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宇治の大君の忌日 ―付「大嘗祭・新嘗祭」と「五節」―

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Academic year: 2021

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─ 15 ─

宇治の大君の忌日

 

付「大嘗祭

新嘗祭」と「五節」

 

 

 

はじめに 総角の巻、薫二十四歳の年の十一月に大君は死去した。それが豊明の節 会の夜であったことは明白であるが、その日付は記されていない。大君の 死去に関する情報は、豊明の節会ということだけで、具体的な暦日、つま り忌日は示されていないのだろうか。 十一月に入り大君は小康を得ていると薫には伝えられていた。公私に多 忙な時期であり、その後宇治に使いを出さない日が続いた薫は、思い立っ て大君を見舞った。日中のことである。宇治に着いた薫は弁の君から実は 大君の病状が思わしくないことを知らされる。急ぎ修法などの手配をし、 日が暮れてからは床に臥す大君を直接に看護する。その暁方に、宵居に侍 していた宇治の阿闍梨が、まだ浄土に行けないでいる八の宮の夢を見たと 語った。これを聞いた大君は「苦しき御ここちにも、いとど消え入りぬば か り」 ( 102)1 注 に 思 っ た と あ る。そ し て「な ほ か か る つ い で に い か で 亡 せ な む」 ( 104) と思い詰め、受戒を願うが聞き入れられることは な 注 注 い 。 翌日は、風雪が荒れまどう。厳冬の宇治の景を目にしながら薫は「豊明 は 今 日 ぞ か し」 「都 に は い と か う し も あ ら じ か し と、人 や り な ら ず 心 細 う て」 ( 105) と 京 に 思 い を は せ る。し か し 薫 の 心 を よ ぎ っ た こ の 意 識 は、す ぐ に 大 君 の 上 に 移 り、 「う と く て や み ぬ べ き に や、と 思 ふ 契 り は つ ら け れ ど、恨 む べ う も あ ら ず」 、「思 ひ つ る こ と ど も か た ら は ば や」 (同) と 記 さ れている。 豊明の節会は簡略に言えば、大嘗祭 ・ 新嘗祭の後、天皇出御のもと紫宸 殿で行われる歌舞を伴う華やかな宴で あ 注 注 る 。豊明の節会に賑わうきらびや かな都と寂寞とした宇治とが対比されている。閉ざされた宇治の空間から 都の今へと思いを向ける心の動きは、薫が本来いるべき場所を読者に思い 起こさせる。大君に心を傾けながらも都のことが意識に上ったのは、薫の 現実的な一面であり、同時に都を捨て置いても大君と向き合う思いの深さ を強調する印象的な場面でもある。 この日も暮れ果てると薫は病床近くに寄り大君と語るが、やがて「見る ま ま に も の の 枯 れ ゆ く や う に」 ( 109) 大 君 は 死 去 す る の で あ る。薫 は「ひ た ぶ る に 煙 に だ に な し 果 て て む」 ( 110) と そ の 夜 の う ち に 葬 儀 を 済 ま せ た とある。 本稿では、大君の忌日と忌日に纏わる問題について考えてゆきたい。 学苑 ・ 日本文学紀要   第九六三号   一五~三四   (二〇二一 ・ 一)

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─ 16 ─ 一 『源氏物語』には多くの人物が登場するのに比例して多くの死が語られ、 その描かれ方もさまざまである。 光源氏の場合は翌年の出家を暗示しながら幻の巻が閉じられる。実態の な い 雲 隠 の 巻 が あ り、次 の 匂 兵 部 卿 冒 頭 で「光 か く れ た ま ひ に し の ち」 ( 161) と 源 氏 は す で に 死 去 し て い る こ と が 示 さ れ る。幻 の 巻 と の 間 に 八 年 の空白があり、晩年の源氏の動静は不明なままである。宿木の巻に至り薫 の言葉として「二三年ばかりの末に世を背きたまひし嵯峨の院にも」 ( 172) とあって、源氏は、幻の巻の翌年、五十三歳で出家し、嵯峨の御堂で二三 年過ごしたことが判明する。享年は五十四、五歳と推定される。しかし晩 年については最少の情報しかなく、光源氏がいつ、どのように世を去った のか、つぶさに語られることはないのである。 匂兵部卿の巻以降には、朱雀院 ・ 致仕の大臣 ・ 髭黒の大臣などもすでに 故人であることが言われるが、源氏以上にその晩年の様子は記されていな い。第三部の物語を展開する作者には、光源氏を含めすでに退場した人物 への感傷などはなかったようである。 これに対し物語が進行している中で死を迎える人物は、その時の展開へ の関与の深浅によって描かれ方が異なっている。 葵の上の父太政大臣や空蝉の夫常陸の介などは報告程度である。また北 山の尼君や弘徽殿の大后などの死は物語が先に進む要素として軽く扱えな いが、やはり記述は簡潔である。 一 方、死 去 の 前 後 の 様 子 が 詳 し く 語 ら れ る 人 物 た ち が い る。桐 壺 の 更 衣 ・ 夕顔 ・ 葵の上 ・ 六条の御息所 ・ 藤壺 ・ 柏木 ・ 一条の御息所 ・ 紫の上 ・ 八の宮 ・ 宇治の大君は、それぞれが死にまつわる挿話を持っている。 なかでも、男主人公が臨終に立ち会う夕顔 ・ 藤壺 ・ 紫の上 ・ 宇治の大君 の四人の臨終の場面は、女たちの死に光源氏や薫が受ける衝撃に相応しい 重みを有し、丁寧に書き込まれている。作者は熱量的にも質量的にも筆を 費やしているのである。 登場人物が、いつ、どのように死去するかということは、その後の物語 の展開と切り離して考えることはできない。訃報程度か、密度の濃い場面 となるかの差には、光源氏がそうであるように、物語での活躍の多寡とは 異なる基準が働いているのである。 その意味では死去の時期についても、物語の展開における要請、あるい は必然と捉えることができる。たとえば紫の上が常に源氏の傍らにいるた めには、葵の上が物語から去ることは不可避であった。源氏が准太上天皇 の位を賜る直接の契機は藤壺の死にあった。登場人物の死は、物語におけ る役割を何かしら担うものなのである。 二 物語の流れの中での死は、当然、年立に位置付けられる忌日があること になる。しかし主要な人物の総てに暦日で明示された忌日があるわけでは ない。 すでに見たように、光源氏 ・ 朱雀院 ・ 致仕の大臣などのように死去の時 期の特定が難しい例がある。また桐壺の更衣の母のように死去の年だけが 示されている例がある。桐壺の更衣や六条の御息所は死去に伴う印象的な 場面を持つものの、夏や秋という季節にしか言及されていない。 藤壺は薄雲の巻に「春のはじめよりなやみわたらせたまひて、三月には

