紀州藩
における
旅人病人継
ぎ
送
り
政策
の
展開
藤
本
清二郎
はじめに 日本近世 の ﹁行 き 倒 れ ﹂現象 に 関 する 研究 は 、主 に 交通史 と 都市史・非人身分史 の 両面 から 進 んできた 。筆者 は 後者 の 関心 から 一七・一八世紀 の 飢饉時 に 行 き 倒 れ︵飢渇人 と 死亡人︶ が 生 じ 、乞食身分 に 編成 されるか 、施行救済 の 対象 となる 事実 を 検討 してき た (( ( 。一方、交通史 の 研究 の 内、行 き 倒 れと 村送 りに 関 しては 、内藤二郎氏 の 研 究 (( ( を 嚆矢 として 、最近 では 紀州藩 を 取 り 上 げた 柴田純氏 の 研究 があ る (( ( 。 柴田氏 は 紀州藩田辺領 を 中心 に 検討 し 、﹁ 近世 の パ ス ポ ー ト 体制 ﹂ を 論 じ て い る 。基底 に 交通史 、 旅行史 の 視点 を おき 、帳外・無宿 をシステム 執行 の 観点 から 、救済 の 対象外 として 無宿問題 にも 言及 している 。紀州藩 に 限 れば 、 政策展開 の 大筋 は 見 えるが 、元禄期、明和∼天明期 の 政策展開 が 必 ずしも 判然 としない 。本稿 ではこの 点 を 検討 す る 。 なお 帳外・無宿 を 救済対象外 とするのは 妥当 な 見解 であるが 、 この 区分 だけでは 、移動 を 伴 う 当該社会 の 困難 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開の 諸相、貧困 の 社会構造 が 充分 に 見 えない 嫌 いがある 。 本稿 で 述 べるアウトラインは 茂木陽一氏 がすでに 共同研究会 ︵筆者 も 参加︶ で ﹁紀州藩勢州領 における 旅病人・行 倒人 の 取扱﹂ 、﹁元禄二年、宿送・村送 の 原則禁止。安永八年、幕府 の 明和令 のなし 崩 し 的承認。宿送・村送禁止原 則 の 撤回﹂ という 筋 で 提示 されてい る (( ( 。同氏 が 提示 した 紀州藩勢州領 の 論点 を 紀州藩全体 の 問題 として 捉 え 直 すこ とを 試 みたい 。 す な わ ち 本稿 の 直接的 な 目的 は 、 幕府法 を 視野 に 入 れ て 、﹁ 旅病人 ﹂ 取扱 に 関 す る 勢州領 の 法事実 を 、 紀州藩全体 の 事実 と し て 確定 す る こ と で あ る 。焦点 は 、 ①元禄二年 ︵ 一六八九 ︶五月 の 幕令 の 受 け 容 れ 過程 、 ②幕府明和四年 ︵ 一 七六七 ︶令 の 受 け 容 れ 過程 ︵ 安永八年 ︿ 一七七九 ﹀ 藩触 れ の 意義 ︶の 検討 に あ る 。本稿 で は 、 柴田氏 の 成果 、 茂木氏 の 問題提起 を 踏 まえ 、紀州藩 の 法整備 に 関 して 確定的 な 内容 を 提示 し 、 その 意義 を 検討 する 。貧困問題 への 言及 は 別 に 稿 を 改 めて 論 じる 予定 である 。 本稿 では 、一般 に ﹁行 き 倒 れ ﹂ と 総称 される 人々 を 次 のように 区別 する 。 まず 、日常生活 において 村 や 町 で 生活 す る 人 々 が 居住地 を 離 れ て 移動 し て い る 場合 、 そ れ ら の 人 々 は 、 身分的 に は 百姓 ・ 町人 の 一時的 な 姿 と し て ﹁ 旅人 ﹂ と 称 さ れ 、 扱 わ れ る 。 そ し て そ の 行路中 の 人 々 の 内 、 罹病状態 に あ る 者 を ﹁ 旅病人 ﹂﹁ 旅人病人 ﹂ と 呼 ぶ 。﹁ 行倒人 ﹂ と 史料 に 見 える 者 は 、多 くの 場合行倒死人 である 。仮 に 未 だ 息 があるとしても 死 に 直結 している 状態 の 人々 を 指 し ている 。触 では ﹁旅人病人﹂ ︿生﹀ と ﹁相果﹂ ﹁行倒人﹂ ﹁異死﹂ ︿死﹀ に 大別 されている 。本稿 ではこのような 区別 を 行 って 幕藩法令 を 検討 する 。 なお 、紀州藩領 とは 、元和五年 ︵一六一九︶ に 徳川頼宣 に 与 えられた 所領五五万五千石 を 指 し 、紀伊徳川家 が 代々 この 所領 を 継承 した 。五五万五千石 の 内訳 は 紀州三七万五千石 と 勢州一八万石 である 。紀州 の 領地 には 、附家老安 藤家田辺領三万石余、附家老新宮領三万石余 が 含 まれ 、勢州領 は 松坂領八万石、田丸領五万石、白子領五万石 で 構
成 されていた 。勢州 の 紀伊徳川家領 は ﹁勢州三領﹂ と 呼 ばれ 、松坂城代 が 統括 してい た (( ( 。 一 幕府法元禄元年「旅人病人宿送り禁止令」の受容 ︵1︶幕府法 元禄元年 ︵一六八八︶ に 、大目付・道中奉行 の 高木伊勢守 の 名 で 、幕府 は 次 の 触 を 出 した 。 ︹史料 1︺元禄元年一〇月九日道中奉行廻状 ︿﹃徳川禁令考﹄前集三五二三﹀ ※読点引用者 覚 一 ① 生類 あわれみの 儀付、前方被仰出候御書付之趣、其砌道中筋申触候、 ︵中略︶ 一 ② 頃日、道中 ニて 旅人或 ハ 物参相煩、旅行難成旨申者有之候得 ハ 宿送 りニ 致候由、 たとひ 其身望候共、向後此 方 江 一往届無之送 り 申間敷 、 一 ③ 旅 人 之 病 人 有 之 候 ハ ヽ 、随 分 入 念 薬 等 用 さ せ 、其 者 之 国 所 親 類 縁 者、委 細 早 々 我 等 方 江 宿 次 ニ て 可 致 注 進、 其 上 ニ て 此 方 よ り 可 致 差 図 候、若 差 図 無 之 内、病 気 得 快 気、独 旅 行 罷 成 程 候 ハ ヽ 、心 次 第 何 方 江 成 共 遣 可 申 候、左候 ハヽ 其所罷在候刻、其者致証文、親類縁者国所 を 書付 させ 、早速宿次 ニて 可申越事、 一 ④ 自然差図無之内、右病人相果候 ハヽ 、御代官所 ハ 手代、私領 ハ 其所之役人 を 招、問屋年寄立合、死体相改、 其上 にて 埋置、雑物等書付、 ︵中略︶ 此方 江 被相達候様可仕事、 ︵中略︶ 右之通、堅相守可申候、 ︵中略︶ 元禄元年辰十月九日 伊 勢 在判 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
品川 より 森 (守) 口 左 (宿まてカ) 谷道中宿々問屋名主 第一条目 ︵中略部︶ では ﹁生類 あわれみ ﹂ の 点 から 、病牛馬 を 捨 てることが 禁止 されている 。 そして 第二条目 で 、 ﹁ 旅人 の 病人 ﹂ 宿送 り 禁止 、 第三条目 で ﹁ 充分 な 薬用等 の 手当 ﹂、 国元親類縁者 へ の 通知 、 第四条目 で 病人死亡 の 場 合 の 措置 が 規定 されている 。二∼四条目 は 明 らかに 旅人病人御取 り 扱 いに 関 する 指示 である 。 第二条目 が 注目 さ れ る が 、 こ の 条文 か ら は 、 こ れ ま で も 病期等 の 理由 で 宿送 り さ れ る こ と が あ っ た と い う 実態 ︵ 慣 習︶ 、 および 傍線部 のように 道中奉行 への 届出 なしに 宿送 りすることの 禁止 が 読 み 取 れる ︵届 けの 上 で 可 という 結果 もあり 得 ると 読 める ︶。 つまりこの 触自身 は 宿送 りを 全面的 に 禁止 したものではない 。 この 点 に 注意 しておきたい 。 第三条目 では ﹁入念﹂服薬等 が 強調 され 、 その 後 の 領主間 も 含 む 諸対応 が 規定 されている 。 この ﹁入念﹂服薬等 の 対処 の 背景 に 、 生類令 が 敷衍 さ れ 、﹁ 生類憐 れ み ﹂ の 思想 が 反映 し て い る こ と は 容易 に 理解 で き る 。 と は 言 え 、 無 届 け 宿送 り に よ る 病者救護 の 放棄 ︵﹁ 捨 ﹂ と 同 じ で は な い ︶を 管理 、 監督 し よ う と し て い る の で あ っ て 、 こ れ は 捨牛馬 禁止 と 同 じであろうか 。貞享四年 ︵一六八七︶ の 生類令 ︵﹃江戸町触集成﹄二五四五︶ では ﹁人宿﹂ ﹁牛馬宿﹂ と 併記 さ れているが 、旅人病人 は 人宿 と 関係 がない 。 病牛馬 と 旅人病人 は 存命 という 点 で 共通 しているものの 、旅人病人 について 本触 では 三 カ 条 にわたり 救済方法 が 規定 されており 、同床異夢 ならぬ 、同触異趣 である 。道中 という 場 における 移動者救済 の 制度整備 と 、移動﹁人﹂ 管理 の 関心 から 発 された 側面 を 見落 とすことはできない 。﹁捨﹂ の 観念 だけで 分析 するのは 危険 である 。 柴田氏 は 右元禄令 の 宿送 り は 、 各藩 に 影響 し 、 藩 に よ り 異 な っ た 対応 が あ っ た と 指摘 し︵ 加賀藩 で は 加療 の 上 、 宿 送 り 可。紀州藩 は 宿送 り 禁止 ︶、 幕府 の 一方的直線的方針貫徹 を 留保 す る が 、 そ の 面 よ り も 、 無届 け 宿送 り が 禁止 さ れたのであるから 、両藩 の 対応 はいずれもが 幕令 と 相反 するものではないことに 留意 すべきであろう 。 何 よりも 、病人保護、救済 および 死去対応 の 基本体制 が 触 れられたことにこそ 注目 すべきではなかろうか 。重要
