• 検索結果がありません。

現代の具象彫刻 : その精神と構造

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "現代の具象彫刻 : その精神と構造"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 現代の具象彫刻 : その精神と構造. Author(s). 峯田, 敏郎. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 17(1): 146-160. Issue Date. 1966-06. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4551. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 17 巻. 1年6月 昭和4. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 第1号. 現. 代. の. 彫. 象. 具. 刻. - その精神と構造 - 峯. 田. 敏. 郎. 北海道教育大学岩見沢分校美術研究室. i Tos ご!△ ; Rea1 Sculpture Today ro, MーNI. ハ ind and Structure -- t -- エ sハ. 目 1 抽象彫刻と具象彫刻. i)現代彫刻の歴史的考察. i) 発想と形態による考察 i 嶺) 抽象彫刻と具象彫刻 口 具象彫刻論. 次 i) 具象彫刻に於ける構造. その1 具象性 その2 象徴性 i) モデルの生命と彫刻の生命 i i i i) 具象彫刻の進路. 1 抽象彫刻と具象彫刻 i) 現代彫刻の歴史的考察. in) t e Rod s , 現代彫刻を考える時に, まずその先駆的役割を果 したロ ダン (Augu. l e), (Antoine Bourdel. フ ー ルデ ル. i l i l l l an) 等 の 一 連 i es Desp ), デ ス ピ オ (Char o sdde Ma マイ ヨ ー ル (Ar. の表現主 義, 叉は印象主 義ともいえる作家をあげなけれ ばならない, ルネ ッサンス以後絵画にそ 9世紀後半に於いて, よう やく 対等の位置をとり もどしたので の主流 を任せて しまっ た彫刻は, 1 ある. 当時の印象主 義の画家達が, あ らゆる物体を光に還元 して描写 したようにロダンも叉彫刻 の表面に 光と影の躍動する効果を表現 しようとLた. しか し三次元の芸術である 彫刻には, 光と 影は必然的につきまとうものであり, これのみに終 始していたな らば, 一印象主義者として消え 去っ ていたかも しれない. 彼の現代彫刻の先駆者といわれるゆえんは, するどい構造力と充実空 間, そ して全体を統 一する力強い感覚と的確な表現力をもっていたか らである, ロ ダンの弟子で あり, 後に彼とは 対立的な立場をとるようになっ た プールデルは, 表現主 義的な仕事を基礎と し 幼少の頃か ら仕込 まれた構築学の知識をもっ て, 力強い作風を示 している. 晩年は, 東洋風の神 秘的な境 地にも進んでいる. マイ ヨールは, 彼等とは別の主張をかかげている, 躍動する力を内 -す こ と を 主眼 と した 彼 の 部へお し込み, 緊張感にあふれた一連の作品を残 し 形態をつくり出 態 度は, ロ ダ ン, プールデルとは異っ た意味で, 現代彫刻の先駆者と して注目 しなけれ ばな らな い.. l ) 等 の 作 家 が マイ umentha l be), ブ ルメ ンタ ー ル (Hermann B1 ドイ ツ の コ ル ベ (Georg Ko ー146-.

(3) . 現 代 の 具 象 彫 刻. ヨールの影響をうけ, モデルの印象か らは離れた, 彫刻と しての形態の表現に, その主力を そそ い で い る,. う ヨノ { ちモ ギ1. 慶 ,響 き …. -. . ロ. ダ. ン. プー ル デル. マイ ヨ ー ル. 19世紀後半に, 再び突如と して開花 した彫刻は, 20世紀にはいると更にさまざまな表現形式と. 目 的 を も っ て 現 れ てく る. 1910年 前 後 に お こ っ た, 絵 画 に於 ける キ ュ ー ビ ズ ムの 運 動 に, 彫 刻 界 も ま た 歩 調 を あ わ せ る 事 に な る. ロ シア 生 れ の ア ル キ ペ ソコ (A1 i exandor Arch o) は, 幾 何 pent. 学的な立方体による建築的構成を彫刻の生命と した. くり抜き方による空虚空間と, 凸面のたく みな粗合わせによっ て, 人体のもつ有機的 な組立をさけ, 無機的な形の構成に, その生命をたく して い る, プ ラ ス の 空 間 と 呼 ば れ る 従 来 の 空 間 意 識 に 対 して, く り 抜 きと 言 う い わ ば マイ ナ ス 空 間 の 出 現 は, 彫刻 の 世 界 に と っ て 画 期 的 な も の で あ っ た. こ の ア ル キ ペ ソコ の示 した, 幾 何 学 的. な立方体による建築的構成と, マイ ナス空間の試みは多く の影響をその周囲にあたえている, ロ i i シア生.れ の ザ ッ キ ソ (oss ne), フ ラ ンス の ロ ー ラ ソス (Henry Laur ence) 等 の 作 家 も, p Zadk キ ュ ー ビ ズム 的 な 形 の 組 立 を 主 眼 と して 数 々 の 作 品 を 発 表 して い る, こ れ らの キ ュ ー ビ ズム 彫 刻. アルキペ ソコ. デ ュ シャ ン ・ ビョ ソ. ー1 47-. ガ. ボ.

