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紫式部から伊勢大輔へ─彰子サロンの文化的継承─

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紫式部から伊勢大輔へ

──彰子サロンの文化的継承──

 

 

 

  はじめに   道長時代の幕開けを印象づける慶賀の月次山水 屏 風らしい長保元 (九 九九 ) 年の彰子入内 屏 風歌の詠者は前代未聞で、花山院をはじめ公 卿 以上の貴紳 で あ る の に 対 し、長 保 三 (一 〇〇 一) 年 東 三 条 院 詮 子 四 十 賀 屏 風 歌 で の 詠 者 は 道長に親近する蔵人 ・ 受領クラスのいわゆる文人貴族によって構成されて いて、左大臣道長の文治政策の反映とも言えるような対照性があり、斬新 な企画性が窺われるのであ る 注1注( 。   特に後者には詠進者として輔親、為時、為義の名が『権記』同年十月八 日条に掲げられているのだが、輔親は伊勢大輔の父神 祇 伯大中臣輔親であ り、為時は紫式部の父前越前守為時で、そして為義は、中宮彰子の第一子 となる敦成親王の乳母に抜擢された讃岐守大江清通の娘 (栄花物語巻八 「は つ は な」 ) で あ る「少 輔 の 乳 母」 (紫 式 部 日 記) の 夫 で、道 長 の 家 司 と な る 左 衛門権佐橘為義である。つまり、のちの彰子サロンを支える女房たちの縁 者たちが既に道長周辺に集められていた訳で、受領家司大江清通と異腹の 兄である大納言兼右大将道綱の娘宰相の君豊子との結婚を含 め 注注注( 、道長はの ちに中宮彰子サロンを支える有能な女房たちの周到な人選を怠らなかった ようである。   本稿は、彰子サロン形成期における道長文化圏の主導性をはかるため、 その牽引役とすべき女房として紫式部と伊勢大輔を招集した上で、その才 能の確認を経て、中宮彰子付き女房の中でも信頼のおける近侍としてその 役割を任じた経緯を検証することからはじめたい。   伊勢大輔「いにしへの」歌の詠作事情   紫 式 部 の 道 長 家 へ の 初 出 仕 は 通 説 で は 寛 弘 二 ・ 三 (一 〇〇 五・ 六) 年 で あ り 注3注( 、 伊 勢 大 輔 は 寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 だ か ら 紫 式 部 は 伊 勢 大 輔 の 先 輩 女 房 で あ っ た こ と に な る が、両 者 の 女 房 出 仕 時 期 が 彰 子 の 入 内 (長 保 元〈九 九九 〉年) や 立 后 (長保二〈一 〇〇 〇〉年) の時期ではないことから、通例の新規おかかえ女房 の場合と異なる、特別な理由があったと察せられる。その両者に関わる周 知の出来事が、のちに定家「小倉百人一首」にも採歌された「いにしへの 奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」 の出典となる 『伊勢大輔集』 (流布本 系 注注注( ) には次のようにある。    女 院 の 中 宮 と 申 し け る 時、内 裏 に お は し ま い し に、奈 良 か ら 僧 都 学苑 ・ 日本文学紀要   第九二七号   一三~三七(二〇一八 ・ 一)

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─ 1注 ─ の 八 重 桜 を 参 ら せ た る に、今 年 の と り 入 れ 人 は 今 参 り ぞ と て 紫 式 部 の 譲 り し に、入 道 殿 聞 か せ 給 ひ て、た だ に は と り 入 れ ぬ も の を とおほせられしかば いにしへの奈良の都の八重桜今日九重に匂ひぬるかな (五) 殿 の 御 前、殿 上 に と り 出 だ さ せ 給 ひ て、上 達 部、君 達 ひ き 連 れ て よろこびにおはしたりしに、院の御返し 九重に匂ふを見れば桜狩り重ねて来たる春かとぞ思ふ (六)   両者の出仕時期の前後関係に関わるのが、引用文中の「今年のとり入れ 人は今参りぞとて紫式部の譲りしに」であって、藤原氏の氏寺である奈良 興福寺からの八重桜献上に際しその取り入れ役を新参の伊勢大輔に紫式部 が 譲 っ た と い う 一 件 で あ る。た だ こ の 本 文 を 解 釈 す る に 当 っ て、 「今 年 の とり入れ人は今参りぞ」との指示はいったい誰が出したのかを問題にして いるようで、古参の上臈女房あたりの指示であったのか、それとも紫式部 自身の発言であったのか、解釈が分かれるようである。   岡 氏 (前 掲 書) は 紫 式 部 の 発 言 と み て い て、式 部 は 今 年 の 取 り 入 れ 役 は 当然自分だと覚悟していたが、機転を利かせて新参の伊勢大輔に譲ったと 解 し た よ う だ。一 方 萩 谷 氏 (前 掲 論 考) は、上 か ら の 指 示 と み て、こ う 言 われた限りは、二人とも新参だから、どちらかが勤めなければならず、式 部はとっさに伊勢大輔に譲って、その役を回避したというのである。もち ろんこの機転は歌才の誉れが高い輔親の娘伊勢大輔の力量を試すことにな り、晴の場でのお披露目は皆の注目を浴びる絶好のデビューの機会であり、 それに成功すれば、歓喜の渦となり、彰子後宮を盛り上げることになる。 結果はまさに的中し、式部の機転も評価されるところとなろう。   岡氏は式部の発言だとすれば伊勢大輔より一、二年先輩だと言い、それ に対し萩谷氏は二人ともに新参だとする説で、いずれにしてもその根拠が 問題となろう。そこで前掲「九重に」歌を所載する『紫式部集』を引くこ とにす る 注注注( 。 う月に、やへさけるさくらのはなを、内にて こゝのへににほふをみればさくらがりかさねてきたるはるのさかりか (一〇三)   『紫 式 部 集』は「九 重 に」歌 を あ く ま で 紫 式 部 の 自 詠 と し て 掲 げ て い る から、前掲『伊勢大輔集』の詞書に「院の御返し」とあったことを鑑みれ ば、当歌は中宮彰子の作詠ではなく式部の代詠であったと見做し得る。ま た詞書に「う月に」とあって、宮中にもたらされた満開の八重桜が季節外 れの初夏に存在することで、歌句に「かさねてきたるはるのさかりか」と 再び訪れた春の盛りを賞揚したのだと知られることになる。しかし、この 「う 月」が こ の ま ま 特 定 で き な け れ ば、こ の 一 件 は 某 年 の 四 月 の 出 来 事 に すぎなくなってしまい、少なくとも伊勢大輔は新参だとするその年が不明 と な っ て し ま う こ と に な り か ね な い が、 『紫 式 部 集』で は「こ ゝ の へ に」 歌に続くのが次の歌となって、その某年が特定できることとなる。 さ く ら の は な の、ま つ り の 日 ま で ち り の こ り た る、つ か ひ の 少 将 のかざしにたまふとて、葉にかく 神世にはありもやしけん山ざくらけふのかざしにをれるためしは (一〇四)   陰暦四月の中の酉の日に行われた賀茂祭の日まで、興福寺から贈られた 山桜の花が散らずに残ったので、それを中宮彰子から「つかひの少将」の 挿頭に賜わり、式部がその桜の葉に歌を書いて贈ったというのである。こ

