目 次 Ⅰ はじめに Ⅱ デービッド・カード のマリエル論文 Ⅲ ジョージ・ボルハスとジオバニ・ペリのマリエル 論文 Ⅳ 労働者の代替の弾力性についての議論 Ⅴ おわりに
Ⅰ は じ め に
米国やヨーロッパでは,移民を受け入れるこ とによって労働市場にどのような影響があるの かについてとても強い関心があり,早い時期か ら多くの研究がなされてきた。労働市場における 重要な指標の一つとして賃金が挙げられる。移民 の流入によって労働者供給が増え,労働市場の労 働供給曲線が右にシフトすれば,短期的には賃金 が低下することが考えられる。この現象が実際に 現実の経済で起こるのか検証するには,例えば, ln (Wagec,t)=0+ 1Immigrantsc,t/Popc,t+ uc,t の ような回帰式を推定する。ここで ln(Wagec,t)は 都市 c の時点 t における実質賃金の自然対数値, Immigrantsc,tは移民の数,Popc,tは総人口,uc,t は誤差項である。0は定数項で,1が移民人口 の変化の賃金に対する影響を測る係数である。も し < 0 であれば,移民の増加によって賃金が低 下し,受入国の労働者の厚生水準が低下すると言 えるかもしれない。 しかし,このような回帰式をクロスセクション データやパネルデータを用いて最小二乗法で推定 しても はバイアスを伴って推定される可能性 が高い。なぜなら移住の意思決定は経済的メリッ トに強く影響されるので,被説明変数である賃金 から説明変数である移民の総人口に対するシェア への逆の因果関係が想定されるからである。例え ば,アメリカにおいて多くの移民がロサンゼルス やニューヨークなど比較的賃金の高い大都市に集 中していることを見ればその懸念が妥当であると 容易に想像できる。このような逆の因果関係があ ると誤差項と説明変数が相関することになり,そ れによって説明変数の係数が正確に推定できない とき内生性の問題があるという1)。 このような内生性の問題に対処するために, 労働経済学者は自然実験とみなせる状況を利用 する。この移民の経済分析においてよく利用さ れているのがマリエルボートリフト(the Mariel boatlift)と呼ばれる出来事である。1980 年 4 月 にフィデル・カストロが亡命を希望するキューバ 人のアメリカへの渡航を許可したことで,半年 後に港が閉鎖されるまでの間に 12 万 5 千人もの キューバ人難民がアメリカのフロリダ州マイアミ にやってきて,そのうちの半分がマイアミに定住 することとなった。彼ら難民はキューバのマリエ ル港から船(ボート)に乗ってやってきたのでマ移民の経済分析の研究動向
─マリエルボートリフトと労働者の代替の弾力性
笹原 彰
(アイダホ大学助教授) 紹 介リエルボートリフトと呼ばれる。図 1 はアメリカ に移住した年ごとのキューバからの移民の数であ る。これによるとマリエルボートリフトの年であ る 1980 年に急激なキューバ系移民の増加がある ことがわかる。マリエル港とマイアミの地理的な 位置関係については図 2 を参照して欲しい。 このマリエルボートリフトによって一時的にマ イアミの労働力人口は 7 〜 8 % も拡大し,キュー バ人の労働者にカテゴリーを絞れば労働力人口 は 20 % も上昇した(Card 1990)。この予期しな い突然の,そして大量の移民の到来は経済学的要 因というよりも政治的要因によって引き起こされ たもので,「被説明変数である賃金が上昇したか ら難民がやってきた」というわけではないので, 内生性の懸念がない。そういうわけで,この歴史 的出来事は移民人口の増加が労働市場に与える影 響を分析するための自然実験的状況として労働経 済学者によく利用される2)。しかし,このマリエ ルボートリフトを利用した研究の結果について研 究者の間で齟齬があり,大論争となっている。こ の論文ではマリエルボートを利用した一連の研究 (論争第二ラウンド)を紹介し,なぜ異なる結論に 至っているのか議論するとともに,関連研究者の もう一つの論争(論争第一ラウンド)についても 紹介する3)。 図 1 アメリカに移住した年ごとのキューバ系移民の数 0 10,000 20,000 30,000 40,000 50,000 60,000 70,000 80,000 90,000 100,000 110,000 120,000 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010 キュー バ 系移民の数 移民としてアメリカにやってきた年 注:図は Borjas(2017)より。 図 2 キューバのマリエルとアメリカのマイアミ アメリカ メキシコ マイアミ マリエル港 キューバ
