〈翻訳〉ソースティン・ヴェブレン「資本の本質に
ついて」II 投資、無形資産および金銭的大立物
著者
田中 敏弘
雑誌名
経済学論究
巻
70
号
3
ページ
79-104
発行年
2016-12-20
URL
http://hdl.handle.net/10236/00025355
〈翻訳〉
ソースティン・ヴェブレン
「資本の本質について」
1)II
投資、無形資産および金銭的大立物
T.B. Veblen, ‘On the Nature of Capital. II
Investment, Intangible Assets,
and the Pecuniary Magnate.’
田 中 敏 弘 訳
The purpose of this paper is to translate into Japanese T. B. Veblen’s article ‘On the nature of Capital. II. Investment, Intangible Assets, and the Pecuniary Magnate.’
Toshihiro Tanaka
JEL:B31
Keywords:T.B.Veblen, On the Nature of Capital
この論文の先の部分で述べられたことは2)、いわゆる「資本財」にあてはま る。したがって、それは「資本」という性格よりは、むしろ、「生産財」とい う性格での資本財に当てはめようと思う。つまり、念頭にあるのは、投資され た富の金銭的使用と結果よりも、むしろ、物的な生産手段の産業的あるいは技 術的効率と役立ちである。この研究は産業設備を「資産」よりも、むしろ「工 場」として取り扱った。 この研究の過程においては、それは物的設備の支配による共同体の産業効率
1) The Quarterly Journal of Economics, Vol.XXIII. Nov., 1908 からの許可を得てリプ リントした。
を有利に独占することにより、投資の実行を生じさせ、それがさらに詳細に注 目するに値いする一層の結果を生むと思われた。 投資は金銭的取引きであり、その狙いは金銭的利得 価値と所有権に関す る利得である。投資された富は価値によって評価され、この投資された富の所 有権から期待される利得の評価より生じる評価額の大きさに関して決定される 資本、金銭的大きさである。現代の業務習慣では、資本は二つの同格の資産範 疇、有形、無形に分類される。「有形資産」はこのさい、その所有者に所得を 生み出す価値ある所有物とみなされる金銭的に役に立つ資本財をさすと考えら れる。そのような項目は、生産財としてそれらの産業上の役立ちに大なり小な りかたく関係していると思われる資本化しうる金銭的大きさである。現代の業 務習慣では、資本は二つの同格の資産範疇、有形無形に分類される。「有形資 産」はこのさい、その所有者に所得を生み出す価値ある所有物とみなされる金 銭的に役立つ資本財をさすと考えられる。そのような財、富の物質的項目は、 生産財としてそれらの産業上の役立ちに大なり少なりかたく関係していると思 われる資本化しうる価値の分量だけの「資産」である「無形資産」は、その所 有から引き出される利得の評価に基づき所有され、評価され、資本化される富 の非物質的項目である。こうした資産もやはり、通常は、生産要因とみなされ る富の項目の産業上の役立ちに関係していたとしても、わずかである。 無形資産の問題に入る前に、投資 したがって、資本化 が物的資本財 の用途と役立ちをもつ結果について、さらに語ることが必要である。投資され た富から生じる利得は、そのように投資された富の項目が使用される産業過程 の生産性から引出され(おおまかに)、そのように投資された富の項目が使用 される産業過程の生産性によって評価され、生産性は、共同体の物的役立ち、 暮らし向き、安楽、あるいは共同体の消費必需品への貢献によって評価される と経済学者により、余り吟味されずに仮定されてきた。この研究過程では、そ のように投資された富(有形資産)の有利性は、共同体の産業効率の大なり小 なりの大規模な独占に基づく。物的資本総体の総利得は共同体の産業活動から 生じ、そのように独占された産業取引きの生産容量に何ほどか関連している。 しかし、注意すべきは、ここに述べられたような現象の分析には、投資の利得
が共同体への有効な有用性により評価されるので、資本財の物的役立ちに等し いか、あるいはそれに比例した関係をもつと主張する保証はないということで ある。所与の資本財、有形資産は、その所有者への金銭的役立ち、したがって その価値を共同体への役立ち以外のものに負うかも知れない。ただし、投資利 得の総体は共同体の産業の物的生産性の総体から引き出されるのだが。 物質的装置の所有権は、所有者に共同体の非物質的装置の使用権だけでな く、濫用や無視ないし禁止の権利も与える。この禁止の力は役に立つだけでな く、所得を与えるために行使されるかも知れない。なお、所得を生み出すと思 われるものは何であれ、資本化され、その所有者にとり富の一項目となるであ ろう。現代の投資条件下では、それは物質的装置の所有者にとって産業過程を 短縮あるいは遅らせること つまり「営業制限」のための金銭的得策となる ことは稀ではない。こうした遅滞というすべての場合での動機は、資本の所有 者(支配者)にとって共同体全体にとっての、あるいは、所有者(支配人)を共 同体の一部にとっての役立ちという点からの得策ではなく、金銭的得策 投 資からの所得という点からの得策である。投資の緊急性、すなわち投資家に対 する金銭的利得の緊急な場合を除けば、こうした資格の現象は、産業組織には 存在の余地がない。緊急な場合には常に実業家が金銭的利得を獲得したり、金 銭的損失を回避する努力から生じる。おそらくもっと頻繁には、利得の増大を 確保するよりも、節約をしたり、浪費を避ける産業上の目的から禁止という策 略 工場の賢明な無為 がとられるであろう。だが、節約が行なわれ金銭 的浪費が回避されるのは、なかでも、所有者に対する金銭的節約と、所有権の 問題上の金銭的浪費なのであって、共同体にとっての財の節約あるいは、共同 体の代理としての浪費的消費や骨折りや資源の浪費的支出の防止ではない。資 本家経営者にとっての金銭的 すなわち、得意な利点は投資制度下での共同 体にとっての経済的利点よりも優先された。というよりもむしろ、所有権の得 意な利点だけが、この組織下の産業行為において尊重されるのである。 産業効率を禁止し、産業の生産高を削減する営業活動も異常な数え上げを要 することが知られている。そのような禁止と削減を示すために証拠を引用する 必要はない。しかし、一、二の例証的な実例は理論的な論点をより明らかにす
