原抱一庵「少年小説新年」論 -その固有性の内実に
ついて-著者
大木 葉子
雑誌名
日本文芸論稿
号
36
ページ
1-12
発行年
2013-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/56410
原抱一庵「能 新年」論
- その固有性の内実について
一 はじめに 「講 新年」(以下「新年」とする)は、明治二十五年(一八九二) 十二月二十八日、青木高山堂より、単行本『緯 新年』として発表 された。作者原抱一席は、現在では必ずしも取り上げられる機会が 多いとはいえない作家であるが、明治二十年代から三十年代にかけ て、翻訳家・小説家として活躍した作家である。児童向け作品とし ては、主に『少年園』『少年世界』等に翻訳作品を執筆すると共に、 単行本では 「少年文学」叢書十二として『大石良雄』(博文館、一八 九二・八)を発表。ついでだされたのが『罷 新年』であった。 管見のかぎりこれまで本作品に関してまとまった論考はなされて いない。しかし断片的な評の中には、「教訓臭が強く今日によみがえっ (I) てこない」 といった否定的な評価がある一方で、「文章も言文一致体 を用い総ルビ付きで、同時代の叢書「少年文学」等に比してすべて大木 葉子
の面で近代的であり、日本児童文学史上、新しい時代を拓いた作品 (2) と言えよう」、「言文一致体で平明に書かれて、貧しいなかにそれ に届しない向日的な少年の生き方を書いている。やや観念的ではあ るが、ほぼ同じ時期に書かれた『少年文学』叢書の中においても出 ・-色なものがある。」 といったように、「新しい時代を拓いた」 「出色」 の作品として、同時代の児童文学作品の中で特筆すべきものとする 評価も認められる。たしかに注意深く作品と向き合ってみると、そ こには同時期の少年小説を考える際に、看過できない問題が含まれ ており、固有の位置を占めるものであることに気づく。 果たして本作品のどういった点が 「出色」 と評し得るのであろう か。本論では、同時代の他の少年小説との比較を通して、「出色」と も評し得るその固有性の内実を問い直してみたい。 一一模範少年,朝香薫テクストが語り出すものに目を向ける前に、まずは 「新年」が発 表された明治二十五年当時の少年小説がどのようなものとしてあっ たのかを確認しておきたい。ジャンルも内容も多岐にわたる当時の 児童文学状況を一義的に規定することは難しいが、いずれにせよふ まえるべきは、それが 「明治二十年代に、そのような (引用者注-従来の生産様式と身分から独立した「人間」を作り出す教育装置と してあるような) 学校教育の補助として、あるいは 「学童」 のため (4) に出現」したということであろう。この時期の児童文学状況に関し て久米依子は「(秦)や地域共同体に属していた(子ども)を、公教 育制度の中に包括される小さな国民として発見した時代にあっては、 国家教育に繋がることこそが近代の新しい (子ども) であることを 保証する。」とし、「明治少年文学は、新たに (国民) としての (千 ども) が成立する時代に、出版産業の主導によってかなり人為的に 生み出されたジャンルといえる。大人が用意した言説装置の中で、 大人が規定するあるべき子ども像が追認・補強・再生産されて年少 者に与えられる - ここに、(子どもの文学) という制度が成立した (5) のである。」と述べるが、国家教育制度の中であらだに見出された(千 ども) を対象として生み出された明治の児童文学が 「国家有為の人 (6) 材育成のための 「少年教育」 の一助の役割」を担っていたのは必蘇 の流れともいえるものであった。特に明治二十三年の教育勅語発布 以降は、体系化された階級的教育制度の中で忠君愛国の思想を身に つけ、将来国家に奉仕する臣民たるべき優秀な少年こそが理想の少 年とされており、少年小説はこうした理念を伝えるための 「言説装 置」としての役割を強く担っていた。 こうした状況をふまえてあらためて「新年」に目を向けてみると、 それが、同時期の少年小説の理念と重なるものを多く待つことに気 づく。学校に通う「少年諸君」に対し、模範少年を提示する教訓誼 としての枠組み、そこで語り出される「独立と云ふ精神」、「勉強」、 「慈悲」、「孝行」、「辛苦穀難」、「有為活発な男子」といった理念、『日 本外史』『十八史略』といった儒教精神を学ぶ姿 - それはまさに「父 母二孝二兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ特シ博愛衆二 及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ」と謳われ た教育勅語の理念を体現するものといえるだろう。