国立国語研究所学術情報リポジトリ
<全文>日本の方言の多様性を守るために : 国立
国語研究所第3回国際学術フォーラム
図書名
日本の方言の多様性を守るために : 国立国語研究
所第3回国際学術フォーラム
ページ
1-61
発行年
2011-03-31
シリーズ
NINJALフォーラムシリーズ ; [1]
URL
http://doi.org/10.15084/00000888
国立国語研究所
第3回
国際学術フォーラム
「日本の方言の
多様性を守るために」
◇まえがき 影山 太郎 ◇はじめに ◇講演 狩 俣 繁 久 ﹁琉球方言から考える言語多様性と文化多様性の危機﹂ 菊 秀 史 ﹁与論の言葉 で話そう │バイリンガル島を目指して│﹂ トマ・ペラール ﹁消えてゆく小さな島のことば﹂ 呉 人 惠 ﹁辺境から発信する言語学 │シベリアのコリャーク語は今│﹂ 木 部 暢 子 ﹁ 文化庁委託事業﹃危機的な状況にある言語・方言の実態に関する調査研究﹄中間報告 ﹂ ◇パネル・ディスカッション コーディネイター木部 暢子 狩俣 繁久/菊 秀史/トマ・ペラール/呉人 惠 1 4 12 24 32 46 53 目次 2まえがき
影山 太郎
(国立国語研究所長)NINJAL
フォーラムシリーズの刊行にあたって
〈 大 学 共 同 利 用 機 関 法 人 〉 人 間 文 化 研 究 機 構 に 加 わ っ て か ら 二 年 目 に 入 っ た 国 立 国 語 研 究 所 は、 日本語および日本語教育の研究拠点として、国内外の研究者と多彩な共同研究プロジェクトを全国 的・国際的レベルで展開し、研究成果を様々なタイプの催しや刊行物を通して幅広く発信していま す。 な か で も、 「 NINJAL フ ォ ー ラ ム 」 と 称 す る 一 般 向 け の 公 開 講 演 会 は、 外 部 の 研 究 者 も 交 え て コ ト バ に 関 す る 様 々 な 問 題 を 論 じ る 場 を 提 供 し、 そ の 内 容 は「 NINJAL フ ォ ー ラ ム シ リ ー ズ 」 と し て冊子体とオンラインの電子媒体でお伝えしていきます。本誌は、そのフォーラムシリーズの創刊かげやま・たろう 号です。 NINJAL [ニンジャル]という愛称は、国立国語研究所の英語名 National Institute for Japanese Language and Linguistics を 略 し た も の で、 直 訳 す る と「 日 本 語 お よ び 日 本 語 言 語 学 の た め の 国 立 の研究所」となります。この英語名に端的に示されるように、国立国語研究所は日本語という言語 を、言語学を軸とする学際的観点から多面的・包括的に研究し、豊かな社会作りに直接的・間接的 に寄与する成果を提供することを目的としています。 国立国語研究所が大切にしたいのは「コト バ の多様性」という概念です。現在、地球上には約六 千の言語が話されていると言われています。それらは、一方では、他の動物のコミュニケーション には見られない人間言語固有の普遍的特性を共有すると同時に、他方では、それぞれが用いられる 地域・社会・文化に応じた独自の個別性を発達させています。日本語の内部においても同様に、北 は北海道方言から南は琉球諸方言まで多数の方言がそれぞれ特色ある言語文化の花を咲かせていま す。そのように多様・多彩な日本語の姿を包括的に解明するためには、それを分析するための手法 においても日本語学、言語学、心理学、自然言語処理、教育学などを含む多角的なアプローチが必 要 と な り ま す。 「 多 様 性 」 の 反 対 語 は「 画 一 性 」 で す が、 言 語 と い う も の は、 あ ま り に も 豊 か で 色 とりどりの性質を持っているため、画一的な視点で統一することは到底不可能です。言語は、それ を用いる人間そのものであり、人間はひとりひとりが多様で個性ある存在ですから、日本語の研究 においても「多様性」の尊重がキーワードになるのです。 創刊号のテーマ「日本の方言の多様性を守るために」は、まさにこの理念に叶うもので、琉球語 を中心に、方言あるいは言語が消滅してしまうというのがどういうことなのか、それが私たちの文 化や生活にどのような影響を与えるのか、といったテーマに関して、日本語学・言語学の専門家だ けでなく地元で方言の保存・復興活動をしている市民の立場も含めて様々な角度から検討を加えて います。当日のフォーラムに参加された聴衆からも、多数のご質問・ご意見と共に、非常に有意義 だ っ た と い う 感 想 を い た だ き ま し た。 今 後、 「 NINJAL フ ォ ー ラ ム 」 を 更 に 充 実 さ せ て い き た い と 思いますので、みなさまのご理解とご支援をよろしくお願い致します。
はじめに
グローバル化が進む中、世界中の少数言語が消滅の危機に瀕し ています。日本の方言も例外ではありません。もし、ことばの地 域差がなくなってしまったら、私たちの生活は、さぞかし味気な いものになってしまうことでしょう。このフォーラムでは、 4 人 のパネリストがそれぞれ、奄美・沖縄方言を長年、調査・研究し ている立場から、子どもたちに方言を伝えるための活動を行って いる立場から、奄美 ・ 沖縄方言を研究している外国人の立場から、 外国で少数民族の言語の調査・研究を行っている立場から、それ ぞれの言語・方言が置かれている現状を報告し、ことばの多様性 を守ることの重要性について、 みんなで考えてみたいと思います。琉球大学の狩俣です。方言の危機的な状況と、私たちの現在の 活動について、頼まれたらどこにでも行って話をしています。な るべくたくさんの人に理解してもらって、応援してもらいたいと 考えているからです。今日はこういうところでお話をさせてもら うことを大変ありがたく、感謝しています。 私は一九七五年から琉球方言の調査をしていまして、そこで学 んだことをお話しします。 写 真 は 今 帰 仁 村 の、 ノ カ ン ゾ ウ、 ワ ス レ グ サ と も い い ま す が、 いろいろな呼び名がありますが、それの畑です。今調査をしてい る 名 護 市 の 方 言 で は「 ニ ー ブ ヤ ー グ サ( 居 眠 り 草 )」 と い う の で すが、これを食べると不眠症が治るという伝承がありました。最 近その効果がはっきりとわかってきて、今ではこのように畑で作 って、野菜として沖縄のスーパーで売っています。
文化多様性
と
言語多様性
文化と言語についての話をします。 文 化 も 言 語 も 社 会 に 共 有 さ れ、 世 代 的 に 継 承 さ れ る も の で す。 どちらも同じ性質を持っています。 言 語 は 思 考 の 手 段 で あ り、 知覚し認識した現実世界ので き ご と、 微 妙 で 複 雑 な 感 情、 精密で膨大な量の知識と思想 を表現し、 伝達する道具です。 ただ伝達するだけの道具では なくて、言語があってはじめ て思考が成り立つとか、人間 の知覚とか認識などとも深く 密接につながっているもので す。 言語に深く刻み込まれた文 化 は 言 語 に よ っ て 理 解 さ れ、 言語によって継承されます。講演
1
琉球方言から考える
言語多様性と文化多様性の危機
狩俣
繁久