るであろう。この種の企業経営に伴う最も包含的な原理は、物価を騰貴させ、 したがって、供給制限、すなわち「取引が持ちこたえるものを請求する」こと により、営業純利益を増すことである。ここでの問題点として、同様な結果は、 営業上の競争相手の完全な効率を妨げることを企てる妨害戦術である。こうし た現象は有形資産と無形資産とを分ける分割線に存在する。この種の成功戦略 は、観衆の力や立法、あるいは競争会社の「締め出し」によって、一定の企業 を差別的利点をもつ固定した状態になるであろう。したがって、これは無形資 産として資本化され、産業社会において、投資された富の項目としての地位を 獲得するであろう。 しかし、こうした非能率な資本化はさておき、生産的産業過程は細目では、 投資の急迫により、したがって、価格によって計算され、これは価格の成りゆ きに生産が依存するように導く。したがって、資本制下では、共同体は、こう した時節を除き、かつ価格の成りゆきが、物的装置の所有者に差別的な利点を 与える限り、手段に関する共同体の知識を、暮らしを明らかにするのに向け ることが出来ない。資本財の所有者(経営者)にとって有利な 通常は騰貴 を意味する 価格は共同体のその他の人々の暮らしの問題を決定する。不景 気、失業、よく知られた範囲の現象の停滞は、価格機構下での資本の所有者に よって行使される産業の禁止がいかに効果的かを示すことになる3)。 物的装置の所有者に与えられた共同体の産業効率の任意的な濫用に関しても やはりそうである。訳にたたないことが、役に立つことと同じく、たやすく資 本化されうるかも知れないし、資本財の所有権は産業過程の指導の誤り、産業 効率を悪用する4)力をえる。それでけでなく、産業過程とその産出物を禁止し たり削減する。その間、産出物はなおも資本財の所有者に有利であるかも知れ ない。その価値が技術的継承と人類の損害に向けることになる大量の資本財が ある。それらは、例えば、造船所、兵器庫、学校、および武器、弾薬製造工場 のような施設に補給し供給する陸海軍の貯蔵所である。こうした装備などは、
3) 価格と富裕、不景気、失業等との関係については、『営利企業の理論』(The Theory of Business
Enterprise)、第 7 章(185-252 頁,とくに 196-212 頁)を参照。
もちろん、そのときの物的装置であり、したがって、企業利潤の急務からそれ を得策とするとき、資本財の所有者に産業過程を禁じたり逸したりすること や、さらにそうした装備は取引を増大し保護し、したがって、共同体を犠牲に して実業家の特異な利点に役立つことさらに、それらの装置は、それだけでな く、共同体全体から陸海軍、外交および他の公けの種類への生計の転換は別と して、大部分物的装置であると言ってもけっして不自然な解釈ではない。こう した設立物は常にどのような項目の物的装置が著しい相殺物や減少もなしに、 人類の損失と不快を除く技術的方策の使用に当てられ、尊重されるであろう。 まったくあいまいで、純損害が大きく推測される用途に当てられた資本財から 利潤を引き出すある種の投資に典型的なのは、例えば競馬場、〔ホテルなどの〕 大広間、賭博場、売春宿である5)。 「非キリスト教部族」のある代弁者たちは、教会を同じ範疇下にいれたいか も知れないが、現代の共同体での一致した意見は、教会を全体としては役に立 つと見る傾向があり、そればかりか、投資された富の役に立つあるいは役に立 たない使用の組織上、教会に特有の位置を与えようとはしないであろう。 そのうえ、多大の資本財と多くの技術的過程を用いる広大な営業分野があ り、その利潤は役に立つものと立たないものが最も変化する割合いで浪費とま ざっている生産物が得られる。例えば、流行している財、不正直な財産商品、 洗練された所帯用品、新聞、広告業である。この種の営業がその利潤を浪費的 な仕事、偽品、錯覚や欺き、手なれたうそ、などから引出す程度に応じて、用 5) もしも、この点で、前節で述べられたこの論文の主たる議論との関連が疑問あるいはあいまいで あるなら、浪費という点でこうしたあやふやな事業は、利潤を得るための投資の場合であり、投 下ささた「資本財」は、所得を生む投資された富であるが、しかしそれらの資本財は、以下の 2 つの条件が満たされた場合にのみ、所得を生むことに注意を要する。すなわち、(a)こうした 資本財の所有と使用は、技術効率が彼の事業で用いられる関係において、それの共同のストック の説明に、その所持人を向けうること。(b)この目的に利用できる富の限られた量は、それらの 所持人に、利用可能な量のこうした制限によって決まる度合いで、技術効率の共同のストックの そのような一部分の収益権を「独占する」ことを可能にすること、その限りにおいて、これらの 事業は共同体全体のために「生産性」をそのときの知識と手段方法を利用しないか、あるいは表 面上ですら、利用を必要とせずに、投資された富という制度上の神聖な「既成事実」にただ立て こもる。それらの事業は営利企業の普通の操業よりも、事業に関する弁解をもつことは少ない。
いられる資本財は、それらの資本化しうる価値が用いられる技術方策の不法な 使用に負うと言わねばならない。 資本財のこうした浪費ないし訳に立たない使用は、これらの財に具体化され たか、あるいはその使用によって実行される技術効率で、本来役に立たない関 係をもつことを意味するものとしてではなく、また、これらのものへの投資と それを経営する事業は訳に立たないことを目指す必要もないことを意味するも のとしてではなく、ただ、明白だが通常看過されているある重要ではない論点 を明らかにするだけである。(a)技術効率は自然に、かつ本来人類に対して役 立ったり、役立たないものではない それはただ善悪の効率手段に過ぎない。 (b)資本財の実際的な所有者によるその事業上の使用は、共同体を目指さず、 ただ、その所有者にとっての役立ちだけである。(c)価格機構下では 金銭 的標準と経営の法則下では 情況は実業家が時には産業過程の管理を誤るこ とをすすめる。それは、産業を禁止し、削減し、あるいは誤らし、したがって、 共同体の技術効率を共同体の損害に向けるという意味においてである。これら のいくらか陳腐な論点は、それ自体大きな重要性をもつものではないが、それ は価格機構の法則では、企業理論あるいは生活理論としては重要ではなく、ま たそれらは、ここでは無形資産の問題に直接的な関係をもつ。 少々退屈を覚悟して、この分析を追及し、陳腐な説を総合することが、無形 資産論には必要である。既に述べられたように、「資産」は金銭的概念であっ て、技術的概念ではなく、営利概念であって、産業上の概念ではない。資産は 資本であり、有形資産は資本化できると考えられた物的装置の項目である。有 形資産の有形性は、その資産が作り上げられる富の品目の実体の問題であり、 一方ではそれらは価値量だけの資産なのである。有形資産の範疇を典型的に作 り上げている資本財は、その技術的役立ちの力による資本財なのであるが、し かし、それは、尺度上の資本であって、技術的役立ちからではなく、それがそ の所有者に生み出すであろう所得の尺度によるのである。もちろん同様なこと は、無形資産にも当てはまるのであり、それは同様に、所得を生み出す力の尺 度による資本あるいは資産だからである。その無形性は、それらが作られてい
