司空図の詩作における「狂」について ─「 狂題十
八首」を中心に ─
著者
大山 岩根
雑誌名
集刊東洋学
巻
118
ページ
20-39
発行年
2018-01-24
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129938
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司空図の詩作における﹁狂﹂について
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﹁狂題十八首﹂を中心に
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大
山
岩
根
はじめに 晩唐の司空図︵八三七∼九〇八︶の名から我々が真っ先 に想起するのは、唐代屈指の詩論家としての司空図であろ う。 詩中の言語外に表れる余韻や含蓄を指す ﹁味外の旨﹂ ﹁韻 外の致﹂や、詩作を通して獲得される、実在する事物を超 越 し た イ メ ー ジ で あ る﹁ 象 外 の 象 ﹂﹁ 景 外 の 景 ﹂ を 詩 作 に おいて重視すべきとする主張などが、南宋・厳羽の妙悟説 や清・王士禎の神韻説にも大きな影響を与えたことは文学 史上の定説であ る ︶1 ︵ 。また司空図が詩作理論のエッセンスを 四言の韻文にまとめたとされる﹃二十四詩品﹄について近 年偽作説が提示され、その是非を巡り盛んに議論が交わさ れてきたが、これもある意味﹁詩論家﹂司空図への関心の 高さを裏付けるものであろう。 詩論はさておき、司空図が実際に創作した詩についての 先行研究に目を転じると、詩論に関する研究に比してその 数量が少ない観は否めない。そうした数少ない先行研究の スタンスも、前述のような主張が実作品にいかに反映され ているかを検証しようとする、いわば﹁理論と実践﹂の観 点からの分析に傾きがちであっ た ︶2 ︵ 。作品に即した研究は今 なおその途上にあるといってよい。 今 試 み に﹃ 司 空 表 聖 詩 集 ﹄︵ 四 部 叢 刊 本 ︶ を 繙 く と、 巻 三 に 収 め ら れ た﹁ 狂 題 二 首 ﹂﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ と 題 す る 二 つ の作品群が目に留まる。一見ごく平凡な詩題にも見受けら れるが、 現存する唐詩中に確認される詩語としての﹁狂題﹂ の用例は僅か三例存在するのみであり、かつ﹁狂題﹂を詩 題に冠するのは司空図詩が唯一の例であ る ︶3 ︵ 。この事実が詩 語としての﹁狂題﹂の特殊性を雄弁に物語っているように も思われる。 もとより﹁狂題十八首﹂は﹁司空図の生涯の思想を研究 集刊東洋学 第一一八号 平成三十年一月 二〇 −三九頁21 司空図の詩作における「狂」について(大山) する上での重要な作品であり、当時の司空図の思想の矛盾 や複雑さを反映している﹂と評されるごと く ︶4 ︵ 、各詩の内容 は多岐に亘っており統一性を欠いている。大まかではある が全十八首の内容分類を以下に示 す ︶5 ︵ 。 ① 司 空 図 の 詩 歌 創 作︵ 其 九・ 十・ 十 二・ 十 三 ︶、 ② 詩 僧の詩歌創作︵其六 ・ 七 ・ 八︶ 、③詠史︵其二 ・ 三 ・ 四︶ 、 ④病による衰え︵其十一 ・ 十四︶ 、⑤処世訓︵其五 ・ 十六︶ 、 ⑥世相への批判︵其一︶ 、⑦時間の経過の早さ︵其十五︶ 、 ⑧辞官後の感慨︵其十七︶ 、⑨唐末の混乱︵其十八︶ 。 以 上 の 分 類 か ら、 ﹁ 狂 題 ﹂ を 司 空 図 が 自 身 の 感 興 の 赴 く ま まに奔放に書き連ねた詩であるとする定義を導き出すこと は無論可能ではある。しかし﹁狂題十八首﹂における、詩 歌創作に関わる内容の多さ︵十八首中七首︶はやはり目を 引 く も の が あ り、 か つ そ の 多 さ は﹁ 雑 題 ﹂﹁ 漫 題 ﹂ と い っ た類似する詩題の司空図の連作詩には明確な形では見出し 難い傾向でもある。ここから、 司空図にとって﹁狂﹂とは、 或いは詩作行為との親和性の高い概念であったのではない かという疑問が生じてくる。 そ こ で 本 論 で は、 ﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ の う ち、 詩 歌 創 作 と 特 に密接に関わる内容の詩を考察の中心に据え、司空図の詩 作における﹁狂﹂の意味についてその一端を明らかにして いきた い ︶6 ︵ 。 一 詩作へと駆り立てるもの 本節では﹁狂題十八首﹂のうち、司空図が自らの詩作を 詠 じ た も の を 中 心 に 検 討 す る。 最 初 に 挙 げ る の は、 ﹁ 狂 題 十八首﹂其十である。 雨洒芭蕉葉上詩 雨は洒ぐ 芭蕉葉上の詩 独来凭檻晩晴時 独り来りて檻に凭る 晩晴の時 故園雖恨風荷膩 故園 風荷の 膩 なめ らかなるを恨むと雖 も 新句閒題亦満池 新句閒題 亦た池に満つ 芭蕉の葉は例えば﹁尽日高斎無一事、芭蕉葉上独題詩︵尽 日高斎 一事も無く、芭蕉葉上 独り詩を題す時︶ ﹂︵韋応 物﹁閑居寄諸弟︵閑居 諸弟に寄す︶ ﹂︶とあるごとく、そ の上に詩を記す素材として唐詩中に散見される。 三句目 ﹁故 園 ﹂ と は 中 条 山 中 の 王 官 谷 に あ っ た 司 空 図 の 別 業 を 指 す。 同句に見える風にそよぐ蓮の花︵風荷︶は﹁風荷似酔和花 舞、 沙鳥無情伴客閒︵風荷 酔うに似て 花に和して舞い、 沙 鳥 情 無 く 客 に 伴 い て 閒 た り ︶﹂ ︵ 司 空 図﹁ 王 官 二 首 ﹂ 其一︶と詠じられるごとく、王官谷の別業を彩る景物の一 つであった。その蓮が滑らかで光沢のある艶を湛えている 姿を眼にできないのを恨めしく思うが、しかし眼前の池を 眺めるうちに清新な詩句や長閑な詩が次々と浮かび上がっ
22 て 来 る、 と 司 空 図 は 詠 じ る。 な お 一 句 目 に 見 え る﹁ 芭 蕉 ﹂ は﹁狂題十八首﹂において三度も用いられており、そのい ずれも司空図の詩作に対する旺盛な意欲と関連するものと して登場する。その最も顕著な例が、其十三である。 芭蕉叢畔碧嬋娟 芭蕉叢畔 碧として嬋娟 免更悠悠擾蜀川 更に悠悠として 蜀川を擾すを免か る 応到去時題不尽 応に去る時に到るも 題すること尽 きざるべし 不労分寄校書箋 労せず 校書箋を分かち寄するを 青々として盛んに茂る芭蕉の葉は、司空図の大量の詩作を 書 き 留 め る の に も 十 分 な も の で あ る。 四 句 目 の﹁ 校 書 箋 ﹂ とは薛涛箋を指す。中唐期の女流詩人として著名な薛涛が 考案した詩箋で、詩を書きつけるのに適した紙幅であった とされる。薛涛の異名が ﹁女校書﹂ であったため、 ﹁校書箋﹂ と称したのであろう。 そ の 校 書 箋 を、 薛 涛 ゆ か り の 地 で あ る 蜀 か ら わ ざ わ ざ 送ってもらうには及ばない、 と詠じるのはいったい何故か。 司空図は﹁退居漫題七首﹂其二でも﹁只憂詩病発、莫寄校 書箋︵只だ憂う 詩病の発するを、校書箋を寄する莫れ︶ ﹂ と、 やはり校書箋を典故に用いている。ここで校書箋は ﹁詩 病﹂すなわち詩作に対する病的なまでの執着を引き起こし か ね な い も の と し て 詠 じ ら れ る。 ﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ 其 十 三 に おける校書箋もまた、これとほぼ同様の趣旨であると見な してよい。