またそこに強い 国家意識がうかがわれる点も看過できない点である。年始の挨拶を 述べる相手として、主人公・薫は、まずは二番親密な間柄」 であ る隣の婆やや、自分の生活を守ってくれる巡査といった自分が直接 世話になった相手をあげていくが、続けてあげられたのが「日本国 の為めに、外国へ行って、毛唐人と交際つて居る、海外の日本人諸 君」であったことは留意すべきであろう。ここでは「日本人諸君」「国 家」「日本国同胞」「日本国人」「日本国の為めに」といった表現が執 拗に繰り返されており、「日本国の為めに'万里の波涛を超えて、ケ ンノンな毛唐人の中へ這入って居るといふは能々我国を思ふからだ、 勇しいものだ」と讃美する薫の意識は、当時の国家主義的教育体制 の理念に呼応するものといえるだろう。 加えて「独立の精神」「良心」という言葉が繰り返し強調されてい (7) る点からは、当時「青年知識階級の聖書」 であった『西国立志編』 (8) からの直接の影響がうかがえる。河原和枝は、明治二十年代後半か ら児童文学のジャンルが多様化していくことを指摘したうえで「明 治期のエートスを反映した立志小説ももちろん、少年小説の重要な
サブ・ジャンルとして採り入れられた。『学問のす1め』や『西国立 志編』に影響を受けへ立身出世をめざして苦学する少年の物語は、 小波の『当世少年気質』の 「人は外形より内心」 以来、多くの作秦 (9) によってさかんに執筆された。」とするが、「独立の精神」 「良心」 という『西国立志編』の理念を反映した 「新年」 は、立志小説と多 分に重なるあり方をみせている。 「新年」 が当時の立志小説と多分に重なっていることは、例えば その横に明治二十三年に発表された 「鉄三鍛」 をおいたとき一層明 らかとなるであろう。幸田露伴が明治二十三年一月に発表した 「鉄 三鍛」 (『少年団』原題「鉄之鍛」) は、「新年」同様に、大晦日から 正月にかけての一日を舞台に、病気の父を抱え、貧乏のあまり乞食 をしようとする主人公鉄造少年が、ある学者に助けられ、「報徳記と いへる二宮尊徳先生の事を記せし書」と幾ばくかの金を手渡され、「天 (-o) 晴一匹の男の列」 に入る姿を描いた作品である。貧乏な少年が学問 で立身出世をめざすという枠組みへ新年という日に希望に満ちた少 年の行く末を暗示するあり方、そこで語り出される、孝行、労働1 -両者は一見相似形のような印象を受ける。 しかし'留意すべきは、両者には明らかに異なる点が認められる ことである。「新年」 と 「鉄三鍛」とを分かつもの - それは学校と の関係である。 「鉄三鍛」では、「十二になる子を学校にも此春まで通はせ」と語 り出されることに始まり、微細な形ではあるが、数度にわたって鉄 道と 「学校」との関係が語り出されている。 エヽ五度欲しや、五厘欲しや、学校の朋友の中には二銭三銭空 に費ふ者もありしが我は今五厘に泣くとは知まじ 鉄道ヤイと背面より呼れ'ギヨットしてふり向ば、此春まで 共に机ならべし学校友達の村井といふ子供、蔑視やうに笑を ふくみて、鉄道おのれは乞食をするのかと問はれ満面火とな って逃げ走れば、大声にて馬鹿者意気地なし労働かずに銭取 る気かと罵る事雷の如く聞倣されぬ。 鉄道の背後には繰り返し学校の影が据えられていく。五厘の金を手
に入れることができないみじめさを嘆くにあたり、「薗田
中図二銭三銭空に費ふ者もありしが」(傍線引用者)と「学校の朋友」 との比較の中に求める姿や、「学校友達」 の 「蔑視」 をふくんだ罵り が、乞食になることを 「愈〝」 と定めた心を翻させていく様子から は、鉄道が学校の枠内にあり、その論理を共有していることがうか がわれる。テクストはこうした鉄道の内面を提示することによって、 鉄道を学校制度の論理を共有するものとして語り出していく。鉄道 が学校制度の論理を共有するものとされていることは、鉄道がある 学者から手渡される書が、「二宮尊徳先生の事を記せし書」 とされて いることからも明らかであろう。教育勅語体制下の学校において二 宮尊徳は、その 「村落共同体の 「淳風美俗」 と、勤倹力行の立身出 (--) 世主義とを、矛盾なく共存させていた」 あり方が、教育勅語の理念 を体現するものとされていた。前田愛は自らの小学校時代の記憶と して、教育勅語の記憶が 「奉安殿と二宮尊徳の銅像」 のある風景と (12) 分かちがたく結びついていることを述懐するが、学問を修め'顛難 辛苦の果てに立身出世を果たし、主君のために尽くすそのイメージは教育勅語の理念と強く結びつくものとしてあった。