特別剰余価値と虚偽の社会的価値
i宇野教授の所説によぜてi
白 杉 庄 一 郎
私は現代独占利潤の基本的部分を独占資本の販得する特別剰余価値に求めるものであるが、工業部面における社会的価
値ないし市場価値︵または市場生産価格︶と個別的価値︵または個別的生産価格︶との差額としての特別剰余価値は、農業部面 における社会的価値ないし市場価値︵または市場生産価格︶と個別的価値︵または個別的生産価格︶との差額として成立する超 過利潤ほかならぬ差額地代に類似したものとして﹁虚偽の社会的価値﹂の性格をもつ、しかし﹁虚偽の社会的価値﹂の性格 をもつからといって、特別剰余価値は決して実体のないものではなく、一部分は独特の社会的評価にもとつくものとして、また一部分は﹁強められた労働﹂の生産物としで実体的基礎をもつ、と老える。こうした考えは、私が独占利潤11特別剰
余価値説を構想するにあたって根抵にもっていたところではあるが、十分に展開されていないために理解を得にくいふし
があるかに見うけられるので、従来の解釈との対比において若干くわしく展開してみようと思う。しかし従来の諸説の検
討は、紙数の限定からも、そしてまた私の渉猟の進行状況からも、一編の小論では到底不可能なので、本稿では云わば序
論的に宇野弘蔵教授の所説をとりあげる。宇野教授においては、特別剰余価値を実体的なものと見るという点において通説に反する注目すべき見解がしめされな
特別剰余価値と虚偽の社会的価値︵白杉︶ 四七四八
がら、やはり通説的に、それを差額地代とは本質的に異なったものとして、それに﹁虚偽の社会的価値﹂という規定を適
用することが拒否されている。この特徴のゆえに私は1一面においては親近と一面においては反機とを感じて一まず
手始めに教授の所説を検討してみることにしたのであるが、教授のこ・の注目すべき特別剰余価値論は一九三〇年代における地代論論争を背景として生まれてぎたもののごとくである。すなわち、それはすでに早く一九三六年十一月﹃東北帝国
大学経済学会研甕年報﹄第五号に発表された﹃相対的剰余価値の概念﹄という論文に発芽している。 この論文について見るに、特別剰余価値にかんし次ぎのごとく書かれてあるのが、まず我々の注意をひく。 ﹁価値が社会的に必要なる労働の量によって決定せられるということは、マルクス経済学においては根本的規定であるが、それはま た生産力の発展に伴って商品の価値を低下するものとして作用することを意味している。現に﹃ヨリ心安く生産される商品の個別的価 値と社会的価値のヒラキ﹄は﹃新なる生産方法が普遍化され﹄ると消滅するのであって、⋮⋮﹃特別の剰余価値も消滅に帰する﹄︹﹁資 本論﹄邦訳改造社版第一巻二九七頁︵インスティテユート版第一巻三三四頁︶︺のである。この経過中に﹃︹例外的な生産力を有する労 働は強められた労働として⋮⋮同じ種類の社会的平均労働に比べて︺同一の時閥にヨリ大なる価値を造り出す﹄という⋮⋮規定はこれ を如何に解すべきであろうか。勿論⋮⋮個々の資本家によって獲得される相対的剰余価値の生産として、云いかえれば﹃相対的剰余価 値の概念﹄を、必要労働時間の短縮を基準として、個々の資本家にも適用することによって警めて具体的に経過的にその発展を理解す ることが出来るのではある⋮⋮。しかしここにおいて﹃商品の価値は労働の生産力に反比例する﹄という原則は、﹃相対的剰余価値は 労働の生産力に正比例する﹄ ︹同上二九八頁︵インスティテユート版三三四頁︶︺ という他の原則に転化しなければならぬ。それは単 に市場の交換関係によって社会的価値としてヨリ多くの価値が与えられるというに留まるのでなく、生産過程自体において﹃ヨリ大な る価値が造り出さ﹄れたるものとされるのである。﹂労働の例外的な生産力にもとつく特別剰余価値を個々の資本家によって獲得される相対的剰余価値として、単に市場の
ヘ ヘ ヘ ヘ へ交換関係によって与えられるものとしてでなく、生産過程自体において造りだされるより大きな価値として考えようとい
うのである。いいかえると、特別剰余価値を実体的なものと考えようというのである。これは、当時は云うまでもなく、現在においてもなお注目さるべき反通説的な卓見といってよい。 もっとも、ある資本家の特別剰余価値は他の資本家の損失によって相殺されるとする通説にたいする教授の批判には、 疑問のいれられる余地がないではない。 けだし教授は、﹃資本論註解﹄の著者ローゼンベルグが、個々の資本家によって
獲得される特別剰余価値を超過剰余価値として相対的剰余価値から区別し、超過剰余価値は常に労働者と資本家との聞の