Ⅱ デービッド・カード のマリエル論文
マリエルボートリフトを利用した研究を最初に 発表したのがカリフォルニア大学バークレー校 のデービッド・カード (Card 1990)である。彼は 1979 年から 1985 年までの労働者の個票データで あるCurrent Population Survey (CPS)を用いて, マリエルボートリフト後にマイアミの労働者の賃 金がどのように変化したのかを検証した。その際 に,単にマイアミの賃金が時間を通じてどのよう に変化したのかを見るだけではなく,マイアミと 経済状況が似ているけれども移民人口の拡大がな かった都市の賃金の推移と比較した。それは賃金 が移民人口の変化以外の要因でも変化するからで あり,移民人口の変化以外の要因はその他の都市 との比較で制御できることから,マイアミと他の 都市と比較するのである。カードは白人,黒人, ヒスパニックの人種構成がマイアミと似ていて, さらにマリエルボートリフト以前の賃金の時系列 の推移がマイアミと似ている都市を 4 つ選び,そ れら 4 つの都市のデータを組み合わせて「移民人 口の拡大がなかった仮想的マイアミ」を作成し, 移民人口の拡大があった実際のマイアミとの実質 賃金のトレンドを比較している。カードが選んだ 4 つの都市はアトランタ,ロサンゼルス,ヒュー ストン,タンパ・ セントピーターズバーグであ る。 図 3 は Card(1990)の表 3 のデータをもとに 筆者が作成した実質賃金の自然対数値の推移であ る。時系列の推移は自然対数値の 1979 年時点か らの差異なので,1979 年時点の値からの変化率 と近似できる。カードが論文の中で述べている ように,1979 年から 1985 年にかけてマイアミと 他の都市の白人の実質賃金はほぼ変化がない。一 方で,マイアミの黒人労働者の賃金は 1979 年か 図 3 実質賃金の自然対数値の推移,Card(1990) 注: Card(1990)の表 3 のデータをもとに筆者作成。「他の都市」はアトランタ,ロサンゼルス,ヒューストン,タンパ・ セントピーターズバーグ を組み合わせたもの。縦軸は実質賃金(時間給)の自然対数値で,それぞれの折れ線について 1979 年の水準を 1 に標準化している。 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 .9 .95 1 1.05 マリエルボートリフト 白人 マイアミの白人 他の都市の白人 実質賃金 の 対数値 (1979年 の 水準=1) 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 .9 .95 1 1.05 マリエルボートリフト 黒人 マイアミの黒人 他の都市の黒人 実質賃金 の 対数値 (1979年 の 水準=1) 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 .9 .95 1 1.05 マリエルボートリフト ヒスパニック マイアミのヒスパニック 他の都市のヒスパニック 実質賃金 の 対数値 (1979年 の 水準=1) 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 .9 .95 1 1.05 マリエルボートリフト キューバ人 マイアミのキューバ人 実質賃金 の 対数値 (1979年 の 水準=1)
ら 1981 年にかけてほぼ横ばいであるが,1982 年 と 1983 年に低下し,その後 1984 年に元の水準に 戻っている。その他の都市の黒人労働者の賃金は 1979 年から 1985 年にかけて一貫して低下してい る。これらの実質賃金の動きを観察して,カード はマリエルボートリフトによる移民の増加が既に アメリカにいた労働者の実質賃金に影響したとは 言えないと主張している。 マイアミのキューバ人以外のヒスパニックの労 働者の賃金は 1979 年から 1985 年にかけてほぼ横 ばいで,1983 年に若干の低下があるのみである。 しかしその他の都市のヒスパニックの労働者の賃 金は同期間に 5 % 近く低下している。