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97一一『奈良法学会雑誌』第9巻1号(1996年6月〉 序 一九五四年の連邦裁判所判決は、刑事手続におけるうそ発見 器の使用は、被疑者・被告人の同意あるいは希望があっても許 されない、とするものであった。一九八一年の連邦憲法裁判所 決定も、使用を許容しなかった。八0
年代初めに、うそ発見器 の使用に関する論考がとくに多く出されたが、それらは圧倒的 に、被疑者・被告人の同意あるいは希望による使用は許容され るものと考えている。これらの研究において提出されている諸 論拠に対して、伝統的な立場は、法実務が連邦裁判所判決を竪山
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持していることもあって、これまであまり反論することなく、 うそ発見器の許容性および有効性に対する単なる疑念を表明し てきたにすぎない。それらは明らかに不安定なものであり、そ の許容性および有効性は、利用しうる認識の現状からすれば、 (いまだ)排除されてはいないのである。 その理由づけにおいて疑問のあるような法的立場は、長期的 には維持されえず、このような議論状態は、解釈学的に満足の いかないものであるばかりでなく、うそ発見器の使用禁止が実 務上妥当しつづけることを疑問視することにもなる。したがっ て、本稿は、伝統的な立場から、うそ発見器の使用を一般的に拒否している法実務の立場に対する批判が、結局のところ根拠 がないことを示すものである。以下では、まず、うそ発見器の 機能(作用メカニズム)についての詳細な記述から始め
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﹀ 、 それに基づいて、被疑者・被告人の尋問におけるうそ発見器の 使用の許容性(田)、続いて、その規範的な許容性(
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に つ い て 説明していくことにしたい。E
うそ発見器の機能(作用メカニズム) うそ発見器は、無意識的な神経システムにより操縦される不 随意的な反応を記録する器械である。この器械は多数の反応を 同時に測定し、グラフ形式で記録されるので、ポリグラフとも 呼ばれる。アメリカ合衆国の実務では、通常、血圧、脈拍、呼 吸および皮膚電気反射(伝導率)が記録される。この器械は、 うそに特有ななんらかの生理学的反応が存在するという仮説に 基づくものではない。測定される生理学的諸反応は、刺激に対 する器官の反応の程度を示すにすぎないのである。すなわち、 そこから読み取られるものは、ある刺激に反応したか否か、お よび、反応の程度であって、どのように反応したか、あるいは どのような理由から反応したかということではない。 したがって、測定された生理学的諸反応に証拠価値を付与し うるのは、反応の理由を他の方法で解明することが可能な場合 に限られる。そのために、検査状況は、行為者には反応の契機 を与えるが、非関与者にはそうではないように設定されていな ければならず、そのような状況設定は、行為者にのみ知られて いることが確実であるような特定の行為事情が存在している場 合には、比較的問題なく可能となる。 間接的検査方法、すなわち、犯行知識テスト(緊張最高点質 問法)は、このような考慮に基づいている。すなわち、特定の 行為事情が行為者にのみ知られていることが確実である場合、 その行為事情についての質問は、行為者にのみ刺激に対する反 応を惹起しうるのであって、非関与者にはそうではありえない、 というものである。たとえば、被疑者・被告人が被害者を犯行 によってのみ知りえたという前提がある場合、被害者の声を含 む多数の声を聞かせ、もし彼が、被害者の声により強い反応を 一不すならば、このことは、彼が被害者の声を知っていたこと、 したがって、彼が犯行に関与していたことの徴怒と見倣される ことになる。しかし、この検査方法には、二つの重大な制約が ある。第一に、その適用領域は、最初から犯罪であることが明 らかであり、それへの関与が問題となっている事例に限定され る。たとえば、法的評価にとってしばしば決定的な、被害者の 合意が問題となるような事例には役に立たない。第二に、それ は、通常、非常に早い手続段階でのみ利用可能である。手続が99一一へノレムート・フリスター「うそ発見器」 進行すると、不当に被疑者・被告人とされた者も、たいていは、 手続を通じて行為事情を知ることになるからである。 直接的検査方法では、被疑者・被告人は、犯行への関与を直 接的に質問される。この方法では、被疑者・被告人に対して、 犯行への関与についての質問が、一連の重要でない無関係な質 問の中に含めて行われ、決定的質問に対する否定的回答の際に より強い反応があれば、それは彼の犯行への関与の徴還と解釈 される。しかし、不当に被疑者・被告人とされた者もまた、犯 行への関与についての質問に対し、より強い反応を示すことは 明らかである。