Ⅰ,知覚−私からの出発 1.知覚(perception) デカルトの「延長」と「思惟」という二つ の実体論以来、永く人間と自然、物質と精神、 主観と客観の二元的自然観、科学観、世界観 が打ち立てられてきた。二元的世界観におい ては、自然、事物、身体は人間、精神に対す る外在的、物理的で操作的な対象としてとら えられる。人間は、この対象を個別的存在と し、存在の性質を抽出し、純化し、人間界の ために利用してきた。また、個別的存在間の 因果関係や相関関係を見きわめ、展開してい く必然性を明らかにしようとしてきた。この
まなざしと自然体験
−メルロ=ポンティからの実践−
田
巖
*Natural Experience from Free Observation
−A Practical View from Merleau-Ponty−
Iwao TSUNODA
Perception does not look at a material entity as an external object nor does it reproduce an object within the mind. Human beings and material entities are not a dualistic existence of subjects and objects.
According to Merleau-Ponty, perception materializes when humans and entities work together. When humans make an free observation of a material entity, the entity reveals the characteristics or meanings from within itself.
A human approaches the real nature of the entity from the perspective of space and time. A human makes contact with nature within an event with nature. Such an event is filled with fresh experiences with nature.
A human makes contact with an entity itself through experiences with nature and recognizes the real nature of the entity.
Futhermore, a universal principle is also extracted from raw and wild experiences with humans. That is why the free observation that questions an entity is the source of intelligence.
ような自然、事物の客観的対象化と抽象化は 科学の名の下に文明と文化に貢献してきた。 ところで、こうした存在の抽出は一つの性質 か、事物の具象の現実の多くを切り離し、切 り捨てて作り上げられた要素である。事象、 事物の本性と真理は、それらのあらゆる具象 と事実、現実の生彩を失うことなく昇華され ているものである。人間が自然をあくことな く利用しつづけきた年月と、特に近年の技術 革新による過剰なエネルギー使用が地球の危 機を招いたと言われている。また、同時に、 科学、経済、政治、教育、意識、理念を含む 人間生活・文化のパラダイムが問われている。 近年、事物、自然、人間の有機的関係が重 視されてくるにつれて、環境、生命、共生の 生態的視点へと移ってきた。そこには、これ までの二元的世界観、客観的自然観、個別抽 出的存在論を越えた共存と共生の人間科学の 構築が求められている。 メルロ=ポンティは、人間が生きている世 界を人間の知覚の働きを通じて現象的に把握 しようと試みた。知覚は、個別に切り離され た感覚器官が独立して対象を受動的に写し出 し形成しているのではなく、また、精神が判 断や思考によって対象を再合成して作りだし ているのでもない。各感覚器官は互いに連合 し、同時的に作用しつつ、事象、事物、生物、 人間と交感し、循環し合う。ひとは、この総 合によって存在を把握していく。