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裁判批判の論理と思想(三)

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Academic year: 2021

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(1)批. 判. 論 理. と. 思. における広津和郎の文芸批評の中. の. 島崎藤村論、㈱徳田秋声論である。. プロレタリア文学論. はじめに個別の作家論として㊥小林多喜二. ㊥中条百合. の作者. 登場した際にいだいた期待と共通したものであったと思われる。「蟹 には不満もあるが、<最も注目すべき作家の1 工船」や「不在地主」. 時まで変らぬ期待をいだいていた。これほ広津がプロレタリア文学が. きびしい批評を加えながらも<成長しっつある作家>としてその死の. 力>をもった作家であると評価している.そして以下に見るように手. は出色>であり、<一つの大きな視野>をもち<辛胞強い根気と忍耐. ④小林多喜二 昭和四年の 「今年の文壇」 で広津は<「蟹工船」「不在地主」. 子についての批評をとりあげ、次に全般的な論評をとりあげる。. ⑤徳永直. で注目すべきテ-マほ糾いわゆるプロレタリア文学に対する批評'似. 昭和前期(一九二六-1九四五). 裁 人>であるとし'<思想問題は別として'文学的だけに言っても勇敢. (≡). 下. 英. K)NOSH)TA,Hideo(Dept.of. 木. 夫. (哲倫教室). philosophy). 「作家的努力」「作家的用意」「作実的誠. の意をつ-している.<「創作」の道だとて決してアダや疎かに出来 る'タカを-くって過せるものではない。三年も四年も五年も六年も. <思いあがりの粗野>などなど。この角度からの批評は次の一文でそ. て迫っては来ない。唯、論文の中の「引例」程度にしか感じられない>. カを--っているから'それらの道具立てが1つも真実な存在をもっ. <何より一番作家として悪いのは、素材を表現するに当ってのタカ タクリである。鼻の先に妙な得意をぶら下げていることである>∧タ. の欠如にまとを当てて批評している。. 点に立ちながら、と-にその. ろその目的を全く実現できないものになってしまっている、という観. 「政治的価値あり得るや」 評ほきわめて厳しい。昭和五年の では、 「暴風雨警戒報」について'政治的価値を追求するはずの作品が'むし. そのような期待感をもっているだけに広津の小林多喜二に対する批. た>と述べているのはまさにそのあらわれである。. な誠実な冒険心>を持っており、<それらが自分に十分な興味を与え. By. 九年も'非合法のプ-ソトを刷っていた「同志」、それを出口まで運. I. 判 裁判批判の論理と思想(≡). 想 実」. 糾.

(2) 裁判批判の論理と思想(三). んで行った「同志」'黙々としてジ-な、人目につかぬところに異常. 恐らくこれは作 離れて'それ自体が「芸術」になり切っている。. に対する哀惜の情がにじみ出ている。<小林の死が人々に与えた感動. 作家」と述べているが'そこには広津の哀惜の情が'多喜二の「生」. 者が本気で生きて行った味だろう。∨とし、小林を「成長しっつある. 要なのである.>. によって、恐らく彼の死は犬死ではないだろう.彼がこの世に与えしつ. 殆んどそれに近い努力が必. て'それを措いている作家のとり-みの軽さ'浅さを問題にしている. に持続する努力を惜しまない「同志」. のである。もし'そのような「同志」を措くなら'書き手の方にもそ. 輝を発し、最も大きな効果を挙げたことは確だろう>この作者が死. つあったものが,彼の「死」によって'1つの大きな飛躍をなし、光. である。. んでしまったということは'余りにも理窟紅合わなすぎる>∧こうい. う一つの感動的な事件について考え込み始めると、暫く他のものを読. めなくて困る。!僕は外を散歩して来て'気を変 み始めた>. の批評、さらにほ広津自身の松川裁判批判活動などをみていく上で最. ので'すでにふれたトルストイ論、あるいは二葉亭四迷に対する広浄. 見解はおおむね以上のとうりであるが、そしてそれらは今日において も大変意義ある見解であるが'広津の多喜二論はこれにとどまなら. 徳永直に対する広津のまとまった批評ほ昭和十三年の「はたらく1. ⑥徳永. がらおのずから襟を正す気になった∨<「地区の人々」に現われている '「転換時代」の母の描写などはイディオpギ-を ロ-カル・カラ-. 作者の死位最近心を打たれた出来事はなかった∨<ペ-ジをめくりな. を<おのずから襟を正す小林多喜二の遺作>としてとりあげ'∧この. 明された広津の心境である。昭和八年の「文芸時評」で「転換時代」. い。最も重要なのは、多喜二の死(特高警察による虐殺)に際して表. らためて検討することになろう。. 方にあらわれた文学性を評価するのである.この点については後にあ. をその作家が書いた作品にあらわれた文学性以上に、その作家の生き. も重要だといえよう。つまり一言でいえば、広浄はある作家の文学性. せよ'だ」であろう>としめくくっている。昭和七年の「文芸時評」. と不満をのべている。 ヽ. さて小林多喜二評において'多喜二が書いたものについての広津の. ヽ. 匂い>と評し、∧これでは唯の小説作りに堕したという感じである>. でも「沼尻村」をとりあげ、<左翼的マンネリズム>、<平板単調な. これは、やっぱり「清算 この視点こそは広辞の文芸批評'さらには作家活動の根底にあるも はでやかな思い上り'作家的用意の軽視-. そして「左翼」の「清算主義」を逆手にとって<演説口調、英雄意識、. 活の全面堅且って、全面的な具体的なものを措かなければならない。>. すれば、論文では言い表わせないものを'もっと出て来る人物連の生. <若し政治的功利主義の手段として「創作」の形式を択んだのだと. つまり、とりあげている対象の重さ、深さに比し. 二. の描出に当ってそれに匹敵する努力がいるのではないか'ということ. ヽ. に,広津の徳永に対する期待をも表明しているとみられる。 <誇張がなく'ツケ焼刃がなく、1番身についた平易な文章><適. プ的なプロレタリア作家とはことなった千丁クさを指摘すると同. て徳永をとらえることであるoそしてそのなかに、他のステレオタイ. 家」の序文でみることができる。その中心は「庶民階級の作家」とし. 直.