そこで、対照質問、すなわち、当該犯行と同種 の犯罪であるが、それよりも重くはない他の規範違反について も質問されることになる。それは、確実な根拠から、被疑者・ 被告人がそれを実際に行ったことが判明している規範違反か、 だれも簡単に﹁いいえ﹂とは答えられないような質問である。 検査結果の評価にあたっては、当該犯行に関する質問への回 答時の反応と、対照質問の回答時の反応とが比較され、前者が より強い場合、有罪の徴怒と解釈され、逆に、後者がより強い 場合には、無実の徴葱と解釈されることになる。この解釈の根 拠として、(文献上は、たいてい明示的に区別されていない) 次の二つの観点が挙げられる。第一に、無実の者にとって、当 該犯行の非難は、自分が当該犯行にはまったく関わりがないこ とを知っていることから、対照質問における犯行の非難よりも 精神的負担が軽いという観点である。第二に、無実の者にとっ ては、当該犯行の非難に対する回答にはうそをつく必要がない のであるから、精神的負担がより少ないという観点である。 アメリカ合衆国の実務では、対照質問テストの信用性を高め るために、いわゆる予備テストが行われ、これは、被疑者・被 告人にうそ発見器が有効に機能することを確信させるのに役立 つものとされている。これまでの報告によれば、この予備テス トの実施にあたって、被疑者・被告人にうそ発見器の有効性を 信じ込ませるために極端な詐欺的方法も用いられている、とい う こ と で あ る 。 岡 山 うそ発見器は真実探究に適しているか これまでの論考では、うそ発見器の証拠価値をパーセンテー ジで示し、最近では、シュヴァ l ベ ( ω n F 君 田 σ 叩 ) 論 文 お よ び 連 邦憲法裁判所決定を援用して、九
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とするのが一般的である。 しかし、この正確性の吟味は、適切な識別基準が欠如している 点ですでに不可能であるという単純な事実を看過している。被 疑者・被告人が本当に有罪であるか否かがそれによって決定さ れうるようないかなる識別基準も存在していないのであるから、 うそ発見器の使用が正しい判定に導いたという事例の数を数えることは、方法論的に不可能なのである。また、実験室でのう そ発見器の使用は、現実の刑事手続における使用とは被検者の 感情の状態が別種であるので、限定的にしか比較の対象にする ことはできない。このように、うそ発見器の信頼性に関する経 験的証拠は、方法論的理由から存在しえないのであるから、そ の証拠としての適正性を評価するためには、理論的な考慮がな されなければならない。その際問題となるのは、測定された生 理学的反応が、刺激に対する興奮な徴表するという仮説ではな く、徴表された興奮から、犯行への被疑者・被告人の関与とい う結論を導くことが本当に可能か、および、可能であるとすれ ばどの程度可能か、ということである。したがって、うそ発見 器は真実探究に適しているかという問題は、ー l 法律学の諸文 献とは異なり││専門家に委ねられるべき特殊精神生理学的問 題に類する問題ではなく、まず第一には、刑事訴訟法学それ自 体が熟考しなければならない証拠評価の問題なのである。 その際、まず、犯行知識テストと対照質問テストを区別する ことが必要である。犯行知識テストに関しては、真実発見への 原理的な適合性はまったく争われえないといえよう。行為者の みが、与えられた刺激に関する事項を認識しうる場合、この刺 激への反応は、行為者であることを意味する。被疑者・被告人 が他の方法でこの行為事情を知ったという常に存在する理論的 可 能 性 は 、
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間接証拠というものは、一般に、証明されるべ き事実の存在について蓋然性を根拠づけるにすぎないのである か ら │li この徴慈の効果を排除するものではない。 それに対して、対照質問テストの真実発見への適合性にはか なり疑問がある。問題となるのは、無実の者は対照質問への回 答の際により強い反応を示すことが想定されているという観点 が、納得のいくものであるか否かである。上述のように、第一 の論拠として、無実の者にとっては、犯行の非難は、自分が関 与していないことを知っているのであるから、それ自体として あまり精神的負担にならない、第二の論拠として、無実の者に とっては、犯行の非難への回答は、彼はうそをつく必要がない から、あまり精神的負担にはならない、ということが挙げられ る。第一の論拠に対しては、疑問が提示される。手続が進行し ていくと、不当に被疑者・被告人とされた者もまた、誤った有 罪判決の可能性を次第に考え、当該犯行に関する質問に対して の方が対照質問に対してよりもより精神的負担を感じることに なるだろうと考えられるからである。したがって、手続が進行 した段階では、第二の論拠のみが残る。この論拠は、人聞はそ の性質上、真実保持へと。