(4) . 峯. 田. 敏. 郎. は, 次 のイ タ リ ア に 起 っ た 未 来 派 の 出 現 に より, 更 に お し進 め られ る,. ポ ッ チ ォ ニ (Vmber to. i i Boc ) は, 彫刻によっ て, 機械の力動感や運動そのものを表現 しようと して大胆な実験を試 c on 91 みた. 1 2年の彼の 「未来主義彫刻技術の宣言」 は, その後の, 構成主義の新しい空間や, モ ビ. ル 彫 刻, 及 び 彫 刻 の 素材 へ の 拡 張 を予 言 して い る, デ ュ シ ャ ン・ ビ ョ ソ (Raymond Duchamp-. Vi l l on) の 作 品 「馬」 は 馬と機械とを結 びつ けることにより, その力動感を表現 した, 未来派の. 主張を正 しく 受けつぎ, 発展させたのは, ロシアに於ける構成主義である. モデルとなる主題を とりさり, 内在する精神面を強調する. しかも生命的な形態を否定 し, もっ と普遍的な空間のリ 7年前後に起っ たこの運動に於いて, は じめ て抽象性と 91 ズム を抽象的, 幾何学的に構成する. 1 l i imi n), ガ ボ (Naum Gabo), ペ ヴス ad r Tat い う 理 論 の 裏 付 け が 行わ れ てく る。 タ トリ ソ (V1 ナー. (AntoinePevsner). 等 が 代 表 的 な 作 家 で あり, こ の 主 張 は ドイ ツ の バ ウ ハ ウ ス の モ ホ リ ・ ナ. l l ly-Nagy), イ ギ リ ス の ニ コ ル ソ ソ (Ben Ni son), ヘ ッ ブ ワ ー ス (Barbara cho ギ (Lasz o Moho. Hepwor th) に ま で お よ ん でい る, ガ ボ やペ ヴス ナ ー は, ガラ ス, プ ラ ス テ ィ ッ ク, セ ル ロイ ド等. の透明な素材を用いて, 量, 塊, あるいは 物質に対 して, 空間を優位におくことの実験を試みて いる. これ らの透明素材を, いわ ば, 空間そのものをもっ て構成する空間を, 一般に機械的空間. と 呼 ばれ て い る. こ れ らの 流 派 と は 無 関 係 に 研 究 を続 け て い た, ル ー マ ニ ア 生れ の ブ ラ ンク ー シ i ) も ま た, 現 代 彫 刻 の 発 展 の 上 に, 忘 れ るこ と は 出 来 な い, (Cons媛nbn Brancus. 形の意識. に彫刻の最も根源的な構造を発見 した彼は, 幾何学的な単純化, 形態の抽象化を試みた. 「現実 的な実感は外形にあるのではなくて, 物体の芯にある, この事実か ら考えると, 物体の外面を模. 写 しなが ら何か現実感を現わすことは, 誰にとっ ても不可能な事だ.」 という 彼の言葉は, 彼の行 ’ 、. . . . ず 覇圃圏 圏 瞳麟園 瞳 蟻 腰騨務 oワ ー ス ヘ ッフ. . - 剖 綻 敏 一 鵡繍 灘 ぐラ ンク ー シ フ. 霊園 鰯,霊園灘 園園獣 灘纏 カ ル ダー. っ た実験を最も端的に表わ している. ブラ ンク【シの影響を得て, ノ遂にのやわ らかな隆起を思わ せ る 基 本 的 な 抽 象 形 態 を追 求 した フ ラ ンス の ア ル ブ (Hans Ar p) . 彼の作品は 「自然の凝縮」 と 義 構成主 の行 ばれ 象形態が注目されている 才 由 呼 っ た冷い幾何学的 抽象に対 して, . , その暖かい. ブ ラ ンク ー シ の 形の意識 という彫刻の基本的なものか ら出発した抽象は, 有機的抽象といわ れ, こ の 一 つ のれ封象が, 今 日 の抽 象 彫 刻 の 生 み の 親 と な っ て い る. そ の 後, ブ ラ ンク シの 形 io Gonzales), ア メ リ カ の カ ル ダ ー (A1 exander の意識 と は 別 に, ス ペイ ンの ゴ ン ザ レス (Jul. Ca l der) 等 の 研 究 が あ げ られ る, ゴ ンザ レス は ス ペイ ンの伝 統 的 技 術 をい か しな が ら, 鉄 板 を用 4 -1 8-.

(5) . 現 代 の 具 象 彫 刻. いて写実的な, しかも素材のもつ生命と彫刻の生命とを巧みに融合させた作品を残 している, カ ル ダーは彫刻の有する不動性という一つの宿命に対 して可動性の実験を試 みている. つ まり針金 と金属板とにより, バ ランスを複雑に組合わせ, 空気の動きによっ て, 複雑な運動をおこすよう に工夫されたものである. これによって, 物と空間との関係が予想も出来ない無数の形の連続と して 表 現 さ れ る の で あ る. こ れ らの 一 連 の 作品 をモ ビ ル (動く 彫 刻) と 名 付 けて い る カ ル ダ ー .. は叉, このモ ビルの出現と共に, 動きによっ て起る摩擦音, ふれあう音, 衝突音等の音響効果を 試 み て い る.. 1 94 0年以後, キ ュー ビズム的な彫刻がほとんど姿を消 し, 構成主義のいわゆる無機的抽象と, ブラ ンクーシの有機的抽象の二つの流れが交錯し, 抽象彫刻と してその彫刻性を保ち, 一方 二 , つの抽象的な形態と人体との融合による具象彫刻, 及び表現主義的傾向と, 古代芸術の生命力を とりいれた具象彫刻, その他明白に区別のつかない色々 の表現形式, 主張, 実験等, この複雑な. そ して難解な作品の出現が, 現代の芸術界の一般的な動向ともいえる. この混乱 した現代彫刻界 の 中 で, 各 国 に於 い て そ れ ぞ れ の 特 色 をも っ た 作 家 が 一 団 と な っ て 活 躍 して い る. スイ ス の 作 家. ber i に は ジ ャ コメ ッ テ ィ (A1 to Gi t l i ), マ ッ ク ス ・ ビ ル (Max Bi acomet ) が い る, ジ ャ コメ ッ テ. ィは, 人体や動物をとりまく空虚空間と の戦い, 叉彫刻の追求 が 無 になるという彼の有形芸 術たる彫刻に対する矛盾のくり返 し, そ して果 しのない空間に自己を主張するさけびとなっ て, やせ 細 っ た 線 の よう な 作品 が た た ず ん で い る, イ ギ リ ス に は, ブ ラ ンク ー シ の流 れ をく む, ム ア. (Henry Moo r e) がいる, 第二次大戦中, 防空壕に避難する人間の姿に心を動かされ, 具象的な. 形態の中にも, 独特な空間意識をもって, 心理的な効果が力強く表現され ている. ムアを中心に ina l l d But そ の 他 ヘ ッ プ ワ ー ス, バ トラ ー (Reg ), チ ャ ドウイ ッ ク (Lynn Chadwi er ck), ア ー ミ th Armi錠g テ ー ジ (Kenne 幻想的叉 ) 等 抽象彫刻の要素を多 e は く含んだ彫刻家が活躍中であ ,. ,メド も も ,三 ,. 一.. . , , { す. ニキ ム. ア. 毅然 斐 評 議 .. . マ ッ ク ス ・ ビノレ. ー ー ー ● ” .・● -・i - ア ーミ テー ジ. -149-.

