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井伏鱒二著作調査ノート(その九) : 『井伏鱒二全集』別巻II掲載「著作目録」以後

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Academic year: 2021

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井伏鱒二著作調査ノート(その九)

―『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作目録」以後―

前 田 貞 昭

「井伏鱒二著作調査ノート(その一)―『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作目録」以後―」(本誌第14号、 2003年2月10日)、「井伏鱒二著作調査ノート(その二)―『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作目録」以後―」 (本誌第16号、2005年1月20日)、「井伏鱒二著作調査ノート(その三)―『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作 目録」以後―」(本誌第18号、2007年1月25日)、「井伏鱒二著作調査ノート(その四)―『井伏鱒二全集』 別巻Ⅱ掲載「著作目録」以後―」(本誌第21号、2010年1月25日)、「井伏鱒二著作調査ノート(その五)― 『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作目録」以後―」(本誌第23号、2012年2月20日)、「井伏鱒二著作調査ノー ト(その六)―『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作目録」以後―」(本誌第25号、2014年2月20日)、「井伏 鱒二著作調査ノート(その七)―『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作目録」以後―」(本誌第26号、2015年 2月20日)、「井伏鱒二著作調査ノート(その八)―『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作目録」以後―」(本 誌第28号、2017年1月20日)に続いて、記載するべき井伏著作(現物・複写・復刻)を入手できたので、ここに 報告する。 調査にあたっては小谷野敦・深澤晴美編『川端康成詳細年譜』(勉誠出版、2016年8月18日)・ヨミダス歴史館 のデータを利用し、ヨミダス歴史館・京都大学附属図書館・東京都立中央図書館のオンラインデータベースあ るいは架蔵資料によって確認・複写させて頂いた。 調査が至らず、書き加えるべきものが、多々あろうかと思われる。お気づきの点を含めて、〒673-1494 兵庫 県加東市下久米942-1兵庫教育大学 言語系(国語) 前田貞昭(研究室直通電話兼用ファックス:0795-44-2083、 e-mail:[email protected])まで御教示賜われば誠に幸いである。 凡例 1、作品・アンケート回答・談話・インタビュー・訪問記事などに分類せず、発表年代順に並べた。 2、個別の標題を持たないものは、欄名などを〔 〕で括って仮の標題とし、また、行末等で省略された句読 点・中黒は〔 〕で括って補う等、〔 〕内には前田が附した文言などを入れた。 3、掲載媒体名・発行日・印刷日・発行所・発行人などについての記載は原則として現物奥附に従った。現物 奥附には「印刷」「印刷納本」あるいは「編輯兼發行者」「編輯發行人」、「印刷」「印刷者」「印刷人」等の表 示が混在しているが、本ノートでは統一しなかった。 4、人名・社名・地名などの固有名詞と引用文のうち、当該資料で旧漢字が使われていて、JIS 第1水準・第 2水準などで対応できる場合は、原則として、原文の字体・字形を尊重するように努めた。ルビは原則とし て省略した。 〔文藝思想 Who's who〕 讀賣新聞社(東京市京橋區銀座西三丁目一番地)発行『讀賣新聞』〈朝刊〉第19734号(1932年1月 28日)第4面に掲載。編輯兼発行人・三芳亥吉、印刷人・篠原久吉。 アンケート回答。個別標題はない。「文藝思想 Who's who【21】」と欄名・回数表示があり、その下 に「―質問要項―/(五十音順)/1、本姓、ペンネーム、出生地生年月/2、貴下の言葉(モ ツトオ)/3、思想、藝術系統/4、略歷/5、代表作/6、住所」とある。井伏は2には答えず、 それ以外については、「1、本名井伏鱒二、明治卅一年福山市外加茂村に生れた。」「3、藝術派。」「4、 福山中學卒業、早大佛文科に學び、傍ら日本美術學校に學んだが、何れも中途退學。早稻田大學出版

