「表現しない」表現への試論
石 山 英 明
A Study of the Expression WITHOUT Expressions
Hideaki I
SHIYAMA はじめに 高校3年生の秋、筆者とクラスメイトN君の即席デュオユニットは、文化祭での音楽コース の発表会でジョン・ケージ作曲「4分33秒」を演奏した。なぜ、そんな大それたことを行う ことになったのか。経緯はハッキリとは思い出せない。ただ、何か思い切ったことをやりたい が、一人では自信がないので徒党を組んで決行したのだろう。さだまさしに憧れて普通科高校 の音楽コースに進学してきたN君のギターと、ピアニストを目指していた筆者のピアノのデュ オで何か演奏したかったのだが、適当な楽曲が見当たらなかったのかもしれない。 「楽で面白い」ことを、我々はいつも探していたような気もする。ちなみに、音楽コースク ラスは45名中、男子はN君と筆者のみで、我々は「絶滅危惧種」と呼ばれていた。高校の視 聴覚室。K社のフルコンのグランドピアノは、音楽大学を目指していた筆者のお気に入りの練 習の相棒であった。しかし、この曲の演奏中、筆者がピアノの鍵盤に触れることはない。N君 もギターを構え、手にはピックをもっているが、この曲においてはギターもやはり無言を貫く。 防音になっているはずの視聴覚室に、おあつらえ向きに落雷の音が鈍く響く。苦笑やひそひ そ声をバックに、音楽の教員で作曲家のT先生のヤジがハッキリと響き渡る。それが何かを知っ ているからゆえに、「何なんだこれは」と。筆者の心は、誇らしさと恥ずかしさが入り混じるが、 時計の秒針が進むのはしっかりチェックする。 やがて4分33秒が経過し、N君と筆者は目くばせをして立ち上がる。万雷の拍手は、我々 の予想をはるかに超える音圧だ。何故か複雑な想いを残し、我々は楽器を後にして会場の席に 戻る。次の演奏者であるTさんが、ウェーバー作曲「舞踏への勧誘」を弾きだした。こんな曲 の後だし、さぞやり難かったろう。Tさんの演奏は普段の力をも出し切れず、舞踏に勧誘する どころか、「無音の演奏」の後の「有音の演奏」が筆者には陳腐に響いた。 問題の所在 19年後の秋。幼稚園の園庭で運動会が行われている。年少のSは、全体演技において一人だけ微動だにしない。周りの園児たちは、音楽に合わせ様々な動きを繰り広げていく中、Sは 目立つといえばかなり目立つ光景の中にいた。こういう時、親は心配するものなのだろうか。 Sの父親である筆者は自らを客観視しながら考えを巡らす。 筆者が3歳の時に、同じような全体演技があったら、筆者はどのように振る舞っていたのだ ろう。そんな事を考えながら、頑なに動くことを拒否しているようにも見えるSを筆者はじっ と観察する。Sは音楽をよく聴いているのだな。筆者にはそのように思えてきた。音楽を聴く ことに集中していて、そのことと体を動かすということが結びついていないように見える。そ うだ、運動会が終わったら、「よく音楽を聴いていたね」と声を掛けよう。みんなと同じに出 来ることも素晴らしいが、みんなと違うことをすることも同じように素晴らしい。それは、「4 分33秒」の筆者の秋以降も尚音楽を続けてきて、筆者が教えられたことの大切なことの一つだ。 武満徹は、「私は、沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい」と言った(1)。それを 筆者が知ったのは、ずっと、ずっと後のことだが。 Ⅰ 保育内容の領域「表現」 1.3法令改訂(定)における「表現」 平成27年4月に、「子ども・子育て支援新制度」がスタートした。これは、「幼児期の教育・ 保育の『量』の拡充と、『質』の向上を進めるために生まれた制度」である(2)。それを受けて、 平成29年3月に、幼稚園教育要領、保育所保育指針、幼保連携型認定こども園教育・保育要 領の改訂(定)が告示された。3法令が同時に改訂(定)されるのは初めての事である。これ は、「幼稚園も保育所も幼保連携型認定こども園も、日本の大切な幼児教育施設として位置づ けられた」ことによるものである(2)。 今後の趨勢として見込まれているのは、次の2点である。