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保険集団における経済学的問題

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Academic year: 2021

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保険集団に於ける経済学的問題

西

一  保険の本質は、その特有の資本的機構にある。それを支えるものはもとより保険企業であるが、この保険企業をめぐっ て多数の加入者が存在するという点に着目すると、保険団体と名づけられる集団が成り立つ。つまり保険集団は、多数人 の人格的集合という点から意識せられるが、そこに於て、資本が、とくに保険企業によって如何に操作せられるかに着眼 して、それを機構として捉えることができる。  保険の本質を機構に求めるのは、私見によれば、もともと経済学的考察に他ならぬのであるが、他面その機構が、人の 集団に於て成立することを忘れてはならない。そこで、その集団そのものの成立をとり上げて、いわば社会学的考察を試 みることも、また可能である。この種の考察が、たとい本来経済学的考察でないにしても、もともと保険の機構が保険の 集団と不可分の関係を持つことから考えて、必ずしも意義なぎことではない。そういう立揚から、私は、既に本誌に於て これに触れるところがあったのである︵第三五号、第三八号︶。  その揚合に私は、保険団体の協同祉会的性格を強調する見解と、これを否定して、むしろ利益社会的性格を明らかにす る見解とを対比し、これを両者の代表者たるpールベック︵薯. 閑O︸P弓び㊦㊦吋︶とワインライヒ︵国層葛。ぎ置魯︶について窺った      保険集団に於ける経済学的問題       一

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     保険集団に於ける経済学的問題       一.一 のである。これらの見解ば、もとより正面的には、社会学の課題として多くを含むであろう。しかし、いま私は、それが 経済学的考察の立場からは、どのような問題を投げかけるであろうかと.いう点から、いささかこれに触れて見たいと思 う。そしてそみことが、私に於ては、資本機構本質論の側面の理解を深めることとなろうからである。  さて右の対比に湿て第一に問題となるのは、構成体としての協同社会と利益社会との、二つの集団形式の一般的性格で ある。いったい集団としての構成体を、いわゆる協同社会と利益社会との二つの形式に分類することは、かりに保険に限 っでこれをいうならば、はたしてどのような意味を持つものであろうか。われわれは、まずこの点から反省を進め’なけれ ばならない。  さぎに述べたように︵第三五号︶、この二つの集団形式は、社会学的概念としてテンニースが最も明確にこれを示してい る。ところで、社会学の問題としてこの集団形式をとり上げるという考えは、実はむしろジンメルに於て顕著であったが、 そのいわゆる形式的分析の意義は、両考必ずしも同じでないと見られたのである。  いまジンメルについて一般に理解せられるところによると、社会学の考察の対象となるものは、社会と呼ばれる実体的 存在ではなくして、社会化︵<ΦおΦの①房。富津言頓︶と名づけられる過程そのものである。そしてここに問題となるのは、いわ ゆるク社会的なるもの4であり、社会化によって実現せられる形式であり、いわばもろもろの社会内容から分離抽象せら れた動的な統一である。このことは、玉入が相互作用を営むところに社会ありとする点に、彼の出発点があることから見 て、また明らかであろう。  しかし、テンニースにあっては、この社会化の形式として、協同社会と利益社会とが考えられるのでぽない。むしろ彼 は、この二つの社会概念を、集団構造の範疇としてとり上げていると見るべぎである。もとより、それらは具体的な存在 ではない。それは、ただ、協同社会なくして利益社会なく、逆にまた利益社会なくして協同社会なしというような、相互

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にみずから規定する二元的概念と見るべぎであろう。それゆえに、この区別は、社会そのものの構造範躊というよりは、 むしろ集団の構成に於ける契機の範疇と考えられるのである。  いま、このような範疇としての協同社会は、テン昌ースにあっては、利益社会に対して根源的な地位を持つものとせら れる。このことは、集団の構成ということについて、彼がこれを歴史的発展の過程として老察したものではなく、むしろ ある意味では超歴史的に、したがって多分に倫理的な意図のもとに、構成そのことの要素という点に着目した結果と考え られる。そしてまた、このことは、ドイツ民族の伝統的な国民的信念をそのうちに強く含んでいた、といい得るのであ る。  ㊥ 醸諺旨卑OこロDo臥90駐Φ−一8ω︸ψ幽 二  さて協同社会にしても利益社会にしても、それは、もともとさだかならぬドイツ人の日常用語であ.つたのであるが、テ ン昌ースは、これに学術用語としての朋確さを与えようとしたといわれる。元来ドイツ人は、彼らの歴史的環境を、生成 消滅する外面的なものとし、したがってたえずこれに抗争的態度をとると見られるのであるが、彼らは同時に、このこと を、国民的な永続的団結によってのみ、しかもその環境自体のうちから、これを可能ならしめようとしたと考えられてい る。それが、ここに論じられる国民協同体に他ならぬのである。       .  ドイツ民族のこのような歴史的自覚ともいうべきものをとり上げて、これを社会集団の問題として考察した点から見れ ば、テンニースの見解は、また意義を持つであろう。かるがゆえに、右の範疇は、彼の歴皮観に於ては、現実の利益社会 が協同社会に復古するという意味を持ち、この点から、それは社会自体め運動の範疇として理解されることとなる。      保険集団に於ける経浩学的問題       三