これに基 づいて,カードは,やはりマリエルボートリフト でマイアミのヒスパニックの労働者の賃金が低下 したとは言えないと述べている。一方で,キュー バ人労働者の賃金は一貫して低下している。白人 の賃金と比較して,キューバ人の賃金は 1979 年 から 1981 年までに 6 〜 7%ポイント低下してい る。キューバ人の賃金にはマイナスの影響がある かもしれないが,その他の人種の労働者への影響 がほぼないことから,移民が受入国の労働市場に マイナスの影響を与えることはないという含意が 得られる4)。 この結果は労働市場の需給関係を考えると驚 くべき結果に思われるかもしれないが,これは 国 際 貿 易 論 の 要 素 価 格 非 反 応 性(Factor Price Insensitivity)と整合的である。これによると,2 産業 2 生産要素(労働と資本)のモデルにおいて, 両方の生産要素が産業間を移動可能な長期では, 1 つの生産要素の賦存量の変化に応じてもう 1 つ の生産要素も収益を均等化するように産業間を移 動することになるので要素価格の相対価格は変化 しないというものである。一方で,産業の生産量 は要素賦存の変化に敏感に反応する。例えば,移 民によって労働者が増えれば労働を集約的に用い る産業の生産が拡大し,資本を集約的に用いる産 業の生産が縮小する。いわゆるリプチンスキーの 定理である。この産業間における生産量の非対称 な動きも 2 つの生産要素が自由に産業間を移動で きることから生まれる。 実際,ダートマス大学のイーサン・ルイス (Lewis 2004)がマリエルボートリフト前後のマイ アミにおける産業ごとの付加価値額を観察し,こ のリプチンスキーの定理と整合的な実証結果を報 告している。彼によると,マリエルボートリフト 以降,マイアミにおいて繊維産業(非熟練労働集 約的)が拡大し,ハイテク産業(熟練労働集約的) の生産量が減少したのである。これはキューバ人 難民の多くが非熟練労働者であることと整合的で ある。イーサン・ルイスはさらに別の論文(Lewis 2011)で,低学歴の移民が資本と強い代替関係に あることを指摘し,移民が増加した地域では生産 の機械化が進まなかったことを示している。そし て,低学歴の移民が資本と強い代替関係にあるの で,増加した移民が労働市場に十分吸収されたこ とが賃金の低下を引き起こさなかった一因である と指摘している。Lewis(2013)は移民と生産技 術についての包括的なサーベイを行っている。 これらの視点は労働供給が増えたことによる労 働市場への影響を考察するものであるが,労働者 が増えたことによる財市場を通じた影響も当然考 えられる。移民は労働供給者であると同時に消費 者でもあるので,財市場において財への需要が増 えるという効果があるはずである。Bodvarsson, Van den Berg and Lewer(2008)はこの点に着 目して,実際にマリエルボートリフト以後 5 年の 間にマイアミの小売市場で需要が大きく増加し, これが労働市場での賃金への負の効果を相殺する ことになったと結論づけている。Cortes(2008) は米国の 90 都市のデータを用いて移民集約的な 産業で生産される財の価格がどのように影響され るかを検証した。彼女によると,移民の労働者人 口における比率が 10 % 増加すると家政・清掃・ ガーデニングなど移民の割合が多い産業の財価格 が 2 % 減少することを示している。 カードの研究(Card 1990)に話を戻すと,カー ド自身,移民の増加が受入国の労働者に影響しな いという結果は注意して解釈する必要があると述 べている。第一に,マリエルボートリフトの 20 年前からマイアミはキューバ人難民を受け入れて おり,さらに,マリエル以後もニカラグア人やそ の他の中央アメリカ諸国の移民を受けているの で,マイアミはその他の都市に比べて移民を受け
入れる準備が整っていた都市と考えることができ る。だからこそ,すべての生産要素が移動可能な 長期のモデルを適用して考えることができるのか もしれない。第二に,マイアミのヒスパニックの 人口がその他の都市と比べて大きいことから,英 語を話せないことによるハンディキャップがその 他の都市よりも小さいので,それが賃金への影響 が小さいという結果につながった可能性がある。 最後に,マリエルボートリフト以降,その他の国 からマイアミへの移民が減少しているので,マリ エルボートリフト以降その他の国からの移民がア メリカの別の都市に居住地を変更し,それによっ て賃金への影響が小さく推定された可能性があ る。