(琉球大学教授) 文化は言語によって空間と時間を超えて遠く離れた人々によっ て伝えられ、 蓄積され、 発展してきました。 私たちは、 「高い文化」 、 「高い文明」と言いますが、言語がなければここまで発展してこ なかっただろうと思います。言語の所有は人間と他の動物とを区 別する最大の特徴の一つだと言ってもよいと思います。 人間が創造したものの中で、言語 ほ ど緻密で繊細で複雑で、人 間と一体になった道具はないだろうと思います。どれくらいの量 のものが言語によって形つくられているかというのは、図書館に 行かれたらわかると思います。図書館に入っているあのすべてが 言語で書かれているわけです。日本語で書かれている本の数だけ を見てもすごいものがありますが、あれはまさしく言語のなせる 業です。 発音や文法などは言語ごとに異なりますが、言語の機能と価値 沖縄島今帰仁村のノカンゾウ畑は英語や日本語のような大言語も、話し手が数人の小言語も同じ です。考えを伝える、感情を表現して伝える、あるいはそういっ たものを言語によって蓄積していく。そういう機能はどんな言語 も同じです。 世界各地の言語には地域差があります。その地域差はどのよう にして発生しているのでしょう。 人間は、多様な自然や地理的な条件の中で環境に適応し環境変 化に対応していく中で、 絶え間ない創造と改良を積み重ねました。 アフリカで生まれた最初の人間が世界中に広がっていく。住む場 所も気候もいろいろと違う中で適応していくわけです。世界中に 拡散している生物の中で、人間は、遺伝学的な変種が一番小さい のです。環境に適応していくなかで遺伝的な性質を変えないで適 応している。それがなぜ可能かというと、文化によって適応して いくことをしているわけです。 個人に発生した工夫と変化が一回限りのものに終わることもあ りますが、言語によって周囲の人間に伝達されて集団に共有され ます。最近、木の実を石で割ることを発見した ゴ リラが仲間に伝 えるということがわかっているのですが、言語を持っている故に かりまた・しげひさ 琉球大学教授/国立国語研究所客員教授 琉球大学法文学部卒業 専門は琉球語学 人間が一番そういうことがで きるわけです。 絶え間ない文化の創造と改 良は、遺伝的性質を変えるこ となく人間が多様な環境に適 応し、世界中に拡散して繁栄 することを可能にしました。 創造と改良、移動と拡散の 繰 り 返 し と 積 み 重 ね が、 文 化 と 言 語 の 多 様 な 地 域 差 と 個 性 を 生 む 要 因 だ と 思 い ま す 。 人間が定住して安定した生活を送り、適応戦略に地域ごとの違 いが生まれ、 長い間に文化の地域的な変種が形成されていきます。 広い地域を移動していると、広い範囲の中で共通性が共有される の で す が、 定 住 し て く る と 移 動 の 制 限 が 出 て き ま す の で、 地 域 ご と の 変 種 が よ り 強 く な っ て い く の だ ろ う と 思 い ま す 。 言語にも同様の地域的な変種が生まれます。近接する地域の言 語差は小さいですが、遠く隔てられる ほ どに言語差は大きくなり ます。隣り合っていても高い山、海、川などによって言語差がで き る こ と も あ り ま す し、 国 境 や 社 会 的 あ る い は 政 治 的 な 境 界 が 言 語 差 を 大 き く す る こ と も あ り ま す 。 地域内の文化的・言語的な同一性は構成員をつなぐ絆となりま すし、 地域的アイデンティティを形成する重要な要素となります。 違 う こ と ば を 話 す 人、 違 う 文 化 を 持 っ て い る 人 た ち に 対 し、 「 あ の人たちと私たちは違う」 と言って身内の意識が強くなりますが、 言 語 は そ の よ う な 地 域 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ を 形 成 す る 重 要 な 要 素 で す 。 日本における文化と言語の地域差もあります。日本は亜寒帯か ら亜熱帯にまで及ぶ広い範囲に大小さまざまな島々が南北に細長 く 連 な る 島 国 で す。 日 本 は 気 候 風 土 や 生 活 環 境 だ け で な く 、 歴 史 的 に も 文 化 的 に も 個 性 的 な 特 徴 を 持 っ た た く さ ん の 地 域 の 集 合 で す 。 日本語にも多様な地域的な変種、すなわち方言があります。
多様な日本語の諸方言
日本における地域差の大きさを考えるのに、日本列島をヨーロ ッパに重ねた地図でみてみましょう。この地図は真田信治先生とまでの言語差とか、文化の違いとか、あるいは気候風土の違いを 頭の中に置けば、日本がどれだけ多様な文化あるいは言語を持っ た国であるかということがすぐに理解できると思います。 日本で伝統的に話されてきた言語は日本語とアイヌ語がありま す。日本語は日本語の標準語と諸方言とから成り立っていて、日 本語の諸方言は本土方言と八丈島方言と琉球方言、大きくこの三 つの変種があるのではないかと考えます。 今日は琉球方言についての話をします。琉球方言は琉球列島の 伝統的な言語で、沖縄県の八重山諸島・宮古諸島・沖縄諸島・鹿 児 島 県 の 奄 美 諸 島 の 47の 有 人 の 島 で 話 さ れ て い る 言 語 の 総 称 で す。 800 余の伝統的な集落で話されているのですが、面積も人 口も日本全体の 1 % です。日本人が 1 億人を突破した頃、沖縄が 1 00 万人。日本が 1 億 3000 万人という頃に沖縄が 1 30 万 人というように、だいたい人口の伸びも一緒です。 一八七九年に日本に統合されるまで 4 5 0 年間、日本とは別の 琉球国という国がありましたが、その琉球国で話されていた言語 です。本土から遠く離れ、大規模な言語接触がなかったので、本 土方言との言語差が大きく、琉球語と呼ぶことも可能です。最近 はそのように呼ぶ人も増えてきています。 琉球列島を本州に重ねてみましょう。琉球列島の一番北の喜界 島を仙台市と重ねます。 そうすると沖縄島の那覇は長野県あたり、 宮古島は京都と大阪の境目あたり、一番西の与那国島は岡山県と 広島県の境目あたりに及ぶ広い範囲にあるわけです。 琉球列島の両端の方言では会話が成り立たない ほ どの言語差が あります。両端だけではなくて、宮古島と那覇の間でも方言は通 じません。下地勇という宮古島方言のシンガーソングライターが いますが、方言だけの歌を何十曲と作っています。彼の歌のなか には、那覇の人が知っている単語は 1 単語しかない。その 1 単語 は「 国 民 年 金 」 で す。 ( 笑 ) 区 長 さ ん が「 国 民 年 金 を 納 め ろ 」 と 村 の み ん な に 言 っ て 回 っ て い る と い う フ レ ー ズ の 中 に 出 て き ま す。 「 国 民 年 金 」 と い う 単 語 は 方 言 に 翻 訳 で き な い の で そ の ま ま です。それ以外は一言も理解できません。ビートルズの歌なら知 っている単語がたくさん出てくるのに、宮古島の歌には一言も知 っている単語が出てこない。 同じ八重山諸島の一番西の与那国島の方言を石垣島の人は一言 も理解できません。同じ八重山諸島の中でです。そのくらい言語 差があります。 ど れ く ら い 多 様 性 が あ る か と い う と、 母 音 の 数 で 見 て み る と、 奄 美 大 島 の 一 番 北 の 佐 仁 の 方 言 に は 母 音 が 11個 あ り ま す。 「 a、 i、 u、 e、 o、 ï、 ë、 ã、 õ、 ï ~、ë ~ )」 と い う 鼻 母 音 が 4 個 に、 上村幸雄先生の共著の本 の 中 か ら 借 り て き ま し た。 北海道北端の宗谷岬は スウェーデンのストック ホルムに、根室がノルウ ェーのオスロに、一番南 の西の与那国島はアフリ カのモロッコを間近に見 るジブラルタルのすぐ脇 にあります。北欧から南 欧までの広い範囲の中に 日本があるわけです。ヨ ーロッパの北欧から南欧
