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あごら : 321号 (2009.2.20)「〈女の壁〉にチャレンジした女たちⅠ」

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あごら 第321号 2009年2月20日発行 1977年11月28日第三組郵便物認可 本体1200円+税 lSBN978-4-89306-178-2

3

2

1

新宿発

〈女の壁〉に

チャレンジした女たち

I

みんなで語ろう!f

2

1世紀の人生の歩き方」

下 村 満 子

大 森 安 恵

斎 藤 千 代

木 村 慶 子

林 陽 子

深 沢 和 子

渡 遺 嘉 子

山 口 積 恵

あごらメイト

訪問衆議院議員

阿部知子さんを訪ねて

やさしさこそ強さ一一「あなたは何を選ぶのか

J

と聞いたい

〈 詩 〉 祈 り

堀 場 清 子

コスタリカ通信

3

r

軍隊のない国

J

から

笹本

〈工ツセー〉お雛さま

滝 島 典 子

璽亙私たちのものであって私たちのものでない押見操子

亙亙泡瀬干潟市・県州公金支出差し止めj

を控訴桑江テル子

〈連載〉母を語る

7

リフを生きた明治の女書生

3

斎 藤 千 代

大 矢 和 子

茅 野 祐 子

宮 崎 絢 子

(2)

吋G時<3*時4時4時4吋4吋4吟唱時4吟唱時<3*吟唱時4時4時4時4時4時 < 3 * 的 苦 *

321

︿

I

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巻 頭 言 ︿ 女 の 壁 ﹀ と ︿ 女 ﹀ た ち ・ ・ ・ ・ みんなで語ろう!﹁引世紀の人生の歩き方﹂ 未 来 館 フ ェ ス テ ィ バ ル シ ン ポ ジ ウ ム か ら ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

2

下 村 満 子 大 森 安 恵 大 矢 和 子 蟹 瀬 令 子 斎 藤 千 代 木 村 慶 子 茅 野 祐 子 永 井 多 恵 子 林 陽 子 深 沢 和 子 宮 崎 絢 子 山 下 泰 子 渡 遺 嘉 子 山 口 積 恵 ︿ あ と ら メ イ ト ﹀ 訪 問 衆 議 院 議 員 阿 部 知 子 さ ん を 訪 ね て ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ き さ 手 ・ 斎 藤 千 代 印 やさしさこそ強さ││﹁あなたは伺を選ぶのか﹂と聞いたい 詩 祈

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・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 堀 場 清 子 関

3

﹁ 軍 隊 の な い 国 ﹂ か ら ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 笹 本 潤 町 エ ッ セ ー お 雛 さ ま ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 滝 島 典 子 叩 新 潟 か ら 私 た ち の も の で あ っ て 私 た ち の も の で な い ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 押 見 操 子 叩 沖縄か

5

泡 瀬 干 潟 市 ・ 県 が ﹁ 公 金 支 出 差 し 止 め ﹂ を 控 訴 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 桑 江 テ ル 子 山 ︿連載﹀母を語る

7

リブを生きた明治の女書生

3

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 斎 藤 千 代 川 みなさまのお年賀状か

5

・ •••• あ と ら の あ と ら ・ ••

(3)

く女の壁〉とく女〉たち

︿ 壁 ﹀ がある 。 戦後六十四年、人間で 言 えば還暦をすぎたというのに、女には、まだ ︿ 壁 ﹀ がある 。 もちろん、戦後の新憲法と、その後の数かずの運動で、 ︿ 女の壁 ﹀ の大部分は、消失した 。 し か し 、まだ皆無とは 言 えない 。 それでも、戦後まもなくから働き始めた女たちの 実 感としては、女の情況は 、 信じられ ないほど改 善 された 。 就職 し た職場で、昨日も今日も、 ︿ 女だから ﹀ に 甘 え ず 、 ︿ 女のくせに﹀の暴 言 にうろた え ず 、 ﹁ 実 行こそ改 善 につながる﹂と、黙々と働き続けた女たちの地道な仕 事 ぶりが、女 の情況を変えた 。 そ し て、女の 重 役や、女の社 長 も、稀れではなくな っ た 。 その先頭に立った女性たちが、福島の女性センタ ー で、ありのままに、働き続けた過去 と現在を語った 。 たたかいの先頭に立 っ て働き続けたその女性たちの 率直 な思いを、報告者のご諒解を得 て、掲載させていただいた 。 いま、﹁女だから雇わない﹂という会社は、ない 。 一 方、﹁女性だから雇いたい﹂という 職場は増えている 。 賃金格差は、残念ながら今も残るが、それも、必ず解消されるだろう 。 こ の ︿ 今日﹀を、︿明日﹀に、どう発展させていくか 。 就職を前にした方、就労 し て、理想と現実の問で、考えることの多い方がたが、前を歩 い た 先 輩 、 一 人ひとりの痛切な 言 葉を、受けとめてくだされば幸いである 。 ( 涼 )

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みんなで語ろう!

f

2

1

世紀の人生の歩き方

J

未来館フェスティバル シンポジウムから

福島県男女共生センター「女と男の未来館j

A

グループ 大森 安恵さん海老名総合病院・糖原病センター長、東京女子医大名昔教担 大矢 和子さん(柑資生堂常勤監査役 蟹 瀬 令 子 さ ん

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AJAPON I

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代表取締役 斎 藤 千代さん編集者、(あごら)事務局責任者、(欄

BOC

代表取締役 Bグループ

木村

慶子さん医学博士・医療法人「こころとからだの元気プラザ

j

茅野 祐子さん社団法人

f

東京のあすを創る協会

J

副会長 永井多恵子さん社団法人「ユネスコ国際演劇協会j会長、元

NHK

副会長 林 陽子さん弁護士、国連女性差別撤廃委員会委員 深沢 和子さん舞踊家、振付家、バレエ団「芸術座

J

主宰 Cグループ

宮崎

絢子さんボイスコンサルタント、ボイストレーナ一

山下

泰子さん文京学院大学外国語学部・大学院教授 渡 遺 嘉 子 さ ん 附 リ ク ル ー ト

rHUMAN.ADJ

編集長 コーテ'ィネーター

山口

積恵さん側セブンーイレブン・ジャパン取締役

下村

満子さんジャーナリスト、福島県男女共生センター館長

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下村満子さん、山口積恵さん、大森安恵さん、大矢和子さん、蟹瀬令子さん、 斎藤千代さん、木村慶子さん、茅野祐子さん 永井多恵子さん、林 陽子さん、深沢和子さん、宮崎絢子さん、 山下泰子さん、i度i豊嘉子さん 前列左から 後列左から ︿ リーダーシップ 111 ﹀ ( ワ ン ワ ン ワ ン ) と いう女性グループがあります 。 独自の仕 事 で活躍している日本の 111 人 の 女 性 の グ ル ー プ で 、 一 九九四年から活動を続け ています 。 そのメンバーの 一 人、下村満子さん(元朝日 ジ ャ ー ナ ル 編集長 ・ あ ご ら 会 員)が館長を務め ておられる︿福島県男女共生センター H 女と男 の未来館 ( 福島県 二 本松市郭内)﹀の研修ホ ー ルで、昨年九月六日、未来館フェスティバル﹁大 参画祭﹂シンボル ・イベントとして ︿ 111 ﹀ の有志を招いてシンポジウムを聞いてください ました 。 女性が働き続 けることが困難だった頃から働 き続けて来られた十四人のメンバーのお話は、 貴 重 なものでしたので、︿未来館﹀と︿ 111 ﹀ のご諒解をいただいて、当日の記録を紹介させ て い た だ き ま す 。

