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『太平記』巻六「赤坂合戦事付人見本間抜懸事」について

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Academic year: 2021

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﹃太平記﹄巻六「赤坂合戦事付

人見本間抜懸事」 について

( 注 1 ) ﹃太平記﹄巻六 「赤坂合戦事付人見本間抜懸事」は、正慶二年( 二二三三)二月'京都へ大軍を送った北条方の1軍による上赤坂城 攻撃の次第が描かれている。 この章の前半が「人見本間抜懸事」であり、その梗概は次のよ-なものである。 仙赤坂城攻略に向-大将阿曽弾正少粥は天王寺に逗留Lt抜懸禁 止を布告する。 惚武蔵国出身の老武士人見四郎入道恩阿ほ、本間九郎資点に向っ て先懸の決心を話す。資点は内心では同感しつつも'自分は人 並に行動する旨話す。興ざめして立去る人見の後を'本間は怪 しみ人につけさせる。人見は天王寺の石の鳥居に何かを書付け 谷     垣     伊   太   雄 て自分の宿所に帰った. 矧人見の決心が変わらぬと判断した本間は'まだ宵のうちに出発 し'赤坂城へと向-。途中で出会った二人は'揃って城へ攻め 寄せ名乗りをする。城側が応答せず黙殺戦法をとったため' 二人は馬より下りて城に攻めかかったが'矢に射られて討死し た 。 ㈲付き従っていた僧が二人の首をもらい受け'天王寺に持ち帰っ て'本間の子息源内兵衛資忠に有様を話す。資忠は父の後を追 って出立しょ-とするが'僧に制止される。 愉安心した僧が野辺へ葬礼に出かけた後'資忠は出立する。天 王寺で祈念した資忠は'石の鳥居に人見の書きつけた歌を発見 し'自分は小指の血でその傍に歌を書き添えて赤坂城へと向 六ノO ㈲城兵は'父に孝道を尽-すために唯一騎でやって来た資忠に感

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心し木戸を開けてやる。城中に駆け入った資忠は奮戟の後'太 刀を口に-わえて最後を遂げた。 m三人の死についての批評。「惜哉'父ノ資貞ハ'無双ノ弓矢取 ニテ囲ノ岳二要須タリ。又子息資忠ハ'タメシナキ忠孝ノ勇士 ニテ家ノ篤二条名ア-。人見ハ年老齢傾キヌレ共'義ヲ知テ命 ヲ思フ事'時卜共二消息ス。此三人同時二討死シヌト間へケレ バ ' 知 モ 知 ヌ モ ヲ シ ナ ベ テ ' 歎 カ ヌ 人 ハ 無 -ケ -。 」 ㈲赤坂城に向けて出発した阿曽弾正少粥は'石の鳥居の左右の柱 に'人見の「花サカヌ老木ノ楼朽ヌトモ其名ハ苔ノ下二隠レ ジ」とい-歌と、本間資忠の「マテシバシ子ヲ思フ闇二迷ラン 六ノ街ノ道シルベセン」とい-歌とを発見する。「父子ノ恩義 君臣ノ忠貞'此二首ノ歌二顛レテ'骨ハ化シテ黄壊一堆ノ下二 朽ヌレド、名ハ留1三円雲九天ノ上こ高シ。サレバ今二至ルマ デ'石碑ノ上二消戎レル三十1字ヲ見ル人'感涙ヲ流サヌハ無 -ケ -。 」 この話が、﹃平家物語﹄巻九二二之懸」に拠ったものである事に ( 注 2 ) ついては'早-後藤丹治氏の指摘があり'又'人見達の死を楠木正 ( 注 3 ) 成論の中で位置づけよ-とした中西達治氏の論考もある。 本稿は'それら先学の論を参考としつつ'「人見本間抜懸事」の 内容について'その構成を考えてみよ-とするものである. まず'人見四郎入道恩阿が「先懸」を決心する場面についてみる と'彼は「関東天下ヲ治テ樺ヲ執ル事巳二七代二飴レ-。天道快レ 盈理遁ル、虞ナシ。其上臣トシテ君ヲ流シ奉ル積悪'崖果シテ其身 ヲ滅サヾランヤ」と'社会情勢を因果論的に分析した上で、「今日 ヨ-後差タル思出モナキ身ノ'ソヾロニ長生シテ武運ノ傾カンヲ見 ンモ'老後ノ恨臨終ノ障」ともなると'老武士としての自分白身を 思い'「先懸」の決心するのである。この決心は'内心で同感しっ つも表面は反対意見を述べる本間九郎資点の存在によって'試され る形となる。しかし'本間は'人見が天王寺の「石ノ鳥居二何事ト ハ不レ知一筆書付」たとの報告を聞いて'人見の決意の強さを確認 し'本間自身も先駆けへと踏み出す事となる。 大将から「於二抜懸之輩一着'可レ為二罪科]之由」 布告があったに も拘らず七十三歳の老武士が行動する以上'それだけの必然性が条 件となるはずであろ-が'それは'先に引用した北条氏の最後を予 感する心と功名心とである。人見の行為は'三十七歳の本間が行動を 共にした事にょって、その予感が客観的に支持されたこととなる。 この、禁制を越えて敢て行動に出る点と'人見が石の鳥居に何を書 き付けたのかが明らかにされないまま筋が展開してゆ-点とに'﹃ 太平記﹄作者の'話を盛り上げる巧みな手法が窺える. 父の死を知った本間資点の子息源内兵衛資忠は'僧の制止の目を かい-ぐり'父の後を追って上赤坂城へと一人で馳せて行-。出発 に際して'天王寺の石の鳥居で人見の書を見付け'自分もその傍に 小指の血で1首書き添える。この場面ではじめて'人見の書き付け