(3) 確に事象を措いて行-技柄と訓練><全-イタについた庶民階級の作 家><庶民階級の生活感情をそのままに生活し体得している作家> <庶民階級の苦悶も苛立ちも不如意も忍耐も愚昧も意気地なさも臆病 もエゴイズムも真実も誠実も'外側からの理解ではなく'内側からの. 理解によって氏が熟知しているという事><英雄型でも指導者型でも ない><寧ろこれ等の階級の人々と同じ臆病をもって'それ等の階級 の置かれた境遇の苦しさを、誠実な、地味な、実感的な噴きで訴える 作家である>. 「文芸時評」では「私の『孝明. もちろん他の作家に対するのと同じよ-に、その作品によっては手 厳しい批評を与えている。昭和九年の. 「文芸時評」で. 期』」をとりあげ、<退屈><平板><センチメンタルすぎる><活辛 が立ってこない>などと酷評しているし、昭和七年の. は、徳永が藤森成吉「争ふ二つのもの」を覚めていることをとりあげI <進歩的に役立つ時の党派心はこうした傾向の文芸家のl団に取って. は欠-べからざる必要と思うが'こんな作まで賞めなければならない という事は進歩ではなくて、退歩だと思う>とこきおろしている。 さて、徳永に対する広津の批評のうちで注目すべきなのほ、oFt;い タリア作家として追求すべき「政治的・功利的使命」とプロレタリア. ヽ. 作家として従うべき「作家的情熱」とのからみあいについての指摘で ある.昭和五年「政治的価値あり得るや」において広津は、「失業都 市東京」をとりあげ'∧中年老の無力の方が具体的に措かれて>おり、 肝心の「党」の方は<説明が許されないのほわかっているが>と断り ながらも'その正体たるや<まるで幽霊のよう>で、これでは<功利. 的使命を果すべき管の作品が、それを果さないのみか'寧ろその使命 を裏切ることに役立っている>とのべている。ここで大切なことは広 裁判批判の論理と思想(≡). ヽ. ヽ. ヽ. ともきらっていたが). に入れてよいのかどうか'諸論があるだろう。. 百合子をプロレタリア作家の範噂(広浄はこの範噂なるものをもっ. ㊥中条(官本)百合子. ではないだろう.. られない事ではない>というのである。これはたんに作家だけの問題. によって益々その作品を骨抜きにされる作家/という存在ほ想像し得. 「敵」と「味方」との検周. この点に関してさらに重要なのは「二重の検閲」という問題に広津. のリアリズム>の基点をみている。(「政治的価値あり得るや」). をえなかった、と広津ほのべている。しかもここに∧後年の徳永文学. としての情熱や眼が作の中に素直にのびていったため>そうならぎる. 越えて創作慾が走って行-事があり得るものである><徳永氏の作家. い冷厳さを帯びて来るものである。それがために政治的使命の限度を. ず、見るべきものは都合がよ-ても悪-てもはっきり見ずにいられな. ものである。又、作家の限は都合の好い悪いによって曇らす事が出来. のであり'作家的熱情が最初の意図の埼外まで越えて行くことがある. る。<併し、時に作家ほ不思議な作家的興奮に入って行く事があるも. てそれほどういう意味をもつのか、という点に言及していることであ. 永がその政治的意図を裏切るようなものを書いてしまったのか、そし. るところからもうかがえる。)しかし、より大切なのほ、広津がなぜ徳. ぅ疑問を提出し'同時に<作り話なら一遍に興ざめ>であるとしてい. な新芽を知らせてほならないものに知らせることにならないか>とい. だものから」のなかで「最低の組織」という作品にふれて<このよう. 津の政治性のたしかさである。(この点はのち昭和十年に書いた「蔵ん. がふれている事である.∧二重の検閲-. また入れるとしても、どの時期から入れるか。この際ほまったく便宜. ≡. ヽ ヽ. ヽ ヽ.

(4) 裁判批判の論理と思想(≡). 的にここでとりあげる. 百合子については時間を追って見ていこう。広津が百合子をはじめ. てとりあげたのは大正六年「女流作家について」で、「日ほ輝けり」I 「祢宜様宮田」にふれ、「貧しき人々の群れ」は未読とことわった上で 次のようにのべている。<未だ氏がどういうものをもっている作家で あるかと言う事がよくは解らない.二十にむ達しない少女の作として 考えると、よくこれまで纏めるものだと思って'その才分にかなり驚 嘆する。そしてその底に何処かこせつかない品位のあるものも認めら れるoけれどもあれだけでは物足りない><併し、早晩1つの転磯が 来るだろうと思う。その時、氏が氏の独自の限を以って此の人生を見 るに至ったならば'はんとの物が生れて来るだろうと思う。そしてそ の時'氏の持っている才分と力とが役立ってくるだろうと思う∨<た. だ此処で1寸不安な感じを与えるのは'氏が今のようにああした創作 に組立てる事ばかりに努めていたならば、年若くして人生を見る眠が. 人生を見ないで'小説を括-ためにのみ見るようになったら、かなり. 早くも1つの型に極ってしまいはすまいかという事だ.托んとの心で. 悲惨な状態と云わなければならない。--若しそんな事があったなら ば大変惜しいと思う∨. 次にまとめてのべているのは、大正十三年「五月の創作を読む」で 「伊大利亜の舌陶」をとりあげた際であるo∧「小説を作る努力」に は敬意を払う∨<だが、これだけの材料を書くのに、この作者はどう してこんなに大きなカンヴァスを使わなければならないのだろう?>. <自分は決して「製作」に反対するものではないoけれどもこうした センチメソトの乏しい「製作」よりも、此作者に自分は寧ろ作者の直 接印象を示すようなスケッチを見せて貰いたいと思う.「頚と忍耐の. ああした凡俗振りを措いたところd・-・・作者の客観性がもっとあれ. 質ばかりでなく、その人柄まで適確にとらえているところがいかにも. 百合子の代表作といわれるものについての批評は残念ながら見あた らないが,これらの批評をとおして百合子の文学者としての資質や特. ともこれが左翼文学の行くべき遥かどうかは解らない∨と述べてい. ペ-ソスがあって'読者の心に掬すべき1つの感じを残すo. 一つのエビソ-ドを、力まない、簡素な筆で措いている。たくまない. -もっ. こえてきそうだと述べ'さらに離婿問題紅ふれ∧-・・・あの男主人公の. ろいのは、このような作者の姿勢のかげから<弱い男性の悲鳴が∨き. をも許さない∨∧真剣そのもの∨であると評している.そしておもし. いる。そこに少しのゴマカシもゆるさなければ'1寸した気分の妥協. あると評価し,<此処でほ生活そのものに真正面から取組んで行って. 大正十五年には"「自寮」その他″で、「自霧」は立派な出来栄えで. 野心のために、赤裸の心を作に見せないためではないかと思う>. があるが,自分は未だそうまでは思いたくない。寧ろいわゆる「製作」. <此作者の肌ざわりの冷たさを、此作者の心情の欠如に帰した批評家. う。そしてもっと芸術の温かみを帯びて来るのではないかと患う>. ら、この作者の稀に見る忍耐力も'大作を措く手腕も'構想力も'も っと生々とした生命を見せるために役立ってくるのではないかと思. 受ける直接印象を見せて葺いたいと思う><若しそうした直接印象の スケッチからやり・直して、それから徐ろに「製作」にかかって貰った. 製作」でない、もっと天真らんまんな、よそ行きでない、血人生から. 四. る。昭和九年の「文芸時評」では「鏡餅」をとりあげ、∧左翼陣営の. ば、この作はもっと好くなったのだろうと思う>としめくくってい. る。.