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の「使の少将」とは中宮彰子がわざわざ桜の挿頭を贈るほど好意を抱く近 し い 関 係 で あ っ た こ と か ら し て、寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 四 月 十 九 日 の 賀 茂 祭 に 祭 使 と し て 近 衛 府 使 を 務 め た 道 長 二 男 の 頼 宗 (高 松 殿 明 子 所 生) で あ っ た と考えられてい る 注注注( 。   つまり、掲出した『紫式部集』の連続する二首が一連の関係を結び、そ れ が ま た 流 布 本『伊 勢 大 輔 集』の 詞 書 に あ る「今 年」が 寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 のことであり、その時「今参り」であったのは、少なくとも伊勢大輔の方 で あ り、彼 女 が 寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 に 中 宮 彰 子 付 き 女 房 と し て 初 出 仕 し た と いう可能性が生じ、それがほぼ確実視されている。一方、紫式部が伊勢大 輔より一、二年先輩であったにせよ、新参ならなおのこと「今年のとり入 れ人は今参りぞ」との発言が式部の口から出たものとすれば、随分と威圧 的な指示で、式部が既にそういう立場であったのか当然疑問となろう。寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 の 時 期 に 紫 式 部 が 中 宮 彰 子 付 き 女 房 と し て、ど の よ う な 立 場にあったのかは『紫式部日記』によって大略窺い知られることになる。   そもそも紫式部の初出仕は『紫式部日記』に次のような記述があって、 考証の始発点となってい る 注注注( 。 師 走 の 二 十 九 日 ま ゐ る。は じ め て ま ゐ り し も 今 宵 の こ と ぞ か し。い み じ く も 夢 路 に ま ど は れ し か な と 思 ひ 出 づ れ ば、 こ よ な く た ち 馴 れ に け る 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 も、う と ま しの身のほどやとおぼゆ。 (一八四頁。傍点筆者、以下同じ)     こ れ は 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 十 二 月 二 十 九 日 の 記 事 で あ り、式 部 の 初 出 仕 が 某年の十二月二十九日であったことが明されていて、新参の当時からすれ ば、宮仕えにも馴れた現況を告白している。もちろん問題は某年が何年な のかということなのだが、中宮彰子が出産のため土御門邸に里下りした寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 七 月 中 旬 以 降 を 描 く『紫 式 部 日 記』に は 作 者 式 部 の 新 参 意 識が余りにも横 溢 していて、従来の説のほとんどがそれに翻弄されている と い う の が 実 状 な の だ。例 え ば、わ ず か 数 ヵ 月 前 の こ と だ が、寛 弘 五 (一 〇 〇八 ) 年 九 月 十 一 日、若 宮 誕 生 の 直 前、古 参 の 上 﨟 女 房 た ち と 次 の 間 に 控 え て い る 式 部 が ふ と も ら す、 「 ま だ 見 た て ま つ り な る る ほ ど な け れ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ど、た ぐ ひなくいみじ」との心境を示すが、この場合前掲傍点箇所との矛盾は、圧 倒的な式部への好遇に対する卑下、謙辞として理会した方が正しいだろ う 注注注( 。 確かに宮仕え当初の式部は『紫式部集』に「はじめて内裏わたりをみるに も、もののあはれなれば/身のうさは心のうちにしたひきていま九重ぞお も ひ み だ る ゝ」 (五 六 番 歌) と、身 の 憂 さ ゆ え に 以 後 里 に 引 き 籠 り、翌 年 の 五月五日ごろまでは里居を続けたらし い 注注注( 。その間に、出仕を促すかのよう に式部に献歌を求める依頼があった。 正 月 十 日 の ほ ど に、 「春 の 歌 た て ま つ れ」と あ り け れ ば、ま だ 出 で 立ちもせぬ隠れ家にて み吉野は春のけしきにかすめどもむすぼゝれたる雪の下草 (五九)   詞 書 に「春 の 歌 た て ま つ れ」と の 下 命 は、 「正 月 十 日」が こ の 年 の 立 春 に当っているからで、式部がいまだ里居であったことも詞書後半に「まだ 出で立ちもせぬ隠れ家にて」とあるから歴然で、加納重文は正月十日が立 春 で あ る の は 寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 で あ る こ と、ま た そ の 前 後 の 年 は 旧 年 中 に 立 春 で あ っ た こ と を 指 摘 し て、式 部 の 初 出 仕 は 前 年 の 寛 弘 三 (一 〇〇 六) 年 十 二月二十九日であることを明らかにしたのであっ た 注注(注( 。   つ ま り、紫 式 部 は 寛 弘 三 (一 〇〇 六) 年 十 二 月 二 十 九 日 の 初 お 目 見 え 以 後、 宮 中 (一 条 院 内 裏) に 出 仕 し た の か、そ れ と も い ま だ 出 仕 せ ず に 里 居 状 態

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─ 1注 ─ であったのか、 『紫式部集』 の記事から再検討をしてみても、 寛弘四 (一 〇〇 七) 年 四 月 の 所 在 を 確 認 し 難 い こ と に な り、 『紫 式 部 集』所 載 歌 の 年 次 配 列 や 前後関係を無視して、 『伊勢大輔集』との年次関係を整合すべく考えると、 場 合 に よ っ て は、重 松 信 弘 の 如 く 山 桜 の 歌 (一 〇 四) が 作 ら れ た 年 が 寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 四 月 な ら ば、八 重 桜 の 一 首 (一 〇 三) は 翌 年 の 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年四月に作られたのだとするような見解も出てくることにな る 注注注注( 。しかし、 それも言うまでもなく、山桜にしろ八重桜にしろ四月中旬まで花が散り残 る の は 極 め て 珍 ら し い 事 例 (加 納) に 違 い な か ろ う か ら、安 易 な 辻 褄 合 わ せは無理というものであろ う 注注(注( 。   た だ そ れ に し て も 式 部 は 寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 の 正 月 か ら 五 月 に 至 る ま で 一 度も出仕せずにずっと里居を通したのであろうか。余りにも長期間に亘る 欠勤状態の持続といえないだろうか。 「正月十日」 の詞書を記す 「み吉野の」 歌の次の歌にはこうある。 やよひばかりに、宮の弁のおもと、 「いつか参りたまふ」など かきて 憂きことを思ひみだれて青柳のいとひさしくもなりにけるかな (六〇) 返し つれ〴〵とながめふる日は青柳のいとゞ憂き世にみだれてぞふる (六一)   式部を心配した「宮の弁のおもと」が「いつか参りたまふ」との打診で、 その下句「いとひさしくもなりにけるかな」を「正月十日」からでもこの 詞書に「やよひばかりに」とあり約二ヵ月ほどの音信不通の出仕拒否を貫 いていると見做せる訳だが、 その初句の 「憂きこと」 に関して笹川 『全釈』 は、南 波『全 評 釈 注注(注( 』の 指 摘 を 受 け、 「何 ら か の 具 体 的 な 事 柄、事 件 が あ っ たと考えるべき」とし、また伊藤博が『新体系』の校注に記す「宮仕えに 出て、何か対人関係でいやな事があったのだろ う 注注(注( 」との見解に賛した上で、 笹 川 氏 は「何 か、 「宮 の 弁 の お も と」が 同 情 す る よ う な、紫 式 部 が ひ ど く 自尊心を傷つけられ、三ヵ月に渡って里居を続けるぐらいのひどい事件が 初 出 仕 直 後 に 起 こ っ て い た の で あ る。 」と す る。こ の「憂 き こ と」が 具 体 的に何を指すのか不明だけれども、前掲五六番歌の内発的な「身のうさ」 とは異なる「憂きこと」の発生を認知するための考証であったはずで、そ れを年末の慌しい十二月二十九日のお目見え直後の出来事としたり、前掲 五九番歌の詞書「正月十日のほど」に続く「 まだ出で立ちもせぬ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 隠れ家に て」を無視して、この不快な出来事を想定して年初から長期間の里居を続 けていたとする判断は妥当な推定とは言えまい。   な ぜ な ら、 「正 月 十 日 の ほ ど」か ら 六 〇 番 歌 詞 書「や よ ひ ば か り に」ま での二ヵ月程の期間に数日間の出仕をも排除してしまう根拠はどこにもな いから、そうした数日間の絶え間がちな出仕があって、そうした折に「憂 きこと」となり得る出来事が、他の女房たちとの間に起こったと考えるべ きではなかろうか。わざわざ「宮の弁のおもと」が式部を気遣って便りを 寄 せ た と い う の も、 「弁 の お も と」と そ う し た 折 に で も 知 己 を 得 た と 想 定 し た 方 が 良 か ろ う し、お そ ら く 不 快 な 出 来 事 の 実 態 は、 『源 氏 物 語』作 者 として中宮彰子に巧みに取り入る式部への反感や聞こえよがしの侮蔑の雑 言などの類であったろう。それに対し温厚で有能な「弁のおもと」が慰め のことばを式部にかけたのがこの贈歌のきっかけとなったのではないかと 憶 測 す る。因 み に 南 波 氏 は「 『紫 式 部 日 記』に は 中 宮 の 女 房 と し て の「弁 の内侍」 の名が六箇所 (七例) 見られ、 おそらく、 この 「宮の弁のおもと」 と 同 一 人 で あ ろ う」と 述 べ る が、 『紫 式 部 日 記』に「弁 の 宰 相 の 君」と の