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     保険集団に於ける経濱学的問題       四  このような立場から成る彼の保険学は、また当然に、倫理性をそのうちに含んでいる。保険に於けるこの倫理性の具体 的表現は、彼にあっては公的には国それ自体であり、私的には協同組合︵OO昌Ouα㎝Φ討。骨Oげゆ幽叶︶に他ならぬ。すなわち、テン昌ー スによれぽ、近代の経済的協同組合は、協同社会と利益社会という社会学的概念の綜合︵要暮冨ω①︶として理解せられる し、国自体もまた、それが一般的な協同組合、いなむしろ国民的仲間団体︵<O一旦Q麿σqO5P①一5己喚Oげ僧㎞け︶に漸次改造せられることを        みずから必要と考え、またそれをしいられる限り、この綜合への雨芽を含んでいるというわけである。  そこで彼によれば、このような国や協同組合は、協同社会的精神を更新すべく、資本主義社会に於ける合理的・投機的 性格に対して、否定的︵くO弓昌①一qO5q︶かつ分解的︵N。弓聾N。甦︶に作用する。保険制度の病理︵℃簑ぎδ讐︶がどのような状態で         あるかを明らかにすることは、重要な社会学的課題である、というのである。  右のようなテンニースの思想は、多分にロールペックにとり入れられて彼の特色ある見解を形づくるに役立っている。 しかし、彼が協同社会として問題にしたところは、必ずしもテンニースに於けるように範疇としてのそれではない、と考 えられるのである。  すなわちロールペックが問題とする協同社会は、保険に関する限り、いわゆる保険協同体として具体的な存在を意味す        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   ぬ る。ただそれがあるがままの存在というよりは、あらしむべき存在であり、その意味に撃て、それは何らかの目標︵醤Φ7 ω⑦訂巨σ皇︶を持つものである。彼が、保険は協同を意味するとなし、この協同の目標から経営上の方向︵鵠一〇︸μ叶一一b一〇︶が与えら れると考え、また個人が、単独では防ぎ得ない損害に対する経済蔚平均︵b舅柞蚕曾︶を求めるところの、保険の社会的使命 は、同時に経営の社会的任務に対する規矩︵︸6帥Oげ挫ひoOげ︼P犀同・︶ であるというのは、まさしくこのことを指すと見ることがでぎ   る。  保険に於けるこの性格は、もとより国民経済自体の性格に由来するであろう。しかし、ともかく彼が保険に於て協同社