(6) . 峯. 田. 敏. 郎. る。 イ タリアに於いては, 自国の伝統を強く 維持 しなが らルネ ッサ ンス以来の表現主義を受けつ ぎ, それに古代の素朴な生命感をとりいれた具象作家, 及び構成主義の無機的な抽象作家が活躍. ソマイ ー ニ. i i i ), マ i) に 始 ま っ て マ リ ー ニ (Mar n in i lo Mar l t turo Mar して い る. 前 者 に は, マ ル テ ィ ニ (Ar l i G E i 種 i i ) a i l F グ ( c o P o r e , マス レコ iaconlO Ma1 フ ァ ッチィ 二 ( erce azzn)) ・z ) ン ズ ー (G ,. l i l ケ リ ー ニ (Mar ), 後者 に は, ni ce o Mascher. i ne) 等の作家が い sco soma ソ マイ ← 二 (France. i i enne Mardn). アメ リ カ の ラ ッ ソ ー er), マ ル タ ン (Et n Li chi る, フ ラ ン ス の リ ッ シ ェ (Germa (lbram La s ow) 等, 多く の作家が注目す べ き仕事を発表 している. s. 以上簡単にロ ダ ン以後の現代彫刻の流れを考えてみた. これ らの流れをみると, 実に淡々 とし た統一ある流れのように感 じられるのであるが, 現実はそうではない. 客観性と写実の迫力にさ ・精神描写に進 さえ られていたロ ダ ン当時か ら主観と内面写実という, 目では見ることの出 来なし んでいる彫刻界は, その表現手段 も思考もまちまちであることは当然である, この混乱 している 彫刻界に於いて, 私達制作者も, 何を基礎と し, 何を典 型と して学び進むか, もは や彫刻界の流 れよりはむしろ, 個々人の思考に基 づいてより 彫刻的であり, たり芸術的であるものを見きわめ. 進んで行くこと が要求されている. i i) 発想と形態による考察. さて, 混乱 状態の現代彫刻界の中にも, 大きな流派と して, 抽象彫刻と」も象彫刻の対立をみる. こ と が 出 来 る. そ こ で, こ の 一 つ の 彫 刻 の 根 本 的 な 問 題 を, 制 作 者 の 立 場 か ら考 え て み た い,. 彫刻の制作にあたり, 表現 しようとする制作者の精神的な働きの中に, 大きく 二通りの型が考 一つは, 最も しばしば行われている自然物の形象 え られる. 一つは抽象観念による発想と, 他の- を媒介とする発想である. 抽象観念による発想とは, 制作者の内面感性の表出であり, 叉目で形. をと らえることの出 来ない, いわ ば 「悲しみ」 ・ 「喜び」 ・ 「風」 等の抽象名詞 に代表される言 葉の表出 であるこ ともある. これ らの無 形の観念による発想に対して, 有形の形象を媒介にする 発想は, ほとん どの場合は 人体であり, 動物であり, 時には海岸でひろっ た貝殻であっ たり, 路 」 二で日にする石であっ たり する. い ずれにせよ, 自然物の形象と して有形であり実在するものに - そ の 発 想 の 源 をお く 型 で あ る.. しか し, こ の 一 つ の 発 想 の 型 か ら, 一 概 に 前 者 はれ”象 彫 刻 で あり. 白 土故ならぼり 無形の観念による発想であろう 後者が具象彫刻で ある, という早合点は許されない. ィ -150-.

(7) . 現 代 の 具 象 彫 刻. と, 有形の実在するものによる発想であるうと, 彫刻という有形, 可視芸術の前では, すべて具 体的なある形態をもっ て表出されなければな らないからである, 無形か ら具体的な形態を, 有形 か ら具体的な形態を, ともに発想は何であれ, 具体的な形態をもって表出 しなければな らないと. いう彫刻として存在する必要条件を, 満足させなければな らない, 具体化され, 有形化せ られた 結果の前には, もはや抽象も具象も存在 しない, 発想は抽象であり, 結果は具体化された形であ. る, 従っ て彫刻作品には, 抽象は存在 しない. 存在するとすれば, それは結果と しての形態 の示 すものであり, 抽象形態の彫刻か, 具象形態の彫刻か, そのいずれかである. 発想が抽象観念か らの, たとえば 「悲しみ」 と言う彫刻を制作しようとする時, Aは自然物の形象であるノ\体に,. その具体的形態を借りるかもしれない し, Bは自然物の形象には存在 しない, 全く異っ たも のを その具体的形態として, 表出するかもしれない. 叉, 自然物の形象か らの発想, たとえば人体 を. 媒介と して制作される時です ら, Aは 人体の有する有機的な形を通し. て素直な人材む、う具体的形態に その形態を借りる 蝿 しれないし 圃 圃 響 き灘. 霊” 罰. は じめて自分の追求 していたものが出来たという喜びが起っ た。 しかし次 の瞬間, 何の形も残 ら ないものは彫刻ではないと気が付いた, たとえそれがいく ら秀れていたとしても, 叉自分の満足 出来る作品だと しても, 自分の意志を伝えるものが形と して残 らなければな らない. その後私は 作品 が 無 に な る 寸 前 で, 彼 等 (作 品) を 救 う こ と に した.」 と い っ て い る ジ ャ コメ ッ ティ の 言 葉 で. も示されているように, 制作者がいかに秀れた彫刻を頭の中で, 描き造ってもそれが有形の具体 的形態によって示されない限り, 彫刻と して他の人々に認知され得ないのである. i i i ) 抽象彫刻と具象彫刻. 制作された作品の形態にのみ, 抽象, 具象が存在することは前にのべた. ここで, その形態が 抽象形態を示すか具象形態を示すかによって区別される, 抽象彫刻と具象彫刻について考えてみ たい. しかしなが ら, 作品の示す形態が, 抽象形態を示すか具象形態 を示すかを明確に区別され すは, 両 極 端 を を のぞ い て は, は な は だ 困 難 な こ と で あ る, が そ の 示 す 比 重 の 強 弱 に よ っ て, る写 一 つ の い ず れ か に 区 別 さ れ る こと は 可 能 で あろ う .. 1 抽象形態の彫刻…………これは自然物の形象にその形態を借りることなく, 全く異 ったも のを表現しようとする, ある観念の中に生ずる形象であり, 想像的な幾何学的形象を刺戟的 に便 -15 1-.