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下村皆さん、こんにちは。ょうこそおいでくださいまし た。今日は︿未来飢フェスティバル﹀の八同日です。 私も年を取ったせいか、何回なのか忘れてしまったので すが、さっき確認をしましたら、オープニングのイベント も 合 め る と 、 今 回 で 八 回 目 を 迎 え ま し た 。 毎年いろいろなことをやっておりますが、今回は思い切 って、このようにたくさんのすごい方たちにお集まりいた だきました。心配していたお天気も、今日はよくて、私と し て は 、 大 変 う れ し い 限 り で ご ざ い ま す 。 皆さまのお手元にプログラムがあるかと思います。ご存 じのように、︿未来館フェスティバル﹀は、毎年、当館の 創立を記念したフェスティバルとして行なってまいりまし た。本当は一月が創立記念日ですが、一月は最初のオープ ニ ン グ の 日 も 大 雪 が 降 り ま し た の で 、 ﹁ い い 季 節 に し よ う ﹂ ということで、今の時期にしましたけれども、毎回二日に わたって、いろいろなイベントをやってまいりました。 私は、﹁共生センターの自立の精神から訂つでも、でき る限り県民の皆さま方の手作りのいろいろな似し、計阿、 企岡、民示などをやっていただきたい﹂と、お願いし続け て お り ま し た が 、 今 岡 も 非 常 に 多 彩 な プ ロ グ ラ ム が あ り ま す 。 例 え ば ﹁ お 父 さ ん の 山 本 明 コ ン テ ス ト ﹂ と い う の は 、 ぜ ひ 凡てみたいものの一つですし、チャリティ l パ ザ ー も あ れ ば、環境問題、青少年健全育成というものもあります。ま た、介護関係では招祉機器の問題、それから﹁男の井戸端 会議﹂というのもありますし、﹁命、平等、思いやり、平 和の語りベ﹂、あるいは﹁ジエンダ l つ て な あ に ? ﹂ と い う子どもたちへのジエンダ l 教 育 の セ ッ シ ョ ン 、 そ し て 、 金 融 ・ 生 活 設 計 コ ー ナ ー も あ り ま す 。 こ れ は 切 尖 な 問 題 で 、 今 は イ ン フ レ で 大 変 に 生 活 が 苦 し い 時 代 に な っ て き ま し た 。 そういうものもございますし、本当に、﹁よくぞ﹂と思う ぐらい多様な企聞を、皆さまが尖行してくださいました。 ま た ﹁ 新 聞 記 事 に 見 る 県 内 の 男 女 共 同 参 附 の 動 き ﹂ と い う ものも、大変に興味ある企阿だと思います。ぜひ皆さま、 この二日間はフェスティバルをフルに楽しむと同時に、い ろ い ろ な 情 報 交 換 や 学 び を し て い た だ け れ ば と 思 い ま す 。 実は、二日間にわたるフェスティバルでは、毎年、大き なイベントをやってまいりました。いろいろな方に来てい ただきましたが、私としては、できる限り皆さまに毎年述 うアングルで、講師の方がたの多様な考え方を知っていた だ き た い と 思 っ て お り ま し た 。

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そこで今回は︿リーダーシップ 111( ワ ン ワ ン ワ ン ) ﹀ のメンバーの皆さんに来ていただきました。今回の未来館 フェスティバルは、﹁みんなで語ろう!幻世紀の人生の 歩き方﹂がテ

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マでございますが、これは︿リーダーシッ プ 111 ﹀という団体と︿未来館﹀との共催という形にな っ て お り ま す 。

﹁男社会の中で︿女の道﹀を切り開いてきた

方がた﹂のお話を

実は、私も︿リーダーシップ 111 ﹀の設立にかかわっ たメンバーの一人です。一九九四年ですから、十年以上前 になります。そのころは、ここにいる方たちも、みんな、 もうちょっと若くて、中堅でした。中にはトップの方もい らっしゃいましたが、私も朝日新聞でパリパリやっており ました。みんな﹁活躍している女性たち﹂と言われながら も、実は男社会の中でたった一人だったり、非常に孤独な 状 況 に あ っ た ん で す ね 。 職業はみんな違っていて、官僚の方、ドクターの方、ビ ジネスウーマン、あるいはア l トの世界にいる方、大学教 授や、弁護士の方もいらっしゃいます。外から見ると華々 しく活昭しているように見えながら、個人的にお話しして みると、やはり、﹁女性である﹂ということから、余計な エネルギーを使って疲れていて、それから意外と孤独であ る と い う こ と が わ か り ま し た 。 男の方たちは、例えば京大卒だとか、何々大学卒業とい うと、あらゆる世界にネットワークがあって、助け合いな がら仕事をしていらっしゃるわけですが、女性は、なかな かそういう具合にいきませんから﹁お互いに助け合うネッ トワークを作りましょうよ。助け合うだけじゃなくて、時 に は 品 痴 を こ ぼ し 合 っ た り 、 悩 み を 話 し て 慰 め て も ら っ た り 、 アドバイスをもらったり、極めて非公式でインフォーマル なものを作りましょう﹂ということを、私も言い出しっぺ の 一 人 で し た が 、 そ れ が き っ か け で 、 で き た 会 ご ざ い ま す 。 ︿ 111 ﹀ は 111 名のはずですが、今はメンバーが九

O

名 ぐ ら い で し ょ う か 。 この会は、﹁入りたいから誰でも入れる﹂という会では な く て 、 一 応 、 会 貝 委 員 会 が あ っ て 審 査 を す る わ け で す が 、 私が初代の代表をさせていただきました。その後、ここに い る 方 た ち は 全 員 す ご い 方 た ち な の で 、 ﹁ 代 表 は 順 繰 り に し て 、

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みんなで義務だと思ってやりましょう﹂ということで、何 年 述 、 ? 万 が 代 表 に な っ て 、 や っ て お り ま す 。 今年の代表は、隣にいらっしゃる山口相思さんです。山 口さんは︿セブン E イレブン﹀の取締役で、︿セブン・イ レブン﹀の立ち上げの時から、今の鈴木会長さんたちと一 緒に、本当にゼロから立ち上げて、貢献をなさった、すご い 方 で い ら っ し ゃ い ま す 。 私は、いつか、この方たちに︿共生センター﹀に来てお 話をしていただきたいと思っていました。例えば川口順子 元外務大臣や、坂東民理子さん、千葉県知事の堂本暁子さ ん も 、 ︿ 111 ﹀のメンバーでいらっしゃるので、個別に は来ていただいておりますが、個別ではなくて、この迫力 を見ていただきたいと思っていました。そういうことをや りたいな、と思った時に、たまたま︿ 111 ﹀からも、そ ういう案が出まして、﹁何とかそれを実現しよう﹂という こ と で 、 実 現 に 至 っ た 次 第 で ご ざ い ま す 。 いつもなら、﹁一方的にこちらが講演をして、最後にニ ー 三 間 の 質 問 を 受 け る ﹂ と い う 形 が 多 い の で す が 、 今 回 は 、 どの方も、しゃべらせたら二時間でも三時間でも、いくら で も 話 せ る す ご い 体 験 を 持 っ て い ら っ し ゃ る 方 ば か り で す 。 そこで、それぞれのご時門のテ l マというよりも、歩んで き た ご

n

分の人生、生き方について踊っていただきたいと 思っています。その中にいろいろな問題提起も入っている で し ょ う し 、 ヒ ン ト も 入 っ て い る と 思 い ま す 。 人数が多いので、最初に五分ぐらいずつ、お一人お一人 からお話をいただき、その後で、皆さんから大いに質問を し て い た だ き 、 ︿ 会 場 と 壇 上 と の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を す る ﹀ という形で、何とか面白い熱のあるセッションにさせてい た だ き た い と 思 っ て い ま す 。 十五人全日が五分話しても、大変なことになってしまい ま す の で 、

ABC

と い う 三 つ の グ ル ー プ に 分 け ま し た 。 段 初 、 四

1

五人にお話しいただき、休館をはさんで、ま た 五 人 と い う よ う に 、 四

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五 人 ず つ 、 話 し て い た だ き ま す 。 そ の 後 に 簡 単 な 質 疑 応 答 を し て 、 次 の グ ル ー プ に 移 り ま す 。 最後はグループなしで、何でも総括的に聞きたいこと、 今日の皆さまのお話に関係しないことでも何でも出してい ただきたいと思います。ここにいる方は何にでも答えられ る方ばかりですので、いま申し上げたような自由な討論と い う か た ち で 、 ど う ぞ よ ろ し く お 願 い い た し ま す 。 それでは、さっそく山口さん、よろしくお願いします。

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山口それでは、まず A グループの四名の方の、お名前と お 肩 書 き を ご 紹 介 し た い と 思 い ま す 。 向かって左から、海老名総合病院・糖尿病センター長で い ら っ し ゃ る 大 森 安 忠 さ ん 。 株式会社資生堂の常勤監査役の大矢和子さん。 戸 田 主 ﹄ ﹀ 阿 川

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昌 三 ・ 日 、 同 開 代 表 取 締 役 の 蟹 瀬 令 子 さ ん 。 雑誌﹁あごら﹄を、三五年間、刊行しておられる、斎藤 千 代 さ ん で ご ざ い ま す 。 ではさっそく、大森さんからお話をお願いいたします。