この会得は 感覚器官というより、「現象的身体」による 存在とのふれ合い、交換である。「身体とは 自然的自我であり、いわば知覚の主体なのだ から」1 と言われるように、総合的、統合的 身体こそが存在に向かい合っていくのである。 私はこの世界に関する能力を身体をとおして 開いていくことから、「私とは私の身体であ る」2 とさえメルロ=ポンティは明言する。 私は身体によって直に世界に触れ、運動し、 同時に存在が私の身体を包み、滲透し、私を 動かす。ひとはそれらを観察対象として意識 し、認識する以前に身体として感覚し、この 感覚が即時に、一気にそれらとふれ合い、そ こにそれらとの交流を生み出す。この円環は、 ひとと存在との生命的交感であって、観察的 認識や、言葉による理解以前の、存在が「生 まれ出ずる状態で捉えられた実際の知覚」3 としてとらえられる。
2.現前野(champ de pre´sence)
知覚とは、存在とひとの身体が互いに滲透 し合う交感、交換であり、それはひとの生の 実存から生じてくる。ひとにとって世界は、 客観的・物理的世界なのではなく、また純粋 に理念化された超越的な世界でもない。それ は、「生きられる世界」(le monde ve´cu)4 で
ある。生きられる世界は状況下のいまを生き る日々の人間的意味の世界であると同時に、 不可知の神秘であり、深淵の生成の自然世界 でもある。 ひとは知覚の最初の開けにおいては単に一 つの存在を取り上げて見ているのではなく、 自己の視野に広がる様々な事象、事物、生物、 人、景、領野、地平、世界を眼前にしている。 やがてまなざしを特定の存在に集中すると、 景や領野は背景に後退し、存在が照明をあて られたように浮かび上がってくる。現前にあっ た景、領野、地平はその奥にさらなる見えな い景、領野と地平、世界を繰り広げているに 違いない。世界は、無尽蔵の果てしない地平 としていま・ここに見えるものと見えない (隠れている)ものを含め、現前の知覚に連 なっている。判断と認識、思考以前のこの知 覚は、私のまなざしを通して事象、事物、生 物、人、景、領野、地平、世界から開かれて くる。知覚は、この開かれた現前に迎えられ ている。すでに私以前に存在していて、まな ざしに対して開くようにおのれを繰り広げる この「匿名的」で「非人称的」な様相こそ知 覚の本性としてとらえる。「ひとが、私にお いて知覚するのであって、私が知覚するので はない」5 と言われるゆえんである。存在は、 存在のただなかから自らを開き、私に向かう。 私は私自身から抜け出して、存在へと「出発 する」。これが知覚であり、この自然な知覚
野への現象的知覚を基盤として認知的な知性 的認識が成り立っていくのである。自然的、 現象的知覚は知性的認識に至っても決して抹 消されてしまうものではなく、知の地平の裾 野として拡がっているのである。 Ⅱ,まなざし−方向と出会い− 1.展望(perspective) 地平は私の視点、方向、距離から望見され る世界の拡がりであり、視点は身体の移動に よって変動していく。これが知覚の「展望性」 (perspectivisme)6 である。ひとは神のように 全てを見渡す俯瞰的な視野を持ち得ない。そ れがひとの限定条件であると共に、ひとに存 在が意味と特性を開示してくる手続きともなっ ている。一つの視点は一つの展望を開くが、 その他の視座は現時点では潜在化されてしま う。しかしながら、身体の移動によって限定 的ながら他の展望も可能となる。移動による 新たな展望においても、以前の展望は失われ ることなく、現在の展望に潜在しているので ある。ひとは顕在と潜在の循環的な保持を通 して、経験世界の中で存在の安定した光景、 形態、性質、意味を持続することができる。 この展望の循環の前に、存在は「何一つ匿れ た部分を持たず」、「全面的に自己を開陳して いる」7 のである。一つの展望は常に存在の 完璧ではないが一つのまとまった姿であり、 また次の展望も一つのまとまりである。展望 によってそれぞれの部分的な集合が総合化さ れていくのではなく、一つひとつのまとまり の事物の開けが次のより豊かなまとまりの開 けへと展開していく「移行の総合」(synthe ´se de transition)8 である。それぞれのまとまり の差異は、空間的移行のみならず、時間の移 行にも基づく差異である。どの展望も存在の ある特質、事実を現前化させていくが、空間 軸・時間軸の移行に伴いその質の差異を生み だす。