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洪武帝の仏教政策 - 宋濂と季潭宗?に焦点を当てて - (上)

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(1)洪武帝の仏教政策.   一宋派と季潭宗渤に焦点を当てて一(上) 蔭木原洋 はじめに.  洪武帝の仏教政策は、彼自身の僧侶経験や紅巾の乱の経験によることが大きかったとい われる。本小稿では、歩武帝のブレーンで仏教に通じ「宋和尚」と呼ばれた宋澱と、禅宗 の大聖派の僧侶である華繰輸の二人に焦点を当て、洪武五(1372)年五月に、征野将軍 三冬親王に大統暦を頒卜するために来日した、明使祐讃箱蘭・蕪癒菟動の選使経緯を分析 することで、洪武帝の仏教政策を見ていきたい。 (一)明初の申国仏教界.  中国仏教界は唐の陸墨、ついで後周の世宗の廃仏(1.主武一宗の法難」の内の二つ)に あって打撃を受けたが、宋代になると帝室を中心とする保護の下に復興してきた。.  中国の仏教はその「仏教教理」においては、唐の時代に極点に達したといわれ、民衆生 活に浸透すると共に、仏教そのものが中国化されて、特色ある中国仏教を形成していった。 そうした中で、禅宗・浄土宗の二宗が最も社会において勢力を得て、大まかな分類ながら、. 禅宗は上流階級に受け入れられ、浄土宗は庶民階級に浸透していった。そして「教団」と しては宋・元時代に最盛期を迎えることになった。.  このことは経済面にも現われ、各寺院は広大な寺田を所有’した。この寺田は、寺院が民. 田を買収したものもあったが、大体においては、租税を免れるために寺院に寄進されたも のが多かった。この傾向は、宋代よりも元代になって一層顕著になった。.  そして、寺田が増加して寺院の経営が豊かになると、飢えから免れるために、又は、苦 役を逃れるために出家して僧侶になるものも多く、僧職者の質の低下は免れなかった。こ のような結果、宋代には、教団の腐敗がかなり進行し、元朝にはいると一層拍車がかかっ た。.  元朝はラマ教を熱狂的に信仰して、多額の金銭をラマ教につぎ込み、その結果「交紗」. を乱発して経済的に崩壊する要因になった。また、ラマ僧が1国師帝師」として朝廷に入 るようになってからは、仏教政策も非常に無定見なものになっていった。そして、元末大 乱の惨褐は、当然仏教界を直撃し、特に当時仏教が盛んであった江潅地方は、名刹のほと んどが灰塵と化し、仏教は荒廃を極めたく1)。. 一13一.