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呼称で記されることもある道綱女豊子の可能性があると思われる。もちろ ん式部との親交は深く、 内侍より仲の良い関係にあることが 『紫式部日記』 から知られるのであ る 注注(注( 。   と こ ろ で、 『紫 式 部 日 記』に は 中 宮 彰 子 と 内 密 な 時 間 を 過 ご す 式 部 の 姿 が書きとめられている。 宮 の、御 前 に て、文 集 の と こ ろ ど こ ろ 読 ま せ た ま ひ な ど し て、さ る さ ま の こ と 知 ろ し め さ ま ほ し げ に お ぼ い た り し か ば、い と し の び て、人 の さ ぶ ら は ぬ も の の ひ ま ひ ま に、 を と と し の 夏 ご ろ よ り 、楽 府 と い ふ 書 二 巻 を ぞ、し ど け な な が ら 教 へ た て き こ え さ せ て は べ る、隠 し は べ り。宮 も し の び さ せ た ま ひ し か ど、殿 も う ち も け し き を 知 ら せ た ま ひ て、御 書 ど も を め で た う 書 か せ た まひてぞ、殿はたてまつらせたまふ。 (二〇九~二一〇頁、傍線筆者、以下同じ)     中宮彰子が『白氏文集』に関心を寄せるようになったきっかけを考えて み る に、お そ ら く『源 氏 物 語』 (夕 顔 巻 な ど か) に 触 発 さ れ て の こ と で あ ろ うし、その享受が式部を急接近させる誘因となっていたのであろう。   この記事は、実録的日記部ではなくいわゆる消息文といわれる箇所で、 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 に 相 当 す る が、 『日 記』執 筆 後 の 処 理 と も 考 え ら れ な く はないので、 ひとまず寛弘六 (一 〇〇 九) 年のこととすれば、 傍線部 「をととし」 は 寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 の こ と と な り、そ の「夏 ご ろ」を た と え 五 月 中 旬 以 降 だ と し て も、道 長 や 倫 子 に 知 ら れ る よ う に な り『白 氏 文 集』 「新 楽 府」と 決めて教えるようになったのが五月中旬以降なのだと解すれば、それ以前 に「いとしのびて、人のさぶらはぬもののひまひま」があったはずであり、 そ れ が 四 月 と な れ ば、 『伊 勢 大 輔 集』の 当 該 状 況 を 察 し 易 く な る。そ れ でもいかにも中宮彰子との急な親交との反論が出るのもむしろ当然で、同 じ消息文中の記事に次のようにあるのもその根拠となり得よう。 宮 の 御 前 も、 「い と う ち と け て は 見 え じ と な む 思 ひ し か ど、人 よ り け に む つ ま し う な り に た る こ そ」と、の た ま は す る を り を り は べ り。く せ ぐ せ し く、や さしだち、恥ぢられたてまつる人にも、そばめたてられではべらまし。 (二〇六頁)     近づきにくく、よそよそしく感じられる式部に中宮彰子も最初は「いと うちとけては見えじ」と思ったことからして、後に「人よりけにむつまし う」なったとしても、その間少くとも一年は経過していると見做すべきと の推測の方が穏当であって、初出仕からたかが数ヵ月後、しかも途絶えが ちの宮仕えの状態で、その間に中宮彰子と親密な関係になったとしたら、 中 宮 に 近 侍 す る 上 﨟 女 房 (「恥 ぢ ら れ た て ま つ る 人」 ) に も 反 感 を 抱 か れ か ね ない。いわば、そうした式部の性格や対人関係からして、伊勢大輔より一、 二 年 先 輩 の 宮 仕 え を 主 張 す る 岡 氏 の 寛 弘 二 (一 〇〇 五) 年 十 二 月 二 十 九 日 出 仕 説が成り立ってこよう。   しかし、中宮彰子と紫式部との予想外の急な親密関係は、大方の資料が 示 す と こ ろ と な っ て い る。本 稿 は 式 部 の 初 出 仕 説 で 寛 弘 二 (一 〇〇 五) 年 説 か 寛 弘 三 (一 〇〇 六) 年 説 か の ど ち ら か 一 方 に 決 着 さ せ る こ と を 目 的 と し た 訳 で は な く、た と え 後 者 の 立 場 で あ っ て も、寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 四 月 に 紫 式 部 が 伊勢大輔と会し、その上二人ともが新参である可能性が見出せたと思われ る。たとえ式部が新参であったとしても「今年のとり入れ人は今参りぞ」 と多少威圧的な発言が、この時点で中宮彰子と親密な関係を構築し得てい れば可能となり、たまたま八重桜の取り入れ直前まで式部が『白氏文集』 の一節などを教えるため、ひそかに中宮彰子に近侍していて、これが慣例

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─ 1注 ─ 行事であることを告げられ、中宮の内意を受けてこうした発言に及んでい たのだとも推察できよう。もちろんこの発言は新参の式部にとっては無礼 であり慎むべきであったろうし、上﨟女房に反感を抱かれる行為であろう ことは間違いなかろう。しかし、新参の伊勢大輔が取り入れ役を式部から 譲られたことで、和歌の家を継ぐ歌人としての力量を晴の場で披露し得た ことは、いかにも光栄な出来事であったらしく、後年、後冷泉天皇皇后四 条宮寛子から「昔の八重桜」として賜わって、伊勢大輔が「面影は見しに 変 は ら で 八 重 桜 色 は 昔 に 匂 ひ 増 し け り」 (九 一) と 返 歌 し て い る こ と で、 数 十 年 後 ま で 記 憶 さ れ た 栄 え あ る 出 来 事 で あ っ て、 「い に し へ の」歌 が い かに当時世に喧伝されていたのかが窺い知られる (久保木) のである。 また、 そ れ は 紫 式 部 の 寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 四 月 の 時 点 で の 所 在 証 明 で あ る と と も に、 代詠を含めて中宮彰子に近侍する式部の機転や演出のたまものであったと 言うことができよう。   ところで、実は本稿の論点はこれからであって、八重桜取り入れの場か ら紫式部を消し去ってしまう異本『伊勢大輔集』の存在を俎上にしなけれ ばならな い 注注(注( 。    院 の 中 宮 と 申 し て 内 に お は し ま し し と き、奈 良 よ り 扶 ふ 公 こう 僧 都 と い ふ 人 の 八 重 桜 を 参 ら せ た り し に、こ れ は 年 ご と に さ ぶ ら ふ 人 々 た だには過ごさぬを、今年は返り事せよと仰せごとありしかば いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな (一四) 院の御返し 九重ににほふをみれば桜がりかさねてきたる春かとぞ見る (一五)   詞書をいっけんして知られるように紫式部の姿は消滅して、奈良興福寺 の僧都扶公の実名が記されるが、だからと言ってこの場の意義が深まるわ けではなく、むしろ流布本と比較して式部の不在は躍動感に乏しい場面と なっている。   この流布本との本文異同を虚構として認識しようとしたのが吉海直人 で 注注(注( 、 仮にこれが物語の伝本ならば当然の発想なのだが、同一事象に対する作者 の視点が異なる私家集間の異同さえも虚構の問題として捉えようとしたと ころが後藤祥子の反論を招いたといえよう か 注注(注( 。さらに後藤氏はここから伝 本 間 の 性 格 づ け を 試 み、流 布 本 (Ⅰ 類 本) が 年 代 順 配 列 を 心 が け 自 伝 的 性 格 の 濃 い 本 と す る の に 対 し、異 本 (Ⅱ 類 本) は「四 季 ・ 恋 ・ 雑 の い わ ば 勅 撰 集に準じた部類仕立てで、公的性格の強いもの」とする。ただこの場合、 紫式部の存在の有無が『伊勢大輔集』の伝本間にこのような差を生じさせ る根拠とはなり得ないのではなかろうか。つまり、問題の核心は別の箇所 にあるのではあるまいか。   というのも、異本の詞書では「今年は返りごとせよと仰せごとあり」の 主 体 は 中 宮 彰 子 と な り、 「院 の 御 返 し」も 伊 勢 大 輔 の「い に し へ の」歌 へ の返歌となってしまうのではない か 注注(注( 。そうとなれば、異本は中宮と伊勢大 輔 と の 親 近 性 を 誇 張 す る こ と に な り、 「九 重 に」歌 は 決 し て 紫 式 部 の 代 作 であってはならないことになる。さらに重要なことは、当該歌の詠作事情 や年代の決め手は紫式部の欠落以上に、流布本詞書 にある「入道殿聞か せ給ひて」 とある道長の存在の有無にあって、 「ただにはとり入れぬものを」 の発話主体は道長であり、以下の展開も道長の主導によるところとなり、 の「院の御返し」の対象も詞書の省略により異なってこよう。   と こ ろ が、後 藤 氏 は 紫 式 部 の 存 在 の 有 無 だ け を 問 題 と し な が ら も、 「い にしへの」 歌と 「九重に」 歌との関連を以下のように的確に読み解いていた。