︿

尿

大森私は東京女子医大を卒業しまして、もう五

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年 以 上 も糖尿病の専門家として就業してまいりましたので、﹁糖 尿病の話を﹂と申されますと、どんなことでもできますけ れども、﹁人生の歩み方﹂などは、下手なしゃべりしかで きないかもしれません。お許しください。 私が東京女子医大を卒業しましたのは昭和=二年です。 それはそれは、すごい時代で、女性の医者の給料は、男性 よ り 四

O%

も少なく、男女平等では、決してなかった。 それに、糖尿病は、そのころあまりありませんでした。 それは、伝統的な日本食のおかげと、当時は、みんな、も のすごく力仕事をしなきゃならなかったからですね。 だけど、食生活の欧米化と機械化文明の進歩で、糖尿病 が 爆 発 的 に 増 え て き ま し て 、 今 は 国 民 荊 と 言 わ れ て い ま す 。 当時、糖尿病の忠者さんがたまたま妊娠をすると、赤ち ゃんがみんな死んでしまいました。それで、﹁糖尿病にな ったらお産をしてはいけない﹂と言われていました。糖尿 病 で 苦 し ん で い る 上 に 、 ﹁ 女 性 と し て 出 産 し て は い け な い ﹂ と禁止されていたんです。私も学校で、そういうふうに教 わ っ て い ま し た 。 しかし、私は、自分が妊娠して、﹁ものすごく元気で安 産ですよ﹂と言われたのに、死産をしました。当時、私は 学位を取るために、大きなおなかを抱えて、ネズミの実験 をしていたのですが、実際に子どもが生まれたら、死産だ ったのです。本当は﹁子どもが生まれてほしくない、生ま れてきたら困るんだ﹂と思っていたのに、実際に生まれた 子どもが死産だったということが、本当に悲しくて、もう 筆舌に尽くせないような悲しみを味わいました。

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そ の と き に 、 た ま た ま 、 帥 制 限 抑 と 診 断 さ れ な い ま ま 死 陀 になった二人の忠者さんが私の受け持ちになりました。 当時、日本では、﹁糖尿病があると危険だから、妊娠し て は い け な い ﹂ と 言 わ れ て い た の で す が 、 勉 強 し て み る と 、 それはまったくの問迎いで、ヨーロッパやアメリカでは、 インシュリンが発見されてから糖尿病の忠者さんでも妊娠 で き る よ う な 学 問 が 始 ま っ て い ま し た 。 そこで私は、﹁女性の苦しみは女性が研究しなければな らないんだ﹂ということを、身をもって感じました。 もし私に死産の体験がなければ、そう思わなかったと思 いますけれども、私はこの分野を自分のライフワークにし ようと思って、日本に﹁糊尿病があっても妊娠ができる﹂ と い う 学 問 を 打 ち 立 て ま し た 。 これが、私がやった仕事でありますけれども、﹁女性が 仕事をする﹂ということは、自分自身の子どもを育でなけ ればならないし、仕事もしなければならない。大変です。 そして、何もかも、すべてが男性使勢社会であります。 男 性 催 勢 社 会 で あ っ て 、 女 の 苦 し み を 引 の 方 が 知 ら な い か ら 、 ﹁ 糖 尿 病 が あ っ た ら 妊 娠 し て は い け な い ﹂ と 訂 わ れ る の で す 。 もし私が死産をしなければ、日本は、いまだにそういうこ とをやっていたのではなかったかと思っております。 このようなわけで、払の人生は﹁柿版

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の忠者さんでも 妊娠ができるということを日本に打ち立てた﹂ということ で は な い か 、 と 思 い ま す 。 けれども、女性が子どもを育て、家庭を持ちながら仕事 をしていくというのは、大変なことですね。それに、男性 の 三 倍 働 か な い と 、 女 性 は ︿ 普 通 ﹀ と 思 っ て も ら え ま せ ん 。 私 の 師 匠 は 、 ﹁ 人 の 十 倍 働 い て い れ ば 、 ︿ こ の 人 は 一 所 懸 命 働 い て い る ﹀ と 見 え る か ら 、 十 情 的 き な さ い ﹂ と 一 百 わ れ ま し た け れ ど も 、 子 ど も を 持 ち な が ら 仕 羽 を す る と い う こ と 、 特 に 教 授 を や る な ん で い う こ と は 、 大 変 な こ と で あ り ま し た 。 私のメッセージとして皆さんにお伝えしたいのは、﹁若 い働き盛りの方が一所懸命仕事をやっているときは、後期 向齢者といわれるような年代になった方は、一所懸命助け て あ げ て い た だ き た い ﹂ と い う こ と で す 。 そ し て 若 い 人 に は 、 ││この中にはお若い方はあんまり見えないようですけど も││私は、自分が死産しなければ﹁梢尿病と妊娠﹂とい う学問は日本に樹立できなかったと思いますので、若い人 たちに﹁苦難は必ず花聞きますから、苦難は乗り越えてく ださい﹂ということをメッセージにして、私の話を終わら

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せ て い た だ き た い と 思 い ま す 。

大企業の中で新しい分野を切り開く大矢さん

大 矢 資 生 堂 の 大 矢 と 巾 し ま す 。 ここにいらっしゃる皆さん方は、いろいろな人生を歩ん でいらっしゃるんですけれども、私は資生堂という会社に 入って、ずっと今まで資生堂におります。でも平坦なよう で い て 、 決 し て そ う で は あ り ま せ ん で し た 。 私の大好きだった中学校の先生が﹁どんな人生にも、少 な く て も チ ャ ン ス が 三 回 あ る ﹂ と 一 百 わ れ ま し た が 、 そ の チ ャンスをどのようにつかんでいったか、というお話をした い と 思 い ま す 。 私 が 学 校 に 入 っ た 年 は 、 束 大 に 入 試 が あ り ま せ ん で し た 。 学生運動が激しくて、入試ができず、したがって入学した 学 生 も 、 い な か っ た の で す 。 一 方 で 、 ア ポ ロ が 月 面 着 陸 し た り 、 当 に 日 本 が ど ん ど ん 伸 び て い く 、 に 入 っ た ん で す ね 。 万博が来たりと、本 そういう時代に私は会社

第一志望は挫折して

じゃあ、私は資生堂に入りたかったかというと、そうで はなくて、尖は第一回目のチャンスは挫折しました。 小学校のころからピアノをやっていまして、小学校四年 ぐらいのときには、私は﹁パリでピアノを弾くんだ﹂と思 っていたんです。でも、手が小さかったり、度胸がなかっ たり、ということで、どうもずっとその道でやっていく自 信がなくなってしまって。それで学校も、音楽学校には行 かないで普通の学校に行ったんです。そういう思いがあり ましたので、﹁自分が何かにならなければいけない﹂とい う 挫 折 感 が ず っ と あ り ま し た 。 もう一つは、私たちの母の世代というのは、おしゅうと め さ ん や お し ゅ う と さ ん に 仕 え て 、 自 分 の 欲 し い 物 も 買 え ず 、 や り た い こ と も や れ な か っ た の で 、 ﹁ せ め て 自 分 の 欲 し い 物 は 、 自 分 で 買 い た い ﹂ と 思 っ て い ま し た 。 このこつのために、仕事をしたいと思いましたので、資 生堂に入ったのは、﹁何々をしたい﹂と思って入ったわけ ではないんです。けれども、資生堂には、いろいろな化粧 品があったので、宣伝というものに携わりたい。ピアノが

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で き な け れ ば 、 せ め て 、 ク リ エ イ テ ィ プ な 仕 事 が し た い な 、 と 思 っ て 入 っ た わ け で す 。 同期には、十人の大卒女性がいました。当時大学の定則 採用はなく、随時採用で、職租も限られていました。今は もう誰も残っていません。私は一番故初は、秘持室に配属 されました。でも、当時、秘性室では、社長秘性にもなり ましたけれども、男性のアシストという形で、お茶を入れ たり、日程管理をするなどで、メインの仕事は担当できま せんでした。そこで、﹁ぜひ宣伝部とか商品開発などに行 っ て み た い ﹂ と 、 希 望 し ま し た が 、 な か な か 突 ら ず 、 結 局 、 通算十年、二代の社長さんに仕えることになりました。 で も 、 二 代 目 の 社 長 さ ん が 急 死 さ れ て し ま っ た ん で す ね 。 私の人生の中で本当に大きな事件というのは、三

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代 に な ったときに社長が急死をされたということです。社長が急 死 を さ れ て 、 私 の 仕 事 が な く な っ て し ま い ま し た 。