また、各展望は見えつ隠れつしながら 内包され、互いの差異を照射し合い、存在の 豊穣を膨らませていく。存在が自らを惜しみ なく開いているこの時に、客観的認識と思考 をあるいは既存の知識を導入してしまえば、 存在はその時点で自らを決定し、閉じ、存在 自身のさらなる放射を止めてしまう。 身体の移動に伴う展望の空間の視座はわか りやすいが、それに劣らず時間の視座が重要 である。私の展望とは、「時間の流れによっ て解体されてはまた修復される我」9 のこと である。存在を展望している現在のまなざし には、他の次元の展望をもこの今に包含して いる。すなわち「あらゆる時間から見られて いる」という「過去把持」(re´tention)を持ち、 同時に「私は、現に見られている私の現在を、 その過去として持つ」というような「未来把 持」(protention)を手中に収めている10。この 時間の展望が、存在の特性の本質へと絶え間 なく迫る深さ、奥行を克ち取っていく。また、 私の展望はこの空間と時間の移行、移動を行 うことによって他者の展望にも近づくことに なる。何故なら、他者もまた移動によって存 在の本性に向かっているからである。そして、 私と事物と他者の交流が、「間主観」として 磨かれてくる。普遍性はこの方向にある。 2.まなざし(regard) ひとが存在にまなざしを向けるとき、存在 はまなざしの方へ存在自身を開いてくる。仏 語で“sense”が「方向」と「意味」を表す ように、まなざしの方向と存在の意味があわ せ合う。メルロ=ポンティは、知覚が存在か らの光の反射を受けて、「ばらばらな可視性 を収斂させ、光景内に粗描されるものを完成 にもたらすような或る装置」11 を「まなざし」 としている。可視性とは、ひとと存在との交 換によって浮かび出てくる可能性としての存 在の姿、意味や性質などの現れである。「見 るものはただまなざしによってのみおのが見 ているものに近づく」12 というように、まな ざしはひとにとって最も明白でかつ直接的な 存在とのコミニケーションの手だてである。 まなざしは、存在を固定的に、分節的にとら えようとする観察的認識とは異なり、様々な
展望を自由にへめぐり、存在の可視性を次々 と浮かび上がらせたり沈めたりする。まなざ しは、存在の円周を、内部を、他の存在との 関わりを、存在を囲んでいる領野を遊覧する。 「私がそれを眼で見まわす時にだけ、私のま えで鮮明でありつづける。自由に這いまわる のがまなざしの本質的特性なのだ」13 。 まなざしは動く身体としての「運動性」を 特性としていて、運動として存在にたどり着 き、知覚を開いていく。まなざしは、存在と 密着し、絡み、まといつく。そして、存在と の熟成を醸していくのである。メルロ=ポン ティが「<見る>ということが<離れて持つ >ということであり」14 というのも、 また 「視覚はまなざしによる触知なのだ」15 という のもこのまなざしの触視を表している。この 視覚の触感が、ひとと存在とを握手のように 触れ合わせる。ひとはまなざしによって存在 に触れ、同時に存在はまなざしに滲透してく る。「まなざしは、見えるものを包み込み、 それに触れ、そこに身を添わせる」16 と、瞬 時に存在が自らの本性を開き始める。まなざ しは、私と存在とを結びつける回廊である。 まなざしには、素直な、自然的知覚が繰り 広げられている。澄明な青空を見つめている と、私は青空の彼方に引き入れられるように 感じ、空の中の浮き雲のようにすっかり空に 身を委ねてしまう。このとき空は、私の身体 を揺り動かす「或る種の生命的振動」の場と しての空となる。私は私自身から出発し、存 在の彼方へと向かう、そして存在に入り込ん で、身を委ね、「物に身を捧げるべきまなざ し」17 となって存在に「住まいに来る」18 。住 まうとは、まなざしを通して身体で感じるこ とである。風にたなびいている遠くの梢を見 上げる私には、聞こえるはずのない葉群のざ わめきの音が聴こえる、小枝のしなりが感じ られる。さらに、住まうとは、存在のなかか ら存在を見、触れ、他の存在の見地からその 存在を望見し、存在の生命や本質にまで見き わめ、触れていこうとする試みである。それ は、いわば、観光客や、異邦人としてではな く、町に住んで町を知っていこうとするとい う在り方である。まなざしは、私が存在とこ の瞬間を生きようとする「共生」への投企で ある。