る富の項目、所有権の対象の非物質性の問題であるが、資産としてのそれらの 性格と大きさは、その所有が彼に独占を可能にする過程の所有者への問題であ る。無形資産の場合、そのように独占された事実は、技術的あるいは産業上の 性格のものではなく、この中には、有形資産と無形資産との間に相当の相違が ある。 人類は共同体の技術効率によりカバーされるほかに、物質的生活手段による 他の取引きをもっている。こうした取引きは、共同体の技術効率の使用によっ て得られる財の使用、分配、消費によらねばならず、制度的な性格 世間の ならわし、法、慣習 をもった労働支度下で実行される。富の分配の原理と 実行は、技術上の変化と共に、さらに前進する他の文化的変化と共に変化する が、分配の原理 つまり、生産物の分配における正しくて善いことに関する 慣習上の一致した見解 こうした原理とそれを実践するそれに付随する方法 は、いつも一人の人や集団や階級に別の者以上のしっかりした選択を与えるよ うなものであった。この種のあるものは、まったく注意深く観察されてきたす べての文化と共同体に見られるはずである。さらにより高度な文化では、経済 的な特典、特権、特異な利益不利益は数多く雑多であること、また、それらは 経済制度の複雑な組織を作り上げていることは、おそらく述べる必要がないで あろう。実際、そうしたある点での階級差別の特色は、一つの文化時代を他の それから区別するもっとも目立つ決定的な特徴のうちにある。物質文明のすべ ての段階で、こうした優先的利益を要求する位置にいる階級ないし集団は、例 えば僧職、王侯としての支配階級、女性と対比された男性、未成年者に対して の成人、虚弱者に対する屈強な者のように、通常やがてそのような要求を強め る。所得分配における階級のある形や個人的優位を是認する原理(思考習慣) は、すべての知られた文明の道徳律と結合して見られるある形の制度に具体化 される。そのような非物質的富の項目は、優先権を確保する人々の利益は、そ れを持たない人々の不利益である点で特異な性格のものである。また、つい でに言えば、ある一つの階級、あるいは個人に役立つそうした特異な利益は通 常、ある他の階級、ないし個人、あるいは共同体全体に等しい不利益以上のも
のをもたらすと、ついでに言うことが出来よう6)。 財産権が確実な形となり、価格機構が入り、なおとくに投資の実行が生じ、 営利企業がはやり出すときには、そのような特異な利益は無形資産の性格をも つあるものを引き受ける。無形資産は、それが譲渡出来るか否かにかかわらず、 金銭的価値と評価をもつことになる。そしてもしそれが譲渡可能であれば、も しそれが販売され譲渡することが出来れば、それはその言葉のかなり明白で十 分な意味で資産となる。そのような非物質的な富、無形資産の性質の優先的 利益は、一定の居酒屋あるいは、一定の商人、あるいは一定の品種の消費財の 流行のような、単純に使用法の問題である。あるいは初期の王の関税(Kings Customs)や、かつての悪名高い巧妙な税(Sound Dues)、あるいは大土地所
有者による一般の国道の閉鎖、あるいは都市ギルドの自由やハンザ同盟や連合 通信社(Associated Press)における特権、あるいは現代初期における多くの 貿易独占のように、取引き、あるいは別の方法に基づくかはいずれにせよ、政 府譲与、ないし組合特権や鉄道特権、あるいは捕獲許可状ないし特許状や輸出 入による貿易保護や国内消費税や航海法によるもの、あるいは奉納された小ろ うそくの敬虔で強制的な消費による行ないに対する需要創出や四旬節の間にお ける同様の敬虔な魚の消費と需要の創出である。 投資と営利企業の制度下で、こうした、またこれに類似した特異な利益に頼 るであろう。そして、そのような場合には、利得の追及において結果として生 じる特異な企業利益は、所得をもたらす力に基づき資本化される有利な点とな り、おそらく会社の安全にかこつけて(例えば普通株のように)、あるいは、私 的な売上げという通常の形のもとでさえ、(例えば営利企業の評価されたのれ んのように)売ることが出来るであろう。 しかし、営利企業の制度は過去からさまざまな形の制度的特典や特権を引き 6) この記述は、そのような特典あるいは特権の場合に現われる特異な利益と不利益を計るある条件 をもっと具体的に示すことなしには、明らかとは思えないであろう。初期のように、文化の非金 銭段階では、価格検査が適用できない場合には、本文の記述は、問題の特異な利益が得られるの を犠牲にして特異な不利益が利益より大きい場合、この利益を確保するために喜んで耐えること を意味するととられるであろう。
継いだだけでなく、それはまて、新しい種類の特異な利益を生じさせ、それら を無形資産へと資本化する。それらの特異な利益は、その共通した目的および 普通の価値の基礎のすべて(あるいは縦断的にすべて)であり、資本化は優先 的に有利な販売である。そうした無形資産の最も普遍的で典型的な種類は、い わゆる「のれん」 例えば見積られた特異な営業利益のきわめて多くの種類 をカバーするようになった言葉だが、それ本来の企業慣習では、それはのれん を所有する利害関係に対する、常連客に対する慣習的依頼を意味した。それは もともと、取引先への信頼と敬意の親切な感情を意味していたと思われるが、 その言葉が現在使用されているように、それはこの感情的な内容を失ってし まった。それが今広く使用されている、広くあいまいな意味では、それは一定 の財や用役の供給を制限したり独占する力によって、営利企業の独占ないし結 合に役立つような特殊な利益をカバーするのに拡大される。そのような特別な 利益が特に特別な立法により、 あるいは、しかるべき特許や特許権の場合 のように保護されない限り それは「のれん」としてあいまいに語られるこ ともありそうである。 分析の結果は、要するに、二つの範疇の資産の間の一致と区別の度合いを示 すものであろう。即ち、(a)有形、無形いずれにせよ、一定の資産の価値(つ まり、分量)は、それらの所有者に対して所得を生む力に基づいて評価ささ た一定の項目の富の価値に資本化される(あるいは資本化し得る)のである。 (b)有形資産の場合には、それに含まれる富の対象には、全体としてのある役 立ち、(少なくとも潜在的な)役立ちがあるとの前提があり、それらの資産は 物質的に生産的な仕事に役立つからであり、したがって、それはそれらの資産 の価値が、広く役立ちの項目をけっして測定しないけれども、それの資産価値 を表わす大なり小なり根拠のある前提がある。(c)無形資産の場合には、問題 の富の対象には、広く何らかの役立ちがあるという前提は存在しない。なぜな ら、無形資産は物質的に生産的な仕事に役立たず、産業生産物の分配における 所有者に特異な利益を与えるだけである7)。( d)一定の有形資産は共同体に役 7) 特許権や同様な種類の他のもののような無形資産に対するこうした性格づけの適応性に関しては
立たないかも知れない。 一定の物質的設備は、その資本としての価値を役 に立たない使用に負うている。ただし、有形資産の本体は、全体として、ある いは平均的には(推定により)役立つのである。(e)一定の無形資産は全体と しての役立ちの点ではどうでもよいかも知れない。ただし、全体として、ある いは平均的には、無形資産は(おそらく)共同体には役に立たないかも知れな い。この提示によって、有形資産と無形資産との本質的な相違は、場合によっ て、金銭的計算に着手される非物質的事実の異なる性格にあるのは明らかであ る。前者〔有形資産〕は実際問題の資本財の所有が所有者に独占を可能にする ような、共同体の技術効率の小部分を資本化する。後者〔無形資本〕は、問題 の資産に関する社会に特異な利益をもたらすような生活慣習、非技術的性格の 慣習 用途、慣習、僣取、立法行為、あるいはいろんなものによりきめられ たような を資本化する。前者は本来の産業過程に含まれる技術的方策の収 益権に、その存在と分量を負うている。一方、後者は同様に、産業組織の内部 と、産業自体と市場との間の、すき間にある相互関係と調整と呼びうるものの 収益権による。こうした関係が技術的性格よりも、むしろ金銭的性格のもので ある限りである。同じ区別は、表現をその時の事柄の一般的な理解力に近づ け、通常そう呼ばれている有形資産は生産過程を資本化し、他方、通常そのよ うに呼ばれている無形資産は、確実な方策と獲得過程を資本化するのであり、 疑問が提出されてきた。疑問は分析とその意図から生じると思われる。