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たのが「歌」であった事が明らかにされるが、歌そのものについて は紹介されぬまま資忠の討死場面の描写へと移って行く。 その和歌は、寄手の大将阿曽弾正少粥が天王寺を出発する場面 で'漸-明らかにされるのである。 結局tAJの話は'天王寺の石の柱に書かれた和歌を楕円の焦点とで もする形で茄を展開させており'死を決意した老若二人の和歌を' 二人の死後明らかにする手法は'その和歌の書かれたのが'西方浄 ( 注 4 ) 土への入口とも信じられていた天王寺の西門の柱であったという設 定や'又'人見七十三歳'本間資貞三十七歳'本間資忠十八歳とい -年齢構成などと共に'かなり計算された構想と言えるのではなか ら-か。 三 ところで' ( 注 5 ) 次に諸本の記述の差に関して考えてみたい。 玄玖本 酉源院本 究舜本 コ コ マ 阿曽弾 正少弼 阿曽弾 正少弼 阿曽弾 正 少 弼

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右表④を見ると'流布本・党舜本が「二人ガ首」をもらい受けた としているのに対し'玄玖本・西源院本は「本間力頚(頭)」 とし ている。この場合'本間の子息が攻め込んで行-話に直接繋がって 行く点からのみ考えれば'「本間ガ首」で良いとも言える。ただ' ( 注 6 ) 従軍聖が本間に専従する人でなかった以上、当然「二人ガ首」をも らい受けるはずであろうし'和歌をめぐっての人見と本間の子息と の関わりを考えると'聖が「二人ガ首」をもらい受けて帰り「始ヨ -ノ有様ヲ語」ったかちこそ'本間の子息は石の鳥居で「我父卜共 二討死シケル人見四郎入道ガ書付タル歌」を発見した時、自分も1 首書添えようと思った'と考える方が自然であろ-。つまり'﹃太 ( 注 7 ) 平記﹄の成立と時衆教団との関係と言-よ-な大きな問題は今はさ て置くとしても'少-とも流布本・究舜本の作者が'話の筋を理屈 の上から整備している事は確かだと言えるのではなかろ-か。この 事は'⑤・⑥を見ると'流布本・究舜本が「孝道」を強調する形で まとめている点とも重なる一つの傾向と言えそ-である。 なおへ更にこの段落の後半「赤坂合戦事」を見てみると'玄玖本 ・西源院本と流布本・充舜本との二系統の叙述がある事が明確にな る。ところで'この赤坂合戦譜の末尾には'城に立て寵った兵達が、 降参して城を出ても命は助かるとの大将間の協定を信用して'降人 になって出たところ、実際はへ 二百八十二人全員が六波雁に送られ 首を別ねられてしまった事を叙した後に'「吉野・金剛山二寵-タ ル兵共モ'弥獅子ノ歯噂ヲシテ'降人二出ント思フ者ハ無リケ-。 ﹃罪ヲ綬フスルハ蒋ノ謀也﹄ト云事ヲ知ラザ-ケル六波羅ノ成敗 ヲ'哲人毎二押ナベテ'意力-ケ-ト申シガ'幾程モ無シテ悉亡ビ ケ ル コ ソ 不 思 議 ナ レ 。 情 ハ 人 ノ 為 ナ ラ ズ 。 飴 二 二任テ撮舞へバ'武運モ早ク轟ニケ-。因果ノ道理ヲ知ルナラバ、 可レ有レ心事共也」との結語がある。しかし'右の引用文中「罪ヲ綬 フスルハ--」以下の文章が'玄玖本・西源院本にはない事を知る 時、流布本・林凡舜本が諺をも引用しっつ「因果ノ道理」でこの合戦 譜をまとめよ-としている事がよ-わかる。しかも'その道理が' 前半の 「人見本間抜懸事」 に於ける人見の予感(北条氏の滅亡) の確認ともなり得ている点で、流布本・充舜本作者の視点を窺-事 ができるのではなかろ-か。 四 ( 注 9 ) 後藤丹治氏は「太平記の作者は本間又太郎兄弟等の先陣話や'本 間九郎父子討死の史箕等を博聞して'か-い-風に敷術潤色して来 たのであら-。しかもその潤色の媒介物となったものは'これも平 家物語であったかと私は思ふ。」と述べて'「人見本間抜懸事」を一 連の﹃平家物語﹄を原拠とした話の中に位置づけておられる。 確かに﹃太平記﹄は'後藤氏が「これ程の一致鮎があるのに開渉 がないとは到底思ほれない。」 と言われるごと-'さまぐ、な箇所 で﹃平家物語﹄と同じ表現又は類似する語句を使ってほいる。その 意味でr太平記﹄がr平家物語﹄に拠った事は否定できないであろ ち ノ ○