私にはすでに、とめどなく湧き起こる詩想を文 字として記録するには十分な芭蕉の葉があるから、詩作に さらに拍車をかけるような校書箋を取り寄せる必要などな いのだ、と。これらはいずれも、詩作に対する尋常ならざ る意欲を逆説的に表したものであ る ︶7 ︵ 。 こうした司空図の詩作への強い意欲は同じ ﹁狂題十八首﹂ の う ち 別 の 詩 で も や は り 芭 蕉 を 登 場 さ せ つ つ 表 明 さ れ る。 其十二がそれである。 来時雖恨失青 氊 来たりし時 青氈を失うを恨むと雖 も 自見芭蕉幾十篇 自ら見わす 芭蕉幾十篇 応是阿劉還宿債 応に是れ阿劉の宿債を還すなるべく 剰 拚 才思折供銭 剰 はなは だ才思を 拚 さ きて 供銭に 折 あ つ 一 句 目﹁ 青 氈 ﹂ と は い わ ゆ る﹁ 青 氈 旧 物 ﹂、 官 僚 や 富 豪 の 家 に 代 々 伝 わ る 家 宝 を 指 す。 ﹃ 晋 書 ﹄ 巻 八 〇、 王 献 之 の 伝 に見える、 夜間自室に侵入した盗賊に対し王献之が﹁偸児、 青氈我家旧物、 可特置之︵偸児、 青氈は我が家の旧物なり、 特 だ 之 を 置 く べ き の み ︶﹂ と 徐 に 語 り か け る と 盗 賊 は 驚 い て逃げ去った、という故事に基づく。こうした典故を用い た﹁青氈を失う﹂という表現はとある事実を反映したもの
23 司空図の詩作における「狂」について(大山) と考えられる。それは乾寧三︵八九六︶年、王官谷の別業 が兵火に遭い灰燼に帰した事件である。 この事件に関しては、司空図自身その著述の中で再三に わたり言及している。 丙辰春正月、陝軍復入、則前後所蔵及仏道図記共七 千四百巻、与是屏皆為灰燼。 丙辰︵乾寧三年︶春正月、陝軍復た入れば、則ち前 後の所蔵及び仏道図記共に七千四百巻、是の屏と皆灰 燼と為る。 ︵﹁書屏記﹂巻三︶ 司 空 氏 禎 貽 渓 休 休 亭、 本 濯 纓 也。 濯 纓 為 陝 軍 所 焚、 愚竄避踰紀。 司空氏の禎貽渓休休亭は、本の濯纓なり。濯纓 陝 軍の焚く所と為り、愚 竄避すること紀を踰ゆ。 ︵﹁休休亭記﹂巻二︶ 愚自丙辰之乱、前後所蓄図書七千四百巻、皆被陝軍 所焚。独司空氏之譜猶存者、以臥起毎与之 俱 、故雖経 喪乱弗失也。 愚 丙辰の乱より、 前後蓄うる所の図書七千四百巻、 皆陝軍の焚く所となるを被る。独り司空氏の譜のみ猶 お存するは、臥起する毎に之と 俱 にするを以て、故に 喪乱を経と雖も失わざるなり。 ︵﹁滎陽族系記 序 ︶8 ︵ ﹂︶ 引用文中に見られる ﹁陝軍﹂ 及び ﹁丙辰の乱﹂ については、 史 書 の 記 載 中 に は 見 え ず 詳 ら か に す る こ と は で き な い が、 恐らく前年︵乾寧二年︶河中節度使王重盈が没し、その後 継者争いに端を発した節度使間の抗争の余波ではないかと 推測され る ︶9 ︵ 。当時司空図は寓居先の華陰から 鄖 陽へ避難し ており無事であった が ︶10 ︵ 、別業のみならず所蔵する先祖伝来 の書籍や書画までもが焼失したことは司空図に大きな精神 的 打 撃 を 与 え た と 考 え ら れ る。 次 に 挙 げ る﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ 其十八には、そうした司空図の心理状態が如実に反映され ているように読み取れる。 曽聞劫火到蓬壺 曽て聞く 劫火 蓬壺に到らば 縮尽鼇頭海亦枯 鼇頭を縮め尽くして 海も亦た枯る と 今日家山同此恨 今日家山 此の恨みを同じくし 人帰未得鶴帰無 人帰ること未だ得ず 鶴帰るや無や 劫火が東海中の蓬壺︵蓬莱︶山まで至るとき、蓬壺山を背 に戴く鰲は恐れをなして首をすくめ、海も枯れ果ててしま う。この誇張された表現は一つには戦乱の続く唐朝末期の 世 相 の メ タ フ ァ ー と し て 機 能 し て い よ う。 同 時 に﹁ 劫 火 ﹂
24 が別業を焼き尽くした炎を想起させるものであり、結果と して別業が灰燼に帰したことへの喪失感を強烈に印象付け る表現ともなっているのではないだろうか。続く四句目に 見 え る﹁ 鶴 帰 ﹂ は、 ﹃ 捜 神 後 記 ﹄ 巻 一 に 載 せ る、 丁 令 威 の 故事に基づく語と考えられる。 丁令威、本遼東人。学道于霊虚山、後化鶴帰遼、集 城門華表柱。時有少年、挙弓欲射之、鶴乃飛、徘徊空 中而言曰、有鳥有鳥丁令威、去家千年今始帰。城郭如 故人民非、何不学仙塚塁塁。遂高上冲天。 丁令威は、本遼東の人なり。道を霊虚山に学び、後 鶴に化して遼に帰り、城門の華表柱に集まる。時に少 年有りて、弓を挙げて之を射んと欲するに、鶴乃ち飛 び、空中に徘徊して言いて曰く、鳥有り鳥有り 丁令 威、家を去ること千年 今始めて帰る。城郭故の如き も人民は非なり、 何ぞ仙を学ばずして塚塁塁たる、 と。 遂に高く上りて天を冲く。 本来は仙道を会得し鶴と化して故郷の遼東へと帰った丁令 威であるが、この四句目では﹁鶴帰るや無や﹂と疑問が呈 されている。その上の﹁人未だ帰り得ず﹂の﹁人﹂は司空 図を指すと思われるため、当該句は丁令威が果たして故郷 に帰り得たのであろうかと詠じることで、別業焼失に対す る司空図自身の喪失感を色濃く投影させたものであるとも 解釈できよう。 ここで﹁狂題十八首﹂の作成年代について確認しておき た い。 司 空 図 の 年 譜 は 複 数 存 在 す る が、 ﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ の 繋 年 に つ い て は、 ① 乾 寧 三︵ 八 九 六 ︶ 年 に 繋 年 す る 説 と、 ② 乾 寧 五︵ 八 九 八 ︶ 年 に 繋 年 す る 説 の 二 説 に 分 岐 し て い る ︶11 ︵ 。①説の根拠は﹁狂題十八首﹂其十七の一句目﹁十年三 署 譲 官 頻︵ 十 年 三 署 官 を 譲 る こ と 頻 り な り ︶﹂ が、 光 啓 元︵八八五︶年に司空図が中書舍人を拝命して以降、龍紀 元︵八八九︶年・景福元︵八九二︶年・乾寧三年の三度に わ た り 官 職 を 拝 命 す る も 病 を 理 由 に 辞 退 し た こ と を 指 す、 とするものである︵ ﹁十年﹂はその概数とする︶ 。一方②説 に拠れば、前掲の﹁十年三署﹂句について、龍紀元年から 数 え る と 乾 寧 五 年 が 十 年 目 に 当 た り、 ま た﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ 其十一の三句目﹁三十年来辞病表︵三十年来 辞病の表︶ ﹂ が、咸通十︵八六九︶年に司空図が進士科に及第後、乾寧 五 年 で お よ そ 三 十 年 経 過 し て い る こ と を 示 し て い る た め、 乾寧五年作とするのが妥当であると判断される。いずれの 繋年が正しいかを見定めることは本論の目的ではない。ま た﹁狂題十八首﹂が一時に作成されたのではなく、断続的 に制作された詩を後日連作詩としてまとめたという可能性 も排除できない。ただし其十二・十八に顕著に認められる ごとく、司空図の別業が失われた事実が反映されていると