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中宮彰子の歌とされる 「九重に」 の歌は 「いにしへの」 に対する返歌ではなく、 道 長 の 後 宮 自 慢 に 応 え て ぞ ろ ぞ ろ と 殿 上 か ら 慶 賀 の 意 を 述 べ に 来 た 上 人 や 公 達 に 対 し て、女 主 人 で あ る 彰 子 が 挨 拶 を 述 べ た も の で、そ う い う 文 脈 に 置 い て み る と、 「重 ね て 来 た る 春」は「殿 上 人 ・ 公 達」の 来 訪 を 指 す に 他 な ら な い。 八 重 桜 献 上 へ の 伊 勢 大 輔 の 名 歌 に 対 し て、殿 上 人 た ち が 賑 々 し く 祝 賀 を 述 べ に 群 を な し て や っ て き た こ と を、花 盛 り の 季 節 の 桜 狩 り の 群 に 見 立 て、答 礼 を述べたのが当該歌なのであった。   二〇歳の中宮彰子のサロン形成期において、父左大臣道長の深慮によっ て地味で華やかさに欠ける彰子後宮に有能な女房たちを集め何とか盛り上 げようとする中で、この八重桜献上の一件は絶好の機会であったに違いな かろう。 折も折今参りの伊勢大輔の存在は願ったり叶ったりで、 道長は 「た だにはとり入れぬものを」と返礼の詠歌を要求したところ、紫式部の機転 もあって伊勢大輔は期待通りに「いにしへの」歌を詠んだのである。しか も道長はそれにとどまらず八重桜を殿上の間に取り出して、上達部や公達 を彰子後宮へと誘導させたのであった。   た だ「九 重 に」歌 の 第 三 句「桜 が り」に「桜 狩 り」を 当 て、 「か さ ね て きたる」を上達部たちが賑々しく来訪した様を花盛りの季節の桜狩りの群 に 見 立 て た 後 藤 説 を、 『伊 勢 大 輔 集』の 詞 書 本 文 で は 献 上 さ れ た 八 重 桜 が 季節外れの遅桜であることが知られないところで成り立つ読解として批判 す る 笹 川『全 釈』 (二 九 七 ~ 三 〇 一 頁) は、 「桜 狩 り」の 語 が 平 安 中 期 に 成 立していたかどうか疑わしいとし、 「桜のところへ」ないし「桜のもとに」 と解し、春の盛りがもう一度めぐってきたと理会すべきとの考証を示すか ら、両歌の関係やその趣旨についてなお考えなければならない点はあろう。 しかし、少なくとも『紫式部集』の視点が詞書に「う月に」と明記するこ とで、季節外れの遅桜であることだけに焦点を絞っているとの笹川氏の指 摘は、私家集間での作者の視点の相違をいう本来の後藤氏の疑義に対する 一 つ の 回 答 と も な っ て い る と 考 え ら れ る。 『伊 勢 大 輔 集』の 各 伝 本 間 に 内 在する問題を焦点化するものとして、当該歌に関する流布本と異本との詞 書の相違が紫式部の有無にのみ従来の視点では注がれていて、かんじんの 彰子後宮運営に関わる道長の詞書での欠落を見過ごしたまま議論がすすめ られてきた一面もあったのではないかという危惧を表明しておきたい。   歌人紫式部の矜持   伊勢大輔「いにしへの」歌にまつわる伝承は後代資料の一つ『古本説話 集』上巻「伊勢大輔歌事」では次のようにあ る 注((注( 。 い よ 〳〵 心 ば せ す ぐ れ て、め で た き も の に て さ ぶ ら ふ ほ ど に、伊 勢 大 輔 ま い り ぬ。そ れ も 歌 読 み の 筋 な れ ば、殿 い み じ う も て な さ せ 給。奈 良 よ り、年 に 一 度、八 重 桜 を 折 り て 持 て 参 る を、紫 式 部 取 り 次 ぎ て 参 ら せ な ど、歌 読 み け る に、式 部、 「今 年 は 大 輔 に 譲 り 候 は む」と て、譲 り け れ ば、取 り 次 ぎ て 参 ら するに、殿、 「遅し〳〵」と仰せらるゝ御声につきて、 いにしへの奈良の宮この八重桜今日九重に匂ひぬるかな 「取 り 次 ぎ つ る ほ ど 〳〵 も な か り つ る に、い つ の 間 に 思 ひ つ ゞ け け む」と、人 も思ふ、殿もおぼしめしたり。 (四一六~七頁)     右『古 本 説 話 集』は 紫 式 部 の 存 在 を 確 保 す る 彰 考 館 本 系 統 (流 布 本) に 典拠しているとする前掲吉海論考は、 紫式部の登場しない 『袋草紙』 (上巻、 雑 談) は 書 陵 部 本 系 統 (異 本) を 典 拠 資 料 と し て い る と す る か ら、そ の 清

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─ 注0 ─ 輔『袋草紙』をも引いておく と 注(注注( 、 伊 勢 大 輔、上 東 門 院 の 中 宮 と 申 す 時、初 め て 参 れ り。輔 親 の 娘 な り。歌 読 む ら ん と 心 に く く 思 おぼ し 食 め す 間 に、八 重 桜 を あ る 人 進 たてまつ る。御 堂 御 前 に 御 おは 座 しま す 時、 件 くだん の 花 の 枝 を 大 輔 が 許 もと へ さ し つ か は し て、御 硯 の 上 に 檀 だん 紙 を 置 き、同 じ く さ し つ か は し た る に、人 々 目 を 属 つ け て い か が 申 す と 見 あ へ る に、と ば か り 有 り て 硯 ひ き よ せ て、墨 を と り あ げ 静 か に お し す り て、歌 を 書 き て こ れ を 進 る。 御堂とりて御覧ずるに、誠にきよげにかきたり。 古へのならのみやこの八重ざくら── 殿 を 始 め 奉 り て、万 人 感 歎 し、宮 中 鼓 動 す と 云 々。ま た、か の 人 の 第 一 の 歌 なり。卒爾にも寄らざる事か。 (一二八頁)   と な り、紫 式 部 の 影 が 全 く 見 え ず (後 藤) な ど と い う 次 元 の 変 容 で は な く、 異本『伊勢大輔集』とは逆に道長の関与が増幅して、中宮彰子を度外視し ての伊勢大輔への詠歌要請場面となっている。   そもそも異本『伊勢大輔集』は詞書に「院の御返し」などとあるばかり で、道 長 の 影 さ え 全 く 見 え な い の だ か ら、 『袋 草 紙』が 異 本 を 典 拠 資 料 に し て い る な ど と い う 根 拠 は 全 く 成 り 立 ち 得 よ う も な い。 『袋 草 紙』は 和 歌 の家の出自である伊勢大輔に硯と紙とを用意してまで和歌を催促する道長 の段取りにみごとに応えて秀歌を詠んだという後代説話にすぎない。それ で も 道 長 の 関 与 を い う な ら ば 、注 目 す べ き は『 古 本 説 話 集 』の 「 殿 、「 遅 し 〳 〵 」 と仰せらるゝ御声につきて」の箇所であろう。   菊 地 仁 は 前 掲『古 本 説 話 集』 「伊 勢 大 輔 歌 事」と ほ ぼ 同 文 を 掲 げ る『世 継物語』を示しながら「遅し〳〵」の表現を和歌の頓作説話の系譜上に位 置 づ け よ う と し て い る 注((注( 。そ れ は『栄 花 物 語』 (巻 三、さ ま ざ ま の よ ろ こ び) に お い て、永 延 二 (九 八八 ) 年 十 一 月、賀 茂 臨 時 祭 の 還 立 で、摂 政 兼 家 が 盃 を賜わった舞人源兼澄に祝歌を所望した際、一首を句を次いで捻出すよう に順次詠みつづけていく途中に、興じた兼家が「おそしおそし」とその次 の 句 を 催 促 し た 逸 話 が『袋 草 紙』 (上 巻) に も 所 載 さ れ て い る の だ が、一 句ごとの停滞につけ、三度の「責められ」が使用されていることと同一視 し て、 『栄 花 物 語』が 伝 え る 摂 政 兼 家 か ら の「お そ し お そ し」と い う 催 促 にほかならないとした。   し か し、重 要 な の は『古 本 説 話 集』 「伊 勢 大 輔 歌 事」の「遅 し 〳〵」は 伊勢大輔の歌才への熱い期待表出であり、またその期待通りに秀歌を詠出 し得たことへの感嘆を示す言辞を忘れてはいないことである。 つまり、 『栄 花 物 語』 『袋 草 紙』の 兼 澄 の 一 件 で は、摂 政 兼 家 が 褒 賞 と し て 着 て い た 衣 を授けていることで知られるにしても、それはその結果に対する賛嘆や褒 賞 で あ っ て、 『古 本 説 話 集』に お け る「取 り 次 ぎ つ る ほ ど 〳〵 も な か り つ るに、いつの間に思ひつゞけけ む 注((注( 」と、詠進の即応性に関わる感嘆の文辞 を設置する講釈は、 『袋草紙』 引用文中の 「とばかり有りて (硯ひきよせて) 」 と の 趣 旨 と は 明 ら か に 相 違 し て い る と 見 な け れ ば な る ま い。 「遅 し 〳〵」 を 表 出 す る 説 話 を 当 座 の 機 智 に よ る 即 詠 説 話 (菊 地) と い う 系 譜 上 に 位 置 づける場合も慎重な見極めが必要となろう。それにしても『伊勢大輔集』 諸本には道長の「遅し〳〵」と記された伝本が一つもないのだから、秀歌 を即詠説話化するための脚色と見られなくはない。   ところで、和歌の即詠性に関わる作法としては『枕草子』にも周知の逸 話が書きとめられている。当時の歌壇の第一人者である藤原公任が雪の散 らつく二月末ごろに、上の局に中宮定子の供をしていた清少納言のもとへ、 懐紙に「すこし春ある心地こそすれ」と書いて主殿司にとどけさせたので