こうした当時 の状況をふまえるならば、「今の齢にて汝の労働べき事は学問なり、 足れ能く講で行末大きく労働べLL と 「報徳記」 を読んで学問する ことを勧める 「鉄三鍛」 のあり方は、当時の教育制度の論理を共有 するものといえるだろう。 こうした鉄道に対し、「新年」 の薫は、学校制度の枠外にいる存在 として描き出されている。十一までは両親の庇護の下にあり、「大学 校を卒業して外務省に奉職」 していた兄を持ち、「朝香の息子に新聞 売子をさせては」 と親類や 「兄の懇意であった人々」 に心配されて いる様子から察するに、薫もかつては兄同様に学校に通学していた であろうことは想像に難くない。しかしそうした経歴は一切語られ ず、テクストは現在 「独立で勉強し、独立で偉大い人にならう」 と している姿のみを焦点化していく。途中薫は'「夜学校」 への通学を 希望する言葉をロにするが、テクスト内においてそれは、あくまで も将来の可能性の一つとして位置付けられ、実際の薫と学校との関 係が語られることはない。ここには学校の論理を共有し、その枠内 にいる者として語り出される鉄道との大きな隔たりが認められるだ ろう。既述のように、明治の少年小説が 「学校教育の補助として、 あるいは 「学童」 のために出現」 したという歴史的背景に鑑みたと き、鉄道のあり方はいわば必然的なものといえ、薫はそこから逸脱 するあり方を見せている。 実際に当時の少年小説において、鉄道のようなあり方が共有ざれ ていたことを示す例として、「新年」 とほぼ同時期にあたる明治二十 五年九月に 「少年文学」蓋書十三として発表された巌谷小波「暑中 (-,) 休暇」 の中の一編 「二、復習」 に目を向けてみたい。「暑中休暇」 は、「芝区でも屈指の公民」を父親に持ち、「学校でも評判の勉強家」 である竹屋不二夫と'貧しい勤労少年・松下操一との交流を描いた 作品であり'薫同様に両親の庇護を失い、牛乳屋で働きながら勉強 することを望んでいる松下操一を主人公としているが、学校制度と の関わりにおいて'両者は対照的なあり方を見せている。薫が、学 校に通っていないことなど意に介さず、むしろ誇りをもって 「独立 で勉強し、独立で偉大い人にならうと決心」 しているのに対して、 操一は'人気のない早朝には唱歌を口ずさみ、どこの学校に通って いるのかを問われると、「涙組んで居る様子」 を見せたりと、明らか に学校に対して未練を残している様子を示す。加えてテクストは能 力があるのに学校に通わない操一のあり方を、「気の毒千万」「不情」 「真珠を泥に埋めて置くも同然」 とし、最終的にそうした 「不個」 な操一を、再び学校体系へと復帰させることで大団円を迎えていく。 結末で示される 「少年の亀鑑」 という賞譜は、不二夫の他者を思い やる心情と操一の学問への勤勉さに向けられていると考えられ、そ の点に教訓的メッセージは帰結していくと思われるが、その過程に おいて浮かび上がるのは、あくまでも学校制度の枠内にとどまり続 けようとする操一の姿と学校教育を絶対化する意識であるといえる だろう。 こうした鉄進や操一の姿と並べたとき、窯のあり方には差異が認 められ、そうした窯をあえて「好模範」とする「新年」 のあり方は 注目に値すると考えられる。 前田愛は「無邪気な童心の発露を抑制された子どもへ過度に社会 化された子どもは、それが非現実的であったにせよへ 明治国家の大 人たちによって期待される少年像であることにまざれはなかった。」 4
とし、「原抱一庵の 「新年」 (明25・12) の薫少年も 「鉄三鍛」 の鉄 (-4) 造少年と同じ種属である。」 と述べるが、学校制度との関係という視 点に立ったとき、両者は異なる地点にあるといえるだろう。学校制 度の枠内にありその意識を共有する鉄道や操一と、学校制度の外側 にある者として語り出される薫。その差異は 「新年」 の少年小説と してのあり方に、重要な意味を持つと考えられる。次節では、学校 制度の外側にある者として薫を語り出すことの意味するところを今 一度掘り下げてみることとする。 三 制度の枠外にある。」との意味 前節で薫が同時代の理念は共有しながらも、学校制度の外側にあ る者として語り出されていることを確認した。しかし、単に学校組 織に属さないというだけならば、当時の少年小説において 「出色」 とはいえないことにも注意が必要であろう。 久米依子は、当時の少年雑誌が、学校教育の中を上昇する 「体制 適応」 の立身出世を奨励していたことを指摘した上で、次のように 述べる。 しかし、改めて『少年文学』叢書全三十二冊の物語の型をみ ると、江戸戯作的な勧善懲悪評か、漢文的経世修養論をふまえ た偉人伝が多数を占めている。