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会を問題とすることは、その裏面に於て、利益社会の存在を認容していることを意味するのである。すなわち彼によれば この利益社会は、営利的な資本・王義経済組織に実現せられるものであるが、保険は、この営利的目的を超えるところに成 立し、その理念は、唯物主義的方策︵目塑けΦ弓一P︸一ω叶一ロロ⇔けΦ ン臼帥凸ロロ目帥冑口口O︶ によって、その基礎が危からしめられる、ということに な魏・  このように、ロールベッ﹂クにあっては、協同社会はまず国民経済に於て、その具体的存在を示すものであり、構成体と しての保険団体はこの国民経済に基礎を持ち、これを実現せしめ、これに奉仕する手段として、また協同社会たる性格を 持つこととなる。この点から見るとき、集団形式としての協同社会と利益社会とは、彼にとっては、テンニースに於ける ような構造範疇ではなくして、むしろ実践的な意味をもつ構造規範として、これを考えなければならなくなる。  しかし、ここでわれわれは、もう一度ふり返って見る必要がある。もともと協同社会といい利益社会というものは、ロ ールペックが考えるように、それみずから具体的な存在であろうか。これらの概念が、歴史的考察によって導き出された ものであるにしても、それは、相互に載然と区別し得るものであろうか。いま社会学の対象は、具体的存在たる.社会のう ちから、いわゆるク社会的なるもの”を抽ぎ出した意味の、そのク社会”であるとすれば、あたかもこのような関連のも とに、いわぽこの社会のうちから、いわゆるク協同社会的なるもの”とク利益社会的なるもの4とを抽き出して、それら をそれぞれ協同社会と利益社会ということは許されないであろうか。  この点から見ると、協同社会と利益社会とは、単に抽象的な概念にとどまり、そのままには具体的存在たり得ないこと となる。いま、これをテンニースのように要素的概念と見ることが、むしろ適当であるかも知れない。このように、保険 に於けるいわゆる協同社会は、ただ相対的なる書斎に於てのみ、これを考えることができるのである。  ㊥ 日α目巳。。。“岡こ∪器く。話ぎ冨辱詔b目白島曾一昼N一90牲。。身受切Φ貯9魯け目口09”GDoN一90瞭の魯。ω言象。亀目昌q国営愈器♪一露ρ切P卜⊃層ω■悼盟      保険集団に於ける経浩学的問題      五

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  保険集団に於ける経済学的問題 9.餌.O  ω.悼ひα    .M 切。写冨。賞名﹂<o話ぼ冨弓目目α壁ω自甘諾魯帥隔辟‘冒餌く。屑巴9身βコσQ巴〇一瓢。噛一8メoQ8一㎝一ひ 勲鐸O。讐oQ■一ム噛前掲、︸五頁 山 ノ\ 白杉三郎訳、独逸保険論、一八頁 三  さて、右のような諸点についてワインライヒはいかに意えるであろうか。これが次の問題としてとり上げられる。総じ ていえば、彼の見解は、ロールペックに比して冷静であり、むしろ妥当であるように見える。  すなわち彼は、 ク祖国がわれわれに生命を犠牲に供すべきことを要求し得る奪合には、われわれの奉仕によって祖国に        役立つことが、何よりも必要で・ある”というフリードリッヒ大王の言葉を掲げているように、ドイツ国民経済を協同社会 として作り上げる糞意は、彼自身これをゆたかに持っている。しかし、それ、は、﹁生活の形式が自己の本義に徹する︵讐㎝冨        隆匿σq。ざ日暮昌。。爵︶場合にのみ正しい存在を示す︵魯隆量景色のであるから、協同社会がそのままの姿で実現し得るも のであるとは、少くとも彼に於ては考えられていない。      ,  しかのみならず、保険団体は、彼によれば、相互利益主義の合理性が支嫁するものであるから、たといそれが国民経済 に基礎を置くものであっても、協同体思想との間に直接の関係はあり得ない。その関係は、単に組織たる利益関係の秩序 として、また人が作り出した目的構成体と呼ばるべき社会構成体のうちに、それが反映したものに他ならぬ、というので    ある。しかしここに於ても、利益社会たる保険団体の実体が積極的に確認されているわけでは必ずしもない。   一  それゆえに、ワインライヒに於ける協同社会と利益社会との概念は、テンニースに於けるように、要素的意義を持つと 見ることがでぎよう。われわれは、テンニースの見解が、ロール、、ヘックよりはこのワインライヒに立て、むしろ多分にと

