末摘花巻の成立とその波紋
久
下
裕
利
一 はじめに 末摘花巻の冒頭は周知のように「思へどもなほあかざりし夕顔の露に後 れ し 心 地 を、年 月 経 れ ど 思 し 忘 れ ず」 (小 学 館 新 編 全 集 ① 二 六 五 頁) と 亡 き 夕顔追慕を機縁として、開巻する。この言表が、好評を博した夕顔物語を 受け継ぐ宣言とすれば、読者の期待も膨らむ書き出しとなっている。 また一方で、玉鬘系主要人物の出入りの 遮 断はともかくとして、末摘花 巻 に は 紫 の 上 系 の 書 き 出 し と な る 若 紫 巻 と の 連 繋 を 保 つ た め、 「朱 雀 院 の 行 幸、今 日 な む、楽 人、舞 人 定 め ら る べ き よ し」 (① 二 八 五 頁) と あ る の は、 若 紫 巻 の「十 月 に 朱 雀 院 の 行 幸 あ る べ し」 (① 二 三 九 頁) を 受 け、現 行 の 巻 序を破綻させず、紫の上系との融合も計られる記述として特筆できる一項 であろう。さらにこの間に藤壺の宮との密通が予想される「瘧病にわづら ひたまひ、人知れぬもの思ひのまぎれも、御心の暇なきやうにて、春夏過 ぎ ぬ」 (① 二 七 七 頁) や、末 摘 花 巻 巻 末 で の 二 条 院 で 紫 の 君 と 赤 鼻 を め ぐ っ て戯れる光源氏との対座場面は、前巻の若紫巻の内容と緊密な関係を保ち つつ成立している点も見逃すべきではなく、こうした両巻の関連が、成立 論上の紫の上系と玉鬘系との分離以上に強い結びつきをもって成立してい るのをうかがわせているといえよう。それを伊藤博は「末摘花巻が帚木三 帖を承けつつ桐壺系列に合流する志向を有す る 注注 注( 」とする。 つまり、紫の上系と玉鬘系と二系列に分離する構造がありながら若紫巻 と末摘花巻はその境界に対照的に位置するに拘らず、如上のような点から して一体感があり、巻と巻との時期的連続性が保たれていて、それを成立 上、同時期の創作による結果とみても大過はないであろう。 こ の よ う な 理 由 か ら 前 稿「 『源 氏 物 語』成 立 の 真 相 ・ 序 注2 注( 」に お い て 彰 子 付 き 女 房 と し て 道 長 家 に 参 仕 す る こ と に な っ た 寛 弘 二 (一 〇〇 五) 年 十 二 月 二 十九日の初お目見の時に手土産として持参したのが、この「若紫」と「末 摘花」の両巻であったのではないかという推論が導かれていた。 だがそれでは何故、源氏の失敗譚が帚木三帖に続いて、しかも独立した 一巻としてあえて創作され成立したのかを考えてみると、特殊な創作事情 が背後にあってのことだとしたら、その笑止滑稽な内容に鑑みても察しが つくように思われてくる。 二 若紫 ・ 末摘花両巻一体化成立論 前記した若紫巻と末摘花巻とを結びつける関連叙述は、周知の事実であ 学苑 ・ 日本文学紀要 第九三九号 三二〜五五(二〇一九 ・ 一)─ 33 ─ り、これらを根拠にしておそらく玉上琢彌の帚木三帖発表後にその好評を 得て書き継いだのが若紫 ・ 末摘花の両巻であったとする言表となったもの と思われる が 注3 注( 、定かな根拠が示されている訳ではなかった。加えて島津久 基の夕顔→若紫→末摘花をつなげる着想に、白、紫、紅と色彩の連繋を指 摘できる程度にとどめおかれた事項 が 注注 注( 、新間一美によって指摘された「花 の顔」つながりの『遊仙窟』によって確かな脈絡となってき た 注注 注( 。もちろん 白い花の夕顔は「夕暮れの花顔」という意味においても妖狐が美女に化け た 唐 代 伝 奇『任 氏 伝 注注 注( 』や 白 楽 天 の『新 楽 府』 「陵 園 妾」に お け る 花 の よ う に美しい容貌と儚ない運命を担う美女と造型が呼応し合うのは、言うまで もな く 注注 注( 、いかにも物語に底流する漢詩文的素養の開示が人物造型や文脈構 成に脈打っていた証といえよう。 も っ と も 若 紫 巻 に お け る「花 の 顔」は、 「奥 山 の 松 の と ぼ そ を ま れ に あ け て ま だ 見 ぬ 花 の 顔 を 見 る か な」 (① 二 二 一 頁) と 北 山 の 聖 が 詠 む 光 源 氏 賞 賛 の 歌 中 に あ っ て、こ れ は 明 ら か に 光 源 氏 を 指 し て い る。そ し て、 「夕 暮 のいたう霞みたるにまぎれて」のかいま見で紫の君を見出し、その宿縁の 出会いを置き去りにせざるを得ない意中を祖母尼君に伝える源氏の歌「夕 ま ぐ れ ほ の か に 花 の 色 を 見 て け さ は 霞 の 立 ち ぞ わ づ ら ふ」 (① 二 二 二 頁) の 「花」は紫の君であった。 こうして見る、見られるの二者の関係性は夕顔巻においては、白い扇に 書かれていた贈歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」 (① 一 四 〇 頁) の「夕 顔 の 花」が 光 源 氏 の 隠 喩 と な り、そ れ に 対 す る 源 氏 の 返 歌「寄 り て こ そ そ れ か と も 見 め た そ か れ に ほ の ぼ の 見 つ る 花 の 夕 顔」 (① 一 四 一 頁) の「花 の 夕 顔」が 贈 歌 の 女 と い う こ と に な ろ う。新 間 氏 は 次 のように夕顔巻に『任氏伝』の夕暮れ時における妖しい美女出現の投影を み る 注注 注( 。 女 性 夕 顔 の 方 か ら 見 れ ば、夕 暮 に 現 れ た 光 源 氏 の 顔 が「夕 顔」な の で あ り、 妖 狐 に 思 わ れ も す る の で あ っ た。光 源 氏 か ら 見 る と、夕 暮 に 出 現 し た、夕 顔 の 花 の 如 き、或 い は 妖 狐 の 如 き 女 性 が「夕 顔」な の で あ る。お 互 い が 相 手 を 「夕 顔」と 思 う。つ ま り 夕 暮 時 に 出 現 す る 妖 狐 の 如 し と 思 っ て い た の で あ る。 こ れ が 本 稿 冒 頭 に 引 用 し た「何 れ か 狐 な る ら む」と い う 光 源 氏 の 発 言 が 現 れ る所以なのである。 夕暮れ時に妖しく光る花の顔が女性であるとは限らず、光源氏にその比 喩が当てられ表現されることにまず注意しなければなるまい。 さて、紫の君発見が洛外に山桜の咲く仙境として『遊仙窟』的空間でな さ れ、張 文 成 が か い ま 見 た 崔 十 娘 の 虜 に な っ た の も「華 容 婀 娜」 (= 華 はな の 容 かほ 婀 あ 娜 だ と た を や か に し て) で あ っ た こ と に よ る。そ の 十 娘 が 詠 ん だ 詩 に「翠 柳 開 眉 色」 (= 翠 みどり の 柳 は 眉 の 色 を 開 き) と あ る の は、も ち ろ ん 夕 顔 巻 の「白 き 花 ぞ、お の れ ひ と り 笑 み の 眉 ひ ら け た る。 」 (① 一 三 六 頁) に 影 響 す る 表 現 だ ろ う。夕 暮 れ 時、か す か に 見 た 夕 顔 の 花 と 山 桜 の 花 と の 脈 絡 は、 「花 の 顔」を キ ー ワ ー ド と し て『遊 仙 窟』 『任 氏 伝』と い う 漢 詩 文 的 世 界 で つ ながっていた。 一方、末摘花は、前掲したように巻冒頭に「思へどもなほあかざりし」 と亡き夕顔を追慕しその再来を期待して止まない地平から、その脇役の人 物設定も大弐乳母と惟光に次ぐ左衛門の乳母と大輔命婦として源氏の乳母 子 に 恋 の 仲 介 を 委 ね て い る。と こ ろ が、周 知 の よ う に 故 常 陸 宮 の 姫 君 は 「花 の 顔」と は 縁 遠 い 醜 貌 の 女 で あ っ て 源 氏 の 期 待 を 裏 切 る 結 果 と な っ て しまう。しかもその場面形成には「貧」と「寒」をテーマとすべく『白氏