(2) (二)明初の禅宗.  禅宗は、唐代まではほとんど分派することなく、一宗とみなすことができる。しかし、                      ほうげん その後はしだいに分派し、五代十国の時代には法眼宗という流派が盛んになり、北宋時代. には齢藩義笠を宗祖とする臨済宗が出て、その中の賛罷旅が盛んになり、書蹟下の派であ る曇笛宗と並んで勢力を持った。.  南宋時代には、政治の中心になった江南地方で、臨済宗傷獲派が盛んになった。その楊 岐派も徐々に分裂して、南側初期には尖慈票莫を派祖とする大県派が、中期になると麗荏    ほあんそせん. 押下の破門祖先を派祖とする破庵派が非常に栄えた。  しかし、元の時代になると虎丘馬下の樫繍禦嶽を三下とする松下派という一派が急速に. 隆盛してきた。そして、その中に苫罧摺淺の派があった。古林清茂は、別号を金剛瞳とい い、松源崇嶽の弟子である鞍翁安乳の法系に属し、滅翁文礼の弟子穣蒲堀鎮1の会下から出 ている。そして、その会下のことを「金剛卑下」と称した。.  古林清茂は、宗旨一辺倒ではなく、当時の中国貴族階級の文化の一翼を担うような文芸 的要素を特色として出した。この文芸的要素を特色にしたのは、古林清茂が最初ではなく、. 大門派の人たちによって始められた。ところが、大慧派は宗旨よりも詩文の方が主体とな ってしまい、詩文を通して「中央の政治家」との結びつきも深く、政治的な運動にも巻き 込まれて、非常に俗化してしまった。この反省のもとに立ってく古林清茂は「礁」を中 心にして、出家者の本分を守った上での文芸活動を行うべきであると主張したのである。 「偶頒」は形式は全く「詩」と変わらないが、題材が仏教的なものに限っていることが特 徴である。古林清茂の門下では、季篤摺歓と垂槌石鉢が削壁と謳われ、伊野明認は中国で 古林清茂の跡を継ぎ、竺仙梵倦は、日本に渡来して日本中世の禅宗に大きな影響を与えた。.  この古林清茂のもとには日本から非常に多くの留学僧が参じた。それで、古林清茂の下 野は、日本の禅林でも大きな勢力を持っていた。この日本の「金剛橦下」の人々の活躍に よって、日本の禅林でも「宗旨一辺倒の世界」から、偶頒を中心とした「文芸の世界」に 踏み込むことになり、五山文学の初期の学風は彼等によって創られた。.  一方、大慧派も明の時代になると再び盛んになった。この時代の大慧派の中心になった のは、奨齋笑薪である。笑隠州訴は、別号を開室といい、四六文の作法を説いた人で、そ の作法は「蒲室町法」と呼ばれ、「蒲塞集」を著した。大町派の隆昌と共に、明代の士大 夫の間では四六文の熱も復活し、「蒲室集」がその体裁の手本となつ一た。またこれが、日. 本の五山文学の四六文作法の中心にもなった。その笑隠大訴の弟子が季潭宗勒(全室)で あり、その弟子が日本五山文学を代表する絶海中津である(2)。. 一14一.

(3) (臨済宗・略法系図). 虎首台隆一応庵曇華一密庵威傑. 松源崇嶽. 大慧宗果. 滅翁文礼一横川如瑛一古林清茂 無明慧性一蘭渓道隆 無得覚通一(二代略)一明極楚俊       無学祖元.       兀庵普寧. 曹源道生一(二代略)一一山一二. (大慧派・略法系図).   卑陽徳輝一中厳円月一了建浄業. 一一(一一煕.   笑隠大訴  畳原慧雲. 大十傑果一拙庵徳光.         季潭宗渤一絶海中津.         仲銘克新一無我省吾.   仲猷祖閲. 瞬…〈一一 一15一.

(4)  (古林派・略法系図).        _∴灘慧. 古林清茂   龍山徳見一一…義堂周信. (一一一…は文学上の師弟関係).        竺仙梵倦一椿庭海寿. (天台宗・略法系図). 東漠慧日. 我庵本無. 士璋元瑛一無逸克勤. 一16一.

(5) (三)洪武帝の仏教統制.  朱引璋(後の洪武帝)が若き日に皇覚寺にはいり僧侶になったのは、彼自身の意志では なく、生きていかんがためであった。疫病によって父母を失った朱一家は、末子の重八 (朱元璋の幼名)を口減らしの為に寺に預けるより仕方がなかったのである。しかし皇覚 寺での暮らしも、『太祖実録』巻一によると、. 僅五十日。寺僧以畑野給散。遣其嬉遊四方。上町西遊。(中略)凡三年。時洒州盗起。 列郡騒動。復還皇覚寺。. とあり、食べていく事が出来ず、すぐに托鉢僧として寺を出ており、ほとんど僧侶として の修行をしていなかった。続いてr太祖実録』巻一、壬辰春二月旧慣之条には、 辛丑齪兵焚皇覚寺。寺僧皆逃散。上亦出避兵。日暮。上錦念無所逃難甚憂之。乃祷干. 神。日。今避難如此。吾欲出避兵志無所定。題:上繊」出與慮敦吉。明以告我。祝 巳投卜。凡三倶不吉。聖日。出尊慮既不吉。無乃欲吾。従雄町後歯乎。一一投ト而吉。. とある。洪武甲が田平寺に舞い戻って五年の歳月が過ぎ去ったが、元三の兵火は遂に皇覚 寺にも及んだ。その時、占トを用いて自分の将来を決めた洪武帝の態度は、「仏教教理」 に対する認識という点では非常に貧しいものであった。.  しかし、この僧侶生活体験や、紅巾の乱の際に見聞した寺院生活が、後年の目薬帝の仏 教教団に対する政策に非常に大きな影響をあたえたことは確かであろう。  洪武帝の仏教に対する考えは、 『高麗史』四十二・世家巻第四十二(同記事が『太祖実 録』巻八十六にある)に、. 佛之道幽微。三皇五帝之時未聞有佛。而天下大治。何也。(中略)朕幼嘗為僧。禅講 亦曾参究。早早有佛而巳。度死超生。未見鑑験。古今務田氏。而成國家者。實未之有。 梁武之:事。可為明鑑。. とあるように、「仏教は国家を治める上で何の役にも立たない」というものと一般的にさ れてきた。しかし、r明史』巻百三十九・列伝第二.一累世・李士魯伝には、.   童践一」詔徴東南戒下僧。獣建法會於蒋山。慮封構旨者轍賜金欄袈裟   衣。召入禁中。賜坐與講論。. とあり、洪武帝は帝位についた後に仏教を好みだしたと言うのである。即ち、=遡.  一にま ま”・かの・はナ・つた{   の二 濫託濯にま.玄. 一17一.