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弓 噛 り入れられていることを知り得る。このことは、同時に、次に述べるところと不可分の関係を.持っている。  第二にわれわれが注意すべぎことがらは、集団としての保険団体の右のような理論は、歴史的考察にもとずくものであ るかどうかという点にある。ロールペックは、保険制度の起源が、古代ローマや中世の相互扶助に求められるとともに、 このぽかに海上保険の施設が既に古くから商人的経営として行われ、また他面に、いわゆる社会保険が、組合的自助どし         てならび現われたとしたことについては、既に述べたところによっても明らかである。  ところで、このような考察が歴史的な一貫性を持たぬことについては、ロールペックもこれを認めている。しかし、実 はこのことに、彼に於ける保険協同体の本質が求められるのである。すなわち、彼によれば、右のような各種の保険の成 立原因は、外.面上の分離は来しているが、この分離は、近時の保険発展の上では、もはやその本質を反映するものではな い。これら諸種の運営形態︵ヒ﹂Φ誌Φ需毛蚕bd署暮。。。げ聾冒晦臨。彗︶ の内容は、同一の構造を示すという社会学的認識が、結局         は勝.利を占めるというのである。  このような社会学的認識の結果こそは、まさしく彼が保険について、これを危険団体としてとり上げるものである。保         険加入者が、経済的危険の担当者であり、この加入者の給付から保険が構成せられる、という特殊の技術的関連が、彼に 於ては、倫理性をそのうちに含むところの協同社会として墨筆せられているのである。ところで、彼がこのように倫理性 を強調するということは、実は、そのまま、彼が保険の歴史性を否定もしくは無視することに他ならぬ、と結論すること ’がでぎるであろう。        ,  この点から見るとき、・むしろ倫理性を否認するワインライヒに於てこそ、逆に歴史性の強調があると考えられる。彼が 保険の基礎観念は個人主義的精神態度にあるとなし、保険に類似する初期の形態は、近代保険の基礎観念の発見以前に属 すると考えたことは、既に述べたところである。いま直ちにかく論断することについては異論があろうけれども、ともか

     保険集団に於ける経済学的問題七

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     保険集団に於ける経洛学的問題’引

く、今日の保険が資本主義経済組織のもとに特徴を明らかにし、またそれが個人主義的形態に点て顕著であったことは、 これを認め得るのである。  このようにしで、ワインライヒの歴史的見解に問題はあるにしても、ロールペックがいうところの外面上の分離を示さ ない点では、少くとも彼は、魚皮的考察として一貫しているということができる。そしてこのことは、彼が、保険団体の 構成を相互利益主義に求め、保険技術を遂行する基礎としてこの思想を据えたことは、また、個人画餅時代の顕著な積極         的な業績であるとなしたことに、これを窺うことができる。  かくしてワインライヒは、保険の歴史的考察の結果として、その利益社会的性格を明らかにし、その意味に於て、昌協同 体理論のいうような倫理性を否定した。すなわち彼によれば、協同体思想と保険思想とが、しばしば混清して呼称せられ         るのは、皮相にして大まか︵喜の邑︶に過ぎた協同体思想によるものである。  右のように、保険の歴史的考察が、その倫理性の強調のために不充分に終った点から見れば、キッシュ︵を、.内一Q目Oぱ︶の 見解は、ロールペックのそれに比べてむしろ明快であると考えられる。すなわちキッシュによれば、保険については、そ の経済的意味以上に、社会倫理的ならびに個人倫理的︵。。。量〒Φ匿。・魯寒qご口言似毒〒Φ爵ぎど内容が注意せらるべぎであるが、        それは、本来の意味に立て協同体に対する奉仕︵巨。昌段き曾尾。§。募。げ9εに他ならぬというのである。、  キッシュに於けるこの倫理性は、犠牲︵○覧8を基礎とする協同社会に求められる。その場合に保険は、この犠牲によ ってその成立が可能となり、それの構.成という点では協同組合的︵σq8。ω。。。塁冨蜜諄︶な相互救済に他ならない。このような         倫理的思想が保険制度︵<舅ぼ誤写謁ω貯怨ぎ酔︶の限界をなすものである、というのである。 こころで、彼がこのような犠牲 にもとずくところの協同社会について、その任務の社会的要素には、信義︵目弓O目︶という個人倫理思想がつけ加えられる     ⑪ とする点が、ロールペックに比してきわめて注意すべきものであろう。