中舌母音が 2 個あって、合計で 11個母音がありま す。 大 神 島 の 方 言 に は、 母 音 が 6 個 あ る の で す が、 大神島の方言の特徴は母音のような役割を果たす 子音があることです。 「 kf ː 」(作る) という動詞は、 k と f だけの単語です。 「 pstu 」(人) の ps では、 s が p に 対 し て 母 音 の よ う な 役 割 を 果 た し て い ます。小さすぎて地図に載らないので海の上を指
人間は言語と文化を後天的に習得し、絶え間ない創造と改変を 繰り返してきました。それ故に文化的多様性と言語的多様性が発 生してきたわけです。 文化と言語の変化には自然や環境などに適応していく過程で発 生する自律的な変化と他の文化や言語と接触し交流する中で影響 を受けて、長い時間の中で進行する他律的な変化とがあります。 今のマイノリティの言語や、方言の危機的な状況は、そういう 自然発生的な、自律的な、あるいは通常の他律的な変化によるも のではありません。世界のマイノリティの文化と言語の危機的な 状況は 19世紀以降の西洋化、近代化など、ある特定の価値観が支 配的になり、文化や言語に「こっちが良い」 、「こっちが悪い」と いう優劣をつけ、暴力的ともいえる圧倒的な力によって、マジョ リティの文化と言語への置き換えが短期間に起きた結果です。 同じことが日本でも起きました。性急な西洋化と近代化と都市 化によって、 かつては日本的なものより西洋の ほ うがよいとされ、 学校でも西洋音楽は教えるけれども日本の音楽は教えないという ことがありました。 また地方的なものは劣ったものとみなされて、 軽んじられ、豊かな自然と風土の中で発達した豊かな地方の文化 とそれを支えてきた方言も軽視され、辱められました。それによ って誇りを傷付けられ、自信を失った人たちもたくさんいたと思 います。
琉球方言の場合
地方の文化や方言は、いま見直されつつあります。そのように 見えるのですが、本当にそれは本物なのでしょうか。 沖縄でも伝統文化と方言が見直されつつあります。しかし知覚 しているだけのようにみえる、とても小さな島です。 与 那 国 島 の 方 言 は、 原 則 と し て 母 音 が「 a、 i、 u 」 の 3 母 音 で、 「 e 」も「 o 」もありますが、例外的です。 11個の母音から 3 個の 母音までの間に幅があるわけです。これは日本の全体から見ても 大きな違いです。 子音の数で比べてみます。今帰仁村の謝名の方言は子音が 25個 あ り ま す。 「 カ 」 と「 ガ 」、 「 パ 」 と「 バ 」 と い う 清 音 と 濁 音 の 対 立 だ け で は な く て、 清 音 に 2 種 類 の 対 立 が あ っ て、 「 パ 」 が 2 種 類あります。 「チャ」も 2 種類あります。 「お茶」は「チャー」で す。 「手かせ足かせ」 の 「かせ」 も 「チャー」 と発音するのですが。 「お茶」と「かせ」は発音を区別しています。清音と濁音の対立 の他に清音が 2 種類あり、そういうことで 25個です。 それに対して、大神島方言の子音は 9 個です。清音と濁音の対 立がありません。 9 対 25。 3 倍近い差があるわけです。琉球方言 がいかに多様であるかが理解していただけると思います。 琉球列島は文化的にも非常に多様性があって、元ちとせ、中孝 介など、奄美出身の歌手が出てきましたが、奄美地方の民謡と沖 縄地方の民謡は音階そのものが違います。だから奄美民謡の歌い 方と沖縄民謡の歌い方は違います。踊りも違いますし、伝統的な 行事も違います。 沖縄で盛んなエイサーも、 宮古島ではしません。 宮古島でエイサーをすると、ソーラン節か何かと同じで、違う島 の文化、芸能を宮古島でやっている感じになるのです。本州ある いは日本全体の大きさも文化の多様性も方言の多様性もそのよう に理解したらよいと思います。少数者の言語の変容
と
消滅の危機
して認識した現実世界の出来事、微妙で複雑な感情、精密で膨大 な量の知識と思想を表現し伝達することのできる緻密で繊細で複 雑な言語体系、それをまるごと継承できているかというと、まっ たくできていないと思います。伝統文化の形式化と形骸化が進行 しています。 たとえば沖縄のエイサーですが、若い人たちが一生懸命やりま す。あるおばあちゃんの八五歳のお祝いを、沖縄では「トゥシビ ー」というのですが、そのトゥシビーのお祝いで孫がエイサーを したのです。そうすると、おばあちゃんが自分のお祝いにエイサ ーをしたと言って怒って帰ってしまって、孫と口をきかなくなっ た。なぜかと言いますと、エイサーは祖先や死者を慰める芸能な ん で す。 孫 は 伝 統 的 な 芸 能 だ か ら 良 か れ と 思 っ て や っ た の で す。 ところが孫は歌詞の意味もエイサーの意味もわからないままやっ てしまったわけです。エイサーの意味や本質を知らないで。 文化の継承というものが表層的な、表面的なものに留まってい て、根本的な理解が十分になされていないのではないかと考えら れます。沖縄では三線も伝統的な民謡も盛んなのですが、その三 線や民謡を教える師匠さんたちが方言を知らず、若い人たちに歌 詞 の 意 味 を 教 え ら れ な い。 だ け ど 歌 が「 上 手 だ 」、 「 下 手 だ 」、 三 線の弾き方が「うまい」 、「下手」と言って指導しています。それ で本当に伝統文化の継承が可能なのでしょうか。 沖 縄 の テ レ ビ で も「 桜 咲 い た ら 1 年 生 」 と い う 歌 が 流 れ ま す。 沖縄では桜は一月に咲きます。北海道では五月中旬くらいに咲き ます。沖縄の自然を知っていれば変な歌なのですが、沖縄の子ど もたちは全然違和感を感じていません。東京の三月末に咲く桜の 風景を見て「桜咲いたら 1 年生」と歌うわけです。いっぽうで若 い人たちは沖縄の季節感を表す言葉を知らないのです。 沖 縄 で は 一 番 寒 い 一 月 に ハ ゼ ノ キ が 真 っ 赤 に 紅 葉 す る の で す が、その一番寒い一月に桜も咲くのです。秋と春が一緒にやって きます。沖縄方言には春という単語も秋という単語もないわけで す。 日本の季節変化が日めくりのカレンダーをめくるようだとする と、沖縄の季節変化は、週めくりのカレンダーをめくるようなゆ っくりした変化です。沖縄の季節ごとに鳴く蝉の声、鳥の声、あ るいは季節、季節に咲く花、花の色があります。しかしそういう ことをまったく勉強しないまま、桜前線がどうの、紅葉がどうの とテレビでは見るのですが、自分たちが住んでいる地域の自然を 表す言葉を知らない。地域の自然や自然感などが教育されていま せん。 南北に長い日本。北と南、太平洋側と日本海側、沿岸部と内陸 部、 大きな島と小さな島。 個性的で変異に富んだ自 然 環 境 に 囲 ま れ て い ま す。ということは、方言 による自然の表現、季節 の表現も多様で変異に満 ちているはずです。その 自然との関わり方や感じ 方にも地域差があり、方 言差があります。方言の 語彙や表現に方言差があ ります。 豊かな自然の表現の例 として、沖縄にはこうい
