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責任説の再構成 : 意味の認識の視点から (鈴木博信教授 林錫璋教授 退任記念号)

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責任説の再構成

意味の認識の視点から

(2)

’06) は じ め に 第1章 故意の提訴機能 第2章 責任からの故意の放逐 第3章 事実の錯誤と違法性の錯誤の区別における形式的判断と実質的判断 第4章 意味の認識における付け加えの禁止 結びにかえて

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は じ め に

故意と違法性の意識との関係について,我が国においては,(厳格)故 意説が依然根強く主張されているものの,責任説が通説的地位を占めるに 至ったと言っても過言ではない (1) 。責任説とは,違法性の意識の可能性を故 意とは区別された別個の責任要素とする見解 (2) であり,違法性の意識の問題 を故意の要素から排除した点に特徴を有するのだが,現在主張されている 責任説のいくつかには,必ずしも違法性の意識の問題を故意の要素から完 全に排除した見解であるとは言い切れないものがある。つまり,故意の要 素として,違法性の意識,あるいはその可能性そのものを要求している訳 ではないが,故意における事実の認識(意味の認識)を,違法性の意識と 関連づけて理解することにより,違法性の意識の問題を故意にとり込んで いると評価することができる責任説が見られるのである。このことは,故 意説の影響が依然として残っている,あるいは,責任の領域から故意を排 除することによって責任が空虚になる,といったあたりからきているもの と思われる。また,故意があるというためには,故意ありとするに相応な, それなりの実質的な内容を備える必要がある(つまり,故意の成立に相応 しい意味の認識が必要である)ということもあろう。さらには,従来の判 例の立場が違法性の意識不要説である (3) ことから,故意の要素から完全に違 法性の意識を排除してしまえば,現状では処罰範囲が拡大してしまうとい った危惧から,故意の内容を実質的に理解することによる現実的な判断を 考慮に入れているのかもしれない。しかしながら,責任説の出発点は,違 法性の意識の可能性は故意の要件ではなく,別個独立した責任要素とする ところにあったはずであり (4) ,違法性の意識と関連づけて故意を理解する責 任説に対しては疑問が生じるのである。本稿は,これらの責任説に対して 批判的な検討を行い,故意の要素(意味の認識)から違法性に関連する要 素を徹底して排除し,それにより,責任説の再構成を試みるものである (5) 。 そのためには,本稿では,故意には反対動機形成可能性が,つまり,故

(4)

意の提訴機能が必要であるか否かについて,また,責任から故意が排除さ れることは責任領域の空虚を意味するのかについて,明らかにする必要が あるように思われるのであり,以下において検討を試みる。また,その後 に,故意において反対動機形成可能性を要求する見解にとどまらず,意味 の認識の内容を実質的に理解する見解全てに対して考察をすることにより, 意味の認識の内容はどのように理解されるべきであるのかについて,一定 の結論を提示したい。

第1章 故意の提訴機能

行為者が認識すべきである故意の認識内容を,違法性の意識と関連づけ て考える責任説とは,構成要件該当事実の認識(意味の認識)を,その事 実を認識したならば違法性の意識を喚起し得るような事実の認識と理解す る見解であり,故意の内容として,反対動機形成可能性が必要であるとす るものである。例えば,「故意の場合には犯罪事実の認識があるのだから, 法律としては行為者に対し,その認識を基礎として行為の違法性を意識し, その違法性の意識にもとづいて違法行為をやめるよう期待することができ る」ことから,「違法性の意識への直接的な期待が可能になるよう犯罪事 実の認識を完成させるべきだとの期待しかできない場合にはじめて,事実 の錯誤として故意の阻却が認められる」とされたり (6) ,「犯罪事実の認識が 故意責任において必要となる実質的意味は,その認識があれば違法性の意 識が喚起され反対動機の形成が可能になるという点にあるから,その認識 から違法性の意識が喚起され反対動機の形成が可能な事実について錯誤が ある場合が事実の錯誤,それに対し,右のごとき事実の認識があるのに錯 誤により法律上許されていると誤信することが違法性の錯誤と解すべき (7) 」 とされる。これらの見解は,「当該構成要件の違法性の意識を喚起し得る 事実」の認識がある場合に故意が認められることになる (8) のであろう。また, 松原久利によれば,「犯罪事実の認識の意味は,それ自体にあるのではな く,通常そこから直接違法性の意識の喚起が可能となるという点にある。 ’06)

(5)

犯罪事実の認識にいう『事実』とは,通常その認識から直接違法性の意識 が喚起され,反対動機を形成し,行為を思いとどまることが期待できるよ うな『事実』を意味する」とされ,そこから,意味の認識とは,「直接違 法性の意識が喚起可能となるような事実の意味内容の理解」となるという (9) 。 つまり,故意の提訴機能を要求するものである。 しかしながら,故意の提訴機能を要求する見解に対しては,まさに,そ の点に問題があると指摘することができよう。確かに,故意の提訴機能を 要求することによって,故意責任を認めるに相応しい事実の認識を行為者 がもった場合にのみ,故意が成立することになるといえる。このような理 解からは,故意は限定的に把握されることになり,故意犯として処罰する に相応な認識を有する者にのみ,重い違法評価である故意が与えられ,理 に適っているということができる。だが,責任説では,独立した責任要素 である違法性の意識の可能性において,行為者が違法性の意識を認識し得 たか否かにつき判断されるわけであり,何故,違法性の意識について二度 チェックする必要があるのか,という疑問が生じるのである。 松原説によれば,犯罪事実の認識があれば通常直接的に違法性の意識の 可能性がそなわり,原則として非難が可能となるが,例外的に違法性の意 識の可能性がないために非難できない場合があり,それが消極的な責任要 素である違法性の意識の可能性であるという (10) 。故意における違法性の意識 の可能性判断が原則であって,通常はそれで足りるが,それのみでは十分 でない場合があるため,故意とは別に違法性の意識の可能性が必要である という趣旨であろう (11) が,独立した責任要素として違法性の意識の可能性を 認めるならば,そこで判断すれば足りるのであり,同じものを二度判断す る必要はないはずではなかろうか。故意の提訴機能における違法性の意識 の可能性と,責任要素としての違法性の意識の可能性とでは,「通常」違 法性の意識を可能にする(あるいは一般人から見て違法性の意識が喚起さ れ得る)要件であるのと,行為者に「具体的に」違法性の意識の可能性が 認められる要件であるとの違いしか見られず,初めから後者を判断すれば 前者は不要となるのである (12) 。このような点からすれば,実質的故意論 (13) のほ

(6)

