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『越後色部氏年中行事』と正月吉書の遺文 ─ 石瀬青龍寺から届く三ヵ条吉書 ─

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瀬青龍寺から届く三ヵ条吉書 ─

著者

伊藤 正義

雑誌名

鶴見大学紀要. 第4部, 人文・社会・自然科学編

54

ページ

53-78

発行年

2017-03

URL

http://doi.org/10.24791/00000219

(2)

『越後色部氏年中行事』と正月吉書の遺文

─ 石瀬青龍寺から届く三ヵ条吉書 ─

「Echigo Irobe‐shi Nenchu‐Gyouji」 and an

old note of Shougatsu‐Kissho had been

reached from Ishize‐seiryuji

伊藤 正義

Masayoshi ITOU

「鶴見大学紀要」第 54 号 第 4 部 人文・社会・自然科学編 (平成 29 年 3 月) 別刷

(3)

一.はじめに   ―中野豈任氏の研究業績と残された課題―  伊藤―「千眼寺は『瀬波郡絵図』と同じ場所にある けど、『色部氏年中行事』に出てくる青龍寺(しょうりゅ うじ)はどこにあるの?」(注1)  発掘調査担当者―「青龍寺は神林村にも、岩船郡内 と村上市(小泉庄域)のどこにも現存していません。廃 寺になったかどうかも不明で、まぼろしの寺なんです」  まぼろしの青龍寺 1998年頃の夏のことだったろか。 当時の私は、福島県立博物館(会津若松市)の学芸員 から文化庁記念物課の史跡担当の文化財調査官に転任 して5年目頃だった。戦国大名の上杉謙信、上杉景勝・ 執政直江兼続に仕えた、北越後の国衆領主色部氏の本 城の平林城跡は、昭和五十三年(1978)に国史跡に指 定指定されたが、史跡整備事業は長年未着手であった。 同史跡の保存管理計画と史跡整備計画の基礎資料を得 るために、旧神林村教育委員会が実施する地下遺構の 遺存状況を確認するための試掘調査の現場を何度か現 地視察したことがある。色部氏の菩提寺の千眼寺は、『越 後国瀬波郡絵図』(注2)に描かれた場所に現在も存在して いる(図1・3)。  色部氏の祈願寺の青龍寺は、戦国期の北越後の色いろ部べ 館 たち で正月三日の夜に、三ヵ条の吉書始めの儀式で主役 を務めた。『色部氏年中行事』の研究でもっと基本とな る研究論文は、昭和六十三年(1988)四月に刊行された、 中野豈やすひで任氏の『祝儀・吉書・呪符―中世村落の祈りと 呪術―』(以下、中野論文Aと略記)である。中野氏は、 青龍寺の所在地に付いては、同書の中では全く触てい ない(注3)。  同年八月に刊行された、論文Aと対になる『忘れら れた霊場―中世心性史の試み―』 (以下、中野論文Bと略記)の中で、 中野氏は『色部氏年中行事』の青 龍寺は旧岩室村石いし瀬ぜの青竜寺(新 義真言宗豊山派)であると指摘し、 その根拠として以下の4点を挙げて いる(注4)―(ア)文永五年(1268) に色部氏の始祖公長が作善を積ん で、一族の繁栄と極楽往生を願う 願文を納めた「石瀬の霊場」に青 竜寺があること。(イ)『色部氏年 中行事』で十二月十七日の夜に施 行する「観音の縁日」(十八日)に 色部館を訪れた青竜寺が関係して いること。(ウ)色部氏が一族の繁 栄を祈る「御守蘇民」の儀式の筆 頭に青竜寺が出てくること。(エ)

『越後色部氏年中行事』と正月吉書の遺文

―石瀬青龍寺から届く三ヵ条吉書―

「Echigo Irobe‐shi Nenchu‐Gyouji」 and an old note of Shougatsu‐Kissho had been reached from Ishize‐seiryuji

伊藤 正義

Masayoshi ITOU 図 1―「瀬波郡絵図」―千眼寺・色部館・宿田への渡し場 文禄五年(1596)頃成立。重要文化財、米沢市(上杉博物館)所蔵 平林城・色部館 平林城・色部館 渡し船渡し船 千眼寺 千眼寺 宿田村 宿田村

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青竜寺は正月三日に色部館へ年始にやって来て(傍線/ 伊藤注)、同夜に「吉書の儀式」を執り行うが、その際 の椀飯の儀礼での接遇と祝儀の品々は破格であり、同 寺は色部氏から最高の待遇を受けいること―(注5)  同四十九年三月刊行の『岩室村史通史編』は、色部 館と石瀬の青竜寺が遠く離れていることに躊躇しつつ も、十六世紀の『色部氏年中行事』の中で青竜寺は格 別の扱いを受けており、色部館跡・平林周辺に該当す る寺院がないことなどから、同寺は石瀬の青竜寺であ ろうとした。石瀬の青龍寺と揚あが北きたの色部館跡は約80キ ロメートルも離れているが、正月三日の吉書始めに色 部館へ赴く、青龍寺僧侶の厳冬期の旅程の困難さに付 いては、中野氏は留意していないし、同村史も分析を していない(注6)。  長谷川伸氏は1991年に以下の二編の優れた研究論文 を発表している。『色部氏年中行事』の構成内容の分類 と成立時期の研究―①正月椀飯と正月行事の中で示さ れる領主色部氏と諸階層との主従制的結合を示す部分、 ②~④の恒常的な儀礼執行のための貢納システムの公 簿的要素を中心とした部分に区分する。①は色部長真 の死後から会津国替え迄の文禄元年(1592)~慶長三年 (98)頃の内容である。②~④は永禄四年(1561)~八年 を中心とした永禄年間の内容である―(注7)  近世の米沢藩内に於いて『色部氏年中行事』が編纂、 改訂編集された背景と、改訂によって生じた内容・用 語の変容過程の研究―「色部正長氏所蔵本」は、十八 世紀中期に色部隆長による色部氏関係記録の編纂事業 によって成立した。「米沢図書館所蔵本」は、色部氏の 家系断絶の危機を養子縁組によって乗り越えて、藩政 枢要の地位に家格を上昇させた色部至長によって、 十八世紀後期に改訂編集された。両者の記載内容と用 語には微妙な違いがあり、前者には越後時代の遺風が 多く、後者は米沢移封後の要素を多く含んでいる―(注8)。  長谷川氏の両論文は、近世の米沢藩内に於いて、二 人の色部家当主によって編纂、改訂編集された色部家 の「年中行事」の記録編纂過程の研究で、小稿が課題 とする越後時代の青龍寺の所在地については触れてい ない。  長谷川氏は、1999年に刊行された『村上市史通史編1』 の以下の簡略な記述で、石瀬青龍寺説を再度指摘した。 具体的な行程に言及したのは長谷川氏が最初である― 「この行事(正月三日夜の吉書始め/伊藤注)において、 主役ともいえる役割を果たすのが祈願寺の青竜寺であ る。青竜寺の僧は、この日弥彦山の麓石瀬(岩室村) から船でやってくる(a)。石瀬という場所は、霊場と して鎌倉時代より崇められており、この地を地頭色部 公長が文永五年(1268)に訪れて、一族の幸福を祈って 願文を納めて以来、色部氏にとっては極楽浄土への入 り口となる聖地として意識されていたのである(b)」(注 9)。  結論を先に言えば、私は、石瀬の青龍寺が色部館で の吉書始めに臨席する青龍寺であるとする中野・井上・ 長谷川氏の指摘は正しいと思う。しかし、中野氏の指 摘(エ)を踏まえたのであろうが、厳冬期の正月三日 の早朝に弥彦山の麓の石瀬を出立して、同日の夕刻に 北越後・揚北の色部館に到着する長谷川説の行程は成 立しない。この行程が不成立となれば、青龍寺を石瀬 の青龍寺に比定する長谷川説は不成立になるし、旅程 の具体的な分析を欠く中野説も『岩室村史』の井上説 も同様に不成立となる。  長谷川説は船便の利用を前提にしている(a)。船便 の利用距離が最大になる「石瀬→〈陸路〉→白根→〈船〉 →色部館」を想定して、明治中期の地図上で計測すると、 〈陸路〉=約16キロメートル、〈船〉=約65キロメート ル以上の里程になる(注10)。シベリアからの季節風が吹 き荒れる厳冬期の越後平野の河川―内水面潟湖で船が 通航出来たとは思えない。「石瀬青龍寺→色部館」の陸 路での里程は最短でも約80キロメートルもある。「石瀬 →新潟」だけでも30キロメートルを越える(図2)。船 便利用のことは、「永禄六年北国下り遺つかいたりちょう足帳」(注11)の資 料紹介の中で小島道裕氏が示した、醍醐寺使僧が「新 潟→乙おっ宝ぽう寺じ」間を船賃100文で移動したとする解説を踏 まえているが、三章1節で詳述するように、醍醐寺使僧 は盛夏の中を陸路で進んでおり、船便利用説には根拠 がない。  『越後色部氏年中行事』(注12)によれば、青龍寺僧侶は 十二月十七日の夜に色部館で「御観音の年越」の仏事 を施行している(注13)。後述のように、「石瀬青龍寺←→ 色部館」の旅程は厳冬期は最低でも二泊三日を要する。 十二月十八日に色部館を立って二十日に石瀬の青龍寺 に帰着して、永禄六年正月一日(1563年2月3日)に再 び青龍寺を立って三日に色部館へ到着することは、好 天に恵まれれば理論上は可能だが、厳冬期の荒れる天 候を考慮すれば、正月三日中に色部館に到着出来ない 危険性がある。  (b)は中野豈任氏の在地霊場論の弥彦山塊に関する 論述(注14)からの引用であるが、紙数が限られた市史で の論述であるために、色部氏の始祖公長が帰依した極 楽浄土の在地霊場の石瀬の青龍寺が、何故色部館での 正月吉書始めで大役を担うのかは論証されていない。 青龍寺僧侶の「石瀬青龍寺→色部館」の道程と旅程を 正確に立証しない限り、色部館での吉書始めに臨席す る青龍寺を、名称の一致だけを根拠にして、旧岩室村 の石瀬青龍寺と断定することは出来ない。  中野豈任氏の二編の遺作 中野豈任氏は、昭和十四 年(1939)に新潟県新発田市に生まれて、六十三年四月