な 基本制度 ︵骨格︶ の 成立 を 幕府 が 主導 したといってもよいかと 思 われる 。人々 の 移動 が 活発化 する 中 で 、幕府 が 旅 人病人対応 を 集約 したという 方 が 適切 かも 知 れない 。 この 体制 は 定着 し 、幕末 まで 続 く 。 ところで 、元禄令 は 東海道宿向 けの 触 であり 、 これが 五街道 に 適用 されることは 理解 されるとしても 、 そもそも 該当 する 街道 のない 藩領 がこれの 影響 をどう 受 けるのか 、具体的 な 分析 が 必要 である 。 そこで 、紀州藩 の 場合 につ いてその 影響 を 具体的 に 検討 しよう 。 ︵2︶紀州藩︵ ﹁紀伊徳川家﹂領︶ の 受容過程 現在 、 元禄元年幕令 が 紀州藩 に 受 け 容 れ ら れ 、 領内 に 伝達 さ れ る 過程 を 示 す 史料 は 、 自治体史等 を 博捜 し た 結果 、 次 の 七 つの 史料群 ︵書写、書写編纂等︶ があった 。 a本藩領日高郡 触書 ︵日高郡︶ 、﹃和歌山県誌﹄上、六八五頁 b同領同郡志賀組 ︵現由良町︶ 、楠山家﹁御用留﹂ 。﹃由良町誌 史︵資︶ 料編﹄六八〇∼六頁 c同領牟婁郡奥熊野、 ﹁郡方手鑑﹂二四 ︵奥熊野︶ 、﹃南紀徳川史﹄第十冊、五七四・五 頁 (( ( d安藤家田辺領、 ﹃田辺万代記﹄第一巻、二九七頁。 ﹃田辺町大帳﹄二、七四頁 e水野家新宮領、 ﹁新宮藩御壁書写﹂ 、﹃和歌山県史 近世史料一﹄八六九頁 f久野家領伊勢田丸領、 ﹁万歳留﹂①、 ﹃玉城町史﹄近世史料集第二巻、九 頁 (( ( g久野家領伊勢田丸領、 ﹁万歳留﹂八之巻、 ﹃玉城町史﹄近世史料集第三巻、五四六∼八 頁 (( ( (1) 柴田氏 の 解釈 柴田氏 は d と a をとりあげて 紀州藩 の 動向 を 分析 しているので 、 まずこれを 提示 す る (( ( 。 ︹史料 2︺元禄二年五月一一日道中奉行高木伊勢守書付 ︿d﹃田辺万代記﹄ ﹀ ※読点柴田 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
一 道中 ニて 拙者支配之所々 ニてハ 、病人有之候 ても 一円相送不申候、何国之旅人 ニても 煩出候節 ハ 其所 ニて 遂 養生、病人快気、独旅行可成程 ニ 候 へハ 、病人方 ゟ 証文取置、病人之心次第所 を 為致発足候、其節人 を 付為 送候義 ハ 不仕候、 一 病人有之候 ヘハ 随分致療養、五日十日之内 ハ 見合、夫過候 ヘハ 旅人之国所諸親類承書付、其所 ゟ 宿次 を 以拙 者方 へ 申越候 ニ 付、病人之地頭或 ハ 支配 へ 相届、其親類共病人 を 迎 ニ 参、病気軽重 ニ 仍 て 引取候様、只今迄 仕来候、 右之通拙者支配所 ニて 兼 て 申付置候、尤前方病人有之候 ヘハ 宿送 ニ 仕候 へ 共、前々 も 送 り 者有之、紛敷義 と も 有之 ニ 付、 透 と 為送不申候 、 御家中御内意之御書附 を 見申 、右之通 ニ 拙者支配所 へ 申付候大法為御心得書 付進候、以上、 巳五月十一日 高木伊勢守 右之通和歌山 ニて 御奉行所 ゟ 御屋敷 へ 参候由、同月廿六日参、則廿七日申渡候、 ︹史料 3︺元禄二年六月二二日触書 ︵日高郡︶ ︿a﹃和歌山県誌﹄上﹀ ※読点柴田、 ∟印 は 引用者 一 相煩候他国之旅人、他領 より 此方 へ 送 り 参候 はゝ 請取、養生為致可申候、送戻 し 申間敷候、尤其者諸親類之 名慥 に 聞届、参候者之方 より 、何国之旅人煩候 に 付送参候 と 判形之一札取可申候、国元知 れ 不申候者 にても 請取候 て 、其趣之判形取可申候、 一 送 り 参候者 に 可申聞 は 、惣 て 旅人宿送 りに 不仕筈 に 候得共、送 りにて 候間受取申候、此方 にて 養生為致、国 所 へ 戻 し 申 にて 可有之候由可申候、国所知 れ 不申者 に 候 はゝ 、此方 ニて 養生為致、気色能 も 無之候 はゝ 、其 品御役所 へ 相届申 に て 可有之 と 可申聞候 、∟右之通致挨拶候上 に て 、 彼 の 病人此方 へ 渡不申 、 召 れ ︵連︶ 可帰 と 申候 ︵安藤氏︶
はゝ 、此方 より 可申 は 、右 に 申通、請取申間敷 と 申儀 にては 曽 て 無之候、不渡申召 れ 被帰候段 は 心次第 に 候 由申、右之品 も 手形取可申候、手形仕間敷 と 達 て 申候 はゝ 、其通 に 致、送 り 参候者之名慥 に 承、右 の 趣記置 可申候、 元禄二年巳六月二十二日 柴田氏 は 、五月一一日付 の 高木書付 が 和歌山城下安藤屋敷 を 経由 して 、同二六日 に 田辺城御用部屋 に 伝達 され 、 同二七日 に 田辺 の 城下町々 に 触 れられたことを 示 し 、六月二二日 に 史料3 のような 措置 を 決定 したと 述 べている 。 この 措置 を 示 す 史料3 には 、宿送 り 人 を 連 れてきた 遣 いへの 説明 の 仕方 が 丁寧 に 記 されている 。 しかし 、 どの 部分 が 高木書付 に 対応 しているか 明確 でない 。高木書付 が 六月二二日 の 措置 に 直結 するのか 疑問 なしとはしえない 。両 者 の 間 に 飛躍 とズレがあるように 思 われる 。 具体的 に 見 ると 、冒頭傍線部﹁道中 ニて 拙者支配之所々 ニてハ ﹂ は 判然 としない 。 また ﹁旅人病人之御触 又参候 ニ 付⋮申渡候 ﹂︵ ﹃ 田辺町大帳 ﹄ 第二巻七四頁 ︶の ﹁ 又 ﹂ が 何 を 指 す の か に つ い て 触 れ て い な い︵ 五月 ・ 六月 の 連続 か 、 六月 に 他 の 触 れ が あ っ た の で ﹁ 又 ﹂ な の か ︶。 さ ら に ﹁ 御家中御内意之御書付 ﹂ と は 何 で あ ろ う か 。宿送 り が 禁止 と なったという 結論部分 は 柴田氏 の 指摘通 りであるが 、元禄元年幕府触 れが 出 されたあと 、紀州藩 での 対応 はどうで あったのか 、検討 の 余地 があるように 思 われる 。 これらの 説明 がないので 、幕府触 れ ・道中奉行書付・紀州藩触 れ の 三者 の 連続性 がわかりにくくなっている 。 今日残存 する 関係史料 ︵群︶ の 中 から 、五月一一日高木書付、六月二二日藩触 れ 、 その 他 に 分 けて 記事 を 整理 する と 、高木書付 は dfg に 紹介 されている 。六月藩触 れは b∼g に 紹介 され 、b と fg には 関連 の 記事 も 記載 されて いる 。 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
(2) 元禄二年五月一一日、道中奉行高木伊勢守書付 そこで 、情報量 の 多 い f を 基本史料 として 紹介 し︵g も 一部参照︶ 、元禄二年幕府法 の 受入 れ 、藩触 れの 領内伝達 の 過程 を 検討 する 。 まず 、元禄二年五月 の 道中奉行高木書付 は 次 のように 田丸領内 に 伝達 された 。 ︹史料 4 1︺五月一一日 覚 ︿f﹁万歳留﹂①、 ﹃玉城町史﹄ ﹀ ※読点・傍線 は 引用者 一 道 ① 中筋 拙者支配之所々 ニてハ 、病人有之候 ても 一円 送 セ 不申候、何国之旅人 ニても 煩出 し 候節 ハ 其所 ニて 遂 養生、病人 致 ② 快気、独旅行可成程 ニ 候得 ハ 、病人方 より 証文取置、病人之心次第所 を 為致発足申候、其節人 を 付送 らせ 候義 ハ 不仕候、 一 病人有之候得 ハ 随分致療養五日十日之内 ハ 見合、夫過候得 ハ 病人国所諸親類承 り 書付其所 より 宿次 を 以拙者 方 へ 申越候付、病人之地頭或 ハ 支配 へ 相届 ケ 、其親類共病人 を 迎 ニ 参、病気軽重 ニ 依 テ 引取候様只今迄仕来 り 候、 右 之 通 拙 者 支 配 所 ニ て ハ 兼 而 申 付 置 候、尤 前 方 病 人 有 之 候 得 ハ 宿 送 り ニ 仕 候 得 共、前 ニ も 送 り 者 有 之、紛 敷 儀 共有之候 ニ 付、透 と 為送不申候、 御 ③ 家老中 御内意之 御 書付候 て 、見申、右之通拙者支配所 へ 申 ④ 付 大 (候脱ヵ) 法 、為御心 得書付進候、已上、 五月十一日 高木伊勢守 前出d ﹃ 田辺万代記 ﹄ 本 と の 異同 に つ い て 見 る と 、 傍線部① ﹁ 道中 筋 拙者支配之所 々 ニ て ハ ﹂ は 、 d で は 、﹁ 道中 ニて 拙者支配之所々 ニてハ ﹂ となっており 、文意不明 であったが 、高木書付原文 では ﹁筋﹂ であり 、 この 表現 であ れば 道中奉行支配 の ﹁所々﹂=五街道 という 対象地 が 明確 となる 。 また 傍線部② は d では 脱落 している 。 これも 文 意 は 通 じてはいたが 、﹁致﹂ があった 方 が 文意明確 であり 、高木書付原文 では 傍線部② のようであったと 見 られる 。