Ⅲ ジョージ・ボルハスとジオバニ・ペ
リのマリエル論文
このカードの論文の結果は「移民増加によるア メリカの労働市場への影響は限定的」と解釈でき る。この結果に異を唱えているのがハーバード 大学のジョージ・ボルハス(George Borjas)であ る。彼自身キューバからの移民であるが,彼の 2017 年に公刊された論文(Borjas 2017)で,マリ エルボートリフトによってマイアミの労働市場に マイナスの影響があったと述べている。ボルハス はキューバ人難民の多くが非熟練労働者であると いう事実に着目し,学歴ごとの賃金の推移を検 証した。彼によるとキューバ人の難民の 60 % が 高校中退者で,大卒は 10 % しかいなかったと述 べている。したがって,マイアミの全体の労働力 人口はマリエルボートリフトによって 8 % 拡大 したが,高校中退者に絞ると労働力人口の拡大は 20 % にもなる。したがってボルハスは高校中退 者に分析の対象を絞って分析をした。 図 4 がマイアミの高校中退者の賃金とアメリカ のその他の都市の高校中退者の賃金の推移を示し たものである。この図がボルハスの主張をほぼ要 約している。図はマイアミの高校中退者の賃金(3 年移動平均の値)とその 95 % 信頼区間と,同等の 学歴水準のマイアミ以外の地域に住む非ヒスパ ニックの労働者の賃金(3 年移動平均の値)を示す。 1980 年以前はマイアミとマイアミ以外で非常に 似たような時系列の推移を示しているにも関わら ず,1980 年のマリエルボートリフト以降,マイ アミにおける高校中退者の賃金が急激に低下して いることを示している。ボルハスは 1985 年まで にマイアミにおける高校中退者の賃金はマイアミ 以外の地域に比べて 30 % ほど低下したと述べて いる。マイアミとマイアミ以外の地域のトレンド の違いがマリエルボートリフトから来るものであ るとすれば,キューバからの難民の到来によって マイアミにおいて高校中退者の賃金が 30 % 低下 したことが示唆されるということである。 図 4 高校中退者の賃金の自然対数値の推移,Borjas(2017) 注: Borjas(2017)の図 2。実線で表示されている実質賃金は 3 年の移動平均で,95% 信頼区間も表示されている。 4.8 5 5.2 5.4 5.6 5.8 1972 1976 1980 1984 1988 1992 1996 2000 2004 賃金の自然対数値 マイアミ以外 マイアミ 以外 マリエルボートリフトこのジョージ・ボルハスの論文の発表とほぼ同 じ時期にカリフォルニア大学デービス校のジオバ ニ・ペリとバジル・ヤセノフもマリエルボートリ フトの労働市場への影響を分析し発表した(Peri and Yasenov 2019)5)。しかし,彼らが辿り着い た結果はボルハスのものとは大きく異なってい た。ペリ・ヤセノフはカード(Card 1990)の論文 を出発点とし,いくつかその論文の問題点を指摘 した上でそれらを克服することが論文の目的であ る述べている。彼らが指摘しているカードの論文 の問題とは,まず第一に,マイアミの比較対象と してアトランタ,ロサンゼルス,ヒューストン, タンパ・セントピーターズバーグが選択されてい るが,その選択が恣意的という批判を免れないと いうこと。第二に,既にボルハスに指摘されてい ることであるが,学歴水準,さらには年齢,性別 など労働者の特徴別に賃金への影響を分析してい るわけではないこと。そして第三に,統計的な分 析をする際に使用する標準誤差を計算するときに それぞれの都市に特殊なショック(Idiosyncratic shocks)があることを考慮せずに,ある都市の労 働者全員を独立したサンプルとして見なしている ということである。 ペ リ・ ヤ セ ノ フ は 合 成 統 制 法(Synthetic Control Method)という手法を用いることでこれ らの問題を克服し,より信頼できる推定値を得ら れたと述べている。具体的には,実際のマイアミ と比較するために,マリエルボートリフトがあっ た 1980 年以前のマイアミにおける賃金の時系列 トレンドと似たような動きをする「仮想マイアミ (Synthetic Miami)」を作成する。仮想マイアミの 作成のために,まず米国の都市のサンプルから複 数の比較対象となる都市を選択し,それらの都市 を 1 つの仮想都市として合成するために用いる重 み(ウェイト)を求める。