まず、「法的な位置づけが整備さ れたことにより、子どもたちがどの幼児教育施設に通っていても、同じ質やレベルの幼児教育・ 保育を受けられるように保障することが望まれる」こと。そして、「幼児教育の内容や質を3 つの幼児教育施設で揃えて」いくことである(3)。 領域「表現」には、子どもの「自分なり」の表現を通して、感性、表現力、創造性を育むこ とが示されている。「3 内容の取扱い」の⑴には、「風の音や雨の音、身近にある草や花の形 や色など自然の中にある音、形、色などに気付くようにすること」と示されている。また、⑶ に「様々な素材や表現の仕方に親しんだり、」という記述が付け加えられた。そして、以前と 変わらず、1 ねらいの⑵に「自分なりの表現」、2 内容の⑷に「自由に」、⑹及び⑺に「楽しさ」、 「楽しみ」、3 内容の取扱いの⑶に「自ら様々な表現を楽しみ」、「自己表現を楽しめる」など の記述が残されている(4)。 これらのキーワードについて、教育者がどのような気づきを得て、受容するのかが重要なポ イントになると筆者は考えている。
2.「表現」への評価 学校教育法第23条に幼稚園教育の目標として、「音楽、身体による表現、造形等に親しむこ とを通じて、豊かな感性と表現力の芽生えを養うこと」と示されている。その箇所が領域「表 現」の目標と考えられる(5)。ここでは表現力とともに、「感性」に注目していくこととする。 無藤ら(2007)は、「子どもは表現したもの(言葉、製作した作品、歌、演奏、踊りなど) に対して『下手』だといわれたり、『間違っている』と修正されたり、プラス・マイナスの評 価をされたり、無視されたりする経験をくり返していると、自分の表現ばかりか、感性そのも のへの自信を失い、表現の可能性の枠組みを狭めていく。そもそも何を感じるかは、人間にとっ て自由であり、一人ひとり独自のものなのだから、それをどのように表現するかの自由も保障 され見守られるべきであろう」と、保育・幼児教育における保育者の表現に対する接し方を述 べている。そして、「自分の感性を受け止められる経験をすることによって、人は、他の人の 感性表現にも開かれて柔軟に受け入れる姿勢を育てる。感性を相互に尊重し合う態度が、園で 楽しく表現する雰囲気をつくり出す」と、各個の自由な感じ方を受け止めることこそが重要で あることを示している(6)。 Ⅱ 「表現」とは何か 1.表現についての前提事項 そもそも、表現とは何か。「表に現れる」と書いて、表現という。表現とは、「心的状態・過 程または性格・志向・意味など総じて内面的・精神的・主体的なものを、外面的・感性的形象 として表すこと。また、この客観的・感性的形象そのもの、すなわち表情・身振り・動作・言 語・作品など。表出」とされる(7)。英語では、expression(ラテン系言語においては同様の語源)、 ドイツ語でも、Ausdruck という。いずれも、「外に押し出す」という意味がある。 表現とは、人に特有の行為なのだろうか。犬や雀は表現しているといえるのか。木々や草花 はどうだろう。表現をどのレベルで捉えるかによって、それが何なのかが変わる。「表現にお いて、人は、まだ自己を理解していない。表現は、それをはっきり意識させるような理解的解 釈を必要とする」といった見方もできる(8)。 例えば、ピアノを演奏するとき、聴き手に「何か」を伝えることが演奏の重要な要素となる のだろうか。T. E. カーハートは著書「パリ左岸のピアノ工房」において、自身のピアノ演奏 に纏わる経験を次のように述懐する。「わたしはもう二回ミス・ペンバートンの発表会で演奏 したが、どちらのときも息をとめて向こう岸まで―曲の終わりまで―水中を一気に泳いだよう なものだった。(…中略…)それは自分のために音楽を演奏する方法を学ぶため、受け入れざ るをえない苦行でしかなかった。(…中略…)長年のあいだに、何万人もの子供たちに繰り返 し公衆の面前での演奏という苦行を強いて、人々の前で開花する特殊な才能をもっているかど うか確かめるというシステムができあがってしまったのだろう。わたしにはそういう才能はな かった。それだけははっきりしていた。しかし、そうと知ったからといって、わたしの音楽を