このような日常生活の中での微妙な空気の感覚というものを表現 する言葉があって、それを伝えていくわけです。 標準語だと「割った」と過去を表す形があるのですが、沖縄の 方言では 「ワタン」 と 「ワイタン」 という二つの過去形があって、 「ワタン」を第一過去、 「ワイタン」を第二過去と言います。 第二過去は、話し手が見たことしか言わないのです。話し手が 見ていないことは第二過去では言いません。たとえば「信長は本 能 寺 で 死 ん だ 」 を、 「 信 長、 本 能 寺 う て 死 ぬ た ん 」 と 第 二 過 去 で 言 う と、 「 お 前、 見 て き た の か 」 と い う こ と に な る の で す。 タ イ ムマシンでもない限り、見てくるわけにはいきませんから、第二 過去で歴史的な事実を言うことはできないわけです。 第二過去は、 自分のことは言えないのです。 「私が割りました」 というときは第二過去は使えないわけです。 若い人が沖縄の方言を勉強していくときに、最初は過去形の使 い 方 を 間 違 え る の で す が、 だ ん だ ん 方 言 が 上 手 に な っ て い く と、 過去形の使い分けができるようになります。 質問をするときにも、相手が見た可能性があるかないかを判断 して過去形を使い分けます。たとえば合格発表の郵便物が届くこ とになっている。だけど娘は用があってでかける。家に戻ってき て家にいたお母さんに「郵便屋さん、ちゅーたんな」と第二過去 で質問できるのですが、今戻ったばかりのお父さんには第二過去 では質問できません。 沖縄の人は無意識なのですが、出来事を判断して第一過去と第 二過去の使い分けをしているわけです。方言が違うと出来事の認 識の仕方が違うのです。ことばが変わるということは、ただ伝達 手段が日本語に変わる、英語に変わるというだけではなく、感受 性とか物事の認識の仕方も変わっていくわけです。 う も の が あ り ま す。 私 が 調 査 を し た 西 原 町 の 方 言 で す。 「 マ フ ッ クァー アチサクトゥ ティーダ ネーラチカラ ハルカイ イ ケ ー」 で す。 「 真 夏 の 日 中 は 暑 い の で、 太 陽 を 萎 え さ せ て か ら 畑 に行きなさい」 。「マフックァ」というのは、真夏の昼間のムッと するような暑い状態を言うのですが、この単語も標準語に翻訳し にくいのですが、面白いのは「ティーダ ネーラスン(太陽を萎 えさせる) 」という表現です。 「日が沈んで涼しくなってから」と 言わずに「太陽を萎えさせる」というのです。比喩的な表現なの ですが、辞書で 「ティーダ (太陽) 」、「ネーラスン (萎えさせる) 」 を 別 々 に 記 述 し て い て は わ か り ま せ ん。 「 太 陽 を 萎 え さ せ る 」 と いう考え方・感じ方を言葉で表現する。知人が暑い日中に畑に向 か っ て い る と き に、 「 日 射 病 や 熱 射 病 に な っ て 大 変 だ よ。 も っ と 涼しくなってから行きなさい」というかわりに、さきの言い方を するわけです。 「チューヌ ウードー ティーダカジャ スグトゥ ユー ニ ンダリーサ (今日の布団は太陽香がするから、 よく眠れるよ) 」。「テ ィーダカジャ」は「太陽のにおい」という意味です。お日さまの においです。良く干された布団とか衣服は独特のにおいがするの で す が、 そ れ を「 テ ィ ー ダ カ ジ ャ」 と 表 現 す る わ け で す。 「 今 日 の布団は(チューヌ ウードー)お母さんが干してくれたんだ」 という感謝の気持ちを込めながら言うわけです。 「イフーナーシ ヌク バ トークトゥ アミ フインテー(妙に 生暖かいから、雨でも降るのだろう) 」。これは温暖前線が通り過 ぎて、その後雨が降り始める、その直前の独特の湿度のある生暖 か さ を 表 現 し た も の で す。 「 そ の う ち に 雨 が 降 る 」 と い う 独 特 の 生暖かさを表わしたのが「ヌク バ ーイン」です。その場にいない と、 その感覚は伝わらないし、方言でないと伝わらないわけです。
方言の記録の大切さ
方言の継承に必要なことは何でしょう。私たちの暮らしは幾世 代も前から続く先人たちの絶え間ない創造と改良の積み重ねの上 にあります。私たちのものの見方や感じ方の基礎をつくり、行動 の指針に影響を与えているものを検証するためにも、方言世界の 記録から始める必要があります。 できるだけ大量の語彙と詳細な意味記述をした辞書と、文法書 の 編 纂 が 必 要 で す。 標 準 語 の 対 訳 が 載 っ て い る だ け で は な く て、 いろいろな表現や例文を載せて、そこに込められているいろいろ なことを記述する必要があります。文法書も形式や標準語の対訳 だけが載っているだけでなく、さまざまな意味と用法とそれぞれ の使い分けを記述する必要があります。 そのことによって、かつて傷付けられ失われた自信と誇りを取 り戻し、活力ある文化や言語として活性化させ、オリジナルな新 しい文化や言語表現を創造することができるのだと思います。 たとえば与那国島の若い人たちが『ハリー・ポッター』の与那 国島方言訳 バ ージョンを作ってみたいと思ったとき、それが実現 できるような辞書と文法書を作っておく。辞書と文法書を見なが ら、 『 ハ リ ー・ ポ ッ タ ー』 の 与 那 国 島 方 言 訳 を 作 る。 あ る い は、 この後に話をする菊秀史さんが『ハリー・ポッター』とか『ロー ド・オブ・ザ・リング』の与論方言 バ ージョンの脚本を作る。あ るいは与論方言の映画を作るとか、与論方言だけで書かれている 物語を書く。そういうことを若い人がしたいと思ったとき、それ を可能にする辞書と文法書とテキストを作っておく必要があるわ けです。研究者に今求められていることはそういうことなのでは ないかと思います。 未来の方言継承。 50年後、 1 00 年後にどうなっているか。研 究 者 が 21世 紀 の は じ め に 調 査 し た、 デ ー タ の 残 っ て い る 方 言 は、 50年後も 1 00 年後も残っているけれども、その調査から漏れた 方言は痕跡も残さず消えている可能性があるわけです。ある島の 人たちから「どうして私たちの島の方言は残っていないの?」と き か れ、 「 研 究 者 が 調 査 し て い な い か ら で す 」 と い う 状 況 に な ら ないよう、 で き る だ け た く さ ん の 方 言 を 記 録 し た い と 思 っ て い ま す 。皆様、こんにちは。私は鹿児島県の最南端の島、与論島からま いりました。どうぞ今日はよろしくお願いいたします。
与論島について
まず自己紹介と私の島の紹介をします。与論島は周囲が 23㎞ で す。標高が一番高いところで 97m です。 1 00 m ありません。ご 覧のように、たくさん砂浜が写っておりますが、浜の数が 60ほ ど ありそれぞれの浜に名前が付いております。小さな島です。今は 年間 6 万人 ほ ど観光客が訪れております。綺麗な島ですので、ぜ ひどうぞ一度おいでください。こういう小さい島に善良な町民が 5 4 00 人 ほ ど住んでおります。 (笑) 悪い人は一人もおりません。 あと牛が 5 000 頭 ほ どいますので、 1 万 ほ どの哺乳動物がいる ということです。 これは私の家の近くの海岸ですが、ご覧のような浜が全部で 60 あるということです。 これは 97m 地点。与論島の一番高いところから西側の ほ うを臨 んだ風景です。サトウキビの畑が広がっています。 私 は 家 族 で 与 論 民 俗 村 と い う 民 俗 資 料 館 を 営 ん で お り ま す が、 与論にもこういう沖縄 風の、赤瓦の民家が昔 ありました。それから もう一つ、茅葺の住ま いです。台風の多いと ころですから建物は低 く、台所と母屋、棟が 違います。 分棟型です。 ご覧のように丸いとん が り 屋 根 が 特 徴 で す。 そして屋敷周りを防風 林で囲む。こういう二 つの伝統的なつくりが ありました。 こちらを家族 8 人で 営んでおりまして、私 が村長ということです が、村人がたった 8 人 ですので、選挙もあり ません。 27年 ほ ど私が 村 長 を 務 め て お り ま す。ぜひ一度与論島に おいでになり、我が家 にもおいでいただきた いと思います。これで 自 己 紹 介 は 終 わ り ま す。菊