メルロ=ポンティの「私が真実の物に 到達するのはまなざすことによってであり」19 という確言は、存在に住まうというこの知覚 の生きようを示したものである。 3.交差(chiasma) 知覚は「自然的事物」との原初的な出会い であり、「『われわれ』と『存在するもの』と の出会い」、この「出会いを疑うことはでき ない」20 と述べられている。この出会いがま なざしとしての在り方なのである。この出会 いの有様をメルロ=ポンティは、数々の言葉 で表現している。「交わり」(communication )21、「交差」(chiasma)22、「共存」(coixstence )23、 協働 (synerby)24、「聖体拝領=共生」 (communion)25、「編み合わせ」(entrelacs)26、 共働(co-fonctionnement)27などである。ただ、 その「縁結び」は事物への「参与」であって、 「見えるものを決定的に包み込んだり、見え るものによって決定的に包み込まれたりする ものではない」28 というようにあくまでも差 異を持った「交差」なのである。この交差は、 私が<見るもの>としてあるのみならず<見 えるもの>でもあるからである。私は身体と して世界の織り目の中に編み込まれているし、 存在も私も世界の中に受肉されているのであ る。私は、世界や自然といった共通の分母を 基底に持ち、「見られるもの」として「見え るものの仲間」29 なのだから。見るものと見 えるものとはまた触れ合う関係も挿入させな がら「編み合わされる」円環を描いていく。 それは、シャロンによって「円環性の思考」30 と表現される。しかしながら、両者は完全 な合致に同一化されるのではなく、互いの差 異を照合させつつある同意、創造を生みだそ うとするのである。 Ⅲ,出来事としての体験
1.出来事(e´ve´nement) 知覚とは、時間と空間の展望を「いま」・ 「ここに」見えるものと、見えないものとを 収斂させて、存在と私が互いに自らを開きつ つ出会う「交差」である。そして、知覚は、 具象の存在を抽出して保存する観察的認識以 前の、事象・事物・生物・人・領野・地平・ 世界を広げている原初的状況を含んだ生な存 在に住まうまなざしとして生きる。このよう な知覚の一回限り性、時間的生成、出会いの 状況性・偶然性というめぐりあわせは、また 自然の存在とひととの「出来事」としてとら えられる。 ホワイトヘッドは、自然の理解にあたって、 科学的認識の母胎として知覚を「出来事」 (event)として把握することを重視した。自 然とは、第一に思考に先だって「感覚を通じ ての知覚のなかで観察するものである」31 。 また、「生命の事実とは、生命の出来事のこ とである」32 から、自然の理解と把握は究極 単位の出来事から出発しなければならないと している。自然の有機的な一存在であるひと にとって、自然は「たえず推移する出来事の 複合体」33 なのであり、ひとはこの出来事の 関係ネットワークを通して自然と交流してい るのである。ホワトヘッドにとって出来事は、 「それがあるところのもの、それがある時、 それがある所である」34 というように過去と 未来を連続させている現在に湧出してくる。 そして、いま起きているこの出来事は、自然 の一員である私の身体を通して参加するとい う 「 知 覚 し つ つ あ る 出 来 事 」(percipient event)35 として体験しているのである。 メルロ = ポンティにとっても「出 来 事」 (e´ve´nement)というのは、一回限りの具体的 な事実であり、抽象的な概念ではない。だか ら、「出来事という概念そのものが客観的世 界に占める場所を持たない」36 のである。も し出来事を体験している誰かがいなければ、 それは自然現象と言われるようなものである。 出来事は、世界の「空間的・時間的全体のな かから有限な観察者によって切り取られてく る」37 というように特定のひとのある角度の 展望を必要とする。その「有限な誰かの視覚 が出来事の個体性を基礎づけている」38 ので ある。この知覚しつつある出来事こそがひと の生き方に大いなる意義をもたらす。それは、 世界の中でのひとのある歴史的な立ち会いな のである。出来事に立ち会った私はその出来 事を第三者として客観的に眺めるのではなく、 自らがその出来事の知覚的状況に内属しなが ら参加しているのである。知覚するとは、こ の出来事を体験することである。 2.