やりたいという気持ちが薄れることはなかったし、ひとりで演奏するのが好きなのも変わらな かった」(9)。 2.「何もしないこと」の価値 ここまで、「表現」についての諸説を確認してきた。筆者は、一般的に「表現していない」 や「表現力が乏しい」とされる状態を否定的に捉えることに関して疑問を持っている。 例えば、保育・幼児教育において、子どもたちと一緒に歌を歌う活動に対する、大場(1996) の次の記述を見てみよう。 「みんなが一生懸命に『わーっ』とアヒルの歌か何かを楽しくうたっているのに、黙って 口を閉じていると、嫌いなのかと思うわけです、その歌が。ところが、そういう子は先生 にとってみれば気に入らないから、どっちかというと気合をかけるような形になって、 み んながうたっているときは一緒にうたわなくてはだめ などと言ってしまうけれども、気 をつけなきゃいけないことは、黙って口をつぶっているから嫌いかというととんでもない ことになります。家へ帰って、今日こんな歌をうたったよといって、親に一生懸命に教え ているという例があるんです」(10)。 大場はこうした状況に対し、次のように警鐘を鳴らす。「あらわしというのは、表面的にと らえてしまうとわれわれは大間違いをやってしまうことがある。つまり、子どものあらわしと いうのはよほどうまくこちらが見守ったり見極めていかないと読み損なってしまうし、子ども の心のなかのもう本当の微弱電波は、よほどこちらの受信機が優れていないとそれをキャッチ することができないので、逆に誤った強力電波をこちら側から向こう側へとぶつけてしまうこ とになると思います」と(11)。 では、我々はどのようにして表現における微弱電波を受信することが可能なのだろうか。 「微弱電波」の受信を考える際、興味深い論考がある。津村(1987)は、「何もしないことも 自己主張」とする。「力いっぱい何かをしようとする年長者とは逆に、何もしないことを選ぶ 場合もある。(…中略…)こういうとき、私は、何とかして子どもを元気づけ、その子どもも 充実して自分の活動ができるように道を開いてやりたいと思う」。そして、「私は、その子ども が自分自身のままで生きる現在を否定していたのではないかと気づかされる」のだと。 「何もしない」ことの価値を再確認する。そして、「何もしていないようにみえる子ども」に 対し、「何かをさせようという考えを捨てて、子どもと一緒に何もしないで腰をおろしていると、 その子どものまわりには、ひかえめで平和な空気がただよっているのを感じる」と、津村は洞 察する。更に、「子どもによっては、おとなが考えるのとは全く違った形での自己実現の仕方 があるのではないか」そして、「よく考えれば、だれでも、その両方の世界をもっているので はないか」と。津村は子どもの表現に端を発し、表現行為の本質に迫ろうとしているのであ る(12)。 表現者の気持ちの持ちようが自然体であることの重要性と、表現自体の多様さと自由さを、 嶋守(2015)は音楽のワークショップの例により次のように述べている。「再び円陣を組んで
座ると、今度は四人ずつ、エリちゃんから指名されて前に出た。息と声の音で即興の演奏をす るようにと、エリちゃんはその四人に指示を出した。その途端、参加者たちはプレッシャーで 息すら吐けなくなるような空気に呑みこまれた。歯切れも悪く、苦笑いを浮かべる参加者もい た。私の順番になった。少し考えた──そうか、言葉も声だ。私はグループのメンバー一人ひ とりの目を見つめ、語りかけてみた。『無理に音楽を奏でようとしなくたって、いいんだよね』 その言葉で、メンバーたちの表情が一瞬で柔らかくなった。温かな空気に包まれて、メンバー は安心したように笑顔になった。嬉しくなった私は、たまらず声を立てて笑い出した。今度は 笑い声がメロディーになった」(13)。 「子どもの表現の多様性」について、 竹林(2000)は「子どもにとっての表現は何かという ことを考えていくとき、大人の文化枠にとらわれない『表現』もあることに目を向けていく必 要がある」という。「時には笑い、時には泣き、時には怒り、時には喜び、時には悲しみ、時 には驚き、時にはおびえ、時には楽しみ、時には寂しがるなどといった感情を表現したり、あ るいは、けんかをしたり、いっしょに遊んだり、ふざけたり、いたずらをしたり、走り回って いたり、ぼんやりしていたり、じっと何かを見ていたり、叫んでいたり、その他いろいろな状 況や状態を行動で表現したりしている。