(8) . 峯. 田. 敏. 郎. 用することに基 づくものである非具象彫刻・抽象彫刻等がこの型に含 まれる. 2 具象形態の彫刻…………自然 物の形象にその形態を借り, その生命現象を表現 し, 叉より. 普遍的に再現 しようとするものであり, その効果は誰でも知っ ている対象を, 再び知ることによ っ て行われる快なる要素に基 づく ものである. 自然主義的なもの・表現主 義的 なもの・写実的な もの・具象彫刻等がこの型に含まれる.. 以上, 制作された作品の形態により, 二つの型に分類をしてはみた ものの, これはあくまでも 一般的な表面上の分類であり, 制作者までもが, このいずれかの型に分類されるという 訳のもの では決 してない. 彫刻が彫刻と して成立するためには, この一つの型が互いに交錯し, 補ない合 わなければな らないのである, 抽象彫刻にあってはその要求度はひくいものであり, 叉は不必要. なことも充分あり得るものである が, 具象彫刻にあっては全く それを無視することは出来ない. 具象彫刻が彫刻と名付け られるためには, 自然物の形象にその形態を借りなが らも, 意識的に無 視 しなけれを な らない かも しれない し, その結果抽象といわれ得る幾何学的な形象にまで立ち入. らなけれ ばな らない矛盾さえも起っ てくる, 叉必要度は少ないとは言え, 抽象彫刻が彫刻といわ れ得るために, 想像的な幾何学的形象のみに終始することが出来ず, ある複雑な人工的操作をほ. どこすことにより, 終極的には自然物の形象に類似するか, 自然物の形象にその形態をゆだねな ければな らない矛盾 も, しばしば起り得る, これ らの事は結局すべて制作者である彫刻家に与え られた表現上の手段であり, 表出 しようとするイメージに最も適切な手段を選択 し, 複合 し, 利. 用する一つの方法で しかない. その表出された結果 が抽象彫刻であれ, 具象彫刻であれ, 彫刻と しての存在価 値がより秀たる ものであ〆ほぼ, ただそれのみが制作者の喜びであり, 生きがいであ る, しか し, 抽象彫刻と具象彫刻の存在 した歴史的な背景と, より芸術の一分野と しての彫刻の 追求 に価値をみいだそうとするな らば, 次の事が言 える のでは なかろぅか. すなわち, 現に存在 している抽象彫刻とは, 具象彫刻と言われ得る 彫刻の, あ らゆる自然物の形象が有する外面上の 複雑さを否定 したもの, ミ レーの言葉を借りれ ば, 「余計なつきものはいかにみ ごとであっ ても 」 な どを極端化した, いわゆる 私は最も嫌う. それは全体の印象を散漫な らしめ, また弱くする.. 彫刻存立と して最底眼必要とする構 成的要素と, 造形的骨組に, その追求の焦点をしぼった, あ る意味では純粋な彫刻に対する従事ではなかろうカー・…と. たとえ ば表面的具象意識で制作され. た人間の足と, 幾何学的形象を用いた角柱とを彫刻的意識で比較 したと しよう, その時, 量の緊 張と構成力に於いて, 角柱の方が自然物の形象である人体の魅力のために弱められたそれより, 秀れているということもうなずく ことが出来よう. おうおうに して見受け られるこのよう な現象. は, おそ らく具象彫刻の本流か らはずれた, 現代具象彫刻の敗北の結果では なかろぅか. ヒュー マ ンな暖かみの欠けた, 叉合理的 要求のために疎外されつつある素朴 な生命感を与えるために, 抽象彫刻の有する構成的要素と造形的骨組に, ヒューマ ンな暖かみを与え, 素朴な生命感を与え なければな らない, 言いかえれば, 抽象彫刻的要素を, 具象彫刻の基本的要素と して再び真の具. 象 彫 刻 に た ち も どる べ き時 期 に きて い る の で は な か ろうカー …・と.. 口. 具 象 彫 刻 論. i) 具象彫刻に於 ける構造 勝その1 具象性 一 土 「写実的なもの」 とは, 彫刻の上でどんな意味 「具象」 ……もっとわかり やすく言いかえオ敏 をもっ ているのであろうか, 「写実」 と言う言葉上の解釈は, 実際に存在するものを写 しとるこ -152-.

(9) . 現 代 の 具 象 彫 刻. と, すなわち実物を写しとること である, しか し彫刻上で使用される時のその意味は, 言葉上の 解釈の意味とは一致 しない。 言葉とは一種の記号であり, たいていの場合は, 物が存在 した後に. 生れでるものである. 過去の芸術に於いて制作された作品は, 特別の場合 (たとえも 壁面装飾の ための文様とか, 柱の構造上か らくる, 叉装飾か らく る文様等) を除いては, ほとんど自然 物の. 形象にその形態を借りたものであった, そ してそ の制作された結果の形態か ら 「写実」 という言 葉が生れたと いえる. ところが言葉は意味を有し, ともすれ0ギ言葉が結果を左右するような倒 錯 がしばしば起り得る. 過去の一般大衆にみうけ られた美術鑑賞は, 多分にその倒 錯が行われてい. た. 実物に, より似ている作品に安心 し, 似てないこと に対 して, その作品の芸術的価値と r , F 者の技術に疑問をいだいていた. その事が一般通念となるに従って, 実物をより正確に より類 , 似的に制作されることが 「写実」 となり, この言葉が制作される作品の進路をまで, 決定 して し まったのである. ギリ シア彫刻が秀れて いる理由は, 作品が全く 実物と同 じよう に制作されてい るか らではなく, 芸術として, 叉彫刻と しての成立要因を, 多く含んでいるか らであり, ただ形 態として, 人間の裸の姿を借用 しているにすぎないことを 認識しなければな らない , , さて, 絵画に於ける具象を考える時に, 彫刻に於けるそれとは異っている 絵画に於いては , , 写実という言葉上の解釈と, 同様に制作されたも のでも, その存立価値を認めることが出来 る . パ ス カ ル が 「実 物 に は い っ こ う に 感 心 しな い , と こ ろ が こ の 実 物 がひ と た び 絵 に な る と 人 は 実 物 に似て い る と い っ て 感 心 す る.」 と 言 う 言 葉 を残 して い る こ の言 葉は 確 か に う な ずく こ と が 出 , ,. 来る, 事実, よ ごれた着物を まとった,よぼよぼの老人でも, 台所の隅に つ まれた野菜 でも 花び , んの中に忘れ られた枯れた花でも, たとえそれが, 実物そっくりに描かれた時です ら, そこには 一つの絵画と して, 実物のそれとは異った 世界として, 立派に存在することが出来る これはす , なわち, 絵画が有する平面 の世界の, 一種の魔法と考えることが出来よう, 実物という三次 元の - -ー - - ‐、 = 7 世界に存在す る自然物の形象は 絵画という二次元の世界に移行され 1 ,. ,. 実 物 そ の も の と して の 実体 は, 全く 失 わ れ て しま う こ と に よ る. 三 次. 萎 遠1. のものにはなり得ないか らである. 所で, 彫刻といぅ本質的に三次元. て 元の空間に存在していた実物が, 二次元の世界で, たとえ実物と著 し ・ き ‘ く 似ていたとしても, これは似ているという事実だけであり, 実物そ 滋 ‘“ ′. の 世 界 に 属 す る 作 品 に, こ のこ と をあ て は め る こ と が 出 来 る で あ ろ う. 事. … か, 「写実的でしかないような絵画でも, それなりにある種の魅力を 二 もち得るが 写実的だけでしかないような彫刻は 何の魅力も持ち得 , , な い.」と アメ リ カ の 評 論 家, ジ ョ ソ・ キ ャ ナ デイ が 言 っ て い る よ うに. 1. 1 三次元の空間に存在している自然 物の形象が, そのまま三次元の彫刻 作品に移行されたと したな らば, 絵画の世界で考えていたそれとは, 全く 異 っ た 結 果 に な っ て しま う こ と は 明白 で あ ろ う, 且 っ て ロ ダ ンが. ,. 青銅時代 とし・う青年立像の作品を世に出 した時, 人々はそのみ ご. と さに 驚 き, つ いに は 本 物 の 青 年 か ら型 をと っ た も の だと い う 誤 解 ま きき. ぎ”. で 発 した こ と が あ る. な る ほ どそ の 作品 は, 写 実 に 徹 した み ごと な も. のである, しかし当時の人々が誤 解したように, 事実青年か ら型をと. っ た も ので あ っ た と した ら, も しく は, た だ 本 物 そ っ く り の も の で あ た と どの う した ら とに な っ て い た で あ ろ う か. 実 物 か ら型 を と っ た も の, た と え ば デ よ な こ っ , ス マ ス ク やマ ネ キ ン人 形 等, 人 間 そ の も の が た だ 質 を変 え て 立 っ て い た とす れ ば芸 術 作 品 と して -153-.