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あ る。む ろ ん こ の 上 句 を 詠 め と の 試 み だ が、清 少 納 言 は『白 氏 文 集』 「南 秦雪」の詩句が踏まえられていることを看破して、みごとに上句を付けた というのである。 『枕草子』 (三巻本) 第一〇二段と 『古本説話集』 上巻 「清 少納言事」での連歌の上句を付けた箇所のみに限定して引用してお く 注((注( 。 枕草子 主殿司は、 「とくとく」 と言ふ。 げにおそうさへあらむは、 いと取り所なければ、 「さはれ」とて、 空寒み花にまがへて散る雪に と、わななくわななく書きて取らせて、いかに思ふらむと、わびし。 (二〇九~二一〇頁)   古本説話集 「げ に 今 日 の け し き に い と よ く あ ひ た る を、い か ゞ 付 く べ か ら む」と 思 ひ わ づ らふ。 空冴えて花にまがひて散る雪に と、めでたく書きたり。いみじく褒め給ひけり。 (四一九頁)     両者の歌句の異同は措くとして、前者の『枕草子』では主殿司に「とく と く」と せ か さ れ、 「げ に お そ う さ へ あ ら む は」と 下 手 な の に 加 え て 遅 く なってしまうことを忌避して書くのに対し、 後者の 『古本説話集』 では 「思 ひわづらふ」とあって秀句を付けることに熟考する時間経過を想定でき、 返歌の遅くなってしまうことに無頓着だといえよう。さらに前者に「わな なくわななく書きて」とあるが、後者では「めでたく書きたり」とあるの も、 「め で た く」を 上 句 の 出 来 映 え の 意 味 と 解 せ る に し て も、前 者 と の 対 照からすれば、その書風の流麗をも含めて理会すべきであるのは、伊勢大 輔 の「い に し へ の」歌 の 件 で、 『袋 草 紙』に は「誠 に き よ げ に か き た り」 とあったことに対応し、秀歌への賞賛に加えて即詠の視点ばかりではない 説話化の方向もあり得るのだといえよう。   さて、私家集や説話集において同事象を採録するに当って異なる視点で の説述を確認してきたのだが、紫式部には日記と歌集という執筆及び編纂 意図が異なる二様の実録的形態の著作がある。日記は既に指摘したように 新参女房を盾にして中宮彰子に近づき難いことを装い、虚構性を疑わざる を得ないが、主人道長との関連歌は日記と歌集との重複歌と見做してよい だろう。まず日記冒頭部における土御門邸での道長登場も極めて作為的だ。 煩瑣になるが、歌集と並記させて引用しておく。 紫式部日記 渡 殿 の 戸 口 の 局 に 見 い だ せ ば、ほ の う ち き り た る あ し た の 露 も ま だ 落 ち ぬ に、 殿 あ り か せ た ま ひ て、御 随 身 召 し て、遣 水 は ら は せ た ま ふ。橋 の 南 な る を み な へ し の い み じ う さ か り な る を、一 枝 折 ら せ た ま ひ て、几 帳 の 上 よ り さ し の ぞ か せ た ま へ る 御 さ ま の、い と 恥 づ か し げ な る に、わ が 朝 が ほ の 思 ひ し ら る れ ば、 「 こ れ、お そ く て は わ ろ か ら む 」と の た ま は す る に こ と つ け て、硯 の も とによりぬ。 をみなへしさかりの色を見るからに露のわきける身こそ知らるれ 「 あな疾 」とほほゑみて、硯召しいづ。 白露はわけてもおかじをみなへしこころからにや色の染むらむ (一二五頁)   紫式部集 あ さ ぎ り の を か し き ほ ど に、お ま へ の は な ど も、い ろ 〳〵 に み だ

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─ 注注 ─ れ た る 中 に、を み な へ し、い と さ か り な る を、と の 御 ら ん じ て、 ひ と え だ、を ら せ さ せ た ま ひ て、几 帳 の か み よ り、 「 こ れ、た ゞ に かへすな 」とて、たまはせたり。 をみなへしさかりのいろをみるからにつゆのわきける身こそしらるれ (七六) とかきつけたるを、いとゝく しらつゆはわきてもおかじをみなへしこゝろからにやいろのそむらむ (七七)   日記は彰子の皇子誕生によって道長家の繁栄が政治的に盤石となりいや 増すことを記しとどめる一つの目的をもつが、この女郎花の一枝をめぐる 一介の女房と主人との贈答歌が「わが朝がほの思ひしらるれば」によって、 男女関係の私的なアプローチとも誤解しかねない和歌的ないし物語的空間 を形成しているといえよ う 注((注( 。   萩谷朴が「道長の意志を迎えようとする一種の閨怨にもひとしい式部の 心 情 が 隠 さ れ て い る 注((注( 」と す る の も 道 理 で、 「殿 あ り か せ た ま ひ て」と、式 部の視線は殿道長の動きに釘付だ。 しかし、 「これ、 おそくてはわろからむ」 との道長からの発語が式部の妄想を打ち消し、道長の意図が和歌の所望で あったことにはっと気づかされている。廣田收は「男女間の関係に焦点が 定まっているのではない」 としながらも、 日記と歌集との表現異同を 「殿」 と「私」との関係のあり方の差異として、次のように述べてい る 注((注( 。 『紫 式 部 日 記』は、女 房 と 随 身 た ち の 存 在 を 捉 え う る 位 置 に 視 点 が 据 え ら れ て い る の で あ り、 「殿」と「私」の 歌 は、衆 人 環 視 の 中 で の 唱 和 で あ る。階 層 化 さ れ つ つ、大 勢 の 女 房 に 囲 ま れ な が ら、そ の 一 員 と し て「私」が あ る と い う 位 置、 「私」の 視 線 の う ち に 捉 え ら れ る と い う 視 点 の 据 え 方 は や は り 変 わ ら な い。 『紫 式 部 集』で は、 「殿」は「た ゞ に か へ す な」と い う の で あ り、速 さ よ り も 難 題 を ど の よ う に 解 決 す る か を 試 す も の と し て 表 現 さ れ て い る。だ か ら 「賜 は せ た り」な の で あ る。 「女 郎 花」が 焦 点 化 さ れ、 「殿」と「私」と の 関 係 は あ た か も 一 対 一 の 関 係 で も あ る か の よ う に 浮 か び 上 が ら せ る こ と に お い て、 唱和が成り立っている。 (七七~八頁)     日 記 で は 確 か に 随 身 や 他 の 女 房 の 存 在 を 無 視 し て、 「私」と「殿」と の 関係が成り立っているわけではないが、 だからこそその中で 選ばれた 「私」 が衆人環視の中で 「殿」 の期待に応えて、 「をみなへし」 歌を詠むのであり、 「あ な 疾」と 意 に 叶 っ た 歌 だ か ら、道 長 は ご 満 悦 な の で あ る。一 方、歌 集 の方はそうした場の状況を削ぎ落としているため、 あたかも 「殿」 と 「私」 との関係が一対一でもあるかのように浮かび上がっているのであろう。そ れが廣田氏の言うように「浮かび上がらせる」ということであれば、作為 的に「女郎花」を焦点化し、道長の「しらつゆは」歌に「いとゝく」を付 けたということになろう。   また、この場での道長と式部との間に事実として女郎花の一枝に関して 贈 答 歌 が あ っ た こ と を、日 記 で は「を み な へ し」歌 に 道 長 が「 「あ な 疾」 とほほゑみ」て、その即詠を賞賛しているのに対し、歌集の詞書では道長 歌の方に「いとゝく」を付け、返歌の素早さを指摘していて、それを小町 谷照彦のように二作品間の事実と虚構という問題に還元させるのではな く 注((注( 、 廣 田 氏 は 日 記 と 歌 集 と の 相 互 補 完 的 な 解 釈 を 退 け、 「お ま へ の は な」で あ るところから「をみなへしさかりのいろ」に道長の繁栄よりも「今を時め く 中 宮 注(( 注( 」を 見 出 し、 「 身 み こ そ し ら る れ」が「 皇 み 子 こ ぞ 知 ら る れ」に 転 換 し て い く と す る が、こ の 論 理 は、 『紫 式 部 集』の 存 立 意 義 を 日 記 と は 別 に 確 認 する視座を提供している。