うが,より一貫した見解であると評価することができるのだが,実質的故 意論は支持し得ない (14) 。 また,この見解は,「違法性の意識(の可能性)の観点と切り離して故 意の有無を決定する」という,責任説に対する批判を免れるため (15) に故意の 提訴機能を要求することになるのであろうが,そもそも違法性の意識と故 意を切り離すことにこそ責任説の意義があったのではなかろうか。つまり, 事実認識としての故意は,構成要件該当事実の認識という「心理的事実が 意思形成としての面から問題とされるものであるに対し,違法性の意識の 問題は,単なる心理的な違法の認識が問題とされるのではなく,犯罪的意 思決定に抵抗する規範的な意識が問題とされるのであり,反対動機の形成 をその形成過程において把握さるべきもので,両者はその把握の仕方がこ となるのであって,ここから違法性の意識を心理的活動形式としての故意 の構成要素と解することは妥当ではない (16) 」ということがいえるのである。 故意は心理的要素であって,反対動機形成可能性とは無縁の,規範的評価 からは区別された行為者の事実認識であるのに対し,違法性の意識の可能 性は,規範的要素であり,行為者の反対動機形成可能性を規範的に評価し, 行為者を非難できるかどうかを判断するための要件である (17) 。責任説は,故 意と違法性の意識との間の存在論的な差異を前提としている (18) といえよう。 故意の提訴機能を要求する見解は,故意の心理的側面を軽視し,規範的考 慮を介在させるという点で妥当とは思われない。しかもそれは,責任説の 趣旨を没却するものであると評価できる。 提訴機能をもつ認識を故意とする考え方は,故意と違法性の意識は同質 の責任要素だとする前提に立っており,犯罪の実質を違法性の意識あるい はその可能性であると考える故意説は,規範違反・義務違反の認識・認識 可能性を故意とすることから,権威主義的な,そうでなければ空虚な犯罪 概念を基礎とするものであって不当である,故意は,「規範による評価を 捨象した,それ以前に存在する犯罪の実質の認識でなければならない」と する故意の提訴機能に対する批判 (19) は,正当である。 故意の提訴機能を要求することにより,故意(意味の認識)の内容が不 ’06)

(7)

明確になっているという指摘も可能である。行為者の心理的態度に規範的 考慮が混入することによって,意味の認識の内容が,構成要件から導かれ る事実を離れた,評価的な事実の認識になるように思われるからである。 ここに,意味の認識の内容は曖昧であるといわれる一因があろう。提訴機 能を要求しない見解のほうが,意味の認識概念をより簡明に理解すること ができ,妥当ではなかろうか (20) 。 さらには,故意の提訴機能を必要としない,故意を心理的側面からのみ 捉える見解においても,現実的には不都合が生じないという点をあげるこ とができる。故意の提訴機能を要求する見解,すなわち,意味の認識を違 法性の意識が喚起可能となるような事実の認識とする見解は,故意が認め られれば原則として非難が可能となり,例外的に非難できない場合がある ことから独立した責任要素として違法性の意識の可能性が必要であるとす るのであるが,違法性の意識を喚起し得る事実であろうがなかろうが,犯 罪を規定している構成要件該当事実の認識があれば,通常,違法性の意識 を喚起し得る事実がそなわっているのであり,あえて故意の提訴機能を要 求する必要はないのである (21) 。これに対しては,行政刑罰法規などにおいて は,事実を認識しただけでは反対動機の形成が困難な場合があり,そのこ とを念頭におけば故意の提訴機能は必要であるとの反論がなされるかもし れない。しかし,現実的には,そのような場合は少ないのであり,また, いずれにしてもそのような場合には,違法性の意識の可能性において責任 が否定されることから,提訴機能を要求する見解と結論は同じなのである。 つまり,意味の認識を心理的側面に限って理解する見解からも,故意が認 められるならば原則非難可能といえるのであって,違法性の意識の可能性 における判断は例外的なものであるとすることは可能である。 以上のような理解からは,反対動機形成可能性がない場合であっても故 意が成立することはあるが,このことが処罰範囲を拡大させるということ を意味しないことになる。結局は責任が否定されることになり,それ故, この見解から不当な結論に至ることはない。このような,故意の提訴機能 を要求しない見解の意図するところは,故意と違法性の意識の可能性のそ

(8)

れぞれの役割を明確化するところに存するのである。

第2章 責任からの故意の放逐

責任説に対する批判のもう一つには,故意と違法性の意識の可能性を分 離することから,故意を責任の領域から放逐することになり,責任が空虚 となる,そして,この点が妥当ではないというものがあ (22)(23) る。例えば,団藤 重光によれば,「行為者に故意・過失があればこそ,行為についての非難 を行為者に帰することができるのであり,故意・過失の本籍は,やはり責 任論の領域にあるのである」,「ヴェルツェル一派の学者が故意論を責任論 から追放して構成要件だけの問題としているのは不当である (24) 」とし,それ 故に,責任説が故意を違法性の意識の可能性とは別の問題として責任の領 域から放逐することを批判し,団藤自身は制限故意説を採用するのである (25) 。 一方,松原の見解は,体系的に故意・過失を責任から構成要件・違法性 に移行させるのは責任概念を空虚にするものであるとする批判に対し, 「たしかに,犯罪事実の認識と違法性の意識(の可能性)との間には有機 的関連があり,その意味において両者はともに責任要素である」として理 解を示し,「犯罪事実の認識を責任の問題としない責任説には疑問がある」 とする (26) 。それ故,故意における犯罪事実の認識を「通常その認識から直接 違法性の意識が喚起され,反対動機を形成し,行為を思いとどまることが 期待できるような『事実 」を認識することとし,よって,違法性の意識 (の可能性)の観点と切り離して故意の有無を決定するという責任説に対 する批判を回避するのであ (27)(28) る。 これらの見解に対しては,以下のような指摘をすることができるであろ う。すなわち,責任の領域から違法性の意識の可能性の問題を放逐すると なれば,確かに責任を空虚にさせることに間違いはないが,責任説では, 責任要素として違法性の意識の可能性が存在し続けることから,何も責任 は空虚になっていないという指摘が可能なのである。 まずは制限故意説からの批判を検討すると,制限故意説では,故意の要 ’06)

(9)