関係を表現するだけでなく、さらに資本家同士の関係をも表現するものであって、それによって最も有力な資本家はます
ます強くなるが、他の資本家は損失をこうむることになると云っているのに反対して、つぎのごとく述べているからであ
る。 ﹁マルクスの例解では﹃繭他の資本家達は損害を蒙る﹄ことにはなっていない。勿論、マルクスでも新方法を採用する資本家の生産 物は、生産商品量の増加のために社会的価値以下に販売されることが認められている、また現実的には社会的価値以下に売られるとす れば﹃日曝の資本家達﹄もこの競争に影響されざるを得ないであろうが、その場合にはここで前提せられている一定の社会的価値自体 が変動することになる。 ﹃労働時間による価値決定の法則﹄は結局においてこれを実現するのであって、競争の作用も亦これに異なら ないのであるが、この例においてはなお暫くこの作用は捨象されていると見るべきであろう。少くともここでは経過的過程自体が明ら かにされる必要があるのである。即ち問題はここでは﹃資本家同士の関係﹄ではなく、依然として﹃労働者と資本家との間の関係﹄と .して解決せられなければならない。云いかえれば、資本家が新しい生産方法を採用する動力は、ここでは他の資本家との競争によって 強制せられるというよりは、自ら進んで労働者からヨリ多くの剰余価値を獲得するという点に与えられている。﹂ 蒋別剰余価値を超過剰余価値とすることに反対される根拠は、これでは明白といえない。しかし一層重要な問題は、一 ⑥部の資本家による特別剰余価値の獲得が、他の資本家の損失を伴うということを全く認めないところにあるであろう。マ
ルクスが、﹃資本論﹄第一巻第十章﹃相対的剰余価値の概念﹄において特別剰余価値に論及するにあたり、それをめぐる
競争の具体的過程の老察を捨象していることは、いうまでもない。しかし、そこでも彼はけっして特別剰余価値の実現が
特別剰余価値と虚偽の社会的価値︵白杉︶ 四九五〇
競争によって媒介されるということも捨象しているわけではない。社会的価値の変動までは老えないとしてもilIけだし
社会的価値は支配的大量の個別的価値によって決定され、これに変動のないかぎり、それは変動することがないからであ
るドー少くとも︵市場︶価値の変動は憶えているとしなければならない。 特別剰余価値は、単に労働者との関係において のみ可能なのではなくて、同時に他の資本家との関係をも前提するものなのである。 −しかし、特別剰余価値が実体的なものとして把握されようとしていること自体には、誤りはないと云わなければならな
い。したがって教授の次ぎの主張は、他の資本家との競争について云われている部分にかんし右に述べたところを留保し
さえするならば、完全に正しいと考えられる。 . ﹁価値を造る労働を﹁商品の生産に社会的に必要なる労働時問によって規制するという資本主義的商品経済の根本的基礎自身によっ て展開せられる︹機構は、労働の生産力の発展が例外的に促進された場合に︺・、・⋮一商品の生産に個別的に必要とせられる労働を﹃強 められた労働に転化﹄せしめるのである。云いかえれば、ここに生産せられる商品は社会的価値としては当然、個別的価値よりヨリ多 くの価値を有しているのである。それは単なる市場の関係によってそうなるのではない。⋮⋮︹それはまた︺他の同種商品との競争に よって此等の商品の価値を削減することによって形成せられるものではない。また他種産業の生産物に対してヨリ高く販売せられるが ために発生するものでもない。また社会がこれに対して不当にヨリ多くを支払うという関係によるものでもないのである。﹂しかしながら、この正しい洞察を裏づけようとして持ちだされている一﹁新方法による剰余価値・⋮:は一商品を生産
するに社会的に必要なる労働時間を要せずして生産するという特殊の事情に基づくのであるが、一般資本家的に獲得せら
れる相対的剰余価値が導入資本家の利益として獲得される﹂のであって、それは新方法を普及させるための費用にほかな
らないというi解釈は、疑問のいれられるべき余地をもつ。けだし、それは云わば思想であって、理論ではないからで
ゆ ある。しかし、それではこの解釈は理論とは全く無関係な思想かというに、そうは考えられない。おもうに、特別剰余価値をば新しい生産方法ないし生産力の普及によって一般資本塚の獲得するであろう利益の先進資
本家による先取りとして、それを普及させるための費用となす解釈が一おぼろげにではあるがi気づいているのは、
価値現象が一定の社会的評価を基礎とするということであろう。価値は、いうまでもないことであるが、個別的な必要労