25 司空図の詩作における「狂」について(大山) す れ ば、 ﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ が 少 な く と も 乾 寧 三 年 以 降 に 制 作 されたことはほぼ間違いなく、従来の繋年説を先行研究が 看過してきた別の観点から補強することになろう。 以上 ﹁狂題十八首﹂ 制作時の状況について確認した上で、 再度其十二に立ち返りたい。司空図は一句目で別業とそこ に所蔵されていた貴重な書籍等が失われたことへの痛恨の 思いを﹁青氈﹂の典故を用いて表白する。続く二句目では ﹁ 自 ら 見 わ す 芭 蕉 幾 十 篇 ﹂ と 前 句 か ら 一 転、 詩 作 に 対 す る旺盛な意欲の存在を芭蕉を詠じつつ窺わせている。これ を受けた三 ・ 四句目﹁応に是れ阿劉の宿債を還すなるべく、 剰だ才思を 拚 きて 供銭に折つ﹂は、劉さん︵阿劉︶は貯 めに貯めた負債︵宿債︶を返さねばならなかったが、自分 も ま る で 借 金 の 返 済 金 に 充 て る か の よ う に 詩 才 を 費 や し せっせと詩作に勤しんでいるのだ、と自嘲気味に詠じるも のである。 こ こ に 見 え る 阿 劉 云 々 に つ い て は、 ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 一、 武 帝 紀上に見える、高祖劉裕の故事に基づくと考えられ る ︶12 ︵ 。 初、高祖家貧、嘗負刁逵社銭三万、経時無以還。逵 執録甚厳、王謐造逵見之、密以銭代還、由是得釈。 初め、 高祖の家貧しく、 嘗て刁逵の社銭三万を負い、 時を経るも以て還すこと無し。逵 執録すること甚だ 厳しく、王謐 逵に造りて之に見え、密かに銭を以て 代わりに還し、是に由りて釈かるるを得。 王 謐 が 負 債 を 肩 代 わ り す る こ と で 劉 裕 は 刁 逵 に よ る 拘 束 ︵ 執 録 ︶ か ら 解 放 さ れ た。 し か し 司 空 図 の 場 合、 詩 作 は 単 に多作を誇るためだけのものではなく、別業を失った喪失 感を埋め合わせるためのやむなき、そして終りなき代償行 為としての側面も有していたのではないだろうか。恐らく は最晩年の作と思われる﹁白菊雑書四首﹂其二で司空図は ﹁ 此 生 只 是 償 詩 債、 白 菊 開 時 最 不 眠︵ 此 の 生 只 だ 是 れ 詩 債 を 償 う の み、 白 菊 開 く 時 最 も 眠 ら れ ず ︶﹂ と 詠 じ、 自 ら の 詩 作 に 対 す る 異 常 な ま で の 傾 倒 が﹁ 詩 債 ﹂、 す な わ ち 前世で十分に詩を作らなかったためにできた負債を償うも のであるとし、一種の宿命として受け止めるに至るが、そ うした認識の萌芽をこの﹁狂題十八首﹂其十二に認めるこ とも可能である。 以上﹁狂題十八首﹂のうち詩作に関わるものを中心に取 り上げた。いずれも詩作に懸ける司空図の強い情念の存在 を感じさせるものであったが、特に其十二についてはそう した詩作への傾倒と別業焼失という事件との関連性を窺わ せるものでもあった。あるいは司空図は、この事件を契機 として自己に内在するそうした情念が、 常軌を逸した﹁狂﹂ 的な性質を帯びたものであると認識したのではないだろう か。
26 二 詩僧と詩作 本節では﹁狂題十八首﹂に詠じられる、詩僧と詩作との 関係に焦点を当てて考察を進める。僧籍にありながら盛ん に詩作を行い、同時代の詩人たちとも詩の応酬等を通して 積極的に交流を持った詩人を﹁詩僧﹂と称することは周知 の 事 実 で あ る。 ﹁ 詩 僧 ﹂ と い う 呼 称 は、 自 身 も ま た 詩 僧 と 呼ばれた中唐の皎然の﹁酬別襄陽詩僧少微︵襄陽の詩僧少 微に別るるに酬ゆ︶ ﹂と題する詩︵ ﹃昼上人集﹄巻四︶を初 出とするとされる。また劉禹錫の﹁澈上人文集紀﹂ ︵﹃劉禹 錫 集 ﹄ 巻 十 九 ︶ に﹁ 世 之 言 詩 僧、 多 出 江 左。 霊 一 導 其 源、 護国襲之、清江揚其波、法振沿之︵中略︶独呉興昼公能備 衆体。昼公之後、澈公承之︵世の詩僧と言うは、多く江左 に出づ。霊一 其の源を導き、護国 之を襲い、清江 其 の波を揚げ、法振 之に沿う︵中略︶独り呉興の昼公のみ 能く衆体を備う。昼公の後、澈公之を承く﹂とあり、詩僧 の多くが江南の出身であったことと、霊一より始まる詩僧 たちの系譜が存在したことが知られる。 詩僧たちの活動が盛んになるのは中唐期以降であり、晩 唐期にも斉己 ・ 貫休といった著名な詩僧が輩出されるなど、 そ の 活 動 は よ り 活 発 で 普 遍 的 な も の と な っ た と 考 え ら れ る。司空図自身、こうした詩僧たちと詩歌の応酬を行って い た 形 跡 が 窺 え る が ︶13 ︵ 、﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ に も ま た、 詩 僧 を 詠 じた詩が計三首︵其六・七・八︶含まれている。内容及び その配列から三首は連作である可能性が高い。まずは其六 を取り上げてみたい。 由来相愛只詩僧 由来 相愛するは 只だ詩僧のみ 怪石長松自得朋 怪石長松 自ら朋を得 却怕他生還識字 却って怕る 他生 還た字を識らば 依前日下作孤鐙 前に依りて日下れて 孤鐙を作すを 司空図が唯一敬愛する対象である詩僧は、奇怪な形状の石 や 長 い 歳 月 を 経 て 大 き く 茂 っ た 松 を 己 が 友 と す る よ う な、 超俗的なヴェールを纏った人物でもある。しかしその彼で すら、来世に生まれ変わってもやはり文字を解するようで あれば、現世と同様日が暮れてもなお、ぽつんと灯るとも しびの下詩作に勤しまねばならないのではないかと恐れて いる、とうたわれる。詩僧が詩作に没頭するのも、それが 自身の意識的な選択であるのでは決してなく、文字を覚え てしまった時から宿命づけられた不可避な行為であるとい うのは恐らく詩僧の側から示された、詩作に耽ることに対 する一種の口実のようにも感じられる。では続く其七につ いてはどうであろうか。 老禅剰仗莫過身 老禅 剰だ仗るも 身を過つこと莫 し
27 司空図の詩作における「狂」について(大山) 遠岫孤雲見亦頻 遠岫孤雲 見ること亦た頻りなり 応是仏辺猶怕鬧 応に是れ仏辺 猶お鬧がしきを怕る べく 信縁須作且閑人 縁に信せ須らく作るべし 且だ閑な る人 遠くに連なる山並み︵遠岫︶にただ一つぽつんと浮かぶ雲 ︵孤雲︶ 、いずれもこの詩僧が俗世から隔たった山中に独り 籠っていることを暗示していよう。このように詩僧が山中 に籠ってしまうのも、偏に自らが仕える仏の側ですら騒が しさを感じ、外界との接触を絶って﹁閑人﹂となることを 願うからだ、と司空図は詠じる。僧でありながら仏すら敬 遠してしまうとは奇抜な表現ではあるが、其六と合わせて 考えるに、これは詩僧が詩作への没頭を恐れ、その欲求を 抑制すべくあらゆる刺激を避けようとするあまりこのよう な突飛な行動に走るのだ、と司空図が見なしている故であ ろうか。続く其八についても見てみたい。 止竟閑人不愛閑 止竟閑人 閑を愛さず 只婾無事閉柴関 只だ無事を婾しみて 柴関を閉ざす のみ 轟霆撹破蛟龍窟 轟霆 蛟龍窟を撹し破らば 也被狂風巻出山 也た狂風に巻かれて山を出ださる この詩僧は、外界から完全に隔絶した孤高の存在になろう と本気で考えている訳ではなく、ただ門を閉ざし内に籠っ て何もすることが無いのを楽しんでいるだけである。だか らこそ、轟く雷鳴が蛟龍の住む洞窟を震わせ蛟龍が目覚め る時、猛り狂う風に巻かれて山から追い出されてしまうの である。 こ の 詩 を 解 釈 す る 上 で 最 も 重 要 な 鍵 と な る の は 三 句 目 ﹁轟霆 蛟龍窟を撹し破らば﹂であろう。 ﹁蛟龍窟﹂につい ては杜甫﹁絶句四首﹂其二を典故として踏まえていると考 えられる。 欲作魚梁雲覆湍 魚梁を作らんと欲して 雲 湍を覆 う 因驚四月雨声寒 因りて驚く 四月 雨声寒きに 青渓先有蛟龍窟 青渓先ず有り 蛟龍窟 竹石如山不敢安 竹石 山の如きも 敢えて安んぜず 三句目について浦起龍は次のように解釈す る ︶14 ︵ 。 須知蛟龍之想。只従雲覆雨寒生出、値雲雨而蹴起文 情也。 須らく蛟龍の想を知るべし。只だ雲覆雨寒より生ま れ出でて、雲雨に値いて文情を蹴起するなり。 浦起龍はここで蛟龍と雲雨の関係に着目し、詩文創作への 意 欲 が﹁ 蛟 龍 得 水 ﹂、 あ た か も 蛟 龍 が 水 を 得 て 天 空 へ と 翔 け昇るが如き勢いで湧き起こってくる様を詠じようとした