(10) . 峯. 田. 敏. 郎. 人々が驚くほど, 立派なものとして目にうつるであろうか. 質を変えた実物そのものは, 実に気 味の悪いものである, と同時に本物そっくりということも, 実に味気のない文字通り 本 物そっく りにす ぎないものになっ て しまう, 三次元の空間に存在する自然物の形象に, その形態をたくす. 具象彫刻は, たえずこの危険におびやかされている. ルネ ッサ ンス以降の西欧に於いて, 彫刻の 衰退が著る しさをまし, 1 9世紀後半か ら20世紀にかけて, 彫刻がその隆盛をもた らした時には, 抽象彫刻という姿で現われてきたのも偶然ではない, このことは具象彫刻の行きずまりか ら生 じ た結果というより, 具象彫刻に対する認識の, かたよっ た一方的理解の結果である. 具象彫刻が 直面する, この危険性からの回避は, 結局は制作者の感性の問題になってく る. 具象彫刻という. 表現手段を用いて, 何を表現 したいのかという問題である. この解答は一つの最終的な目的では すべて一致していなければな らない. 即ち 彫刻 である. 彫刻という表現手段で, 彫刻を追求 するというこの一見奇弁的な言いましは, 決して根拠のないものではない. 人間が彫刻 を手がけ てか ら, すでに数えることが出来ない程の作品が生みだされてきている, 現在でも多数の作家が その追求に明け暮れ している, それは他の人の手になっ た彫刻 に任せる事の出 来ない独自の感性 という作家の欲求のみ, 具象彫刻 が自然物の形象にただ類似することか ら回避出来る唯一の道であり, 具象彫刻が存在出来るすべ を, 個 々 の 作家 が 有 して い る か らで あ る.. 彫刻でありたい. てでもある, 「まるで馬鹿な話だ. 人間が大した面倒もなしに--しかもなかなか巧みに一 彫 刻 しは じめて か ら3000年も経っ ている. 先人を無視 したふりをしないで, なぜ経験ずみの技術で 完全な作品をつく ることに精出さないのカー…・と. それはつまり, 3 000年以来, 屍体 しか彫刻さ れていないからだ。 しば しば横たわれる像と呼んで, 墓の上に寝かせる. あるいは高貴な椅子の. 上に坐 らせたり, 馬の上に乗っ けたりする. だがそれは死馬の上の死人にす ぎず, 生きた人間の 半分にも値い しない. この博物館の人種, 硬直した, 白い眼の人種は人をだ ましているのだ. そ の腕は動くようなふりをしなが ら, 鉄の棒で上下を支 え られて, ただ浮かんでいるにす ぎない,. 凝まっ たこの形体には限りなくば らば らなものが辛う じて含まれているにす ぎない, ただ見る人 の想像が, 大雑把な似寄りにごまかされて, マチエールの永遠の衰弱に, 動きや熱や生命を貸す の で あ る. だ か らゼ ロ か ら出 直 さ ね ば な らぬ, 3000年 後 の 今 日 に お け る ジ ャ コメ ッ テイ の 仕事 や. 現代彫刻家たちの仕事は, 新作品で画廊を埋めることではなく て, 彫刻というものが可能である ことを証明することである. ディオゲネスが歩きなが ら運動を証明したように, 彫刻 しなが ら証 明す る こ と で あ る.」 と サ ル ト ル は, 彼 の 著 書 「ジ ャ コメ ッ テイ の 彫 刻」 の 中 で 書 い て い る よう に. 制作者が彫刻 しなが ら, 彫刻というものが可能であることを, 証明するということは, 疑う余地 も な い,. 鯵その2. 象徴性. 彫刻 の存在とは, 観念上の存在ではなくて, 実在する形態上の存在である. しかもその存在は 不動の固定存在であることにその限定をうけている, 「もしも彫刻というものが, 動かぬものの なかに, 動きを刻まねばな らぬのがほんとうだと した ら, カル ダーの芸術を彫刻家の芸術にむす びつけること は間違いであるかも知れない。 それは動きを暗示するのではなく, 捉えて しまうも の で あ る」 … … と は カ ル ダ 【 の モ ビ ル に つ い て 言 っ た サ ル トル の 言 葉 で あ る. 確 か に カ ル ダ ー の. モ ビルは 「動きを暗示するのではなく, 捉えて しまうもの」 であった. しかし本質的な運動とい うことに於いて, 舞台芸術や, 小説に於ける想像上の運動とは異なり, 自体で動くことによって 起 る, 背景の変化 や無限の運動の可能性を有しない同一運動の反復であるという点では, 同様な 意味で不動の固定存在である. このカル ダーのモ ビルは, 二次元の絵画の不動性とは違っ た, 三 一15 4-.