プログラムされているという理由によ り、うそそれ自体がより強い反応と結び付いているという観念 に基づいている。しかしこれに対しては、最近、精神生理学に101一一へんムート・フリスター「うそ発見器」 おいて有効に反論がなされている。種々の実験において、うそ 発見器によるうそ発見に対する由来怖が被検者から取り除かれる やいたや、精神生理学的に重要な反応もなくなることが示され てきた。すなわち、設問に対する真実に合致した回答と真実に 合致しない回答との生理学的反応の相違は、うそそれ自体から ではなく、うその露顕に対する畏怖から生ずる、ということが 一 示 さ れ て い る の で あ る 。 結局、対照質問テストは、遅い手続段階においては機能し難 く、被検者が、うそ発見器がうその回答を実際にうそであると 示すことを信じているかぎりにおいて可能である。したがって、 対照質問テストは、被検者が
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アメリカ合衆国の実務で明ら か な よ う に 、 1 1 1 うそ発見器の﹁能力﹂について欺岡された場 合にのみ機能しうるにすぎず、ドイツ刑事訴訟法では一一二六条 a により明白に禁止されたそのような款問がなければ、検査手 続の結果は偶然的で計量し難いものとなるのであり、それゆえ に、一般的に真実発見に適したものと見倣すことはできない。 以上の理由から、ァ I メルング(﹀白色ロロ巴およびプリット ヴ ィ ッ ツ ( 甲 山 2 4 三件。によって提示された妥協的提案、すなわ ち、うそ発見器を捜査手続からは排除するが、差し迫った有罪 判決を回避するための最後の手段守5
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氏 。 ) と し て 、 公 判においてその使用を許容するという提案は、実現不可能であ 一方では、被告人を圧迫から保護しつつ、他方では、非常 の場合に、うそ発見器による検査を用いてその無実を証明する 可能性を与えるという考察は、たしかによく考えられたもので はあるが、この検査手続の事実上の可能性を看過している。す なわち、刑事手続の最終段階では、無実の者もまた、自分に向 けられた刑罰を顧慮しており、したがって、この時点では、犯 行知識テストのみならず対照質問テストももはや不可能なので あ る 。 る このような重要な認識を度外視すると、真実探究への適合性 という観点の下で、うそ発見器の一般的排斥が根拠づけられう るわけではないということも、執劫に主張されている。たとえ ば、うそ発見器が││アメリカ合衆国におけるように 1 1 捜査 手続の最初に使用される場合には、少なくとも犯行知識テスト、 場合によっては対照質問テストもまた、刑事手続において許容 される他の証拠方法に比べて、原理的に、必ずしもより信用性 の低いものであるとはいえない。この点に関するかぎり、法七 九条に明文で許容されている筆跡鑑定と比較してどうかは、必 ずしも明白ではない。 町 うそ発見器の使用は許容されるか 一.法一三六条 a との抵触(矛盾)うそ発見器の原則的な禁止は、したがって、規範的な考慮か らのみ明らかにされうるであろう。 法二三ハ条 a は、法文中に例示的に挙げられている一定の尋 問方法により、被疑者・被告人の意思決定および意思活動の自 由を侵害することの禁止を規定している。通説によれば、この 尋問方法は制限列挙ではなく、本条は供述の自由の包括的保護 を目的としている。したがって決定的な問題は、うそ発見器が 同条に挙げられた尋問方法の一つに含まれるか否かということ ではなく、その使用が同条の意味における意思決定と意思活動 の自由の駿損にあたるか否かである。その致損にあたることを、 連邦裁判所は、一九五四年判決の中で認めた。他方、最近の文 献では、連邦裁判所の判断は批判されている。すなわち、連邦 裁判所は、﹁無意識﹂という内心領域への介入によって法一一二 六 条 a の侵害を理由づけているが、この点で連邦裁判所はうそ 発見器の事実上の機能に精通していないか、あるいは、当時は まだ生々しかったナチスの経験への過剰反応を示しており、さ らに、うそ発見器を過大評価し、記録された生理学的諸反応が 精神の包括的解明には総じて適していないということを看過し ている、というのである。 しかし、この批判は、連邦裁判所判決の核心を無視している。 すなわち、連邦裁判所は、法一三六条 a の侵害を、﹁無意識﹂ という内心領域への介入によって理由づけたのではなく、﹁無 意識性﹂によって、つまり、表出過程のコントロール不可能性 によって理由さつけたからである。コントロール不可能性は、実 際、否定できないので、最近の文献における、連邦裁判所はう そ 発 見 器 を 法 一 一 一 一 六 条 a の禁止に含める際に誤った事実的前提 から出発したという批判は、正しくない。