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一年 に︑ ちょ うど

9・Hのアメリカのテロがあった

世後に︑アメリカからドメスティック・バイオレンスや︑

向齢 者問 題に つい ての 専門 家の 方が たを お招 きを して

︑福 島

の女性たちと東京から来た何人かでシンポジウムをしたこ

とがありました︒ですから七年ぷりの未来館です︒

私は稲山県に住んだことはないのですが︑育ちましたの

がお隣の茨城県で︑弁護士になる前に一年半研修をしたの

が仙台の裁判所でした︒そのころはまだ東北新幹線ができ

てなくて︿特急やまびこ﹀の時代でしたけれども︑今日も

郡山とか宇都宮とかの地名が大変懐かしく︑こちらに参り

まし

た︒

さて︑私はその茨城県で︑ガキ大将で大変伸び伸びした

子ども時代を過ごしまして︑中学︑向校時代に︑将来何に

なろうかなと思ったときに︑一番なりたいと思ったのは実

は新聞記者だったんですね︒下村満子さんとか︑もう亡く

なりましたけども朝日新聞の松井やよりさんなどに︑大変

憧れまして︑物書きになりたいな︑と思いました︒

社会について関心を持つ非常に大きなきっかけとして︑

高校時代に日産自動車での差別定年制の事件というのがあ

りま した

︒こ れは

︑﹁ 男性

六O歳︑女性五五歳﹂という﹁定

年差別﹂があったんですけれども︑一審の束京地裁の仮処

分判決が﹁女性の五五歳の生理的年齢は男性の七二歳に相

当する﹂という理由で女性を負けさせたんですね(会場か

ら驚きの声)︒皆さん︑逆でしょう?私も︑よく︑労働

法の講座でこの話をして﹁逆じゃないんですか?﹂という

と︑みんな︑どっとお笑いになります︒男性には失礼です

けれ ども :: :︒ ただ

︑そ れで 実際 に負 けち ゃっ た事 件が あ

った︒最高裁で勝ちましたけれどもね︒法律って︑こんな ことがあるのか︑と思ったことがありました︒

司法試験を受ける学生が大変に多い大学に入りましたの

で︑一年上の先就がたまたま合格したのをきっかけに︑私

もせっかく法学部にいるんだから法律の勉強をもっとやっ

てみたいと思って︑司法試験の方に転換をして弁護士にな

りま

した

当初から女性の権利についての事件を扱いたいなと思っ

ていたんですが︑当時︑女性の問題というと︑一つは離婚

とか で家 族法 の問 題︑ もう 一つ が労 働法 の問 題と いう こと で︑

今のように︑例えば︿セクシユアル・ハラスメント﹀とか

︿ド メス ティ ック

・バ イオ レン ス﹀ であ ると か︑

﹁女 性に 対

する暴力﹂は︑まだまだ社会で目で見えるような形にはな

っておりませんでした︒また︑私が弁護士として活動を始

めた一九人0年代前半には︑﹁法体家としてそれにどうい

うふうに取り組んでいいのかということが︑まだわからな

かった﹂というのが正直なところでございます︒

それで労働事件専門の事務所に入り修行しまして︑その

後に結婚をして︑たまたま相手が研究者で︑ドイツの大学

に留学することになったものですから︑私むこの際︑自分

も海外の大学で勉強したいと思いまして︑イギリスの大学

の大学院で法律の勉強をしました︒このとき︑防学の勉強

ゃ︑国際法の勉強を少しした︑ということが︑今の

n

分の

仕事にとって︑たいへん役に立っていると思います︒

帰ってきてから︑日本における外国人の女性の人身売口

の問 題で ある とか

︑性 暴力 の被 害者 の問 題な どに

NGO

の人たちと一緒に取り組む中で︑自分の活動の分野といい

ます か︑ 関心 領域 も広 がっ てき たと 思い ます

今年の一月から︑私は団連の女性差別撤廃委只会の委貝

に就 任い たし まし た︒

日本は一九八五年に女性差別撤廃条約に批准をしており

まして︑政府は四年に一回︑﹁わが国はこのように条約を

守っています﹂という報告詐を国述に提出することになっ

てい

ます

そうすると回述のほうでは各国から出される報告性を読

んで︑本当にその回が条約を守っているのか︑何か残され

た課題はないか︑ということを勧告をする︿女性差別撤廃

委只会﹀というのがあります︒これは︑各悶が選挙で選ぷ

ことになっておりまして︑二十三名の委

H

から成る︑委日

会で

す︒

私の場合︑本当は選挙に出なくちゃいけなかったのです が︑前任者の苅賀町史子さんが︑国際刑引裁判所の批判官に松山し︑昨任をされまして日本の委

μ

のポストが空いた

ために︑今回は選挙なしで︑荒賀さんの任期の残りの三年

を務 める とい う形 にな って おり ます

現在︑女性差別撤廃委日会では︑文化や宗教の名前の下

に行われる女性への暴力︑世界中で進む少子高齢化︑女性

のリプロダクティプ・ライツの実現などの新しい課題に対

して︑政府への勧告や個人通報に対する見解を通じて︑解

決策を示そうと努力をしています︒二

OO

九年夏には六年

ぶりの︑日本政府報告告審査がありますので︑皆さんも︑

どう ぞご 注目 くだ さい

今日

は︑

Aグループの方のお話を︑後ろで感動しながら

聞い てい まし たが

︑例 えば 大森 さん がお っし ゃっ たよ うに

︑ 背は 糖尿 病の 女性 とい うの は出 産が でき なか った けれ ども

それが今は医学の進歩によってできるようになっているわ

けで

すね

それと同じように︑女性の椀利も︑背は﹁家庭内暴力を