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─ 17 ─ い と お も く な ら せ た ま ひ ぬ れ ば」 ( 164) と あ り、そ の 月 の う ち に 崩 御 す る。 弘徽殿の大后は、若菜上冒頭で暗に崩じていることが示され、そこから八 年後の若菜下の巻に崩御が九月であったことがわかる。薫の誕生と五十日 の 祝 い に 挟 ま る 柏 木 の 死 は、明 ら か な 記 載 は な い が 二 月 の こ と と 推 察 で き 注 注 る 。このように日付は不明だが月については示されている人物がいる。 さらに概ねの月日が示されている場合がある。北山の尼君は「立ちぬる 月 (九 月) の 二 十 日 の ほ ど」 (若 紫 221) に 亡 く な っ た。葵 の 上 の 場 合 は、死 去 か ら 二 三 日 遅 れ て「八 月 二 十 余 日 の 有 明」 (葵 9注) に 行 わ れ た 葬 儀 の 様 子 が 描 か れ て い る。桐 壺 院 は 四 十 九 日 が「師 走 の 二 十 日」 (賢 木 141)、国 忌 が「霜 月 の 朔 日 ご ろ」 ( 170) で あ る こ と か ら、十 一 月 初 旬 に 崩 御 し た こ と が わ か る。夕 霧 と 落 葉 の 宮 の 関 係 に 翻 弄 さ れ た 一 条 の 御 息 所 の 死 は、 「八 月 中 の 十 日 ば か り」 (夕 霧 1注) に 夕 霧 が 小 野 に 赴 い て か ら 三 日 の 間 に お こ っ た 出 来 事 の 結 果 で あ っ た。ま た 宇 治 の 八 の 宮 は、 「八 月 二 十 日 の ほ ど」 (椎 本 323) の 明 け 方 に な っ て、夜 中 に 亡 く な っ た と 山 寺 か ら 山 荘 に 知 ら せ があった。どれも厳密に何日と決めにくい書き方である。 こうした事例に対し、死去の月日だけでなく時間帯までもが示される例 がある。 夕顔が某の院で急死したのは八月十六日の夜であった。源氏がもののけ の 気 配 に 目 を 覚 ま し た の が「宵 過 ぐ る ほ ど」 (夕 顔 148) で あ り、か さ ね て 具 体 的 に「名 対 面 は 過 ぎ ぬ ら む、滝 口 の 宿 直 奏 今 こ そ」 ( 150) と 名 対 面 が 行われる亥の一刻、つまり九時を過ぎたころであることを記す。女の死に 直面した源氏の長い一夜の始まりとなる時刻が示されているのである。 紫の上は、源氏と明石の中宮との唱和の場面に続き、二人に看取られな が ら「明 け は つ る ほ ど に 消 え 果 て た ま ひ ぬ」 (御 法 113) と 記 さ れ て い る。 その後の源氏と中宮の悲嘆の様子、夕霧の目を通して亡骸の美しさが語ら れ、 「や が て そ の 日、と か く お さ め た て ま つ る」 ( 117) と す ぐ に 葬 儀 が 行 わ れた。そして火葬を終えた時に「十四日に亡せたまひて、これは十五日の 暁 な り け り」 ( 118) と 紫 の 上 の 死 去 の 日 が 示 さ れ る。少 し 前 に「秋 待 ち つ け て」 ( 110) と あ り、七 月 な の か 八 月 な の か 判 断 し に く い が、幻 の 巻 の 一 周忌の法要は八月に行われており、紫の上は八月十四日早朝に死去したこ とが明らかになるのである。 先に述べたように夕顔 ・ 藤壺 ・ 紫の上 ・ 宇治の大君は、男主人公が立ち 会う臨終の様子が細やかに描かれている。このうち夕顔 ・ 紫の上 ・ 大君の 三人は、源氏あるいは薫が相手を目で捉え、息づかいを感じながら看取る。 しかし、重篤な藤壺を見舞った源氏は病床に近い几帳のもとに寄りはす るが、取次ぎの女房に答えるかすかな声を耳にする以外になにもできなか っ た。源 氏 は「年 ご ろ お ぼ し 絶 え た り つ る 筋 さ へ」 (薄 雲 166) と 思 っ て お り、藤壺との関係はすでに過去のことと認識されている。藤壺の場合は、 見舞われる様子も源氏との関係も、夕顔 ・ 紫の上とは明らかに異なってい る。 『源 氏 物 語』の 登 場 人 物 の 中 で も 重 要 な 位 置 に あ る 藤 壺 だ が、死 去 の 日付の記載はなく、忌月が示されるだけである。 このように死去の場に光源氏が立ち会い、月 ・ 日 ・ 時間が明らかなのは 夕顔と紫の上の二人だけである。臨終の場面の濃度と忌日の有無には明ら かに相関が認められる。忌日は、物語におけるその時の人物の存在の重さ に比例して示されているのである。 ここまでに忌日の有無の持つ意味を見たが、暦日で忌日が示された人物 としては特殊な夕霧の祖母大宮について触れておきたい。夕霧との関係を 修復し、雲居の雁の縁談を進めたい内大臣は、

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─ 18 ─ い か な る つ い で し て か は ほ の め か す べ き、な ど お ぼ す に、三 月 二 十 日、大 殿、 大宮の御忌日にて、極楽寺にまうでたまへり。 (藤裏葉 280) と、機会を探すうちに大宮の三回忌が行われることになった。この法要に は夕霧も参列し、四月上旬の藤の花の宴の和解へと繋がってゆく。夕霧と 雲居の雁を気にかけていた祖母の法要がきっかけになるという設定である。 ここに大宮の忌日が「三月二十日」と暦日で示されているのである。 後述するように、もともと大宮の死は藤袴の巻において玉鬘の除服を通 して知られていた。この時は、夫の太政大臣 ・ 柏木などと同じように、忌 日は年と月で表わされている。大宮には一度示された忌日に改めて具体的 な日付が与えられているのである。しかし、印象的な臨終の場面を持つ人 物とは明らかに質が異なり、暦日の忌日を持つ人物としては異例であると 言わなければならない。 加えて法要の時期さえわかれば十分なこの場面は、通常であれば「三月 二 十 日 の ほ ど」な ど と す る と こ ろ で あ ろ 5 注 う 。「三 月 二 十 日」と い う 言 い 切 りには、大宮の忌日を指定しようとする作者の意思が読み取れる。 これまでに見てきたように暦日の忌日を持つ人物は限られ、その臨終の 場面は力の入った筆致を伴っている。しかし大宮には彼女自身の物語があ るわけではない。それでも桐壺の巻から夕霧の巻までと登場する期間は長 く、葵の上の母、源氏の姑、夕霧たちの祖母としてさまざまな役割を割り 振られ、大宮に代わる人物がいないことも事実である。 大宮は三回忌ながら日付が付与され、暦日の忌日を持つ人物に準じた待 遇 を 受 け て い る。 『源 氏 物 語』に お け る 忌 日 の 重 み を ふ ま え る と、こ の 特 別な対応は、物語における大宮の働きの顕彰、言わば贈位と同様の意味が 含まれた非常に稀な例と考えるしかある ま 6 注 い 。 三 さて、物語における死去の場面の大きさからしても、宇治の大君は、内 容的にも分量的にも夕顔や紫の上に匹敵する規模で描かれている。俯瞰的 に見ると、大君の死は宇治十帖前半のクライマックスであり、同時にその 後の物語の始発ともなっている。大君の存在は宇治十帖全体を覆い、物語 の要となっているのである。 大君は、豊明の節会の夜に薫に看取られながら死去する。その日を十一 月の中旬あるいは二十日過ぎとする指摘はあ る 7 注 が 、しかし本文のどこにも 具体的な日付を見いだすことはできない。 『源氏物語』中の人物の死去は、 年 ・ 季節 ・ 月 ・ 日で示されており、忌日を宮中の行事だけで表わす例はほ かに見ない。 この時の総角の巻の豊明の節会は、新嘗祭に伴う宴である。新嘗祭は律 令では十一月の下の卯の日と定められて い 8 注 る 。従って新嘗祭の暦日は一定 していない。豊明の節会は、新嘗祭の次の日に行われる行事であり、節会 の暦日もやはり年によって変わるのである。それでは豊明の節会に死去し た大君の忌日は不確かなままなのだろうか。 物語は少し遡るが、十月末の匂宮の動静を語るなかに「五節などとく出 で 来 た る 年 に て」 ( 96) と、こ の 年 の 特 徴 が 述 べ ら れ て い る。五 節 と は 十 一月の豊明の節会に舞姫が舞う五節舞を中心とした行事である。十月の舞 姫の選出から始まり、付き添いの童女や女房等の選定、衣裳を整えるなど の準備があり、節会前の丑の日に内裏に参入して帳台試が行われ、寅の日 に御前試、卯の日に童女御覧と続き、辰の日に五節舞が行われる。つまり

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─ 19 ─ 五節が早く巡ってくることは、豊明の節会の時期も早かったことを意味し ているのである。 物語の展開にも、新嘗祭や豊明の節会が早い日取りであったことが踏ま えられている。大君に関する「この月となりては、すこしよろしくおはす、 と 聞 き た ま ひ け る に」 ( 97) と い う 叙 述 は、薫 は 十 一 月 に 入 っ て 何 日 か の 病状は把握していたと読み取れる。続けて「公私もの騒がしきころにて、 五 六 日 人 も た て ま つ れ た ま は ぬ に」 (同) と あ る。薫 に は 小 康 を 得 て い る という安心もあったのであろう、数日のあいだ、便りも様子見の使いも怠 った。急に大君のことが心配になった薫は「わりなきことのしげさをうち 捨てて」 (同) 昼のうちに宇治に向かったのである。 大君の死去はその翌日、豊明の節会の夜のことである。従って薫が宇治 に向かったのは卯の日、つまり新嘗祭当日に当たるのである。新嘗祭自体 は天皇が行う祭祀だが、付随する諸行事があり、薫のどうにもならない忙 しさの事情も具体性をおびている。このように物語は豊明の節会が十一月 の早い時期であったことを背景に展開しているのである。 総角の巻の五節について『花鳥余情』は、 五 節 は 十 一 月 中 の 丑 に 始 ま る。と き 年 は 十 三 日 の 丑 日 也。新 嘗 会 は 中 の 卯 の 日なり。 と し て、早 い 年 は「中 の 丑」 、つ ま り 二 の 9 注 丑 の 十 三 日 か ら 五 節 が 始 ま る と するのである。 『細流抄』 『岷江入楚』などはこの説に従っている。しかし 『河海抄』少女の巻には、 十 一 月 中 丑 日 よ り は じ ま る。若 丑 二 あ れ ば 下 の 丑 日 也。但 上 ノ 丑 も 有 例。比 日まいりの日と云。 と五節には一の丑から始まる例があることを指摘し、現在の注釈は、この 年の五節は一の丑の日に始まったと理解するのが通説になって い 注1 注 る 。 一方、豊明の節会については、現在も「十一月始の辰 の 注注 注 日 」とする説と、 「十 一 月 中 の 辰 の 注1 注 日 」と す る 説 と に 分 か れ て い る。暦 日 に す る と 十 二 日 の 違いが生じる。大君の忌日が定まらない原因はこのあたりの理解にあるよ うである。 仮りにもし、この年の五節関連の行事が「十三日の丑日」に始まったと すると、豊明の節会が行われる辰の日は十六日ということになる。しかし 大君の忌日を暦日で示した注釈は見当たらない。 四 本題からやや逸れるが、本章ではそもそも平安時代の新嘗祭や豊明の節 会がどのような宮廷行事であったのかを確認する。 新嘗祭は、天皇がその年の稲の初穂を、皇祖神に供えて共食する祭祀で あり、毎年行われる。大嘗祭は、即位後に初めて行う新嘗祭のことで、一 代一度の践祚大嘗祭を指している。しかし『養老律令』では新嘗は「大嘗 祭」 、践祚大嘗は「大嘗」とどちらにも大嘗という語を用いて い 注1 注 る 。『政事 要略』巻二十六「年中行事十一月二」には「新嘗大嘗名異 実 注1 注 同 」とあり、 近代以降も「古は大嘗をも新嘗と書し、新嘗をも大嘗と書して、其区別明 な ら ず」 (『古 事 類 注1 注 苑 』) と 理 解 さ れ て い る。用 語 と し て 践 祚 大 嘗 祭 と 新 嘗 祭 とが意識されるのは『貞観儀式』以後のことであり、それ以前は大嘗と新 嘗の語は明確に区別されていなかったようで あ 注1 注 る 。