傍線部③ は 、 d で は ﹁ 御家中 ﹂ で あ り 、 い ず れ で も 成 り 立 つ が 、 原文 に は ﹁ 老 ﹂ が あ っ た と 推測 し て お く 。﹁ 御家老 中﹂ であれば 聞 き 合 わせた 者 がより 具体的 となる 。 一方傍線部④ の ﹁候﹂ の 有無 は 解読上 の 問題 の 可能性 もあるが 、 ある 方 が 正確 な 表現 といえよう 。d が 高木書付 の 原文通 りと 見 られる 。 以上 のように 、二 つの 書写文 から 高木書付 の 原文 を 復原 できる 。 とすれば 書付 の 要点 は 、以下 の 通 りとなる 。 ︵ⅰ︶ 道中奉行支配 の 五街道宿々 では 病人宿送 りをせず 、病気 となった 場所 で 養生 させる 。 ︵ⅱ︶ 五∼一〇日療養後、回復 しない 時 は 、病人﹁国所・諸親類﹂ の 書付 を 宿継 ぎで 道中奉行 まで 報告 し 、代官・ 領主 を 通 じて 親類 に 知 らせ 、迎 えに 越 させる 、 と 命 じてある 。 ︵ⅲ︶ 以前、 ﹁紛敷儀﹂ ︵宿送 り 名目 での 病人 の 放出︶ があったので 、一切禁止 とした 。 ︵ⅳ︶ 紀伊徳川家 の 家老中 から 宿送 りについて 内々 の 聞 き 合 わせ 書付 があった 。 ︵ⅴ︶ その 書付 に 対 し 、藩領 での 心得 として 、五街道宿々 への 宿送 り 禁止措置=﹁大法﹂書付 を 示 す 。 この 道中奉行高木書付 で 示 された 二 カ 条 は 、前年一〇月 に 東海道宿々 へ 出 された 触 を 承 けたものであり 、紀州藩 の 照会以前 にすでに 東海道宿々 だけでなく 、五街道 の 宿々 も 適用対象 であるとの 認識 が 高木 にはあることが 注目 さ れる 。前年 の 触 では 無届 け 宿送 り 禁止 であったが 、 この 書付 では ﹁紛敷儀﹂ の 発生 をふまえ 、一円禁止 となってい る 。高木 の 政策 は 五街道 へ の 拡大 と 深化 が 見 ら れ る 。 わ ず か 半年 の 間 で あ る が 、 取扱 を め ぐ っ て 論点 が 生 じ た た め 、 方針 を 徹底 させることとなったのであろう 。残念 ながら 変化 をもたらした 状況 については 不詳 である 。 さて 、五街道以外 の 街道筋宿々 に 宿送 り 禁止 は 適用 されるのか 。街道筋・宿 を 領内 に 抱 える 諸藩 では 、幕法 の 病 人宿送 り 禁止 にどう 対応 するのかが 課題 となった 。高木 は 、紀州藩 からの 聞 き 合 わせに 対 し 、街道筋宿々 への 二 カ 条 は ﹁大法﹂ と 称 し 、諸藩領 の 街道筋 は 高木 の 管轄外 ゆえに ﹁御心得﹂ として 宿送 り 禁止 の 主旨 を 示 した 。﹁大法﹂ 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
と 称 したのは 、 その 主旨 が 生類令 によっており 、将軍徳川綱吉 の 意向 を 反映 しているからという 認識 によるもので あろう 。高木書付 は 事実上 の 幕法 であった 。 (3) 同年五月二二日∼二七日、田丸領内伝達 五月一一日付高木書付 が 和歌山 の 紀州藩家老 に 届 けられ 、家老衆 の 判断 をへて 、次 の 史料 のように 五月二二日奉 行衆 から 松坂城代 へ 伝達 された 。 なお 、同時 に 和歌山城下 の 安藤家屋敷 へも 伝達 された ︵前述︶ 。 ︹史料 4 2︺五月二二日 奉行衆書付 ︿同前﹀ 一筆令啓達候 、 然 は 他国之旅人御領分 ニ て 煩候節養生致 さ せ 、 其身国所 へ 参度 ト 願候者 ハ 御領分境迄送 り 出 し 、 宿送 ニて 在所 へ 送 り 遣候得共、 宿 ① 送 りニハ 不仕筈之由大坂町奉行所衆被申候 由 ニ 付、於江戸高木伊勢守殿 へ 此 方御家老衆 を 以御城付御聞合候得 ハ 、此別紙書之通伊勢守殿 より 書付御見 セ 候、就夫自今 ハ 他国旅人煩候節宿 送 リニ 不仕、 伊 ② 勢守殿御渡候書付之通 リ 為致候様 ニとの 御事 ニ 御座候間、左様御心得三領役人衆 へ 御申渡可被 成候、 一 病人之領主 へ 届候儀 ハ 東国筋 ヘハ 江戸屋敷迄、京・大坂・大津 ニ 屋敷可有之衆中 ヘハ 片岡藤兵衛・猪飼忠右 衛門方迄御申遣可被成候、 一 其 ③ 元 ハ 往還筋 ニ 候故他領 より 送 リ 参 リ 候者度々可有之候 、御領分之者 ハ 勿論請取可申候得共、 他 ④ 領之者 ニて 先々 ヘ 送候様 ニと 申来候節 ハ 請取不申戻 し 申 ニて 可有之哉、此段 ハ 未相究候間、先今迄之通 ニ 可被成候 、且 又 国 ⑤ 所不分明者之儀 も 不相極候間、追而可申入候 、恐惶謹言、 五月廿二日 玉川伊右衛門 玉井八太夫 (和歌山奉行衆)
彦坂儀左衛門 小笠原与 次 ︵ マヽ ︶ 左衛門様 差出人 の 内、彦坂儀左衛門 ︵広吉︶ は 天和三年 ︵一六八三︶ 四月 から 奉行役 であることが 確認 され 、三名 は 次 の 史料 にある ﹁奉行衆﹂ に 該当 する 。宛名 の 小笠原与左衛門 ︵義知︶ は 勢州三領 を 統括 する 松坂城代 であ る ((1 ( 。 これによると 、傍線部① の 直前記載 のように 、他国病人旅人 が 希望 した 場合、領分境送 り 、宿送 りで 在所 へ 送 っていたが 、大坂町奉行所 から ﹁宿送 り ﹂禁止 の 旨 の 指摘 を 受 けた 。 このため 江戸 で 紀州藩家老衆 ︵水野重上︶ が 高 木伊勢守 に 聞 き 合 わせたところ 、書付 を 見 せられた 。 したがって 、以後 は 高木 から 渡 された 書付 の 通 り 、﹁宿送 り ﹂ はしないこととなった ︵傍線部②︶ 。 このように 宿送 りについての 基本方針 が 確認 され 、二 カ 条 の 付記事項 が 松坂城 代 へ 申 し 渡 された 。 第一条 では 、病人在所 の 領主 が 東国 の 場合 は 紀州藩江戸屋敷 へ 届 け 、京・大坂・大津 に 屋敷 を 持 つ 領主 の 場合 は 紀州藩 の 大坂屋敷留守居猪飼等 へ 届 けるこ と ((( ( 。 第二条 で は 勢州 を 特定 し て 、﹁ 其元 ハ 往還筋 ﹂ ゆ え 、 他領 よ り ﹁ 送 リ 参 リ ﹂︵ 送出 と 請取 ︶が 頻繁 で あ る こ と を 強調 し て い る こ と が 先 ず 注 目 さ れ る 。 そ し て 宿 送 り 問 題 の 内、請 取 に つ い て は︵領 内 出 身 病 人 の 請 取 は も ち ろ ん で あ る が ︶、他 領 出 身 の 者 が 宿 送 り を 希 望 し た 場 合、請 け 取 ら ず に 戻 す の か 、否 か 。 こ の 点 は 傍 線 部 ④ の よ う に ﹁未 相 究 候﹂ とあり 、 また 傍線部⑤ のように 、出身不明 の 場合 の 処置 も 未定 であり 、追 って 指示 すると 記 されている 。 これ が 五月二二日 の 、藩 から 勢州三領 への 指示、高木書付 の 伝達 であったが 、 この 段階 で 確認 されたのは 送 り 出 しにつ いてであり 、請 け 取 りについては 未確定 であったことに 注意 しておく 必要 がある 。 ついで 、和歌山奉行衆 からの 指示、伝達 は 次 のように 田丸領六組 の 大庄屋達 に 伝達 された 。 ︹史料 4 3︺五月二五日 松坂城代・田丸領代官 の 書付 ︿同前﹀ ※∟印 は 引用者 (松坂城代) 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
一筆申達候、然 は 他国旅人煩候節送 リ 候儀、今度高木伊勢守殿 ヘ 御城附 を 以御聞合被成候品奉行中 より 申来候 ニ 付、則右書付 幷 奉行中書状写、弐通差越申候、此趣兼々為心得置可有之候、恐惶謹言、 五月廿五日 小笠原与左衛門 岡見多郞右衛門様 尚々見納候方 より 早々戻可被申候、 ∟ 右 之 通 与 次 ︵ マヽ ︶ 左衛門殿 よ り 申来候間 、 伊勢守殿書付之写 し 、 奉行衆 よ り 之状之写 し 、 与左衛門 よ り 之状共差越候 、 見被申在々 え 此之趣可被申付候、已上、 五月廿七日 岡野多郞左衛門 加藤甚左衛門殿、米山孫兵衛殿 三谷吉左衛門殿、帝釈可兵衛殿 中村三左衛門殿、堤 作兵衛殿 前半部分 ︵∟印 より 前︶ が 松坂城代小笠原与左衛門 から 田丸代官岡見多郞右衛門 への 通達文 であり 、後半部分 が 代 官岡野氏 から 領内六組大庄屋宛 の 通達分 である 。 ちなみに 、大庄屋 の 内、中村 が 記録 したのが 当史料 である 。 五月二七日 には 、五・一一高木書付、五・二二奉行衆書状、五・二五松坂城代書状、合計三通 が 田丸領内村々 へ 伝達 され 、高木書付 が 領内 に 触示 された 。田辺領 でも 五月二七日 に 町在 へ 申 し 渡 された ︵前述︶ 。 何故紀州藩 は 道中奉行 に ﹁大法﹂ を 照会 ︵﹁聞合﹂ ︶することになったか 。大坂町奉行所 からの 指摘 があったことを 述 べたが 、 それは 何故 であろうか 。 この 点 は 後 で 検討 する 。 (4) 同年六月二二日、追加措置 ︵﹁又参候﹂触︶ (松坂城代) (田丸領代官) (田丸領代官) (田丸領大庄屋) (山神組大庄屋)