(6) ”・ノ のに孟つた い’こ  起  てい  この洪夕山の仏教政策を、筆者は次の二点から見ていきたい。 第一一点目は「祈祷信仰の禁止」である。『太祖実録』巻五十三、洪武三年(1370)六月甲 子の条に、. 其僧道建斎設熊不許。奏章上表。投拝青詞亦不許。塑画天神地祇。及白蓮社。明尊教 ・白雲宗。巫観・扶鷺・祷聖・書符・呪水諸術並加禁止。庶幾左道不興。民無惑志。 詔従之。. とある。また、『大明会典』巻百六十五には、. 若僧道修斎設礁。而拝奏動詞表文。及祈穰火災者。同罪。還俗。 とあり、『大明律』巻卜一には、. 凡師事假降邪神。書画呪水。仁慈祷聖。自号端公太保師事。煙幕称弥勒佛。白蓮祉明 豊教白雲宗等会。一一応左道乱正之術。或隠蔵図像。焼香集衆。夜聚並置。イ羊修善事。. 扇惑人民。為首者絞。為従者各杖一百。流三千里。. とある。洪武帝は琴似の乱に際しての白蓮教・弥勒教が、民衆の統合に非常に大きな役割 を果たしたことを身をもって経験していた。明帝国を建国した「統治者」としての洪武帝 には、このような宗教を媒介としての民衆の結束は非常に警戒すべきものであった。.  そこで、白蓮教等のような  に 鮮   嫉に礁畠た宗 、滋賀高義氏のいうとこ ろの「低俗仏教」の教団を徹底的に弾圧・破壊しようした(3>。そのために「建斎」(4}. や「設酷」(5)を禁止した。即ち、このような宗教行事を禁止することで、洪武帝は「教. 団」の財源を絶ち、1教団」と民衆とを隔離することによって民衆の信仰を弱め、民衆の 支持を失わせることで「教団」の弱体化をはかったのである(6)。また、明初はまだ経済. 的に不安定なこともあって出家を志すものが多かったので、「度牒給付制度」を確立して 「教団」の僧侶の数を減らし、僧侶の資質の低下を防ぎ、租税の対象になる良民を確保し ようとした(7)。.  もう.…点は、洪武元年(1368)・二年、洪武四年・五年と立て続けに大々的な1.’仏教法. 会」が営まれたことである(8)。この「仏教法会」は元末の混乱の中で死亡した兵士や民. 衆のために行われた。この法会の洪喋々の意図を考えるに、元朝を北に追いやって明帝国 を建設したとはいえ、紅巾の乱後の荒廃した世の中で、自分と仏教との密接度を民衆に印 象づけたかったのではないか。即ち、衰えたりとはいえ、まだまだ民衆と根強い関係にあ. 一18一.