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─ 注0 ─ また「大嘗祭」 「大嘗会」 、「新嘗祭」 「新嘗会」という語が用いられてい る。 『貞観儀式』は祭祀を「大嘗祭」 、節会を「大嘗会」としている。藤原 行成の『新撰年中行事』も「新嘗祭」と「新嘗会」を使い分けている。し かし記録類全般を見ると必ずしも明確に区分されていないようである。 『続日本紀』天平勝宝八年 (七五六) 十一月十七日丁卯条では新嘗の祭日 に「新 嘗 会」の 語 を 用 い て い る。 『日 本 紀 略』は 文 徳 天 皇 以 降 の 大 嘗 祭 を 「大嘗会」と記している。また『吏部王記』延長五年 (九二七) 十一月二十 一 日 戊 辰 条 は 豊 明 の 節 会 を「新 嘗 会」と 記 し て い る ほ か、 『権 記』寛 弘 六 年 (一 〇 〇 九) 十 一 月 十 七 日 戊 辰 条、 『小 右 記』寛 仁 元 年 (一 〇 一 七) 十 一 月二十二日丙辰条などをはじめ多くの記録類は豊明の節会を「新嘗会」と している。 こ の よ う に「大 嘗 会」 「新 嘗 会」は、祭 祀 に も 節 会 に も 使 わ れ て い る の である。本稿では引用以外は、祭祀は「大嘗祭」 「新嘗祭」 、節会は「豊明 の 節 会」な ど「節 会」と し、祭 祀 節 会 を 含 め た 時 は「大 嘗」 「新 嘗」と い う語で考 え 注1 注 る 。 大嘗祭 ・ 新嘗祭について『令義解』神祇令は、 仲冬   上卯相嘗祭/下卯大嘗祭/寅日鎮魂祭 とし、さらに大嘗祭に次のように付注している。 謂。若有 二 三卯 一 者。以 二 中卯 一 為 二 祭日 。 一 不 三更待 二 下卯 一 也 卯 の 日 が 二 度 の 年 は「下 卯」 、三 度 の 年 は「中 卯」が 祭 日 に 指 定 さ れ て いる。これはつまり大嘗祭 ・ 新嘗祭は十一月二の卯の日であることを言い 換えているので あ 注1 注 る 。 二の卯の日は、具体的には暦日の十三日から二十四日にめぐってくる。 従って大嘗祭 ・ 新嘗祭は十一月十三日から二十四日の間に行われなくては な ら な い。平 安 期 の 記 録 類 に 徴 す る と、た と え ば 貞 観 十 四 年 (八 七 二) 十 一 月 十 三 日 己 卯 (『三 代 実 録』 ) 、あ る い は 承 和 十 二 年 (八 四 五) 十 一 月 二 十 四 日 丁 卯 (『続 日 本 後 紀』 ) と、祭 祀 は 十 三 日 か ら 二 十 四 日 の 期 間 に 収 ま っ ており、十二日以前、または二十五日以後という例はない。 さて十一月は、 『令集解』にある「相嘗祭」 「鎮魂祭」のほかにも祭祀が 多く、加えて豊明の節会関連の行事が立て込んでも い 注1 注 る 。ここでは祭日の 規定が新嘗祭と関連が深い園韓神祭と鎮魂祭について見ることにする。 園韓神祭は園并韓神社祭とも言われ、平安遷都以前からの古社で、宮内 省 内 に 鎮 座 す る 園 神 ・ 韓 神 二 神 の 祭 礼 で あ 11 注 る 。祭 日 に つ い て は『貞 観 儀 式』第一に、 園并韓神祭儀〈二月春日祭後丑。十一月新嘗会前丑〉 と、二月は春日祭後の丑の日、十一月は新嘗祭前の丑の日と規定されてい る。春 日 祭 は、 「二 月 十 一 月 上 申」 (『貞 観 儀 式』第 一) で あ る。園 韓 神 の 祭 日は上の丑とか中の丑ではなく、春日祭と新嘗祭を基準にして決められて いるのである。 鎮魂祭は、宮内省正庁で行われ、天皇の御魂を体内に安鎮せしめ、健康 を祈る呪法とされて い 1注 注 る 。祭日は、すでに挙げたように『令集解』に十一 月「寅日」とあるが、 『貞観儀式』第五は、 鎮魂祭儀〈十一月中寅日。中宮祭准此。但東宮用巳日〉 と「中寅」に限定している。

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─ 注1 ─ さらに『延喜式』 「践祚大嘗祭」の班幣に、 凡 十 一 月 中 寅 日〈卯 在 二 朔 日 、 一 用 二 上 寅 一 〉以 前。内 外 庶 事 整 斉 已 畢〈鎮 二 御 魂 、 一 同 二 尋常 一 とある。諸事の準備は「中寅」以前に済ませるが、一日が卯の時に限り完 了は「上寅」以前としている。鎮魂祭に「同尋常」とあるのはわかりにく いが、いずれにしろ鎮魂祭と大嘗祭は「両者は密接不 可 11 注 分 」な祭祀である。 一日が卯の時、鎮魂祭が「中寅」では新嘗祭の後になってし ま 11 注 う 。 このように園韓神社祭も鎮魂祭も二の卯に行われる大嘗祭 ・ 新嘗祭によ ってその祭日が決定されているのである。 新嘗に行われる豊明の節会は辰日の節会とも言 わ 11 注 れ 、祭祀翌日の辰の日 に 天 皇 が 群 臣 に 賜 る 宴 で あ 11 注 る 。節 会 は 初 期 は 豊 楽 院、清 和 天 皇 (貞 観) 以 降は紫宸殿で行われるようにな っ 11 注 た 。一定してはいないが天皇は申の刻に 出御し、散会は亥の刻、時には子や丑の刻に及ぶこともあったようである。 夕刻前から深更に至る宴で、新嘗祭のために醸した白酒黒酒がふるまわれ、 吉野の国栖の歌笛が奏される。宴の終わり近くに大歌所の楽人の奏する大 歌に合わせて四人の舞姫が五節舞を舞 っ 11 注 た 。 大嘗に行われる節会は三日にわたる。祭祀翌日の辰日の節会、翌々日の 巳日の節会に続き、午の日に豊明の節会が行われた。午日の節会とも 言 11 注 う 。 国栖奏、五節舞のほかに伴氏佐伯氏の久米舞や安倍氏の吉志舞、大和舞な ど が 加 わ り、節 会 は 三 日 と も 豊 楽 院 (『貞 観 儀 式』第 四) で 行 わ れ た。ち な みに白酒黒酒は辰日の節会に供され、舞姫は五人になる。 宴 と し て の「豊 明」の 初 出 は、 『古 事 記』の「天 皇 聞 二 看 豊 明 一 之 日」 (応 神 天 皇) だ が、大 嘗 ・ 新 嘗 の 節 会 と し て は 称 徳 天 皇 践 祚 大 嘗 の「今 日 方 大 新 嘗 乃 猶 良 比 乃 豊 明 聞 行 日 仁 在」 (『続 日 本 紀』 ) が 早 11 注 い 。と こ ろ が「豊 明 節 会」と い う 用 語 自 体 の 初 例 は『小 右 記』永 延 二 年 (九 八 八) 十 一 月 十 九 日壬寅条であり、平安前期の記録類は豊明の節会を「新嘗会」と記すほか、 単に「節会」としたり「宴会」などと記述して い 11 注 る 。 なお孤例と思われるが『政事要略』巻二十六「年中行事二」には「中辰 日。豊楽節会」として「豊楽」に「トヨラカ」の訓みを記す。 五 五節舞は、殊に感興を尽くす行事であったようで、豊明の節会のなかで 最 も 関 心 が 高 か っ た。 『貞 観 儀 式』第 五 に は「大 歌 并 五 節 舞 儀」の 項 目 が 立てられており、五節関連の記事は儀式書、日記など諸記録の枚挙にこと 欠かない。 五節舞は、容姿の優れた年若い四人の乙女が舞う華やかな行事で あ 1注 注 る 。 『政 事 要 略』巻 二 十 七「辰 日 節 会 事」は、 「五 節 舞 者 浄 御 原 天 皇 之 所 レ 制 也」と し て、天 武 天 皇 が 神 女 の 舞 を 見 た こ と に 由 来 し、さ ら に「挙 レ 五 変。故 謂 二 之 五 節 一 」と 神 女 が 袖 を 五 度 挙 げ た こ と か ら 五 節 の 名 が 出 た と 説 明 し て い 11 注 る 。五 節 舞 は、初 期 は 参 入 後 に 常 寧 殿 で 調 習 し た と 推 察 さ れ る 11 注 が 、舞 姫 の 実 家 で 行 わ れ る よ う に な り、 「舞 師 が 一 昼 夜 ほ ど 教 習 す れ ば 習得できる、簡単な舞であ っ 11 注 た 」らしい。しかし難しくないとはいえ、舞 姫は豪華な衣裳を身につけ、物忌の標である日蔭の蔓を挿頭として天皇、 群臣を前に舞う。測り知れない緊張があったと思われる。舞姫のほかに童 女二人、下人四人などの供人も選ばれた。 舞姫は節会以前に参内、常寧殿に設けられた五節所に控え、天皇の前で の二度の試演を経て当日を迎えるのである。