働時間によってではなくて、社会的平均的な必要労働時間によって決定される。個別的には、技術的な生産諸条件から見
ヘ ヘ ヘ へて、社会的大量的に必要であるよりも或いはより多くのt或いはより少い一労働時間が、社会的欲望を充足するのに
ヘ ヘ ヘ へ必要とされる−−或いはそれだけでは不十分である一かぎり、それらよりも或いはより少い一或いはより多くの一
社会的労働時間に平均される、すなわち等しいと評価される。そして、それに応じて、或いはより大きな一或いはより
小さな一個別的価値が、それらよりも或いはより小さな∼一或いはより大きな 社会的価値に等しいと見なされる。
価値法則はこのような社会的評価を前提とするものであり、この社会的評価の基礎には社会的欲望がよこたわっている。 ヘ ヘ ヘ ヘ へ価値は単に技術的な生産諸条件によって決定されるものではなくて、同時に社会的欲望によって決定される側面をもつの
である。こういつては異論があるでもあろうが、しかし価値論について技術説をとる人といえども、価値法則は基本的に
は社会が欲望し必要とする商品を生産するための費用の算定にかかわるものであり、その費用の算定は右のごとき社会的
評価を通じておこなわれるということだけは、これを認めざるをえないであろう。資本主義社会においては、この社会的
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 評価はより小さな個別的費用をより大きな社会的費用に平均することによって、優秀な生産者に特別剰余価値を与える。 ヘ ヘ ヘ ヘ へ同じ社会的評価は、他方において、より大きな個別的費用をより小さな社会的費用に平均することによって、劣悪な生産
者に損失を与える。この損失を強調して、特別剰余価値のプラスは、それに対応するマイナスによって相殺されるという
ヘ ヘ ヘ へ解釈が通説となっているが、この通説は優秀な生産諸条件での生産量と劣悪なそれでの生産量とがたまたま一致するとい
う偶然的な場合を一般化して考える謬見にもとづいている。宇野教授の特別剰余価値見費用説は、この種の謬見にたいし、特別剰余価値は資本主義社会における価値評価の必然的産物として積極的な一それに対応するマイナスによって相殺さ
特別剰余価値と虚偽の社会的価値︵白杉︶ 五一\ 至こ
れてしまうことのないープラスと考えられるべぎ実質をもつものであることを示唆している。
しかし特別剰余価値11費用説そのものは、特別剰余価値の意味づけであって、それの理論ではない。なるほど特別剰余
価値は、理論的に見ても、費用の一部である。しかし、それは社会が必要とする商品を確保するための費用の一部なので
あって、新しい生産力を普及させるための費用なのではない。もちろん新しい生産方法ないし生産力の充用者に、このよ
うな特別の利益が与えられるということは、それらを普及させるであろう。そして目的論的には、特別剰余価値はそのた
めの費用と見られなくはないであろう。しかし、それは特別剰余価値の社会的な意味づけであって、それの理論的な説明
とはいいえない。特別剰余価値の実体的基.礎は、それの社会的な効用にではなく、それを不可避にする経済社会の機構に 求められるのでなければならない。 ① 拙稿﹃独占資本主義のもとでの剰余価値の法則﹄京大﹃経済論叢﹄八○の四︵一九五七年十月︶三〇四一七頁、 ﹃独占利潤の源泉 について﹄滋賀大﹃彦根論叢﹄四三︵一九五八年五月︶一〇頁、 ﹃ふたたび独占資本主義のもとでの剰余価値の法則について﹄京大 ﹃経済論叢﹄八五のこ︵一九六〇年二月︶四九頁。 ② 宇野弘蔵﹃マルクス経済学原理論の研究﹄ ︵一九五九年︶八八、九一、二〇﹁一二頁。 ③宇野弘蔵﹃資本論の研究﹄︵一九四九年︶八七一八頁。 ④ローゼンベルグ﹃資本論註解﹄改造社版第一巻三六七一八、三九六i七頁。 ⑤ 宇野﹃資本論の研究﹄八六頁。 ⑥教授の戦後の労作﹃経済原論﹄下巻︵一〇八頁︶にも同じ解釈が見られる。 ⑦本文に述べたところに関係があると思われるが、宇野教授においては社会的価値と市場価値とが区別されている︵﹃資本論の研究﹄ 九二一三、九五頁︶。しかし、その根拠として述べられていることを私は十分に理解することができない。 ⑧ 同上九二頁。 ⑨ 同九三頁。 ⑩ この解釈について詳しくは同一〇一−三頁を参照。一ちなみに、この解釈には当初から﹁或いは行きすぎたものであるかも知れ ない﹂という留保がなされていた︵同一〇四頁︶。 ﹃経済原論﹄においても同様の留保をつづけながら︵上巻一二六頁︶、解釈そのものは維持されている︵下巻一一〇頁︶。