文集』巻二「秦中吟」十首中の「重賦」からの引用が明示的に支えてい た 注注 注( 。 次の場面は、源氏が末摘花の醜い容貌を見顕わした雪の朝、そそくさと帰 る際の情景である。 橘 の 木 の 埋 も れ た る、御 隨 身 召 し て 払 は せ た ま ふ。う ら や み 顔 に、松 の 木 の お の れ 起 き か へ り て さ と こ ぼ る る 雪 も、 名 に た つ 末 の と 見 ゆ る な ど を、い と 深 か ら ず と も、な だ ら か な る ほ ど に あ ひ し ら は む 人 も が な と 見 た ま ふ。御 車 出 づ べ き 門 は ま だ 開 け ざ り け れ ば、鍵 の 預 り 尋 ね 出 で た れ ば、翁 の い と い み じ き ぞ 出 で 来 た る。む す め に や、孫 に や、は し た な る 大 き さ の 女 の、衣 は 雪 に あ ひ て 煤 すす け ま ど ひ、寒 し と 思 へ る 気 色 ふ か う て、あ や し き も の に 火 を た だ ほ の か に 入 れ て 袖 ぐ く み に 持 た り。翁、門 を え 開 け や ら ね ば、寄 り て ひ き 助 くる、いとかたくななり。御供の人寄りてぞ開けつる。 「ふりにける頭の雪を見る人もおとらずぬらす朝の 袖 かな 幼 わか き 者 は 形 蔽 かく れ ず 」と う ち 誦 じ た ま ひ て も、鼻 の 色 に 出 で て い と 寒 し と 見 え つる御面影ふと思ひ出でられて、ほほ笑まれたまふ。 (①二九六〜七頁。太字は久下の所為) 末摘花巻には雪景色と粗末な防寒着に関する言及が多く、三段落に分か れる当該引用場面も、要は最後の段落で源氏の独詠から鼻の先が赤く色づ いて寒そうに見えた末摘花の顔が思い出されて、苦笑する源氏を写し出す という趣向である。 昨夜からの降雪にも関わって導かれた白楽天の諷諭詩「重 賦 注注( 注( 」が、引歌 「名 に 立 つ 末 の」の「わ が 袖 は 名 に 立 つ 末 の 松 山 か 空 よ り 波 の 越 え ぬ 日 は な し」 (後 撰 集 ・ 恋 二、土 佐) か ら「袖」を 橋 渡 し と し て 驚 愕 の 結 末 を 何 と か平静に取り繕うため、 逢 瀬の別れ難い後朝の涙を貧苦への同情の涙にす り替えていくのを助長しているともいえよう。貧寒に喘ぐ民衆を救うべく 為 政 者 に 訴 え る「重 賦」の 一 句「 幼 わか き 者 は 形 蔽 かく れ ず」 (= 幼 者 形 不 レ 蔽) と 朗誦したのは、 「老者体無 レ温」 (=老いたる者は体温きこと無し) を含め、 門 番 の 翁 と 若 き 娘 の 貧 寒 の 状 況 を 叙 し た 上 で、て い ね い に「悲 喘 与 二寒 気 一、 併 入 二鼻 中 一 辛」 (= 悲 喘 寒 気 と と も に、併 せ て 鼻 中 に 入 り て 辛 し) を 導 い た の だと言わざるを得ない。 この場面で光源氏は「重賦」を誦しただけではなく、その精神を継いで、 末摘花邸の人々に衣類を贈り良い庇護者となったとは新間氏の言だが、玉 上琢彌は「何故に、かような貧しい門番をことさらに点綴しなければなら な か っ た の か、理 解 に 苦 し む 注注注 注( 。」と、こ の 場 面 の 意 義 を 問 う て、絵 の た め に必要な物語の場面性に帰して、内奥の反照性に気づかない。 し か し、一 方 で 玉 上 氏 は こ の 場 面 (前 者) と 夕 顔 巻 (後 者) と の 類 似 性 を指摘することを忘れはしなかった。 ① 橘の木の埋もれたる、御隨身召して払はせたまふ。 (隨 身 ニ) 「口 惜 し の 花 の 契 り や、一 房 折 り て ま ゐ れ」と の た ま へ ば、こ の 押 し 上げたる門に入りて折る。 (①一三六頁) ② うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて 白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉ひらけたる。 (①一三六頁) ③ 御車出づべき門はまだ開けざりければ、鍵の預り尋ね出でたれば、 御車入るべき門は鎖したりければ、……鍵を置きまどはしはべりて、 (①一三五 ・ 一三七頁)
─ 3注 ─ ④ 翁 の い と い み じ き ぞ 出 で 来 0 0 0 た る。む す め に や、孫 に や は し た な る 大 き さ の 女 の、衣は雪にあひて 煤 すす けまどひ、…… 黄なる生絹の単袴長く着なしたる童のをかしげなる 出で来 0 0 0 てうち招く。 (①一三六〜七頁。傍点久下) ④は玉上氏が「 「夕顔」の巻は酷暑、この巻は厳寒。 」とするのを、童の 夏の衣服と翁 ・ 娘の冬の衣服との対照で「出で来」た条項として対置した が、場面設営に一連の人物たちの行動が夕顔巻を指向して、しかも昨夜の 風 雪 時 に は「か の 物 に 襲 は れ し を り 思 し 出 で ら れ て」 (① 二 九 一 頁) と、夕 顔を廃院に伴った夜の出来事を源氏に思い出させてもいる。 事 果 て て、雪 明 り の 中 で 見 た 姫 君 の 異 様 な 容 姿 は、 「あ な か た は と 見 ゆ るものは鼻なりけり。 」 (①二九二頁) とその鼻が特筆され、 具体的には 「普 賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて 色 づ き た る こ と、こ と の ほ か に う た て あ り。 」 (同) と あ る。 「普 賢 菩 薩 の 乗 物」と は『観 普 賢 菩 薩 行 法 経』に「普 賢 菩 薩 ハ (略) 化 シ テ 白 象 ニ 乗 ル。 (略) 象 ノ 鼻 ニ 華 有 リ。 (略) 象 ノ 鼻 ハ 紅 ノ 蓮 華 ノ 色 ナ リ。 」と あ り、末 摘 花 の顔の色は雪も負けるほど白い上に、その鼻が高く長く伸びていて、先端 が少し垂れ赤くなっているのだから、それは白象の紅の鼻のようだという のであろう。言ってみれば、夕顔の可憐で美しい「 花 はな の顔」とは真逆の醜 い「 鼻 はな の顔」であったというに他ならない。 源氏はこの末摘花との出 逢 いを忘れようとしても払拭できない後悔の念 で、後日「なつかしき色ともなしに何にこのすゑ つむ 0 0 花を袖にふれけむ」 (① 三 〇 〇 頁。傍 点 久 下) と 詠 ん で い る。こ れ は 若 紫 巻 の 源 氏 詠「手 に 摘 み 0 0 て い つ し か も 見 む 紫 の ね に か よ ひ け る 野 辺 の 若 草」 (① 二 三 九 頁) と 対 照 で き、摘 む 花 の 連 関 と す れ ば、紅 花 (= 末 摘 花) と 紫 草 と も に 染 料 と な る 点 でも共通するが、やはり『遊仙窟』で文成と十娘が仙窟の後園で遊ぶ詩中 に「叢花 四 よも に照り、 紫 を散じ 紅 を翻す」とあり、緑の草木の中で紫の花と 紅の花をともに手折りたい花としても、それが十娘ひとりの象徴なのか、 それとも別の女となるのか、文成が欲張って二人の異なる女を手に入れる ことだとしたら、それは「紫」の女と「紅」の女ということになり、新間 氏の言う通り若紫巻と末摘花巻との対偶性に拠るということになろ う 注注( 注( 。 前記したように末摘花巻巻末には末摘花のもとから二条院にもどった源 氏 が 自 分 の 鼻 に 紅 を つ け て 紫 の 君 と 戯 れ る 場 面 で、 「平 中 が や う に 色 ど り 添 へ た ま ふ な。赤 か ら む は あ へ な む」 (① 三 〇 六 頁) と の 発 話 が み え る。こ れは平中の色好み滑𥡴譚を持ち出し、源氏の失敗を相対化して物語を締め くくろうとの作者の意図であろう。もちろん平中絡みの恋愛失敗譚は、そ の対極に『伊勢物語』の世界があった。紫の君との運命的な出会いとなる 北山、小柴垣でのかいま見から『伊勢物語』の摂取は濃密 で 注注( 注( 、しかも藤壺 との密会の余韻を『伊勢物語』の六十九段を投影して型取るとなると、紫 のゆかりとしての紫の君の存在性が明確に位置づけられることになる。末 摘花との関係はあくまでいまだ幼い紫の君との将来を架けた出会いとの遠 近の中で、点滅するあだ花の一つに過ぎなかったといえよう。 さらに巻末には続けて、 階 はし 隠 がくし の赤く色づいた紅梅の蕾をみて独詠し、苦 笑する光源氏を写し出している。その詠歌「紅の花ぞあやなくうとまる梅 の 立 ち 枝 は な つ か し け れ ど」 (① 三 〇 七 頁) の「紅 の 花 はな 」は 末 摘 花 の 赤 い 鼻 を連想し、 「紅の 鼻 はな 」 注注( 注( であるところから忌避しようとする一方、 「梅の立ち 枝」の「 枝 え 」は「 縁 え 」を 掛 け て、 え に し 4 4 4 に よ る (松 田) 運 命 的 な 紫 の 君 と の 出 会 い と、 「立 つ」に は「現 実 に 顕 在 化 し て 確 か な 存 在 と な る」 (松 田)