女を支える法律が出来て、チャレンジ

社長急逝の後、業務がが一段落した時、﹁君の次の仕事 は秘性室にないけれども、どうする﹂と言われた時に、私 は﹁何でもいいから新しい仕事をやらせてください﹂と言 い ま し た 。 過 去 に ピ ア ノ の 辺 に チ ャ レ ン ジ し な か っ た の が 、 すごく残念だったので、﹁一同ぐらいは自分のやりたいと 思 う こ と を 希 望 し て み て も い い ん じ ゃ な い か な ﹂ と 思 い 、 上司の方にお話をしました。ちょうど、男女機会均等法が 施 行 さ れ る 時 だ っ た の で 、 ﹁ や る 気 が あ る 女 性 を 育 成 し よ う ﹂ という、会社の気迎にのって、商品開発部に異動となりま し た 。 法 律 は 本 当 に 有 難 い と 思 い ま し た 。 商品開発部では、それまでは女性・男性というべアだっ た ん だ け れ ど も 、 ﹁ い ろ い ろ や ら せ て み よ う ﹂ と い う こ と で 、 女 性 同 志 で フ レ グ ラ ン ス な ど に 携 わ り ま し た 。 や っ て み る と 、 私 に 、 と て も 合 っ て い る と 思 い ま し た 。 ずっとここでやっていける、と思いました。しかし、三番 目 の チ ャ ン ス が 次 に 来 ま し た 。 三 番 目 の チ ャ ン ス は 、 初 め チ ャ ン ス に 思 え ま せ ん で し た 。 なぜなら、私はずっと商品開発をやって﹁マ

l

ケ ッ タ ー に なっていくんだ﹂と思ったときに、突然、法務部の企業倫 理室というところに異動になったからです。企業倫理とい うと、ビジネス・エシックスとか

CSR

とか、いろんな形 で言われて、今は、脚光を浴びていますけれども、そのと き は 何 も わ か ら な い の で 、 仲 間 か ら は ﹁ 何 か 失 敗 し た の ? ﹂

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と言われたくらいでした。﹁倫理で失敗したのっておかし いかな﹂と思うんですけれども、そのくらい自分の中では 不 本 意 な 異 動 だ っ た ん で す 。 でも、﹁とにかく行ってからやめればいいじゃないか﹂ と言われて、やってみると、海外では新しい研究や事例が あ っ て 、 ﹁ 企 業 倫 理 と い う 仕 事 は 、 こ れ か ら 企 業 に と っ て 、 とても大事になる﹂と思いました。その後、お客さまセン ターとか、美容部員さんの統括の部長とか、多くの分野を 担 当 し ま し た 。 い ろ い ろ 経 験 し て み る と 、 私 は 、 会 社 に 入 っ た と き に 、 ﹁ 自 分 探 し で 自 分 に あ っ た 何 か に な り た い ﹂ と 思 い 、 ﹁ 創 造 的な仕事をやりたい﹂と思い続けていたんですけれども、 後 半 は 、 ﹁ 必 ず し も 自 分 の 本 当 に 好 き な 仕 事 じ ゃ な い 仕 事 ﹂ をやったわけです。けれども、気付いたことは、どの仕事 でも、必ず創造的な仕事が、どこかにある。全く自分の持 味を生かせない仕事と思っても、必ず新しい道をつくるこ と が で き る と 思 い ま し た 。 もう一つ学んだことは、﹁皆さま方にいろいろな意見を 頂くこと、立場が変わったことによって、いろいろ人の力 を得て、とても大きな仕事ができるようになる﹂というこ と で す 。 何 に で も チ ャ ン ス が ひ そ ん で い る と 思 い ま す の で 、 ぜひ、前向きに取り組んでチャンスをつかんでいただきた い と 思 い ま す 。 ど う も あ り が と う ご ざ い ま し た 。 下 村 あ り が と う ご ざ い ま し た 。 た だ 、 一 つ お 願 い を : : : 。 ここで自分の話を完結しようと思わずに、途中でも、後 でも、お話のチャンスがございます。後で補足も結構です ので、なるべくタイムキ

l

ピ ン グ で お 願 い い た し ま す 。

広告代理屈で力をつけ、自前の会社を立ちあげる

盤 瀬 五

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年以上の人生を五分でしゃべるのは、とって も大変なんですが、今、私は五五歳。去年の二月五日に 戸 別

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﹀﹄﹀司

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叶 口 , C 叶 開 と い う 会 社 を 起 業 い た し ま して、シンプルスキンケアを提唱する︿ F 開

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﹀ と い う ブ ラ ン ド を 立 ち 上 げ ま し た 。 ここに至るまで、私はどういう道を歩んできたのか、と いうのを、ちょっとお話をさせていただきますと、大きく 三 つ に 分 か れ ま す 。 三つの最初のきっかけは、これまでの発言者のうち、二 人の方が﹁人の死﹂ということに転換を感じていらっしゃ

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るんですが、私も、生後八か月で外科医をしていた父が亡 くなりました。亡くなった時に、町は尖家に子どもたちを 連 れ て 帰 り ま し た 。 そこに明治生まれの祖父がおりました。その祖父が非常 に明かるい人で、この祖父に育てられたことによって、私 の ︿ 今 ﹀ が あ り ま す 。 ﹁ 三 つ 子 の 魂 百 ま で も ﹂ と 言 い ま す が 、 祖 父 は 、 と に か く 男 女 の 差 な く 育 て て く れ ま し た し 、 ﹁ 女 は 何 々 を し な け れ ば な ら な い ﹂ と 言 っ た こ と が な く 、 ﹁ 勉 強 し ろ ﹂ と。﹁とにかく実力をつけると、世の中は、どうやってで も生きていけるんだ﹂ということをたたき込まれました。 たたき込まれた結果、大学を出てすぐに博報堂という広 作 代 別 山 に 二

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年 ほ ど 勤 め ま す 。 二

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年 間 勤 め た 一 帯 故 初 は 、 広告代理山の、コピーライターという制作者として採用さ れたのですが、そのときにどう思ってそこに入ったかと言 い ま す と 、 ま ず ﹁ 男 性 に で き な い こ と を や ろ う ﹂ と 思 い ま し た 。 それで、何をやったか。最初にミニスカートをはいて会 社に来ました。男性は誰もミニスカートをはいて行けない の で 。 今 は

IKKO

さんならはけるのですが、私がはいて 行きました。そして、二

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年間の問に出版をニ聞いたしま した。もう一つ、女性では初めての海外明学をさせていた だ い て 、 広 行 代 刷 出 で 助 め ま し た 。 そのとき、恥はいつも昨去を胸に入れて、﹁いつでも辞 め ら れ る か ら 何 も 怖 い も の が な い 。 だ か ら 何 で も や る ん だ ﹂ と 一 百 っ て 、 自 由 奔 放 に 働 い て お り ま し た ら 、 ニ

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年が、あ っ と い う 問 に 過 ぎ て い き ま し た 。 ふと気が付くと、周りには、自分の定年のことを考えて はコンピューターに向かって碁をやっているようなおじさ んが、いっぱい、いました。﹁ああいうおじさんたちにな っては、いけない。ならばどうするか。会社を辞めて、自 分の会社をつくる、そしてサラリーウーマンの人生にさよ ならをして自分の新しい会社で生きていこう。それなら七 五 歳 、 八

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歳までも働けるじゃないか﹂と、クリエ l テ イ プマーケティング会社をつくりました。それは、自分が死 ぬ ま で 働 く 恭 礎 を つ く る も の で し た 。 ケンタッキープライドチキンですとか、アメリカの化粧 品会社のオリジンズなど、そういったところのマーケティ ングの仕事をさせていただきました。そのときに、ケンタ ッキーブライドチキンの大河原社長の梢で、フランチャイ ズビジネスというものを勉強します。そして、﹁社長業と は何か﹂というものも勉強させてもらいました。

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自分の勉強が、次の大きな転機に役立ちます。それは、 ︿ザ・ボディショップ﹀という英国の自然派化粧品の会社 がありますが、ジャスコさんを筆頭とするイオングループ の会長から、私に、﹁社長にならないか﹂というお話があ りました。私は人を使つての社長梁をやったことがないの で 、 ﹁ や り ま せ ん ﹂ と 言 っ た ら 、 ﹁ い や 、 き っ と で き る か ら 、 やってごらんなさい﹂と言われて、﹁そんなすごい人たち のそばで仕事ができるんだったら勉強させていただきまし ょう﹂というので、初めて︿ザ・ボディショップ﹀という 仕 事 を し ま す 。

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ところが、この会社は非常に変わっておりまして、広告 をしません。広告をしないということは、私が二