なお﹃マルクス経済学原理論の研究﹄八一一二、八五−六、九九一一〇〇、一〇五頁を参照。 ⑪平田清明﹃地代論争の問題点﹄﹃講座資本論の解明﹄第五分冊︵一九五二年︶一六九頁、田中菊次﹃マルクス差額地代論における 問題の所在◎ 宇野弘蔵氏の所説について﹄東北大﹃経済学﹄三八︵一九五五年第三こ口五四頁以下、ただし、これらの批判はい ずれもまだ積極的とはいえない。 ⑫マルクス﹃資本論﹄第三巻第十章、インスティテユート二二〇三i四、二〇八−一〇頁。一ちなみに社会的平均的ということを 社会的大量的とおきかえるについては、後にも一言するごとく、重要な問題があるが、今はこれに立入らないでおく。 ⑬ 拙著﹃価値の理論﹄ ︵一九五五年︶七一頁以下。 ⑭特別剰余価値の相殺を主張して代表的なのは向坂逸郎教授︵﹁市場価値論と相対的剰余価値論﹄有沢広己ほか編﹃マルクス主義経 済学の研究﹄上、一九五三年、九二頁以下︶である。しかし宇野説の方向に、それを相殺されることのないプラスと解するように思 われる人も、ないわけではない。 たとえば田中菊次氏︵﹃特別剰余価値﹄東北大﹃経済学﹄二一、一九五一年第一号、三〇一三一、 四八−九頁、 ﹃剰余価値の理論﹄同二四、 一九五二年第一号、二九−三〇頁︶など、そうである。 二 以上、我々は宇野教授の所説を手がかりとして、特別剰余価値は価値法則の基礎とする社会的.評価にもとづいて実体的
な基礎をもつということを確認してきた。しかし特別剰余価値の実体的な基礎はこれだけではない。同じく教授の所説を
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ手がかりとして、我々はそれのいま一つの根拠に到達することがでぎる。というのは﹁例外的な生産力をもつ労働は強め
、 、 、 . ⑮られた労働として作用する、あるいは同じ時間内に同種の社会的な平均労働よりも大きな価値を創造する﹂ということに
かかわる。もっとも教授は、マルクスのこの命題を援用しながら、﹁それは単純にヨリ大なる価値を生産するものとして
は、その理解に難点を免れないであろう。例えば複雑労働と単純労働との関係においてこれを解決することは出来ない。 ⑯ここではむしろ一般的に単純労働が前提されている﹂という解釈をとっている。しかし例外的な生産力をもち﹁強められ
特別剰余価値と虚偽の社会的価値︵自杉︶ 五三五四
た労働﹂として作用することによって、平均労働とは質の異なった一種の複雑労働が生まれ、より大きな価値を創造する
ところに、特別剰余価値の第二の実体的基礎が見出されうるのではないであろうか。教授の行論そのものも﹁強められた
労働﹂の生産性をこのように解するよりほかないことを示唆しているように思われる。 教授の名著﹃経済原論﹄ ︵下巻︶について見るに、超過利潤にはω生産力が与えられている場合のそれと ②生産力の増進によるそれとの二種があり、後者は前者と異なり実体的なものであることが示唆されている。そのさい後者1すな
わち生産方法の新しい発展による生産力の増進にもとつく超過利潤iが﹁他の資本家は勿論のこと、労働者に対しても
何等の負担をかけることなく得られる﹂とされているのは不正確といわなければならない。そうでないことは教授自身の
説明にそっても論証できるのであって、教授自身においてもこの種の主張は緩和ないし訂正されている。のみならず、教
授においては、超過利潤が実体的な基礎をもつのは、それが生産力の例外的な増進にもとつぐ場合に限られるようである
ヘ ヘ ヘ へ が、しかし生産力が与えられている場合のそれといえども、より低い個別的価値︵ないし個別的生産価格︶をより高い市場 価値︵ないし市場生産価格︶ と社会的に評価するような機構の存在にもとつくものとして実体的であること、生産力の例外的な増進にもとつく場合のそれと異なるところはないのではなかろうか。そして前者は、ただ﹁強められた労働﹂の作用
にもとつくところがないということによってのみ、後者から区別されうるのではなかろうか。それでは、例外的な生産力をもつ﹁強められた労働﹂はいかにして超過利潤 根源的には特別剰余価値−1を生産す
るのであろうか。いいかえると、ある労働が﹁強められた労働﹂として例外的な生産力をもつとは、どういうことであろ
うか。問題の労働が質的に向上して、なんらかの度合において複雑労働化すると考えるのでなければ、これらの問題に答
えることはできないのではないかと私は考える。教授の所説も事実において、こうした解釈の可能なことを示唆している