この包摂に対する批 判は、法的次元においてのみ、すなわち、情報提供(暴露)の 意識的コントロールの欠如が、真に法一二一六条 a の 侵 害 一 を 理 由 づけるのに十分であるのか否か、という問題に関してのみ提起 さ れ う る 。 この点で、学説上主張されている疑問は、解釈学的なものと いうよりも実際的なものであり、その論証は、法二三ハ条 a の 右のような厳格な解釈は貫徹されえないという考慮によって行 われている。第一に、学説では、うそ発見器による生理学的諸 反応の測定以外にも、情報提供が意識的コントロールなしに行 われる証拠方法であって、一般的に許容されている方法が存在 していることが挙げられている。第二に、技術的な補助手段な しに認識するととができる生理学的諸反応(震え、赤聞など﹀ の利用は、裁判官の証拠評価の要素として一般的に認められる こ と が 挙 げ ら れ て い る 。 まず、第一の論拠について検討していく。学説では、刑事手
103ーーヘルムート・フリスター「うそ発見器」 続で長い間実際に行われてきた心理学的検査方法、たとえば、 責任能力の鑑定において通常行われている心理検査、とくに投 影テストのような人格テストが示されている。そのような検査 においては、被検査者の情報提供の意識的コントロールは行わ れず、彼は、心理学者に対していかなる情報を明らかにしてい るかを認識していないのである。もっとも、刑事手続における 投影テストの使用に関する明白な法規定は存在しないので、そ の許容性もまた問題がないわけではない。したがって、たしか に一部の学説に賛同して、うそ発見器と同様に、投影テストも、 情報提供の意識的コントロールが欠如しているという理由によ り 、 法 一 一 二 六 条 a に抵触するという結論を引き出すことは、可 能 で あ る 。 しかし、情報提供の意識的コントロールを包括的に要求する ことは、そのようなコントロールの欠如が、一定の心理学的検 査方法だけの特徴ではなく、被疑者・被告人の人格を検証対象 として扱う証拠方法すべての一般的特徴であるということを理 解するならば、疑わしいものになる。検証結果は、被検査者の 意思に依拠しないので、検証への協力は、意識的にコントロー ルされない情報提供を示すことになるからである。たとえば、 運転能力の鑑定において通常行われている反応テストや制御テ ストの際には、投影テストあるいはうそ発見器による生理学的 諸反応の場合と同様に、意識的にコントロールされない情報提 供がなされているのである。 被疑者・被告人の協力によって行われる検証すべてが、法一 三六条 a の基本思想に抵触するとはいえないとすれば、情報提 供の意識的コントロールの要求は、無制限には妥当しえないと いうことを承認せざるをえない。この要求は、被疑者・被告人 の供述にのみ関連し、物的証拠の提出による情報提供には関連 しないことは明白である。そのかぎりで、被疑者・被告人は、 自己の刑事訴追において積極的協力を強制されてはならない、 という原理のみが妥当する。しかし、この原理は、被検査者の 同意によって行われるうそ発見器テストを通じては、被検査者 の同意による反応テストや制御テストを通じてと同じくらい僅 かに侵害されるにすぎない。 し た が っ て 、 う そ 発 見 器 の 使 用 が 法 一 一 一 一 六 条 a の基本思想に 抵触することを示すためには、情報提供の意識的コントロール の欠如を指摘するだけでは十分ではなく、それが物的証拠の収 集に関する規則ではなく、尋問方法(取調べ)に関する規則に 従って判断されるべきことを根拠づけなければならない。この ことは、いかなる基準でこれらの諸規則が区別されるのか、い かなる観点で、ある証拠方法が意識的コントロールを要する尋 問方法と意識的コントロールなしにでも許容される物的証拠と
に分類されるのかが、明確であることを前提とする。この場合、 伝統的な意味での境界づけ、すなわち、コミュニケーション行 為によって証拠収集に協力するような-証拠方法のすべてが供述 として分類されるという考慮は、うそ発見器にとっては説得的 ではない。なぜなら、﹁はい﹂または﹁いいえ﹂で答える検査 方法は尋問であり、否定のみで答える検査方法を採る場合には 物的証拠になるとすると、うそ発見器の使用の許容性は、検査 手続の形態の個別性に依拠することになってしまうからである。 したがって、供述と物的証拠の区別にあたって重要なことは、 その形態への表層的・現象的志向ではなく、いかなる根拠で情 報提供の意識的コントロールがとくに尋問の際に要求されるべ きなのかということである。 その際、被疑者・被告人の知識が彼の積極的行為なしに採取 される場合にも、供述の自由の侵害が存在するという理解が重 要である。ある証拠方法を尋問方法として位置づけることにと って決定的なのは、被疑者・被告人が証拠収集の実施にあたっ て何か述べるか否かではなく、証拠収集の対象であり、重要な ことは、犯行についての被疑者・被告人の知識が確認されるこ とになるか否かである。