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部に勤務したことがある。」「5、「山椒魚」「夜ふけと梅の花」「なつかしき現實」「仕事部屋」の著書 がある。」「6、東京市外井荻町下井草一八一〇番地」と答えている。この第21回には、井伏のほか、 伊福部隆輝・稻垣足穂の二人が回答を寄せている。 なお、拙稿「井伏鱒二著作調査ノート(その五)―『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作目録」以 後―」(本誌第23号、2012年2月20日)に報告したように、井伏は『讀賣新聞』〈朝刊〉第19715号 (1932年1月9日)第4面に掲載された「文藝思想 Who's who【7】」にも回答を寄せている。第7 回では、「1、本名。明治卅一年、原籍廣島縣深安郡加茂村粟振中ノ土屋八九番邸井伏文夫方。」ママ ママ 「2、 どうにかしなければやりきれない。」「3、過渡期的の絶望に由來する文學。」「4、早稻田佛文科中途 退學、ならびに日本美術學校中途退學。出版所に勤めたことがある。」「5、なし」「6、東京市外井 荻町下井草一八一〇」と回答を寄せている。 この「文藝思想 Who's who」欄については、『讀賣新聞』〈朝刊〉第19706号(1931年12月30日) 第4面掲載「文藝欄新年掲載物豫告」に「現代文藝思想壇フース・フー」の連載予告を載せ「(全部 を網羅するものとして數百人順次連載)」と説明が附されている。『讀賣新聞』〈朝刊〉第19708号(1932 年1月1日)以降、その朝刊第4面「文藝」欄に、毎週月曜日(毎週月曜日朝刊第4面は「婦人」欄) を除いて、ほぼ連日掲載された。但し、第51回以降は休載が目立つようになり、現物回数表示に従え ば第60回(第19816号、1932年4月20日)で終わる。現物表示回数で示せば、第32回が第19749号(1932 年2月12日)と第19750号(1932年2月13日)の2回、第36回が第19755号(1932年2月18日)と第19757号 (1932年2月20日)の2回、第44回が第19768号(1932年3月2日)と第19770号(1932年3月4日) の2回あり、また、井伏のほかに、生田長江が第7回(第19715号、1932年1月9日)と第15回(第19727号、 1932年1月21日)の2度回答を寄せているので、実際には全63回の連載で、延べ159名の回答(異な り数で157名)が掲載されている。予告記事に言う「數百人順次連載」の目論見は実現しなかったと おぼしい。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 マライの網漁 中央水産會(東京都芝區海岸通リ一丁目二〇ノ三)発行『海の村』第9巻第2号(2月号、1944年 1月25日印刷、1944年2月1日発行)の40頁~42頁に掲載。編輯兼発行人・片柳左右吉、印刷人・阿 部留治(東京都芝區田村町五ノ五)、印刷所・月山社(東京都芝區田村町五ノ五)、定価20銭。 本文各頁20字×22行×3段(但し、40頁は20字×7行×2段分を標題に宛て、42頁では中央水産会 関係記事に20字×15行×2段を割いていて、実質は原稿用紙8枚弱の分量)。「私はマライでいろいろ 漁獲の方法を見て來たが、それ等はたいてい基本的には日本で行なはれてゐるものとあまり變りない やうであつた。參考にも何にもなるまいが、マライ網漁に關する一部分をここに書いてみる。」と冒 頭第一段落にあり、以下、「地引網」「流網」「ブカ・パカン」「投網」「地獄網」「ケロン」の見出しの 下に、それぞれの漁法について紹介する。 『海の村』は京都大学附属図書館架蔵の第7巻(1942年)、第8巻(1943年)、第9巻(1944年)を 見る限り、各号とも50頁弱の雑誌だが、本号には尾崎喜八の詩「春の海邊」が載せられている。第9 巻第1号〈1月号〉(1944年1月1日)には高村光太郞の詩「海上日出」(『高村光太郎全集』第3巻、 筑摩書房、第2刷1976年10月10日、所収。第1刷は1958年2月10日。「後記」では「昭和18年12月14 日夜作」とする)に加え、小山祐士の短篇劇「海上に日出づ」と平野直の小説「海獸(四)」とを掲 載し、第9巻第9号〈9月・10月合併号〉(1944年9月1日)には野口富士男の小説「渚の宿」があ るなど、水産業や海に関わる文芸作品も掲載している。但し、第9巻第1号〈1月号〉(1944年1月 1日)奥附右脇の無署名記事〔記事の標題もないが、編輯後記に相当する〕には、「新しい割當制度 をとり新年號こそ早く發行する計劃であつたものゝ、用紙入荷の遅延のためこの樣な仕末となつて申 譯なく思つて居ります」と予定よりも発行遅延した事情を説明し、さらに「二月號からは眞に漁村の 指導者層を對象とした編輯方針にかえて行かうと思つてゐます。從つて小説、口繪、漫畫等娯樂的な