28 杜甫の意図を解明して見せる。司空図詩の場合も、 ﹁雲雨﹂ が﹁轟霆﹂に置き換えられているのみで、そのいわんとす る所はほぼ同じであろう。いかに詩作への欲求を抑制しよ うとしたところで、心の奥底にしまい込んでいた詩心が雷 鳴によって喚起されたとき、それはもはや抑えようもなく ひたすら詩作へと奔走せざるを得ないのだ、と。 この﹁轟霆﹂について敷衍すると、司空図は自身の文学 論を披歴する文章の中でも雷を比喩として用いることがあ る。 ① 吾 適 又 自 編 一 鳴 集、 且 云 撑 霆 裂 月、 劫 作 者 之 肝 脾。 亦当吾言之無 怍 也。 吾 適たま又た自ら一鳴集を編み、且つ云うならく 霆を 撑 え月を裂き、作者の肝脾を劫う、と。亦た当に 吾言の 怍 ずるところ無かるべし、と。 ︵﹁与王駕評詩書︵王駕に与えて詩を評するの書︶ ﹂巻一︶ ②愚常覧韓吏部歌詩数百首、 其駆駕気勢、 若掀雷扶電、 撑 抉於天地之間。 愚 常て韓吏部の歌詩数百首を覧るに、其れ気勢を 駆駕すること、雷を掀り電を扶み、天地の間に 撑 抉す るが若し。 ︵﹁題柳柳州集後︵柳柳州集の後に題す︶ ﹂巻二︶ ③河渾 沇 清、放恣縦横。涛怒霆蹴、掀鼇倒鯨。 河渾り 沇 清み、放恣縦横。涛怒り霆蹴り、鼇を掀げ 鯨を倒にす。 ︵﹁詩賦﹂巻八︶ ①は自らが編纂した別集﹃一鳴集﹄について、雷を月に突 き刺して引き裂くように作者の真情を曝け出すことを企図 したと宣言するものである。②もまた、韓愈がその個性や 風格を存分に馳せて作った詩には雷を掴み取って天地の間 を支える柱とするような勢いに満ちている、と評するもの である。最後に③の引用文では、何物にも拘束されず縦横 無尽に詩想を馳せる様を、天に向かい逆巻く波涛や地面を け り 上 げ る よ う に 落 ち る 雷 な ど を 比 喩 と し て 用 い 表 現 す る。司空図の文学論においてこうした雷の比喩が大きな意 味 を 持 っ て い た こ と は 留 意 さ れ て よ く、 ﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ 其 八に見える﹁霆﹂もまた、単なる気象現象ではなく文学創 作 と 関 連 の あ る 語 と し て 用 い て い る と 判 断 さ れ る に 至 る。 ただし①から③の引用文に見られるような作品の持つ気迫 を形容するものとしてではなく、眠っていた詩心を呼び覚 ます契機を指すものとして解釈すべきであり、雷の放つ光 と音の強烈さから詩心の勃然として湧き起こる勢いの凄ま じさもまた想起される表現であろう。 ここで再度詩僧を巡る問題に立ち返りたい。 ﹁無心﹂ や﹁無
29 司空図の詩作における「狂」について(大山) 我﹂といった境地を理想とする仏教の教義と、自らの感情 を詩歌に託して詠じるという行為とが矛盾するのではない か、という問題は詩僧たちの活動が盛んになるにつれて顕 在化してきたといってよい。次に挙げる中唐の詩僧皎然の ﹃ 詩 式 ﹄ の 序 文 は、 そ う し た 問 題 に つ い て 詩 僧 自 ら が 自 己 の体験に基づき語ったものである。 叙 曰、 貞 元 初、 予 与 二 三 子 居 東 渓 草 堂、 毎 相 謂 曰、 世事喧喧、非禅者之意︵中略︶豈若孤松片雲、禅坐相 対、無言而道合、至静而性同哉。吾将深入杼峰、与松 雲 為 侶。 所 著 詩 式 及 諸 文 筆、 並 寝 而 不 紀。 因 顧 筆 硯、 笑而言曰、 我疲爾役、 爾困我愚、 数十年間、 了無所得。 況你是外物、何累於我哉。住既無心、去亦無我。予将 放爾、各還其性、使物自物、不関於予。豈不楽乎。遂 命弟子黜焉。至五年夏五月、会前御史中丞李公洪自河 北負譴、 遇恩再移、 為湖州長史︵中略︶他日言及詩式、 予 具 陳 以 夙 昔 之 志。 公 曰、 不 然。 因 命 門 人 検 出 草 本、 一覧而嘆曰、 早歳曽見沈約品藻、 恵休翰林、 庾信詩箴、 三子之論、 殊不及此。奈何学小乗褊見、 以夙志為辞邪。 再三顧予、敢不唯命。 叙に曰く、貞元の初め、予 二三子と東渓の草堂に 居り、毎に相謂いて曰く、世事喧喧として、禅者の意 に非ず︵中略︶豈に孤松片雲、禅坐して相対し、無言 にして道合し、至静にして性同じなるに若かんや。吾 将に深く杼峰に入り、松雲と侶と為らんとす。著す所 の詩式及び諸文筆、並びに寝めて紀さず。因りて筆硯 を顧みて、笑いて言いて曰く、我 爾の役に疲れ、爾 我 の 愚 か な る に 困 し み、 数 十 年 間、 了 に 得 る 所 無 し。 況や你は是れ外物にして、何ぞ我を累わすや。住まる も既に無心、去るも亦た無我。予 将に爾を放ち、各 おの其の性に還らしめ、物をして自ずから物たらしめ て、 予に関せざらしめんとす。豈に楽しからずや、 と。 遂 に 弟 子 に 命 じ て 焉 を 黜 け し む。 五 年 夏 五 月 に 至 り、 会たま前の御史中丞李公洪 河北より譴を負い、恩に 遇いて再び移されて、湖州長史と為る︵中略︶他日詩 式に言及し、 予 具さに陳ぶるに夙昔の志を以ってす。 公曰く、然らず、と。因りて門人に命じて草本を検出 す る に、 一 覧 し て 嘆 じ て 曰 く、 早 歳 曽 て 沈 約 の 品 藻、 恵休の翰林、庾信の詩箴を見るに、三子の言、殊に此 に及ばず。奈何ぞ小乗の褊見を学びて、夙志を以って 辞を為さんや、と。再三予を顧みれば、敢えて唯命せ ざらんや。 ︵皎然﹁詩式﹂中序︶ 最終的には李洪の慫慂により再び著作活動に立ち返るもの の、 皎 然 は 自 身 の 思 想 を 文 字 に 託 す 行 為 を 一 旦 は 放 棄 し、
30 山に籠っていることは興味深い。 こうした問題については、それに対し最も敏感であった と 考 え ら れ る 詩 僧 た ち の 側 か ら 解 決 策 が 提 示 さ れ て き た。 傍島史奈氏は、詩僧たちが佳句を得るために苦心して表現 に彫琢を凝らすことを否定せず、むしろその苦心の跡を残 さない﹁忘筌﹂の境地を理想としており、また仏道と相反 する詩作に努めることが却って悟りの道へ通じるという大 乗仏教の観点から詩作を定義することで矛盾の解決を図っ た、とす る ︶15 ︵ 。一方、時代が下り北宋の蘇軾が再度、僧侶が 詩作を行うことの矛盾についての問題提起を行うな ど ︶16 ︵ 、僧 侶の詩作を巡る問題は詩人たちの側からも興味を引く問題 であったように思われる。 しかしそうした議論はさておき、現実には詩作に没頭す る詩僧は後を絶たず、その没頭ぶりを自身の詩に詠じ込む 行為もまた常態化しつつあった。 司空図と同時代の詩僧で、 司空図とも交遊のあったことで知られる斉己が﹁日用是何 専、吟疲即座禅︵日用 是れ何をか専らにす、吟じ疲れれ ば 即ち座禅す︶ ﹂︵ ﹁喩吟﹂詩︶ ﹁正堪凝思掩禅扃、又被詩 魔悩竺卿︵正に凝思し禅扃を掩う堪きも、又詩魔の竺卿を 悩 ま す を 被 る ︶﹂ ︵﹁ 愛 吟 ﹂ 詩 ︶ と 詠 じ る の は そ の 好 例 で あ ろう。 司空図自身はこうした詩僧たちの詩作についていかに捉 え て い た の で あ ろ う か。 ﹁ 与 王 駕 評 詩 書︵ 王 駕 に 与 え て 詩 を 評 す る の 書 ︶﹂ で 司 空 図 は﹁ 浪 仙、 無 可、 劉 得 仁 輩、 時 得佳致、亦足滌煩︵浪仙、無可、劉得仁の輩、時に佳致を 得 て、 亦 た 煩 わ し き を 滌 う に 足 る ︶﹂ と、 詩 僧 で あ る 無 可 を賈島︵字浪仙︶や劉得仁と並べてその詩に一定の評価を 与えている。 その一方、 ﹁僧舍貽友人 ︵僧舍にて友人に貽る︶ ﹂ 詩では﹁解吟僧亦俗、愛舞鶴終卑︵解く吟ずれば 僧も亦 た 俗、 舞 う を 愛 す れ ば 鶴 も 終 に 卑 し ︶﹂ と 詠 じ、 自 然 に 舞う姿が美しいとされる鶴も、舞うことを愛するようにな ればかえって卑しい姿に映じる様に、僧も詩作に巧みであ れば俗世の凡人と同等の存在となり得るとの認識も示して いる。 ﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ に 詠 じ ら れ る 詩 僧 の 場 合、 そ の 作 品 の 評 価 や 詩 作 の 是 非 に つ い て は 問 題 と さ れ て い な い よ う で あ る。何故なら、ここでの司空図の関心の所在は、詩作を抑 制することを許さず、逆に詩作へと駆り立てるような外的 要因と、それに呼応する情動、いわば﹁詩心﹂の作用にあ るからである。司空図は仏道との矛盾を抱えつつ、なおも 詩作を続けざるを得ない詩僧の姿に、衝動を抑えきれず詩 作へとのめり込んでいく自己の姿を投影しているのではな いだろうか。ここで詠じられている詩僧とは、いわばもう 一 人 の﹁ 自 分 ﹂、 す な わ ち 詩 人 自 ら の 姿 を 客 体 化 し て 描 い
31 司空図の詩作における「狂」について(大山) た形象に他ならないと考えられる。 三 自己規定としての﹁狂﹂ 本 節 で は 司 空 図 の 詩 作 に お け る﹁ 狂 ﹂ の 意 味 に つ い て、 別の角度から探ってみることとする。 詩歌のみに限定すれば、司空図詩における﹁狂﹂字の用 例は全十三例を数える。その内複数の用例が確認できるの は﹁ 狂 題 ﹂︵ 二 例 ︶、 ﹁ 狂 才 ﹂︵ 二 例 ︶、 ﹁ 狂 風 ﹂︵ 二 例 ︶ の 三 語であるが、ここでは﹁狂才﹂を検討の対象とする。次に 挙げるのは﹁綸閣有感︵綸閣にて感有り︶ ﹂詩である。 風涛曽阻化鱗来 風涛 曾て阻む 鱗に化して来るを 誰料蓬瀛路却開 誰か料らん蓬瀛 路却って開かるる を 欲去遅遅還自笑 去らんと欲するも遅遅として 還た 自ら笑う 狂才応不是仙才 狂才は応に是れ仙才ならざるべし ﹁ 綸 閣 ﹂ と は 中 書 省 の 別 名。 司 空 図 は 光 啓 元︵ 八 八 五 ︶ 年 及び龍紀元︵八八九︶年に中書舍人の官を拝している。前 半二句では風や波に阻まれて中々出世︵化鱗︶への糸口が 掴めなかったのに、全く思わぬ形で蓬莱や瀛洲への路が開 かれたのだ、と詠じるが、本来は神仙の住む山である蓬莱 や瀛洲もここでは官界を示す比喩となっており、中書舍人 に 任 ぜ ら れ た こ と を 指 す の は 明 白 で あ る。 後 半 二 句 で は、 その中書舍人の官を辞して去ろうにもなかなか果たせない 自らの姿を笑いつつ、 ﹁狂才﹂ である自分に ﹁仙才﹂ は備わっ ていないのだ、と結ぶ。蓬瀛が官界を指す語であったのと 同様、仙才もまたここでは官界で成功を収め出世への道を 邁進するための才覚を指していよう。引き続き、狂才が用 いられているもう一首の詩﹁白菊雑書四首﹂其三を以下に 示す。 狂才不足自英雄 狂才 自ら英雄たるに足らず 僕妾駆令学販舂 僕 妾 駆 令 し て 舂 を 販 る を 学 ば し む 侯印幾人封万戸 侯印 幾人か 万戸に封ぜらる 儂家只弁買孤峰 儂 わ 家 れ は只だ 弁 よ く 孤峰を買うのみ 狂才である私は、世人の賞賛を受け青史に名を残すような 英雄になどなり得ず、それどころか召使いや下女を駆り立 てて精白した穀物を売らせては糊口をしのぐような貧しい 暮らしぶりだ︵販舂︶ 、と前半二句で自嘲を込めてうたう。 しかし後半二句では一転、その功績により諸侯に列した者 の中で、万戸侯に封ぜられ栄華を極めた者など一体どれほ どいようか、それよりも私はただ山一つ買ってそこに安住 するだけだ、と浮世のはかない栄華と対比することで富貴
32 や名誉を重んじる世間の常識には目もくれない自らの姿を 誇らしげな口吻をもって示すのである。 さて、四句目では第一人称の代名詞として﹁儂家﹂とい う口語的な言い回しが用いられているが、司空図詩にはも う 一 例﹁ 儂 家 ﹂ の 用 例 が あ る。 ﹁ 力 疾 山 下 呉 村 看 杏 花 十 九 首︵ 疾 を 力 お し て 山 下 の 呉 村 に て 杏 花 を 看 る 十 九 首 ︶﹂ の 其 六の後半﹁儂家自有麒麟閣、第一功名只賞詩︵儂家に自ら 有 り 麒 麟 閣、 第 一 の 功 名 只 だ 詩 を 賞 づ る の み ︶﹂ が そ れ で あ る。 ﹁ 麒 麟 閣 ﹂ と は 漢 の 未 央 宮 内 に あ っ た 建 物 で、 宣帝が霍光を初めとする功臣の画像を安置させた場所であ り、 後 に 功 臣 に 対 し 与 え ら れ る 栄 誉 を 象 徴 す る 典 故 と も なった。 司空図はここで、私にも﹁麒麟閣﹂と称すべきものは存 在するが、そこに掲げられるべき第一の功名とは詩歌を鑑 賞し楽しむことのみである、と断言する。詩歌の鑑賞︵広 義には創作もそこに包括されるであろう︶という個人的な 行為がここでは誇るべき最大の栄誉とされ、しかもそれを 標榜する際に司空図は﹁儂家﹂という通俗的な語を用い普 遍的な価値観ともより一層鋭く対立する。ここに示された 司空図の姿勢は﹁儂家﹂を媒介として﹁白菊雑書四首﹂其 三に詠じられた﹁狂才﹂司空図の姿へと重なっていくよう に思われる。狂才という自己規定からは常識の束縛を脱し 文学的営為に己の存在価値全てを賭けようとする姿を、他 者に対しインパクトをもって印象づけようとする強烈な自 意識が窺えるのであ る ︶17 ︵ 。 そもそも詩人が自らを﹁狂﹂を以て称する例は、司空図 以 前 に も 複 数 存 在 す る。 ﹁ 四 明 の 狂 客 ﹂ と 自 称 し た 盛 唐 の 賀知章などはその好例であろうが、その賀知章を敬慕した 李白も﹁我本楚狂人、鳳歌笑孔丘︵我は本楚の狂人、鳳歌 孔 丘 を 笑 う ︶﹂ ︵﹁ 盧 山 謡 寄 盧 侍 御 虚 舟︵ 盧 山 謡 盧 侍 御 虚 舟 に 寄 す ︶﹂ 詩 ︶ と、 自 身 を﹁ 楚 の 狂 子 ﹂ す な わ ち 狂 接 輿 になぞらえるが、これには俗世と決別し仙界に遊ばんとす る李白の願望が投影されてい る ︶18 ︵ 。しかし自己規定としての ﹁狂﹂ を通覧した際、 一つの画期となったのは杜甫であろう。 杜甫は﹁狂夫﹂と題する詩の後半四句で自身の姿を次のよ うに詠じる。 厚禄故人書断絶 厚禄の故人 書 断絶し 恒飢稚子色凄涼 恒に飢うる稚子 色 凄涼たり 欲填溝壑惟疎放 溝壑に填せんと欲するも 惟だ疎放 自笑狂夫老更狂 自ら笑う 狂夫老いて更に狂なるを 出世を果たした友人に見放され、幼子を養うことすらまま ならぬ貧窮ぶりを杜甫は自嘲を込めた筆致で描き出し、自 らを老いてなお﹁狂﹂ぶりに磨きがかかる﹁狂夫﹂である と笑う。