素として違法性の意識の可能性が考慮されているが,責任説との違いは, それが責任内部において位置づけが変わったのみである。それ故,正確に は,責任説は責任を空虚にさせるではなく,故意を空虚にさせる,である。 しかし,違法性の意識の可能性は,「可能性」という概念であることから, それを故意の要素に含ませることは論理的矛盾であり,また,行為者の心 理的活動(構成要件該当事実の認識)と規範的評価(違法性の意識の可能 性)を混在させる点で,制限故意説は妥当ではない (29) 。よって,違法性の意 識を故意の要素として要求しないならば,言い換えると,違法性の意識の 可能性で足りるとするならば,責任説にならざるを得ないと思われるので ある。 ただし,違法性の意識の可能性が,独立した責任要素として,故意とは 別個の意義をもつことにより,事実の認識としての故意の役割は責任領域 において失われ,故意は構成要件要素,あるいは違法要素であって,責任 要素ではないとする責任説に対しては,なお,責任の領域を空虚にしたと いう批判が可能であることに注意しなければならない。この批判は,行為 無価値論の立場から責任説を徹底した見解 (30) に対してすることが可能であろ う(それ故,結果無価値論から主張される責任説には当然あてはまらない)。 しかし,この問題は,責任説自体に対する決定的な批判にはなり得ないの である。というのも,(行為無価値論による)責任説の立場からであって も,事実認識としての故意(事実的故意)を,構成要件要素,違法要素で あるとともに,責任要素であると理解することは可能だからである。すな わち,「事実的故意(事実の認識)は,行為意思の内容としての面から行 為の構成要素として把握され,行為(意思実現)と一体となって違法判断 に服するものとして,すなわち違法判断の客体として理解されているが, また責任論においては,意思形成としての面から責任判断の客体として理 解される (31) 」,そして,「不法と責任とでは無価値の質をことにするものであ るという認識から,不法と責任とを理論的に区別する犯罪論体系において, 故意という心理的事象が,不法の段階では社会的有害性の視点から評価さ れ,責任の段階では非難可能性の視点から評価され,犯罪論体系において

(10)

二つのことなった意味をもつものであると解することは,故意の体系的地 位の把握として妥当であろう (32) 」と理解することも可能だからである (33) 。 事実の認識(故意)を責任の要素としても認める見解の当否はともかく (34) , このことからも分かるように,責任説に立てば,必然的に責任の要素から 事実の認識(事実的故意)が失われるということにはならない。もし責任 説が,故意と違法性の意識の可能性を別個の要素であるとしたことを理由 に,事実的故意を責任から放逐するのが必然であるというのであれば,制 限故意説においても,事実的故意(事実の認識)を構成要件要素あるいは 違法要素,責任故意(違法性の意識の可能性)を責任要素,というように 解釈しなければならなくなるはずである。それ故,制限故意説からは,責 任説自体を否定することはできないことになるのである(制限故意説は, 事実の認識を責任要素と認めない責任説に対して,責任が空虚になる点を もって,批判をすることは可能であるが,事実の認識を責任要素としても 認める責任説に対しては,そのことを理由に批判することはできないので ある)。 また,通常その認識から直接違法性の意識が喚起され,反対動機を形成 し,行為を思いとどまることが期待できるような事実の認識を故意とし, 「犯罪事実の認識と違法性の意識(の可能性)との間には有機的関連があ り,その意味において両者はともに責任要素である」とするような見解に 対しては,以下のような批判が可能であろう。すなわち,この見解によれ ば,故意である事実の認識に反対動機形成可能性を求めることによって故 意を責任要素でもあるとして,責任が空虚になることを回避しようと試み たものであると思われるのだが,そのために,事実の認識と違法性の意識 の可能性を関係づけ,反対動機形成可能性を意味の認識に要求することは, 必ずしも必要だということにはならないはずである,というものである。 つまり,責任が空虚になるという批判を受け入れるならば,故意を反対動 機形成可能性と関係づけて考慮しなくとも,(故意の提訴機能を有しない) 構成要件該当事実の認識も責任要素と解すれば十分であり,ただちに故意 の提訴機能を要求する必要はないのである。それ故に,故意の内容を,通 ’06)

(11)

常その認識から直接違法性の意識が喚起され得る事実の認識とするならば, 責任領域が空虚になるということ以外の理由が要求されなければならない であろう。 故意の提訴機能を要求するにあたり,責任領域が空虚になることを防ぐ ためという理由が十分に説得力をもたないのであれば,事実的故意の内容 に反対動機が形成され得るような事実の認識を要求する理由として,何が 考えられるであろうかが問題となる。この点については,事実の錯誤と違 法性の錯誤の区別の実質化が指摘されている。故意の提訴機能を要求する 見解によれば,構成要件の内容たる客観的事実に関する錯誤を構成要件の 錯誤,行為が法律上許されない点についての錯誤を禁止の錯誤とするとい うような,事実の錯誤と違法性の錯誤の区別の基準は,「このような区別 の基準は,それ自体としては明快である。しかし,形式的,概念的区別に とどまり,具体的事案の解決を容易にするとはいえない」として,責任領 域が空虚になることを防ぐ点以外に,両錯誤を区別する基準の実質化が必 要である旨を示し,事実の認識(意味の認識)を,「当該構成要件の違法 性の意識を喚起し得る事実」の認識 (35) であったり,「直接違法性の意識が喚 起可能となるような事実の意味内容の理解」と考えるのであろう (36) 。 しかし,事実の錯誤と違法性の錯誤の区別を実質化し,具体的事案の解 決を容易にするという目的は,事実の認識に故意の提訴機能を要求するこ との正当化にはならないように思われる。何故ならば,それらの区別の基 準を実質化した場合よりも,形式的,概念的に区別した場合のほうが,故 意の内容が明確となり,事案の解決の点からしても容易であると考えるこ とができるからである。例えば,有名な判例である,たぬき・むじな事件 (37) , むささび・もま事件 (38) をあげて考えてみたい。これらの事件は,ともに類似 の事案であったにもかかわらず,前者を事実の錯誤,後者を違法性の錯誤

第3章 事実の錯誤と違法性の錯誤の区別における形式的判断

と実質的判断

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というように,大審院は異なった判断を下したことは周知の事実であるが, 故意の内容を実質的に判断することを否定する立場からは,両事件とも違 法性の錯誤ということになるであろう (39) 。ここでは,意味の認識の内容につ いて考慮するにあたり,たぬき・むじな事件,むささび・もま事件は,と もに,客観的にたぬきと同一である「むじな」という動物の認識,客観的 にむささびと同一である「もま」という動物の認識があれば意味の認識に とって十分であり,故意は認められると考えることができるからである。 このような見解に対しては,非常に明確であり,故意の成立にとって必要 な,行為者の認識すべき意味の内容を簡明に提示することが可能となると いう評価をなすことができよう。 一方,意味の認識を,「当該構成要件の違法性の意識を喚起し得る事実」 の認識,「直接違法性の意識が喚起可能となるような事実の意味内容の理 解」というように定義する見解からは,たぬき・むじな事件,むささび・ もま事件につき,判例の立場を支持する,あるいは両事件とも事実の錯誤 とする (40) ことになるが,そこにおける故意の内容は,必然的に導かれるとい うような自明のものではない。たぬき・むじな事件とむささび・もま事件 で結論が異なった理由は,たぬき・むじな事件における,たぬきとむじな の名称は,「古来併存シ我国ノ習俗亦此二者ヲ区別シ」ていたことから故 意が欠けるとされたのに対し,むささび・もま事件では,「単ニ其ノ同一 ナルコトヲ知ラス『もま』ハ之ヲ捕獲スルモ罪ト為ラスト信シテ捕獲シタ ルニ過キサル」から故意が認められるとされたところにある (41) 。つまり, 「もま」という認識は「むささび」という概念の素人的な認識であるが, 「むじな」という認識は「たぬき」という素人的認識ではなく,それ故, 行為者が社会的意味の認識を欠いていた (42) ,と理解すれば,両事件の故意の 成否を,判例と同様にうまく説明することが可能となるのである (43) 。 ここで注意すべき点は,たぬきとむじなは古来から別物と信じられてい たことから,意味の認識として両者が同一動物であるという認識を要求し, むささびともまでは,もまはむささびの単なる俗称に過ぎないから,意味 の認識としてはもまの認識で足りるとする理解である。つまり,両事件に ’06)