注意されねばならない のは、ここで無形資産として述べられているものを、非難あるいは否認する意図はないことであ る。特許権は正当視できるかも知れないし、出来ないかも知れない。したがってその問題をここ で議論する必要はない。他の無形資産はこの点において同じ場合に入る。 そのうえに、特許権の性格に関しては、資産とみなされてきた。特許権により保護された発明 や技術革新は、技術的熟練の共同のストックへの貢献である。それは共同体全体に(ただちに) 役立つかも知れないし、役立たないかも知れない。 例えば、金銭出納器、銀行小切手の打印 器、市街電車の自動記録器、盗難よけ、およびその他同様なものは、共同体全体には何ら直接的 用役ではないが、ただそれらの使用者に対して金銭的用役をもつ。しかし、技術革新が有用であ ろうとなかろうと、特許権は資産として広く(直接)有用性をもたない。なぜなら、その本質は 専売特許権所有者に対する技術革新の収益の制限だからである。すぐに、かつ直接に特許権は共 同体全体に対して有害なものとみなされねばならない。なぜなら、その目的は、そのあとに続く 有益な効果やその倫理的正当化がどうであれ、特許を受けた技術革新を使用することから共同体 を妨げるからである。
富を生産的にするのではなく、その分配だけに影響を及ぼす。 いずれの方法で述べられても、もし無形資産が有形資産に変えられ、その逆 に営業の急務が決定することもあろう。でも、二つの範疇の資産は、事物のこ うした状態が推定するような、互いに密接な関係にある限り、それらが相互に 混同されないことは、事物の同様な状態から、なお明白である。 「のれん」を「無形資産」の範疇の典型として、最も広く一般的に行なわれ、 同時に「有形資産」の範囲から最も遠くへだたったものと考えれば、もう少し 一層の議論をすることは、二つの範疇の資産の間の相違点を明らかにし、同時 に両者の本質的な関連と同様にその本質的一致を強く主張するのに役立つであ ろう。概念上の初期の時代、その名に負う成長期に、のれんが資産に影響を及 ぼす一因と認められるようになったとき、のれんはそれが結果として営利会社 に自動的に生み出す、明らかに偶然的で特異な利益と慣習上見られた、つまり 会社の営業行為の非物質的副産物 通常、企業生活の正直で人間的な成りゆ きの伴う偶然的な天恵と思いこまれた。プア・リチャードなら、事柄のこうし た意味を「正直は最上の策なり」と言うことであろう。しかしやがて、疑いも なく、ある考えがのれんの獲得についてとられるようになり、それについて賢 明な実業家によりある努力が費やされるであろう。財はただ常に野蛮な役立ち に役立つことを越えて、よりたやすい販売のために、より一層優雅な終りを与 えられるであろう。つまり、生れつき分別のあるずうずうしさをもった口先き の旨い、こびへつらう店員や注文取りが、こうした取柄はもたないが、その取 引きに要するあらゆる熱心さと器用さと、たくましい筋力を備えているかも知 れない。そして、人が言葉で専心従事するのを好む以上に何かを約束するであ ろう、うぬぼれの強いとは言わないまでも、納得のゆくショーウインドウに何 かが支出される。行商人やそれに類した者が常連客を確保するために費用をか けて雇われる。多くの種類の広告に多大の配慮と資産が費やされる。 この最後に挙げた項目は、のれんの生産あるいは発生における、それゆえ無 形資産創出における現在の成長段階の典型とみなすことができよう。広告はそ れだけで企業の重要な部門となった。そしてそれは大きくさまざまな配列の物 理装置と過程(有形資産)を使用する。投資はある物的な項目(生産財)、例え
ば、印刷物、掲示板やその他同様なものにのれんのある本体を創り出すために なされている。生産物の正確な量は予見され得ないが、もし賢明に行なわれる 場合には、そのような投資は目指す効果を得るのに失敗することはめったにな い 、ただし、さらにより優れた賢明さすらもつ競争企業が、のれんを発生 させる、より優れた装置、(生産財)と職人の配列によって、こうした努力を相 殺するのでなければである。通常、有効に目指された生産物は、のれん 無 形資産 であり、それはある有形資産をこうした無形資産に変えることによ り作り出されたとみなすことが出来よう。あるいは、それは産業生産物、一定 項目の物的装置が用いられ必要な技術的熟練が実行される、ある産業過程の生 産物とみなしうるであろう。一方で使用される物的装置と過程と、他方での のれんの産物との間の因果関係について、いずれの見方がとられようと、結果 は、手持ちの目的のためには、本質的には同じである。 広告の将来の目的は、増加する量の広告記事を純利益の増加で販売すること は、販売に提供される重要なものの価値の増大を意味すると言えるであろう。 それは、こんどは有形資産の増大を言うのと同じである。企業努力の目的は、 最終的な有形価値による利得であると争う余地なく当然のことと思われるであ ろう。しかしこの将来の目的は、広告業の場合には、のれん、無形資産という 非物質的なものの生産の中間段階によってのみ得られるべきものである。 したがって、例証の場合は、有形資産(例えば、印刷物のような物質的な資 本財)を無形の富に転換する、あるいは、もしその法式がよいと思われれば、 物的富の生産的使用による非物質的富の生産だけでなく、逆に、その過程の第 二段階において、それはまた、無形資産の富(販売可能な財の増大した価値) への転換、あるいは、この表現が望ましいなら、無形の富の使用による有形資 産の生産を示している。 こうした無形資産から有形資産の創出は、おそらく、有害当事者の努力に よって、土地の価値の増大に最も適切にみられるであろう。地所は、もちろん、 最も確実に理解しうる有形資産であり、かつそれはその価値の大きさだけの利 益となる事物であり、それは問題の地所がそのときに売買される額によって決 定される。これは地所のその時の時価であり、したがって、その時の有形資産
の実際の大きさである。地所の価値は、それの地代の価値を資本化することに より計算されうるであろう。だが、その時の市場価値が資本化ささた地代の価 値と一致しない場合には、前者〔市場価値〕は企業の価値に従い実際価値とし て受け入れられねばならない。この国の多くの部分では、おそらく最も多くの 部分では、とくに西部諸州と、繁栄している町の近隣では、地所の金銭的大き さを計る二つの方法は常に一致しないであろう。当然のしんしゃく、しばしば 非常に相当なものがなされ、資本化された地代の価値は、物的装置という項目 として、その時点で役立ちを測定すると考えられるであろう。土地の市場価値 がそれの資本化された価値を越える分量が生産物とみなしうる限り、のれんの 性質をもつ無形資産の確実な残余は利用されるが、あるいは、この土地区分の ために「生産的に用いられる8)」 カリフォルニアの土地のあるものは、精神的手段による不動産創出の極端な 一例ではないけれども、非常に適切なものと考えられるであろう。これらの土 地のあるものは、その時の市場価値の半分以上を、生産ないし使用の用語とし て、その時の役立ちに負わないということは、恐らく十分見当違いではないで あろう。過剰は将来の販売好機に人の心を動かす錯覚や将来、有用性が増大す るとか、その他同様のものの予想に起因すべきであろう。しかし、これらは、 のれんの性質をもった非物的要因である。他の資産と同様、こうした土地は、 それから予想される所得に基づいて資本化され、所得の一部は、土地の位置に ついての非常に楽天的見方をとるよう説得されると期待される人々への有利な 販売から期待される。他方、その一部は広告事情と、いわゆる「土地開発」に 向けられた土地差配人の努力により生じた有用性の過度に楽観的な努力予想と に基づくかも知れない。例えば、資本は「資本財」を意味するとの思いこみに とらわれている人にとっては、無形財の有形財への転換、あるいは、有形資産 8) 物理的大きさとしての(「土地」)も、金銭的大きさとしての(「不動産」)もいずれも、問題の 資本化された土地、「のれん」の項目ではなく、不動産としてのみの価値 すなわち、その資 産としての大きさ は、一部はそのために作りあげられ、土地売買周旋人によって利用された 「のれん」の産物(錯覚やその他同様なもの)なのである。不動産は有形資産、物的富の一項目 であるが、他方では、その一部を富の一項目としてそれが負う「のれん」は無形資産、すなわ ち、非物的富の一項目なのである。