33 司空図の詩作における「狂」について(大山) 自らを﹁狂夫﹂と称する例はこの杜甫詩を嚆矢とするも のであり、それが杜甫のいかなる自己認識の下なされたも のであるかについては、すでに先行研究において言及され ている。横山伊勢雄氏はこの﹁狂夫﹂詩について﹁厚禄や 名声の社会と無縁となったこの詩人が、貧窮と孤独につつ まれながら、自己を疎外する外界を睨み付けている眼が認 められよう﹂ と述べる。その上で横山氏は更に論を進め ﹁こ こ に お い て 杜 甫 は、 ﹁ 一 小 伎 な る 文 学 ﹂ に 自 己 の 存 在 を か ける生き方を確立したのである﹂と指摘す る ︶19 ︵ 。谷口真由実 氏 は 横 山 氏 の 指 摘 を 継 承 し つ つ、 ﹁ 根 本 に 自 ら を 客 体 化 し て﹁狂夫﹂と認識する鋭い眼差しがある﹂とし、その眼差 しの鋭さを通して杜甫の苦い自嘲が浮かび上がると指摘 す ︶20 ︵ る。一方八木章好氏は、この狂夫には儒家のいう所の﹁狂 狷 ﹂ 的 な 生 き 方 が 投 影 さ れ て お り、 ﹁ 表 面 的 に は 自 嘲 的、 自戒的に歌ってはいても、 実は、 そこには自らを恥じたり、 や ま し く 思 っ た り す る 気 持 ち は 少 し も な く ﹂、 そ う し た 不 器用な生き方を貫き通してきた自分自身を誇りにさえ感じ ていた、と指摘す る ︶21 ︵ 。 以上杜甫の﹁狂夫﹂について先行研究の中から三氏の見 解 を 掲 げ た が、 ﹁ 狂 夫 ﹂ の 語 に 杜 甫 の 自 嘲 を 認 め る か 否 か で大きな振幅があるのが見て取れる。これは﹁狂夫﹂とい う自己規定が杜甫の時代においてなお定義が定まっていな い状況を反映するものであると考えられる。かつ狂夫とい う 詩 語 は、 ﹃ 詩 経 ﹄ 以 来 の 伝 統 に お い て﹁ 愚 か 者、 浮 か れ 歩く者﹂を指すものとして用いられる例が圧倒的多数を占 めてお り ︶22 ︵ 、そこからネガティブな語感を完全に払拭するこ とは難しいことにも起因していよう。それ故杜甫も自らを 笑うことを免れないのである。この点において司空図は杜 甫とは対照的に、文学創作が世俗における名誉と同等の価 値を有することに揺るがぬ確信を抱いている。同時に自ら が優れた文学作品を世に問うにふさわしい才を備えている との認識も示す。狂にしてかつ才、それが司空図の狂才と いう自己規定である。杜甫のような自嘲の口吻はそこから 影を潜めていよう。 話を再度﹁狂夫﹂に戻すが、杜甫以降で自らを狂夫と称 する代表例は、白居易のそれである。一例を挙げると白居 易は﹁問少年︵少年に問う︶ ﹂詩で次のように詠じる。 千首詩堆青玉案 千首の詩は青玉の案に堆く 十分酒写白金盂 十分の酒は白銀の盂に写ぐ 回頭却問諸年少 頭を回らせて却って諸年少に問う 作个狂夫得了無 个の狂夫と作りて了るを得るや無し やと 白居易は東都洛陽での閑適の日々の中で酒や詩歌に喜びを 見出す自身を狂夫と称するが、そこには充足感と相まって
34 精神的余裕をも感じさせる。この白居易の﹁狂夫﹂という 自己規定について、二宮俊博氏は次のように述べ る ︶23 ︵ 。 ところで、洛陽時代の白居易にあっては、先に一部 指 摘 し て お い た よ う に、 ﹁ 狂 ﹂ と い う 自 己 規 定 は、 時 流に抗するアンチテーゼを示すものではなかった。そ の 一 方 で、 白 居 易 が 生 き た 中 唐 の 時 代、 ﹁ 狂 ﹂ と い う 文字がもし﹁狂疎﹂といった如く、人となりを指して 用いられれば、柳宗元の用例から窺えるように、必ず しも好意的肯定的評価を意味するものではなく、むし ろ逆に、その人物を擯斥指弾するといった性格をも有 す る も の で あ っ た。 ︵ 中 略 ︶ 当 時 彼 の 生 活 を 支 え た 思 想が明哲保身を旨とするものであったが故に、白居易 の 心 情 は、 時 と し て﹁ 狂 ﹂ に 向 う 遠 心 力 と、 ﹁ 中 庸 ﹂ に戻らんとする求心力、この両者の危い均衡の上に立 つものではなかっただろうか。 ﹁ 狂 ﹂ と い う 人 物 評 価 が ポ ジ テ ィ ブ な も の と し て よ り も ネ ガティブな意味合いで捉えられる時代にあって、白居易に おいてすらなお﹁狂﹂に徹しきれない一種の疚しさを抱え ていたことを二宮氏は指摘する。しかし司空図のいう狂才 は﹁仙才﹂や﹁英雄﹂といった羨望や憧憬の対象とは正反 対 の 存 在 で あ り つ つ、 ﹁ 賞 詩 ﹂ と い う 行 為 を バ ネ に 価 値 観 を反転させ自らを上位に置こうとする意図を内包するもの である。そこには他者と峻別し、かつ自身の信念に些かの 疑念も抱かぬ孤高の精神が垣間見える。杜甫の狂夫という 自己規定を究極的に突き詰めた先にあるもの、それが司空 図のいう﹁狂才﹂だったのではないだろうか。 ではそうした ﹁狂才﹂ 司空図は、 ﹁狂題十八首﹂ において、 自らの詩作をいかに総括しているのであろうか。その一端 が窺えるのが、 ﹁狂題十八首﹂其九である。 地下修文著作郎 地下に文を修むるは 著作郎 生前飢処倒空牆 生前飢えし処 空牆を倒す 何如神爽騎星去 何ぞ如かんや 神爽として星に騎り て去り 猶自研幾助玉皇 猶お自ら研幾して 玉皇を助くるに 一句目﹁地下に文を修む﹂とは修文郎、すなわち死後の世 界 で 文 章 を 司 る 官 を 指 す の で あ ろ う。 ﹃ 太 平 広 記 ﹄ 巻 三 一 九 に 引 く 王 隠﹃ 晋 書 ﹄ に﹁ 顔 淵、 卜 商、 今 見 在 為 修 文 郎、 修 文 郎 凡 有 八 人。 ︵ 顔 淵、 卜 商 は、 今 見 在 修 文 郎 為 り て、 修文郎は凡そ八人有り。 ︶﹂と見える。一方﹁著作郎﹂は唐 代の官制においては文章を司る官職名であるが、二句目と 合わせて読むと、ここでの著作郎とは或いは盛唐の鄭虔の ような人物を想定しているのかもしれない。 鄭虔、鄭州滎陽人︵中略︶嘗自写其詩并画以献、帝 大署其尾曰、 鄭虔三絶。遷著作郎︵中略︶在官貧約甚、
35 司空図の詩作における「狂」について(大山) 澹如也。杜甫嘗贈以詩曰、才名四十年、坐客寒無氈。 鄭虔、鄭州滎陽の人なり︵中略︶嘗て自ら其の詩を 写き画と并せて以て献じ、 帝 其の尾に大署して曰く、 鄭虔三絶と。著作郎に遷さる︵中略︶官に在りて貧約 甚だしきも、澹如たり。杜甫嘗て贈るに詩を以てして 曰く、才名 四十年、坐客 寒きも氈無し、と。 ︵﹃新唐書﹄巻二〇二︶ 以上を踏まえ詩全体を解釈すると次のようになろう。著作 郎は死後の世界においても修文郎として文章作成に携わっ た。 彼 は 生 前 飢 え に 苦 し む ほ ど 困 窮 し た 日 々 を 送 っ た が、 その邸宅も崩壊した壁がその名残を留めるのみ。それなら ば い っ そ の こ と、 星 に 乗 っ て 颯 爽 と 天 上 の 世 界 へ と 去 り、 文章の奥義を極めつつ︵研幾︶玉皇大帝に仕えた方がまし ではないか、と。 ここで著作郎に象徴されるのは、官僚の責務として、ま た 己 の 名 誉 や 出 世 の た め に 詩 文 の 作 成 に 励 む 生 き 方 で あ る。これと対比される天上の世界は、そうした制約とは無 縁のただ自身の意欲に任せ創作に没頭できる境地を指すの であろう。自らを世間と相容れない﹁狂才﹂であると認識 した司空図は、やがてその残りの人生を傾注するに値する 対象としての詩作を再発見するに至る。前述のように﹁狂 題十八首﹂には別業焼失というネガティブな体験が影を落 と し て い る。 し か し 同 時 に、 司 空 図 は こ の﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ の制作を通し詩作に対して新たな価値を見出すに至ったの ではないだろうか。 おわりに 以 上 司 空 図 の 詩 作 と﹁ 狂 ﹂ と の 関 連 性 に つ い て、 ﹁ 狂 題 十八首﹂ を端緒として考察してきた。本論における考察が、 司空図の文学作品に現れる﹁狂﹂の意味を全て包括しうる ものでは無論ない。しかし、敢えて詩作行為と﹁狂﹂とい う限定された対象に焦点を当てることによって興味深い事 実が浮かび上がってきたこともまた事実である。常軌を逸 す る ほ ど 詩 作 へ と 傾 倒 し て い く こ と の 背 景 に は、 兵 火 に 遭って別業が失われたという事件が見え隠れするように思 われる。まるで喪失感を埋め合わせるかのように自らを駆 り立てる狂的なまでの情念、それが司空図の詩作における ﹁ 狂 ﹂ の 一 つ 目 の 意 味 で あ る。 ま た﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ に お い て再三にわたり詠じられる、詩作を放棄せんとして果たせ ない詩僧の姿にも、あるいは司空図自身の姿が投影されて いるのかもしれない。 もう一つの意味は司空図の詩作に対する姿勢と関わるも のである。司空図は世俗的な価値観一切に背を向け、詩作