それらを (教育) という面で捉 えれば、明治の 「国家主義的教育」 に従う以前に、旧来の教訓 物語の枠組みを維持したものにみえる。「徳目主義に則る」 と いう意味では忠孝倫理・徳育重視の教育勅語下体制に合致して いるのだが、明治教育体制の中の学童を描いた作品は極端に少 ない。ほとんどの主人公が歴史上の偉人や江戸期の少年である ために、立身出世するにしても学校制度とは無縁であり、旧体 へ-5) 制内の功労・功徳や諸国行脚の活躍で世に認められていく。 確かにこの時期、写実的な少年小説は決して主流とはいえず、むし ろ学校制度という枠をもたない立身出世語・成功話が多数を占めて いたことは忘れてはならないであろう。 しかしそうした当時の状況をふまえてもなお 「新年」 には、同時 代の作品から大きく逸脱する点が認められる。注目されるのが、テ クストが薫、お筆の未来を暗示させつつも、最終的にそれを 「コ、 にはそれを書くことは出来ませぬ」 として描き出さずにとどめ置く ことである。「有為活発な男子」 「有名なる画工」 となる姿を可能性 のままにとどめ、あえて 「コ、」 すなわち現在を焦点化して描き也 すことは、両者をさまざまな可能性を内包した 「少年」 のままにラ クスト内にとどめ置くことを可能とする。そしてまさにこうしたあ り方こそが'当時の少年小説において固有な位置をしめるものと考 え得るのではないだろうか。 あらためて先の久米の発言に目を向けてみよう。ここで久米が「明 治教育体制の中の学童を描いた作品は極端に少ない」ことと同時に、 「ほとんどの主人公が歴史上の偉人や江戸期の少年」 であり、「旧体 制内の功労・功徳や諸国行脚の活躍で世に認められていく」 物語、 すなわち立身出世誼や成功話であることを指摘していることは注目 に値する。それはまさにさまざまな困難の果てに望ましい何ものか に (なる) 物語であり、まさにそうしたあり方こそが、天皇を中心
とする国家体制の要員たる (国民) に (なる) ことを要請する当時 の制度をなぞるものに他ならない。河原和枝が 「「少年文学」叢書の 大半を占めたのは、子どもに生き方のモデルを提示した偉人伝や英 雄伝であり、また主人公が苦難の未に自己実現を遂げるという教化 的な物語であって、それらは子どもを大人の世界へと導くために書 (-6) かれたものであった。」と指摘するように、時代を変えてはあっても それは、望ましい大人に (なる) という制度を内在化させへ その中 で子どもを位置づけるという意味においては、体制の論理を伝達す る装置としてあるといえるだろう。当時の少年文学が、大人に (な る)ものとして子どもを位置づ巾、制度を補強する役割を担ってい たことは、「少年は人生の花なり他日実を綻ば、日本国の基礎となら (-7) ん之を訓養するを忽にす可けんや」 と謳う 「少年文学」叢書の広管 文にも明確に示されている。そこで数多く語り出される成功誼や立 身出世譜は、こうした「他日」 「日本国の基礎と測引付」 (傍線引用 者)とする(子ども) にむけて書かれたものであり'それはまた「鉄 三鍛」 で鉄道が最終的に 「天晴一匹の男の列に入りけるめでたしめ でたし。」 と語り出されるあり方とたしかに呼応している。 ここで想起されるのが、かつて前田愛が、近代文学の中の子ども 像を 「なる」 「帰る」 「である」 と分類したことである。 近代文学の中に現れた子ども像を考える手がかりとして、さ しあたり三つのキー・ワードをあげてみようと思います..一 つは〟何かになる〝存在、大人になる過程として捉えられた子 ども像です。第二は、盤…垢な子ど心という概念、子どもの 世界を大人にとつてのユートピアとして捉え、そこへ大人が 帰って行く - 〟帰る〟対象としての子ども像です。 それからもう一つは、子どもというのは、決して〟何かにな る〟存在でもないし、大人が回帰していく対象でもない、子ど もは子どもであるという捉え方、子どもの中に、大人にはない さまざまな可能性、あるいは生成というものを発見しようとす (-8) る第三の立場です。 こうした分類をふまえて前田は、「巌谷小波が提唱した (少年文学) が、明治国家によって期待される子ども像を積極的に打ちだしてい ることはいうまでもありません」 とし、その上で、「『たけくらべ』 に登場する子ども達は'立身出世をめざす子ども達、あるいは刻苦 勤勉する子ども達とは裏腹な子ども像である。」 と述べ、そこに (な る)子どもとは対置される、(帰る)子どものあり方を見出すとする。 