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 このようにしてキッシュにあっては、保険は、協同・犠牲・信義の三つの倫理的基礎理念の上に構成せられることが明 らかにせられたのである。すなわち、彼に於ては、保険は組合的に構成せられるものであり、それは共同の犠牲によって 可能となる相互扶助に他ならぬ。一切の保険の上には、 ク一人は万人のため、万人は一人のため4という社会倫理のうる わしい.根本思想が存在する。この倫理的性格のもとでは、保険企業は単に資本家的経済の担い手ではなく、保険協同体の         代表者︵冨量。・。纂きけ︶である、というのである。  ところでここに注意すべきは、保険にこの倫理性が問題とせられる場合には、しばしば資本主義的経済思想そのものが 否定せられている。このことは、ロールペックがとくに強調した点であって、保険が大規模経営として行われ、資本の強 度の蓄積と増殖とを示す場合にも、決して資本主義的のものではない。それは、つねに、他人の資本を以て他人の計算に         よって経営せられる、と述べているのである。  もとよりかくいえばとて、彼が資本そのものの作用を否定したのではない。むしろ逆に、労働こそその原動力であり、        、資本はその背後にあってこれに助力すべぎものである。しかし、 この場合、個人利益︵田遷巨9N︶もしくは企業の収利回 ︵國①︼P酔即ず一一一酵9酔︶に対する努力が、ことごとく排除せられると見ることは正しくない。それは、保険協同体の利益を尊重し、        ⑮ これを破壊しないものであるならば、また当然に許され得るというのである。        囑  これに対してワィンライヒにあっては、この資本主義的経済思想が否定せられてはいないが、また積極的に肯定ぜられ ているわけでもない。このことは、当時のナチスの政治的圧力のもとでは、やむを得ぬものと見られるのであるが、むし ろそれは、改めて問題とするに足らぬ程に自明のことである、と考えられた結果であろうかと思われる。すなわち、彼が 合理的相互主義を強調し、保険が、偶然にしてかつ見積り得べぎ欲求を、最少の費用を手段として平均するために構成せ        の られる之考えた点からも、このことを察し得るのである。

     保険集団に於ける経済学的問題九

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e@@@@@@ @・ @s@@ @・ @@@   保険集団に於ける経濱掌的問題      一〇 を,O闇肩Oざ戸国;∪一〇<Φ易幽。冨昌Φφ暑薯09。・ωo巴9Φ。・Qoび一一9ρ国.Pq■叩く−均ご一80一孕一ひO 即.9●O. P帥.O. oΩ・一㎝O    糟 閑。ぼぴ雪封騨.鱒O.”oa.δ1一一恥前掲九1︸○頁 p鈍O■一砕=⋮前掲、一〇頁 鉾pρい前掲 類.oぎ目08F鉾鉾○・噂ψ■ひco 帥●騨.○幽 oQ.一㎝O    剛 国記oFを.■り∪δ国爵即一目く。話ざ悶寂qロ∬雫ω名。ω㊦♪N■隔■幽・嘩く1類、■”一〇ω即oQ.帥cOO 臼■餌●○;oQ■PGQ一 薗・PO  oロ.障cQP   .︾ ゆ.ゆ・9り。つ。ゆ刈Olco一 図。げ筈の。戸即鱒○’一〇Q■=脚前掲、一一頁 即pO.一〇D.一ひ⋮前掲、 一八頁 騨自pO﹂oD●了い前掲、一二頁、國。7.ぴ8F<㊦易菖曾自⑩薦。日当霧魯9費。脅弓く。豊津。腎ざO葺題。”国・P9嘩く一場﹂おωρψ悼ωc。 を、o冒屋δ劃帥.即O二〇Q.一α刈 四  さて”われわれは、第三の点として、次のことに注意しなければならない。すなわち、一般に保険団体について協同社会 的性格を説ぎ、その倫理性を強調する揚合には、いわゆる生活経済学の立揚がとられているという事実である。いまこの 生活経済学の代表たるゴットルによれぽ、周知のように、経済は欲求と充足との持続的調和︵q聾霞軽口国玉響きσ。︶であり、 それは人台共同生活︵5PΦ口。慶O冒一一〇けOo2 N自の幽H口臼㊦巨一ΦぴΦ口︶の部分形成︵弓旦警琶言お︶であるが、保険はこの経済め一部分であり、