行く末を象徴している。また「梅の立ち枝」が「なつかし」を導いている のは、この場面の冒頭に「紫の君、いともうつくしき片生ひにて、紅はか う な つ か し き も あ り け り」 (① 三 〇 五 頁) と あ り、な つ か し き 紅 は、運 命 的 な出会いの場となったかいま見で紫の君の「顔はいと赤くすりなして立て り。 」 (① 二 〇 六 頁) と の 赤 い 頬 の 色 (田 中) を 淵 源 と す る。も し か し た ら 「梅の立ち枝」はこの立ち姿の映像の具象化だったともいえよう。 ただこの混乱する光源氏の感懐を最後の一文となる「かかる人々の末々 い か な り け む。 」 (① 三 〇 七 頁) と ど う 関 わ る の か を 問 う と、 「か か る 人 々」 に は『新 編 全 集』頭 注 (① 三 〇 七 頁) が 指 摘 す る よ う に 紫 の 君 を 除 き 末 摘 花をはじめ帚木系の空蝉や軒端荻などを含めて理会するようだが、ここは ひとまず両巻一体化成立論としては紫の君と末摘花を指しているとしたい。 末摘花巻が若紫巻の〈並び〉との認識は、その概念が不安定なこともあ っ て 注注( 注( 、やはり両巻は紅葉賀巻と花宴巻との関係同様に〈対〉としてその構 造を認識する方 に 注注( 注( 、如上の指摘の結果としては落着しよう。 さ て、寛 弘 二 (一 〇〇 五) 年 十 二 月 二 十 九 日 の 宵 に 至 っ て、紫 式 部 は よ う や く彰子中宮にお目通りした。持参した新作の若紫と末摘花両巻は、十七歳 にしてはいまだ幼い彰子にとって初々しい男女の出会いと笑いを誘う物語 として関心を 魅 ひ く内容であったに違いない。新しい物語の予感に充ちた若 紫巻と女房間で人気のあったらしい夕顔巻の続きを装った末摘花巻は、新 しい享受母体の主人である彰子の期待に充分叶う物語であったろう。 一方、作者である紫式部にとっては、父為時や亡き夫宣孝との遺児賢子 (の ち 大 弐 三 位) と 暮 す か つ て の 名 邸 堤 第 の 一 画 に 閉 じ 込 も っ た 生 活 か ら 一 転して最も華やいだ今をときめく道長家への宮仕えへと一歩踏み出し、新 しい創作基盤に身を置いて女房作家としての試練に立ち向かうことになっ た。桐 壺 巻 は そ う し た 道 長 の 要 請 に 応 え た 最 初 の 巻 と な っ た は ず で、 『源 氏物語』の冒頭に据え置かれることとなる。末摘花巻の位相を確認するた めにも、もうしばらく初期の物語成立過程に執着していくことにする。 三 桐壺巻の成立 『源 氏 物 語』の 起 筆 説 に は 帚 木 巻 な い し 若 紫 巻 が ま ず 最 初 に 書 か れ た 巻 との研究上の成立論議が存するが、それらをことごとく批判して現在ある 桐壺巻の起筆をもって『源氏物語』が成立したことが最も合理的な筋道で あることを力説したのは三宅清であっ た 注注( 注( 。 例えば、桐壺巻巻末の一文「光る君といふ名は、高麗人のめできこえて つ け た て ま つ り け る と ぞ 言 ひ 伝 へ た る と な む。 」 (① 五 〇 頁) を 受 け て、帚 木 巻 の 冒 頭 が「光 る 源 氏、名 の み こ と ご と し う」 (① 五 三 頁) と 始 め ら れ る 呼応はまさに巻と巻との連続性を保持していると言えるのだが、難を言え ば桐壺巻巻末の一文は光る君の名前の由来を明示しているとは言え、後続 となる帚木巻に受け継ぐため意図的に取ってつけたような一文である感は 拭い得ようもない。 逆に帚木巻巻頭の「光る源氏、名のみことごとしう」が短篇の冒頭だと したら成り立ちようがないのかと問えば、十分に成立し得るインパクトで 主人公像の奥深い背景を想像し得る世界が「交野の少将」の例示とともに いっきょに拡がってくるといえよう。前節での論証を否定しかねない危惧 はあるもののあえて言えば、表現上の連結は必ずしも成立順序を確定する 要件とはなり得ない。 だからと言って、武田宗俊のように紫の上系十七帖成立後に帚木系十六 帖が一括後記挿入されたとした場 合 注注( 注( 、その最初の巻である帚木巻の冒頭表
─ 3注 ─ 現が「光源氏、名のみことごとしう」と、既に藤裏葉巻で源氏が准太上天 皇の地位にまで登りつめた後に書き出されているとしたら、いかにも白白 しい陳腐な表現に過ぎなくなってしまうだろう。やはり、この視点には何 かが欠落しているのであり、それは作者の製作意図を物語内部徴証から推 察し、創作基盤や享受母体の相違が二つの系列化とどのような関係性があ るのかを考えてみる必要があるだろう。 桐壺巻が光源氏の誕生とその母桐壺更衣の悲劇的な死を描くことを中心 とする物語だとすれば、その内容が十七歳の中宮彰子に献上する最初の物 語として相応しいかどうかは自明のことであろう。しかも斎藤正昭が指摘 す る よ う に、帚 木 三 帖 の 光 源 氏 に は「 「桐 壺」巻 で 語 ら れ る 両 親 の 悲 恋 の 物 語 を 背 負 っ た 少 年 の 面 影 は 見 え な い 注注( 注( 。」と す る 桐 壺 巻 と の 乖 離 を 重 視 す べきで、光源氏の名称由来に基づく連結を凌ぐ内容上の齟齬が認められる。 斎藤氏は桐壺巻の執筆成立を具平親王家サロン周辺を創作基盤とした帚 木三帖成立後として、若紫 ・ 末摘花両巻の前に置く点が、私説とは異なる に し て も、そ の 執 筆 時 期 に 関 し て は、道 長 家 へ の 初 出 仕 (寛 弘 二〈一 〇〇 五〉 年 十 二 月 二 十 九 日) 以 降 の 約 五 ヵ 月 程 に 及 ぶ 長 い 里 居 に お け る 執 筆 成 立 を 考える点には首肯でき る 注(( 注( 。その期間には、筆者は桐壺巻だけではなく次の 〈対〉となる紅葉賀 ・ 花宴両巻は少なくとも執筆成立したと考えている。 ともかく、桐壺巻は道長の要請による物語製作の 嗃 矢らしく、いかにも 政治戦略的内容をもった物語として、長篇化する『源氏物語』の始発の巻 として据え置かれることとなる。つまり、斎藤氏が、桐壺帝のモデルを一 条天皇、藤壺の宮を彰子中宮、光の君を定子の遺児敦康親王とするのを故 なしとしない。 式 部 出 仕 時 の 寛 弘 二 ・ 三 (一 〇〇 五・ 六) 年 当 時、既 に 彰 子 の も と に は そ の 猶 子となった敦康親王が居たの は 注(注 注( 、円融天皇系と冷泉天皇系との皇統迭立の 場合を考え、万一彰子に男皇子の誕生がない時は円融系の持続のため敦康 を 東 宮 に 擁 立 せ ざ る を 得 な い と の 詮 子 (一 条 母 后 ・ 女 院) ・ 道 長 の 判 断 に よ るのだろうし、目先的にも伊周復権の場合に敦康を取り込み後見役を勤め ておくことが道長にとって政権保持に有利とみての判断であったのだろう。 しかし、当然道長が最も優先すべきは、彰子に男皇子が誕生することで あったから、定子在世中は一条天皇の寵愛をほぼ独占していた定子への嫌 がらせ以外、道長には成す術がなく、如何ともし難い状況が長く続いてい た が 注(( 注( 、今はその遺児敦康が彰子のもとに居ることで、一条天皇の足を藤壺 にむけることができるようになってい た 注(( 注( 。そうかといって、一条天皇の関 心が敦康に会うことばかりで、彰子に好意を抱くことがなければ、せっか くの藤壺への渡御が無駄となってしまいかねない。そこで要請されたのが、 「好 文 の 賢 皇」 (『権 記』長 保 二〈一 〇〇 〇〉年 六 月 二 十 日 条) で あ る 一 条 天 皇 に 対 して、子女の慰で終わらない物語の提供であった。それが『源氏物語』な のである。 『紫式部日記』に次のような場面があ る 注(( 注( 。 内 裏 の う へ の、源 氏 の 物 語 人 に 読 ま せ た ま ひ つ つ 聞 こ し め し け る に、 「こ の 人 は 日 本 紀 を こ そ 読 み た る べ け れ。ま こ と に 才 あ る べ し」と の た ま は せ け る を、…… (二〇八頁) こ の 場 で 女 房 に 読 み 上 げ さ せ て い る 巻 が、 「い づ れ の 御 時 に か」と 始 ま り醍醐 ・ 村上朝を準拠とし、 「長恨歌」 「李夫人」を踏まえる桐壺巻とは特 定し得ないが、一条天皇が、国史に通暁している作者であることを看破す る慧眼の持ち主であったことにむしろ着目したい。さらに天皇の傍には中 宮 彰 子 が 居 る こ と を あ ら た め て 認 識 さ せ た の は 清 水 婦 久 子 で あ り、 『源 氏
物語』がしっかりと二人の仲を取り持っている証左とし た 注(( 注( 。 一条天皇が『源氏物語』に対する所感を述べた箇所はここだけにしか記 されていないので、以下は推論となるが、桐壺巻が一条天皇の心を捉える としたら、それは悲劇的な桐壺更衣の死であったろう。その関係性を中関 白 家 没 落 の 中 で む か え た 定 子 の 死 (『権 記』長 保 二〈一 〇〇 〇〉年 十 二 月 十 六 日) と比定することができるのは言うまでもないが、桐壺更衣の造型や設定に 定子ひとりのみが与る訳ではなく、延喜 ・ 天暦とした準拠の枠組みからし ても村上天皇尚侍登 子 注(( 注( をはじめ花山天皇弘徽殿女御 忯 き 子 し や 注(( 注( 東宮時の三条天 皇桐壺女御原子 等 注(( 注( の例が組み込まれていよう。 村上天皇は師輔女安子中宮亡き後、故重明親王の正室であった安子の妹 登子を登花殿にむかえ入れ、朝政を怠り非難されるほど過度に寵愛し た 注(( 注( 。 また花山天皇は、大納言為光女 忯 子を別格に寵遇したため、他の女たちの 恨みを受け、病気で退出後、懐妊のまま急 逝 した。花山天皇の傷心は、寵 妃 を 失 っ た 直 後 に 催 さ れ た「寛 和 元 (九 八五 ) 年 八 月 十 日 内 裏 歌 合」 (『平 安 朝 歌 合 大 成 二』 ) に お け る「月」 「露」 「虫」の 歌 題 で 三 首 の 御 詠 に よ っ て 表 白 されている。 