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  しかし、 『紫式部集』の意義はそこにとどまらず、 「これ、たゞにかへす な」との道長の発語が、 『伊勢大輔集』で八重桜の一枝の取り入れに際し、 道 長 か ら 発 せ ら れ た「た だ に は と り 入 れ ぬ も の を」 (前 掲 ) と の 対 照 を 喚 起 せ ず に は い ら れ な い の で あ り、 「殿」と「私」と の 一 対 一 へ の 傾 斜 化 が 公 的 な 祝 歌 か ら そ の 詠 者 を 抽 出 し て、 『伊 勢 大 輔 集』で あ れ ば む し ろ 異 本系 の「九重に」歌の下句「重ねて来たる春かとぞ思ふ」が、彰子付き 女房として有能な紫式部に加えて、さらに伊勢大輔が続いて出仕してきた ことを喜ぶ中宮詠となり得る可能性があろう。   なお 『紫式部集』 「しらつゆは」 歌の道長詠においても、 その下句 「こゝ ろからにやいろのそむらむ」が、公任の道長への撫子献上時の詠歌「にほ ひ う す き 垣 ほ の か げ の な で し こ は 心 か ら に や 色 も ま す ら ん 注(( 注( 」 (傍 線 筆 者) を 踏 ん で い る と す る な ら ば、公 任 が 寛 弘 元 (一 〇〇 四) 年 十 月 二 十 一 日、藤 原 斉 信に位階を越えられて以来、内裏に出仕しない状態であったことをも含ん で、 「しらつゆ」を道長の恩沢、 「をみなへし」を式部とし、道長が式部に 対し長の里居をせずに忠勤に励むよう促したとも解せよう。   ところで、公任と紫式部との接触が知られる『紫式部日記』では彰子第 一 皇 子 敦 成 親 王 誕 生 の 五 日 夜 の 産 養 (道 長 主 催) に お い て 宴 の 終 わ り 近 く、 女房たちにも盃が巡り、祝歌を詠進する機会があったらしい。 紫式部日記 上 達 部、座 を 立 ち て、御 橋 の 上 に ま ゐ り た ま ふ。殿 を は じ め た て ま つ り て、 攤 だ う ち た ま ふ。か み の あ ら そ ひ、い と ま さ な し。歌 ど も あ り。 「女 房、さ か づ き」などあるをり、いかがはいふべきなど、くちぐち思ひこころみる。 めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千代をめぐらめ 「四 条 の 大 納 言 (公 任 ─ 筆 者 注) に さ し い で む ほ ど、歌 を ば さ る も の に て、声 づ か ひ、用 意 い る べ し」な ど、さ さ め き あ ら そ ふ ほ ど に、こ と 多 く て、夜 い た うふけぬればにや、とりわきても 指 さ さでまかでたまふ。 (一四五~六頁)   紫式部集 み や の 御 う ぶ や、い つ か の 夜、月 の ひ か り さ へ こ と に く ま な き、 水 の う へ の は し に、か む だ ち め、と の よ り は じ め た て ま つ り て、 ゑひみだれ、のゝしりたまふ。さか月のをりに、 さしいづ 。 めづらしきひかりさしそふさかづきはもちながらこそ千世をめぐらめ (八六)   式部の「めづらしき」歌は、日記では当夜披露されたのではないらしい の に 対 し 注(注注( 、歌 集 の 詞 書 文 末 に は「さ し い づ」 (傍 線 箇 所) と あ っ て、事 実 に 矛盾が生じている。   この矛盾に関してもさまざまな見解が出されているが、歌集の詞書には 公任の存在はなく、差し出す相手の喪失が期待と不安の混じる思案を無為 にしている実状があったのであろう。原田敦子は「この歌は、おそらく公 任退出後、女房の無念を見てとった道長に指名されて献詠したものであろ うから、 両者の記す事情はそれぞれ誤りではないであろ う 注((注( 。」 とするものの、 日記が公任の動向に視点を置いた叙述は、祝歌を贈るべき相手を取り違え て「ささめきあらそふ」他の女房たちの中で、その落胆を代弁するかのよ うに据え置かれていて、その式部の「めづらしき」歌は拍子抜けで中ぶら りん だ 注((注( 。むろん祝歌の対象を見失った状況を設置しない歌集の「めづらし き」歌は道長の指示に拘らず定位されているのであろう。   ところが、紫式部が彰子の第一皇子誕生の祝宴において、仕える女房の 中で祝賀の和歌を詠進するにあたって 道長によって選ばれた存在 であるこ

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─ 注注 ─ とが明らかになるのは酔った公任に「あなかしこ、このわたりに、わかむ らきさやさぶらふ」とからかわれた五十日の宴の折の出来事であった。 紫式部日記 お そ ろ し か る べ き 夜 の 御 酔 ひ な め り と 見 て、こ と は つ る ま ま に、宰 相 の 君 に いひあはせて、 隠れなむとするに、 東面に、 殿の君達、 宰相の中将など入りて、 さわがしければ、 二人御帳のうしろに居かくれたるを、 とりはらはせたまひて、 二 人 な が ら と ら へ 据 ゑ さ せ た ま へ り。 「 和 歌 ひ と つ づ つ 仕 う ま つ れ 。さ ら ば 許 さむ」とのたまはす。いとはしくおそろしければ聞こゆ。 いかにいかがかぞへやるべき八千歳のあまり久しき君が御代をば 「あ は れ、仕 う ま つ れ る か な」と、ふ た た び ば か り 誦 せ さ せ た ま ひ て、 い と 疾 う のたまはせたる、 あしたづのよはひしあらば君が代の千歳の数もかぞへとりてむ さ ば か り 酔 ひ た ま へ る 御 心 地 に も、お ぼ し け る こ と の さ ま な れ ば、い と あ は れに、ことわりなり。 (一六五~六頁) 紫式部集 御五十日の夜、とのゝうたよめとのたまはすれば いかにいかゞかぞへやるべきやちとせのあまりひさしき君が御世をば (八八) とのゝ御 あしたづのよはひしあらばきみが代のちとせのかずもかぞへとりてむ (八九)   儀礼的な祝歌は定型表現を用いた類型的な詠法を順守するところに、そ の有効性を発揮できると理会されていて、その場の状況を的確におさえた 掛詞も効果的な技巧となってゆく。 この場合は、 式部歌の 「いかに (如何に) 」 が「 五 か 十日 に」を掛けて、若宮の長寿と「君が御代」の繁栄を寿いでいる。 し か も 泥 酔 し て い る 道 長 の 前 で こ と さ ら に 大 仰 な 表 現 (廣 田) を 用 い て 詠 進 し て い る と 察 せ ら れ る。そ れ に も 拘 ら ず、道 長 は ひ ど く 感 嘆 し、 「あ し たづの」歌を「いと疾う」 (傍線箇所) 唱和したのであった。   道長が「いと疾う」応じたことが、即興性を重視する詠法の道長的文化 性に根差してのことだろうが、それが成立するためにはお互いの信頼と、 儀礼 ・ 儀式における非日常的な時空に限らず、詠歌対象への日常的な深い 思いやりの心情が根底にあってのことで、技巧以上に尊重されるべき背景 の存在が日記には叙述されていた。   廣 田 論 考 は 繰 り 返 し「 『紫 式 部 日 記』に 比 べ て『紫 式 部 集』は 殿 と 私 と の対偶に重きを置いている」と説くが、それは詠作事情の状況説明を極力 削 ぎ 落 と し て い る 詞 書 の 表 現 が、 「殿」と「私」と の 一 対 一 の 構 図 を 自 然 と浮かび上がらせているに過ぎないのであって、それは持続的な主従関係 を確保することにはなるが、どのような結び付きのもとにその関係性が成 り立っているのかについては無頓着なのである。両者ともが事実であるに しても、時間的な継起の中で公私の住み分けの温度差という点で、その意 味の重層性や含蓄性の相違は歴然としてこよう。言い換えれば、記録と記 憶の温度差と言うことができる。   ここで再び日記冒頭に据え置かれた式部の 「をみなへし」 歌と道長の 「白 露は」歌の関係を振り返れば、日記と歌集における「あな疾」と「いとゝ く」の位置の逆転は、詠歌の即興性にのみ関わる問題ではなく、 「あな疾」 が式部の歌人としての力量を試し、その信頼性を構築するための道長の行 動であったことが知られ、道長歌の「をみなへし」は多分に式部の出仕を 気遣う心性が読み取られてこよう。   いま五十日の祝宴の余韻の中で、中宮の御帳台の後ろに隠れている宰相