秀史
(与論民俗村経営 〔私設民俗資料館〕 )講演
2
与論の言葉で話そう
│
バイリンガル島を目指して
│
与論島の全景 海岸の風景 与論には名前の付いた浜が約60あるさて、私は今日ここに与論島のことばを紹介しに来たわけでは ありません。私の島でも方言がなくなりつつありますので、なく したらいけないということで、今日のタイトルであります、方言 をなくさないためにはどうすればよいかということを話し合いに 来たわけです。 しかし、与論島のことばがどういうものか、皆様に聞いていた だかないことには話は始まりませんので、少しご紹介したいと思 います。
与論島のこ
と
ばを聞いてみよう
ま ず ぜ ひ 今 日 皆 様 に 覚 え て お い て い た だ き た い 与 論 の 言 葉 が、 「尊加那志(トートゥガナシ) 」です。 「ありがとうございます」 と い う 意 味 で す。 与 論 島 で は 一 番 多 く 使 わ れ る 言 葉 で、 「 ト ー ト ゥガナシ」で始まって「トートゥガナシ」で終わるというくらい 使われる言葉です。ぜひ皆様にこれだけは覚えていただきたいと 思います。よろしくお願いします。 それでは 1 分間くらい与論島のことばで話してみますので、先 ほ ど狩俣先生が宮古島の下地勇さんの歌の中で「国民年金」だけ わ か り ま す と お っ し ゃ い ま し た が、 さ て 私 が こ れ か ら 話 し ま す こ と を、 皆様はどのくらいお分かりになるで しょうか。与論島の方がこの会場に 見えていたら、手を挙げないでくだ さい。 それではよろしいでしょうか。 「トー ガシラ ボ ー ナマカラワ ーガマドゥン シマノンティチコー きく・ひでのり 与論民俗村経営(私設民族資料館) トゥルフトゥ バ シ チュフトゥ バ サーリラ バ ウレーターユッタ ーシャミンチッタキティキチウヮーチタ バ ーリ。ユンヌヌフトゥ バ ナン シュンガレーチュールフトゥ バ トゥ ウットゥリャーチ ュールフトゥ バ ヌアイビューシガ イドゥールン ワイデージナ フトゥエイ チュルフトゥ イチュル バ ーエービュン。シュワー ムヌムイグトゥヌイジタル バ ン ヘー クチカライジュールフト ゥ バ エービュン。シュンガレーチューサー ドゥーナガヤーヌキ ネーナン シュワームヌムイグトゥヌイジタル バ ン アッセーイ チャシューラガ チュールフトゥシ チケービューシガ ウット ゥリャーチューサー ピチュナガナン シュワームヌムイグトゥ ヌイジタル バ ン アッセーデージナフトゥエイ ガシガワーガ シチャルフター アランクトゥヨー チュルフトゥシ チケービ ュン。タンディウレーター シューワーガナマカラウレーターカ 島の高台より西側を望む ティサーリュールフタ ー ウットゥリャーヤ アランガネー シュン ガレー ユンヌヌフト ゥ バ ヌキーランチエイ チチシュワーシチュル ワーミーナティキチ ウヮーチタ バ ーリ」 。 Do you understand? (笑)ちんぷんかんぷ んでしたか。では訳し ます。 「それではこれから 私が日頃与論で使ってできるのではないかと 思いまして、今いろい ろ活動をしているわけ です。それで題を「 バ イリンガル島を目指し て」としたわけです。
ユ
ン
ヌ
フ
ト
ゥ
バ
を残すために
これから本題に入ろ うと思います。与論の ことばを与論の方言で は「ユンヌフトゥ バ 」 と言います。このユンヌフトゥ バ を残したい。古から受け継がれ た島の宝を私たちの代で失ってはいけない。そう思いまして継承 活動を始めてもう 10年経ちました。未だにその衰退を止め切れま せん。ただこの 10年の間に理解者も徐々に増えて、衰退のスピー ド が 落 ち て き て い る と こ ろ で す。 で す か ら、 こ の フ ォ ー ラ ム を、 一気に復興の ほ うへ流れを変える良い機会と促えてここに臨んで いるわけです。 私がここに参加した目的は二つあります。 1 点目は、第三者あ るいは研究者の立場からではなくて、方言が衰退している現場に い る、 当 事 者 と し て の 立 場 か ら 継 承 活 動 の 現 状 や 課 題 を 報 告 し、 他の地域の方言継承活動の参考にしてもらうこと。そして 2 点目 は、逆にこのフォーラムで方言復興に向けてのたくさんのご提言 を賜ることです。私はそれを島に持ち帰り、今後生かして与論島 いる言葉で一言申し上げますので、皆様よくお耳をそばだててお 聞きになってください。 与論の言葉に 『シュンガレー』 という言葉と 『ウットゥリャー』 という言葉があります。訳しますと、どちらも『わあ、大変だ』 『わあ、えらいこっちゃ』という意味です。心配事、悩み事が起 きたときに思わず発する言葉です。 『シュンガレー』というのは自分や家族に心配事や悩みが出た ときに 『ああ、 どうしよう』 という意味で用います。それから 『ウ ットゥリャー』というのは、他人などに心配事、悩み事が出たと きに『わあ、どうしよう、大変だ、大変だけれども私には責任は ない。 』というニュアンスで使うのです。 今日はどうか皆様、私がこれから皆様に申し上げることは、 『ウ ットゥリャー』という『方言が消えて大変だね。でも私には関係 ないから』ではなくて『シュンガレー』 『与論のことばが大変だ。 消 え そ う だ。 ど う し よ う 』 と 心 配 し て い る 私 の 身 に な っ て 、 話 を お 聞 き い た だ き た い 。」 このように申し上げました。 どうかよろしくお願いいたします。 (拍手) 私の発表タイトルは「与論の言葉で話そう │ バ イリンガルの島 を目指して │ 」ということにしました。私の祖父は明治二六年生 まれ、祖母が二八年ですが、その頃の人たちは与論の方言は達者 だけれども、共通語はいまいちであるという世代です。私たちの 世代は、幼少期に両方自然に覚えた世代です。それから昭和三〇 年代末頃には与論にもテレビが入ってきますので、それ以降の世 代は共通語の世代に変わります。祖父の時代、私の時代、今の時 代、今現在はこちらなのです。だから私の幼少期の言語状況に戻 したい。これは努力すれば、きっと二言語併用社会が与論島では 与論民俗村 赤瓦民家で二言語併用社会が実現・復興できるように、頑張りたいと思い ます。そのためにぜひ皆様のお力をお借りしたいと思って参りま したので、どうぞよろしくお願いいたします。 先 ほ ど狩俣先生からお話がありましたが、本土方言と琉球方言 には基本的に大きな違いがあります。本土方言の場合は、私がい ろいろな県のお客さんの方言を聞きましても、だいたい意味が理 解できます。これは共通語との差が近いからでしょう。しかしユ ンヌフトゥ バ を含む琉球方言の場合は古語に近いわけです。 奈良 ・ 平安時代のことばが残っているということは、 1 000 年以上も 経っているわけです。私は素人ですのでよく知りませんが、 1 5 00 年も経てばまったく別言語くらいにことばが変わっていくと いうことを聞きました。このあいだ奈良遷都 1 300 年祭があり ましたから、もうそのくらいの開きがあるので、外国語といって 与論民俗村 茅葺民家 もよいくらいの違いが あるわけです。 つまり、ユンヌフト ゥ バ 復興対策について 考えるときに、子ども たちに教えたりすると きには、私たちの場合 はユンヌフトゥ バ は母 語で、幼少のころに自 然に習得したものでし たが、今の与論の子ど もにとっては地元のこ とばでありながら外国 語のようになっていま す。