(7) る仏教を利用して「人心収撹」を図ったのである。.  また、僧侶にしても、ラマ教を狂信した元朝とは違い、皇帝自らが大檀越となって行わ れた大法会は、紅巾の乱訴の荒廃した寺院を復興していく上で、精神的にも経済的にも魅 力があったに違いなく、僧侶達は洪武帝に対して一様に好感を抱いたと思われる。  この「大法会」には江南地方を中心に全国から高僧が呼び寄せられた(g)。彼等は国都 金陵に参集させられ、洪武帝から白金および珍物を碩易され、各自招宴を受けたりした。 このような洪武帝の高僧に頬する厚遇を滋賀氏は、「一指導僧を懐柔することは、その僧 徒の背後に存在する未知数の民心を、把握し懐柔したことに、帰一されてくるのである」 と論じられた(10)。.  しかし、彼等は単に厚遇を受けただけではなかった。r宋學士全集』補遺巻七1’天界善 世繹寺第四代畳原紙晶出衣塔銘」には. 山武元年戊申春三月。試論秩視従二品。特授師演梵善世利國崇教大輝師。住持 大天界寺。出直.山狸教皇一(中略)血掻 士 ’  .   孝’。  上以其章示 師。品評。孔子以佛為西:方聖人。以此知眞儒必不非繹。非鐸必鳥山英。上亦以佛之功 陰端純度。卸不聴。. とあり、二百元年の大法会では、彼等は仏教統制機構となった「善世院」の設立に協力さ                         かくげんえうん. せられたのである。そして「二世院」の初代統領には豊原慧雲が任ぜられ、二二帝は彼に 寺院統制を行わせようとした。しかし、この政策には当初から、儒学者の反対があった。  益汁量 の    の  起雨は一’鞍この亀 で 細 一’訴のコー一’一 宗門の. 滋慧雲は、至正十六年(1356)に洪武帝が南京に入城するや否や、洪武帝に謁 見し、蒋山太平興國輝寺の住持に任ぜられ、後に天界寺の住持になった(11)。.  この1善世院」は結局あまり機能せずに終わったが、これを基にして、洪武十四年(13 81)に冒曽官の官制」が定められた。r明史』巻百三十九・列伝第二十七・二士魯伝には、 遂請為繹氏創立職官。於滋雨先所置善世院為僧録司。設左右善世。左右聞教。左右講 経費義等官。皆高二品秩。道教亦然。. とあり、この「僧官の官制」をもって、洪武帝は曲. の   に  11. こ に成功. したのである(12)。. (四)僧侶の官吏登用政策.  筆者は、この洪武初期の大法会には実はもう一つの狙いがあったと考えている。.  洪武六年(1373)の二月、洪武帝は科挙を廃止した。『太祖実録』巻七十九、二二六年 二月乙未之条には、. 一19一.