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年間学 んできた広告は、何の役にも立たないのです。そして、社 会貢献をする。お金を稼いだら、みんな社会貢献に回して しまう。ということは、社員はそんなにお金がもらえない みたいな、非常に変わった会社でありました。 その変わった会社の仕事をしたことが、次に私が自分の 仕事を始めるときの、大きな礎になりました。 外国の方と、やり合う。﹁日本は市場が追う﹂とやり合 ったときに、﹁そうじゃない﹂と黒船のように言われる。 そういう方がたと戦っていく︿戦うすべ﹀ですとか、﹁世 界中の女性は、きれいな肌になりたいと思っているんだ﹂ とか)いろんなことを、そこで学ぶことができました。 社会貢献をするということを合めて、ザ・ボディショッ プの仕事を七年間やらせていただいて、非常に貧しい方が たへの扱助ですとか、いろんなことをやっていくうちに、 自分たちは何がやれるか、何のためにここに生まれてきて いるのか、ということが、仕事を通してだんだんわかって き ま し た 。 そして今、新しく自分の会社ができました。 戸 間

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寸 円 吋 C 寸 開 と い 、 つ ス キ ン ケ ア A B 位 は 、 ﹁ 社 会 活 動 を 一 緒 に し て い く ﹂ と い う シ ス テ ム を つ く っ て 、 ︿ 志 のある会社﹀になろうとして、五

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代半ばを過ぎて新しい 会社にチャレンジしている最中です。以上です。

反戦運動と女性運動に関わり続けて

斎 藤 今の佐瀬さんのお話を伺っていまして、実は私も、

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ち ょ っ と 似 た よ う な 純 . 肢 の と こ ろ が あ る の で 、 不 思 却 な ご 紋 だ と 府 き な が ら 、 ホ っ て い ま し た 。 こうして殴っていると、五人の中で私がとびきり小さく 見 え る と 思 う ん で す け ど 、 こ れ に は 大 き な 理 由 が あ り ま す 。 私は、今、八二歳で、今日の山前者の中で一帯年上だと思 い ま す 。 私は台的で生まれて育ち、太平洋戦争が始まってすぐ、 背の女学校を卒業して東京の学校に入学したのはよかった んですが、たちまち勤労助貝ということになりました。陸 軍の兵器初給廠というところで働かされましたが、ものす ご い 京 労 働 で し た 。 当時の体重が三四キロだったんですけど、﹁六

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キ ロ の 耶 市 川 口 川 を 貨 耶 か ら 下 ろ し て 合 附 ま で 迎 ぷ ﹂ と い う 、 大 ( だ い)の男でもやらないような武労働でした。それで背什が 見引にひしゃげてしまいまして、今でも胸のレントゲンを 掠 る た び に 、 お 医 者 さ ん に ﹁ こ の 什 は 、 ど う し た ん で す か ﹂ と 聞 か れ ま す 。 岡 山

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が山がってチピになったために、不自由なことがたく さんございます。まず見ばえが思い。向いところに手が届 かない。でも、この体のおかげで、﹁戦争の記憶を絶対忘 れ た く な い ﹂ と 、 戦 争 の こ と を ず っ と 考 え て 続 け て き ま し た 。 一 九 六

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年の︿六

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年安保闘争﹀のことを、党えていら っしゃる方、手を挙げてくださいませんか?(会坊を見 渡す)。おや、十人もいらっしゃらないのですね。下村さ ん は 党 え て い ら っ し ゃ る み た い で す け れ ど も ・ ﹁ 日 米 安 保 条 約 を 、 政 府 が す す め よ う と し た と き 、 ﹁ こ の 条約を結べば、日本はアメリカの属国みたいになって、憲 法で軍隊を否定しているにもかかわらず、戦争に引き込ま れることになるんじゃないか﹂と、ものすごい反対運動が 全 国 で 湧 き 起 こ り ま し た 。 そ れ が ︿ 六

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年 安 保 闘 争 ﹀ で し た 。 結 局 そ れ は 敗 れ て し ま っ た わ け で す が 、 こ れ は 、 ︿ 反 対 闘 争 ﹀ み た い な も の に 、 な ん と な く 嫌 悪 感 を 持 っ て い た 私 が 、 ︿ 迎 励 ﹀ に 閃 わ る き っ か け に な り ま し た 。 その頃、私は団地に住んでいたんですが、﹁団地の、若 いお手伝いさんが、預かっていた赤ちゃんをベランダのコ ン ク リ ー ト の 床 に ぶ つ け て 殺 す ﹂ と い う 事 件 が 起 き ま し た 。 団 地 は 、 開 口 部 が ベ ラ ン ダ し か な い コ ン ク リ ー ト の 五 階 姑 て 。 中 学 を 山 て ま も な い 若 い 女 の 子 が 、 そ の 閉 塞 さ れ た 空 間 で 、 何かにつけて泣く赤ちゃんをあずかつて、ノイローゼにな ったのですね。東北あたりからお手伝いに来ていた方が多

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か っ た ん で す が 、 そ の 話 が 新 聞 や ラ ジ オ で 報 道 さ れ ま し た ら 、 ﹁ 自 分 の 娘 も そ う い う 目 に あ っ た ら 大 変 だ ﹂ と い 、 つ こ と で 、 全部のお手伝いさんが引き揚げちゃったんです。働くお母 さんたちがたちまち困ることになったので、保育所づくり の ︿ 運 動 ﹀ を 始 め ま し た 。 私はそれまで︿運動﹀をしたことがなかったので、どう すればいいかわからず、団地の六七

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世 間 wを、一軒一軒回 って、﹁本当に保育所が必要と思うか﹂と聞きましたら、 ﹁ 必 要 だ ﹂ と 。 ﹁ 働 い て い た け ど 保 育 所 が な い た め に 辞 め た ﹂ という女の方が大変多いのに鷲きました。 それで、﹁この問題を考えませんか﹂と、団地のあちこ ちにピラを貼りましたら、三十人くらいの方が、集会所に 集まりました。以来、私の家を事務所にして毎晩のように 作 戦 会 議 を 聞 き 、 ま ず 住 宅 公 団 に ﹁ 敷 地 を 提 供 し て ほ し い ﹂ という願書を出そうと、団地の事務所に願書を出しました ら 、 ﹁ 共 産 党 の や る よ う な こ と だ ﹂ と 、 突 き 返 さ れ ま し た 。 それで、奉書に墨で、ていねいな文章を書いて出し直し や ま と な で ﹄ ま し た ら 、 団 地 の 主 任 が ﹁ こ れ こ そ 大 和 撫 子 ﹂ と 、 喜 ん で 、 シ ン パ に な っ て く だ さ い ま し た ( 笑 い ) 。 建設地のメドがついたので、あとは区と区議会に毎日の ょ う に 陳 情 ・ 請 願 に 行 き 、 二 年 後 に 、 保 育 園 が 建 ち ま し た 。 その問、いろいろ苦労はありましたが、非常勤なら、も っ と た く さ ん の 女 性 が 働 け る と い う こ と が わ か り ま し た の で 、 ﹁ そ れ ぞ れ の 能 力 を 生 か し て 働 け る よ う に し た い ﹂ と い う こ と で 、 女 性 の ︿ 創 造 力 ﹀ を 預 託 し た ﹁ 創 造 力 の 銀 行 ﹂ 、 英 語 で い う と ∞ 昼 間 。 司 円 自 己 足 口 同 略 し て ︿

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﹀ と い う 組 織 を つ く り 二 九 六 四 年 に 、 株 式 会 社 と し て ス タ ー ト し ま し た 。 そこで女の方たちの創造力をどういうふうにして企業に 売り込もうかと思いましたが、私は、それまで営業という 仕 事 を し た こ と が な く 、 こ れ が ま た 、 な か な か 大 変 で し た 。 座っていても仕事は来ないので、新聞に求人広告が出てい る と 受 験 し て 、 合 格 し ま す と 、 ﹁ 私 個 人 で は な く て 会 社 を 採 用 し て く だ さ い ﹂ と い う よ う に し て 売 り 込 み ま し た 。 そ し て 、 ﹁ 女 の 仕 事 は : : : ﹂ と 言 わ れ な い よ う に と 、 一 所 懸 命 働 き ま したので、現在も、その会社は続いております。ただ、そ う い う 中 で 、 女 の 人 自 身 が ﹁ 自 分 が 働 く ﹂ と い う こ と に ど れ だけの覚悟があるだろうかという疑問も持ちました。 私は戦後、日本の国立大学が初めて女の学生の受験を認 めたときに、友達が﹁受けよう、受けよう﹂といって勝手 に私の願書まで出したので、受けて、何とか合格したんで