子どもにとっては、そうしたことも『表現』なのであ る」と。「むしろ、そうしたことこそが子どもにとっての『表現』であり、重視すべきものと 考えていい」と竹林は述べる。子どもの表現を支えるものが、「常に安心して子どもが自分を 自分なりに表現できるかということ」。そして、保育者との信頼感と結びつきの大切さを竹林 は指摘するのである(14)。 3.表現を受容する感性 竹林は、「保育者の感性」を子どもと「いっしょになって感動する態度は、その保育者の感 性の表れと見ることもできる」としている。それによって子どもは「自分なりの表現に自信を もつことが」できると述べる。それほど、子どもにとって「保育者の感性の影響」は大きいの で、保育者自身が「自分の感性を磨く努力をしていくことが必要」と指摘する(15)。また、子 どもを取り巻く環境が子どもの表現にとって重要であるとし、「保育者の考え方自体が重要な 環境」であり、さらに「環境とは保育者と子どもの相互作用によってつくられるもの」と、表 現のための環境構成は大人からの一方的なものであってはならないとの認識を示す(16)。 「保育者が美しいものに敏感になり、美しいものを求める姿を示す」ことについては、 浜口 (2007)による指摘もある。「『美しい』とか『すてきだ』などの感動を、保育者が心から 4 4 4 (傍点: 筆者)抱くことが基本的に重要」である。保育者自らが「何かに感動できるかとう主体的な面 こそ、おとなになってもなお育てつづけたい」と浜口は示唆している(17)。 これは、牛渡(2016)が「これからの時代の教師に求められる資質能力」の一つとして「学 び続ける教師」を挙げ、平成27年中教審答申で求めている教師像に新たに「自律的に学ぶ姿 勢を持ち、時代の変化やキャリアステージに応じて求められていく資質能力を、生涯にわたっ て高めていく」ことが強く求められることと繋がる考え方である(18)。
本来、感動や美しいものを追求すること自体は、嫌なことではないだろう。ただし、それが 保育者の苦痛や重荷になってしまってはいけない。大場(1996)が「自分の生活の土台のうえ で自分の気持ちが落ち着かないときに絵を描けと言われても描けるものではありません。歌を 一緒に楽しくうたおうと言われても、生活圏の土台の不安定な状態ではお義理でうたうだけに なってしまうでしょう」と指摘するように、表現と気分は密接に関わっている(19)。 一足飛びではなく、一足ずつ着実に地に足を付けた活動が表現であるのだから、当然、変化 していくのには時間がかかる。それを、社会全体で受け入れる必要がある。溝上(2016)が言 うように、「まずは形から入って、失敗してもいいので、やってみる」。そして、「とにかく、 やりながら考えて、改善していくしかない」(19)。 表現するというのは、変わっていくことだ。 だからこそ、「表現」にあたって我々は肩肘を張らずに、気楽に構えながら前進する感覚を持 つこと。変わっていく過程を受容し、待つことが、何より重要なのではないだろうか。 Ⅲ 表現が変わっていくことを待つにあたって 1.保育者を目指す学生のレポートにおける「表現」 ⑴ レポートを作成した学生 「表現するというのは、変わっていくことだ」と示す筆者の論拠の一つを示していきたい。 それは、保育者を目指す学生のレポートにおける「表現」の記述においてである。学生の「表 現」がどのように「変化」していったのかを見ることは、表現者であり教育者でもある筆者に とって、非常に興味深く意義深いと考えられたためである。 本稿で用いるのは、筆者の2017年度3、4年ゼミ生に対して2017年12月末∼2018年1月初 頭に実施した学生レポートのテクストである。筆者のゼミ生は、2015年度よりA県B市の子 育て支援センターが年に4回行う親子向けのコンサートにボランティアとして参加している。 そのコンサートには、毎回50組程度の親子が参加し、そこで筆者のゼミ生たちはオープニン グのピアノ演奏(幼児歌曲:『さんぽ』)、手遊び、絵本の読み聞かせ、運営上の手伝いをして いる。