その複数の都市と重み は実際のマイアミと 1980 年以前のトレンドの差 が最小になるように選択される。この仮想マイア ミは多くの都市のサンプルから何度も繰り返しサ ンプリングされた都市のサブサンプルを用いて, さらにいろいろなウェイトを用いて計算された多 くの「仮想マイアミ」の中で最もフィットがいい ものが用いられる。そういう意味で,仮想マイア ミの作成方法が客観的であるといえる。ペリ・ヤ セノフはこの分析手法を用いて,分析対象を高校 中退者に絞ってもキューバ人難民の増加による実 質賃金や失業率への影響はほぼなかったと結論付 けている6)。 ではなぜペリ・ヤセノフはボルハスと異なる結 論に至ったのであろうか。それはまず第一に,ペ リ・ヤセノフはボルハスの論文では使用されてい ない合成統制法を用いたからである。そして第二 に,分析に用いられているデータのサンプルが異 なるからである。ボルハスは Current Population Survey(CPS)の 3 月分(March-CPS)のみを用 いているのに対し,ペリ・ヤセノフは May-ORG
(Outgoing Rotation Group)のデータも用いてい る7)。May-ORG の利点としては,(1)より多く の労働者のデータをカバーしていること,(2) CPS がサーベイ時点に労働者が振り返って計算 した年収のデータを報告しているのに対し May-ORG はそれぞれの時点の週賃金を報告している ので測定誤差が小さいと思われることである。さ らに,ボルハスが高校中退者のデータのみを用い ているのに対し,ペリ・ヤセノフはより多くの労 働者のデータをカバーするために高校中退者のみ ならず高校卒ではないすべての労働者(中学校卒 と小学校卒など)のデータを用いていることであ る。
Borjas(2017)のサンプルと Peri and Yasenov
(2019)のサンプルが表 1 にまとめられている。
注 : これは Peri and Yasenov(2019)の補論にある表 A2 を筆者が簡単化したものである。
論文 労働者の特性 May ORG March CPS Borjas(2017) 非ヒスパニック,男性,25 〜 59 歳 47.4 19.4 Peri and Yasenov(2019) ヒスパニック/非ヒスパニック,男性/女性,19 〜 65 歳 138.8 68.4
表 1 Borjas(2017)のサンプルと Peri and Yasenov(2019)のサンプル,1978 年から 1982 年の間の各年のサンプルサイズの 平均値
これは分析に用いられている 1978 〜 1982 年の間 の平均的な労働者の数である。Borjas(2017)は 非ヒスパニックの 25 〜 59 歳の男性のデータを用 い,さらに March CPS のデータを用いているの で,対象期間中の 1 年のデータに含まれる平均的 な労働者の数は 19.4 人である。これに対し,Peri and Yasenov(2019)は非ヒスパニックとヒスパ ニックの19〜65歳の男性と女性のデータを用い, さらに May ORG のデータを用いているのでサン プルサイズは 1 年あたり 138.8 人である。ペリ・ ヤセノフはより多くの労働者のデータを用いてい るので,測定誤差が小さく,推定値がボルハスの ものよりも信頼できると主張している。 図 5 の太線はペリ・ヤセノフのサンプルを用い たマイアミの非熟練労働者の賃金の推移を示し, 太長破線はボルハスのサンプルを用いたものを示 している。右下がりの直線の破線は線形トレンド である。さらに薄い灰色の実線はペリ・ヤセノフ が計算した高校中退の労働者のサンプルの特性 「人種,性別,年齢区分」の組み合わせで作成で きる 27 パターンのサブサンプルの賃金水準の動 きである。ペリ・ヤセノフの論文の補論の表 A2 にその 27 の組み合わせがまとめられているが, 人種に関しては 3 パターン(非ヒスパニック,ヒ スパニック,そして非ヒスパニックとヒスパニック 両方合わせたサンプル),性別も 3 パターン(男性, 女性,そして男女合わせたサンプル),年齢に関し ても 3 パターン(プライム年齢:25 〜 59 歳,マー ジナル年齢:19 〜 24 歳と 60 〜 65 歳,そしてこれら 2 つを合わせたサンプル)ある。したがって,作成 可能なサブサンプルは 3 × 3 × 3 = 27 パターン 存在することになる。これらのサブサンプルから 計算される労働者の平均賃金の推移をみると,ト レンドから大きく逸脱して低下するものもあれ ば,逆にトレンドから上方方向に乖離するものも あることがわかる。太実線で示されているペリ・