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十日に刊行された『祝儀・吉書・呪符―中世村落の祈 りと呪術―』を見ることなく、同年二月二日に進行性 胃ガンのために享年四十九才の若さで逝去した。同書 は中野豈任氏と親交の深かった、私にとっての畏師・ 畏兄の藤木久志氏からご恵与頂いた。藤木氏から研究 仲間たちが同書の編集と刊行に尽力したご様子を詳し くお聞きすることが出来た(注15)  故中野氏の新盆にあわせて、同年八月二十五日に刊 行された『忘れられた霊場―中世心性史の試み―』(注16) は中野紀久代夫人からご恵与頂いた。新盆にご焼香さ せて頂き、石井進先生とのご親交のご様子や両書刊行 の経緯と研究仲間たちの支援と尽力のことを更に詳し くお聞きする機会を得た(注17)。  私は、中野氏が卒業した新潟県立新発田高校の11期 後輩にあたる。私の実家は新発田市乗廻(旧豊浦町)で、 旧豊浦町乙次の中野氏のご自宅と同じ町内に長姉と従 兄弟が住んでいる。そのようなご縁もあり、私は両書 を貪るように読んだ。両書には私の書き込みと付箋が たくさん残っている。中野論文Aに付けられた私の色 褪せた付箋には、「岩室村の青龍寺→色部氏の吉書の祈 願寺→忘れられた霊場」の書き込みが残っている。中 野氏は、中野論文Bの弥彦山塊の在地霊場論に関する 論述の中で、岩室村石瀬の青龍寺に帰依して願文を捧 げて、三重の塔婆を造立し、三尺の金泥阿弥陀如来像 を納め、阿弥陀経四十八巻の供養を行って、死後は一 族ともども極楽に往生することを願った色部氏始祖の 公長の事績に付いて簡略に触れている(注18)  私は、平成十九年(2007)四月に、故大三輪龍彦教授 の後任として、文化庁記念物課の主任文化財調査官か ら、鶴見大学文化財学科教授に転任した。長年の宿題 を解明するために、『越後色部氏年中行事』(注19)と『越 後国郡絵図』(注20)を大学院ゼミのテキストに選び、講 読と分析研究、夏の現地視察旅行を行ってきた。『越後 色部氏年中行事』は平成二十四年度までに通読し終え た。小稿は『越後色部氏年中行事』講読の大学院ゼミ の私の研究レポートでもある。  1990年代までの研究では、正月三日の夜に三ヵ条の 吉書始めを主催するために、石瀬の青龍寺僧侶が色部 館まで赴く、厳冬期の困難な旅程が問題視されること はなかった。故中野氏は、正月三ヵ条吉書の場に臨席 して、吉書始めの主役を務める青龍寺は、北越後・揚 北の色部館から遠く離れた弥彦山の麓の石瀬の青龍寺 であるとを確信していた。中野氏がもう少しでも生き 長らえたら、青龍寺から色部館への旅程の復元は、容 易く実現されていたに違いない。  小稿の課題は、中野豈任氏が『色部氏年中行事』研 究の中でやり残した小さな三つの宿題―1.青龍寺の所 在地、2.青龍寺から色部館への道程・旅程、3.十六 世紀後半の『年中行事』の正月吉書始めと十三世紀後 半の「沙弥行忍願文」(2章2節で詳述)との関係性―を解 明することである。  小稿では、故中野豈任氏へのリスペクトと、故中野 氏と時間を共有する意味を込めて、昭和時代について は昭和の年号優先で論述する。小稿のタイトルの「正 月吉書の遺文」には、故中野豈任氏から私に残された 宿題の「白紙のノート」の意味が込められている。「白 紙のノート」に中野氏が書き綴ったであろう論述を想 像しながら、以下の各章節で小稿の課題の小さな謎解 きに挑戦する。 二.『越後色部氏年中行事』の正月吉書と石瀬青龍寺   1.『越後色部氏年中行事』の中に見る石瀬青龍寺  青龍寺は、色部館に於ける正月三日の夜に吉書始め で主役を務める、色部氏の特別な祈願寺である。その 特別高い寺格と厚遇故に、「吉書始め」で果たす役割の 大きさに関心が注がれてきた。小稿では、行事や仏事 の規模や意味の重さを度外視して、青龍寺がどの期間、 どの行事・仏事に参加するのかに単純化して分析して みよう(表1)。  色部館の事始めと修正会・正月吉書 色部氏の正月 準備の「事始め」は、十二月十三日の「御せつつき米」 と「畳の裏薦」の上納から始まる(注21)。表1―「『越後 色部氏年中行事』の行事・仏事と青龍寺」では、十二 月十三日からを新年に含めて、事始めを表の冒頭に配 置した。表1を見ると、青龍寺は、①十七日夜の「御観 音の年越」から②正月二日の修正会の初日、③三日の「吉 書始め」、④八日の「修正会の結願日」⑤「蘇民将来」 ⑥「巻数板吊り」までの間に六回登場する。これ以外 には登場しないので、青龍寺は正月の仏事にのみ関係 する、「期間限定の特殊な祈願寺」との言うことになる。 永禄五年十二月十七日~六年正月八日を西暦に換算す ると、1563年1月21日~2月10日の21日間になる。修正 会は正月二日から始まり、八日に結願する七日間の法 要で、青龍寺はこの法会に通しで参加奉仕する。②~ ⑥は修正会の中での仏事である。青龍寺は、①と合わ せると色部館に元旦を挟んで21日間滞在して、その期 間内で8日間だけ仏事に奉仕したことになる。  修正会の開始に先んじて、正月元旦の夜に色部家中 の椀飯の儀式が執り行われる。家中椀飯の儀式は、修 正会との前後関係からすると、色部家当主と家中家臣 団との間での主従関係を再確認して強める正月の神事 と言うことになる。三日の晩方には門松が仕舞われて、 神事としての正月行事は終了する。  吉書始めは、門松が仕舞われた後に同日の夜に執り 行われる。吉書始めは、単独の仏事・行事と言うよりは、 七日間にわたる修正会の開始二日目に執り行う、正月