責任能力の鑑定の領域における心理検 査の場合も投影テストの場合も、通常、人格特性の認定が問題 となっており、被疑者・被告人の知識が問題となっているので はない。したがって、これらの心理学的検査方法を原則的に承 認するとしても、そのことから、法一一二六条 a における禁止さ れる方法にうそ発見器を包摂することに反対する論拠は、引き 出されえないのである。心理学的方法がうそ発見器と類似性を 有するのは、被疑者・被告人の知識に対する介入がなされる場 合、たとえば、彼の精神における体験の痕跡や彼の抗弁の信用 性について吟味される場合にのみである。このような目的で使 用する場合には、投影テストや心理学的検査もまた、尋問とし て分類されなければならず、まさにその場合には、法一三六条 a との抵触が問題となるのである。 したがって、うそ発見器の使用を法二ニ六条 a における禁止 される方法に包摂することに対する異議としては、第二の論拠 のみが残ることになる。すなわち、裁判官は、公判において、 震えや赤面などの知覚可能な生理的諸反応を信用性判断にあた って考慮しうる、というものである。そのかぎりで、知識表出 の意識的コントロールという原理が制限を受けることは、事実 である。しかし、明白な表出態度を顧慮することは、あらゆる コミュニケーションにおける不可欠の構成要素である。この顧 慮は、自己の知識に関する処分権を制限することになるが、そ れが回避されうるのは、被疑者・被告人に、供述、それどころ か、手続の場に居ることさえも禁じる場合のみであろう。しか
105一一へノレムート・フリスター「うそ発見器」 しこのことは、裁判官による聴聞の保障という観点からすれば、 議論の対象にもならない。 人間のコミュニケーションにおいて本質的で、したがって許 容される明白な表出態度を顧慮することについて、その限界は 流動的である。しかし、たとえ限界設定が不明確であるとして も、それは、その限界が明らかに侵害されるような方法を使用 することを正当化するものではない。いずれにせよ、通常のコ ミ ュ ニ ケ l ション状況において知覚しえない反応を技術的に記 録することは、明白な表出態度を顧慮することとは全く異なる ような、比較できないほどの強力な方法で、自己の知識表出の 意識的コントロールを制限することになる。知覚しえない生理 反応を、公判において継続的に技術的に記録し、それを使用す ることは、うそ発見器の使用を肯定する者によってさえ、拒絶 さ れ る で あ ろ う 。 したがって、被疑者・被告人の明白な表出態度を顧慮するこ とを承認するとしても、それは、うそ発見器を法一一二六条 a に おける禁止に包摂することに対して、有効な異議を引き出すも のではない。通常のコミュニケーション状況において知覚しえ ない生理反応の記録と使用は、被疑者・被告人の知識への意識 的にコントロールされない侵害を可能にし、それは、法二二六 条 a によって禁止された、意思決定と意思活動の自由を侵害す る尋問方法と見倣されるべきである。 二 法 二 二 六 条 a 一 二 項 に よ る 処 分 権 の 排 斥 う そ 発 見 器 の 使 用 が 法 一 一 一 一 六 条 a において禁止される尋問方 法であるとすれば、三項により、その使用は、被検査者の同意 がある場合にも許容されないように思われる。それに対して、 ア l メ ル ン グ は 、 う そ 発 見 器 は 法 一 一 一 一 六 条 a に挙げられていな いので、一項のみが適用され、一二項は適用されない、それは、 法二二六条 a 三項が、国家による自由制限であり、法律の留保 による類推禁止が妥当する規定だからである、と主張している。 しかし、この見解は、法一三六条 a 一 二 項 を 国 家 に よ る 自 由 制 限として性格づけしていることによって、規定内容を誤解して いるために、説得力がない。この規定は、被疑者・被告人に向 けられた禁止を意味しているのではなく、国家が被疑者・被告 人の申し出によるものであっても、一定の証拠収集を実施も使 用もしないということのみを意味しているのである。したがっ て、被疑者・被告人の同意によって行われるうそ発見器の使用 について考慮されるのは、法治国家原理による、あるいは、フ ェア・トライアルの原理による論拠のみである。もっとも、こ の論拠は、うそ発見器に関連するのみならず、法一一二六条 a 一 一 一 項の価値判断を全体として問題にするものでなければならない。 その次に、被疑者・被告人に対し、場合によっては﹁自由でな