図 5 高校中退者・同等学歴の労働者の賃金の自然対数値の推移,Peri and Yasenov(2019)
注: Peri and Yasenov(2019)の図 8 のパネル B。データは March CPS より。太線は Peri and Yasenov(2019)のサンプルに基づく 平均賃金の推移,太長破線は Borjas(2017)のサンプルに基づく平均賃金の推移である。直線の破線は線形トレンドである。その 他の薄灰色の線は労働者の特性「人種,性別,年齢区分」の組み合わせで作成可能な 27 のすべてのサブサンプルに基づいた平均賃 金の推移である。 1973 75 77 79 81 83 85 87 89 91 4.6 4.9 5.2 5.5 5.8 週賃金 の 自 然対数値 ボルハス トレンド ペリ・ヤセノフ マリエルボートリフト前年
ヤセノフの結果はほぼ 27 のサブサンプルの中央 値といえるのに対し,ボルハスのサンプルは 27 のサブサンプルの中でも最も賃金の低下が大きい 部類に入ることを示している。 ワシントン DC のグローバル開発センターのミ ハエル・クレメンスとラトガーズ大学のジェニ ファー・ハント(Clemens and Hunt 2019)がなぜ サンプルによって賃金が異なる動きをするのか説 明している。彼らはボルハスが使用しているサン プルにおいて,1980 年のマリエルボートリフト 以降サンプル内の労働者の人種構成に大きな変化 があったことを明らかにしている。クレメンス・ ハントの論文によると,マイアミにおいて,1980 年以降マリエルボートリフトとは関係のない理由 で高校中退かそれ以下の学歴水準のハイチ系の黒 人労働者が増えたこと,さらに CPS においてカ バーされる労働者が増えたことで黒人のアメリカ 人のシェアが 1980 年以降大きくなっていると指 摘している。黒人の低学歴の労働者は他の労働者 に比較して賃金が低いので,サンプル内の人種構 成の変化のみでボルハスの論文における急激な賃 金の低下が説明できるというのが彼らの主張であ る。 この一連の論議はカード・ペリ・ボルハス論 争(Card-Peri-Borjas, the Great Immigration-Data Debate)と呼ばれ,アメリカの多くのブログやメ ディアで取り上げられている(例えば,Bloomberg 2015; Wall Street Journal 2015, 2017; The Economist 2016; The Atlantic 2015; Matloff 2016; Vox 2017)。 しかし,この両者のアカデミアでの論争は実はこ れが初めてではない。
Ⅳ 労働者の代替の弾力性についての議論
ペリ・ボルハス論争の第一ラウンドは 2008 年 にボルハスと彼の共著者(Borjas, Grogger, and Hanson 2008, 2012)がオッタビアーノとペリの 論 文(Ottaviano and Peri 2006, 2012)の 結 果 に 疑問を呈する論文を発表したことから始まっ た。Ottaviano and Peri(2012)は構造推定を用 いて移民の増加がアメリカの労働者の賃金にど のように影響したかを検証したもので,Borjas (2003)で考慮されていない効果を考えるという 形で書かれた論文だった。Borjas(2003)は 1980 年から 2000 年までの間に移民人口が 11 % 増加 し,それによって既にアメリカにいた労働者の賃 金が 3.2 % 低下したと主張した。これに対して, Ottaviano and Peri(2012)は移民労働者とアメ リカ人労働者の代替関係を考えることが重要であ ると主張し,さらに,Borjas(2003)では考慮さ れていない移民人口の増加の間接効果(つまり, ある学歴水準の移民人口が増加したときに他の学歴 水準の労働者の賃金に与える影響)を考慮すること も必要であると考えた。