(8) 上諭中書省臣日。朕設科挙以求天下賢者。務得経明行修・文質相称之士。以資任用。. 今有司所取。多後生少年。観其文詞。若可與有為。及試用之。能以所学措諸行事者甚 寡。朕以実心求賢。而天下以虚文応朕。非朕責実求賢之意也。今各処科挙宜暫停罷。. 司令有司察挙賢才。必以徳行為本。文芸次之。庶幾天下学者知所響方。而士習帰於務 本。. とある。.  壇上寛氏はr一明の太祖一朱元璋』(白干乾・1994)で、「科挙廃止の理由は、太祖の 期待した『徳行の士』は集まらず、彰彰にのみ長じて何の役にも立たない若造(文化的先 進地の南人)ばかりが合格したので、洪武鯛は科挙を廃止することで、南精解の官界への 進出に歯止めをかけようとしたのだ」と論じられた(198頁)。また「この太祖の考えには 宋演も同意見で、科挙廃止通告の…月前、太祖は第三三郷試合格期中の河南と山東出身の 北三九名に、あらかじめ翰林院編集の官を授ける措置を取り、宋糠に宮中の文華堂で再教 育させた」と述べられている(199頁)。.  しかし、いくら南入層の官界への進出に歯止めをかけようとした政策とはいえ、官僚の 絶対量が不足している中での科挙の廃止は、よほどこれに代わる官吏登用政策がなければ 実行できなかったはずである(13)。その科挙に代わる官吏登用政策の一一つとして、僧侶 の官吏登用法がとられたのではないかと筆者は考える。建国直後で官僚の数が絶対的に不. 足している状況で、嗣子・田産がなく家族の連累もなくて、    書虐  ま ・に. 高い ま っ  にナ   ・・ にコ室  ’ぬ一 ’っ’  。 洪武帝の参謀としては劉基がよく知られている。『日本國考略補遺』1國朝貢智略」に は. (洪才)五年。開祖閾・凶年。往宣佛教。諭其來貢。太祖皇帝。謂劉基日。東夷固非. 北胡腹三選。猶蚊冷罵耀眩畳不寧。議其俗尚暉教。宜選高僧説其帯解。遂命明六天寧 寺僧甲骨・南京瓦罐僧無逸。往彼化三洋貢。将行。天界住持四明宗渤。賦詩饒劉。. とあり、洪武五(1372)年五月に、巨神将軍懐良親王に大統暦を頒幸するために、潮回祖 閲・無逸克勤を派遣したのも劉基の発案によるものとされている。しかし、太祖実録や明 史の「劉基準」や彼の文集には該当の記事はなく、本当に彼の発案であったかどうか疑わ しい(15)。 『明史』巻百二十六・列伝十六・宋濾伝には、. 濾長基一歳。皆起東南。負重名。基雄逼有奇氣。一L基佐軍中謀議。演亦 善用文學受知。日野左右。備顧問。. 一20一.

(9) とあり、宋灘は、自らを「張子房」になぞらえた劉基に較べて、学者肌の入物であったの で、洪武帝の政策には直接関係しなかったようだが、 『明書』巻百四十四、『明儒言行録 績編』巻一、『明名臣碗談録』巻八に、 上覧’言古帝王當宴安之鯨。多好神仙。朕孜孜政理。國治民安。心神悟逸。即神価也。 封日。’一     士  “㎡    v  “ ’”・’番 r「  … こ. とある。これは、一見「神仙」や「仏教」を否定しているかのようにとれるが、筆者は宋 灘が、「神仙」や「仏教」にこだわらず、そのような人たちの中からも、積極的に能力の ある入物を登用すべきであることを洪武帝に進言したのだと考える。  また、 『明詩綜』巻八十九、宗湖三+七首に 潤声作免官説。 画一 士見’. r  出 口 等等好儒。男呼以渤秀才。. とあり、また等『明太祖文集』巻十三r抜儒僧文」には. 而侍講警士宋灘。言及一」 とある。彼は仏教に造詣が深く、明代の高僧と平時より盛んに交流していたことから、僧..   のについは{’月一 つい一  それゆえ、科挙を復活したものの思うような人材が集まらない中、宋藻が僧職者の中で、 特に儒学に秀で、詩文の才能のある僧侶を活用することを考えても何ら不思議ではない。. また、宋濠は僧職者が官僚として活躍することについて、『宋學士全集』巻十三「送無逸 勤評出使還郷三親序」で、.   予聞大雄氏。設教門難廣。其推問三物。要所二等三王不大異。是故昔之名僧。或簿算   都間。或輔弼廟堂。事業稻於當時。勲名垂於後世。其載於史氏者。蓋班班可考。達人   大観。初無形述之四丁鐸之異也。方今尭舜在上。治具畢張。無逸出将使命。言論慷慨。.   巳足落雪奴之謄。特使下之有政。大綱小紀。簗然有序。他日将與皐璽稜高比肩。是亦   法如遡行。讃菩薩道而巳。大雄氏或垣生斯時。亦未必不踵無学之所為也。. として、「仏教」と反するものではないことを強調し、古来、僧侶が政権を助けて後世に 名を残したことを言っている。.  宋濠は、『明史』巻百二十六・列伝十六・宋演伝に、 外國貢使一頃罪名。数飛騨先生起居無悉否。高麗、安南、日本至出兼金購文集。. 一21一.