36 の中に自己の存在意義を見出したのであり、そこから世間 と相容れない﹁狂﹂にしてかつ優れた詩文を世に問うに足 る﹁才﹂であるという自己規定、すなわち﹁狂才﹂という 語が現れる。この自己規定からは自嘲や後ろめたさは看取 されず、むしろ強固な自負が支柱となって彼の詩作を支え ているようにも感じられる。 最後に一点、司空図の詩論と﹁狂題十八首﹂の関連性に つ い て 触 れ て お き た い。 ﹁ は じ め に ﹂ で 述 べ た 通 り、 司 空 図は詩論家として後世に多大な影響を与えたのであり、そ の詩論を代表するとされる﹁味外の旨﹂や﹁象外の象﹂と いった主張と﹁狂題十八首﹂の間には懸隔が存在する観は 否 め な い。 無 論 こ う し た 主 張 が 司 空 図 の 詩 論 の 全 て を カ バーするものではない。また司空図が﹁題紀の作﹂ ︵﹁与極 浦書︵極浦に与うるの書︶ ﹂巻三︶ 、すなわち詩題に忠実に 実景を描写した詩も重視しており、かつ﹁詩貫六義、則諷 諭、抑揚、淳蓄、温雅、皆在其間矣。然直致所得、以格自 奇︵詩は六義を貫けば、則ち諷 諭 、抑揚、淳蓄、温雅、皆 其の間に在り。然らば直ちに得る所を致さば、格を以て自 ら 奇 な り ︶﹂ ︵﹁ 与 李 生 論 詩 書︵ 李 生 に 与 え て 詩 を 論 ず る の 書 ︶﹂ 巻 二 ︶ と あ る ご と く、 自 ら が 得 た 着 想 を 直 截 的 に 詩 に託せば、詩人に備わる個性︵格︶に基づき自ずと奇抜な 表現へと至ると述べるなど、その詩論には上述の主張のみ に単純化できない多面性が内包されていることも、先行研 究ですでに明らかにされている所であ る ︶24 ︵ 。これに照らし合 わ せ る な ら ば 司 空 図﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ と は ま さ に、 ﹁ 直 ち に 得る所を致した﹂代表作であり、詩作の多様さを示す好例 とも見なせよう。 司空図にとって﹁狂題十八首﹂の制作は、自らに内在す る詩作に懸ける狂的な情念を認識し、かつ詩作が生涯を傾 注するに値すると確信する一つの契機ともなったと考えら れる。そうした情念を司空図は﹁詩魔﹂ ﹁詩病﹂ ﹁詩債﹂な ど の 語 で 表 現 す る が、 ﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ は そ こ に 至 る 過 程 に も位置付けられるのである。 注 ︵ 1︶ 周 祖 譔 主 編﹃ 中 国 文 学 家 大 辞 典 唐 五 代 巻 ﹄︵ 中 華 書 局、 一 九 九 二 年 ︶ の﹁ 司 空 図 ﹂ の 項 目 参 照。 項 目 執 筆 者 は 呉 在 慶氏。 ︵ 2︶ 張少康 ﹃司空図及其詩論研究﹄ ︵学苑出版社、 二〇〇五年︶ 第二章﹁司空図的詩歌創作﹂など。 ︵ 3︶ 司空図以外の用例は次の通り。 ﹁爛酔百花酒、 狂題幾首詩﹂ ︵ 項 斯﹁ 途 中 逢 友 人 ﹂ 詩、 ﹃ 全 唐 詩 ﹄ 巻 五 五 四 ︶、 ﹁ 洞 庭 雲 夢 秋、 空 碧 共 悠 悠。 孟 子 狂 題 後、 何 人 更 倚 楼 ﹂︵ 斉 己﹁ 懐 巴 陵 旧 遊 ﹂ 詩 ︶。 項 斯 詩 の 場 合 は 酒 興 に 任 せ 詩 を 書 き 連 ね る 行為が ﹁狂題﹂ と表現されている。斉己詩の ﹁孟子の狂題﹂
37 司空図の詩作における「狂」について(大山) は 岳 陽 楼 を 詠 じ た 絶 唱 と し て 名 高 い﹁ 臨 洞 庭 湖 贈 張 丞 相 ﹂ 詩 を 指 す。 ﹁ 狂 題 ﹂ に 些 か の 価 値 判 断 が 含 ま れ る と も 考 え ら れ る が、 基 本 的 に は 狂 っ た よ う に 詩 を 作 る 意 か ら 大 き く 逸れるものではないように思われる。 ︵ 4︶ ﹁ 該 組 詩︵ 筆 者 注 ﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ を 指 す ︶ 也 是 研 究 司 空 図 生 平 思 想 的 重 要 作 品、 反 映 了 其 時 司 空 図 思 想 的 矛 盾 複 雑 性。 ﹂︵陶礼天﹃司空図年譜彙考﹄ 、華文出版社、 二〇〇二年︶ 一三四頁。ただ当該書は司空図詩の専論ではないため、 ﹁狂 題 十 八 首 ﹂ の 矛 盾 や 複 雑 さ に つ い て 詳 細 に 論 じ ら れ て い る 訳ではない。 ︵ 5︶ な お も う 一 つ の 連 作 詩 で あ る﹁ 狂 題 二 首 ﹂ は、 異 郷 の 地 に お け る 強 烈 な 望 郷 の 念 を 詠 じ た も の と 考 え ら れ る。 ﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ の う ち、 紙 幅 の 都 合 上 取 り 上 げ な か っ た 詩 と 合 わせ、別稿で論じることとしたい。 ︵ 6︶ 本 論 所 引 の 司 空 図 詩 の 底 本 は﹃ 司 空 表 聖 詩 集 ﹄︵ 四 部 叢 刊 本、 ﹃ 唐 音 統 籤 ﹄ か ら の 抜 き 書 き で あ る ︶ を 用 い た。 司 空図の文については ﹃司空表聖文集﹄ ︵四部叢刊本︶ を用い、 適 宜﹃ 全 唐 文 ﹄ に 拠 り 校 勘 し た。 そ れ 以 外 の 引 用 文 の 底 本 は以下の通り。孫望編著 ﹃韋応物詩集繋年校箋﹄ ︵中華書局、 二 〇 〇 二 年 ︶、 卞 孝 萱 校 訂﹃ 劉 禹 錫 集 ﹄︵ 中 華 書 局、 一 九 九 〇年︶ 、李壮鷹﹃詩式校注﹄ ︵人民文学出版社、 二〇〇三年︶ 、 王秀林 ﹃斉己詩集校注﹄ ︵中国社会科学出版社、 二〇一一年︶ 、 王 琦﹃ 李 太 白 全 集 ﹄︵ 中 華 書 局、 一 九 七 七 年 ︶、 蕭 滌 非 主 編 ﹃杜甫全集校注﹄ ︵人民文学出版社、 二〇一三年︶ 、謝思煒 ﹃白 居易詩集校注﹄ ︵中華書局、 二〇〇六年︶ 、﹃欽定全唐文﹄ ︵文 海出版社、 一九七二年︶ 、﹃太平広記会校﹄ ︵北京燕山出版社、 二 〇 一 一 年 ︶、 ﹃ 晋 書 ﹄﹃ 宋 書 ﹄﹃ 新 唐 書 ﹄﹃ 全 唐 詩 ﹄ は 中 華 書局標点本、 ﹃捜神後記﹄は﹃新編漢魏叢書﹄ ︵鷺江出版社、 二 〇 一 三 年 ︶ 所 収 の テ ク ス ト に 拠 る。 な お、 唐 詩 に お け る 詩 語 の 用 例 の 調 査 に は﹁ 全 唐 詩 分 析 系 統 ﹂︵ 北 京 大 学 数 拠 分 析 研 究 中 心 ︶ を 使 用 し た。 