その三首の発想と表現が、桐壺巻における野分の段の勅使 靫 ゆげ 負 ひ 命婦によ る更衣の母邸弔問と桐壺帝の哀傷歌に近似することを新間一美は指摘し た 注((注( 。 ◦内裏歌合 秋の夜の月 0 0 0 0 0 に心はあくがれて 雲居に 0 0 0 ものを思ふころかな 荻の葉における白 露 0 玉かとて袖につつめどとまらざりけり 秋来れば 虫 0 もやものを思ふらむ 声も惜しまず音をも鳴く 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 かな ◦桐壺巻 宮城野の 露 0 吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ (帝。①二九頁) 鈴虫の声のかぎり 0 0 0 0 0 0 0 0 を尽くしても長き夜あかず ふる 0 0 涙かな (命婦。①三二頁) いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おきそふる 雲の上人 0 0 0 0 0 0 (更衣の母。①三二頁) 雲のうへ 0 0 0 0 も涙にくるる 秋の月 0 0 0 いかですむらん浅茅生の宿 (帝。①三六頁) 新間氏はさらに同歌合で御製「秋来れば」歌に番えられた公任詠「秋ご とにことめづらなる 鈴虫のふり 0 0 0 0 0 ても ふり 0 0 ぬ 声 0 ぞ聞こゆる」と右の命婦歌と の 対 照 か ら い っ そ う 同 歌 合 と 桐 壺 巻 と の 相 似 は 明 ら か と し、 「花 山 天 皇 と 早世したその女御 忯 子とは桐壺帝と桐壺更衣のモデルとなったと考えるこ とができよう。 」と述べている。 しかも 忯 子の四十九日の願 文 注(注 注( には「昔李夫人之反 レ魂、尚可 レ労 二方士 一 」 と、 「李 夫 人」の 故 事 を 引 い て 魂 の 行 方 を 探 し 得 な い 実 状 を 言 い、そ の 代 案を促す。この願文は 忯 子の急死の経緯を復元できるとともに悲傷の表出 方法の典型を示して『源氏物語』桐壺巻の先例とも成し得よ う 注(( 注( 。 というのは、命婦帰参後に桐壺帝の悲傷が集約されているようで、明け 暮れ「長恨歌の御絵」を見て嘆く様を、 「長恨歌」の「太液芙蓉、未央柳」 (① 三 五 頁) の 表 現 に 拠 り な が ら、 「絵 に 描 け る 楊 貴 妃 の 容 貌」 (同) か ら 亡 き更衣の面影を慕い、玄宗と楊貴妃にならって「翼をならべ、枝をかはさ む と 契」 (同) っ た 無 念 さ を か み し め ざ る を 得 な か っ た こ と が 叙 述 さ れ て い る 注(( 注( 。そして、命婦の派遣が「長恨歌」にいう方士であったかの如く、亡 き 更 衣 の 形 見 の 品 (御 装 束 一 領、御 髪 上 の 調 度 め く 物) に 接 し て、 「亡 き 人 の 住 み 処 尋 ね 出 で た り け ん し る し の 釵 かむざし 」 (① 三 五 頁) で あ っ た な ら ば と、亡 き 更衣の魂を捜し得ないで落胆するのであった。つまり、この場面では、表
─ 3注 ─ 現上は漢の武帝の李夫人というより唐の玄宗の楊貴妃を詠ずる「長恨歌」 引用によっていることは明らかだが、源順の作例に「楊貴妃帰つて唐帝の 思 李 夫 人 去 つ て 漢 皇 の 情 こころ 」 (= 楊 貴 妃 帰 唐 帝 思 李 夫 人 去 漢 皇 情 注(( 注( ) と あ る よ うに、平安朝期の文人にとって「長恨歌」と「李夫人」とは一対として享 受されていたことからすれば、こうした哀傷の際の詠法や願文などの表現 方法は定型化されていたともいえよう。 ただそうした相似形の中にあって新間氏も指摘しているように桐壺更衣 の男皇子誕生は決定的な相異点であって、前記した「宮城野の」歌の「小 萩」は光源氏を指して、桐壺帝が幼い若宮の身を案ずる心情を表白する。 当歌の本歌として従来から「宮城野のもとあらの小萩露を重み風を待つご と 君 を こ そ 待 て」 (古 今 集、恋 四、六 九 四、よ み 人 し ら ず) を 挙 げ る の に 対 し、 清水婦久子は『元輔集』の「恋しくはとけてを結べ 宮城野 の 小萩 もたわに 結 ぶ 白 露 」 (二 〇 九) 等 を 指 摘 し て、村 上 歌 壇 に お け る 類 型 的 和 歌 表 現 に やはり解消、帰結させ る 注(( 注( 。その清原元輔の歌集には、安子中宮亡き後、村 上 天 皇 が 安 子 を 偲 ん で 催 さ れ た 康 保 三 (九 六六 ) 年 閏 八 月 十 五 夜 内 裏 前 栽 合 における元輔歌の詞書に「壺前栽の宴せさせ給ふに、……」とあり、また 『栄 花 物 語』 (巻 一「月 の 宴」 ) で は「月 の 宴」 (① 五 六 頁) と あ っ て、清 水 氏 は「この時の状況が、桐壺巻の野分の段の月の風景の構想につながったと 考 え て よ い だ ろ う。 」と す る。桐 壺 の 巻 名 の 異 名 で あ る「壺 前 栽」も 命 婦 帰参後の哀傷を型取る初めの物語本文「御前の壺前栽のいとおもしろき盛 り な る を 御 覧 ず る や う に て」 (① 三 三 頁) か ら 由 来 す る と い う よ り も、 『元 輔集』の「壺前栽の宴」からの発想を重視しているようである。 つまり、少なくとも新間 ・ 清水両氏の指摘から、村上天皇や花山天皇時 代の事例が重層的に桐壺巻の表現を支えていると言ってよいだろうし、そ れはまた一条天皇の悲劇でもあったはずだろう。 さて、このような検討を踏まえて、当該論考において清水氏は次のよう な成立に関する言及もしている。 紫 式 部 は 夫、宣 孝 を 長 保 三 年 (一 〇〇 一) に 亡 く し、寛 弘 二 年 (一 〇〇 五) か 三 年 に 中 宮 彰 子 に 宮 仕 え す る こ と に な っ た。お そ ら く、そ の 数 年 の 間 に、若 紫 巻 や 帚 木 三 帖 な ど が 書 か れ た の で あ ろ う。帚 木 三 帖 と 若 紫 巻 の ど ち ら が 先 に 書 か れ、 発 表 さ れ た の か。こ れ に つ い て さ ま ざ ま な 意 見 が あ る が、桐 壺 巻 は そ れ ら よ り 後 に 付 け 加 え ら れ た 可 能 性 が 高 い。そ の 理 由 と し て は、桐 壺 巻 全 体 に 描 か れ た 詳 し い 宮 中 行 事 の 描 写 が 紫 式 部 の 寡 婦 時 代 で は 不 可 能 で あ り、宮 仕 え の 後 に 書 か れ た と 推 定 さ れ る こ と、巻 全 体 に ま と ま り が な く、源 氏 物 語 全 体 の 長編化を促すために仕立てられた感の強いこと、などが挙げられる。 桐壺巻が、若紫巻や帚木三帖の後に書かれ冒頭に据えられたという認識 を示しているにも拘わらず、巻名の異名「壺前栽」を藤壺入内後の「輝く 日の宮」に固執して、それらを前身として桐壺巻は一つの物語として生ま れ変わったという成立事情を、この言説に続けて清水氏はさらに説くが、 少なくとも「壺前栽」が彰子付き宮仕え以前の執筆だとすれば、 「長恨歌」 や「李夫人」に加えて、現実性を加味する本朝の後宮の例として村上天皇 の安子中宮への哀傷と安子の妹登子への過度な寵愛、そして花山天皇の 忯 子への寵遇が、桐壺帝の更衣への偏愛とその悲劇性に近似し、史実におけ る人物関係が物語を織り成す表現との類似性に満ちていることが、いった い誰のための、あるいは何のための物語創作であったのかを問うとすれば、 相対する具平親王家での宮仕えを前提としない清水説では桐壺巻の正確な 成立事情を捉えきれないであろう。また彰子付き宮仕え以後とすれば、紫