(10) とあるように、日本を始め諸外国での名声も高かった人物である。このようなことから、. 宋灘は当然高麗や日本の国情にも詳しく、詩文の才能が外交上非常に有益であることを知 っていたのである。そこで宋灘は、まずは僧職者の詩文の才能を活かして外交官として使 うことを洪武帝に進言し、歩武初期の大法会の際、多くの高僧が上京してきたのを利用し て、即ち策旗慧菅(16}、旨麓慧益、季潭宗湯等を利用して、官僚(特に外交官)として. 使える僧侶の人選を推し進めようとしたのではないか。筆者はもう一歩踏み込んで、この 洪武初期の大々的な仏教法会の仕掛け自体も好演が仕組んだことではないのかと考える。. 何故なら洪武初期の段階で、仏教法会が仏教統制・民心の安定・官僚の確保の三点に利用 できる価値を見出せる洪武帝の側近は、仏教界、科挙制度に関わり、そして諸外国からの 名声を持つ下押しか考えられないからである。.  筆者はその宋演の政策を仏教界側で特に助けたのが、r明早早』巻八十九、宗渤三+循 に、. 右脚作免官説。理財学士景濠好佛。上目為宋和尚。渤へ. r ・・渤. とある大隅派の季潭宗渤ではないかと考える。その理由は、二四四囲自身、…時衰えた大 慧派が自分の師である笑隠大訴によつで次第に復活してきたとはいうものの、自派の特徴 である「詩文め才能」を活かすことが時の権力者に求められているということは、大慧派 の隆盛の為には、まさに「渡りに船」であったからである。 (註). (1)声誉清「明の太祖の仏教政策」(r仏教思想講座』八・1939)85∼89頁、参照。 (2)玉村竹二『臨済宗史』(春秋社・1991)145∼160頁、192∼194頁、参照。   ’. (3)滋賀高義「明初の法会と仏教政策」(r大谷大学研究年報』二一一1969) (4)「斎」とは、つつしむ意で、僧尼が正午過ぎ食事をとらないという制約を意味した  が、転じて、僧尼に食事を供養するという意味し、「建斎」とは、それを行い、また  布施を行う宗教行事のことである(『岩波仏教辞典』岩波書店・1989、参照)。 (5)「離」とは、道士が祭壇を設けて祭ることで、「設雌」とは、それによって、布施  を得る道教の宗教行事のことである(『大漢和贈典』大平館書店・1959、参照)。 (6)洪武帝自身は即位後、自分の前身が僧侶であることを指摘されるのを嫌がり、「文  字の獄」では僧侶の頭を暗示する「光」「禿」等の文字を禁止した。「僧」の字も当  然禁止され、発音がそれと同音の「生」の字すら禁じられるほどであった。また、自  身が紅巾軍から身をおこしたことも指摘されるのを嫌がり、「則」の字形が紅潮賊の  「賊」と似ているというだけで禁止された(谷口規矩雄『朱元璋』人物往来社・1966、.  壇上寛r一明の太祖一朱元璋』白帝社・1994、参照)。筆者は、彼自身もちろん紅巾  軍の出身ということも嫌であったのだろうが、紅国軍と密接な関係にあった白蓮教と. 一22一.

