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宮崎英修先生を偲ぶ

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Academic year: 2021

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(1)

金子日威上人の序にもあるように、先生は﹁一見、村夫子然としてなりに構うことはないが、しかし人に接するこ と寛容にして温かな態度は、篤実な学者の重みを感じさせるとともに、高僧の風をともなっている﹂︵先生古稀記念 論文集︶と。まさに然り、大正ボーイとして志操を高く持ったお人柄でありました。 日常の些細なことがらとしましては、例えば風呂に御一緒する。必ずといってよいほど﹁湯につかるのは乳の線ま でにしておきなさい。首までつかると脳溢血のもとだよ﹂︵これは酒のんだあとの入浴か︶。五反田の一杯のみ屋に多 勢連れて行き、﹁まだ明るい、もう少し待て﹂と、肴と酒を目の前にして御預けし、いい加減口に唾がたまった頃、 ﹁よし、飲もう﹂とやっと乾盃に入るといった具合。こういう思い出は山ほどあるが、これは村夫子の温情だったな ﹁よし、飲もう﹂ 先生について最も恐れ入り、このような先生は空前絶後ではなかろうかと思ったことは、私にとっては、勧学院で の先生のお姿です。先生が勧学院長を辞されたのが平成九年三月、その少し前に自坊に隠居されましたから、それま での一年間のお姿です。勧学院は原則的に毎月一回ほどの割合で日蓮宗宗務院で開かれます。先生は身延山大学長と して身延の本院に住居され、朝勤に出、大学に勤務するという日常で、身延のお山から勧学院に出てこられます。奥 野本洋先生︵現在は思親閣別当職︶が毎回秘書役として車で送ってこられたらしい。 先生は酸素ボンベを手押車に乗せて引き侭鼻にチューブを差しこんで部屋にやってこられるのが常でした。しかし あと思います。

英修先生を偲ぶ

浅井円道

−調一

(2)

平成九年六月二十日、叡山学院に招かれて講堂で講演したとき、思い立って出石の本高寺に宮崎先生の御見舞に行 きました。寺の旧書院に先生御夫妻はおられました。玄関のガラス戸を開けると障子があり、赤字で面会時間十分と 書いた紙が貼ってありました。訪れると、先生は入口の部屋にコタッをしつらえて入り、後ろの部屋の床の間一杯ほ どの大きさの酸素ボンベからチューブを引っぱってきて鼻に入れ、ニコニコした顔で待っておられました。先生の跡 を継いで今年四月から勧学院長に就任したことの御報告やらよもやまの話を致しましたが、先生は御元気で、終始 ほとんど独りで我々夫婦に対して語りかけておられました。長くなっては悪いと思い、暇を乞うと、先生、折角おい でたのだからもっとお話しようよというので、一時間ほども長居したでしょうか。それなら英一ょ、名代のソバを御 馳走してあげなさい、というので、長男の英一君に連れられてソバ屋にゆきましたが、物凄くおいしいソバでした。 それからかれこれ一ケ月ほどのちに他界きれようとは。今頃は霊山浄土でお釈迦様、お祖師様のよき話相手になっ ておられることでしょう。 ︵身延山大学長︶ 言語は明断、院長として立派に会議を差配しておられました。そのうち身延山病院に入院し、病室から大学にもかよ い、勧学院にも出てこられると聞きました。大変だったろうと思います。しかし院長だから欠席するわけにはゆかな い。出席の回を重ねた或る日、先生のチューブ姿をみかねてか、石川泰道先生︵現誕生寺貫首︶が、先生、自分のお からだを考えて、ゆっくりお休みになって下さい﹂といわれたことがあります。私も同感。私ならばはやばやと音を 上げて、院をやめてしまうだろうなあと心中思ったことでした。先生は恐らく我慢に我慢を重ねて無理を押して病院 から出てきておられたのでしょう。この力は一体何だろう。日蓮聖人、宗門、後進に対する熱烈な責任感以外の何も のでもないと思う次第です。 (”)

参照

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