式部から『新楽府』の講義を受ける必要のあった彰子の力量からして彰子 を第一の享受者と想定するには無理があろうと思われる。 そうだとすれば、繰り返される後宮のキサキたちの過去の悲劇とともに 桐壺帝の悲傷や更衣の悲哀を重ねてみることが可能なのは、一条天皇なの であり、その一条天皇の心情に寄り添うためにも定子の遺児である敦康親 王を幼い若宮の光源氏に投影させることは物語の方法として順当なのであ ろう。桐壺帝の哀傷とそれを慰めるために新たに投入された先帝の四の宮 であった藤壺を物語の長篇化に結びつけたのは遺児の光源氏であったが、 定子の遺児敦康親王もまた彰子の居所である藤壺において一条天皇の寵幸 を彰子に向けさせる、そうした仲介が『源氏物語』に課せられていたとい えよう。清水氏の前掲論考にも次のようにあ る 注(( 注( 。 少 な く と も 一 条 天 皇 は、光 る 君 と 敦 康 親 王 と を 重 ね 合 わ せ て い た と 思 う。一 般 の 読 者 に 向 け て 天 皇 家 の ス キ ャ ン ダ ル を 書 く の で は な い。一 般 の 人 々 を 対 象 と し な い、天 皇 の た め、后 の た め に 書 か れ た か ら こ そ、亡 く な っ た 后 の 忘 れ 形 見 で あ る 皇 子 の 物 語 に し た の だ と 思 う。ま た 若 紫 巻 に お い て 幼 い 少 女 を 理 想 の 女 性 に 育 て る 光 源 氏 の 姿 は、ち ょ う ど 年 齢 差 が 同 じ 幼 い 彰 子 を 一 条 天 皇 の 理 想 の 女 性 に 育 て れ ば よ い と い う メ ッ セ ー ジ に な っ た こ と だ ろ う。子 が で き な い 紫 の 上 が 明 石 君 か ら 姫 君 を 引 き 取 っ て 育 て る 姿 は、敦 康 親 王 を 慈 し む 彰 子 の 良 い 手 本 に な っ た だ ろ う。源 氏 物 語 は、若 い 一 条 天 皇 と 彰 子 に と っ て、夫 婦 仲 を 取 り 持 つ と 同 時 に、帝 王 教 育 ・ お 后 教 育 の 最 良 の 教 科 書 に な っ たと考える。 長 保 元 (九 九九 ) 年、十 二 歳 の 彰 子 入 内 時、一 条 天 皇 は 二 十 歳 で あ っ た。 同年敦康が奇しくも誕生した。二人の年齢差は八歳であったから、若紫巻 では十八歳の光源氏と紫の君との年齢差とちょうど対応することになる。 『栄 花 物 語』 (巻 六「か か や く 藤 壺」 ) に は 一 条 天 皇 が「あ ま り 幼 き 御 有 様 な れ ば、参 り よ れ ば 翁 と お ぼ え て、わ れ 恥 づ か し う ぞ」 (① 三 〇 六 頁) と 戯 言 をいうほど、入内当初からほほ笑ましく仲の良い間柄として描かれている。 一方、二条院で暮らすようになった幼い紫の君を光源氏は無邪気な雛遊 びの相手として遇する他なく、その親しく戯れる様子は若紫巻ばかりでは なく、末摘花巻の巻末に例の平中ならぬ赤鼻にしておどけてみせる源氏と の 間 柄 を「い と を か し き 妹 背 と 見 え た ま へ り」 (① 三 〇 六 頁) と し て、両 巻 を 一 対 化 す べ く「か か る 人 々 の 末 々 い か な り け む」 (① 三 〇 七 頁) と 閉 じ る ことになる。清水氏の言うように、二人が出会った当初は紫の君と同じく 幼い彰子だから、理想の女性に育てればよいというメッセージを一条天皇 に伝える意図が若紫巻にあったとしても、一対の片方である末摘花巻が同 じメッセージのもとで創作されているとはとても考えられないだろう。末 摘花巻創作の意図を次に考えたい。 四 末摘花巻のメッセージ 若紫巻と末摘花巻の両巻をその記述内容の照応によって一対の成立とみ、 それらが提供される場と時期を、彰子中宮サロンへの紫式部初出時だと考 えてみれば、繰り返すが、若紫巻が初々しい紫の君と光源氏との出会いと いう内容であるのは紫式部の新しい物語作家としての門出に相応しいよう でもあり、また末摘花巻は世に好評を得た夕顔物語の続きの体裁で、その 評判ぐらいは耳にしているだろう彰子にとっても関心を損なわない設定で あったろう。 しかし、末摘花巻は、夕顔物語を産み出した基盤となる具平親王家とそ
─ 注注 ─ の同僚女房たちにむけた物語としても機能する作意があったのだとしたら、 前稿で検討した如く『紫式部集』に拠れ ば 注(( 注( 、この道長家への宮仕えが、侘 びしいけれども穏やかな寡居生活から華やかさに隠れた権謀術数の渦巻く 後宮への転出は苦渋の選択であったはずだから、具平親王家へむけての発 信の意図を含む可能性を否定はできまい。 そうした中にあって、末摘花のつれづれの生活風景や荒廃した宮邸が、 『紫 式 部 日 記』に 叙 さ れ る 式 部 自 身 の 在 様 と 近 似 す る と い う の で あ れ ば 注(( 注( 、 帚木三帖と同じく自身の卑近な知見や体験を物語叙述の素材として用いて いるはずであって、その具体例として次の作中歌を挙げることができる。 晴れぬ夜の月まつ里を おもひやれ 0 0 0 0 0 おなじ心にながめせずとも (①二八七頁) これは、八月二十余日のこと、源氏が初めて末摘花と 逢 い、その後朝の 文 が よ う や く 夕 方 に な っ て 届 い た 時 の 末 摘 花 の 返 歌 だ が、 『紫 式 部 集』 (実 注注、陽 注注) 注(( 注( の「又 お な じ す ぢ、九 月、月 明 か き 夜 / お ほ か た の 秋 の あ は れ を 思 ひ や れ 月 に 心 は あ く が れ ぬ と も 」 (傍 線 久 下) に 近 似 し 注(( 注( 、と も に 男 の 訪 れのない女の悲哀を訴えている。式部歌が、夫宣孝の夜離れを嘆くにして も、 「長 月 の 有 明 の 月 に さ そ は れ て ……」 (『堤 中 納 言 物 語』 「貝 合」 ) 的 な 月 夜の情趣感を漂わせて男の性情を達観しているのに対し、末摘花歌は降雨 の設定で、女が月の出を待ちわびる体が散佚物語「月待つ 女 注(注 注( 」の趣であっ たのかもしれない。 い ず れ に し て も 共 有 発 想 が 可 能 な 状 況 だ が、末 摘 花 歌 の 方 に は『公 任 集』に次のようなさらに類似する例もあ る 注(( 注( 。 兵部卿の宮にて月まつ心を 月影の出ぬ程 だに有物を人 まつ宿を思ひこそやれ ( 162) おそらく雲間を待つ心境を男の訪れを待つ女の心情に比して詠じたもの だが、 「思ひやれ」との表現が常套句化しているとみられよう。 こ こ で 問 題 と し た い の は、む し ろ 詞 書 の「兵 部 卿 の 宮」で、 『新 大 系』 の 脚 注 は「昭 登 親 王 (九 九八 ─一 〇 三 五) か。花 山 第 二 皇 子、冷 泉 院 猶 子、 母 御 匣 殿 別 当 平 子、若 狭 守 祐 忠 女、万 寿 元 年 頃 兵 部 卿 (小 右 記) 。卑 腹 な がら皇室寡産の後期摂関期に、弟清仁と共に威儀親王として重宝された。 三 条 あ る い は 四 条 辺 に 住 み (小 右 記) 、公 任 と 私 交 が あ っ た も の か。 」 (三 〇 〇 頁) と し、 『公 任 集 全 釈』は「父 村 上 天 皇、母 師 伊 女 の 皇 子、永 平 親 王 か。 」 (一七七頁) とす る 注(( 注( 。 家集編纂時の呼称からすれば前者となろうが、どちらの親王も確証はな く、公任 (九六六〜一〇四 一 注(( 注( ) にとって最も親交のあった宮家となると、公 任母の醍醐天皇皇子代明親王女厳子女王と姉妹であった村上天皇女御荘子 女王を母とする具平親王だったから、兵部卿でもあっ た 注(( 注( 具平親王をまず想 起 す べ き だ が、 『公 任 集』で は 具 平 親 王 は い ず れ も 中 務 の 宮 ( 注注・ 注注・ 188・ 344・ 496・ 561番) と の 呼 称 で 該 当 者 か ら 外 れ る と の 判 断 で あ ろ う。し か し、 月まつ宿が公任をはじめとする歌人や漢詩人たちの集う場として六条にあ る具平親王の邸宅千種殿が最も相応しい時代相があっ た 注(( 注( 。そんな宮邸での 詩会に参集するひとりに源順もいた。 前掲した源順の秀句 「楊貴妃帰唐帝思、 李夫人去漢皇情」 (『和漢朗詠集』 ) の詩題には 「対 レ雨恋 レ 月 (=雨に 対 む かひて月を恋ふ) 」 (『類聚句題抄』 ) とあり、 さ ら に『江 談 抄』に は「故 老 云 は く、 「数 年 作 り 設 け て、八 月 十 五 夜 の 雨 を待つ。六条宮に参りて作るところなり」と云 々 注(( 注( 」との伝承を付す。六条
宮とは、六条にある具平親王邸千種殿であり、その場での発表を期し、わ ざわざ八月十五夜の雨の日を待って作りおいた詩句だというのである。失 った寵妃を慕い嘆く皇帝の心情に比して宮邸における月の出を恋う心境を 詠ずるとは、いかにも月を愛でる趣向を凝らした作詠の場として文人たち に具平親王邸が尊ばれたのかが知られよう。 つ ま り、末 摘 花 巻 で「雨 降 り 出 で て」 (① 二 八 六 頁) と の 設 定 が、作 意 的 に「月 ま つ 里」を 故 常 陸 の 宮 邸 か ら 現 実 の 具 平 親 王 邸 へ と 誘 引 し、 「お も ひやれ」との慫慂が作者の心情と重なり、下句「おなじ心にながめせずと も」を誘発する末摘花歌となっているのではあるまいか。 「お な じ 心」と は か つ て 親 し か っ た 親 王 家 の 同 僚 女 房 た ち に む け て、心 ならずもいま立場をかえた式部のメッセージとなっていたのではなかった か。 「おなじ心」のタームは、 『紫式部日記』の「はかなき物語などにつけ て、う ち 語 ら ふ 人、 お な じ 心 な る は、あ は れ に 書 き か は し、……」 (傍 線 久下) と連動していることはあえて言う必要もなかろ う 注(( 注( 。 もとより、若紫 ・ 末摘花両巻の一体化成立論に前掲公任歌を根拠とする つもりはないが、これも周知の『紫式部日記』の一コマ、酔いにまかせて 公任が「あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」と戯れた のも、見も知らずの式部に対してではなく、おそらく若紫巻をもって道長 家への出仕を飾った事情をも察した上で、あざやかな転身とその彰子の男 皇子敦成親王誕生に至る成果を、公任なりに称えたことばだったのであろ う。