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        つねに全体と不可分に結ばれるとロールペックは考えるのである。  いったいこの生活経済学の見解によると、経済は、欲求を充足する︵画①o犀Φ師︶ことにのみ意義を持つものではない。単に それのみならば、それは、歴史的には経済以前のものである。経済ということの始まったのは、ひとびとが欲求充足の持 続を確認し、したがって同時に、意欲を満足せしめるあらゆる生起、 つまりいろいろのことがら︵Φ①。。oぎ臣昌︶の持続を知         つたことによる、というのである。 しこのような見解に於ける経済の根本思想は、シュタインによれば、欲求とその充足との持続的調和に応じて、この充足 の生起が将来も持続し、またそれによる統合︵国蕩琶器質8巳昌①爵。δそのものが存立するように、この生起を統合すること であり、要約していえば、経済構成体を形づくる︵Φ。ω琶自誓く§を謀の魯騨穿σ身①暫g︶という思想に他ならぬ。このように、 経済構成体.は、秩序づけられた生起の結合体︵Φ①ωO冒Φげ①口切くの同ぴ9口動︶であり、この秩序によって、その存立が保証せられるこ    ③       、 ととなる。  この場合には、一切の欲求は、経済構成体に帰せられなけれぽならぬと考えられている。たとえば、それは、家計や企 業などに帰せらるべく、個人に帰せられるものではない、というのである。もとより、この構成体を形づくる人々は、個 人的な欲望︵⇔﹂。・Φ浮噌閑Φ島臥募︶を持つ人その人であり、そしてこの欲望が欲求を生むのであるが、 およそこのような欲求 が果して充足せられるかどうか、またどのようにして充足せられるかは、経済構成体の側から定められることとなる。欲         求と欲望とは、ここにあっては、全く異った二つのことがらとして、それぞれ老えられているのである。  いまこの見解に曾ては、欲望は、単に個人の心中に存するところの衝動︵ωΦO一一〇げO LP目↑弓一〇ご くO唐 H冨q一く一q目昌︶を指し、その点 で実践的志向︵国魯貯養①ぎ舘箕罫口ω魯Φ口≦。ぎ塁︶たるものであるが、それは、欲求に対しては単にその機縁もしくは根源        ︵bロ一節ひワω Oq①目 名跡冒NΦ一︶としてのみ問題となるのである。 このようにして、欲望と区別せられるこの欲求の充足は、それの      保険集団に於ける経濱学的問題       一一

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     保険集団に於ける経済学的問題      一二 成果︵国お.ぴ冨最たる経済構成体を生むのであるが、いまこの構成体の構造︵ぎま睾︶に於て、その初歩の段階︵d暑邑臥の︶         の一つとして、貯蔵︵<O胃㊤歴︶ということが挙げられよう。  さてここに貯蔵というのは、将来の歓求に当てるため、現在に於て処分可能な対象のいくばくかを、当座の欲求にふり 向けずして、とり除くことであるが、それはゴットルによれば消耗貯蔵︵国聾旨。糞︶、確保貯蔵︵憩㊦冨鶏お鶉8讐︶、補償貯 蔵︵甲。・長く。箋︶及び運営貯蔵︵じdω民の蓼。糞︶の四種に分類せられる。いま保険に関係あるものとしては、このうち確保貯 蔵がとり上げられるのである。    .  このような点から、保険を偶然的欲求の充足を目的とするところの、貯蔵の一種とするところの見解が現われることと     なる。そして、まさしくそれを右のゴットルに求め得るし、また、いままでしぼしば触れて来たロールペックについて、 そのことを見るのである。ところが、ここに注意すべきは、ゴットルみずからは、この確保貯蔵という構成体の一段階が 保険と名づけられる特殊の組織に具体化せられる過程については、何らの説明を加えていないのである。さらにまた、こ の点については、ゴットルの見解にもとずくと称するロールペックも、直接に明らかにしているわけではない。  しかし、ロールペックの見解のうちには、彼がゴットルにもとずいたと称する根拠が全く認められぬわけではない。く 。り返し述べたように、ゴットルを始めとするいわゆる生活経済学理論は、経済を生活そのものとして捉え、しかもその生 活を、構成体に於て考察するのである。ここにあっては、生活の主体は構成体そのものであって、これを形づくる個人に 存しない。しかるにあたかもロールペックにあっては、まず考察せられるべきものは、構成体としての危険団体であり、 これを形づくる加入者自身ではないとせられている。保険事業は、そのまま、それが保護する︵び葺窪窪︶加入者共同の意         欲ならびに理想の表現であるとする彼の見解は、まさしくこのことを指すと見ることがでぎるのである。  ㊦ 国。ぼ宮爵闇斜斜O●闇oQ■8ひ