い﹂供述、すなわち、意識的にコントロールされない知識表出 を通じて無実を証明する可能性を与えることは、フェア・トラ イアルの要請を充足しないものなのかが問題とされなければな ら な い で あ ろ う 。 しかし、いかなる理由で、被疑者・被告人に対して、切迫し ている処罰を回避するための、おそらくは唯一の手段が拒否さ れるべきであるのかは、すぐには正しく了解されないように思 われる。そのかぎりでは、意識的にコントロールされない知識 表出と被疑者・被告人の人間の尊厳ないし人格権とを関連づけ ることは、説得的ではない。意識的にコントロールされない知 識表出によって、切迫している終身刑を回避しようとする者は、 その可能性がよりにもよって彼の人間の噂厳ないし人格権の保 持の不可欠性に基づいて拒否されるとすれば、その ζ と を 彼 の 人格権の尊重の表れとは考えないであろう。 被疑者・被告人の処分権から供述の自由を除くという立法者 の判断が正当であるのは、処分権を認めると、被疑者・被告人 は 、 意 識 的 に コ γ トロールされない知識表出の拒否を裁判所が 有罪の承認と見倣すかもしれないと考え、それによってこの処 分権を行使することへの間接的圧迫を受ける、という考慮のみ である。これに対しては、多くの文献によって異議が唱えられ、 とくにグロムケ(関ロ
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は、そもそも処分権の保障から向 意への圧迫が生ずることはないのであり、裁判所は、被疑者・ 被告人がコントロールされない知識表出に問意しないことも、 黙秘の場合と同様に、有罪の徴滋と評価してはならないので、 そのような同意への圧迫は問題とならない、と主張している。 ア l メルングとプリットヴィ γ ツは、適切にも、問題はそのよ うに単純に処理されえないことを指摘した。有罪の徴還と評価 してはならないという使用禁止によって同意への圧迫は排斥さ れるだろうという想定は、裁判官の心証形成の過程を規制する 裁判上の諸規則の力を過大評価している。心証形成は、裁判官 自身にとっても十分にコントロールしえない直観的なものであ り、被疑者・被告人が知識表出に同意しないことを裁判官が考 慮することは避けられないであろう。 したがって、供述の自由の処分可能性を前提とする同意への 圧迫が事実上存在することは、否定できない。しかし、それを 法的に顧慮することに対しては、学説において、裁判官が法的 に禁止されているような徴葱による推論から現実に解放される か否かという問題は、証拠使用禁止すべてに共通するものであ り、この間題を供述の自由に関する処分権の否定のために利用 することは慾意的である、と批判されている。とくに被疑者・ 被告人の黙秘は無意識のうちに有罪の徴患と評価されるが、だ からといって、自由な供述は禁じられてはいない。しかし、この批判も、最終的には正当なものではない。使用禁止の有効性 という問題の一般的性質に注意を向けさせることに対しては、 使用禁止は、訴訟が被るダメージを軽減する制度であり、たと え裁判官が有罪の情報をすでに得ていたとしても、その場合に なお、徴窓による推論を法的に禁止することによって被疑者・ 被告人の利益を可能なかぎり維持する制度であるという理解が 対置される。このような制度の存在は、裁判官からすでに徴患 による推論への事実上の可能性を排斥する論拠にはならないの で あ る 。 107ーーへノレムート・フリスター「うそ発見器」 立法者は、供述の意識的コントロールに関する判断に際して だけであって、供述自体に関する判断に際してはこの方法を採 らず、したがって、黙秘権を保障するために、被疑者・被告人 に対してすべての供述を禁止したわけではないという事実もま た、納得のいくものと判明する。なぜなら、法的聴問の原則が 衡量に入れられ、自己の供述を通して嫌疑の根拠を除去し、自 己に有利な事実を主張する権利は、意識的にコントロールされ ない知識表出よりも確実により重いウエイトを占めるからであ る 。 もっとも、これらのことはすべて、法一一二六条 a 三項は他の 諸規定との評価矛盾の状態にはない、ということを意味してい るだけであって、この規定の基礎にある利益衡量が正しいとか、 憲法上それのみが主張可能であろう、ということをいまだ意味 するものではない。意識的にコントロールされない知識表出に よって自己弁護するという利益を、その重要性から考えると、 被疑者・被告人をそのような知識表出への同意の間接的圧迫か ら保護するためにのみ排斥することは、なお問題になるように 思 わ れ る の で あ る 。 シ ュ ヴ ァ l ベは、真の犯罪者にとって不利益であるという理 由で、無実の者の免責証拠を許容しないのはナンセンスである、 と主張している。しかし、無実の者の免責を妨げるような規定 は他にもあり(上訴の制限、証拠申請権の制限など)、免責証 拠ということだけでは、それを許容する十分な理由にはならな い。たとえば、証言拒否権は、常に被告人のために作用するも のではなく、免責証拠の提出をも妨げる可能性があり、誤った 有罪判決の危険を高めることにもなろう。刑事手続においては いかなる犠牲を払っても真実探究がなされるというわけではな いという原則は、免責証拠はいかなる犠牲を払っても許容され るというわけではなく、法律は無実の者に対する有罪判決の危 険を他の優越する利益のために甘受する用意がある、というこ とを意味しているのである。 このことを明確に理解するならば、真の有罪者に有利になる 手続原理のために、無実の者に対する有罪判決の危険を甘受す