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─ 注注 ─ 新嘗の時の日程は、   子の日   (参入 ・ 五節舞姫調習)   丑の日   参入 ・ 五節舞姫調習 ・ 帳台試   寅の日   御前試   卯の日   童女御覧   辰の日   豊明の節会 (大嘗の時は午の日) となる。 舞姫の参入は、初めは子の日であったが、次第に丑の日へと移行してい った。源高明の『西宮記』巻六「丑日、於常寧殿試五節事」に「五節参内 前 例 子 夜、或 参 11 注 入 」と あ り、 『新 撰 年 中 行 事』十 一 月 に は「中 子 日」に 「五節舞姫調習事〈丑日又同、昔此日参入、近代丑日参入〉 」とある。実際 に 記 録 類 に は 丑 の 日 の 参 入 が 多 い 中、少 な い 例 だ が『小 右 記』永 観 二 年 (九 八 四) 十 一 月 十 八 日 甲 子 条 に 藤 原 景 舒 女 が 子 の 日 に「殿 上 五 節」と し て参入しており、子 ・ 丑両日とも確認できる。五節参入は十世紀後期には 丑の日に慣例化したと推察されて い 11 注 る 。 参入は夜のことが 多 11 注 く 、灯火のもと参内する舞姫一行を内裏の多くの人 が見物した。帳台試は帳台の試み、常寧殿試とも言い、五節所が設けられ た常寧殿に天皇が深更になって出御し行われた。この時は天皇以外は必要 最少の関係者しか出入りできなか っ 11 注 た 。寅の日の午後は新嘗に伴う淵酔が 清涼殿で開かれ、御前試は夜遅くに清涼殿で行わ れ 11 注 た 。御前の試みとも言 う。こ れ に は 人 々 も 見 物 が 許 さ れ、子 ・ 丑 の 刻 こ ろ に 散 会 し た。卯 の 日 は 新 嘗 祭 当 日 で あ る 。 日 中 に 清 涼 殿 に お い て 淵 酔 が あ り 、 午 後 、 舞 姫 お つ き の童女を天皇が見る御覧があ っ 11 注 た 。その後、天皇は戌の刻に始まる祭祀に 赴いた。豊明の節会後、舞姫はそのまま宮仕えに召されることもあった。 正暦四年 (九九三) の新嘗とされる『枕草子』 「宮の五節出ださせたまふ に」 (八 十 六 段) や 帳 台 試 の ざ わ め き を 描 い た「内 裏 は、五 節 の こ ろ こ そ」 (八 十 八 段) 、寛 弘 五 年 (一 〇 〇 八) の 新 嘗 を 題 材 に し た『紫 式 部 日 記』の 記 事には、視点の違いはあるが女房の目を通した五節の行事のありさまが活 写されている。 『源 氏 物 語』少 女 の 巻 に 五 節 の 舞 姫 に 心 を 動 か さ れ た 夕 霧 の 恋 が 描 か れ ている。この舞姫には光源氏の献上として惟光の女、後の藤典侍が選ばれ、 参入当日の丑の日の夕刻に、まず二条の院に参上した。舞姫はすでに「舞 な ら は し な ど は、里 に て い と よ う し た て て」 ( 256) と 舞 の 教 習 は 済 ま せ、 かしづきの女房も惟光方で準備した。お供の童女や下仕えは、紫の上や花 散 里 に 仕 え る 中 か ら 優 れ た 者 を 源 氏 が 選 ん で お り、 「御 前 に 召 し て 御 覧 ぜ む う ち な ら し に、御 前 を わ た ら せ て と 定 め た ま ふ」 (同) と、源 氏 の 前 で 卯の日に行われる童女御覧のまねごとをさせている。こうした騒ぎにまぎ れて夕霧は控えの一画にいた惟光の女を見て恋に落ちるのである。 舞 姫 参 入 の 時 の 様 子 は、惟 光 の 女 が「こ こ し う う つ く し げ」 ( 259) と 賞 賛 さ れ る が、 「皆 す こ し お と な び つ つ、げ に 心 こ と な る 年 な り」 (同) と 舞 姫 全 員 が 高 い 評 価 を 受 け て い る。続 い て「殿 参 り た ま ひ て 御 覧 ず る に」 (同) と あ る の は、丑 の 日 の 帳 台 試 の 出 入 り は 限 ら れ て い る の 1注 注 で 、こ れ は 寅の日の御前試に源氏が参内したということであろう。そして昔を思い出 した源氏は、節会当日の辰の日の夕方、かつての恋人筑紫の五節に歌を送 っている。今回の舞姫たちには「やがて皆とどめさせたまひて、宮仕へす べ き 御 け し き」 ( 260) と 全 員 に 出 仕 の 内 意 が あ っ た の だ が、一 度 退 出 さ せ 神事を解くための祓をしたと あ 11 注 る 。 少 女 の 巻 に お け る 五 節 の 話 題 は、舞 姫 の 選 定 ・ 舞 の 調 習 ・ 参 入 ・ 帳 台

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─ 注注 ─ 試 ・ 御前試 ・ 童女御覧 ・ 豊明の節会からなる五節の一連の行事を、また節 会後の禊や宮仕えのことももらさずになぞって描いているのである。 夕 霧 は 惟 光 の 女 の 宮 仕 え の こ と を「い と く ち を し」 ( 261) と 半 ば 諦 め な がらも舞姫の弟に託して文を送っている。これを知った惟光は喜ぶが、家 内は宮仕えの準備に余念がない。夕霧十二歳の年のことである。 その後、この恋の行方が語られることはないが、夕霧十八歳の藤裏葉の 巻に、惟光の女は信任の厚い藤典侍として、また夕霧とは「うちとけずあ は れ を か は し た ま ふ 御 仲」 ( 294) と し て 再 び 登 場 し、や が て 夕 霧 と の 間 に 多くの子を儲けるのである。 六 以上のように検討を加えると、園韓神社祭 ・ 鎮魂祭 ・ 五節関連行事の日 程は、十一月二の卯の大嘗祭 ・ 新嘗祭が基準となって決まるとする理解に 問題はないように思う。 園 韓 神 社 祭 は「十 一 月 新 嘗 会 前 丑」 (『貞 観 儀 式』第 一) と 明 示 さ れ て い る。鎮 魂 祭 は「中 寅」と し な が ら も、一 日 が 卯 の 日 の 時 は「上 寅」 (『延 喜 式』踐 祚 大 嘗 祭) と さ れ て い る。こ の 両 祭 は、年 に よ っ て 一 の 丑、二 の 丑 の日、一の寅、二の寅の日となり、新嘗祭の「中卯日」のように固定され ていないのである。 史料にあたると貞観十四年 (八七二) 十一月の一日は卯である。 『三代実 録』には、 十一日丁丑。園韓神祭 十二日戊寅。鎮魂祭如 レ 常 十三日己卯。修 二 新嘗祭於神祇官 一 十四日庚辰。停 二 節会之事 一 とあり、一の丑に園韓神社祭、一の寅に鎮魂祭が行われたことが記録され ている。 五節関連の日程については、 『貞観儀式』や『延喜式』には記載がなく、 『西宮記』第六「十一月」にある次の記事が早いと思わ れ 11 注 る 。 一丑日、於常寧殿試五節事 寅日夜、有御前試 一中卯日、新嘗祭事 一新嘗会 節会についての記述はないが、頭書に舞姫の動向が記されている。また 新嘗祭は「中卯日」とあるにもかかわらず、常寧殿試 (帳台試) は「丑日」 、 御 前 試 は「寅 日 夜」と し か 記 述 さ れ て い な い。 「中」の 日 と い う 指 定 が な いのである。 や や 時 代 が 下 る『新 撰 年 中 行 事』 「十 一 月」は、古 例 に も 配 慮 し た 記 述 をしているが、 中子日、大原野祭事〈見二月、有二子者、用下子〉 同 日 夜、五 節 舞 姫 調 習 事〈丑 日 又 同、昔 此 日 参 入、近 代 丑 日 参 入、但 大 哥 参入云々〉 中丑日、園并韓神祭事 中寅日、鎮魂祭事 同日夜、試五節舞事〈御前試也〉