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記事は今月限りで一切打切ることにしました。」と記している。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 〔「乾山」を前にしたつぶやき集〕 株式会社新潮社(東京都新宿区矢来町七一番地)発行『週刊新潮』第7巻第26号(通巻第332号)(1962 年7月2日発行)19頁「タウン」欄に「「乾山」を前にしたつぶやき集」の1篇として掲載。編集人 ・佐藤亮一、印刷所・大日本印刷、定価40円。 記事中に井伏談話を引用。記事本文の見出しは「「乾山」を前にしたつぶやき集/恍惚派から懐疑 派まで」。なお、目次には「「乾山」の前でつぶやき集(美術)」とある。記事冒頭には「ホンモノか ニセモノか、時ならぬ〝真贋論争〟を巻きおこした新発見の乾山の焼き物約二百点(乾山の佐野時代 しんがん の作)が、さる19日から東京日本橋の白木屋で展示されている。」と展示会を紹介し、「当日〔招待客 も併せて1500人の参観があったと報じる初公開日の19日―前田注〕会場に来合わせた文壇の諸大家 の〝乾山観〟が、素直なつぶやきともとれて面白かった。以下、それをご披露すると―」として、 川端康成・井伏・吉川英治・竹山道雄・宮田重雄・石川淳の順に、その発言を録している。井伏につ いては、「井伏鱒二氏」の見出しに続いて「ホンモノを見ていないから、なんともいえないが、聞く と見るとではと違います。いいのがありますねェ。私は扇面のかきつばたが特に気に入りました。」 などとの発言を書きとめている。 気持を新たに―名作書き下ろし 現代日本の小説― 毎日新聞社(東京)(東京都千代田区竹平町1番地)発行『毎日新聞』〈朝刊〉第32503号(1966年10 月6日発行)の第18面「名作書き下ろし 現代日本の小説」欄に掲載。 井伏文は、18字×40行。新漢字・新仮名遣い。「新社屋に移る気持は格別なものだろう。」と始まる。 井伏が「毎日新聞によく出入りしていたのは昭和七、八、九年ごろ」のことで、学芸部長は阿部眞之 助であったと回想する。当時、学芸部にいた面々を振り返り、「受付の小母さん」にも及ぶ。最後の 段落は次のようにある。「戦後、高木金之助君が学芸副部長のころ、私は夕刊に長編の連載を始め、 百二十回あまりで行きづまりになって中断した。大失敗作だから担当の人たちに迷惑をかけた。それ にもこりず、こんどもまた何十回か書く約束をした。しかし発表は三年後のことだから、それまでに 気持を立て直しておきたいと思っている。」本文傍にルビを附す形式は採らず、「筆硯(けん)」「禿(は) げた」「愛嬌(きょう)」「柳眉(び)」のように、本行中の( )中に読みを示す。井伏文文末に「(代 表作 「さざなみ軍記」「本日休診」「黒い雨」)」と掲げる。井伏のポートレート1葉を掲載。井伏文 に言う「中断した」作品とは「かるさん屋敷」全135回(『毎日新聞』〈夕刊〉1953年7月4日~11月16 日)を指す。阿部眞之助「井伏鱒二覺書」(『現代日本文学全集月報』5、筑摩書房、1953年12月。『井 伏鱒二集』〈現代日本文学全集第41巻〉1953年12月20日附録)に、阿部が学芸部長であった頃の回想 がある。 井伏文が掲載されている、第17面~第24面は「パレスサイド・ビル落成記念特集」と銘打った特集。 特集の始まる第17面右上にも、第1面と同様に毎日新聞の題号等を配す。パレスサイド・ビルは10月 1日に竣工、この日に毎日新聞東京本社が移転した。 第18面と第19面は見開きで、紙面の上三分の二(通常の紙面は全15段だが、レイアウト・各段の文 字数も変更)を使って「名作書き下ろし 現代日本の小説」関係記事を掲載。小見出しには「新風を 起こす16作家 3年間にわたり連載/「広い読者」を「深い読者」に」とある。リード文では「毎日 新聞は昭和四十二年の新春から、一流作家による名作シリーズ「現代日本の小説」を三年間にわたっ て連載します。」と宣言し、「現在活躍中のもっともすぐれた作家のなかの十六氏に、一〇〇回前後の 作品を書き下ろしで依頼し、これを本紙夕刊に順次、掲載するものです。」と企画を具体的に説明す る。なお、「完成した作品」であること、「一〇〇回ぐらいの中編」であること、「その作家にとって

