メドハーストの新約聖書南京官話訳本について :
その成立および『訳翰伝福音書』の2種の版本にお
ける異同箇所の考察
著者
永井 崇弘
雑誌名
国語国文学
巻
53
ページ
1-14
発行年
2014-03-20
URL
http://hdl.handle.net/10098/9026
はじめに プロテスタントによる聖書漢訳は、J.ラサールと J.マーシュマンが1811年にインドのセラ ンポールで新約の翻訳を完成させたのが最初とされている。中国においては、R.モリソンが 1813年に新約の漢訳を完成させ、1814年に出版したのが最初である。その後、聖書の漢訳、 出版が陸続と行われてきた。最早期の官話による聖書の漢訳は、W.H.メドハーストと J.スト ロナックによるもので、1856年と1857年に南京官話訳の新約聖書として出版されている。こ の一般にメドハースト訳と呼ばれる南京官話訳は、その後の官話訳聖書の礎となっている。 1872年に出版された北京委員会による北京官話訳の新約では、このメドハーストによる南京 官話訳が基礎訳となっている。また1919年の官話和合訳でもメドハーストの南京官話訳とこ れを基礎訳とした1872年の北京委員会北京官話訳が参照訳とされている。つまり、官話訳聖 書の研究において、このメドハースト訳本は非常に重要な位置を占めていると言え、この版 本を考察しておくことは必要不可欠なことであると考える。本稿では、メドハースト訳の成 立背景と1856年版および1857年版の『約翰伝福音書』に見える異同箇所を元訳の文理代表訳 と後継の訳文もあわせて考察し、その状況を明らかにしたい。 1.メドハーストとストロナック 一般にメドハースト訳と呼ばれる新約聖書の南京官話訳は、メドハーストのほかに同じく 英国倫敦会所属の宣教師であるストロナックとともに完成させたものとされている。A.J. Garnier1933では、メドハーストとストロナックの2人により南京あるいは南方官話訳への 翻訳が提唱されたこと1)、また1854年に代表訳の文理聖書が出版されたときにこの構想が既 にあったことが指摘されている2)。 1.1 メドハーストについて
メドハースト(Walter Henry Medhurst:1796‐1857)は、1810年にロンドンの聖パウロ 大聖堂附属の小学校を卒業後、グロスター市の印刷工場で職人として働き印刷技術を習得し た。1815年に倫敦会の宣教師である R.モリソンとミルンによってガンジス以東伝道会(Ultra -Ganges Mission:恒河外方伝教会)設立の構想がたてられ3)、それに基づき1818年にその拠
点であるマラッカに英華書院(The Anglo-Chinese College)が開校されるが、この英華書 院の設立にともない倫敦会は印刷技術の指導者を募集していた。メドハーストはこれに応募
メドハーストの新約聖書南京官話訳本について
―― その成立および『約翰伝福音書』の2種の版本における異同箇所の考察 ――
永 井 崇 弘
して採用され、海外宣教の宣教師を養成するハックネー・カレッジ(Hackney College)で の学びを経て、1816年、印刷機械を携えて英国を発ち、翌年の1817年6月にマラッカに到着 する。当初は印刷技術の指導者として赴いたメドハーストであったが、この頃マラッカ宣教 の担い手であったミルン夫妻が長年の宣教活動により静養が必要となるとメドハーストも直 接宣教活動に携わり、ミルン夫人が天に召された1819年には正式な宣教師の資格を得てミル ンともに働くこととなる。1822年にミルンが天に召されると、その遺志を継いでメドハース トは新たな宣教地であるバタビアに渡る。その後、1835年8月1日にミルンに次いでガンジ ス以東伝道会の中心人物であった R.モリソンが天に召されるが、英国倫敦会はその直前の 7月21日にメドハーストを広州に派遣し、モリソンとミルンの後継者としていた。アヘン戦 争後の1843年に上海が開港されるとメドハーストは早々と活動の拠点を上海に移して宣教活 動を展開した。その後、1856年9月10日に上海を発ち、翌年の1857年の1月21日に英国に到 着するが、その3日後の1月24日に天に召された。 1.2 ストロナックについて ストロナック(John Stronach:1810‐1888)は中文名を施敦力約翰とし、1810年3月7日 に英国スコットランドのエディンバラに生まれる。メドハーストと同じく英国倫敦会所属の 宣教師として、1838年3月5日にシンガポールに到着。シンガポールにて中国語とマレー語 の学びを始め、同地にて英語の他に福建語でも説教を行った。1843年、シンガポールを発ち 8月7日に香港に到着、翌年の1844年7月8日には廈門に到着し、ここを拠点に宣教活動を 行う。同年12月1日には教会を立ち上げて説教を始めている。