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の君と式部を、わざわざ几帳を取り払い衆人環視の状況を設定して、道長 は祝歌を要望したのである。期待はずれの祝歌を詠進して道長を失望させ 恥 を か か せ る こ と は 許 さ れ な い 状 況 が 形 作 ら れ、 「和 歌 ひ と つ づ つ 仕 う ま つ れ」 (傍 線 箇 所) と の 要 請 に、上 﨟 の 宰 相 の 君 豊 子 を 差 し 置 い て ま で、式 部は「いかにいかが」歌を発する。あくまで道長の信頼を得ての詠出であ っ て、 「和 歌 ひ と つ づ つ 仕 う ま つ れ」は 道 長 の 宰 相 の 君 に 対 す る 顧 慮 が あ っ て の 要 請 で あ ろ う 察 し は、式 部 に は つ い た は ず で、 『紫 式 部 集』陽 明 文 庫本の詞書には「のたまはすれは」以下に「ひけしてあしけれ と 注((注( 」と記さ れ、おそらくこの「ひけ」は卑下で宰相の君に遠慮しての詠進をいうので あろうが、そもそも集の詞書では宰相の君と二人に対して殿が歌よめと言 ったことにはなっていないから、意をなさない謙辞であろう。   ともかく道長と式部との間に、祝賀の儀という晴の舞台で末席に連なる 女房たちの中から選ばれ、唱和を成立させる信頼関係が築かれていて、式 部の 歌人としての存在性 0 0 0 0 0 0 0 0 0 が日記において誇示されているのである。 南波 『全 評釈』が「道長は風雅の遊びを巧みに演出するすぐれた演出者であり、式 部はまた、 そのような演出に巧みに踊ってみせる、 すぐれた演技者であっ」 (四 二 九 頁) た と 評 す る の に 首 肯 さ れ は す る が、日 記 の 目 的 が 彰 子 サ ロ ン の PRだとする説には同調できないでい る 注((注( 。   彰 子 サ ロ ン の 形 成 期 に お い て、 道 長 の 文 化 的 期 待 に そ う 唯 一 の 女 流 歌 人 として式部がそのお眼鏡にかなう存在であることをアピールしているのだ と 言 え よ う。 し か も『源 氏 物 語』 の 作 者 で も あ る と い う 自 負 が 漲 っ て い る。 それは最愛の皇后定子を失って悲嘆に沈む一条天皇と中宮彰子との仲をと り も っ た の が 他 な ら ぬ『源 氏 物 語』 で あ る と い う 自 負 な の で あ ろ う し、 そ の 結果として彰子の第一皇子誕生にようやくこぎつけた父道長の慶賀に参画 できた誉れの証しは、 儀式 ・ 儀礼には取り上げる必要もない一介の女房の祝 歌を、 あえて主人である道長が取り立てていったという仕儀に現れており、 式部は紛れもない物語作者としての功労を自ら書きとどめたのであった。   寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 と い う 彰 子 の 皇 子 誕 生 で よ う や く 道 長 の 外 祖 父 と し て の権力構造の確立に関わる時期において、伊勢大輔が道長周辺で歌人とし て評価され活動する余地は初出仕時の八重桜の一件以来ほぼなかったのか もしれない。   紫式部と伊勢大輔との邂逅   『紫 式 部 日 記』が『枕 草 子』を 意 識 し て い る か ら と い っ て 定 子 皇 后 と 清 少 納 言 の よ う な 和 気 あ い あ い と し た 主 従 関 係 が 描 か れ る こ と は な く、 『紫 式部集』にしても中宮彰子に近侍する女房としての姿が写し出されること はない。式部は中宮に寄り添う影のような存在として代詠を残していて、 それを「女房たる私は、中宮の役割を演じることを課せられている」と説 く の は、廣 田 收 で あ っ た 注((注( 。『紫 式 部 日 記』に も 宮 仕 え 当 初 の こ ろ の 彰 子 を 評 し て「ま だ い と を さ な き ほ ど に お は し ま し て」 (一 九 七 頁) と し、日 記 の 執 筆 時 期 つ ま り 寛 弘 七 (一 〇一 〇) 年 ご ろ に は「い ま は、や う や う お と な び さ せたまふ」 (同) となるのも、彰子が二十三歳になってのことであった。   一方『伊勢大輔集』にしても、中宮彰子に近侍する女房としての大輔の 姿 が 記 さ れ る の は わ ず か で、そ の 中 に 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 初 夏 ご ろ と 思 わ れ る和泉式部の初出仕に際し出迎えたのが大輔で、その詞書に「和泉式部、 院 に 参 り て は じ め た る 夜 あ い し て、も の な ど 言 へ と お ほ せ ら れ し か ば ……」 (二 六 頁) と あ っ て、彰 子 の 指 示 の も と に 対 面 が 実 現 さ れ た。流 布 本『伊勢大輔集』によって、紫式部→伊勢大輔そして伊勢大輔→和泉式部

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─ 注注 ─ へと、初出仕時に当時の才女たちが中宮彰子サロンで女房としてつながっ ていく実態が窺い知られるのは貴重だといえよう。   そこで、八重桜の一件以来、だいぶ後年のこととなるのだが、紫式部と のもう一つの接点が『伊勢大輔集』に記されている。 紫 式 部、清 水 に 籠 り た り し に 参 り あ ひ て、院 の 御 料 に も ろ と も に 御 灯 あかし 奉りしを見て、 樒 しきみ の葉に書きておこせたりし 心ざし君にかかぐるともし火の同じ光にあふがうれしさ (一七) 返し いにしへの契りもうれし君がため同じ光に影を並べて (一八)   紫式部と伊勢大輔とが清水寺で偶然行き合った折の贈答歌である。詞書 に「院の御料」とあり、歌中に「君」とあるのは、二人の主人である彰子 を 指 す の で あ ろ う が、太 皇 太 后 で あ っ た 彰 子 は 万 寿 三 (一 〇二 六) 年 の 正 月 に 出家し、 院号を上東門院とし (左経記) 、以後女院と呼ばれることになる。 『伊 勢大輔集』では詞書に「女院」ないし「院」と記されるけれども、例えば 一三番歌の詞書 「三条院御時、 院の里におはしましし時……」 (二九頁) と あ っ て も、三 条 天 皇 在 世 中 の こ と で あ る か ら、寛 弘 八 (一 〇一 一) 年 十 月 即 位 か ら 長 和 五 (一 〇一 六) 年 一 月 譲 位 ま で の 期 間 で あ り、彰 子 は 中 宮 か ら 皇 太 后 へ寛弘九 (一 〇一 二) 年二月十四日に転上 (日本紀略) しているし、この「里」 は 一 条 院 崩 御 (寛 弘 八〈一 〇一 一〉年 六 月 二 十 二 日) 以 後 移 っ た 枇 杷 殿 で あ る。 一三番歌詞書は彰子がいまだ皇太后であったにも拘らず「院」と記してい る。つまり、伊勢大輔より高齢な紫式部が当該歌の詞書からすれば、枇杷 殿に共に移っているようでもないし、そうとすれば彰子付きの女房を式部 はこの時既に退いていたことになり、その進退を含めた動向が気になると ころである。   『紫 式 部 集』終 末 部 に は 長 和 二 (一 〇一 三) 年、身 の 憂 さ を 分 か ち あ え た 同 僚であり親友であった小少将君の死を悼む歌が残されていて、それが彰子 付き女房としての立場上の区切りとも思われ、当該清水参籠時の伊勢大輔 との贈答歌もそうした年代に位置づけられており、今井源衛は道長に批判 的 な 立 場 を と る 小 野 宮 実 資 と 内 通 し た と の 嫌 疑 で 長 和 二 (一 〇一 三) 年 の 秋 の 末から初冬のころ、紫式部は宮廷から追放されたのではないかと推測した のであっ た 注((注( 。しかし、この紫式部宮廷追放説に関しては痛烈な反論が角田 文 注(( 注( 衞や河内山清 彦 注((注( にあって否定され得るに至っている。それにしても実資 と 皇 太 后 彰 子 と の 取 り 次 ぎ 役 を 果 た し て い た 紫 式 部 が 寛 仁 三 (一 〇一 九) 年 正 月 五 日 (小 右 記) に 再 び そ の 姿 を 現 わ す ま で 約 五 年 間 に 及 ぶ 長 期 不 在 の 理 由が解き明かされたわけではなかったのである。   彰子と父道長との間に意思疎通が困難となり、しばしば対立することに なったのは、定子所生敦康親王の立太子の件であった。そういう状況下で、 実弟頼通と図って猶子敦康親王を具平親王女 (頼通正妻隆姫の妹) と長和二 (一 〇一 三) 年 十 二 月 十 日 (御 堂 関 白 記) に 結 婚 さ せ た。当 然 敦 康 親 王 が 立 太 子し、将来即位することになれば、その正室は后となるはずだから、紫式 部は将来の后教育を彰子から委ねられて、具平親王女付きの女房として出 向を命じられていたため長の不在となっていたのではないかと愚考したの であっ た 注((注( 。   地味で内気な彰子がもの言う后へと変貌していたのが確認できるのは、 『小 右 記』長 和 二 (一 〇一 三) 年 二 月 二 十 五 日 条 で、度 々 の 饗 宴 を「益 悪 事」 として停止させた皇太后彰子を実資は「可申賢后、有感々々」と称えてい る こ と で も 知 ら れ る。こ う し て 彰 子 周 辺 に 変 化 が 起 き る 長 和 二 (一 〇一 三) 年