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─ 注注 ─ 中卯日、新嘗祭事〈癈務〉 、若有二卯、用二卯 次辰日、節会事 と、豊明の節会は「次辰日」であり、 「中辰日」とは指定していない。 このような例があることには注目しなければならないが、概観すると多 くの有職故実書は、 調習「中子日」   『年中行事御障子文』 『小野宮年中行事』 参入「中丑日」   『師元年中行事』 『拾芥抄』 帳台試「中丑日」   『師遠年中行事』 『師元年中行事』 『拾芥抄』 『公事根源』 御前試「中寅日」    『年 中 行 事 御 障 子 文』 『小 野 宮 年 中 行 事』 『江 家 次 第』 『師遠年中行事』 『師元年中行事』 『拾芥抄』 童女御覧「中卯日」   『師元年中行事』 『師光年中行事』 『拾芥抄』 『公事根源』 豊明の節会「中辰日」    『年 中 行 事 御 障 子 文』 『小 野 宮 年 中 行 事』 『師 元 年 中 行事』 『拾芥抄』 と一連の行事が十一月「中」の日であることを明記している。個々の調習 は舞姫の里方で行われるようになるが、平安中期以降、新嘗祭を中心にし て十一月の中の丑 ・ 寅 ・ 卯 ・ 辰と促えるのが五節関連行事の一般的な認識 であったようである。 『花 鳥 余 情』が「五 節 は 十 一 月 中 の 丑 に 始 ま る」と す る の も 故 な し と し ないのである。ただ『河海抄』は五節は「中丑日よりはじまる」としなが らも「但上ノ丑も有例」と、一の丑の日の実例があることを指摘している。 し か し な が ら 見 て き た よ う に、 「上 ノ 丑」の 五 節 参 入 や 帳 台 試 に つ い て 付 注している有職故実書は見当たらないのである。 大嘗祭 ・ 新嘗祭が行われる「中卯日」は十三日から二十四日にめぐって くる。その十二支の巡りを暦日十二支対応表として右に揚げた。 この表で明らかなように、最も早い十三日の二の卯の場合、祭日の前に 行 わ れ る 参 入 ・ 帳 台 試 は、 「中 丑 日」で は な く 十 一 日 の 一 の 丑、御 前 試 も 「中 寅 日」で は な く 十 二 日 の 一 の 寅 と な る。二 の 卯 が 十 四 日 の 時 は、寅 は 二の寅になるが、丑はまだ一の丑である。新嘗祭が十五日になって総てが 中の日になる。また二の卯が最も遅い二十四日の場合、豊明の節会は「中 辰日」でなく三の辰の二十五日になるのである。 万 寿 二 年 (一 〇 二 五) は 十 一 月 十 三 日 辛 卯 が 新 嘗 祭 に な る。こ の 年、藤 原 実 資 は 五 節 の 舞 姫 を 献 上 し て い る。 『小 右 記』に は 前 々 日、十 一 日 己 丑 1注 日 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 11 日 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 11 日 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 11 日 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 11 日 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 11 日 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 11 日 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 11 日 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 11 日 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 注1 日 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 注注 日 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 注1 日 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 注1 日 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 注1 日 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 注1 日 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 注1 日 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 注1 日 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 注1 日 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 注1 日 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 11 日 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 1注 日 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 11 日 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 11 日 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 寅 11 日 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 卯 11 日 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 辰 11 日 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 巳 11 日 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 午 11 日 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 未 11 日 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 申 11 日 申 未 午 巳 辰 卯 寅 丑 子 亥 戌 酉 暦日十二支対応表

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─ 注5 ─ 条に、 今夜令参舞姫〈故好任朝臣女〉 、傅十人 ・ 童二人 ・ 下仕四人 と、一の丑に舞姫参入の記事が見え、十四日、二の辰に「今日豊明節会」 と し て い る。同 じ く 新 嘗 祭 が 十 三 日 に 行 わ れ た 元 永 二 年 (一 一 一 九) の 『中 右 記』に は、一 の 丑 の 十 一 日 癸 丑 条 に 園 韓 神 祭 と 舞 姫 参 入 が あ っ た こ とを記している。 新 嘗 祭 が 二 十 四 日 に 行 わ れ た 例 と し て、 『三 代 実 録』清 和 天 皇 の 貞 観 十 七年 (八七五) 十一月二十四日癸卯条に、 令 下(略) 行 中 新嘗祭之事 上 とあり、翌二十五日甲辰条に、 宴 二 群臣於紫宸殿 一/奏 二 五節舞 一 如 レ 常 と二の卯の新嘗祭、三の辰の豊明の節会が記録されている。 長保元年 (九九九) にも、実資は舞姫を献上している。 『小右記』十一月 二十二日辛丑条、二の丑に、 亥 始 令 参 入、前 駈 有 数、陪 従 六 人 ・ 童 女 二 人 ・ 下 仕 四 人 ・ 上 雑 仕 二 人、無 樋洗 と舞姫が参入し、二十四日癸卯に童女御覧があり、三の辰の二十五日甲辰 条には「節会作法記別」としてその中に、 酉剋許出御南殿/五節舞了余退出〈時亥終許歟〉 と 節 会 で の 五 節 舞 に つ い て 記 し て い る。こ の 年 の こ と は 藤 原 行 成 の『権 記』に も、二 十 二 日 辛 丑 条「五 節 舞 姫 等 参 帳 台 試 也」 、二 十 三 日 壬 寅 条 「今 夜 御 前 試 也」 、二 十 四 日 癸 卯 条「今 日 召 童 女 御 覧」 、二 十 五 日 甲 辰 条 「節会也」と見える。 大 嘗 の 時 も、承 平 二 年 (九 三 二) 十 一 月 十 三 日 壬 卯 (『日 本 紀 略』 ) に 朱 雀 天皇の大嘗祭が行われ、二の卯の祭祀が動くことはない。冷泉天皇の安和 元年 (九六八) 十一月 (『日本紀略』 ) は、 二十三日壬寅/於 二 常寧殿 一 二 五節試 一 二十四日癸卯/天皇遷 二 御八省院 。 一 依 二 大嘗会 一 也 二十五日甲辰/遷 二 御豊楽院小安殿 一 二十六日乙巳/御出 二十七日丙午/御 二 同殿 一 とあり、辰日の節会 ・ 巳日の節会 ・ 豊明の節会は、三の辰 ・ 巳 ・ 午の日に 行われている。 こうした実例がある以上、大嘗祭 ・ 新嘗祭が「中卯日」に行われること 以外、五節関連の行事は「中」の日という指定に縛られないことは明らか で あ る。先 に『西 宮 記』 『新 撰 年 中 行 事』の 記 述 に 注 目 し た 理 由 は こ こ に あ 11 注 る 。歴史的に五節関連の諸行事は、十一月二の卯の祭祀を核にして、大 嘗の時は前後の丑 ・ 寅 ・ 卯 ・ 午の日、新嘗の時は前後の丑 ・ 寅 ・ 卯 ・ 辰の 日に行われているのである。 このような範囲に五節関連の行事日程が収まる時、それでは総角の巻の 豊明の節会はどのように考えられるだろう。この年は「五節などとく出で き た る 年」 ( 96) と 言 わ れ て い る。こ の 巻 に お け る 豊 明 の 節 会 の 暦 日 を 決