ように思われる。けだし次ぎのごとく説明されるのだからである。﹁今ある生産部門に属する資本家で、他の資本家がいまだ採用していない生産の方法、例えば改良ざれた機械を採用し、労働の生産 力を増進したとする。⋮⋮その商品は同種の他の商品よりも少い労働時間で生産される。機械その他の固定資本部分の消耗分としての 労働は多くなるとしても、その商品の生産に新に要する労働はそれより以上に少くなる。したがって個別的価値は低下する。ただ社会 的にはなおその商品を生産するに要する労働陰型は、他の一般の資本の生産過程におけるそれによって決定されているので、社会的価 値としては、新しい機械を採用した資本の下に行われるこの労働は、マルクスの所謂﹃自乗された労働として作用する﹂。 例えば同一 量の同種商品が一般には δ︵o︶+①O。+ωO︿+ωO日11あOの価値構成を有するものとして生産されているのに、この新しい機械を採 用する資本の下ではδ︵。︶+c。O。+MO<+MOヨー1ごσの個別的価値を有するものとする。δ︵。︶という固定資本部分はま︵。︶に増 加したが、可変資本はωOくから障O︿に減じ、価値生産物は①Oからおに減じたために、個別的価値は8の低下を示す。しかし社会的 にはこの商品はなお、一ω0の価値を有するものとして生産されているために、この資本家は8だけの特別の剰余価値を得るわけで、 nO<によって購入された労働力は、個別的には合の価値を生産したにもかかわらず、社会的には伊伊の価値を生産したことになる。 一般資本家がωOの剰余価値を得るのに、この資本家はω伊の剰余価値を得る⋮⋮としても、それは他の資本家から剰余価値を分与せ られたことにはならない。社会的には、いい換えれば互に商品生産をなす総資本の関係では、この資本家の下に労働する労働者はi 一般にはωOの可変資本で①Oの価値を生産するのに対し、 酌Oの可変資本で♂の価値を生産するので1同一時間に一・三七五倍の 労働を・た・とになる︹串ωo㏄⊥・・.Nα黒煙の生産力の謹は]般的には価値の生産には関係な氏ただ個々の生還の価値 を低.下するに過ぎないのであるが、個別的な生産力の増進は商品経済的にはより多くの価値を生産するものとしてあらわれる。﹂ 見られるごとく、新しい機械を採用した資本家のもとで働く労働者は、一般資本家のもとで働く労働者にくらべ、同一 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
時間により多く労働し、より多くの価値を生産すると見なされるとするのであるつこれは、問題の労働が質的に変化した
と見なされるのでなければ、いえないことがらであろう。勿論このような解釈は、教授においては行論のうちに示唆され
ているだけであって、明確に自覚された理論になっているとは云えない。けだし﹁労働の生産力の増進は一般的には価値
の生産には関係なく、ただ個々の生産物の価値を低下するに過ぎない﹂というのだからである。しかし、そのような断定
は、労働生産力の増進がIl労働の主体的生産性をそのままにしておいて、いいかえると労働力の質をそのままにしてお
特別剰余価値と虚偽の社会的価値︵白杉︶ 五五五六
いて一客体的な生産諸条件を改良することにのみ依存するような類のそれである場合にかかわると考えられなげればな
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へらないであろう。これに反し、客体的な生産量条件の改良が新しい生産方法の導入を意味する場合には、通常、労働力の
質的向上と労働の主体的生産性の上昇とを不可避にするが、この側面を考えに入れてくると、労働生産力の増進は一般的
ゆ
には価値の生産に関係がないなどとは云えなくなってくるであろう。そして生産方法の変革にもとつく特別剰余価値は、 ﹁強められた労働﹂のこのような意味での価値生産性に、その基礎をもっていると心えられるのである。 これに反し、あらゆる生産力の増進を﹁強められた労働﹂の作用に還元するような解釈もないではない。差額地代を﹁強められた労働﹂によって説明しようとする人たちのそれが、そうである。しかし単に客体的な生産諸条件の変化にもとつ
く−一したがって労働そのものの質的向上をともなうことのない1生産力の増進は、 ﹁強められた労働﹂という概念と
は無関係である。この種の生産力の増進からも、特別剰余価値は生まれてくる。そして、この種の特別剰余価値も、社会
的評価にもとつく第一の実体的基礎をもつ。しかし、それには﹁強められた労働﹂に依拠する第二の実体的基礎は見出さ
れえないとしなければならぬ。同じことは農業部面において差額地代の形をとる特別剰余価値についてもいえる。しかし