ですから、そのことを頭に入れて指導をしていく必要ありま す。 また衰退していく形も、影山所長が関西のご出身とおっしゃい ましたが、 たとえば 「ありがとう」 は、与論は 「トートゥガナシ」 ですが、関西だと「おおきに」というイメージがあります。しか し今は、私の民俗村に見える関西のお客様は「おおきに」を使う 人 は ほ と ん ど い ま せ ん。 「 あ り が と う 」 と 言 い ま す。 そ う い う 感 じで、本土方言の場合はその地域の訛りは残るのでしょうが、会 話 の な か で 単 語 自 体 は だ ん だ ん 共 通 語 が 増 え て い く よ う な 変 化 だ と 思 う の で す 。 ところが与論の方言の場合は日本語と外国語 ほ どの差がありま すから、徐々に共通語化していくのではなくて、ユンヌフトゥ バ で 話 せ る か 話 せ な い か の 二 者 択 一 型 だ と 思 う の で す。 で す か ら、 今四〇歳前後が、話せる一番下の世代ですから、その人たちが九 〇歳くらいまでお元気だとして、 50年後には完全になくなるとい うことが見えているわけです。 そういうことで、本土方言以上に、私たちの地域は危機感を持 っ て 復 興 に 取 り 組 ま な い と 間 に 合 わ な い と 感 じ て い る と こ ろ で す。
学校での方言使用禁止
さて、方言が衰退していった経過と要因を考えてみたいと思い ます。明治維新が起きて、徳川家から天皇中心の国家になります が、天皇を中心とした中央集権国家形成の中でやはり標準語政策 というのは必要になってきますから、当然、その政策が採られま す。これは全国展開をされたようですが、私たちの与論島を含めた奄美とか沖縄とか、 鹿児島本土でもあったのでしょうけれども、 奄美・沖縄の場合には「標準語励行」というよりは「方言使用禁 止」を前面に打ち出した運動でした。 奄美群島はご存知のように太平洋戦争後に米国の信託統治に置 かれますが、昭和 28年に本土復帰をいたします。ところが復帰し た後も、本州の場合は共通語推進が緩やかになっていくわけです が、奄美 ・ 与論の場合は、子どもたちが中学校 ・ 高校を卒業して、 本土に出たときにことばの面で苦労しないように、また共通語で の会話能力向上が学力の向上につながるとの理由で方言使用禁止 運動が継続されました。 小学校では黒板の上の ほ うに「今月の目標。方言を使わないよ うにしましょう」という努力事項が掲げられたりして、私もよく 学校で方言を使って見つかったり、友達に告げ口されたりしまし て、方言札をかけさせられたり、廊下に立たされたりという思い 出があります。 ところで今ユンヌフトゥ バ がどうして衰退したかという要因に ついて話をするときに、方言禁止運動の負の部分だけを強調しが ちです。しかし当時の先生方は自分の教え子が本土に出て行った ときに困らないように、差別されないようにという愛情を持って 指導をしたと思うのです。ですから、そういう先生方のありがた さ、愛情と、また共通語推進運動があったからこそ、試験はすべ て共通語で出されるわけですから、学力向上にも成果があったこ ともまた忘れてはならないと思います。 学校に方言禁止という校則があったことは、確かに子どもたち や 親 に も「 方 言 は 共 通 語 に 比 べ る と 劣 っ た こ と ば で あ る 」、 そ し てまた「方言で話すことは恥ずかしい」という意識を抱かせまし た。ただそれは、親御さんが子どもたちに積極的にユンヌフトゥ バ を教えなくなった要因の一つではあっても、主たる要因ではな いと思うのです。
環境の変化
と
方言の衰退
私は方言衰退の大きな要因は生活スタイルの変化にあると考え ています。昭和三〇年代に入りますと与論島でも核家族化が進み ます。それから観光客が増えてきます。沖縄の復帰が昭和四七年 ですから、それまでは与論島が日本最南端の島だったのです。高 度経済成長期ですから、経済的に豊かになった都会の若者たちが 「日本最南端の島、与論島に行こう」ということになって一気に 押し寄せました。都会の若者たちが一気に押し寄せたこと。そし てまた学校に部活動、スポーツ少年団ができたりして、子どもた ちも夕方遅くまで学校にいる。帰ってきたら「宿題を早くしなさ い、風呂に入りなさい」と。後はテレビを見て、寝る。 そういう暮らしの変化の中で、私が小・中学生の頃は学校内だ けは共通語だけれども、一歩出たら方言の世界でしたから、言語 バ ランスが良くて、両方 バ ランス良く覚えた感じでした。今の子 どもたちは、 1 日のうちで 8 割は共通語の世界ですから、親が話 していれば覚えるという時代ではありません。そういう高度経済 成長期の生活環境の変化で方言が失われたのだろうと、一番大き な要因はそこにあるのだろうと思っております。自分なりに出来るこ
と
から
私は、子どもも生まれまして、方言を伝えたいと思って、活動 を始めるわけですが、平成一〇年頃のことです。与論町民、行政の方々、議員の方々が集まって、住民と行政側とが何でも自由に 討論しあう町政懇談会があって、 そこに参加しましたときに、 「今、 与論のことばは危機にある。本来は家庭で教えるべきものでしょ うが、今はそういう状況にないから、学校で取り組むべきではな い か 」 と。 「 学 校 は 昔 だ っ た ら い ざ 知 ら ず、 読 み・ 書 き・ そ ろ ば んだけを教えるところではないでしょう。 今は地域の中核であり、 学校自体が地域の文化も教えるべきではないか。方言の授業に取 り組んでいって ほ しい」と訴えました。しかし当時の行政側の返 事 は、 「 方 言 は 確 か に 大 事 で あ る け れ ど も、 学 校 は 方 言 を 教 え る と こ ろ で は な い 」 と、 「 親 が 家 庭 で 責 任 を 持 っ て 教 え る べ き だ 」 というところで打ち切られてしまいました。 私 も そ こ で は 引 き 下 が り ま し た が、 納 得 は し て い ま せ ん の で、 では自分なりにできるところまでしようということで、たとえば 観光協会、商工会など、直接関係ないようなところにも行きまし た。 「 観 光 と は 海 の レ ジ ャ ー だ け で は あ り ま せ ん、 島 の い ろ い ろ な素晴らしい文化があるのだから、それ自体、方言を含めて、独 特の習俗とか、いろいろとありますから、そういうものを残して いくのが観光になるのではないか」と訴えました。商工会など場 違いみたいなところでも方言のことばかり言って、本当に「この 方言 バ カが」と言われるくらいなのですが、そのようにやってき ました。 平成一三年に、私が住んでいる東区集落の子ども育成会の会長 をやってくれないかという話が来ましたので、これ幸いと引き受 けまして、まず集落の子どもたちを集めて、自分で資料を手書き いたしまして、集落の公民館に子どもたちを集めて 2 時間ずつ授 業をしました。 1 時間は勉強で、あとの 1 時間は習ったことをカ ルタとか、しりとりゲームとか、伝言ゲームとかにして遊びまし た。 これは今日持ってきました自己流で書いた参考書ですが、こう いうものをその頃から書き始めて、今 3 冊できました。来年の春 くらいには 4 冊目ができる予定です。このようにして作業を進め ております。 まず一三年にそういうことを始めて、翌年の一四年に今度は与 論小学校の PT A の副会長をやってくれないかと言われましたの で、 私 の 思 い も 言 っ て、 「 で き れ ば 小 学 校 で 方 言 の 授 業 が で き ま せんか。それができるのだったら副会長を引き受けます」という ことで、もちろん反対は出ませんでした。そこで、 PT A 要覧に 正式に「ユンヌフトゥ バ を話していこう、保存していこう」とい うことを載せてもらって、それからまた始めました。 1 学期は月 2 回図書室を借りて、子どもたちを呼んで勉強会を し ま し た。 2 学 期 か ら は 月 1 回、 「 総 合 的 な 学 習 の 時 間 」 と い う 正式な授業という形で取り組むようになりました。私はアシスタ ントティーチャーとして参加しています。それが現在も続いてお ります。 平成一四年から現在まで、 全校生徒対象でやっています。 翌年の平成一五年、今度は中学生にも授業をするようになりま した。小学校の場合は私が出向くのですが、中学生の場合は、中 学生が私の家に来て授業をする形を取っています。これも現在も ずっと続いております。