1847年から1850年にかけては 上海で活動し、メドハーストと同じく文理代表訳の翻訳委員として翻訳作業に従事した。文 理代表訳は、モリソン訳およびモリソン訳の改訂訳の後継訳として、その翻訳が始められた ものである。アヘン戦争後、南京条約により5つの港が開かれる1843年の8月23日に香港で 会合が開かれ聖書の改訳が議論された。その結果、新約を5港の宣教師が分担で担当するこ とが決められた。その後、1847年6月26日に各地の代表が上海に集まり、メドハーストを長 とする委員会は1850年6月26日まで続き、ようやく新約の完訳を見ることとなった。ストロ ナックの主な宣教地は廈門であったが、この代表訳の翻訳作業のためにこの間上海で活動し ていたのではないかと考えられる。その後、ストロナックは1878年に宣教師を引退し、1888 年10月30日にフィラデルフィアにて天に召された4)。 2.メドハースト訳の南京官話訳本の成立について メドハースト訳の南京官話訳本は、前述のとおりメドハースト1人の手によるものではな い。ここでは、メドハーストの協力者と南京官話訳本の成立について考えてみたい。 2.1 メドハーストの協力者 Garnier1933によると、1854年の文理代表訳本が出版された時には既に南京官話訳本ある いは南方官話訳本の構想が存在していたとされている。この構想が生まれ、実現するために は文理代表訳の存在を抜きにすることはできない。メドハーストとストロナックはともに英 ―81― (2)
国倫敦会の宣教師であったが宣教地は異なっていた。彼ら2人を結びつけたのは、文理代表 訳への翻訳にともなって設置された委員会であると思われる。この委員会の構成員はメドハ ースト(英国倫敦会)以外には、英国のストロナック(英国倫敦会)、米国のブーン(William Jones Boone:1811‐1864、美国聖公会(American Church Mission))、ブリッジマン(Elijah Coleman Bridgeman:1801‐1861、美国公理会(The American Board of Commissioners for Foreign Mission))、ローリー(Walter Macon Lowrie:1819−1847、美国長老会(American Presbyterian Mission North))という4名の英国と米国の宣教師であった。その後、ローリ ーが1847年の海賊事件に巻き込まれて召天し、その後任として英国倫敦会のミルン(William Charles Milne:1815‐1863)が充てられた。このローリーを含めた5名からメドハーストが 南京官話訳のためにストロナックを選んだのは、同じ倫敦会の宣教師であると言えるが、そ の背景にはターム問題に代表される米国委員との大きな神学観の相違がある。ローリーの後 任のミルンも英国倫敦会の宣教師であるが、1854年に病気の治療のために中国を一時離れて いることから、協力者として参加することは難しかったものと考えられる5)。なお、Wylie 1867にあるように、ストロナックがメドハーストとともに官話訳の新約聖書事業に従事した のが1854年、1855年とされているところからもミルンの不参加も理解することができる6)。 こうして、ストロナックがメドハーストの協力者として南京官話訳の翻訳に従事することと なったのである。 2.2 文理代表訳とメドハースト訳の南京官話訳本 上述のように、Garnier1933では1854年に文理代表訳が出版された時には既に南京官話訳 本の構想があったということが述べられ、また Wylie1867もストロナックが1854年、1855年 に南京官話訳の翻訳に従事したということを記していることから、実際の翻訳作業は旧新約 の文理代表訳が完成してから着手されたものと考えられる。メドハースト訳の南京官話訳本 は、代表訳が訳了された1853年の翌年の1854年にマタイの福音書が出版され、最初の単巻が 出版された2年後の1856年には新約、さらに翌年の1857年にも新約全体が出版されているよ うに、かなり早いペースで翻訳、出版がなされている。なお、1872年の北京委員会による北 京官話訳は、T. H. Darlow, H.F. Moule1963によると1864年に単巻のヨハネの福音書を出した 後、8年もの歳月をかけて新約聖書が出版されている7)。それでは、なぜ短期間に南京官話 訳の新約聖書を出版することができたのだろうか。これも、文理代表訳の存在を抜きにして 考えることはできない。Broomhall1934では、メドハーストの南京官話訳は、南京人によっ て文理代表訳から南京官話に翻訳されたとある8)。また、文理代表訳の訳文は直接文理訳を 作成するのではなく、原文(ギリシャ語)を口語に漢訳し、その口語から文理訳をつくり、 さらに文理訳を口語に戻すという2つの工程を経て文理訳を確定していったことも記されて いる。この文理代表訳の作成の際に用いられた口語というのが、恐らく南京官話であったの であろう。つまり、メドハースト訳の南京官話訳本は一から翻訳に着手したものではなく、 文理代表訳作成の際に用いられた南京官話訳に手を加えて完成したものだということである。 また、南京官話が文理代表訳作成の際の口語として用いられたというのも、文理代表訳の翻 訳委員会が南京条約によって開港された5港の1つである上海に置かれていたということに ―80― (3)