(5) 広津の批評らしいところである。広津は一九六八年(昭四一二年) くなっているが、その年の九月十一日百合子の著書の推薦文を書き上 げて熱海の自宅へ帰ったが、その翌日十二日夜半心臓発作でたおれ、 十六日入院、二十1日未明にこの世をさっているo百合子の著書への. 推薦文が最後の仕事になつたわけであり約半世紀にわたって広津は百 合子の作家活動を見守ってきたということもできると思う。. ③「プロレタリア文学」全般について 「今年の文壇」ではまずその表現の仕方についてつぎの. 昭和四年の ようにのべている.. <今年のプロレタリアの芸術論的進出は我々にも面白-、又、我々が 教えられる処があったが、併し、しまいには1種の煩墳哲学だった.. 恐ろしく持ってまわった、煩墳な云い方で'最も平易な事を云い表そ うと努めていたわけだ>∧我々でも頭をひねらなければ解らないああ. いう煩墳な物の云い方が、大衆に通じるのだろうか>さらに∧叉考え 方によると最も苦闘をつづけている筈のプロレタリア運動中の1つの ものでありながら、ブル雑誌の中に特等席を設けられて、生活費を保 証されつつ、芸術論の進出を誇っている形は、何処となく淋しい形だ った>とかれらの生きる姿勢にもふれている。この点については、昭 のなかでも'∧ブルジョアジャ-チ 和五年「政治的価値あり得るや」 リズムから生活を保障されながら、文芸方面を受持っていたという事. は、彼等が特等席にいるという事の証拠ではなかったか>とのべてい 昭和六年の「文芸時評」では時代の厳しさとのからみのなかで、 <自分ほ前にも1度それについて書いた事があるが'こんな風な時. は'反ブルジョア約作物は政府の手で一種の改作さえ行われ得る。'伏字にされる事を計算に入れて'なるたけ伏字にされないで'効. 「文芸時評」で<今後の芸術派とプロレ. 間の本然の姿に向っての内省が出て来るなら、プロレタリア文学の有. ない.>さらに同九年『文芸時評』では、<・・・-窮地に陥って始めて人. 僕はその点では十年前の予想をいまだ変え. して文学の正道を目指して行くように'或少数のプロレタリア作家が. に打立てようとする人が、近-ほんとうに出て来るだろうと思う.そ. なって来たから、文学としてのプロレタリア文学を本気に考え、本気. 殺して行ったので'現在ではそうでないような形に見えるが、併しプ ロレタリア文学がそろそろ文学的反省に達しなければならない時期に. リア文学のイデオpギ-押しっけの偏狭さから、それ自身、文学を押. <プロレタリア文学が文学を守り立てて行くという事は'プロレタ. 「文学の本道を行-」). が、それから広津はたびたびプロレタ-ア文学への期待を表明してい る。しかし昭和期に入り社会状況の悪化を含めてその期待ははぼ裏切 られたと判断される時期に広津は次のように書いている (昭和七年. 後の日本の社会状態の展開如何が深く関係するだろう>とのべていた. 的勝敗によって片づけられる種類のものではない。両者の消長には今. づかなければならない論争であると思うし'それの勝敗は、単に理論. タ-ア派との論争に興味>があるとのべ∧これは今後相当に長い間つ. ところで広津は大正七年の. ほよ-わかるが、<しかしどれも同じようでは読者の興味をつなげな くなるだろう>と率直な感想をのべている。. さらに'∧プロレタリア階級が「活字にされた自己の姿を見る」喜び∨. 果があるという夙に書いて行けないものだろうか>と忠言しているo. -.. 道を拓くだろうと思う. ー. にな. 代、つまり今のブルジョア政府が検閲の絶対権力を握っている時代に 裁判批判の論理と思想(≡). 五. る。.

(6) 裁判批判の論理と思想(≡). の出版祝賀会での藤村の挨拶によはど感動した 広津は『夜明け前』 とみえ'その感動についてたびたびふれているが、「覚え書」でも、. いる。. 調子でジャ-ナリズムの寵児になれたという事が'そもそも1時的の. それは「一個の驚異」であるとのべたうえでつぎのように書いている0. らゆる意味での最近の顔勢は、同文学が受けている試燥としては無意. 現象だったので、もっと苦しい試煤にぷつかりながら地味に、歴史の. <併し藤村の態度に感動し始めたら'それはどこまで行ってもキリが. 味ではないのではないかと思う><勝利を確信しての左翼文学が上っ. 正しい指針を示す事は、左翼作家の今後の役目なのではないかと思. 錦の旗印のような、倫理的に抵抗すべからぎるものをもって追いつめ. あるものではないという事を私は感じ始めた。それは振りかざされた. の時期(昭和九年'1九三四年). て来るから、それだからやりきれないのである。理詰め過ぎる倫理的. ある。すでに大正七年の. 「文芸時評」で<プロレタ-ア-トの政治的. 立場に立った作品でも、人間が具体的に措けているものと措けていな. のちがいはいかんともしがたく'そのモラルの奥深いところで蘇. 村に鏡-反発するのである.しかし広津はただ反発するだけではな. い。藤村とその文学の性格を、その「強敵さ」、「調子」、「リアリスト. ヽ. いものとでほ、作が持つ力が違う。従って客観的真理を芸術の上に反. とモラリストとの確執」などに焦点をあわせて解明してい-。まず全. 般的に、<どこまでが先天的でどこまでが後天的か'どこまでが生れ. つきでどこまでが意識的修練か、いずれにしても1つの動かし難い態 ヽ. 映する力が違う>と述べた広津は昭和一〇年にも「読んだものから」. 「体. にいわゆる左翼に対してこのような. 距離感ではっきりものを言ったということはいろいろな意味で注目に. 態度だからやりきれないのである>. モラルの追求という点ではけっして人後におちない広津であるが、. 値するであろう0 さて、広津が一貫してプロレタリア文学に対して注文しっづけてい. う>と述べ'プロレタリア文学への注文と励ましを表明している。こ. 六. そしてそれゆえ藤村の倫理性に深く共鳴するのであるが、両者の たのは、「一人くの人間を具体的に生きた姿で措く」ということで 質」. 度が出来上ったものである>∧そして最も強く私の心に釆たのは、こ ヽ. 忍耐とを積み重ねて行って出来上ったこのガッチリとしたリアリズム. 『家』と. 代表的傑作の一つ∨であり、<刻々のゆるがせにしない撤密な努力と. 『家』を広津ほ∧藤村の最大傑作>であり、<日本自然主義時代の. 『新生』をめぐって論を展開してい-0. かもしれない>と性格づけ、つづいて個々の作品、と-に. 大正・昭和を通じて、この作者位強敵な作者は他にはそう類例はない. の作者の寧ろふてぶてしいとさえ云いたい位の強靭さである。明治・. ヽ. の中で、<プロレタリア文学は個人の上にも冷静な限を向けて、その. 人間としての相を、理想化しない・で措-事が出来る時代が来た>と書 き<型にはまった真実と正直と熱情とを備えた人間ばかり>でな-I <嫉妬、競争'利己主義、卑屈、偏し合い'貯計もある>のが人間の 姿で'それを措かなければ、としている。そして、そのように出来て. 「藤村覚え書」 にまとめてのべられて. はじめてプロレタリア文学の目指す「政治的価値」も出て-るという のが広津の立場であった。. 島崎藤村論. 広津の藤村諭は昭和十八年の. 竹.