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─ 注6 ─ 定する手がかりはこの言葉しかない。作者は間違いなく、五節が一の丑の 日から始まる日程を念頭に置いている。十一月に入って小康を得ていた大 君の病状、公私に多忙な薫、五、六日使いを出さなかった油断、といった 十日余りの登場人物のあり様が時間軸の中に落ち着くのである。 『花 鳥 余 情』は「と き 年 は 十 三 日 の 丑 日 也」と 五 節 の 行 事 の 開 始 が 最 も 早いと思われる日を指摘した。兼良のこの感覚は尊重すべきであろう。実 際 に は 最 も 早 い 新 嘗 祭 は 十 三 日 (二 の 卯) で あ り、舞 姫 参 入 と 帳 台 試 は 一 の丑の十一日、御前試は一の寅の十二日となり、二の辰の十四日が豊明の 節会の当日になるのである。 大君死去の日については、十一月中旬あるいは二十日過ぎと言われては い る 11 注 が 、忌日そのものを議論することはなかった。しかし以上のように、 総角の巻の豊明の節会の日を特定することで、大君が「見るままにものの 枯れゆくやうに」死去した時は、十一月十四日の夜、という具体的な暦日 と時間とを明確にし得るのである。 七 さて本稿は、大君の忌日を明らかにすることと、忌日に纏わる問題を検 討することを目的にしている。大君の忌日については前章までに論じたが、 物語には大君の死後、忌日に関わる叙述が二箇所ある。ひとつは早蕨の巻 の除服の時期、ひとつは宿木の巻にある大君の回忌供養の問題である。 まず早蕨の巻における中の君の除服の時期について述べてみる。大君死 去の翌年の春、中の君は匂宮によって二条の院に引き取られることになっ た。この移転の時期について「きさらぎの朔日ごろとあれば、ほど近くな る ま ま に」 ( 131) と、一 月 中 に 移 転 の 日 取 り が 宇 治 に 伝 え ら れ て い 11 注 る 。中 の君は都での暮らしに覚束無い思いを抱きながら、 御服も、限りあることなれば脱ぎ捨てたまふに、御禊も浅きここちぞする。  ( 132) と、除服の時を迎える。二条の院への道すがらの様子が、 七日の月さやかにさし出でたる影、をかしく霞みたるを見たまひつつ ( 142) とあり、移転が二月七日であったことが記されている。兄弟姉妹の服喪期 間は三ヵ月で あ 11 注 る 。大君の忌日は十一月十四日なので、中の君は規定以前 に除服したことになる。 これについては、藤袴の巻に見える夕霧の祖母大宮服喪の記事が参考に なる。喪に服す玉鬘に夕霧が語りかける場面がある。 御 服 も こ の 月 に は ぬ が せ た ま ふ べ き を、日 つ い で な む よ ろ し か ら ざ り け る。 十三日に、河原へでさせたまふべきよしのたまはせつる。 ( 186) 夕霧は、吉日の八月十三日に除服の祓をすることを源氏が指示している 旨 を 話 題 に し て い る。大 宮 の 忌 日 は 後 に 三 月 二 十 日 (藤 裏 葉) と 示 さ れ て い る の で、規 定 よ り 早 い 除 服 に な る。こ こ に つ い て『湖 月 抄』の 師 説 は 「祖 母 の 服 は 五 ケ 月 な れ ば、八 月 廿 日 頃 百 五 十 日 に あ た る 也。但 除 服 は 日 をえらびて、はやくする事也と云々」と指摘している。中の君の除服も移 転の日取りを考慮して早められたと考えられるのである。 次に、宿木の巻の大君の回忌供養について検討するが、この問題は『源 氏物語』の読み方に対する姿勢を問われているような気がする。 宿木第二年九月二十余日に宇治に赴いた薫は、

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─ 注7 ─ 阿闍梨召して、例の、かの御忌日の経仏などやうのことのた ま 11 注 ふ 。 ( 227) と大君の法要を準備することが見える。この法要が一周忌か、三回忌かに ついて異見が あ 11 注 る 。このことを考えるには、やや長くなるが宿木の巻の特 殊性について見ておかねばならない。 宿木の巻は、そもそも年立に揺れがある巻である。椎本第二年と総角は 薫二十 四 11 注 歳 の同年のこと、早蕨の巻は翌二十五歳の春というところまでは 年立上に問題はない。旧年立は、次の宿木の巻は早蕨と同じ年の夏から三 ヵ 年 を 舞 台 に し て い る と す る。 『花 鳥 余 情』に 示 さ れ て い る 年 立 で、宿 木 の巻は薫二十五~二十七歳のことであり、並びはなく物語の時間は連続し て い る。一 方、本 居 宣 長 の 新 年 立 は、 『細 流 抄』を 承 け て、宿 木 第 一 年 は 椎本第二年と総角の巻と同じ薫二十四歳の年のこととして並び、宿木第二 年 は 早 蕨 の 巻 と 同 年 (薫 二 十 五 歳) の こ と と し て い る。宿 木 第 三 年 は 両 説 とも、春夏から東屋の巻の秋へと連続し、時間が重なることはない。ただ し旧年立では薫は二十七歳、新年立では二十六歳と年齢に違いが出る。 物語の時間から見ると、薫二十五歳の早蕨の巻の春に続くのは、宿木第 一年 (旧年立) か、第二年 (新年立) か、という問題であり、現在は新年立 に従うのが通説で あ 1注 注 る 。年立の違いは、たとえば帝から薫に女二の宮降嫁 の内意があった秋が、旧年立では大君死後のことになるが、新年立では総 角の秋と同時期になる。また中の君の出産間近の宿木第三年一月に「かく て 三 年 に な り ぬ れ ど」 ( 241) と 匂 宮 と の 間 柄 を い う 一 文 が あ る。こ こ は 旧 年 立 で は 中 の 君 が 二 条 の 院 に 迎 え ら れ て 三 年 (『源 氏 物 語 年 記 考』頭 書) 、新 年 立 で は 匂 宮 が 中 の 君 に 通 う よ う に な っ て 三 年 (『細 流 抄』 ) 、と い う 解 釈 に なる。 大君の「御忌日」の法要も年立の違いと連動しており、 『細流抄』には、 大君一廻也。第三年といふ儀不用也。 とあり、法要が一周忌か三回忌かが問題となっていることを示して い 11 注 る 。 宿木の巻は、新旧どちらの年次であってもそれなりに読めてしまうとこ ろにこの巻の特徴があると言える。こうした観点から宿木の巻を考える石 田穣二博士の「宿木の巻について ― 宇治十帖の構 造 11 注 ― 」がある。この論は、 年立を考える上で問題となる箇所を新旧それぞれから読み解き、最終的に 宿木の巻の表現の特性に言及している。大君の忌日については〔追記〕に、 「かういふ読み方はいふまでもなく背理である」としながら、 宿 木 の 巻 の 前 半 は、何 と な く、大 い 君 の 亡 く な つ た 年 の 翌 年、早 蕨 の 巻 と 同 年 の こ と の や う に 読 め る が、後 半 に 行 く と、い つ の 間 に か、ろ く ろ 首 の や う に 時 間 が 延 び て ゐ て、宿 木 第 二 年 は、少 な く と も、大 い 君 の 亡 く な つ た 年 の 翌々年、早蕨の巻の翌年のことと読まねばならなくなる。 と、この巻の特殊性を指摘している。 そもそも新年立に改正した宣長自身が、宿木の巻について『源氏物語玉 の小櫛』 「巻々のとし立」に「見む人心のよらむかたにしたがふべし」と、 新旧どちらの年立で読んでもかまわないと言う。石田論文は、時間の設定 が曖昧であることを宿木の巻の特徴としている。こうした見解は、宿木の 巻には時間的な位置付けを決定する有力な材料がないことを背景にしてい る。しかし宣長と石田論文は、一周忌であっても、三回忌であっても物語 は破綻しないと見ているのである。 宣長は、委しく述べるには「事長く、あまりくだくだしければ、もらし

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─ 注8 ─ つ、おつるところ、いづ方にしたがひても、たがふふしはなきなり」とす る だ け だ が、石 田 論 文 は、 「十 六 夜 の 月、砧 の 音」に お い て、作 者 の 手 法 のひとつとして展開した「すりかへ」という『源氏物語』の叙述方法を敷 衍したところで宿木の巻を捉えている。 「すりかへ」とは、 「後の記述は、 前のある場面を受け、それと重なるが、正確には重ならず、二重の映像を 作る」技法であり、 前 の 場 面 と、此 処 で の 記 述 と を、読 者 は、作 者 の 指 示 に よ つ て (二 事 の 合 成 と は、作 者 の 出 し た サ イ ン で あ る) は つ き り 重 ね 合 は せ な く て は な ら な い が、 一 々 の 微 細 な 照 合 を す る に は 及 ば な い。 (中 略) あ る い は む し ろ、記 憶 は ぼ や けさせることを要求されてゐると考へた方がよいかも知れない。 と、前後が完全に一致しないことを『源氏物語』の表現方法として積極的 に 評 価 し て い る。 『源 氏 物 語』に は 多 く の 現 代 の 小 説 と は 異 な る 原 理 が 働 いていることを見ているのである。 八 このような視点から宿木の巻の大君の「御忌日」の法要について考えて みたい。 『源 氏 物 語』に 限 ら ず 物 語 は 時 間 に 沿 っ て 展 開 す る の が 基 本 で あ る こ と は言うまでもない。時間を逆行する時にはそれとわかる指標が必要になる。 たとえば末摘花の巻の場合は、源氏は一月十六夜に初めて常陸の宮邸を訪 れた後、瘧病を患ったことが記され、直前の若紫の巻と重なる時間帯であ ることが示されている。また後半には十月の朱雀院行幸に言及され、紅葉 賀の巻と並行することがわかる。玉鬘の巻は源氏と右近が今でも夕顔を忘 れがたく思う追慕の気持ちから、忘れ形見の行方へと話題が移り、過去へ と遡行してゆく。紅梅 ・ 橋姫 ・ 宿木 ・ 手習の巻の冒頭は、それまでとは異 なる物語の始まりを予告するように具体的な時を朧化して「そのころ」と 書き出されている。橋姫の巻は、冒頭部で須磨 ・ 明石の巻のころに遡って 八の宮の境遇が語られ、橋姫以前とは異なる新しい時間の中で物語が展開 する。どの場合も巻の早いところで物語中の現在との繋がりが図られてい る。ただし紅梅の巻は特殊で、巻末に至って匂宮の動静を「八の宮の姫君 に も、御 心 ざ し 浅 か ら で、い と し げ う ま か で あ り き た ま ふ」 ( 196) と 記 し、 総角の巻の時間と重なることが明らかにされている。 このように『源氏物語』は時間的な定位に常に注意を払っており、物語 の時間が重なる時は、巻の始め近くに指標が置かれているのである。しか し宿木第一年は時間的な明示がないまま女二の宮を巡る話題が展開する。 そして第二年八月に八の宮の法要が行われている。法要自体の記述はない が、薫 が「故 宮 の 御 忌 日」 ( 174) に つ い て 阿 闍 梨 と 相 談 し た こ と、 「宮 の 御 忌 日」 ( 196) の 礼 状 を 中 の 君 か ら 受 け 取 っ て い る こ と が 記 さ れ て い る。八 の宮の一周忌のことは総角冒頭にあり、宿木の法要は「父宮の第三年也」 (『細流抄』 ) と三回忌と理解するのが自然である。 こ の 流 れ の 中 で 翌 九 月 二 十 余 日 に 薫 が 阿 闍 梨 と 相 談 し た 大 君 の「御 忌 日」は必然的に一周忌の法要を指すことになる。八の宮は薫二十三歳の八 月、大君は翌年十一月に亡くなっているので、八の宮の三回忌と大君の一 周忌が同じ年に行われることに矛盾はない。この二度の法要が行われた宿 木 第 二 年 は、早 蕨 の 巻 (薫 二 十 五 歳) と 同 じ 年 の こ と と し て し か 読 め な い の で あ る。そ う な る と 宿 木 第 一 年 は 自 動 的 に 椎 本 第 二 年 と 総 角 (薫 二 十 四 歳) と重なる。新年立の時間配分である。