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ただ'.r平家物語﹄に於ける熊谷直冥・直家父子と平山季重との 先駆けが、勝算あっての功名心と結びつ-ものであったのに対し' F太平記﹄に於ける人見と本間父子との先駆けは、功名心だけでな く自分達の所属する鎌倉(北条)方の滅亡を予感しての行動であっ た点に於て'決定的な違いを見せている。 そしてt AJの話の構成における差異は'二作品の構想の違いとし て捉えるべきであり'1致点を踏まえた上で'むしろ違いの意味を 考えることが'肝要なる課題となってきているよ-に恩-。 次に'r太平記﹄巻六は'全六章の-ち三章が「天王寺(四天王 守)」に関連している。 「摘出二張天王寺︼事付隅田高橋拝宇都宮事」(巻六の二) では' 楠正成が天王寺を根拠地としながら縦横に駆け回って鎌倉方を苦し める。その中で'戦わぬまま楠に勝利を譲ってもらった形となる鎌 倉方の宇都宮治部大輔が'「上官太子ヲ伏拝-奉り'是偏二武力ノ 非レ所レ致'只併神明併陀ノ擁護二懸レ-ト'信心ヲ傾ケ歓喜ノ恩ヲ 成」す場面がある。 次の「正成天王寺未来記披見事」(巻六の三)では'楠正成が未 来記を披覧して、その記文から「天下ノ反覆久シカラジト愚敷」思 えノO 「人見本間抜懸事」(巻六の六)を含め'以上の三章は'それぞ れの登場人物が'宮方・北条方を問わず'その「運命」にかかわる 拠点として'「天王寺」を捉えていると言えよ-。 ( 注 1 0 ) かつて'角川源義民が「四天王寺の未来記は﹃太平記﹄に重大な ものとして語られているが'四天王寺の念仏聖たちによって、西門 の石の鳥居にしるされた人見恩阿と本間資忠の血染の歌をめぐり伝 承されていた﹃太平記﹄の一括話の成立があったと考えられる。」と 述べられた事と重なり合-かと思われるが'やや仮説的聖苧えばt F太平記﹄における〝天王寺説話″とでも言-べきものの存在を想 定しても良いのではないか'と考える次第である。 ( 注 1 1 ) その場合'村山修一氏の言われる 「こ-した(筆者注・天王寺西 門に於ける貴族や僧達の西方礼拝や二心念仏行道のこと)念仏の流行は' たとえ西門外の信仰で四天王寺自体のものではなかったにせよ'四 天王寺がもつ太子信仰ならびに仏舎利信仰とは無関係ではありえな かった。」事や'四天王寺西門における捨身往生の例が多いとの井 ( 注 1 2 ) 上光点氏の御指摘等についても思いを致すべきであろ-0 最後に'流布本(ここでは日本古典文学大系本の底本となってい る慶長八年古活字本を指す)に見られる傾向については'既に述べ ( 注 1 3 ) た事もあるが'これもやや飛躍的に言-ならt AJの章段について ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ は'流布本には、むしろ近世演劇的構成とでも言-..(き要素-それ は近世における﹃太平記﹄の享受の仕方とも関わって来るものであ ら-がーを感じさせるものが窺えるよ-に思-のである. 1 注 ﹃太平記﹄本文の引用は日本古典文学大系本(岩波書店)に

