代 一 八 〜 一 九 世 紀、 アンリー夫人寄贈、東京国立博物館蔵)などにも用いられており(東京国立博 物 館 二 〇 一 三 )、 鬼 瓦 に も 採 用 さ れ て い る。 桜 井 市 芝 で 見 つ け た 二 匹 鯛 は 赤 い (口絵   図 22   図 22も同じ) 。無銘であるが、両側辺がかなりくびれており、一 九世紀後半のものであろう。近世の瓦はほとんどが燻し焼で黒から灰色のもの が 多 い。 わ ざ わ ざ 酸 化 炎 焼 成 に し た の は、 よ り 鯛 の 色 に 近 づ け た か っ た か ら か。祝い鯛ともいう。   イ ン ド ネ シ ア の モ ル ッ カ 諸 島 な ど の 亜 熱 帯 地 域 原 産 の ク ロ ー ブ の こ と。 香 料・ 薬・ 染 料 と し て 貴 重。 紋 様 は 乾 燥 し た 蕾 の 打 っ 違 い で 表 す こ と が 多 い ( 図 18・ 19)。 よ く 似 た 紋 様 と し て 大 根 の 打 っ 違 い が あ り、 夫 婦 円 満、 子 孫 繁 栄、 長 寿 を 象 徴 す る 図 柄 と し て 使 わ れ た( 図 23)。 や や エ ロ チ ッ ク に あ ら わ し た 例 が あ る。 な お、 奈 良 県 で は、 生 駒 市 の 宝 山 寺、 通 称、 生 駒 聖 天 の 寺 紋 が、 図20 今井町豊田家の鬼瓦 寛文2年(1662) 図21 四条町東通寺の鬼瓦、文政2年(1819) 図22 赤い二匹鯛 桜井市芝の民家 図24 波に兎 桜井市芝の民家 図25 兎の餅搗き 橿原市常盤町春日神社 図26  竜の正面形鬼瓦 橿原市十市町十市御縣座 神社拝殿 天保10年(1839)

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図20 今井町豊田家の鬼瓦 寛文2年(1662) 図21 四条町東通寺の鬼瓦、文政2年(1819) 図22 赤い二匹鯛 桜井市芝の民家 図24 波に兎 桜井市芝の民家 図25 兎の餅搗き 橿原市常盤町春日神社 図26  竜の正面形鬼瓦 橿原市十市町十市御縣座 神社拝殿 天保10年(1839)

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