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仏事に於ける最大のイベントだった。修正会の結願日 の八日には、蘇民将来の護符が調えられ、色部館を護 る新しい巻数板が館の正門に懸け替えられた。蘇民将 来の護符と巻数板は、七日間の修正会の期間中は法会・ 加持祈祷の場に据え置かれて、強い避邪の呪力が吹き 込まれた。修正会の結願日の蘇民将来の護符の配布と 巻数板の吊り替えは、修正会の掉尾を飾る、法会の結 願を盛大に祝う大イベントだった。  色部氏の宗旨と青龍寺 色部領には大永五年(1525)、 享禄二年(1529)、永禄六年・七年(1563・4)の四つの 段銭日記があり、長谷川伸氏がまとめた一覧表には色 部領内の40の社寺が見られる。色部領内の最上位で色 部氏の位牌所・祈願寺の諸上寺や後に菩提寺となる千 眼寺が見られるのに、「吉書始め」を執り行う祈願寺の 青龍寺は、四つの段銭日記中のどこにも記載されてい ない(注22)。  十六世紀頃の色部氏の宗旨は曹洞宗であった。供養 仏事の中心である盂蘭盆会の七月十三日に、色部氏か ら進物を届ける表2の五ヵ寺は、不詳の長桂院以外は全 て曹洞宗寺院である。長桂院も同宗であると見なして 間違いないであろう。進物のランクからすると、銭200 文と蝋燭10丁の進物が届けられる村上市門前の耕雲寺 が最上位の寺格である。耕雲寺に次ぐのが200文と蝋燭 5丁の村上市三日市・岩船の諸上寺である。色部館の膝 下で白米1斗と蝋燭5丁の菩提寺の千眼寺は、諸上寺に 次ぐ寺格と言うことになろうか(注23)。菩提寺の寺格は 意外に低かった。この五ヵ寺中にも真言宗の青龍寺は ない。  青龍寺は、『越後色部氏年中行事』では十二月十七日 から正月八日までの21日間程の期間内で8日間しか仏事 を施行せず、通年の通常の仏事・行事には一切参加し ていない。十六世紀前半から中頃の色部領の段銭日記 に一切見られない。七月十三日の色部氏から盆礼を届 ける寺院の中にも見られない。以上のことからすると、 青龍寺は、北越後の揚北の色部領内とその周辺には存 在しなかったことは確実である。 表− 2 七月十三日のお盆に色部氏から寺々への進物 寺院名 進物 宗派 本末関係 所在地 1.耕雲寺 200文 蝋燭10丁 曹洞宗 総持寺直末 村上市門前 2.諸上寺 200文 蝋燭 5丁 曹洞宗 耕雲寺末寺 村上市三日市 3.長桂院 200文 蝋燭 3丁 不明 ― 4.千眼寺 白米1斗 蝋燭 5丁 曹洞宗 耕雲寺末寺 旧神林村平林 5.大知院 米3升 蝋燭 3丁 曹洞宗 諸上寺末寺 大智院 旧神林村宿田 注 12『越後色部氏年中行事』96・7、146 ページより作成 ※五ヵ寺は、200 文の銭を進ぜられる寺と、色部館の近在で米を支給 される寺とに分かれる。長桂院は前者で色部館からある程度離れて いると推定されるが詳細は不明。   2.色部公長願文と石瀬青龍寺  色部氏と青龍寺との強固な関係性は、一体何に由来 するのであろうか?  中野氏は、色部公長が石瀬青龍寺に願文を納め、同 寺に深く帰依したことが、色部氏と青龍寺との強固な 関係性の淵源だと考えていた。この考えはそのまま現 在に継承されている。十三世紀後半に越後色部氏の初 代公長が青龍寺に納めた願文が、何故十六世紀の中頃 から後半に至っても、青龍寺を色部館での正月の仏事 と吉書始めの主役にする効力を維持しているのかに関 しては分析されていない。まず、公長の願文と二通の 譲状に付いて分析してみよう。 表− 1『越後色部氏年中行事』の行事・仏事と青龍寺 月日 行事・仏事 内容・出仕者など 12 / 13 正月の事始め 御節の搗米と裏薦の請け取り 12 / 17 夜に御観音年越 青龍寺 12 / 30 御門松たて 本百姓、宿田御百姓 餅かざり 1 / 1 正 月 の 御 祝 の 御 餅 飾 り、夜に椀飯の御祝 御家内衆(田中・今泉等) 1 / 2 御祝戴の飾り餅 修正会の初日 青龍寺 ・最明寺などの寺家衆 殿様御台所へ御出 殿様、御台所、御前様、布施又七 1 / 3 若水あげ初め・若水 百姓衆 供え、若木迎え、 百姓衆 門松納め(晩方)、 百姓衆。三ヵ日の正月神事終了 姫直し(夕食) 殿様・御家内 毘沙門配り来賀 夜に吉書始め(仏事) 青龍寺 ・殿様・御家内衆・百姓衆 1 / 5 御湯漬始 金津左馬助 西念寺より嘉例の牛玉届く 1 / 6 泊まり初め 田中九郎太郎 安養院より嘉例の牛玉届く 興聖寺より嘉例の牛玉届く、 同寺へ御礼、布施又七 1 / 8 修正会の結願日 青龍寺 ・最明寺などの寺家衆 御守蘇民(蘇民将来) 青龍寺 ・最明寺などの寺家衆・殿様 巻数板つり 青龍寺 ・最明寺などの寺家衆・殿様 1 / 9 善勝坊(御肴二献) 1 / 10 岩船の貴船神社神主殿(御肴三献) 八幡大夫(御酌) 若宮の大夫(御酌) 1 / 11 御馬いだし 松尾別当殿(御肴三献) 法勝寺へ御礼、布施又七 1 / 14 本証寺(御肴三献) 1 / 15 小正月の御祝戴の飾り 代官・大明神から嘉例の折届く 1 / 18 弘願寺(御肴三献) 法勝寺(御肴三献) 1 / 19 千眼寺(御肴五献) 1 / 20 弘願寺へ御礼 1 / 22 牛屋の寺社方 1 / 25 具足の餅の祝い 御家内衆 1 / 26 諸上寺(御肴三献) 2 / 2 御番始め 御家内衆 2 / 3 節分の方違え 本百姓、岩船の御百姓、御館様 7 / 7 七夕 さうめんの御祝 7 / 14 盂蘭盆会 菩提供養、御仏のあいしらいの事 8 / 15 宿田之白山社 流鏑馬祭り 9 / 19 岩船貴船神社の大明神 祭り 御的次第、相撲 中野豈任注 3 論文A、長谷川伸注 9 論文、田島光男編著注 12 より作成