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@@ G) @@@@@ oΩ寶レOこ国ヨ控霞葺ロσq一5象oO同巨5臼凋窪く。筥≦冒誌。げ9難。。冨げび。♪一8。。噛。Ω■悼刈 勲費O’ oQ■ω一    噌 即勲O.”oQ■器 Q9自LO算日冨蔑Φ蜀国.く二bdΦ量臨自昌9∪Φ爵βロσq一一〇悼cO讐ロD■し。 鉾即OこoD●田臣脚∪。塗Φ︸び。讐詔馨ω。野津目幽を、諺88冨鉾一8ご目●悼”ω.“£串脚。ΩけΦ旦餌■pO﹂oΩ・㎝O霧 Φoヰ窄考綜盆魯罵計己Q.刈Oα庸・ 印南博吉、ゴットル理論の保険学に於ける展開、一橋論叢、七巻、一号。 麺。穿ぴ9F<霞ωざ冨昌コ㈹。。毒舘窪︸評9■O・一一α−ひ旧白杉、前掲、 ︼八頁 五  上述し来ったところによって、私は、保険集団についてのもろもろの見解のうち、とくにロールペックに注目してこれ を論ずるところがあった。そして、彼のこの考え方が、多かれ少かれゴットルの理論に結びついていることに触れたので ある。しかし、これについては、次のことがらに注意しなければならない。  いま彼は、加入者としての存在を、いわゆる危険協同体そのものに帰したのであるが、しかも反面、その保険に対する 意欲を認めている。この意欲という点については、あるいはいうところの共同欲望︵たとえばワグナー︶に近いであろう。 その場合には、これら意欲や欲望は、危険団体としての協同生活によって作り出されることとなる。  しかし他面に於て、ロールペック自身は、保険団体に対する加入者の自主性を認め、そこに保険の倫理的根拠を求めよ うとする。すなわち彼によれ.ば、加入者は、単に経営の指揮者によって支配される対象や客体としての存在ではなく、自 己の道徳的責任に於て行為する主体的構成員である。いわば加入者は、問接に保険企業であり、その態度や希望︵<Φ︸葺のロ        暮臼切①鳴穿窪︶に於ける責任の如何は、保険そのものを成就せしめることも挫折せしめることもでぎる、というのである。      保険集団に於ける経済学的問題      =二

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     保険集団に於ける経濱学的問題      一四  この点から見ると、加入者についてロールペックが考えている共同の欲望というのは、保険団体の構成のために根本的 なものであり、保険は、むしろこの欲望を満足せしめる手段と考えられていることになる。すなわち、彼が保険を指して 個人が他の同胞の助力を必要とする場合に、その対策たる組織化せる自助であるとなし、またこれを、国民協同体に対し        て使命を持つところの経済扶助の手段︵鼠弓ぎ匿皆ぽ冨・国営陶・巨明麗︶と考えたことは、明らかにこれを示している。  その結合には、この欲望は、さきに述べたような欲求の機縁や根源としてのそれではなく、また欲求の充足によって満 足せしめられるものでもないであろう。私見によれば、ロールペックが、この欲望に共同という言葉を冠したのは、保険 団体の協同社会的性格を導.き出すためであり、保険団対自身が構成体として、欲求充足の持続的調和をはかると考えた結 果ではない。これをいま持続的調和という点から見ると、それは、個々の加入者の欲望についてのみ考えられているにす ぎないのである。  保険団体そのものが構成体として持つところの欲求については、ロールペックは、別段これに触れるところはない。こ のことは、彼について、まず注意すべき点である。もとより、構成体としての保険が持つ欲求は、いわゆる財に関するも のでないことは明らかであろう。そこで、この保険が、右の偶然的欲求の充足に必要な設備をまず整えるという点で、ゴ ットルがいうところの先行充足︵<o疑の爵暮σq︶が行われ、 ついでこれを可能ならしめるために保険料を取立てるという点        で、本格充足︵]固一昌自㊤O忍目冨鵬︶が行われる、という見解が生れ得るであろう。私の見るところでは、ロールペックみずからは この意味での構成体を考えているとはいえないのである。  ロールペックが構成体と考えている保険団体は、さきに詳論したように︵本誌、第三八号︶、実は危険団体に他ならず、し かもこのことは、一にその技術的関連にもとずいている。この技術的関連は、たまたま彼に於て、倫理性の基礎となるに すぎないのであって、またその倫理性のゆえに、この危険団体が危険協同体として考えられているのである。