の生産的使用による無形資産の産出というようなことは、少し難問らしいとこ ろがあろう。もし、「資産」が金銭的概念でなく物理的なものの範囲に当ては まる物質的概念であるならば、そのような有形資産の無形資産への転換と、そ の逆の変質の場合であろう。しかし、事態には奇跡的なものはなんら存在しな い。「資産」は金銭的大きさであり、投資という事実に属する投資との関連を 除けば、それに含まれる富の項目は資産ではない。言い換えると、資産は資本 化の問題であり、それは価値評価の特殊な場合であり、一定量の資産に関して 言えば、有形か無形かの問題は、価値評価が加えられたり、帰せられたりする どのような物品あるいは物品の種類かという問題である。もし例えば、価値評 価において加えられるか、帰せられる事実が一定品目に対する慣習的需要か、 あるいは、特定の店や商人のところに慣習的によく行くとか、ないしは、独 占的支配や価格と供給の限定に頼るならば、結果として生じる資産の品目は、 「無形の」ものとなるであろう。なぜなら、帰せられる問題の資本化された価 値は、非物質的なものだからである。 もし、汚名によって資本化ささた価値の所有者になされる事実が物質的なも のであれば、例えば、価格が勝手に固定された市場向きの財である場合のよう に、その供給が勝手に制限されたりする事実があれば、あるいは、もしそれが そのような財を供給する物的手段であれば、そのときには、問題の資本化ささ た価値は有形資産の場合である。問題の価値は、すべての価値のように、勝手 な問題であり、資産としてそれは資本化の問題である。しかし資本化は、所得 が生じると考えられる所有権に対して売ることが出来るものの点から金銭的な 「所得の流れ」の評価である。「所得の流れ」の資本化された価値が帰せられる かは、所有権がこの「所得の流れ」に基づく有効な主張を所有者にいかに保証 するかの問題である。すなわち、それは所有権のいかなる対象が戦略的な利点 に帰すと考えられるかの問題であり、これは与えられた場合における企業上の 急務の働きの問題である。 問題の「所得の流れ」は金銭的な所得の流れであり、結局、売上げ業務に帰 すべきである。事業の範囲内で それゆえに、資本、投資、資産および同様 な事業概念の範囲内において、購買と販売はすべての分析の最終条件である。
しかし、こうした限界を超え、事業組織を理解し、調節することは、共同体の 働きと生計の物質的事実にある。販売の最終取引きにおいて、市場向きの財 は、消費者によって市場向きの財としてではなく、生計として評価される9)。 そして最終分析と長期的には、価値のすべてのことの価値帰属と、資産の資本 主義的評価は、資産が重んじられ、それによって最終的にチェックされねばな らないのは、このようなある取引に対してである。それゆえ仕事と生計の事実 から分離されるならば、資産は資産でなくなる。だが、これは、幾らか遠い昔 であいまいな時代の事実との関係を除外しない。 即時的にせよ、遠い昔のことであれ、産業過程と装置のある物質的事実に 頼らなければ、資産はもうけを生まないであろう。すなわち、こうした物的事 実から全く離れるならば、もうけは事実上、資産ではないであろう。これは有 形資産と無形資産のいずれにも当てはまる。ただし、資産と産業の物質的事実 との関係は、二つの場合同じではない。例えば特許権ないし独占的管理のよう な無形資産は、同様に産業的事実との有効な接触にはなんらかの効果を除いて は、なんの効果もない。特許権はそれによって保護ささた技術革新の物的な作 用においてのみ、その目的に有効となる。したがって、独占的管理は、それが 財の供給を有効に制限したり、分配する限りでのみ、利得の源である。 こうした熟慮に照らしてみれば、二つの資産範疇間の一致と区別は、いずれ も、上になされたよりもわずかに小さい可能性があると思われる。両者は資産 であり 言いかえると、いずれも、それらの所得を生み出す力の資本化によ り決まる価値である。いずれも、それらは、それらを生み出す力を、ある非物 質的諸要因の優先的使用に負うている。両者は、それらに含まれる物的なもの の増加ないし減少から離れて、資産として増加ないし減少するであろう。有形 資産は、技術的産業的方策 物理的因果法則下での野蛮な自然的事実を取扱 う生産の方策 の優先的使用を資本化する。この優先的使用は、 これら 9) 「生計」(Livelihood)はもちろんここでは、あいまいな意味でとられており、単純に生計の手 段として、あるいは身体的な慰めの手段としてさえでもなくて、問題の購入は利潤を得るために それらを使用することを考えるよりも、財の消費的使用を考えてなされることを表わすものとし てである。
の優先的使用が実施される過程で使用される物的なものの所有権により保証さ れる。無形資産は、有形資産と同様に資本である、つまり、それらは資本化さ れた富の項目である。したがって、資産の範疇は、資産のいずれの範疇も期待 された「所得の流れ」を表わしており、それは一定のパーセントでも評価され るようなはっきりとした性格のものである。人間本性のある事実 慣習、性 質、信仰、熱望、窮乏 の優先的使用を資本化する。人間の動機づけの心理 的法則のもとに扱われるこの優先的使用は、旧式の善意の場合のように、慣習 により、特許や著作権の場合のように、法的譲渡により、そして産業独占の場 合のように、生産用具の所有権により保証される10)。 無形資産は、有形資産と同様、資本である。すなわち無形資産は、資本化さ れた富の品目である。したがって、いずれの資産カテゴリーも期待された「所 得の流れ」を示すのであり、それらは、一定のパーセント、時間単位によって評 価されるような確実な性格のものである。ただし、それら期待された所得は、 一様の流れで手に入るとか、あるいは、一定期間を越えて均等な仕方で分配さ れると期待される必要はない。そのように評価され、資本化されるべき所得の 流れは、そのようにある外的事実(それらの請求者にたいする非人格的な)と 関連している。それは、物質的であれ、非物質であれ、それらの存在を、この 外的事実の方の所得を生み出す力に辿るか、もしくはそれに帰すことを許すよ うに、そして全体としてのそれらの評価が帰せられ、したがって、この所得の 流れを生み出す富の項目として資本化されるであろう。こうした必要を満たさ ない所得の流れは、一般に認められている期間に資産を生み出さず、したがっ て、資本化ささた富の量を増加しない。 資本化しうる富の必要な明細書に応じない所得の流れがあり、ことに現代の 取引きでは、このように資本化出来ないが、それでも合法的な企業所得を生み 10) そのように独占された生産手段は、もちろん有形資産であるが、その所有者に市場を独占したり、 抑制したりすることが出来るような生産手段の所有権は、(材料や労働のような)あるいは(売 買しうる財や用役のような)ものであれ、無形資産に分類されるべき差別的な企業利点を生む。 そしてこうした現象をそのように説明する努力は、少なくとも技術的な期間とカテゴリーの不 当な増加を避ける称賛に値する努力と解されるべきである。