(7) 村の作品の中での位置をつぎのようにのべている。<同じ1族から出. 藤村のそうした調子は'寧ろ藤村の表現技巧の豊富さを示すものでは. じ趣旨の指摘である。「藤村覚え書」ではさらに筆をすすめ、<併し. 思う者がある所以でもあるのであろう>とのべているが、ともに同. た主人公三書が、一族が持つ欠点からどうして用心深く己れを守って. なく、その貧弱さを示すものというべきであろう>と言い切ってい. ほ、日本文学にはめずらしい重量感を興える>と評価する。そして藤. 行き、どうして彼自身の道を地味に、執念深-、強敵に切り拓いて行. の「新生」にはそのリアリストの限はどこに行ってしまったのだろ. る。『新生』後篇については前篇はど退屈でほないとしながら、<こ. 理して行くか'その意思と抑制の裏側に'どんなにむんむんと暗い慾. ら.もっとも岸本の陥った陥穿は恐ろしいものでほある><殊にモラ. ったか、同じ愛慾に対する脆さという欠点を'どういうようにして処. 情が滞っているか。--「桜の実の熟する時」、「春」に始まった新鮮. リストとしてのlつの態度を構えていた主人公であるだけ. いって「新生」を読んで私ほ暫-暗い気持になった。藤村のいう新生. 算の恐ろしさの前に顛えたのも無理はない>上のべ、さらに<正直に. ストとしての手形をふり出しているだけに、それだけその不渡りの清. モラリ. な人生肯定の探求精神が、とうとう新生の陥穿に至るその中問経路に 於ける主人公の中年的心理'生理、環境等を理解する上で'この作は 最も役立っている。>その上で藤村をつぎのように性格づける。∧そ. 食べ、それを栄養として作者ばかりガッシリと肥えて行くような気が する。端然として姿勢を崩さずに坐っている藤村の口に'よく見ると 見や妻や姪の食いかけられた片手や片足がぶら下っているような無気 味さを覚える。>この最後の一文、なんともみご.とな表現としかいい ようがない。 『新生』前篇について<--藤村にほ調子を殺した散文ほ結局書け. いる。. 藤村の「強敵さ」と「調子」と「リアリストときフリストの確執」. について広津がどうとらえていたか以上からかなり明らかであるが'. っぎの若干の文章はそれらの関連を知るうえで重要であろう。. <1どうしても生きてやろう'と思うところに. の「調子」の問題についてほ'同昭和十八年の「藤村と潤一郎」のな. きたいと思うその執念深さを私は十分興味を以て眺める事が出来る。. の強敵さとふてぶてしさとを見るべきである><その何としてでも生. 「詞子」の問題をとりあげている。こ. かで、「東方の門」について<今度だけでほ私にほ別段何の意見もな. つまりそこが藤村氏の「調子」を渇仰する老と飽足りなく 裁判批判の論理と思想(≡). 年時代に養われたキリスト教的理想主義の甘さを'その甘さを知りな. <あのひとりよがりの理想主義は一体何であ. それがつまりは藤村の全作の底にひそんでいるあの強靭さを生んでい. ヽ. い。唯表現に不思議な若さがところどころ目立つ。それが藤村の魅力. ヽ. るわけだからである>. ヽ. となっていることには違いないが'併しそれが又響き過ぎる絃のよう. ヽ. ないのではないか-->とのべ. れが信じられないから陪-なるのである。「家」も暗い小説であるが, その暗さほこれとは違う>とその「略さ」を「家」の場合と対比して. たい位の追及の限付-何か没落して行-人物達を片っ端から作者が が信じられれば陪-ならないで寧ろ明る-なるのかも知れないが'そ. してこれ等の底にひそんでいる、作者の冷厳というよりも冷酷と云い. -. 七. にこの件老の渋さに沈潜することをいまだに妨げているようにも思わ. れる。-.