親子の前で「表現」活動を実践的に行った経験に基づく豊かな語りが得られると筆者は 考えた。筆者はゼミ生たちに「表現」についてのレポートを作成するように依頼した。 ⑵ データ収集法 本稿の1次データとしたゼミ生へのレポート課題は、レポート作成期間中に筆者から示した 次の3つの項目から成り立っている。①コンサートで活動(オープニング、手遊び、読み聞か せ)した感想、②コンサート(前述の内容)で身についたと考える「表現」力はどのようなも のか、③さらに、身につけたいと考える「表現」力はどのようなものか、である。書式は自由 とした。守秘義務に関しては十分に配慮し、個人情報を含む記述については個人の特定を避け るため、内容の本質に影響しない程度に改変した。 ⑶ テクスト化と分析方法 高橋(2011)のテクスト作成法を参考にして、 1次テクストから3次テクストまで作成した。
1次テクストとは、学生レポートのうち質問②③の回答を学年別に分けて一覧表としたもので ある。2次テクストとは、1次テクストのうち、特に「表現」という語とともに記述された意 味内容のまとまり(基本的には一つの文章の読点ごと)によって段落に分け、通し番号をつけ たものである。3次テクストとは、2次テクストを KJ 法カードに加工したものである。前後 で意味内容の重複するものについては、 3次テクストを作成する段階で省略、または一つにま とめるなどの加工を施した。ここで得られた3次テクストは、②「コンサート(前述の内容) で身についたと考える『表現』力はどのようなものか」については3年生が28、4年生が13、 ③「さらに、身につけたいと考える『表現』力はどのようなものか」については 3年生、4年 生ともに19であった。 分析は、川喜田(1967)および高橋に準じた。まず、3次テクストを学年別にばらばらに並 べて読み込み、互いに親近感を感じるテクスト同士で分類することで、下位グループを編成し た。全体の3分の2程度がまとまったら、それぞれの下位グループについて、 そこにまとめら れた記述のエッセンスを表す「一行見出し」をつけた。ここで重要なことは、 過度に抽象化し すぎないこと(川喜田,1967)である。諸回答の要点のエッセンスをできるだけ柔らかい言葉 で書き留め、「表札」をつけていくことに留意した。次にその「表札」を眺め、再び「似ている」 と「感じる」ものをまとめることを繰り返し、最終的に②では7つ、③では9つの上位グルー プ(【表1】【表2】の項目)にまとめた。 ⑷ 結果と考察 ⑷ ‒1 結果 ②「コンサート(前述の内容)で身についたと考える『表現』力はどのようなものか」(以下、 「身についた力」とする)についての結果は、 【表1】のとおりである。 3年生、4年生により 「身についた力」と考えられた内容の変化をパーセンテージで比較してみると、3年生で最も 多く挙げられた回答であった「身振り・声の大きさ」は32.1%であったが、4年生になると 23.1%となり、9ポイント減少している。他に3年生で挙げられていた回答が4年生で減少す るものに、「考える」(3年生で17.9%であったが、4年生では7.6%となり10.3ポイント減少 している)と「堂々とする」(3年生で7.1%であったが、4年生では0%となり7.1ポイント 減少している)があった。 「身についた力」と考えられた内容のパーセンテージにおいて、3年生から4年生で増加し ている回答は、「意味を伝える」 (3年生で17.9%であったが、4年生では23.1%となり5.2ポ イント増加している)と、「まわりを見渡す」 (3年生で10.7%であったが、4年生では23.1% となり4.7ポイント増加している)、「楽しさが伝わる」(3年生で14.3%であったが、4年生で は15.4%となり1.1ポイント増加している)であった。また、4年生のみで挙げられていた「そ の他」の回答に、「絵本をめくるタイミングや、その前の間の取り方が良くなったと思う」、「活 動の前後でワニの真似をして活動の期待や余韻を残すことができたと思う」があった。