(11)  の関係を清算したいという気持ちの方がもっと強かったのではないかと考える。それ  で、彼は仏教政策においていわゆる滋賀高義氏が言われる「仏教に仮託した民間宗教」  (滋賀氏・前掲論文)を取り除こうとしたのであろう。 (7)『太祖実録』巻八十六・洪武六年十二月戊戌の条に、. 時上以釈三二教近代崇尚。太過。徒衆日盛。安坐而食。轟財耗民。莫甚三三。乃 令府州県。止存大寺観一所。併其徒而処之。二二戒行旧領其事。若請給度牒。必 考試。精通経典者方許。 とある。. (8)『宋二士全集』二五「二日普照三二禅師:塔銘」には、. 惟洪武元三秋九月目詔江南大浮三十余人。於蒋山禅寺作大法会。(中略)二年春 三月。復用元年故事。. とあり、r宋學士全集五補遺巻八「大天界寺住持白庵禅師行業碑銘」には、 (洪武)四年春。詔集三宗名僧十人。及其徒二千。建二二法會干鍾山。命師総持斎 事:。師能憲承上下。凡儀制規式。三時傳永久。尋以丁年毫。畢脛山湖公町代。復 旧庵居。五年冬。詔復旧會如四年。.  とある。. (9)r繹氏稽古略二二』巻二「天真禅師伝」には、. 三年二品赴京師大興法事。 とあるが、滋賀高義氏は前掲論文で、「太祖は当時すでに中原地方を、彼の掌中にお さめているとはいえ、いまだ中国の各地において軍事行動を続けているのであり、彼 の威令が中国全土に徹底していたとは考えられないのである。しかして前述のr天下』 はr江南』に限定されたものと考えられるのである」と述べられ、そしてこの『江南』 も「漸の東西五府に住持するものであった」と論じられている。  滋賀氏はまた、「洪武元年・二年・四年・五年の法会は、大きく洪武元・二年と、. 洪武四・五年との二組に分類することができるのであり、洪武二年と同四年とのもの は、それぞれ元年と五年との補助的役割において、営まれたものと考えられるのであ る。しかして二二元年と五年目の法会は、すでにのべたように、仏教教団懐柔のため に営なまれた性質を、多分に含んでいるものであり、太祖の中国統一の進展にともな. 一23一.

(12)   う、民心収撹のための一方策であづたことが知られるのである」と論じられた。 (10)滋:賀高i義・前掲論文。. 〈11)滋賀氏は前掲論文で、畳原慧雲のことを「単に変り身の素早い僧徒であったのみ                         ししょうげんはく.   で、実際には善世院の組織化などの計画・実務は士璋原撲が中心となっていたので   ある。太祖の立場より考えれば、早くより臣従したものを優遇するということは、   爾後の政策に大きな魅力を印象づけることであり、その結果すすんで彼の政策に、   協力するものを生みだす、可能性をも期待することができるのである」と述べられ   ている。 (12)滋賀氏は前掲論文で、「しかして太祖の非凡な政治手腕によって、掌握された仏.   教教団は、洪武十五年(1382)の僧録司制度の確立によって、完全に明朝という中   央集権国家に奉仕する、‘一組織として統制されていくのであり、信仰よりも常に政.   治の優先する教団へと変革せしめられ、その悪影響は、日’の   ・  に’い.   エ政飽一」のに’い」の ’続 ’.   ム_という変則的現象を露呈することになったのである」と論じられた。 (13)科挙廃止後の官吏登用は「薦挙」によることが、一番多かった。. (14)郵鋭齢(池田温、訳)1.明朝初年出車西域僧宗渤の事跡穂考」(『東方学』八一一一.   1990) (15)黎光明氏は「明太祖遣百選日本考」(『歴史語言研究所集刊』七一二・1936)で、   「按劉誠意伯行状説是(調車)四年正月便賜老郷里、二月・蒸熱軽罰、則能否同太祖當.   面談話、尚須要有別的讃明才能使人相信。而且這段談話、在誠意伯和當時的文集史   籍中、都遷不出記載來、只嘉靖後的書中方説得有、似乎有毒可疑。」と論じられて   いる。 (16)東駅脚長に関しては、 『宋闘士文集五巻六十「上天竺慈光十悪普済大師東漢自公   碑銘」に、 上領問以升濟沈冥之道。師事述其故。. 狸. 歳且面旦』如金剛携伽諸経。皆撮心之要領。何不研窮其義。苛有不通質問。諸白 眉法師可也。. とあり、僧侶の多くが堕落している中、洪武事は東漠慧日を賞賛し、親しく「白眉法 師」と呼んだ。. 一24一.

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笹川平和財団・海洋政策研究所では、持続可能な社会の実現に向けて必要な海洋政策に関する研究と して、2019 年度より

社会システムの変革 ……… P56 政策11 区市町村との連携強化 ……… P57 政策12 都庁の率先行動 ……… P57 政策13 世界諸都市等との連携強化 ……… P58

ハンブルク大学の Harunaga Isaacson 教授も,ポスドク研究員としてオックスフォード

アドバイザーとして 東京海洋大学 独立行政法人 海上技術安全研究所、 社団法人 日本船長協会、全国内航タンカー海運組合会