起因しているのではないかと考えられる。 このようにして成立したメドハースト訳の南京官話訳本であったが、この訳本はその後の 1872年の北京委員会による北京官話訳本が現れるまで、官話訳の代表として広く流布し用い られ続けた。また、このメドハースト訳は1872年の北京委員会北京官話訳の基礎訳とされて いることからも、その重要性をうかがい知ることができる。 3.1856年版と1857年版の『約翰伝福音書』の異同箇所の特徴 1856年版と1857年版の『約翰伝福音書』において確認できた異同箇所は重複を除く83箇所 で、節数では81節に及んでいる。これは全877節9)の約9.2%と1割程度にとどまっている。 このことから、メドハースト訳の訳文が1856年版の時点でおおよそ完成されていたと言うこ とができる。また、Spillette1975では1857年版の後が、12年後の香港で出された1869年のメ ドハースト訳の改訂版となっていることから1857年版が長期に渡り流通した安定した南京官 話訳であると言える。この2種の版本間の異同箇所は、おおよそ強調やニュアンスを含む意 味を主因とする異同と主として南京官話という言語体に関する異同、漢字の字体・誤記によ る異同の3つに分けることができる。 3.1 「意味を主因とする異同」 意味を主因とする異同とは、異同の主な原因が強調やニュアンス、意味の明確化にあると 考えられるものである。重複を除いた異同箇所全83箇所のうち49箇所と約59%を占めており、 1856年版と1857年版の間の主要な異同原因となっている。 3.1.1 文字数の増加による改訂 1856年版から1857年版への改訂の手法としては、文字数の増加による改訂が27箇所で55% と最も多いが、これは官話和合訳の改訂とは大きく異なっている10)。このうち、1文字の増 加による改訂が16箇所と最も多く、次に2文字が5箇所、4文字が3箇所、3文字が3箇所 で、文字数では計47文字にのぼる。一方、文字の減少による改訂では計2文字が減少してい るので、1857年版は1856年版から45文字増となっているが、1857年版の版面は1856年版と同 じく1葉が35文字×30行の配置で、章のはじめで改行されているため、両者の版面における 文字の位置のずれに大きな影響は見られない。以下に例を挙げて考察をすすめるが、上段は 1856年版、下段は1857年版、括弧内は文理代表訳であり、下線部は論者によるものである。 (1)耶%道、我暫且和#們同在、後來我囘到差遣我的那裏去。(7:33) 耶%道、我暫且和#們同在、後來我囘到差遣我的主――那裏去。 (耶%曰、我暫偕爾、後歸遣我者、) (2)耶%道、我實在告訴#們、子不看見父做事、就沒有什$做的、但父所做的事、子也 做這件事的!。(5:19) 耶%道、我實在告訴#們、子不看見父做事、就沒有什$能"――――做的、但父所做的事、 ―79― (4)
子也做這件事的"。 (耶*曰、我誠告爾、子不見父行之、則無所能――行、但父所行者、子亦行之、) (3)衆人拿石頭要打他、耶*在衆人當中行走、從殿裏出去了。(8:59) 衆人拿石頭要打他、耶*在衆人當中、悄悄兒的――――――――行走、從殿裏出去了。 (衆取石欲!之、耶*隱――行衆中、出殿而去、) (4)衆人道、我們應該做什(、可以合上帝的意――――――――――+。(6:28) 衆人道、我們應該做什(、可以成功上帝所喜的事―――――――― ――――――――+。 (衆曰、我儕當何爲、以稱上帝之事乎、) 例(1)は1文字の増加の例で、1857年版では「主」が追加されている。文理代表訳では、 「主」に相当する語は見当たらなく、1857年版での改訂の際に意味を明確化するために追加 したものと考えられる。なお、この箇所は1868年版の『約翰福音書』11)では1857年版と同様 で、1872年北京委員会訳では「父」としている。例(2)は2文字増加の例、例(3)は4 文字の例で、例(2)では「能#」が追加され、例(3)では「悄悄兒的」が付加されてい る。これはともに1856年版では訳出されていなかった文理代表訳を反映したことによるもの である。