しかしすでに木股知史が指摘したように、一見制度からは逸脱して いるかのような 「たけくらべ」 の世界においても、学校制度の痕跡 (19) はぬぐいがたく刻印されており、何よりもその 「子供の世界から大 人の世界へと、境界を越えることによる子供たちの別れというテー (20) マ」自体が'大人に (なる) ことを前提とする少年小説の枠組みか ら逃れ得ていないことを証左するものといえるだろう。一見「立身 出世をめざす子ども達、あるいは刻苦勤勉する子ども達とは裏腹な 子ども像」 を描き出しているかのような 「たけくらべ」 もまた、制 度に組み込まれて行く者として子どもを捉えているという点におい ては、子どもを (なる) ものとみなす少年小説の制度の枠内にとど まっているといえるだろう。 こうした中で、「新年」 は、あくまでも「コ、」 を焦点化していく
ことにこだわろうとする。たしかにテクスト内において薫は、「それ にしても己は行末何にならう、大政治家か、大学者か、それとも軍 人になって三軍を指摘しやうか、それとも、何か新発明をして、ワ ットやフランクリンの様に名を後世に垂れやうか、何れにしても己 は偉い人にならなければならぬ、イヤ吃度己はなって見せる」 と述 べ、自分が将来何者かに (なる) ことへの望みを口にする。しかし テクストはこうした薫の意識を描きつつも、最終的にはそれを 「書 くことは出来ませぬ」 とし、物語の帰着点を何者かに (なる) 物語 とは異なる地点に向かわせようとする。「新年」 が、(なる) 物語に 帰着することを拒むあり方をみせていることは、繰り返される「愉 快」 というキーワードからも明らかであろう。「心が清浄潔白で、悪 気がなければ、『良心』は許してくれます、『良心』に許され、そし て遊びます、足れほど愉快なことはありません」 「お互への間柄が睦 ましく、心が清浄潔白なれば、何時も愉快。」 「『良心』に賞められ、 平和に愉快に英日を送る」 「本人ハ至極愉快に英日〈を送って居ま す」「『良心』の讃呼は愉快の原因L I「平和に愉快に封印を送る」 (傍線引用者) ことの重要性を説くこれらの言葉は、何かに(なる) 未来ではなく、今「コ、」における気分の充足、すなわち今「コ、」 の時間を焦点化する意識から生まれるものであろう。 加えてこうした意識を考える際に忘れてはならないのが、この物 語の時間が 「明治二十六年の春」 と設定されていることである. 。第 一節において既に確認したように、本作品は、明治二十五年十二月 二十八日の発行となっている。そうした読者が手に取ることが想定 される時間にあわせるかのようにへ 物語内の時間は 「明治二十六午 の春」を迎える 「今日」 「只今」 として提示される。それは物語時間 と読者の時間との意識的な重ね合わせを意味するものであり、こう した操作によって読者は、この作品が現在「コ、」 の物語であるこ とを強く意識させられることとなるのである。そうした点からも(な る) 物語に帰着することを拒むあり方が確認できるのではないだろ うか。 (なる) ことを義務づけられた制度の枠内に絡め取られない少年 の今 「コヽ」 の姿を焦点化し、描き出していくこと - まさにそれ こそが同時代の少年小説の中で 「出色」 とも呼び得るあり方であっ たといえるだろう。 しかし本テクストの固有性を、(なる) 物語に帰着することを拒む あり方のみに求めるのでは、不十分であろう。(なる) 物語に帰着す ることを拒み、かわりに本テクストが何を語り出そうとしていたの か、問われるべきはその点であろう。その点を考える際に注目され るのが、冒頭において本テクストが、「此少年がどうして新年を迎へ たかと云ふお話し」、すなわち少年の新年を描いた作品として自らを 規定していることである。 今一度、冒頭部に目を向けてみよう。冒頭語り手は、まず「今日」 が 「お正月」 すなわち新年であることを明らかにし、そのすぼらし さを 「一切平等」 「莞爾〈」 「愉快」 といったキーワードで語り出 していく。その上で 「少年諸君は人間の春」 と述べ、そうした新午 のすぼらしさを 「少年」 のあり方へと重ね合わせていく。その後も テクストは、「一切平等」 「莞爾〈」 「愉快」 といったキーワードを 主人公薫の様子と重ね合わせ、薫が 「新年」 のすぼらしさを体現す る存在、すなわち 「人間の春」 にある存在であることを強調してい く。こうした一連の流れをふまえるならば、先にあげたテクスト自