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よる。、なお'「汝布本」とい-場合もこめ本を指す。 2 ﹃太平記の研究﹄ (河出書房・昭和十三年八月刊) 所収の 7 5 6 「 太 平 記 原 接 論 」 。 「太平記論序説」(﹃日本文学﹄第十七巻第五号) 予今昔物語﹄巻十一.Q第二十1 「聖徳太子'建天王寺語」に 紘,「其寺ノ西門こ、太子白ラ'輝迦如来醇法輪所嘗極楽土 東門中心卜書給ヘリ。是二依テ'諸人彼ノ西門ニシテ弥陀ノ 念併ヲ唱フ。子今不絶シテ、不参ヌ人元シ。」、とある。なお 藤本篤﹃大阪府の歴史﹄ (山川出版社)には'「西門の石鳥 居ガ永仁二年(一二九四)'忍性が四天王寺別当のとき建立 したもの」とあるo 「玄玖本」は勉誠社版'「西源院本」は刀江書院版'「究舜 本」は古典文庫版'をそれぞれ使用した。なお'比較表中で は活字の大きさを1定とLt原本のままとはしなかった.こ の点については'注4の ﹃今昔物語﹄ の引用文も同様であ る。ところで'本間父子の名前は'﹃本間系国浅羽本﹄(横群 書類従第五輯)では「能忠卜能久-忠綱-資貞-資忠」とな っている。太田亮﹃姓氏家系大尉典﹄(角川書店) も村上源 氏として右と同じ系図を掲載している。 金井清光氏の「太平記と時衆」(﹃時衆文芸研究﹄風間書房) には'石田善人氏の説として人見恩阿ほ武蔵の人見道場一乗 寺の外護者として聖を伴って出陣していた程の信者であった との引用がある。 8 注6に引用の金井論文には'「人見恩阿と本間九郎のぬけが げの討死とその後日欝は'北条方の楠勢攻撃の本筋から離れ た1挿話にすぎないが'それが感激的な文調で太平記の中に 書き込まれた事実に'太平記の成立払おける時衆教団の語り の比重の大きさが-かがわれる」とある。 玄玖本では'「罪ヲ綬スルハ将ノ謀也卜云夏ヲ知ラサリケル 六波羅ノ成敗ヲ人毎二推ナへテ悪クカリケリト思ヒ㌢、昨日 今日トテ過行ケハ元弘モ三年二成-ニケ-」との1文がある が'勉誠社版でも明らかに別筆とわかる。なお'この1文が 別筆の補人である事は'鈴木登美恵氏の「尊経閣文庫蔵太平 記覚え書」(﹃国文﹄第十四号)に指摘がある。 注2に引用した﹃太平記の研究﹄によるo ﹃語り物文芸の発生﹄(東京堂出版)の第二篇第八章「﹃太平 記﹄の成立」。 ﹃浄土教芸術と弥陀信仰﹄(至文堂)の「七'院政期におけ る来迎芸術の勃興」。 ﹃新訂日本浄土教成立史の研究﹄(山川出版社) の第三章第 二節「聖・沙鋼の宗教活動」に於て'四天王寺が西門を中心 とする浄土教の霊跡として尊ばれた事を記七㌧ 「こ1に、詣で た人々は殆ど外来の天台系聖か庶民でぁるが'四天王寺信仰 の右のごとき性格が上述の民間的浄土教と殆ど同じであると とも注意されよ-。中でも'占いや託宣によって往生の安心 を得よ-とした点や'捨身往生の例の多いことは、ことに留