例(2)は1868年版では「耶*對他們&、我實在告訴'們、子若沒有見過父做事、 自己就一點事不能― ―做、凡父所做的、子也照樣做、」、1872年北京委員会訳では「耶*對他們&、 我實在告訴'們、子看見父作甚(事、子也作甚(事、此外自己一點事不能――作、凡父所作的、 子也照樣作。」と訳出され、全体の構造は異なるが当該箇所ではやはり「能」が使われてい る。例(3)については、1868年版および1872年北京委員会訳とは構造が異なるが、ともに 「%避」が用いられている。例(4)では「神のみこころに合う」が「神が望まれる事を完 遂する」に改訂されている12)。1868年版では「纔算是眞神的工夫)、」とされているが、1872 年北京委員会訳では「纔算作上帝所喜!的事)。」とあり、1857年版に近い訳となっている。 3.1.2 同文字数による改訂 先の「文字数の増加による改訂」に次いで多く見られたのが「同文字数による改訂」で、 20箇所を確認した。これは「意味を主因とする異同」の41%を占めている。同一句内での異 同が17箇所と最も多く、同一文または同一節内での異同は3箇所のみとなっている。以下に 例を挙げるが、上段は1856年版、下段は1857年版、括弧内は文理代表訳であり、下線部は論 者によるものである。 (1)人吃我的肉、喝我的血的、纔能得着生命―― ――、到世間的末日、我使他復生。(6:54) 人吃我肉、喝我血的、纔能得着永生―― ――、到世間的末日、我使他復生。 (食我肉、飲我血者、得永生――――、末日我復生之、) (2)獨不想一個人替百姓死了、通國就――不滅$、算我們的益處呵。(11:50) ―78― (5)
獨不想一個人替百姓死了、通國不滅!、就――算我們的益處呵。 (獨不思一人爲民而死、舉國不滅者、爲我儕益也、) 例(1)では「生命」が永遠のいのちを意味する「永生」に改訂されている。マーシュマ ン、ラサール訳およびモリソン訳では「常生」と訳出されている。「永生」が確認できるの は1840年の出版だと思われる『救世主耶$新遺詔書』(新嘉坡堅夏書院蔵板)からで、1868 年版でも1872年北京委員会訳でも、さらには今日に至るまで使用されている官話和合訳でも 用い続けられている。例(2)は句を跨いだ例で、「就」が後ろの句に移動している。これ は文理代表訳からは見えてこないものである。1868年版および1872年北京委員会ではこの箇 所はそれぞれ「也不想一个人、替百姓死、#通國不滅!、就――是我們的益處"、」、「竟不想一 個人替百姓死、#通國不滅!、就――是我們的益處。」と訳出され、1857年版の訳に近くなって いる。 3.1.3 文字数の減少による改訂 この「文字数の減少」という改訂は、僅かに2箇所、4%が見られるのみで、1856年版か らの改訂で最も少ない改訂手法となっている。この2箇所は訳文に大きな変化をもたらす改 訂となっている。以下に例を挙げて考察を行うが、上段は1856年版、下段は1857年版、括弧 内は文理代表訳であり、下線部は論者によるものである。 (1)所以耶$在猶太人裡向、不再顯明出來――――――――――――、離了這裡、往近荒野的地方去、到了一個城、 名#以法蓮、和學生們一同住在那裡。(11:54) 所以耶$不再明明的――――――――――在猶太人裡向、走來走去――――――――、離了這裡、往近荒野的地方去、到了 一個城、名#以法蓮、和學生們一同住在那裡。 (故耶$不復顯行――――――――猶太人中、去此、往近野之地、至一邑、名以法蓮、偕門徒居焉、) (2)從前用香油澆主、又把頭髮揩主的――脚、就是這個馬利亞――――――――――――――、現在他的兄弟拉撒路害病。 (11:2) 這馬利亞就是 ―――――― ――――――從前用香油澆主、又把頭髮揩主脚的――、現在他的兄弟拉撒路害病。 (馬利亞――― ―――%以香膏膏主、以髮拭主足者――、其兄弟拉撒路病、) 例(1)は「不再顯明出來」が「不再明明的」と「走來走去」の2つに分けられて改訂さ れているものである。文理代表訳では「不復顯行」と1つにまとめられており、これは1856 年版訳に反映されている。なお、この箇所は1868年版では「所以耶$不顯然在猶太人中間行 走、」、1872年北京委員会訳では「所以耶$不再顯然在猶太人中間行走、」と訳出され、1857 年版に近いものとなっている。例(2)では主語と目的語を入れ替えた訳出が行われている。 1857年版訳は文理代表訳と同様で、改訂の際にも代表訳が参照されていることが分かる。こ の箇所は、後継の1868年版では「這馬利亞、就是用香膏子抹主、又把頭髮擦主的脚的、他的 兄弟拉撒路、病了、」、1872年北京委員会訳でも「這馬利亞就是用香膏抹主、又用頭髮擦主的 ―77― (6)