(8) 誌のお台所のことはそちらにお願いしますが、編集のことほ、1切私. 喉のかすれたような渋い声でいきなりいった>また「文芸懇話会」と いう雑誌が出来ることになった時、こんどは藤村が<「松本さん、雑. 裁判批判の論理と思想(≡). トが頭から引っかぶっているという居直りの虚勢ではないか><あの. 共におまかせ下さい」と丁寧な態度ではっきりいった>とあり、さら. がら'それに限をつぶって'ふてぶてしい四十歳の自然主義リアリス. 理想主義を強詞するために'言葉が調子を帯び'響きを帯びて来れば. に広津はつぎのようd111日菓をたしている。<文芸懇話会を思い出す. と,この二長老の二つの壁11日が思い出されて来る。この明治以来の自. た直観的な発言だとすれば、島崎さんのは、一週間ぐらいじっくり考. こむことを忘れない。そして徳田さんの発言が'相手の言葉に即応し. にむすんでいる。<藤村を全部読むという事は正直にいって相当苦痛. えた末の、用意周到の発言であろう.そこに両作家らしいそれぞれの. 然主義の二大家は、かんじんかなめの急所に来ると、適切に釘を打ち. である。併しそれにも拘らず'不思議な魅力がある。それは読めば読. 徳田秋声論. 文芸に対する深い尊敬が基底にあったことは言うまでもないo. 勢を示すものでもあったと見たい。もちろん広津の「政治性」はけっ して「政治主義」に堕するものではない。島崎藤村と徳田秋声両者の. た形で発表したことはたんなる偶然ではな-、時局に対する広津の姿. 後の昭和十八年、十九年という時期に広津がこの二人の批評をまとめ. らしいやり方でたびたび松本局長とやりあったらしい。私はその十年. 特色があるが、急所を見のがさない点でほ一致している∨広津も広津. なぜ広津が藤村論をまとめたのか'そして次にみるように翌十九年に 徳田秋声論をまとめたのか'これにはいろいろな事情もあるだろう。 しかし私にとって見のがせないのは、昭和九年の「文芸懇話会」席上 にとりあげている点である。. での徳田秋声と島崎藤村の発言を広津が『統年月のあしおと』(十五 ・十六). 「文芸懇話会」は当局がはじめ文芸統御の意図をもって文芸院とし て企画した会合であったがその第l回目に'松本警保局長の挨拶に対. われわれとしては、このままほって置いて貰いたいと思いますね」と. ても,われわれには一寸信用できませんねoそれに今の多事多端で忙 しい政府として、文学など保護する畷があろうとは思われませんよ。. 受けずに育って来ましたので'今更政府から保護されるなんていわれ. る。<「日本の文学は庶民の聞から生まれ'今まで政府の保護などを. る∨∧ほんとの大人であり通人である>∧けれども「結局これで何う. べているQ<相変らずの秋声式のジ-な技巧で、七つかり書いてい. 大正五年「十1月文壇」では「骨撃をとりあげ'つぎのようにの. 三十年問の秋声論を概観してみようと思う。. いだろうかoここでは昭和十九年の「徳田秋声諭」にいたるまでの約. して徳田秋声が<間髪を入れず>次のように三口したというのであ広津の文芸批評の中で最も充実しているのはこの徳田秋声諭ではな. 糊. が感ぜられて来るからである>それにしても昭和十八年という時期に. むほど,この作家がなかなか一筋縄では行かない作家であるという事. しさ」と「調子」を鋭く指摘しているのであるがそれで藤村を片付け. ここにみられるように広津は「居直りの虚勢」からくる「ふてぶて. 来るほど、益々読者は作者の説-処とは反対の方へ心を追いやられ. 八. ようなどとは全く考えていない。広津は「藤村覚え書」をつぎのよう. る>.

(9) する?」という疑問が、どうしても我々の心に起らずにはいない。人. 明さ>、<説明と描写の合致>'<厳正な客観的技巧の底に作者の生. い態度と'1種独特な簡潔な技巧とに於いて、氏は日本の自然主義が. 人間の味の尽きずにしみ出て-る日本特有の芸術>'<日本人が如何. る.<何の奇もない'平凡な、けれども噛みしめれば噛みしめる程、. に凍った人種であるかという事の証拠>としつつ、同時に<ただし1. っ1つの作品としてみると或不用意がある>と注文も忘れていないo. げ、<或場合にはその一篇を独立した作品と見る時'面白くなくと. 大正十五年の「読んだまま」でほ「過ぎゆ-日」'「折鞄」をとりあ. 的」>とはめ、∧人間愛慾の変化極りなき姿>を措ききっており、愛. も、円周全体の位置としては非常に重要な弧である場合がある>とし. も感銘深い作品であると評価している。しかし昭和二年の「陽春月. てこれらの作品群を注目している。「折鞄」については独立して見て. と思われる。まず「未解決のままに」は<評判がすこぶる良いが'自. 評」では、「春来る」について<この作者の過去の作物に光っていた. 「人間を見る限」が一体何処に消えて行ってしまったのか><この材. 料に作者が創作的感興を失ってしまったからではないか。モデルを庇 ぅ心持が多過ぎる><モデルを恐れすぎている>と手厳しい。. 広津の秋声論はこのあたりから本格的になって-る。十年前の「花が. やや間があって、昭和八年「秋声の『死に親しむ』」が善かれるがI. だへんに陰欝にした><ところがこの一、二年の氏の作物には'何か. 咲く」、「風呂桶」あたりから味が出て釆た、スウィイトネスが感じら. して以上のような取留めない事を書きながら、最初に述べたような高. れるようになってきた、としたうえでつぎのようにのべている。<そ. の長い間の曇天の陰気な雲を'とうとう突き破って日が射してたよう. 度の芸術殊に溢れているのである>∧絶てはあるがままであり、普通 裁判批判の論理と思想(≡). 九. なところがある>として、「花が咲-」、「風呂桶」その他を挙げ、<透. く'氏の身辺から材料をとった短編を特に指していうのだが、今まで. ッキ抜けて釆たようなところがある。それも客観的材料のものではな. じした感じが、いつまで経っても曇天つづきのようで'自分の心をた. る.従来の作品は<そのひた押しに押しっけてしまった主観のうじう. と書いている。その理由として徳田氏の作の大きな変化を挙げてい. べ、ついで<しかし最近徳田氏のものを愛読するようになってきた>. 分はそれはどとはおもわない><「花が咲-」の方が余程よい>との. 「先輩諸氏の精進」は広津の秋声論にとって大きな位置を占めるもの. 慾を措く点では近松、葛西と並ぶとのべている。大正十四年に書いた. 「花が咲-」をとりあげ'<文句なしにうまい∨<紛う方なき「東洋. 大正十三年「五月の創作を読む」で久々に秋声に言及した広津は. 界に固定し過ぎた>と評している。. 生んだ最も真面目な作家であった。が'その限は余りに1つの狭い世. 大正十四年「作品読んだまま」では「撃、「幼児」をとりあげてい. である.. 批評において最も重要視する諸点をそなえていると極めて高く評価す るのである。このような評価が'広津の秋声論の中心をなす視点なの. き生きした主観の脈打ち>'<スウィ-トネス>といった広津が文芸. ヽ. 人間の生活を今後どう見るかとい. ヽ. 間の生活がこれでは仕方がないという腹立たしさが。そして此の謙遜 な真面目な作家を、此の意味で. -. ぅ意味で 「未来の」人々の問に数え得られない事が'秋声氏に対 して涙ぐむような悲痛な感じを私に抱かせる>また同年「"大家〟と "新進作家″の傾向の際立った創作壇」で<氏の浮薄な処の少しもな. -.