元禄二年巳六月二七日、田丸領代官 が 六組大庄屋 へ 通達 した 廻状 は 次 の 通 りであった 。 ︹史料 5︺元禄二年六月二七日廻状 ︿史料4同前﹀ ※読点引用者 ︵ⅰ︶ 一筆仕達候、然 は 他国之旅人煩候節之儀 ニ 付、此別紙之趣若山奉行衆 より 申来候間、写壱通差越申候、此趣 ニ 弥御心得可被成候、 一 其者之 国所領主支配之名諸親類之名 も 不覚 へ 不申 ト 申候者 ハ 公儀 ヘ 御届 被成 ニて 有之候間、其品此方 ヘ 御 申聞可有之候、且又旅人煩候節送 リ 候儀、今度高木家守殿 ヘ 御聞合被成候品、先頃岡見多郞左衛門方 へ い ︵委細︶ さ い 申越候間、御承知可有之候 と 存候、恐惶謹言、 六月廿五日 小笠原与左衛門 大草小五郎様 ︵ⅱ︶ 覚 一 相煩候他国之旅人他領 より 此方 へ 送参候 ハヽ 請取養生為致可申候、送 リ 戻 し 申間敷候、尤其者之国所領主支 配之名、其者之諸親類之名、慥 ニ 聞届送 リ 参 リ 候者之方 より 何国之旅人煩候付、送 リ 参 リ 候 ト 判形之一札取 可申候、国所知 レ 不申者 ニても 請取候 て 其趣之判形一札取可申候、 一 送 リ 参 リ 候 者 ニ 可 申 聞 ハ 惣 而 煩 候 旅 人 宿 送 リ ニ 不 仕 筈 ニ 候 得 共、送 リ 御 越 候 間 請 取 申 候、此 方 ニ て 養 生 為 致 国所 へ 戻可申 ニて 可有之由可申候、国所知 れ 不申者 ニ 候 ハハ 、此方 ニて 養生為致、気色能 も 無之候 ハヽ 、其 品御役所 へ 相届申 ニて 可有之 ト 可申聞候、 一 右之通致挨拶候上 ニて 彼病人此方 へ 渡不申、召連可帰 ト 申候 ハヽ 、此方 より 可申 ハ 右 ニ 申候通請取申間敷 と 申 儀 ニ て ハ 曽 而 無 之 候、然 共 渡 不 被 申 召 連 被 帰 候 段 御 心 次 第 ニ 候 由、右 之 品 も 手 形 取 可 申 候、手 形 仕 間 敷 ト 達而申候者其通 ニいたし 送 リ 来 リ 候者之名慥 ニ 承 リ 、右之趣記置可被申候、 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
六月廿 五 ︵二︶ 日 ︵ⅲ︶ 如此松坂 より 申来候間、写 し 置可申欤、組々庄屋共 へ 能相心得 させ 可被申候、已上、 六月廿七日 大草小五郎 大庄屋中 こ の 廻状 の 構成 は 、 ま ず︵ ⅱ ︶の ﹁ 覚 ﹂ は 六月二二日付 け で 作成 さ れ た 和歌山奉行衆 の 書付 ︵ 表記 は 二五日 と な っ て い る が 二二日 の 誤写 ︶、 こ れ を 六月二五日付 け で 松坂城代小笠原氏 が 田丸領代官大草小五郎 に 伝達 し た 。 こ の 書付 が ︵ⅰ︶ である 。代官 は 二人制 であり 、大草 はもう 一人 の 代官 である 。︵ⅲ︶ の 部分 には 、︵ⅰ︶ ︵ⅱ︶ を 代官大草 が 六組大 庄屋 へ 伝達 した 旨 が 記 されている 。時間的 には ︵ⅱ︶ ↓︵ⅰ︶ ↓︵ⅲ︶ の 順序 で 作成 され 、山神組大庄屋中村家 の 書写記 録 として 残 った 。 ︵ⅱ︶ の 覚三 カ 条 の 内容 は 要約 すると 次 のようである 。 すなわち 、他国出身 の 旅人病人 が 紀州藩領 に 送 られてきた 場合 は 送 り 戻 さず 、受 け 取 り 養生 させる 。﹁送参候者﹂ に 、宿送 りはしないが 、﹁送 り 御越﹂ しなので 受 け 取 り 、養 生 させることを 伝 える 。 いずれも 記録 をとり 、送 り 方 の 手形 をとる 。若 し 連 れて 帰 るとなった 場合、請取 を 拒否 し たのではない 旨 の 相手方手形 を 取 ること 、 もし 相手 が 押印 してくれない 場合 は 、 その 経過 を 記録 することなど 、詳 細 な 手続 きが 示 されている 。宿送 りしない 原則 の 明示、眼前 の 病人 の 養生、連 れ 帰 りは 請取拒否 ではないことの 周 知 などの 考 え 方 が 読 み 取 れるが 、五・一一幕法 の 精神 に 違犯 しないよう 、 また 疑 いが 生 じないよう 配慮 しているこ とがわかる 。 こ の 条 文 は 、五 月 二 二 日 の 奉 行 衆 書 付︵史 料 4 2︶の 方 針 未 定 課 題︵送 り 戻 し の 件、傍 線 部 ④︶ に 対 応 す る も の で ある 。 この 補足的追加措置条文 のみが 旅人病人対応法 のごとく 伝 えられているが 、本末 が 転倒 した 感 は 否 めない 。 つ い で 、 六月二五日付 ︵ ⅰ ︶を 見 る が 、 こ れ よ り 先 に 六月二二日付 の 和歌山奉行衆書付 を み て お こ う 。 こ の 書付 は 、
﹁旅人宿送村送等 ニ 不致筈之究 り 延宝八年申五月 より 之留﹂ と 題 する 冊子 ︵史料群 g︶に 掲載 され 、 その 冊子 が 明 和四年 ︵一七六七︶ 継 ぎ 送 り 公認 の 際 に 書写 された 記録 の 一部 に 含 まれることとなった 。 ︹史料 6︺元禄二年六月二二日 和歌山奉行衆書状 ︿﹁万歳留﹂八之巻、 ﹃玉城町史﹄ ﹀ 一病人他領 より 送参候節之儀、 委 ① 細別紙 ニ 書付進候 間、此趣三領役人中 え 御申渡可被成候、 一 其者之国所領主支配之名・諸親類之名 も 覚 ② 不申候 と 申者 ハ 、公儀 え 御届 被成候 て 可有御座候間、其度々 ニ 此 方 へ 御申越可被成候、恐惶謹言、 六月廿二日 奉行三人 小笠原与左衛門様 和歌山 の 奉行衆 から 松坂城代小笠原 に 宛 てた 書状 である 。差出人﹁奉行三人﹂ はおそらく 前出 の 玉川伊右衛門・ 玉井八太夫・彦坂儀左衛門 であろう 。本文第一条目 の ﹁委細別紙 ニ 書付﹂ は 上述 の 史料5 ︵ⅱ︶ の 三 カ 条 をさし 、 こ れを 勢州三領 に 伝達 することを 求 めている 。 また 第二条目 は ﹁国所領主支配之名・諸親類之名﹂ を 覚 えていない 者 については 公儀 ヘ 届 けるので 、此方 ︵和歌山奉行衆︶ に 知 らせるよう 指示 している 。 すなわち 、五月二五日段階 では 方 針 未 確 定 の 二 課 題 で あ る 、送 り 戻 し 問 題 と 国 所 等 不 覚 者 取 扱 問 題︵史 料 4 2傍 線 部 ④ ⑤︶ へ の 対 処 方 法 が 六 月 二 二日 に 二回 にわけて 示 されたのである 。 さて 、史料 5︵ⅰ︶ はこの 奉行衆 からの 指示 をふまえ 、六月二五日 に 松坂城代 が 田丸領代官 に 別紙 ︵三 カ 条︶ と 国所 等不覚者対応 を 伝達 した 。国所等不覚者対応 は 追記 する 形 となっているのは 、別紙 ︵三 カ 条︶ が 詳細 であったこと 、 またその 決定 の 後 に 国所等不覚者対応策 が 決 められたことによると 理解 される 。 さらに 史料5 ︵ⅲ︶ は 、 これらの 内容 を 六月二七日、田丸領代官 が 領内大庄屋 ︵六人︶ に 伝達 するよう 指示 したもの である 。 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
以上 のような 経過 を 経 て 、藩 の 旅人病人対策 の 方針 は 勢州田丸領 に 触 れられ 、伝 えられた 。 (5) その 後 の 追加措置 六月二七日 から 二週間後 の 七月一一日付 で 次 のような 廻状 が 出 された 。 ︹史料 7︺元禄二年七月一一日 廻状 ︿史料4同前﹀ 一筆申入候、旅人煩候節之品若山 より 申参候由 ニて 、従松坂如此申来候、写置被申、村々庄屋肝煎共 へ 相心得 居申候様 ニ 可被申聞候、 一 旅人煩出仕候節、 早速 城主 幷 領主・御代官下 ニて 候 ハハ 、何 れも 之 名 ヲ 聞届 申様 ニ 可被申付候、已上、 七月十一日 大草小五郎 三谷吉右衛門殿 中村三左衛門殿 帝釈嘉兵衛殿 堤 作兵衛殿 米山孫兵衛殿 加藤甚左衛門殿 尚々早々廻 し 被申見、納候方 より 返 し 可被申候、 松坂城代 から 田丸領代官 に 、和歌山 ︵奉行衆︶ から 一 つ 書 きの 内容 が 伝達 されたので 、各大庄屋管轄下 の 庄屋 に 写 置 き 、 心得 さ せ よ 、 と い う 主旨 で あ る 。 そ の 伝達内容 の 眼目 は 、 旅人病人 が 生 じ た ら 、﹁ 早速 ﹂︵ 第一番 に ︶に 支配 の ﹁名 ヲ 聞届﹂ けることにある 。六月二二日 の 旅人病人対応策 では 、送 り 戻 しや 国所等不覚者対応 に 集中 し 、最 も 肝 心 な 領主・代官等支配 の 名 を 聞 き 出 すことが 曖昧 になった 嫌 いがあったのであろう 。 この 点 を 強調 した 指示 が 後追 いでなされたものと 推測 される 。 さらに 同年一〇月 に 次 のような 触 が 出 されている 。