【表2】さらに身につけたい表現力(学年別) 項目 3次コード数 3年 %(a) 3次コード数 4年 %(b) b−a 身振り・声の大きさ 5 26.3 7 36.8 10.5 意味を伝える 0 0.0 1 5.3 5.3 考える 0 0.0 1 5.3 5.3 まわりを見渡す 1 5.3 0 0.0 5.3 堂々とする 1 5.3 0 0.0 5.3 楽しさが伝わる 9 47.3 0 0.0 47.3 心に届く力 0 0.0 3 15.8 15.8 自分の思いを伝える 0 0.0 4 21 21 その他 3 15.8 3 15.8 0.0 合計 19 100.0 19 100.0 注)筆者作成 【表1】コンサートで身についた表現力(学年別) 項目 3次コード数 3年 %(a) 3次コード数 4年 %(b) b−a 身振り・声の大きさ 9 32.1 3 23.1 9.0 意味を伝える 5 17.9 3 23.1 5.2 考える 5 17.9 1 7.6 10.3 まわりを見渡す 3 10.7 2 15.4 4.7 堂々とする 2 7.1 0 0.0 7.1 楽しさが伝わる 4 14.3 2 15.4 1.1 その他 0 0.0 2 15.4 15.4 合計 28 100.0 13 100.0 注)筆者作成 ③「さらに、身につけたいと考える『表現』力はどのようなものか」(以下、「身につけたい 力」とする)についての結果は、【表2】のとおりである。 3年生、4年生により「身につけ たい力」と考えられた内容の変化をパーセンテージで比較してみると、3年生で最も多く挙げ られた回答であった「楽しさが伝わる」は 47.3%であったが、4年生になると0%となり、 47.3ポイント減少している。他に3年生で挙げられていた回答が4年生で減少するものに、「ま わりを見渡す」「堂々とする」(ともに、3年生で5.3%であったが、4年生では0%となり5.3 ポイント増加している)があった。 「身につけたい力」と考えられた内容のパーセンテージにおいて、3年生から4年生で増加 している回答は、「身振り・声の大きさ」(3年生で26.3%であったが、4年生では36.8%とな り10.5ポイント増加している)と、「意味を伝える」「考える」(ともに、3年生で0%であっ たが、4年生では5.3%となり5.3ポイント増加している)であった。また、4年生のみで挙げ られていた回答は、「心に届く力」(15.8%)、「自分の思いを伝える」(21.0%)があった。
「その他」について、3年生では「これから始まることに興味を持てるようにしたいと思い ました」「ページをめくるスピード」「子で楽しめる題材を考え、対象に合った触れ合い遊びが 出来るよう身につけたい」があった。4年生では「子ども達の表現力を高める為には、まず自 分達が豊かな感受性を持つ」「表し方に幅ができることで、人との繋がりをより一層楽しくで きるのではないか」「それぞれの価値観を尊重した上で他を否定せずに(私はこう)という軸 を持って伝える力」があった。 ⑷ ‒2 考察 表現や表現力に優劣をつけることは不可能である。したがって、学年の進行により筆者の学 生の表現に対する印象は中立的なものになる。しかし、表現の「質」的変化については着目し ていく必要があると考えている。 ⑷ ‒1で示した分析結果から、筆者は学生が自身で「身についた」と感じていることは、学 年の進行とともに「客観性」が増しているのではないかと考察した。学生自らが「表現する」 又は「表現したい」ということから、「表現」が他者から見てどのように感じられるかという ことに着眼点が移っているのではないか。それは、学生自身が表現をする場数を踏みながら、「見 られる側」、「見る側」の両方になるという経験を積み重ねていくことで、「表現」と「鑑賞」 の立場が何度も入れ替わり、学生たちが複眼的な視野を獲得したからだといえないだろうか。 それは表現者が経験を重ねることで、表現の受け手の立場や視線、感情を「想像」できるよう になることだとも言える。 また⑷ ‒1で示した分析結果で示した「身につけたい力」においても、「質」的な変化が見ら れる。これは、学年を追い表現活動の経験の質と量との相乗効果により、目指す姿が変質した と考えられる。