(10) 表老になってしまっていたとのべ、そのようすを<ところがその目立. 裁判批判の論理と思想(≡). たない間に秋声はこつこつと秋声の歩調で歩み続け、自然主義の主張. その道徳の彼岸の境地は、<はんとうの意味で放たれた霊の自由境> という<善悪の彼岸>に達している、という.その境地に入っていっ. 越え、六十を前にして秋声の作物に次第に明るみが射して来ている。> というのである。その主観の復活は∧主客融合の独得な味>を生み、. 事な転磯>をむかえ'「主観の復活」を果したからである。<五十を. を広津が高く評価するのは、その自然主義大成後に<一つの立派な見. 「奔流」等の傑作を書きあげたのである>と書いている.しかも秋声. 者たちよりももっと深入りした、あの「徴」、「足迩」、「あらくれ」'. に生きているままの姿である。それでいて、その淡々とした作全体の 静かにひたひたと触れ込んで行-のである>この境地は<無道徳(不 の美>の境地であり∧古今東西のいろいろの作. 真理の道に'わが秋声氏はもっと静かに這入ってしまっている。. 求をした末に'やっと這入って行けるか行けないか解らないような道. 州の近代作家があらゆる道で、あらゆる天才的苦悶をし、あらゆる探. <だが、そんな思想の栓桔は、あらゆる意味で徳田秋声にはない。欧. る。トルストイやストリソドベリとも比較しうるかもしれないが、. 家の芸術境を比較しても唯一のものである余程の高さのもの∨であ. 道徳とは全然違った). 上ににじんでいる芸術味ほ気品に充ち豊かさに充ち、人の心の奥深く. 10. 生のままの'力だけの歩み方で'のこのことうす明りの射した至境に. はそれまでの秋声論をまとめながら翌十九年に発表される「徳田秋声. 昭和十八年'広津は「秋声文学小論」を東京新聞に連載した.これ. さ」とその「正直さ」から来る「感受性」>がしからしむるところでは. まず「縮図」の中止という事態に対して<それはキリリとしたもの. 論」の準備的作品でもある。. のふの心持∼文学のもののふの心持を味わせ. 二月の大東亜戦争が勃発し'例の真珠湾の捷報にわれわれの胸の躍っ. 昭和十六年「秋声と白鳥」では広津は秋声が硯友社畑から出発し、. 深-感じた∨これはいったいどう読めばよいのだろうか。時局に乗っ. 新事態のニュ-スを求めて街に出て来られたのかと思うと、私は興味. ていた時であった。--徳田父子--冷徹正宗氏の如きもやはりこの. ついで自然主義の同伴者的存在であったものが、いつのまにかその代. 思議な消化力>を指摘する。そして∧東洋人特有の色合'しかし芭蕉 でも大雅でもない。あくまで散文、あくまで都会的>と評している。. 受性をもつ秋声はのこのこついて行った>とのべる。そしてその<不. るところまでは書いた、それで満足だと云ったような∨秋声の態度を の自然主義の闘将的奮闘>'<島崎藤村の長者風陣ぞなえ>、<正宗白 評している。ここで見落せないのはつ・ぎの一節である。<徳田さんに 鳥のニヒリズムの突撃>などとみごとに特徴づけ、<消極甲受身の感 お会いしたのは、その時が最後であったが、それより前'1昨年の十. <小乗風菓1華かな転向>'<短距離選手独歩の活躍>、∧田山花袋. 広津は秋声は一度も<旗印>を樹てたことがないと言う。広浄は. ないだろうか.. い世界に徳田秋声は這入ってしまっている>これは∧異常な「正直. 這入って来た> いぞという意気込さえ示さない程'捉われない世界-無道徳の美し. ら凡人のままの'何ものにも捉われない'いや、何ものにも捉われな. 凡人のま呈追入ってしまっている><--このあるがままの'凡人なた秋声の姿を広津は次のように表現しているo∧凡そ見てくれのない. -.

(11) このように概観をして広津ほ<五十年の創作生活に於いて晩年にな. がっている。. 現をうみだしている。そしてそれらが未完成の傑作「縮図」へとつな. 1如の好短篇があり'説明と描写との区別がとりはらわれた独特の表. で行く秋声の真正直な姿がよ-現れている.そして技巧も冴えた主客. 戒や防備なしに裸のままで人生の渦巻の中でも陥穿の中でも飛び込ん. た発言が全-といって無い、この点で亨」とに稀な広津にしてもかく いえる.その集大成が「仮装人物」であるoこの作品には、武装や警 あった、ということなのか'それともカムフラ-ジュなのだろうか. これは慎重に検討してみなければならないo. っぎに広津は徳田秋声の年譜と島崎藤村の年譜を比較して次のよう にのべている。<過去の作物が1つの特権にならなかった徳田さんほ. 又とぽとぽと始終平作者の道を踏んで来なければならなかったが、自 然主義から後の日本文壇のいろいろの流行変化の間を、いつも若い作 家達の間に伍して、休息する暇もな-、徳田さんは歩き続けたのであ. であったか∨と自問する。そして自ら答える。<ある場合にはそれは. って好い>とのべ'<五十年'徳田さんを成長させつづけたものは何. ればなる樫冴えて釆た作家というものほ、世界にもその例が抄いと云. てしまっているのに、徳田さんはどの時代が釆ても'いつでもその時. 意志や努力の放球であるような風貌さえ見せるQそして勉強家が勉強. る>∧徳田さんの彼の幾時代かの人達がいくつかの転換期の度に遅れ 代の先頭と並んでいる。これほ驚-べき事である>そしてその古くな. からも'いつかじわりじわりと物を学んでいっているのである。>そ. から物を学んでい-ように、徳田さんは怠惰や無努力や自己放棄の中. そして自分の道をとぼとぼ歩いて来る以外に、徳田さんは新工夫など. れは藤村とは大変ちがう姿であるo秋声を成長させつづけたもの、そ. らないのほ∧徳田さんは自分の道をとぼとぼ歩いて釆たまでである。. 案出するような器用さはない。その自分の納得する道をとぼとぼ歩い. のような体得作用である。<それは意見や理解が先走りするような事. れを広津ほ秋声独得の「淀動的な体得作用」と名づける。それはつぎ. 明している。ここで広津ほすでにみた「秋声と白鳥」でもふれていた. なく、じわりじわりと人生を体得して行った地味な足迩である.それ. て来たという事が、つまり徳田さんを常に古くしないのである>と説. 秋声の転換期をふたたび'みたびとりあげおおよそつぎのようにまと. は限ばかりで物を解釈して行ったようなものでな-,皮膚からも感じ. て行った作用であったとさえ云える気がする。それだから,概念や観. ず、或は意思、努力の放球されている場合にさえも,絶えず続けられ. ぅした体得は生きて行-間'徳田さんの意思、努力の如何にかかわら. からにじませているような'そういう体得の仕方である><そしてそ. として、あたり芋見に表現して行きながら'そのものの深さをおのず. 込んで行ったような体得である><誇張もな-、物事をそのままの姿. めている。重複するが大事な点なので記しておく。. 「足迩」、「徴」、「あらくれ」などの時代に自然主義の傑作を完成し た。それらは客観が主観に圧倒された抜きさしならぬ息詰るようなも のであって、当時の「救いのない人生」という評語がぴたりあてはま. るものであった。しかし大正の末年'「花が咲-」「風呂桶」あたりか ら秋声の作物に主観の窓展-と云いたいような沃明りが射し始めた. 主観がほのぼのと復活したoこれは1つの「生活期」ともよぶべき時. 念や意見やによって、自己を凝固させる事な-、生きていれば生きて. 1. 期をむかえたわけで五〇代になって青年のような「生活期」が釆たと 裁判批判の論理と思想(≡). 1.