物語はかくも拡散するものなのである。 五 末摘花巻の波紋 末摘花は宮の姫君だけに、その顔を醜くして夕顔の再来を願った光源氏 の恋愛失敗譚に仕立てたことは、ひとつの誤解を産み出していたのではな かったか。 『紫式部日記』に次のような記載がみえる。 源 氏 の 物 語、御 前 に あ る を、殿 の 御 覧 じ て、例 の す ず ろ ご と ど も 出 で き た る ついでに、梅のしたに敷かれたる紙にかかせたまへる。 すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ たまはせたれば、 「人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ めざましう」と聞こゆ。 (二一四頁) この道長と式部との和歌の応答箇所は、いわゆる消息文と言われる後に 続く「十一日の暁」 「すきもの」 「 水 くひ 鶏 な 」の三段にわたる年時不確定の記事 として知られる。 こ の 三 段 が 現 存『紫 式 部 日 記』の 首 欠 説 と 絡 む の で あ れ ば、寛 弘 五 (一 〇 〇八 ) 年 秋 以 前 で あ り、ま た 消 息 文 に よ り 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 正 月 三 日 以 後 の 記 事 が 途 絶 え、寛 弘 七 (一 〇一 〇) 年 正 月 三 日 の 記 事 で 再 び 実 録 が 復 活 し た と すれば、これらはその間の記事であって、かろうじて残ったものとしての 理会が可能となるはずである。 い ず れ に し て も 本 稿 に と っ て は、道 長 の「す き も の と」歌 が、 『源 氏 物 語』の作者である式部に対して、戯れにしても色好みの物語を書いた 女 ひと だ から「すきもの」に違いないとの発想をもって仕掛けられた詠であること を確認できれば、物語は虚構として受け取られず、現実の反映として常に 見做されていく可能性が指摘でき、ここから「月まつ里」の宮の姫君が醜 貌であるゆえ、具平親王家の姫君にもそうした疑念を抱かせかねない状況
─ 注3 ─ にあったのではないかと思われてくる。 し か も こ の 場 面 は、 『源 氏 物 語』の 特 定 の 場 面 が 明 示 さ れ て い る わ け で はないものの、光源氏の色好みに関わるとすれば、最も想起されるのは帚 木三帖であり、とりわけ夕顔巻の「咲く花にうつるてふ名はつつめども折 ら で 過 ぎ う き け さ の 朝 顔」 (① 一 四 六 頁) が、 「す き も の と」歌 の 状 況 と 表 現に見合っているといえよう。六条わたりの女君のもとから早朝立ち去る 光源氏を戸口まで見送る侍女中将の君を庭前に咲く美しい朝顔に見立てて、 こ の ま ま 手 折 ら ず に 見 過 ご し て ゆ く こ と は で き な い と す る 意 が、 「名」に よって浮気者の評判とともに詠まれているのは、眼前の梅を「 酸 す き物」と 「 好 す き 者」と に 掛 け て の 道 長 の 戯 れ と 符 合 し て い よ う。さ ら に、こ の 場 面 の問題は以下のような稲賀敬二の指摘によって頼通と具平親王女隆姫との 結婚時期の問題へと波及していく。 それは『源氏物語』の古注である了悟の『幻中類林』 「光源氏物語本 事 」 注(( 注( に記されている次の一文に端を発している。 左衛門督殿の、 梅の花咲きての後のみなればやすきものとのみ人のいふらむ と、家の日記に見えたり。 稲賀氏は、この「家の日記」を紫式部のそれ、つまり『紫式部日記』と し、鎌倉期に存在した『紫式部日記』の異本にあった逸文と推定したので あった。そして、この現存本に見えない逸文を本来あるべき位置に定位す れば、この梅の実に絡む道長と紫式部との応答箇所の文に直接続くと判断 して次のように述べてい る 注(( 注( 。 現 存 日 記 の こ の 応 答 に、先 の 左 衛 門 督 の 口 に し た 歌 を 続 け る と 場 面 は う ま く 一 つ に ま と ま る。す な わ ち、左 衛 門 督 は、道 長 ・ 紫 式 部 の 応 答 の 表 面 上 の 主 題 に な っ た「梅」 「す き も の」の 素 材 を 受 け つ ぎ、且、紫 式 部 が「誰 か」 「口 な ら し け む」と 道 長 に 切 り か え し た 反 問 に、左 衛 門 督 が 答 え る か た ち を と る。 「あ な た は、 『誰 か、口 な ら し け む』と お っ し ゃ る が、お 答 え す る ま で も な く 既 に 古 歌 に あ る じ ゃ な い か。 『梅 の 花 咲 き そ の 後 の 身 (実) 』だ か ら に 決 ま っ ている。しらばっくれてもだめですよ」というわけである。 左 衛 門 督 が 口 に し た「梅 の 花」歌 は、自 作 で は な く『古 今 集』 (雑 躰、 よ み 人 し ら ず、一 〇 六 六) 所 載 の 古 歌 で、結 局 は 道 長 に 加 担 し、式 部 を「好 き者」として、やり込めている。そのような「左衛門督」はいったい誰な のかというと、稲賀氏は公任が相応しいとし、逸文を含む場面は、本来寛 弘五 (一 〇〇 八) 年夏の記事であったとする。 現存『紫式部日記』では「左衛門督」と記されるのは、公任だけではな く 頼 通 も い る。公 任 は 長 保 三 (一 〇〇 一) 年 三 月 に 左 衛 門 督 と な り、寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 三 月 四 日 大 納 言 に 任 ぜ ら れ る ま で こ の 官 職 に あ り、同 年 三 月 四 日 その後を襲って左衛門督に任ぜられたのが頼通であった。つまり当該逸文 の「左衛門督」は、応答の中心素材が〈梅の花〉ではなく〈梅の実〉であ る 限 り 注(注 注( 、公 任 で あ る な ら ば、寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 の こ と と な り、一 方 頼 通 で あるならば、寛弘六 (一 〇〇 九) 年の記事となるわけである。 稲賀氏は頼通より公任の方が適うとする根拠に、当意即妙に『古今集』 歌を引いて軽口をたたき、式部をやり込める行為及び現存『日記』冒頭部 における清純で貴公子然とした頼通のイメージと相違する点を挙げている。 しかし、そもそも親兄弟でもない公任 が 注(( 注( 、御簾の内の中宮御前で気楽に軽
口をたたくなどということが可能かどうか考えてみれば、明らかに不自然 な設定となってしまう。さらに現存『日記』では「左衛門督」とあり、逸 文のように「殿」の敬称が付くことはなく、 「家の日記」が『紫式部日記』 であるのかさえ疑われてくる。 そこで考えられる一つの解として、現存『紫式部日記』を式部自身によ り再編集された作品と見做し、それが道長家に献上され、原本は式部家に 伝存されていたのだという理会で、その原本には「左衛門督殿」と書かれ て あ っ た と い う こ と に な る。現 存 本 に お け る 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 五 月 の 法 華 三 十 講 を 含 む 首 部 欠 脱 の 問 題 も さ り な が ら、 「こ の つ い で」以 下 の 消 息 文 は、道 長 家 か ら の 下 命 で 原 本 の 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 正 月 三 日 以 降 の 記 事 を 消 し去ったのではないかとする疑念が筆者にはある。 削除された記事の主要内容は、頼通と隆姫の婚儀と具平親王の死に関す ることであったはずである。道長家にとって敦成親王誕生に次ぐ慶事であ るはずの嫡子頼通の結婚を『紫式部日記』は何故書かなかったのか、いや 書いたものを残せなかったのか。その結婚と具平親王の突然の死とが関わ っていた故なのかどうか疑念は尽きず、さらに当の道長の『御堂関白記』 も 嫡 子 の 結 婚 に は 一 言 も 触 れ ず、寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 七 月 二 十 九 日 条 に、中 務卿具平親王の薨去を伝聞の形で記すだけであ り 注(( 注( 、その無頓着な姿勢がな おさら疑念を深めるばかりなのである。 