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おいて結論が分かれた理由は,両者が同一動物であるか否かの社会的評価 が定まっていたか,定まっていなかったかによるものだと指摘することが できる。これは,社会的評価によって意味の認識の内容が決するというこ とを示すものであるが,まさに,ここにこそ問題があるのではないだろう か。故意を反対動機形成可能性の観点から構築し,意味の認識を,直接違 法性の意識が喚起可能となるような事実の意味内容の理解とする,故意の 実質化を推し進めた見解からは,ある事実が有する社会的評価を明らかに しなければ,意味の認識の内容が不明のままなのであり,行為者が認識す べき故意の内容を画一的に理解することができない。それ故,このような 見解からは同じような事案であったとしても,社会的評価が異なれば認識 すべき故意の内容も変わることになるのだが,このことが,具体的事案の 解決を容易にするとも思われないのである。故意の内容は,その事実のも つ社会的評価が明らかになって,はじめて確定することになり,事案の解 決を複雑にするのではないだろうか。行為者の認識すべき事実(意味の認 識)と,反対動機形成可能性の判断である,行為者における自己の行為の 評価の問題(違法性の意識の可能性)とは役割が異なることから,両者を 区別することなく故意において判断しようとすることは,意味の認識概念 の混乱を招くことになり,かえって具体的事案の解決においてプラスとは ならないであろう。事実の認識の問題と行為の評価の問題は,概念上,完 全に別の機能を有するものであり,故意と違法性の意識の可能性とに分け てそれぞれ別に考慮したほうが思考上,簡潔である (44) 。また,そのように解 したとしても具体的事案の解決にとって何の支障もなく,故意の要件に, 敢えて反対動機形成可能性の問題をもちだす必要はないのである。故意の 提訴機能は重要ではないように思われる。 また,上記のような故意の提訴機能を求める見解は,意味の認識の内容 を決するにあたり,社会的評価(つまり,たぬきとむじなは古来から別物 であると信じられてきたということ)を考慮するが,それが意味の認識に 影響すると考えること自体に問題がある。意味の認識の定義が論者によっ て異なり,それにより行為者の認識すべき故意の内容が不明確 (45) となってい

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る最も大きな理由は,行為者の認識すべき「意味の認識」に評価を付け加 えることによって意味の認識の内容を決定する点にあるかと思われる。こ れは,故意の提訴機能を認めない見解で,たぬき・むじな事件,むささび ・もま事件を事実の錯誤と違法性の錯誤に分けるもの (46) (あるいはともに事 実の錯誤とするもの)にもあてはまる問題である。 例えば,「被告人にとって,『むじな』はどうみても『たぬき』ではなか ったのであり,『たぬき』すなわち『むじな』というつながりは,被告人 の認識には全くなかったのである。しかも,これは被告人の独断であった わけではなく,わが国の古来の習俗上の観念に従って両者は別物だと思っ ていたのである」とし,「事実を法規ないし法的概念にあてはめる前の段 階で,『たぬき』であるという『社会的意味の認識』(=「素人的認識」)を 欠いており,したがって,狩猟法に違反して『たぬき』を捕獲することの 違法性を基礎づける事実の認識を欠き,その違法性を意識する前提的・事 実的基礎も与えられていなかった」ことから,故意は阻却されるべき (47) だと する見解があげられる。このような見解からは,両事件とも違法性の錯誤 とする見解に対して,「おそらく,『たぬき』と同じ外形をもつ『動物』で あるという『意味の認識』で足りるとするのであろう。しかし,その認識 だけでは,『たぬき』と同じ外形のものという自然的・外部的事実の認識 のほかに,『意味の認識』としては『動物の認識』しかないことになる。 だが,それだけの『意味の認識』によっては『たぬき』の捕獲を禁止した 狩猟法違反の違法性を基礎づける事実の認識があったとはいえない (48) 」と批 判するのである。 しかしながら,このような指摘は妥当であるとは思われない。すなわち, 故意の提訴機能を認める見解に対してもいえることだが,意味の認識はそ れぞれの事実がもつ固有の性質(本来的に存在する固有の性質)からのみ 導かれるべきであり,事実のもつ社会的意味を加えることは妥当ではない と考えるべきだからである (49) 。たぬきとむじなが我が国古来から別の動物と 信じられていたという事実は,「たぬき」という事実から導かれることで はなく,それを評価したもの(言い換えると,たぬきという事実に付け加 ’06)

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えたもの)であることから,そのような事柄は意味の認識を決するにあた り考慮すべきではないのに対し,「むじな」という事実は,動物学上,た ぬきと同一のものであり,たぬきという事実から導かれる「意味」である ことから,むじなの認識は意味の認識に含まれることになる。それ故,む じなという認識をもってむじなを捕獲した以上,故意は成立するとすべき であり,我が国古来の習俗上,別物であるとされてきたという事情は,違 法性の意識の可能性において,行為者にとって有利に扱われる事情として 考慮されるにとどまると理解すべきである。「動物の認識」で意味の認識 を認めることになってしまうと指摘するが,漠然とした動物の認識のみで 意味の認識を認めているわけではなく,「たぬき」,「むささび」の属性の 認識が要求されていることから不当な結論にも至らないのである(犬の姿 かたちを思い浮かべていたならば当然に意味の認識は否定されることにな るのである)。 なお,たぬきとむじなが別物であると行為者が積極的に信じていた場合 には意味の認識は欠けるという指摘がなされるかもしれない (50) 。つまり,こ こでは,意味の認識として,両者が同一動物であるかもしれないという認 識が要求されることになるのであろう。しかし,このように考えることは 困難である。例えば,薬物事犯において,薬理作用は把握しているが,シ ャブやスピード(ともに覚せい剤である)は覚せい剤ではないと行為者が 積極的に認識して所持していたという場合に,行為者は事実の錯誤に陥っ ているとして,故意が欠けるとすることはできないであろう。積極的な誤 信と故意の成否は無関係であり,ただ違法性の意識の可能性で問題となる に過ぎない。 さらには,名称の認識は重要ではなく,構成要件該当性を基礎づける事 情さえ認識していればよい(認識されている対象の属性と構成要件に規定 されている対象の属性が完全に対応し,構成要件該当事実の認識を積極的 に否定しない場合)が,「たぬき」と「むじな」は別ものだと認識し,そ うした理解が古くからの習わしでもあったという特殊な事情からすれば, 「構成要件該当事実の認識という要件の持つ,罪刑法定主義の主観面にお