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─ 注9 ─ しかし大君の一周忌を「はて」ではなく「忌日」としていることに疑義 が 出 さ れ て い る (『源 氏 物 語 年 紀 考』 ) 。『源 氏 物 語』中 に 一 周 忌 に 言 及 が あ る桐壺院 ・ 藤壺の中宮 ・ 柏木 ・ 紫の上 ・ 浮舟などの場合、紫の上は「御法 事」 「御正日」とされているが、他は「はて」という語が用いられている。 宿木の巻には女二の宮の母藤壺の女御の一周忌が過ぎたことを「御服果て ぬれば」 ( 159) とする例がある。 また『源氏物語』の「忌日」の用例四例中三例が宿木の巻にあり、八の 宮、大君の法要に関して使われている。一例は先に見た藤裏葉の巻の大宮 の 三 回 忌 を 指 し て い る。 「忌 日」は、命 日 の 同 義 語 と し て 融 通 の 利 く 語 で あることは間違いない。 この後、宿木第三年一月に匂宮と中の君の状況が「かくて 三 み と せ 年 になりぬ れど」と説明され、この年の時間的な位置の確認が求められるのである。 前述したように、ここは匂宮が宇治に通い始めてからとするか、中の君が 二条の院に移ってからととるか解釈が分かれている。 一月末に中の君の出産が迫る。匂宮の心配は尋常ではなく、寺々にさせ ていた修法をさらに加えた。それでも中の君の体調は思わしくなく、 い と い た く わ づ ら ひ た ま へ ば、后 の 宮 よ り も 御 と ぶ ら ひ あ り。か く て 三 年 に な り ぬ れ ど、一 所 の 御 心 ざ し こ そ お ろ か な ら ね、お ほ か た の 世 に は、も の も の し く も も て な し き こ え た ま は ざ り つ る を、こ の を り ぞ、い づ こ に も い づ こ にも聞こしめしおどろきて、御とぶらひども聞こえたまひける。 ( 241) と出産をきっかけに、明石の中宮をはじめとして中の君への世の中の対応 が大きく変わったことが記されている。 匂宮が宇治に通っていたころの中の君は、明石の中宮が「例ざまにのど や か に も て な し た ま へ」 (総 角 86) と、い つ も の こ と と し て 女 房 と し て 側 に置くように勧める程度に見られていた。二条の院の西の対に迎えられ、 中の君はようやく社会的に重い扱いを受ける存在となり、初めて実社会と 交わることになったのである。だが世の中の対応は冷ややかだったようで ある。匂宮にしか頼ることができない都での中の君の孤立が「一所の御心 ざしこそおろかならね」に凝縮されている。しかしここは今、匂宮との関 係が問題になっているのではない。二条の院の西の対の主、中の君に対す る世の評価の変化が主題なのである。匂宮の妻、中の君に対する「おほか た の 世」の 冷 や や か な 対 応 を 言 う 時 に、 「か く て」の 中 に 取 る に 足 ら な い 存在であった宇治での時間が含まれているものだろうか。 ここに至って、物語の時間設定が、宿木第三年は中の君が都に移ってか ら三年目、薫二十七歳の年であり、宿木第一年は早蕨と同年 (薫二十五歳) ということに、気づくように書かれているのである。八の宮、大君の法要 は「忌日」という汎用性の高い語が用いられ、宿木第二年は八の宮の三回 忌、大君の一周忌と理解しておかしくない状況が作られていた。しかし、 この印象は余儀なく修正を求められる。八の宮の「御忌日」は三回忌の次 の年の法要、大君の「御忌日」は三回忌の法要というのが年立の位置付け になるのである。 宣長は新旧年立のどちらで読んでもよいと言い、石田論文は宿木の時間 の設定について前半と後半の印象が異なるとする。宿木の巻は意図的にこ うした曖昧な時間設定のうえに物語が構成されているのである。宿木第二 年の二度の法要は、冒頭部から読むと八の宮の三回忌 ・ 大君の一周忌とし て、自然に早蕨の巻と同じ年のこととして読める、しかし第三年に「かく て 三 年」と 表 出 さ れ る こ と に よ っ て、こ こ は 中 の 君 の 二 条 の 院 移 転 (早

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─ 注0 ─ 蕨) か ら 三 年 で あ り、宿 木 第 一 年 は 早 蕨 の 巻 と 同 年 で あ っ た こ と を 悟 る、 こうした表現方法が試みられているのである。八の宮と大君の法要を、ど うともとれる「忌日」という語で表わしたところに作者の思惑が見える。 宿木の巻の大君の「御忌日」は、初めは一周忌の法要のこととして読ま れるが、やがて三回忌であったことが明かされる。しかし、読者は大君の 一周忌が行われたものとして物語を読んでしまっているのである。既に持 っ た そ の 印 象 を 消 し 去 る こ と は 難 し い。 「御 忌 日」と い う 言 い 回 し は、一 周忌と三回忌があやふやに重なり合った印象を創りあげる。この重層は作 者による一種のイメージ操作であり、読者は、薫の手によって大君の一周 忌が準備されたことを読み取り、また三回忌の法要が営まれたことを想像 することになる。一周忌 ・ 三回忌のどちらとも特定することなく曖昧に揺 れる「御忌日」という表現は、かえって大君の回忌法要が恙なく行われて いる手応えを読者に残すことになるのである。 このようにイメージを多層化する表現自体は、平安時代の和歌の世界で は序詞、掛詞、見立てなどとして常套的に現れる。散文の場合は、文中に 和歌を重ね、両者を融合させる引歌がよく知られた手法である。それだけ でなく『竹取物語』や『源氏物語』には散文中に掛詞を用いている例もあ る。論理性という点から、現代では避けられることの多い多層的な表現だ が、作者にも読者にも日常的に身近な修辞であったのである。 こうした修辞法がそのまま「御忌日」の理解に直結するわけではない。 しかし、物語の流れに添って読むときは一周忌としか読めないが、実は三 回忌法要の準備であるこの重なりは、まさしく「すりかへ」であり、まぎ れもなく多層的な表現の一例として捉えられるのである。 *  引 用 資 料 の う ち 出 版 さ れ た 史 料 ・ 有 職 故 実 書 ・『源 氏 物 語』関 係 書 お よ び 略 称 に つ い て は 最 後 に ま と め た。出 版 年 は 基 本 的 に 省 略 し た。ま た、引 用 の 句 読 点、 返り点は必ずしも資料のままではない。 〔注〕 1   引用は『新潮日本古典集成』に拠る。 注   こ の あ た り の 大 君 の 描 か れ 方 に つ い て は、 「宇 治 の 大 君 ― そ の 生 の 軌 跡 ― 」 (「学苑」第五二九号。昭和五十九年一月) に述べた。 注   『国 史 大 辞 典』 「豊 明 の 節 会」に「新 嘗 祭 の 翌 日 の 辰 日、お よ び 大 嘗 祭 に お い ては午日に、天皇が出御して行われる公儀の宴会」とある。 注   『花鳥余情』 『細流抄』 5   言 い 方 と し て は、こ の 章 に い く つ か 引 用 し た よ う に 朧 化 す る の が 普 通 で あ る。 しかし青表紙本は「やよひ廿日」 、河内本は「三月廿日」と大きな異同はない。 6   「主要人物死去の時」として一覧を付ける。 注1頁の別表 1参照。 7   十 一 月 中 旬『集 成』 。  十 一 月 二 十 日 過 ぎ『評 釈』 『新 全 集』 『注 釈』 。い ず れ も 総角の巻ではなく、宿木の巻の大君の法要につけられている注である。 8   『令 義 解』二 神 祇「仲 冬」 「下 卯 大 嘗 祭」 。『令 義 解』に 言 う 大 嘗 祭 と 新 嘗 祭 は 同 じ と 捉 え て よ い よ う で あ る。こ の こ と は 祭 日 を「下 卯」と し て い る こ と を 含め、次章に触れる。 9   「丑 の 日」は 通 常 は「上 の 丑」 「中 の 丑」 「下 の 丑」と 表 わ す が、論 旨 を 展 開 す る 上 で 紛 ら わ し い と こ ろ が あ る た め に、 「一 の 丑」 「二 の 丑」 「三 の 丑」と し た 箇所もある。他もこれに倣う。 10   『大系』 『集成』 『新大系』 『新全集』 『注釈』 『岩波文庫』 11   『集 成』 『新 大 系』な ど。 『湖 月 抄』引 用 の『河 海 抄』に「十 一 月 始 の 辰 の 日 あ