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すけれども、外地から引掲げてきた年老いた附制を助けよ うと、早朝から深夜までアルバイトを続けた枯巣、武い結 核になり、三年間入院。単位は二年間で全部取っていまし たので、卒論を、病床で何とか持きましたが、卒業式には 出られず、大学に来た求人にも応募できませんでした。 退院してから家で静犯をしているとき、変わった求人広 告を見つけました。﹁文章を昨くことが好きな方。性別・ 学肢を問いません﹂という広告です。﹁性別・学歴を問い ません﹂が気に入ったので、受験しましたら合格。﹁希望 の給料は﹂と聞かれて、私はサナトリウム暮らしで、相場 を 知 ら な か っ た の で 、 高 い 舗 を 要 求 。 O K に な っ た の は よ かったのですが、﹁実は今まで三回も求人広告を出して、 六百人の受験者があったが、求めていた人材がなく、やっ と見つけた一人だったので、男性の三倍の月給を O K し た のだ﹂と聞かされ、それでは巾し訳ないと、早朝から深夜 まで働きました。国立大学を出ますと、就職するときに、 と て も 般 し い 日 で 見 ら れ ま し て 、 ﹁ 何 々 大 学 を 山 て い て も 、 女はあんなことか﹂と訂われるものですから、私は元米、 ものすごい怠け者で、学校ではほとんど勉強をしなかった の で す け れ ど も 、 社 会 人 に な っ て か ら は 必 死 で 勉 強 し ま し た 。 しかし、私に与えられた仕事は、残念ながらコピーライ ターだったんですね。いろんなアイデアを考えるのが私は 好きなんですけども、必ずしも自分が評価できない商品の コピーを性かなきゃならないのは﹁つらい﹂ので、コピー を頼まれると、自分の費用で市場調査をして、商品開発ま で 考 え ま し た 。 ﹁市場調査﹂という仕事があると知ったのは、サナトリ ウム時代、知人から頼まれた英文和訳のアルバイトのおか げですが、それは概論で、具体的な方法はわからない。日 本では、まだほとんど実施されていなかったので、丸普に 行ってアメリカの専門書を口ぃ、それで、手探りの勉強を して、あとは実行のなかで方法を改普しました。この仕事 は 後 に ︿ BOC ﹀ で 引 き 継 ぐ こ と に な り ま し た 。 し か し 、 そ の 会 社 の 商 品 を 必 ず し も 評 価 で き な い と き は 、 コピーを持くのは、背捕でした。ただ、テレビやラジオに 提供している帯組の制作には、とても興味を持ちました。 そのうち結婚して、子どもが出来ましたので﹁これはチ ャンス!﹂と氾社しましたが、﹁排組のシナリオを世かせ て ほ し い ﹂ と 、 放 送 局 の プ ロ デ ュ ー サ ー に 如 み ま し た 。 ﹁ よ ろしい。でも、一枚五十円ですよ﹂と言われました。専門

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家が、一枚五千円だということは知っていましたが、五十 円でも好きな仕事ができるのはうれしく、

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し ま し た 。 制作に立ち会っているとき、役者の方に台本をお渡しす ると、必ず台本の悪口が始まるのですね。たしかに台本に 問題があることも多い。それ以上に、台本が、必ずといっ ていいほど遅れる。それを改普すれば喜ばれるのでは: と、とにかく期日より早くお届けして続けさせていただく うちに、いつか一枚五千円になりました。 一方、知人の紹介で、別の会社のコピーも、頼まれまし た。その商品の内容が納得できない時は、自前で市場調査 をして、商品の実体や市坊を調べてコピーを考えましたの で 、 ﹁ 会 社 の 社 員 ﹂ と し て コ ピ ー を 書 く 苦 痛 か ら は 解 放 さ れ 、 いくつかの新聞社や雑誌社の貨も頂き、フリーで、たくさ ん の 仕 事 も い た だ く よ う に な り ま し た 。 コピーライターというのは、労力の割には大きな報酬が 得られる仕事ですが、百%評価できない商品のコピーを頼 まれることもあります。それは苦痛なので、︿

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﹀ を 始 め て か ら は 、 出 版 社 な ど の 編 集 の 仕 事 を 主 体 に し ま し た 。 こ の 場 合 は 、 出 版 社 の 正 社 員 の 方 が 好 ま な い ︿ 深 夜 の 校 正 ﹀ な ど が 、 私 ど も の 仕 事 に な る わ け で す が 、 お か げ で 、 普 通 な らとてもお目にかかれない有名な出版社の、有名な編集長 さ ん か ら 、 直 接 ご 指 導 い た だ き 、 ﹁ 編 集 者 養 成 学 校 ﹂ な ど で は 学 べ な い 貴 重 な 勉 強 を さ せ て 頂 け た の は 、 し あ わ せ で し た 。 女だけの会社︿

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﹀については、お話したいことが 山 ほ ど あ り ま す が 、 も う お 時 間 で す の で 、 あ と は 略 し ま す 。 今日は受付に﹃あごら﹂を世いておきました。その中に 下村さんのインタビューも出ていますので、お帰りがけに でもお読みになって下さい。時間厳守のため、私の説明は こ れ で 省 略 さ せ て い た だ き ま す 。 下村ごめんなさい、皆様。斎藤さんは、私たちよりはる かに長く生きていらっしゃって、本当は語りべ的な存在で す。私は彼女を本当に尊敬していて、日本の戦後の女性史 そのものを自ら体現していらっしゃいます。国立大学、た ぶん東京大学だと思いますが、ご卒業なさったにもかかわ ら ず 、 一 貫 し て 平 の 根 の 運 動 に 身 を 投 じ て い ら っ し ゃ い ま す 。 ﹃あごら﹂という雑誌がありますが、反戦、それから女 性の地位向上のための雑誌を、全部自前で、ずっと出し続 けていらっしゃって、これは経済的にも大変だし、ほとん ど 自 分 の 全 財 産 を な げ う っ て 今 日 ま で や っ て い ら っ し ゃ る 、 本当にすごい方なんですね。もっとお話をしていただきた

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いのですが、今度また個別にお前をしていただくように、 お呼びするかもしれませんけれども、いずれにしても、ま た後でご質問にお答えをしていただきたいと思います。 やはり心配したとおり、皆様、あまりにもリッチな人生 を 歩 ん で い ら し て 、 話 す こ と が い っ ぱ い お あ り に な る の で 、 とても残念でございますが、やはり時間がございますので 取りあえずここで切りたいと思います。 実 は も う 質 問 の 時 間 が な い の で す が 、 特 別 に 八 分 ぐ ら い 、 まず、この四人の方のお話を聞いて、何かお聞きになりた いこととか、特定の方にお聞きになりたいこととか、確認 したいこととか、何でも結構です。平い者勝ちですので、 どしどし、どうぞ。今日は本当に︿おしゃべり会﹀だと思 っ て く だ さ い ね 。 ﹁ ち ゃ ん と し た 質 問 を し な き ゃ 笑 わ れ る ﹂ とか思わないで、ご自由でいいんですけども。どなたか、 い ま せ ん か 。 せっかくの機会ですから、今の斎藤さんの鵡の続きが聞 きたければそれでもいいし、恨瀬さんも大変なビジネスウ ーマンでもいらっしゃるし、大矢さんも資生堂でお仕事を して、大森先生も糖尿病で、今年アメリカで世界的な貨を おもらいになったばかりです。これは日本の男性・女性に 関係なく、日本人で初めてという大変な方でいらっしゃい ま す 。 ︿ 日 本 側 以 ・ 川 学 会 の 会 長 さ ん ﹀ と い う の も 、 女 性 で 初めてですし、いまだにその後は女性の会長は出ていない と思います。そういう方ですので、どなたかいらっしゃい ま せ ん か 。 会場﹁女性の主婦業は、︿アンペイド・ワ

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ク ﹀ の 最 た る ものだ。そこにはきちんと仕事としての価値を見いださな くてはならない﹂ということを、斎藤さんは、すごくおっ しゃっていたと思いますが、その辺について、ちょっとお 話を伺いたいな、と思います。そこから仕事をするように なった人もいるのではないかと思いますので、よろしくお 願 い い た し ま す 。 斎醸ご指名に感謝しますが︿無償の労働﹀ H ︿ ア ン ベ イ ド ・ ワ l ク﹀をわかるようにお話ししようと思ったら、一 時間じゃ、足りません。私どもで、アンペイド・ワ l ク の 特集号をニ聞出しておりますので、ご希望の方には、プレ ゼントします。東京新宿区新宿 1 ・