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軌儀の斎会を設ける。是則ち病根相侵し、命葉を期し 難し。これにより、不日の開眼を成し……しかのみな らず、阿弥陀経四十八巻の供養先におわんぬ」と、大 きな事業の基礎である土木工事の途中で、開眼供養の 法要と斎会を取り急いで挙行した。  「廻向は現世を先考す、則ち松しょう栢はくは長く茂り、倉そう稟りんは いよいよ盈みつる……後生はまた早くに藕ぐう糸しを引きて、た ちまち蓮の萼がくに登る」は、「現世では財貨で倉庫が満ち 溢れるほどに繁栄し、来世では、早くに蓮の根の糸を 引いて極楽に往生して、すみやかに蓮の花のうえに生 まれ変わる」の意味で、後段は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』 を連想させる名文である。これまでの研究では、石瀬 の霊場の美観を称揚する美辞麗句の分析と、石瀬の霊 場が弥彦山塊の麓に位置する旧岩室村石瀬の青龍寺で あることの証明に力点が置かれて来た。公長の願文の 主旨は、現世での繁栄と来世での極楽往生を併せて願 うことである。公長願文の性格が、生前に自らと一族 を廻向する「逆修の願文」であることが問題にされる ことはなかった。この視点の欠落が、石瀬の霊場に於 ける作善事業を公長が何故急遽発願したのかの理由を 未解明にしてきた。  蒙古襲来と逆修板碑・逆修願文 武蔵国児玉党の中 小武士団の小しょう代だい氏は、色部公長の願文奉納から13年ほ ど後に、弘安四年(1281)七月一日付けの青石板碑を埼 玉県東松山市正代の清蓮寺に造立した。同板碑は高さ2 メートル、幅59センチメートルの初期の大型板碑であ る。小代氏は、北武蔵入西郡の小代郷(埼玉県東松山市・ 坂戸市)が本貫地で、執権北条時宗・連署政村が発給 した文永八年九月十三日の「関東御教書」で、蒙古襲 来に備えるために鎮西肥後国の所領に下向することを 命じられた(注28)  小代氏一族の中核は弘安四年以前に肥後国の所領に 下向していた。同板碑には110字余りの造立趣旨の願文 が刻まれている。文字数も少なく摩滅で判読不明な箇 所があり、文意を取りにくいが、亡父・小代重俊と祖 先の追善供養と併せて現世と来世での安寧を祈願する 逆修板碑とみて差し支えない。以下に千々和到氏の解 釈の要点を引用する。 ①小代氏は阿弥陀信仰を祖霊の祭祀に関連して持っ ていた。 ②「面々慕情の好友を結び=月々忌景を修するの諸 衆=一列諸衆」→小代氏一族に相当する。 ③造立目的は、善右金吾禅門=故小代平内右衛門尉 重俊をはじめする一族の累代の幽魂に功徳を及ぼ すことである。 ④まさに一族の中核的部分の西国下向に直面した小 代氏にとって、この大型板碑の造営が同時に一族 の結合を再度強化する目的もあったのではない  色部公長の逆修願文と譲状 越後色部氏の始祖公長 は、文永五年(1268)十一月日付けで、色部氏一族と妻 妾・子孫の繁栄〈現世/伊藤注〉、自分と子孫眷属の極 楽往生〈来世〉を祈願する願文を、「沙弥行忍b」の名 で石瀬の青龍寺に納めた(「沙弥行忍願文」―史料1)。 同願文は難しい漢語と対句を多用した流麗な和様漢文 である。越後国小泉庄加納の色部に住む齢七〇才を越 えた、老齢の東国御家人が自作したとはとても思えな い内容と出来映えである。史料1は長文なので補注編の 末尾に写真と全文を掲示する(注24)。  公長は、願文作成の六ヶ月ほど前に同年四月二十八 日付けで、かな漢字交じりの譲状を作成して、「ゑちこ のくにこいすみの庄内あわしま」を「まこ三郎なかの ふ(長信)」に譲与した(「色部公長譲状」―史料2)。 この時の署名は「右衛門尉公長a(花押)」である(注25) 願文作成の2年後の同七年八月二十五日付けの漢文体の 譲状で、嫡子惣領の忠長に「越後国小泉庄内色部条地 頭職」を手継証文等を相副て譲り渡した(「沙弥行忍譲 状」―史料3)。この譲状の署名は「沙弥行忍b(花押)」 である(注26)。  史料2は、嫡子惣領の忠長を飛び越えた嫡孫長信への 粟島の譲与である。色部氏内部での相続処理であり、 鎌倉への提出を予定していない譲状なので、公長の普 段の文筆能力のかな漢字交じりの文体で作成された。 史料3は、鎌倉に提出して承認安堵を得るために、正式 な書式の漢文体で作成された。定型的な東国御家人の 譲状なので、公長の漢文能力でも作成出来たかも知れ ないが、漢文に習熟した者に作成を依頼したのかも知 れない。史料1の難解な修辞文飾と仏教用語に富む流麗 な漢文の願文は、学識の高い僧侶以外には作成は不可 能である。  公長は、史料1の願文の中で「右金吾校尉の職aを辞 して、西土の仏の引接の果を仰ぎ、よって七旬の衰邁 の鶴髪を剃り……念仏転読の勤めを修め」と述べてい る。文永五年十一月の史料1の「右金吾校尉の職a」と 四月二十八日の史料2の「右衛門尉公長a」が一致する。 「右金吾校尉」は右衛門尉の唐名であり、高い学識の者 しか使えない用語である。文永五年四月二十八日の史 料2では「右衛門尉公長a」と署名しているので、公長 は永五年四月二十八日から十一月の間に出家した。史 料1で公長は、「ここに久しく北陸の州県〈小泉庄加納/ 伊藤注〉を掌し」、「結縁随喜の便りを得て、第(弟)子 は〈色部と石瀬の間を〉往復巡礼し、尊重して誠を凝らす」 と述べている。公長は越後国小泉庄加納に土着して既 に長年が経過していたのだろう(注27)。  文永五年に七〇才を越えていた公長は、三重の塔婆 を造立し、既に三尺の金泥阿弥陀仏像を完成していた が、「土木半営の洪基たるといえども、且つうは供養の

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図 2―石瀬 ~ 乙宝寺・色部館までのルート図/平凡社(注 10) 明治 20 ~ 22 年(1887 ~ 9)に参謀本部陸軍部測量局・陸地測量部(後の国土地理院)が作製 11 22 33 44 55 66 11 22 33

↓寺泊

↓寺泊

津川→

津川→

馬下

馬下

ルート①太線+太破線=醍醐寺僧+津軽鷹ルート ルート②太一点鎖線 ルート③実線 破線→醍醐寺僧の会津→新潟のルート ①弥彦神社 ②石瀬青龍寺 ③竹野町 ④新潟  ⑤松ヶ崎浜 ⑥次第浜   ⑦藤塚浜 ⑧乙宝寺 ⑨桃崎浜  ⑩平林    ⑪宿田  ⑫岩船 □1白根 □2新津 □3保田 □4笹岡 □5池ノ端 □6稲荷岡

1新発田 

2中条 

3黒川 11 22 33 44 55 66 77 88 99 12 12 11 11 10 10

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図 3―乙宝寺・宿田・岩船の拡大図/平凡社(注 10)

◎■

◎■

乙宝寺

乙宝寺

耕雲寺

耕雲寺

色部館

色部館

千眼寺

千眼寺

大智院

大智院

諸上寺・

岩船貴船神社

諸上寺・

岩船貴船神社

か。(注29)。  越後国の揚北、小泉庄加納色部の住人で、齢七〇才 を越えた関東御家人の色部公長老人が、弥彦山塊の麓 にある石瀬の阿弥陀如来の霊場に願文を捧げた文永五 年は、正月に蒙古の国書が筑前国博多に初めて到来し た年である。筑前守護の少弐資能は閏正月八日に鎌倉 へ国書を送った。国書は二月七日に鎌倉から京都の関 東申次の公卿・西園寺実氏に届けられた。同日に執権 北条時宗・連署政村は、瀬戸内沿岸と鎮西諸国の守護 に対して、蒙古襲来に備えて防御を固めよと命ずる御 教書を発した。博多、京都、鎌倉をはじめとして、日 本国中が蒙古襲来の恐怖に震え上がった。京都・鎌倉・ 博多を中心に敵国降伏の祈祷体制が敷かれて、蒙古を 呪詛する法要が繰り返された(注30)。  都市鎌倉では、山稜部に防衛的な軍事施設(切岸・ 堀切・平場・枡形など)が構築されて、山稜部は鎌倉 を護る龍口大明神の龍体とイメージされていた(注31)。 黒田日出男氏は、異国警固役は、1333年に鎌倉北条政 権が滅亡しても、1366年に大元帝国が崩壊するまでは 解除されなかった、蒙古襲来への恐怖はこの頃まで続 いていたと指摘する(注32)。東国の都市鎌倉では、最後 の鎌倉公方足利成氏によって、15世紀後半まで毎年三 月一日に鎌倉の由比ヶ浜で、蒙古退治の御祈祷の犬追 い物が行われていた(注33)。  北武蔵の御家人の小代氏は、蒙古襲来に備える異国 警固役に就くために鎮西の肥後国の所領に下向した。 文永十一年(1274)十月と弘安四年(1281)五月から閏 七月の二度にわたる蒙古の襲来は失敗に終わり、亡国 の危機は回避されたが、蒙古襲来の危機と恐怖は以後 も継続していた。弘安四年七月一日付けで大型の青石 板碑を入西郡小代郷の阿弥陀堂(後の清蓮寺)で造立 して、阿弥陀如来に結縁することによって一族の現当 二世の安寧を願い、一族の結集を強めた小代氏の作善 仏事は、蒙古襲来と亡国の恐怖に打ち震える時代の真っ 直中で行われた。この逆修板碑の造営が蒙古襲来と無 関係であったはずがない。  北越後の老人の色部公長が、極楽往生と妻妾・子孫・ 一族の現当二世の安寧を願う逆修の願文を、越後の霊 場、石瀬の青龍寺に奉納した文永五年は、最初の蒙古 国書到来の激震に襲われた年だった。公長が急遽発願 した逆修の廻向供養と作善仏事も、蒙古の国書到来の 激震と連動していなかったはずがない。