『紫 式 部 日 記』の「十 一 日 の 暁」以 下 三 段 が、偽 装 の 上 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 の 記 事 と し て か ろ う じ て 残 っ た 部 分 だ と し た 場 合、し か も「す き も の と」歌の場面では頼通が登場したとなると、その箇所を削除せざるを得な かった理由として、父道長の色好み性をまとい変貌した頼通 が 注(( 注( 、自身の結 婚相手が末摘花と同様な醜女ではないかと危惧した時、その容貌を見極め ずに座したまま結婚当日を待つばかりであったのかどうかというところま で想像を逞しくすると、深刻な事態を招きかねない物語として末摘花巻は 浮上してくるのである。 * と こ ろ で、隆 姫 と の 結 婚 前 後 の 頼 通 の 動 向 を 知 り 得 る 資 料 と し て 近 時 『御 堂 関 白 集』の 次 の 贈 答 が 注 目 さ れ て い る が、こ こ で も「左 衛 門 督」と 「左衛門督殿」とが問題視されてい る 注(( 注( 。 左衛門督殿の、北の方にはじめてつかはす 降り立ちて今日は引くにもかからねばあやめのねさへなべてなるかな (五九) 御返事 あやめ草引けるを見れば人しれず深きたもともあらはれにけり (六〇) 五 九 番 歌 詞 書 の「左 衛 門 督 殿」を 杉 谷 寿 郎 が 公 任 と す る 以 外 は、森 田 奈 々 注(( 注( 、妹尾好 信 注(( 注( 、平野由紀子、そして加藤静 子 注(( 注( がともに頼通とし、頼通が はじめて贈った求婚歌と解している。頼通が左衛門督となるのは再三記し て い る よ う に 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 三 月 だ か ら、こ の 贈 歌 が 頼 通 だ と す れ ば、 それ以降の作詠となり、歌材が「あやめ」であるところから、さらに同年 五月五日の詠と知られるはずなのである。 加 藤 氏 は、こ の 贈 答 歌 が 家 集 の 配 置 年 次 か ら 推 定 さ れ る 寛 弘 七 (一 〇一 〇) 年 五 月 五 日 の 詠 で あ る こ と に 疑 問 を 呈 し、 『御 堂 関 白 記』寛 弘 七 (一 〇一 〇) 年五月十四日条に記されている「左衛門督内方渡」を挙げ、頼通室は「内 方」として十四日に同年の道長法華三十講の聴聞に参会しているとし、な お以下のように述べている。
─ 注注 ─ 『御 堂 関 白 集』五 九 ・ 六 〇 番 の 歌 が 五 月 五 日 の 歌 な の で、そ れ 以 後 十 四 日 以 前 に 結 婚 が 成 っ た と は、五 月 の 月 は 当 時 結 婚 を 忌 む 風 習 が あ っ た の で、五 月 中 の 結 婚 は あ り え な い。ま た 隆 姫 父 具 平 親 王 の 死 が、寛 弘 六 年 七 月 二 十 八 日 な の で、そ の 後 は 重 服 と な り、結 婚 は 薨 去 以 前 と な り、 『御 堂 関 白 集』の 求 婚の和歌は、寛弘五年 (一〇〇八) かもしくは翌六年の五月となろう。 も し 当 該 求 婚 歌 が 加 藤 氏 の 言 う 如 く 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 五 月 五 日 だ と す る と、やはり土御門邸では法華三十講が行なわれていて、しかも盛大な五巻 日で公卿たちが数多く参列したことが『御堂関白記』に記されてい る 注(( 注( 。そ して、現存『紫式部日記』で失われた首部の中心記事であったと指摘され て い る の が 注(注 注( 、こ の 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 五 月 の 法 華 三 十 講 な の だ か ら、五 日 当 日の記事に前記の頼通の隆姫への求婚歌が含まれていたとしたら、それが 首部欠脱の根拠になり得るのではないかと考えてみたのであるが、どうも そ れ は 成 り 立 た な い よ う で あ る (寛 弘 五〈一 〇〇 八〉年 で は 頼 通 は 三 位 少 将 だ か ら というのでもなく、また求婚から結婚までの期間が長過ぎるという理由でもない) 。 それでは加藤氏が指摘したもう一方、 つまりこの求婚歌が寛弘六 (一 〇〇 九) 年五月五日に贈られたのかどうかだが、加藤氏は同論考でもう一つの資料 を 挙 げ て、二 人 の 結 婚 時 期 を 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 七 月 二 十 八 日 の 具 平 親 王 薨 去以前のある年月を特定していたのである。その資料というのは、久保木 秀夫によって指摘された『中務親王集』の新出断簡の二首であ る 注(( 注( 。 一三 □ひそへてしつこゝろなきよのなかに くものもりをもいとゝきくかな これをきゝて、 左 衛 門のかみ、かへしゝたりける人にいひおこせ」 正月つこもり、 左 衛 門督殿ゝ女房たち、 うたよみたりけるを御らんして (以 下判読不能) 一四 なかはゆく お 〻 〻 〻 〻 とたに ほとたにとしはひさしきを」 加藤氏は一三番歌の「左衛門のかみ」を公任とし、一四番歌の「左衛門 督殿」は頼通だとす る 注(( 注( 。その根拠に同じく久保木秀夫が見いだした『中務 親 王 集』 「大 富 切」の 断 簡 に は「四 条 大 納 言」と 記 さ れ て い る の は『千 載 集』所 載 の 具 平 親 王 と 公 任 と の 贈 答 歌 で あ っ て、長 保 元 (九 九九 ) 年 の こ と と 知 ら れ る。公 任 が 右 衛 門 督 か ら 左 衛 門 督 に 転 じ た の は、長 保 三 (一 〇〇 一) 年 三 月 で あ っ た か ら、詠 作 当 時 の 官 名 は 右 衛 門 督 で あ っ た が、 「大 富 切」 で は「四 条 大 納 言」と 極 官 の 大 納 言 で 記 さ れ て い た。二 様 の『中 務 親 王 集』新出断簡の公任の官職表記の相異には目をつぶって、公任の官職には 「殿」が 付 さ れ て い な い と い う 共 通 性 を 指 摘 し て、一 四 番 歌 の 詞 書 の「左 衛門督殿」を頼通と認定し、また「御らんして」の主体を具平親王とし、 家族となった頼通の女房たちとの和やかな場面と解して、次のように述べ ている。 一 四 の 断 簡 は、頼 通 と 隆 姫 と の 結 婚 を 寛 弘 五 年 十 二 月 か 翌 年 正 月 早 々 と 考 え る 一 つ の 材 料 に な り え な い か と 思 う の で あ る。二 人 の 年 齢 は、も し 寛 弘 五 年 なら、頼通十七歳、隆姫十四歳である。 加 藤 氏 は 前 掲『御 堂 関 白 集』の 求 婚 歌 を 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 か も し く は 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 五 月 と し て い た が、 『中 務 親 王 集』新 出 断 簡 に 拠 る 結 婚 時 期 の 推 定 か ら す れ ば、当 然 そ の 求 婚 歌 が 後 者 の 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 五 月 と い う 案 は な く な り、前 者 の 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 五 月 の 贈 答 歌 で あ る こ と が 確 定 す る。よ っ て、筆 者 は 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 五 月 五 日 に 頼 通 の 隆 姫 へ の 求 婚 歌