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意せられる。」と述べておられる。 1 3 拙稿「流布本太平記の1傾向‖」(﹃樟蔭国文学﹄第十五号) 追     記 校正の段階で読み得た次の二著について追記しておきたいo 。﹃軍記物語の世界﹄(朝日新聞社・1九七八年七月二〇日発行) において'永積安明氏は,右の章段をとりあげ'本間資忠の死に ついて言及Lt 「ここには清朗な﹃平家﹄の合戦には見られな い、﹃太平記﹄独自の世界が'同じ構想の中にも'すでに見えて -るのであって'ここまでくると﹃太平記﹄の構想も、もはや﹃ 平家﹄の二番煎じであるとは'いえな-なってしま-のである。」 と述べておられる。 。梅谷繁樹氏より、橘俊道民の﹃時宗史論考﹄(法蔵館・昭和五 十年三月1日発行)について'御教示いただいたo 橘氏は'右の著書第十二章「太平記にあらわれた時衆の活躍」 において'人見四郎入道恩阿について、埼玉県深谷市人見の住人 で'﹃他阿上人法語﹄に出て-る「人見音阿弥陀仏」と同一人物 と見倣し'音阿の「大酒飲みで家財道具をも酒代にして'結句の 果てには人と争って思慮分別を忘れるといった性格」と、「味方 の総攻撃に先立って'軍紀をおかしてまで七十三歳の老武者が' 敵の堅陣に単身抜けがげをするとい-'如何にも荒けずりの坂東 武士の性格」とを指摘しておられる.また、本間資点について は'三二祖法語﹄にあらわれる本間源阿弥陀仏か若しくはその血 縁のものであろ-。」として'真数(時宗の二祖他阿異教)が旅 先から送った文を引用し'「本間資点が身命を捨てて武恩に報ぜ んという人見入道に,おくれをとってほならぬと諸共に'楠の城 に決死の朝がけをした思い切った勇武の心底に、真数と(浄土に て再会)出来る安心があったことであろ-。」と述べておられる。 更に,「最後の十念勧めつる聖」については'「恐らく時衆であ ろう。それが人見に従っていたかそれとも本間に伴っていたもの かわからないが,いずれにしても人見恩阿と本間父子の最後の有 様を語り伝えたのは,この聖であったことは確かである。」と述 べておられる。 永積氏の論は,本稿で述べよ-とした二作品の「構想の違い」 と言-点で同意見と考える。 橘氏の論は,先行論文の裏付けとして'芙王寺説話〃と時衆 との関わりについて示唆を与えて-れるものである.なお、貢 平記﹄では・美王寺説話″以外にも庄吉説話〃等の想定も可 能であろう。 (本学専任講師)

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