ユンヌフトゥバの日
平成一八年。前年度の平成一七年に、私が与論町の文化協会長 を仰せつかったものですから、これはまた幸いということで、私 は文化協会のメン バ ーに諮って、ユンヌフトゥ バ の啓発活動をし与論中学校1・2年生 ユンヌフトゥバ学習の様子 与論小学校にて ユンヌフトゥバの授業 与論小学校体育館にて ユンヌフトゥバなど島の 文化を伝えていくことの大切さを話しているところ なければいけないと思いまして、二月一八日、与論の方言で「こ とば」 を 「フトゥ バ 」 と言いますが、 それに掛けまして 21 8 (フ トゥ バ )で、二月一八日をユンヌフトゥ バ の日として復興運動を やりたいと。そしてユンヌフトゥ バ を島民に広げていきたいとい うことで、諮って、賛成していただいて、二月一八日はユンヌフ トゥ バ の日に決定しました。 そして翌年の一九年には、他の島々でも方言熱が盛んでしたか ら、 大 島 地 区 文 化 協 会 で も、 「 大 島 地 区 で も 保 存 し ま し ょ う 」 と いうことになりました。そのときに、与論島では「フトゥ バ 」で す が、 よ そ の 奄 美 の 島 で は「 シ マ ユ ミ タ 」 と か の 言 い 方 が 多 く、 シに掛けて、四月何日かに推薦が出ました。私は 1 年前からそれ を二月一八日で決定しておりましたので、 「これだけは譲れない」 と我を張りました。すると反対していた人が、一人賛成し、また 一人賛成して、だんだん「与論の菊さんに合わせてもよいのでは ないか」となりまして、今は大島地区で二月一八日が方言の日に なっております。 平成二〇年は与論町の中央公民館でユンヌフトゥ バ 講座を開講 しました。このときの受講生が 19名でした。 1 回 2 時間。その半 分はカルタとか、 いろいろとゲームをしながら、 20回の実施です。 そして平成二〇年からは、これは全町的な取り組みですが、ユ ンヌカルタ大会が開催されています。これは小学校での授業の様 子です。 これは与論小学校全児童と PT A の保護者の方々に体育館に集 まっていただいて、ことばの大切さとか、その他のいろいろな伝 統的な文化を継いでいきましょうということの話をさせていただ いているところです。
与論中学校1・2年生 ユンヌフトゥバ学習の様子 ユンヌカルタ大会の様子 ユンヌカルタの様子 これが中学生が来たときのカルタです。この写真は単語の ほ う ですが、文章のカルタもあります。 これはユンヌカルタです。与論の方言が入っているカルタ大会 ですが、 砂美地来館という大きな体育館で二月頃に開催されます。 毎回、盛大です。子どもたちも楽しみながら方言を覚えていま す。 今日は文化庁の鈴木様がお見えですが、文化庁関連事業で今年 二月にはアニメの『ドラえもん』の声を与論の子どもたちが、方 言に吹き替えしたりもしました。それも子どもたちが楽しんで参 加いたしました。さらに茶花小学校も、今年から「ユンヌに学ぼ う( 家 族 で で き る 方 言 教 育 )」 と い う 活 動 を 新 た に 始 め て い る と ころです。 そして与論小学校も PT A による「ユンヌフトゥ バ 学習の成果 を上げるための取り組み」として、先ごろ、 PT A が集まりまし て、もっと子どもたちが多くユンヌフトゥ バ を覚えられるにはど うすればよいかということで、新たな取り組みに入っているとこ ろです。 以上、活動報告をいたしました。
ユンヌフトゥバの現状は
さて現在のユンヌフトゥ バ の状況はどういう感じかと言います と、 四 〇 代 以 上 な ら ほ と ん ど の 人 が 方 言 で 日 常 会 話 が で き ま す。 ところが三〇代、二〇代の多くは、聞いて理解できるし少しは話 せる、でも上手ではない。または聞いて理解できるが話せない世 代です。 一〇代以下になりますと、 聞いて理解できるが話せない、または聞いても理解できない世代になります。 日常生活においては、親同士、大人同士はユンヌフトゥ バ で話 すものの、子どもに対して共通語で話す人が多いために、学校で ユンヌフトゥ バ を習った子どもたちもなかなか家庭や地域で話さ な い 状 況 に あ り ま す。 あ る い は 夫 婦 の い ず れ か が 島 外 の 出 身 で、 会話がどうしても共通語になりがちになってしまうという現実も あります。 さらに主語を表す助詞の「が」 、「私が」の「が」が、ユンヌフ トゥ バ の場合は「が」と「ぬ」と二つあり、その使い分けができ ないといけないのですが、 若い人たちの話すユンヌフトゥ バ では、 その使い分けができなくなっています。 それから敬語の用い方も、 いわゆる共通語の敬語の用い方と違うところがありますが、これ も共通語に合わせてしまっている。 先 ほ ど狩俣先生からありましたが、第二過去、第一過去という も の が あ り ま し た。 「 ワ イ タ ン 」 と「 ワ タ ン 」 の 使 い 分 け。 そ れ も若い人たちができなくなっています。 そういうこともあるので、 一 刻 も 早 く 復 興 さ せ な い と い け な い と い う こ と を 感 じ て お り ま す。 それでも今、学校での取り組みも広がりつつあり、与論町の条 例にも制定されました。この条例化の動きは他の奄美諸島にも広 がりつつあります。現在、与論では「方言は共通語より劣ったこ とば」 、「方言で話すことは恥ずかしいこと」と考える人は ほ とん ど い ま せ ん。 「 方 言 は 大 切 で あ る 」、 「 で き れ ば ユ ン ヌ フ ト ゥ バ を 残したい」とだいたいの人は考えています。 無 関 心 な 人 も、 よ く よ く 話 を 聞 く と、 「 方 言 は 要 ら な い。 方 言 は な い ほ う が よ い 」 と 思 っ て い る わ け で は な く て、 「 今 さ ら 復 興 は無理であろう」という半分は諦めにも似た気持ちからそう思っ て い る だ け で、 「 残 っ た ほ う が よ い か、 残 ら な い ほ う が よ い か 」 と 聞 く と、 「 そ れ は 残 っ た ほ う が よ い 」 と 答 え て く れ ま す。 ま だ そういう気持ちが皆さんにあれば、島民がみな力を合わせて、本 当に方言が大事だと思って力を合わせれば復興できると私は信じ ています。
今後の活動について