又は、通常「身についた力」を「身につけたい力」の項目には記述しないと考 えられる。そのため、既に身についたと学生自身が自覚している事項は記述に現れなかったと 解釈できる。 こうした筆者の見解をまとめてみると、表現や表現力とは次の四点であると考察できる。そ れは、 ① 表現や表現力は、時間と経験と共に変化していく ② 変化していくプロセスも表現なので、関心と共感を持ち楽しみながら待ち続けることが 肝要 ③ 過去の表現を振り返った時に初めて、その意味づけができることがある ④ 表現自体が多様なので、他者の表現を受けとめるには想像力が必要 である。 2.共感とダブルバインド さて、最後に子どもが「自分なりの『表現』を楽しんでいる」とき、我々はどのようにそれ を見ていくべきだろうかということにふれておこう。かけがえのない表現の萌芽を子どもに見 出すために、我々には何ができるのだろうか。この項では、筆者が子どもの表現を育てると考
える「共感」と、表現の芽を摘む恐れがあると考える「ダブルバインド」について考えを深め ておきたい。 子どもの表現や表現力、又は表現する意欲を育てるのは、子どもへの共感である。無藤(2007) は「何であれ子どものすることを受け入れ(…中略…)子どもの気持ちに共感すること」と「子 どもの視点に立っての深い共感的理解」の重要性を指摘していたのは、本稿でもふれたとおり である(20)。 我々は、「自由に表現してみましょう」という、慣用句のように市民権を得たかのような言 葉を、子どもたちに対して安易に発していないだろうか。「自由」とは、捉えにくく形而上的 な概念であるにも関わらず、である。「自由」と提示したからには、例えば画用紙に何も書か れていない「白紙」でも、それが表現であると受容することが必要である。将棋の棋士は、「何 も駒を動かさない最初の状態が最も安定している」と言う。先に示した真っ白で曇り一つない 画用紙に何か描いた途端に、その安定や美が崩れるとはいえないだろうか。 阿部(2000)は子どもたちの自分なりの表現を伸ばすにあたっての留意点として、次の事態 を指摘している。「最近無表情な子を見かける場合が多くなったといわれるが、気持ちの表現 を抑えられ、共感を得ることが少ない生活があるのだと思われる」(21)。「自由に表現してかま わない。しかし、それに共感しないよ」。表現の自由と不寛容が子どもに同時に示されれば、 無表情になるしかない。 「子どもの無表情」を考えるとき、ベイトソン(Gregory Bateson 1904‒1980アメリカ合衆国 専門:文化人類学者・精神医学)が提唱したダブルバインド double bind が非常に指針的である。 ダブルバインドとは、「異次元の相矛盾する二つのメッセージを受け取った者が、行動不能に 追い込まれた状態。二重拘束」である(22)。「子どもの無表情」は、自身の感じたことや想いを 自由に表現したものが他者から否定され、共感を得られなかったときに起こると考えられる。 ダブルバインドの危険性を再三指摘するのが、劇作家の平田(2012)である。平田は、現代 の我が国において企業が求めるコミュニケーション能力を例にとり、次のようなダブルバイン ドの状態を説明する。「ダブルバインドとは、簡単に言えば矛盾したコマンド(特に否定的な コマンド)が強制されている状態を言う。たとえば、『我が社は、社員の自主性を重んじる』 と常日頃言われ、あるいは、何かの案件について相談に行くと『そんなことも自分で判断でき んのか! いちいち相談に来るな』と言われながら、いったん事故が起こると、『重要な案件は、 なんでもきちんと上司に相談しろ。なんで相談しなかったんだ』と怒られる。このような偏っ たコミュニケーションが続く状態を、心理学用語でダブルバインドと呼ぶ。(…中略…)いま 就職活動をしている学生たちは、あきらかに、このような矛盾した二つの能力を同時に要求さ れている。しかも、何より始末に悪いのは、これを要求している側が、その矛盾に気がついて いない点だ」(23)。 これは、表現を指導 4 4 する際に、最も肝に銘じておくべき大切なことではないかと筆者は考え ている。