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 公長が、右衛門尉の職を辞して、文永五年四月二十 八日から十一月の間に出家したのは、老齢で異国警固 役に耐えられなかったからであろう。同年四月二十八 日の譲状で孫の三郎長信に粟島を譲与したのは、蒙古 襲来の恐怖と出家の準備のためであったのだろう(「色 部公長譲状」―史料2)。開眼供養を急いだ理由として、 「是則ち病根相侵し、命葉を期し難し」と病中であると 述べているが、二年後の同七年八月二十五日に嫡子惣 領の忠長に「越後国小泉庄内色部条地頭職」譲ってい ることからすると(「色部公長譲状」―史料3)、死を覚 悟するほどの大病だった訳ではなさそうである。死に 瀕する大病であれば、文永五年に嫡子惣領の忠長に全 所領を譲り渡すはずである。  公長の「沙弥行忍願文」(史料1)は、「文永五年十一 月 日」と日付を欠いているが、流麗な漢文の完成度 の高さからすると、草稿・下書きの案文とは考えられ ない。完成稿の控えの案文なのであろう。文永五年の 「十一月 日」を①一日、②十日、③二十日に仮定して 西 暦 に 換 算 す る と、 ①1268年12月13日、 ②23日、 ③ 1269年1月1日になる。①②は厳冬期の直前、③は厳冬 期の入り口に当たる。公長は何故、文永五年のこの時 期に、土木工事未了のままで、金泥阿弥陀仏像の開眼 供養の法要を、大急ぎで実施しなければならなかった のであろうか?  その理由は、蒙古の国書が到来した文永五年の年内 に、石瀬の霊場で作善を尽くして、阿弥陀如来に結縁 することが是非とも必要だったからだと推定される。 老人の公長にとっては、阿弥陀如来との結縁によって、 色部氏一族と妻妾・子孫の現当二世の安寧を確保する ことこそが焦眉の急だった。公長は「廻向は現世を先 考す」と明記している。願文には先祖への供養と廻向 に関する文言はない。  公長は、文永五年に石瀬の霊場に於いて大規模な作 善事業を遂行して、阿弥陀如来に結縁することによっ て、蒙古襲来と亡国の危機から一族の現当二世の安寧 を護った。この公長の作善の功徳は、長く一族の中で 語り継がれる伝説(レジェンド)となった。戦国時代 になっても、色部氏一族の安寧と繁栄が、公長が文永 五年十一月に石瀬の青龍寺に納めた願文による阿弥陀 如来との結縁によって保証されていると意識されてい たとすれば、青龍寺が小泉庄と加納色部領内に存在し なくても、青龍寺こそが色部氏にとっては最上位の寺 院、宗教装置であり続けることになる。   3.石瀬から色部館への旅程と青龍寺僧侶  『越後色部氏年中行事』には、十六世紀中頃の永禄年 間に石瀬の青龍寺の僧侶たちが、色部館を訪れた際の 道程と旅程に付いての記載は一切ない。彼らはどのルー トを、どのような旅程で、揚北の色部館を訪れたので あろうか?  永禄六年(1563)の正月は、前年の十二月十三日(1 月17日)の事始めから始まる。石瀬青龍寺の僧侶たちは、 十三日に青龍寺の煤払い・大掃除の事始めを勤めて、 翌十四日の朝に石瀬を出立して、十七日迄には色部館 に到着する。道程は図2に示した以下の三つのルートが 考えられる。  石瀬から色部館への道程 ルート①は海岸部の砂丘 列を辿る道。ルート②は「石瀬→白根→新津→保田→ 笹岡→池の端→稲荷岡→ 乙きのと→色部館」の内陸の陸路。 ルート③は途中までは②と同じで、池の端で分岐せず に「切梅→新発田→中条→黒川→色部館」を進む山沿 いの陸路。戦国時代は暖冬傾向の現在よりも寒冷だっ たので、積雪量の多い③は除外しても良いだろう。地 図上の略計測では、①は約80キロメートル、②は約100 キロメートルである。  新潟市周辺の海岸部の積雪量は、最大でも30センチ メートル程度で、強風に飛ばされてほとんど積雪しな い。②が①よりも有利な点は、最も内側の砂丘列の内 側を進むので、砂丘列が風除けになり、シベリアから の強烈な季節風が多少でも和らぐことである。しかし、 ルート①とそれに連なる集落を実際に歩いて見ると、 ルート①の道と集落は、外側砂丘列の頂部を避けて頂 部の東内側に立地している。②よりも季節風を強く受 けるではあろうが、強さの差異は僅少でしかないし、 吹雪けば①も②も歩行困難になることに変わりはない。 永禄六年の盛夏の中、醍醐寺の使僧たちは、ルート① の「新潟(白山神社から計測)→乙宝寺」の約40キロメー トルの旅程を一日で歩いた(後に詳述)。厳冬期の旅程 をこれよりも少な目の30キロメートル程度と仮定する と、石瀬青龍寺の僧侶たちは、ルート①は二泊三日で 余裕をもって、ルート②は三泊四日でなんとか、十七 日夜の「御観音の年越」に間に合う。  永禄年間に石瀬青龍寺の僧侶たちが辿った「石瀬青 龍寺←→色部館」の道程は、三章1節で詳述する醍醐寺 の使僧たちと同じルート①と推定される。永禄五年 十二月十四日(1月18日)の早朝に、青龍寺の僧侶たち は石瀬を出立した。十四日の夜は新潟湊付近に宿泊し たのであろうか。十五日には次第浜(聖籠町)辺りに 宿泊したのであろうか。途中で多少寄り道をしても、 十六日の夕刻までには色部館に到着することが出来る。  色部館で越年する青年僧侶たち 十二月十八日(1月 22日)に一旦石瀬青龍寺に帰り、正月三日(2月5日) に色部館を再訪する旅程の仮説には、上述の距離と旅 程日数とに関するリスク以上に致命的な欠陥がある。 石瀬青龍寺の僧侶たちは、正月二日に始まる修正会に 当初から参加する。七日間で結願する修正会に途中参

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加はあり得ない(注34)。大晦日の前日の二十九日には石 瀬を出立しないと、元旦の夕刻までに揚北の色部館に 到着することは出来ない。船便を使えば正月一日の1日 の行程で石瀬から色部館に到着することは可能である が、厳冬期に船便が通航出来ないことは自明である。  石瀬から色部館に赴く青龍寺の僧侶たちは、十二月 十三日の煤払いなどの正月事始めには参加するが、大 晦日の年越しの仏事にも、新年元旦の仏事にも列席し ない。重役の老僧たちにとって、本寺の越年・正月仏 事よりも、色部館での越年と修正会の方が優先するこ となどはあり得ない。従って、色部館を訪れて、「御観 音の年越」と「修正会開始→吉書始め→修正会結願→ 蘇民将来の御守り→巻数板吊り」の一連の修正会の正 月仏事で主役を務める青龍寺の僧侶たちは、青龍寺の 住職や重役の老齢の僧侶たちではないことになる。  永禄五年十二月十四日(1563年1月18日)は厳冬期の 真っ直中である。寒中での1日30キロメートルの行程は、 屈強な若者でも決して楽ではない。老齢の僧侶では寒 中に色部館を訪問する苦役は果たせない。色部氏は、 戦国時代になっても多額の献納を続ける青龍寺の重要 な檀越、スポンサーであった。厳冬期に色部館を訪問 して越年と正月の仏事を主催奉仕することは、苦行と 修行を兼ねた、青龍寺の将来を担う優秀な青年僧侶の 役割だったのではないだろうか。色部家の当主・家族・ 重臣・領民と昵懇の関係を築くことは、青年僧侶たち にとって将来の栄進へのワンステップだったに違いな い。昵懇の関係を築くには、一定期間寝食を共にする 交流と滞在が必要である。十二月十八日から二十八日 まで石瀬の青龍寺に一旦戻ったとしても、越年・元旦 の重要仏事には参列出来ないのだから、私は、青龍寺 の青年僧たちは、十二月十六日から正月九日まで色部 館に滞在し続けて、蘇民将来の護符や巻数板などを調 製したと推定する。  以上の永禄六年の越年と正月の仏事に関する、石瀬 青龍寺の僧侶たちの色部館訪問の行動と旅程の推定復 元は、あくまでも机上・地図上でのシュミレーション に過ぎない。次章では永禄六年の盛夏に北越後を実際 に旅した醍醐寺の使僧たちの旅程を復元して、「弥彦山 麓の石瀬←→揚北の色部館」の旅程が二泊三日である ことを再度確認してみよう。 三.戦国期の北越後の旅程   1.永禄六年(1563)夏、醍醐寺使僧の北越後の 旅程  戦国後期、十六世紀後半の北越後・揚北地方の街道・ 町場・旅程などに関する文献史料は僅少で、管見の限 りでは国立歴史民族博物館の山本光正・小島道裕氏が 資料紹介した「永禄六年北国下り遣つかいたり足帳ちょう」(注35)、弘前大 学の長谷川成一氏の津軽鷹の献上を命じた「(天正十九 年カ)豊臣秀吉朱印状」(津軽家文書)に関する論文(注 36)しか見当たらない。前掲の二つ史料を分析すること によって、青龍寺の僧侶たちが辿った永禄期頃の旅程 とルートを推定復元してみよう。  「永禄六年北国下り遣足帳」(以下、「遣足帳」と略記) は、醍醐寺の僧侶が「京都醍醐寺→北陸→越後→北関 東→陸奥南部(福島県)→出羽南部(山形県)→陸奥 南部→北越後→北陸→飛騨→美濃→京都醍醐寺」を旅 した時の、公務出張に伴う必要経費の支払いをまとめ た算用記録である。収入に関する算用記録とセットに なって、醍醐寺の会計責任者の監査を受けたのであろ う。『国立歴史民俗博物館研究報告』第39集の掲載写真 で見る限りでは朱書きの合点がないこと、意味が通じ ない箇所や旅程がつながらない箇所があることなどか 図 4―新潟市 石瀬青龍寺(2015 年 7 月/筆者撮影) 表―3『永禄六年北国下り遣足帳』の 北越後での行程と支払いの集計 日付 行 程 宿泊地・ 旅籠賃 文 酒手・礼銭 駄 賃 渡船賃船賃・昼休み賃小遣い・ 6/25 津川→馬下 前泊地津川 45 酒 30 0 船54 6/26 馬下→村松→横越→対馬屋 馬下 36 酒 30 馬下→村松  30村松→横越  70 横越→対馬屋 25 渡15 小20 6/27 対馬屋→蒲原→新潟 対馬屋 30 礼 25酒 15 酒 8 0 渡10 渡14 渡17 新潟→乙法寺 新潟 100 酒 24 0 渡10 6/28・ 乙法寺→宿田 渡10 昼22 6/29~ 乙法寺←→ 筵17 8/11 乙法寺周辺 42 乙法寺→新潟 酒 25 日間 新潟→三条→ 礼 200 船100 新潟 礼酒 200 船85 8/12 ~21 新潟10泊 新潟360 一日・ 一人 18文 8/22 新潟→弥彦→出雲崎? 出雲崎24 25 昼15弥彦 /注 11「遺足帳」より作成