ることが、一般的に法治国家原理に反するという見解は、まさ に奇妙な響きになる。この見解においては、被疑者・被告人の 主体的地位を保障する手続原理が軽視されており、それは、刑 事訴訟法上および憲法上の観点からも維持されえない。被疑者 ・被告人の供述の自由は、その主体的地位を保障する法治国家 的刑事訴訟の中心的な構成要素として、証言拒否権の基礎にあ る第三者の利益、あるいは、刑事司法の効率性よりも無価値な も の と は い え な い の で あ る 。 結論的に、シュヴァ l ベの見解とは異なり、無実の者に対す る有罪判決の危険は、刑事訴追の利益や第三者の利益と衡量さ れるのと同様に、供述の自由の保護とも原則として衡量される ことについて、疑問はまったくない。そこで、具体的な衡量の 状況において、供述の自由の保護を根拠づけうるか否かという 問題のみが議論されなければならない。このために決定的なこ とは、供述の自由についての処分権によって、一方で、どの程 度、無実の者に対する有罪判決の危険が減少し、他方で、どの 程度、全体として供述の自由の実際的な有効性が脅かされるこ とになるか、ということである。 そのかぎりでは、経験的な認識が欠如しているので、この問 題に答えるにあたっては、大幅に、憶測に基づいた主観的な評 価に依拠することになる。したがって、次のことを確認するこ とが重要である。すなわち、供述の自由についての処分権を支 持する者によってさえ、そのような処分権が誤った有罪判決を 回避するために大きな意味を有するという見解は主張されてい ないことである。彼らも、たとえば、甘受しえないほど高い誤 った有罪判決率を甘受しうる程度に減少させるために、そのよ うな処分権が必要であると主張しているのではなく、無実の者 の自由および所有を犠牲にする危険はそもそも衡量を受け入れ ないという考慮を伴うような特殊な事例によってのみ、論証し て い る の で あ る 。 この状況を考慮すると、誤った有罪判決の危険に対して供述 の自由の処分可能性がもっ数量的な意味をそれほど高く評価し ていないことは、正当である。それに対して、供述の自由の実 際的な有効性に対する影響にとっては、むしろ、逆のことが正 当とされうるだろう。アメリカ合衆国においてうそ発見器の使 用に同意する事例が多いことや、ドイツにおいて被疑者・被告 人が黙秘権をあまり行使しないことからすると、同意しないこ とや黙秘することが不利に顧慮されるおそれから生ずる間接的 圧迫は、相応する使用禁止が存在するにもかかわらず、非常に 効き目があることを示している。この圧迫を排除するかまたは 回避するために、供述の自由についての処分に関する手続規則 を設けるという諸提案がなされているが、それらは、批判的吟
床に耐えるものではない。意識的にコントロールされない供述 を被告人のイニシアティヴに基づいてのみ許容するという提案 も、被告人は、裁判所が彼にそのイニシアティヴを期待してい ることを考慮に入れなければならず、間接的圧迫を回避するこ とはできない。さらに、無罪立証のための最後の手段としての みこのようなイニシアティグを許容するとしても、無実の者の ために無罪立証の可能性が残されているにもかかわらず被告人 がその主張をしないことは、裁判所を有罪の心証に導くことに な り う る 。 10与一一ヘルムート・フリスター「うそ発見器」 したがって、供述の自由の一般的保持に関する利益と、自己 の無罪を﹁自由でない﹂供述(うそ発見器の使用など﹀によっ て説得する被告人の利益との間に、﹁事実上の調和﹂を要求す る ア I メルンクの主張は、幻想にすぎない。供述の自由につい ての処分権を認めることは、必然的に、この権利を行使せざる をえないという著しい圧迫の原因となるのである。私見によれ ば、そうであるから、立法者は、法一三六条 a 三項の規定によ って正当な決定を行い、供述の自由を保護する利益が、﹁自由 でない﹂供述すなわち意識的にコントロールされない知識表出 によって自己の無実を立証する利益に優先するとしたのである。
V
結 出 百冊 現在の法実務は、最近の学説による批判にもかかわらず、適 切であることが明らかになった。うそ発見器は、意識的コント ロールなしに被疑者・被告人の知識に介入する証明手段として、 同 意 の 有 無 に か か わ ら ず 適 用 さ れ る 法 一 一 一 一 六 条 a の禁止に含ま れるのであり、したがって、被疑者・被告人の同意もしくは希 望によっても使用されてはならないのである。*