脚的那個婦人。患病的拉撒路、是他的兄弟。」とある。なお、文理代表訳に訳出されたギリ シャ語原文も「 」と1857年版訳と同じ記述順序となっている。 3.1.4 負の改訂について 上述のような手法で1856年版から1857年版へと改訂が行われ、1856年版から多く訳文の改 善が施された。しかし、その一方で改訂によって本来の意味を失わせてしまうという負の改 訂も12箇所7種確認している。この負の改訂は(A)過剰な意訳による負の改訂と(B)代 表訳から導かれた負の改訂に分けられる。以下に例を挙げて示すが、上段は1856年版、下段 は1857年版、括弧内は文理代表訳であり、下線部は論者によるものである。 (A)過剰な意訳による負の改訂 (1)所講上帝的餅、就――是從天上降下來的人――――――、把生命給世間的!。(6:33) 所講上帝的餅、是從天上降下把生命給世間的、就是這個人――――― ―――――!。 (所謂上帝餅者、乃降自天、以生賜世者也、) (2)耶&道、$們把人子擧――起的時候、必定曉得我是基督、不是自己的主意做事的、是照 着天父所教訓我的#出來。(8:28) 耶&道、$們把人子拿――起的時候、必定曉得我是基督、不是自己的主意做事的、是照 着天父所教訓我的話― ―#出來。 (耶&曰、爾曹擧――人子時、必知我之爲我、無自擅而行、乃循父所教我者言耳、) (3)日裏的時候、我必定做那差遣我作――的事、到了夜裏、就不能做什%了。(9:4) 日裏的時候、我必定做那差遣我的所喜歡―――― ――――的事、到了夜裏、就不能做什%了。 (晝時、我必爲遣我者所爲、夜至、則無能爲、) (4)這句話不是從自己出來的、就是這一年做祭司頭目的、預先#耶&將替百姓死了、 (11:51) 這句話不是從自己出來的、乃是這一年做祭司頭目頂大―― ――的、預先#耶&將替百姓死了、 (此言非由己出、乃是歳爲祭司長――― ―――、預言耶&將爲民死、) 例(1)は後継の1868年版では「眞神的餅、就――是從天上降下來――、賜給世人有生命的、」、1872 年北京委員会訳では「上帝所賜的糧、就――是從天上降下來――、"世人有生命的。」と1856年版と ほぼ同じ表現で、1857年版の「就是這個人」という表現は、文理代表訳からも、ギリシャ語 の原文「 」 からも逸脱している13)。例(2)では文理代表訳のみならず、1868年版、1872年北京委員会 訳、さらには官話和合訳のいずれもが「擧」を用いている。また、例(3)における1857年 版の「的所喜歡」は文理代表訳にもギリシャ語原文にも見当たらず、1868年版では「趁着白 ―76― (7)
日的時候、我應當做差我來父―― ――的事、到了夜裏、就沒有人、能做事了、」、1872年北京委員会訳 では「趁著白日、我應當作差我來的父――――――的事、!夜將到、就沒有人能作事了。」とそれぞれ訳 出されている。さらに例(4)でも「祭司頭目的」で既に祭司長を表しているにも関わらず、 さらに「頂大」を過剰に加えて負の改訂を行っている。この箇所も文理代表訳のみならず、 1868年版、1872年北京委員会訳、官話和合訳でも「祭司長」となっている。 (B)代表訳から導かれた負の改訂 (5)好像天父認得我、我也認得天父!、而且――――我替那羊捨命呵。(10:15) 好像天父認得我、我也認得天父!、况且―― ――我替那羊捨命呵。 (如父識我、我識父焉、且― ―我爲羊捐命矣、) (6)服事――――我的人、應該跟從我、我在那裏、服事――――我的也在那裡、服事――――我的人、我父必定貴 重他。(12:26) 被我差役―― ――的人、應該跟從我、我在那裏、我的差役――――也在那裡、被我差役――――的人、我父必 定貴重他。 (役― ―於我者、當從我、我所在吾役亦在、役於我者、父必貴之、) 例(5)の箇所は文理代表訳では「且」となっている。これを1856年版では「而且」とし、 1857年版では「况且」と訳出している。ギリシャ語の原文は「 」で、「而且」または「并 且」を用いるのが適当である。なお、1868年版および1872年北京委員会訳、官話和合訳では 「并且」が使用されている。これは明らかに1857年版がギリシャ語の原文を参照していない ことを示している。また例(6)はイエスの発言で、ギリシャ語の原文ではそれぞれ「仕え る」の意を持つ「 」、「 」、「 」が用いられている。1856年版では適切 に訳されているが、1857年版ではイエスの発言にも関わらず、労役や下働きを意味する「差 役」が使用されている。なお、1868年版、1872年北京委員会、官話和合訳はともに「服事」 を用いている。 メドハースト訳の最大の弱点は Broomhall1934にも記載があるように、訳出の際にギリシ ャ語の原文を参照していない点にある14)。しかし、この弱点は1856年版から1857年版への改 訂の際にも改善されることはなかったようである。 3.2 「言語体に関する異同」 これまで、主要な異同原因が強調やニュアンスを含む意味にのみ関するものを考察してき たが、ここでは主なる原因が南京官話という言語体にある異同箇所について考察を行う。言 語体に関する異同は、異同箇所全83個所中29箇所で、34.9%を占めている。以下に例を挙げ て考察を行うが、上段は1856年版、下段は1857年版、括弧内は文理代表訳であり、下線部は 論者によるものである。 ―75― (8)