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ける保障という意義・役割から見て,やはり,構成要件該当事実の認識が 否定された場合においての意味の認識だけで故意を認めることはできない」 とする見解 (51) がある。しかし,この見解に対しては,先にも述べたとおり, たとえ積極的に別の物と認識していた(シャブは覚せい剤ではないと思い 込んでいた)としても,故意の成立を妨げるべきではないのであり,疑問 が生じる。古くからの習わしであったという特殊な事情も,故意の成否に 関しては,考慮すべきではない。また,「構成要件該当事実の認識が否定 された場合」とは,裸の事実の認識が欠けたことを指すのであれば,意味 の認識こそが故意非難の本質であることから,それをもって故意を否定す べきではない。

第4章 意味の認識における付け加えの禁止

ここで,意味の認識の限界について,さらに検討を加えてみたい。意味 の認識の内容がしばしば不明確であるといわれる理由は,先にも指摘した ように,意味の認識の内容を確定するにあたり,評価的要素も考慮に入れ てその内容が判断されることにあるように思われる。この点を解消するこ とによって,意味の認識,ひいては故意概念を明確にすることが可能とな るであろう。つまり,ここでは,意味の認識を限界づけるにあたって,構 成要件に規定された事実がもつ固有の性質のみに着目し,評価的要素を排 除すること,すなわち,「付け加え禁止」を徹底することによって,故意 と違法性の意識の可能性の役割を明らかにすることができると思われる。 そこで,まずは,何故,意味の認識における付け加えが禁止されるべきな のかを検討する必要がある。 そもそも意味の認識は,それによってのみ故意概念が統一的基準をもつ ことになり,そのために必要であるとされている (52) 。行為の意味を理解して いない者に対して,罪を犯す意思があったとして処罰しても無意味だから である (53) 。意味の認識が特に論じられるのは,法的概念 (54) や専門用語 (55) の事実に おいてである。これらの事実に関しては,裸の事実を認識しただけでは, ’06)

(17)

行為者は自己の行為の意味を理解していないことから,ただちに故意の成 立を認めるわけにはいかないが,逆に,行為者が法的概念や専門用語を知 らなければ故意は成立しないとすることもできない (56) 。意味の認識は,この ような法的概念・専門用語と日常的概念の間にギャップが存在する場合に 重要となる。法的概念・専門用語は,そのままの形では認識することが困 難であるため,それを一般国民にも認識可能な日常的概念へと翻訳する必 要が生じる (57) が,その翻訳された内容こそが意味の認識なのである。意味の 認識は,このように,国民にはそのままの形で認識することが困難な場合 に,国民にも容易に認識することが可能な言葉で伝えられるものであり, そのために存在する概念であるといえよう。国民が法的概念・専門用語で 正確にあてはめて認識する必要もなく(実際に不可能である),そのよう な場合であっても処罰しなければ法律の存在自体が否定されることになる から,その際に,行為者が自己の行為の意味を認識していたとすれば構成 要件に該当する事実と同じ事実を認識していたと評価することができる。 それは,構成要件に規定された概念の事実をそのまま認識することが困難 であるから,規定されている通りの法的概念・専門用語の代わりにその意 味を認識していれば足りる,ということを意味するのであり,意味の認識 は構成要件に規定された文言の認識の代理なのである。それ故に,行為者 は構成要件に規定された文言で正確にあてはめていなくとも処罰されるの である。 以上のように考えると,故意の提訴機能の観点あるいは社会的評価の観 点から意味の認識の内容を画すべきではなく,構成要件に規定された文言 からそれが導かれるべきであるということになる。たぬき・むじな事件で いえば,「むじな」が,あるいは,たぬきの姿かたち(「たぬき」から導か れる固有の性質)が意味の認識の内容となる。なお,構成要件によっては, 法的概念・専門用語と日常的概念との間にギャップがないものがある(例 えば,「死」の概念 (58) )が,そのような場合は,規定の文言と意味の認識の 内容が重なっていると評価できる。故意を認めるに相応しい事実の認識で あるか否かという視点から意味の認識を定義する方法(例えば,意味の認

(18)

識を,当該構成要件の違法性の意識を喚起し得る事実の認識,直接違法性 の意識が喚起可能となるような事実の意味内容の理解とするような見解) は,規定の文言から離れて故意の内容を決することになり,妥当ではない。 そのような見解は,故意は構成要件該当事実を認識することとはいえなく なってしまうであろう (59) 。ここから,意味の認識を考えるにあたり,事実の もつ固有の性質からのみ導かれるべきであり,評価的要素を付け加えるべ きではないという「付け加え禁止」がもたらされることになる。このよう に理解する立場からは,意味の認識を「社会的意味」の認識とすることは 支持し得な (60)(61) い。また,この場合の意味の認識は,国民にも認識可能な法律 規定の翻訳であるということから,行為規範そのものであるということに もなる(評価を付け加える見解からは,意味の認識を行為規範と考えるこ とはできないであろう)。 さらには,そもそも事実固有の性質から導かれる意味を超えて,評価を 付け加える必要はないとも思われる。たぬき・むじな事件を例にとれば, むじなという認識が行為者にあれば,法が捕獲を禁止している動物を捕獲 する認識があるのであり,シャブを覚せい剤だと知らずに所持している行 為者となんら変わらない。何故ならば,むじなとたぬきは同一物であり, むじなおよびたぬきが指し示す物体は何ら変わらないからである(シャブ と覚せい剤が指し示す物体は同じだということと同様である)。行為者の 表象しているものは,たぬきそのものであり,ただそれがたぬきという名 称であるということを知らないだけであって,行為規範違反が認められる ことになる(法が捕獲を禁止している動物自体を行為者が認識して捕獲す ることから,規範は動揺している)。ここでは,覚せい剤原料である塩酸 エフェドリンを風邪薬だと認識して所持していた場合と明らかに異なるの である。塩酸エフェドリンを風邪薬だと認識していた場合と同様であるの は,行為者がたぬきにあたる動物をクマだと思っていたような場合であろ う。 そして,行為規範が動揺させられた以上は,ただちに犯罪の成立を否定 するわけにはいかない。規範を通して行動をコントロールすることが法の ’06)

(19)