(12) 裁判批判の論理と思想(≡). ヽ. 1二. 秋声の「流動的体得作用」と名づけたものを、ここでは「彼独. ていきたい。. けながら。ただし同じ内容でも表現のちがっている部分は落さずに見. が七つに分かれているので順を追ってみていこう。なるべく重複を避. さていよいよ「徳田秋声論」(昭和十九年)をとりあげよう。全体. えると思う>. 古くならなかったのは'徳田さんのその波動的な体得作用によって云. 味読し、それを表現して行った。どんな人物にも作者がその人物と同 じ高さに立って、或はその人物について行って、その人物の見、感じ. なかった。そして人間の卑小さをも軽蔑せず'作家として作中の人物 と同じ高さに立って、既成の観念から離れて、その人物の喜怒哀楽を. 徹尾庶民階級の友であり、又その仲間でさえある事を示している∨と のべている。しかも<彼は取扱う人物を高所から見下すような事をし. 特色をなし、英雄もいなければ天才もいない。それはこの作者が徹頭. する,その辺にざらに見かける凡庸人の生活の種々相である事がその. 集まったり散ったり,苧」んだり悲しんだり、楽しんだり苦しんだり いる間,絶えず徳田さんは流動して行けたのである。-徳田さんが ヽ. 謂庶民階級の日常生活と愛慾の世界であり'その合ったり離れたり、. で,日本ばかりでなく世界の自然主義の中で秋声は最も徹底した自然. 主義者であったと云って美事毒いであろうと思う>とのべ. 民性と自然主義者としての徹底ぶりとの関連をあきらかにしているo. そしてその関連の錘をなすのは埜戸の人間観である。広津は<「芸. と令嬢との間に本質的な区別は感じない」という意味のことを云って. いるが,これは秋声の人間に対する態度をよく語っている>とのべて. いるo第三は、第二の論点と関連するが'秋声のリアリズムのあり方. についてである。この点についてはあとでもふれるが、ここではつぎ. のような表現だけとりあげておこう.<そこには作者の特に語る思想. もないし,イデ-オロギイもない。どうにもならない凡庸な姿を、驚 くばかり地味な,誇張のない筆致で、如実に措いているだけである.. 彼はそれらの男女の姿を彼が見る現実の姿として、私心や解釈を挿ま. ずにじっと凝視しているのである><‥-あるがままに凝視して、. 下したがらないのである。>第四に広津が指摘しているのは批評家た. 「否定」とか「肯定」とか、そうした観念的判断を無暗にせっかちに した埜戸の庶民性について'<これ等の長篇に取扱われたものは'所. けば足りる道であった>としている。第二に平(ひら)作家として終始. 個の自己革命であったが'秋声に取ってはそれは生地をむき出して磨. 義の主張者たちとのちがいについて'<主東着たちには自然主義は一. ここではいくつかの論点が提出されているo第1に他の自然主. じ'吸収し'そして味得するのである>. 割切ったり,都合よ-善悪の価値をつけたりしないで、そのままに感. ち,或いは皮膚からさえも'彼は彼のぶつかったものを観念によって. <吸取紙のように物事を吸収して行く感受性>で<頭からも'限から. 生を学んで行った。彼独得の納得作用で彼はそれを納得して行った∨. い.彼は投げやりからも,無為からも'失意からも'憂密からも'人. うなものまで,その間に〔長い準備の時代〕学んで行ったと云って好. 因であったと云うことができると思う><所謂勉強家には学べないよ. ての特質であり、又,その五〇年の間、絶えず彼を進歩させてきた素. て行くがままの人生をそのままに客観的に掴み出して見せたという点 な事には手をつけないという特質は'秋声の作家生活五〇年空賞し. 得な納得作用」とよんでいる。∧この自分が納得しない限りあやふや. ① ②.