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らすると、会計責任者に提出する前の草稿の下書きで あろうか。  私は、「遣足帳」中に真言宗の寺院と修験山伏が頻出 することから、醍醐寺の使僧が真言宗の寺院と修験山 伏の寺坊を巡回訪問して、印可を授けて礼銭を徴収す ることが、公用出張の目的だったと推定している(注37)。 以下、真言宗醍醐寺の使僧たちの旅程と宗教活動の足 跡を辿ってみよう。  ヤス田と池ノハタ 小島道裕氏は、「遣足帳」六月 二十八日条のA「山上」=「蒲原郡奥山庄北条(旧中 条町)の内?」、B「ヤス田」=「村上市宿やず田た(旧神林 村)」に比定した(注38)。坂井秀弥氏は、C「山上」=三 条の宛字と解し、D「ヤス田」=阿賀野市保やす田だ(旧安 田町)に比定した(注39)。Cの根拠は、イ―新潟から三 条へは100文の船賃で移動していることである。Dの根 拠は、胎内市の旧中条町乙(きのと)に所在する乙宝寺 から阿賀野市保田への移動の途中に、ロ―渡船賃を支 払った「池ノハタ」=新発田市池ノ端(旧豊浦町)が 所在することである。ハ―坂井氏は、「宿田」は旧神林 村の地元では「ヤヅタ」と濁音で発音しているので、「ヤ ス田」は旧安田町の保田(やすだ)であるとした。  坂井説が成立するとすれば、「石瀬→白根→新津→保 田→池の端→稲荷岡→乙おっ宝ぽう寺じ」のルート②が、石瀬と 揚北を結ぶ戦国後期に最も使われていた道程で、石瀬 青龍寺の僧侶たちもこのルート②を辿った可能性があ る。私は、以下の検証を行うまでは、坂井説を踏まえて、 石瀬青龍寺の使僧たちの辿った道程をルート②だと 思っていた。青龍寺僧侶の旅程を推定するために、坂 井説の根拠を詳細に再検討してみよう(図2)。  「遣足帳」では新潟を「ニイカタ」と濁点なしで表記 している。中世のひらがな、カタカナ表記では、濁点・ 濁音は省略することが一般的なのでハは根拠にはなら ない。『新潟県の地名』では「宿田村」に「やずたむら」 のルビを付している(注40)。「ヅ」と「ズ」の聞き分けは 私には不可能である。荒川流域の旧荒川町・旧神林村・ 関川村一帯は、山形県西置賜地方の小国町との関係が 深く、東北弁の小国弁に近い濁った重い発音をする。 識字者である醍醐寺僧の行真と山城は、地名の漢字を 想定出来た場合は、「津川、村松、横越、対馬屋、神原・ 上原(蒲原)、乙おっ法ぽう寺じ、山上(三条)、新方(新潟)」な どと宛字であっても極力漢字で表記している。「ヤズタ」 と聞いた地名の「ヤズ」の漢字を思い付かなかったの で「ヤス田」と表記したのであろう。  「宿田」の地名は、『越後色部氏年中行事』の中に3カ 所見られる。うち1カ所は「やすた」と表記している(注 41)。領主の色部氏の周辺でも「宿やず田た」は「やすた」と も表記していたのである。「ヤス田」は表記と発音から みて旧神林村の宿田とする小島説の方が正しいが、C・ イは後述のように坂井氏の指摘の方が正しい。  ロ―「池ノハタ」=新発田市池ノ端の比定は成立す るのであろうか? 「遣足帳」の六月二十八日条は、移 動と支払いを一日ごとに逐一記載せずに、六月二十八 日から八月十一日までの43日間(1563年7月28日~9月8 日)もの長期間の移動と支払いを八月十一日にまとめ て記述している。そのためにこの期間の足跡が良く分 からない。六月二十八日条は、二十八日の新潟から乙 宝寺までの1日分の移動と支払いと、六月二十九日から 八月十一日までの42日間の移動と支払いの二つに分け て記述している。  新潟→乙宝寺は1日で移動しているので、最短の「新 潟市白山神社→新潟市東区津島屋→次第浜→藤塚浜→ 乙宝寺(胎内市・旧中条町乙きのと)」を通る①砂丘列のルー トと推定される。行程は約40キロメートルで、盛夏で の1日の行程としては目一杯であろう(図2)。六月 二十八日から八月二十二日までの54日間の行真と山城 の行動と支払いを復元推定を交えて整理してみよう。 この約2ヶ月間の行動と支払いは以下の四段階に分けら れる。 〔6月28日、新潟→乙宝寺/伊藤注〕     船賃 酒手  案内料  昼休賃 (1)廿八日ニ乙法寺ヘツク 十文 舟ちん池ノハタ   廿四文 金蔵所ヘ酒手    〔29日以降、乙宝寺→乙宝寺周辺→乙宝寺〕 (2)廿五文 同 十文 舟ちんヤス田 廿二文 昼休    〔①乙宝寺→②新潟→③三条→④新潟。①の移動日は不明、③の移動日は8月12日〕 (3) 弐百文 金蔵坊ヘ礼 山上迄ノ案内者   百文 山上ヨリ新方 迄ノ舟ちん   十七文 ムシロ  弐百文   大福坊ヘ樽  八十五文 舟ちん    〔8月12日までに三条→新潟に帰着〕 (4)八月十二日ヨリ廿二日マテ 三百六十文ニイカタのハタコ同礼   廿二日 十五文 ヒルヤスミ ヤヒコニテ      〔「遣足帳」―史料4〕