このことは、差額地代に与えられる﹁虚偽の社会的価値﹂という規定を、特別剰余価値−一それがどの場合のものであれ
一に適用することの妨げとはならないであろう。
⑮マルクス﹃資本論﹄第一巻第十章、インスティテユート版三三三頁。 ⑯ 宇野﹃資本論の研究﹄一〇一頁。 ⑰宇野﹃経済原論﹄下巻一〇六一八頁。 ⑱岡三〇一三一頁。 ⑲同コ=頁。﹃マルクス経済学識理論の研究﹄七九−八二、=ニニー三頁。﹃新経済学演習講座経済原論﹄︵一九五九年︶一一八 −九頁。⑳拙稿﹃ふたたび独占資本主義のもとでの剰余価値の法則について﹄前掲四七一九頁。 ⑳宇野﹃経済原論﹄下巻一一四−五頁。 ⑳ ﹁強められた労働﹂の価値生産性を本文に述べたように考えることによって、私は、J・ストレイチー ︵﹃現代の資本主義﹄邦訳 七一、一三三頁以下︶の労働価値説批判に答えることができはしないかと思うが、今は立入らない。 ⑳ 例外的生産力の労働を無差別に﹁強められた労働﹂と解して代表的なのは飯田繁教授︵﹃社会的価値の理論と差額地代一﹁虚偽の 社会的価値﹂の源泉問題をめぐって﹄大阪市大﹃経済学年報﹄第一集︹一九五一年︺五三一六、五九、六五一六頁︶である。 三 宇野教授は、さきにあげた初期の論文においても、リュビーモフ︵﹁地代論﹄邦訳二四五−七頁︶や櫛田民蔵︵全集第三巻二
二八頁以下︶を支持して、﹁新資本による剰余価値﹂としての﹁市場価値に対する個別的価値の差額による剰余利潤﹂は
﹁対差地代を形成する基礎となるべき剰余利潤と同じ範疇に属するものといえる﹂としながら、それに﹁虚偽の社会的価 値﹂という規定を与えることを跨躇して、いっている。 ﹁土地生産物においては⋮⋮剰余利潤は所謂虚偽の社会的価値として規定せられなければならぬ性質を有していた。⋮⋮資本家的生 産にとっては、農業における土地は、資本たる生産手段と異なり、その経済機構自身にとっては非合理的なるものであった。これをそ の体制中に入れなければならぬ際にうける偏碕性が市場価値を通して虚偽の社会的価値となるのであって、それは工業における相対的 剰余価値の如くにそのままで生産力の増進の手段として役立つものではなかった。⋮⋮農業において対差地代となる部分は、農業一般 に費される労働の減少として役立ち得ない限り、それは資本主義祉会において積極的に価値を生産するものとなすことは出来ない⋮⋮。 工業の場合は、これに反して、相対的剰余価値は積極的にこれに費される労働の減少に役立つ点において異なった性質を示し、したが ・てまた価繁生産するもの書讐れる根拠を与えられていることになるのではないであろう編﹂個別的な相対的剰余価値すなわち特別剰余価値が生産力増進の手毅として役立ちうるとしても、そのことから特別剰余
特別剰余価値と虚偽の社会的価値︵白杉︶ 五七五八
価値の実体性を論証しうるものでないことは、さきに述べた通りである。したがって、反対に、差額地代的特別剰余価値
が生産力増進の手段として役立ちえないとしても 事実役立ちえないがltこのことから差額地代の非実体性ないし虚
偽性を論証することはできないであろう。 差額地代は限界個別的価値︵もしくは限界個別的生産価格︶と市場価値︵もしくは 市場生産価格︶との差額として成立するのであるが、後者を前老におちつかせるのは社会的欲望なのであって、したがって差額地代も社会的欲望を基礎とする社会的評価に基礎をもつ点、工業部面における特別剰余価値としての超過利潤の場合
と全く同様である。そのかぎり、差額地代も一般の特別剰余価値と同様に実体性をもつといわねばならぬ。もっとも差額地代の場合には、生産方法の変革にもとつく特別剰余価値の場合と異なり、もっぱら客体的な自然的生産
条件の優秀性にもとつくものとして、労働の主体的生産性にもとつく基礎が欠けている。したがって、それを﹃強められ
た労働﹂で説明するのは誤りである。もちろん農業部面においても、労働の主体的生産性の差異ばありうるであろう。し
がし労働の主体的生産性の優位にもとつく超過利潤は、原則としては、農業資本家の牧得するところとなって、地代とは
ならないであろう。 かくして差額地代は労働の主体的生産性にもとつく実体的基礎を欠いているとしなければならないけれども、しかし、だからといって、それは特別剰余価値と異なり、実体的基礎を欠くという意味において﹁虚偽の社会的価値﹂と規定され
るのであってはならないであろう。けだし差額地代は、社会的評価にもとつく実体的基礎をもつという点においては、特
別剰余価値と異なるところはないからである。両者の間に相違があるとすれば、それは後者が一時的経過的であるのに対