3.2.1 口語表現の文言化 この改訂による異同は、言語体に関する異同全29箇所のうち19箇所で、約65.5%と最も多 く見られる。文字数の減少による改訂が18箇所とほとんどを占め、同文字数による改訂が1 箇所のみ、文字数の増加による改訂は見られなかった。 (1)耶&在殿裏教訓人、在庫面前#這句話、因爲他的時候沒有――――到、所以沒有人捉他。 (8:20) 耶&在殿裏教訓人、在庫面前#這句話、因爲他的時候未曾――――到、所以沒有人捉他。 (耶&在殿教誨、庫前言此、以時未至、無人執之、) (2)不要爲着容易壞的糧勞苦、應該爲着永生的糧勞苦、就是人子要給$們的、因爲天父 上帝、打個印做憑據、打發――――他下――來的!。(6:27) 不要爲着容易壞的糧勞苦、應該爲着永生的糧勞苦、就是人子要給$們的、因爲天父 上帝、打個印做憑據、命― ―他來的!。 (勿爲可敗之糧而勞、當爲永生之糧而勞、即人子與爾者、蓋父上帝以印命之也、) 例(1)は口語表現の「沒有」が文言的表現の「未曾」に改訂されているもので、1868年 版では「因爲他的時候、還沒有到、」、1872年北京委員会訳でも「因爲他的時候還沒有到。」 とともに「沒有」が用いられている。例(2)では口語的な「打發…下…」が文言的な「命 …」に改訂されているものである。1868年版および1872年北京委員会訳は「給他做見証、」 および「爲他作見證。」とあり、別訳となっている。このような白話表現の文言化という改 訂が約7割も見られるということは、1856年版の訳文が南京官話として過剰に口語的であっ たことを示している。また、同時に1856年版が文理代表訳から口述によって訳出された痕跡 とも考えることができる。 3.2.2 文言的表現の口語化 この改訂による異同は6箇所で、言語体に関する異同全29箇所の約20.7%を占めている。 同文字数による改訂が4箇所、文字の増加による異同が2箇所で、文字数の減少による改訂 は見られない。これは文語体と口語体のそれぞれが持つ特性に起因していると言える。 (1)父疼愛兒子、把自己所做的事、指給他看、將來還要指點他更大的事、使$們驚怕――――!。 (5:20) 父疼愛兒子、把自己所做的事、指給他看、將來還要指點他更大的事、使$們希奇――――!。 (父愛子、以己所行示之、將示以事之尤大者、使爾駭― ―矣、) (2)$信摩西、必當信我、因爲他的書是指着我的、$們不信他的書、如何肯――――――信我的話%。 (5:46) $信摩西、必當信我、因爲他的書是指着我的、$們不信他的書、那裡能"――――――――信我的話 ―74― (9)
$。 (爾信摩西、必信我、蓋其書指我、不信其書、"信我之言、) 例(1)は文言的表現の「驚怕」を同文字数の口語的表現である「希奇」に置き換えた改 訂であるが、1856年版の他の箇所では「希奇」も見られる。この箇所は官話和合訳では「希 奇」が充てられていて、この5章20節以外に3:7、4:27、5:28、7:15、7:21に見 られる。1856年版と1857年版は3:7、5:28、7:15ではともに「希奇」、4:27、7: 21ではともに「奇怪」と一致しているが、5:20だけが「驚怕」と「希奇」に分かれている。 この訳語の使い分けの原因は文理代表訳にある。3:7、5:28、7:15は文理代表訳では 「奇」と訳され、4:27、7:21は「異」と訳され、5:20のみ「駭」と訳出されている。 つまり、文理代表訳から1856年版の南京官話に訳出する際に、忠実に「奇」は「希奇」と訳 され、「異」は「奇怪」と訳され、「駭」は「驚怕」と訳出したが、1857年版への改訂の際に 「駭」に当たる「驚怕」を「奇」に当たる「希奇」と同じ訳語としたために異同が生じたの ¨ である。この「希奇」という語は孫2013にある Kuhnert の『南京字匯』の語彙および Mateer 1906にも記載があるので南京官話の語と考えられるが、1872年北京委員会の北京官話訳でも 「希奇」が使われている。一方、この箇所で1856年版が文言的表現の「驚怕」を用いたのは、 1文字の「駭」を直接南京官話訳として用いることができなかったことと、既に類似表現に 「希奇」や「奇怪」を使用していたためであると考える。なお1868年版では「詫異」と訳出 されている。例(2)は、文言的表現の「如何肯」が口語的な「那裡能!」という表現に改 訂されることにより、1文字増加しているものである。文理代表訳では「"」とあるが、こ れを口語系の言語体である官話に直接用いることはできないために「如何肯」を文言的表現 として充てている。