︹史料 8︺同年一〇月 和歌山奉行衆﹁覚﹂ ︵附紙︶ 一 ① 国所不分明病人有之節者、此方 へ 其品御申越可有之候、 一 ② 何国 ニても 諸親類慥 ニ 迎 ニ 参 リ 候 ハハ 、領主支配 へ 之届 ニ 不及候、手形取置相渡申筈、且又病人 を 往来之者 見合能存候 ニ 候 とて 早速病人之在所 へ 知 せ 、与風迎 ニ 参候時 も 手形取置渡申筈、 一 ③ 早速可被快気病人 ハ 兼而見 斗 (計) 領主支配 へ 之届、先 ツ 延引可成程 ハ 領主支配 ヘ 届不申、 あとにて 国所 ヘ 帰 リ 候 様、病気重 リ 長引�角近々可帰体 ニ 不見病人 ハ 無是非候故、領主支配 へ 届、迎 ニ 参候 て 遣 し 申積 リニ 候、病 人達者 ニ 成時分 ニ 可参 ト 申者有之節 ハ 、一札取遣 し 其旨又領主支配 へ 届申筈、 一 ④ 病人領主支配 へ 附届致候節々飛脚之者入用 幷 医師 へ 取 セ 候金子、且又病人扶持方賄之儀過料金之内 ニて 出申 筈、 この 触 は 元禄二年段階 の 記録 ︵史料群f︶ では 年月不詳 であるが 、明和段階 で 代官 から 示 された 一冊﹁旅人宿送村 送等 ニ 不致筈之究 り 延宝八年申五月 より 之留﹂ ︵史料群g︶ に 収録 され 、本文末 に ﹁右之通元禄二年巳十月、和歌 山奉行衆 より 申来、三領役人中 へ 与左衛門宅 ニて 被申候﹂ と 記 されている 。 この 記載 によれば 上述 の 六、七月 から 数 カ 月経 った 十月 に 和歌山奉行衆 から 触 れ 出 されたという 事情 がわかる 。 ちなみに 松坂城代小笠原与左衛門宅 で 披 露、伝達 されたのであるから 、 この 記録 ︵冊子︶ 作成者 は 田丸領代官 と 推測 される 。 その 内容一条目 は 、五月二二日段階 では 宿題 であった ﹁国所不分明病人﹂取扱 について 、六月二二日 の 結論部分 ︵﹁ 此方 ﹂ =和歌山奉行 へ の 届 け ︶を 要約 し て い る 。第二条目 は ﹁ 諸親類慥 ニ 迎 ﹂ に 来 る 場合 、 相手領主 へ の 届 け は 不 用 であること 。病人 の 知 り 合 いが ﹁在所﹂ ︵出身地︶ へ 知 らせ 、︵諸役所 を 経由 せず ︶迎 えが 来 た 場合 いずれも 手形 を 取 り 置 くことと 指示 している 。 第三条目 では 回復 の 兆 しのある 病人 については 相手領主 への 届 けは 留保 し 、長引 く 場合 に 届 けること 。回復期 に 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
迎 えに 来 る 場合、 その 経過 を 相手領主 へ 届 けることが 示 されている 。第四条目 では 、相手領主 への 連絡 に 要 する 飛 脚賃、医師費用、病人扶持方費用 は ﹁過料金﹂ から 出費 するようにとの 指示 である 。 第一条∼第四条目 は 総 じて 、旅人病人対応 の 現場 で 起 きる 諸事情 へのより 具体的、 より 詳細 な 対応方法 が 示 され ている 。六月 の 指示 ︵原則︶ に 加 え 、一〇月 にはより 実際的 な 措置 ︵取扱細則︶ が 示 された 。 このように 紀州藩 の 方針 は 元禄二年 の 五月 から 一〇月 に 掛 けて 、実際的 な 細部 の 対応 を 押 さえながら 半年掛 けて 確立 された 。 次 の 史料 は 、紀州本藩領牟婁郡 ︵奥熊野︶ 尾鷲 の 大庄屋御用留 に 記 された 、宝永七年 の 幕府巡見使対応 の 便覧 の 一 部 であ る ((1 ( ︹史料 9︺宝永六年幕府巡見使対応覚 一 旅人煩出 し 候節之儀御尋被遊候 ハヽ 、旅人煩出 し 候節 ハ 医者 を 付介抱仕、若山 へも 注進仕、国所知 れ 申候得 者 付届 ケ 致 し 候 と 可申上候、 元禄二年 に 確立 した 方針 が 簡潔 に 述 べられており 、領内隅々 に 徹底 された 姿 が 窺 える 。 (6) 勢州 と 紀州 の 違 い -小括 - 以上勢州田丸領 での 旅人病人取扱対応 ︵法制︶ を 見 てきたが 、紀州各地 の 状況 と 比較 しておきたい 。 まず 先 に 述 べた 六月二二日付 の ﹁覚﹂ についてみておこう 。 これは 史料群a ︵史料 3︶b∼f ︵史料5 ︵ⅱ︶ ︶の 形 で 今日 に 伝 え ら れ て い る 。a ・ f を 除 き 、 各項 ︵ 一 つ 書 き ︶の 冒頭 の 一行 の み を 紹介 す れ ば 以下 の 通 り で あ る 。︵ 読点 は 引用書 のマヽ ︶ ︹史料 10︺
b本藩領日高郡志賀組 ︵現由良町︶ 、楠山家﹁御用留﹂ 一相煩候他国之旅人他領 ゟ 此方 へ 送参候 ハハ 請取養生致 させ 可申候送戻 し 申間敷候、… 一送参候者 ニ 可申聞 は 、惣 而 旅人宿送 ニ 不仕筈 ニ 候 へ 共送 り 越候間請取申候、… 一右之通致挨拶候上 ニ 而 彼病人此方 へ 渡不申召可帰 と 申候 ハハ 此方ゟ可申候、… c本藩領牟婁郡奥熊野 ︵木之本代官所支配︶ 、﹁郡方手鑑﹂二四 一他国 より 病人之旅人此方 へ 送 り 来 り 候者受取養生為致可申送 り 戻 し 申間敷候、… 一送 り 参候 ものに 可申聞 は 総 て 煩人旅人宿送 りに 不致筈 にて 候 へ 共送 り 越 に 付受取申候、… 一右之通請取申間敷 と 申儀 にては 曽 て 無之候然共渡不申召連帰 り 可申段 は 心次第… d安藤家田辺領、 ﹃田辺万代記﹄第一巻 一相煩候他国之旅人他領 ゟ 此方 へ 送参候 ハヽ 請取養生致 させ 可申候、送戻申間敷候、… 一送参候者 ニ 可申聞 ハ 、惣 て 煩候旅人宿送 りニ 不仕筈 ニ 候 へとも 送御越候間請取申候、… 一右之通致挨拶候上 ニ 而 彼病人此方 へ 渡不申召可帰 と 申候 ハヽ 、此方 ゟ 可申 ハ … e水野家新宮領、 ﹁新宮藩御壁書写﹂ 一相他国之旅人他領 より 此方 へ 送 り 参候 ハ 受取養生為致可申候、送 り 戻申間敷候、… 一送参候者可申聞 は 、惣 而 煩候旅人宿送不仕筈候得共、送 り 御越候間受取申候、… 右之通致挨拶候上 ニて 彼病人此方 へ 渡不申召連可帰 と 申候 ハヽ 、此方 へ 可申 ハ … これらを 比 べてみると 、c の 冒頭・三条目頭 には ﹁相煩候﹂ や ﹁致挨拶﹂ が 脱落 しているが 、 これは 編纂書記事 の た め と 見 ら れ る 。a ∼ f の 内 、 変形 の や や 多 い c を 除 け ば 、 他 の 伝本 は ﹁ ニ て ﹂ や ﹁ 請 ﹂ 等 の 表記 、﹁ 候 ﹂ の 有無 などは 異 なっているが 、 これらの 違 いは 原文 が 書写 される 過程 で 転形 したものと 推測 される 。 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
要 す る に 、六月二二日 ﹁ 覚 ﹂ は 和歌山奉行衆 か ら 全領内 に 触 れ 伝 え ら れ た こ と が 確認 さ れ る 。 ち な み に 、史料 5︵ ⅱ ︶ の 日付 は 六月二五日 となっているが 、 これが 誤写 であることは 間違 いな い ((1 ( 。 ところで 、勢州三領 での 伝達 と 紀州各地 への 伝達 に 差異 はないであろうか 。六月二二日 の 藩触 れを 田辺領 に 触 れ た 際、田 辺 町 役 人 の 記 録 に は ﹁六 月 廿 二 日、旅 人 病 人 の 御 触 状 又 参 候 ニ 付 丁 々 へ 申 候﹂ ︵史 料 群 d﹃田 辺 町 大 帳﹄ 二、七四頁︶ とあり 、 また 新宮領 に 触 れた 際 には 、触 れ 末尾 に︵六月二九日付、新宮領地方奉行発︶ ﹁旅人煩之義 最前 も 申触 候得共、 此度又和歌山 より 被仰越﹂ れたと 記 されている ︵史料群e﹁壁書写 し ﹂︶ 。後者 では 、﹁最前﹂ もあり ﹁此度又﹂ との 表現 からは 、相互 の 関連等 が 能 く 理解 されていない 様子 がうかがえる 。触 が 伝達 された 二 つの 支配 領単位 では 、無理解 や 若干 の 混乱 があったのではなかろうか 。 日高郡 ︵志賀組︶ に 触 れが 伝達 された 際 には 、次 のような 追記 を 郡奉行 が 書 き 加 えていた 。 ︹史料 11︺ ︿志賀組楠山家﹁御用留﹂ ︵史料群b︶ ﹀ 他 国 之 旅 人 煩 候 者 ヲ 他 領 ゟ 送 参 候 節 之 書 付、別 紙 壱 通 指 越 候、 御 領 分 ニ 而 煩 出 し 候 者 ハ 最 前 之 書 付 之 通 ニ 候、 此御書付 ハ 他国 に 而 煩出 シ 候者 ヲ 他領 ゟ 送参候節之事 ニ 而 候間、 不紛様 ニ 可被申付候、以上、 す な わ ち 、 御領分 ︵ 紀州藩領 ︶で 発病 は ﹁ 最前之書付之通 ﹂、 こ の︵ 六月二二日 ︶書付 は 、 他国 で 発病者 を 他領 か ら 紀 州藩領 へ ﹁ 送参候節之事 ﹂ で あ っ て 、﹁ 不紛様 ニ ﹂ と 二回 の 区別 を 明確 に 指示 し て い る 。 こ の 郡奉行 の 判断 は 要点 を 押 さえているが 、全体 としてかなりの 混乱 していたのではないかと 推測 される 。史料 10a∼f の 関 わる 地域 は 紀伊 国 の 範囲 で 、他 の 領主 の 領地 と 隣接 していない ︵街道筋 では 直接 つながっていない ︶。 このような 地域 では 、普通 に は 緊張感、実感 がないのは 当然 であろう 。 ところで 、 そもそも 五月一一日 の 道中奉行高木 からの 書付 が 必要 となったきっかけは 、 すでに 述 べたように 、大 坂 町 奉 行 衆 か ら の︵幕 府 方 針 と 齟 齬 す る と い う ︶指 摘 で あ っ た︵史 料 4 2︶。何 故、大 坂 か ら の 指 摘 が あ っ た の で あ
ろうか 。 前述 の よ う に 、 和歌山奉行衆 は 松坂城代 に 対 し て ﹁ 其元 ハ 往還筋 ニ 候故他領 よ り 送 リ 参 リ 候者度 々 可有之候 ﹂︵ 史 料 4 2︶と 述 べ 、 藩領 の 他地域比 べ ﹁ 送 リ 参 リ ﹂ が 頻繁 で あ る こ と を 指摘 し て い る 。紀州 の 伊勢街道 は 、 和歌山城 下 と 松坂 を 結 ぶ 紀 ノ 川沿 いの 街道 を 指 すが 、勢州 では 、津︱松坂︱伊勢山田、北 からの 街道 ︵東海道 にもつながる ︶ を 指 し 、 この 他松坂︱伊勢山田 には 大坂 から 奈良 を 通 り 、長谷寺︱宇陀︱名張︱伊賀神戸︱松坂 という 初瀬街道 も 通 じている 。大坂 と 松坂 を 念頭 に 置 くと 、 この 初瀬街道 における 宿送 りが 問題 となった 可能性 が 高 い 。 ちなみに 紀 州藩領 ︵紀伊国︶ が 、基幹街道筋 で 他領他国 と 接 しているのは 、 まず 和泉・紀伊 を 通 る 熊野街道、大和・紀伊 を 通 る 伊勢街道 ︵ 後 に 大和街道 ︶の み で あ り 、 他 に 河内 ・ 紀伊 を 通 る 高野街道 が あ る 。大坂町奉行所 は 摂津 ・ 河内 を 管轄 し 、 和泉 は 管轄外 である 。高野街道 の 可能性 は 無 いことはないが 、松坂 の 位置 を 考 えると 上記 の 結論 に 到 るであろう 。 紀州藩 は 大坂︱松坂︱伊勢 をつなぐ 街道 を 領内 に 含 んでおり 、隣宿 への 旅人病人継 ぎ 送 りが 生 じていたと 見 られ 、 幕府規制 の 対象 となる 必然性 を 抱 えていたと 理解 される 。 大坂町奉行衆 からの 指摘 は 対領外問題 であり 、法制度 が 整 えられたが 、領内 においても 旅人病人 を 療養 させる 、 送 り 出 さないという 大原則 が 確立 された 点 も 注目 される 。奥熊野 ︵木之本代官所支配︶ 地方支配 で 用 いられた ﹁郡方 手鑑﹂ には 、六月二二日﹁覚﹂ の 後 に︵一体化 して ︶次 の 文言 が 付 け 加 えられている 。 ︹史料 12︺ 一 旅人煩候節 は 病人又 は 同行有之候 はゝ 其者共 へ 相尋、諸親類之名国所領主支配之名委細 に 書付為出、若山 へ 可相達事、 一 御領分之 もの 御領分 にて 煩出候節 は 其所聞、先々郡奉行迄書状遣 し 、親類 または 所 の 者迎 に 罷越候様可致、 平 に 病人送 り 申事不仕筈 、 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
第一条・第二条 は 和歌山 へ 届 け 伺 う 場合 と 、郡奉行・代官 の 範囲 で 処理 する 場合 の 区別 が 明記 されているが 、傍 線部 が 最終 の 結論部分 である 。 この 二 カ 条 には 、田丸領 で 確認 された 半年間 に 追加 して 出 された 指示 の 、結論部分 が 簡潔 に 要約 されているといえる 。 紀州各地 では 、五月∼一〇月 にかけての 半年間 の 和歌山奉行衆 の 触 れが 田丸領 のように 丁寧 に 逐条的 に 書 き 残 さ れることはなかったが 、奥熊野 では 、 その 要点 は ﹁手鑑﹂ ︵ マニュアル ︶化 して 伝 えられた 。 それは 緊張度 がより 弱 くてすんだことの 表 れであろう 。奥熊野 ではこのような ﹁手鑑﹂ に 痕跡 が 残 ったが 、他 の 郡、他 の 領 でそれすら 残 っていない 。 これは 全般的 な 史料記録 の 消滅 によるものか 、旅人病人問題 の 扱 い︵法制︶ に 地域的 な 差 があったこと によるのか 。 なお 疑問 は 残 る 。結論 は 留保 し 、今後 の 検討課題 としたい 。 最後 に 、高木書付以前 の 状況 について 一言触 れておく 。日高郡志賀組楠山家 の ﹁御用留﹂ ︵史料群b︶ には 貞享五 年︵一六八八︶ の 次 のような 記事 が 掲載 されている 。 ︹史料 13︺ 尾 州 之 者 御 領 分 へ 参 相 煩 歩 行 不 成 候 由 申 候 ハ ハ 、尾 州 ニ 而 ハ 何 郡 何 村 之 者 ニ 而 候 哉、其 所 之 代 官・郡 奉 行・大 庄 や 之名承置候様 ニ 御申付可有候、已上、 貞享五辰 九月廿九日 右別紙書付之通御奉行衆 ゟ 御申越候間、各触下在々 へ 可被申付候、已上、 十月 戸塚右衛門作 三倉貞右衛門 尾州 の 旅人 が 紀州藩領内 で 病気 となった 場 合 ((1 ( 、尾州徳川藩 の 郡名・村名 および 支配代官 や 大庄屋等 を 聞 き 出 すよ う 指示 されている 。 これが 交流 のある 尾張徳川家領 の 場合 だけなのか 、 その 他 の 場合 も 視野 に 入 っているのか 不詳
である 。 ともあれ 、病人 の 場合 に 限定 した 触 れが 出 されたのは 、前年正月 に 出 された 生類令 の 影響 であろ う ((1 ( 。 ただし 、領外 からの 移動者 について 、 その 出身地 を 確 かめることは 普遍的一般的 であり 、一般原則 によって 対応 が 行 われたと 理解 される 。 ちなみに 、尾張徳川家 への 連絡 は 京都屋敷 を 通 じて 行 われたとみられる 。 楠山家 の ﹁御用留﹂ には 、史料 11に 続 いて 次 の ﹁覚﹂ が 掲載 されている 。 ︹史料 14︺ 他国之旅人煩候節 は 今迄之通養生致、其者之国所領主支配方之名諸親類之名慥 ニ 聞届、具 ニ 書付御出 し 可有之 候、已上、 五月廿二日 右之通御奉行衆 ゟ 廽状 ニ 而 申来候紙面之通委細相心得居候様 ニ 在々不残触知 せ 可被申候、已上、 五月廿二日 三倉貞右衛門 戸塚右衛門作 ﹁元禄元辰﹂ との 記載 は 原文書 にはなく 、転写過程 で 後 から 書 き 込 まれたもので 、元禄二年 と 推定 される 。 さて 本文 は 、和歌山奉行 が 触 れたもので 、郡奉行二名 から 志賀組大庄屋 ︵楠山家︶ に 伝達 されたが 、他 には 見 られない 触 で あ る 。 と は い え 、 こ の 内 容 は 田 丸 領 で 五 月 二 二 日 に 触 れ ら れ た 内 容︵史 料 4 2傍 線 部 ④ ⑤︶ と 整 合 的 で あ る 。 す なわち 旅人病人 を 他領 から 送 って 来 た 場合、方針未定 なので ﹁先今之通 ニ 可被成候﹂ とある 。 この ﹁今通﹂ は 請 取 の 可 否 で あ る が 、今 は 受 け 取 っ て い た の で あ る か ら 、﹁今 之 通 養 生 致﹂ は 必 然 的 に 伴 っ て い た と 理 解 さ れ る 。和歌山奉行衆 は 同 じ 五月二二日 に 、田丸領 とは 異 なった 形︵簡略 な 指示︶ を 出 していたこととなる 。 これは 重要 な 問題 につながる 。 そもそも 伊勢三領 へは 松坂城代 に 宛 てた 半年 に 及 ぶ 一連 の 措置、 それに 関 する 和 歌山奉行所 か ら の 詳細 な 指示伝達 は 、 紀州 の 藩領全体 に も 触 れ ら れ た の で あ ろ う か 。松坂城代宛 の 書付 と は 別途 に 、 「元禄元辰」 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