らの自己規定、すなわち少年の新年を描くということは、「人間の春」 である 「少年」 の姿を焦点化した作品であることを意味することに 気づく。「新年」が目指したもの、それは、「人間の春」 (である) 「少 年」 を焦点化し、語り出すことであったといえるだろう。 もちろんここで見出されている 「少年」 の姿が、現実の少年の姿 をそのまま写し取ったものではないことは言うまでもない。不自然 とも言えるほどに、「陽気」 で 「希望」 に満ちた薫のあり方は、少年 の持ち得る一面を過剰に強調された、あくまでも理念としての 「少 年」 の姿であり、そこには 「子どもの世界を大人にとってのユート ピアとして捉え、そこへ大人が帰って行く- 〟帰る〟対象として (2-) の子ども像」が透けて見えることは確かである。そうした意識は、「新 年」 を 「極楽」 として諾え、「あとは大抵地獄の世界」 と、その 「あ と」 すなわち大人としての生活を 「地獄」 として対置させることか らも確認できる。その点においては、「たけくらべ」 の描き出す、(帰 る) ものとしての子どもの姿と通底する意識が認められることは確 かである。 しかし(なる)ことを拒否する「新年」のあり方は、「たけくらべ」 のように大人に (なる) ことを前提に、感傷のもとにまなざされる 存在としての (子ども) の姿とは異なり、「前途に光り輝く『希望』 と云ふものを持って居る」 「莞爾 - 」 とした 「人間の春」 としてあ る 「少年」 の姿を、「少年」 のままに焦点化して描き出すことを可能 としていく。その姿は、同時代の少年小説において、何かに(なる) 存在にも、(帰る〉存在にも回収しきれない子どもの姿を描いた作品 として固有の位置を占めるものと呼び得るのではないだろうか。 もちろん同時代において子ども (である) ことへの注目がなかっ たわけではない。河原和枝は、巌谷小波の 「父兄がおとなしくさせ んとする小供を、小生はわんぱくにさせ、学校で利巧にする少年を、 (っ←2) 此方は馬鹿にする様なものに御座候」 といった発言に代表される明 治三十年代の発言をとりあげ、それが 「従順さを第一の美徳とする 旧式の封建的な子ども観に対する批判であると同時に、明治国家が 推し進めていた近代化の方向にある意味で異を唱えるものでもあっ た」 ことを指摘し、お伽噺に 「成功、栄達の価値を疑うことのない 立志少年の物語が制度化」 する方向がある一方で、「子どもを大人社 会の価値から遠ざけ、隔離しようとする態度」 すなわち 「子どもは 子どもであり、「大人の律」 で縛ってはならないという考え方」 も見 (23) 出せるとする。しかしここで留意すべきは、そうした子ども (であ る) ことに注目し尊重しようとする意識が作品化に向かう際に、写 実的な少年小説としてではなく、お伽噺やメルヘンといった別ジャ ンルを必要としたことであろう。小波が、子ども (である) ことを 重視する意識を空想的なお伽噺として結実させる一方で、写実的な 少年小説においては、体制の論理に従う (なる) 子どもの姿を描く といったようなアンビヴアレントなあり方を見せていたということ は、子ども (である) 姿を現実世界の論理の下に写実的に描き出す ことがいかに困難であったかをあらためて浮かび上がらせる。そう した中で、あくまでも写実的な少年小説の枠組みの中で 「少年」 (で ある) ことの形象化を目指す 「新年」 のあり方はやはり留意される べきであろう。 こうしてあらためてテクストが目指したものに目を向けたとき、 「新年」 があえて 「少年小説」 と明記されたことの意味もおのずと 見えてくるのではないだろうか。テクストが目指すものそれは、(な
る) 者としてではなく、「人間の春」 (である) 「少年」 そのものを写 実的な 「少年小説」 として描くこと、まさにその点にあった。そし てそれこそが同時代の子どもを描いた文学において 「出色」 と評し 得るものであり、従来の枠内では捉えきれない 「少年」 「小説」 のあ り方の一つであったといえるだろう。 四 (少年小説)成立の位相を示すもの これまで主に同時代の少年小説との比較を通して、学校制度の枠 から逸脱し、「人間の春」 (である) 「少年」 そのものを描いている点 に、「新年」 の固有性が認められることを確認してきた。しかし本チ クストをそうした一つのあり方のみに収赦させてしまうのは早計で あろう。「新年」 にはそうしたあり方が認められる一方で、それだけ では捉えきれないあり方も確認できる。テクストの固有性を考える 際には、そうした一義的評価では捉えきれない面にも目を向けるこ とが必要であろう。 注目されるのが、「新年」 には、同時代の現実や社会が抱える問題 に対する意識が、断片的な形ではあるが、様々に折り込まれている ことである。例えばテクスト冒頭部には'「地獄の世界」 が 「世の中 普通の状態」 であると語られている。それはこれ以降の明治二十年