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︿紹介者あとがき﹀ 以上は、うそ発見器(ポリグラフ)に関するフリスタ l 論文 の 要 約 で あ る 。 ドイツにおいては、一九五四年の連邦裁判所判決が、ポリグ ラフ検査結果の利用は、被検査者の同意の有無にかかわらず、 基 本 法 一 条 一 項 お よ び 刑 事 訴 訟 法 一 一 一 一 六 条 a によって禁止され るとした。伝統的な通説は、この立場に賛同しているが、無罪 立証のための自発的なポリグラフ被検は許容されるべきである という主張(たとえば、シュヴァ i ベ論文﹀もあった。そのよ うな状況の下で、一九八一年の連邦憲法裁判所決定が、被検査 者の希望によるポリグラフ被検も許容されないとしたのを契機として、議論が再燃した。そこでは、決定に対して批判的な見 解が次第に有力になってきた(たとえば、ア l メ ル ン ク 論 文 ) 。 本論文は、伝統的な通説の立場から、右のような傾向を批判 的に検討したものであり、そこでは、そのような主張の諸論拠 につき、逐一検討が加えられ、十分な論拠とはいえないという 結論に至っている。その主張の骨子は、以下のとおりである。 ①緊張最高点質問法と対照質問法とは精確に区別すべきであ る。対照質問法が真実発見にとって適格性を有するかについて はかなりの疑問があり、いずれの検査方法も、ある程度手続が 進行した段階においては、原理的に使用不可能である。②手続 の初期の段階では、少なくとも緊張最高点質問法は真実発見に とってある程度適格性を有するので、原理的にはポリグラフ検 査の一般的排斥は根拠づけられない。したがって、ポリグラフ 検査の原則的禁止は、規範的考慮から明らかになる。③ポりグ ラ フ 検 査 を 法 一 一 一 一 六 条 a による禁止される方法に包摂するかど うかは、それが尋問方法の一っか物的証拠かに依存する。尋問 方法にあたるか否かは、意識的なコントロールの有無ではなく、 むしろそれによって尋問者が知識を取得するか否かによって決 定される。ポリグラフ検査は、被検査者の知識に関わる検査な ので、尋問方法に該当し、したがって、法一三六条 a の適用を 受ける。④尋問に際しての被尋問者の震えや赤面も意識的コン トロールが制限された状態での反応であるが、供述の判断に際 して裁判官はこれを考慮に入れることが許される。ポリグラフ 検査も意識的コントロールが制限されている点では共通してい るが、前者は日常のコミュニケーションに伴うものであるのに 対し、後者はそこでは知覚できないような反応を引き出すもの であって、そのよラに強力な意識的コントロールの制限は許さ れない。⑤法一三六条 a 一二項は、意識的コントロールの排除さ れた状態における供述およびその使用は同意があっても許され ないとして、供述の白由の処分権を否定しているが、それは、 そのような処分権(同意)を認めるとその処分権を行使しない こと(不同意)が不利に評価されることにより、被疑者・被告 人に間接的に同意を強制することになるからである。⑥同意へ の圧迫がもはやないと考えられる手続の最終段階において無罪 立証のためのポリグラフ検査を許容すべきであるという主張も あるが、被告人がその段階で申立てを行うか否かを考えるにあ たって、それを行わない場合に裁判官が有罪の心証を持つかも しれないことを顧慮しなければならないとすれば、やはり間接 的な圧迫は否定できない(さらに前述のように、手続の最終段 階におけるポリグラフ検査の使用は、原理的に不可能である)。 右のうち、①②の点については、わが国でも、緊張最高点質 問法と対照質問法とを区別し、それぞれの方法について正確性
111-ーヘノレムート・フリスター「うそ発見器」 や検査結果の自然的関連性についての議論がなされており、ま た、③の点も、わが国における供述証拠説か非供述証拠説かを めぐる議論と共通している。この点について、同じく意識的に コントロールされない情報提供である心理テストや投影テスト とポリグラフ検査とを、知識の獲得の有無という基準で区別し ている点は、参考になる。④の点は、ドイツにおいてポリグラ フ検査許容の根拠として以前から主張されてきた点につき、両 者の共通点を顧慮しつつ反論したものであり、新たな視点が見 られる。⑤⑥の点については、わが国には法一三六条三一一項と 同様の規定はないが、そこで扱われている被検査者の同意およ び使用禁止の問題は、共通のものであり、とくに同意の間接的 強制の存在や被検に同意しなかった場合の事実的影響について の指摘は、わが国の議論においても妥当するといえよう。 著者のフリスターは、ドレスデン大学教授である。なお、本 論文に引用されている、ア 1 メルンク、クリムヶ、シュヴァ l べの各論文については、すでに別稿で紹介したので参照された い(グヌ!?アlメルンク﹁判例批評│lポログラフ検査の 利用に関する連邦憲法裁判所決定﹂警察研究五四巻一二号九四 頁以下、ォ I ラ l フ・クリムケ﹁刑事手続におけるポリグラフ 検査﹂警察研究五四巻六号七三頁以下、山名﹁西ドイツにおけ るポリグラフ検査に関する最近の議論付﹂法学ジャーナル三七 号 一 頁 以 下 ﹀ 0 なお、本論文については、一九九六年三月二日の﹁刑法読書 会﹂(於、立命館大学)において、その要旨を報告した。 八参考﹀ 基本法一条①人間の尊厳は、不可侵である。これを尊重し、 かっ、保護することは、すべての国家権力の義務である。 ②③