(11) . 現 代 の 具 象 彫 刻. 次元と しての, 彫刻の運動 の可能性をみいだした所に, その試みの偉大さがうかがわれ る 彫刻 . が立体芸術 であることを, 強く 再認識させたも のと言える. 固定存在 である彫刻は 連続す る無 ,. 数の運動の固定の表現として, 当然ポーズ及び形態 の問題が出てくる, 生命を有す る有機体 を制 作のモデルとした場合, それが有する運動 の可能性は, 無数の可能 性をもって制作者 の前にあ ら われる. しかし彫刻として存 在するのは無数 の中の全く の一面であり しかも 固定され る一つ , , の動作の中に, 対象の有する生命の普遍性と, 無数の運動可能の有機性とをもたなければな らな い, 連続する無数の運動 の一面を固定させることは, 写真芸術 のそれと似ている が 写真は一 , , 瞬の時の記録であるがために, 本質的には彫刻 の固定とは存在価値を異にする. 彫刻 は あく ま ,. でも瞬間の記録ではなく; 空間も しめる一形態の中に, 普遍的な時間と, 生命体としての呼吸と 動勢を内包 しなければな らない. 制作に於けるポーズ及び形態は, 制作者の抽象観念による発想 に於いてす ら, まず根底とされなければならない, 無数の運動の可能性を固定するために あら ,. ゆる試みが行われ, ある動作を生命体の典型として固定させる. たとえば笑っているポーズ 泣 , いているポーズ等, 目にすることがほとんどないのは, 感情を有する生命体の一瞬 の時の記録で .生命の普遍 性を必 あることに, 彫刻 の普遍 生を欠くか らである. このように固定され なが らも, 要とする彫刻に於けるポーズ及び形態は, 全く抽象的であり, 神秘的であり, 宗教的 であるがゆ えに, 象徴性の必要が生 じてくる. この象徴性の必要性は, 過去の日本彫刻の歴史か らでも証明. 出来る. すなわち古墳時代, 飛鳥時代, 白鳳・天平時代, 弘仁・貞観時代と, 過去の日本彫刻 は 実に華やかな流れをみせていなが ら, 鎌倉時代以降になって影をひそめてしまうのは 結局象徴 , 性の欠如が大きな原因となっている, i 墳時代の彫刻は埴輪である。 様々な自然物の形象にその 形態をかりた埴 輪は, 素朴な素焼きの像であるが, その中に感 じることの出来るのは 素朴な人 , 間の生に対する憧がれ, 及び何人にも通 じる生活感情の象徴性である, そこには気どったポーズ. も, 躍動する肉体もなく, 飾りのない素焼の像が, 何の形の制約も強制的 な訴えもなく 観賞す , る人々の心の中に気持よくはいり込んでくる. 飛鳥時代にはいり, 新しく仏教が移入 され それ , と共に仏像の制作が行われるようになる. 仏像がとったポーズは, 対面する人々の心により 説 , 得 に も, な さ けに も, 笑 い に も, 許 可 に も なる , こ れ は 観 賞 者 の 主 観 に よ っ て, どの よ う に で も. 変化 の出来るものであり, 一つの感情の表現に終 らないこの偉大さは す べての生命体に通 じる ,. . 滋 養. 霊 . . . ’ ▲. 埴 輪. 仏 像 -15 5-.

(12) . 峯. 田. 敏. 郎. 仏の象徴性に ほかな らない, このように白鳳・天平, 弘仁・貞観と, 秀れた仏像が続出 したのは 当時の日本人の感情をも 左右 し得た, 仏教精神の移入がその根底にあっ たことを忘れてはな らな い, 彫刻に於けるその象徴性は鎌倉時 代にはいり, 次第に彫刻の形態か ら姿を消 し変って人間の 精神の中へ と移っ て行く. 彫刻は表面の筋肉 描写と, 瞬間時な動きの魅力に技巧をこ らし, 観賞 者に語りかける内 的なものより, 単なる偶 像としての形態と, 彫刻の芸と言っ たものに傾いてく る. これは完成されたものの後に続く, 縮命的な現象とも考え られる. 華やかな平安貴族の衰退 とあい まっ て, その象徴性は 人間の心の中に根 をおろし, 仏像という永久 素材への置き変えは不 用となっ てく る, すなわち有形の象徴 性から, 無形の象 徴性へと変化 し, 室町時代にはいって, 実生活の中で象徴 性が強調さ れてく る, 室町文化をささえているものは, 彫刻という具体的 な形 態こそもたないが, この古代日 本か ら受けつ が れてきた, 象徴性にほかな らない,. i i) モデルの 生命と彫刻の生命 モデルとなる 自然物の形象は, それ自体 一個の生命体である, その生命体に具象形態をかりる ,い, このことは, 具象とは単なるモデルの模倣で 具象彫刻も叉, 一個の生命体でなければな らな は 起り得ないという, 逆説的な意味での証明でもある. たとえ実 物そっくりに制作されたと して も, それは実物という ものが存在 していては じめて, その模倣された ものが存在 し得るものであ り, 実 物 が と り の ぞ か れ る こ と に よ っ て, た ちま ちそ の 生 命 力 を 失 っ て しまう, す な わ ちモ デ ル. がもつ生命体と同 様に制作された彫刻も叉, 同等の……というよりは, 普遍的な生命をもつ事に 入 るとい よ っ て, モ デ ル よ り は 更 に 不 滅 の 生 命 を も つ 事 に な る, こ の よ う な, 彫 刻 に 生 命 を 投 す. う可能性は, 制作に於ける どのような 作用によるもので あろう か, ここで日 本の昔話の中で, 芸 術 に つ い て 話 さ れ た 二 ・ 三 の話 を 思 い 出 して も らい た い. た と え ば 名 人 の 手 に か か っ た 木彫 り の. 魚を水に浮べた ら泳 ぎだ したという話, 神社に献納された馬の絵か ら, 夜な夜な馬がとび出し,. 畑 を 荒 しまわ っ て 困 っ た と い う 話, 等 々. こ れ らの話 は, す べ て 実 物 そ の も の に なり 得 る こ と が. 傑作であり, 民衆の評価の基盤であり, 実物とは 異っ た表現は, 語るにもた らない ものと して排 除 さ れ て い る, 人 間 の 技 術 を も っ て, い か に そ の 実 物 に 近 づ き得 るカー …・と 言 う 技 巧 の 戦 い で あ. り, 実物そっくりに制作されては じめて, 実物の生命まで複合されると考 える境地は, 日本に於 ける芸術の 生命を考える時, はなは だ興味深いものである. しかし今日の造 形芸術に於いて, こ 持す のような生命観は, もは や問題となるよう なことが らではない, 彫刻と して, その生命を維 その根 することであり , るためには, 第一に, まず彫刻がモデルという自然物の 生命体か ら独立 的要素のほとんど して その造形 来な そ とは出 い 無視するこ , 底となる造形的要素の重要性を, , ま 写 してはいけない. 芸術とはひ り模 「 して自然をあ える 決 あるとい 造形活動で 抽象的な は, . ださなければな ら 自然か ら抽象をひき とつの抽象にほかな らない, 自然を前に して夢みるより, ない. 結果が どうなろう ということよりも, 創造そのものを考えた まえ, そ して何よりもまず理 知的な-- ということは文学的とは違う --画家 (彫刻家) であっ て, 自分のみたものではなく 」 これは画家 ゴーガンの言 葉である, 自然から独立し, 作品が て, 自分の考えたことを表現する。 生命を有するた めに, 彼は創造性と作者の感性 (理知的なもの) を強調 している, これと同様に 画家セ ザ ンヌも叉, 作品が, 自然の有する生命体とは, 別個の生命を有するために, 「美術家と は, 自然の前で, その感動をこそ証明 しなければな らぬ, 無気力な写 真的正確さが必要なのでは ない, 」 ことを指摘 している. すなわち 「感動を証明する」 のであり, 目前の自然を証 明すること ではない, 彫刻が彫刻と して成立するには, 言い換えれば, 彫刻が生命を有するには, モデルの もつ生命体 と しての必然性の無視と同時 に, モデルには存在 しない彫刻上の必 然性など, 自然物 -156-.