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いちばん書きたいものを、思うぞんぶん書けるだけ、書いてもらう」こと、以上の3点に企画の特徴 があると言う。そして、「この企画に登場する十六人の作家に「現代日本の小説」参加の弁を執筆し ていただきました。/(掲載はアイウエオ順)」として、石川達三・石川淳・石坂洋次郎・井上靖・ 井伏・大岡昇平・川端康成・川口松太郎・獅子文六・子母沢寛・武田泰淳・永井龍男・丹羽文雄・舟 橋聖一・三島由紀夫・水上勉の16名の文章を掲載している。井伏の「気持を新たに」を含めて、各作 家が寄せた「参加の弁」の個別標題は毎日新聞社側で附けたと推測される。なお、井伏に関しては、 この企画は実現しなかった。 その後の再録はなく、新版全集にも未収録。 ******訂正****** 「井伏鱒二著作調査ノート(その五)―『井伏鱒二全集』別巻Ⅱ掲載「著作目録」以後―」(本 誌第23号、2012年2月20日)に誤りがあった。 『週刊家庭朝日』第82号(1950年9月16日発行)掲載として報告した「輕石」について、「その後 の再録はなく、新版全集にも未収録」と記したが、「九月七日記」と改題して『在所言葉』(修道社、 1955年6月25日)の「折々艸紙」の内に収録され、新版全集第14巻にも『在所言葉』を底本として「九 月七日記」の標題で収録されている。ここに訂正するとともに、以下に本文の異同を掲げる。 『週刊家庭朝日』本文→『在所言葉』所収本文の順に掲げるが、『週刊家庭朝日』では小書きされ ていた拗音・促音が『在所言葉』では並字に変更されたところ、新旧漢字の相違、送り仮名の相違は 省いた。 何そうかの船に(1段4行目)→何艘かの船に(127頁3行目。行は標題を除いて数える) 網に機雷が懸かってあがって来た。(1段5行目~6行目)→網に機雷がかかつてあがつて來 た。(127頁3行目~4行目) そんなやうな記事であった。(2段3行目)→そんな記事であつた。(127頁7行目) 発動機船だが、長さ十四、五尺内外の小さなもので、(2段6行目~7行目)→發動機船だが 長さ十四五尺内外の小さなもので、(127頁9行目) 船頭に機雷に注意してくれと念を押した。(3段2行目~3行目)→機雷に注意してくれと船 頭に念を押した。(128頁2行目~3行目) 船頭は大笑ひをした。(3段3行目~4行目)→みんな大笑ひをした。(128頁3行目) あの新聞に記事に出てゐた漁師たちは、(3段4行目~5行目)→あの新聞の記事に出てゐた 漁師たちは、(128頁3行目~4行目) 「海賊が出るのか。」(3段9行目~10行目)→「今でも海賊が出るのか。」(128頁7行目) 半ばじょう談のやうにも思はれたが、私はあまりいい気持がしなかった。(3段10行目~12行 目)→冗談のやうにも思はれたが、あまりいい気持はしなかつた。(128頁8行目) 何だかウサンくさいやうな感じがした。(3段12行目~13行目)→何だか胡散くさいやうな氣 持がした。(128頁9行目) しかし幸ひにも東の風が(3段16行目)→幸にも東の風が(128頁11行目) 入江にはひった。白キスとフグの(3段17行目~18行目)→入江にはいつた。白鱚と河豚の(128 頁12行目) もう夜の十一時をすぎてゐたが(3段20行目)→もう夜の十一時すぎてゐたが(129頁1行目 ~2行目) 飮みに出るつもりで(3段21行目)→飮みに出て(129頁2行目) 小さな酒場にはひった。(3段21行目~22行目)→小さな酒場にはいつた。(129頁2行目~3 行目) 少し醉って来ると、自分の好みから(4段2行目~3行目)→少し醉つて來ると自分の好みか ら(129頁5行目~6行目)

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すると女中は、どこの店でも申し合せたやうに「あたくしの父も、釣りが大好きでした。」と 云ふ。それによると、飮み屋の女中のうち半分以上も彼女たちの父親が釣り好きであったといふ 比率になる。あながちこれは、女中が話の調子をあはせるためばかりでもなささうである。(4 段3行目~9行目)→すると「あたくしの父も、釣が大好きでした。」と云ふ女中もゐる。最近 でもそんな女中が二人三人ゐた。飮屋の女中は釣好きの父親を持つてゐるのが多い比率になる。 これは女中が話の調子をあはせるのかもわからない。(129頁6行目~9行目) もうせん櫻島が爆発して、(4段15行目)→いつか櫻島が爆發して、(130頁1行目) 量見を起したのださうである。(4段17行目~18行目)→量見を起したと云つた。(130頁3行 目) 「鹿児島湾から、何海里も海を流れた軽石だ。(4段18行目~19行目)→「鹿兒島灣から、何 百里も海を流れて來た輕石だ。(130頁3行目) 妙な気を起させるのだ。」(4段20行目)→妙な気を起すのだ。」(130頁4行目~5行目) (九月七日)=かなづかい原文通り(4段22行目~23行目)→〔なし〕(130頁6行目)

参照

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