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  金 蔵 坊 は、(1) 六 月 二 十 八 日 に24文、(2) 六 月 二十九日以降に25文の二回、合計49文の酒手礼銭を受 け取っている。24文の酒手は(1)六月二十八日の行真・ 山城の新潟への出迎えへの酒手礼銭である。二十八日 の「新潟→乙宝寺」の移動距離は約40キロメートル程 にも及ぶ。金蔵坊は道案内と荷物持ちを兼ねたのであ ろう。「新潟→乙宝寺」の案内料の支払いはないので、 金蔵坊は、真言宗寺院の乙宝寺から、醍醐寺使僧の出 迎えに派遣されたのであろう(乙宝寺が案内料を負担 する)。二回目の金蔵坊への25文の酒手礼銭は、「乙宝 寺→新潟→三条」の荷物持ちの駄賃の先払いであろう。 金蔵坊は、「乙宝寺→三条」の道案内料200文も合わせ ると、合計249文の礼銭を行真・山城から受け取ってお り、かなりの稼ぎになった。  「①乙宝寺→②新潟→③三条」の里程は、①陸路が約 40キロメートル、②船便は直線距離で約35キロメート ルである。乙宝寺からの出立日は分からないが、六月 二十八日に1日で強行踏破した「①新潟→乙宝寺」を帰 路はゆっくりと旅した。一泊目は藤塚浜か次第浜であ ろうか。二泊目は新潟湊の付近だったろうか。三日目 に三条湊に着くと、金蔵坊は荷物を宿所まで運んだあ とで三条から引き返したのだろう。旅の途中での旅籠 賃、昼食賃の支払いは一切ない。金蔵坊の道案内で、 昵懇の真言宗寺院などで厚遇を受けながら快適に旅を したのだろう。二泊三日の旅程は金蔵坊と同じ200文の 礼銭で道案内した大福坊の旅程から推定した(後述)。 「新潟→〈船便〉→三条」は船中泊はあり得ないので、 二泊目は新潟、一泊目は「乙宝寺→新潟」間の中間地 点付近と言うことになる。  (1)の「十文 舟ちん池ノハタ」は、二十八日の金 蔵坊の新潟への出迎えに対する酒手の支払いの前に記 載されているので、「新潟→乙宝寺」の約40キロメート ルの行程中での渡船賃の支払いである。従って、海岸 部の砂丘列のルート①から大きく外れる新発田市池ノ 端を「池ノハタ」の比定地とする坂井説は成立しない(注 42)。阿賀野川は江戸時代末期まで信濃川と河口付近で 合流していた。砂丘列の内側には、福島潟・紫雲寺潟 などの潟湖が連なり、胎内川も荒川と河口部で合流し ていた。戦国期には砂丘列を横断する河川は乙宝寺よ りも北の荒川しか存在しなかったから、「松ヶ崎浜→乙 宝寺」の間には渡船場はなかったことになる(図2)。「池 ノハタ」は、新潟近辺の渡船場と推定されるが、該当 する地名は残っておらず、比定地は不詳とせざるを得 ない(注43)。  (2)は、「村上市南部(旧神林村・旧荒川町)~胎内 市(旧中条町・旧黒川村)~関川村」と乙宝寺との間 の日帰り往復の行程と推定される。乙宝寺→宿田は約8 キロメートル前後の里程で日帰りが可能である。二十 九日以降の「十文 舟ちんヤス田」は、乙宝寺から旧 神林村の宿田へ行く渡船賃と解釈すれば、『越後国瀬波 郡絵図』に描かれた土沢村・花立村―宿田間の渡船賃 と推定される(図1・3)(注44)  (3)は「乙宝寺→新潟→三条→新潟」の旅程である。 礼銭200文を受け取った三条までの案内者の金蔵坊は、 乙宝寺が出発地なので同寺周辺で雇用したと推定する ほうが合理的である。乙宝寺には多数の塔頭寺院の寺 坊が付属していたから、金蔵坊はそれらの塔頭寺院の 中の一つであろうか(注45)。  乙宝寺と三条の滞在期間 「新潟―三条」間の船賃の 支払いは、100文と85文の二回記載されている。100文 の方は信濃川水系の上り船、85文の方が下り船の運賃 とすれば、マイナス15文の割引率は妥当だと言える。 六月二十五日の「津川→馬下」の阿賀野川下りの船賃 は54文であった。津川→馬下は直線距離で約19キロメー トル→54文÷19キロメートル=2.84文→1キロメート ル当たりの船賃になる。新潟湊(新潟市の白山神社か ら計測)→三条湊の直線距離は約35キロメートル→35 ×2.84文=99.4文で、新潟湊→三条湊の上り船の船 賃は阿賀野川の船賃とほぼ同じである。阿賀野川下り は急流で危険なために、信濃川水系の上りの船賃と同 じく割高だったのだろう。「山上=三条」とした坂井説 は、阿賀野川と信濃川水系の船賃の一致からも証明さ れる。  (3)八月十二日以前に大福坊に支払った「弐百文  大福坊ヘ樽」は、新潟から柏崎市軽井川(JR信越線安田 駅付近)までの案内料200文の先払いと祝儀の角樽酒の 先渡しである。直接面談した上で契約したであろうか ら、面談と前払いの場所は「乙宝寺→新潟→三条」の 途中の新潟であろう。八月二十二日に新潟以西の案内 者は中越地方の道に精通する大福坊に交代した。新潟 →軽井川の里程は約90キロメートル程であり、1日の行 程=最大で40キロメートルと仮定しても旅程は二泊三 日になる。大福坊への案内料の礼銭は金蔵坊と同額の 200文である。醍醐寺使僧を「乙宝寺→〈陸路〉→新潟 →〈船便〉→三条」へと送った金蔵坊の旅程は、約75 キロメートルの二泊三日であるが、陸路の90キロメー トルの二泊三日と同等と見なされた。案内料は距離で はなく、案内日数の方が基準のようである。  醍醐寺使僧の行真と山城は、九月五日に軽井川から 再び三条に戻り、三条に3日間逗留し―「弐百文 中二 日逗留 大福坊へ礼」―、大福坊に二回目の案内料200 文を支払った。軽井川→三条の里程は約60キロメート ルなので、200文には大福坊が自坊から軽井川へ赴く行 程(タクシーの迎車料金)が含まれていたのであろう。  新潟→石瀬の里程は約30キロメートルである。新潟 で三条へ向かわずに石瀬に向かえば、「乙宝寺→新潟→

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石瀬」の旅程も中二日の3日間になる。大福坊は真言宗 の修験山伏と推定されるが詳細は不詳である(注46)。  新潟には八月十二日から二十一日まで10日間旅籠に 連泊して360文支払った。1泊36文、1人18文になる。旅 籠賃は宿泊地ごとに詳細に記載されているが、乙宝寺 と三条では旅籠賃の記載がない。色部領内で支払った と推定される22文の昼休賃以外には支払いの記載はな い。三条ではどこに宿泊したかは不明であるが、乙宝 寺と三条では、地元の真言宗寺院で厚遇されて、旅籠 賃などは不要だったのであろうか。(2)の六月二十八 日から八月十一日迄の在乙宝寺、在三条の43日間には、 金蔵坊への二回目の25文の「乙宝寺→新潟」の荷物持 ちの駄賃・酒手礼銭以外には、この類の支払いが一つ もない。このことは両地での滞在期間中の行真・山城 の行程は、全て宿所寺院と訪問先寺院との間の日帰り の行程であったことを示唆する。  醍醐寺使僧の行真と山城は、永禄六年六月二十八日 から八月十一日まで旧中条町の真言宗の乙宝寺と旧三 条市内の真言宗寺院に宿泊して、印可授受と礼銭徴収 のために周辺の真言宗と修験山伏の寺院を巡回訪問し たと推定される(注47)。乙宝寺と三条市の滞在期間は43 日間もの長期間になるが、「遣足帳」には滞在日数の内 訳は記されていない。行真と山城は両地では真言宗寺 院などで厚遇を受けて、滞在期間中は一切支払いが不 要だったから、「遣足帳」(2)(3)の記載内容は極めて 簡素であり、「遣足帳」から滞在日数の内訳を推定する ことは不可能である。  43日間の宿泊・滞在日数の内訳は、行真と山城が日 帰りで巡回した乙宝寺周辺と三条周辺の真言宗の寺院 数に連動していると推定される。表4は新潟県立公文書 館所蔵の『新潟県神社寺院仏堂明細帳』から作成した、 三条市、胎内市、村上市南部(旧荒川町・旧神林村・ 村上市岩船)の明治前期の真言宗寺院のリストである。 『明細帳』は明治十六年(1883)以降に成立したが完成 年は不明である(注48)。廃仏毀釈、修験道禁止令などによっ て、既に廃寺になったものもあろうが、概ね江戸時代 の真言宗の教勢を窺い知ることが出来る(注49)。  寺院数が最も突出しているのは、真言宗の大寺の乙 宝寺がある旧中条町の16ヶ寺、次が旧神林村の13ヶ寺 で、乙宝寺周辺のb地域の合計は32ヶ寺を数える。一 方のa三条市は旧下田村を含めても15ヶ寺に過ぎず、 旧三条市に限定すると9ヶ寺に激減する。43日間をa 15ヶ寺とb32ヶ寺で案分すると、a三条地域(15÷47 ×43日)=13.7日、b乙宝寺周辺地域(32÷47×43日) =29.3日間になる。旧三条市の9ヶ寺に限定して再案 分すると、a三条地域(9÷41×43日)=9.4日、b乙 宝寺周辺地域(32÷41×43日)=33.6日間になる。  行真と山城は九月五日に2泊3日の日程で柏崎市の軽 井川から再び三条へ戻っている。三条に滞在中に留守 不在などの理由で接触出来なかった真言宗・修験山伏 の寺院を再訪するめに、急遽三条に引き返したのであ ろう。a三条地域の滞在日数は、再訪分の3日分を差し 引くと、在三条=7日、在乙宝寺=約36日程度(三条へ の移動日の3日間を含む)の内訳になると推定される。  坂井氏が「ヤス田」に比定した阿賀野市保田には、『明 細帳』記載の真言宗寺院は存在しない。旧安田町では 寺社集落の福隆寺の1ヶ寺だけが記載されている。従っ て、旧安田町の保田は醍醐寺使僧二人の巡回訪問の目 的地にはなり得ない(注50)。永禄六年六月二十九日(1563 年7月29日)頃は越後平野は猛暑にむせ返る時節である。 新潟では猛暑の野良で働く農民たちは、背中にゴザム シロを付けて炙るように照りつける日差しを避ける。 二十九日以降に購入した十七文のムシロは猛暑の日照 りを避けるためのものだったろうか。  乙宝寺は、仏舎利を安置する、北越後・揚北で最大 の在地霊場であり、財力も豊かで、揚北地方の真言宗 寺院の頂点に立つ名刹である。乙宝寺は、揚北地方で は一生に一度は参拝しなければならないとされている 霊場である。私は幼少の頃に父親と一緒に参拝して以 来、何度も参拝したことがある。困難な長旅を経て北 越後の乙宝寺に辿り着いた真言宗醍醐寺派本山からの 使僧の行真と山城を、乙宝寺が暖かく歓迎して、厚遇 したことは想像に難くない。  行真と山城の乙宝寺での滞在は1ヶ月以上にも及ん だ。乙宝寺周辺の奥山庄と小泉庄は、揚北・北越後に 於ける真言宗勢力の中心地であった。行真と山城は、 長期間の滞在と巡回によって、印可授受の礼銭を沢山 表 4―明治前期に於ける三条市と乙宝寺周辺地域の 真言宗寺院数の比較 a 三条市 旧三条市 9 b 胎内市 旧中条町 16 b 村上市 旧荒川町 1 15ヶ寺 旧下田村 6 17ヶ寺 旧黒川村 1 南部 旧神林村 13 15ヶ寺 村上市岩船 1 /注 45『明細帳』より作成 図 5―新潟県胎内市 乙宝寺(2016 年 7 月/筆者撮影)