(13) . 現 代 の 具. 象 彫 刻. ・させるために, 抽象的な造形活動を絶え の形象に感 じた抽象的感情を, 具体的な形態と して定着. ず行わなければならない, 次に, 彫刻の生命に欠くことの出来ないものと して, 素材の問題がある, 彫刻は素材をなく し てその存在をみることは出来ない, 彫刻に於ける素材とは, 固定存在である彫刻の必須条件をみ た す も の で あ り, 石 ・ 木 ・ 金 属 類 ・ セメ ン ト o プ ラ ス テ ィ ッ ク ・ 石 膏 等 が, そ の 主 な る 素 材 で あ. る. これら素材のほとんどは, それ自体が生命を有する自然物である. 従って, 彫刻作品として 石か木をモデルと したものがみあた らないのは, そ れ自体が固定存在であり, 生命体であり, 再. び彫刻という表現手段をもっ て, それに変 える必要がないからである. 彫刻の歴史は, 石か木を 再生することから始 まる のではなく, 石か木のもっ ている生命と固定存在という 性質をかりて一. 瞬の生命の持主であるモデルと無形の, 制作者の抽象感情を投入することか ら始まる. そ して, 石か木の生命と性質が, 制作者の手を経て, 彫刻と しての生命と固定存在に一変する. これは過 去の彫刻作品を考えてみてもすぐ理 解出来ることである. エ ジプト ・に於ける石彫・ギリシアの大. 理石像・日本の木彫等, すべて素材の有する生命と性質が, 観賞者に語りかけるのではなく, 彫 刻と しての生命が語りかけるのであり, 素材は単にその性質を提供 している, かく れた存在と化 している, これは現代の具象彫刻に於いても同 じことである, 科学の発達により, 素材の種類 は 」 - ′. 灘 熟 も き . . . 収. . エ ジフ ト. ギリ ソ ャ. 次第に数 を増 している。 しか し, どのような素材が開拓されようと素材は単にその生命と性質を 提供 し, 彫刻がそれを, 彫刻の生命と して普遍化することには変りはな い, 所で今日抽象彫刻と 言われている一連の彫刻は, その例外的な存在であるといえる. 抽象彫刻は, 素材のもつ生命と. 性質を利用する のではなく, 逆に素材の生命と性質に彫刻のもつ べき生命をたく している, それ 自体が生命体である素材は, 彫刻家の手を経ず しても立派に成立し得る固定存在 である. しかも それ自体が, 一種の抽象形態でもある。 これ らにある程度の創作を加えることにより, 当然見事. な生命体と して成立することは疑いもない. その証拠に, 抽象彫刻が小さくなればなるほど, そ の生命力と迫力がとばしし ・ものになるが, 具象彫刻の生命力や迫力は, 大きさな どで左右される. ことはほとんどあり得ない, 叉抽象彫刻が, 石 o 木・金属等の永久素材に於いては, 充分に発撤 し得る生命も, ひとたび石膏や粘土等 の中間素材 や可塑性の素材に変れば, ほとんどあわれな ぐ -157-.