おわりに 平田(2017)の紹介する海外転勤になった一家の大変印象的なエピソードをおわりに示そう。 「一家でアメリカに暮らすことになった。娘が地元の幼稚園に通い始めて一か月くらいたっ た頃、園から連絡がきた。『次の学芸会で、おたくの娘さん、とても大事な役を演じますから 絶対に来てください』。でも、その子、まだ英語なんて全然、しゃべれないわけです。うそでしょ う? と思いつつ夫婦で劇を見に行った。すると、まず、その子がひとりで出て来て、舞台の 真ん中にぽつんと立っている。親としてはドキドキしますよね。どうなってるんだ、と。する と次に先生が出て来て『この子は誰それちゃんです』と紹介し『彼女はすばらしい力を持って います。このクラスの中で唯一、日本語の歌が歌えるんです!』。そしてその子が日本語で歌 を歌い、その歌から始まる物語の劇が展開していったそうです」(24)。 平田のこのエピソードを読むと、年少のSの秋が筆者の胸に去来する。結局、曲の最後まで じっと動かずに退場した息子に、「よく音楽を聴いていたね」と筆者は声をかけた。Sは小さ く頷いたように、筆者には見えた。 時が過ぎ、このところの Sは中学生らしく学校で流行っている替え歌を一人で口ずさんでい る。Sはまだ、あの表現のことを覚えているだろうか? いつかまたSにたずねてみよう。君 の「表現しない」表現は、その後どうなった? と。それもまたきっと、ずっと、ずっと後に なるだろうが。 謝辞 本稿を執筆するにあたり、2017年度の桜花学園大学保育学部保育学科3年・4年石山ゼミの学 生の皆さん、嶋守さやか先生には第3節のデータ分析を中心に、多大なるお力添えをいただいた。 ここに心からの感謝の意を述べたい。有難うございました。 註 ⑴ 武満徹1971『音、沈黙と測りあえるほどに』新潮社、10頁。 ⑵ 無藤隆2017『3法令改訂(定)の要点とこれからの保育』チャイルド本社、8頁。 ⑶ 無藤隆・汐見稔幸2017『幼稚園教育要領 保育所保育指針 幼保連携型認定こども園教育・保育 要領 はやわかり BOOK』学陽書房、8頁。 ⑷ 文部科学省2017『幼稚園教育要領』チャイルド本社、20‒21頁。なお、厚生労働省2017『保育 所保育指針』チャイルド本社、41‒42頁、内閣府・文部科学省・厚生労働省2017『幼保連携型 認定こども園教育・保育要領』チャイルド本社、80‒81頁の「表現」の項にも同趣旨の記載が ある。 ⑸ 無藤隆他2007『事例で学ぶ保育内容〈領域〉表現』萌文書林、30‒31頁。 ⑹ 同書31頁。 ⑺ 広辞苑 第六版2008 ⑻ 津村真1987『子どもの世界をどうみるか』日本放送出版協会、15頁。
⑼ T. E. カーハート/村松潔訳2001『パリ左岸のピアノ工房』新潮社、77‒78頁。(T. E. Carhart, 2000, THE PIANO SHOP ON THE LEFT BANK)
⑽ 大場牧夫1996『表現原論』萌文書林、26頁。 ⑾ 同書26‒27頁。 ⑿ 前掲書⑻、21‒23頁。 ⒀ 嶋守さやか2015『孤独死の看取り』新評論、155‒156頁。 ⒁ 阿部明子・竹林実紀子2000『感性と表現に関する領域 表現』東京書籍、17‒19頁。 ⒂ 同書20頁。 ⒃ 同書64頁。 ⒄ 浜口順子/無藤隆(監修)2007『事例で学ぶ保育内容 領域 表現』萌文書林、51頁。 ⒅ 牛渡淳2016「これからの時代の教師に求められる資質能力(特集 これからの時代に求められ る教師力)」『教育展望』62(2)、7頁。 ⒆ 溝上慎一2016「教師のためのアクティブ・ラーニング指導法(特集 これからの時代に求めら れる教師力)」『教育展望』62(2)、15‒16頁。 ⒇ 前掲書⑸ 28‒29頁。 前掲書⒁ 前掲書⑺ 平田オリザ2012『わかりあえないことから』講談社、15‒17頁。 平田オリザ2017「昔、大きなマンモスがいて。」『母の友』2017年12月号福音館書店、26頁。 参考文献 ・川喜田二郎1967『発想法──創造性開発のために』中央公論新社 ・高橋菜穂子2011「ある児童養護施設職員の語りの KJ 法による分析 ─テクストの重層化プロセス からとらえる実践へのまなざし─」『京都大学大学院教育学研究科紀要』57、393‒405頁。 (受理日 2018年1月9日)