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─ 注1 ─ る節会也」とある。 1注   『大系』 『評釈』 『新全集』など。 1注   神 祇 第 六 に は「凡 大 嘗 者。毎 レ 世 一 年。国 司 行 レ 事。以 外。毎 レ 年 所 司 行 レ 事」 と両者を「大嘗」で表わしている。 1注   同 巻 後 文 の「中 卯 日 新 嘗 祭 事」に は、 「今 案 、一 代 一 度 祭。謂 二 之 大 嘗 。 一 毎 年 祭 謂 二 之 新 嘗 一 」と も あ り、平 安 時 代 中 期 に は 大 嘗 と 新 嘗 の 認 識 が 明 確 な も のでなかったことをうかがわせる。 15   神祇部一。十八大嘗祭一。 『日本書紀』清寧 ・ 用明 ・ 皇極天皇を参照。 16   『国 史 大 辞 典』 「新 嘗 祭」に も「 『養 老 令』で は 新 嘗 祭 も 大 嘗 祭 も 同 じ く「大 嘗」と 称 し、た だ「毎 年」と「毎 世」と し て 区 別 す る の み で あ る。 (岡 田 精 司 氏) 」とある。 17   「卯 日 の 神 祭 り よ り 辰 ・ 巳 ・ 午 日 の 節 会 ま で を 含 め て 大 嘗 会 と 称 す る」 (『平 安 時代史事典』 ) という解釈もある。 18   平 安 中 期 の『政 事 要 略』巻 二 十 六「年 中 行 事 十 一 月 二」で は、 「中 卯 新 嘗 祭 別表 1   主要人物死去の時 (注 1)  年次は光源氏誕生からの通年 分   類 人     物 年    次 死去の時 記載の巻 年月日時間 夕顔 紫の上 大君 注1年 1注年 1注年 八月十六日夜 八月十四日早朝 十一月豊明の節会の夜 夕顔 御法 総角 年月日 大宮(三条の宮) 11年 三月二十日 藤袴 ・ 藤裏葉 およその    年月日 北山の尼君 葵の上 桐壺院 一条の御息所 八の宮 注1年 11年 11年 11年 11年 九月二十日頃 八月二十余日 十一月初旬 八月中旬 八月二十日頃夜中 若紫 葵 賢木 夕霧 椎本 年と月 藤壺の中宮 太政大臣(左大臣) 弘徽殿の大后 柏木 11年 11年 11年以前 11年 三月 一月か二月 九月 二月 薄雲 薄雲 若菜上 ・ 若菜下 柏木 年と季節 桐壺の更衣 六条の御息所 常陸の介(伊予の介) 藤壺の女御 1年 11年 11年 11年 夏 秋 秋以降 夏 桐壺 澪標 関屋 宿木 年のみ 桐壺の更衣の母 光源氏 致仕の大臣(頭中将) 髭黒の大臣 1年 11・ 11年 1注年以前 11年以前   ―   ―   ―   ― 桐壺 匂宮 ・ 宿木 匂宮 竹河

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─ 注注 ─ 事」の よ う に、 「下 卯」を 用 い る 説 明 は 消 え て い る。 『新 撰 年 中 行 事』に も 「中 卯 日、新 嘗 祭 事〈癈 務〉 、若 有 二 卯、用 下 卯」と あ り、 「中 卯」と す る 規 定 が定着している。 19   『西宮記』 「年中行事」 ・『拾芥抄』 「年中行事部」など参照。 注0   『国史大辞典』 注1   注 注0に同じ。 注注   『律令』神祇令補注 8b 注注   実 際、一 日 が 卯 の 日 以 外 の 時 は、祭 祀 前 日 は 総 て「中 寅」で あ る。後 掲 の 「暦日十二支対応表」を参照。 注注   「辰 日 節 会」は『政 事 要 略』巻 二 十 七「年 中 行 事 十 一 月 三」 「辰 日 節 会 事」に 引く「西宮記辰日新嘗会豊明賜宴事」が初出。 注5   「五 位 已 上」 「六 位 已 下」 (『貞 観 儀 式』第 五「新 嘗 会 儀」 ) と 身 分 に よ る 差 は あ る が、諸臣が対象である。 注6   『三 代 実 録』貞 観 七 年 (八 六 五) 以 降 は「紫 宸 殿」と あ る。一 方 同 時 代 の『貞 観 儀 式』第 五「新 嘗 会 儀」は「豊 楽 院」と し て い る。た だ 前 代 の『文 徳 実 録』  斉衡元年 (八五四) には「南殿」とある。なお新嘗祭は中和院で行われた。 注7   節 会 は、火 災 や 破 損 の た め に 大 極 殿 (寛 和 元 年(九 八 五)な ど) や 八 省 院 (天 仁 元 年(一 一 〇 八)な ど) を 使 う こ と も あ っ た。豊 楽 院 が 康 平 六 年 (一 〇 六 三) に、 八 省 院 が 安 元 三 年 (一 一 七 七) に 焼 失 し た 後 は 再 建 さ れ る こ と な く、紫 宸 殿 に 移 行 し た よ う で あ る。ま た、内 裏 焼 失 の 時 に は 今 内 裏 を 内 裏 に 見 立 て て 行 わ れている。 『紫式部日記』寛弘五年 (一〇〇八) の新嘗は一条院内裏である。 注8   辰日の節会を悠紀の節会、巳日の節会を主基の節会とも言う。 注9   天 平 神 護 元 年 (七 六 五) 十 一 月 二 十 三 日 庚 辰 条。大 嘗 祭 に 伴 う 節 会 だ が、ま だ 一日であった。 注0   寛 弘 五 年 十 一 月 二 十 三 日 庚 辰 条 の 豊 明 の 節 会 に つ い て『御 堂 関 白 記』は「宴 会」 、『小 右 記』 『日 本 紀 略』は「節 会」と し て い る。こ の 時 の 新 嘗 に つ い て は 『権記』 『栄花物語』 『紫式部日記』にも記載されている。 注1   延 喜 十 四 (九 一 四) 年 の 三 善 清 行 の『意 見 十 二 箇 条』 「一 請 減 五 節 妓 員 事」に 「大 嘗 会 時 五 人」 「年 々 新 嘗 会 時 四 人」と あ る の が、舞 姫 の 人 数 に 関 す る 古 い 記 録 の よ う で あ る。 『河 海 抄』に「五 節 は、恒 の 年 は 公 卿 二 人、殿 上 受 領 二 人、 四 所 也。代 始 に は 公 卿 二 人、殿 上 受 領 三 人、五 所 也」と あ る。舞 姫 献 上 者 に は 変 遷 が 見 ら れ、 『小 記 目 録』 「新 嘗 会 事」長 保 五 (一 〇 〇 三) 年 九 月 四 日 条 の 記 事 か ら、公 卿 ・ 殿 上 受 領 各 二 名 に 定 ま っ た の は、こ の 年 の こ と と い う 佐 藤 泰 弘 氏 の 報 告 が あ る。 「五 節 舞 姫 の 参 入」 (「甲 南 大 学 紀 要   文 学 編」 159・ 二 〇 〇 九 年三月) 注注   『年 中 行 事 秘 抄』 「五 節 舞 姫 参 入 并 帳 台 試 事」に は、 『本 朝 月 令』の 引 用 と し て、 ほぼ同文が載る。 注注   佐藤氏、注 注1に同じ。 注注   服 藤 早 苗 氏「五 節 舞 師 ― 平 安 時 代 の 五 節 舞 姫 ― 」 (「埼 玉 学 園 大 学 紀 要 ・ 人 間 学 部 篇」十二 ・ 二〇一二年十二月) 注5   『年中行事抄』にも「清涼記云、子日入 レ 夜、舞姫於 二 常寧殿 一 調習」とある。 注6   服藤早苗氏『平安朝の五節舞姫 ・ 童女』 〈塙書房。二〇一五年三月) 。なお『御 堂 関 白 記』寛 弘 七 年 (一 〇 一 〇) 十 一 月 十 三 日 戊 子 条 に 五 節 参 入 と 帳 台 試 の こ と が あ る が、翌 十 四 日 己 丑 の 記 事 が 混 入 し た 可 能 性 が あ る。 『御 堂 関 白 記 全 註 釈   寛 弘 七 年』 (山 中 裕 編。思 文 閣 出 版。二 〇 〇 五 年 十 月) も「十 四 日 に 記 載 さ れ るべき記事か」としている。 注7   や が て 十 一 世 紀 末 期 に な る と 丑 の 日 の 暁 に 参 入 す る こ と が「暁 参」と し て 定 着した。佐藤氏、注 注1に同じ。

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