事情 に 応 じて 紀州 の 領地 には 比較的簡略 で 結論的 な 書付 だけが 伝達 されたのではないかという 疑問 が 生 じる 。結論 は 留保 せざるを 得 ないが 、 その 可能性 を 指摘 しておきたい 。 また 、紀州徳川家領 ︵勢州 を 含 む ︶では 、高木書付以前 から 旅人病人 を︵法制 として ︶﹁養生﹂ することにしていた 。 これが 貞享四年 ︵一六八七︶ 正月 の 生類令 によるものか 、 それ 以前 の 方針 かについても 今 のところ 確定 できない 。今 後 の 検討課題 とする 。 ニ 幕府法明和四年「旅人手形、病人継ぎ送り令」の受容 ︵ 1︶幕府法 と 柴田説 明和四年 ︵一七六七︶ 一二月、幕府 は 旅人病人 の 取扱 に 変更 を 加 えた 。 ︹史料 15︺明和四年一二月 幕府触書 ︿﹃徳川禁令考﹄前集三五三四﹀ 東 海 道 中 山 道 甲 州 道 中 日 光 道 中 奥 州 道 中、右 宿 々 旅 籠 屋 ハ 勿 論、脇 往 還 其 外 村 々 ニ 而 宿 を 取 候 旅 人 煩 候 ハ ヽ 、 其 所 之 役 人 立 合、医 師 を 掛、療 養 を 加 置、其 旨 御 領 ハ 御 代 官、私 領 ハ 領 主 地 頭 江 相 届、五 海 ︵街︶ 道 ハ 道 中 奉 行 江 も 宿 送 り を 以 致 注 進、右 旅 人 早 速 快 気 無 之 趣 に 候 ハ ヽ 、其 も の 在 所 之 村 役 人 等 江 申 遣、親 類 呼 寄、対 談 之 上 可 任 存 寄、若 療 養 も 不 加、宿 継 村 継 抔 ニ 而 送 候 儀 顕 ニ お ゐ て ハ 、五 海 ︵街︶ 道 は 旅 籠 屋 問 屋 年 寄、其 余 之 村 々 ハ 致 宿 候 も の 村役人共 え 急度御仕置可申付候、 一 右之外、 通 り 掛相煩候旅人 も 、其所之役人立合、医師 を 掛療養 を 加、勿論 懐中 ニ 往来手形有之候哉相糺 し 、 御領 ハ 御代官 、 私領 ハ 領主地頭 江 致注進 、 右病人早速快気無之趣 ニ 而 、 在所 江 帰度候得共 、 路用貯無之間 、 送 届 呉 候 様 申 候 ハ ヽ 書 付 取 之、 ︵中 略︶ 所 役 人 共 得 と 遂 相 談、右 病 人 願 之 趣 認 相 添、 次 村 江 駕 籠 ニ 而 送、夫 よ り
次之村 ニ 而 も 、宿人之様子次第服薬為致、同様取扱、在所 江 可返遣候 、︵中略︶ 、 一 途中 ニ 而 相果 候 ハ ヽ 、 次村 江 不継送 、 支配之役所 江 致注進 、 其所 ニ 而 仮埋置 ニ 致置 、 其者之在所親類村役人江 掛合候上、其所 ニ 葬候共望 ニ 任 へし 、︵中略︶ 右之通相心得、万一 療養 も 不加 、或 ハ 内々 ニ 而 於継送 ハ 、是又急度御仕置可申付候、 ︵以下略︶ 主文 では 、宿 で 病気 になったら 、療養 させ 、出身地・国元 へ 連絡 し 、回復 しない 時 は 親類 を 呼 び 寄 せるなど 、従 来 の 対 処 法 を 確 認 し 、療 養 を 加 え な い 宿 送 り 村 送 り を 厳 禁 し て い る 。次 の 一 つ 書 き で 、﹁通 り 掛﹂ の 旅 人 病 人 の 場 合 、 や は り 療養 を 加 え た 上 で 、 快気 せ ず 、 本人 が ﹁ 送届呉 ﹂ れ と 希望 し た 場合 、﹁ 次村 江 駕籠 ニ 而 送 ﹂ り 、 そ の 次 の 村 も 同様 にして 在所 へ 送 り 返 すことを 認 めた 。 ただし 、病人 の 遺棄 につながらないよう 、継村 において 服薬 を 義務 付 けている 。往来手形所持 の 確認 も 義務付 けられている 。二 つ 目 の 箇条 には 途中 で 死去 した 場合 は 継 ぎ 送 らないと 規定 し て い る 。 な お 、 継 ぎ 送 り 等 の 場合 、﹁ 書付 ﹂ 作成 が 義務付 け ら れ て い る こ と も 注目 さ れ る 。 な お 、 費用負担 に ついては 割愛 する 。 この 触 れでは 、元禄二年令 で 確認 された 医師加療、在所連絡、療養 なき 宿村継送 り 厳禁 を 継承 しつつも 、往来手 形確認、薬服用 の 村継 ぎ 送 りが 許可 された 。村継 ぎ 送 りが 許可 されたことのみを 以 て 、元禄二年令 が 全面否定 され たということではない 。 この 法令 の 対象 は 五街道 に 限定 されているが 、広 く 適用 される 可能性 を 孕 んでいた 。言 い 換 えれば 、諸街道 を 抱 える 藩領 ではこれをすぐそのまま 受 け 容 れることは 命 じられておらず 、 どう 受 け 止 め 、対応 するかについては 諸藩 に 裁量幅 があったということである 。 柴田氏 は こ の 明和令 に つ い て 次 の 諸点 を 強調 す る 。 す な わ ち 、 明和令 で 、 ①旅行難民 の 半強制的遺棄 が 禁止 さ れ 、 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
②﹁脇往還其外之村々﹂ へ 拡大、③費用 は 宿割・村割 と 明記 された 。④ この 段階 ︵一八世紀後半︶ 庶民 の 旅 がふえ 、 ﹁現実的対応 が 不可避﹂ となった 。⑤往来手形 は 明和令 で 実現 ︵一八世紀半 ば 頃原型成立︶ した 。⑥﹁明和令 が 出 さ れ 、宿継 ぎ 村継 ぎ 規定 と 往来手形携帯規定 とが 結合 され 、 パスポート 体制 が 成立 す る ((1 ( ﹂。 江戸期 の ﹁ パ ス ポ ー ト 体制 ﹂ を 承認 す れ ば 、 明和令 の 規定 が 注目 さ れ る が 、 往来手形 の 有効性 ︵ な い 場合 の 不利益 の 相対性 ︶、 往来手形 の 身分保護 ︵ 逆 の 排除性 ︶は 明和令 の 意図 す る と こ ろ か 、 そ も そ も 元禄二年令 か ら 旅人病人 の 保 護 は 図 られていたのではないかなど 検討 すべき 課題 があるようにも 思 われ 、氏 の 体制論 への 評価 は 留保 しておきた い 。 ここでは 、元禄令 につづいて 、幕令 が 藩法 に 及 ぼした 影響 を 、紀州藩 の 場合 について 具体的 に 見 ておくことに する 。 ︵2︶紀州藩 における 明和四年幕令 の 受容 (1) 勢州三領 明和八年 の 動 き 明和四年 ︵一七六七︶ 一二月 の 幕令 に 関 わる 動 きは 、次 に 述 べるように 明和八年 と 一二年後 の 安永八年 ︵一七七九︶ であった 。 この 事実 を 知 ることができるのは 、元禄二年 と 同様、勢州田丸領 に 残 された 記録﹁万歳留﹂ の 記 事 ((1 ( によ ってである 。 まず 明和八年 の 田丸領代官 の 廻状 を 見 よう 。 ︹史料 16︺明和八年田丸領代官廻状 ︿﹁万歳留﹂八之巻二七﹀ ※読点引用者 ︵ⅰ︶ 得能仁左衛門方 より 別帳 幷 古屋十郎太夫方 より 之書状共指越候、右 は 急々白子 へ 廻 し 可申 と 存候間、留控相済 候 ハハ 早々返可被申候、以上、
六月廿一日 山田文左衛門 大庄屋中 右之通被仰聞候付、別紙両通・ 別帳 共写指進申候、已上、 六月廿二日 三谷吉左衛門 加藤 中村 向井 堀本 古沢 ︵ⅱ︶ 旅人病気 ニ 付宿送村送等之儀付、廻状之通得能仁左衛門方 より 申来候付、右一通・ 別帳一冊 共致順達候、尤承 知之返 書 三銘 ︵名︶ ニて 相済申候、別帳御見納 より 御返 し 可被成候、已上、 六月廿日 古屋十郎太夫 山田文左衛門様 小関新左衛門様 尚々早々御廻 し 被成候様 ニと 存候、已上、 ︵ⅲ︶ 旅 人 病 気 付 宿 送 村 送 等 之 儀 付、 前 ① 々 よ り 三 領 相 通 有 之 品 見 合、 申 ② 品 有 之 付 申 越 候 処、先 達 而 御 申 出 候 趣 ニ 候 得 ハ 、元禄二巳年三領 へ 相通有之趣 今 ③ 以在中 ニも 心得居候 事候 ヘハ 、 弥 ④ 其通相守候様 、猶 往 ⑤ 還筋村々 役人共 へ 別 ⑥ 帳 写之趣御申付候様可相通旨、蜂谷七左衛門方被申聞候付、 右 ⑦ 帳面壱冊 指越申候、已上、 六月廿日 得能仁左衛門 古屋十郎太夫様 山田文左衛門様 (田丸領代官) (田丸領大庄屋) (田丸領大庄屋) (松坂代官) (田丸代官) (白子代官) (勢州奉行) (松坂代官) (田丸代官) 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