代後半の小説を考えたときにも、興味深いあり方であったこと.も忘
れてはならないであろう。周知のように日清戦争後の文壇において (24) は、「社会的矛盾の別田」 をめざした悲惨小説や観念小説が一つの流 れを形作っていく。「新年」が示す、現実を 「地獄の世界」 とする意 識はまさにそうした次の時代へと向かう意識と呼応するものと考え られる。 同様に時代に対する意識として看過できないのが、作中に作者原 抱一庵の政治意識が断片的に挟みこまれていることである。「自由民 (25) 権運動史上画期的な意義を持つ」福島事件 (明治十五年) の際に、 巻き添えで未決監に入れられた経験 (後に未成年のため放免) を持 ち、その時の経験をもとにした政治小説 「闇中政治家」 (『郵便報知 新聞』明治二十三年十一月七日∼十二月九日、明治二十四年三月八 日∼四月二十一日) の好評によって文壇に登場したといった経歴が 示すように、抱一席は小説家になる以前から自由民権運動と深い関 (26) わりを持っていた。「新年」 にも、そうした抱一席の意識は断片的 な形ではあるが認められる。それが文中で引用される 「明月」 (『国 民之友』明治二十五年八月) である。薫がお等の家で、お筆と祖母 の帰りを待つ問に胸中に浮かんだ 「高明遠大な考」 として提示され るこの引用文は、薫が 「『貧』の味を味ひ出し」、「体を不羅ならしむ る労苦、心を高尚ならしむる考慮」 の有り難さを感じる場面として 語り出されていくが、本来この翻訳小説は、「祖父は帝党たり父は民 主党たり己れ政治の主義は父と同く民主にあり」 と語り出されてい ることが示すように、民主主義を主張する政治小説として書かれた (27) ものであった。そうした 「明月」 を 「高明遠大な考」 として引用し ていることは、「新年」 の基底に自由民権思想が潜められていること をうかがわせるものといえるだろう。またテクスト内には当時の教 育体制を絶対視するのではなく、むしろ相対化しようとする意識も 断片的にではあるが認められる。それが業の兄・昇の挿話である。「十 九の時大学校を卒業して外務省に奉職」 という経歴が示すのは、帝 大卒の知的エリートとしての姿といえるだろう。当時の学校組織は、帝国大学 (現東京大学) を頂点とした階層秩序体系として統制され ており、「十九の時大学校を卒業して外務省に奉職し、勉強家の聞え 高く、公使に属いて朝鮮に参って居」 たとされる昇は、まさに体制 適応の立身出世を体現する者といえる。しかし華々しい未来が約束 されているはずの昇は結局、「気候の俄かに変ったのと、余まり勉強 が過ぎたのが原因で、脳病を引起して彼地で没し」 てしまう者とさ れ、そうした昇の姿を通してテクストは、体制適応のエリートコー スにのり立身出世を果たすことが必ずしも個人としての幸福を保証 するものではないことを暗示していく。それらの様々な意識や挿話 は、同時代の現実に対する批判的なモチーフとして、「新年」 のあり 方を考える際に看過できないものといえるだろう。 ただしもちろんそうしたモチーフは、「人間の春」(である〉「少年」 そのものを描くことを焦点化する本テクストの内部では、あくまで も断片としての位置にとどまり、最終的に社会や現実への批判とし て前景化されることはない。「新年」 は、現実を 「地獄の世界」 とす る意識を共有しながらも、観念小説や悲惨小説のように社会を批判 すること自体を目的化するのではなく、それを 「心懸」 の問題とし て、最終的に教訓的メッセージへと回収していく。また作者抱一庵 の政治意識をうかがわせる「明月」も、テクスト内では「『貧』の味」 という教訓的な文脈へと変換させられ、同様に兄昇の挿話も体制批 判のメッセージとして明瞭な輪郭を与えられることはなく、「生命を 投げ出して日本国同胞の為めに働いて居る」 者としての文脈に取り 込まれ、そうした昇のあり方もふまえて「偉い人」になることを「『希 望』の華」 として希求する窯の姿が 「人間の春」 (である) 「少年」 として焦点化されていく。 現実や社会に対する批判および政治意識を折り込みながらも、最 終的には教訓的メッセージや指針として帰着していくあり方 - こ こに (少年小説) であるからこその制約や限界を見出すことも可能 であろう。同時代の現実や意識を折り込みながらも、最終的に教訓 的メッセージや指針の提示へと帰着させていく「新年」のあり方は、 (少年小説)成立の位相をはからずも照らし出している。しかし「新 年」 がそうした制約や限界を抱え込みながらも、社会や政治といっ た現実との接点を断片的な形ではあれ、様々な形で模索していたこ とは、そのあり方を考える際に看過できないものであることも確か であろう。