があったから、原『紫式部日記』の首部が削除される原因ともなったので はないかと憶測したのだが、どうもそれは間違いなのではないかと思われ るに至った。 繰り返し言うが、筆者は頼通と隆姫との結婚が道長家にとって男皇子誕 生 に 匹 敵 す る ほ ど の 慶 事 で あ る に も 拘 ら ず、何 故 現 存『紫 式 部 日 記』や 『御 堂 関 白 記』に は 全 く 記 さ れ な い の か と い う 疑 問 を 提 示 し て い る の で あ る。加 藤 説 で は、二 人 の 結 婚 を 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 十 二 月 か 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年正月早々と推定していることになるのだが、前者はさらに期日が限定さ れる。加藤氏は中務宮具平親王方の事情として、具平の母荘子女王が寛弘 五 (一 〇〇 八) 年 七 月 十 六 日 に 薨 去 (『日 本 紀 略』 ) し て い た た め、五 ヵ 月 の 服 喪 期 間 と な り、忌 明 け が 十 二 月 と な る か ら、結 婚 は 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 十 二 月 であったとしても同月下旬となり、また後者の場合であったとしても、前 掲『中務親王集』新出断簡一四番歌の詞書に「正月つこもり」と記されて い た た め、た と え 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 で あ っ た と し て も「正 月 早 々」と 限 定 された訳で、いずれにしても両家にとって盛大な結婚の儀となれば、その 準備の慌ただしさは目に見えている。つまり結婚自体は可能であったとし ても、準備等々を考えれば、常識的に無理というものであろう。 ま た 現 存『紫 式 部 日 記』で は 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 十 二 月 二 十 九 日 は 式 部 に と っ て 記 念 す べ き 日 で、 「師 走 の 二 十 九 日 に ま ゐ る。は じ め て ま ゐ り し も 今 宵 の こ と ぞ か し。 」と、道 長 家 に 初 出 仕 し た 日 を 回 想 し て い る。式 部 は 十一月二十八日の賀茂の臨時祭で晴の祭の使いを務めた教通の成人姿を記 し て、一 ヵ 月 程 里 下 り を し て い た こ と に な り、明 け て 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 正 月 は 三 日 に 始 ま る 若 宮 (敦 成) の 戴 餅 の 儀 を 記 し て、以 後 い わ ゆ る 消 息 文 へと入っていく。十二月だとすれば、式部はわざわざ頼通の結婚の儀を避 けて実家に帰っていたということになるのだろうか。また翌年正月だとす れば、戴餅の儀以後「正月つこもり」までとなり、頼通の結婚に関して書 けなかったのか、それとも書かなかったのか、いずれにしても式部の執筆 姿勢は全く不明と言う外ないのである。 そこで、一四番歌の断簡詞書の「左衛門督殿」の「殿」が付された「左 衛門督」については、頼通認定を崩す根拠は上記以外に見いだすことはで き な い け れ ど も、 『御 堂 関 白 集』の 前 掲 五 九 番「降 り 立 ち て」歌 の 詞 書 の 「左 衛 門 督 殿」の 方 は、頼 通 と す る に は 認 め 難 い 点 が 生 じ て く る よ う で あ る。 す な わ ち、こ の 詞 書 は「左 衛 門 督」の 下 に 読 点 を つ け て、 「左 衛 門 督、 殿 の 北 の 方 に は じ め て つ か は す」と 解 す べ き 文 で あ っ て、 「左 衛 門 督」は 公 任 と し、 「殿 の 北 の 方」を 道 長 の 正 妻 倫 子 と し て、公 任 が は じ め て 教 通 の母倫子に贈歌したと理会するのである。ただし「殿の北の方」を倫子と 解 す る に は 疑 問 も あ っ て、倫 子 な ら ば「殿 の 上」 (一 一 ・ 二 一 番 歌 詞 書) と なるはずだから、そう解することはできないとの反論がまず予想される。 ところが五九番「降り立ちて」歌への答歌となる六〇番「あやめ草」歌の 詞書は「御返事」とあり、倫子の方が相応しいのである。 なぜなら、この贈答歌の前には同じ「あやめ草」を歌材にした尚侍妍子 (倫 子 所 生、彰 子 の 妹) か ら 薬 玉 に 菖 蒲 の 長 い 根 を 添 え て 健 康 長 寿 を 祈 念 す る贈歌が所載され、その答歌五八番「降り立ちて」歌の詞書「御返事」は、 倫 子 か ら 娘 妍 子 へ の 感 謝 を 表 し て い る か ら で あ る。五 七 ・ 五 八 番 歌 と 五 九 ・ 六〇番歌の二組の贈答歌は関連しているとの認識だが、それも家集編 纂時の配列上の作意だとすれば、こうした筆者の理会は崩れるだろう。 それにしても五九番歌詞書「左衛門督殿」を頼通として、九〇番歌詞書
─ 注注 ─ 「左 衛 門 督 殿」に つ な げ る と し た ら、八 八 番 歌 は 尚 侍 妍 子 か ら 父 道 長 へ 贈 る薬玉と菖蒲の輿をあしらった州濱に添えられた詠で、道長の答歌八九番 の詞書には「御返」とあり、頼通の贈歌九〇番には返歌は記されないが、 同じく父道長に宛てた詠で、両者とも長い菖蒲の根を引いて父道長の長寿 を 祝 っ て い る。八 八 ・ 九 〇 番 歌 を 平 野『全 釈』は 寛 弘 八 (一 〇一 一) 年 五 月 五 日のこととしている。 つまり、これらを連関している贈答歌として考えれば、五九番歌詞書の 「左 衛 門 督 殿」を 頼 通 と し た 場 合、頼 通 が 左 衛 門 督 と な る の は、寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 三 月 四 日 以 降 だ か ら、五 九 番 歌 は 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 五 月 五 日 と な り、 これが隆姫への最初の求婚歌だということになる。また「左衛門督」を公 任だとして『御堂関白集』一 ・ 二 ・ 三〇 ・ 三四番歌詞書表記の官職名とし て組み入れ、これらがいずれも道長や頼通への親しさが滲む贈答歌となっ ているから、五九番歌を公任がはじめて道長正妻倫子に贈った詠歌として その長寿を祈念するというのも妥当性があろうと思われる。 そ の 場 合 は、当 歌 は 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 三 月 四 日 以 前 の 五 月 五 日 の 詠 と な る か ら、寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 五 月 五 日 以 前 の 贈 答 歌 と い う こ と に な る。た だ 私説がどうしても成り立ち得ようがなく、五九番歌は頼通がはじめて隆姫 に 贈 っ た 求 婚 歌 だ と い う こ と に な り、こ れ が 寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 五 月 五 日 の 詠歌となるならば、頼通と隆姫との結婚に関して何らかの差し障りがあり、 こ の 詠 歌 が 記 さ れ て あ る こ と が 原 因 で、寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 五 月 の 道 長 家 法 華三十講の記事まで削除して現存『紫式部日記』は成り立っているのだと いう考え方を、逆に強力に推し進めることができるようになる。その場合、 『御 堂 関 白 集』に 何 故、頼 通 と 隆 姫 と の 結 婚 前 の 贈 答 歌 が 所 載 さ れ た の か を問えば、この家集は道長家からの下命による編集ではなく、当時特殊な 事情があったことを弁えない道長家の女房が、ただ主家の人々の素晴らし さが残された文反古を集めて編纂した歌集ということになろう。その編纂 し た 時 期 も 寛 弘 八 (一 〇一 一) 年 以 降 と な り、頼 通 と 隆 姫 と の 結 婚 が 成 立 し て から既に二年程経過していた。 * さて、頼通と隆姫との結婚に関わる記事が削除され再編集されたのが現 存『紫式部日記』だと言うならば、当然以下の記述が『日記』にあること で反論されるだろう。 中 務 の 宮 わ た り の 御 こ と を、御 心 に 入 れ て、そ な た の 心 よ せ あ る 人 と お ぼ し て、かたらはせたまふも、まことに心のうちは、思ひゐたることおほかり。 (一五〇頁) 当該記事は、中宮彰子が産後の養生のため十月十余日までも帳台から出 られない事情を記した箇所と十月十六日の土御門邸行幸を間近にひかえた 間 に 位 置 し て い る。 「中 務 の 宮 わ た り の 御 こ と」が、頼 通 と 隆 姫 と の 結 婚 に関わる事だとする認識は、あくまで後に二人が結婚した事実を踏まえて 解釈しているまでで、道長家の中でも当事者以外はこの案件の具体的内容 は 不 明 と す る 外 な い 記 述 で あ る。問 題 は、寛 弘 五 (一 〇〇 八) 年 五 月 五 日 の 法 華三十講五巻の日が描かれていたはずの原『紫式部日記』に、もし『御堂 関白集』に所載されていた頼通の求婚歌も記されていたのだとすると、現 存『紫 式 部 日 記』の 首 欠 問 題 に 関 わ り、そ れ が 寛 弘 六 (一 〇〇 九) 年 の 実 録 日 次日記の形態を崩してまで欠脱した理由とも連動しかねない重大事であり、 それはまた何故排除されねばならなかったのかという現存『紫式部日記』 成 立 事 情 の 問 題 で あ る と と も に、 『源 氏 物 語』末 摘 花 巻 と も 関 わ っ て く る