そ こ で Ottaviano and Peri(2012)は 入 子 型 CES 生産関数から労働需要関数を導出し,その 理論式をデータを用いて推定することでモデルの パラメーターを求め,移民増加による労働供給の 増加がアメリカにいる労働者の賃金に及ぼす影響 を推定した。彼らの論文では,1990 年から 2006 年の間に,移民の増加によってアメリカに既に いた移民の賃金は 5 % から 8 % ほど低下したが, アメリカ人の賃金は 0.6 % 上昇したと結論付けて いる。移民の増加はアメリカ人の賃金には非常に 小さいが正の効果があると主張しており,移民の 受入国の労働市場へのマイナス影響は小さいと解 釈できる。
し か し, ボ ル ハ ス ら は,Ottaviano and Peri
(2012)の結論に至るのに重要な役割を果たして いるパラメーターが誤って推定されているのでは ないかと主張した。そのうちの 1 つが移民労働者 とアメリカ人労働者の代替の弾力性である。ペリ らの論文では同じ学歴水準でも移民労働者とアメ リカ人労働者は異なり,2 つの労働者のタイプ間 の代替の弾力性は約 20 であると主張されている。 この代替の弾力性は大きければ大きいほど完全代 替に近くなり,同質性の水準が高いことになる。 20 という数字は大きいものではなく,労働を需 要する企業側からは移民労働者とアメリカ人労働 者が異なるタイプの労働者として見なされている ことを意味している。
Ottaviano and Peri(2012)は移民労働者とア メリカ人労働者が異なる理由として 3 つ挙げてい る。まず第一に,移民労働者の多くはモチベー
ションや専門的技術を持ち,職業選択の好みがア メリカ人と異なること。第二に,外国人は母国の 文化や環境に影響されて特殊な技術を持ち,アメ リカ人労働者とは異なった比較優位/比較劣位が あること。第三に,移民の社会ネットワークの 影響で移民はアメリカ人とは異なる職業/産業を 選択する傾向にあることなどを述べている。一 方で,ボルハスら(Borjas, Grogger and Hanson, 2012)は,外国人とアメリカ人の間の代替の弾力 性を推定し,男性労働者に限定したサンプルを用 いると 125,男性と女性両方含めたサンプルを用 いて推定すると 500 になると述べた。つまり外国 人労働者もアメリカ人労働者もほぼ同質な労働者 とみなせると主張した8)。ボルハスらは彼らが推 定したパラメーターの値を用いると賃金の変化が −1.5 % になり,移民の増加によってアメリカの 労働市場にマイナスの影響があったと示唆される 結果を示している。 移民労働者と受入国の労働者の代替関係につい ては,様々な経済学的な視点から考察する必要 があるだろう。例えば,Fassio, Kalantaryan and Venturini (2019)は人的資本の理論の視点から, 移民に付随して流入する外国からの人的資本が受 入国の生産性に与える影響を検証している。彼ら はフランス,ドイツ,イギリスのデータを用いて, 移民の増加が生産性の上昇に貢献していると結論 付けている。外国人労働者が受入国の労働者と異 なる人的資本を持つなら,彼らは不完全代替とい える。Moreno-Galbis and Tritah (2016)は,EU の 13 カ国において,移民が増加した産業や職業 で受入国の労働者の雇用も増加したという実証的 結果をサーチ理論を用いて説明している。移民は 受入国の労働者に比較して失業保険などが充実し ていないことが多いので,サーチモデルにおける 外部機会(アウトサイドオプション)が小さく,そ の違いが移民と受入国の労働者の不完全代替性を 生み出し,受入国の労働者の雇用増加をもたらし たと説明している。Gentili and Mozzonna (2017)
はスイスにおける労働者の母国言語の多様性を利 用した実証研究を行い,母国語の違いがコミュニ ケーションスキルの違いを生み,移民と受入国の 労働者を不完全代替にするという実証結果を得
て い る。Manacorda, Manning and Wadsworth
(2012)はイギリスのデータを用いて,移民の増 加が移民の賃金を低下させたがイギリス人労働者 の賃金には限定的な影響しかなかったことから, 移民とイギリス人が不完全代替であると述べてい る。
Ⅴ お わ り に