ゆして、前者が持続的固定的であるということだけである。したがって差額地代にして﹁虚偽の祉会的価値﹂と規定されう
るものであるならば、特別剰余価値もまた同様の本質をもつものとして、この規定の適用をまぬがれることはできないで
あろう。けだし﹁虚偽の社会的価値﹂というのは、資本主義社会そのものから見ての規定ではなくて、資本主義をこえた
社会
差額地代的剰余を成立させるような社会的評価の機構を必要としないような社会
されるからである。 ◎ から見ての規定であると解 ⑳ マルクスによれば、 ﹁虚偽の社会的価値﹂は土地生産物の市場価格の﹁資本制生産様式の基礎上で競争を媒介として自己を貫徹する市 場価値による規定﹂から、いいかえると﹁土地生産物を支配する市場価値の法則﹂から発生する。これを単純に解釈すると、いうところ の﹁虚偽の社会的価値﹂は資本制生産様式そのものから見ての規定であるかに受けとれる。しかし、こうした解釈はマルクスの真意に徹 ヘ ヘ ヘ ヘ へ するものではないように思われる。たしかに土地生産物の市場価格1それはこのばあい市場価値に等しい一が﹁現実的生産価格﹂を こえるところがら﹁一つの虚偽の社会的価値﹂が発生し、この差額のあるだけ﹁消費者として考察された社会﹂が土地生産物にたいして ﹁余りに多く支払う﹂というのは事実であるが、 ﹁余りに多く支払う﹂というのは、その土地生産物が﹁現実的生産価格﹂もしくは﹁現 実的平均価格﹂で売られる場合に比べてのことでなければならない。しかし資本制生産様式の基礎上では、生産物が実際に﹁現実的生産 価格﹂もしくは﹁現実的平均価格﹂で売られるというようなことは、ありえない。けだし﹁個々人間の商品交換に立脚する生産﹂を最高 度に発展させた資本制生産様式の基礎上では、 ﹁現実的生産価格﹂や﹁現実的平均価格﹂がかかわりをもつ厳密に平均的な価値法則なる ものは、ただ理念的にしか存在しえないからである。理念的な価値法則の内実をなす厳密な平均原理は、資本主義社会では、工業部面に おいてもます大量的平均原理に自己を疎外するが、それでさえ長期の傾向たるにとどまり、短期について見る場合にはそれがさらに限界 ⑩ 原理に自己を疎外するのであって、しかも農業部面においては平均原理の限界原理へのこの自己疎外が長期的固定的となる。けだし資本 主義社会においては、生産物にふくまれている﹁現実的労働時間﹂を意識的かつ計画的に平均して、その価値ないし価格を算定するので はないからである。そうした算定は﹁資本制社会形態が止揚されて、社会が意識的かつ酎画的な組合として組織される﹂にいたって初め て現実におこなわれうるであろう。いいかえると、厳密な平均原理が現実性をもつのは、私的な資本制生産が止揚された社会においてで なければならない。そうした社会が実現されたときに初めて﹁消費者として考察された社会﹂は土地生産物にたいして﹁余りに多く支払 う﹂ことを止めるにいたるであろう。そうした意味あいからして二つの虚偽の社会的価値しというのは、土地生産物をめぐる資本主義 社会の価値規定を 資本主義社会そのものの立場からではなくてi資本主義社会をこえた立場から見た場合の規定でなければなるま いと、私は解釈するのである。 宇野教授においては 特に﹃経済原論﹄ ︵下巻=一八−一七一頁︶において明瞭に 差額地代の虚偽性が農業部面における生産条 特別剰余価値と虚偽の社会的価値︵白杉︶ 五九六〇 件の固定性に依存せしめられている。おもうに個別的価値︵ないし個別的生産価格︶と市場価値︵ないし市場生産価格︶との差額として の超過利潤が差額地代に固定するのは、たしかに、その差額の原因たる生産条件の差等が固定的だからである。しかし、その差額の﹁虚 偽の社会的価値﹂としての性格を、生産条件の差等の固定性に依存させるのは、理由のないことである。 ﹁虚偽の社会的価値﹂という規 定は、生産条件に.差等のある場合に、個別的価値︵または個別的生産価格︶と市場価値︵または市場生産価格︶とを乖離させるような社 会的評価を、そのような評価を必要とすることのない社会から見た場合に出てくる規定なのでなければならない。したがって、それは本 ⑳ 質的には﹁自然力自身が価値を形成したものと想定﹂されるといった事情にかかわるものではない。現象的にはそういう想定をともなう としても、そのために差額地代が﹁虚偽の社会的価値﹂と規定されるのではない。そうではなくて、この規定はどこまでも生産物価値の 社会的評価の虚偽性にかかわるのでなければならない。 