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得ることが出来た。醍醐寺使僧たちの長い「北国下り」 の旅の最終目的地は、「真言宗の金城湯池の乙宝寺」だっ たのである(図3)(注51)。  不思議な昼休・ヒルヤスミ賃 「遣足帳」には「昼休」 「ヒルヤスミ」の支払いが散見されるが、旅籠賃と駄賃 のように毎日条に記載されてはいない。土地勘のある 福島県~山形県南部~新潟県内の事例に限定して分析 するが、「(永禄六年)五月十一日ニ(福島県)田村ヨ リ(山形県)長井越ス……六月十二日(福島県)岩城 ヨリ田村ヘ越ス……六月廿二日(福島県)会津ヨリ立 ……廿八日ニ(新潟県)乙宝寺ヘツク」までの旅程中 では、昼休賃の支払いは記載されていない。  新潟県内では、①六月二十九日以降の色部領内での 「廿二文 昼休」、②「八月廿二日 十五文 ヒルヤス ミ ヤヒコニテ」、③九月十四日以降の上越市柿崎区鉢 崎から上越市直江津・越後府中までの間の「廿四文  昼休」、④十月五日「イトイ川 廿二文 ヒルヤスミ以 下」、⑤糸魚川市市振と富山県黒部市三日市までの間の 十月七日「廿六文 昼休以下」の五回の昼休賃の支払 いが記載されている。支払額は、①22文、②15文、③ 24文、④22文、⑤26文と、一人当たりの旅籠賃16文に 比べても決して安い金額ではない。1563年7月29日から 11月1日までの約3ヶ月間に、わずか五回しかないこと からすると、特別な支出であったと推測される。  ①は旧神林村の宿田へ向かう舟賃10文の後に支払わ れているが、色部領内の何処での支払いかは分からな い。③と⑤に付いても上記の行程の途中の何処かは分 からない。「遣足帳」には昼食代・弁当代の記載はない。 弁当は前泊の旅籠か宿所の寺院が用意したか、朝夕の 一日二食だったと推定されるので、昼休賃が昼食代・ 弁当代を指すことはあり得ない。ヒントになるのは、 具体的な地名を記載した弥彦での②15文の昼休賃の支 払いである。弥彦には越後一宮の弥彦神社が鎮座する。 ②の15文の昼休賃は霊場の弥彦神社・神宮寺への参拝 料と見て間違いないであろう(注52)。④十月五日の22文 の昼休賃は、奴奈川姫を祀る糸魚川市の天津神社への 参拝料であろうか(注53)。  この推定を敷衍すると、①22文は色部領内の在地霊 場の名刹、岩船の曹洞宗諸上寺と岩船貴船神社への参 拝料と推定される(注54)。同じく③の24文は、頸城郡と 同郡以北の奥郡との境目の米山に鎮座する、東方瑠璃 光浄土の米山薬師如来遙拝の参拝料であろう(注55)。⑤ は越後と越中との国境の難所親不知か、越中国の在地 霊場への参拝料であろうが、具体的な参拝対象は不明 である。  越後国内での昼休賃の支払いは、在地霊場や地元の 名刹・名社への参拝料を指すと推定したが、何故参拝 料と書かずに昼休賃と表記したのかは不明である。真 言宗醍醐寺本山から公務出張として派遣された使僧の 行真と山城は、物見遊山の支出と判定されること避け るために、昼休賃と言うファジーな用語を使ったのか も知れない。「ヤス田」を阿賀野市保やす田だとすると、保田 には著名な中世の在地霊場・名刹は不在なので、昼休 賃=参拝料の支払いを説明出来ない。「ヤス田=保田」 説はこの点でも成立しない(注56)  以上の詳細な検討の結果から、永禄六年の盛夏に北 越後の揚北地方をを旅した、醍醐寺使僧の行真と山城 が辿った道筋は、図2に示した海岸の砂丘列沿いのルー ト①であることが証明された。永禄五年十二月十六日 (1563年1月20日)に石瀬青龍寺の僧侶たちが、観音の 越年と修正会・吉書始めのために、行真と山城と同じ ルート①を色部館へと急いでいたと仮定してみよう。 シベリアからの季節風に逆らいながら、海岸沿いの砂 丘列の道を助け合いながら進む、青年僧侶たち姿が思 い浮かぶだろう。   2.天正十九年の津軽鷹の転送命令  前節で推定復元した醍醐寺使僧の行真と山城の永禄 六年六月二十八日(1563年7月28日)の1日での「新潟 →乙宝寺」の行程は、船便を使っていない、行程が約 40キロメートル程度と長距離であり、ルート①の砂丘 列の道程以外には成立しないことから導き出された合 理的な結論であるが、「遣足帳」は醍醐寺の使僧が簡略 に作成した、公務出張に係る公金支出の手控えの備忘 録であり、「新潟←→乙宝寺」の旅程が具体的に記載さ れている訳ではない。  次の天正十九年(1591)と推定される「豊臣秀吉朱印 状」で、秀吉は津軽為信に対して津軽鷹の京都への献 上と転送を命じた(注57) 御鷹儀、津軽右京亮被仰付差上候条、泊々宿並鷹之餌 入念自其所々可申付候也 十月晦日 (朱印) 〔「豊臣秀吉朱印状」―史料5〕  同朱印状に記載された越後国内の新潟市西蒲区竹野 町迄の宿営地は次の通りである。「①温海川(山形県鶴 岡市・旧温海町)→②中継(新潟県村上市・旧山北町) →③猿沢(村上市・旧朝日村)→④岩船(村上市)→ ⑤次第浜(聖籠町)→⑥新潟→⑦竹野町(旧巻町)」(図 2)。  天正十九年十月三十日は西暦の1591年12月15日にな る。12月15日に「豊臣秀吉朱印状」を京都から北奥の 津軽氏に送付すれば、津軽鷹の出立は早ければ12月末、 普通に準備を整えれば1月中旬頃になるだろう。いずれ にしても越後国内の通過と宿営は厳冬期になる。旅程 は「①→約16㎞→②→約24㎞→③→約16㎞→④→約30

参照

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人口 10 万人あたりの寺院数がもっとも多いのが北陸 (161.8 ヶ寺) で、以下、甲信越 (112.9 ヶ寺) ・ 中国 (87.8 ヶ寺) ・東海 (82.3 ヶ寺) ・近畿 (80.0

一方で、平成 24 年(2014)年 11

図⑧ 天保十四年出雲寺金吾版『日光御宮御参詣 

基盤岩 グリーンタフ 七谷層 上部寺泊層 椎谷層

西山層 椎谷層 上部寺泊層

西山層 椎谷層 上部寺泊層