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﹁ あ ご ら ﹂ に 、 おはがき一枚くだされば、無料でお送りいたします。 ﹁ 主 姉 梁 が 有 給 の 労 働 と し て 評 価 さ れ な い の は お か し い ﹂ という議論は、私どもの一時代前の先輩の時代からありま

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したけれども、簡単に言うと誤解を生じますので簡単には 申し上げられません。むしろ今は、主婦ではなく、職業人 として働いている女性が、職場で男性と同じ働きをしなが ら す ご い 差 別 が あ る こ と が 問 題 に な っ て い ま す 。 近年、特にそれが激しくなって、パートという名で働か されている主婦の一時間当たりの賃金の安さ、生活保障の なさなどが、大きな問題になっています。これに対し、み ん な で 、 よ く も あ れ だ け で き た と 思 う ほ ど の 述 動 を 重 ね て 、 ︿男女雇用機会均等法﹀を勝ち取り、以来、ずいぶん状況 がよくなったと思っているにもかかわらず、最近、そうい う最末端の一番重い大変な仕事をしている部分から解雇さ れ 始 め た の は 、 重 大 な 問 題 で す 。 このことは、あらゆる女性、特に高い地位に就いていら っしゃる女性の方が決して忘れないで二緒に運動をして、 解決していくほかない、と思います。もっと言えば、今、 混沌としているこの日本がどうなるのか、ということにも かかってくると思いますので、今後とも、精いっぱい努力 をします。皆様のお力とお知恵もお待ちしております。 山口もう一間お受けしたいと思いますが、会場の方から ご 質 問 、 あ り ま せ ん か 。 /

地域で少子化対策を成功させるためには

含 場 ︿ 平 台 も 緊 九 回 サ ボ lk ネ ッ ト ワ ー ク ﹀ の 佐 勝 と 巾 一 し ま す 。 今 、 ﹁ 少 子 化 対 策 ﹂ と い う こ と が 叫 ば れ て い ま す 。 先ほど大森先生がおっしゃいましたけれども、﹁私たち が 、 若 い 働 き 盛 り の 人 た ち を 助 け て あ げ な く て は な ら な い ﹂ と い う 言 葉 を 承 り ま し た 。 私 は そ の 中 で 、 ﹁ 少 子 化 対 策 を 、 ど の よ う に 地 域 へ 持 っ て い っ た ら い い の か ﹂ ﹁ 日 本 全 体 を 、 ど の よ う に 持 っ て い っ た ほ 、 つ が い い の か ﹂ 先 生 方 に 一 言 ず っ 、 お 聞 き い た し ま す 。 よ ろ し く お 願 い い た し ま す 。 下村どなたかお答えになります? 蟹瀬少子化対策の中で一番大事なのは、今、斎藤さんが おっしゃったみたいに、﹁働く場において女性たちがどう い う 働 き 方 を 選 択 で き る か ﹂ と い う こ と が 大 き く な り ま す 。 私は今、自分でつくったばかりの会社で、実は社員は一 人しかおりませんで、あと二人ほど、子どもさんがいらっ しゃる方が働いています。一人は、ご自分のご都合で﹁ど う し て も パ

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トがいいんです﹂ということで、契約社員と いうことをかなり誠られないで、ご自分の生活のスタイル としてそれを取りたいということで、私の希望を聞いても

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ら え ず 、 パ l ト の ま ま の 形 で 仰 い て い ま す 。 もう一人の方は、﹁四時半に帰りたい。社

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に な り た い んです﹂ということだったので、普通ですと、最初から社 貝にして育児休眠を差し上げたいんですが、私たちの場合 は小さな会社ですので、︿短期労働契約社貝﹀というのが あります。﹁短い時間しか働かないけれども契約社貝とし て 採 る ﹂ と い う 方 法 で す 。 これは、﹁いろいろな働き方をしたい﹂と、働く方から 嬰 求 が 山 て き た と き に 、 労 務 士 と 一 緒 に お 簡 を し ま す 。 で ﹄ う い う や り 方 が あ る ﹂ ﹁ あ あ い う や り 方 が あ る ﹂ ﹁ こ れ は 法 作に抵触しないで彼らも私たちも巧

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巧吉の関係がつく れますよ﹂ということを考えてくれるすごくいい労務士が いるんですね。そうしますと、﹁四時半に帰っても、私は ちゃんと仕事をしています﹂という自負心に、﹁きちんと した給料がもらえます﹂という形で、私たちも、仕事を過 して般しく彼らにお願いすることができるという、いい関 係 が で き ま す 。 一 人 一 人 に 応 え る こ と は 蹴 し い か も し れ な い け れ ど も 、 そ う い っ た 形 を 一 つ ず つ 日 本 の 中 で 根 付 か せ て い っ て 、 ﹁ 子 どもさんがすごく病気がちの方﹂は長い時間働くことが不 可能ですので、その方の助合は﹁午前中だけ﹂とか﹁午後 だけ﹂という労働、それをパ!トではなくてちゃんとした 契約で入れていくなど、トップの人たちがなるべく考えて

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にしていく社会というものを、働く側からつくれるの で は な い か と 思 っ て い ま す 。 下村ちょっとごめんなさい。時間がないのに私が口をは さんで中しわけないんですが、たまたま昨日の夜、共生セ ン タ ー の 方 た ち と 、 そ う い う 問 題 を お 話 し し て い た と き に 、 テ レ ビ で 、 よ い 情 報 を 流 し て い ま し た の で 、 ご 紹 介 し ま す 。 ご覧になった方がいらっしゃると思いますが、もちろん 今のお話のように企業のトップが自分の社只をどういうふ うに扱うかということも大事なんですが、それだけでもや っ ぱ り 一 企 業 だ け で は で き な い こ と が た く さ ん あ る ん で す よ 。 ご覧になった方も多いかと思いますが、最近テレビで、 相 井 県 の 例 を 報 道 し て い ま し た 。 稲 井 県 は 最 も 出 生 市 中 を 高 めている県ですが、行政が、﹁第三子は出産から、その子 の 医 療 技 か ら 保 育 羽 ま で 、 全 部 タ ダ ﹂ に し て い る ん で す ね 。 紫附らしいと思いましたよ。それで、お母さんたちは三人 目 を ど ん ど ん 産 ん で い て 、 し か も 保 育 凶 も 、 タ ダ な ん で す 。 す べ て の 賀 川 が 、 ﹁ タ ダ ﹂ 。 し か も 、 子 ど も が 急 に 病 気 に な

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ったら普通はもう仕事は休まざるをえない。予約していな い と 預 か ら な い と こ ろ も 多 い け れ ど も 、 ﹁ 朝 、 急 に 熱 が 出 た 、 でも働かなきゃならない﹂ときでも、県の小児科の何とか 病院が、預かってくれるんですよ、タダで。だから、お母 さんは、そこに預けて職場に行けて、しかも荊院ですから 安 心 で す 。 さらにすごいのは、福井県の高齢者です。つまり、いわ ゆる高齢者たちを保育士に動員しているんですよ。パート タイムで。だから六

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蹴の人たちが、子どもを 抱 い た り し て 、 ︿ 高 齢 者 の 生 き が い の 場 ﹀ も つ く っ て い る 。 こ れ は 大 変 に 素 晴 ら し い 。 だから、もちろん一企業としてできること、一個人でで きること、それぞれ努力はしなければいけませんが、しか し、三人も産んだら、経済的に大変なんですよ。みんな言 っていましたけど、第三子を産むか産まないかの悩みは、 やっぱり﹁お金がかかる﹂ということです、と。だから、 働くことを辞めることはできない。今や夫と妥が働いてロ ーンを返したりする時代で、ぜいたくで働いているわけじ ゃありません。たまたま今日は、副知事がいらっしゃるの で 、 私 も 一 言 、 発 言 さ せ て い た だ き ま し た 。 斎藤私も、ちょうど福井県のことをお話ししようと思っ たところでご発言くださったので、一つ付け加えさせてく ださい。福井で、なぜそれだけの優遇措置ができたかとい うと、女性の就業率が日本一高いからです。福井は昔から 機織りの盛んなところです。たくさんの女の人が働いてき た長い歴史の中で、﹁お嫁さんも、働くのがあたり前﹂な んですね。孫の世話は、おしゅうとめさんがみるというこ と が 伝 統 的 に あ っ た の で 、 ︿ 高 齢 者 の 保 育 士 ﹀ も 生 ま れ た 、 と戚附しております。﹁女が働くことが常識になると、女 の働く条件もよくなる﹂ということも、付け加えさせてい た だ き た い と 思 い ま す 。