出す所得の多大で安全な源がある。実際、そのようなものは、その時の企業状 況における最も間接的な諸要因と見なされる。一層初期の企業状況から行なわ れてきた伝統の指導下では、そのような仕方で得られた所得の流れを、「管理賃 金」(wages of superintendence)、または、「請負業者の賃金」(undertaker’s wages)、あるいは「企業家利潤」(undertaker’s profits)ないし、後には、簡 単に特別に「利潤」(profits)と言うのが普通になった。企業の結果であるよう な、この種の現象は、通常、理論的には、この項目のもとに明らかにされる11)。 今なお、この種の最もきわだった現象と、現代の企業および産業の最も必然 的現象は、それらの大きさの点でも、それらが主張する金銭的領域と慎重さの 点でも、言葉の通常の意味における、企業者の利得と見なされることは出来な い。例えば大産業の資本家ないし大きな「利益関係者」(“interests”)の大きな 利得は、彼らが、彼の富や、彼の富との関係とは別に、その「経営者としての 能力(managirial ability)だけを標準として大実業家に結果として生じない企 業者の利得の種類には答えない。しかも、そのような利得(それは彼の投資に 対する通常の収益に加えるもので出る)は、そのような富の所有者の側の、あ るいは、その実践を委任された代理人の側の広大な企業範囲の実践とは別に、 必要な富の量だけの理由で結果として生じると言うことは安全ではない。管理 上、あるいは戦略上の慎重さがこの場合、必然的にならねばならない。でなけ れば、問題の所得はまさに、明確に資本からの所得と評価されるであろう。 大実業家、つまり金銭的大立物は、通常、投資に対して通常のパーセント以 上に所得を受取るが、彼の大きな持ち株とは別に、彼はこうした多大の利得を 得ることは出来ない。彼の多大な持株を離れては、枯葉大実業家ではないが、 現代産業における金銭的大立物の利得となるものを決定するのは、彼の持株の 大きさではない。一般に、この種の企業者のものとなる種類と大きさの利得 は、その所有者(もくしは彼の代理人)が、企業社会の仕事における多大の類 11) ある著者はさらに事実を進め、この点での強固な理論的概念の範囲内に事実をもちこむように努 力し、そうした所得の流れは個人的な源泉にまで辿ることが出来ると自ら納得した後に、そのよ うな場合における関係者たちを「資本」と評価するまでにさえ及ぶ。フィッシャー、『資本と所 得の本質』(Fisher, Nature of Capital and Income)、第五章を参照。
似した思慮分別と抑制を行使するという条件でのみ得られる。しかし、この利 得の大きさは、行使される思慮分別と抑制と同様、この思慮分別を実行する富 の大きさにより幾分確実に限定される。 こうした問題における金銭的力の用意は、例えば現代の企業社会人がとくに 精通するようになったようななんらかの「利害」連合の仕事と報酬によく見ら れるであろう。そのような場合の「利害」は、個人的性格のものであり、 そ れは「利害関係者である 、そして、こうしたさまざまな利害関係者の明敏 さ、経験、および敵意は、連合の総利得に関してだけでなく、いくつかの利害 関係者の間へのこうした利得の分配に関しても、結果が勘定に入る。だが、連 合あるいは「組織」における何らかの与えられた「利害」の重大さは、与えら れた「利害」により管理される富により一層比例し、さらに「利害関係者」の 個人的才能や熟達よりも、そのような富の戦略上の位置に、より一層深く比例 している。問題の才能と熟達は主要な事柄ではない。実際、そうした「組織」 や幾つかを構成する「利害」の動きは、大いに下手なきまりきった仕事の問題 であり、その場合には、前述に関係した最大の創意と独創心は、通常、手数料 で働く法的弁護士によって行使される。 概算により威圧されない、現在の商業取引の冷静な学徒は、金銭的大立物の なかで明敏な卓越さと進取の精神の何等かの証拠によるよりも、より高度な企 業財務における多大の金銭的結果となる戦略の容易さと平易さとによって一層 印象づけられるであろう。それに必要なのは、「鉄鉱会社」(Steel Corporation) の発起人たちが、大きく取扱いにくい会社が成立した時、あるいは、後の経 歴での「スタンダード石油」のちょっと霧深い戦術によって成立したときに、 カーネギー「関係」の金融関係者によって壮大に挫折させられた簡単で明瞭な やり方に注意することだけである。それらがはっきりとした進取の精神の欠如 を情状酌量すれば、大きな「関係者」の任意の頭脳の多くは老年の人であり、 さらに、この場合、性質上、現世代の金銭的大立物は、通常、幾分老令の人た ちに違いないことを心に留めておくことは不作法ではなかろうし、また、目下 の状態が独特の機会と必要により生じたのは、現世代の間だけである。ここで 問題にされている新らしい企業財務において現在より先の地位にあるため、彼
らは、その企業業務の適宜の抑制だけが向けられている多大の富を蓄積しなけ ればならなかったし、彼らの最大の力はこの準備作業に費やされてきた。した がって、彼らは通常、彼らの「慎重な年月」を生きのびてきた後にのみ、なく てはならない戦略的地位を獲得したのであった。 しかし、ここには金銭的大立物や大きな「利害関係」の代弁者の働き軽視す る意図はない。問題はそれが当の資産の「稼得力」以外の理由で生じる、この 資本主義的所得に関係する場合にのみ、適用されてきたのであり、それはます ます、こうした資産はさておき、実業家の「稼得力」に帰すことは出来ない。 問題は、明らかに「監督賃金」ないしは「企業者利潤」の問題ではなく、それ は前者の点と同じほど全く容易である。もし、「組織」ないしそれを構成する 「利害関係者」や大立物が、問題の資産の稼得力に帰しうるならば、 稼得 という受け入れられるいかなる意味においても 、その場合には、即座に、 こうした資産は、このような特別な稼得を標準として再資本化されることにな ろうし、また、この種の取引で得られる所得が稼得の増加に対応して増加した 資本の利子ないし配当として再生するであろう。しかし、そのような再資本化 は比較的非常に限られた範囲のみに起るものであり、したがって、問題は、再 資本化で明らかにされない所得に関係するのである。 この種の取引きの利得は、もちろん、それ自体資本化される その利得の 大部分は、証券やそれと類似のものの発行として、資本化された形で生じる。 だが、この所得の源はそのように資本化はされない。しかし、問題の「利害関 係者」と大立物の動きに重要性をおき、彼らによって行なわれる所用の任意の 抑制に場を与える大きな蓄積された富ないし資産は、少なくとも大部分は、法 人証券や、これと類似したものの形で、通常、投機されるのであり、こうした 資産は市場で、資本化され、それらの資産が投資されるさまざまな事業におけ る、その時の稼得に基づき評価され(それにより資本化される)。しかし、有 利な事業に投資された資産の本質は、より高度な産業上の財務の大きくかつ高 度に有利な取引きを行なう基礎ないし手段として大立物の手中にある有用性を いささかも妨げない。それゆえ、これらの利得を「稼得」としてこれらの資産 に帰すことは、これらの資産を資本として二度計算したり、あるいはむしろ、