体験(expe´rience) 体験(経験)は、視覚・知覚を含めた身体 運動を伴う行為であり、その行為は常に身体、 事象、事物、生物、人、自然、世界との出来 事である。即ち、体験とは、出来事との交感、 交換である。 この出来事としての体験にとって重要なこ とは、「私の経験と他者の経験との交差点で、 それら諸経験のからみ合いによってあらわれ てくる意味なのである」39 と言われる。ここ でも私の自然、世界との生な体験は、知覚・ 身体の空間と時間の開かれた展望と接触によっ て他者の知覚と連なる可能性を満たしていて、 間主観、間体験として実現されていく。この 開かれた生な体験のうちに自然的な知が生ま れてくる。 「経験こそ、いわばわれわれの知の臍の緒 であり、われわれにとっての意味の源泉なの である」40 。 意味の源泉とは、既存の知識、辞書・辞典 などの意味、説明、解釈、概念の言語的思考 の素材としてのみならず、それらに先って、 広く存在に対する人間的理解と把握をも示し ている。また、存在について未踏の意味の発 見をも可能としている開明である。生な、新 鮮な、とれたての、瑞々しい輝きを放つ、自 然の輝きと驚きに満ちみちた私と存在とのふ れ合いの結節、結び目である。 「私が生き体験するところのすべてについ て、私がそれを生き体験している限り、私は
その意味をおのれのものとして所有している。 そうでなければ、私はそれを生き体験するは ずもなかろう」41 。 存在の本性と世界の真実が、いま私の前に 体験を通してこの輝きと新鮮さを保ちながら 顕在あるいは潜在している。とはいえ、私の 知覚は、全能ではなく、いまだ乏しい展望し か開かれていないかもしれない。私はさらに、 絶え間なく自然を、世界を見る、知覚する、 知るという経験を積んでいかねばならない。 「世界がまさしくわれわれが見る当のもの であるということ、しかも、われわれが〔改 めて〕それを見ることを学ばなければならぬ ということは、二つながら同時に真実なので ある」42 。 私の前に出来事の「現実性」(re´alite´)と 「事実性」(factiale´)があるかぎり、たとへ一 時的な見間違いがあるとしても、それは不十 分な展望によるものなのであって、私はいたっ て真実への道程にある。そのためには、「世 界に身を捧げた主体」として世界を見る姿勢 をとり続けなければならない。そのスタンス とは、物理的、客観的な自然・世界として対 峙するのではなく、それ以前の直接的な、生 な、自然との連脈を目指す「生きられる世界」 に存続しつづけることが問われる。私が生き 体験するいまを生きるとは、私と事物、事象、 人との交差に噴出し続ける現在を共生するこ とである。この時に生気づいている存在の秘 かな生命や本性の開けに立ち会う僥倖を祝う ことにほかならない。 身体は、出来事の体験によって、存在の意 味をつかもうとする志向性をそなえている。 体験は、身体のこの働きによって見分ける、 いわば概念なき認識「行動的認識」(prakto-gnosie)43 を有している」と言う。この認識 は未だ言語作用によって固定化されず、未明 の意味関係を待つ流動性を有している。そこ から、体験とは、身体の運動性による世界へ の接近と意味の把握という「実践知」として もとらえられる。これは、存在との交換、す なわち出来事の体験から生まれてくる自然的 な知である。 3.問い(interrogation) 私の知覚の現前(自然的知覚)には、存在 の実際と本性が開かれている。それ故、知覚 は「<見えるもの>についての天賦の才をもっ た<世界の測定者>なのだ」44 と言われるよ うに、存在の本性はひとと存在との織りなし から現出してくる。この自然的知覚には「一 切の知識は知覚によって開かれた地平のなか に位置している。」45 というように、十全の知 が可能性として発芽している。 意識は抽象的なものではなく、存在にそく して生じてくるものであるが。やがて、「< 見るから><知る>へと移行して、そこに自 分自身の生命の統一を獲得する」46 方向へと むかう。知覚の中では<感性>と<知性>の 間の境界はない。意識は自然的知覚を吸い上 げて、存在の認識的把握へと推移する志向性 をも持つ。認識とは「形成されると同時に知 覚を逃れ去る意味を捉え直し、内面化し、真 に所有せんとする努力なのだ」47 とされる。 この<見る>から<知る>への連続的開明の メカニズムは知覚自体のなかにある。