(14) . 峯. 田. 敏. 郎. らいにまで, その生命力と迫力 が失われて しまう, 観賞者がみて感激する要素のほとん どは, 彫 刻の生命ではなく, 素材の生命そのものによることを指摘出来る, しかし, 個々の作品の比較は さておき, 現代彫刻の勝利は, 生命力に於いても迫力に於いても, 抽象彫刻の側にあることは否 定出来ない, そ れはロ ダン以後の具象彫刻の反省から生れたといえる, 抽象彫刻の出現を考えれ ば, 当然のことであるかも知れない. あまりにも文学的な, 叉筋肉という人体の装飾物に技術の. 妙味をほこり, 彫刻の本流を遠く離 れた具象彫刻にとっ て, 抽象彫刻の出現は大きな反省の道を 与えてく れたといえる, 大きな反省を得た具象彫刻は, 現在, 再び彫刻の本流を歩きは じめてい る, と同時に, 抽象彫刻の欠点をも指摘 しは じめている. すなわち素材の生命と彫刻の生命との 混同, 及び個性の問題である, i i i ) 具象彫刻の進路. さて, 以上述べてきた具象彫刻観をもとに, 混同している現代の彫刻界の中でも, 具象彫刻の 本流を歩んでいる作家, 叉造形とい う思考と欲求のもとに, 自然物の形象の解体と再構成によっ. て, 彫刻の生命を椎持 しようとしている作家等, 抽象形態の発達と共に, 具象彫刻の再認識から 出発したその流れと, 現代彫刻のあり方を考えてみたい, 意 動 く 識 し て’ ロ ダン, プールブル, マイ ヨールの時代に完成をみた具 象彫刻は, その根底の美意識として , な. 作. 及 もび 豊. ’及び豊 自然物の形象である人体のもつ美しさや, 人体がもつ解剖学的な意味での必然的な動作, 言 に於いて ’言 富な文学的感性と彫刻との融合にあったといえる. もちろん, 彫刻としての造形に於いても, 制 作者 に 色 々 美な 葉ではいい尽せない優越性を有している, そしてその美意識は, 現在でも多く の制作者 に色々な とした その 安 意. 意味で影響を与え一つの具象彫刻の型として息 づいている. しかし, ロ ダンを極としたその美意 化 学的 り先に ’文学的 識は, 現代の作家にとって叉, 大きな危険性を秘めている. それは造形的意識より先に, そ の 姿 を固定 感性の表現の魅力をその第 一に置く 結果であり, 人体のポ ズと表情をかりて, その姿を固定化 そ の危険 性 を越. することに終始して, 彫刻としての生命をなおざりにする結果 である. ロ ダンはその危険性を越 たの とで あ る た えた造形的な作家であり, 彼の体験と技術をもってして, は じめてその完成をみたのである.・た ソ 同 一にはな とえ現在, 文学的感性の表現に, い かに秀れた技術をもっていても, もはやロ ダ ンと同一にはな こ の危 険 性 を堂. り得ない. すくれた模倣でしかない. ロ ダン以 後の具象作家のあやまちは, 結局この危険性を堂 の は も は や。 々と主張してきた制作者自身の, 身から出たさびといえる, 現在にいたり必要なのは,’もはや口 議“ チ 夏 か 議 饗 遠 滋 漉 議継. . . . . 」 ・ . も , ,. . “ 灘蓑灘. oワ ース ヘ ツフ. 滋 獅 激 - マ リーニ. ム ア ー. -15 8-.

(15) . 現 代 の 具. 象 彫 刻. ダソの精神に近づくことではない, それを越さなければならない時期である. すでにそ の第一歩. は, プ ラ ンク ー シに よ っ て 進 め られ て い る, 「ゴ シ ッ ク 彫 刻 以 後, ヨ ーロ ッ パ の 彫 刻 は, 苔 と 雑. 草で蔽いかぶされてしまっていた. --さまざまな表面的な余計なも のが, 完全に形 をかく して. し ま っ た, こ う い う苔 や 雑草 の 蔓り を 除 い て, わ れ わ れ に 今 一 度 形 を意 識 さ せ る こ と … … 」 と い , う 実 験 で あ る, こ の ブ ラ ンク ー シの 形の意識 こそ, 現代具象彫刻の発展を可能にした 大き. な 歴 史 的 意 義 を も っ て い る。 ム ア ー は, こ の ブ ラ ンク ー シの 行 っ た をこ う 述 べ て い る.. 形の意識. , の実験の重要さ. 「彫 刻 を 一 つ の同 筋 だ けに し て -- ブ ラ ンク ー シの彫 刻 が そ う で あ る にう に. --気むずかしすぎるほどに, ひとつの形を純粋にし, 磨きあげなければならなかっ た. プラ ン クーシの仕事は, その個人的な価値とは別に, 現代彫刻の発展のうえに忘れることは出来ない, 」. 形の意識 は現代の具象作家によって, 更に実証あれつつある. イ ギリ ス, イ タリアを中心とした一連の具象作家の出現である, 自然物の形象であるさま ざまの生命体 そ して, こ の 第 一 歩 の. , ・ ● ● ・ ● ● . . ▼. ′. . . . ● ′ . } ● ・ ●. 、 . rもぎ. .. .. ぐ- マ ン〆. i やレ コ ク. フア ッ チ イ ー ニ. ′ ● ● ・ 1 ● .. . 新海竹蔵. マスケリーニ. -159-. ・ . . ● ● ′ . ー ′ ・. . ′ 、 ‘ . ー ・ ・ . ・ . ・.

(16) . 峯. 田. 敏. 郎. の必然性を, その確固たる基盤として, 造形的要素を中心とした彫刻上に於ける必然性. 抽象的 要素との完全な融合として, 知的な, そして一見古風な素朴な生者育感をもっ て話しかけてくる,. 叉モデルのもつ必然的な形態を, 一度ばらばらに分解し, それを彫刻として再構成する, 言わば 自然物の形象たる人体の可能性 を越えた 新たな造形上のノJd ;として, その生命を維持している, ギ 想化を第1の形態 ロ 象彫刻は リシアの理 現在のこの具 , ダ ンの現実化を第2の形態とすれば , ‐は, 叉 「現在, 彫刻を単純な 再構成という第3の形態に突入しているともいえる, そしてムア‐. ・ (静的な) 形の統一に閉 じこめて制限する必要は, もはやなし 。 われわれは現在, それを開放し てもいい. さまざま の大きさ, 部分, 方向をもっ ている幾つかの形をひとつの有機的な全体に関 係 づ け統合するために・ ’…・ふ と 形の意識 か ら出発した現代具象彫刻の進路を, あますことな. i く 語 っ て い る. さ ま ざ ま な, 才 f r象 形 態 の 実 験 を 土台 に, 今 日 そ の完 成 の 途 に つ い て い る, < 完 > 参考文献 ヒ 稲垣一穂: 近代美術の見かた, 考えかた, 理想き ヴォリ ソゲル:抽象と感 青移入. 草薙正夫訳 岩波文庫 植村寿蔵: 美をきはめるもの. 弘文堂書房 サル トル; アメリカ論, 滝口修造訳 人文書院 徳大寺公英: 現代彫刻. みすず書房 富永惣一: 世界美術大系14巻, 現代美術. 講談社 -. 高階秀爾;現代美術。 筑摩書房 高階秀爾;世紀末芸術。 紀伊国屋新書 亮: 印象派の五大画家. 芸術社 柳 水尾比呂志:東洋の美学, 美術出版社 州正千:花と幽玄の世界。 宝丈館 白デ 望月 信成:日本上代の彫刻. 創元社 引用文献. 8-170 土方定一: ヨーロッパの現代美術 (p .173 ,16 .) 毎日新聞社 .p サルトル:アメリカ諭より、 絶対の探求 (p .169 .182 .) カルダーのモ ビル (p ,) 滝口修造訳. -16 0一. 人文書院.

(17)

参照

関連したドキュメント

突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

森 狙仙は猿を描かせれば右に出るものが ないといわれ、当時大人気のアーティス トでした。母猿は滝の姿を見ながら、顔に

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