受け

ても

恥ず

かし

くて

誰に

も一

百え

ない

﹂と

か︑

そも

そも

︑﹁

れが人権侵害だ﹂ということを認識すらできなかった︒そ

れが︑﹁あなたにも権利がありますよ﹂ということで︑シ

エル タ

lに入ったり︑損害賠償を前求したり︑離婚のとき

に正当な補償が受けられるようになったということは︑私

は︑﹁法律が進歩している﹂ということだと思います︒そ

ういう進歩に︑法律家として寄与しているということが︑

今後も自分の生き方にとっては︑とても重要だと思ってお

りま

す︒

司会ありがとうございました︒

バレエ団を主宰して

深沢こんにちは︒舞踊家︑深沢和子です︒

今まで本当に素晴らしい方のお話を聞いていて︑それじ

ゃなくても私は皆様よりやや細身なんですけれども︑なお

さら身の細るような思いで︑ここに座っております︒

というのは︑私は皆様と違って︑社会と闘わなければな

らない︑迫害と闘わなければならない︑と思うような︑そ

んな厳しい状態はなかったな︑と思いながら︑﹁芸術とい

うものを生業にして︑芸術家が一番住みにくい日本に︑舞

踊家という職業で生きているんだな﹂と︑つくづく思って

おり

ます

私は︑束京生まれ︑東京育ちで︑東京しか知らない人間

ですけれども︑小学校のときに日比谷公会堂でクラシック

バレエを見まして︑その美しさに感動し︑バレリーナにな

りたいとずっと思い続けて生きてきました︒そして十九歳

のときに︑そのころ︑隆盛を誇っていた貝谷八百子バレエ

団に 入団 いた しま した

その年はちょうど大学にも入った年だったので︑たちま

ちバレリーナへの道と学生の道を両立するのが︑いかに困

難であるかということで苦しみ出しまして︑一年間悩み︑

O歳のときに﹁バレリーナへの道は今しかない﹂と思い

ました︒やっぱり﹁体を過して自分自身を鍛え学ばなくち

ゃい けな い﹂ とか

︑﹁ 今し かで きな いこ と﹂ がい っぱ いあ る︒

でも﹁大学で文学の追を勉強するのは三Oになってからで

もで きる

﹂と 思っ たん です

︒ それ で︑ 二

O歳のときに︑﹁十年間はバレエの道に努力

してみよう︒そして︑自分に才能がない︑とわかったら︑

三O

にな って 自分 の生 きる 道を 変え よう

﹂と 思い まし た︒

文学がとても好きだったので︑文学者の道も︑私の道の中

に一 つあ った ので

︑﹁ 三

Oになって大学に行き直すことが

でき る﹂ と思 った んで す︒

そして大学を中退いたしまして︑十年間︑バレエの迫に

迦逃しました︒もちろん︑それはそれは般しい努力︑本当

に血 の出 るよ うな 努力 は︑ して まい りま した

︒ 二五 歳で 東京 バレ エ団 に移 り︑ 日本 人と して は初 めて

ロシア︑そのころのソビエトですが︑ソビエト公演を︑モ

スクワのクレムリン宮殿劇場を皮切りに︑四十五日間にわ

たって︑ソビエト各地を踊ってまいりました︒そこで学ん

だものは︑私の一生の中で︑とても大きなものでした︒た

くさ んの もの を学 んで まい りま した

三O成になったときに︑私は﹁バレリーナとして一線で

師るのは︑これまでと︑しよう﹂と思いました︒﹁舞踊家

とし て︑ もっ と述

︑っ 生き 方を しよ う﹂ と思 った ので す︒

そし

て︑

親の

扱助

もあ

って

︑バ

レエ

団を

立ち

上げ

まし

た︒

﹁バ

レリーナを育て︑自らバレエ団をつくり上げて︑もっとク

リエイティプな仕事︑作品をつくり︑世界に羽ばたけるバ

レエ 聞に 育て てい こう

﹂と 思っ たの です

そし

て九

三年

に︑

バレ

エ団

(芸

術座

)の

主宰

者と

なり

まし

た︒

主宰者というのは︑要するに経営者なんですね︒バレエ

団を経営すること︑後進を拐帯していくこと︑そして作品

をつくる振付者︑この三足のわらじをはいて︑今も頑張つ

てお

りま

す︒

九四年に︑念聞の︑附界へ羽ばたく開会を仰ました︒ド

イツのニユルンベルクで行われたエイズ救済国際ガラコン

サートですけれども︑それに﹁日本を代表して︿愛と死﹀

のテ

l

マで 作品 を作 るよ うに

﹂と 言わ れ︑ 平家 物語 から

﹁袈

裟と盛迫﹂という袈裟御前の悲劇をテl

マに した 作品 を持 って いっ て︑ ドイ ツで 大変 いい 評判 をい ただ きま した

二四時間マラソン公演だったんですね︒オランダのキリ

アンだとか︑亡くなってしまいましたけれどもペジャlル

だと か︑ 世界 の有 名な バレ エ聞 がこ ぞっ て参 加し まし た︒ 二

六か国参加で︑二四時間ずっとマラソン公演を続けている

んで すね

︑も う昼 夜を 分か たず

︑ず っと 一日 公演 した ので す︒

その中で︑私のこの﹁袈裟と盛述﹄だけが︑アンコール

公演で︑二回踊らせていただいたんです︒とても典色な作

品だったということもあったのでしょうけれども︑主催者

側か ら﹁ アン コー ルの 戸が 非常 にあ るの で︑ ぜひ もう 一回

ということで︑私の作品だけ︑二回師らせていただいたと

いう こと があ りま した

それ以来︑私は︑︿文学作品をつくる﹀という路線をず

っと貫いてまいりまして︑ドストエフスキ!の﹃罪と罰﹄

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