いま、 <見えるもの>と<見えないもの>を同時に 収斂させつつ、存在を開いていくまなざしの うちに「学びつつある意識」48 が萌えていく。 その萌芽は、存在の主流の意味を存在と私と が生成して、同時に他者との間主観として洗 練させ、成就させる。そして、意識から認識 へと胎内育成し、誕生させる。 客観という科学的認識に関しても、こうし た知覚(身体)と存在の協働という「経験の 深部そのもののなかに客観の起源を見いださ なければならず」、「客観的世界の生成におけ る決定的瞬間がある」49 ということを尊重し なければならない。この連続的な知への発展 の上に、さらに普遍化をめざす抽象的、構成 的知である概念、観念、理念が構築されてい くが、それもまた、まなざしを向けている存 在の自然の沃野から源出されてくるのである。 知覚は一方で現前の状況と世界から客観的
な知と普遍的な理念に向けて言語作用を始動 させようとするが、また現前の事象、事物、 生物、人、領野、地平、世界と共生しつづけ ようとする自然への憧憬を持続させる。何故 なら、存在も自然も世界もひとにとっては深 淵であり、無尽蔵であって、いかなる理念で も完全に包摂し得るものではないことを、ひ とは理解しているからである。そのため、ひ とは、現前そのものをそのままで受け入れよ うとしたり、さらには自然や世界の神秘へと ひたすら魅せられていたいと望んだりする。 これがひとにとっての 「生の存在」(l'E^tre vertical ou burut)であり、「野生の存在」(l'E^ tre vertical ou sauvage)50 である。それは、
自然的知覚に現前している始元的な自然世界 である。ここで、自然とは、自然物といった 物理的な、客体的なとらえ方ではなく、生命 を持つものは自らの生成を自身の力によって くりかえすその有機性を、また無機物を含め て存在間の関係性と生態性、およびそれらの 総合的な成り立ち、成り行きのことである。 さて、存在が私にとって「生まれいずる状態 で」立ち現れてくるとき、私はその出現を 「驚き」で迎えている。そのときの存在は、 ひとが生まれ育ってきた知識と文化の構造以 前の相をも含んで、全体がおののき、揺れな がら未決定のままで現前している。この未決 の存在の出現は、ちょうど喃語のように多様 な文化への母体として基礎づけられているも のである。あるいは、文化を生み出していく 源としての自然(physis)の相でもある。ひ ともまたこの自然に連なるものであり、存在 の自然性とこの大地において 「共自然性」 (connaturalite´)として共生しているのである。 ただ、ひとにおいては、この自然に独自の人 間的意味を付け加えたり、変換したりする。 ひとは、「生命∼自然∼文化」という成層を 生きるものでもある。ひとには、「自然が人 間と化することにほかならなぬところの、人 間が自然と化すること」51 の領野として開か れている世界に生きる「野生」が息吹いてい る。ひとは高度の文化に志向しつつも、同時 に根源としてのこの野生を憧憬し、そこに立 ち戻り、自身を開こうと希求する。ひとはこ の野生のまなざしを抱きつづけるからこそ、 存在とひととの、自然と文化との共存である 真の知の樹立を可能とすることができる。 しかし、安易な妥協に陥らないで、この両 義的なアプローチを統一して真実を開明する ことは困難であろう。ひとはすでに教育によっ て身につけた知識、文化をまとっている。ま た、科学的客観的認識に基づいて性質や因果 関係を求める能力を獲得している。言語によ る思考を論理化させ、概念や理念を形成する 能力を養っている。この知力によって自然を 理解しようとする。この方法は、いわば「見 ることによって知る」という存在の客観的対 象化、分節的意味づけ、性質の抽出操作、相 関的操作、思考の概念化によって本性を探求 するアプローチである。また、一方で「見る ことを知る」という学びがある。これは、見 ることを筋質化し、強化し、存在への深度を 鋭化していくことである。存在と絡み合うま なざしの粘着性を増加し、身体と存在との往 還運動をしなやかで、確たるものにしていく。 メルロ=ポンティは、まなざしにおいて、存 在が自ずから開いてくる自然の姿を切望した が、野生とはこの生な存在の開明を求め、存 在の曙光を訪ねていくことである。私がまな ざしている一本の樹木を知覚、認識するには、 その木の名前を知ったり、木についての知識 を手に入れるといった既成の性質、意味を得 るだけでは十分ではない。むしろ、乾燥した 知識で木を覆ってしまえば、木の生命は失わ れてしまう。現前のこの樹木と語らうには、 樹木の生命の輝きを身に浴びながら「あたか も植物的世界の創造第一日目のように、この 木の個別的観念をふたたび描き出し始めるの でなければならない」52 とされている。 メルロ=ポンティは、この原初への遡行を 「問い」としてとらえる。この問いとは、既 成の解答を得るためではなく、「問い自身の 驚きの確認」53 を行うことである。この驚き の強度は、「純然たる観察者が、いっそう深