役割であり,刑法は,評価の誤り(違法性の錯誤)の場合であれば,規範 を教え,規範に関する誤解をただすために存在することから,寛容にはな れないのである (62) 。それ故,むじなの認識があれば,故意の成立を認めても さしつかえないことになる。意味の認識の内容として,ある事実が有する 固有の性質以外の評価を付け加えなければ不当な結論に至るということに もならないであろう。これが不当であるというのならば,薬理効果は知っ ていたがシャブは絶対に覚せい剤ではないと認識していた行為者に対して も故意を阻却すべきことになるのではないだろうか。ただし,注意しなけ ればならないのは,責任説からは,このことがただちに行為者の処罰に結 びつくわけではないことである。故意が認められるとしても,違法性の意 識の可能性が欠けることによって責任が阻却されるからである。

結びにかえて

本稿は,責任説の立場に立ち,故意の提訴機能を認める見解に対して, その故意の理解に疑問があること,また,そもそも故意を実質的に捉える こと自体に問題があることを指摘し,そこから,意味の認識はどのように 理解されるべきであるかについて検討を試み,一定の方向を示すことがで きたと思う。 責任説において,故意の提訴機能を要求することは,違法性の意識の可 能性が独立の責任要素として認められる以上,同じことを二度行うことを 示すものであり,妥当ではない。それは,責任領域が空虚になることを防 ぐために意義を有するものでもなく,また,そもそも,提訴機能を有しな い責任説によったとしても責任は空虚にならないものと考える。そして, 故意の提訴機能を要求する見解のみならず要求しない見解であっても,故 意を実質的に考慮することは,具体的事案の解決にとってプラスとなるも のではなく,また,これこそが故意概念,そして,意味の認識を不明確な ものにしている原因であるといえる。意味の認識は,行為者が構成要件に 規定された文言それ自体を認識することの代わりに,国民にも容易に認識

(20)

することができる言葉で,事実を認識することで足りると理解すべきであ り(ここから意味の認識は行為規範となる),それ故に,評価的要素を付 け加えるべきではなく,事実が有する本来的な固有の性質のみから意味の 認識の内容を画すべきことになる。従って,意味の認識とは,「社会的意 味」を認識することではない。あくまでも法的概念・専門用語の翻訳と理 解すべきである (63) 。ここにおいて「付け加え禁止」を徹底することにより, 意味の認識概念,そして故意概念を明確にすることが可能となる。これは, 故意を「構成要件該当事実の認識」とすることに忠実に従った理解である と評価することもできよう。 以上の見解は,責任説の考えに最も適した理解であるようにも思われる。 責任説は,故意と違法性の意識(の可能性)との,一方は心理的要素,一 方は規範的要素であるという性質の違い(存在論的差異)に着目した見解 であり,ただ単に,便宜上,行為者を非難することが酷である場合がある から,違法性の意識の可能性を独立した責任要素としてもうけようとした わけではないのである。事実認識の問題と評価認識の問題を混同すること は混乱をきたすのみであり,「付け加え禁止」により,両者を峻別する必 要があるように思われる。このように責任説は理解されるべきである。な お,本稿のような,事実の有する固有の性質からのみ意味の認識を導く見 解は,故意と違法性の意識の役割を明確に区別することを目指すものであ り,処罰範囲の拡大を意図するものでないことを付言しておきたい。 意味の認識の観点から,責任説を再構成する本稿の意図および論理は, 十分な説得力をもって論証に成功したとは言えず,多くの批判を頂くこと になるであろう。また,本稿の主張する,意味の認識を事実が有する固有 の性質から導かれた認識と理解する見解が,具体的事案において,どのよ うな結論に至るのかについては,一定程度は示したものの,十分に明らか にすることはできなかった。この点に関する研究は他日に譲ることを御海 容願いたい。故意の体系的地位に関しても,今後の研究課題である。 ’06)

(21)

〔注〕 (1) 責任説を主張するのは,例えば,井田良『犯罪論の現在と目的的行為 論』(1995)30頁以下,大谷實『新版刑法講義総論・追補版』(2004) 362頁,香川達夫『刑法講義(総論)・第三版』(1995)241頁以下,川端 博『刑法総論講義』(1995)419頁以下,佐伯仁志「故意論・錯誤論」山 口・井田・佐伯『理論刑法学の最前線』(2001)123頁,鈴木茂嗣『刑法 総論 (犯罪論) (2001)96頁以下, 曽根威彦『刑法総論・第三版』(2000) 177頁以下,内藤謙『刑法講義総論(下)Ⅰ』(1991)1015頁以下,西原 春夫『刑法総論・改訂準備版(下巻)』(1993)465頁以下,野村稔『刑 法総論・補訂版』(1998)307頁,林幹人『刑法総論』(2000)318頁,平 野龍一『刑法総論Ⅱ』(1975)263頁以下,福田平『全訂刑法総論・第四 版』(2004)207頁以下,堀内捷三『刑法論論・第2版』(2004)194頁以 下,町野朔『刑法総論講義案Ⅰ・第二版』(1995)221頁,松原久利『違 法性の意識の可能性』(1992)19頁以下,山口厚『刑法総論・補訂版』 (2005)214頁,山中敬一『刑法総論Ⅱ』(1999)616頁以下。 (2) 福田『全訂刑法総論・第四版』(前掲注(1))207頁。 (3) 現在の判例の立場は,違法性の意識不要説であるが,違法性の意識の 可能性を犯罪の成立に必要とする違法性の意識可能性説へと判例変更の 可能性を示唆する判例として,最決昭和62年7月16日刑集41巻5号237 頁(百円札模造事件)がある。この判例については,仙波厚「百円紙幣 を模造する行為につき違法性の意識の欠如に相当の理由があるとはいえ ないとされた事例」 最高裁判所判例解説刑事篇昭和六二年度』(1990) 138頁以下,松原久利「違法性の意識」刑法判例百選Ⅰ総論・第五版 (2003)92頁以下を参照。

(4) Vgl. Hans Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl. 1969, S. 157 ff. (5) 故意の要件として違法性の意識を要求する厳格故意説については,南 由介「故意説の理論構成について」法学政治学論究54号(2002)175頁 以下において,すでに検討した。また,南由介「意味の認識の限界と禁 止の認識」法学政治学論究59号(2003)293頁以下においては,故意 (意味の認識)から禁止の認識(禁止区域の認識等)も含めて違法性の 意識を徹底的に排除すべきであることを主張した。 (6) 西原『刑法総論・改訂準備版(下巻)』(前掲注(1))471頁。 (7) 大谷『新版刑法講義総論・追補版』(前掲注(1))371頁。 (8) 洲見光男「 あてはめ』の錯誤と故意―行政犯における事実認識を含

(22)