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という時期の後に皇太后彰子が重篤な病となり病床に臥せっていたことが 知られるのも 『小右記』 の長和三 (一 〇一 四) 年正月二十日条の次の記事である。 皇 太 后 宮 日 来 不 予 之 由 人 々 云 々、仍 黄 昏 参 入、以 二 位 中 将 令 啓 達、被 仰 自 去 十三日悩気御坐由、秉燭後罷出。   当 該 記 事 (掲 出 し た の は 前 半 一 部 の み) に よ っ て 実 資 が 彰 子 の 病 気 見 舞 に 訪 れ た と こ ろ、い つ も の 取 り 次 ぎ に 出 て く る「相 逢 女 房」 (割 注 に 越 後 守 為 時 女) つ ま り 紫 式 部 で は な く、二 位 中 将 頼 宗 が 応 接 し た と い う の で あ る。 彰子の病悩は十三日以来日増しに悪化していったようで、このような時期 に紫式部と伊勢大輔とが、彰子の病気平癒祈願に清水寺参籠で偶然行き合 った時の贈答歌ではなかったのかと岡一男説に従って推察したいのであ る 注(注注( 。 ただ贈答歌自体の内容は彰子のための祈願というよりも親身に仕える女房 同士の絆が表立っているように感じられ る 注((注( 。   和歌的修辞としては仏前に供える 樒 しきみ の葉に書いた式部の贈歌上二句 「 (心 ざ) し 君 きみ 」に 読 み 込 ま れ、そ れ を 受 け た 大 輔 の 返 歌 の 二 ・ 三 句「 (う れ) し 君 きみ 」として対応する技巧的な贈答歌として成り立ち、まず上句に主君彰子 への誠意を表出するのは当然であろう。しかし、この贈答歌を樒を歌に読 み入れた物名歌としてのみ注目するのではなく『源氏物語』との関わりで 理会すべき贈答歌であって、彰子サロンの文化的継承が『源氏物語』を介 して紫式部から伊勢大輔へと引き継がれていることを確認できるのである。   つまり、河内山清彦は若菜下巻において尚侍朧月夜の出家を聞き及んだ 光源氏が恨みの歌を贈ったのに対し、朧月夜は「濃き青鈍の紙にて、 樒 0 に さ し た ま へ る」形 で、 「あ ま 舟 に い か が は 思 ひ お く れ け む 明 石 の 浦 に い さ り せ し 君 0 0 」 注(( 注( (二 六 二 頁) と 末 句「 (い さ り せ) し 君」に〈し き み〉を 織 り 込 ん で返歌している例を挙げた。しかしむしろ清水寺での贈答歌では伊勢大輔 の 答 歌 (一 八) に こ そ 積 極 的 に『源 氏 物 語』の 世 界 に な ぞ ら え 取 り 成 し て いこうとする姿勢が顕著で、その末句「影を並べて」が初音巻冒頭、年頭 の祝賀場面での光源氏と紫の上との唱和に依拠した表現であることを指摘 したのは、中西智子であっ た 注((注( 。まずは初音巻を引用しておこう。 「今朝この人々の戯れかはしつる、 いとうらやましう見えつるを、 上には我 (鏡 餅 ヲ ─ 筆 者 注) 見 せ た て ま つ ら む」と て、乱 れ た る こ と ど も に す こ し う ち ま ぜ つつ、祝ひきこえたまふ。 う (源氏 注 す氷とけぬる池の鏡には世にたぐひなき かげぞならべる げにめでたき御あはひどもなり。 く (紫の上 注 もりなき池の鏡によろづ代をすむべきかげぞしるく見えける 何 ご と に つ け て も、末 遠 き 御 契 り を、あ ら ま ほ し く 聞 こ え か は し た ま ふ。今 日 は 子 の 日 な り け る。げ に 千 年 の 春 を か け て 祝 は ん に、こ と わ り な る 日 な り。 (一四三~一四五頁)   清水寺での紫式部と伊勢大輔との贈答歌で主君彰子のために祈る灯明の 同じ光に照らし出された影を並べる二人の絆の固さと、正月の祝いの席で 二人の深い契りを確認し合う光源氏と紫の上との池の鏡の影とが対応する 連帯性を中西氏は次のように説明している。 物 語 作 者「紫 式 部」か ら の 贈 歌 に 対 す る 伊 勢 大 輔 の 返 し に は、 「し き み」を 用 いて若菜下巻の仏教的雰囲気に初音巻の慶賀の要素を重ねつつ、 家の女房 (中 将 の 君) に よ っ て 千 年 の 長 寿 を 祈 念 さ れ る 源 氏 を 女 ( マ マ 注 院 彰 子 に、ま た 幾 久 し い 契 り に よ っ て 結 ば れ た 源 氏 と 紫 上 と の 仲 を 紫 式 部 と 伊 勢 大 輔 と の 固 い 友 情 に、

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─ 注注 ─ そ れ ぞ れ 置 き 換 え た 複 雑 で 重 層 的 な『源 氏 物 語』引 用 が あ る の で は な い か と 推察されるのである。   彰子サロンに『源氏物語』を共有することで育まれた女房たちの連帯感 が 根 づ い て い る こ と は「影 を 並 べ る」ば か り で は な く、 「同 じ 心」と い う 表現にも託されていることは近年再々論じてきた が 注((注( 、彰子サロンの中核メ ンバーでしかも式部が信任する伊勢大輔が主導的役割を果たし得ることを この返歌で確信したのであろう。続く『伊勢大輔集』一九 ・ 二〇番歌でも、 式 部 は 早 速「松、雪 の 氷 り た り し に つ け」 (詞 書) て、 「奥 山 の 松 葉 に 氷 る 雪 よ り も 我 が 身 世 に ふ る ほ ど ぞ 悲 し き」 (一 九) と た た み か け る。こ れ は 椎本巻において八宮死後の寂寥に耐え忍ぶ姉妹の唱和を踏んで無常の世を 生きる刹那をかみしめ嘆く心境を吐露して、同世代の小少将を亡くしたば かりの哀惜を後輩伊勢大輔と分かちあえる存在との認識のもとに仕掛けた 贈歌ともいえ、上句「奥山の松葉に氷る雪よりも」が中の君詠の「 奥山の 松葉につもる雪 とだに消えにし人を思はましかば/うらやましくぞまたも 降 り そ ふ や。 」 (二 〇 五 頁、傍 線 筆 者) の 上 句 を 採 り 入 れ て、か け が え の な い 友を失って悲傷する式部なのだが、その下句「我が身世にふるほどぞ悲し き」に小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらに わが身よにふる な が め せ し ま に」 (古 今 集、春 下、一 一 三) が 引 か れ て い る の を 指 摘 し た の も 同じく中西智子であった。次のように説明している。 紫 式 部 は「我 が 身 世 に ふ る ほ ど ぞ 悲 し き」と 小 町 詠 に 拠 り つ つ 無 常 を 嘆 じ、 そ こ か ら 伊 勢 大 輔 は 八 宮 お よ び 大 君 の「露 の 命」を 連 想 す る こ と で、贈 り 手 の 思 い を 受 け と め た と 解 釈 で き よ う。両 者 は こ の 機 会 に 互 い を 睦 ま じ い 姉 妹 で あ る 大 君 と 中 君 に 見 立 て、宇 治 の 姉 妹 の 物 語 に 小 町 の「花 の 色 は」詠 の 無 常 観 が 底 流 し て い る こ と を 改 め て 確 認 し た と 思 わ れ る。こ の 贈 答 歌 は『源 氏 物 語』の「作 り 手」側 の 人 々 に よ っ て 物 語 の 内 容 が 捉 え 返 さ れ、二 次 的 な 解 釈が与えられた例として重要である。   椎本巻に限らず総角巻の大君の死をも抱摂する宇治の姉妹物語が対照化 されているとの認識はともかく、一つの場面に限定化する必要のない小町 詠の引用であり、人の命のはかなさを普遍化するからこそ伊勢大輔の返歌 「消 え や す き 露 の 命 に く ら ぶ れ ば げ に と ど こ ほ る 松 の 雪 か な」 (二 〇) が 成 り立っていよう。 それにしても大輔詠の下句 「げにとどこほる松の雪かな」 にどうしても反転させようとする大輔の意識があり、式部の生への執着を 促す訴えとなっている。それは中の君の詠歌に付け加えられた「うらやま しくぞまたも降りそふや」 と照応 し 注((注( 、雪が新しく降り加わることで消え残っ て積っていくように、 松の氷りついた雪にわずかな期待を込めたのだろう。   このように『源氏物語』摂取が伊勢大輔との贈答歌に顕在化しているこ とを確認したが、なお全容については明晰な中西論考に委ねることとして、 大輔の式部への尊崇の念が、しからしめた手法について改めて指摘しなお すことにしたい。というのも既に掲出した清水寺での式部の贈歌は樒の枝 葉につけた手紙に書かれていたわけではなく、樒の葉自体に書かれたもの であった。草木の葉に和歌を書くという行為は、特殊な技能であるはずだ が、 笹川博司 『紫式部集全釈』 (三〇三~四頁) が検索した用例の中にも 『和 泉式部続集』 (七) に樒の葉に書かれた例があるほか、 「竹の葉」 「梶の葉」 「柿 の 下 葉」 「萩 の 下 葉」 「榊 の 葉」 「橘 の 葉」な ど 多 く 例 が 挙 げ ら れ て い る。 それにしても式部にとって稀有な行為でなかったことは、これも既に掲出 済 み だ が、寛 弘 四 (一 〇〇 七) 年 四 月 十 九 日 に 賀 茂 祭 の 勅 使 と な っ た 近 衛 少 将

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