(13) 行動をあるがままに見ようとする>のが彼の倫理観であるoそして人. い。<そうしたあらゆる既成の倫理観をふるい落してしまって人間の. 切れるものではない。だからといって秋声に倫理観がないわけではな. は、自分の倫理の尺度を持ち出して作家や作物を割り切ろうとする。 しかし秋声のような作家、その作品ほとてもそのような倫理観で割り. ちの観念的な価値判断と秋声の倫理観とのちがいである。批評家たち. せたものは世の所謂修養などというものとは凡そ反対のもので、寧ろ. から学んだものは相当大きかったと云えるが'その渦巻の中で彼が見. におこった変化はなんだったのか。広津はいう。<彼がこの「生活期」. 老作家の生活に持込まれた愛慈の蔦藤時代>である。この時期に秋声. 広津は言う。それほ∧1人の若い女性によって、妻に先立たれたこの. ぅちに1つの大きな変動がおこった.それは妻の死であったという0. して軽蔑する事をしない作家の文学がその本質に於いて人生を否定し. 望、激情--そうしたものの赴-ままに身をまかせて、それを抑える. 修養のない赤裸々な人間感情の暴露であった。嫉妬'情痴、歓喜、絶. この裏の死を境に五十才台半ばで1つの「生活期」に入ったと. 生の肯定、否定ということに関して<・・・-作中の如何なる人物をも決. ているわけがあろう筈はない>とのべ、また晩年には一つの人生肯定. 世間並の分別などというものには欠けているように見えた><いや、. た二葉亭をも通俗的としてしりぞけている。秋声にとってほ「作の密. 他の文学を寄せつけない。イプセンもバルザックもトルストイも、ま. それでいて青年のような情熱のままに押流されて行くのであるから、. 分別が全然働かなかったとはいえない.五十代の半ばに達した分別は もとより度々首をもたげるし'世間の思惑や非難も始終気になるし、. ていくような'そういう密度が作の値打ちを決めるもので'文学の進歩 というものも、そのような密度が増していくことなのだ'と広津はのべ ている。ところで広津ほ二葉亭を大変高く評価しており、ここでも現. はいうO. 生活感情の愛撫者。その秋声にもややマンネリの時期もあったと広津 「或売笑婿の話」'「好奇心」'「復讐」などを指してそういうの. いる。二葉亭=知識層の苦悶の先駆的象徴'秋声=庶民階純の庶民的. リア-ズムをあげている。そしてそれぞれをつぎのように性格づけて. 声に取っては決して軽視すべき事ではない.彼はその卑小からも痴愚. る彼の限が濁らずに光っていた事である>そして<--それ等は常識. ない激情、痴態'嫉妬'疑惑'襖悩の渦巻の間にも'流石に自己を見. るようになるという。そしてその転機から新したものが育ちきらない. にとろりとした後味を残すような不思議なスウィ-トネス>がみられ. 鳥とのやりとりも興味深いがここでほ省略して'ただ秋声の創作の背 裁判批判の論理と思想(≡). 〓ニ. ⑤. 的修養から見れば卑小な事であり'痴愚に過ぎない事であっても'秋. である。そして例の転磯がおとずれ、∧はのばのとした底明り><舌. からも人生を味得し、人生を納得して行くのである。> ここでほ作品から離れて、なまの秋声像を措いている。正宗白. いないo <--併しここに見のがしてならないのは'抑える事の出来 代文学の二つの大きな鉱脈として秋声のリアリズムととも堅1薬事の. せていったことのなかから晩年の秋声の作品に結実するものがでてく ると広津は考えているのである。と同時に広津ほつぎの面も見落して. 度」が決定的に重要であって'それも人生味読の深まりによって'増し. ここでは歓声の文学観がとりあげられている。秋声ほなかなか. の姿を示しているとものべている。. ④. それだけにその愛悉生活が複雑になF(苛立たしいものになり、血み どろになって行ったわけなのである>この変動の中にいわば身をまか. ③.

(14) 裁判批判の論理と思想(三). おこう。<--彼は、自分の思う通りの生活はやって行きたいし'子. てものちにみよう.. 治批評と文芸批評との接点を示す重要なところであるoこの点につい. されたい(全集第九巻二七四ペ-ジ-二七九ペ-ジ)。これは広津の政. 供達の個性は自由にのばしたいし'それでいて生活の重さは自分1人 の肩に全戟背負い込んで行かなければならず'そこに持って来て、生. ふれたので重複は避けよう.ただ<当局の無理解で書きつづける事が. 現象にも触れて行きたくなったし-->そして女性問題に三男の死。 「ただ私は書かないと食っていけないので、老境の仕事で氏〔正鳥〕. 出来なくなり'終に完成しなかったという事は残念であるが-->と. いう1文は注意に値する。また<愛慾絵巻>としての「縮図」が<強. には目だるいところも多々あるだろうが、商売の邪魔をすることは控. 絵巻に現われた男女の生活や愛慾や悲喜こもごもの姿の上に行き亘っ. ている作者の心の温かさが、この作の味を生んでいるのである。それ. はl種の慈悲心と亭える>としている点にも注意を払っておこう。. 以上をまとめて広津は秋声をこう評している.<否定の文学といわ. れた自然主義を秋声は半世紀近-の間引きずり引きずり、その不断の. .__1.. '.__.. である> _.・.. _:. 1・----・ー・..---. ●. <私は今度秋声の作物を読返して見て、秋声の人生解釈に凡そデカダ. ソ味のないことに寧ろ吃驚した程であった。--彼の人生探求、人生. -. る「散文精神」を思わせる表現があるのでこれを記してお-。<それ. 後の徳田埜戸論を軸にノしてさぐっていけるのではないだろうか。こめ. 批評をつうじていったいなにを探求しょうとしてきたのか、とくに最. チェーホフをめt,る問題や'散文精神の問題や、散文芸術論'文学の. なかには、前稿「裁判批判の論理と思想」(二)でふれたトルストイと. の飛躍をゆるさず'思い上ったり'結論を急いだり、観察の鏡敏にみ. いくことにしたい。次稿は昭和二十年以後の文芸批評をとりあげる。. これらは、もうすこし広津の仕事をたんねんに見渡した上で検討して. 政治性と芸術性の問題など多-の注目すべき問題がふyまれている。. た>昭和十1年の講演などの「散文精神」についての特徴づけを参照. ておのずから開け'おのずからに此処まで導いて来たような道であっ. ずから阿ねったりせず、長い忍耐を以て一歩々々踏みしめる事によっ. ようとする彼の心構えから来ている。その道は静かで、地味で'些か. 以上、昭和前期の広浄の文芸批評をまとめてきた。広津がこの文芸. _. はひたすらに事象に即して物を見'その意味をそのものの中に探求し. 人生執着の1途さには、凡そ廃無味はないのである>第二は、いわゆ. _. ないことを発見して驚いたという点である.広津ほつぎのよう空音う.努力によって、とうとうこの大きな肯定の文学にまで引上げて釆たの. である。l'二の点だけをふれておこう.第一は秋声にデカダン味が. てはすでに昭和八年の文芸批評で十分にのべており'ほとんど同趣旨. ここでは「死に親しむ」を中心にのべている。この作品につい. すます興味をひかれるところである。. いているが'広津自身の生活上の事情なども重ねて考えてみると、ま. へていただきたいと、お願いしたいのである」という秋声の言葉をひ. 烈な色彩やナマな色彩は1切使わず、淡彩で捻のぼのと措いていった その効果は、ちょいと類がない高雅な美しさである>とのべ'<この. ここでほ「縮図」を中心に論じている.これについてもすでに. 活興味が年と共に旺盛になって行った彼は、新しい時代のいろいろな. 後にある生活上の問題について広津がふれている点だけをとりあげて. 一四. ⑦. ⑥.

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参照

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 その後、徐々に「均等範囲 (range of equivalents) 」という表現をクレーム解釈の 基準として使用する判例が現れるようになり

大きな要因として働いていることが見えてくるように思われるので 1はじめに 大江健三郎とテクノロジー

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

このように、このWの姿を捉えることを通して、「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しよう

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配