小関新左衛門様 尚々、本文旅人病気 ニ 付旅行難致候得 ハ 、地頭或支配 え 相届候元極之趣 ニ 候得 ハ 、右体病人有之候 ハハ 随分養 生致遣、若 病 ⑧ 気大切成様子 ニて 下 ニて 取扱難成候得 ハ 、極之通地頭支配 え 相届候儀、早速断出候 様、 此段 ニも 可相通旨、七左衛門方被申聞候付申越候、且又本文・ 帳面 御順達候 ハハ 追 て 御戻可被成候、以上、 ︵ⅳ︶ ︵表紙︶ 上書 旅人宿送村送等 ニ 不致筈之究 り 、延宝八年申五月 より 之留 ︵以下本文略︶ ︵ⅰ︶ ∼︵ⅲ︶ は 明和八年六月 に 発給 された 文書 の 写 しであるが 、④ は 明和八年 に 回覧 された 冊子 の 記事 で 、冊子 の 内容 は 元禄二年 の 文書 を 書写 したものである ︵ すでに 前章 で 検討 した ︶。表紙文言 のみ 掲載 した 。 ︵ⅰ︶ ∼︵ⅲ︶ は 発給 された 日付・人名 からみると 、︵ⅲ︶ ↓︵ⅱ︶ ↓︵ⅰ︶ の 順番 に 通達 された 。 したがって ︵ⅲ︶ からそ の 内容 を 見 てゆく 。︵ⅲ︶ は 勢州役 ︵勢州奉行︶ である 得能仁左衛 門 ((1 ( が 三領代官 に 宛 てた 書状 である 。 なお 、勢州奉行 は 松坂城代 の 下 で 三領 の 政務 に 従事 した 役人 であ る ((1 ( 。 さ て 、︵ ⅲ ︶の ﹁ 旅人病気付宿送村送等 ﹂ の 触 れ の 主文 は 、 傍線部④ の 元禄二年方針 を ﹁ 其通相守 ﹂、 と い う こ と で ある 。関連措置 として 、⑤﹁往還筋村々﹂役人 へ ⑥別帳 ︵ⅳ︶ の 写︵元禄二年 の 複数 の 指示文書 の 写︶ を 示 すようにと 松坂城代 が 命 じたので 、勢州三領 の 代官 に 帳面一冊 ︵傍線部⑦=⑥︶ を 回覧 させる 。 何故 このような 再確認 の 措置 が 執 られたのであろうか 。本文 の 前半 は 、省略形 で 記 されているためわかりにくい が 、 つぎのような 事情 が 読 み 取 れる 。 すなわち 、旅人病人宿送禁止 の 件 は 、勢州三領 で 共通 の 対応 をする ﹁品﹂= 慣例 があり 、 この 慣例 を ﹁見合﹂ わせ ︵=考慮 して ︶、元禄二年 の 宿送 り 禁止 を 緩和 する 対応=﹁申品﹂ を 三領全体 へ ﹁申 越﹂ ︵= 提 案︶ し た が 、﹁先 達 而 ﹂= 少 し 前 に ﹁往 還 筋 村 々 役 人 共﹂ か ら の︵宿 送 り 禁 止 の 緩 和 を 求 め る ︶﹁御 申 出﹂ については 、元禄二年 の 方針 は 傍線部③﹁今以在中 ニも 心得居候事﹂ ゆえ 、変更 できないので 、従来 の 方針 を (白子代官) (衍ヵ )
遵守 するように 、 ということであろう 。 ここでは ﹁街道筋﹂地域 の 要求 と ﹁在中﹂ の 状況 にずれが 生 じていることが 推測 される 。明和八年 ︵一七七一︶ 四 月 に は お か げ 参 り が 流行 し て お り 、﹁ 万歳留 ﹂ に も ﹁ 此節町在 よ り 伊勢参宮人多有之 ﹂ と 記 さ れ て い る (11 ( 。街道筋 で は この 参宮 に 伴 って 旅人病人 が 急増 したであろう 。尚書 において 、松坂城代 は 傍線部⑧ のような 重病人対応 は 、病人 支配 の 地頭 へ 届 け 出 るように 指示 をしている 。 このように 旅人病人対応 が 、宿 や 村方 の 加重負担 となっていること が 窺 われる 。 ちなみに 、蜂谷七左衛門 は 松坂城代 である が (1( ( 、従来方針 の 遵守 と 、現実 に 起 きている 問題 への 対処 ︵届 け 出︶ も 付 け 加 えたのである 。 この 従来方針 の 堅持 が 和歌山奉行 の 指示 か 、勢州 を 預 かる 松坂城代 の 独自判断 か 。 いずれかに 断定 する 直接的 な 史料的根拠 は 見当 たらないが 、和歌山奉行衆 の 文言 もなく 、勢州三領 での 相談 と 理解 しておく 。 この 方針 は 、元禄二年方針再確認 であるので 、 それを 記 した 冊子 が︵ⅱ︶ のように 、三代官 の 間 で 田丸領代官 から 白子領代官 へ 回付 されるとともに 、︵ⅲ︶ のように 田丸領 では 筆頭大庄屋 に 伝達 された 。 以上 のように 、明和八年 には 、 お 陰参 りの 急増 で 、旅人病人 に 関 する 対処 の 方針 がそのままで 立 ち 行 かない 状況 になっていた 。 (2) 勢州三領、安永八年 の 転回 安永八年 ︵一七七九︶ 勢州三領 に 伝達 された 触 れは 次 のようであった 。 ︹史料 17︺安永八年 勢州奉行三領 へ 通達 ︿﹁万歳留﹂十之巻七﹀ ※読点引用者 ︵ⅰ︶ 旅人道中 ニて 相煩候節、駕籠 ニて 宿送 ニ 致候儀 ニ 付、前々御触之趣 幷 此度被仰出候御触書之趣、両役中 より 申 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開
来候付、別紙写二通指越申候、書面之趣末々迄入念可被申付候、以上、 十一月十七日 桑原林右衛門 六組大庄屋中 尚々、両役中 より 之 端書之趣 被相心得、早々可被申通候、 ︵ⅱ︶ 旅人相煩駕籠 ニ て 送 せ 候儀等 ニ 付 、 明和四亥年従公儀別紙之通御触有之候 ニ 付 、 於若山表 も 此節御仲間被相通 、 在中 え 心得 さ せ 被置候事 之 ︵候 カ ︶ 間 、 此表 に て も 各 へ 通之儀宜取 斗 (計) 候様奉行中 よ り 申来候 付 、 別紙写一通指越申候間 、 右触有之候趣夫々 え 御心得 させ 候儀、宜御取計候様 ニと 存候、 明 和 八 卯 年 旅 人 宿 送 村 送 等 之 儀 付、御 城 代 中 よ り 被 申 通 候 儀 ニ 付、 其 節 三 領 へ 相 通 候 事 之 処、明 和 四 亥 年 従 公儀御触之趣前段之通申来候付 てハ 、 三領町・在可申通旨大崎三左衛門方 より 分 て 被申通候 間、此段 も 夫々御 心得 させ 候様 ニと 存候、以上、 十一月十六日 小出平九郎 三領宛 尚々、本文病人宿送之儀、何時送可参 も 難計儀、其上右通之儀談筋 ニ 付少々延引 ニ 相成候付、旁早々順達 御取計有之様 ニと 存候、以上、 ︵ⅲ︶ ︵明和四年幕令、省略︶ ︵ⅱ︶ は 勢州役 ︵勢州奉行︶ 小出平九 郎 (11 ( から 勢州三領代官宛 に 出 した 書状 である 。前段 の 焦点 は 旅人病人 を 駕籠 で 継 ぎ 送 りすることである 。和歌山表 ︵藩府︶ では 明和四年幕令 を 受 け 容 れ 、領内 へ 通達 する 。奉行衆 から 勢州三領 でも
通達 するようにとの 趣旨 である 。 後段 は 、 去 る 明和八年 に 松坂城代 か ら 従来通 り と の 方針 を 確認 し 、 三領 に 徹底 し た が︵ 前述 ︶、 ︵ そ れ と は 内容 の 齟 齬 す る ︶幕令 を 触 れ 示 す こ と と な っ た の で 、︵ 松坂城代 ︶大崎三左衛門 ハ は ﹁ 町 ・ 在 ﹂ い ず れ に も 触 れ 示 す よ う に ﹁ 分 て 被申通﹂ ︵=強調︶ された 。 この 点 に 留意 するようにという 内容 である 。 尚書 に は 、﹁ 病人宿送之儀 、 何時送可参 も 難計 ﹂ く 、 ま た ﹁ 右通之儀 、 談筋 ニ 付少 々 延引 ニ 相成 ﹂ っ た の で 、 至急 回達 せよと 追記 されている 。継 ぎ 送 り 希望者 が 潜在 している 事情 があり 、対応 が 急迫 していることが 窺 われる 。 ま た ﹁ 談筋 ﹂ の ﹁ 延引 ﹂ と は 何 を さ す か 。 こ れ は 、 明和四年幕令 を 受 け 容 れ 、 方針転換 す る か 否 か に つ い て 、 藩府 ﹁ 御 仲間﹂ ︵奉行衆 ヵ ︶でかなりの 議論 があり 、決定 に 長時間 が 掛 かったことを 意味 している 。 それら 故 に 伝達時間 の 短 縮 が 強 く 指示 されていることが 注目 される 。藩府 の 中 では 守旧派 と 開明派 というような 意見 の 対立 があったのであ ろう 。 ︵ⅰ︶ は︵ⅱ︶ をうけて 、田丸領代官 が 大庄屋 へ 通達 するように 指示 しているが 、明和四年幕令 を 触 れること 、 およ び 明和八年 の 城代通達 の 配慮 ︵街道筋・在方 の 区別無 く 、三領内全 てにという 配慮︶ に 留意 することが 求 められてい る 。﹁別紙写二通﹂ は 勢州役小出 の 書状 ︵ⅱ︶ と 明和四年幕令 ︵ⅲ︶ である 。尚書 の ﹁端書之趣被相心得﹂ というのは 、 ︵ⅱ︶ の ﹁端書﹂ ︵尚書︶ の 事情 により 、至急 にという 意味 である 。 ところで 、幕令 の 受 け 容 れ 、旅人病人 の 駕籠継 ぎ 送 り 方針 を ﹁町・在﹂ に 等 しく 触 れることが 強調 されている 。 こ の 背 景 に は 明 和 八 年 の 継 ぎ 送 り 禁 止 再 確 認 の 際 に 見 ら れ た 、﹁街 道 筋﹂ と ﹁在 中﹂ の 意 向 の 違 い が あ る と 見 ら れ る 。方針転換 の 願望 は 勢州三領 の 街道筋 で 強 か っ た こ と が 窺 わ れ る 。方針転換 は ﹁ 若山表 ﹂﹁ 此表 ﹂︵ 勢州 ︶一斉 で あ り 、勢州 が 先行 したわけではなかったが 、藩府﹁御仲間衆﹂ の 議論 に 何 らかの 影響 があった 可能性 はある 。 八年前、明和八年四月∼五月 に 、抜 け 参宮 が 急増 したが 、 これにともなっておきる 事態 を 取 り 締 まる 触 がいくつ 紀州藩における旅人病人継ぎ送り政策の展開