この箇所は1868年版では「怎#能信我的話$、」、1872年北京委員会訳で は「怎能信我的話$。」と訳出されている。 3.2.3 文言的表現と口語的表現の混合 これは異同部分に文言的要素と白話的要素が混合しているもので、全29箇所のうち2箇所、 6.9%見られる。例(1)の「善心看羊的」および「善心看羊的人」は修飾語が文言的要素 で、中心語が口語的要素により構成されている。この1856年版訳の「文言的修飾語+口語的 中心語」という構成は南京官話の特徴の1つと考えられるが、1857年版では修飾語が口語的 な「好好的」に改訂されている。なお、1868年版、1872年北京委員会訳ではともに「好牧羊 的」と訳出されている。 (1)我是善心看羊的――――――――――、那善心看羊的人――――――――――――替羊捨命。(10:11) 我是好好的牧人――――― ―――――、那好好的牧人――――――――――替羊捨命。 (我乃善牧、善牧者、爲羊捐命、) 3.2.4 口語表現における南方的表現の北方化 言語体に関わる改訂のなかで、少数ではあるが口語表現の南方的表現から北方的表現への ―73― (10)
改訂が確認できる。この改訂は全29箇所のうち1箇所のみ見られ、同文字数によるものとな っている。 (1)沒有人見過天父、只有從上帝來的見過他的― ―。(6:46) 沒有人見過天父、只有從上帝來的見過他了― ―。 (無人見天父、惟來自上帝者見之、) 例(1)では肯定の語気を表す語気助詞の「的」が「了」に改訂されている。語気助詞の 「的」は南京官話が反映された孫2013には見られないが、南京方言として李栄1995には見ら れる。なお、「了」については、孫2013、李栄1995ともに記載がない。しかし、1857年版の 他の箇所では1856年版と同じく語気助詞の「的」が使用されている。1868年版と1872年北京 委員会訳の当該部分は「他看見過父」で語気助詞が付されていない。 3.2.5 口語表現における北方的表現の南方化 「南方的表現から北方的表現」の改訂とは逆に、口語表現において北方的表現から南方的 表現への改訂と考えられるものも1箇所見られた。以下に例を示す。 (1)沒有人要把他所做的事顯明、自己反住在隱藏的地方、若是"要――做這件事、應該自己 顯明在世上。(7:4) 沒有人要把他所做的事顯明、自己反住在隱藏的地方、若是"有――做這件事、應該自己 顯明在世上。 (未有欲顯其行、而行於隱者、若爾所行、當自顯於世矣、) この箇所は1868年版では「沒有人要顯揚名聲、反在背地裏行事的、"果然能――做這些事、何 不出頭、!世人看#、」、1872年北京委員会訳でも「沒有要顯揚名聲、反在暗處行事的、"若 能 ― ―作這些事、何不將自己顯明給世人看。」とあり、「能」と訳出されている。 3.3 「漢字の字体および誤記による異同」 漢字の字体による異同は、「床」から「牀」への改訂が3箇所(5:10、5:11、5:12)、 「裏」から「裡」(5:42)と「著」から「着」(8:2)への改訂がそれぞれ1箇所の計5 箇所を確認している。このうち「床」と「牀」については、1868年版『約翰福音書』では18 56年版と同じく「床」が使用され、1872年北京委員会訳では「牀」が使用されている14)。な お、「裏」と「裡」、「著」と「着」は1868年版および1872年北京委員会訳では別訳となって おりいずれも使用されていないが、1872年北京委員会訳の『約翰伝福音書』以外の箇所では それぞれ「裏」と「著」が見られる。 また誤記については、「猶太」から「猶大」(6:71)と「馬太」から「馬大」(11:39)へ の改訂の2箇所を確認した。元訳となった文理代表訳はそれぞれ「猶大」と「馬大」となっ ており、1868年版および1872年北京委員会訳でも「猶大」、「馬大」となっていることから、 ―72― (11)
この2箇所については誤記であると言える。 おわりに これまでの考察により、まずメドハーストによる南京官話訳が文理代表訳の翻訳過程にお いて訳出されたものを基礎に成立したことが分かった。メドハーストは文理代表訳の翻訳委 員会のなかの構成員であったストロナックを協力者に選び、文理代表訳の訳出のための南京 官話訳に手を加えて彼の南京官話訳の新約聖書を完成させた。ストロナックがメドハースト の協力者となり得たのは、彼がメドハーストと同じ英国倫敦会の宣教師であり、ターム問題 においても意見を一にしていたためであった。 また考察によって、『約翰伝福音書』における1856年版と1857年版の異同は全節の約9% に過ぎなく、基本的な訳文が1856年版の時点で完成されていたことも分かった。メドハース トの南京官話訳本は1854年にマタイの福音書を単巻で出版した2年後に新約が出版されると いう異例の速さであったが、それは文理代表訳の下訳として用いられていたものを再利用し たためであった。