いいかなる源泉から彼自身着想を汲みとって いるか」54 にかかっている。問いとは、空間 と時間の展望の運動によって、<見えるもの >だけでなく、いま・ここに<見えないもの >をも収斂させながら事物が開明してくるの を待つ姿勢である。そして、「あるがままの 世界に向かって降りてゆき、これに問いかけ がそこに浮かび上がらせる諸多の照合関係 (re´ferences) の森のなかに入って」55 ゆくと いう決意である。さらに、この森(野生)の なかに入りこむという「出来事」の意味を明 らかにしようとする踏み込みである。そして、 存在への問いに対して、ひとは自ら出来事の 経験を表現し、存在のなかに創造していくこ とが一つの答えとなる。 「いっさいの知覚、知覚を前提とするいっ さいの行為、つまり、人間が身体を使う行為 は みな、すでに、本 源的な表現なのであ る」56 。 言語、芸術、身体表現などは、この経験の 創造の一つである。言語については、一方で 芸術創造があり、もう一つに存在の概念化、 観念化、理念化の思考がある。言語の芸術的 創造では、存在の野生の世界に踏み入り、存 在そのものを開き、存在とひととの新たな結 花を表現する。同時に、言語による、思考、 概念化、観念化、理念化においても、存在の 生で、新鮮な具象性のその肌理の輝きを失せ させず、その母液を胎内化した表現、創造、 結晶であることが求められる。 「なぜなら、言語もまた、おのれのなかに、 事物そのものをーそれらをそれらの意味に変 えたあとでー住まわせる力をもった、一つの 世界のごとき何かになるからである」57 。 存在が実存している領野、地平、自然とい う大地を背景に、その光と、輝きが放射して くる理念。そのような理念であるならば、そ れが一つの強力な展望として存在の豊かさを 照らし出し、湧出させる知力となる。その普 遍性への知もやはり、まなざしが存在に滲透 していく問いから誕生してくるのである。 「問い」、それは「ひとつの身体を持ち、 また<まなざす>すべてを心得ているかぎで・・・・ の私」58 (・・・筆者)が「自然をまなざす」・・・・ 時間である。 引用文献 1,Maurice Merleau-Ponty「知覚の現象学2」竹 内芳郎、 木田元、 宮本忠雄訳、 みすず書房、 1974(1945)、p8 2,Maurice Merleau-Ponty「知覚の現象学1」竹 内芳郎、小木貞孝訳、みすず書房、1967(1945) 年、p325 3,同上、p83 4,同上、p17 5,Maurice Merleau-Ponty「知覚の現象学2」前 掲出、p21 6,Maurice Merleau-Ponty「知覚の現象学1」前 掲出、p131 7,同上、p131 8,Maurice Merleau-Ponty「知覚の現象学2」前 掲出、p92 9,同上、p254 10, Maurice Merleau-Ponty 「知覚 の現象学 1」 前 掲出、p129 11, Maurice Merleau-Ponty「知覚の現象学2」p157 12, Maurice Merleau-Ponty「眼と精神」滝浦静雄、 木田元訳、 みすず書房、 1964(1953,1964)年、 p258 13, Maurice Merleau-Ponty 「知覚 の現象学 2」 前 掲出、p55 14, Maurice Merleau-Ponty 「眼と 精神」 前掲出、 p263 15, Maurice Merleau-Ponty 「見え るもの と見 えざ るもの」中島盛夫監訳、法政大学出版局、1994 (1964)年、p217 16, 同上、p214 17, Maurice Merleau-Ponty 「眼と 精神」 前掲出、 p262 18, Maurice Merleau-Ponty 「知覚 の現象学 1」 前 掲出、p127 19, Maurice Merleau-Ponty 「見え るもの と見 えざ るもの」前掲出、p20 20, 同上、p259 21, Maurice Merleau-Ponty 「知覚 の現象学 1」 前 掲出、pp171 22, Maurice Merleau-Ponty 「眼と 精神」 前掲出、 p260 23, Maurice Merleau-Ponty 「知覚 の現象学 1」 前