のみならず、この解釈からすれば、特別剰余価値が生産方法の変革と労働の実体的生産性の上昇一したがって労働の質的向上 と にもとづいて実体的基礎をもつ場合にも、特別剰余価値はやはり差額地代と同じく﹁虚偽の社会的価値﹂といわれなければならないであ ろう。特別剰余価値がこの種の実体的基礎をもつということは、その追求が経済進歩を推進し、これを代表しさえするという意味におい て、それが差額地代と異なった歴史的本質をもつことを明らかにするのであるが、しかし、その場合にも、資本主義をこえた立場から見 るかぎり、それはやはり一種の虚偽性をもつ。けだし、この種の特別剰余価値も、それが現実に成立するためには、生産力的基礎だけで は不十分なのであって、生産力が与えられている場合のそれと同じく、社会的価値評価の機溝によって媒介されるところがなければなら ないからである。いいかえると、その成立は一厳密な意味における祉会的平均ではなくて1大量的な平均を実現するにとどまる市場 価値規定によって媒介されているからである。周知のごとく、生産条件に優秀なものと、平均的なものと、劣悪なものとの相違があり、 それにもとづいて個別的価値に小・中・大の相違がある場合、市場価値がどこにおちっくかは、どの生産条件が支配的であるかに、した ⑫ がってどの生産条件の生産物が同種の商品の社会的総量のうちで大量的地位をしめるかに依存する。生産条件の相違にもかかわらず、労 働の主体的生産性に差等なしと想定してである。この想定は理論上のそれではなくて、現実のそれである。というのは、こうだからであ る。いま中位的な生産条件が支配的であって、上位のそれと下位のそれとが均衡するとする。この場合、中位の個別的価値によって決定 される市場価値は、厳密な意味の社会的平均に近づく。しかし、この場合にも、上位の生産条件によって労働の主体的生産性が高められ ており、それが一種の複雑労働として簡単労働に還元されうるものであることになると、上位の生産量と下位の生産量とは、数量におい ては均衡するとしても、労働量においては均衡しなくなるであろう。にもかかわらず、上位の生産量が大量的とならないかぎり、市場価
も ヘ ヘ へ あ へ る 値は依然として中位の個別的価値によって決定されるであろう。つまり生産力の発展がそれに比例する価値の低下を招来することがない のであって、特別剰余価値が生産力的な基礎をもつと考えられる場合にもなお社会的平均にかんする一種の擬制が前提になっていること び は、生産力に変化なしと仮定した場合と同厳なのである。したがって、そのかぎり、社会的平均にかんするこの種の擬制を必要とするこ とのない社会から見れば、それは差額地代と同じく﹁虚偽の社会的価値﹂と見られて一向さしっかえないであろうし、またそう見られな ければならないであろう。
以上、工業部面における市場価値の形成にさいして発生する特別剰余価値と、農業部面における市場価値の形成にさい
して発生する差額地代との異同を検討してきたのであるが、最後に後者の成立を特徴づける限界原理について、一言して
おく。工業部面における市場価値の形成にさいして発生する特別剰余価値は、限界原理の支配とは無関係である。しかし
特別剰余価値は短期的な市場価格の形成をめぐっても発生しうるのであって、その場合には事惰が異なる。けだし短期市
ヘ ヘ ヘ へ 場価格は需要が供給に等しいか又は供給よりも大きいかぎり、平均的な市場価値ないし市場生産価格によってではなく、 ヘ ヘ ヘ へ限界的な個別的価値ないし個別的生産価格によって決定されるからである。短期市場価格についていうかぎり、限界原理
の支配について工業生産物を農業生産物から区別すべぎ根拠はない。両者が区別されるのは、ただ、農業生産物の場合には 長期的にも限界個別的価値︵もしくは限界個別的生産価格︶による市場価値︵もしくは市場生産価格︶の決定を原則とするのに反し、工業生産物の場合には平均的な市場価値︵もしくは市場生産価格︶が支配するのを原則とするという点だけで
ある。短期市場価格についていうかぎり、宇野教授におけるごとく、工業生産物の場合における限界原理の支配を否定す
るのは、それから発生する特別剰余価値︵超過利潤︶に﹁虚偽の社会的価値﹂という規定の適用を拒否するのと同じく、 も ヘ ヘ へ へ 理由のないことである。このことの確認は、﹃資本論﹄を閉ざされた体系と見ることに満足しないで、これを開かれた体系として独占段階の理論体系にまで拡充しようとする立場をとるものにとっては、きわめて重要である。けだし独占段階に
おいては、工業部面における限界原理の支配と、それにもとつく﹁虚偽の社会的価値﹂の成立とが、市場価値ないし市場
特別剰余価値と虚偽の社会的価値︵白杉︶ 六一六二