本稿では移民の受入国の労働市場への影響につ いて大きく 2 つの視点から議論をした。まず第一 に,マリエルボートリフトを自然実験として利用 した移民受け入れの賃金への影響についての文献 について紹介をした。そして第二に,移民の増加 が他のカテゴリーの労働者にどう影響するかを考 察する上で重要な代替の弾力性の推定値について も議論があることを紹介した。移民が日本の労働 市場に与える影響を考察した実証研究の研究論文 は,諸外国の労働市場を対象とした研究と比べて 多いわけではないが,諸外国を対象にした研究に 学ぶことがあるであろう。ただし,対象となる労 働市場によって結果が異なったり,同じイベント を用いた研究でも結果に齟齬があるため,論文で 使用されている分析手法やサンプルなどをよく理 解した上で,慎重に理解する必要があるだろう。 1)この内生性の問題の詳しい解説については川口(2008)を 参照して欲しい。 2)Card (1990)がマイアミの労働市場の特殊性について議論 しているように,マリエルボートリフトを用いた研究結果は すべての労働市場に一般的に適用されるものではなく,一つ のケーススタディとして理解するべきであろう。移民の経済 効果の分析において自然実験をした研究をまとめたものとし て Tumen (2015)があり,フランスやイスラエルなどの米 国以外の国における移民流入の効果を推定した論文も紹介し ている。また,萩原・中島 (2014)も移民の経済効果の研究 のより包括的なサーベイをしている。 3)佐藤・町北 (2012)もマリエルボートリフトを自然実験と して利用した研究の紹介をしている。本稿ではそれ以降にな されたより新しい研究の紹介も行う。 4)実際のカードの論文(Card 1990)では,単にデータの動 きを観察することに加えて差の差の推定法(the difference-in-difference estimator)という手法を用いて統計的な考察 も行っている。5)Borjas(2017)と Peri and Yasenov(2019)では公刊さ れた年こそ異なるが,ワーキングペーパーが公開されたのは 2015 年のほぼ同じ時期であった。
に合成統制法の利点について説明している。問題としては, 例えば Ferman and Pinto(2017)が指摘するように,処置 群(treatment group)への配分が時間を通じて変動する観 測できない要因と相関するときにバイアスが生じること。 Powell(2018)が指摘するように,合成統制法は「完璧な」 仮想比較対象群が存在することを仮定しているが,それは被 説明変数が一時的なショックによって変化しないときのみ成 り立つ仮定であることなどがある。
7)The Current Population Surveys(CPS, 人口動態調査) とは米国の労働統計局(the United States Census Bureau for the Bureau of Labor Statistics)が毎月行っているサー ベイで,およそ 6 万家計をカバーしている。このデータはパ ネルデータではないが,同一家計を追跡してパネルデータの 形態にしたのが Outgoing Rotation Groups である。NBER (https://www.nber.org/data/morg.html)によると,同一家 計が 4 カ月にわたってサーベイ調査の対象となり,その後 8 カ月調査から欠落し,その後さらに調査対象に戻り 4 カ月調 査 さ れ る。 毎 月 調 査 対 象 の 家 計 が 入 れ 替 わ る こ と か ら Outgoing Rotation Groups と呼ばれる。
8)Ottaviano and Peri(2006)と Borjas, Grogger, and Hanson (2008)で同じデータを用いて異なる代替の弾力性が得られ た理由については 2 つあり,第一に,被説明変数として用い る変数が平均賃金の対数値なのか,対数賃金を求めてから平 均をとるのかで違いがあること。第二に,自営業者をサンプ ルに含めるかどうかの違いである。 参考文献
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ささはら・あきら アイダホ大学商経学部助教授。最近 の 主 な 論 文 に “The ‘China Shock’, Exports and U.S. Employment: A Global Input-Output Analysis,” (2018) Review of International Economics, 26 (5), pp. 1053-1083, with Robert C. Feenstra.