掲出、p194 24, Maurice Merleau-Ponty 「見 える ものと 見えざ るもの」前掲出、p230 25, Maurice Merleau-Ponty 「 知覚の現 象学2」 前 掲出、p15 26, Maurice Merleau-Ponty 「見 える ものと 見えざ るもの」前掲出、p224 27, 同上、p352 28, Maurice Merleau-Ponty 「見 える ものと 見えざ るもの」前掲出、p223 29, 同上、p217 30, Ghyslain Charron「メルロ=ポンティとマルティ ネ」 菊川忠夫訳、世界書院、 1991(1972) 年、 p118
31, Alfred North Whitehead「 自然とい う概念」 藤 川吉美訳、松籟社、1982(1919)年、p3 32, 同上、p62 33, 同上、p188 34, 同上、p60 35, 同上、p67 36, Maurice Merleau-Ponty 「 知覚の現 象学2」 前 掲出、p307 37, 同上、p307 38, 同上、p307 39, Maurice Merleau-Ponty 「 知覚の現 象学1」 前 掲出、p23 40, Maurice Merleau-Ponty 「見 える ものと 見えざ るもの」前掲出、p256 41, 同上、p56 42, 同上、p14 43, Maurice Merleau-Ponty 「 知覚の現 象学1」 前 掲出、p237 44, Maurice Merleau-Ponty 「眼と精神」 前掲出 、 p262 45, Maurice Merleau-Ponty 「 知覚の現 象学2」 前 掲出、pp9-10 46, Maurice Merleau-Ponty 「 知覚の現 象学1」 前 掲出、p83 47, Maurice Merleau-Ponty 「 世界の散 文」 滝田静 雄、 木田元訳 みすず書房、 1979(1951)年、 p166 48, 加賀野井秀一 「メルロ=ポンティと言語」世 界書院、1988年、p117 49, Maurice Merleau-Ponty 「 知覚の現 象学1」 前 掲出、p133 50, Maurice Merleau-Ponty 「見 える ものと 見えざ るもの」前掲出、p333,p345他 51, 同上、p302 52, Maurice Merleau-Ponty 「知覚 の現象学 1」 前 掲出、p90 53, Maurice Merleau-Ponty 「見え るもの と見 えざ るもの」前掲出、p165 54, 同上、p178 55, 同上、p67 56, Maurice Merleau-Ponty 「シー ニュ1」 竹 内芳 郎監訳、みすず書房、1969(1960)年、p102 57, 同上、p64 58, Maurice Merleau-Ponty「知覚の現象学1」p56 参考文献 1, 広松渉「メルロ=ポンティ」岩波書店、1983年 2, 木田元「メルロ=ポンティの思想」岩波書店、 1989年 3, 実川敏夫「メルロ=ポンティの超越の根源相」 創文社、2000年 4, 森脇善明「メルロ=ポンテイ哲学研究ー知覚の 現象学から肉の存在論へ」晃洋書房、2000年 5, 長滝祥司「知覚と言葉ー現象学とエコロジカル・ リアリズムへの誘いー」ナカニシヤ出版、1999 年 6, 村上隆夫「メルロ=ポンティ」清水書院、1992 年
7, Paul Grimley Kuntz「ホワイトヘッド」 紀伊國 屋書店、1991年 8, 清水誠「近代<知>とメルローポンティ」世界 書院、1988年 9, Laurie Spurling「メルロ=ポンティの哲学と現 代社会、上・下」丸山敦子訳、お茶の水書房、 1981(1977)年 10,X.Tilliette「メルロ=ポンティあるいは人間の尺 度」木田元他訳、大修館書店、1973(1970)年 11, 鷲田清一 「メルロ=ポンティー可逆性ー」 講 談社、1997年