めて―」早稲田大学大学院法研論集47号(1988)121頁。 (9) 松原『違法性の意識の可能性』(前掲注(1))25頁以下。 (10) 松原『違法性の意識の可能性』(前掲注(1))19頁。 (11) このように理解した場合における故意の内容は,実質的故意論(前田 雅英『刑法総論講義・第3版』(1998)280頁以下,とくに291頁を参照) における故意の内容と限りなく近いことになり,両者の差は,例外的に 違法性の意識の可能性がないために行為者を非難できない場合について, 責任阻却の余地を認めるか否かに残るといえよう。 (12) 山佳奈子『故意と違法性の意識』(1999)63頁。また,厳格故意説 に対して述べたものであるが,南「故意説の理論構成について」(前掲 注(5))180頁も参照。 (13) 前田『刑法総論講義・第3版』(前掲注(11))291頁。 (14) 実質的故意論に対する批判として,南「故意説の理論構成について」 (前掲注(5))189頁以下を参照。 (15) 松原『違法性の意識の可能性』(前掲注(1))26頁。 (16) 福田平『違法性の錯誤』(1960)193頁。なお,本文の引用は,故意と 違法性の意識との区別に関して言及されたものであるが,このことは故 意と違法性の意識の可能性の区別に関してもあてはめることが可能であ ろう。 (17) 福田『違法性の錯誤』(前掲注(16))205頁を参照。 (18) 井田『犯罪論の現在と目的的行為論』(前掲注(1))32頁。 (19) 町野朔「意味の認識について(上)」警察研究61巻11号(1990)8頁 以下。 (20) この点については,第3章および第4章を参照。 (21) 林幹人『刑法の基礎理論』(1995)93頁では,「構成要件は不法内容の 基本的部分を類型化したものであって,不法内容の実質は法益侵害・危 険にあるとすれば,構成要件該当事実を認識する者は,当然に法益の侵 害・危険を認識している」としているが,これが,故意の提訴機能は重 要ではなく,不法類型である構成要件該当事実の認識があれば当然に故 意非難に値する認識があるという意味ならば,妥当であると思われる。 しかし,「法益の侵害・危険の認識」が,行為者の認識が当該法規の規 制する侵害・危険に向いていること以上の,実際に何らかの者(物)を 侵害している,危険にさらしているという認識が必要であるということ まで要求するのであれば,疑問が生じる。この点については,別の機会 に改めて検討したい。 ’06)

(23)

(22) 団藤重光『刑法綱要総論・第三版』(1990)319頁。 (23) なお,結果無価値論による責任説では,故意と違法性の意識の可能性 を峻別したとしても,故意は責任要素として残り続けることになるが, ここでの問題は,反対動機形成可能性に関しての非難可能性を故意にお いても考慮するか否かの問題であることから,結果無価値論による責任 説(あるいは責任要素としての故意を認める行為無価値論の責任説にお いても)であっても,提訴機能を有しない故意を認める見解は,故意を 空虚にするとして,批判の対象となるのであろう。 (24) 団藤『刑法綱要総論・第三版』(前掲注(22))136頁以下。 (25) 団藤『刑法綱要総論・第三版』(前掲注(22))317頁以下。 (26) 松原『違法性の意識の可能性』(前掲注(1))18頁以下。 (27) 松原『違法性の意識の可能性』(前掲注(1))26頁。 (28) 佐久間修『刑法講義(総論)』(1997)262頁では,事実的故意だけで 故意犯の本質が尽きるのかにつき,疑問を呈している。この他に,責任 説が故意と違法性の意識の可能性を区別することによって責任の領域が 空虚になるとするのは,例えば,浅田和茂『刑法総論』(2005)331頁以 下。 (29) 詳しくは,南「故意説の理論構成について」(前掲注(5))187頁以下 を参照。 (30) 行為無価値論の立場をとり,体系上,故意を責任から排除する見解と して,例えば,井田良『刑法総論の理論構造』(2005)72頁以下,233頁, 川端『刑法総論講義』(前掲注(1))168頁以下,西原『刑法総論・改訂 準備版(下巻)』(前掲注(1))464頁がある。 (31) 福田『違法性の錯誤』(前掲注(16))191頁。 (32) 福田平「故意の体系的地位について」東海法学9号(1993)151頁。 (33) この他に,事実の認識(事実的故意)を責任の要素でもあるとする見 解として,例えば,大谷『新版刑法講義総論・追補版』(前掲注(1)) 355頁以下。 (34) 事実の認識を,責任の要素とし得るか否かについては,私見としては, 行為無価値論の立場から,すでに構成要件段階,違法性段階で評価しつ くされていると考えることもできることから,故意を責任要素とする必 然性はないように思われるが,本稿は,責任説における故意と違法性の 意識の可能性(反対動機形成可能性)との関係について検討することが 目的であるため,事実的故意が責任要素でもあるか(故意の体系的地位 の問題)については,なお留保したい。

(24)

(35) 洲見光男「 あてはめ』の錯誤と故意」(前掲注(8))121頁。 (36) 松原『違法性の意識の可能性』(前掲注(1))24頁以下。 (37) 大判大正14年6月9日刑集4巻378頁。 (38) 大判大正13年4月25日刑集3巻364頁。 (39) たぬき・むじな事件,むささび・もま事件をともに違法性の錯誤とす るのは,例えば,鈴木『刑法総論(犯罪論)』(前掲注(1))112頁以下, 山『故意と違法性の意識』(前掲注(12))193頁,町野『刑法総論講義 案Ⅰ・第二版』(前掲注(1))225頁以下。 (40) 両事件とも,事実の錯誤と理解するのは,西原『刑法総論・改訂準備 版(下巻)』(前掲注(1))471頁,洲見光男「意味の認識―法的意味と 社会的意味との関係―」早稲田大学大学院法研論集30号(1983)222頁, 洲見「 あてはめ』の錯誤と故意」(前掲注(8))122頁。また,厳格故 意説の立場から,両事件における意味の認識を,禁猟獣を捕獲する認識 と理解した場合も,ともに事実の錯誤と解されることになる(中山研一 「違法性の錯誤の実体(5)―法律の錯誤と事実の錯誤の関係に関する 判例の検討―」判例タイムズ962頁(1998)48頁以下,浅田『刑法総論』 (前掲注(28))328頁以下)。 (41) ただし,判例は当初から違法性の意識不要説であり,違法性の意識の 可能性も責任の充足にとっては必要ないという立場をとっていたことか ら,故意責任を問うべきではない事案においては故意が欠けるといわざ るを得なかったのであり,そういう意味では,両事件で結論が分かれた ことは,直ちに矛盾であるとはいえないことに注意すべきである(伊東 研祐「構成要件要素としての故意―その2:錯誤と故意1」法学セミナ ー610号(2005)113頁以下参照)。たぬき・むじな事件においては,違 法性の意識の可能性が欠ける事案であったのに対し,むささび・もま事 件では,違法性の意識の可能性が認められる事案であったと評価するこ とが可能であり,両事件で結論を異にした判例の結論自体(一方を有罪 とし,もう一方を無罪としたこと)については,妥当であったように思 われる。福田『全訂刑法総論・第四版』(前掲注(1))212頁以下は, 「問題をいわゆる事実の錯誤の問題にすりかえて,具体的事案の妥当な 解決をはかったもの」と指摘している。 (42) 平野龍一『刑法総論Ⅰ』(1972)173頁。 (43) 両事件をともに事実の錯誤とする見解からは,「ある事実を一定の法 的概念にあてはめる前段階として,そもそもその社会的一般的意味を誤 解しているような場合には,まだ違法性の意識への直接的な期待が可能 ’06)