つまり、少なくとも文理代表訳の翻訳がなければ、1856年の時点でメドハ ーストによる南京官話訳本が出現することはなかったのである。 1856年版と1857年版の異同箇所には、通常考えられる訳文の改訂と同じく、意味が主因と なっている改訂と南京官話という言語体に関わる改訂があることが確認できた。このうち意 味が主因となっている改訂が最も多かったが、その際に文字数を増加させての改訂と同文字 数の語句の置き換えによるものがほとんどであった。これは官話和合訳の文字数を減少させ ての改訂が多いのとは異なっている。また、改訂は本来的に訳文の改良を目的とするもので あるが、1856年版から1857年版への改訂には、結果的に本来の正しい意味を損なう負の改訂 が見られた。その原因は改訂の際に過剰に意訳をしたことと改訂の際にもギリシャ語の原文 を参照していないことにあった。一方、南京官話という言語体に関わる改訂では、口語表現 の文言化が約7割を占めていた。これは、1856年版の訳文が南京官話体として口語成分を多 く含みすぎていたことが大きな問題点であることを示すとともに、文理代表訳からの口述に よる訳出の可能性を示唆している。また、言語体に関わる異同の考察によって、文言的表現 と口語的表現の混合、口語表現における南方的表現と北方的表現という南京官話体を構成す る成分を特定する手掛かりを得ることもできた。今後は、この考察で得られた知見をもとに 南京官話体がもつ特徴についてさらなる解明をすすめていきたい。 注 1)Wylie1867:106では、この南京官話訳新約聖書をメドハーストの業績として記載し、 ストロナックの業績では、『新約旧約全書節録』の記述の最後に付帯的にメドハースト とともに1854年、1855年に官話新約聖書の翻訳に従事した旨の記述が見られるのみとな っている。 2)Garnier1933:46を参照。 3)正式な設立発表は1817年。
4)Chinese Recorder Vol.20 1889:91を参照。
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5)Wylie1867:123を参照。 6)Wylie1867:106を参照。 7)T. H. Darlow, H.F. Moule1963:211を参照。なお、Spillette1975では1862年の単巻のマ ルコの福音書が北京委員会によるものとして疑問符が付されて記載されている。 8)Broomhall1934:80を参照。 9)1856年版では、第13章が37節と1857年版に比べて1節少なく、全876節となっている。 10)永井2011:13を参照。 11)1868年版『約翰福音書』は、全41葉で上海美華書館より刊行されたもので、メドハース トの南京官話訳の改訂とも考えられるが、Darlow, Moule1963および Spillette1975では 香港で出された1869年のメドハースト訳の新版の記載しか見られない。メドハーストの 南京官話訳で特徴的な語気助詞である「!」を見てみると、1857年版には46箇所見える が1868年版『約翰福音書』では、訳文が同一かほぼ同じ箇所でも「!」が使用されてい ない。また、訳文は1857年版メドハースト訳というより、1872年北京委員会北京官話訳 に近い。さらに、第1章は1857年のメドハースト訳では全52節であるが、1868年版『約 翰福音書』では1872年北京委員会北京官話訳本と同じく51節となっている。このことか ら、1868年版『約翰福音書』については詳細な考察を待つ必要があるが、1872年北京委 員会北京官話訳本の試用本の一つである可能性が高い。 ¨ 12)「成功」は孫2013によると Kuhnert の『南京字匯』に記載があることから南京官話の単 語であると思われる。しかし、Mateer1906では「鐵匠"給他一(左:合、右:火)成 功、」とあり、南北の区別はつけられていない。 13)文理代表訳はギリシャ語の「Textus Receptus」(公認本文)から訳出されたものであ り、本稿におけるギリシャ語の原文とは、この「Textus Receptus」を指している。 14)Broomhall1934:80を参照。 参考文献 『救世主耶#新遺詔書』(1840年?)。新嘉坡:堅夏書院 1856.『新約全書』(メドハースト訳南京官話)。上海:墨海書館 1857.『新約全書』(メドハースト訳南京官話)。上海:墨海書館 1868.『約翰福音書』。上海:美華書館 1869.『新約全書』(文理代表訳)。香港:英華書院 1887.『新約全書』(1872年北京官話訳)。上海:大美国聖経会
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