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 ところで他面に於て、彼は、保険団体の協同社会的性格は国民自体の協同社会的性格にもとずくと考えている。すなわ ち、保険の任務が国民協同体への奉仕に存するという点から、この協同社会的性格が認められるのであり、その意味で、 また国民経済の部分構成体として理解せられるのである。彼が危険団体について強調する倫理性も、このような関連から 生れたものにすぎぬと見られる。  このようにして、構成体としての保険団体は、ロールペックにあっては、いわゆる生活経済学に於けるように全一の生 (] w⑦ぴO口 岱一員ロ φ帥口NΦoq︶として理解されているとは見がたい。生活経済学は、いわぽ全一の生としての構成体を捉えて、そこ に経済の本質を求めるのであるが、その構成体の構造図躊が協同社会であるか利益社会であるかということ.は、決して直 接の問題ではない。ただその生が本源的な回合、たまたまこの構成体が協同社会の性格を持つにすぎぬのである。  しかるにロールペックにあっては、これと異って、生は加入者たる個人に存在し、保険団体に対しては積極的にこれを 認めていない。彼が保険団体を協同社会として考えるのは、単に、その構成という意味に於ける社会関運にとどまってい る。この点から見ると、ロールペックが説くところの保険協同体は、その実質に於て、ジンメルやテンニースに於ける社 会集団の形式的な関係的老察の域を出るものではない、ということができるる。  しかのみならず、この考察の意義は、テンニースのそれとは全く同じではない。それは、既に触れたところがらも明ら かである︵本誌、第三五号︶。このように見て来ると、われわれは、 ロールペック自身ゴヅトルの見解にもとずくと称する にかかわらず、実はその真義に徹せず、これをまげて用いたと考えなければならない。彼に正面的に反対するところのワ インライヒは、保険団体の利益社会的性格を説き、その点から見れば生活経済L学と隔るところがあるが、ロール、、ヘックの 見解に比べると、むしろこれに近いとすら考えられるのである。 ㊥ 蜀。げき①oドく曾。・ざげ霞自ロ㎝含鴛魯目②♪鐸p9㌔’ψ●望   保険集団に於ける経濱学的問題 ﹁五

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    保険集団に於ける経濱学的問題 ㊥ ∪Φ窃Φぎρ<程ω器9旨昌σq。。乱客零冨貸㊤・㊤.○・讐ψ・悼Q旧前掲、一一七−八頁 @ 印南、前掲⋮<o疑9園訂ロσq及び国印色。簿自尊αqについてはくσqピφoけ芦ヒd鐘母抽P暫・OGO・ αO聡・ 一六       六  保険団体の経済的性格を論ずるについてロールペックをとり上げるとぎは、必ずその反対庇立揚に立つワインライヒを 同時に問題とせねばならないし、また私は、既にこれを試みて来た︵本誌、三五号、三八号︶。そこで重複のきらいはあるが もう一度彼の登場を煩わし、それによって本論の結びとしたいと思う。  ワインライヒは、既に明らかなように相互利益主義を強調したのであるが、彼は、保険思想をきわめて冷徹なものと考 え、無条件にこれに倫理的意味を与えようとしない。しかし、この保険思想は、彼に於ては、国民協同体に仕えることに よってのみ、この思想との正しい関係を再現することができるのであり、保険は、生活の確保を目的とし、それによって 国民協同体に仕えるあらゆる行動と同格︵σq一Φ一㊦げO 國P5σqO︶の営業たり得る。そこにあっては、各職業が、自己の任務を正し         くかつ合目的々に実行することによって、それぞれの持揚に於て全体の意義が実現せられる、というのである。  これによって明らかであるように、ワインライヒは、構成体としての保険を、必ずしも本源的なものとしているわけで はない。いな、それは、本源的な構成体たる国民協同体によって成立するところのいわば目的構成体として考えられてい る。この点に於ては、彼は、保険をいわば本源的構成体とするロールペックと異るが、ともかくその構成体に於て、国民 としての全一な生活が可能ならしめられると考えるのである。その限りに於て、ワインライヒは、いわゆる生活経済学の 理論を自称しないにかかわらず、私の見る限りでは.、その意義を、ロールペックに比して︼層適確に捉えたものというこ とができる。

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 右に述べ来ったところによって、私は、保険集団の性格についての経済学的な問題が、その構成について、とくに構成 体そのものに生活σ全一性の根拠を求めるところの、倫理的理論のうちに見出される次第にふれた。そしてその理論の展 開が、多かれ少かれ社会学と.くに形式社会学の立論に影響されていることを論じた。ロールペックやワインライヒの所論 にしばしば論及したのも、そういう観点からに他ならない。そこで、いったい経済学たるところの保険学に於ては、そう いう論義は本質的にどのような意味を持つであろうか。保険本質論の観点からは、保険集団の構造はいかなる性格を帯び るであろうか。それが、当然に次の課題を形づくるのである。これについては、改めて論じたいと思う。 ㊥ 貞㊥ぽ目①δ戸鉾帥.O■ωの♂OIひO 保険集団に於ける経濱学的問題 一七

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