(25)

になる程度にまで犯罪事実の認識が完成していない」(西原『刑法総論 ・改訂準備版(下巻)』(前掲注(1))471頁)として,むささび・もま 事件においても故意が阻却されることになる。 (44) 故意の提訴機能を要求した場合の意味の認識のほうが,思考経済上メ リットがあるかもしれないが,それはわずかであり,異なった概念を混 在させることによる弊害のほうが大きいように思われる。 (45) 社会的意味という言葉が多義的であり,論者によって意味が異なると 指摘するのは,香城敏麿『刑法と行政刑法』(2005)78頁。 (46) 例えば,内藤『刑法講義総論(下)Ⅰ』(前掲注(1))1017頁は,「故 意は,犯罪事実に対する認識的・意思的関係を生じさせる心理状態とし て,法的非難可能性の基礎になる原則的・積極的な責任要素(責任条件) である。これに対して,違法性の意識の可能性においては,犯罪事実に 対する認識的・意思的関係を生じさせる心理状態である故意が存在する ことを前提として,行為者がそのような心理状態としての故意をもつに いたった動機形成過程を非難できるかどうかが問題になる」とし,故意 の提訴機能を認めていない見解であるように思われるが,たぬき・むじ な事件,むささび・もま事件の判例の結論に賛成することから,意味の 認識の内容は,故意の提訴機能を要求する見解と同一の方向に理解して いるものといえよう。安田拓人「錯誤論(下)」法学教室274号(2003) 94頁では,行為者が「たぬき」と「むじな」が別ものであると思ってい たという点から,判例の結論に賛成している。また,大沼邦弘「事実の 錯誤と法律の錯誤(2)」刑法判例百選Ⅰ総論・第五版(2003)86頁以 下は,故意の提訴機能を肯定するか否かは定かではないものの,判例の 結論を肯定する。 (47) 内藤『刑法講義総論(下)Ⅰ』(前掲注(1))1078頁。 (48) 内藤『刑法講義総論(下)Ⅰ』(前掲注(1))1078頁。 (49) 道路標識等における禁止の認識と意味の認識の関係について述べたも のであるが,南「意味の認識の限界と禁止の認識」(前掲注(5))317頁 も参照。 (50) 内藤『刑法講義総論(下)Ⅰ』(前掲注(1))1079頁参照。 (51) 安田「錯誤論(下)」(前掲注(46))94頁。 (52) 中森喜彦「麻薬・覚醒剤に関する認識・故意」判例タイムズ721号 (1990)74頁。 (53) 意味の認識の必要性については,南由介「意味の認識をめぐる一考察 ―薬物・有毒飲食物事犯に関する判例の検討を中心として―」法学政治

(26)

学論究48号(2001)417頁以下を参照。

(54) 例えば,ビールのコースターに客が何杯飲んだかを知るため店員が書 いた印を消すことは文書偽造罪にあたるとする文書の概念や,タイヤの 空気を抜く行為が器物損壊罪にあたるとする損壊の概念が法的概念にあ たる(Claus Roxin, Strafrecht AT I, 3. Aufl. 1997, S. 407 f.)。

(55) 例えば,覚せい剤の科学名である,フェニルアミノプロパン,フェニ ルメチルアミノプロパンなどが(法的概念であるとともに)専門用語と いえよう。 (56) 伊東研祐「故意の内実について―再論―」松尾浩也先生古稀祝賀論文 集上巻(1998)273頁は,最高裁平成2年2月9日決定(判時1341号157 頁)に対し,覚せい剤という随伴的な同時的表象は在ったし,覚せい剤 であれば行為に出ないという意思も認められないから故意が認められる, とするものならば妥当であるとするが,これが薬物の薬理効果等を超え た名称の認識までも意味の認識として(同時的にせよ)要求するのなら ば,故意の認識内容としては過剰であるように思われる。 (57) 井田『刑法総論の理論構造』(前掲注(30))68頁。 (58) 死の概念については,脳死説か三徴候説かという法的概念により, 「人」であるか否か決するともいえるが,どちらかに決まれば規範的評 価は問題とはならないのであり(山口『刑法総論・補訂版』(前掲注(1)) 172頁以下),法的概念と日常的概念との間にギャップはないものといえ る。 (59) 故意が構成要件該当事実の認識でなければならないことを指摘するの は,例えば,中森喜彦「錯誤と故意」西原春夫先生古稀祝賀論文集第一 巻(1998)437頁。 (60) 佐久間『刑法講義(総論)』(前掲注(28))266頁は,たぬき・むじな 事件において,行為者は,過去の経験や専門知識から社会的意味を認識 していたとするが,社会的意味を考慮する点において,疑問である。 (61) なお,構成要件関係的利益侵害性の認識を故意とする見解(齋野彦弥 故意概念の再構成』(1995)185頁以下)は,意味の認識を実質的に理 解する点では,意味の認識を社会的意味の認識とする見解と同一の方向 性を示すものであると評価できるが,この見解は,構成要件関係性は要 求するものの構成要件の認識は必要ない(187頁以下)とし,別個に利 益の侵害という認識を要求することから,構成要件の文言を超えた意味 の付け加えがなされたとすることができ,妥当ではないように思われる (また,南「故意説の理論構成について」(前掲注(5))193頁以下を参 ’06)

(27)

照)。侵害の認識と意味の認識との関係については,別の機会に改めて 考察したい。 (62) 井田『刑法総論の理論構造』(前掲注(30))81頁以下。 (63) 意味の認識を社会的意味の認識とする見解は,法的概念・専門用語の 翻訳を超えた「意訳」というべきであり,構成要件の文言から離れてし まう危惧は否定できない。

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安全性は日々 向上すべきもの との認識不足 安全性は日々 向上すべきもの との認識不足 安全性は日々 向上すべきもの との認識不足 他社の運転.

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその

信号を時々無視するとしている。宗教別では,仏教徒がたいてい信号を守 ると答える傾向にあった

安全性は日々 向上すべきもの との認識不足 安全性は日々 向上すべきもの との認識不足 安全性は日々 向上すべきもの との認識不足 他社の運転.

安全性は日々 向上すべきもの との認識不足 安全性は日々 向上すべきもの との認識不足 安全性は日々 向上すべきもの との認識不足 他社の運転.

【目的・ねらい】 市民協働に関する職員の知識を高め、意識を醸成すると共に、市民協働の取組の課題への対応策を学ぶこ