専門職に生きて

山 口 次 の

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グ ル ー プ の 皆 さ ん を ご 紹 介 さ せ て い た だ き ま す 。 ︿こころとからだの元紙プラザ﹀理事で、医学博士でい ら っ し ゃ い ま す 木 村 鹿 子 さ ん 。 社 団 法 人 ︿ 東 京 の あ す を 創 る 協 会 ﹀ 副 会 長 の 茅 野 祐 子 さ ん 。 社団法人︿ユネスコ国際演劇協会﹀会長で、前

NHK

副 会長でいらっしゃいました永井多恵子さん。

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アテナ法律事務所の弁護士で、同辿の女性舟別撤防省

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会の委員としてもご前附の林間子さん。 そして、バレエ団芸術座を主似しておられる深沢利子さ ん で ご ざ い ま す 。 で は 、 木 村 さ ん か ら お 話 を 、 ど う ぞ 。

小児科医を基軸に︿人間﹀を学ぶ

木村木村でございます。 A グループの皆様の素附らしい お話の後で、私はあまり大したお話ができないかと思いま すけれども、今まで自分が育ち、生きてきたことの中で、 感じたことをお話しさせてもらいたいと思います。 私は昭和十三年生まれで、今年七

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成 で ご ざ い ま す 。 卒業以来、四十年間、小児科医として医学の追を歩んで まいりました。はしか、風疹、おたふくかぜ等のワクチン 開発にも携わり、子どもの予防医学を目指してやってまい り ま し た 。 四年前に鹿臨義塾大学の教授職を退任いたしました。 現在は、下村満子さんが創立された、医療法人﹁こころ とからだの元紙プラザ﹂(女性のための生保医療センター) で 、 性 苅

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山 町 と い う 析 し い 医 山 町 分 野 に 取 り 組 ん で お り ま す 。 今もお問がございましたけれど、少子化の時代になったと いうことは、大変大きな問題でございます。子どもを地や す こ と は 、 も ち ろ ん 非 常 に 大 事 な こ と で あ り ま す け れ ど も 、 今、育っているお子さんたちの質を向めることも非常に大 事 で あ る と 私 は 感 じ て お り ま す 。 私のこれからのしごとは、今までやってまいりましたこ と を 、 も っ と 広 い 範 囲 に 役 立 て て い き た い と い う 願 い か ら ﹁ こ どものためのこころとからだの予防医学研究所﹂も設立い た し ま し た 。 私はちょうど終戦の年が小学校一年生でございました。 戦争のおかげ(?)で、今から思うと大変索附らしい体 験ができました。群馬県利根郡桃野村字月夜野上組という 四季折々の自然が些かな素敵な所で、一年間を過ごさせて 頂 け た も の で す か ら 、 子 ど も 時 代 に ﹁ 限 身 を 成 す ﹂ と い う 、 人間の基礎的な位脱づくりの時間があたえられたことが、 今の自分の健康につながっていて、ありがたかったと思っ て い ま す 。 その当時、阿親は大変だったと思います。子どもが四人 おりました。でも、健成な体の基礎作りのために、とても

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心を砕いてくれましたし、食べるものがないなかで、 い ろ 工 夫 が さ れ て い た と 感 謝 し て お り ま す 。 そ う い う 時 代 で し た し 、 子 ど も を 育 て る こ と は 大 変 で し た が 、 終 戦 後 、 私 た ち の 親 が 一 番 感 じ ま し た こ と は 、 ﹁ こ れ か ら は 、 女性であってもきちんとした独立の精神を持った独立自尊 の人間に育でなければいけない。それには、まず教育とい うものが一番大事﹂ということで、福沢精神に心酔してお りました両親が、疎開後、鹿限義塾に進学するという環境 を整えてくれました。このことは大変有難いことだったと 思っております。﹁女性であっても、これからは、何か自 分 の 身 に な る バ ッ ク ボ ー ン と し て の 仕 事 を 持 っ た ほ 、 つ が い いよ﹂と言う父親の勧めもありましたし、私にもそういう 気持ちがございまして、結局、医学部という近、医者にな る道を選んだわけでございますね。小児科を選びました時 も、私は﹁仕事だけ﹂という気持ちは毛頭なかったもので すから、(仕事と家庭)というのは当たり前、というよう な 気 持 ち で お り ま し た の で 、 ﹁ 自 分 の 子 ど も を 育 て る と き に 、 小児科が役に立つのじゃないか﹂という単純な気持ちで小 児 科 を 選 び ま し て 、 今 日 に 至 っ た わ け で ご ざ い ま す 。 た だ 、 仕事と関係なくても、医学というものを勉強したというこ し、 ろ とは、私にとって大変有難いことだったと思っています。 小 児 科 学 を 過 し て 、 命 と い う も の の 素 晴 ら し き と い う か 、 命の成り立ちに鷲附明いたしましたし、また、成長発達過程 における生命の、非常に神秘に満ちた驚くべき営みについ て学ぶことが出来まして、創造主への畏敬の念に満たされ ま し て 、 ﹁ 子 育 て に は 祈 り と 感 謝 の 気 持 ち が 不 可 欠 で あ る ﹂ ということを学ぶことが出来たわけでございます。 それで、三人の子どもを育てながら、子どもの予防医学 に視点をあて、予防接種の開発へのかかわり、小児の感染 症予防、小児期からの生活習慣病予防対策、小児思春期精 神疾忠に対する予防対策等を研究いたしてまいりました。

東京都庁で五人の知事の下で働く

茅野茅野でございます。私は、大学を卒業してからずっ と働き続けてきましたけれども、そのうちの三五年間は、 東京都庁に勤めておりました。戦後、地方自治法が成立し まして、知事が公選されて以来、六人の知事がおりますけ れども、最初の知事を除いて五人の知事の下で、働いてき ま し た 。

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私が入ったのは東京オリンピックの年です。代々木に女 子選手村というのがあったんですけれども、その女子選手 村の村長さんというのは、東京都の女性部長さんでした。 この方はお父様も職業軍人、パートナーの方も職業軍人と いうことですが、お二人とも亡くされて、たぶん、非常に 困難な中で、東京都庁に入られたと思うんですけれども、 当時、とっても格好がよくてステキで、﹁都庁に未来はあ る な ﹂ と い う 気 持 ち で 入 り ま し た 。 入ったのは沖縄波航係というところで、当時はまだ沖縄 は日本に返還されておりませんでした。ところが、仕事の 内容は男性と全く同じなんですけれども、驚くことがあり ました。それは当番です。女性は皆さんの出勤時間より一 時間前に行って、机の上をお掃除して、お茶をくんで、皆 さ ん の 出 勤 を 待 っ て い る と い う 状 況 で し た 。 そ の ︿ お 茶 く み ﹀ というのは、昼と三時もあります。そして就業時間が終わ りますと四

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も 五

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もあるお茶わんと男性のたばこの灰皿 を片付ける。そのことについて誰も疑問を持たない。女性 自身も疑問を持たなければ、労働組合も、全然疑問を持た ない。これはいったい何なのだと、今までの自分の生活と か け 離 れ て い て 、 び っ く り し ま し た 。

内部設川制度がすぐれていた都庁

ただ、都庁というのは、非常に自由な雰囲気がありまし て、若手の人がとても生き生きして、勉強会などたくさん やっておりましたので、そこに属してうっぷんを晴らした り、同期で入った男性の職貝をいじめたり(笑いてとい うようなことで、しばらくは時を過ごしておりました。 東 京 都 は 内 部 登 用 制 度 が 非 常 に 侮 れ て い ま し て 、 若 手 、 中 盤 、 ベテラン、それぞれに適したシステムがあって、二

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代 の 終わりに管理職試験に合格いたしました。それほど気負い 立って、というのではなくて、﹁そこに山があるからちょ っと登ってみよう、それが職業人として当たり前﹂という 程 度 の 考 え で し た 。 その後、昇進するため、課長になるために、かなり長い 期間のローテーション管理により、現場、内部管理など、 多様な職場を経験しまして、三

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代半ばに管理職になりま した。ただ、女性の管理職は非常に少ないということもあ りまして、大体の配位先が教育とか相祉というところで、 必 ず し も 自 分 の 希 望 と は 述 、 っ と こ ろ を い ろ い ろ 回 っ て お り ま し た 。

参照

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○齋藤部会長 ありがとうございました。..

○杉田委員長 ありがとうございました。.

○柳会長

○堀江座長

○藤本環境政策課長 異議なしということでございますので、交告委員にお願いしたいと思

○安井会長 ありがとうございました。.

【大塚委員長】 ありがとうございます。.

○杉山座長