それを再三再四勘定に入れることになるであろう。 この種の利得を、通常の意味での稼得として理論的に取り扱おうと努力する さいの余計な困却は、その利得が基礎的な資産と限定しうる時間関係にないと いう事実から生じる。それら利得には、フィッシャー氏がそれについて述べて いるように12)、限定しうる「時間型」をもたない。このような利得は、時間関 係が重要な仕方で、あるいはその決定上、何らかの著しい仕方でその決定に問 題とはならない13)。 この理論点の一層注意深い陳述によって、これらの利得が暗示された意味 で生じる企業が技術的状況と産業過程から離れている限り、しかもその限りで のみそうであることに注意する必要があろう。技術的(産業的)方法、物理的 因果関係の自然の本質は、そのもとに因果関係が進行する時間関係に左右され る。これはベーム−バヴェルクやフィッシャーのような資本と利子の議論の基 礎である。しかし、産業過程から識別される企業取引きは、技術過程と直接か かわりを持たなければ、同じく、技術過程の因果的経過に含まれる時間関係に 直接あるいは均一的に影響を受けることはない。企業取引きは時間関係に左右 される。なぜなら、それは生産過程に依存し、その限りにおいてその跡を追う からである。通常、あるいは旧式の企業、明瞭に産業取引きにおける競争組織 は通常、そのような企業の投資が行なわれる産業過程の当然の結果にかなり直 接的に基づく。その時、資本理論により述べられたような事業は共同体の産 業効率で直接に事業を行なうのであり、その産業効率は、因果関係により時間 関係により限定され、それはまた、実際大いに技術過程のうちで消費される時 間の関数である。したがって、そのような事業の利得も、取引きと同じく、通 常、時間関係により幾分密接に限定され、利得も、取引きと同じく、通常、時 間関係により幾分密接に限定され、利得は典型的に、時間単位のパーセントの 12) フィッシャー『利子率』(Rate of Interest)、第六章を参照。
13) こうした結論は、例えば、G. P. Watkins『大財産の成長』(The Grouth of Large Fortunes)、
第三章、第二節、十によって到達されている。ただし、奇妙な語源学上の誤用により、彼は「時 間を超越した(“timeless”)という言葉を有効でないとして拒否している。
形で現われる。言いかえれば、時間の経過の関数としてである。だが、取引き 自体は時間の経過の問題ではない。時間はこの場合の本質ではない。金銭的取 引きの大方は、それを決定するうえで消費される時間の関数ではなく、取引き から生じる利得でもない。ここで検討されている、より高度な事業では、取引 きの関係および取引きによる利得の、遠い昔それらの基礎になる技術過程の連 続との関係は、遠くへだたり、あいまいで不確定であり、したがって、ここで は時間要素はそれ自身人に押しつけるものではない。むしろ、それは幾分、明 らかに遠い昔の度合を示している停止になる。だが、この事業段階は、他のあ らゆる段階と同様に、もちろん、やがて生じる。そしてそれもまた認められる べきであり、それから生じる取引き量および、それから生じる利得は、疑いも なく、この企業も結局のところ、最後には、間接的に依存し、その利得は明ら かに遠い昔のことであり、間接的であっても最終的には引き出される、あの技 術的(産業的)効率を支配する時間関係によって幾らか密接に限定される。 上記の資産についての議論で辿られた現象と同じように、こうした現象の分 析は困難ではないし、それは決してあやふやで仮の結果をもたらすとは全く期 待され得ない。この問題は、これとの関連でたとえ重大な過ちが極めて稀にし か生じないとしても、経済理論家たちからほとんど注目されなかった14)。こ れらの問題にわずかな注目しか払われなかった原因は、疑いもなく、問題の事 実が比較的珍しかったことによる。この事実は「販売しうる資本での取引き」 (Traffic in Vedible Capital)という表題のもとに、ざっと一緒に引き寄せら
れるかも知れない。ただし、この用語は、こうした利得が問題の諸力の十分広 汎な働きとしてよりも、むしろこうした利得が結果として生じる種類の企業の 包括的な呼び名として役立つ15)。販売し得る資本での取引きは、過去には知 られておらず、それが企業の最も重要な傾向として前景に出るようになったの は、ただ最近のことである。取引きにおいて究極的な進取の精神と慎重さが現 14) 例えば、ワトキング氏(Mr. Watkins)でさえ(上に引用したように)、これらの利得を表面的 な一般化により「空論的」とみなし、したがって、利得の性格と、利得が生じる種類の企業の結 実をよく知ることから弁解するに至っている。 15) 『営利企業の理論』,第五章,119-130 頁,第六章,162-174 頁を参照。
在のように見られるに至ったのはこのようにしてである。それは同時に、最 も有利な企業は絶対的条件においてのみならず、同じく、当該資産に比較して もそうである。この優れた有利性は、この取引きに含まれる資産は、同時に通 常の取引きにおいて完全な程度に資産と見なされ、したがって、この取引の独 特の利得は、投資された富の稼得以上のボーナスの性質をもったものである。 「それは拾得された貨幣のようなものである」。 上に述べられたように、この優れた事業は販売しうる資本での取引きである。 この権也で得られた富は、通常、資本化された形のものであり、各取引き、あ るいは「取引き量」(“deal”)、すなわち、その利得が生じる大立物ないし「利 害関係者」の利益のために、企業団体の資本化された富からの皇女ないし抜粋 を構成する。その一番近い目的は、他の資本化たちから、そのように利得を得 る人々への資本化された富の移転である。前の所有者からの資本化された富の 移転ないし分離は、通常、資本化がそのように増大した特定の利害関係者に役 立つ(一時的な)利益に基づく名目的資本の増大の結果もたらされる16)。 共同体の総資本化のそのような増加は、資本化がその基礎にある物質的富の それに対応した増加が、もちろん、実際、資本化された富の総量の再分配を含 まないならば、そしてまた、この再分配において大財産家は利得を得る位置に ある。問題の利得は、分かることになろうが、企業社会から、投資された富か ら出てき、企業社会がその所得を引き出す全体としての共同体から遠くただ間 接的にのみである。したがって、これらの利得は平凡を企業への税であり、大 いに同じ様に、また平凡な企業の利得(通常の利潤と利子)は、産業への税で あるのと大いに同じような結果をもつ17)。 産業社会の技術効率を独占する旧式の資本化的雇用者に類似したやり方で、 現代の資本主義的大立物は、企業社会の資本化的雇用者の効率を独占している。 16) 『営利企業の理論』119-170 頁の脚注を参照。 17) この論文の先の部分における議論の成り行きから明らかであるように、これに関連した「租税」、 「控除」、「分離」という言葉の使用は、そのように特色を記述する現象の是認ないし否認を意味 するとはとれない。これらの言葉は、一方では企業利得の源泉を記述し、客観的に産業と通常の 資本主義的実業とのやり取りの関係を、他方では、より高度な面での通常の取引きと、この営利 企業との関係を特徴づけるよりよい用語がないために用いられているのである。