ま た 引 用 し た 司 空 図 文 の 解 釈 に 際 し て は、 門 脇 廣 文﹃ 二 十 四 詩 品 ﹄︵ 明 徳 出 版 社、 二 〇 〇〇年︶を参照した。 ︵ 7︶ 司 空 図 は﹁ 力 疾 山 下 呉 村 看 杏 花 十 九 首 ﹂ 其 十 八 で﹁ 更 恨 詩 詩 無 紙 写、 蜀 箋 堆 積 是 誰 家︵ 更 に 恨 む 詩 詩 紙 の 写 す 無 き を、 蜀 箋 堆 積 す る は 是 れ 誰 が 家 ぞ ︶﹂ と、 新 作 を 書 き 留 め る べ き も の と し て 蜀 箋︵ 校 書 箋 ︶ を 詠 じ て い る。 こ こ か ら も﹁ 校 書 箋 ﹂ は﹁ 芭 蕉 ﹂ と 同 様 に 司 空 図 の 旺 盛 な 創 作 意 欲 と 強 く 結 び つ い た 詩 語 と し て 用 い ら れ て い る こ と は 明 白であろう。 ︵ 8︶ こ の﹁ 滎 陽 族 系 記 序 ﹂ は 底 本 及 び﹃ 全 唐 文 ﹄ は 未 収。 嘉 業 堂 叢 書 本﹃ 司 空 表 聖 詩 文 集 ﹄︵ 文 物 出 版 社、 一 九 八 二 年 ︶ の 校 記 の 末 尾 に 附 録 と し て 収 め ら れ て い る が、 内 容 か ら 判 断 し て 司 空 図 の 手 に な る 序 文 で あ る こ と は ほ ぼ 間 違 い な い。 こ の 点 に つ い て は 祖 保 泉・ 陶 礼 天 箋 校﹃ 司 空 表 聖 詩 文 集箋校﹄ ︵安徽大学出版社、二〇〇二年︶参照。 ︵ 9︶ ﹃ 舊 唐 書 ﹄ 巻 二 〇 上、 昭 宗 紀 参 照。 な お 江 国 貞 氏 は 別 業 焼 失 が 鳳 翔 節 度 使 李 茂 貞 の 乱 の 際 に 兵 火 を 蒙 っ た た め だ と す る。 し か し 史 書 の 伝 え る 所 に 拠 る 限 り 李 茂 貞 が 乱 を 起 こ し た の は 乾 寧 三 年 六 月 の こ と で あ り 別 業 焼 失 の 時 期︵ 春 正
38 月︶ と合わない。これもやはり推測の域を出ないであろう。 江 国 貞﹃ 司 空 表 聖 研 究 ﹄︵ 文 津 出 版 社、 一 九 八 五 年 ︶ 第 一 篇伝纂第一章伝論参照。 ︵ 10︶ 司 空 図 の 事 跡 に つ い て は、 前 出 の﹃ 司 空 図 年 譜 彙 考 ﹄ を 参照した。 ︵ 11︶ ① 説 を 唱 え る の は、 羅 聯 添﹁ 司 空 図 年 譜 ﹂︵ 羅 聯 添﹃ 唐 代 詩 文 六 家 年 譜 ﹄ 所 収、 学 海 出 版 社、 一 九 八 六 年、 初 出 は ﹃ 大 陸 雑 誌 ﹄ 三 十 九 巻 十 一 期、 一 九 六 九 年、 原 題﹁ 唐 司 空 図 事 蹟 繋 年 ﹂︶ 、 前 出﹃ 司 空 表 聖 研 究 ﹄。 ② 説 を 唱 え る の は 前 出﹃ 司 空 図 年 譜 彙 考 ﹄。 呉 在 慶・ 傅 琁 琮﹃ 新 編 唐 五 代 文 学 編 年 史 晩 唐 巻 ﹄︵ 遼 海 出 版 社、 二 〇 一 二 年 ︶ も、 ﹁ 本 年 前 後 所 作 ﹂ と や や 含 み を 持 た せ つ つ、 乾 寧 五 年 に 繋 年 し ている。 ︵ 12︶ ﹃ 全 唐 詩 詞 語 通 釈 ﹄︵ 安 徽 大 学 出 版 社、 二 〇 一 七 年 ︶ 第 六 巻、 ﹁阿劉﹂の項目参照。 ︵ 13︶ 晩 唐 の 詩 僧 虚 中 に﹁ 寄 華 山 司 空 図 二 首︵ 華 山 の 司 空 図 に 寄 す 二 首 ︶﹂ と 題 す る 詩 が あ り︵ ﹃ 全 唐 詩 ﹄ 巻 八 四 八 ︶、 司 空 図 に も 残 句 で は あ る が﹁ 十 年 太 華 無 知 己、 只 得 虚 中 両 首 詩︵ 十 年 太 華 知 己 無 く、 只 だ 得 た り 虚 中 両 首 の 詩 ︶﹂ 句が現存している。 ︵ 14︶ 浦起龍﹃読杜心解﹄ ︵中華書局、一九六一年︶巻六之下。 ︵ 15︶ 傍 島 史 奈﹁ 詩 僧 と 苦 吟 ︱ 唐 の 三 詩 僧 に み る ︱﹂ 。﹃ 中 唐 文 学会報﹄第十六号所収、二〇〇九年。 ︵ 16︶ 湯 浅 陽 子﹁ 蘇 軾 の 詩 に お け る 詩 僧 の 評 価 に つ い て ︱ 釈 道 潜 を 中 心 に ︱﹂ 。﹃ 人 文 論 叢 三 重 大 学 人 文 学 部 文 化 学 科 研 究紀要﹄一七所収、二〇〇〇年。 ︵ 17︶ 唐 詩 に お け る 狂 才 の 用 例 は 三 例 あ り、 司 空 図 以 外 で は 孟 郊 が﹁ 宋 玉 逞 大 句、 李 白 飛 狂 才︵ 宋 玉 大 句 を 逞 に し、 李 白 狂 才 を 飛 ば す ︶﹂ ︵﹁ 贈 鄭 夫 子 魴︵ 鄭 夫 子 魴 に 贈 る ︶﹂ 、 韓泉欣 ﹃孟郊集校注﹄ 上、 浙江古籍出版社、 二〇一二年︶ と、 李 白 を 狂 才 と 評 す る 例 が あ る が、 狂 才 と 自 称 す る の は 司 空 図のみである。 ︵ 18︶ 劉 向﹃ 列 仙 伝 ﹄ 巻 上、 陸 通 の 条 に﹁ 陸 通 者、 云 楚 狂 接 輿 也 ﹂ と い う 一 節 が あ り、 接 輿 を 仙 人 で あ る と す る 見 方 が 漢 代すでに存在したことが知られる。底本は ﹃新編漢魏叢書﹄ 所収のものに拠る。 ︵ 19︶ 横 山 伊 勢 雄﹁ 詩 人 に お け る﹁ 狂 ﹂ に つ い て ︱ 蘇 軾 の 場 合 ︱﹂ 。﹃漢文学会会報﹄第三十四号所収、一九七五年。 ︵ 20︶ 谷口真由実﹁狂夫﹂ 。後藤秋正 ・ 松本肇編﹃詩語のイメー ジ 唐詩を読むために﹄所収、東方書店、二〇〇一年。 ︵ 21︶ 八 木 章 好﹁ ﹁ 楚 狂 ﹂ と﹁ 狂 夫 ﹂ ︱ 李 白 と 杜 甫 の﹁ 狂 ﹂ に つ い て ﹂。 ﹃ 慶 應 義 塾 大 学 日 吉 紀 要 言 語・ 文 化・ コ ミ ュ ニ ケーション﹄四〇所収、二〇〇八年。 ︵ 22︶ 注 二十 所掲の谷口真由実氏論文。 ︵ 23︶ 二 宮 俊 博﹁ 洛 陽 時 代 の 白 居 易︱ ﹁ 狂 ﹂ と い う 自 己 意 識 に ついて︱﹂ 。﹃中国文学論集﹄第十号所収、一九八一年。 ︵ 24︶ 浅 見 洋 二﹁ 標 題 の 詩 学 ︱ 沈 約、 王 昌 齢、 司 空 図、 そ し て 宋代の ﹁著題﹂ 論を結ぶもの︱﹂ ︵﹃中国文人の思考と表現﹄ 所 収、 汲 古 書 院、 二 〇 〇 〇 年 ︶、 伊 崎 孝 幸﹁ 司 空 図 の 文 学 論 ︱ 味 外 の 旨 と は 何 か ︱﹂ ︵﹃ 日 本 中 国 学 会 報 ﹄ 第 六 十 二 集
39 司空図の詩作における「狂」について(大山) 所収、二〇一〇年︶など参照。 ︵付記︶ 本論文は、 平成二十七年度科学研究費助成事業 ・ 若手研究 ︵ B︶ ﹁ 晩 唐 詩 に 見 え る﹁ 狂 ﹂ の 研 究 ﹂︵ 課 題 番 号 十 五 K一 六 七 二 四 ︶ の 研 究 成 果 の 一 部 で あ る。 ま た 内 容 は 第 六 十 六 回 東 北 中 国 学 会 大 会︵ 二 〇 一 七 年 五 月 二 十 七 日、 於 弘 前 大 学 ︶ に お け る 研 究 発 表﹁ 司 空 図 の 詩 作 に お け る﹁ 狂﹂ ︱﹁ 狂 題 十 八 首 ﹂ を 中 心 に ︱﹂ に 基 づ く。 司 会 を 担 当 い た だ い た 弘 前 大 学 の 武 井 紀 子 先 生、 並 び に 貴 重 な ご 意 見 を 賜 っ た 先 生 方 に は こ の 場 を 借 り て 再 度 お 礼 申し上げる。