今後の取り組みについてですが、今後はこれまでの活動を通し て浮かび上がった問題を一つひとつ解き ほ ぐしながら、活動の輪 を広げていきたいと思っています。具体的には、まず最も大事な ことは、島の人自ら、一人ひとりが自分の話すことば、島のこと ばは与論の宝である。そしてこれは自分たちの代で失ってはいけ ない。次の世代に伝えていくべき大切な文化である。そして自分 のアイデンティティである。与論の人のアイデンティティである と強く認識することから始まると思います。 大人自身が二言語併用生活のすごさに気付いていない。自分が 二つの言語を瞬時に使い分ける能力があるのに、そのすごさに気 付いていないというところがありますから、そこのところを訴え ていくことがまず大事であると思います。 そして継承活動はお仕着せではなく、各自が当事者意識と熱意 を持たなければ成功しません。今後も根気強くユンヌフトゥ バ と それを伝えていくことの大切さを訴えていこうと思っています。 また高齢者を中心に 「方言を使うなと教育されたのに、 今さら」 とか、 「集落によってことばが違うではないか」とか、 「敬語の使 い方が難しいから子どもたちには無理だ」とか、そういうことを 理 由 に し て 継 承 行 動 に 移 ら な い 傾 向 が あ り ま す。 こ と ば の 変 遷、子どもたちのグループで核になるグループ、たとえば文化少年団 みたいなものもまた必要かと、そういう組織を作る必要があると 思っています。 それから教材の充実。今は私が自己流で書いた参考書がありま すが、ちゃんとした参考書が必要だと思いますので、今日は専門 家の先生方がたくさんおいでですので、ぜひ後でお教え願いたい です。よろしくお願いいたします。 あと、 漢字の読みと書きの関係と同じで、 現在の生活環境では、 方言はずっと聞いて育っていれば話せるというものでは、どうも ないようです。聞いて理解するのと話すのは別のようなので、そ のこともまた理解して、子どもたちに今後教えていく必要がある かと思っています。 ほ とんどの親はユンヌフトゥ バ が残って ほ しいと思っておりま すが、現実の忙しい生活の中では、子どもたちについつい共通語 を使っているということなので、今後は PT A とか地域の各種団 体と協議して、自分の子どもだけではなくて、地域で、道で、店 で会ったときも、 よその子どもさんにも気軽に方言で話しかけて、 子どもたちがユンヌフトゥ バ を覚えて話しやすくなるような環境 づくりをしていく必要があると思っています。 今の若者や子どもたちは方言を話すことに対してマイナスイメ ージは ほ とんど持っていません。昔の大人が持っていた、いじめ ら れ た と か、 そ う い う 経 験 が な い わ け で す。 た だ 覚 え な い の は、 現実的には覚えるのが面倒である、あるいは「方言が大切だ」と 言っても、その意味がよくわからない、共通語が話せるからコミ ュニケーションに困らないではないか。そういう現実的な理由が 大きいので、たとえば方言のなかには共通語では言い表せないよ うなことばがありますので、生活感情表現がより豊かにできるこ ことばの歴史とか、明治以降に起こった方言禁止運動の時代背景 とかも説明しながら、継承活動の必要性を訴えていこうと思いま す。 町 内 に は 女 性 団 体、 青 年 団、 老 人 ク ラ ブ、 公 民 館 連 絡 協 議 会、 子ども会育成連絡協議会等、多くの団体がありますが、残念なが ら現在のところ、それらの団体から自主的にことばの復興に対し て取り組みが見られません。どうしても生業と言いますか、観光 協 会 だ っ た ら 観 光 だ け、 観 光 と こ と ば と か 文 化 が 結 び つ か な い。 婦人会だったら、たとえば子育てとか花壇の花植えなどが議題に 上ってしまって、子どもに方言を伝えていくということも議題に して ほ しいのですが、どうもそういう団体でことばの問題が一向 に上がってこないのが残念です。そういう団体さんにも今後は声 掛けをしていこうと思っています。 それから現在は主に小学生、中学生を対象に継承活動が行なわ れているのですが、青年層が今、空白地帯になっております。こ とばの問題は空白層を作ってはいけませんので、今後青年団に働 きかけをしていこうと思っています。 奄美と沖縄だけが共通語励行教育を受けたと思い込んで、本土 の人と方言の話になるとそのことばかり言う人がいます。また同 時に本土の人も自らの地域にも共通語励行教育があったことを知 らない人が多いために、いろいろと誤解があります。共通語励行 は全国的に推進されたことであるけれども、その取り組みに地域 差があったことなども説明して、そういう誤解を取り除いていく ことも大事かと思っています。 ユンヌフトゥ バ 復興に向けてしっかりとした仕組みと仕掛けが 必要です。まず町の、あらゆる組織を網羅した一元的なユンヌフ トゥ バ 復興委員会みたいな組織の立ち上げが必要なのと、 同時に、
となど、二言語併用生活の良さを教えていくことが必要だと思わ れます。
内からの活動、外からの活動
それから、これが一番大事だと思うのですが、今回はこの日本 の中心の都会でこういうフォーラムが開催されましたが、今度は ぜひ現場で開催していただきたい。これは特に強く申し上げたい のです。ぜひ私たちの与論町に来て、こういうフォーラムを開催 していただきたいと思うのです。内側からだけの運動ではなかな か殻は破れないということを常々感じております。 島にいると 「隣 の若造が何かやっているぞ」という感じなので、島の人たちを動 かすためには第三者の意見と言いますか、専門家の方々のご意見 とか、内側からと外側からの意見がどうしても必要です。こうい うフォーラムを開催していただいて、一気に復興に弾みをつけた い。本当に強くそのことを願っています。 最後になりますが、これまで特に明治以降、方言を少し蔑視し てきたところもありまして、その地域の方言ならではの豊かな感 情・感覚表現などが相当失われたと思うのです。もし共通語しか なければこの国の言語社会は「干からびた」とまでは言いません が、どうも味気ないように思います。全国にいろいろな方言があ るからこそ、ことばが生き生きとして、瑞々しくて、そして躍動 感あふれるような言語社会になるのではないでしょうか。 そこで、日本の方言の多様性を守るために私たち一人ひとりは どう行動すべきでしょうか。それに対する答えは、それぞれがそ れぞれの立場でできることを行動に移すこと。それに尽きるので は な い で し ょ う か。 も う 評 論 し て い る と き で は な い と 思 い ま す。 国の ほ うも、豊かな言語社会のために、共通語と方言の二言語併 用政策を強く推進していただきたいと思います。 日本各地の方言、中でもユネスコで消滅の危機に瀕する言語に 取 り 上 げ ら れ た 地 域 の 継 承 活 動 の 現 場 は 次 の よ う に 表 現 で き ま す 。 「器の中に『言葉』という宝物が入っています。その器の底に 穴が開いてしまい、どんどんその宝物が漏れ落ちていく。元に戻 そうと落ちた言葉を拾って器の中に入れるのだが、漏れる ほ うが 早く、みるみる中身が少なくなっていく。手が足りません。そこ の 道 行 く 人 よ、 手 を 貸 し て く れ。 通 り 過 ぎ な い で く れ 」。 こ ん な 状況ではないでしょうか。 物事は何でも経験してみないとわからないということがありま すが、ことばの消滅は経験したら取り返しがつきません。それっ きりです。どうぞ皆様、各地の方言が、そして二言語併用社会が 今後もずっと残っていくように、皆さんで力を合わせていきまし ょう。私も バ イリンガルの島、与論島を取り戻すべく頑張ってい きます。ミッシーク、 トートゥガナシ。ありがとうございました。 (拍手)日本学術振興会外国人特別研究員のトマ ・ ペラールと申します。 今日は私が研究している大神島の言葉を中心に「消えてゆく小さ な島のことば」の話をさせていただきます。