この資本主義的効率は、物的設備の所有権の力により、適切な取引きにより、 産業社会に、産業社会の生計以上の生産物の余剰を、物的設備の所有者に渡さ れる。資本化的雇用者の財産は、市場の動き、有利な「購買」と「販売」の場 合 に密接に依存しており、さらに、それは独占、のれん、法的特権とその 他それに類似したもの 無形資産に関するあるものを市場である独特の度合 いの有利さを彼自身に作り出そうと絶えず努力することである。しかし、金銭 的大立物がこうした概念に真に答える程度に彼は、資本化的雇用者が依存する 市場に幾らかきまっており、その財の有利な購買と販売の場合を作ったり、台 なしにすることが出来る。すなわち、彼は彼に役立つ一定の資本家的雇用者に より強い有される独特の有利さを作るか、あるいは、台無しに出来る位置にあ る。彼はその重さをある点の投資から別き点に、それぞれの投資傾向の相対的 効率として、それが彼の目的にかなうものである限り、彼はこれを資本全体の 大きな保有の力によって行ない、その重点をある投資点から別の投資点に、相 対的効率 稼得能力 として移動させ得る効果が有利であり、この種のど の動きも、それが彼の目的にかなったものである限り、彼は当刻の投資された 富の一部分に割り込み、それによって、彼は、与えられた商品がもつ資本の稼 得力の部分を要求する。つまり、彼が金銭的大立物であり、単に資本家的雇用 者ではい程度に従い、彼は投資した富の資本主義的効率を独占し、共同体の金 銭的主導力と熟達を独占する。したがって、この比較的新たに見つかった、特 に巨額の富のもつ役立ちに応じて、旧式の資本家的雇用者は、彼の随意の主導 力を失い、調停者、搾取と伝達の手助け、全体として共同体から金銭的大立物 らの運送者となり、理想的な場合には、彼に事業を継続させるだけの蓄積され た多額の稼得からの手当金を彼に残すはずである。 全体としての共同体にとっては、その産業効率はすでに資本化的雇用者の 所有権と物理的設備の監理により事実上、独占されているが、こうした経済状 況の進化における比較的後の段階は、明らかに、本質的結果やあるいは感情的 動揺の問題ではないはずである。明らかに、それは投資から所得を引き出さな い共同体の諸階層の空論的関心以上のものをもつようには思えないであろう。 そうした階層の者は投資から所得を得ていない。とくに、言うほどのものを何
も所有せず、労働者階級自身のものでなくなってしまい、彼らの唯一の依りど ころは事実上彼ら自身のものでなくなったのである。しかし、こうしたことは 今の考え方ではない。この今始まったばかりの資本主義の段階、このより高い 段階の資本主義、より高度な局面での営利企業は、事実上、最も活発な理解力 をもって見られている。びっくり仰天と孤独の困惑のうちに、われわれの地代 の最も勇敢で最も賢明にして、最も公共精神に富み、最も有名な紳士たちは、 雌鳥に、卵からひなが出たあと、巣に座り続けさせようとすることに男らしさ を費やしている。現代の共同体は、昔の分配上の企業原理を吹き込まれてい る。教訓や実例によって、男たちは、(時代遅れの規模と種類の)企業利益は、 ドゥーリ氏(Mr. Dooley)が言うように、文明の守護であり、資本主義的雇用 者 金銭的大立物とは著しく異なって 現存する金銭的所有権の攪乱は、 公共体の福祉を荒廃の共通した苦痛にもたらすであろう。 この古風な資本化雇用者の金銭的生活を救うために提出された経済策の長 所は、もちろん、この研究には関係しない。だが、問題は、ここでは、金銭的 大立物の仕事と、彼の並みはずれた巨大な富が彼に与える所有権は、実際、事 実上経済発展の新しい局面であり、こうした現象は気に入らないほどなじみの ないものであり、また、これらの現象は受け入れてきた制度上の構造をおびや かすに足る結果を生み出すものと感じられる。言いかえれば、企業の新しい局 面 それによって失うとあくまで主張する人々に気にいらない。 より高い局面におけるこの企業の基礎は、産業的事業の与えられた傾向に 投資されたものとは区別され、それは、富が保有者(ないし所有者の結合体)、 すなわち「組織」に十分大きなほどの持株に蓄積された場合に、あるグループ (あるグループの結合体)に賢明な投資によって影響力を与えたり、企業利益 の分枝に影響力を与える。金銭的大立物は、金銭的企業社会とその部分や分岐 がその通常の利得に依存している、金銭的進取の精神と企業機会を友好的に独 占出来なければならない。企業社会の資本のいかに大きな割合が、その与えら れた関係において、その資本主義的効率の有効な独占に必要であるかは、何か 絶対的用語のようなもので答え得ない問題である。満足のゆくはっきりした用 語で答えることは出来ないし、あるいは、満足のゆく明確な用語でさえ答える
ことは不可能である。もちろん、資本の相対的大きな資本部分がそのような目 的に必要であることは明らかである。また、そのように処置された資本の本体 は、投ぜられた資本の大部分ないし大部分に近いもの、少なくとも、この比較 的大きな企業の局面に着手することはない。富豪の持分が大きくなればなるほ ど、またより軽率になればなるほど、より少ない資本家雇用者の持分を吸収す る彼の仕事は、より一層効果的で迅速になり、さらに、後者が新しい請求者に 彼の資産を譲歩するであろう。 明らかに、金銭的大立物のこの仕事は、通常の競争組織のものでは無形資産 の創出に大きく類似したものをもたらす。これは、疑いもなく、その時の資本 主義的企業に最も近い関係の要点である。しかし、既に上に示されたように、 富豪の独特の仕事は無形資産ないし他の資産の創出であるとは言えない。ただ し、通常、彼の策略家たちに含まれる再資本化が含まれる。さらに、彼の利得 は通常、資産、つまり、資本化された形となる。これもまた、上に示されたよ うに、彼の特殊な企業の手段として彼に役立つ富は、この企業に対する、ある いは問題の利得に対する関係にある。なぜなら、この富は既に、普通の事業に おけるある団結した企業に対する資産として徹底的な関係にあり、さらに、利 子と配当というこれに対応したものとの関係にある。もちろん、こうした企業 のより高度な地平での事柄の現存の状態は、ただ一時的でつかの間だけであ り、取って代ることもありそうかも知れないと主張することが出来よう。さら に、取って代わることが出来る安定した状態では、事業全体に対する富豪の関 係はある無形資産の形で資本化されるであろう。そこでは通常の「トラスト」 の独占的役割りを果した過去の状況から引き出された適用不可能な一般化によ り導かれた推測に過ぎないのである。 訳者注 前回の「ソースティン・ヴェブレン「資本の本質について」(『経済学論究』60 巻 3 号、2015 年 12 月)において、2 ヶ所不備な点がありましたので、おわびすると共に、次のように訂正いたします。 94 頁上から 7 行目、「人間共同体の生活史であった。」の次に、「人間生活の現象はこの形でのみ 発生する」を挿入する。また、111 頁の下から 8 行目、「項目下に属する。」の次を以下のように改
める。「経済学上の研究は、もし環境の力に対する人間の反応が本能的および変異的であるとすれば、 そのカテゴリーに属すであろう。しかしその場合には、資本財あるいは資本、あるいは労働の問題は 何ら生じないであろう。そのような諸問題は人間以外の動物との関係では生じない。」