そこには、児童文学がジャンルとして末だ確立していな かった明治二十年代の模索の跡が確認でき、それもまた 「新年」 と いうテクスト固有のあり方としてとらえることが可能なのではない だろうか。 五 まとめ これまで同時代の少年小説との比較を通して、「講 新年」が語り 出すものについて考察を加えてきた。その結果そこには、当時の理 念を共有しっつも、大人に (なる) という制度から逸脱し、「少年」 (である) ことを焦点化しようとする意識が認められることが確認 できた。それは当時の体制教化の手段としてあった児童文学の中に おいては、「出色」 と呼び得るあり方であり、固有の位置付けを持つ ものであったといえるだろう。 従来の児童文学研究においては、特に明治期の児童文学を語る際 には、体制側のイデオロギー伝達装置としてのあり方に目が向けら 10
れがちであり、今回取り上げた「新年」 のような、そこから逸脱す る作品には、十分な掘り下げが為されてきているとは言い難い。し かし、未だジャンルとして確立していなかったこの時期の児童文学 には、その後の児童文学が失っていく要素がさまざまに内包されて おり、その点がへ この時期の児童文学のおもしろさの一つとなって いることは確かである。本論が提示した「新年」のあり方も含めた、 さまざまなおもしろさの内実を、一つ一つ丹念に読み解いていく姿 勢が大切であろう。 *「諾 新年」の引用は『明治文学全集95明治少年文学集』(筑摩書 房、一九七〇・二) に拠った。なお、引用に際して、漢字の旧字 体は必要に応じて新字体に改め、ルビは適宜省略した。 《注》 (1)原島「原抱一庵」 (『児童文学事典』東京書籍、一九八八・四) (2)三宅典子「緯新年」(『日本児童文学大事典』大日本図書、一九九三 ・一〇) (3)福田清人「解題」 (『明治文学全集95明治少年文学集』(筑摩書房、一 九七〇・二) (4)桶谷行人「児童の発見」 (『日本近代文学の起源』講談社、一九八〇・八) (5)久米依子「(子ども)という領域-明治少年文学の行方IL(『日本文学』 一九九四・二) (6) 千葉俊二 「「少年文学」にみる子ども像」 (『国文学』一九八七・一〇) (7) 中村光夫『明治文学史』(筑摩董尻、一九六三・八) (8) 『西国立志編』では「良心」という語が繰り返し使われ'キーワード の一つとなっている。用例として次のような例が挙げられる。「常二 良心二従テ諸事ヲ行ヒ、必ズ貫徹スルマデニ為シタリ」 (第一編二十 八、引用は『改正西国立志縞』ヒ書屋蔵版、版権免許明治十年二月に よる) (9) 河原和枝「(子供)の発見と児童文学」(『児童文学の思想史・社会史』 東京書籍、一九九七・四) (10)「鉄三鍛」 の引用は『明治文学全集95明治少年文学集』(前掲注3) による。 (H)前田愛「元田永字と教育勅語」 (『歴史と人物』一九七三・二、引用は 『前田愛著作集第四巻 幻京の明治』筑摩書房、一九八九・二一によ る) (12)前田愛前掲注目 (1 3) 「暑中休暇」 の引用は『日本児童文学大系』第一巻(ほるぷ出版、一 九七七・一一) による。 (14)前田愛「「たけくらべ」序説」 (『国文学解釈と鑑賞』一九七四・二) (1 5) 久米依子前掲注5 (16) 河原和枝前掲注9 (1 7)『国民の友』(一八九〇・二・二十三)広告文 脚
(1 8) 前田愛「子どもたちの変容-近代文学史のなかでIL (『国文学』一九 八五・一〇) (19) 木股知史「制度と無境の間 日本近代文学における子供」 (『日本文学 史を読むIV近代-』有楠堂、一九九二・六) (20) 木版知史前掲注19 (2 1) 前田愛前掲注1 8 (22) 横谷小波「メルヘンに就て (武島羽衣君に答ふ)」 (『太陽』一八九八・ 五) (53)河原和枝前掲注9 / (24)佐藤勝「日清戦争後の文学」 (『日本文学全史5近代』学燈社、一九七 八・六) (25) 秋山男達 「原抱一店-生涯と業績-」 (『人文研究』一九九七・三) (26) 原砲一席は 「新年」 発表の翌年には、仙台の自由党系の機関紙である 『仙台自由新聞』に主筆として赴任しており、また従来の研究におい ても、この時期以降の作品には、「テロリズムを包摂した革命的民主主 義の翳が察知される」 ことが指摘されている。(金沢規娃 「『仙台自由 新聞』と原抱一庵」『文芸研究』一九五九・一一) (27) 「明月」 の引用は、『明治翻訳文学全集《翻訳家筋》 1 1原抱一席集』(大 空社、二〇〇三・三) による。 - おおさ・ようこ/博士課程後期三年 -12